もうひとつの夕景工房

エンタテインメントを肴にしたエッセイというかコラムというか……

初めて大阪へ、紙ふうせんコンサートへ

 承前

 サンケイホールはかつて東京と大阪両方にあった。東京は大手町に「サンケイホール」として、大阪は梅田に「大阪サンケイホール」として。東京のサンケイホールはずいぶん昔に閉鎖された。いつだったのだろう? 大学生のころだったか、社会人になってからか。80年代だったことは確かだ。以降大阪だけの劇場ホールになって、個人的には紙ふうせんのコンサートがよく開催されるホールとしてインプットされた。

 紙ふうせんFCが出来たのは「冬が来る前に」ヒットの後だった、と思う。高校3年のとき、あるいは予備校生のときに事務所から案内をもらった。後藤さんが提唱(?)する〈歌を通した文化活動〉に興味を持った僕はファーストアルバム「またふたりになったね」のライナーノーツで冊子「紙ふうせん」を発行していることを知った。購読したくて事務所に二度ばかり手紙をだしたのだ。住所を控えていたのだろう、で、案内が郵送された。
 FCの結成はうれしかった。が、このときは入会しなかった。自分なりの考えがあってのこと。当時FCの存在をバカにしていたところがあった。歌手が新曲をリリースすれば、FCから連絡があってTVやラジオの歌番組にリクエストしようなんて依頼が来る。それが会員のノルマ、なんてことがあるのではないかと相手にしていなかった。

 FCの存在意義を知ったのはずいぶん経って、社会人になってからだ。
 情報収集。それにつきる。
 紙ふうせんの場合、関西に帰ってしまってまるでその活動が見えなくなってしまったのだった。
 もっと早く入会していれば、東京で開催されるコンサートに足を運べたのだ。大学時代、紙ふうせんは年に何度か関東でライブを行っているのである。
 80年代半ばにFCに入会してから送られてくるコンサート情報はほとんど関西以西だった。秋になると事務所主催のコンサートのチラシが同封されるのだが、結婚して子どもができた身では往復の新幹線代が捻出できない。毎年、くやしい気持ちでいっぱいだった。そのチラシにサンケイホールと明記されていたのを何度か見ているのである。

 初めて紙ふうせんの生のコンサートを観ることができたのは1991年。6月30日だった。仕事を無理やり入れて出張という形で大阪にでかけた、確か。

 当時の日記から。

                            *

 8時40分、東京発のひかりに乗り込み大阪へ。
 12時30分、Hさん(FC会長)と待ち合わせ。
 昼食をとった後、コンサートまで時間があるということで、海遊館へ行き水族館を見学する。
 18時30分、開場、胸をときめかせながら一番で入場。
 19時、コンサート開演。
 キーボード、サックス、ドラムスがまずセッティング。そして、サングラスをかけた男性3名(後藤さん、西口さん、+ギターの人、この人ジョン・レノンに似ていて、キャラクター的に面白い)が登場。その姿はまるでTMN。
 1曲めは「翼をください」。
 過去のコンサートを見たわけではないので、今回と比較できないが、よりポップに、よりアダルトに、って感じで、その方向性が自分に合っている。特にサックスがバックに加入していたのがうれしい。
 ただ紙ふうせんのファンがそれを求めているかというとはなはだ疑問だ。

 第二部はフォルクローレから始まる。
 「コンドルは飛んでいく」「別れの鐘」をゲストのフォルクローレバンドの演奏で唄い、フォルクローレ好きの僕をグッとさせる。
 続く「霧にぬれても」あるいは大感激の「紙風船」(今回、フォルクローレ風アレンジだった)などを聴くと、紙ふうせん(というか後藤さん)のメロディ作りはフォルクローレにあると思われる。

 ラスト。
 アンコールで「竹田の子守唄」ともう1曲唄ったのだが、そのときショーゲキ的発表があった。
 紙ふうせんに2人加入し、今後は「TSU-BA-SA」というグループ名で活動していくというのだ。
「紙ふうせんの名はどうなってしまうの?」
「でも、今日のステージは、確かに新グループとして見た方が良かったな」
 
 この項続く







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独立愚連隊でもU警備隊でもなく、ただ一人 西へ

 生活の中である種の規則性が生じてきて、そのことをはっきり自覚すると以降そのパターンに従って行動するところがある。自分の中で決まりごとができるとしっかり遵守するというべきか。

 たとえば、大晦日の夜、ハーゲンダッツのアイスを食べながらテレビ東京「ジルベスターコンサート」のカウントダウンを観るのが、いつのまにかわが家の恒例行事となった。
 休日家にいるときは近所のファミリーマートで必ず購入するものがある。「ぼくのおやつ」のメキシカンチップスタコスとファミマオリジナルのカフェオレ。計205円。カフェオレを愛用のカップに注ぎ、タコスをつまみながらTV番組やDVDを鑑賞するのである。105円の「ぼくのおやつ」シリーズはいろいろな種類があるが、メキシカンチップスタコス以外に手をだしたことない。
 
 同じことが大阪行きの新幹線に乗るときにも言える。だいたい昼過ぎに東京を出発する新幹線に乗るので、列車内で昼食をとることになる。さて何の弁当を買うか。これも決まっている。ホームの売店で売っているカツサンドとカフェオレだ。ついでにビールとカキPも買っておく。
 座席についてもすぐには食べない。走り出して品川を通過したあたりで、袋からカツサンドとカフェオレを取り出す。食べ終わると今度はビールのプルトップを引く。こうしてカキPをつまみにしてしばらくの間読書にいそしむわけ。

 11月3日(火)の文化の日、12時ジャスト東京発のぞみ229号で大阪へ。今回の旅の友は「テレビの笑いを変えた男横澤彪かく語りき」(扶桑社)。ニッポン放送からフジテレビに移籍したアナウンサー塚越孝がかつてのフジテレビ名物プロデューサー横澤彪にインタビューした本だ。読了すると「チーム・バチスタの栄光」(海堂尊/宝島社)を取り出して読みすすめる。人気が高くて地元の図書館に予約しても順番がまわってこない。別の図書館にあったのであわてて借りてきたのだ。

 15時前には大阪に到着してしまった。
 とりあえず、会場となるサンケイホールブリーゼに向う。
 大阪(梅田)には何度も来ているが、未だに場所が点でしか理解できない。線としてつながらないから、看板等を確認しながら今自分がどこにいるのか、目的の場所はそこからどう行けばいいのか、あれこれ考える。今回は某ブログで紹介されていた地下街を通るコースを参考にさせてもらった。確かに楽にたどり着くことができた。
 エスカレーターで地下から1階に出る。以前とまるで様子が違った。ここファッションビルじゃないか! 吹き抜けには巨大なあやつり人形(ピノキオ?)が設置されている。10mはあるだろうか。お客さんの多くが皆人形を見上げている。音楽に乗って人形が動いているのだ。あまり滑らかな動きではないが。時計を見ると15時過ぎ。からくり時計みたいなものか。
 そのままエスカレーターでホールのある7階へ向う。
 おしゃれなカフェが目に入った。ショーケンコネクションと連絡がとれなかったことが残念でならない。彼らとここで情報交換できるのに。今年は何かと話題が豊富だし。mixi退会して連絡の術を失った。

 ホール入口。鮮やかなスタンド花がいくつも並んでいた。宛名は「紙ふうせん」。「紙ふうせんリサイタル2009」が17時30分から開催されるのだ。


 この項続く
 






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訃報 噺家二人

 相変わらず平日に更新ができない。「カムイ伝」のレビューを書き上げるのがやっとだ。
 これからは週一更新が恒例になるのだろうか。昔の夕景みたい。
 昨日はSET第47回本公演「ステルスボーイ」を観劇した。劇団の創立30周年記念公演でもあった。まあ、この劇団にハズレはない。個人的には音楽及び三宅&小倉コンビのやりとりの要素が高いと満足だ。
 ちなみに今日は映画サービスデー。懐具合を鑑みて映画鑑賞はパスした。家でじっとしていた。「沈まぬ太陽」は来週観るつもり。「アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち」もどこかで押さえたい。


 
                             *
 
 一昨日、夕方近くだった。ネットのニュースで三遊亭円楽さんの訃報を知った。
 「笑点」等で子どものころから親しんできた噺家だから、引退を表明したとき以上にショックだった。せめて楽太郎さんの「円楽」襲名披露を見届けてほしかったという気持ちがある。
 親しんできたといっても、あくまでも「笑点」の大喜利のレギュラー回答者、司会者としてだ。落語はあまり聴いたことはない。それでもレギュラーの噺家の中では一番耳に(目に)したかもしれない。あくまでもTVで、だが。

 享年76。南田洋子さんと同い年だ。
 昔からの「笑点」大喜利レギュラーの歌丸さんが73歳、木久翁(以前は木久蔵)さんが72歳。確かに年とった。
 あるいは僕らが十代のころに夢中になったアニメ。主人公たちを演じた声優さんたちも、声は当時とそれほどの違いはないものの、年齢だけ見ればもやはり皆七十代、これまで何度か書いていることだが、両親世代の終焉が近づいているということだ。
 この世代の訃報は、ある種仕方のないことなのかもしれない。

 翌日の朝日新聞(朝刊)で、円楽さんの死は一面で伝えられていた。文化面には矢野誠一氏の追悼文(談話)が掲載され、社会面でも大々的に取り扱われていた。楽太郎、歌丸、談志、3氏へのインタビューの中で、言葉少ない家元の反応が興味深かった。
 かつて〈落語四天王〉という名称があった。命名者が矢野誠一氏であることを「落語家の居場所 わが愛する藝人たち」(日本経済新聞社)で知った。僕らの感覚だと〈四天王〉とは志ん朝、談志、円楽、円鏡(現・円蔵)である。しかし、矢野氏は志ん朝、談志、円楽、柳朝の4氏について名づけたのだった。
 柳朝、志ん朝の二人はすでに亡くなっている。で、今回の円楽さんの死である。家元自身、身体の具合を考慮して現在休養中なのだ。「残念です」の言葉にいろいろな思いがつまっている気がしてならない。

 同じ紙面の訃報欄に目を移して声をあげた。
 「立川文都」の名前があったからだ。立川流の噺家さんの一人。一度だけ高座を拝見したことがある。昨年5月、国立演芸場で開催された「立川流落語会」だった。大阪弁で演じる江戸前落語(?)とはこういうものか、と思った。
 胃がんのため死去。享年49。まさに同世代。もしかしたら同い年かもしれない。
 噺家としてこれからの10年が意味を持つのに、無念でたまらないだろう。

 合掌。







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「カムイ外伝」

2009/10/03

 「カムイ外伝」(MOVIXさいたま)

 H氏から久しぶりに電話をもらった。元会社の同僚で、特撮、ミステリ、アニメ、漫画等々、その手の話が合う。前回は正月休みに西川口で飲んだのだった。昨年だっけ?と訊いたら、一昨年だって。まったく月日の経つのは早い。
 用件は「カムイ外伝」のチケットが手に入ったから一緒に観に行かないか? というものだった。断る理由なんてない。

 「カムイ外伝」はTVアニメで夢中になった世代だ。といっても内容なんてほとんど憶えていないのだが。白土三平のマンガを知るのはずっと後である。マンガは読んだことがない。「カムイ伝」という作品があることも知った。80年代、ビックコミックに連載された「カムイ伝 第二部」は立ち読みしていたような。
 予告編は何度も観ている。脚本・宮藤官九郎、監督・崔洋一のクレジットに反応したのだが……。

 冒頭のナレーションに萎えた。別に山崎努が悪いわけではない。いかにもな、ごくごくあたりまえな導入にがっかりしたのだ。まったくクドカンらしくない。
 だいたい、なぜバックに白土三平の絵を使用するのか。逆効果ではないか。松山ケンイチのカムイに納得して観に来たオールドファンに往年のアニメ、マンガの世界を思い出させてしまう。この処置は決して原作に対する敬意ではない。そう考える方がおかしいのだろうか。

 マンガを実写化するにあたって、一番困ってしまうのが、平面だから成り立ついかにもマンガ的なキャラクターを、原作そのままに映画(ドラマ)で再現させてしまうこと。モノマネ番組ではないのだから、実写のリアリティということをきちんと考慮してもらいたい。
 たとえば、H氏が指摘し、僕も同じこと考えていたと膝を打ったのがTBSでドラマ化された「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。ドラマの中で中川や麗子にマンガのと同じく黄色やピンクの制服を着せていた。香取慎吾を両さん役にキャスティングしたこと以上に、スタッフのセンスが問われることだと思っていた。
 手塚治虫の「ブラックジャック」だって、本当の意味で実写化するとなると、それなりの変換措置をとるべきだなのだと思っている。

 映画は冒頭からカムイと追忍との戦い、アクションにつぐアクションで引っ張っていくのだが、ワイヤーワークバレバレの動きにまるでノレない。破天荒な忍法を再現するのにワイヤーは必要不可欠であることは十分理解できるが、見せ方というものがあろうだろう。こんなアクションで興奮できるものか。
 CGを使って、斬新な映像を見せてはくれるのだが、CGがCGでしかないため(つまり本物に見えないため)興味は半減してしまう。鮫のシーンなんてロングはCGだとしても、アップになったら、実物大の造形物を使用すべきだ。日本映画の悪いところは、CGで作った被写体はすべてCGでしか描かない。どんなに斬新で驚異的なショットだとしても、嘘くさい映像になる。崔監督は全編を覆うCG映像に満足しているのだろうか? 唯一成功しているのは馬の足を切断するショットぐらいか。

 本当に宮藤官九郎が脚本を書いているのかと疑問に思うことがたびたびあった。ナレーションの多用がその一つ。冒頭だけならまだしも、最後まで、途中々さほど必要と思えないことも解説してくれるのだ。
 半兵衛(小林薫)が領主の愛馬の片足を切断して持ち帰ると、その蹄を切り刻んで何かを作る。完成した〈もの〉がアップなるとそれが何なのかわかる人にはわかる。だいたい次のシーンクェンスで何に使われるものなのか判明する仕掛けになっている。にもかかわらず、アップになったときに、ナレーションで説明してしまうのだ。余計なお世話だって。
 ほかにも説明台詞が散見された。慣れない時代劇だからだろうか。どうにもしっくりこない。ピンときた。脚本のクレジットにはクドカンのほかに監督自身の名前もクレジットされている。共同脚本。監督が決定稿を仕上げるにあたってクドカンのものに手を加えたということだろうか。この過程でオーソドックスな構成、台詞に書き換えられた。要は〈脚本:宮藤官九郎〉のクレジットは疑似餌ならぬ撒餌……なんて考え過ぎか。

 映画は〈渡り衆〉が登場するあたりから、スクリーンを注視できるようになる。不動を演じるには伊藤英明は若すぎる気がしないでもないが。カムイに向って「若いの」なんて言われると「それほど年齢は離れていないだろうが」と突っ込みを入れたくなった。クライマックスのアクションは悪くない。

 「まあ、いいんじゃないの、タダだしさ」とはH氏の感想。前半どうなるかと心配だったが、後半盛り上がった。それなりに感情が昂ぶったということで、「TAJOMARU」よりは評価できるのではと思う。 







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訃報 南田洋子 〜遅ればせながら

 10月になって、会社の、部署の組織が変わった。新しい仕事も加わってとたんに忙しくなった。
 特に今週、いやもう先週か、毎日があわただしく過ぎていった。とにかく疲れる。ブログを更新する気力がない。単なる日記を記すのはポリシーに反するし、だいだい意味がない。
 やっと休みになった昨日なんて、本当の力仕事で腰の疲れは尋常ではなかった。定時より早く帰れたけど、びっこ引いてましたから。夜中うなされて、朝起きたら身体中が痛かった。
 
 今日は疲れた身体にムチ打って「愚連隊祭り2009」へ。
 面白かった。高橋監督には上映作品についていくつか確認したいことがあって、打ち上げに参加したかったが、明日の(仕事の)準備があるため帰ってきた。
 この件についてはまた後日……。


 書きたいことはいろいろある。
 まず映画「カムイ外伝」の感想が滞っている。書きだしたとたん忙しくなってしまったのだ。

 南田洋子さんが亡くなった。
 くも膜下出血で倒れたとニュースで知って、長くないとは思っていたけど。
 出演された数々のドラマを見ているのだが、何のドラマが印象深かったかというと、思いつかない。もちろん、「太陽の季節」に主演して一世を風靡したことは知識としてありますよ。この映画が縁で長門(裕之)さんと結婚されたことも。
 そう、僕にとっては、長門・南田夫妻は「ミュージック・フェア」の司会者で思い出深い。
 中学時代、当時火曜日夜の9時30分から放送されたこの番組にチャンネルを合わせるのは解散間近の赤い鳥が出演するときだった。
 それまでも何度も出演していたのだろう。その縁で、メンバーの後藤さんと平山さんが結婚したときの媒酌人になった。
 
 後藤・平山夫妻にとっては、ジャンルは違えど、同じ芸能界で働く先輩だ。それも夫婦揃って。
 だからこそ、今年2月、京都で行われたイベントに出演した紙ふうせんに、ライブ終了後確認したのだった。

 南田さんが認知症を患い、その闘病生活の模様を収めたTVドキュメンタリーについて。
 本放送を観て、かなりショックを受けた。長門さんの、なぜドキュメンタリーの被写体になったのか、その趣旨はよくわかるけど、女優・南田洋子として良かったことなのか。本人が望むことなのか。トイレのシーンなんて本当に、ほんとに必要だったのか?
 番組終了後、後藤さんの意見が聞きたくて手紙書こうかと思った。結局、お会いしたときになった。それが2月だったわけ
「番組ご覧になりましたか?」
 見ていなかった。とはいえ、南田さんの病気のことは知っている。内容をかいつまんで説明した。自分の意見も。
「……どう思いますか?」

 昔、長門さんがそれまでの人生を振り返った本を書いた。ある有名女優と不倫したことなども暴露していて、大問題になった。
 記者会見でわかったのは、本はゴーストライターの手によるものだったこと。長門さん、席上でこんな本読まなくていいと、本を投げ捨てた。あくまでも記憶で書いているので、状況は若干違うかもしれない。
 あのとき、南田さんの気持ちはどんなものだったのだろう。今回の件も、もしちゃんとした意識を持っていたら(変な例えだ)同じような感覚ではないだろうか。
 しょうがないわね、まったくもう!

 長門さんの南田さんに対する献身ぶりは想像できる。
 両親とダブるのだ。
 母が脳腫瘍で倒れて、手術後、第1級の身障者になってからの介護の様子で。
 南田さんが人工呼吸器つけてなんて報道を耳にすると、集中治療室の母の姿が脳裏に浮かび、いてもたってもいられなくなったもの。
 今度のニュースで知ったのは、母は南田さんと、父は長門さんと同い年だということ。
 
 一度だけ長門・南田夫妻と仕事をしたことがある。はるか昔、CF製作会社時代だ。簡易型の酸素呼吸器のCMで、小道具にバケツの中を泳ぐ金魚を使った。撮影の合間、長門さんが、金魚になんだかんだといたずらして、南田さんに注意される。その姿はまるで母親に怒られる子どもみたい。
「姉さん女房なんだな」
 ふたりのやりとりを見ながらそう思った。

 南田さん、安らかに。








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転載:あなたならどうする?

 4部作なら5部作の方が決まりがいい。
 ということで、転載コマツのおやぶんリターンズ。

 シモネタじゃないか! 誰かさんの声が聞こえる。

                             *

●あなたならどうする? その3 2007/08

 この前の日曜日、新宿でまぐま発行人と飲んだ後、帰宅したわけだが、ちょっと用があって、一つ手前の川口駅で降りた。改札口に向かっていると2、3m前を歩く女性のロングスカートが目には入った。小太りの20代の女性。ベージュのスカートの尻に赤黒い染みがあった。
 ピンときた。
 大昔、小学6年か、中学1年だったと思う。朝布団から起きた母親のパジャマの同じところに同様の染みを見つけて動揺したことがある。何も言えなかった。母親はそのままトイレに入って何食わぬ顔で出てきた。息子に見られたことを知っていたのか否か。
 前を歩く女性はスカートの汚れについて認識しているのだろうか? 認識しているのならいいのだがそうでなかったら? 誰か教えてやればいいのに。男のオレにはできない。ほら、そこ行く女性たち! 
 でも、ここで知らされてどうなるというのか。
 自分のことに置き換えてみる。社会の窓を全開にしていて、それを人の大勢いるところで教えられたら……。
 顔が真っ赤になるだろう。羞恥が一気に押し寄せるだけ。知らない方がいいのかもしれないな。
 二つの思いが交互に押し寄せ、ふと思った。赤の他人のことでどうしてあれこれ考えなければならないのか。それこそ恥ずかしくなって、早歩きして女性の横を通り過ぎ改札を抜けたのだった。

 以前にも似た状況があった。
 ずいぶん前のことだ。場所はJR品川駅。まだ改装前で、品川プリンスホテル側の改札と港南口を結ぶ地下通路があった時代だ。
 夜、飲んだ帰りだったか、ホテル側の改札に向かっていたら、前を行く女性がいた。後姿からかなりの美形だとわかる。服装にもセンスを感じる。ちょっと見とれていた。ヘアスタイル、うなじ、背中、ウエスト……。
 愕然とした。スカートがめくれあがり、下着が丸見えだったのだ!! 


 前を歩く女性のスカートがめくれている。いや、めくれあがっている。
 パンツもろ見え。お尻全開。
 目が点になった。
 目の前の光景が信じられなかった。
 思わずあたりを見渡した。
「もしかしたらどっきりカメラかも?」
 どうみてもリアルじゃないのだ。
 スカートがずれ上がったというのではない。裾が腰のベルトに巻きついた、どうしてそーなるの!状態。トイレに行ってたのか? 自分で顔が赤くなるのがわかった。
 本人、まったく気づいていないから、颯爽とした歩きだ。それがまた哀しい。

 誰か注意する人はいないのか。というか、まだ誰も気がついてない。
 すぐにでも駆け寄って注意したくなった。できなかった。そのくらい恥ずかしい姿なのである。
 女性が改札を抜けた。とたんにあたりが明るくなって、黒のストッキングに包まれた白いパンティがくっきりと目に飛び込んできた。女性はそのまま右側の階段に向かっていた。駅構内はものすごい人だろう。完全なさらしものになってしまう。声をかけるべきか。いやその前に僕も同じ方向に行くのだから、このままでは下から覗く形になる。それこそ眺めはいいだろう。
 人間の、というより男の性とは不思議なもので、見えるか見えないかというのならわくわくしながら注視する。ところがあまりにあからさまだと逆に躊躇して目をそむけたくなる。後ろからついていきたくない。そう思って、歩みを止めた。
 すると後からやってきたスーツ姿の若者たち(確か3名だった)が僕を追い越しながら、その光景を見つけたのだ。
「なんだ、あれ?」
「マジかよ」
「わぉ!」
 若者たちは階段を上がっていった。階段はもしかしたらエスカレーターだったかもしれない。
 いてもたってもいられなくなった。回れ右して、構内に続く階段(エスカレーター)とは反対の、地下通路へつながる階段を駆け下りたのだった。
 だからその後のことはまったく把握していない。

 スケベである。若い頃は日活ロマンポルノを映画として観ていなかった。今は違う。だから後悔している。まあ、年齢を重ねなければわからなかったことでもあるのだが。
 アダルトビデオは今でもたまに見る。かつてアテナ映像の代々木忠作品に夢中になり、一時V&Rプランニングのバクシーシ山下に浮気した。今はBABY ENTERTAINMENTか。
 にもかかわらず、目の前の光景があまりにあからさまだと逆に目をそむけたくなる。
 嘘ではない。
 実は、もっととんでもない光景、女性のあられもない姿を真近にして、始終顔をふせていたことがあるのだ。興味とは逆に。
 ある土曜日の午前中、それは京浜東北線の車両で起きた。


 某社から今の会社に出向してすぐのことだったから、十数年前になる。
 当時は毎月土曜日に管理職を対象にした全体朝礼というものがあった。社長、会長のスピーチを拝聴する1時間のためだけに、出社するというのもどうかと思っていたが、まあ、あのころは業績は最高潮、社長の言葉は神の声だったから、役員以下管理職はありがたくスピーチを拝聴するのだった。
 もちろん、管理職でない僕には関係ない行事。にもかかわらずI部長のお供として参加させられていた。
 後に、部署が異動になって、この朝礼の企画運営、司会を担当するなんて思いもよらなかった。このときは土曜日でなく平日に変更になっていたけれど。

 その日。朝礼が終わって京浜急行で品川へ出た。JR京浜東北線に乗り換える。
 1時間の朝礼のために往復3時間かけるのだ。いつもなら、有楽町で降りて映画を見たり、銀座の本屋散策にいそしむのだが、この日はそのまま西川口に向かっている。何か予定があったのだろうか。覚えていない。
 昼前。車両にはほとんど乗客がいなかった。
 それまで本を読んでいたかうたた寝していたか、気がつくと上野駅を通過したところだった。正面を見ると前の席に座る女性の行動が目に入った。年齢は20代後半から30代前半といった感じ。容貌は、これまた覚えていない。長いスカートをはいていたことだけ記憶にある。家庭用のビデオカメラを手にしていた。ファインダーを覗き、ホワイトバランスを調整したりフォーカス合わせたりしている。少ししてカメラを座席に直置きした。カメラをそのままにして、反対側の、僕が座っている席に移る。僕が座っているのは席の端、ドアのところ。女性は真ん中よりちょっと向こう寄りだった。
「何しているんだろう?」
 カメラを見た。レンズは女性が座った位置に向いている。
「撮影しているのか? でもなぜこんなところで?」
 女性は両足を座席を乗せた。左右に大きく開いた。
 あわてて視線をそらした。
「な、な、なんだこれは!」
 目はカメラの方を集中しながら、意識は完全に女性に飛んでいる。
 スカートの中を撮っている。そういえば、パンスト穿いていなかった。もしかしてノーパン……?。
 いったい中はどうなっているのか? 限りない妄想が頭の中をうずまきはじめた。
「AVの撮影だろうか? この女性、AV女優か?」
 確かに女優のセルフ撮影なんていう作品もあることはある。女性は近くにいる僕なんて眼中にないかのようにさまざまなポーズをとりだした。鼓動が激しくなった。ものすごく興味ある。なのに恥ずかしくて見られない。目をふせるしかない。でも、気になる! ほかの乗客がこの光景をどう見ているのか? 女性の反対側に顔を向ける。遠くに客が二人いたが、まったく気がついていないようだ。
 たとえば、一般車両で痴漢行為やファックシーンに及ぶAVを見ることがある。いや、あった。
 いつも思うのは、まわりの乗客がまったく気がついていないことで、それがどうにも不思議だった。どう考えても、視線に入っているはずなのに、皆われ関せずみたいな顔をしている。

 同じような状況になってわかった。見て見ぬフリをしているのだ、たぶん。きっと。至近距離であからさまな行為をされると思考とは別にある種の恐怖がともなって正視できない。
 単にお前に度胸がないだけじゃないか! 
 そうかもしれない。
 電車が王子に着くと、女性は何事もなかったかのようにビデオカメラをバックにしまって降りて行った。







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訃報 加藤和彦

 今日は押上で力仕事。
 工事中のスカイツリーを生で見た。東京タワーもこんな風に建設されたんだろなと、感慨深い。

 22時まで残業と言われていたのに午後の2時に終了してしまった。ラッキー。残業だったら1.5日分稼げて、大阪行き交通費の足しになるんだけど。
 かみサンと娘はギター教室のカフェコンサート。残業と言っているからたぶん外食していくるのではないかと思い、一人、早めの一杯。川口で降りて、図書館でDVD(「殺陣師段平」「バルカン超特急」「昼も夜も」)を借りてから、駅前の「さくら水産」へ。熱燗片手に読書。昨日、会社近くの図書館で借りた「臨場」(横山秀夫/光文社)を夢中で読む。

 19時過ぎに帰宅すると。すでに二人がいた。
「残業じゃなかったの?」
 かみサンが訊いていた。
「早く終わったんだ、それよりまだいないと思っていた」
「今、帰ったの。夕飯、用意していないけど」
「食べてきた、飲んでもきた」
「一人で飲むなんて」
「最近、酒飲みながら読書するのが楽しみなの」
 実は川口のさくら水産、二度目なのだ。この前は秋刀魚の塩焼きに熱燗だった。今日は中トロ&ホッケ。

 PCを開いていると、隣の部屋からかみサンの声が聞こえてきた。
「加藤和彦が死んだの知っている?」
「なんで!!」
 大声あげた。
「自殺したんだって、軽井沢で」
「どうして!!」

 別にファンではない。ファンではないけど、加藤和彦が死んだこと、それが自殺だということが信じられなかった。そんなことありえない。とんでもない衝撃だ。
 ミュージシャンとして、アーティストとして、とてもいい位置にいたではないか。数年前の「渋谷フォークジャンボリー あの素晴らしい歌をもういちど」では、一人だけ特別扱い。勝手気ままに好きなことやって、それがまた決まっている。かっこいい。素敵に年齢重ねているなあと思ったものだ。

「残された奥さんがかわいそう」
「それいつのニュース、何で知ったの?」
「携帯だけど」
 あわててYAHOO!のニュースを開いた。

 かみサンは詳細を知らないらしい。
 加藤さんって、そばに女性がいないとダメな人なのだ。自分を理解してくれる……。
 たぶん。
 もう何も言うまい。

 合掌







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転載:電話の向こうの貴女

 転載コマツのおやぶん! シリーズ その4 
 3回より4回の方がキリがいいでしょう。
                              
                             *

●電話の向こうの貴女 2006/09/29

 20年以上前になる。当時築地にある小さなCF製作会社に勤めていた。プロダクションマネージャー、TVでいうAD(アシスタントディレクター)みたいな業務。
 コマーシャル以外にPV等も手がけていて、最初に担当させられたのが某ショッピングセンターの広報ニュース。「下妻物語」にも登場したあのジャ○○だ。
 広報室の、根津甚八に似た課長がキャスター、プロの女性タレント(押坂忍の事務所だった)のアシスタントというコンビ。この二人がTVのニュース番組よろしく左右に並んで日本全国の社員に向けて会社のトピックを紹介していく15分ほどのビデオパッケージ。
 全国各地への取材とキャスターが出演するスタジオ収録があり、両方の素材を編集、1本にして納品する。
 スタジオ収録といっても、本物のスタジオを使用するわけではない。後述する下請プロダクションの一室をスタジオ風に見立てただけのこと。
 取材、収録、編集はすべて下請のビデオ会社。構成と演出はテレビ東京のバラエティ番組を手がけている演出家。三者の連絡役、とりまとめ役が僕の仕事というわけ。
 新規の店舗がオープンすると取材クルー(カメラマン&VE)と一緒にロケに出かける。いろんなところへ行かせてもらった。

 事務所は八丁堀のマンションの一室にあった。社員は4名。デスクに若い女の子Fさんがいた。
 事務所には月に一度以上お邪魔するので当然Fさんと親しくなる。今から思うとFさんは斉藤リサ(「ウルトラマンダイナ」のリョウ隊員)をちょっと太らせ十人並みにした感じ。気さくですぐに冗談が言えるタイプ。いつもロングスカートをはいていた。社員に「つきあえば」なんてからかわれたりしたが、こちらには彼女がいるし、Fさんにも彼氏がいたように思う。だいたいFさんをどうこうしようなんて気はこれっぽっちもなかった。一度だけお互いの友人に声かけて6人で合コンやったことがあったけど。

 その後1年間は僕にとって激動の年だった。結婚を前提として始めた相手との同棲に失敗した。わずか二週間の破局。ふたりで暮らし始めた中村橋のアパートから笹塚(正確に記せば中野区南台)に引っ越して失意の毎日を送っていた。
 そんなとき、Fさんと休日に会うことになった。このときもFさんとつきあおうなんて下心はなかった。なぜそういう展開になったのか今では思い出せない。あまりの落ち込みようにFさんが励ます意味で誘ってくれたような気がする。
 新宿東口で靴を買うのにつきあって、西口の居酒屋で飲み始めた。日本酒がおいしいというので、注文してみた。当時日本酒なんてほとんど飲めなかった。案の定1合飲み終わらないうちに酔いがまわってきた。店を出たときは完全に出来上がっていた。
 駅に向かう途中、気がでかくなった僕は思ってもいないことを口にしていた。
「ねぇ、ホテル行かない?」
 何度も書くが別にFさんに気があったわけではない。他人は僕のことをどう見ていたか知らないが(けっこうプレイボーイに見られた)、そういうことに関してはしごく真面目だった。いわゆる不特定多数の女性と〈遊ぶ〉ことなど考えもしなかった。
 にもかかわらず、この日は酒の力を借りて噂に聞く一夜だけの遊びを体験したかったのだ。ワルぶってみたかった。
「いや!」
 間髪入れないFさんの返答だった。
「そう、じゃあ帰ろうか」
 こちらも言ってみただけというところがある。無理強いしない。実のところ、このとき、Fさんに「うん」と言われなかったことに感謝している。

 アパートに帰ってきて、さあ寝ようかというとき、電話が鳴った。
 Fさんだった。
「どうしたの?」
「…今夜のこと、そっけなく断ったんで悪かったかなぁって。帰ってきてからちょっと気になって」
「別に、何とも思っていないよ。逆に断られてよかった」
「ならいいんだけど」
 それから仕事のこと、会社のこと、他愛のない話を1時間ほどしゃべっていただろうか。
「どうして断ったかわかる?」
 Fさんがさも愉快そうに訊いてきた。
「……?」
「靴買ったとき、荷物持ってくれなかったでしょう? だから」
「なら荷物もってやってたら、今頃ふたりはホテルの一室だったってこと?」
「そうかもしれない」
 やはり女心はわからない。まあそれはどうでもいい。
 これをきかっけに夜の11時過ぎになるとFさんから電話がかかってくるようになった。
 なぜか電話の最中に雑音も入るようになった。

 この雑音に端を発し思いもかけない体験をすることになるのであるが、長くなるのでその話はまた……。
 くどいようだけど、Fさんとどうこうしたという話ではないから。


●電話の向こうの貴女2 2006/10/02

 Fさんと電話で長話をしている最中、雑音が入ってくることに気がついた。次の電話で、それが人の声であることがわかる。その次には会話であることを。どうやら混線しているらしい。
 電話がかかってくるたびにその混線がひどくなっていく。というか、他人の会話がはっきりと聞こえてくるのだ。会話といっても、二人ではなく一方の人の声なのだが。
 ある夜、これまで以上にはっきりと声が聞こえてきた。女性の声だ。相手もこちらの会話が聞こえるらしい。「混線しているみたい」なんて相手に言っている。
 好奇心がわいてきた。
「もしもし?」
 見知らぬ女性に声をかけてみた。
「…やっぱり混線よ、何か言っている……」
 やった! 反応した。
「もしもーし、聞こえますか?」
 もう一度大きな声で呼びかけた。
「…聞こえますよ」
 アドレナリンが体内をかけめぐった。25年ちょっと生きてきて、混線という状況も、ましてやその相手と会話することなんて初めての経験だった。

 小学6年のとき、函入りハードカバーのSF短編集を買った。表題がなんというか今ではもう忘れてしまったが、福島正実、光瀬龍、眉村卓、矢野徹等々、日本を代表するSF作家たちのSFジュブナイルの短編が収録されていた。その中の1篇にこういう話があった。
 主人公は中学生。彼の家に間違い電話がかかってくる。相手は同じ中学生の少女。話しているうちに、こちらと相手の世界が微妙に違っていることに気づく。やがてそこが別次元であり、その世界は、暗黒政治に支配されており、少女の家族はそんな政府に反旗を翻す一派だったと判明する。少女の声は突然の銃撃の音にかき消されて音信不通になってしまうラストが衝撃的だった。30年以上の年月が勝手にストーリーを作り変えてしまっているきらいはあると思うけれど。
 見知らぬ女性との会話に成功したとき、僕の頭をよぎったのはかつてSFジュブナイルだった。

 もう少し女性と話してみたい。Fさんに理由を話し、時間をもらえないかお願いした。Fさんは笑って「いいよ」と言ってくれた。
 こうして謎の女性との会話が始まった。
「どこから電話しているんですか? こっちは中野区なんですけど」
「××です」
 都内だった。
「誰と話しているの?」
「彼」
「いいの、ほっといても? 怒ってるんじゃない?」
「平気、へいき。こんな不思議な体験めったにないから」
「年齢聞いてもいいですか? あっ僕25」
「あんがい歳いってるんだ、あたしは18」
「もしかして高校生?」
「うん」
 高校生だとわかって、こちらの口調もざっくばらんになる。
「いいのかよ、未成年者がこんな時間に男と話していても。親が知ったら嘆くよ」
 相手は笑いながら「大丈夫。自分の部屋からかけているから」
 まったく今時の女子高生は専用の電話を持っているのか。
 こうして約30分、女子高生との会話が続いたのだった。名前は訊いたのだろうか。憶えていない。
「じゃあ、そろそろ本当のパートナーとの会話に切り替えようか」
 そんな感じで会話に終止符を打った。
「女子高生とのお話は楽しかった?」
 Fさんが声をはずませた。しっかり聞かれていたのか!
 不思議なことに混線はこのときでぴたりとなくなった。何とも不思議な現象だった。

 その後、いろいろあって今のかみサンと結婚、子どもが生まれ、中野から戸田、川口と住まいを移してきた。
 自家用車を持たない夫婦はもっぱら自転車で買い物に出かける。隣町の蕨の商店街を通ったとき、ふとFさんの家が蕨で酒店を営んでいることを思い出した。確かにFさんの姓がついた店があった。
 あれから7、8年経っていた。とても懐かしかった。







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転載:なぜ今「愛と死をみつめて」なのか?

 転載コマツのおやぶん! シリーズ その3
                              
                             *

●なぜ今「愛と死をみつめて」なのか? 2006年3月

 ミコになったよ! 

 わりと早くから補助輪なしで自転車に乗れるようになった。保育園の年長組の時には自宅周辺を走り回っていた。自転車に乗る際、母親によく言われたものだ。
「いいかい、ぜったい大通りにでるんじゃないよ」
 わが家のある住宅地の南側に中学校があって、その先が大通り。自動車の往来が激しかった。母親は事故を心配したのだ。しかし親の心子知らず。いやよくわかってはいたけれど、本人にしてみれば、自分の腕を試したくてしかたない。もう家のまわりだけでは満足しなくなっていた。

 ある日、近所に住む、1歳年上の友だちと自転車で遊んでいた。後をついていくと大通りに出た。今さら引き返せないし、大通りを走りたいという誘惑に負けた。
 大通り沿いを走っていた友だちが急に道路を横断した。僕も躊躇なく後に続いた。
 その瞬間を今でもはっきり憶えている。時間が止まったような感覚。目の前が真っ暗になった。こちらに向かってくる車の輪郭だけが白い。フィルムのネガみたいな光景がまぶたの奥に焼きついている。
 気がつくと目の前に母親の顔があった。5歳の息子を抱きしめ名前を叫んでいた。母親のまわりにはたくさんの野次馬が見えた。
 母親の顔を見て、僕は泣き出した。
「おかあちゃん、ごめんなさい!」
 母親の忠告を無視して大通りに飛び出し、交通事故にあったのだ。自分が悪いのは十分わかっていた。
「早くうちに帰ろうよ」
 僕は「ごめんなさい」と「早く帰ろうよ」を繰り返した。そのうち救急車のサイレンが聞こえてきた。

 そのまま病院に運ばれ入院生活が始まった。メシはまずく退屈な毎日だった。入院は一ヶ月ほど続いた、とずいぶん長く信じていた。大人になってから父親に確認したらなんと一週間だって。5歳の少年にとって一週間が一ヶ月に感じたというわけか。
 同部屋の若いお姉さん二人と仲良くなったのはラッキーだった。後半は楽しい日々が続いた。退院してお姉さんの自宅へ遊びに行ったことがある。もちろん両親に連れられてだが、実際にお宅に伺うと、照れちゃって、こたつの中でモジモジしてた。
 お見舞いでメロンをもらった。当時メロンは高級品。わが家で口にすることがなかった。初めての経験にワクワクしながら一口食べて「え!」。何のことはない、常日頃食べている瓜と同じ味だった。
 閑話休題。
 事故の傷で顔の右側、こめかみから顎にかけてガーゼに覆われた。その姿に僕は得意になって言ったものだ。
「ねえ、見て見て! ボク、ミコになったよ」

  ♪マコ、甘えてばかりでごめんね
  ♪ミコはとっても幸せなの

 のミコのこと。
 5歳の少年が話題にするくらい、1965年は「愛と死をみつめて」が空前のブームを呼んでいた。 
 

 真弓と小百合とかおりに囲まれ 

 「ミコになったよ!」なんてはしゃいでいた41年前、5歳の少年はどれだけ「愛と死をみつめて」について知っていたのだろうか?
 最初のとっかかりはあの歌だったと思う。毎日TVから流れてきて、子ども心に気に入って口ずさんでいた。
 当時もうひとつお気に入りの歌があって、それが藤木孝の「2万4千回のキッス」。いわゆるオールディーズの日本語カヴァーだけれど、僕はこの歌でよくツイスト(のようなもの)を踊った。旅館のジュークボックスでこの曲がかかった時、身体が反応した僕は一心不乱に身体をクネらせ宿泊客の目を釘付けにし、万雷の拍手をもらった経験がある。
 なんていう自慢話はこっちに置いておいて――。

 軟骨肉腫に冒され、顔の左半分を失った女子学生の大島みち子(ミコ)。一時は絶望の淵に立たされたものの、病院で知り合った大学生の河野実(マコ)の懸命な励ましによって生きる決心をする。希望に燃えたのもつかのま、しかし、肉腫の転移によって21歳の若さで亡くなってしまう……。
 彼女の死後、3年間に渡ってやりとりされた四百通にも及ぶふたりの書簡がまとめられた。書簡集「愛と死をみつめて」が上梓されたのが1963年。たちまちベストセラーになった。
 翌64年の春、TBSがドラマ化する。「日曜劇場」前後編の「愛と死をみつめて」はミコに大空真弓、マコに山本学という配役。今調べて驚いたのだが、脚本が橋田寿賀子である。このドラマの主題歌が「♪マコ、甘えてばかりでごめんね」だという。ドラマとともに主題歌も大ヒットし、この年のレコード大賞を受賞した。 (註 歌とドラマは全然関係ないらしい)。
 映画会社もこのベストセラーをほっとくわけがない。秋に日活が吉永小百合・浜田光夫のゴールデンコンビを起用して映画化(監督は斉藤武一)。これまた大ヒットを記録する。
 書籍、TVドラマ、映画、レコードと巷は「愛と死をみつめて」ブームに沸き、そのトリがレコード大賞受賞ということになる。1965年はその余波が続いていたのか。

 数年前「世界の中心で愛を叫ぶ」や「いま会いにゆきます」が大ブームになった。書店に立ち寄ると平台に原作本が山積みになっていた。会社近くの書店では「いま会いにゆきます」の映画が公開される前からモニターで予告編を流し、ORANGE RANGE「花」が店内に充満していた。
 1964年も同じような状況だったのだろう。

 マコなんてまるで女の子のような名前がどうして男なのだろう。口ずさみながらそんなことを思ったことがある。みち子がミコ、実(まこと)だからマコ。時代を感じさせる愛称だ。
 東野圭吾が「変身」の中で、主人公に恋人のめぐみを「メグ」と呼ばせる、そのアナクロな神経が我慢ならないと嫌悪感をつのらせた友人がいる。
 このミコ&マコについてはどう思うのだろう? 時代が時代だからいいのかな。
 いい大人が彼女から「マコ」と呼ばれてニヤけてるんじゃねえぞ。今の僕なら後ろから蹴り入れてやるのだが。
 まあ、それはともかく、少年にとって顔をガーゼで覆われたミコのイメージは大空真弓でも吉永小百合でもなく、島かおりのそれだったのだ、とつい最近まで信じ込んでいた。
 昼メロで島かおりがヒロインを演じ、僕はそのドラマで「愛と死をみつめて」を知ったのだと。
 しかし、この昼メロの放映は1969年。交通事故よりずいぶん後なのである。これまた僕の勘違い、思い込みに過ぎなかった。
 だいたい69年といったら小学4年生。いったいどうやって昼のドラマを見たのだろうか?
 

 みち子さん・みっちゃん・ミコ  

 映画「愛と死をみつめて」は吉永小百合の主演ということもあって、今では映像化された作品の中で一番有名かもしれない。
 なんてしたり顔して書いてはいけないな。僕は長い間観たことなかったのだから。
 昨年ミクシィで話題にしたことによりある方よりDVDを借りることができた。
 浜田光夫とのコンビ、純愛路線の一つということから西村克己監督作品だとばかり思っていた。斎藤武一監督だったのか。プロデューサーは児井英生。さすが日本のロジャー・コーマン。純愛、難病モノ映画の元祖にもしっかり名前を刻んでいる。
 ちなみに、ロジャー・コーマンの映画を勝手に〈コーマン映画〉と呼んでいます。当然女性の前では話題にできません。

 さて、映画「愛と死をみつめて」。
 今観ると、ドキュメンタリー映画のような感覚になる。この時代(昭和30年代、こういう時だけ昭和を使ってしまう)の映画はみなそうだ。当時の大阪駅や街並みを見ているだけでも胸が躍ってしまう。
 開巻、マコが住む長野の寮が出てくるのだが、その外観や柱、窓枠、廊下、その一つひとつがいかにも昭和30年代という感じで興奮してしまった。日差しの柔らかさが心地いい(撮影:萩原憲治)。
 若い吉永小百合の可憐さ、美しさ。父親世代が〈サユリスト〉になるのも無理はない。
 ミコの父親役が笠智衆というのが意外だ。
 ミコ、マコの命名はヒロインだった。それまでマコは「みっちゃん」と呼んでいる。こっちの方がいいのになあ。
 ♪みっちゃんみちみちうんこたれて…
 ……小さい頃いじめられたのかもしれない。しかし自分のことを「ミコ」というのはいただけない。聡明な女性のイメージが崩れてしまう。いや、これも、それだけ相手の男性に甘えていた証拠だろうか?

 昭和30年代の恋愛ということで、ふたりに若き両親の姿を重ねてしまったところがある。
 昨年の正月、帰省した息子夫婦に父は何を思ったか、つきあっていた頃にもらった母の手紙を持ち出してきた。父の性格からそんな手紙を大事に保存していたことに驚いた。それ以上に、変色した便箋に万年筆のきれいな文字で綴られた文面にぶっ飛んだのだった。愛とかキスとかセックスとか、20代の女性が結婚を前提としてつきあう男性に対して、真摯に心情吐露していたのである。
 「前略おふくろ様」のラストで、主人公のサブちゃんが自分の母親に青春時代があったことを知らないと語るくだりがある。高校生の時、このモノローグに胸熱くしたものだが、まさしく母親の青春が目の前の便箋に凝縮されていた。恥ずかしさとともにちょっと感動した。
 閑話休題。
 ファッション、風俗、言葉使い。「愛と死をみつめて」はあくまでも昭和30年代ととともに存在すべきなのだ。かつて、そういう男女がいた、そんな美しくも哀しい純愛があったのだ、と。
 にもかかわらず、なぜ今「愛と死をみつめて」なのだ?


 なぜ今「愛と死をみつめて」なのか? 

 なぜ今「愛と死をみつめて」なのか?
 そんなことはわかりきっている。昨今の純愛ブームの影響だろう。
 フィクションの「世界の中心で愛を叫ぶ」に熱狂する若い世代に、本物の純愛、究極の恋愛、ノンフィクションの真髄を見せてやろうじゃないか。たぶん企画意図はそこにあったと思う。
 だから困ってしまうのだ。単なるフィクション(小説)なら問題ない。
 たとえば、40年後またまた純愛ブームが起こり、「世界の中心で愛を叫ぶ」がリメイクされるとしても僕は何とも思わない(生きてはいないだろうけど)。

 「愛と死をみつめて」は違う。この往復書簡集はもともと他人に読ませるために書かれたものではなかった。
 それでも初版が出たときは一人の若者の純粋な気持ちがあったと思う。不治の病にも負けず懸命に生きた女性がいたこと、そんな女性を自分は愛し支えたこと、ふたりの愛が永遠であること、その証を世間に向けて発信したかった……。
 本はベストセラーになり、TVドラマ化、映画化で大ブームを呼んだ。ふたりの純愛が一人歩きしていく。それがよかったのどうか。
 河野氏はベストセラーになった後、わりと早い時期に結婚してしまった。あの純愛は何だったの? と思われても仕方ない。
 今回のリメイクされたドラマはラストにこのエピソードを取り入れていた。マスコミは河野氏のあまりに早い変心を糾弾するのだ。しかしそれは仕方のないことだろう。早いか遅いかの問題。死んだ恋人の人生を背負って生きることはない。ただし、そこで「愛と死をみつめて」神話は終わったのだ。その後本を絶版にしたというが当然の処置だと思う。
 にもかかわらず、まるで〈純愛もの〉の真打登場とばかりに「愛と死をみつめて」が蘇ったことに違和感があった。

 そもそも「愛と死をみつめて」の復刊が信じられない。そればかりか40年経ったのを契機に当時の思い出を綴った「愛と死をみつめて 終章」という本も上梓しているのである。
 かつて絶版にした経緯があるのなら、なぜそのままにしておかないのか。あくまでも個人として自分の胸のうちに大切にしまっておけばいい。第三者に知らしめることに何の意味があるのか。
 
 あまり批判的なことは書きたくないが、自分の勝手で思い出を〈作品〉にしてほしくない。
 1年前に「愛と死をみつめて」のリメイク云々と書いたのは、あくまでも皮肉のつもりだった。世の中の純愛ブーム、それも、恋人に難病を抱えさせ、結局死んで悲しい別れとなる物語、ラストで観客の涙をさそい、それを感動だと呼ばせる風潮に、である。
 大学4年の時、友人Tが交通事故死した。その四十九日の法要が両親の郷里で行なわれた。気のおけない友人2人と出席した。Tの恋人も来ていた。彼女の心境を思って当日3人で冗談ばかり言い合っていた。つまらない冗談に彼女は笑い転げ、そんな笑い顔を見て僕は安堵していた。
 すべてが和やかに滞りなく進行して、遺骨を墓に埋めるときだった。それまで笑顔を絶やさなかった彼女が突然嗚咽をあげ泣き崩れたのだ。そのあまりに激しい慟哭に僕たちは言葉をなくした。呆然と立ちつくすしかなかった。
 いとおしい人が死ねば、誰だって泣く。そばにいればもらい泣きもする。しかしその涙の意味は何だろうか。悲しさ? つらさ? 少なくとも感動とは別のものだと思う。にもかかわらず、人は泣けることに価値を見出し、泣く=感動と勘違いする。実際は全然違うのに。

 リメイクされたドラマ「愛と死をみつめて」にまったく関心がなかったが、演出が「メゾン・ド・ヒミコ」の監督(犬童一心)と知り気が変わった。脚本が鎌田敏夫だったことにも興味がわいた。二日目しか観ていないので、はっきりとは言えないが、あざとさは感じられなかった。
 昨日発売された週刊新潮には批判記事が掲載されていた。確かに主役二人の年齢設定は無理があるかもしれないが、それほど気になるものでもなかった。
 ひとつ言えるのは、低迷が伝えられていた広末涼子が、何週間か前に放送された「生きててもいい…? 〜ひまわりの咲く家〜」に続いて印象的な演技を見せてくれたこと。
 それは断言したい。








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転載:「極道の妻たち」上州太田篇

 転載コマツのおやぶん! シリーズ その2

                             *

●「極道の妻たち」上州太田篇 

 「極道の妻たち」は東映の人気シリーズだ。
 妻と書いて「おんな」と読ませる。もともと家田荘子が実際の暴力団組長と結婚した女性たちを徹底取材したルポルタージュ。週刊文春に連載されていた。
 完結して一冊にまとまると東映が岩下志麻をヒロインにして映画化した。原作を読んだことないし、映画もあまり観たこともないので何とも言えないが、たぶん原作と映画は何の関係もない。タイトルと組長の妻が主役という部分だけいただいたのではないか。
 それまで男中心のやくざ路線を敷いてきた東映が、女性を主役にもってきたところがミソであり、ヒットにつながったのだろう。「仁義なき戦い」の後を継ぐヒット作となって、十朱幸代、三田佳子らもヒロインを演じながら十作作られた。3作めの「三代目姐」にはショーケンが準主役で出演していた。
 一旦完結したと思われたシリーズが高島礼子主演で再度シリーズ化されてすでに数年経つ。東映らしい商売だ。「仁義なき戦い」もなんだかんだいいながら今だに制作されているのだから。
 平成仮面ライダーシリーズももう何作めになるのか。考えてみれば戦隊シリーズなんて一回も途切れることなく20年以上の歴史を持つ。一つの人気作にしがみつく底力というのか……
 たった一作だけで原作すべてを描ききろうとする「デビルマン」によくGOサインを出したものである。
 
 話がそれた。
 当初高島礼子が極道の姐さんに扮すると聞いて違和感があった。彼女についてはまだ名前も知らない頃、新妻に扮したCMで見て注目していた。魚がさけなくて亭主に甘える姿がかわいかった。「さまよえる脳髄」では大胆な濡れ場を演じていて興奮した。
 普通の女性(たとえば主婦、OLだとか)を演じると内面の色気が発揮できる女優さんという印象があった。それが「極道の妻たち」のケレンたっぷりの役どころ。作品選定を誤っているんじゃないかと思ったりしたこともある。しかし、映画が人気を呼んでいることはファンに支持されている証明だろう。僕自身の高島礼子熱はすっかり冷めてしまったが。
 って、別に高島礼子や「極道の妻たち」を語るのが目的ではなかった!
 実は、19歳の予備校時代に一度だけホンモノの極道の妻を目撃した、というか接点をもったことがあるのだ。

 大学受験で上京した際、新宿京王デパートのレストランでドリアを食べて見事にはまった。世の中にこんなうまい食べ物があるのかと。グラタンのマカロニがライスになっただけじゃないか!と言わないでもらいたい。それまでグラタンを知らなかった……。
 そんな話を幼なじみのY子にしたのは、大学受験に失敗して東京の予備校に通うためアパート暮らしを始めたころだ。Y子は家が近所で、小学校の低学年時代よく遊んだ。一緒に風呂に入ったこともある。高校を卒業して地元でOL生活を送っていた。
「ドリアだったら、桐生においしいお店があるわよ」
 だったら今度連れて行ってよ、ってんで、帰省した日曜日(もしかしたら夏休みだったかもしれない)に昼前に太田駅で待ち合わせして、Y子の運転する車で隣町の桐生に向かった。
 太田から桐生に向かう県道は一時田園地帯の中を通る。道はすいていた。
 その時だった。前方からはすごい勢いで走ってくる外車を目にした。蛇行したと思った瞬間、そのまま田んぼの中に突進していった。
 あわてて車を止めた。顔を見合わせたY子と僕は車から飛び出ると田んぼの中で立ち往生している外車にむかった。
 車内の後部座席がすぐ目に入った。着物姿の年配の女性が小型犬を抱いて呆然としていた。運転手は若い男。すぐにドアを開けて外にでてきた。
「大丈夫ですか?」
 僕が尋ねると怪我はしていないとの返事。突っ立ている若い男に対して女性が声をかけた。
「早く××に連絡しなさい」
 男はあたりを見渡している。まだ携帯電話なんてない時代のことだ。
「あの、公衆電話のあるところまで乗っていきますか?」
 Y子が言う。男が女性に確認をとってから「いいですか?」
 公衆電話はわりと近いところにあった。
 男は感謝の言葉を述べて車から降りると公衆電話に向かって歩いていった。
 Y子が車を走らせ、しばらくしてから僕が言った。
「やくざだよね、あの人」
「一見して、組の人だとわかったわよ。もうびっくり」
「後ろの女性見た? 姐さんだよ、たぶん。威厳があったもん」 
 しばしその話題で盛り上がっているうち、車は目当ての喫茶店に到着。お店の人気メニューであるドリアを食べ、アイスコーヒーを飲む。覚えたてのタバコを一服しながらお互いの近況報告。やくざのことなどすっかり忘れてしまったのだった。

 Y子とのおしゃべりも話題がなくなった。陽も落ちてきた。帰ろうということになり、自宅まで送ってもらう。
 駅前の交差点で信号待ちをしていた時だ。運転席のウィンドウを叩く音に反応した。男がいた。何とあの外車を運転していた若い男だ! 車を脇にとめると助手席の方にやってきた。
「どうしたんですか? 別にもう……」
 僕たちの車を偶然に見かけて再度挨拶に来たのかと思った。だからもういいですよと言いたかった。
「いや、組長がどうしてもお礼をと」
 男の説明を聞いて驚愕した。
 あの事故(?)の後、組にもどって詳細を報告した。公衆電話まで連れて行った男女の名前、住所。なぜ聞かなかったのか? バカ野郎! 何やっている! すぐに見つけて確認してこい!! 組長に怒鳴られたらしい。男はそのまま車に飛び乗って太田市中を走り回っていたという。僕たちを探して半日。目印は車種だけだというのに……
 恐縮というか萎縮してしまった僕たちは、住所と名前を告げその場を離れた。本当にお礼なんかいらないと付け加えて。
 数日後、昼間出かけていて戻った僕に(ということはやはり夏休みか)父親がニヤニヤしながら聞いてきた。
「お前、××組と何かあったのか?」
 詳細を説明した。
「だからか。××組の○○さんが菓子折り持って挨拶に来たからさ」
 ひえ〜! 自宅までやってきたって! やくざの律儀さに驚愕した。Y子に電話するとY子のところにも来たという。
 ドラマ等で、暴力団幹部を狙撃して逃亡したヒットマンを探すため若い衆が闇雲に街に出て探しまわるなんていうくだりがある。この一件以来フィクションだからとあなどれなくなった。もしY子と僕が××組に追われる立場だったらたった半日で捕まったことになるのだから。

 教訓・暴力団を敵にまわすな!

 追伸
 それにしても、××組を以前から知っているそぶりの父親っていったい……?








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