1999/10/04

 「千里眼」(松岡圭祐/小学館)

 「催眠」の続編とうたっているにもかかわらず、登場人物に関連性はない。ヒロインは前作の主人公・嵯峨と同じく心理カウンセラーなのだが、勤めるセンターも別設定なのである。
 どこが続編なのかといえば、物語の後半に映画「催眠」の出来事を1エピソードとして挿入し、映画の中でオカルト的に扱われた催眠による一連の事件をを科学的に証明してみせるくだりである。
 自信作を改悪されたことへの作者のアンチテーゼというか映画化作品にオトシマエをつけたと考えるべきか。
 冒頭から総理府にむけて発射されるミサイルを停止させようと米軍、自衛隊、カウンセラーたちが入り乱れての騒動が描かれる。
 刻一刻と発射の時間が迫る。敵に入力されたパスワードをヒロインが心理学を駆使して解読していく。訂正は2度まで。3度間違えるとミサイルは否応無しに発射されてしまうのだ!ここらへんのスリル&サスペンスはまさしく映画のもので作者は映画化を前提にしてこの物語を構築したと思える。 小道具一つひとつが映画的なのである。作者の映画「催眠」に対する不信感を感じずにはいられない。
「どうせ映画にするなら、このストーリーをを映像化してごらん」
 そんなメッセージが聞こえてくるようだ。
 元自衛隊のエリートパイロットで現在は心理カウンセラーという少々無理のあるヒロインの設定にもクライマックスの興奮に許してしまった。このクライマックスのF15によるドックファイトシーンをぜひとも「映像」で観てみたい。
 全体の設定そのものに無理があることは作者自身わかっていることだろう。一つひとつ指摘しても意味がない。勢いで読ませるある種荒唐無稽な小説なのだ。まさしく極上のエンタテインメントではある。

 本格的に映画化するのだったら、ミステリとアクションが融合した面白い作品になると思う。テイストはジェームス・キャメロン監督の「トゥルー・ライズ」みたいな。

     ◇

1999/10/19
          
 「忠臣蔵コレクション4 列伝篇 上下」(縄田一男編/河出文庫)

 この河出文庫版の「忠臣蔵コレクション」は本伝篇と異伝篇の2冊で完結と思っていたら、列伝篇上下があってあわてて借りてきた。
 時代小説の大御所たちの短編が網羅されていてなかなか読み応えがあった。
「列伝篇 上」では池波正太郎の「火消しの殿」、直木三十五の「寺坂吉右衛門の逃亡」、多岐川恭の「夜逃げ家老」、井上ひさしの「毛利小平太」が面白かった。いわゆるアンチ赤穂義士という味わいがあるからだろう。
 「火消し殿」は浅野家に小姓としてとりたてられた美貌の青年からみた浅野家断絶が描かれている。何より内匠頭の男色、その執着ぶりを上野介にとがめられたことが刃傷の原因だったというのが興味深い。
 足軽の悲哀がにじみでていたのが「寺坂吉右衛門の逃亡」。討入り寸前まで他の浪人たちと差別された寺坂が怒って、討入り最中に逃亡、しかし死人に口なしで「討入り成功の報告」をするという口実で関係者を訪ね歩き寺坂自身が後世に名を残すという趣向。伝説を逆手にとった解釈でなるほどある部分納得してしまった。
 討入り直前に脱盟した毛利小平太がなぜ脱盟したのか、その理由を描いたのが「毛利小平太」だ。吉良側に正体がばれてしまった毛利を逆に赤穂側が利用する。動向を見守られている毛利自身は討ち入りに参加できないということで、それを聞かされ愕然となった毛利は逃亡を図るのだった。これも哀しい話である。
「列伝篇 下」では、澤田ふじ子「しじみ河岸の女」、菊地寛「吉良上野の立場」、長谷川伸「小林平八郎」、湊邦三「元禄武士道」が印象に残る。
 若い浪士と娼枝に身を落とした幼なじみの心中に大石内蔵助に非情が関係していることを鮮やかに描く「しじみ河岸の女」、普通の感覚で読めば当たり前のことで、なぜこれが世間に受け入れられないのだろうかと思える「吉良上野の立場」、吉良側の人間模様の「小林平八郎」、まさに正統派忠臣蔵のエピソードであり、主人公の浪人と弟子の関係が心暖まる「元禄武士道」。
 忠臣蔵を取材した短編というのはどのくらいあるものだろうか。全く違ったテーマで書かれたものでも連続して読むと、ちょっとした連作集の趣きがあるのが不思議だ。

     ◇

1999/10/25

 「のり平のパーッといきましょう」(三木のり平/聞き書き 小田豊二/小学館)

 ページから三木のり平の肉声が聞こえてくるようだった。
 以前に読んだ「渥美清 わがフーテン人生」、あるいはそれを元に聞き書きした著者によって新たに編まれた「渥美清 役者もつらいよ」の語りの部分はいかにも作られた言葉って感じがしたが、本書は違う。たぶんにフィクションも含まれているのだろうが、三木のり平のシャイな、神経質そうでいて図太い性格、芝居に対して一途な思いが行間から伝わってくるのである。

 三木のり平の芸についてあれこれ言う資格は僕にはない。三木のり平その人については小さい頃から桃屋のCMで親しんできた程度で、伝説の舞台「雲の上団五郎一座」も、映画「社長」、「駅前」シリーズも観たことがない。
 初めてその芸に触れたのが市川監督の「金田一」シリーズだった。ほんのチョイ役で画面に登場するだけにもかかわらず、抜群の面白さ、印象度でそれから僕なりに注目していた。
 口跡とかしぐさにその芸を感じさせる喜劇人がどんどん亡くなっていく。フランキー堺、渥美清、そして三木のり平……。時代の流れだから仕方ないと言えばそれまでが。

 聞き書き(語り)の文章に話芸の一端が垣間見られ、聞き惚れてしまう。
 自身の出演した映画をうんこだと言い、全く否定しているけれど、その映画に芸が記録され、最高と自負している舞台が後世に残らない現状が皮肉である。
 単なる編年体はイヤだよと言う三木のり平の要望通り、最終章は著者がこの本を作成するために三木宅を訪ね、帰る、最初の出会いの顛末が綴られている。
 ラスト、夜雪の中を帰る著者に向かっての三木の独白がまるで芝居のフィナーレみたいで余韻を残す。
 後世に残る貴重な芸人の記録である。




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 今日で58歳になった。
 50の声を聞いたときもう少し40代でいたいとあせった。40代でやらなければならないことがけっこうあったので。結局50代に持ち越されてしまった。
 5年前、いろいろあって鬱になり土日引きこもり状態だったとき、10月15日を迎えて、嫌でイヤでたまらなかった。もう歳なんてとりたくない! いや、別に若くありたいなんていう考えではない。歳にみあった実績を残していれば誕生日に落ち着いていられるのに。それこそ誕生日を皆で祝ってもらいたいと願うだろう。そうでないからあせりまくるわけだ。

 神保町のブックカフェで働き出して、FBのアカウントを取得した。mixiに嫌気してからこの手のSNSには近づかないようにしていたのだが、イベント等の告知、宣伝で店のFBを担当するからには、個人のアカウントも必要とのことだった。
 取得すると友人、知人から友だちリクエストの申請が来るようになった。知らない人からもけっこうある。店の宣伝と割り切っているので、すべて承認している。
 実際、個人のページは店の告知をシェアするか、このブログのリンクしかやっていない。あくまでも自分のホームグラウンドは不特定多数(多数かどうかは不明だが)相手の「もうひとつの夕景工房」であり、ここが自分のメディアだと考えている。

 FBのアカウントを取得してから、いくつか自分のルールというものができた。
 友だち申請はすべて承認することはすでに書いた。そのほかは以下のとおり。

 ・店のイベント告知をシェアするときは、何かひとこと添える。
 ・「いいね」は原則こちらが何か書き込みするときのみ。
 ・メッセージをもらったら、変なものでない限り、必ず返信する。
 ・お誕生日メッセージは、それなりのつきあいのある方を対象に個人的に電話やメールで行う。

 誕生日メッセージ、いただけるのはうれしいのだが、本音は冒頭に書いたとおり。
 58歳だよ! ったく。




  
1999/09/07

 「朝霧」(北村薫/東京創元社)

 文学少女の〈わたし〉と落語家・円紫コンビが日常のさりげない謎を解く短編連作集のシリーズも(長編も含め)5冊めになった。
 作者のデビュー作でもあった1作目「空飛ぶ馬」の衝撃は忘れられない。ただ回を重ねるにつれ、ヒロイン〈わたし〉のキャラクターがどうも鼻につく存在になってきている。
 本が好きで日本文学、古典に造詣が深く、聡明でおしとやか、性格もよく、おまけに落語が好き。今時、こんな若い女性がいるのだろうかという疑問が1つ。
 〈わたし〉が作者の趣味を投影し、理想化した女性だというのはわかるが、あまりにも天使のように描かれていることが回を追うごとに明確化していることが鼻持ちならない。
 とはいえ、作品そのものは面白い。
 表題作の「朝霧」はパズルの解明に四十七士の墓石をうまくからませ、明治時代の若い男女のほのかな恋愛をさりげなく描いた佳品である。トリック部分は本格派の趣きすらあり、それを日常の中にうまくとけこます技が北村薫らしさといえるのかもしれない。
 〈わたし〉の恋愛を感じさせるラストの余韻がいい。

     ◇

1999/09/09

 「墓地を見おろす家」(小池真理子/角川ホラー文庫)

 友人からいらなくなった文庫本をもらって、絶対に読まないと思えるものはすでに処分し、後で読もうととっておいたものの1冊。角川ホラー文庫なのでけっこう期待したのだが……。
 主役の夫婦がバカなので始終イライラしていた。
 目の前を墓地、左右を寺と焼き場に囲まれた新築マンションに越してきた一人娘をもつ夫婦が、マンションに巣食う亡霊に襲われていく恐怖を描いているのだが、あんたら襲われても仕方ないわと、納得せざるシーンが多すぎる。
 エレベーターしか通じない地下室をみても何とも思わない。これだけで欠陥マンションだと見抜けないのか。僕だったら、まずなぜ地下に通じる階段がないのか、業者に問い合わせますね。  
 異常が見られるエレベーターにその後何度も利用する。いくら8階のフロアにすんでいるといっても、すでに怖い思いをしているわけだから、普通の感覚なら使用しないのではないか? あるいはまた寝ているとはいえ子どもを部屋に一人っきりにさせる行為も信じられない。
 確かに怖いシーンはある。夢中でページを繰ったことも否定しない。しかし、設定がすべて作者が用意している結末のためのものだから、共感できないのだ。
 だいたい墓地の前に建った、または地下が墓地につながっているといって、なぜマンションの住民が亡霊に襲われなければならないのか。あまりに後味が悪すぎる。

     ◇

1999/09/20

 「催眠」(松岡圭祐/小学館)

 わかっていたことではあるが、映画とは全く違う話であった。きわめてまっとうなミステリであり、事件の解明に心理学、カウンセリング、催眠療法等普段なじみのない小道具が使用されることで、興味深い物語になり最後までダレることなく読ませるものになった。
 ただ、あくまでも水準作といった程度。見せ場として劇的な展開があるわけではなく、この話自体を映画化してもさほど面白いものになるとは思えない。映画化にあたって内容を変更した製作者たちの考えはわかる。(が、なぜこの内容をホラーにするのか理解できない。同時期製作に「39 刑法三十九条」という同ジャンルの映画あったからか、「リング」以降ホラーブームが起こったからか。)
 
 主人公の臨床心理士・嵯峨と多重人格者・入江由香との関係を縦糸に同僚の女性臨床心理士と彼女のクライエント、その家族とのカウンセリングをめぐる対立、上司である部長の別れた妻(脳外科医)が担当した脳手術にまつわる事件を横糸に物語は進む。
 事件そのものより、嵯峨をとおして語られるジャンケンに必ず勝つ方法、コインを持つ拳を瞬時にわかる方法など心理学を応用した手品の種あかしが面白かった。

 今月発売の「噂の真相」には作者・松岡圭祐の経歴についてのいい加減さを追求する暴露記事が掲載されている。その中で松岡が映画の内容に異議をとなえたことに対して映画会社側が松岡の小説に価値があるのでなく、落合監督のシナリオだから映画化するのだ、と言ったとか。
 この記事を書いた記者は「催眠」の小説を読んだことも映画も観ていない人だろう。

 本当に日本の精神医学では多重人格は認められていないのだろうか?

     ◇

1999/09/21

 「蟲」(坂東眞砂子/角川ホラー文庫)

 友人からもらった文庫本の1冊。コピーにある湿った恐怖とは何だろうか。タイトルのおどろおどろしさ、作者が坂東眞砂子ということで大いに期待した。
 読み進むうちに、これは夫婦がむかえざるをえない永遠の問題(OLから専業主婦になった女性が世間から感じる疎外感、あるいは妊娠に伴う情緒不安定、夫への不倫疑惑、それが高まってのノイローゼ)を描いた物語ではないかと思った。
 常世蟲という京都に伝わる興味深い伝説と意志の疎通がうまくいかなくなった、都会で暮らす若い夫婦の仲が崩壊していく様をうまく結びつけて、土着的なホラーで味付けしたアンチ恋愛小説ではないか、と。
 エピローグでそういうオチがつくのであるが、何やら本当に世界の破滅をにおわすラストで、読後感はいいとはいえない。
「死国」もそうだったが、方言を会話の中にうまく取り入れている。この方言が作品世界にリアリティを与えている。

     ◇

1999/09/25

 「ファミリー」(森村誠一/角川ホラー文庫)

 友人からもらった本。
 この夏、TBSの月曜スペシャルドラマでドラマ化され、最後の部分だけ観ていたので、ラストのドンデン返しはわかっていた。が、小説ではその後また不吉な展開を予想させる終り方をしている。ホラー小説とは読後感を悪くさせなければいけない法則みたいなものがあるのだろうか。
 森村誠一の本は久しぶりだ。ちょっと肩の力を抜いたような、悪く言えば適当に書いたとも思える。登場人物たちを(ヒロインでさえ)突き放した感じで描くので、なかなか感情移入できないのである。
 ラストの落ちが(設定も)あまりにも現実離れしているのもいただけない。




1999/09/02

 「論戦」(櫻井よしこ/ダイヤモンド社)

 櫻井よしこといえば、日本テレビの夜のニュース番組「今日の出来事」のキャスターというイメージが強い。
 大学時代から社会人になったある時期まで、夜はこの番組を視聴する習慣がついていて、ちょうど櫻井よしこがキャスターを担当したころのこともよく憶えている。
 馬場某というもう一人同年輩の女性と一週間を担当、主婦の観点からニュースを伝える云々と、華々しくデビューしたのだが、いかにも素人という感じで評判はさんざん。結局馬場某が降板し、櫻井一人でキャスターをつとめることになり、いつのまにか夜のニュース番組の1つの顔になったのだった。

 人気女性キャスターというくらいの認識しかなかったのだが今年になって『「自虐史観」の病理』等の本を読む機会があって見方が変わった。
 従軍慰安婦を示す証拠はなかったと主張する櫻井よしこの講演が、とある団体の反対にあって中止になったとか、何かと話題にのぼることが多く、活字の世界でどんな主張をしているのか興味がわいたのだ。

 この「論戦」は雑誌に連載しているコラムをまとめたものだが、90年代の一番激動した頃(95、6年)に書かれたもので、HIV訴訟、オウム問題、阪神大震災などが取り上げられている。当たり前のことが当然のごとく書かれていて、面白味はなかったが特に反発もなく読めた。
 HIV訴訟についてはしつこいくらいに言及していて勉強になった。厚生省の体質は「天使の囀り」でも書かれてあったが、ほとほとイヤになった。

     ◇

1999/09/04

 『黒澤明 「一生一作」全三十作品』(都築政昭/講談社)

 郷里の家に子ども向けの全十巻の世界偉人伝なる全集があった。
 10巻めが〈日本が誇る偉人たち〉。定番の野口英世のほか何名かがとりあげられていて、その中に黒澤明もいた。映画好きということもあって、小学生の頃、この〈黒澤明〉のところだけ何回も読んだ憶えがある。

 同じ頃、日本テレビの、確か木曜スペシャルだったろうか「黒澤明の映画特集」というのがあって、黒澤の代表作が紹介された。その中で特に印象的だったのが「天国と地獄」の特急こだまのシーンだった。ストーリーについて何も知りはしないのに、そのシーンだけでやたら興奮した。映像的興奮とはこういうことか。活字だけの知識だった黒澤の偉大さが初めて体験できた瞬間だった。

 高校生になって黒澤映画のことをもっと知りたいと思ったが名画座なんて近くにないし、今みたいにビデオがあるわけでもない。モノクロの作品はTVでもなかなか放映しなかった。
 そういう状況で出版されたのが都築政昭によって書かれた「黒澤明」上下だった。これは黒澤初心者にとってまことに格好な参考書であり、高校生にしてはけっこう高い買い物だったが当時むさぼるように読んだものだ。
 特に下の「その作品研究」は処女作「姿三四郎」から当時としての最新作「デルス・ウザーラ」までストーリー紹介を含むきめ細やかな言及がされていて、早く本編を鑑賞したくてたまらない思いだった。
 あれから20年あまり。映画が撮れない不遇な状態から蘇った黒澤は新作を発表し続け、亡くなった。幻の映画たちはビデオになり、好きなだけ観られるようになった。

 この本は名著「黒澤明」の続編、黒澤映画研究の完結編として手にとった。
 ビデオはいつでも観られるという安易な気持ちが先にたってすべてを観終わっていない。

     ◇

1999/09/11

 「鯛は頭から腐る」(佐高信/光文社)

 やはり佐高信の文章は痛快だ。日本の社会に蔓延する無知、無能、無責任の野郎たちを切りまくる。切れ味抜群。ただ切ればいいというのも考えものだ。ちゃんとした取材に基づいての発言ならいいだが、他人の著作、風聞、伝聞をそのまま受け売りするのはどうか。
 「自由主義史観」論者を攻撃する際に元ナチ党員だった人の文章を引用する。本書209ページにこうある。
     ▽
 ある中国人が日本人のために一日中働き、お金の代わりに米をもらった。疲れきって家族とともに食卓に着くと、テーブルには妻が今さっき置いたばかりの鉢がのっており、おかゆが少し入っていた。これが一家六人の夕食だった。そこへ通りかかった日本兵が面白がってその鉢に放尿し、笑いながら立ち去った
     △
 それが事実なのかどうか調べたのだろうか。いかにもやりこめた決定的証拠みたいな扱いだが逆に墓穴をほる要因になりかねない。

 ゲリラを容認する言葉も唖然とした。人殺し集団ではないか。
 オウム真理教に破防法を摘要させなかったグループの一人が佐高信であることをこの本で初めて知った。
 オウムを執拗に追った江川紹子でさえ「反対」の立場を貫いていたのだから破防法がどんな悪法であるのか、わからないでもないが、その後のオウムの活動を見て、佐高信がどう感じているがぜひ知りたい。
 破防法が摘要されてもその対象はオウムだけで、他の団体の迷惑にならないのではないかというのは素人の考えか。傍受法の方がよっぽど怖いと思うのだが。

     ◇

1999/09/14

 「読むJ-POP 1945-1999 私的全史」(田家秀樹/徳間書店)

 音楽評論家、ノンフィクション作家である著者が戦後の日本の音楽シーンを個人史とからめ丹念に追いかけて綴った邦楽年代記の力作。非常に読み応えがある。
 特に第1章「戦争が終わって、彼らは歌った」から第10章「シンガー・ソングライター革命」まではむちゃくちゃ興味深い。これはあくまでも個人的な問題で、僕にとって80年代以降の音楽はほとんど関心がないからだろう。

 それにしてもJ-POPという名称は便利な言葉だ。ジャパニーズ・ポップス。これで演歌を除く歌謡曲、フォーク、ロックを一括して総称できる。この本でもJ-POPという名称の発祥について言及しているが、僕の体験から言うと、FM東京が後発のFM局に人気に対抗して、局名をFM-TOKYOに変更して日本のポップスを集中して取り上げた番組作りをした頃に使い始めた名称じゃないかと思う。

 戦後の服部良一~中村八大~宮川泰、いずみたくのポップスの流れというのをあらためて聴き直したい。彼らのすごいところは新しいものに対しての貪欲な姿勢だ。新しさについてその良さを率直に認めるところなんて感心してしまう。
 あるいはまた著者の音楽に対する姿勢も見習いたい。団塊世代という年齢を考えれば、まあ尾崎豊への注目はわからなくはないが(僕の場合は反発だったが)、90年代のビジュアル系ロックグループのライブを追いかける日々というのは驚きである。




1999/08/15

 「死国」(坂東眞砂子/角川ホラー文庫)

 やっと文庫本を古書店で見つけたので読んでみた。
 映画「死国」の不満は何と言っても主人公のラストにおける突然の変心ぶりだ。
 十数年ぶりに故郷に戻ってきたヒロインと恋愛感情が芽生えたにもかかわらず、最後に死んだサヨリに惹かれてしまうところでがっくりきてしまった。小説ではそうなるまでの心理描写が克明に描かれているのだろうと期待していたのだが……。
 確かに理由は書かれてあった。でもそれだけだった。
 伝奇小説の面白さも感じられなかった(方言のリアリティはあった)。
 一番の怖さは人間の記憶のあやふやさということか。

     ◇

1999/08/18

 「黒い家」(貴志祐介/角川書店)

 噂には聞いていたが、これほどまで圧倒的に怖い小説だとは思わなかった。とにかく怖く、面白い。
 傑作TVシリーズ「怪奇大作戦」のテーマは真の怪奇(恐怖)は人間の内なるものなのだ、というものだったが、この小説はまさしく同じテーマを現代的に具現化したものだ。

 保険会社に勤務し、保険査定を担当している主人公が「自殺しても保険金がでるのか」という奇妙な電話を受けたことから事件に巻き込まれる。
 何気ない日常生活に潜む恐怖を保険金をめぐる詐欺事件の実際、心理学、昆虫学の知識を駆使して描く。
 最初に背筋を寒くさせたのは、「黒い家」の住人夫婦が小学生時代に書いた「夢」に対する作文を心理学の教授が性格判断するくだり。「この人には心がない」

 身の凍るようなクライマックスを経て、とりあえずの安穏、そして新たな恐怖の出現を予感させるラストまで、伏線のはり方、比喩としての昆虫の生態描写等々、その構成力、筆力はプロデビュー2作目の作家とは思えない。
 途中の殺人者に無残にも殺されてしまう犯罪心理学者・金石の理論に大きくうなずいてしまった。

     ◇

1999/08/21

 「天使の囀り」(貴志祐介/角川書店)

 怖いというより、全編虫酸が走るような気持ち悪さだった。とはいえストーリーは断然面白い。

 冒頭のアマゾンから送られるヒロインの恋人からのEメールの記録。帰国した恋人の性格変貌そして突然の自殺。恋人が参加したアマゾン探検隊、その隊員たちの奇怪な連続自殺。恋人の自殺の謎を追うヒロインはある組織の恐ろしい陰謀、その凄惨な結末を知って愕然とする……。

 クライマックスであるセミナーハウスのバスルームのグロテスクなシーン!これは90年代の「マタンゴ」じゃないか。
 ミステリ的要素もふんだんに盛り込まれ、伏線のはり方も申し分ない。確かに提示された謎の解明方法、手順があまりにも安易すぎる気もするが、まあいいだろう。
 ラストはホスピス医であるヒロインの若くして死を迎えざるをえない患者へのやさしさがにじみでていて胸が熱くなった。
 読了してから、伏線部分をもう一度確認したくなり、何度もページを繰った。

 人それぞれがかかえるトラウマとアマゾンに伝わる風土病をうまく結びつけ、自己啓発セミナーの奇怪な実態で味付けする作者のストーリーテリングの腕は並々ならないものを感じさせる。完全に貴志ワールドにはまってしまった。
 「地球〈ガイア〉の子どもたち」なる自己啓発セミナーの存在が不気味だ。かつてその手のセミナーに参加した者だったら、あの時の一時的な性格改善がこの小説に描かれているようなカラクリみたいなものに起因するのかと、フィクションだとわかっていても肝を冷やすだろう。

 それにしても線虫による人体への寄生作用、影響はどこまでが本当のことなのだろうか。

     ◇

1999/08/30

 「バースディ」(鈴木光司/角川書店)

 「ループ」で完結したはずの「リング」「らせん」の物語。その最終作として新聞に掲載されたこの本の広告を見た時、いったいどんな展開になるのだろうかと驚いたものだ。聞けば前3部作のインサイドストーリーだという。うまい商売だと思う。
 「らせん」で貞子の犠牲になる女子大生・舞の出産シーンを描いた短編「空に浮かぶ棺」、かつて貞子と恋仲にあった音楽ディレクターの回想で若き日の貞子を描く中編「レモン・ハート」、「ループ」のアフターストーリー、本当の意味での完結編「ハッピー・バースディ」で構成されている。

 この3編も「リング」「らせん」「ループ」の3部作同様、最初から連作という考えはなかったのではないか。
 編集部の要請によりたまたま「らせん」のインサイドストーリーを書いた。1冊にまとめるにあたって、収録する作品を検討すると、どうせなら連作にしたらいいのではないか という案がでた……。
 最初の短編以外は書き下ろしというのがそう考える所以である。それにしても鈴木光司のまとめあげる技術(というか才能なんだろうな、やっぱり)には驚嘆する。

 3部作と同じ構成をとり、前作を踏襲しながら、物語を展開させ、ラストはちゃんと生への希望を謳い上げながらある種ハッピーエンドに仕上げるなんて職人技と言えるかもしれない。




1999/08/01

 「世紀末、どくぜつテレビ」(麻生千晶/新潮社)

 週刊新潮連載の「たかが、されどテレビ」を1冊にまとめたもの。本当は連載時のままのタイトルを使用したかったにもかかわらず、先に永六輔が似たようなタイトルのテレビ時評の本を上梓してしまったので、このタイトルになったのだろうか? 永さんじゃ文句言えないよなあ(って、勝手な憶測だが)。
 連載中は立ち読みでそういう連載があるというのを知っていたが、僕はてっきり著者の麻生千晶はけっこう年配の男性の方じゃないかと想像していた(文章を読めばある程度わかるものだが、真面目に読んでいなかったので)。
 著者はまったく意識していないのだろうが、エリート意識が垣間見られるのがちょっと気になった。東大出身、旦那さんは(たぶん)一流企業の偉いさん、息子は都内の進学校として有名な高校。家庭だとか、親戚、つきあっている方々を語る時にその傾向が見られる。意識せず、それが当然のように書くから余計始末に悪い(まあ、こちらの勝手なヒガミなんですがね)。
 テレビに関する批評はしごくまっとう。大変面白く読めた。

     ◇

1999/08/07

 「江戸はネットワーク」(田中優子/平凡社)

 著者の田中優子氏は法政大学の教授(僕が在学中はたぶんいなかった)で、現在の巷間よく言われるところの江戸ブームを作りだした第一人者(の一人)と認識している。
 忠臣蔵への興味に始まって、吉宗時代、写楽、慶喜等々すっかり江戸時代ファンになっていろいろと参考書をあたっていたが、そろそろ本家帰りをしようと、著名な「江戸の想像力」を読みたいと思っているところに、この「江戸はネットワーク」があったのでさっそく借りてきた。
 ネットワークという言葉から江戸の町並み、市井の人々の生活ぶりを記したものと勝手に想像していたら見事に裏切られた。この本は江戸の文化を語ったものだったのだ。ほとんど文字を追いかけるだけで、何も頭に入らなかった。唯一、蔦谷重三郎の章前後に興味が示した程度。

     ◇

1999/08/08

 「清張ミステリと昭和三十年代」(藤井淑禎/文春新書)

 僕にミステリの面白さを教えてくれたのは松本清張であり、高校から大学時代にかけて夢中で読んだものだ。ミステリの楽しさの他に、人生の、特に社会(サラリーマン社会)の醜さ、汚さ等、その縮図が描かれ、大人になってもサラリーマンだけにはなりたくない、なんて思ったりもしたけれど、20年後の今、平々凡々のサラリーマンになってしまっている。
 さて、当時その清張ミステリを読むに当たって、時代背景まで意識していたかどうか、定かでない。確かに描かれている時代が「今」でないことはわかっていたが、昭和30年代という時代を思い描いていたかどうか……。
「清張ミステリと昭和三十年代」というタイトルは興味深く、文春新書の広告でこのタイトルを見つけた時は、すぐ読みたいと思った。昭和30年代は僕にとって原体験だから、そこから清張ミステリを語る構成は考えただけでもスリリングだ。
 で、読み終わった今の感想はというと、期待したほどではなかったというのが本当のところ。切り口だけの面白さだったような気がする。
 第1章の「砂の器」と昭和30年代の娯楽の殿堂・映画館を語ったところで、映画化作品「砂の器」の時代設定をすでに映画が斜陽になっていた昭和46年にしたことの間違いを指摘したのは「なるほど」と思ったけれど。




1999/07/02

 「ジャーナリストの作法」(田勢康弘/日本経済新聞社)

 著者が田勢康弘だったので何気なく借りてきた。著者の半生記を含んだジャーナリストのあれこれが書かれている。
 対象は新聞記者等のジャーナリスト志望の学生らしい。
 こういう本を読むと40を前にしても僕の心はぐらぐら揺れる。自分の志望した職業で人生をまっとうしたいと切に思う。今現在確固たる地位を築いているなら別なのだろうが。

     ◇

1999/07/28

 「たかがテレビ されどテレビ」(永六輔/倫書房)

 永六輔が東京新聞に連載しているテレビに関するコラムを1冊にまとめたもの。項目別に再編集してある。
 さすが創成期からTVに関わってきた人だけあって、書かれていることにうなずくばかりである。  
 TV関係者でどれだけの人がこのコラムに注目しているのだろうか。「ったく説教臭いオヤジだなあ」と敬遠されるのだろうか。ま、そんな人は最初から読まないんでしょうが。

     ◇

1999/07/30

 「藝人という生き方、そして死に方」(矢野誠一/日本経済新聞社)

 まずタイトルが気に入った。今の感覚なら〈生きざま〉、〈死にざま〉が当たり前の表現なのに、ちゃんと〈生き方〉、〈死に方〉という言い方をしている。小林信彦が嘆いてから、注意深くマスコミに出てくる言葉をチェックしているが、生き方、死に方と表現する人は絶対といえるほどいないのだ。

 この本の第1章は「渥美清と田所康雄と車寅次郎」。
 渥美清に関する評論で、一番興味を引いたところだったのであるが、どうも当たり前のことしか書かれていない。期待はずれの原因はあとがきを読んでわかった。著者は渥美清のことが嫌いなのであった。嫌いな人にその芸人を否定する評論を書かかせるのならわかるが、肯定する文章を書かせたら、世間一般の当たり前のものになるだろうに、最初は断ったという著者にそれでも依頼した新聞記者の見識を疑ってしまう。
 渥美清が初日に芝居等を観に行くのはマスコミに対する勉強熱心であることを知らせる自己PRとの指摘は初めて聞いた。
 2章の「藝人という生き方」は面白かった。特に都家かつ江に触れた文章はちょうど「傷だらけの天使」撮影時の頃に書かれたもので、若かりしショーケンが登場してくる。うれしかった。
 3章は芸人の評伝その他の本に関する書評をまとめてあり、多いに参考になる。




999/07/06

 「恋」(小池真理子/早川書房)

 1972年に起きた浅間山荘事件は忘れられない出来事だった。機動隊の突入、事件解決までを国会中継を中止にして延々と生中継したNHKの特別番組を学校から帰宅してからずっと見ていた。僕にとって三島由紀夫の自決事件とともに70年代前半の大事件、忘れられない出来事といえるだろう。

 思えば70年代は青春そのものだった。特に70年から75年くらいまでは僕の精神史として一番影響を受けた時代と言っても過言ではない。
 そんな思い出深い時代を背景にして、当時憧れの対象だった団塊の世代の若者たちが繰り広げる奇妙な恋愛模様が浅間山荘事件にからめて描かれている。
 浅間山荘事件が解決した同じ日、同じ場所(軽井沢)で大学助教授夫妻と女子大生の三角関係の末に起こった猟銃射殺事件。二十数年後の現在、事件に興味を抱いたルポライターが真相を探ろうと犯人である癌に冒され死期が迫った女性から聞き出した当時の詳細、顛末がこの小説である。

 プロローグで女性は事件には誰にも打ち明けていない秘密があるとルポライターに告げる。当然、その後の本筋である回想シーンではその秘密がなんであるかということがミステリとしての焦点になるはずなのだが、明かされた秘密自体がそれほど衝撃的なものではなかった。肩透かしをくらった状態でエピローグを読みすすむと、本当の謎が提示され、その謎が解き明かされ、心やすらぐエンディングが用意されているという仕掛けになっている。このエピローグでこの小説全体が愛しいものになった。

 官能的なアブノーマルな三角関係と表現されているけれど、肝心なセックスシーンがちっとも官能的ではないのはつらい。

     ◇

1999/07/20

 「秘密」(東野圭吾/文藝春秋)

 東野圭吾の江戸川乱歩賞受賞作「放課後」はよくできた青春小説ミステリだったが、ラストのドンデン返しで後味の悪いものになってしまった。
 同じことがこの小説にも言えるだろう。というと語弊があるかもしれない。実際僕は主人公である父親が花婿に対して言うラストの台詞に胸熱くしたわけだから。しかしこの結末ってどこか救われない気持ちになるのは確か。感動的ではあるが、よく考えてみれば喪失感しか残さない。
 ラストになって「秘密」というタイトルの本当の意味(読者に仕掛けられたトリック)がわかるわけだけど、こんな形で愛する妻と別れることに主人公は納得しているのだろうか。娘が娘として嫁に行くのではない。妻が娘のふりをして嫁に行くのだ。
 ドンデン返し前の、娘の意識が戻って、その代わり妻の意識がなくなっていく、そんな形で永遠の別離になった方が自然ではなかったか。
 とはいえ、「スキップ」と違い、夫婦間のセックスに関する問題、若さを取り戻した妻に対する嫉妬などが簡潔(いやー、読みやすい文章だ)に描かれ、男としてとても感情移入できた。
 ラストはミステリ作家として「してやったり」という気持ちだろうが、だからこそ残念な思いがある。

 広末涼子主演の映画化作品ではこのドンデン返しは無視してほしい。それよりヒロスエに30代の主婦の演技ができるのか?

     ◇

1999/07/27

 「ラザマタズの悲劇」(ジャック・アーリー/伊多波礼子/扶桑社)

 文句なく面白かった。中盤以降一気にページをめくった。
 ジャック・アーリーはまずキャラクター設定が巧みである。
 本作でも自分の不注意で妻と子どもを殺されてしまい、今でもそのトラウマにさいなまれている新聞記者が主人公として登場してくる。死体を見て気絶したり、誰かと一緒に車に乗ることができない。
 相手役のヒロインは亭主を亡くした牧師。彼女も亡き亭主が忘れらない日々を送っている。
 中盤から連続殺人事件を一緒に調査することになる相棒の警察署長は頻発する殺人事件を解決できず、市の査問会で署長の任を解かれ、自分を裏切った妻の元を去り、単独で調査を開始する。決してスーパーヒーロー、ヒロインではないのだ。
 クライマックスは映像的だ。外は豪雨。犯人と思える男から間一髪で難を逃れて、自家用車を発進させたヒロイン。後ろには真犯人が隠れていた……。犯人の家に監禁されたヒロインに死の手が迫る。室内にはロックが鳴り響く。やっとのところで真犯人をつきとめた主人公と元署長は犯人の自宅へ直行。主人公は車に同乗せざるをえない。ヒロインを助けることができるかどうか。久々に味わうスリルとサスペンス。
 借りた3作の中でミステリとして一番オーソドックスな展開ではあるが、久々のワクワクドキドキ感を満喫できる作品だった。




1999/05/17

 「兄弟」(なかにし礼/文藝春秋)

 なかにし礼兄弟の、他人にはとうてい考えられないような、というか、ほとんど異常とも思える愛憎劇とでもいうべきこの私小説を読む気になったのは、この前放送された〈テレビ朝日創立30周年記念〉の同名ドラマを観たからだ。
 ドラマは冗談交じりにこれも一種のホラーじゃないかと思ったほど、ビートたけし演じる〈なかにし礼の兄〉は鬼気迫るものがあった。

 終戦後、運良く戦場から帰ってきた中西家の長男は、亡き父に代わって一家の面倒をみる。実際は自宅を担保に多額な借金をしてニシン漁に手を出し大漁になるにもかかわらず欲を出して結果的には失敗。故郷を離れるはめに。以後いいことはなかった。
 年齢の離れた弟(なかにし礼)の面倒をみたという理由だけで、その後は興す会社を次々とつぶし多額な借金を弟に肩代わりさせる兄。反省などない。

 兄は博打と女にうつつをぬかし、ほとんど自宅に帰らない。ほとんど人生の落伍者、敗残者ともいえる男が警察沙汰、裁判沙汰にならず生きてこられたということがまず不思議なことで、常識では考えられない。
 なかにし礼自身にしても、いくら庶民の金銭感覚とかけ離れた額の印税収入があるといっても、兄の横暴(億単位の借金)を後年義絶してしまうまで許していたというのも信じられない。家族(奥さん)も死ぬまで形だけとはいえ暮らしていたというのも、まったくお人よしと言うしかないだろう。

 TVドラマはなかにし礼が作詞した数々のヒット曲を劇中に使用し、歌謡曲による昭和史というような趣きもあってチャンネルを合わせたところもあった。
 「石狩挽歌」の歌詞の背景には中西家の壮絶な家庭環境が描かれていたことを知り、印象を新たにしたものだ。

 TVドラマ「兄弟」は役者たちの好演、確かな演出もあって、観終って感慨深いものがあった。
 ドラマ放映後、同じ局の「驚きももの木20世紀」ではノンフィクションとして二人の関係を取り上げていて、よりいっそう小説「兄弟」に興味を持った。

 小説はTVドラマと違って、兄の死後、生前兄が毎年出席するのを楽しみにしていた戦友会に顔をだし、戦時中の兄の本当の姿を追及する展開となっている。
 このくだりは脚色された兄の戦争体験を暴き出す静かなサスペンスがあってとてもスリリングだ。  
 なかにし礼の容赦ない質問に対し、特攻隊生き残りの者が言う「戦後を生きていくためには〈特攻体験〉を売り物にしなければならなかった」という言葉が印象深い。
 本当は敵機と空中戦をしたことも、練習中に墜落して運良く助かったということもすべて嘘だった兄の、弟に語った〈墜落願望〉とはいったい何だったのだろうか?

     ◇

1999/05/25

 「芸人失格」(松野大介/幻冬舎)

 作者・松野大介がタレントとしてたぶん最後に出演した深夜番組を偶然見たことがある。
 かつて昼の番組で人気を博した〈お笑い〉コンビ、ABブラザースの相方だった中山某はいつのまにか売れっ子タレントになって、レギュラー番組を何本も抱えていたにもかかわらず、松野の方はほとんどTVでお目にかかることはなかった。コンビの宿命ともいうべき現象だろう。

 ただ腑に落ちなかったのは、僕自身ABブラザースに興味はなかったけれど、面白いと感じた松野が消えて、一過性の人気だろうと思っていた中山某が生き残ってしまったことだった。
 そんな状況で、深夜番組で二流の女性タレントをいじくる松野の姿を見ながら、この人はこんな風にして芸能界の末端に席をおいて生きていくのかなあ、と少々哀しくなったのを憶えている。

 しばらくして彼が小説家に転身したのを知った。
 書き下ろしで「芸人失格」を上梓したとき、少なからず興味を抱いた。芸能界の敗者として、芸能界を、勝者の相方をどう見ていたのか知りたかった。
 本書が文庫化されたときはまっさきに買おうとしたくらいだ。結局図書館にリクエストしたのだけれど。

 赤裸々な内容だった。嘘偽りない自分の気持ちを素直に表現していた。
 中山某がなぜ現在の地位を築けたのか、自分自身はどうして落ちてしまったのか、よく理解できた。芸能の世界でも才能だけでは生き残れない。要はつきあい、如才なさが肝心なのである。

 彼女との出会い、同棲、破局。その後遺症による円形脱毛症等、まるで一時期の僕自身を見るようで熱いものが胸にこみあげた。
 彼は芸人を失格していない。本当の意味で芸人として生きていけるはずなのに、あくまでもTVというメディアを考えた場合、つまりTVタレントとしては失格になってしまうのである。マルセ太郎のような生き方もできるはずなのに。

 本人および相方の名前が仮名になっているのはわかるが、登場する芸能人が実名であるにもかかわらず、所属していた渡辺プロがワタベプロと表記されている。変なところで気を使う人である。




1998/02/25

 「少年H 上下」(妹尾河童/講談社)

 初め「窓際のトットちゃん」の少年版、神戸版というような語り口だったのが、少年Hが中学生となり戦争が本格化していくにしたがって(特に下巻になってから)、様相が一変する。
 本当のことを教えてくれず体面ばかり気にする軍部のお偉いさん、それに同調する新聞記事、一部の先生たち。彼らに対する少年のイライラ、怒りが文章の隅々から伝わってきて、こちらの怒りも沸点に達してくる。まさしく下巻では少年Hと僕は一体化していた。

 少年が、一人で外出した際敵機に攻撃をくらい逃げまどうくだり。頭上のグラマンがたった一人の少年を追いかけ廻し射撃してくるのだ、兵隊でもないのに。想像しただけで肝を冷やす。
 純粋なあまり盲目的にキリスト教を信じる母親の行動に反発するHであるが、その母を認めるときはいつも食べ物がからんでいるのがやるせない。このひもじい感覚というのはこの時代の少年少女たちと切り離せない問題だろう。とはいえこの感覚、ぼくには本当のところわからない。

 敗戦になって少年は海岸で開放感を味わう。映画だったらたぶんここでエンドになるのに(映画化される作品では絶対この絵を最後にもってくることを断言したい)、この物語は終わらない。
 いや、作者が書きたかったのは実はここからではないか。少年のまわりの大人たちは軍国主義から民主主義へ戦時中の態度が嘘のように180度転換する。「すいません」の言葉もない。また戦争の責任は誰がとるのか。天皇に責任はないのか。
 戦後の日本が封印してしまった問題がここにある。ここらへんの少年(もう中学生になっているから少年とはいちがいに呼べないが)の怒りは痛いほどよくわかる。ぼくが同じ年齢でこの時代に生きていたら、その怒りや不信感は現代まで心の奥底でくすぶっているだろう。
 物語は精神的に病んで自殺まで図ろうとしたHがやっと自分の生き方を見つけ、歩き出すところで終わっているが、そんな理由で読後感はあまりいいとは言えない。

     ◇

1998/05/03

 「ジュラシック・パーク」(マイケル・クライトン/ハヤカワ文庫)

 映画「ロストワールド ジュラシックパーク」が公開された時に不思議に思ったのは主役がマルカム博士になっていることだった。
 小説ではT-レックスに襲われ深手を負った彼はラストで死んでしまったからである。映画版では足に怪我しただけで救助されるのだから、映画の続編で主役というのは考えらるが、小説「ロストワールド ジュラシックパーク2」で主役になれるはずがない。
 ところが小説を読んでみると彼は瀕死の重傷から奇跡的に生還したことになっている。
 そんなばかな!絶対に彼は死んでいるのだ。

 そんなわけで、「ジュラシックパーク」をもう一度読み直したわけである。
 オープニングのすでにジュラシックパークの崩壊を予想させる島の周辺地域の異変とエンディングの世界に恐竜が「渡っ」てしまった不気味さは何度読んでもいい。特にオープニングのエピソードは映画「ロストワールド」に取り入れられているほど。
 さて、肝心のマルカム博士だが、やはり死んでいた。死を予想させる文章だけでなく、エピローグでちゃんと彼の埋葬云々という台詞がでてくるのだ。
 これはいったいどういうことなのだろうか?
 この件に触れた書評を読んだ覚えがない。誰かちゃんと説明してくれないだろうか!

     ◇

1998/05/22

 「塗仏の宴 宴の支度」(京極夏彦/講談社新書)

 京極夏彦の新作がやっと出た。それにしても新作がでるたびに本が分厚くなっていくのはどうしてなのか。
 分厚いミステリの新書が一種の流行になっているようで、それに対してとやかくいうつもりもないけれどこの何作かの京極夏彦の作品は最初に厚さありき、といった感がする。(この厚さで今度は上下巻。だったら上下同時発売にしてほしい。)
 うんちく話も楽しいけれど、度が過ぎれば興ざめだ。

 今回、それほどの出来でなかったらもう京極を卒業しようと思っていたのだが、前2作より面白く読めた。扱っている題材が新興宗教だとか自己啓発セミナーだとか、完全に今風というのが要因かもしれない。
 新興宗教はオウム真理教を彷彿させるし、自己啓発セミナーはかつて僕自身が実際に体験したことがあるから非常に興味深い。
 この作品が単なる長編でなく、一つの物語を中編連作という形で描くスタイルというのも注目に値する。
 次の物語が前作の被害者や加害者を否定し、立場が逆転したり、新たに怪しい人物が登場してくる。人間関係がさまざまに入り乱れ、しまいには環(リング)状態になって混沌とした社会が現われてくるのではないか?

 下巻はいつ出るのだろうか?

     ◇

1998/12/06

 「塗仏の宴 宴の始末」(京極夏彦/講談社新書)

 前編の面白さに比べ、この解決編は今いちだった。
 京極堂の仲間である作家・関口の逮捕、木場刑事の行方不明、敦子の誘拐等、レギュラー陣が事件の渦中に巻き込まれていく展開はわくわくものだったか、途中から息切れしてしまった。つまらなくはないけれど、クライマックスに向けて怒涛のページめくりをさせた「魍魎の函」や「狂骨の夢」とは比較にならない。

 だいたい前編発売から月日が経っているから、これまでのストーリーを忘れているし、過去の作品の殺人事件やその関係者が登場し頭を悩ますしで100%理解したとは言い難い。それが京極夏彦の魅力じゃないかと言われればそれまでだけど。

 新興宗教、自己啓発セミナー、風水占い、漢方薬等々、現在、世間を騒がせている事象を終戦後まじかの時代にスライドさせてその本質に迫ろうとしたわけか。ラストになって少年法まで登場してくるとは驚きだ。
 結果はすべてゲームであると。陣地取りゲームなわけ。何がいいとか悪いとか、どれが正義とか悪とか判断できない、と。

 読んでいて文体がとても気になった。これまでも同じようにケレン味たっぷりの文体であったのだろうが、今回は途中でうんざりしてきた。
 ーの多用、体言止め、文章の途中止め等々、連発するとイヤミになる。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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