70年代にタイムトラベルしてみませんか?

かつての若者なら、あの熱かった時代の青春を振り返り
現代の若者なら、両親世代の青春像に触れてみる


「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」

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1978年
――僕は大学受験に失敗し、東京へ出てアパートを借りて予備校に通っていた


 上京して予備校に通う男女5人の友情と恋の行方――
 70年代を代表するフォークグループと同じ女性2人、男性3人
 男がひとりあぶれることで、うまくいく一年間のはずだったのに……

高校生でもなく、大学生でもない。浪人という不安定な時期の揺れ動く内面、青春に特有のせっかちさ、ひたむきさを等身大で切り取り、ほろ苦さと甘酸っぱさを細やかにつづる。作中に登場する映画や文学は当時を思わせ、登場人物たちに若いころの自分を重ねる読者も少なくないだろう。昭和のひと時代を感じられる本書は、赤い鳥ファンのみならず世代感覚を共有する人にお薦めの一冊。(帯より)

【内容】
 はじめに
 プロローグ
 第一章   こごえそうな春
 第二章   きわめつけの夏
 第三章   ぬくもりの秋
 第四章   ほとばしる冬
 エピローグ そしてまた春
 体験的赤い鳥ヒストリー
 体験的70年代フォーク論
 おわりに

文庫:250ページ
出版社:文芸社 
価格:700円+税
発売日:10月15日

書店でご注文願います。
Amazonでも取り扱っています。




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 ブックカフェ二十世紀では「週刊金曜日」主催のトークイベントを何回か開催している。
 先週はフォトジャーナリストの新藤健一さんがスクープした記事をテーマに熱弁をふるった。墜落(不時着)したオスプレイの操縦マニュアルが海岸に漂着して新藤さんが入手したのである。「週刊金曜日」に2週にわたって掲載された記事をテーマに、掲載されない写真を基に新藤さんがより深く語るというもの。
 予約があまりなかったので、直前に「ドタ参でも大丈夫だと思います」とツイートしたら、当日予約していないお客さんが次々をやってきてうれしい悲鳴をあげた次第。

 開催前に、金曜日社長のK氏と打ち合わせした。K氏は元「サンデー毎日」編集長だ。
 打ち合わせ自体はすぐに終わり、後は、僕が日ごろ疑問に思っている政治のことに関する質疑応答(?)になった。
 結局のところ、オスプレイの数々の事故は操縦が難しいというところに起因するのでないか。ある種の欠陥商品ではないか。にもかかわらずなぜ米軍はオスプレイを使用するのか?
 オスプレイは沖縄で米軍の住宅地の上空を飛行しないらしい。

 東京都知事選に出馬した鳥越俊太郎をなぜマスコミは攻撃したのか? 本当なら一致団結して応援すべきなのに。
 小池百合子はなぜ自民党を辞めないのか? 自民党はなぜ彼女を除名しないのか?

 続いて、「週刊金曜日」編集委員の本多勝一と佐高信について。僕が二人の著作をけっこう読んで、やがて大嫌いになったこと。その経緯を説明したわけで。

 その後、久しぶりに図書館へ行き、借りた本の一冊が「石原慎太郎の『狂った果実』」(金曜日)だった。

     ◇

2003/12/01

 「体験的本多勝一論 本多ルポルタージュ破産の証明」(殿岡昭郎/日新報道)

 元朝日新聞の花形記者、本多勝一の本は凡例が多いのが特徴だ。その中には名著「日本語の作文技術」にも書かれていて、なるほどと納得したこともある(「マスコミかジャーナリズムか」参照)。
 しかしアメリカ合衆国を合州国と表記するのはどんなものか。
 これについても本多勝一独自の見解があるらしい。United Statesを日本語に翻訳すれば確かに合州国ではあるが、そんな本多の提唱を一笑に付したのが高島俊男である。
 「お言葉ですが…」によれば合衆国はUnited Statesの翻訳ではないという。日本人がアメリカを知ってまず驚いたのが、あの国に君臨する王がいないということだった。国民が投票で大統領を選出する、つまり国民一人ひとりが国を運営することが非常に斬新だった。そこから合衆国という名称を使ったのだと。    

 本多勝一という文筆者に対して僕は愛憎半ばする感情を持つ。あの、これはと思った人物、企業に対する執拗な攻撃はいったい何に起因するのだろうか。同じ感覚を抱いていた佐高信は日垣隆によって完膚なまでに叩きのめされ、またそれが正論だったので自分の中で今や完全に忘却の人になってしまった。
 
 本多勝一については微妙だった。    
 そんなところに本書を見つけた。〈私は元朝日新聞記者本多勝一氏に裁判で三連勝した〉の副題に惹かれるものがあった。著者の出身が足利市出身というのも親近感がわく。  
 著者と本多勝一との間で20年を越す争いがあったなんて知らなかった。いったい何を争っていいたのか?

 1975年9月、ベトナムのメコン・デルタの都市カントーで起きた僧侶、尼僧の焼身自殺に端を発す。この宗教政策に抗議しての集団自殺を、国のスポークスマン的立場の愛国仏教会はあたかも尼僧の性的関係を背景にしたスキャンダルのように説明した。当時ベトナムを積極的に取材していた本多勝一はこの発表をそのまま記事にしてしまった。もちろん本にはその旨、巻末に記されてはいる。が、そのスペースはごくわずか。見落とす読者は多いだろう。
 ジャーナリストとして相手の言い分をそのまま掲載していいものなのかどうか、もともと本多ルポルタージュの熱狂的なファンだった著者はそうした本多の執筆態度にかみついた文章を雑誌「諸君!」に発表する。本多はすぐに一読者として反論するが、編集部は相手にしない。次に本多は著者が勤務する大学の教授会宛に著者の品格を問いただす手紙を郵送する。これまた無視される。その後、反論を掲載させろ、させないで、「諸君!」編集長と本多とのあいだで何度もバトル(?)が繰り広げられ、業を煮やした本多が最終的に訴訟を起こすことになるのだ。  

 本多勝一の著作を読むと、文藝春秋に対する敵意が剥き出しになっているが、この訴訟問題が要因だったわけだ。    
 裁判に勝訴した被告側が書いていることもあるが、あたかも正論を説く本多勝一の分が悪い。何より、裁判の証拠を集める段階での卑怯な手口が許せない。ある宗教団体に対し、寄付を口実に擦り寄っていき、肝心の証拠を手に入れると、寄付についてはナシのつぶてという態度はどうだろう。この件が明るみになったことが本人にとって一番つらいことではないだろうか。  
 世の本多勝一ファンは本書をどう読むのだろうか?




 都知事選、自民党推薦候補の応援演説で、小池百合子に対して「厚化粧」と言い放った石原さん。あのとき、豊洲市場問題で、百条委員会が設置され、自分が招致されるなんて、これっぽっちも考えていなかっただろう。
 かつて石原慎太郎について書かれた本を読んだ。著者の本多勝一、佐野眞一に関しても書きたいことはあるのだが、とりあえず。

     ◇

2001/10/17

 「石原慎太郎の人生 貧困なる精神N集」(本多勝一/朝日新聞社)  

 石原慎太郎が元気である。期待はずれに終わってしまった青島幸男に代わって東京都知事の椅子に坐った石原慎太郎の勇ましい発言は連日のようにメディアを賑わせている感がする。  
 靖国参拝する知事に記者がその立場を「公人か私人か」と問うた時、「バカなことを質問するんじゃない!」と一喝した時は爽快だった。靖国参拝する大臣に対して何とかの一つ覚えみたいに同じ質問するマスコミにいい加減うんざりしている。公人だろうが私人だろうが参拝するのは本人なのだ。愚問以外何ものでもない。三国人発言も本人に差別意識があったわけではないと思う。  

 お前は石原慎太郎ファンなのかと早合点しないでほしい。確かにマスコミ対応する際の態度は堂々としているし、見えすいた質問には感情そのままに怒りだす、そういうところは新鮮だし、頼もしい感じがするけれど、あの自信はいったいどこから湧いてくるのだろうといつも疑問なのだ。そのくせ、神経質そうにいつも目を瞬いていて、そこだけ見ていると小心者のように思えてしまう。
 だいたい選挙で弟石原裕次郎の威光を借りるあまりの節操のなさが気に入らない。「太陽の季節」で文壇デビューした小説家としての活動はどうなっているのか。  
 そんなことを考えていたところ、図書館の棚に本書を見つけた。  
 タカ派の石原について良いことが書かれているはずもない(だから読もうとしたのだ)と思ったものの、ほとんど全否定というのが驚いた。  
 「ウソつき」と「卑劣な小心者」をこねて団子にしたような男だって。  
 まあ、確かにそのとおりなのかもしれないが、ここまで否定されると少しはいいところもあるだろうと弁護したくなってしまう。  
 大江健三郎を批判した「文筆家の生活」でも感じたことだが、批判対象者をことごとく罵倒するのは方法論はどんなものか。相手の功罪の罪ばかり責めるのは、あまり賢い方法でないと思う。功もちゃんと認めた上で批判するから、その真意が第三者に届くのではないか。  

 本書は「週刊金曜日」の連載をまとめたものだから、石原慎太郎のほかにもいろいろと話題がある。
 大江健三郎の息子のCDに関する大江自身の親バカぶりはそのとおりだと思う。しかし「ら抜き言葉」に関しての文化庁批判はちょっと論旨が違うのではないか。言葉の美しさという点ではどう考えているのか、方言云々なんて持ち出したってしょうがない。  
 日垣隆『「買ってはいけない」は嘘である』にも相当頭にきているのがわかる。この本を取り上げて、日垣隆のことを〈文春のあわれなシッポ〉と切り捨てる。名前を書くのも汚らわしい、とばかりに文章の中にその名がまったく見当たらない。  
 しかしなぁ、とまた僕は思う。日垣隆の体質(つまり徹底的に取材する姿勢)は「週刊金曜日」の仲間である佐高信より、よっぽど著者に似ているのに。


2004/03/23

 「てっぺん野郎 本人も知らなかった石原慎太郎」(佐野眞一/講談社)  

 書名に笑ってしまった。まさしく石原慎太郎のことではないか。よくぞ名付けたものだと感心していたら、石原慎太郎の小説に同じタイトルのものがあることを本書で知った。副題も効いている。
 
 はっきり言って石原慎太郎は好きになれない。東京都民だったとして先の都知事再選時に彼に投票したかどうか。しかし圧倒的な得票数で再選を果たしたり、石原新党の結成や次期首相を熱望されたりするのはわからなくはない。何度も繰り返す失言も、その本質的な部分で共感を呼んでいるのではないかと思う。都内のホテルや銀行から特別税を徴収しようとしたりする勇ましい行動は部外者にとっては頼もしい限りだ。博覧会を中止した以外は特にこれといった動きを見せなかった青島前都知事と比較して「なかなかやるじゃない」と思っている人は多いのではないか。  

 石原慎太郎とは何者なのか。その思いはいつもあった。僕がまだ十代の頃、自民党内で青嵐会を組織して活きのいい若手議員の印象があった。小説家出身と知り驚いた。「太陽の季節」により大学生で芥川賞を受賞、一気に慎太郎ブームが押し寄せた。当時誰もが慎太郎カットに夢中になったという。「失恋レストラン」のヒットで健太郎カットがブームになったことがあるが、慎太郎カットのブームもこんな感じなのかと思った。今でも個人的にはあくまでも政治家であり小説家のイメージはない。「太陽の季節」等の小説が書店に並んでいるのを見たことがない。今でも本をだしているけれど、政治家が書いたものという認識だ。
 美濃部都知事と知事の座を争ったこともある。正直に白状すれば、あの時は石原さんが都知事になればいいのにと群馬の片田舎でひそかに願っていた。
 でも本当のところ、政治家として手腕はどのくらいのものなのか、どんな実績を残してきたのか。明日の首相に相応しい人なのかどうか。  
 今は亡き弟の石原裕次郎の名を選挙運動に利用するのはどうかと思っている。いつだったか、街頭演説の冒頭で「石原裕次郎の兄です」と挨拶して失笑したことがある。
 TVに登場する際、頻繁にする瞬きが気になって仕方ない。日頃の言動とは裏腹に実は小心者なのではないかとも思っている。同じように瞬きばかりする谷啓は非常にシャイな人なのだそうだ。    

 石原慎太郎の本質を問う本書は、第一部(五章から成り立つ)をまるまる父親・潔の生涯についての記述に割いている。最初は退屈に思えたこの部分が後になって吹奏楽のコントラバスのように必要不可欠であることがわかってくる。  
 湘南のボンボンのイメージがある石原慎太郎(および裕次郎)だが、もともと石原家は裕福な家ではなかった。山下汽船の店童(丁稚みたいなもの)からスタートした父の仕事は苦難に満ちていた。この部分の取材でも著者は決して手をゆるめない。文献を探し出し、潔を知る人間にできるだけ取材を試みる。  

 第二部以降は石原慎太郎の本質をついた至言がいたるところで散見できる。  
 いくつか拾ってみよう。

 慎太郎の論理の特徴は、自己を正当化するためなら、事実を自分の都合のいいようにねじまげてもかまわないという考える我田引水と夜郎自大の習性が、随所ににじみ出ていることである(P366)。

(慎太郎は)みんなバカにみえて、自分ひとりだけ松の上にとまった鶴みたいな気でいる。自分以外の他人はほとんどバカにしかみえない慎太郎の唯我独尊的な体質は、危惧の念を抱いてみるべきである(P379)。

 自民党で一派閥を統率する亀井静香はしばしば、「あいつ(慎太郎)はわがままがすぎる」と漏らしている。やはり、慎太郎は政治家ではなく小説家以外の何者でもない、というみかたにどうしても傾く(P383)。

 1975年の都知事選での敗退後、支援者たちに電話の1本もかけず、なんのあいさつもしなかった慎太郎に、人さまのことをあれこれいっていい資格はなかった(P390)。

 最初の掛け声は勇ましいが、結果は尻すぼみに終わる。これは青嵐会結成以来、慎太郎が繰りかえしてきたいつものパターンである(P407 )。

 息子への溺愛ぶりと、他人の痛みには寛容なのに、自分の痛みは絶対に許せない彼のわがままな性格は露骨に現われている。慎太郎の息子たちへの愛情のかけかたは、家族思いという次元をはるかに超えている(P409)。

「公約なんて実現可能なことは言わないものです。実現できなかったときに支持率が落ちるだけですからね。(公約は)オッと思わせることが大事なんです」(P430)

 朝まで生テレビの物真似で話題を呼び、今はウンチク王で名高い某氏がこの人の物真似だけはしたくないと言った。なぜなら「物真似は好きな人、その人への愛がなければないとできないから」。そんな亀井静香に「わがまま」と言われる石原慎太郎っていったい?!

 同じ自民党の、長老松野頼三に取材し、彼の慎太郎感を聞き出している。
「彼はポイント、ポイントではよいことをいうけれども、全然つながらない。ときには反対のことをいうことがある。上手にね。上手すぎるんだ」
「政界に長くいると、その上手すぎる手つきがみえる。手品がみえる。観客には拍手だがね。私ら、舞台裏からみてるから、みえすぎるんだ」
「慎太郎は危険ではない。君子豹変するほうだ。実利的な男だからね。自己顕示欲が強くて、中曽根康弘の若いころに似ている。けれども、中曽根のほうがずっとイデオロギーがあった」
「慎太郎は《かつがれにくい人》なんだ。自作自演の人間だからね。彼には諸葛孔明が必要ないんだ。自分が諸葛孔明のつもりなんだ」
「彼にどんな能力があっても1人の力はしれている。彼を指示し、教える者がいない。だから彼は、東京で一番高い愛宕山で終わるかもしれない」。  

 副知事某氏の重用が心配である。都政の九割を牛耳っているという。批判的な記事を書くと、その記者は飛ばされるのだとか。この某氏に対する石原都知事の信頼は厚い。本書の中で一番恐怖を感じた部分はここだった。




 皆さんは本多勝一というルポライターをご存知でしょうか?
 かつて朝日新聞の花形記者として活躍し、現在はフリーの文筆家として「週刊金曜日」を仲間たちと発行しています。本多勝一は私にとって愛憎相半ばする方でして、彼の本を読んで感銘を受けたり、逆に腹が立ったりしています。

 今日は別に本多勝一の書籍を紹介するわけではありません。
 彼の作品は朝日文庫シリーズでまとめられています。
 その一連の文庫に〈凡例〉が掲載されております。それは本多勝一が書く文章に、本人だけの約束ごとがあって、それを紹介しているものです。
 アメリカ合衆国は合州国、ローマ字はヘボン式ではなく日本式、外国人の名称などの分かち書きで使用する〈・〉(ナカテン)は〈=〉二重ハイフォン、等々、より文章をわかりやすくするための処置なのですが、その中で一番納得できるのが、数字の表記です。
 三進法ではなく、四進法を導入しています。

 会社に入り、現在では稟議書などでよく数字を読むわけですが、単位を千円、百万円として数字が書かれています。
 数字が二桁くらいならいいのですが、4桁以上になると桁をいちいち数えなければなりません。
 20(千円) = 2万円       2000(千円) = ?
 30(百万円) = 3千万円     3000(百万円) = ?
 
 数字で3桁ずつカンマをつけるのはいいとして、以上のような漢字を使用すると日本語は無理があります。
 西洋ではthousand、billionが単位になりますが、日本語では万、億が単位になります。
 300(千円)より、30(万円)の方が一目瞭然だと思うのですが、いかがでしょうか?

 というわけで、数字の表記で千、百万の単位を使用するのはやめてもらいたいという私の主張でした。





 収入確保のため、もう一つ仕事をすることにした。早朝品出し。神保町で見つけた。
 以前、某スポーツ店で同様の仕事があって、面接した結果が不合格。たぶん髭が原因だろうと今回はきれいさっぱりしておまけに髪も染めた。努力が実って早々と決まった。
 本日から出勤。6時半から9時半までの3時間。
 サラリーマン時代早起きには慣れていたから、別にどうとも思わなかった。環境が変わると体質も微妙に変化した。4時の目覚ましにすぐには起きられなかった。それでも十分間に合うと気楽に考えていたら、朝、電車の発着が少ないことが判明。西川口駅で待つこと10分。
 秋葉原に着いてから、走った、走った!
 まあ、何とか間に合いました。




 承前

2001/04/11

 「梅安針供養 仕掛人藤枝梅安」(池波正太郎/講談社文庫)

 「仕掛人藤枝梅安」シリーズの短編連作集をすべて読了し、次はお待ちかね長編シリーズだとばかり、長編第1作を読み始めたが、どうもおかしい。話が前巻に続いていないのである。
 あらためて裏表紙の解説を見ると、どうやら長編第2作を借りてきてしまったのだった。

 以前「百舌が叫ぶ夜」(逢坂剛/集英社 現在集英社文庫所集)が大変面白く、単純にタイトルだけで続編だろうと勘違いして「よみがえる百舌」を借りてきた時のことを思い出した。「百舌の叫ぶ夜」は「幻の翼」「砕かれた鍵」と続き、「よみがえる百舌」はシリーズの4作めということを知ったのは読了してからだった。物語中で前作、前々作の事件や真犯人のことが書かれてあり、その後2作め、3作めと読んだのだが、犯人のわかっているミステリというのはどこか味気ない。  
 梅安シリーズは別にミステリでないのだから、1巻くらい飛ばしてもいい気もするが、気分が悪い。  
 あわてて図書館に長編第第1作「梅安針供養」を借りに行くと何と改装のため当分休業だという。しょうががないから、古書店で購入した。  

 闇討ちされ瀕死の重症を負った若侍は通りかかった梅安に助けられ、彦次郎、十五郎らの介護によりどうにか回復したが、記憶をなくしていた。
 同じ頃、梅安は隠居した香具師の元締・萱野の亀右衛門から自身の死を賭して四千石の旗本・池田備前守の奥方(増子)の仕掛けを依頼された。梅安は助けた若侍が旗本の息子ではないかと推理する。池田家では継承問題で前妻の息子(辰馬)と増子のふたりの実子(正之助・小三郎)が争っているらしい。増子は実子を跡取にしたい。だから辰馬の命を狙ったのではないか、と。しかし実態はそんな簡単なことではなかった……。
 ひょんなことから若侍を助け、同時に若侍の母親を仕掛けなければならない梅安らの活躍と十五郎の件から梅安との関係がおかしくなっている白子屋菊右衛門の梅安暗殺の暗躍が描かれる。菊右衛門が放った凄腕仕掛人の最期のあっけなさが、梅安との生死を賭けた一騎打ちを期待するこちらの予想を裏切ることになるのだが、このシリーズが単なるチャンバラ小説でないことを認識させられる。
 増子を仕掛けた後の梅安らしい決着のつけ方がすがすがしい。


2001/04/13

 「梅安乱れ雲 仕掛人藤枝梅安」(池波正太郎/講談社文庫)  

 短編「雨隠れ」と長編「梅安乱れ雲」の2編を収集。  

 「雨隠れ」は「梅安針供養」の事件後、熱海で身を隠していた梅安が巻き込まれる一件が描かれる。
 熱海から江戸に向かう梅安が目撃した浪人はその昔母親に捨てられ孤児となった梅安を引き取り針医者にしてくれた師匠・津山悦堂の恩を仇で返した憎き敵だった。悦堂の復讐を果たそうと浪人の命を狙う梅安だが、浪人は20年辛抱強く父の敵を探し回っていた男だと知り、態度を改める。男が敵討ちに失敗し命を落とすと、梅安は彦次郎、十五郎の協力を得て、男の念願を成就してやる物語で、雨に始まり雨で終わる好編。  

 お待ちかねの「梅安乱れ雲」は梅安と白子屋菊右衛門の確執が抜き差しならないものとなり、ついに二人の刺客が江戸に放たれるところから始まる。
 この二人、北山彦七と田島一乃助の関係が面白い。二人は男色関係にあるのだが、中年の北山は両刀使い、道中ある宿場町で女を買いに行き、若い田島を先に行かせ、それが田島の嫉妬を呼ぶ。待ち合わせの旅籠まで一人旅の田島が腹痛に襲われ、助けるのが梅安である。もちろん田島は命の恩人が仕掛けの相手だと知らないし、梅安も若者が自分の命を狙っていることなど知りはしない。
 江戸に勢力を伸ばす白子屋を嫌う音羽の半右衛門の白子屋暗殺計画に乗る彦次郎と十五郎、愛人失踪で江戸に赴いた白子屋と北山や江戸の腹心たち、別行動で命の恩人が仕掛けの相手だと知り徐々に梅安に心開いていく田島。
 この3組の行動がクライマックスの殺戮現場に集約していき、そこにひとり梅安が現れることによって巻き起こる、あっと驚く展開が笑いとともにサスペンスを生む。  

 本作は何ともいっても何度も梅安を救うことになる田島一乃助のキャラクターの魅力につきる。  
 梅安に隆大介、十五郎に中井貴一(彦次郎は配役が思い当たらない)、田島に松田龍平で映画(スペシャルドラマ)化できるのではないか。  

 一時彦次郎と十五郎が身を寄せる目黒の西光寺が大学時代に住んでいたアパート(目黒区目黒1丁目)から目と鼻の先で親近感を覚えた。梅安の住居がある品川台町もそれほど遠いところではなさそうだ。


2001/09/10

 「梅安影法師」(池波正太郎/講談社)  

 このシリーズ、ずっと文庫で読んできたが、この「影法師」だけ文庫の棚で見かけたことがない。仕方なく単行本を借りてくる。  

 前作「梅安乱れ雲」で白子屋菊右衛門を葬った梅安が白子屋残党の放つ刺客に命を狙われる〈白子屋事件〉その後の顛末が描かれる。  
 今回、梅安の命を狙う仕掛人は3人。  
 前作で奇抜なアイディアによってもう少しのところで梅安を暗殺し損ねた鵜ノ森の伊三蔵。菊右衛門亡き後白子屋を束ねるニの子分・切旗の駒吉そして白子屋の江戸における根城・山城屋改め笹屋伊八、この二人が復讐のため梅安暗殺に差し向けた凄腕の仕掛人、石墨の半五郎と三浦十蔵。彼らの梅安必殺の秘策とは何か。  
 温泉で休養をとった後、江戸にもどって鍼医として治療に専念する梅安が昔から懇意にしている薬屋(片山清助)が何者かに命を狙われていると知るや、彼を守るため自分の危険も省みず快復に精を出す。そんな梅安の身を案じる彦次郎と小杉十五郎。久しぶりに肌を触れ合う恋人・おもん。  
 結末はわかっているのに、今度こそ梅安がやられてしまうのではないかと、気が気でなかった。前作あたりから他人の助けがなかったら命を落としてしまうくだりが見受けられ、刺客の腕もこれまでと比較にならないからかもしれない。  

 簡潔な文体による静けさの中で徐々に発酵してくるサスペンス。一瞬の間に巻き起こる殺戮模様。その緊張感は湖面で唯一人優雅に釣り糸を垂れる釣人と魚の関係のようだ。  
 楽しみな食に関する叙述が少なかったのが少々ものたりなかった。今回は鮪の刺身がでてくる。といっても山葵醤油に漬けたものを金網で炙って食するというもの。昔は鮪は生で食べるものではなかったらしい。地の文の解説で作者自身の子ども時代には鮪の脂身は捨てるものだったと書いている。魚屋に買いにいくとただでもらえたとある。鮪(の刺身)大好き人間としてはうらやましい限り。


2001/10/10

 「梅安冬時雨」(池波正太郎/講談社文庫)  

 〈仕掛人・藤枝梅安〉シリーズの最終作。作者急逝のため未完に終わってしまった作品である。  
 冒頭、悪者・線香問屋主人を大川の舟上で鮮やかな仕掛けで葬りさる梅安。また新たな物語が始まるかと思いきや、白子屋騒動は依然決着がついていないことがその後判明する。  
 前作「梅安影法師」で不覚をとった刺客・三浦十蔵、白子屋の縄張りを一手ににぎった切畑の駒吉が新たにやとった平尾要之助。この二人が梅安の命を虎視眈々と狙っているのだ。  
 前作で音羽の半右衛門の密偵として女の武器を使い敵の内情を探っていたおしまが平尾と知り合い、その人柄に惚れて逆に音羽屋を裏切る行為にでる。  
 梅安は敵の動きに敏感になりながらも、仲間の彦次郎や十五郎と一緒に住む家の新築に精をだす。彦次郎は梅安の留守の間簡単な按摩治療を施すようになっている。そんな状況の変化が何か恐ろしい事態の前触れのような気がしてならない。
「今回は梅安側に犠牲者がでるのではないか」  
 これである。    
 (このフレーズ、一度使ってみたかった!)

 十五郎がかつて世話になった剣の達人為斎・浅井新之助の颯爽とした登場、三浦十蔵の1日の疲れをとるため請われて棲家に通う按摩の竹の市に近づく彦次郎。梅安たちの反撃が始まるところで絶筆。  
 いくら待ってもこの続きは読めないのだと思うとつらい。  

 他に「池波正太郎・梅安の旅」、1982年のインタビュー「梅安余話」を収録。




 「木枯し紋次郎」と「必殺仕掛人」といったら、「帰ってきたウルトラマン」と「仮面ライダー」の関係に似ている。違うか。
 土曜日の22時30分、フジテレビで始まった「木枯し紋次郎」が始まって大人気になった。第2シリーズのときだったと思うが、裏のTBSで22時から「必殺仕掛人」が始まって、これまた大人気となった。視聴率的は「木枯し紋次郎」を追い抜いたのではなかったか?
 当時はエロシーンに惹かれて、最初の30分だけチャンネルを合わせたこともあった。〈手ごめ〉という言葉を覚えたのは、この手の時代劇のテレビ欄における紹介記事だった。
 同じ時代に放映された人気時代劇の原作をほぼ同時に読み始めたのはまったくの偶然である。いや、少しは何かの力が働いているか。

     ◇

2000/09/08

 「梅安蟻地獄 仕掛人藤枝梅安」(池波正太郎/講談社文庫)

 この夏のお昼にテレビ東京で「必殺仕掛人」が再放送され、その録画を帰宅してから観るのが毎晩の楽しみになっている。
 本放送時、「木枯し紋治郎」の裏番組だったため、ちゃんと観た覚えがなく、再放送にも縁がなかった。
 僕が必殺シリーズに夢中になったのは第2作「必殺仕置人」で、その後しばらくご無沙汰して「新必殺仕事人」以降またハマったくちだ。だから「仕掛人」は本放送以来久しぶりの鑑賞ということになる。

 当時の印象としては緒方挙演じる梅安の坊主頭と針による斬新な殺しがすべてといった感じで強く記憶に残っているが、今回観直していろいろと発見があった。
 梅安の魅力はもちろんのこと、林与一演じる浪人・西村左内のストイックな生き方、華麗な刀さばきに惚れ惚れする。また、山村聡の元締め・音羽屋のしぶさがたまらない。梅安たちが酒を飲み、鍋などつつくシーンが見るからにうまそうだ。
 ストーリーもシリーズ後期のようにパターン化していなく、先の展開が読めないこともありけっこうハラハラさせられる。
 やはり原作がしっかりしているからだろうか、と小説を確かめたくなった。

 とりあえず短編シリーズからと思って、図書館に行ったら第1巻が貸出中。
 「木枯し紋治郎」同様どこから読んでもかまわないだろうとシリーズ第2弾の本書を読んだのだが、このシリーズは短編連作でストーリーがつながっているのである。しまったと思ったが後の祭り。
 「春雪仕掛針」「梅安蟻地獄」「梅安初時雨」「闇の大川橋」の4編が収録されている。春に始まって冬までの四季のうつろいの中で梅安たちの活躍を描く趣向が江戸情緒とあいまってたまらない魅力となっている。
 食事の場面はどれもみなおいしそう。描写がうまくて思わず舌なめずりをしてしまう。よく考えれば池波正太郎は食通として有名な作家であった。
 梅安の独白が独特の文体で書かれ、それがこのシリーズの特徴。

 小説の梅安は、確かにイメージは緒方挙であるが、大柄というところがどうも違う。コンビを組む相手もTVと違って楊枝職人の彦次郎。彦次郎といえばTVでは左内の息子の名前だ。元締めは表の商売が香具師の元締め、札掛の吉兵衛。
 音羽屋や左内はTVのオリジナルなのだろうかと思いながら読み進むと後半になってからゲスト的に登場してくる。この二人の設定とイメージはTVとまったく違う。
 今後音羽屋はもっと梅安にからんでくるのかどうか。「木枯し紋次郎」同様楽しみなシリーズができた。


2000/10/31

 「殺しの四人 仕掛人・藤枝梅安」(池波正太郎/講談社文庫)

 「おんなごろし」「殺しの四人」「秋風二人旅」「後は知らない」「梅安晦日蕎麦」の5編収録。本作も一年の季節をとおしての物語となっている。

 記念すべき第1作はTV化もされた(映画化もされているという)「おんなごろし」。料理屋のおかみ殺しを依頼された梅安が下調べに行くとおかみは小さいころに別れた妹だとわかる。にもかかわらず、梅安は評判の悪いこのおかみを何の未練もなく殺してしまう。梅安の少年時代、なぜ仕掛人になったかがわかる仕組みにもなっている。TVではこの妹を加賀まり子が演じていた。
 「殺しの四人」は梅安が昔殺した女の亭主が今では仕掛人となって梅安に復讐する話。
 「秋風二人旅」は彦次郎の復讐譚。京への旅の途中に見かけた侍は忘れもしない妻子を殺した無法者だった男。かつて無法者に犯された愛しい妻は子どもを連れて自殺してしまっのだ。妻子の仇とばかりにいきりたつ彦次郎をよそに梅安は侍がかつての無法者には思えなくて…という話。これもTV化されている。TVでは、彦次郎役に今はなき小林昭ニが扮し、無法者と侍の二役を天地茂がうまく演じていた。
 「後は知らない」は二人が京に滞在中に依頼された殺しに関して、命を狙うべき侍が実は善人で、依頼した方が悪人だと知った梅安たちが依頼人を殺してしまう話。
 似た話が最終話の「梅安晦日蕎麦」。これは彦次郎に依頼された殺しの相手が家来の母娘を犯し好き勝手放題の旗本に反抗した侍であること、依頼人がその旗本だとわかり梅安の協力のもと依頼人と同時に嘘をついて仕事を斡旋した元締めまでも殺してしまう姿が描かれる。<世の中に生かしておいては、ためにならぬやつを殺す>梅安の姿勢を明確にした一編といえるだろう。

 偶然にも1970年代初めに一世を風靡した時代劇(「木枯し紋次郎」と「必殺仕掛人」)の原作を読むようになった。「木枯し紋次郎」シリーズが読むたびに昔の映像が蘇ってくるのにくらべ、「梅安」シリーズにはこの夏再放送されたというのにそれがない。原作とTVがまったく別物という印象なのである。


2001/02/11

 「梅安最合傘 仕掛人・藤枝梅安」(池波正太郎/講談社文庫)

 シリーズ第3弾。6編収録。

 音羽の半右衛門と敵対する元締めから半右衛門の仕掛けを依頼された梅安の策略を半右衛門の人となりを交えて描く「梅安鰹飯」。このエピソードは大幅に内容が変更され「必殺仕掛人」でTV化された。
 昔自分の子を捨て、江戸に出てきた女が今では一女をもうけ亭主と幸せに暮らす。子捨てを目撃している梅安は激しい怒りで女に殺意を抱く、掌編とも言うべき「殺気」。
 道場相続の一件でお尋ね者になっている小杉十五郎が大坂から帰ってきた。彼の命を狙う男は、また料理茶屋の主人の過去をネタに脅迫。このものすごく腕のたつ男を梅安と彦次郎が息のあった仕掛けで葬りさる「梅安流れ星」。ラストの二人のやりとりにちょっとびっくり。
 命の恩人が実はこの世に生かしておけない奴だと知り、ためらいもなく仕掛けに走る梅安の活躍「梅安最合傘」。

 特に印象深いのが「梅安迷い箸」「さみだれ梅安」の2編。
 「梅安迷い箸」は料理茶屋の座敷女中に仕掛けを目撃された梅安の焦りが前半のサスペンスとなる。仕掛人の掟として現場を目撃された場合、理由の如何にかかわらず目撃者は殺さなければならない。しかし女は取り調べでお上に何も言わなかった。なぜなのか?調べていくうち女の薄幸な人生が浮き彫りにされてくる。梅安の身を案じ女を自分の手で殺めようと考える彦次郎をよそに梅安は決断する。女は殺さない。もしそれでお縄になってもそれはそれで仕方ない。しかしそんな女におとずれた小さな幸せがあっけなくくずれたとき梅安は……。女中おときと梅安のふれあい、真の悪を裁く梅安の心情が活写されている。
 最終話「さみだれ梅安」はまた小杉十五郎にまつわるエピソード。

 このシリーズ、収録作品が時系列に並び連作の形をとっているが、このエピソードだけ季節が「梅安鰹飯」の頃にもどるのだ。大坂からまいもどった十五郎が世話になった白子屋から仕掛けの話をもちかけられたのだが、相手が女なので躊躇する。女は料理茶屋のおかみ、婿をとり娘もできて先代から仕えている大番頭のもと店も繁盛している。なぜこの女を殺さなければらないのか、この殺しを依頼してきたのは誰か。梅安はそんな十五郎に交換殺人を提案する。女のずるさ、したたかさはまた梅安の憎むべき、忌み嫌うものだと意識させられる。
 十五郎を仕掛人に誘い込む白木屋とそれを許さない梅安との確執が予想されるラスト。
 今後の長編の展開に関係があるのだろうか?

 この項続く




 「忠臣蔵を読む」に続いて「時代小説を読む」シリーズに入る。
 第一弾は「木枯し紋次郎」。

     ◇

2000/08/25

 「木枯し紋治郎(七)木枯しは三度吹く」(笹沢左保/光文社文庫)

 今年6月、CSで市川崑監修・監督の傑作時代劇「木枯し紋治郎」が一挙放映されたという。もちろんわが家では観られない。市川監督作品を集めたLDが発売されたがすでにDVDの時代で今更LDを購入する気もない。
 利用するビデオレンタル店には2話収録のビデオが3巻おいてあって、何度か鑑賞済みだ。
 かつての映像ばかり追い求めていたわけだが、ふと原作の世界はどんなものだろうかと考えるようになった。江戸時代に興味をもつようになってから、時代小説にも触手をのばすようになった僕としては当然の帰結か。
 とりあえず図書館で借りようとしたら、川口も羽田も棚に一冊もない。「帰って来た」シリーズならあるのだが、旧シリーズが見当たらない。不思議なことに書店にも古書店にもないのである。
 で、やっと何軒も廻った末に川口駅近くの初めて行く古書店で見つけたのが本書だった。
 第一巻から読みたいけれどシリーズ自体一話完結のどこから読んでも問題ないらしいので、買ってきた。なんたって100円なんだから。

 笹沢左保の小説は初めての体験だ。
 小説を読むとTVシリーズがいかに原作のイメージに合った作りになっていたかわかる。紋次郎はまさしく中村敦夫しか考えられないし、文体からは芥川隆行のナレーションが聞こえてきそうだ。  
4編が収録されている。表題作「木枯しは三度吹く」のほか、「唄を数えた鳴神峠」「霧雨に二度哭いた」「四度渡った泪橋」。
 最初の「唄を数えた鳴神橋」では紋次郎の死を予感させる終わり方をする。解説を読むと、作者はこの話でシリーズを完結させようとしたらしい。しかしファンが許すわけもなく、続く「木枯しは三度吹く」で再スタートをきったとのこと。
 ミステリの作りは予想していたとおり。どんでん返しによる驚愕のラストはだいたい最初の伏線でわかってしまうのがちょっとものたりないか。でもくせになりそう。


2000/10/10

  「木枯し紋治郎(一) 赦免花は散った」(笹沢左保/光文社文庫)

 第一巻だけは記念として手元に置いておきたいと思って探し廻ったけれど、やはりどこにもなかった。あきらめて図書館で取り寄せた。
 収録作品は表題作のほか「流れ舟は帰らず」「湯煙に月は砕けた」「童唄は雨に流せ」「水神祭に死を呼んだ」の5編。

 TV時代劇「木枯し紋治郎」の最初の数話はまだ原作がそれほど書かれていなかったのか、「木枯し紋次郎」のプロトタイプともいうべき笹沢左保の〈渡世人シリーズ〉の短編をアレンジしたものだった。
 木枯し紋次郎がどのようにこの世に登場したのかとても気になるところで、興味津々で第1作「流れ舟は帰らず」を読み出した。驚いた。紋次郎は流人として登場するのだ。
 殺人を犯した仲間が先の短い母親の面倒を見たいというので、身代わりで島送りにされたのだった。脱獄に誘われるが、母の死後、仲間が自首してくると信じて、首を縦にふらない。昔からの仲間とはいえ他人のために罪をかぶり、その他人が助けに来てくれることを信じる紋次郎というのも珍しい。
 案の定、裏切られたことを知った紋次郎は島の連中と脱獄する。本土に向かう舟の上で裏切り、いざこざがあり、一人生き残った紋次郎は仲間への復讐を果たす。脱獄者は全員死亡、紋次郎自身も記録では死んだことになっているラストは衝撃的だった。無宿人という以上にまさに生きる屍となった設定に以後の紋次郎のキャラクターが決定づけられた。
 「流れ舟は帰らず」は江戸の大店の跡取息子である兄を探す妹に協力する紋次郎が描かれる。ここでも紋次郎は自分から他人と接触している。
 「湯煙に月は砕けた」は撮影中に中村敦夫がアキレス腱を切って、放映が中断する間際もしくは再開された最初の作品の原作。事故で足に重症をおった紋次郎が伊豆の温泉宿で湯治する。そこへ無法者たちがやってきて村を襲う。敵に長脇差をとりあげられ、手も足もでなく事態を傍観せざるをえない紋次郎がなんとか動けるようになって、湯女らの、死と引き換えの協力のもとラストで悪人たちを相手に大殺陣を繰り広げるくだりは興奮もの。戦の前に、手甲脚絆、草草履を身につけていくしぐさがまさしくヒーローでしびれてしまう。
 「童唄は雨に流せ」では早くも紋次郎の出世の謎が明かされる。紋次郎のやさしさが逆に母子を死にいたらしめる結果となる悲惨な物語だ。
 「水神祭に死を呼んだ」は無宿人の無残な最期を描く人斬り伝蔵と紋次郎の邂逅の物語。ラストのどんでん返しが効いている。

 巻末の縄田一男による解説が楽しい。
 作者は時代劇のハードボイルド、マカロニウェスタンを狙ってこのシリーズを創作したという。  
「赦免花は散った」は菅原文太主演の東映映画化作品の原作だと知り、菅原紋次郎に違和感のあるにもかかわらずその映像化作品を確認したくなった。
 その他の作品もTV化されているので、また第1話から鑑賞したくてたまらない。


2000/11/07

 「木枯し紋治郎(二) 女人講の闇を裂く」(笹沢左保/光文社文庫)

 さっそく図書館に第2巻をリクエストして取り寄せた。
 「女人講の闇を裂く」「一里塚に風が絶つ」「川留めの水は濁った」「大江戸の夜を走れ」「土煙に絵馬が舞う」の5編が収録されている。
 渡世人・木枯し紋治郎が目的なき旅の最中に出会う事件をさまざま舞台、設定を用いて描き、その中で紋治郎の人間性を鮮やかにクローズアップさせる寸法。
 この(二)には特に多種多様な設定が用いられていて、作者のこのシリーズを続けるにあたっての意気込みが感じられる思いがした。人を信じない紋治郎がどのように形成されたかが描かれるエピソードが並び傑作ぞろいの作品集である。

 とある村の20年前の庚申待ちの夜、藩の武士に襲われたいいなづけを助けようと、相手を殺した若者が村の実力者の裏切りで藩に引き渡され、若者は20年後の復讐を宣言して村を去った。その復讐におびえる(商売敵が現われて)今ではすっかりおちぶれてしまった村の実力者。そこへ紋治郎がとおりがかって村を救うことになるのだが、この復讐話には巧妙な罠が仕掛けられていた……という「女人講の闇を裂く」。

 妻のいわれなき殺人に抗議し故郷を捨て、人里離れた土地で農機具の鍛冶に精出す刀鍛冶と長脇差を欠いた紋治郎との出逢い。紋治郎は妻の無実を信じる刀鍛冶と夫に従順につかえる妻の姿を見てやすらぎを覚え、ふたりの命を狙いにやってきた魔の手を一網打尽しするのだが、後からやってきた刀鍛冶の妹の話から妻の意外な事実が判明してしまう「一里塚に風が絶つ」。

 姉にうりふたつの壷振りの女と珍しく道中をともにする紋治郎が若くして死んだ姉の死の真相を知る「川留めの水は濁った」。自分の命を救ってくれた姉が死んだと聞いて家を出た紋治郎の、姉に対する憧憬を事細かに描き出した異色作。

 異色といえば「大江戸の夜を走れ」も三度笠、道中合羽から町人姿となった紋治郎が描かれるという点ではいつもの趣きではない。処刑される罪人に妻子の無事を伝えるため浅草に赴いた紋治郎は罪人から謎のサインを送られる。行動をともにした罪人の愛人の不可思議な動きから、サインは罪人が隠し持っている大金の在処を示すものだと知り、夜中、江戸から妻子の待つ下高井戸まで突っ走る。夜空が徐々に明るくなっていくくだりの描写がいい。「視界が、水色に染まった。」にしびれた。

 「土煙に絵馬が舞う」はTVのエピソードのあまりの悲惨さでよく憶えている。鉄砲水に襲われ荒れ果てた土地にしがみついている貧しい百姓たち。定期的に襲ってくる無法者がいても土地を離れようとしない。無法者の首領が言うにはこの土地のどこかに盗んだ百両が隠されていると。農民の長は「知らない」と答える。貧農出身の紋治郎にはそれでも土地に縛られてしまう農民の性がわかる。わかるから長の言葉を信じ、やがて無法者たちと一戦を交えることになる。紋治郎と狂女以外全員が死に絶え、虫の息の長から「お前が来なかったら百両は全部おれたちのものなったんだ。お前のせいで皆死んだ。皆お前を恨んで死んでいった」と罵られる、何ともやりきれないラスト。救いのない「七人の侍」といえようか。

 人嫌いの紋治郎が、それでもどこかで人を信じ、しかしそんな気持ちを粉々に踏みにじられる様が各編ににじみでている。


2000/11/15

  「木枯し紋治郎(三) 六地蔵の影を斬る」(笹沢左保/光文社文庫)

 どこを探し廻ってもなかった光文社文庫版の「木枯し紋治郎」シリーズだったが、図書館にリクエストしたとたん、次々と古書店で見つかることが続いた。ある古書店ではシリーズ全巻がセットで並んでいたりして、もっと早く知っていれば購入していたものを、と地団太踏んだ。
 が、(これが私のおかしなところなのだが)一度図書館で全巻取り寄せることを決意したら、その方針を崩したくない。
 で、本書も図書館へのリクエスト。
 表題作のほか「噂の木枯し紋治郎」「木枯しの音に消えた」「雪燈籠に血が燃えた」の4編収録。

 身に覚えのない親分殺しやくざの子分たちに命を狙われる紋治郎と彼の身を守ろうと親しげに近づいてくる謎の男の出逢いと別れを描く「六地蔵の影を斬る」。
 文中に必ず描写される紋治郎の風貌~左頬の刀傷、口にくわえた五寸の楊枝、汚れた三度笠、道中合羽~これを逆手にとったのが「噂の木枯し紋治郎」。巻頭早々紋次郎が殺されてしまうのだ。まあ、そんなことはありえないことで、殺された木枯し紋治郎は余命いくばくもない無宿人が扮した偽者だったことがわかる。なぜ無宿人が金のために自分の命を売ったのか、その謎に迫る紋治郎の活躍が描かれる。
 本書の一番の注目は「木枯しの音に消えた」。紋治郎がなぜ五寸の楊枝をくわえ、木枯しの音をさせるのか、その謎が明らかになる。
 若かりしころの紋治郎とある浪人親娘の出逢い。その娘が楊枝を使ってある音色をだす。それを紋次郎が真似したというわけだ。ただ紋次郎だと木枯しが吹くような寂しい音色になってしまう。浪人親娘が住む町にやってきた紋次郎が娘の幸せを願って悪人たちをたたっ斬るのだが……。
 「雪燈籠に血が燃えた」にも紋次郎のやさしさが滲み出ている。
 今は亡き姉の子を連れた婚期を逃した女。子には父がいない。村でも差別されている。その子が作った不細工な雪燈籠。知り合った紋治郎がその子に昔の自分を見て、無法者たちの金儲けの犠牲になった子の仇を討つ。そしてラストにお待ちかね、「あっしには、関わりのねえことで……。」

 巻末の解説で詩人の郷原宏は笹沢左保は文体を持った作家だと書く。
 笹沢時代小説の記念すべき第一作「見返りとうげの落日」の冒頭の場面から引用して「いた」「続けた」「出た」「暗かった」と続く<TA音>の連打が快調な文体のリズムを作り出し、とある。それがそのまま主人公の歩行のリズムに重なっている、と。
 実は初めて「木枯し紋次郎(七)」を読んだとき僕は逆に<TA音>の連打が気に障った。情景描写、時代描写はまさしくTVのナレーションを聴く思いがしたが、紋次郎の行動を描くところでこの過去形ばかりの文章がリズミカルじゃないと感じたのだ。
 ところが巻を読み進めるほどこれがなんとも心地よくなるのだ。そしてその描写は氏が指摘するようにまるでカメラなのだ。始めはロング、そしてアップになって、と文章が映像になっている。だからこそ読むたびに昔の作品が観たくてたまらなくなるのだろう。




 9日(木)に発売された雑誌「Hanako」の特集は「本とカフェ。」。表紙の女優の高畑充希さんが目印です。
 〈気になる本116冊、行きたいカフェ75軒!〉 とあって、ブックカフェ二十世紀が75軒中の1軒として紹介されています。
 取材はオーナーのS氏が受けていまして、2冊の本をお薦めしています。

  「ファイヤー」(水野英子/朝日ソノラマ)
  「万年前座 僕と師匠・談志の16年」(立川キウイ/新潮社)

 どちらも、お店で開催しているイベントに関連しています。
 昨年の春、金原亭馬好師匠主催の会があって、ゲストが水野英子さんでした。馬好さんはマンガが大好きで、研究家でもあるんですね。馬好師匠、その前にブックカフェ二十世紀で一度落語会を開催していて、この日が2回めでした。ゲストが水野さんということもあってか、お客さんが60名弱いらっしゃって、現在のところ、集客の最高記録となっています。

 キウイ師匠は、隔月開催の「フタイ×キウイの二人でイイ噺」のレギュラー。一昨年の暮れ、ブックカフェ二十世紀の一周年記念忘年パーティーの余興ゲストでした。
 今年になってから、元「暮しの手帖」副編集長で定年退職してからは映画ジャーナリストとして活躍している二井康雄さんと映画についてあれこれおしゃべりするトークショーを企画、おかげさまで、人気を博し、隔月開催のイベントになりました。

 私、石森章太郎「マンガ家入門(正続)」、藤子不二雄「まんが道」の愛読者でして、トキワ荘への興味からいつしかトキワ荘本を収集するようになりました。
 トキワ荘の想い出を綴った短編以外、水野さんのマンガは読んだことはないのですが、トキワ荘の住人として、石森章太郎や赤塚不二夫と合作したり、その名前は小学生のときから存じております。メディアへの登場がないので、ブックカフェ二十世紀にいらっしゃったときは、少々緊張しました。

 キウイ師匠の「万年前座」は刊行時に読んでいます。そのときの感想はここに書いています。ただ、購入しませんでした。買うつもりでいたところ、ちょうど知り合いの方が購入したので借りてしまったんです。
 忘年パーティー時に本を販売したので購入して(サインもいただきました)再読しました。
 感想は、一度めとほぼ同じでしたが、落語修行に関してなんか他人事だよなぁと思いました。

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一応この項から続く

 市川崑監督の「四十七人の刺客」が公開されたのは1994年の4月。この年から僕の忠臣蔵本読みが始まった。
 2000年にHP「夕景工房」を開設し、映画の感想や読書レビューを毎週更新していた。
 読書レビュー「買った! 借りた! 読んだ!」に掲載した分を転載する。

     ◇

1999/10/19
          
 「忠臣蔵コレクション4 列伝篇 上下」(縄田一男編/河出文庫)

 この河出文庫版の「忠臣蔵コレクション」は本伝篇と異伝篇の2冊で完結と思っていたら、列伝篇上下があってあわてて借りてきた。
 時代小説の大御所たちの短編が網羅されていてなかなか読み応えがあった。

 「列伝篇 上」では池波正太郎の「火消しの殿」、直木三十五の「寺坂吉右衛門の逃亡」、多岐川恭の「夜逃げ家老」、井上ひさしの「毛利小平太」が面白かった。いわゆるアンチ赤穂義士という味わいがあるからだろう。
 「火消し殿」は浅野家に小姓としてとりたてられた美貌の青年からみた浅野家断絶が描かれている。何より内匠頭の男色、その執着ぶりを上野介にとがめられたことが刃傷の原因だったというのが興味深い。
 足軽の悲哀がにじみでていたのが「寺坂吉右衛門の逃亡」。討入り寸前まで他の浪人たちと差別された寺坂が怒って、討入り最中に逃亡、しかし死人に口なしで「討入り成功の報告」をするという口実で関係者を訪ね歩き寺坂自身が後世に名を残すという趣向。伝説を逆手にとった解釈でなるほどある部分納得してしまった。
 討入り直前に毛利小平太がなぜ脱盟したのか、その理由を描いたのが「毛利小平太」だ。吉良側に正体がばれてしまった毛利を逆に赤穂側が利用する。動向を見守られている毛利自身は討ち入りに参加できないということで、それを聞かされ愕然となった毛利は逃亡を図るのだった。これも哀しい話である。

 「列伝篇 下」では、澤田ふじ子「しじみ河岸の女」、菊地寛「吉良上野の立場」、長谷川伸「小林平八郎」、湊邦三「元禄武士道」が印象に残る。
 若い浪士と娼枝に身を落とした幼なじみの心中に大石内蔵助の非情が関係していることを鮮やかに描く「しじみ河岸の女」、普通の感覚で読めば当たり前のことで、なぜこれが世間に受け入れられないのだろうかと思える「吉良上野の立場」、吉良側の人間模様の「小林平八郎」、まさに正統派忠臣蔵のエピソードであり、主人公の浪人と弟子の関係が心暖まる「元禄武士道」。
 忠臣蔵を取材した短編というのはどのくらいあるものだろうか。全く違ったテーマで書かれたものでも連続して読むと、ちょっとした連作集の趣きがあるのが不思議だ。


1999/12/21

 「忠臣蔵大全」(勝野真長 監修/主婦と生活社)

 昨年暮に購入した忠臣蔵本の一冊で、「元禄繚乱」が始まったのを契機に、ドラマの進行に合わせてちょびちょび読み進めてきた。辞典的活用法で読むのもたまにはいいだろう。
 本書で新たに知った事実は、吉良討ち入りに手本があったということ。
 30年前に起きた通称「浄瑠璃坂の仇討ち」といわれるものがその手本だという。奥平源八が父((内蔵助)の仇・奥平隼人邸に討ち入りした。源八は伊豆遠流の処分に付されたが、6年後、恩赦で罪を許され、その後彦根の井伊家に召しかかえられた。
 大石と参謀役の吉田忠左衛門はこの仇討ちを参考に討ち入りをしたのではないかと書かれている。 もしかした赤穂浪士たちも源八と同じ処分を期待していたのだろうか(本書は否定しているが)。

 で、思うのだが、その浄瑠璃坂の仇討ちの事件は世の関心を呼ばなかったのだろうか、芝居になって一世を風靡しなかったのだろうか。


2000/01/08

 「忠臣蔵 -赤穂事件・史実の肉声」(野口武彦/ちくま新書)

 一度読んであまり面白くなかった印象があった。その後小林信彦の書評コラム(週刊文春連載)で取り上げられ、本書がもっと早く出版されていたら「裏表忠臣蔵」の執筆がもっと楽だったろう、というような感想を書かれていたので、もしかしたら僕の読み方が間違っていたのだろうかと思い直した。
 岩波新書の「忠臣蔵」同様購入してもよかったのだが、年末羽田図書館に寄ったら、幸いにも置いてあったので借りてきた。(以前もここで借りたのだ。)
 本書の特徴は完全なる資料第一主義という立場で赤穂事件の真実に迫っていることだろう。過去の資料文献でも信用していいもの、できないものを区分けして、当時の事件を推理していく。そして赤穂事件とは何だったのかを解き明かすのだ。だから史実の肉声なのである。昔の文献もむずかしいものは口語訳して読みやすくしてあるし、入門編としてはとても最適な参考書である。
 面白い。なぜ前回の時にはそう感じなかったろうか?


2003/01/27

 「忠臣蔵夜咄」(池宮彰一郎/角川書店)  

 2002年は赤穂浪士の討ち入り300周年だったという。また著者が「四十七人の刺客」を上梓してから10年という区切りがいい年。ということで、もう一度忠臣蔵を振り返ってみようという趣旨で、これまで忠臣蔵をテーマにして書いたエッセイや対談、鼎談などをまとめたのが本書である。  
 現在僕が江戸時代に興味を持っているのも、もとをただせば「四十七人の刺客」が要因だった。市川崑監督によって映画化された作品を観て、もっと詳しく忠臣蔵を知りたいと思い、さまざまな参考書、関連書をあたった。そこから徐々に他の事件、人物に興味に範囲が広がっていったのだ。時代小説を読み始めたのも「四十七人の刺客」が最初ではなかろうか。  

 とにかく忠臣蔵についてはまず史実として赤穂事件(松の廊下の刃傷と討ち入り)がどのようなものであったかが知りたかった。  
 著者も映画「四十七人の刺客」公開前後に縄田一男と組んで「池宮彰一郎が語る忠臣蔵のすべて」(PHP研究所)を上梓して、そこらへんのことに触れている。ところが〈事情があって現在入手不可能である〉と本書でことわっている。読んでいてこの文章どこかで目にしたことがあると思ったのは、「……忠臣蔵のすべて」に所収されたものだったのだ。  

 刃傷の原因について、著者は若者と年寄りの考えの違いに起因するのではないかと自説を展開させ、なるほどと思わせる。  
 若者(浅野内匠頭)と老人(吉良上野介))の言葉の行き違い。痞(つかえ)を患い、鬱状態になっていた浅野が自分の言うことを頭ごなしに否定し、事細かく指示してくる吉良に対してストレスを爆発させたのが刃傷に及んだのだと。  
 刃傷沙汰を犯した浅野内匠頭を深く追求もせずその日のうちに切腹させた幕府(柳沢吉保)の思惑も解説している。  
 もし仮に喧嘩両成敗にすると御三家と縁せき関係にある吉良に傷がつくことを恐れたというのだ。上野介の実子は上杉家の養子、紀伊大納言の三女を妻に迎えている。紀伊から将軍がでるとなると何かと都合が悪いというわけである。幕府は刃傷の理由を悠長に調べている暇はなかった。だから討ち入りも、単なる仇討ちではなく、片落ちの裁定を不服とした大石一派の幕府に対する反抗であると。なぜなら大石にお家再興の意思がなかったところから説明する。これも大いに首肯できる。そうでないと47人もの徒党を組んでたった一人の老人の首をとる大石たちの行動が理解できなくなるのだ。  
 まあ、どんな理由があろうと殿中で抜刀した浅野内匠頭は藩主として失格ではないかというのがわかってくる。


2004/08/24

 「赤穂落城 元禄の倒産とその結果」(童門冬二/経済界)  

 童門冬二が書く歴史ものはとてもわかりやすい。まず文章が読みやすい。現代の視点から歴史を紐解くというアプローチの仕方が歴史素人にはとっつきやすい。特にビジネスの観点から語ってくれるのでサラリーマンには参考になる。総務部に所属していた頃は「月刊総務」という雑誌に連載されていた童門冬二の記事だけは読んでいた。歴史上の人物の評論で、いかに人をまとめ導いていくかという観点で論じていた。  

 元禄の刃傷事件、討ち入り事件、いわゆる忠臣蔵事件について、賞賛だけでなく当時から批判もあったという。
「刀をぬいてはならないという江戸城で刀を抜いたのは浅野のほうだ。吉良に罪はない、悪いのは浅野だ。罪を受けるのは当然だ。それを、吉良に恨みを持ってこの首を取るなどというのは、浅野家の家来の逆恨みだ」  
 というもの(本書9ページ)で、著者は事実はそのとおりと書いている。が、そんな単純なものではないと、大石内蔵助を〈倒産した企業の代表的重役〉と見立て、彼が吉良上野介の屋敷に討ち入る決心をするまでの苦心談を綴ったのが本書なのだが、刃傷事件はあくまでも浅野に非がある、吉良は悪くないと思っている僕には納得がいかないものであった。   
 喧嘩両成敗のしきたりに則っていないと指摘するのだが、何が喧嘩なのか僕にはわからない。第三者的に刃傷事件を見れば、浅野が勝手に怒り、刀を抜いて吉良に斬りかかったのである。これのどこが喧嘩なのか。やはり非は浅野にある。
 幕府の落ち度は、事件が起きてから詳細について調査しなかったことだろう。浅野に対してなぜ刀を抜いたのか、その理由を確認せずにさっさと切腹させてしまったことが悔やまれる。ただし刃傷事件の理由が判明されていれば、1年後の討ち入りもなかったかもしれない。忠臣蔵の芝居も成立しなかったのだ。そう考えれば結果オーライ?




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
私家本「僕たちの赤い鳥ものがたり」
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」

神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。遊びにきてください。

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