かつての若者たち、今の若者たち、
ちょっと70年代の青春に触れてみませんか?

「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」
M1380006.jpg

僕たちは悲しいくらい純情で、
泣きたいくらいバカだった。

上京して予備校に通う男女5人の友情と恋の行方――
70年代を代表するフォークグループと同じ女性2人、男性3人
男がひとりあぶれることで、うまくいく一年間のはずだったのに……

高校生でもなく、大学生でもない。浪人という不安定な時期の揺れ動く内面、青春に特有のせっかちさ、ひたむきさを等身大で切り取り、ほろ苦さと甘酸っぱさを細やかにつづる。作中に登場する映画や文学は当時を思わせ、登場人物たちに若いころの自分を重ねる読者も少なくないだろう。昭和のひと時代を感じられる本書は、赤い鳥ファンのみならず世代感覚を共有する人にお薦めの一冊。(帯より)

【内容】
 はじめに

 プロローグ
 第一章   こごえそうな春
 第二章   きわめつけの夏
 第三章   ぬくもりの秋
 第四章   ほとばしる冬
 エピローグ そしてまた春

 体験的赤い鳥ヒストリー
 体験的70年代フォーク論

 おわりに

文庫:250ページ
出版社:文芸社 
価格:700円+税
発売日:10月15日


 書店でご注文願います。
 Amazonでも取り扱っています。

本作についてこんな感想があります。




スポンサーサイト
 昨日(15日)は、今日と休みを換わってもらって、午後、渋谷区文化総合センター大和田へ。
 14時30分から練習室で「木部与巴仁×森川あづき 第7回未来式 ミライシキ」を観た。
 昨年だったか、一昨年だったか、BC二十世紀で開催した「伊福部昭二十一世紀」というトークセッションがあった。司会が木部さんで、自身は生ギターをバックにキベダンスを披露した。キベダンスの創出者だ。
 木部さん、伊福部昭には、現代音楽家として私淑しているわけだが、特撮に関しては馬淵薫に造詣が深い。僕も馬淵脚本作品はどれも大好きだから、話が合うのだ。

 ピアノの森川さんが急遽出演できなくなったのは残念だった。ただし、その代替として、木部さん自身が詩を朗読したテープをエンドレスで流して、即興で踊ったのだが、これがよかった。

 終演後、カラオケで時間をつぶして、18時からの談四楼師匠の独演会(下北沢)へ行こうとしたのだが、疲れが一気にでてきて、そのまま帰宅、早めに就寝した。

          * * *

2000/02/02

 「シュリ」(シネ・ラ・セット)

 魚の名称(そしてそれが北朝鮮テロリストの暗号になっている)からとったタイトルにセンスを感じる。ハリウッドに負けないアクション映画ということで人気を呼んでいる作品であるが、同時に語感のいいタイトルであまり馴染みのない韓国映画というイメージをとっぱらい、特に女性たちの足を運びやすくしていると思う。

 内容についてほとんど知らずに観たのであるが、これは韓国版「ブラック・サンデー」であった。 スタジアムに特殊爆弾を仕掛け、観客もろとも国家元首を殺害しようと画策するテロリストとそれを阻止しようと奮戦する主人公の情報部員という構図。そこにテロリストの女性工作員と主人公のラブロマンスを挿入したのがこの映画のミソであり、対象を女性層まで広げた要因だろう。
 北朝鮮の韓国に対する様々な工作は常日頃ニュースで目にしている。だからこそ物語は(細部は別にして)リアルに受け入れられる。

 冒頭、北朝鮮の一女性が特殊工作員に養成される様をできるだけ台詞を排除した映像だけでたたみかけるように見せてくれる。監督のこの映画にかける意気込み、力量が感じられる素晴らしいシークエンスだ。銃撃シーンの迫力も特筆ものである。
 映画「ブラック・サンデー」は未見であるが、小説にはとても感銘を受けた。何よりテロリスト側の心情が詳細に描かれていて、スタジアムに集う大統領を含めた何万という観客を殺害しようとするテロリストを肯定してしまったほどである。
 本作でも工作員のリーダーがその理由を国家の分断、北の貧しい生活にあることを熱く語るシーンがあるのだが、その多くは自国のトップの失政に起因するのだからあまり説得力はない。(ちなみにこのリーダー役、「レオン」のゲーリー・オールドマンを意識した西岡徳馬って感じで非常に印象的だった)ラストに用意されている主人公と女テロリストの悲恋も、二人の関係を型どおりにしか描いていないからそれほど胸に響かなかった。

 残念だったのは事件が解決してからのラストまでがやけに長く、おまけにあまりに感傷的だったこと。個人的な好みの問題かもしれないが、観客の涙を誘おうとする意図がありありで、ちょっと引いてしまった。
 が、韓国がこれだけの娯楽アクション映画を製作したことに対してアジア人として喜ばしく、日本人としては脅威、嫉妬を感じてしまった。日本の映画人たちはこの映画をどう観ているのだろうか?
 当時を知らないから勝手な憶測なのだが、かつて「七人の侍」が公開された時と同じ興奮をこの映画は韓国の人に与えているのではないだろうか。
 とにかくすごい映画である。

     ◇

2000/02/05

 「海の上のピアニスト」(丸の内ピカデリー)

 有楽町にあるクリニックに行った帰り、よく利用するガード下のチケット屋で丸の内ピカデリーの株主優待券(1,400円)を購入し、大ヒット中の「海の上のピアニスト」を観る。
 まわりはほとんどカップルか女性の二人連れで男一人が何となく場違いな気がする(「タイタニック」の時みたい)。

 この映画はファンタジーだ。そう考えないと船上に捨てられた孤児が全く音楽に親しむ環境にない、あるいはそういった教育を受けていないにもかかわらず、ある日突然ピアノを弾いてしまう設定、その他もろもろ無理が生じてしまう。
 幼い頃、母親に語ってもらったおとぎ話のように映画の語り口、主人公1900が紡ぎだすピアノに酔いしれればいい。

 ストーリーとか、展開がどうのこうの言う前に、純粋に音楽が持つ人の心を感動させる力を改めて思い知らされた。音楽は作りだすものではない。見たもの、感じたことを素直に表現する媒体だということをしみじみ感じた。
 1900が映画の語り部である友人トランペッター・マックスに豪華客船のパーティーに集う人々の中から、これはという人を選び出し、彼(彼女)にインスパイアされた物語を語り、イメージした曲を聴かせるくだりは音楽の真髄を垣間見た思いで心踊った。だからこそ初のレコーディングで窓の外にいた少女に一目ぼれした1900が弾くピアノの甘い調べに涙してしまうのだ。
 そして何より大地に住む人間として、金を儲けて家を建てたり、高級車を乗り回したり、結婚をして、子どもをもうけたりという、日頃当たり前に思っていることも、立場の違えばいかに意味がないかということも思い知らされる。
 とにかく泣けた。ラスト近く、鳴咽をあげそうになってこらえるのに苦労した。
 エンディングのロールタイトルで少女にささげたピアノ曲が流れたら、たぶん大泣きしていただろう。

     ◇

2000/01/10

 「新選組」(ユーロ・スペース)

 以前から気になっていた市川崑監督の実験的な異色作「新選組」をやっと観ることができた。
 セルアニメでもCGでもない、名づけて〈ヒューマン・グラフィック崑メーション〉。[三次元的立体漫画映画]と説明されている。原作である黒鉄ヒロシの原画を拡大コピーして作った切り絵のキャラクター人形を操演、撮影したというまことにユニークな時代劇である。

 製作はフジテレビ。TV用に製作されたにもかかわらず、出来がよかったということだ。
 放映前に単館ロードショーされた「帰ってきた木枯し紋次郎」の続編企画がずいぶん前に発表されたが、それが紆余曲折を経て、この「新選組」になったとおぼしい。

 コミックを映像化した場合、いわゆるアニメ以外には全く動かない原画をキャメラ操作で動きがあるように表現した作品がある。大島渚監督が白土三平の劇画を映画化した「忍者武芸帳」や石森章太郎のTVシリーズ「佐武と市捕物控」などがあるが、原画の切り絵人形というのは見聞したことがない。予算については知らないがまことに手間のかかる撮影であったことは予想できる。
 キャラクター人形の操演のほかに原画や実写との合成を駆使して、一つの世界を構築しているの確かである。

 冒頭、池田屋騒動が描かれるが、その顛末後に池田屋から赤い血が流れて画面全体を覆うカットなど異様な雰囲気が醸し出されていて目を瞠った。
 声の出演は市川組常連の役者ばかり。中でも中村敦夫は黒鉄原画の四角張ったごつい顔の近藤勇にぴったりであった。端正な二枚目(というのをこの映画で知った)土方には中井貴一。
 とすると「御法度」のビートたけしは原作のイメージにはほど遠い、全くのミスキャストになるのですな。

 「新選組血風録」を読んでいたので物語はよくわかった。ただ、こちらのコンディションが悪く、途中で睡魔に襲われ、何回か意識がなくなったことから、前評判ほどのおもしろさではなかったというのが率直な感想だ。本当におもしろかったら眠気など吹き飛んでしまうだろう。
 ラスト沖田総司と黒猫のエピソードで、ふと気づくと「完」のタイトルになっていた。ほんの一瞬もことだったが、とてもくやしい。傑作かどうかはビデオになってからもう一度確認したい。
 市川監督流のシャープな映像は健在。80歳を越えたとは思えない瑞々しい映像の数々で次作の「どら平太」が大いに期待できる。

 ユーロ・スペースでは「新選組」公開に併せてレイトショーで市川監督の過去の映画を数日ごとに上映している。その第1回が「雪之丞変化」。この情報を知っていたらと劇場で地団太踏んだ。ラストは「木枯し紋次郎」なのでこれはぜったい押さえておきたい。

     ◇

2000/02/24

 「ストーリー・オブ・ラブ」(渋谷東急)

 何年前になるのだろうか、こんなことがあった。かみさんがロブ・ライナー監督の前作「恋人たちの予感」のビデオ(日本語吹替え版)借りて夜一人で観ていた。僕自身はこの「恋人たちの予感」について、名作「スタンド・バイ・ミー」監督の新作というくらいの知識しかなく、恋愛ものには興味がわかないので、どうでもよかった。ただ、何となく映画はアメリカ人の"普通の生活"を描いていて、登場人物たちの立ち振る舞い、会話の全てが重要な要素になっていると感じたので、なぜ日本語吹替え版を借りてきたのか、吹替え版だと映画の魅力が半減するんじゃないかとを何気なく尋ねた。するとかみさんは突然怒りだしたのだった。
「私は家事で忙しいの!あなたが何も手伝ってくれないから、画面観ていなくてもストーリーがわかるように日本語吹替えを借りたんじゃない!!」
 その後彼女の日頃の不満が爆発して、大喧嘩になり……以下略。

 わが家では年に数回派手な夫婦喧嘩をしてしまう。外ではかっとなることはない僕も相手がかみさんだと怒鳴ることもたびたびだ。相手はよけいに無口になり会話のない日が何日も続く。まあ、だいたいはこちらが悪いのだし、最後はあやまるのだが、そんなことが何度も続くと、いい加減うんざりしてくる。
「全部オレが悪いのか?君はちっとも悪くないのか? 君の言い分を聞いているとまるで自分中心に地球が 回ってるみたいじゃないか」

 ブルース・ウイリスとミシェル・ファイファーのやりとりは、だからけっして他人事ではない。台詞の一つひとつが胸に突き刺さる。ミシャル・ファイファーが時折見せるぶすっとした沈んだ表情。同じ表情を実生活で何度見ていることか。コメディじゃなかったら、正視できないですよ、この映画。

 夫婦の離婚、その過程を描いた映画に「クレイマー・クレイマー」があるが、僕は別の意味でこの映画を思い出していた。
 ごく普通の家庭の朝食風景。親子の会話。友人夫婦とのレストランでの夕食。ワイングラスが触れ合う音、食事をしながら繰り出される早口な英語の台詞、食器とフォークのぶつかる音等々。何気ない描写がいい。
 二人の出会いから妊娠、出産、子育てを経て、現在に至るまでの変遷が、端的に描かれる。時の経過を二人の髪型の変化でみせてくれる。何より評価したいのは、わずか1時間半の時間で夫婦であること、親子であることの歴史がちゃんと描かれていることだ。(「秘密」の脚本家、監督に見せてやりたい)この歴史があるからこそ、ラスト、ミシェル・ファイファーの長台詞が重みを持つのである。

 原題は「Story of us」。このusは主人公夫婦だけではなく、子どもたちを含む家族を意味していることをラストの台詞で知って、感動を新たにした。
 いつもはヒロイックな役柄が多いブルース・ウィリスの普通人ぽさがいい。エリック・クラプトンのアコースティックな主題歌に聴き惚れた。

     ◇

2000/02/25

 「恋人たちの予感」(ビデオ)

 洋画の場合、英語の原題をそのままカタカナタイトルにしてしまう、あまりの芸のなさにあきれてしまうことがたびたびあるが(007の最新作、『ワールド イズ ノット イナフ』なんて配給会社のセンスを疑ってしまう)が、逆に日本語のオリジナルタイトルだと内容がよくわからないというのもある。
 「恋人たちの予感」の原題が「When Harry Met Sally」だと知り、内容を的確に表していると思った。

 1977年、大学卒業時に出会った男女(ハリー&サリー)が紆余曲折の末、89年に結ばれるまでの十年ちょっとの断面をスケッチしていく。主演のメグ・ライアンとビリー・クリスタルが、ヘアスタイルと衣装でだんだんと年齢を重ねていき、それがいかにもリアルなので驚いてしまった。登場してきた時、ほんとに二人は大学生に見えたもの。時代の変遷にともなう人物の風貌の変化って表現するのはけっこうむずかしいと思うのだが、うまくいっている。こういうのってとても大切なことだと思う。
 「ストーリー・オブ・ラブ」でも感じたが、ロブ・ライナー監督はこの手の演出がうまい。

「男女の間に友情は存在するか?」
 この問題については大学時代にサークルの連中とよく議論したもんだ。僕は高校時代から女友達(とういうか、男子高校だったから中学時代からの友人か?)がいて、さまざまな話をしていたし、男女の恋愛の介在しないつきあいは尊重すべきだという考えを持っていたので「存在する」派だった。ところが、彼女たちが結婚したとたん没交渉になってしまって自分の考えもあやしくなった。こちらにそういう気持ちがなくてもダンナがヤキモチやけばそれまでだ。
 後半のプラトニック・ラブに固執する男の心情はとてもよくわかる。僕が彼でもものすごくこだわると思うのだ。この点、女性というのは気持ちの切り替えが早い。

 この映画のユニークなところは物語の要所要所に熟年世代の夫婦へのインタビューを挿入していること。夫婦は互いの出会いをカメラにむかって幸せそうに語るのである。 「ストーリー・オブ・ラブ」でも同様に主役の二人がインタビューに答えていて、「恋人たちの予感」との関連性を強調している。

 80年末に若い男女の恋の経過、90年代末には倦怠期の夫婦の危機と描いたロブ・ライナー監督には、もう1つ10年後に熟年夫婦の愛と性の問題を扱ってもらいたい。
 インタビューされるのは結婚したてのラブラブ中の男女。「恋人たちの予感」と全く逆のパターンになる、というわけである。




 最近、このブログ、手を抜いていないか。みんな転載ばかりではないか。
 あなた、そう思っているでしょう?
 はい、正解です。
 実は、もう疲れがたまりにたまって、帰宅して、すぐ横になって、TVを見ているといつのまにか寝てしまう。目を覚ますと早朝、すぐに出勤支度をしないといけなくなる。そんな毎日が続いています。

 もうひとつ、HPのレビューをとにかくどこかに保存しておかないと、いつ閉鎖されるかわからないという理由もあります。

 とにかく、体制を立て直さないと。
 本当なら、小説も書いていなければならないのに、全然筆が進んでいない。
 尻に火がついた状態なので、秋には一つの答えを出します。

          * * *

2000/01/11

 「天国と地獄」(ビデオ)

 娘に「踊る大捜査線 -The Movie-」の元ネタをみせてやろうと借りてきた。もう何度目の鑑賞になるだろうか。

 前半は権藤邸における密室劇で、そのまま舞台劇として通用する。後半部分の内容を変えて「天国と地獄」を舞台化しようとする演劇人は現われなかったのか?
 映画は犯人を特定するまでがむちゃくちゃ興味をそそられる。警察の犯人検挙までの捜査方法をこれほど具体的にリアルに描いた映画はこれが初めてではないか。僕自身は映画「砂の器」で刑事たちが二人一組になって、地道に事実を拾い集めていく捜査の過程、あるいは刑事が一同に集まって情報交換する捜査会議の実態を知り、TVの刑事ドラマにはないリアルさが新鮮に感じたのだが、すでに黒澤監督は具現化していたのである。
 にもかかわらずTV界は「天国と地獄」の世界を踏襲せず「七人の侍」のチームワーク部分を引用して「七人の刑事」が生まれ、それが基本(伝統)となって「太陽にほえろ」「大都会」に続いていく。「踊る大捜査線」はピンクの煙以外にもちゃんと本家のいい部分を引用しているということだ。身代金に使用する札のナンバーを一枚一枚チェックするため徹夜するところなんて「踊る…」の水野美紀の台詞を思い出して笑ってしまう。

 これまで特に感じなかったのだが、三船敏郎演じる靴職人あがりの重役・権藤がいい。冒頭他の重役から新商品として発売する安価な靴をバラバラにしてダメなところを指摘するところ、犯人に渡す身代金の入ったバックに特殊装置を組み込む際の、「昔の経験が活かせる」と自らバックを手にとって加工するしぐさにプロの男を感じてしまう。
 今回初めてわかったのが、三船の息子役は江木俊夫だったということ。熊倉一雄も市場の男で登場する。

 犯人特定までは映像にくぎづけになるのに、その後の展開がどうもピンとこない。一つは麻薬常習者の巣窟シーンが現実にありえないこと(昭和30年代の横浜に本当にあったのか?)。もう一つは犯人の権藤に対するどうしようもない恨み、犯人を極刑にしようと熱い正義感ぶりを発揮する刑事たちの心情がいまいち理解できないからかもしれない。
 つまりどちら側にも感情移入できないまま、権藤と犯人の対立という構図でこちらがあっけにとられたまま物語が唐突に終了してしまう、その違和感がどうしてもぬぐえないのだ。

     ◇

2000/01/30

 「どん底」(ビデオ)

 ラストが鮮やかだ。
 なんだかんだと小競り合いの続くボロ長屋の住民たちが一つにまとまり、馬鹿囃子で最高調に盛り上がったその時、住人の一人(役者)が裏で自殺したとの連絡が入って、住民のリーダー格的存在の喜三郎がポツリつぶやく。
「ちぇっ、せっかくの踊りをぶちこわしやがって、馬鹿野郎!」
 拍子木がカチンと鳴って「終」のタイトル。あっけない幕切れだ。
 徐々に盛り上げていって、一気に突き離す感覚、これは黒澤監督の「ボレロ」ではないか。
 ゴーリキーの有名戯曲を江戸に移して映画化した作品であるから、全編役者たちの白熱した演技が見物なのだが、ラストの馬鹿囃子のシーンが特に気に入った。役者たちの見事なアンサンブル、そして踊るみんなの表情がたまらなく素敵で、観ているこちらもついつい身体を動かしたくなる。
 嘉平役左卜全のひょうひょうさ、喜三郎役三井弘次の口跡、留吉役東野英治郎が馬鹿囃子の時に合いの手を入れる際のうれしくってたまらないという表情が出色。香川京子が美しい。




1999/12/09

 「赤ひげ」(ビデオ)

 「赤ひげ」が黒澤映画の集大成ということは知っていた。陰りをみせはじめた日本映画界に活を入れるべく、渾身を込めて製作した映画である。ビデオ化されてから観なければいけないと思いつつ、結局今まで借りなかった。ビデオが「七人の侍」と同じく上下2巻組。いわゆる娯楽巨編でなく、黒澤のヒューマニズムが色濃く表れているというので、今まで敬遠していたのだ。
 土屋嘉男の「クロサワさーん!」を読んで、減量に苦しんでいる痩せた土屋嘉男を観たくてやっとビデオを借りてきたのだが、ちょうど「赤ひげ」の音楽を担当した作曲家・佐藤勝の訃報にふれ、追悼を兼ねた鑑賞になった。

 いくつもの瓦屋根をアップで撮ったタイトルバックにテーマ曲が流れ、途中から売子の声がダブってくるところで、もう「赤ひげ」の世界に引き込まれてしまった。
 ストーリー、テーマを云々するよりも、まずその美術(セット)に惚れ惚れしてしまう。
 養生所の壁や廊下がいかにも使い古されたといった作りで、それを見ているだけで江戸の情緒に触れた思いがする。小道具一つひとつを含めてセット然したものが全く感じられず、「七人の侍」の経験が活かされている。あるいは小石川近辺の通りの土埃。これなんか「用心棒」そのものだ。

 登場する人物もそれぞれ実にリアルだ。ちょんまげもかつらをつけている感じがしないところがいい。養生所の賄婦たちの小汚さ、猥雑さなんていかにもって感じで、女優が演じている感じがしない。
 佐八のエピソードでは感情の表現にうまく風鈴の音が使われている。回想シーンの大地震で家屋が倒壊するショットはスペクタクル映画級の大迫力。狂女に襲われる主人公の緊迫したシーンには息を飲んだ。
 しかし台詞に関してはあくまでも現代語なのだ。江戸末期に「膵臓癌」なんて名称があったのだろうか?仮に使っていたとして腹部を触ったりするだけで、癌が発見できるものか?

 圧巻は後半のおとよと長坊のエピソードである。養生所に引き取られてから病気が完治するまでの間おとよの目にライトがあてられ、暗闇の中でのその眼の輝きが異様な怖さを際立たせた。また図師佳孝の天才子役ぶりが堪能できる。僕にとっては日本テレビの「飛び出せ!青春」の落ちこぼれ高校生の印象が強いが、黒澤映画「どですかでん」の主人公の前にこんな印象深い役をやっていたなんて驚きだ。原作では長坊は死んでしまうが、黒澤監督は殺さなかった。映画はそうでなくてはと思う。現実だけを見せられても辟易するだけだ。
 三船敏郎の赤ひげをなでるしぐさがいい。「七人の侍」と同じく年に一度くらいの割合で鑑賞する映画になりそうだ。

     ◇

1999/12/23

 「御法度」(丸の内プラゼール)

 何よりキャスティングに大島渚の才能を感じた。主要キャストはもちろんだが、花魁に神田うのを起用し、一言も台詞をしゃべらせないところなんてさすがではないか。
 坂本龍一のテーマ曲は美しい調べでとても印象に残る。だからこそここぞというところで使用すればいいのに、冒頭から何度も流れて、くどすぎる。
 ナレーション(佐藤慶)、サイレント映画風字幕による状況説明、土方(ビートたけし)の独白、映像と台詞以外になぜこうも物語を語らせたがるのか、理解に苦しむ。字幕は無声映画の頃の書体で味があり、効果的に使用されているので、これだけで〝語り〟は十分なはず。特に土方の独白は、それこそ表情やしぐさで表現すべきであり、何も言葉で説明することはない。
(若い人にも観てもらいたいとの監督の要望で、わかりやすい演出をしたのか、それとも原作がそもそもそういう語りになっているのか)
 前半、そういう思いがあって、少々違和感を抱いたが、全体の印象にしたら些細なことだ。
 剣道の稽古時の打ち合いの激しさ、死体の胸から腹にかけてざっくり裂けた刀傷を見せることにより、真剣の重厚さ、怖さが観客に印象づけさせる。TV時代劇によくある竹光の刀ではない本物の斬りあいが音と所作で堪能できた。
 クライマックスの幻想シーンが素晴らしい。舞台がセットなのかロケなのかわからない。まさしく幻想。
 噂どおりトミーズ雅がいい。坂上二郎の口跡も聞いていて惚れ惚れする。
 しかし何と言ってもラスト、開の桜の木を一刀で斬るビートたけしがかっこいいし、その様が美しい。




1999/11/02

 「ワイルド・ワイルド・ウエスト」(試写会 東京厚生年金会館)

 月刊「スターログ」誌新創刊号に砂漠の谷から巨大なクモみたいなロボットが出現し、それを見上げる小さな人間の写真が掲載されていた。それが今度お正月映画として日本で公開される「ワイルド・ワイルド・ウエスト」で、最近では珍しい西部劇と知り、興味がわいた。別に西部劇だからというわけでなく、西部劇とSFXの融合に新しい作劇を感じたのだ。監督が「MIB」の人で、主演はウィル・スミスということも期待は大きかった。
 その試写会があるってことで東京厚生年金会館へ行ってきた。

 タイトルバックは凝った画面構図と西部劇らしいテーマ曲でなかなかの始まりであったが、その後はちっとも盛り上がらない。チラシには主役ふたりのジョークの連発とあるが、客は全く反応なし。僕自身はそれなりに笑えたけどその声がむなしく劇場内に響くのだ。
 肝心のローテク風SFXはやけに合成が目立ち、今いちノレなかった。いや、メカの出来、動き自体はよくできている。たとえば昔のアクション映画なので、列車の上、飛行中の機内なのがロングではスタントの実写、アップではリアプロジェクションを使用して、暗い背景をバックにして役者が演技することが多々あった。その場合、暗い背景がいかにも嘘っぽくて、白けたものだ。同じことがこの映画のSFXに言えるのである。
 随所に映画のパロディがみられた。「駅馬車」、「スピード」、「ET」、憶えているだけでとりあえずこれだけ。他にもたくさんあった気がする。(まっ、パロディなのか単なるパクリなのか)  クライマックスもそれなりのもので興奮も高揚感もなかった。そんなわけでエンドタイトルに流れるウィル・スミスの主題歌につきあう気にもなれず、足早に劇場を後にしたのであった。本当にこの映画がこの夏、アメリカで大ヒットしたのだろうか?

     ◇

1999/11/03

 「リトル・ヴォイス」(シャンテ・シネ)

 「ブラス!」の監督マーク・ハーマンによるある種<スター誕生>的ストーリー、ヒロインがスタンダードナンバーを熱唱する音楽映画だと知り、興味がわいた。
 映画サービスデーということもあるのだろうか、やはり人気がある映画はすごい。1時間前なのにすでに列ができていた。

 予告編が終わり、本編が始まった。タイトルが「デザイア」と出て、原題と邦題がずいぶん違うなと思った。海辺にユアン・マクレガーが歩いてくる。浜辺になぜかエクレア(?)が置いてある。手にとって、ながめるユアン。クリームをなめてみる。一気にそれをほうぶるとなんと針がユアンの頬を突き刺す! 針には糸がついていて、ユアンはそのまま海にひきずられていき消えてしまうそこでキャスト・スタッフのクレジットが流れる…。「人間釣り」のオチというわけか。???状態でいると今度はちゃんと「リトル・ヴォイス」が始まったのだった。 後で知ったのだが、これは同時上映の短編映画でした。

 この映画はイギリスで大ヒットしたミュージカルの映画化だという。ヒロイン・LVを演じるのは舞台と同じジェイン・ホロックス。全く知らない女優でだからこそ役柄そのものを素直に受け止められ、最初に登場した時の内気でほとんど人と会話ができない様と一夜だけのワンマンショーでお得意のナンバーを<なりきり>で歌う様のギャップが激しく、こういうのを鳥肌がたつ状態というのだろうか、あまりの感動で涙がでてきた。この瞬間に立ち会えただけでもこの映画を観る価値があったと言うものだ。
 映画は単純なスター誕生物語ではなかった。確かにこの内気な娘がショービジネスの世界で生きていけるとは思わない。にもかかわらず彼女の才能に目をつけた母親や二流のマネージャー(ブレンダ・ブレシン、マイケル・ケイン、ともに好演。巧い!)が一攫千金を夢見て<売り出し>にやっきになって、はかなくも夢やぶれるところはあまりに急な展開だが映画というメディアを考えれば仕方のないことか。
 一体どんな結末になるのだろうかと息をのんだ火事のシークエンス後の、LVが母親にくってかかるシーンは圧巻。LVに恋心を抱く純朴な青年役のユアン・マクレガーもいい味だしている。
 サウンドトラックが欲しくなった。

     ◇

1999/11/19

 「黒い家」(丸の内プラゼール)

 森田監督の前作のサイコミステリ「39 刑法三十九条」が佳作だったので、この「黒い家」は原作の秀逸さもあり、とんでもない傑作になりそうな予感がしていた。
 今回も森田監督流の裏切りがあるのだけれど、僕にとってそれは納得のいかないものなってしまったのがつらい。
 決してつまらない作品ではない。たぶん原作を知らない人が観れば、文句なしの面白さかもしれない。

 映画化に対して一番期待していたのは物語の要となる性格異常の夫婦を大竹しのぶ&西村雅彦がどう演じるかだった。実際ふたりは異常ぶりを楽しむかのように演じていて、それはそれでいい。ただ、冒頭、大竹しのぶが最初に主人公に電話をかけてきた時からいかにも性格異常です、といった感じで、そこから僕の映画「黒い家」に対する違和感が生じてしまった。
 当初夫が異常で、妻の方は夫に虐げられている存在という印象を主人公にも、観客にも与えないとクライマックスの圧倒的な恐怖に至るまでのサスペンスが成り立たないと思う。それが第一の不満。  第二の不満はあまりにもケレン味たっぷりなカメラワークに対して。「39」は(静)で本作は(動)を狙ったと森田監督が公開前に新聞のインタビューに答えている。だからなのか「39」では抑制が効いて、効果的だった森田流の映像の遊びが逆にくどくなって少々目障りだった。
 もしかすると原作そのものの怖さは映像で表現できないと意識した結果なのかかもしれないし、それを見越して役者たちに過剰な演技をつけたためか、全体的にブラックユーモアの味わいに包まれ、笑える映画に仕上がっている。
(保険契約のつぶし屋・小林薫と大竹しのぶの会 話の中で、大竹が約款を(やかん)と聞き違えるシーンがある。主人公が恋人を救うため黒い家に忍び込み、床をあけると小林の死体の横にひときわ大きいやかんがちゃんと置いてあるのだ。緊迫したシーンで、思わず笑ってしまった)
 森田芳光をあれこれ語れるほど彼の映画を観てきたわけじゃないけど、2作続けて鑑賞して思うのは、テーマよりテクニックを重要視して、素材を選定する姿勢だ。市川崑の系列に入るかもしれない。
 風景の切り取り方に独特のものを感じる。




 先週、ドリキャス撤退のニュースが日経にリークされ、それにまつわるマスコミ各社の報道合戦が過熱した感があります。
 それこそ、「待ってました!」というマスコミのセガへの対応でした。

 ここ数年、マスコミのセガへの対応は、いいニュースでも悪く、悪いニュースはことさら悪く、書くという情けない状況でして、これを打破するには一にも二にも赤字脱却しかわけですが、まあ、その話はとりあえず置いておきまして、今日はマスコミの悪意についてお話しします。

 皆さんは週刊誌は読まなくても、電車の中吊広告をご覧になる機会は多いでしょう。
 その中吊広告のタイトルが実際の記事の内容とまったく逆の場合があることがあります。

 一昨年、大河ドラマ「元禄繚乱」が始まったころ、ドラマの担当ディレクターが綱吉役のショーケン(萩原健一)を批判する、というような記事(のタイトル)を中吊広告で目にしました。ショーケンファンとして、ショーケンの綱吉は久々にらしさを発揮していましたから、スタッフの批判はとても気になります。すぐに週刊誌の記事をあたりましたよ。
 読んで驚きました。内容は逆なんです。ディレクターはショーケンを褒めているんです。

 中吊広告の記事のタイトルに惹かれて実際の記事を読めば良いですが、大半の人は中吊だけで判断してしまうでしょう。
 こうして個人あるいは団体、法人に対して偏見をもつ、誤解をしてしまうことがかなりあるはずです。

 マスコミ、メディアというのはある種の聖域であり、私たちの中に特別視するところもあります。
 しかし、マスコミも一つの企業で利潤追求しなければなりません。儲けるためには、一般大衆に受ける、雑誌を購入する、TVを視聴する、そうさせるための記事やニュースを作る側面があります。
 そういうことも心しておく方がよいと思っています。




1999/10/06

 「双生児 ~GEMINI~」 (スバル座)

 映画サービスデーなので、今月は映画のはしごをしようと有給休暇をとった。
 まず夫婦でシャンテシネに「リトル・ヴォイス」を観に行った。が、昼食をとっている間に初回が満席になってしまった。立見で観る元気もなく(なんせ徹夜なもんで)、ほかの二人で観られる作品を探したが、適当なものがなく、仕方なく一人で「双生児」をスバル座で観た。

 予告編で強烈な映像を見せられていたし、また塚本晋也監督のことだから一筋縄でいかない映画だろうと予想はしていたが、最初から役者たちの眉毛なしの異様なメークに度肝をぬかれ、絵の具を飛び散らせたような貧民窟のセットに唖然とした。
 癖のある映像、語り口である。わざと意識したカメラのブレ。観客を不安に落とし入れる音楽。観客を限定するのは当然で、会場は割と閑散としていた。平常時ならいざ知らす、徹夜明けの身体に塚本映画は毒だった。突然襲ってくる眠気と戦いながらなんとかストーリーを追うのがやっとだった。もしかしたら途中で寝ていたのかもしれない。
 本木雅弘の善と悪の双子の演技は絶品。いつしかふたりの意識(外見も含めて)が交替してしまいどっちがどっちだかわからなくなるところがこの映画のテーマなのだろう。
 最初は気持ち悪かったりょうが終り頃には美しく見えるのだから不思議。

     ◇

1999/10/26

 「秘密」(キネカ大森)

 原作を読み終わってから、映画化するなら、ラストのドンデン返し(思い悩んだ末、これからは父と娘の関係になるという夫の決断に従い、巧妙なトリックで娘の意識がもどったかにふるまい、実は妻の意識のまま嫁にいく。その事実を結婚式当日に知った夫は立場上確かめることもできなく、花婿を前に娘と妻を同時に失ったことの深い悲しみで鳴咽してしまうという非常に残酷なエピローグ)はない方がいいのではないか、と書いた。妻と娘の意識が交互しながら、やがて妻の意識がなくなっていく、その二度目の別れをメインに、変則的な夫婦であったこと、それでも愛し合っていること、さまざまな思いがオーバーラップし、互いをいとおしみながらラストを迎えてもいいのではないかと。

 やはりこのエピローグははずさなかった。ここが原作の核たるものという一般的認識なのだろうか。
 ただ、映画化にあたって若干の修正がされている。原作では妻が最後まで嘘をつきとおして嫁に行くのに、映画では最後の娘からの挨拶のところで夫婦しか知らない儀式(?)をついやってしまい、ばれてしまう展開になる。とりあえずお互いの意志の疎通がなされ、これである程度心が休まるから不思議だ。(しかしこれをやると、娘の意識がもどり始めた頃の母と娘の手紙、ビデオレターのやりとり等の妻が夫に仕掛けたトリックに全く意味がなくなってしまうのですけどね。)
 若返った妻に対しての嫉妬心からストーカーもどきの行為を繰り返す夫の様を原作ではリアルに描いて不安を覚えたが、映画ではコミカルタッチにして観客の笑いを誘った。ここらへんの処理もうまいと思う。
 難を言えば(と言うかここが肝心なのだが)、中盤のバス転落事故を起こした運転手の息子と父娘たちたちとのエピソードはあまりにもはしょり過ぎで、嘘っぽい。だからエピローグのふたりの結婚があまりにも唐突な感じがしてしまうのだ。

 最後に流れるクレジットタイトルのバックに主人公家族のスナップ写真が写し出され、娘の徐々に成長していく姿も見られた。これを劇中でうまく活用できなかったのか残念でならない。
 つまり、この映画に抜けているのは夫婦あるいは親子が夫婦であり親子である関係を築いた歴史(時間)なのだ。
 原作では娘が小学4年生の頃から大学生になるまでの話なので、夫のお見合いの話だとか、夫婦生活(セックス)の問題だとか、妻に対する嫉妬、それゆえのストーカー行為等が切実に迫ってくる。それは二人の長い生活が続いていたからだと思う。
 映画は主演のヒロスエにあわせて高校3年生から大学生までのほんの短い期間しか描かず、歴史の積み重ね(子育て等)が感じらない。だから、娘(妻)とのセックスにとまどう夫の気持ちも画面からは伝わってこない。顔を隠してやろうとか、口でしてあげるとかの問題ではなく、娘を子どもとしてしか受け入れられない、18年間の歴史があるはずなのに。

 いろいろ文句を言いつつも、ファンでなくてもラストのヒロスエの表情がたまらなく素敵だった。それだけでこの映画を認めてしまおうと思える作品である。「Wの悲劇」のラストの薬師丸ひろ子を彷彿させる。何とも切ない気持ちが後を引き、竹内まりあの主題歌が余韻を倍加させる。

     ◇

1999/10/30

 「皆月」(テアトル新宿)

 確かにこの映画を観る動機は吉本多香美のヌードであり、ファックシーンであった。だが、それはあくまでも表向きの下心であり、本当のところ主人公・奥田英二演ずるダメ中年男にどれだけ感情移入できるかというのがポイントだった。

 この映画の脚本を担当した荒井晴彦には自身が監督した「身も心も」という作品がある。団塊の世代(全共闘世代)の男女4人の青春時代をひきづった愛憎物語で、だらしない男たちと性根のすわった女たちの対比が面白かった。いくつになっても出会った頃の気分そのままに友だちとつきあい、その精神と実際の年齢とのギャップに悩む姿は一世代下の僕にも十分共鳴できた。
「おれたち、もうすぐ50になるんだよな」と言う奥田の言葉の50を40に置き換えれば、当時それはそのまま僕自身のモノローグとなって、観終わった後、主題歌の「セクシー」(下田逸郎)のメロディとともに映画の切ない感触が胸のあたりをチクチクさせたのだった。
 「身も心も」でマザコン男を好演した奥田英二は本作では妻に逃げられたパソコンおたく男としてダメさぶりを発揮する。ソープ嬢役の吉本は体当たりでファックやレイプ、放尿シーン等に挑んでおり、ここまでやるのかと驚愕した。

 にもかかわらず僕の目をうばったのは逃げた妻の弟、奥田にとって義弟役のやくざを演じた北村一輝だった。まるでこの映画は彼のため作られた感じさえする。彼と姉の別れのシーンにオッサンとソープ嬢の純愛もかすんでしまった。
 実際、二人の純愛に共鳴することができなかった。お互いにひかれた理由を台詞では説明しているのだが、実感がわかないのである。




 NHK「ファミリーヒストリー オノ・ヨーコ&ショーン・レノン」は8月18日(金)19時30分~20時43分に放送されます。
 再現フィルムの撮影にスタッフ&エキストラで参加した番組です。73分の特別編。

 番組の案内にこうあります。
     ▽
 オノ・ヨーコさん84歳。1969年にビートルズのジョン・レノンと結婚、数々の共作を残している。前衛芸術家、平和活動家としても活躍してきた。ヨーコさんは、息子ショーン・レノンさんに自らのルーツを伝えたいと、出演を決めた。祖父は日本興業銀行総裁、父は東京銀行の常務取締役を務めた。また、母は安田財閥・安田善次郎の孫にあたる。激動の時代を生き抜いた家族の歳月に迫る。収録はニューヨーク、73分特別編。
     △
 
 日本興行銀行総裁のお祖父さんが戦時中、軍に金を融資するか否かの会議のシーンで、もしかしたら私が写っているかもしれせん。
 どうぞお楽しみに!

20170711




1999/08/07

 「シャロウ・グロウブ」(ビデオ)

 「トレイン・スポッティング」のダニーボイル監督&主演ユアン・マクレガーコンビのデビュー作だと知ってずっとビデオ屋で探していて、やっと見つけてきた。
 同居人3人組(女1人&男2人というのはやっぱり絵になる)の仲が大金によっておかしくなっていく様を個性的な映像で見せる。

     ◇

1999/08/26

 「砂の器」(TV)

 この映画を初めて観たのは高校1年の時だった。
 この時の併映作品のカップリングがよかった。「男はつらいよ 寅次郎子守唄」。確か十朱幸代がマドンナ、上條恒彦と最後に結ばれる話で、映画館で初めて観た寅さん映画だった。寅さんで笑い、砂の器で泣く。
 とにかく「砂の器」は泣ける映画だった。その後何度か映画館、TV、ビデオ等で再見しているが、いつも同じシーンで涙があふれてくる。
 後で原作を読んだが、映画の方ができがいいと思ったものだ。構成が素晴らしい。前半はスーパーインポーズを多用して事件の流れを追い、後半は捜査会議と犯人の少年時代の回想シーンを交互させる。少年時代を演じた子役の表情と芥川也寸志のテーマ音楽がシンクロして、相乗効果で観ている者の涙腺を緩ませるのである。
 久しぶりに観た今回、同じように泣いてしまったのであるが、あまりにもでき過ぎな展開が気になった。感動させようとするスタッフの意図も必要以上に感じた。
 当時、事件の舞台となった蒲田は全くの見知らぬ街であった。それが今では住居のある川口の次に会社のある所として非常に身近な存在になってしまった。蒲田がでてくると、そこがどこだか確認したくて、ブラウン管に顔を近づけたほどだ。
 公開当時、主演の一人森田健作がヘタクソだと淀川長治に批判されていて、僕は若者の代表って感じでいいではないかと日記に反論を書いた憶えがある。やはり見事にヘタだ。ミスキャスト。

 今回初めて気がついたのだが、刑事役の某俳優が「順風満帆」をジュンプウマンポと言っている。まわりのスタッフ、誰も気がつかなかったのか? 当人にとっても恥ずべきことだと思うのだけど。 

     ◇

1999/09/01

 「オースティン・パワーズ:デラックス」(丸の内プラゼール)

 前作の「オースティン・パワーズ」はまだ観ていない。にもかかわらず、やけに評判がいいんで映画サービスデーに友人に誘われ、さっそく観てきた。
 60年代のスパイ映画を当時の風俗、ファッションを含め、現代(90年代)の感覚から笑い飛ばそうという狙い、ギャグが下ネタの、たぶんに下品な内容、今風で言えば「おバカ」映画くらいの認識しかなく、笑えなかったどうしようと思っていたら杞憂だった。もう全編大爆笑だ。
 オープニングの「007」風のテーマ曲でニヤリ。続く「スターウォーズ」の字幕、タイトルバックの主人公が全裸でホテルを闊歩し、プールのシンクロナイズドスイミングに乱入するところで、完全に映画の世界に入り込んでしまった。
 敵役のDr.イーブルが最高。キャラクター自体コント55号時代の二郎さんを彷彿させ、「飛びます、飛びます」をいつ言いだすか、けっこう期待したりして……。扮する役者が何ともうまく、なんて人なんだろうと思ったら、主役であるマイク・マイヤーズの二役でした。全然知らなかった!  60年代をそれなりに知っている者としては60年代のファッション、歌の数々が懐かしく胸躍った。今見てもけっして古めかしくも、おかしくもない。サイケはエネルギュッシュだったなあ。それにオシャレだ。

 「I'll never fall in love agein 」(この曲を僕は初期の赤い鳥のレコードで知った)がバート・バカラックのオリジナルで聴けたのは幸せ。

     ◇

1999/09/26

 「マトリックス」(丸の内ピカデリー)

 最初はキアヌ・リーブス主演のSFアクションぐらいの認識しかなかったが、巷の評判がやけに高い。キアヌ・リーブスも「スピード」時のスリムな体型に戻っていることだし、これは観る価値あるってんで、昨日前売り買って、病院に行ってから丸の内ピカデリーに寄ったら、すでに立見の状態。
 しょうがないから今日2回目の上映に行ってきた。余裕をみて1時間前に行ったにもかかわらず、すでに行列ができていた。すごい人気である。

 仮想現実の世界を描いたSF小説は僕が知らないだけでけっこうあるのだろう。
 藤子不二雄の異色SF短編集にこんな話がある。妻子のいる平凡なサラリーマンが何となく自分の生活のうそ臭さが気になってしょうがない。まわりの人間たちは「気のせいさ」と笑い飛ばすのだが、その気分はますますひどくなって、ついには人殺しまで犯してしまう……。そこで男は仮想現実から現実世界ー核戦争によって破壊されてしまった地球があったであろう空間ーにひきもどされる。宇宙に残ったたったひとつの細胞から主人公を再生し、彼が不自由なく生活していけるよう仮想現実を与えたのは心やさしき宇宙人だったのだ。宇宙人は男の不信感を嘆き、去っていく。男はただ一人宇宙空間を寂しくさまようところでジ・エンド。
 現実が作られた仮想現実だと知った時の衝撃はたまらないものがあるに違いない。

 この映画は主人公ネロが1999年の仮想現実からモーフィアスに導かれ2200年代のコンピュータに支配された現実に引き戻されたところからドラマが始まるのであるが、この1999年の舞台が仮想現実というところがこの映画のミソだ。つまり何でもありの世界になってしまうのだからどんなSFX、アクションがでてこようが、観客は納得してしまう。個人的にはロードショー前から有名だった人物をワイヤーで吊って数十台(もっとか?)のカメラで360度撮ったシーンより、ヘリコプターがらみのアクションシーンに度肝を抜かれた。そのくせ現実世界でのイカの形をした敵の潜水艇と主人公が乗船する乗り物のチェイスシーンのSFXは完全に見慣れたもので何の感慨も起きやしない。
 そしてクライマックスの、時間までにネロが脱出できるかどうかハラハラドキドキのサスペンス。これぞ映画の醍醐味って感じ。
 ダイエットして痩せた短髪姿のキアヌ・リーブスはかっこいいけど、相手役・トリニティのキャリー=アン・モスの吹き替えなしのアクションに心奪われた。音楽もいい。

     ◇

1999/09/27

  「バウンド」(ビデオ)

 マフィアの情婦とレズの関係になった刑務所帰りの窃盗のプロ女が、共謀して情婦の男が預かったマフィアの大金を盗もうという話。まんまと大金を手に入れるが、男が予定どおりの行動をとらず、そこからドラマは二転三転。途中から話の展開が読めなくなり、緊迫したシーンの連続で、後半は画面から目が離せなくなった。クライマックスでは思わず声をあげてしまったほど。
 ほとんど室内で進行するドラマで、これだけ見る者を引っ張れるなんて、さすがウォシャウスキー兄弟監督。デビュー作からほとばしる才能が感じられる。
 「マトリックス」に通じるものもいくつか発見できた。ジェニファー・ティリー扮するコーキーはトリニティのプロトタイプか。アナログな旧式タイプの電話にも何か思い入れでもあるのだろうか。




 8月1日(火)は映画サービスデー(ファーストデー)。本来なら、特撮仲間のSさんと「パワーレンジャー」を観に行く予定だった。この夏の公開を知ってからかなり楽しみにしていた映画である。

 ところが8月から僕の(BC二十世紀の)出勤シフトが変わったことでこの目論見がはずれてしまった。これまでの火木から水木へ休みが変更になったのだ。
 上映時間を調べてみてわかったのだが、「パワーレンジャー」は都内のほとんどの劇場で夕方の上映がないのである。配給の東映は何を考えているのか。「パワーレンジャー」の主要客は子どもではないはずだ。かつてスーパー戦隊シリーズを夢中になった子どもたち、大きなお友だちが対象になる。にもかかわらず、夜の上映がないのはどういうわけか。
 せめて、東映の資本が入る(ってますよね?)新宿バルトはそこらへんを考慮すべきではないか。

 東映はこういうことがたびたびある。
 昨年、西内まりやが主演する「CUTIE HONEY –TEARS‐」をやはりSさんと観に行こうとしたら、新宿バルトでは深夜しかやっていない。一応ロードショー作品ですよ!
 本来ならDVD(Blu-ray)作品なのに、格付けのため劇場公開させたということだろうが。

 結局、「パワーレンジャー」はバラバラで観ることになり、僕は1日、仕事を終えてから品川のT・ジョイPRINCE品川のレイトショーに足を運んだ。翌日の休みに地元シネコンで観てもよかったのだが(割引クーポンがあるので1,300円で観られる)、こちらは吹き替えだとわかり遠慮した。金だして吹替なんて観たくない。

 品川の劇場はもともと〈品川プリンスシネマ〉という名称で、セガに勤めていたとき、大鳥居に通ってきたいたときはよく利用させてもらった。知らない間に経営母体が変わったのだろう(ホテルが外部に委託したのか)、T・ジョイPRINCE品川になった。


 アメリカと日本のヒーローの一番の違いは〈変身〉の概念だと思っている。
 スーパーマンにしろ、スパイダーマンにしろ、みな超能力を持った人間(スーパーマンは宇宙人だけど)が、その超能力を発揮するとき、人間のままの姿では支障があるので、それっぽいスーツ(&マスク)を着るわけだ。バットマンは逆にスーツが強化服になっているのだろうか? 普通の人間がスーツとマスクで身を包むことで力を得る、のか。
 日本でも「月光仮面」が、まさにそういうヒーローだったわけだが、「ウルトラマン」の登場でヒーロー像が一新された。
 
 「仮面ライダー」で空前の変身ブームになったわけだが、〈原作〉である石森章太郎のマンガでは、アメリカンヒーローのように、改造人間になった本郷猛がスーツ&マスクを着用する設定なのである。怒りに燃えると顔に傷が浮かび、その傷を隠すためにマスクを被るのではなかったか。

 東映が集団ヒーローものを企画し、「仮面ライダー」同様、石森章太郎に原作を依頼した。それがスーパー戦隊シリーズの第1作「秘密戦隊ゴレンジャー」であるが、色分けされた5人のメンバーというと、その前に「科学忍者隊ガッチャマン」が人気を呼んでいた。少しは意識したのだろうか?

 僕はというと、「科学忍者隊ガッチャマン」には夢中になったものの、ゴレンジャーはバカバカしくて相手にしていなかった。
 5人のレンジャーだからゴレンジャー? なんだその語呂合わせは!! 
 登場する敵方怪人も〇〇仮面といったおちょくったような造形、ネーミング。まあ、対象年齢が低く設定された番組なのだから、中学生が、それも円谷特撮で育った者として容認できるわけがない。
 石森章太郎も、少年雑誌に連載していたマンガを最初はシリアスだったにもかかわらず、途中で「秘密戦隊ゴレンジャーごっこ」とタイトルを改めギャグマンガにしてしまう始末。

 こうして、戦隊シリーズが個人的にまったく縁のない特撮番組になって四半世紀をすごしてきたわけだが、2000年代になって「未来戦隊タイムレンジャー」にハマってしまった。「仮面ライダークウガ」とセットで観ていたところがある。
 その後、また離れてしまうのだが、「獣電戦隊キョウリュウジャー」あたりからまた観だして「列車戦隊トッキュウジャー」「手裏剣戦隊ニンニンジャー」ときて、「動物戦隊ジョウオウジャー」でまたハマった。
 そして今「宇宙戦隊キュウレンジャー」に夢中になっている。
 ちなみに平成「仮面ライダー」シリーズは「カブト」で卒業した。

 ハマる前もハマった後も、このシリーズに対して同じ思いがある。等身大での戦いで一度破れた敵(の怪人)が巨大化してからのシークエンスにまるで興味が持てないことだ。
 戦隊側の合体ロボットはどのシリーズもデザインセンスが微塵も感じられない。特撮も旧態依然で観てられない。
 ロボットデザインに関しては、子どもの情操教育に悪影響を与えるのではとは思うほどだ。

 このまま続けます






 
プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top