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 だめだ、だめだ。帰宅すると疲れてしまってPCに向う気になれない。それでも「まぐまPB10」の締め切りが近づいていて原稿の最終チェックをしなければならない。見直して訂正してもうそれだけでいっぱいいっぱい。すぐに横になってそのまま寝てしまう。
 紙ふうせんリサイタルのこと、50代最後の誕生日を迎えたこと、書き出してそのままほっぽいている。
 今週はBC二十世紀の休みがない。今日は疲れた身体にムチ打って昼過ぎに出勤。

 「高野浩幸タイム・トラベルトーク 今、甦る少年ドラマシリーズ!」の第2回が12月1日(土)12時~に確定した。
 高野さんの子役時代にゲスト出演した「帰ってきたウルトラマン/怪獣少年の復讐」や僕自身リアルタイムで視聴して深く感動した「帰マン/許されざるいのち」等の監督、山際永三氏のトークイベントも11月24日(土)15時~開催で準備している。

 来週26日(金)からは「神田古本まつり」が始まる。
 何かと忙しいけれど、やることは少しずつでも進めなければ。

          * * *

2001/09/04

 「続巷説百物語」(京極夏彦/角川書店)  

 京極夏彦版必殺シリーズというような味わいがあった「巷説百物語」の続編。  
 妖怪伝説を巧みに取り入れた悪人退治の物語は同様だが感触が微妙に違う。前作がライト感覚だったとすると「続」はよりヘビーになっている。単に一話分のページ数が増えただけでなく、内容が変わったというべきだろう。  

 前作において又市たちとその仲間(小股潜りの又市、山猫廻しのおぎん、事触れの治平、考物の百介)はあくまでも悪人を退治する集団でしかなかった。つまり各話はあくまでも被害者の物語だったのだ。被害者が悪人とどんな関係を持ち、どのような被害を被ったのか、それがその地の妖怪伝説と結びつき、その伝説を利用して又市たちが悪人退治する展開。謎解きの要素も多少あったように思う(だいたい最初でオチがよめるのだが)。
 
 「続」は又市たちが全面に出てくる。前作では語られることのなかった又市たちの素性や生活が細やかに描き出される。悪人退治の動機が仲間たちの過去に大いに関係してくるのである。   
 「野鉄砲」では治平が、「狐者異(こわい)」ではおぎんがフィーチャーされ、事件の真相が明らかになる中で治平やおぎんの過去がクローズアップされることになる。  
 「飛縁魔(ひえんま)」は百介たちが婚礼前日に失踪した花嫁を探す過程で二人の女性の数奇な運命が浮かびあがってくる、どちらかというと前作のような味わいがあるものの、続く四国地方の妖怪〈七人みさき〉の伝説に基づく「船幽霊」「死神 或は七人みさき」のプロローグのようにも思える。というか、収録されている作品がそれぞれ繋がっているのだ。一話完結の前作との違いは本書が連作の形をとっていることからもうかがわれるい。「船幽霊」以降に登場する凄腕浪人のキャラクターは「仕掛人梅安」シリーズに登場する小杉十五郎を彷彿させる。  
(WOWOWで映像化されたオリジナルエピソードのタイトルが「七人みさき」だったはずで、映像作品と「死神」がどう関係しているのかわからない。)  

 このシリーズ、まだまだ続くものだとばかり思っていたら「死神」の後日談的エピソード「老人火」で完結してしまった。  
 住む世界の違う又市たちとの交流をとおして、自分の居場所を見つけ、戯作者として一人立ちしていく男の物語という側面も併せ持つのが「続巷説百物語」の大きな特徴だろう。


2001/09/07

 「かまいたち」(宮部みゆき/新潮文庫)  

 回向院の茂七親分が活躍する「本所深川ふしぎ草紙」「初ものがたり」に「幻色江戸ごよみ」のエピソードを加えてNHKでドラマ化した「茂七の事件簿 ふしぎ草紙」が面白い。原作に描写される茂七とはまったく違う容貌だし、茂七の家族設定その他TV向きに変更されているけれどもこれがなかなかいけるのだ。最近バラエティづいている高橋英樹にとっては「桃太郎侍」に続く時代劇の当たり役になるのではないだろうか。  
 そのドラマでこの前「だるま猫」が放送された。「本所深川ふしぎ草紙」「初ものがたり」にはないエピソードだから当然「幻色江戸ごのみ」の短編を使用しているのだが、この話、知っている、いや一度読んでいるのである。「幻色江戸ごよみ」は未読である。ではなぜ? どこで読んだのだろう?  
 その謎を解くべく図書館で「幻色江戸ごのみ」を探したが、見当たらなくて、代わりに「かまいたち」を借りてきた。  

 「本所深川ふしぎ草紙」に続く時代小説の短編集。表題作「かまいたち」のほか、「師走の客」「迷い鳩」「騒ぐ刀」の4編が収録されている。  
 市中を騒がす辻切り〈かまいたち〉の顔を目撃してしまった貧乏長屋の町医者の娘が真犯人を見つけ出すまでの騒動をミステリタッチで描く「かまいたち」。この話は読んだばかりの「続巷説百物語」の「死神 あるいは七人みさき」の印象がダブる。事件が解決しラストで父親の町医者がつぶやく嘆きに心温まる。  
 千住上宿で旅籠をきりまわす夫婦が、師走になるとやってくる馴染みの客から宿賃の代わりの受け取る金製の飾り物をめぐる話の「師走の客」。予想したとおりの展開で夫婦の気持ちを思うとやりきれなくなるが、ちゃんとラストで一矢報いる展開になっていて安堵する。  
 「迷い鳩」「騒ぐ刀」は超能力者のお初という少女がヒロインの連作。岡っ引きの兄、やさしい義姉、超能力の存在を信じ後に「耳袋」を書く南町奉行の根岸鎮衛を後見人とするお初が「迷い鳩」ではある問屋の女主人の着物に真っ赤な血ついているのを見てしまったことから、「騒ぐ刀」では兄が預かってきた脇差の誰にも聞こえない言葉を聞いてしまったことから、事件に巻き込まれる。  

 宮部みゆきはともすれば相反してしまう超能力とミステリを結びつけた作品が多いが時代小説でも超能力を扱うとは驚いた。解説によればこの2作はデビュー前に書かれたそうな。設定や登場人物からシリーズになると思ったら、すでに本になっていた。  

 さて冒頭の謎。簡単に解けた。ちょうど時代小説にも興味がわきだした数年前に手にしたのが縄田一男が編んだアンソロジー「怪奇・怪談傑作集」(新人物往来社)で、その中に「だるま猫」が収録されていたのだった。短編「だるま猫」は僕が初めて読んだ宮部みゆきの時代小説なのだ。もちろんドラマみたいな人情モノではない。ラストはかなり怖かった覚えがある。




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 「まぐまPB9 アニメの声と音と音楽と」が完成しました。

 私は、エッセイ「体験的〈冨田勲〉鑑賞記 冨田勲が教えてくれた」とコラム3編を寄稿しました。エッセイはブログに書いた訃報記事を基に大幅に加筆したものです。
 12月27日より以下の書店で直販されています。

 ・タコシェ(中野) 
 ・模索舎(新宿) 
 ・夢野書店(神保町)
 ・ブックカフェ二十世紀(神保町)

 また、通販も行っております。

 ・蒼天社通販
 

 ご興味あれば、ぜひご購入のほどお願いいたします。


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A5判・定価 本体500円+税
制作:STUDIO ZERO/発行:蒼天社/発売:開発社
ISBN978-4-921214-33-3 C0079

目次:
 わたしの「女性声優」史-「メーテル」発「のだめ・閻魔あい」経由「暁美ほむら」着/小山昌宏 初見智子
 耳で語るアニメーション/足立加勇
 多様なコミュニケーションを表現するポケモンアニメの鳴き声/坂口将史
 アニメーションと効果音について/荻原 真 
 シネマ・レビュー チロヌップのきつね/新井啓介 
 我が思い出の第三次声優ブームとその周辺/鈴木真吾 
 CINEMA REVIEW WXⅢ PATLABORTHE MOVIE3/新井啓介
 アニメの音って何だろう? 効果音から考えるアニメの音/小山昌宏 初見智子
 ブックレビュー 作曲家・渡辺岳夫の肖像/新井啓介
 宮駿駿監督作品における「無音」について/小池隆太
 体験的〈冨田勲〉鑑賞記 冨田勲が教えてくれた/新井啓介
 KOKIA「動物の音楽会」によせて-「けものフレンズ」へのシンクロニシティ/小山昌宏 
 洋楽・オン・アニメ/鈴木真吾 
 彼女たちのジブリ・ヒロイン-「宮崎駿と高畑勲」作品の女性像が問いかけるもの/小山昌宏
 進撃の巨人?暴力が支配する世界システムの果てに=イメージの「壁」がリアルな「壁」を出現させる原初的暴力/小山昌宏




 まぐま原稿のインタビュー記事の構成はK氏に託した。やっと肩の荷が降りた。
 7日(日)の帰宅時、川口で降りて「さくら水産」へ。久しぶりの安価居酒屋はメニューがけっこう変っていた。値段もちょっと高くなっていたような。
 サバの塩焼きを肴に日本酒を一杯やってからMOVIX川口へ。
 21時から「クワイエット・プレイス」鑑賞。

 この映画、初めて予告編を観てからというもの公開を楽しみにしていた。
 予告編の印象では、たまたま森に迷い込んだ家族の、いつ敵に襲われるかという恐怖とサスペンスを描く映画というものだった。事前に何の情報も仕入れないことをモットーとしているので、実際に鑑賞すると「えっ、こういう話だったの!」ということがままある。
 映画は、目は見えず音だけに反応する地球外生物が潜む森(?)の中で何とか生き抜いていこうとする家族のサバイバル模様を描くSFだった。時代設定も数年先。2021年か22年だ。

 予告編で何度か目にした緊迫シーン、橋の上で小さな男の子が手にする玩具が鳴り出して、少し離れて先頭にいた父親があわてて助けに駈け戻るというのは映画のクライマックスだと思っていた。
 違った。このシーンは開巻すぐやってくる。
 ネタバレになってしまうが、この子はあっけなく敵の犠牲になってしまう。
 驚いた。
 ハリウッド映画は子どもが死ぬことがない。実話の映画化ならともかくフィクションならほとんどの場合、子どもは助かるのである。すべての映画を観ているわけではないので断言はできないが。
 この映画の場合、この子の死が通低音として全編に流れている。

 「ファミリー・アドベンチャー」のSFデストピア版とでもいうべきか。そんな印象を受けた。

 映画は荒廃した街の一角から始まる。なぜそうなったのか、回想シーンなど一切挿入せず、台詞や小道具(新聞記事や看板、切り抜き、メモ等々)を使って状況説明する構成が巧い。それもドラマが進むにつれて徐々に観客にわからせていく、その溶け込ませ方が。
 恐怖やサスペンスに夢中になっているとクライマックスで胸を熱くさせてくれる。父と娘の断絶、反目、その葛藤が描かれると、もうそれだけで反応してしまう。あくまでも個人的な事情、心理に依拠することだけど。

 斬新な作りである。台詞がほとんどない。会話はスーパーインポーズで表示されるのだ。少しして手話で話していることに気づく。なぜ手話できるのかも。主要な登場人物は家族だけ。
 だからこそ、後半の、恐怖やサスペンスの盛り上げ方に過去の映画からのイタダキが散見できるのが残念だ。サイロのシーンは「刑事ジョン・ブック/目撃者」、姉弟がクルマに逃げ込んでからは「ジュラシック・パーク」。あくまでもオリジナルで勝負してほしかった。まあ、会話や小道具をつかって現状を説明するのだってスピルバーグ監督の「宇宙戦争」の影響だろうが。

 階段の突き出た釘もあくまでも最初の敵の侵入のために用意されたものでしかない。奥さんの妊娠もそうだ。
 だいたいあのような状況下で子どもを作るだろうか? 足手まといになるだけだし、泣き声で簡単に敵を呼び寄せてしまう。
 電気はどうやって供給されていたのか?

 まあ、突っ込みどころはあるけれど、父親の娘に対するメッセージで目頭熱くして許してしまった。
 パターンといえばそれまでだけど。
 ラストもある種爽快。

 エンディングロールで、監督(ジョン・クラシンスキー)が父親を演じていることを知った。あとで調べたら、母親役の女優(エミリー・ブラント)と本当の夫婦だという。劇中、夫婦が愛を語るショットがある。よく演じられたものだ。

 それにしても、アメリカ映画の地球外生物というと、なぜあの手の造形になるのだろうか。
 「クローバーフィールド/HAKAISYA」しかり。「SUPER8/スーパーエイト」しかり。日本人の(というか、個人的な)感覚からするとどうにもイマイチなのだ。

 MOVIX川口のレイトショーは場所柄なのか、いつも客が少ない。今回もそうのつもりでいったら、けっこう人がいた。それもカップルが。




 3日(水)、4日(木)の休みは、買い物以外の外出を控え、ほとんどPCと格闘していた。
 インタビュー原稿の推敲、いい加減終わらせないと締め切りに間に合わない。
 4日の夜中になんとか終了。

          * * *

2001/09/28

 「ミステリーガイド鎌倉」(角川書店編/カドカワノベルス)  

 なぜか鎌倉にはミステリが良く似合う。西岸良平のマンガで鎌倉を舞台にしたミステリ(「鎌倉ものがたり」)があって、「三丁目の夕日」ファンだった僕はこのマンガもよく読んでいた。当然刷り込み作用が働いているのかもしれない。  
 先日鎌倉に行く機会があって、何か鎌倉に関する本でも読みたいなあ、なんて思っていたところ、図書館の返却棚で本書を見つけた。この書名がけっこうそそられる。ミステリを読みながら鎌倉を案内させてくれるなんて素敵じゃないか。  

 鎌倉・湘南を舞台にしたミステリのアンソロジーなわけだが、湘南としたところがミソ。だって収録された9編のうち、純粋に鎌倉を舞台にした話は鮎川哲也の「鎌倉ミステリーガイド」だけで、あとは広義の湘南、三浦半島も含んでしまうのだから、タイトルに偽りあり、だよなぁ。  
 ちなみに収録作品は大沢在昌「海から来た行商人」、宗田理「死体泥棒」、石井竜生・井原まなみ「しんだじん」、日下圭介「朝に散る」、戸板康二「砂浜と少年」、鮎川哲也「鎌倉ミステリーガイド」、胡桃沢耕史「風と波と殺人と」、笹沢左保「この気持ちのいい朝に」、中薗英助「毒魚復活祭」。  

 面白かったのは、金持ちでわがままな叔父を殺し遺産を自分のものにしようとする苦学生の完全犯罪を描く「しんだじん」、弟に殺人容疑がかかり苦悩する姉が昔の恋人であるフリーライターに真犯人解明を依頼する「朝に散る」(〈ひと段落〉なんて記述があり、ちょっとがっかりもするのだが)、江ノ電ツアーにでかけたグループの中で殺人が起きる「鎌倉ミステリーガイド」。  
 「鎌倉ミステリーガイド」の愉快なところは、話自体ある作家の書いたミステリで、解決部分のないまま編集者に渡した原稿であること。困った編集者がミステリ通のマスターに真犯人が誰か依頼するという設定なのである。被害者が残したダイイングメッセージの1文字が何を意味するか、僕は本を横にしたり斜めにしたり……。  

 アンソロジーの面白さは、テーマに沿った粒ぞろいの短編が揃っていることはもちろんのこと、巻末の、編者による各短編、作家の解説も楽しみの1つなのである。   
 高校から大学時代にかけて筒井康隆編の「SFベスト集成」(徳間書店)を買い求めていたのは、筒井康隆の解説が読みたかった部分が大きい。  
 本書にもシリーズもののと思われる作品があって、そういった点を詳細に解説してくれるとうれしいのだが、残念ながらこの新書には初出誌意外の説明はない。  
 だいたい書名を収録作品のタイトルを入れ替えただけというのもどうかと思う。「鎌倉ミステリーガイド」をそのまま表題作にするだけでよかったのではないか。


2001/09/05

 「本の業界 真空とびひざ蹴り」(本の雑誌編集部/本の雑誌社)  

 そうか、今の人は真空とびひざ蹴りを知らないのか。今ではキックボクシング自体マイナーの存在だものなぁ。かつて沢村忠というキックボクサーがいたことを知る人がどのくらいいるのだろうか。昭和40年代半ば、小学生だった僕らはアニメ「キックの鬼」に熱中したし、遊びの中でよく真空飛び膝蹴りの真似をしたものだ。何をもって真空の飛び膝蹴りなのかよくわからなかったけれど。  
 そんなことはどうでもいいか。  

 本の雑誌の巻頭ページに巻頭(業界提言)コラム「真空とびひざ蹴り」が掲載されているという。知らなかった。いやかすかに覚えているような。いつも立ち読みするだけ、それもじっくり記事を読む習慣がないから気づかなかったのかもしれない。あわてて最新の雑誌を開いたら…ない。今春、目黒考二が発行人から退き、同時に連載も終わったのだとか。どうして? なぜ? じゃあ椎名誠は編集長を降りたのか? いろいろ訊きたいことはあるけれど、これまたとりあえずどうでもいい…ことにして。  

 やっと本題に入る。  
 1979年から2001年までの出版、取次、書店業界の流れが手にとるようにわかる。僕が一時在籍、出向してそのまま今の会社に転籍した後倒産した大陸書房の名も出てくる80年代の出来事は懐かしいの一言。あたりまえのことだけど。  
 コラムで何度もその存在意義について取り沙汰される〈サン・ジョルディの日〉が制定されたのが1986年。僕が躁になって、いつも財布の中を気にして本を思う存分買えない日頃の鬱憤を晴らすかのようにダンボール箱一杯に本を買いまくったあの日、銀座の各書店では〈サン・ジョルディの日〉を告知するポスターがやたらと目についた。確か賞品がスペイン旅行だったような。好きな人に本を贈るといってもチョコやキャンディのようにもらって誰でもうれしいものではないという指摘はまったくそのとおりで、本が単純な商品でないことがわかる。  
 本は高くないという主張も首肯できる。一回こっきりの楽しみのため、飲み代で4,5千円支払うことに比べたら、何度も繰り返し読むことができる本が3千円だって高くない。にもかかわらず書店で2千円代の本を手にとると「高い!」と感じてしまうのなぜ?
「本を安いと言いながら図書館で借りてばかりいるのはどうしてなのか」という声がどこからとなく聞こえてくる。そりゃ、自由になる金と広い部屋があったらどんどん本買いますよ。今だって本棚は一杯になっていて置き場に苦労する始末。それでもどうしても欲しい本は購入しているんです(夫婦喧嘩のもとなんだ、コレが)。そんなわけで一度読めればいいと思う本は図書館から借りてくることになります、ハイ。  

 本の業界に対するさまざまな提言はどれももっともだと思う。  
 ちょっと冷や汗がでたのは「本を選ぶ客が多すぎる」の文章。本の外見を気にしすぎる客に対する文句なのだが、新刊が平積みされている場合は僕もけっこう選んでしまうのだ。やっぱりお金だすのならきれいな本を自分のものにしたいから。反省。  

 インターネットの勃興、またたくまの隆盛はまさに驚き。この10年で携帯電話の普及とともに情報ツールの核になってしまった。最初はパソコン通信だったのだ。パソコンに強い当時の部下にその討論のやりとりを見せてもらったことがある。>や<が頭について飛び交う文字を眺めながら面白そうだなあ、でもこれは一部のマニアだけのもの、僕みたいな自宅にPCを持たない者には関係ない世界だと思った。それがまず会社で一人1台PCがあてがわれ、自由にインターネットが閲覧できるようになり、個人HPのBBSに勝手に書き込めるになって、そこで知り合った同好の士とオフ会なんていう飲み会で酒を酌み交わす仲になってしまうのだった。  
 本書にはインターネットにはまって読書の時間がなくなるという記述もあり、どこも同じなんだなとニヤリとしてしまった。  

 書評のあり方についての言及もあって、本の感想を記すサイトを持つ者には考えさせられる問題だ。このHPに発表している拙文は僕が本を読んで感じたこと、思ったことを自由に書いているもので書評という意識はない。ただ、取り上げる本については(特に小説の場合は)概略も付記して内容を知らない人にもわかるように心がけている。ラストの意外性や謎解きの種明かしなんかできない(それは小林信彦のコラムで十分わかっている)。とはいえ、後半で浮かび上がってくるテーマや、ラストの展開を詳細に記述しないと感想が書けないなんてこともあるので、確信犯的にでネタバレさせることもある。まあ、取り上げられた問題はプロのライターが書く書評についてだから、同じ土俵で考えることもないのだろうが、文章を書いている者として気になるし参考にしたい。




 昨日は1日、映画サービス(ファースト)デー。
 相変わらず疲れている。後ろ髪を引かれながら何も観ずに帰宅した。
 まぐまの原稿書きもそのままにすぐに就寝。それでも4時の起床はこたえる。

 一昨日の台風の夜は、風が激しくなったころに寝てしまった。
 翌日、4時半にアパートを出て目の前の堅川沿いの道を歩き出して驚愕。木が根本からポッキリ折れて倒れていたのだ。かなりの太さなのに。某コンビニのガラスも割れたとか。

          * * *

2001/08/21

 「まるまる1冊マルセ太郎」(マルセ太郎・山田洋次・矢野誠一・永六輔 他/早川書房)  

 マルセ太郎を最初に見たのはTV「俺たちひょーきん族」だったろうか。アフリカの原住民に扮してデタラメなアフリカ語を叫ぶ、ただそれだけの、ほんの1コーナーの出演だったが、インパクトは十分だった。いったいこの人は何者なのだろうか? というのが第一印象だった。
 その後サルの物真似芸も見る機会があり、そのあまりのそっくりさ、面白さにびっくりし、これからどんどんTVに出てくるのだろうなあと思った。その後それほどTVに出演しなかったのはテレビがタレントを消耗品としか扱わないことに対する用心深さなのか、単にお呼びがかからなかっただけなのか、わからない。  
 世間の注目を浴びた「スクリーンのない映画館」、その「泥の川」の有名な〈きっちゃんのでんぐり返し〉を聴いたのもTVだった。

 渋谷ジャンジャンでマルセ太郎のライブを定期的に開催していると知ってからは、一度生の話芸に触れてみたいと思っていたものの、事前のチケット購入がわずらわしく行かずじまい。仕方なく僕の悪い癖と思いつつ書籍でマルセ太郎を知るしかなかった。「芸人魂」「奇病の人」(共に講談社)を読み、でもそれで満足できるかといえばできやしない。やはりライブをのぞいてみたい気持ちは強くなる。  
 いつの日かライブを見るという僕の願いは、しかし1月22日永遠にかなえられなくなる。マルセ太郎の訃報を翌日の朝刊で知った時は声をあげてしまった。  

 本書はマルセ太郎追悼本ともいうべきものだ。  
 マルセ太郎の役者論は傾聴に値する。  
 〈対談・マルセ太郎/山田洋次〉を読みながら、山田洋次は自分の作品にマルセ太郎を起用するつもりはなかったのか、マイナーからメジャーにするつもりはなかったのか、不思議に思った。  
 〈マルセ太郎の動物談義〉(ライブの活字化)を読むとマルセ太郎の対象物を見る眼の確かさ、着眼点のつけどころの良さというものがわかる。真横から、真上から、斜めからあらゆる角度から眺め批評する。〈スクリーンのない映画館〉のライブを見たある人が後で語られた映画を鑑賞し、実際の映画より面白かったと感想を述べたのもわかる気がする。  
 映画・演劇鑑賞記「見たいから…」もつまらない内容のものには容赦しない。かなり及第点のハードルが高い。「役者が芝居で大泣きしたら観客は泣けない」とは至言。  

 その他、マルセ太郎をよく知る仲間たちの座談会〈昔の話でもしましょうよ〉、矢野誠一のマルセ太郎論〈マルセの居場所〉、〈スクリーンのない映画館〉の名付け親・永六輔の〈マルセ太郎お別れ大宴会・前説〉。
 今度もっと突っこんだサル真似芸(しもやけで困る下北半島のサル、ボスでないのにボスのつもりでいるサル山のサル、計算を間違えて落ち込む数学のできるサル!)をやらせようと、取材でモンキーセンターに訪れている永六輔にマルセ太郎の訃報が届くなんて、あまりに出来すぎているじゃないか(涙)。

 
2001/08/23

 「映画監督50人 自作を歩く」(東京新聞編集局/東京新聞出版局)  

 東京新聞は新聞社の中で一番芸能文化に対して力を入れていると聞いたことがある。他社が扱わないような地味なニュースもちゃんとフォローして記事にするというので、一時期定期購読していたことがある(値段が安いということも一因だったのだが)。
 定期購読してみたものの期待していたほどではなく、慣れ親しんでいる朝日新聞にまたもどってしまった。
 本書が1996年4月から2000年4月まで4年の長きにわたって東京新聞夕刊に連載された記事をまとめたことを知るとあのまま取り続けていればよかったかな、なんて後悔したりして。朝刊しかとっていなかったので変わりないか。
 
 書店で本書を見つけた時、市川崑監督のページだけは立ち読みしていた。「細雪」「鍵」「炎上」の3本が取り上げられ、撮影地の地図、印象深いロケ地に佇む監督のモノクロ写真数点と撮影時の思い出話が付随する。  
 監督に同行し、日本各地を訪ね、直接映画についての話が聞けるなんて。担当編集者がうらやらましくなった。  

 大林宣彦の「あした」に始まって、岡本喜八、小栗康平、大森一樹、神山征二郎、山田洋次、崔洋一、大島渚、森田芳光、伊丹十三、林海象、篠田正浩、市川準、熊井啓、新藤兼人、原一男、金子修介、根岸吉太郎等々、巨匠、中堅どころが登場、各人がかつてのヒット作、名作、佳作、自信作を語っている。  
 原則はロケ地を訪ねることだが、大島渚は病気療養のため、北野武はハードスケジュールのため、本人へのインタビューだけ。  
 全般的に言えることは映画が撮られた当時と今ではロケ地の模様が大きく変わっているということだろう。ロケ地の変貌に触れられるたびに大事なものを失ったような気分になってつらくなる。  

 取り上げられた映画の中で僕が観ているものはほんのわずかだ。公開時に食指が動かなかったということもあるが、こうして撮影の裏話を聴くとなぜかビデオをあたってみたくなるのが不思議。  

 根岸監督の髪が真っ白になっていたのにはびっくりした。 




 現在公開されている「プーと大人になった僕」のキャッチコピーを知ったときは驚いた。あの映画とほとんど同じじゃないか。少しして同じディズニー映画だから別に問題ないのだろうなと考え直した。
 「プーと大人になった僕」のコピーは〈今のあなたは、あの頃なりたかった“あなた”ですか?〉。
 あの映画とは18年前に公開されたブルース・ウィリス主演の「キッド」。キャッチコピーが〈今の私は、あの頃なりたかった大人だろうか?〉。
 18年前はこのコピーがぐさりと胸に突き刺さったのだった。

 還暦を前にひとりになることも考えてもいなかった。18年前は、まったく。

     ◇

2000/10/04

 「キッド」(丸の内ピカデリー1)

 少年時代に思い描いた理想的な大人にはならなかったけれど、有能なイメージ・コンサルタントとして、それなりに名誉も収入も得て、優雅な独身生活を謳歌している中年男のもとになぜか8歳の自分が現われた。
 子ども時代の夢(パイロットの免許をとる、犬を飼う)を一つも実現していないばかりか、もうすぐ40歳をむかえるというのに未だ結婚していない男の現状に少年は嘆き哀しみ男を非難する。
 その後、男は少年の言動に右往左往しながら、なぜ〈8歳〉の自分が会いにきたのかを考えるうち、自ら封印して知らぬ間にトラウマとなっていた出来事に思い当たる。男は少年に助言を与えながらその出来事を克服、すると意外な人物がふたりの前に現われて、ふたりの輝かしい未来を確約する。甘いといえばそれまでだけれど、まさに絵に描いたようなハッピーエンド。ハリウッドらしいというか、ディズニーらしいファンタジー映画である。

 現在の自分が過去の自分に会うという話はよくある。
 たとえば藤子・F・不二雄の異色短編に「自分会議」というのがあった。
 ある学生のところに青年(数年後の学生)と中年(十数年後の学生)がやってきて、もうすぐ学生に転がり込む遺産の処理についてそれぞれの意見を言い合う。ふたりともその処理に失敗して、学生に自分の二の舞だけはさせたくないというのだ。喧々囂々の討論しても結論はでない。もう一人小学生の自分の意見も訊いてみようと呼んできたのはいいけれど、またまた大喧嘩に。少年は未来の自分たちの情けない姿に絶望して、部屋の窓から飛び降りてしまう。とその瞬間、あとの3人も消えてしまうのだ。
 この設定をひっくり返すと「キッド」になる。

 「キッド」に興味があったのは個人的な理由である。
 二十代半ば、ちょうど仕事に行き詰まって落ち込んでいたころのことだ。人生に行き詰まった男が中学生の自分自身に会いに行く短編小説を書こうとしたことがあった。
 中学時代はそれまでの人生の中で一番輝いていた時期だった。勉強もそこそこできて、趣味やスポーツに積極的に取り組み、すべてにかなりいい成績を残せた。彼女と両思い(!!)になって放課後の語らいや交換日記が楽しみだった。そんな自分に少し元気をもらおうと訪ねるというわけ。ところが実際は当時の自分も悩み多き年頃で、逆に励ますはめになるというオチで、かつての自分を励ましながら、男自身も生きていく自信をとりもどすというストーリーだった。 だが、結局完成せずに終わった。
 ま、そういう物語を考えたのもまだ自分の人生を思いどおりにつき進んでいたからだろう。

 「キッド」で注目したのは、看板のコピーにあった〈今の私は、あの頃なりたかった大人だろうか?〉というナイフのような言葉だった。これにはぐさりと胸を突き刺さされたような思いがした。
 映画の主人公(ブルース・ウィリス)は39歳、僕は40歳。主人公は8歳のころになりたかった大人でないことを非難される。じゃあ今の自分は中学生(14歳)だった僕自身が夢に描いた大人になっているだろうか。
 映画界、映像業界で働きたいという夢は30代直前に挫折した。何とか家族3人の生活を維持していくために、業界から足を洗った。お金の問題があった、精神力の弱さもあった。それでも自分の好きな仕事のまわりでウロチョロしていたのだが、流れ流れて、今ではまったく関係ない業務についている。中学時代からはまったく想像もできない仕事である。
 すべて自分自身の判断、行動の結果であるから仕方ない。せめて映画の主人公みたいに仕事に成果や張り合いを持てればいいが、それもなく、いまだに天職は何かを頭の中だけで模索している状態。それなりに地位と収入がなきゃいけない40歳にしてこのテイタラク、14歳の僕が知ったらどう思うだろうか。

 そんなわけで、かなりマジに主人公の対応を見つめていた自分がいた。
 過去にさかのぼったふたりが病気がちな母親を見つめながら、その死について語り合うシーンは、どうしても7月に死んだ母のことがダブってしまい冷静に観られない。
 14歳のときに未来から中年になった自分がやってきて「おかあちゃんは8年後には病気で寝たきりになってしまうんだ。26年後には……」なんて言われたらどう反応しただろうか。そう考えたらスクリーンが涙でかすんだ(といってもあくまでも悲しいからで感動ではない)。

 あのころの14歳の僕へ

 あのころは楽しかった。至福の時だったな。世の中こんなにうまくいっていいのだろうかと不安を覚えたこともあった。
 でもその後は挫折ばっかりのような気がする。30歳前には人生を降りようとしたこともあったんだ。
 あの頃思い描いたような大人になっていないのつらいし、生き方に対しては今でもジタバタしている。
 でもね、これだけは言いたいんだけど、あのころに帰りたい、あのときああしていたら、とか考えていないよ。こういう人生だったから今のかみさんや娘がいるのだろうから。喧嘩ばかりしているけどね。後悔だけはしたくない。

  もうすぐ41歳になる君より




 9月は新作映画が観られなかった。
 すべて疲労のせいである。

 先週の木曜日(27日)、イベントのため夕方から出勤した。休みだったら終日部屋にいたのだが、どうせ外出するのなら映画でも観ようと、午前中から外出した。

 11時から地元シネコンで「MEG ザ・モンスター」。
 観たい映画はけっこうあった。しかし、巨大生物(怪獣)ものははずせない。この日で上映終了するし。

 映画は、前半の深海の描写が興味深い。かなりワクワクできた。メガドロンが深海から近海に移動してからは「ジョーズ」になってしまって新鮮味はない。
 最近のハリウッド映画に中国資本は欠かせない。この映画もそうで、当然中国人も主要人物になっているだけではなく、中国が舞台でヒロインも中国人だ(角度にもよるが若いテレサ・テンに見えてしかたなかった)。後で調べたらアメリカと中国の合作だという。
 
 合作だからだろうか、あるいは中国が舞台になっているからか、一つ得したことがある。
 得したというか、日頃の疑問が解消した。
 常々思っていたことがある。
 欧米人が日本語を話す光景は見慣れている。が、中国語や韓国語を話しているところを目にしたり、耳にしたりすることがない。まあ、海外旅行すれば別だろうが、日本だとまるで、なのだ。
 それが、冒頭でしゃべるのである、アメリカ人が中国語を。
 個人的にはこの映画一番の見所、聞き所だったりして。




2001/08/14

 「ローズガーデン」(桐野夏生/講談社)  

 桐野夏生の短編集第3弾ということで借りてきたのだが、読みはじめて驚いた。本書は「顔に降りかかる雨」「天使に見捨てられた夜」のヒロイン、女探偵・村野ミロの短編シリーズだったのだ。  
 原尞の沢崎シリーズも短編集がでているから、このミロにも短編があってもおかしくはない。  

 表題作の書き下ろし「ローズガーデン」のほか「漂う魂」「独りにしないで」「愛のトンネル」4編が収録されている。
 
 ミロの事務所兼自宅のあるマンションで少し前に自殺した女性の幽霊騒動が巻き起こる。真相追求を依頼され、調査を開始したミロがマンション内の人間関係に直面する「漂う魂」。長編2作にも登場し印象深かったミロの友人、ホモのトモさんと同居を始めた青年に嫉妬するミロの心の揺れが面白い。
 
 「独りにしないで」は中国人ホステスが本当に自分を愛してるかどうか調査してほしいという平凡な会社員からの依頼から始まる。一度は依頼を断ったものの、会社員が何者かに殺されたことから調査をせざるをえなくなるミロが、最後の電話で「実は…」のあと言葉をつぐんだ会社員の真意を探る。その過程において別件で調査していた知人の妻の浮気相手が判明するオマケがつく。
 
 駅の階段から落ちてきた男とともにホームに転落、電車に轢かれて死亡した女性の裏の顔がSMクラブの女王だった。娘を愛する父親の依頼で一人暮らしをしていた娘の部屋からSM嬢だった痕跡を消そうとしたミロだったが、先に何者かに先に侵入されてしまう。転落事故は本当に事故だったのか? ミロは女性の元恋人やSMクラブの客をあたっていき、意外な事実につかむことになる。「愛のトンネル」は「天使に見捨てられた夜」と同様実際の事件(事故)にインスパイヤされて書かれたとおぼしい。
 
 3作ともミステリの形態をとりながら〈謎〉そのものの解明よりも大都会に暮らす男女の孤独感、人の心のうつろい、その不確かさを如実に浮かび上がらせている。    

 よくわからないのは「ローズガーデン」である。海外赴任でミロと別居している夫・博夫の回想という形で高校時代の二人の出会いと結婚までのいきさつが描かれるのだが、(だいたいミロが既婚者だったことも忘れていた)義父・村善との異様な関係にとまどうばかり。「水の眠り 灰の夢」で活躍する若き日の村善のイメージではない。やっぱりと舌打ちしてしまうミロと博夫の出会いがしらのセックスもある。義父との淫らな関係はミロの嘘ともとれるが小説は何も答えをださないまま中途半端に終わってしまう。短編連作でミロと博夫(および義父)の関係を描くつもりなのだろうか?


2001/08/16

 「リセット」(北村薫/新潮社)  

 「スキップ」「ターン」に続く〈時と人〉シリーズ3部作の最終作。  
 「スキップ」では17歳の女子高生が25年後の未来に飛ばされ、42歳の主婦になってしまった自分にとまどいながら、前向きに生きる姿を、「ターン」では交通事故によって同じ1日を繰り返す世界に閉じ込められた若い女性の孤独感にさいなまれながらも決して希望を失わない姿を、得意の精緻で清らかな文体で描いていた。  
 シリーズ最終作ではどんな時と人の関わりを語ってくれるのか、興味はつきない。  

 戦中の、裕福な家庭に育った女学生・真澄の一人称で幼少時代の獅子座流星群を見たかすかな記憶から物語の〈第一部〉は始まる。  
 父親の勤めの関係で東京から関西へ移った真澄が父の会社の社長令嬢と知り合いになり、彼女の家に集まる友人・優子、従兄弟・修一との交流が当時の思い出の本や音楽とともに綴られる。太平洋戦争前の幸せな日々、戦争が勃発し日増しに苦しくなる生活、勤労動員の学徒として飛行機工場で送る青春の日々。感銘を受けた本「愛の一家」とお手製のフライ返しを交換しあい、小学生時代に出会ってから思いつづけていた修一と互いの気持ちを確認した直後、修一の働く工場が空襲の直撃を受けたところで、〈第一部〉は終了する。  
 戦前、戦時中の文化、風俗(啄木かるた、中原淳一の少女イラスト、江戸川乱歩のエログロ本)が活写されているので面白く読めるものの、物語がどうゆうものなのか、皆目わからない。  

 〈第二部〉は現在の、40代後半の男性(和彦)が語り手となる。入院中の和彦が子どもたちへ10代の頃の不可思議な体験を伝えようとカセットテープに録音する声という形をとっている。思い出の元になるのが小学生時代に書いた日記。舞台は埼玉。ここでは昭和30年代の少年たちの日常生活が興味深い。昭和34年生まれの僕は、当時の雰囲気をどうにか記憶しているのである。
 
 〈第二部〉になって、物語の方向性がよけいに見えなくなる。テーマの〈時と人〉がどのような関係になるのかはもちろん、〈第一部〉と〈第二部〉がどうつながるのかもわからない。それが解明されるのが〈第二部〉の中盤になってから。  
 小学生の和彦は本を無償で貸してくれるやさしいおばさんと知り合う。このおばさんが〈第一部〉の語り手、30代になった真澄なのである。真澄は和彦に何かを見ているようだが、和彦にはわからない。ここらへんで読者はなんとなくふたりの関係が想像できるようになる。
 
 中学生になった和彦が真澄の家でホットケーキをごちそうになった時のこと、真澄から渡されたフライ返しによって、突然修一の記憶が蘇った。和彦は修一の生まれ変わりだったのだ。十数年ぶりのふたりの再会。修一の気持ちは一直線だ。しかし年齢差からふたりが結ばれることはない、そう考えて真澄は和彦の前から姿を消してしまう……。  
 こういう展開になればもう作者の手の内にはまったようなもの。あとは夢中でページを繰るだけでいい。

 戦争で引き裂かれた若い男女の恋が奇跡の輪廻転生によって成就するというファンタジーを世代の違う男女を語り役に見事に描きだした。前作「ターン」以上に、ラストではさわやかな気持ちになって、少しばかり目頭が熱くなった。  

 北村薫は覆面作家としてデビューした当時から、女性と間違われるほどその(女性の)心理描写に定評があった。真澄の語り部分は慣れたものである。
 
 意外だったのは和彦の語り。意外というより待ち望んでいたというべきか。というのはこれまでほとんど女性を主人公にして物語を語っていた北村薫にある時期から男としての心情吐露がないことに不満を持っていたところがあるからだ。  
 たとえば「スキップ」。42歳の主婦になれば亭主がいる。当然夜の夫婦生活が問題になる。たぶん17歳の女子高生は処女だったはずで、夫に求められた時にどんな反応をとるか、そういう問題は彼女にとって避けられないはずなのだ。ところがそこがすっぽり抜けている。作者の書こうとするテーマはもちろんそんなことでないのは百も承知している。とはいえ、夫婦間の避けられない問題をまるで無視してしまう作風に、ある種の偽善を感じてしまったのも事実だ。同時にもっと男を感じさせてくれる作品を書いてくれないものかと思うようになった。
 
 本作では自分と同世代の和彦を設定し、思い出話には子ども時代の体験を投影させて思いのたけを語らせた。そこが新鮮だった。全く乖離した〈第一部〉と〈第二部〉の世界が重なり合い、絡み合いながら、やがてぴったりと結びついていく構成もいい。  
 30数年に一度見られる獅子座流星群や真澄が二度も見逃すことになる東京オリンピック、記憶を蘇らせるフライ返しやリリアン・ハーヴェイの「唯一度だけ」など、小道具の使い方も心憎いほどだ。




 NHKの土曜ドラマ「不惑のスクラム」。
 このドラマ、主演は高橋克典だが、毎回、中年ラグビーチームの面々、一人ひとりにスポットを当てて進行していく。
 先週土曜日(22日)はショーケンだった。チームの要、癌で余命いくばくもない初老の男を演じていて笑い泣きしてしまった。
 ショーケン、映画の話はなかなか聞こえてこないが、TVドラマでは、このところ印象的な演技を魅せてくれている。
 
 「どこにもない国」の吉田茂は、「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」でチャーチルを演じたゲイリー・オールドマンを意識したかのような、ショーケン的アプローチではないか。最初の登場のとき、頬の作りに笑ってしまったのだが、トータルのイメージはなかなか良かった。禿を表現するために頭頂部を剃ってしまうなんて誰もやりませんぜ。

 テレビ朝日の日曜ワイド「明日への誓い」はまだ途中までしか観ていないが、その演技にまるでライブで歌っているようだと思った。かつてライブを観ながら一人芝居を感じたときと逆のパターン。
 同じことが「不惑のスクラム」でも感じられる。あの腹のでっぱりもショーケンなりの役へのアプローチだと思えてしまうほど。
 
 ショーケンはエアギターの元祖だと思っているのだが、最近のライブではちゃんと本物を弾いていてすげえなと。ただ、声がどうしても昔ほど、いや、10年ほど前に比べても、でなくなっていて、少々つらかった。しかし、演技では逆にいい味になっている。
 早く主演映画撮ってほしい。

 ちなみに「不惑のスクラム」ではショーケンの妻役の夏木マリが素晴らしい。

     ◇

2003/10/22

 「萩原健一'85 ANDREE MARLRAU LIVE」(DVD)  

 ついにショーケンの傑作ライブがDVDでリリースされた。この時を何年待っていたか。  
 1985年のある土曜日の深夜だった。「オールナイトフジ」にショーケンが歌手としてゲスト出演していた。確か「ハロー・マイジェラシー」を歌ったと思うが、その最中に司会の片岡鶴太郎を裸にするというパフォーマンスを披露、ショーケンらしいやとTVの前でニヤニヤしていた。その後、よみうりランド・イーストでライブを行う告知がされた。  

 テンプターズ時代からショーケンのファンだった。解散後は役者として活動を始め、その最初の主演映画「約束」でこれまでの俳優にはない瑞々しい演技(演技らしくない演技の自然さ)が評判を呼んだ。
 僕にとってはNHKの「明智探偵事務所」が役者萩原健一を見た最初だ。その後「太陽にほえろ!」「傷だらけの天使」「前略おふくろ様」等々ずっと追いかけてきた。ある時期からレコードも出すには出していたがあくまでも役者が本業であり、僕自身役者・萩原健一のファンを自認していた。  
 大学時代、洋楽に造詣の深い友人からショーケンのライブテープを勧められた。
「ぜったいいいから聴いてみろよ」  
 柳ジョージ&レイニーウッドをバックバンドに起用した「熱狂雷舞」と新たに編成したドンジャンロックンロールバンドによる「ドンジャンライブ」だった。  
 見事にはまった。朝晩聴きまくった。ショーケンの自由自在な歌唱、バックバンドの並外れたテクニックの妙。大人の男女の愛、男のロマン、孤独を歌う詞もメロディーもこちらの琴線にビンビン触れてくる。ライブの雰囲気が音だけでも十分堪能できて、いつかコンサートに足を運びたいと思っていた。  

 TVのMCは「今から電話してください。予約開始しまーす」と案内している。とっさに電話に手が伸びた。しかしそこで逡巡してしまった。映画は別に一人でも鑑賞しても気にならない。コンサートの類はあまり行ったことがないので、一人ででかけることが心細かったのだ。結局申し込まなかった。  
 それからずいぶん経ってから、レンタルビデオ屋でその時の模様をおさめた「アンドレ・マルロー・ライブ」を見つけた。さっそく借りてきた。  
 地団駄踏んで悔しがった。なぜあの時行かなかったのか。こんな楽しいライブを生で観られなかった、その場に居合わせなかったくやしさで胸がいっぱいになった。知らなかったわけではないのだ。チャンスはあったのである。それがくやしかった。  
 もちろんビデオはダビングした。しかしデッキの調子が悪く、画面にノイズは走るし、音はモノラルになってしまった。レーザーディスクも出ていたがプレーヤーを持っていなかった。
 そんなライブビデオがやっとDVDになってリリースされた。

 1985年8月24日、よみうりランドEASTで〈What's? Last Live〉と銘打って行われたライブである。
 この日のために編成されたアンドレ・マルロー・バンドの面々は、
 guiters 井上堯之/guiters 速水清司/Keyboards ミッキー吉野/bassguiters 渡辺建/drums 樋口晶之/percussions 菅原裕紀/saxphones 鈴木明男/vocal ポーラ・デスモンド  
 の各氏。
 8人を従えて、というか8人の強力なサポートに安心して身をゆだねたショーケンのパフォーマンス。まるでジャムセッションのようなステージが繰り広げられる。井上堯之や速水清司のギターのアナログな響きが耳に心地よい。鈴木明男のサックスにしびれる。
 各人のセンスにまかせた勝手気ままな衣装(鈴木明男なんてそこらにいる大学生みたいなんだもの)。綿密なリハーサルに裏付けされた自由自在な演奏。

 ヴォーカルのショーケンはもちろんのこと、速水清司が、井上堯之が、渡辺建が、鈴木明男が、パーカッションの菅原裕紀やキーボードのミッキー吉野までも、携帯用の楽器を手にして動く、動く。
 「Be My Beby」は圧巻だ。何しろショーケンの先導によってみんながステージを輪になって駆け巡るのだ。カメラに向かって「こっち来いよ」と呼ぶショーケン。カメラも一緒についていけばよかったのに。楽しくてしようがないというメンバーの笑顔、雰囲気に心躍る。

 次々に変えられる歌詞はショーケンライブの醍醐味だ。大麻事件の直後なので、自虐的に自分をからかうショーケンに会場は拍手喝采。
 冒頭「シャ・ラ・ラ」の終盤に客席から投げられたマリファナ煙草(本物なのか?)2本を手に取って「誰だ、こんなもの吸うのは!?」 もう1本投げ込まれて呆れたショーケンが一声「警察に言うぞ!」
 「54日間、待ちぼうけ」の映像に、演出に起用された映画監督・高橋伴明の真髄を見た。ショーケンと速水清司のアップしか狙わない。こんなミュージックビデオを初めて見た。至福に包まれたショーケンの表情は何て書いていいかわからない。ラストの掛け合いも見事!

 とにかく奇跡的なライブである。アーティスト・萩原健一が確かにそこにいる。「約束」「青春の蹉跌」「股旅」と並ぶ高橋監督の傑作映画だと僕は思っている。  
 11月の13年ぶりのコンサート「Enter the Panther」への期待に胸が高まる。  

 【収録曲】  
シャ・ラ・ラ/鈴虫(九月朝、母を想い)/Be My Baby/Someday's Night(54日間、待ちぼうけ)/ハロー・マイジェラシー/テンダー・ナイト/フラフラ(OM SHANTI OM)/さよなら




 書きたいこと、書かなければいけないことはたくさんあるけれど、帰宅すると疲れていて何もしたくない。
 ブログを更新する前に、年末に発売される「まぐまPB」最新号用のインタビュー記事をまとめなければならない。高野浩幸さんにこれまでの俳優生活についてまるまる3時間話を伺ったのだ。
 デビューから現在までかなり充実した内容になったと思っている。
 文字起こし(一緒に働いているAさんにバイトしてもらった)も終わり、現在は推敲中。これが全然はかどっていない。2日間の休みで挽回しなければ!

          * * *

2001/08/01

 「影の告白」(土屋隆夫/双葉文庫)  

 双葉文庫の〈日本推理作家協会賞受賞作全集〉シリーズに今年2月に読んだ「推理小説作法」(東京創元文庫)の著者の名前を見つけ、さっそく借りてくる。  
 探偵作家クラブ賞が日本推理作家協会賞に名称変更になって最初の受賞作(第16回)。  

 地方からの修学旅行生で混雑するデパートのエレベーター内で私立高校の校長が毒殺された。被害者が所持していた二人の女性が写っている写真、エレベーターに落ちていた一枚の名刺、死ぬ間際に被害者がつぶやいた「あの女が…」の言葉を手がかりに捜査線上に浮かび上がった若手の放送作家のアリバイ崩しに千草検事と野本刑事が奔走する。  

 昭和30年代を舞台にしたリアリズムあふれるストーリーは松本清張の一連の社会派推理モノを彷彿させた。捜査過程で検事がこれだけ事件に介入するのかという疑問はあるけれど、主人公(本作は千草検事シリーズの第1作)なのだからしかたない。キムタク主演の「HIRO」、いや和久峻三の〈赤かぶ検事シリーズ〉の先駆となる作品か。  
 作者の性格からくるのだろうか、緻密な設計図をもとにして書かれたミステリという感じがする。  
 何度も暗礁に乗り上げながらも、真犯人検挙のため外堀を埋めてゆく検事、刑事グループの捜査の実態、善良で非のうちどころのない温厚な紳士と思われた被害者の過去に隠蔽された完全犯罪が明らかになっていく意外性。  
 作者が仕掛けたトリックは一番肝心な謎(日にちが前後した写真を1本のフィルムに撮れるかどうか)以外は、主人公たちよりも早くわかり優越感に浸った。フィルムのトリックも種明かしされれば「なーんだ」てなことになる。
 何より各章の冒頭に展開される幻想的な少女の独白が、徐々に物語の核心に迫っていき、ラストで真犯人と結びつく構成が作者の最大のトリックなのだろう。巧い。


2001/08/06

 「背いて故郷」(志水辰夫/双葉文庫)  

 第39回日本推理作家協会賞受賞作。    

 ハードボイルド小説について、ハメットやチャンドラーに疎いので断定的なことはいえないけれど、日本のいくつかの作品を読んで感じたことは、「どうして主人公はこんなにキザなの!」「どうしてそんなにカッコつけるの!」というものだった。  
 原尞の直木賞受賞作「私が殺した少女」はまったく先が読めない傑作ミステリーだ。ツイストに次ぐツイストで夢中でページを繰くり、読了した時の興奮といったらなかった。ただ主人公である探偵の台詞や行動が少々鼻についた。それがハードボイルドの魅力と言われればそれまでだけれど、慣れない人にとってある種の〈臭さ〉になってしまうのは否めない。何人かの友人に文庫本(図書館から借りた単行本で一度読み、文庫化されて購入して再度読み直した)を薦めてみたところ、主人公の描写部分で辟易してしまうと言われたものだ。  

 「背いて故郷」は冒険・ハードボイルド小説の傑作として知られている。  
 対ソスパイ船・第六協洋丸の雇われ船長に嫌気して、海外に飛んだ〈私〉が、辞めるにあたってその職を譲った友人・成瀬が何者かに殺された。年末年始休暇に久しぶりに日本に戻ってきた〈私〉は個人的に真相を調査するため、当時の仲間を尋ね歩くのだが、成瀬が密かに撮影した写真を狙って敵が暗躍、仲間も一人殺された。魔の手は〈私〉にも迫ってくる。大晦日の夜、自分の命を賭して得体の知れない敵に立ち向かう〈私〉。果たして敵は何者なのか?  

 本作の主人公にはそれほどの〈臭さ〉は感じなかった。だいたいこの〈私〉がけっこうドジ。というか人がいいというか。他人を装って船に乗り込んでいた昔の仲間と会う約束をするのだが、何度も約束を反故にされる。助けを借りた別の仲間を殺される。敵につかまり殺されそうになるとあっさり仲間を売ったりと、ヒーロー然としていない。ごくごく普通の男なのである。そこがいい。  
 今は亡き友人の妻・優子と友人の妹・早紀子との三角関係も興味深い。  

 志水辰夫の作品は題名が魅力的だなあ、といつも思っていた。「あした蜻蛉の旅」「裂けて海峡」等、思わず手にとりたくなる。題名の良さはそのまま〈志水節〉と呼ばれる文章の巧さにつながる。その巧さについては文庫解説で吉野仁と言う人が触れている。「(略)こうしためりはりのある言葉の連なりがすっと読者の心に届くのだ」はまったくそのとおりで、いついかなる場所で読み始めても小説世界に没頭することができるのである。  
 クライマックス、友人の墓のある山形の雪山で敵と一騎打ちするくだりは圧巻。〈私〉の感情の昂ぶりと闇と雪に彩られた情景描写が見事にシンクロし、息もつかせないアクションが展開。敵4人の内、二人を倒した後、逃げる二人の片割れを追いながら発せられる意外な人物な名前!実はその人物が犯人であることは第一の殺人事件の際に予想をつけていたので、それほどの驚きはなかった。が、もう一人、敵の中心人物が判明するに及んで思わず声をあげてしまった。  

     *

 「背いて故郷」は、その題名に個人的に思うところがあって読んでみたくてたまらない作品だった。にもかかわらずて今まで手にとらなかったのはこの本にまつわる苦い思い出があるためだ。
 大学2年の時に母が病気で倒れてからというもの、家の事情(経済的な問題、電気店を営む父と高校生の弟の生活)で長男という立場から大学を辞めるか郷里に戻るかという問題に直面した。東京から電車でわずか2時間の距離なのだから、今から考えるとどうということでもないのだが、当時ある夢を抱いて上京した僕は退学することもアパートを引き払うこともできず、卒業してからもUターンすることはなかった。父は親戚からいろいろと言われていたらしい。それでも僕のわがままを許してくれた。それがずっと自分の中でわだかまりになっていた。3年と4年の春には鬱病に苦しんだ。何とか病気も治り、就職浪人の末希望する職種の会社に就職できた。  
 26歳の春、それまでの1年間、プライベートと仕事の悩みで悶々としてきた僕はある夜「11PM」を見ていた。番組には当時内藤陳がお薦め本を紹介するコーナーがあった。その日内藤陳がこの単行本を持ってこちらにむかって「君に送る本はコレだ」と自信満々に言い放ち、ニヤリと笑ったのだった。この時、内藤陳が僕に対してある啓示を与えているんだ、と全身に電流が流れた感じがした。
 翌朝から、見る(読む)もの、聞くものすべて自分に発信されているとばかり、すごい勇気がわいてきた僕は大胆な言動、行動をとるようになり、ある日、会社から郷里へ強制送還されたのだった。つまり躁病の発症。郷里に戻ってからも妄想は次第に膨らみ、まわりの人たちに迷惑ばかりかけていた。ここらへんの顛末は「焦燥と妄想と狂騒の75日間」というタイトルで小説風にまとめてみようと考えているのだが、当時を思い出すとちょっと怖くなるのでまだ手を出せないでいる。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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