前項の続きではなく、7日に観た「デヴィット・リンチ:アートライフ」について。
 16時30分の回だったのだが、案の定、睡魔との闘いだった。
 リンチ監督の思想がどうのこうのなんていい。
 まあ、母親の絵に関する教育(?)やリンチ青年の絵を見た父親の助言等印象的ではあったが。それよりリンチの創作過程に職人フェチの心がうずく。
 で、感想なのだが、リンチ監督の気質からというと、まったくお手上げだった「インランド・エンパイア」こそ一番〈らしい〉映画なのかもしれない。

     ◇

2002/03/08

 「マルホランド・ドライブ」(シネ・ラ・セット)  

 週刊文春の映画評の中で一番信頼している品田雄吉のこの映画に対する短評が「ぐいぐい引き込まれる。が、いつの間にか訳がわからなくなる。面白く見てしまうが、こういう収束でいいのだろうか」。
 面白いけれどわけがわからないなんてことがあるのだろうか? 途端に興味津々となっていたところ、友人から観に行かないかと誘われた。  

 特にデビット・リンチ監督のファンというわけではない。  
 大ヒットした「エレファントマン」は世間のヒューマニズム云々という評価に反発した。「ツイン・ピークス」ブームにはわざと無関心を装っていたところがある。「ストレイト・ストーリー」がリンチ作品であることすら知らなかった。ただし「ブルーベルベット」はビデオで観ている。妖しい官能的な世界って心惹かれるのだ。「マルホランド・ドライブ」はミステリに官能性を付加したところがミソだろうか。  

 「ツイン・ピークス」同様、もとはTVシリーズの企画だった「マルホランド・ドライブ」はリンチの思い入れむなしく結局日の目を見ず、フランス資本を導入して映画として完成された。だから映画に登場する女優たちのファッションセンスが「フレンチ」なのか。  

 オープニング、フィフティーズの音楽に乗って、何重にも合成されたダンスを踊る男女のタイトルバックから一風変わっていた。まるで不思議世界へ誘う儀式のようだ。  
 深夜のマルホランド・ドライブを走る1台の乗用車。後部座席には黒髪の妖艶な女性(ローラ・エレナ・ハリング)。突然車が止まり、運転手が振り向きざま女性に銃を突きつける。と、猛スピードで曲がりくねった道を疾走してきた車が激突! 大破した車の中から頭に怪我を負い、意識の朦朧とした女性が出てきたかと思うと、フラフラしながらに眼下に見える街へ降りていく。  
 翌朝、野宿した女性が目を覚ます。ちょうど目の前のアパートから老婦人が出かけるところだった。老婦人の目を盗んで部屋に忍び込む女性。  

 スリリングな導入部である。女が何者で、なぜ車に乗っていたのか、どうして命を狙われたのか? 部屋に忍び込んだ理由は? いくつもの謎が提示され、もう映画の進行にくぎづけになってしまう。  

 もう一人女性が登場する。ブロンドのショートカットで快活そうなベティ(ナオミ・ワッツ)がオンタリオから老婦人のアパートにやってくる。老婦人はハリウッドの有名な女優であり、ベティの叔母。女優志望のベティは叔母が留守にしている間部屋を借り、セッティングしてくれたオーディションを受けるため希望に胸膨らませてハリウッドにやってきたのだった。  
 当然部屋の中で謎の女性と鉢合わせする。名前を訊かれた女性は壁に貼られた古い映画のポスターを見て「リタ」と名乗る。が、すぐに事故により記憶喪失になっていることを告げる。手にしているバックには大金と鍵が入っていた。いったい自分は誰なのか。不安で泣き崩れる「リタ」。ベティは「リタ」を部屋に住まわせ、彼女の素性を一緒に調べようと申し出る。  
 「リタ」の怪我が深夜のマルホランド・ドライブでの事故が原因であることを警察に電話して確認した二人がレストランでコーヒーを飲んでいる時のことだ。ウェイトレスの名札「ダイアン」に「リタ」は反応する。思いだしたフルネームを電話帖で調べてみると街に一人しかいない。このダイアンが「リタ」かもしれない! 誰もいないと言われたダイアンの家に忍び込むふたり。寝室で二人が見たのはベッドに横たわる朽ち果てた女性の死体だった……。  

 映画にはそのほか、若者がレストランの裏庭で何かが潜んでいる、夢で見たと主張し実際に襲われたり、シーナ&ロケットの鮎川誠似の新進映画監督やマヌケな殺し屋のエピソードが挿入される。  
 映画監督は次作の主演女優をある組織の圧力で勝手に変えられ、怒り狂って自宅に帰ると奥さんが浮気の真っ最中、間男と喧嘩になって逆にやっつけられてしまって逃げ出すはめに。組織に呼び出され、オーデションでは「カミーラ」という名の女優を選出しろ、と1枚の写真を手渡される。それがベティなのだ。
 殺し屋は一人を殺せばいい仕事をヘマをして目撃者2人も殺さなければならいないドタバタを繰り広げる。

 死体を見つけ、動揺する「リタ」、なぐさめるベティ。
 同情が〈愛〉に変わり、二人は結ばれるのだが、豊満な肉体の「リタ」と華奢なベティの、大小の乳房が揺れるレズシーンに欲情。  
 敵の目から「リタ」をカモフラージュするため、ベティ同様のブロンドのボブ風ヘアのかつらをつけた「リタ」に目を見張った。肩にかかる黒髪のリタは、確かに美人なのだろうが、どのパーツも大きすぎて僕の好みではない。ところがブロンドのショートヘアになった「リタ」のキュートなことといったらない。胸キュン! 一目惚れとはこのことだろう。  

 変身したままベッドに横になった「リタ」が、深夜うなされて目をさます。心配そうに見守るベティを連れ、とある劇場に連れて行く。そこは深夜にもかかわらず大道芸みたいな公演を開催していた。女性歌手が登場して哀しいラブソングを熱唱すると客のまばらな席の片隅でふたりは涙を流している。この時の「リタ」の表情がたまらない。ここは映画の中で屈指の名シーンだ。  
 歌が終わると二人は奇妙な箱を見つける。急いで部屋に戻り、「リタ」はバックから鍵をとりだした。ベティの方を振るかえると、いない。鍵を差し込んで箱を開けた瞬間「リタ」も消えた……。  

 その後映画は解決編になる。とはいえ、デビット・リンチのことだから一筋縄でいくわけがない。  
 二人が消えたとたん、時制がさかのぼり、死体で発見されたダイアンの話になる。なぜダイアンが死んだのかをダイアンの立場から描くのである。

 【これから映画を観ようとする方は、以下を読まないでください】  

 ダイアンは内気な、ちょっとみすぼらしい女優志望のレスビアン。相手は「リタ」である。ここではカミーラと呼ばれている女優。ダイアンとカミーラは相思相愛の仲だったはずなのに、最近カミーラの様子がおかしい。誰かいい人ができたらしい。ふたりの関係を解消したいと言われた。カミーラは映画の主役にも抜擢された。ダイアンは不安にさいなまれる。  
 ある日、ダイアンはカミーラにパーティーへ誘われた。会場までカミーラが手配した車で来てくれと。ダイアンを乗せた車はマルホランド・ドライブを走る。まるで映画の冒頭の「リタ」と同じシチュエーション。車が突然停車する。殺されるのではないかとびくつくダイアン。山道からカミーラがやって来た。「ここから歩いた方が近道なの」。  
 連れて行かれたところは豪邸で、すでにパーティーは始まっていた。あの映画監督が二人を出迎えた。カミーラはダイアンに見せつけるように監督と熱いくちづけをかわす。嫉妬。
 
 カミーラと監督を囲んで和やかにパーティーは進む。監督の母親は何とアパートの管理人である。監督がカミーラとの関係でみんなに発表しいたことがあると言う。愕然とするダイアン。カミーラが結婚してしまう!
 例のレストランで男と密談するダイアン。男はあのマヌケな殺し屋である。ダイアンは男に〈仕事〉を依頼する。「報酬はこれ」とバックを開くと中に札束が見える。叔母が死んで遺産が手に入ったのだとか。まるで「リタ」のバックと同じ。男は〈仕事〉が終わったら、これを見えるところに置いておくと鍵を差し出す。「リタ」のバックに入っていた鍵である。席にやってきたウェイトレスを見上げると、名札にベティと書かれてあった。レジにはレストランの裏庭に何かが潜んでいると主張していたあの若者がいて、ダイアンの方を見ている。
 
 数日後、部屋に帰るとテーブルの上に鍵が置かれていた。泣き崩れるダイアン。  
 すべてを清算したはずなのに、日増しに罪悪感、絶望感がダイアンの心を締めつけていく。生活は荒れに荒れた。ヤクにも手をだしたのかもしれない。幻影に正常心を失ったダイアンはとっさにベット横の引出しからピストルを取り出すと、こめかみに向けて引き金を引いた……  

 観終わって、ひとつ気になることがあった。ベティとダイアンは同一人物なのか否か。似ているのだが、まるで印象が違うのである。もし同一人物ならなんとなくではあるが、意味はわかる。わかるけれど、謎が謎のままだし、新たな謎が提出されたりといろいろひっかかってくる。わけがわからないのもうなづけるのだ。  
 さっそく友人に聞くと、やはりベティとダイアンは同一人物だとのこと。
「リタとベティの話はすべてダイアンの夢なの。自殺したダイアンがこうあってほしいと願った夢」  
 この言葉で頭の中の霧が一気に晴れた。そう、そう、ダイアンの夢とするなら、ほとんどすべての疑問が解消される!  

 ダイアンは田舎から女優なることに憧れてハリウッドにでてきた単なる田舎娘。本当は女優の叔母なんていない。田舎の叔母が死んだことで遺産を手に入れて、それをハリウッド行きの資金にあてたにすぎない。女優の才能なんてなく、いつもオーディションに落ちてばかり。自分の容姿に劣等感を持っていたかもしれない。
 
 数あるオーディションで知り合ったのが魅力的なカミーラだ。いつしか二人は愛し合うようになる。都会人のカミーラにすれば、田舎娘のうぶなところが気に入ったにすぎず、ほんの気まぐれだったのかもしれない。だいたいカミーラはバイセクシャルなのだ。女優への切符を手に入れた。才能あふれる新進の監督との結婚も決まった。ダイアンは邪魔な存在でしかない。  
 うぶなダイアンは心の底からカミーラを愛していた。彼女の容貌、才能、すべてが憧れだった。彼女に捨てられたら生きていけない。だから映画監督との結婚が決まった時、彼女を殺してしまおうと決心した。そこで町のチンピラを雇い、叔母の遺産の残りを報酬にした。  
 その過程の中でダイアンが目にしたもの、印象的だったものが、夢の中に登場し、あるものは理想化され、あるものは歪曲され、ダイアンにとって都合のいい物語が形成されたのである。  

 有名な女優を叔母にもつ「ベティ」という自分。才能が豊かで性格も明るい、優しい心を持った女性。カミーラに対する優位性。カミーラには自分がそうされて勘違いしたようなシチュエーションを与えてやる。車に乗せられ途中でピストルをつきつけられる。でも殺さない。傷ついたカミーラを助けるのが「ベティ」の務め、贖罪なのだ。  
 カミーラを自分から奪った憎き映画監督には罰を与えねばなるまい。女に裏切られればいい。そして「ベティ」の方に振り向かせたい。オーディションでその演技力が絶賛された「ベティ」を彼の映画の主役に抜擢させたい。
 なにより「ベティ」はカミーラと同化したいのだ。それも「ベティ」がカミーラになるのではなく、カミーラを「ベティ」みたいな女性に変身させる。カミーラが変身してうっとりしているところを眺めたい。
 ダイアンが自殺する直前の夢なのか、死んだ後の魂の夢なのか、それはわからない。しかし夢と仮定すると、映画にでてくるつじつまの合わないエピソードがぴたりと合致するのである。
「もしかすると、ダイアンとカミーラはそれほど深い仲ではなかったの。あくまでもダイアンの一方通行の想いということも考えられる」  
 確かに。  

 「シックスセンス」はラストで驚愕の事実(って、すぐにわかったけど)が判明して、もう一度始めから観たくなる。この映画はそれ以上に始めから確認したくなる。観るたびに新しい発見がありそうな気がする。いやそんなことはどうでもいい。金髪のローラ・エレナ・ハリングを見られるだけで幸せなのだ。彼女がアップのポストカードを思わず買っちゃったもんね。  
 次はいつ観に行こうかな。


2007/08/19

 「インランド・エンパイア」(チネチッタ川崎)

 デヴィット・リンチ監督の前作「マルホランド・ドライブ」は巷間言われるような難解な映画では決してなかった。ある一つのキーさえ押さえれば、全体像がくっきり浮かびあがり、合点のいかない点がすべて納得できる仕組みになっていたのだ。
 なんて偉そうなことはいえないな。友人の、的を射たサゼスチョンのおかげだったのだから。理解できなかったとしても映画として十分面白かった。

 リンチ監督の新作が公開されることを知ったときは胸が躍った。なにしろまたハリウッドを舞台にした謎が謎を呼ぶ迷宮ドラマだというのだ。
 受けてたとうじゃないかリンチくん。バラバラに崩されたパズルをきちんと元の場所に戻しながら、すべてを解明して、優越感に浸りたい。気分はシャーロック・ホームズか金田一耕助ってな感じ。裕木奈江が出演することも楽しみの一つだった。

 玉砕だった。まったくのお手上げ。

 町の実力者を夫に持つ女優(ローラ・ダーン)が引っ越しの挨拶にきた怪しい老女の予言どおり新作映画のヒロインのオーディションに合格する。撮影スタジオの片隅で相手役の俳優(ジャスティン・セロウ)とともに監督(ジェレミー・アイアンズ)と打ち合わせしていると、意外な事実が告げられた。この映画の脚本はかつて映画化されたのだが、主演二人が急死に追い込まれて撮影が中止されてしまったのだと……。

 ミステリアスに始まった映画は、その後さまざまなエピソードが入り乱れ錯綜していく。映画内映画、かつて撮影されたフィルムの一部(?)、女優の、あるいはほかの誰かが垣間見た幻想、ピーターラビットよろしくウサギの着ぐるみ(仮面)をつけた男女三人のワンシチュエーションコメディらしき前衛劇……。
 豪華な邸宅で執事や召使いを使い、何不自由ない生活を送っていると思われた女優がいつのまにか、貧しい哀れな女性に変化している。俳優との逢引きを亭主にのぞかれていて、いったいどんな報復が待ち受けているのかドキドキしていると、これまた俳優の愛人という立場に様変わり。こちらが真実なのか、セレブな女優は幻想なのかと考えを改めると、やっぱり映画内映画の一部だったり。
 その上、過去と現在、あるいは未来が交錯しているのだから途中でもう何がなんだかわからなくなった。理解することを放棄し、与えられる情報だけを楽しもうとしたら、これがまたやたらと長い。

 今回は本当にラビリンスに迷い込んだ感じ。映像も妙にフラットで思ったほどのめり込めない。
 3時間は長かったが苦痛ではなかった。といった程度だったのだが、ラストで予期せぬ高揚感が!
 まるで舞台のフィナーレだった。「マルホランド・ドライブ」のローラ・エレナ・ハリングが登場してきて心が弾んだ。その後のソング&ダンスの華麗さに唸った。
 内容はお手上げだったが、自分なりに理解したのは、以下のとおり。

 ・前作に比べ非常に低予算で仕上げたのではないか
 ・たぶんビデオ撮影である
 ・ジャパニーズホラーの影響がみられる
 ・ストーリーよりローラ・ダーンの顔の変化を楽しむ映画かもしれない
 ・裕木奈江はNAEでクレジットされていた
 ・リンチ監督に一度ミュージカル(あるいは音楽)映画を撮らせたらどうだろう?

 リンチ監督、「マルホランド・ドライブ」はしっかり下書きをして、効果を考慮しながらきちんと色彩をほどこした。で、完成した絵をバラバラにして再構成した。
 でも「インランド・エンパイア」はほとんど下書きなしで、好き勝手に色を塗り、ああでもないこうでもないと筆を動かし、しまいに自分でも何描いているのかわからなくなったのではないか?
 友人の解説に得心できる。




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 今年になって、水曜日に映画鑑賞が集中している。
 昨日(7日)は、映画のはしごでなんと3本観た。
 午前中はラピュタ阿佐ヶ谷のモーニングショーで「警視庁物語 聞き込み」、昼食後、またラピュタで「強虫女と弱虫男」。新宿へ移動して夕方からシネマカリテで「デヴィット・リンチ:アートライフ」。
 1日3本なんて何十年ぶりだろうか?

 先週の水曜日(31日)は新文芸坐で「あなたと私の合言葉 さようなら今日は」&「氷点」の2本立てを観た。

 新文芸坐では1月28日から2月9日まで「大映女優祭in新文芸坐 百花繚乱」を開催している。
 大映映画といえば市川崑監督作品である。「女経」「穴」「あなたと私の合言葉 さようなら今日は」がラインナップにあった。「女経」は昨年観ている。「穴」もずいぶん前にビデオで観ているが、ぜひともスクリーンで再鑑賞したいと思った。
 ビデオで観たのは「黒い十人の女」のリバイバルでちょっとした崑映画ブームになったときだ。個人的には「黒い十人の女」より何倍も面白かった。ヒロインを演じた京マチ子が魅力的で、当時の銀座等の街並みに胸躍った。ある種のドキュメンタリーと観ていたところもある。
 しかし、この名画座は日替わり上映。「穴」は仕事で観られなかった。

 ラピュタ阿佐ヶ谷、神保町シアター、シネマヴェーラ渋谷といった名画座は特集上映では同じ作品を一週間上映し、上映時間を毎日変更している。これなら週のどこかで目当ての作品を押さえることができるのだ。
 新文芸坐もこういう上映システムにしてもらえないものか。

 「穴」と「足にさわった女」(市川崑監督作品を増田保造監督がリメイクした作品)のカップリングは日にちの関係で観られなかったが、「あなたと私の合言葉 さようなら今日は」は31日(水)なので、喜び勇んで朝一番池袋に駆けつけた。併映は「氷点」。

 Lampのメンバーが1980年代前半の8㎜映画「今は偽りの季節」の映像に興味を持つということが、僕自身が1950年代~60年代前半の日本映画を観ると理解できる。「あなたと私の合言葉 さようなら今日は」がまさにそうだった。この映画の公開は1959年。僕が生まれた年である。この時代の映画はストーリー(ドラマ)は二の次になって、風景やセット、小道具に目を奪われてしまうのだ。

 映画は愉快痛快だった。
 冒頭からしばらく続く台詞の応酬がニヤニヤできる。イントネーション、リズムが独特なのだ。
 クレジットで知ったのだが、原作は久里子亭が平凡に連載した小説(?)。当時の久里子亭は市川崑と夫人の和田夏十の共同ペンネームだから自身の原作を脚色(船橋和郎と共同)して映画化したもの。当時は映画(脚本)以外の仕事もしていたんだ。まあ、実際に連載を書いていたのは奥さんの方だろうけれど。
 キャストが適材適所で、特にヒロイン(若尾文子)の友人で大阪で老舗の料理店を営む女将(京マチ子)の、血のつながらい兄を演じる船越英二が最高。
 この映画を今リメイクするならヒロインは石原さとみだろうか。

 「氷点」は昔からストーリーは知っている。
 朝日新聞の懸賞小説(賞金は1,000万円!)で見事入選して新聞に連載された。
 幼い娘を殺された医師夫婦が娘を殺した犯人の生まれたばかりの娘を養女にして育てる、夫婦、親子、母娘、兄妹の愛憎劇。
 僕は内藤洋子の主演のドラマ(1966年)で認識している。観たことないけれど。調べてみるとドラマが始まって少し遅れてこの映画が公開されている。ベストセラーを同時期にTVドラマ化、映画化したというわけか。

 医師夫婦が船越英二と若尾文子、ヒロインに安田道代(後の大楠道代)、兄は山本圭、恋人(?)は津川雅彦。船越英二はミスキャストだったのではないか。その前に「あなたと私の合言葉 さようなら今日は」を観たから余計にそう思う。船越の友人医師を演じた鈴木瑞穂が印象的。若かりし成田三樹夫にムフフ。
 ラストの決着のつけ方に、「氷点」ってこういうストーリーだったのか! と膝を打った。

 この項続く




 何かと忙しくて、帰宅すると疲れと暖房費の節約もあって布団に入ってTVを見ている。いつのまにか寝ていて気がつくと夜中の2、3時。そこから風呂に入って、4時半になると出勤という毎日が続いている。
 今年はきちんとブログを更新するつもりだったのに、全然ダメだ。

 書き忘れていた2017年「12月の映画観て歩き」を簡単に記しておく。ついでに他のイベント類も一緒に。

 1日(金) 「ローガン・ラッキー」(TOHOシネマズ日劇)

 9日(土) 「青春夜話 -Amazing Place-」(新宿K'sシネマ)

 13日(水) 「シネマDEりんりん 望年会 ~さよなら新宿竹林閣」

 14日(木) 「水木ノア&777 中央線のほぼ真ん中で三度目の愛を叫ぶ クリスマスライブ」(LiveSpot ‘Terra’)

 24日(日) 「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」(MOVIX川口)

 26日(火) 「とくだこうじ出版記念会」(谷中御稽古場布施邸)


 2月になってしまったので、一緒に2018年「1月の映画観て歩き」も。こちらも他のイベント類とともに記す。

 17日(水) 「ゴッホ 最後の手紙」「レディ・ガイ」(シネマカリテ)

 18日(木) 「人情紙風船」(神保町シアター)

 25日(木) 「第18回 禁演落語を聞く会」(中野ZERO視聴覚ホール)

 27日(土) 「シネマDEりんりん新年会」(アイニンファンファン)

 31日(水) 「あなたと私の合言葉 さようなら今日は」「氷点」(新文芸坐)




 承前

 凄腕の殺し屋が敵の罠にはまって性転換手術で女にされてしまう。この殺し屋をミシェル・ロドリゲスが演じていて、敵役のマッド・ドクターはシガニー・ウィーバー、監督がウォルター・ヒルというんだから期待感は一気に高まった。
 この映画を知ったのは昨秋だが公開日を確認しなかった。公開が近づけばTVスポット等が流れると踏んでいたのだ。ところが全然話題にならない。心配になってネットで調べたらシネマカリテですでに公開が始まっていたというわけ。

 すぐにでも飛んで行こうとしたのだが、ちょっと待てよ、と。シネマカリテのサイトを眺めていて初めて知ったことがある。水曜日は料金が1.000円になるのである。だけでなく、専用の割引券もあって、プリントアウトしてチケット購入時に提出(あるいはスマホで画面を提示)すると1,300円になる。
 そうなの!?
 これまで何度かカリテで鑑賞したことがあるが、いつも1,800円を支払っていた。なんてこったい!

 「ゴッホ 最後の手紙」は朝一番でしか上映しないから休みの水曜日に行くしかない。だったら、ついでに「レディー・ガイ」も一緒に観てしまおう。
 ということで、久しぶりの映画のはしごとなった次第。

 チケット購入時に「ゴッホ 最後の手紙」が日本語吹替版だと知った。劇場で日本語吹替版なんて観たくないが仕方ない。
 もともとこの映画にはそれほど関心がなかった。ところが、ゴッホの絵と同じタッチで描かれているアニメーションだと知って俄然興味がわいた。

 映画は現在(映画内の時制として)と回想で構成されている。現在を描く部分がゴッホの絵のタッチになっていて、125名のアーティストが描いた油絵だというのだから恐れ入る。
 回想部分でこのアニメーションがどのように作られたかがわかる。この部分はモノクロで一見実写風。つまり本物の役者が演じたライブ映像をアニメートしているのである。
 現在部分の油絵タッチも同様なのだろう。
 それが果たしてアニメーションなのか? という疑問もある。昔からある方法ではあるが。
 髭もじゃもじゃの男の声はすぐにイッセー尾形だとわかった。主人公の声は山本耕史か……と思っていたら山田孝之だった。

 ラストで涙がでてきた。なぜか。
 
 昼食をとり、カフェで時間をつぶした後に観た「レディー・ガイ」。
 男を演じるミシェル・ロドリゲスの肉体(上半身)はCG技術でアッと驚くヴィジュアルを見せてくれるが。とはいえ、精巧なメーキャップで髭面にしようと、容貌はやはり女。こういうキャラクターの場合、無名の俳優でないと意味がないのかもしれない。それでは客は呼べないけれど。
 性転換した後の描写もいくつか?がある。
 主人公がホテルに放置されるのが術後どのくらいが説明されていないが、あんな簡単にことはすまない。
 自分の裸体を鏡に映すと股間にはヘアだけというサービスカットがある。本当なら手術のためヘアは剃っているだろうから、✕✕✕が見えるのではないか? そうなるとボカシが入るか。
 性転換などという飛び道具など使わず、単純に男勝りのヒロインが敵に復讐を果たすというストーリーでも良かったのではないか。
 



 先週の水曜日(17日)、映画のはしごをした。
 午前中、「ゴッホ 最後の手紙」、午後は「レディ・ガイ」。どちらも新宿のシネマカリテで。
 
 昨年中に「ゴッホ 最後の手紙」が観られなかった。TOHOシネマズ上野でレイトショーをやっていて、一度行ったのだが、レイトショーなのに通常料金(1,800円)! 「やーめた」と元日の鑑賞に切り替えた。
 元日は、昼間「オリエント急行殺人事件」を観て、夜は「ゴッホ 最後の手紙」というスケジュールを組んで有楽町のTOHOシネマズ日劇へ出かけた。「オリエント急行殺人事件」が終わると、いい具合に「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」が始まるので、2回目の鑑賞とあいなった。
 レイトショーまでどうやって時間をつぶそうか。いつも行く「一軒め酒場」は元日も営業しているのだろうかなんて考えていたら、「相棒」の元旦スペシャルの録画を忘れていることに気がついて、「SW 最後のジェダイ」終了後にあわてて帰宅した次第。

 もう通常料金でいいやと覚悟していたにもかかわらず、その後もいろいろあって上野に足を運べない。
 上映終了前日、今度こそと予定を入れていたら、Sさんから連絡があった。
「今夜はいかがですか?」
 呑みませんかということで、すぐに了解した。
 特撮仲間のSさんとは一緒に「SW 最後のジェダイ」を観る約束をしていたにもかかわらずなかなか都合があわない。待ちきれない僕は先に地元のシネコンに足を運んでしまったという経緯がある。
「Sさんが観た日に一緒に飲んで話をすればいいでしょ?」
 やっと「SW 最後のジェダイ」を観たので映画を肴に話ができる! その日はSさんと神保町で最新のSW映画についてあれこれ語りあったのだった。
 翌日も予定があって✕。結局上野のレイトショーでは観られなかった。

 すっかり諦めていたら、ひょんなことから新宿のシネマカリテでモーニングショーをやっていることを知った。
 
 実は昨年の秋から公開を楽しみにしていたミシェル・ロドリゲス主演の「レディ・ガイ」の公開日と上映館を探していたらわかったことなのだ。

 この項続く
  




2017/11/28

 「GODZILLA 怪獣惑星」(TOHOシネマズ新宿)

 ゴジラの新作がアニメだと聞いたとき、真っ先に「ザ・ウルトラマン」を思い出した。
 70年代後半、円谷プロが久しぶりに始めたウルトラマンはアニメだった。
 不満だった。
 ウルトラ(マン)シリーズの、本当の主役は特撮ではないか! 怪獣(宇宙人)の都市破壊、ウルトラマンとのバトルは特撮だから意味がある。
 ゴジラだって同じこと。

 想像していたように「ザ・ウルトラマン」の前半はそれまでのシリーズ世界をアニメに置き換えただけだった。ところが後半、特に最終回近くになってから独自の世界観を描き出して瞠目した。
「これはアニメでなければできない!」
 TVの前で唸ったものだ。

 「GODZILLA 怪獣惑星」にもそれを期待した。
 確かにストーリーやディティール描写はアニメだからこそといえる。ハリウッドなら実写化してしまうだろうが。
 しかし、この映画、相手がゴジラでなくても成り立つだろう。
 3部作の第一部(なんだそうだ)だけの感想だとそうなる。




 昨日は、御徒町駅前に特設されたスケートリンクでスケートを楽しんだ。
 先週だったか、電車の中からスケートリンクの存在を知り、Yさんを誘ったのだ。お互い滑れないのだが。このリンクは氷ではなく特殊な樹脂でできている。転んでも冷たくはないが、ズボンに白い樹脂の破片がこびりつきます。
 この冬は少しスケートを特訓するか。

20171220

          * * *

2017/11/21

 「We Love Television?」(ヒューマントラストシネマ渋谷)

 萩本欽一のドキュメンタリーが公開されると知ってなぜ今なのかと思った。
 監督は日本テレビのプロデューサー、土屋敏男。「電波少年」にTプロデューサーでたまに登場し出演者に恐れられていた。
 テレビプロデューサーが監督したドキュメンタリーならなぜTVで放送しないのだ?

 もう何年も前になる。東北大震災以前のことだ。フジテレビで「悪いのはみんな萩本欽一である」という特番があった。是枝裕和監督が現在のバラエティー番組で問題になっている諸悪の根源は欽ちゃんがTVで始めたことなのかを検証する内容だった。
 もちろん、萩本欽一を弾劾する番組ではない。逆にTVに斬新な、革新的な笑いを導入した人として賞賛しているのである。TVの笑いの歴史に萩本欽一前、後が存在するというような。
 土屋監督も弁護側証人の一人だった。
 もしかすると、このドキュメンタリーはあの番組に対するアンサーソングなのではないか?

 土屋監督はこのドキュメンタリーを劇場で公開することに対してこう述べている。

     ▽
 テレビは途中で観ることをやめることができる。でも映画は映画館に入ったら逃げられない。だから、逃げられない環境で観るものを作ってみたかったんです。
     △

 なるほど、そういうことか。
 この理由は、なぜ映画を劇場で観るのかという自分の考えに合致している。自宅でビデオ(DVD)を観ても、集中できないことがままある。これまで何度か書いている。
 だったら観ようではないか。

 小学生時代、落語ブームがあって、その後トリオブームになった。そこにコント55号が登場してあっというまにTVを席巻した。コントに笑いころげた。自分でもコントを考えて友人と実演したりした。コント55号が単独で活動するようになると、欽ちゃんを追いかけた。コメディアン、萩本欽一に対する想いは強い。

 映画は、土屋プロデューサーから「また30%の視聴率をとる番組を作りませんか?」というオファーを受けた欽ちゃんが女優の田中美佐子や次長課長の河本準一たちと特番を作っていく過程を記録していく。この番組、僕は観ていない。放送されたこと自体覚えていなかった。
 画面には日にちが変わるたびにあと何日と表示される。ある日に向かって進んでいくのだ。その日が何なのかわからない。不思議な気持ちで観ていると終盤で判明して、ああ、そういうことか! 公式サイトをきちんと見てれば謎でもなんでもないかったのだけれど。

 エンディングで涙がでてきた。岡村靖幸「忘らんないよ」と通りを歩きながら行きかう人たちに挨拶していく欽ちゃんの笑顔がマッチしていた。

  一人でいても テレビを見れば
  あの頃のように 楽しかった想いが
  溢れ出してく

 心暖まるラストだった。




11月16日(木)

 「ブレードランナー 2049」(MOVIX川口)

 再度鑑賞。
 前回、前半は眠気との闘いで顔を殴りながら観ていた。映画がつまらないというのではなく、あくまでもこちらの体調の問題。この映画は、ある意味クライマックスまで〈静かな映画〉なのである。同じ監督の「メッセージ」もそうだった。
 3時間あまりの長さは感じなかった。それは前回鑑賞時も同様。
 詳細は項を改めて。


11月17日(金)

 「BRAVE STORM」(TOHOシネマズ上野)

 宣弘社制作の1970年代のTV特撮シリーズ「シルバー仮面」と「スーパーロボット レッドバロン」を合体させた劇場映画が公開されると知ったのは、初秋になってから。書泉グランデの1階入口のモニターだった。調べてみると新作だった。全然知らなかった。ほとんど話題になってないのはどうしてか。
 上映劇場も極端に少なかった。東京だとTOHOシネマズ新宿と上野だけ。しかも新宿はMX4Dなる上映方式で料金が2,800円。特撮ファン(マニア)ならその料金でも足を運ぶと考えたのか。違うと思うのだけれど。

 TOHOシネマ上野のレイトショー最終日に足を運んだ。レイトショーといっても、封切作品なので、料金は通常の1,800円だと思っていたら、レイトショー料金だった。ラッキー!

 冒頭のシークエンスにがっかり。単なるフルCGアニメじゃないかと。
 しかし、その後持ち直し、印象がガラリ変わった。
 予算の関係で、VFXが安っぽいところもあるし、合成もバレバレなのだが、ドラマ自体は実に熱かった。ロボット同士のバトルシーンに興奮。個人的には「パシフィック・リム」より満足した。きちんとツボを押さえた描写だからだろう。ロボットがちゃんとロボットの動きをしている。巨大感も申し分ない。
 役者陣も熱演。面白い映画ではないか!
 あのラストは単なるお遊びなのか、それとも本当に続編があるのか。まあ、前者だと思うけれど。

 この項続く




 全然、ブログが更新できない。
 最近観た映画の話を書きたいのだが、帰宅すると、疲れてPCを開く気力もない。そのまま布団に横になり、TVも灯りもつけっぱなしのまま就寝。結局、過去の夕景工房からの転載でお茶を濁してしまう。
 紙ふうせんリサイタルについても下書きのままだ。
 なんとか、この悪循環を脱出しなければ。

          * * *

 映画批評家の切通理作氏が映画を初監督した。タイトルは「青春夜話 ―Amazing Place―」。チラシには〈25年間、映画批評を続けてきた切通理作が描くエロティックラブストーリー。〉とある。
 12月2日から新宿のK's cinemaでレイトショーが始まった(21時~)。

 以前にも書いたことだが、氏が「別冊宝島 怪獣学・入門」の論考を読んだことから、単行本「怪獣使いと少年」を購入し以降、著作はほとんどすべて読むファンになった。トークイベントにも何度か足を運んだ。
 そんな切通さんと知り合うことができて、自分が働くブックカフェ二十世紀で特撮のトークイベントを開催したのが、昨年の夏。その後も何回かイベントを開催している。

 切通さんが映画を撮る、ついてはエキストラで協力してもらないかとFBでの呼びかけがあり、すぐに手をあげた。
 そんな経緯があって、この映画に1カットだけ出演している。だけでなく、エンディングロールでクレジットもされているのだ。感激!

 0号試写のとき一度観ている。ただまだ完成品ではなかったので、公開を楽しみにしていたところがある。
 ラストシーンがとても良い。これは試写のときにも思ったことだ。声を大にして言いいたい。
 そして、今回、ふたりの青春(高校時代)への復讐が自分の琴線にふれた。僕自身、高校3年間がかなり鬱屈していたので。ふたりとは全然違う理由だけれど。

 プールのシーンは、「早春」のイメージを狙ったものでは? という考えは監督に確認してあっけなく崩れ去ってしまった。

 映画は、毎日アフタートークショー付きで絶賛上映中! 15日まで。



seisyunyawa
チラシだとアニメだと勘違いしそうですが、実写映画です。




 先週25日(土)、15時からBC二十世紀にて「三島由紀夫 心の歌を聴け」を開催。音響担当としていくつかミスしてしまったが、なんとか無事終了。打ち上げのあと、東京駅へ。23時30分発のJR深夜バスで大阪へ向かった。今回もバスの中でぐっすり眠れた。最初の休憩時に気がつかなかったくらい。
 翌26日(日)は毎年恒例の「紙ふうせんリサイタル」が兵庫県立芸術文化センター中ホールであった。終了後、近くの洋食とワインのお店でFCと出演者による懇親会。
 その後、2次会、その他、いろいろありまして……。
 27日(月)、12時20分新大阪発の新幹線で東京へ。
 帰ってきて、横になったらすぐに意識がなくなった。
 怒涛の3日間だった。

          * * *

「居酒屋ゆうれい」 in 「第9回船堀映画祭」から続く

 「居酒屋ゆうれい」は劇場で観ていないと思っていたが、実際に鑑賞してみると観た記憶が蘇ってきた。山口智子とトヨエツの絡みのシーンで。確か渋谷の劇場だったのではないか?
 原作は山本昌代の同名の小説だが、立川談四楼独演会に通うようになって落語「三年目」を知り、この噺にインスパイアされたものと確信した。

 こんな話だ。
 ある若夫婦。仲むつかじかったが、かみさんが病弱で風邪がもとで寝込んでしまった。亭主の看病の甲斐もなく身体は弱っていく。かみさんは自分が死ぬと、あなたが後添いをもらう、それが心残りでたまらないと言う。亭主は「何バカなことを言う。もし仮にお前が死んだとしても私は再婚しない」と応えるが、信じてくれない。
「だったら、こうしよう。もし私が再婚したら、初夜に幽霊になって化けて出てきなさい。相手は怖がってすぐに結婚を取り消すから」
 かみさんはその言葉に安心して死んだ。
 親戚連中がすすめる再婚を最初は耳をかさなかったが、結局断りきれなくて再婚。その婚礼の晩、元妻の幽霊がでてくると期待したが来なかった。
 そうこうしているうちに子どもが生まれた。
 そんな三年目のある夜、突然のように元妻の幽霊が現れて、亭主が再婚してかわいい赤ちゃんまで生まれたことを嘆くのだ。
「なぜ、婚礼の晩にでてこなかった? 私は今か今かとずっと待っていたのに」
「だって、死んだとき剃髪されたでしょう?」
「ああ、親戚中が一剃刀ずつ当てた」
「あんな頭ではあなたに会えません。髪が伸びるまで待っていました」

 テンプターズ時代からのショーケンのファンなら、特に70年代のドラマ、映画を夢中で追いかけていたファンなら、主人公の居酒屋の主人、荘太郎と「前略おふくろ様」のサブちゃんをダブらせる楽しみがある。料亭の板前からドロップアウトしたサブちゃんが流れ流れて横浜の、京急沿線の街で居酒屋を開業して働いている姿と考えられるから。
 荘太郎の私服姿が少々ダサくて、それがまたショーケンらしくて素敵だ。

 病弱の妻は室井滋。この役で報知映画賞最優秀助演女優賞やキネマ旬報最優秀助演女優賞等数々の映画賞を受賞している。妻は亡くなる前にこう言うのだ。
「自分が死ねば、店の切り盛りのためにもあなたは新しい女と一緒になるだろう」
 否定する壮太郎に、妻は続けて言う。
「もしあなたが再婚したら化けてでるから」
 妻は翌朝亡くなった。

 一人身の壮太郎に兄が見合いをすすめる。この兄を演じるのが尾藤イサオ。「股旅」以来の共演だろうか。尾藤イサオはその後市川崑映画の常連になるが、ショーケンは一度も出演することはなかった。な、ことはどうでもいい、
 最初は見合いの話をきっぱり断る壮太郎だが、その後いろいろあって再婚。
 新妻役の山口智子がハツラツとしていてまぶしい。
 そんなふたりの中に嫉妬して元妻が幽霊として現れたからさあ大変!

 公開当時はあまり酒を嗜なまず、飲み屋へはあくまでも仲間と行くというものだったのでわからなかったが、今なら居酒屋「かずさ屋」が居心地のいい店だということがある。
 会社の帰り、読書のためにカフェを利用していたが、6、7年前から居酒屋に変更したためだ。
 最初は川口中央図書館に寄った帰りにすぐ近くにある〈さくら水産〉だった。それから西川口駅前の商店街にオープンした某店(今はない)。最近は御徒町の〈一軒め酒場〉に通っている。新宿で映画を観た後は〈清龍〉にも立ち寄る。カウンターの常連客とけっこう話がはずむのだ。
 
 「かずさ屋」の常連客は、店に魚を卸している八名信夫(毎回支払い額が同じというのがおかしい)、ギャンブルに狂って妻子と別れた三宅裕司(後半の展開に大きく関係してくる)、酒屋の息子という青年。この青年が西島秀俊で驚いた。もちろんこの青年のことは覚えていた。いかにも今風の若者って感じで軽い印象しかなかった。今の西島秀俊と結びつかない。若すぎる!

 このまま続けます





 11日(土)、12日(日)の2日間、恒例の船堀映画祭だった。今年で9回め。
 最初のころは単なるお客さんだった。しかし、メインスタッフに知り合いが多いし、映画サークル「シネマDEりんりん」が関わっていることもあって、スタッフになってもいいなと考えるようになった。
 一昨年はボランティアスタッフとして運営の手伝いをした。が、ブックカフェ二十世紀で働き出したので昨年はスタッフはおろか、上映作品を観ることもままならなくなった。サラリーマン時代と違い、土日が仕事になったためだ。

 一昨年は、初日に帰宅するのが面倒なので、ボランティアスタッフのIさんと、うちうちの打ち上げ(正式な打ち上げは2日目映画祭終了後に開催)のあと、近くの〈東京健康ランド まねきの湯〉で一泊した。これがなかなか楽しかった。
 Iさんがあかすりをしたことがないというので、昨年は〈まねきの湯〉に行くためだけに、映画祭のうちうち打ち上げに参加したところがある。Iさんはあかすりに大満足。

 今年もIさんとあかすりツアーを決行した。
 ただし、昨年と違うのはこの日、朝一の上映作品を鑑賞したのである。
 第9回の上映作品が発表があって注目した作品があった。
 「居酒屋ゆうれい」だ。

 2011年の暮れから12年のはじめにかけて、今は無き銀座シネパトスで「萩原健一映画祭」が開催された。ショーケン主演の映画が特集されて足繁く通ったわけだが、プログラムの中に「居酒屋ゆうれい」がなくて残念だった。
 「居酒屋ゆうれい」は、90年代のショーケン映画の中でベストの部類に入るのではないか?
 公開されたとき劇場で観たのかどうかはっきりしない。観たことは観たのだがビデオでだったような気がする。
 一度はスクリーンで観たい! 
 そんな想いがあったが上映は初日の10時から。仕事があるのだから行けるわけがない。

 当初諦めていたが、朝の3時間だけ仕事を誰かに代わってもらえば行ける!とばかり、K嬢にお願いしてみた。今年の4月までレギュラーで働いていて、辞めてからも土日の、人が足らないときに手伝ってもらっている。
「あたしも『この世界の片隅に』が観たいの」
 と言っていたK嬢だが、こちらの熱意が通じたのか了解してもらえた。
 ありがとう! Kさん。


 この項続く
 



 新作映画ももちろん観ている。
 10月を中心にその前後に観た作品のタイトルだけ記す。

 9月28日(木)

 「遥かなる山の呼び声」(神保町シアター)

 この映画、公開時にはある種の〈臭さ〉を感じて映画館に足を運ばなかった。「幸福の黄色いハンカチ」はきちんと観たのに。以降まったく観たことがなかった。今回、招待券があって、なおかつちょうどこの作品の上映時に時間があったので。山田洋次監督の大衆性、泣かせのテクニック、その巧さを思い知らされた。

 10月1日(日)

 「三度目の殺人」(TOHOシネマズ スカラ座)

 いろいろ書きたいことがあるが、一つだけ。
 音楽(ルドヴィコ・エイナウディ)が素晴らしい。
 

 10月13日(金)

 「散歩する侵略者」(MOVIX川口)

 原作は芝居だというが、かなりの観念劇ではないか? 概念についての、敵の宇宙人と人間の丁々発止のやりとりが見所なのでは、と。
 長澤まさみは倦怠期の夫婦(の妻)を演じると一際光る。


 10月19日(木)

 「青空へシュート!」(横浜シネマ ジャック&ベティ)

 文科省選定映画。
 こそばゆいエピソードもあるが、ラストはいくすじかの涙が流れた。
 やばい!


 10月25日(水)

 「ニッポン無責任時代」(神保町シアター)

 クレージーキャッツの、というか植木等の代表作をやっと劇場で押さえた。


 10月26日(木)

 「猿の惑星:聖戦記」(MOVIX川口)

 猿の目の演技にやられた!


 11月1日(水)

 「アトミック・ブロンズ」(TOHOシネマズ みゆき座)

 室内の銃撃戦、1シーン1カットの長廻しに感激。「最も危険な遊戯」の感動が蘇る。同じシチュエーションだし。


 11月2日(木)

 「ブレードランナー 2049」(丸の内ピカデリー)

 35年経って、リメイクでもリボーンでもなく前作の続編をつくるということに驚愕した。




 23日(土)は地元シネコンで「エイリアン:コヴェナント」を観た。

 実は「新感染 ファイナル・エクスプレス」鑑賞後、10分後に「エイリアン:コヴェナント」が始まるスケジュールだったので、続けて観ようと思っていた。毎月20日はMOVIX独自のサービスデーで1,100円だから、クーポン(1,800円→1,300円)を使用するよりお得だし。
 しかし、予想以上に「新感染 ファイナル・エクスプレス」の出来が良く、しばらくは充実感に浸っていたかった。
 以前にも書いたことだが、続けて映画を観るのは疲れるし、何より感動や感銘といった想いが分散してしまうのが惜しいのだ。その日しか観られないというのなら無理もするが、余裕があるなら、1日1本にしたいというのが本音。

 昔、中学、高校時代は、3本立てが当たり前で、別に苦でもなんでもなかった。それも3本休憩なしで上映したのだ。今は2本立てに耐えられるか自信がない。年齢には勝てない。感受性の磨耗もはなはだしい。

 そんなわけで、日を改めてレイトショーでの鑑賞にしたわけだが、本当のところ、今はレイトショーもつらいのだ。
 いや、レイトショー自体には何の問題もない。
 こういうことだ。
 レイトショーは21時前後に始まる。終了は23時過ぎで帰宅すると深夜0時をまわっている。なんだかんだで寝るのが1時ごろ。目覚ましは3時半にセットしているから睡眠時間は3時間ない。起きるときのつらさといったら……。
 サラリーマン時代、レイトショーはありがたかったのに。

 さて、映画「エイリアン:コヴェナント」。
 前作「プロメテウス」はある意味噴飯ものだったから、続編「エイリアン:コヴェナント」はまっとうな内容になっていて面白く観られた。全体の構成は第1作「エイリアン」を踏襲、最初のクライマックスは「エイリアン2」のリプリーvsクィーンエイリアンを最新のVFXで表現するとこうなるというヴィジュアルだった。興奮できるかどうかは別だが。

 エイリアン・シリーズにおいて、アンドロイドは重要な立場で登場する。とはいえ、これまではあくまでも脇役だった。それが今回は主役に躍り出る。それも二人いることで、その存在がクローズアップされるのだ。
 そして予想外の驚愕な展開。このエイリアンの前日譚シリーズはいったいどこに着地するのか?

 何より特筆すべきはアンドロイド・デイヴィッドのキャラクターだ。
 クラシック音楽や美術に精通し、優しさと残虐性を兼ね備えた人物。これはまさしくレクター博士ではないか!
 かつて、「ハンニバル」(トマス・ハリス/高見浩 訳/新潮文庫)の読書レビューでレクター博士についてこう書いた。
     ▽
 ヨーロッパ的な優雅さと得体のしれない残虐さを併せ持つ斬新なキャラクター。
     △
 「ハンニバル」は「羊たちの沈黙」同様、ジョナサン・デミ監督で映画化される予定だった。が、主演のジョディ・フォスターがオファーを断ったことにより、降板(だと思う)して、リドリー・スコット監督が後を引き継いだ。
 リドリー・スコット監督がアンドロイドのデイヴィッドを創造したことにはかなり「ハンニバル」の影響があるのではないか?
 ある意味、レクター博士以上に残忍なキャラクターである。レクター博士はクラリスに対してあんなことはしないだろう。

 ヒロイン(キャサリン・ウォーターストン)を見ながら思っていた。
 ハリウッドで「コメットさん」が映画化されるなら、主役やればいいな。
 

  

 8月1日(火)は映画サービスデー(ファーストデー)。本来なら、特撮仲間のSさんと「パワーレンジャー」を観に行く予定だった。この夏の公開を知ってからかなり楽しみにしていた映画である。

 ところが8月から僕の(BC二十世紀の)出勤シフトが変わったことでこの目論見がはずれてしまった。これまでの火木から水木へ休みが変更になったのだ。
 上映時間を調べてみてわかったのだが、「パワーレンジャー」は都内のほとんどの劇場で夕方の上映がないのである。配給の東映は何を考えているのか。「パワーレンジャー」の主要客は子どもではないはずだ。かつてスーパー戦隊シリーズを夢中になった子どもたち、大きなお友だちが対象になる。にもかかわらず、夜の上映がないのはどういうわけか。
 せめて、東映の資本が入る(ってますよね?)新宿バルトはそこらへんを考慮すべきではないか。

 東映はこういうことがたびたびある。
 昨年、西内まりやが主演する「CUTIE HONEY –TEARS‐」をやはりSさんと観に行こうとしたら、新宿バルトでは深夜しかやっていない。一応ロードショー作品ですよ!
 本来ならDVD(Blu-ray)作品なのに、格付けのため劇場公開させたということだろうが。

 結局、「パワーレンジャー」はバラバラで観ることになり、僕は1日、仕事を終えてから品川のT・ジョイPRINCE品川のレイトショーに足を運んだ。翌日の休みに地元シネコンで観てもよかったのだが(割引クーポンがあるので1,300円で観られる)、こちらは吹き替えだとわかり遠慮した。金だして吹替なんて観たくない。

 品川の劇場はもともと〈品川プリンスシネマ〉という名称で、セガに勤めていたとき、大鳥居に通ってきたいたときはよく利用させてもらった。知らない間に経営母体が変わったのだろう(ホテルが外部に委託したのか)、T・ジョイPRINCE品川になった。


 アメリカと日本のヒーローの一番の違いは〈変身〉の概念だと思っている。
 スーパーマンにしろ、スパイダーマンにしろ、みな超能力を持った人間(スーパーマンは宇宙人だけど)が、その超能力を発揮するとき、人間のままの姿では支障があるので、それっぽいスーツ(&マスク)を着るわけだ。バットマンは逆にスーツが強化服になっているのだろうか? 普通の人間がスーツとマスクで身を包むことで力を得る、のか。
 日本でも「月光仮面」が、まさにそういうヒーローだったわけだが、「ウルトラマン」の登場でヒーロー像が一新された。
 
 「仮面ライダー」で空前の変身ブームになったわけだが、〈原作〉である石森章太郎のマンガでは、アメリカンヒーローのように、改造人間になった本郷猛がスーツ&マスクを着用する設定なのである。怒りに燃えると顔に傷が浮かび、その傷を隠すためにマスクを被るのではなかったか。

 東映が集団ヒーローものを企画し、「仮面ライダー」同様、石森章太郎に原作を依頼した。それがスーパー戦隊シリーズの第1作「秘密戦隊ゴレンジャー」であるが、色分けされた5人のメンバーというと、その前に「科学忍者隊ガッチャマン」が人気を呼んでいた。少しは意識したのだろうか?

 僕はというと、「科学忍者隊ガッチャマン」には夢中になったものの、ゴレンジャーはバカバカしくて相手にしていなかった。
 5人のレンジャーだからゴレンジャー? なんだその語呂合わせは!! 
 登場する敵方怪人も〇〇仮面といったおちょくったような造形、ネーミング。まあ、対象年齢が低く設定された番組なのだから、中学生が、それも円谷特撮で育った者として容認できるわけがない。
 石森章太郎も、少年雑誌に連載していたマンガを最初はシリアスだったにもかかわらず、途中で「秘密戦隊ゴレンジャーごっこ」とタイトルを改めギャグマンガにしてしまう始末。

 こうして、戦隊シリーズが個人的にまったく縁のない特撮番組になって四半世紀をすごしてきたわけだが、2000年代になって「未来戦隊タイムレンジャー」にハマってしまった。「仮面ライダークウガ」とセットで観ていたところがある。
 その後、また離れてしまうのだが、「獣電戦隊キョウリュウジャー」あたりからまた観だして「列車戦隊トッキュウジャー」「手裏剣戦隊ニンニンジャー」ときて、「動物戦隊ジョウオウジャー」でまたハマった。
 そして今「宇宙戦隊キュウレンジャー」に夢中になっている。
 ちなみに平成「仮面ライダー」シリーズは「カブト」で卒業した。

 ハマる前もハマった後も、このシリーズに対して同じ思いがある。等身大での戦いで一度破れた敵(の怪人)が巨大化してからのシークエンスにまるで興味が持てないことだ。
 戦隊側の合体ロボットはどのシリーズもデザインセンスが微塵も感じられない。特撮も旧態依然で観てられない。
 ロボットデザインに関しては、子どもの情操教育に悪影響を与えるのではとは思うほどだ。
 デザインという観点からは、第一期ウルトラの世代で本当に良かったと思っている。

 そんなわけで、戦隊シリーズは、毎回クライマックス(巨大ロボと敵とのバトル)になると、もうでもよくなってしまう自分がいる。巨大化なんてやめればいいのに、といつも思うのだが、スポンサーのバ〇〇イからすると、おもちゃを売るため外せない要素なのだろう。

 実は、映画「パワーレンジャー」に期待したのは、このバトルシーンなのである。ハリウッドのセンスでヴィジュアル化してくれれば、ロボットの造形、合体、バトル等々、溜飲を下げてくれるだろうと。

 戦隊メンバーのデザイン、造形からそれはうかがえた。
 アクションが大前提としてあるのだから、仕方ないのかもしれないが、戦隊の変身後のスタイルは、どうしても衣装になってしまうのだ。生地で作られた衣装を着ている感覚。
 それが、映画「パワーレンジャー」では改善されていた。デザインも気に入っている。

 さて、映画。
 冒頭は、後にレッドになる主人公の牛泥棒が描かれる。なぜそんなことをするのか、結局最後まで説明されないのだが、このシークエンス、カメラワークが斬新だった。

 5人がなかなかパワーレンジャーにならない。なるまでのやりとりがやけに長い。
 とはいえ、つまらないわけではない。十分面白い。やはりヴィジュアルがすごい。まあ、金のかけ方が違うのだから仕方ないか。
 そんなわけで5人が勢ぞろいして、巨大ロボットの登場に期待していたのだが……

 気がつくとラストだった!
 また、やってしまった。いつのまにか寝てしまったのだ。
 5人がパワーレンジャーに変身して勢ぞろいするところも、ロボットに搭乗して敵と戦うところもいっさいがっさい見逃した。一番肝心のところを。
 ああ、なんてこったい。
 仕方ない、DVDになったら確認しよう。

 ひとつだけいえること。
 レッド役の俳優がらしくない!!




 
 離婚したことについては、すべて自分が悪いのだから仕方ない。
 昨年12月に娘が入籍した(と元かみサンから報告をもらっている)。そのとき祝い金を渡そうとかみサンに連絡をとった。縁を切られたといえ、父親は父親だ。娘はかわいい。それなりの祝儀をはずまなければと考えてのこと。
 まだ結婚式を挙げてないから急がなくていいという返信。

 年が明けてから、再度連絡をとった。一応金はとっているけれど、最近金遣いが荒くなっているので、手をつけてしまう前に渡しておきたい。会えないか?
「〇〇(娘の名)は、お父さんには(大学卒業後)専門学校に行かせてもらったから、そのお金はお父さんが使って、と言ってる。私もそう思う」という返信。

 あなたは元気になったからいいけど、わたしはまだ立ち直っていないの。
 そんなメールをもらったことがある。

 離婚したことは仕方ない。でも、なぜもっとかみサンに優しくしてやれなかったのか。最近そればかり後悔している。

     ◇

2004/07/30

 「白いカラス」(新宿武蔵野館)  

 ロードショー最終日に劇場に駆けつけた。  
 その肌の白さゆえ白人と偽って生きてきた黒人男性の過去と現在を描く物語。重たいテーマで、普通ならパスしてしまうシロモノなのだが、白い肌を持つ黒人というところに反応した。  

 世の中に〈アルビノ〉と呼ばれる人がいる。色素欠落症。透きとおるような白い肌、髪や眉毛、睫なども同様。ごくたまに街でみかける。うちのかみサンもその一人だ。ただかみサンの場合、髪や瞳の色から一見北欧の白人っぽく見える。よく外人に間違えられた。
 つきあっていた頃、居酒屋でふたりが日本語でしゃべっているにもかかわらず、隣の男性(グループの一人)から英語で話しかけられた。そんなことが何度かあった。いかに肌が白く、髪が金髪風でも、顔はどうしようもなく日本人なのだから、わかりそうなものなのに、日本人の外人崇拝主義が感じられとても腹立たしい思いをしたものだ。ちなみ僕が初めてかみサンと出会ったとき(ある講座で同じクラスだった)は「ったく、髪なんか染めちゃって」というものだった。小学校や中学校時代は黒髪ではないということで、髪を黒く染められたり、黒髪のかつらをかぶされたりと何かと大変だったらしい。茶髪、金髪当たり前という現在では信じられない行為である。
 
 まあ、そんなことがあって、当時、ふと黒人でもアルビノの人はいるのだろうかと思ったことがある。いるとしたら、彼(彼女)のアイデンティティはどこにあるのか。  
 「白いカラス」に興味を抱いたのはそんな経験があったからだ。  

 大学教授のコールマン(アンソニー・ホプキンス)は講義を欠席した黒人学生に対して差別用語を使ったと教授会で弾劾され辞職するはめに。ショックで妻は急死。その憤懣を吐き出すべく、コールマンは今や世捨て人となっている作家ネイサン(ゲイリー・シニーズ)を訪ね、自分の半生を本にまとめてくれと申し出る。ネイサンは断る。とはいえ、お互い何か共通するものを感じたのか、その後二人は友情を深めることになる。  
 やがてコールマンはフォーニア(ニコール・キッドマン)と恋に落ちた。悲惨な家庭環境で育ち、自分の過失により愛児を失い、今は夫(エド・ハリス)の暴力から逃れて掃除婦として孤独に生きる女。ネイサンの忠告を無視し、ファーニアとの逢瀬を楽しむコールマン。今でもファーニアをつけまわす夫と対峙し追い返したコールマンは、この人生最後の恋の相手にすべてを投げ出す決意をする。これまで誰にも明かしたことがない自分の出自を語りだす……  

 つまりコールマンは肌が白い黒人で、学生時代に黒人であることによって、深く愛し合っていた恋人に去られた辛い過去を持つ。以来白人として生きる決意をし、家族を捨てた。  
 回想シーンでは、コールマン青年(ウェントワース・ミラー)が恋人を家族に紹介し楽しい時をすごして家路についた電車内での恋人の一言が印象的。愛する人の母親と笑顔で会話していたとは思えないような残酷な仕打ち。コールマンがその後白人と生きる決心をする要因となるのだが、恋人の態度は男からするとまるで理解不能。絶対女性不信になるだろう。
 なぜコールマンが白い肌に生まれたのか、映画は特に説明していない。家族も皆、いわゆる黒人顔をしていない(アフリカンではないということ)し、肌もそれほど黒くない。だからこそ恋人の態度というものが信じられない。アメリカではそれほどまでに黒人差別がひどいということなのか。本当のところ、日本人の僕には映画に宗教と人種問題がでてくると本質的な部分でお手上げになる。

 フォーニアが初めてコールマンと出会い自宅でベットに誘うシーンはかなり〈くる〉。ニコール・キッドマンの美しさが際立っていた。映画の見どころの一つ。
 ストーカーのごとく妻を追いかけるエド・ハリスがその性格とは裏腹に見た目はとても頼もしく、重厚だ。最初はエド・ハリスだとはわからなかったほど。
 ラストのネイサンとこの夫の会話の真意はどこにあるのか。それが一番の謎だ。




 先週の木曜日(15日)、篠原哲雄監督の新作「花戦さ」を観た(丸の内東映)。篠原監督らしい丁寧な作り、的確なカメラワーク、カッティングで世界を堪能させてもらった。クライマックスの主人公の言葉に目頭が熱くなった。
 一つだけ文句。
 映画の冒頭、若き日の主人公と織田信長との邂逅を描き、時代は12年後に移る。〈12年後〉とス―パーが出るのだが、再登場する主人公が12年前とちっとも変っていない。これにはゲンナリだった。
 12年の歳月を、時の流れを一瞬(1カット)で観客にわからしめる、映画の見せどころなのに。
 そんなことを一緒に観たYさんと語り合う。

 一昨日の火曜日(20日)はMOVIXの日、地元のMOVIX川口で「22年目の告白 ~私が殺人犯です~」を観た。
 むちゃくちゃ面白くて、一時もスクリーンから目を離せない。しかし、この映画で描かれたことはぜったいありえないと思う。なぜありえないか、説明したいが、それ自体がネタバレになってしまうので書かない。
 本編を観てわかる。この映画、予告編で観客をミスリードしているのだ。




2017/06/01

 「美しい星」(TOHOシネマズ日本橋)

 「美しい星」が映画化されると知ってから楽しみにしていた。
 「美しい星」は、大学時代に三島由紀夫にハマるきっかけとなった小説である。
 予備校のときに読んだ。友人に借りた。
 「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」に感想がある。
 この小説は、自身の日記を基にしているが、当然、人物造形やエピソードには創作がある。とはいえ、本や映画の感想はそのまま使っている。てにをはの間違いやよりわかりやすい表現に訂正している箇所もあるけれど。

     ▽
1978/05/07
 (略)
 借りたのは安部公房の『密会』と三島由紀夫の『美しい星』。
 『密会』はちっとも意味がわからず面白くなかったが、『美しい星』の世界にはすっかり酔いしれてしまった。この小説はSFではないがUFOや宇宙人が登場するという話を聞いて興味を持ったのである。完璧なまでもの文章による〈三島芸術論〉と言おうか。
     △

 三島由紀夫の小説を初めて読んだのは高校生のとき。「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」にこんな風に書いている。

     ▽
1978/06/22
 (略)
 高校時代に『午後の曳航』が海外で映画化された。日本文学がどう翻訳されて映像化されたのか知りたくて小説と『キネマ旬報』に掲載されたシナリオを読み比べたことがある。小説は登場する少年がどうも好きになれなくて物語も期待したほどではなかった。映画は観なかった。
 (略)
     △

 今、「美しい星」は三島由紀夫の異色SF小説と紹介されている。当時、70年代はそうではなかった。日記にも書いているが、SF的趣向による純文学というような位置づけで、〈SFではない〉と新潮文庫が発行する文庫目録の解説にあったと記憶している。
 何かの本でわかったのだが、60年代になってSF小説が定着してくると、純文学の書き手がこの新しいジャンルに興味を示し、その手の小説を発表するというようなことがあった。そうしたある種のブームの中、安部公房が「第四間氷期」を、三島由紀夫が「美しい星」を書いたということだろう。

 さて、「美しい星」。どんな内容だったか、ほとんど忘却の彼方である。
 とはいえ、映画化にあたって、小説世界を大胆に変更していることはわかる。

 原作の時代(1960年代初期)を現代に変更したことにより、核兵器による人類滅亡の不安という問題から、地球の温暖化といった環境問題に論議の論点をすり替えているということだけではない。ストーリーの趣旨そのものを大幅に変えているのである。
 小説において、主人公家族は実際に宇宙人だった。UFOも本当にでてくる。
 映画は、そこを一捻りして世界観を構築している。
 父親はある日火星人であることを覚醒する。娘は金星人、息子は水星人であることを覚醒するのだが、ほんとうのところ、それは彼らの妄想なのではないかと思わせる作りにもなっているのだ。

 気象予報士(お天気キャスター)の父親(リリー・フランキー)は、不倫と仕事の疲れから一種の躁状態になってしまったとは考えられないか。躁になるととんでもない妄想をするようになるのは、自分の経験でわかっている。
 フリーターの息子(亀梨和也)は、謎の男(佐々木蔵之助)に何らかの意識操作された(催眠術にかけられた)とか。
 大学生の娘(橋本愛)の、金星人としての覚醒についてははっきりしている。
 娘はやはり金星人を自称する青年と運命的な出会いをして、一緒に海辺でUFOを呼ぶ儀式を行う。やがて上空には2機のUFOらしき光が現れて、それまでの展開に懐疑的だった僕も本当なんだと思ったのだが、これは青年による完全なるイカサマだった。
 唯一地球人の母親(中嶋朋子)は、孤独を紛らわすかのように、何やら怪しい水の販売にのめりこんでいく。

 前半はリリー・フランキーの怪演が笑わせる。ニュース番組内の自分が担当する天気予報コーナーで、環境問題を取り上げ次第に暴走していく様に。あの決めのポーズがたまらない。
 娘が妊娠したあたりから様相が変わってくる。

 以下ネタバレ。

 やがて父親が癌であることが判明。
 入院した父親を見舞う娘。父親は自分が調査してわかった妊娠にまつわる真実を告げる。娘も父親に癌で余命いくばくもないことを告げる。
 このシーンに涙があふれた。まったく個人的なことだと思うが(その理由は後述する)。
 ここから、実はこの映画、父親の癌が発見されたことを契機にバラバラになった家族の絆が再生する話だったんだと気がつく。その昔、「それぞれの秋」で描かれた普遍的な物語が21世紀に甦ったというべきか。その模様がSF的趣向(父親を火星に帰還させる)で描かれるわけだ。
 一気呵成の展開。ラストまで涙が乾くことがなかった。

 ラスト、UFO内の父親(火星人)が名残惜しそうに地上を見下ろす。そこには父親を帰還させるべく奮闘する父親を含めた家族4人姿が。UFO内のコンピューター(?)が父親(火星人)に尋ねる。
「ワスレモノデスカ?」
 無言の父親(火星人)。
 また声が尋ねる。「ワスレモノデスカ?」
 切なさでまたまた涙があふれた。
 僕にとって忘れられない映画になった。

 ところで火星人の父親は本当に火星に帰ったのだろうか?
 このシーンだって、こう考えることもできるのだ。
 力尽きた父親が昇天する際に見たつかのまの夢なのでは、と。


 父親が娘に真実を告げられるシーン。
 実は、5年前、同じ経験をしている。映画とは逆パターンであるが。
 映画の橋本愛は、真実を告げてから「お父さんごめんなさい」と泣きながら父親の胸に飛び込んだ。
 僕の場合、まず娘の半泣き状態での「お父さん、ごめんなさい」があった。「携帯(のメール)を無断で見てしまったの」
 それから、真顔になって、僕が家族に伏せていた隠し事に対する容赦ない追求が続いた。隣には何も知らないかみさんがいて呆然となっていた。そして家庭の崩壊ーー

 僕の涙の意味は複雑だ。
 映画「美しい星」はある意味、僕の理想(願い)を具現化してくれたのである。


 【おまけ】

 橋本愛が「私は金星人」と言ったことで、初めて気がついた。
 「三大怪獣 地球最大の決戦」のシナリオは「美しい星」の影響があるのではないか?
 調べてみると小説「美しい星」が発表されたのは1962年。映画「三大怪獣 地球最大の決戦」の公開は1964年。あながち間違いではないだろう。




 昨日6月1日(木)は映画サービスデー(ファーストデー)。
 TOHOシネマズ日本橋で12時30分から「美しい星」、19時15分から「メッセージ」を観る。
 もともと友人とは新宿で「メッセージ」を観る予定だったのだが、TOHOシネマズ新宿は19時台の回が午前中に完売になってしまったとの連絡を受け、日本橋が穴場かもと、昼前に向かったら、何とかチケットが買えたのだった。それにしても「メッセージ」、すごい人気である。日本橋だって19時台以外の回はチケットは完売していたのだから。

 「美しい星」にやられた。前半は何度も笑わせられ、クライマックスは涙が流れてしかたなかった。ただ、これはあくまでも個人的な理由によるものかもしれない。詳細は後で書く。

     * * *

2017/05/30

 「DONT LOOK BACK」(K's cinema)

 この映画を知ったのはラピュタ阿佐ヶ谷の待合室だった。チラシが置いてあった。〈ボブ・ディラン〉の文字が大きくあって、若いディランの写真から過去のフィルムを使用しながら、新たにディランの現在の活動を追った新作のドキュメンタリーだと思っていた。ノーベル文学賞を受賞したのだから、ドキュメンタリーが公開されてもいいと。
 公開は6月27日(土)。当然、ノートにチェックした。

 ボブ・ディランについてそれほど詳しいわけではない。高校時代に当時の新作アルバム「欲望」を買っただけ。「コーヒーもう一杯」が好きでこれはレコードを買わなければと収録されているアルバムを購入したのだ。そのころEP(シングル)レコードはレコードという認識がなく、好きな曲があると必ずアルバムを手に入れた。
 「欲望」は激しい楽曲が満載でお気に入りの1作となった次第。

 ノーベル文学賞を受賞したからというわけではないが、また「コーヒーもう一杯」を聴きたくて、「欲望」のCDを購入した。店で何度かかけている。もう少し他の曲も聴きたいと最近「血の轍」を手に入れた。傑作といわれるアルバムだ。全曲、ボブ・ディランらしい。これまた店でかけている。

 ボブ・ディランについての認識はその程度だか、映画、それもドキュメンタリーとなるととたんに興味津々となる。公開を楽しみにしていた。

 27日の公開日は西宮の夙川にいた。夙川のライブハウスで開催された紙ふうせんのシークレットライブ時、休憩時に後藤さんに伝えた。
「ボブ・ディランのドキュメンタリー映画の公開、今日が初日なんですよ」
「ディランの映画がつくられたの?」
 後藤さんが驚く。「なんていう映画?」
 タイトルを憶えていなかったが、ノートに記載しているので、取り出して言う。
「DONT LOOK BACK、です」
「ああ、それなら観てるよ」
 今度はこちらが驚く。「リバイバルなんですか!」
「面白い映画だよ。ディランがドノヴァンに嫉妬するところがあるんだよ」と笑う。
 ドノヴァンといえば、なんたって「ブラザー・サン シスター・ムーン」の主題歌だ。レコードにならなくて残念だった。

 「DONT LOOK BACK」は、D.A.ペネベーカー監督による1967年のドキュメンタリー映画だった。チラシには〈音楽ドキュメンタリー史上の金字塔〉とある。50年前の作品なのだ。

 上映は、夕方から夜にかけての2回。17時の回をチケットを買いに早めに劇場に行くとなんと整理券NO.が1番だった。初めての経験だ。

 オープニングのタイトルバッグ。とある場所でディラン本人(若い!)が、自身の歌に合わせて、画用紙に書いた歌詞を一枚々見せていく(画用紙を捨てていく)のが斬新だった。鑑賞後に知るのだが、世界初のPVだとか。言われていると確かにそうかもしれない。

 カメラは1965年英国ツアー中のボブ・ディランを追いかけていて、そのどれもが興味深い。録音が見事だと思う。24歳のディランがまるでカメラを意識しないで、素の姿をさらけだしている。会話が自然なのだ。ディランだけではなく被写体になる人すべてがそうだから、まるで劇映画を観ている感覚になってしまう。パーティー時の喧嘩(言い争い)、記者との怒りのやりとり等々。
 高校時代に観て衝撃を受けたビートルズのドキュメンタリー「レット・イット・ビー」もこのドキュメンタリーがあったから生まれたのかと思えてしまう。
 ペネベーカー監督のドキュメンタリーに注目する必要がある。あまりに遅過ぎるけれど。
 どうすれば観ることができるのか?




2017/05/25

 「追憶」(新宿ピカデリー)

 最初に予告編を見たとき、「ミスティック・リバー」の翻案、日本版リメイクかと思った。
 幼なじみの少年たちがある事件にかかわって、離れ離れになって25年。一人は刑事になっていて担当した殺人事件の容疑者がかつての幼なじみ……。プロットがよく似ている。

 監督が降旗康雄、撮影が木村大作。かつて高倉健主演の映画を撮っていた名コンビだ。
 このコンビが岡田准一、小栗旬、 柄本佑といった若手(でもないか、中堅)人気俳優を起用してどんな映画を魅せてくれるか?
 大学生のとき、「駅 STATION」の予告編を初めて観たとき涙がこぼれた。いしだあゆみが列車に乗って、見送る高倉健に敬礼する際の泣き笑い。そのしぐさと表情。内容も状況もまったくわからないというのに。
 昨年、木村大作と金澤誠の共書「誰かが行かなければ道はできない 木村大作と映画の映像」を読んで、木村大作が撮影を担当した作品を立て続けにDVDで鑑賞した。

 だからだろうか、この「追憶」という映画、監督とカメラマンが昔とった杵柄でそれこそ撮った作品という印象を受けた。
 タイトルバックの冬の日本海は素晴らしいのだが、どこか既視感があった。
 コンパクトにまとめられていて、役者陣も皆がんばっているのだが、もろ手を挙げて拍手喝采できない自分がいる。
 まとめられすぎているのだ。
 少年時代の回想シーンは銀残し(?)、現在はカラーという区分けもテクニックが際立つだけのような感じがした。いや、映像は良いのだ、確かに。

 話も出来すぎている。というか、展開に違和感をあった。
 信じられなかったのは、刑事の岡田准一が昔の幼なじみと再会し旧友を暖めた翌日にその幼なじみが殺されたことを知り現場検証に行くシークエンス。
 普通の感覚なら、自分の知り合いであること、昨日会ったこと等、同僚に伝えるのではないだろうか。
 岡田准一が率先して事件を捜査していると、容疑者がかつての幼なじみだとわかり、苦悩、葛藤の末、ある種の隠蔽工作を行い、警察機構の中で孤立していく……なんていう展開になるのではないか。
 前日に会ってないのなら、まだわかるのだけれど。

 岡田准一と小栗旬の関係も腑に落ちない。
 同じ町に住んでいて、まったく関係を絶てるのだろうか。
 どんなに絶っていても、仲間からの情報で何をしているかくらいわかりそうなもんだ。
 岡田准一が故郷を捨てて上京し、逆に柄本佑が同じ町に住んでいるという方が展開に不自然さがないと思う。
 最後に明かされる真相もそんなことできるのか? という思い。
 どこか作り物感が鼻につく。

 役者が頑張っていると書いたが、岡田准一は少し肩に力が入りすぎていないか。
 女優陣が印象的だった。
 りりィ、長澤まさみ、西田尚美。
 木村文乃の身重姿は、知り合いの女性(30代)が結婚して妊娠するとこんな感じかなと微笑ましかった。
 ただ、安藤サクラだけはミスキャストではないか(あくまでもこの映画において、ということで)。 血だらけの床に伏せながら台詞をいうところなんて蛇女みたいでそこだけホラーになっていたような。
 老け姿も、いまいち。

 感動的に締めくくられたあとのエンディングクレジット。
 縦書きの文字が左から右に流れる。
 原案脚本が青島武と瀧本智行。では脚本は誰なのか、注意深く見ていると最後まででてこなかった。
 どういうこと?
 帰宅して公式サイトを調べてみると、原案・脚本となっている。
 単に・を省いただけか。まぎらわしい。

 「犯人に告ぐ」で注目した瀧本智行は最初から脚本だけの担当だったのか?
 当初は監督も担当する予定だったのか、途中で交代になったんではと邪推する。
 瀧本監督ならどんな作品に仕上がったのだろうか。
 



 
 最近、映画や読書のレビューを書いていない。理由がある。中途半端なものをUPしたくないのだ。いろいろ書きたいことがあるから、後回しにしてそのままというパターンに陥っている。いかんいかん。

 昨日の昼間、地元シネコンで「無限の住人」を観た。予告編を見てアンテナにひっかかっていたのだ。公開されたらすぐに劇場に足を運ぼうと思っていたのだが、体調不良、ぎっくり腰等でなかなか行けなかった。
 公開されてからは、あまりお客が入っていないということで、またいつものキムタク演技をあげつらって、何かと批判の声を目にしたり耳にしたりしている。
 本当にそうなのか? 

 かつて、キムタクは山田洋次監督の時代劇に主演したことがある。
 レビューでこう書いた。

     ▽
2006/12/22

 「武士の一分」(丸の内ピカデリー)

 このままでキムタクはいいのだろうか? ずいぶん前から思っていた。別にSMAPのファンではないし、ジャニーズなんて昔の渡辺プロみたいで大嫌いだ。にもかかわらず考えてしまう。

 キムタクは本当にこのままでいいのだろうか?
 「anan」が毎年実施している〈好きな男アンケート〉では13年連続のトップ。TVドラマに主演すれば高視聴率で話題を呼ぶ。SMAPとして何曲もヒット曲を持つ。

 タレントとしてならそれでいいかもしれない。中居くんの立ち位置だ。俳優としてはどうだろうか。確かにドラマは高視聴率だ。しかし、10年後、20年後、彼のドラマは語られるだろうか。たとえばショーケンの「傷だらけの天使」、松田優作の「探偵物語」のように。
 たぶん、ノーだ。語られるとしても、あくまでも〈高視聴率〉という側面でという注釈がつくと思う。

 俳優としてなら、同じSMAPの草なぎくんの方がずいぶんといい仕事をしている。ジャニーズでいえば岡田准一や長瀬智也に注目している。あと二宮和也。彼らはTV、映画、隔たりなく出演している。個人的に観たくなる作品だ。

 キムタクにこれまで本格的な主演映画がなかった、というのが信じられない。
 香港映画に出演してから事務所も方針を変えたのだろうか。
 山田洋次監督のオファーを受けて、藤沢周平原作の時代劇第三弾「武士の一分」に主演すると知ったときは、やっと〈作品〉作りに取組む気持ちになったのかと思ったものである。

 前評判も上々。かなり期待していた。
 平日の午後、映画館はかなりの混雑だった。年齢層は雑多。けっこう高いか。

 海阪藩の毒見役である三村新之丞(木村拓哉)は妻加世(檀れい)と中間の徳平(笹野高史)と質素に暮らしている30石の下級武士。かわりばえのしない仕事に嫌気がさし、剣の腕を活かした道場を開きたいという夢を持っている。
 ある日、いつものように毒見をした新之丞は激しい腹痛に襲われた。食した貝に猛毒が含まれていたのだ。命はとりとめたものの、高熱で3日間寝込んだ後、意識をとりもどした新之丞は新たな悲劇に見舞われる。失明していたのである。
 盲目では仕事はつとまらない。家名断絶を覚悟した新之丞だったが、藩主の温情により、これまでどおりの生活が保証された。
 妙な噂は、口かさのない叔母(桃井かおり)からもたらされた。加世が見知らぬ男と密会しているというのだ。
 外出した加世の後を徳平につけさせると、果たして用事を終えた加世は傍目を気にしながら茶屋に消えた。少し遅れて藩の番頭、島田(板東三津五郎)が入っていく。
 帰宅した加世を問い詰めると、あっさりと白状した。家禄を失う夫を心配した加世は、叔父叔母たちの勧めもあって、藩の有力者で、子ども時代から顔見知りだった島田に口添えを頼んだ。その代償に加世の身体を求められたというのだ。それも一度ではない。
 すぐさま加世を離縁した新之丞は、島田が実際には藩主に何の口添えもしていないことを知る。新之丞は島田に果し合いを申し出た……。

 観終わっての率直な感想は「それほどのものか?」。スクリーンに登場したのはいつもと変わらないキムタクだった。違いはちょんまげをつけているか否か。冒頭なんて「スマスマ」の寸劇か、なんて突っ込みたくなるほど。
 慣れてくると悪くない。が、全体を通して武士の威厳というか、侍魂は感じられなかった。たとえば、毒見役を誠心誠意つとめているのなら、まだわかる。ところが、仕事が嫌になってふてくされて女房に甘えるような男。それが夫の行く末を案じて、それも自ら望んで抱かれたわけではないというのに、その結果だけで判断して離縁を迫る。気持ちが迫ってこない。

 それに比べて檀れいは見事に下級武士の妻を演じていた。少し汚れた足の裏がリアルだった。中間役の笹野高史もいい。

 確かに映画は丁寧に作られているが、キムタクが主演ということで、スタジオ撮影が中心。開放感がなかった。
 卑怯な手を使って襲ってきた坂東三津五郎を、どうやって斬ることができたのか、わからずじまい。剣の師匠(緒形拳)に極意でも伝授されたのか?
 ラストも甘い。あっさりと離縁した後、また簡単に受け入れてしまうのはどんなものか。その間の妻への想いが、描かれているのなら、まだしも。

 館内が明るくなると左隣の中年夫婦の会話が聞こえてきた。「別に映画館で観る必要はないね」
 前の席の夫婦は、夫が立ち上がりながら言った。「2時間ドラマのようだったな」 
 右隣の老女は途中から涙を流しっぱなしだったのだけど。 
 
 山田監督の時代劇三部作の中では第一作の「たそがれ清兵衛」がダントツにいい。
     △

 「武士の一分」と比べて、「無限の住人」の方が数倍いい。断然、キムタクが輝いている。何しろ面白いのだ。

 ストーリーがシンプルだ。
 とある集団に両親を惨殺された少女が復讐のために不死身の用心棒を雇い、見事本懐を遂げる話。
 ほら、簡単に説明できる。これ、映画にはとても重要な要素だと昔何かで読んだことがある。
 少女を演じるのが昨年「湯を沸かすほどの熱い愛」でナチュラルな名演技を見せた杉咲花。この映画でも存在感を魅せつけてくれる。相手の問いに「えっ」と応える際の、声と顔の表情。泣きの台詞まわし。
「巧いんだなぁ、これが!」
 オレはモルツのショーケンか。

 この少女との微妙な関係で、キムタクのいつものキャラクターが引き立つというもの。いつものよりかなり汚れているところが魅力かも。
 巷間、キムタクのワンパターン演技を批判する向きがあるが、僕自身は気にならない。スターというものはそういうものなのだから。高倉健を見よ、いつも同じ演技ではないか。僕は東映の仁侠映画を観たことがなく、その後の高倉健しか知らないが、「八甲田山」も「幸福の黄色いハンカチ」も「野性の証明」も「駅 STATION」も「居酒屋兆治」も(以下略)皆高倉健だった。ビートたけしも同様。ワンパターンの極致だよ。
 ただ、違うのは、どの映画の中でちゃんと役になりきっていることだ。だからスターなんだろうけれど。

 対して、キムタクの場合、演技だけでなく、キャラクターも同じに見えてしまうのがネックだった。
 この映画でも演技は同じなのだが、不死身の浪人役がよく似合っていた。
 後半に交流の末の、浪人の少女に対する想いを如実にかもし出す何気ない台詞があり、目頭が熱くなった。キムタク流のぶっきらぼうな台詞だからこその効果だ。

 そして、何といっても殺陣である。これがすごい。
 昔、小学生の高学年のころだが、TVの時代劇をバカにしていた。刀で斬っても着物は破れない、血は流れない。実に嘘っぽくてたまらなかったのだ。刀自体いかにも作りものという感じもしたし。
 2000年代になり、CG、デジタル加工の技術で斬られた瞬間血が流れるなんて描写も可能になった。北野武監督「座頭市」では快哉をあげたものだ。本作でも当たり前のように血が飛び出ている。

  この映画で瞠目したのは、接近戦における間合い、斬りあいだ。本当に刀が身体に触れている(あるいはすれすれ)のだ。300人対一人だからスペースはない。その中できちんと鮮やかな斬りあいをするのだから恐れ入る。
 キムタク、TVのスペシャルドラマで宮本武蔵を演じ、かなり評判がよかった。時代劇はこれからの方向性の一つかも。
 ちなみに、この映画の描写について、凄惨だとか残酷だとか言う人は、一度その手の時代小説を読んでみるといい。斬殺って正視に耐えないものだとわかるから。

 SMAP解散のとき、キムタクはひとり、育ての親Iマネージャーに逆らってジャニーズ事務所に残った。これで世間の顰蹙を買ったわけだが(僕はその急先鋒だった)、この映画を見て考えが変わった。
 この映画のオファーを受けたとき、もうIマネージャーが外れていたと仮すると、キムタクの造反に得心できるのだ。これまでのドラマ選定ではあくまでもI女史の意向が反映されていて、自分のやりたい方向とズレが生じてきた。キムタクはそんな状況に、ある時期から忸怩たるものを感じていたのではないか。
 I女史がいないからこそ、「無限の住人」のような映画に主演できたのではないかと思えてならない。
 つまり、これまでのイメージ(の延長)ではない役を演じるには、I女史と袂を分かつしかないとの判断をした、と。
 あくまでも個人的な、勝手な憶測でしかないのだが。




 休養は昨日1日では足らなかった。今日も朝起きたら身体が動かず仕事を休んだ。

          * * *

 SMAPが解散して名実ともにジャニーズ事務所のトップに躍り出た嵐。歌にバラエティーにドラマに映画にと、メンバー各人が活躍しているが、役者としては二宮和也の躍進がめざましい。
 映画では「青の炎」(監督:蜷川幸雄)に主演してから「硫黄島からの手紙」、(監督:クリント・イーストウッド)、「母と暮らせば」(監督:山田洋次)と着実に地位を築いている。
 TVでも、「赤めだか」(TBS)、「坊っちゃん」(フジテレビ)とスペシャルドラマで存在感を示した。
 この二宮くん、現場ではほとんど自己主張しないらしい。いつも無言で本番を待っている。困るのスタッフである。あれこれ、二宮くんの気持ちを慮って行動しなければならない。
 業界では、これを二宮忖度というとかいわないとか。

 【おまけ】

2006/12/16

 「硫黄島からの手紙」(丸の内ピカデリー)

 物事にはそれぞれの立場、考え方がある。戦争なんてその代表だろう。どちらが善でどちらが悪かなんて一概に断定できない。ゆえに、硫黄島の戦いを日米両方の視点から描く。
 クリント・イーストウッド監督の考えに間違いはなかった。その目論みは見事に成功したといえる。
 アメリカ人に日本人の心情がわかるか! そう反発した自分の不明を恥じる。

 硫黄島の戦いを日本側から描く「硫黄島からの手紙」にどこまで日本人スタッフが協力したのか(意見が反映されたのか)わからない。言えるのは、アメリカ人監督が、日本人を起用して日本語による日本人のドラマを撮った、そして日本人が観てほとんど違和感がなかったこと。
 これはアメリカ映画史の中で画期的なことではないか。

 映画は現代から始まる。調査隊が硫黄島の洞窟に入り、地面を掘り返すといくつもの包みが出てくる。これはいったい何か?
 時代が飛んで、太平洋戦争末期の1944年。硫黄島では、本土防衛の最後の砦を死守すべく、来るべき米軍の攻撃に対して様々な準備に余念がなかった。最高責任者は栗林陸軍中将(渡辺謙)。米国留学の経験があり、家族、部下思いの切れ者だ。
 彼の着任により、これまでの作戦は一掃され、地下要塞のためトンネルが島のいたるところに掘られることになった。
 部下への体罰も禁止された。
「本土の家族のために、最後まで生き抜ぬいて島を守れ」
 栗林の言葉に、末端兵士の西郷(二宮和也)らはやる気を見せるが、西中尉(伊原剛志)以外の古参将校は冷やかだ。特に死こそ名誉と考える伊藤中尉(中村獅童)にはおもしろくない。
 翌年、米軍が上陸してくると、栗林の奇策は功を奏するものの、その圧倒的な兵力の前に、次第に防戦一方となる。
 家族のため最後まで生き抜こうと考えている西郷にも死が近づいていた。それも進退窮まった部隊長の、栗林の忠告を無視した全員自決の命令。
 手榴弾を爆発させて、一人またひとり命を落としていく。
 死にたくない、こんな死に方なんて最低だ! 栗林の言葉に望みを託した西郷のとった行動、それは……。

 西郷役に二宮和也の演技(態度と言葉づかい)は、まるで現代の青年が太平洋戦争時代にタイムスリップしたような印象。しかし、それで救われた。
 もし実直、真面目だけが取り柄の、上司から虐げられるだけの存在だったら、スクリーンを最後まで見ていられたか自信がない。ちゃらんぽらんの、ある種のふてぶてしさが、非情で過酷なドラマの息抜きになった。
 絶体絶命の中の「もうだめだぁ」の叫びに思わず笑ってしまったのだから。

 栗原中将が着任早々地図を片手に硫黄島を散策して、作戦を固めていく過程は、まるで「七人の侍」の勘兵衛のような風格が感じられた。
 映画は、この栗林と西郷の、家族に宛てた手紙の朗読がナレーションの役目を果たす。西郷の手紙が硫黄島から〈今〉を綴っているのに対して、栗林のそれがすべて米国滞在時代の愛児への書簡というところが、彼の心情を象徴していたように思う。
 親米家で、アメリカの実力を知っている。本当なら戦いたくないのだろう。しかし、軍人として遂行しなければならない。だいたい、陸軍と海軍は反目し、現場の直属の部下には白い目で見られ、頼みの綱の大本営からの支援はあてにできない。孤立無援の状態。そんな心情を、自身の一番良き時代の回想することで癒されているような。

 ロサンゼルスオリンピック馬術競技の金メダリスト・西中佐の心情も栗林に通じるものがある。
 この二人が、過酷で悲惨な状況における真の軍人姿を見せてくれる。それは死に直面した際の部下への対応だ。
 たとえば、西郷の部隊長は、「現場から撤退、最終地点で合流」との命令があったにもかかわらず、自決の道を選び、部下を道連れにした。伊藤中尉(中村獅童)は最終地点に向かう西郷たちに恥を知れとばかり、斬首しようとした。自身も玉砕に命を賭した(その結果が情けない)。
 対して、西は敵の攻撃で両目を負傷すると、自分の部隊を部下にまかせ、一人自決する。栗林もやはり最後の最後で部下に自分の首を斬らせようとする。
 この違いは何なのか。
 サラリーマンを長くやっていると、理想の指導者という観点でも戦争映画を見てしまう。

 クリント・イーストウッド監督の力を見せつけられた映画である。70代半ばで、硫黄島二部作をほとんど同時に撮り上げ、そのどちらも秀作なのだから恐れ入る。これまでの監督作品の充実度を考えれば、驚異ですらある。
 細かいところへの目配せを怠らないのもいい。
 栗林の硫黄島とアメリカ滞在時のヘアスタイルの違いなんてうれしくなってしまう。時の流れをきちんと刻ませている。もしこれが本当の日本映画ならそこまで気を使わないだろう。

 一つだけ気になったのは、憲兵隊をクビになり、硫黄島に左遷させられた清水(加瀬亮)の過去を描くエピソード。回想シーンではなく、あくまでも清水が西郷に話し聞かせた方が効果的だったのではないだろうか。なまじ映像で描くと嘘っぽくなる。

 クライマックスからラストにかけて涙が流れた。栗林や西郷の気持ちを考えると、たまらなくなった。
 しかし、これもイーストウッド監督のすごさなのだが、これでもかの感動の押し売りをしない。この映画の場合、感動というと語弊があるか。流した涙は哀しみによるものなのだから。
 煽らない。いつだって冷静。テーゼを投げかけると、静かに淡々と映画を終わらせるのだ。
 自身が書く音楽と同様に。




 映画「X-MEN」シリーズについて、個人的に「ミュータント・サブ」+「サイボーグ009」だと思っている。実際、原作のアメコミに石森章太郎のコミックの影響があるのかどうか気になるところだ。
 第1作「X-メン」、続編「X-MEN2」はビデオ(DVD)で観た。3作めから劇場で押さえている。
 3部で一応完結して、4作めは前日譚となり、これがむちゃくちゃ面白かった。この路線で新たな3部作を作ればいいのに、5作めでは過去と現在が入り乱れるストーリーになってがっかりした。
 スピンオフ作品「ウルヴァリン」シリーズには興味がない。

     ◇

2006/10/01

 「X-MEN:ファイナルエディション」(日比谷スカラ座)

 アメコミもその実写映画も興味がない。にもかかわらず、このシリーズはビデオになると必ずチェックしていた。特殊能力を持つ者が力を合わせて敵と戦うストーリーが好みという個人的趣味が大いに関係する。
 舞台や設定、キャラクターは全然違うが要は「サイボーグ009」の実写映画みたいなものなのだから。

 遺伝子の突然変異で出現した新人類(ミュータント)が、その超人的パワーゆえ、通常の人間たちから差別と迫害を受ける近未来のアメリカ社会。
 そんな社会状況下、人類を支配してミュータントの世界を築こうとする一派と人類と共存する道を模索する一派(X-MEN)に分かれて戦う物語。
 それぞれマグニートー(イアン・マッケラン)とプロフェッサーX(パトリック・ステュワート)を長とするが、面白いのはこの二人がもともと仲間であり、その関係が現在も緩く続いているということ。完全に敵対していないのだ。
 だから、第1作で人類ミュータント化作戦を実行するマグニートー派に決死の戦いを挑んだX-MENだったが、2作めでは、ミュータント抹殺計画を画策する元陸軍大佐の野望を粉砕するため、手を結んだりする。

 X-MENのメンバーは驚異的な治癒能力を持つローガン(ヒュー・ジャックマン)、目から破壊光線を放つスコット(ジェームズ・マーズデン)、プロフェッサーに次ぐ強力なテレパス能力を持ち助手的立場のジーン(ファムケ・ヤンセン)、天候を自在に操るストーム(ハル・ベリー)、他人の能力を一時的にコピーするローグ(アンナ・パキン)、物を瞬時に氷化するアイスマン(ショーン・アシュモア)。
 敵役のマグニートーは磁力を持ち鉄を自由自在に操れ、部下にどんな人物にも変身可能なミスティークがいる。このミスティーク、普段は全身青色でイボイボがついている醜さなのだが、肢体は女性そのものの全裸。登場するといつもムフフフなんですわ。

 PART2が作られたら、PART3が登場するのは映画の常識。
 ただしこのシリーズ、最新作はかなり強引なストーリーになっている。スコットとジーンのカップルにローガンが加わり、三角関係になって、その関係がどうなるかというのも楽しみの一つであったのだが、前作のラストでジーンが仲間を救うため犠牲になってしまった。
 ところが最新作であっけなく復活するのだ。それも地球を壊滅させるかもしれないとてつもない能力を持つキャラクターとして。そんなこと、1はもちろん2でも説明なんかなかった。ご都合主義の極地。原作にはあるのかもしれないけれど。それはいいとして、ジーンが復活した代わりにスコットがあっけなく退場してしまうのには驚いた。せっかく特殊眼鏡をはずし素顔で活躍してくれると喜んだのに。

 今回はミュータントの能力を奪い普通の人間にしてしまう〈キュア〉という特殊薬が開発されることから巻き起こる騒動を描いている。薬はある少年ミュータントの能力から開発されたもの。ミュータントが人間になるのはもってのほかだ! マグニートーは新たな仲間を加えて少年ミュータントを抹殺するため動き出し、X-MENたちが阻止せんと対峙する。
 悪の権化となったジーンを中心にまさかまさかの展開。意外なラスト。すべてが丸く収まる大団円を予想していたので、少々裏切られた感じだ。でもまあ、疲れていたのにもかかわらず、一度も眠気に襲われなかったってことは、とても面白かったという証拠だろう。CG技術で20年若返ったプロフェッサーXとマグニートーの皺のない顔には驚いた。人間になったミスティークも拝めるし(当然全裸だ!)。それに、なんといってもハル・ベリーがこれまで以上にキュートだったので許してしまおう。

 だいたいこの映画でミュータントの死は絶対ではない。ラストはマグニートーの力の復活を暗示させるものだし、案の定、長い長いエンディングロールの後に、あの方の甦りが付け加えられていた。
 3年の周期で続編が公開されているこのシリーズ、2009年にはまったく同じキャストでPART4が製作されるに決まっている。


2011/06/20

 「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」(MOVIX川口)

 こちらを参照


2014/06/01

 「X-MEN:フィーチャー&パスト」(MOVIX川口)

 単純に前作の続編で良かったのに……。


2016/08/18

 「X-MEN:アポカリプス」(新宿ピカデリー) 

 最後の戦いは、神。
 なんていうキャッチコピーで、やっぱりこのシリーズはサイボーグ009のアメリカ版かと思ったのだが、あれのどこが神なのか。
 敵が味方で味方が敵で。
 シリーズを見通すとそういうことだ。
 それにしても辻褄が合わない。旧シリーズ3部作と新シリーズが合わないだけではない。新シリーズでも第1作と合っていないじゃないか。スタッフ、確信犯だ。若かりしストームが見られたのでまあいいけれど。




 一昨日は休みだったのだけれど、通常どおりに出勤し(とはいえ、早朝品出しの方は休みだから、朝風呂に入ってゆっくりできた)、さくらフェスティバルの準備等、12時半まで働く。
 14時過ぎに店を出て、有楽町へ。ガード下のディスカウントチケット店で「キングコング:髑髏島の巨神」のムビチケ(1400円)を3枚購入。そのまま新宿へ。

 「キングコング:髑髏島の巨神」を観る会なのである。
 参加者は、特撮仲間のSさんとKさん。これは!という特撮映画があるとこのメンバー+αで一緒に観ることにしている。映画を観ることはもちろんだが、鑑賞後の居酒屋でのおしゃべりが至福のときなのだ。
 新宿バルト9の17時15分の回。3D。プラス400円を払ってチケットを購入。

 予告編を初めて観たとき、キングコングの巨大さに驚いた。
 アメリカ映画のキングコングは、オリジナル及びそのリメイク(ピーター・ジャクソン監督)が8m弱、77年のリメイクでも20mほどであった。
 ところがこの新作はそれ以上のデカさなのである。
 ピンときた。
 今後製作が予定されているレジェンダリー版「キングコング対ゴジラ」への措置なんだな。何しろギャレス監督「GODZILLA ゴジラ」に登場するゴジラは100mを超すのだから、この新作のコングも100m近くあるのだろう。
 その後、コングの身長は30m強と知り、少し肩透かしをくらった感じ。それじゃあ、ゴジラと戦えないだろうに。

 これも鑑賞直前に知ったことなのだが、この映画の時代はベトナム戦争末期(1973年。ベトナム戦争の終戦は75年)。予告編に出てきた米軍はベトナム戦争従軍の兵士なのか。これはどういうことだろう?

 アメリカ映画にはもともと怪獣という概念がなかった。
 「ロストワールド」にしても「キング・コング」にしても、あるいはまた「原始怪獣現る」にしても、登場するのは恐竜や翼竜といった巨大生物なのである。
 キングコングだって、単に巨大な猿(ゴリラ)でしかない。だから、軍隊の攻撃で、銃弾を浴びれば血が流れるし、被弾が続けばやがて命を落とすのである。オリジナルも2本のリメイクも、キングコングの最期はあっけなかった。
 このキングコングが日本映画に登場すると、巨大猿から怪獣に様変わりする。

 東宝がアメリカRKO映画から権利を取得して製作された「キングコング対ゴジラ」のキングコングは、ゴジラの身長(50m)に合わせて45mに巨大化している。またゴジラが口から吐く白熱光(放射能)に対抗するため、劇中、帯電体質になって雷の電気エネルギーを手から放つという設定が取り入れられている。
 同じく東宝が創立35周年を記念して製作した「キングコングの逆襲」では身長が20mに変更になっている(「キングコング対ゴジラ」のコングとは別もの)が、銃撃にはびくともしない怪獣であることに変わりなかった。

 このまま続けます
 3月31日(金)、4月1日(土)、2日(日)の3日間、靖国神社で開催される「さくらフェスティバル」にBC二十世紀が出店するため、その準備に追われている。
 断熱仕様の紙コップを神保町の百円ショップで大量に購入しようとしたら、在庫分しかないという。注文しようにも、倉庫に在庫がないというのだから仕方ない。
 いろいろ他をあたったところ、浅草橋のシモジマにあることがわかった。
 一昨日(28日・火)、休みを利用して午後直接行って購入した。何のことはない、シモジマですべてがまかなうのである。紙コップのほか、プラカップ、マドラー、etc……

 お店に運んで、しばらく時間をつぶし、夕方から有楽町で映画を観ることにした。角川シネマ有楽町で上映している「牯嶺街少年殺人事件」。
 TCGメンバーなので火曜日は1000円で観られると当初予定していた地元シネコン「パッセンジャー」から変更したのだが、調べてみると、2200円なのである。あわてて劇場に電話して確認すると、メンバーなら1800円だとのこと。
 18時30分の回に足を運んだ。
 料金のことばかり先行して肝心の体調を考慮しなかった。映画は3時間を超える作品なのに。

 実は前日(27日・月)はラピュタ阿佐ヶ谷のレイトショーで「0課の女 赤い手錠」を鑑賞した。映画のあとはお決まりの知人のスナックへ。朝までコースでカラオケ三昧。スナックでひとりカラオケ!
 そうじゃなくても毎朝4時起きで疲れているのに、映画が面白ければ関係ないさとタカをくくっていたのだが、それこそ面白さに関係なく暗闇の中に身をゆだねていると睡魔が甘くささやくのだ。
 気がつくと意識がなかった。
 全然内容が理解できなかった!!
 仕方ない、もう一度観よう。




2017/2/25

 「ラ・ラ・ランド」(MOVIX川口)

 「セッション」の監督(デイミアン・チャゼル)がミュージカルを撮ったというニュースを目にしたとき、ものすごい期待感があった。
 「セッション」はドラマ的にはある部分破綻しているところがあるものの、クライマックスのドラムソロの圧倒的迫力でもうそれだけで満足してしまった。この映画の魅力はドラマではなく、音楽が醸し出す高揚感の体感にあったのだ。
 同様の高揚感を、「ラ・ラ・ランド」のミュージカルシーンに求めたわけだ。

 公開前に一度だけ予告編を観る機会があった。
 全編、歌って踊っているのだが、少しも興奮しない。むしろダサさを感じてしまった。
 「シン・ゴジラ」の予告編第一弾を観たときと同じ反応なのである。

 ミュージカルには詳しくない。10代まではミュージカルにまったくというほど興味がなかった。タモリがよく言っていた「それまで普通に演技していたのに、なぜ急に歌ったり、踊ったりするのか」に与していたのだ。
 ミュージカルへの偏見を取り去ってくれたのが1980年に日本で公開された「オール・ザッツ・ジャズ」だ。もともと音楽映画が好きだったこともあり、ミュージカルもその一つとして楽しむようになった。
 ちなみに音楽映画とは〈音楽をモチーフとする映画〉と自分の中で規定している。「小さな恋のメロディ」も僕にとっては音楽映画である。全編にわたって、ビー・ジーズの楽曲を使用していると言う点で(エンディングのみCSN&Y)。
 ミュージカルと聞けば、もうそれだけで足を運ぶ。音楽(楽曲)が琴線に響けば、サントラを購入する。
 「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」は映画版だけでなく舞台版のサントラも購入した。「ジャージーボーイズ」なんて一週間に3回観た。米国キャストの舞台(日本公演)まで観に行った。もちろんサントラも購入。

 予告編は期待外れだったが、公開が近づくにつれてワクワク感で胸がはち切れそうになった。「シン・ゴジラ」の場合、予告編第二弾で印象がガラリ変わって、実際本編は傑作だったのだから、「ラ・ラ・ランド」も同様だと思った。
公開二日めに観たのだが、観る前は朝から興奮していた。興奮と書くと少々大仰だが、今晩観るんだと思うと胸が高鳴ったことは確か。

 どこで観ようか。仕事終わりで駆けつけるからレイトショーでないと間に合わない。
 調べるとTOHOシネマズ日本橋があった。しかし、レイトショー対象の最終回の開始が遅く、翌日を考え断念。
 有楽町ではTOHOシネマズみゆき座スカラ座でやっていた。開始時間も日本橋より早い。これにしようと思ったが、念のために電話して確認してみた。案の定、レイトショー料金ではないという。有楽町のTOHOシネマズはいつもそうだ。
 地元MOVIX川口で観ることにした。
 新宿や渋谷ではないので、それほど混まないだろうと予想していたら、さすが話題の映画、かなりのお客さんの数である。それもカップルばかり。座った列は僕以外カップルなんだから!

 胸の高鳴りを抑えながら開巻を待つ……
 オープニングは、ハイウェイを使った、大胆奇抜な大群舞(?)。しかし、ノレなかった。以降、いわゆるミュージカルシーンには心がときめかなかった。ラストに待っていた、この映画の肝心要のシークエンスにも。これはいったいどういうことなのだろう? 自分でも信じられなかった。
 数々のシーン、ショットが、往年のミュージカルへのオマージュ(が含まれている)であるのことは、ミュージカルに詳しくなくてもわかる。しかし、元ネタを知っている、知らないなんて関係ない。目の前で繰り広げられる歌唱(楽曲)やダンスが胸にくるかどうか、だ。

 (ネタばれあり)
 「映画はつまらなかったのか?」と訊かれたら、否と答える。
 ラストの、ふたりの再会ショットに短剣で胸を貫かれた衝撃を受けた。切なすぎて涙がでてきた。20代のころの個人的な思い出が頭をよぎったことも大きい。

 前述の肝心要のシークエンスは、現実とは逆の、たらればの世界を歌&ダンスで盛り上げる。これも僕には疑問だった。
 このシークエンス、始まりはふたりの最初の出会い。しかし、本当なら、フランスロケから帰ってきたヒロイン(エマ・ストーン)と主人公(ライアン・ゴズリング)から描くのが筋ではないか。紆余曲折がありながらふたりは結ばれたのだから。が、あることで仲たがいして別れることに。エマにはフランスロケの仕事が舞い込み、怖気ずくエマの背中をライアンが推す。この映画が大ヒットしてヒロインはトップ女優の仲間入りを果たすのだ。
 普通なら、映画が成功したのだから、あるいは映画に手ごたえを感じたなら、その前に別れたとはいえ、エマはライアンに連絡をとるのではないか。そこでまた恋仲になったり。そうはならなかった。ふたりに何があったのか? そこらへんのすれ違いを僕は知りたかった。

 歌やダンスには胸ときめかなかったが、ライアン・ゴズリングのピアノプレイには始終注目していた。もちろん、音はあとで差し替えているのだろうが、指の動きが音にリンクしていて、まさにホンモノに思えた。ピアノソロも素敵だったし。

 この映画が、不遇なジャズピアニストと売れない女優のロマンス、ピアノをモチーフにした音楽映画だったら、僕はハマったに違ない。誰も共感してくれないだろうが。




 話題のミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」の感想を書く前に、2000年代になって、僕がどんなミュージカル映画を観てきたか、そのレビューをピックアップする。僕自身のミュージカルに対する考え方、趣味嗜好が理解してもらえると思うので。

     ◇

2001/03/07

  「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(丸の内プラゼール)

  ロバート・アルトマン監督のカンヌ映画祭グランプリを受賞した「ザ・プレイヤー」はハリウッドの映画界を皮肉った内容で、人気俳優たちがカメオ出演していることも話題になった。  
 大いに笑ったのは主人公の映画プロデューサーが購入したシナリオを映画化した映画内映画のラスト。
 ハリウッド映画の商業主義、楽天主義を嫌悪するシナリオライターの卵のそれは最後にヒロインが無実の罪で死刑になってしまうという非常に暗い、リアリズムの極致みたいなストーリー。主人公は出来のよさを評価しつつも観客の支持が得られるようにラストをハッピーエンドにしろと要求する。シナリオライターは拒否する。そんなことをしたらこのシナリオの意味がない、と。  
 ところが映画化された作品のラストは処刑室に連れていかれ、あとわずかで刑が執行されるヒロインを助けに銃を乱射しながら「ダイハード」よろしくブルース・ウィルスが助けにくるという大ドンデン返し。リアリズムも何もあったものじゃない。結局シナリオライターの卵氏は映画界で名をあげるため、ハリウッドシステムを受け入れてしまったのだった。  
 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観終り、この映画内映画を思い出していた。  

 かつてハリウッド映画を代表するジャンルにミュージカルがあった。本場ブロードウェーの舞台同様、映画の方も歌、タップダンス、レビューがドラマと渾然となって観客に夢と希望を与え、アメリカ映画の華やかさ、楽しさ、わかりやすさを具現化したジャンルともいえる。日本でもミュージカルファンは多い。  
 ただ映画はある種のリアリズムを基調とする。SFだろうがアクションだろうが、実際にはありえない虚構の世界を描いていても独自のリアリズムで観客を納得させている。この観点からいくとミュージカルはまったくリアルでない。それまでドラマを演じていた俳優が突然歌を歌い出し、踊り出す。それがミュージカルなんだといっても、ルールを知らない人にしてみれば「何これ!」てなものになる。  
 一時期ミュージカル嫌いのタモリがさんざTVで文句を言っていたし、僕自身ある時期までその違和感をぬぐいきれなかった。  
 実際僕も昔ながらのミュージカル・ミュージカルしたものは観たことがない。ミュージカルの黄金時代を知る世代ではないからよけいそうなのかもしれない。「ザッツ・エンタテインメント」はもちろん、空前のブームを呼んだ「ウエストサイド物語」さえTVで放映された際、チャンネルをあわすものの途中で断念してしまったほど。  
 20代になってからはダンス(&ソング)に興味もでてきて、その手の映画も観るようになったが、ショービジネスの舞台裏やダンサー志望の若者たちの青春ものといった内容で、容易にドラマの中に歌やダンスを取り入れられるものに限った。  
 絶対に言えることは〈シリアスなストーリーとミュージカルは相容れない〉ということ。もちろん自分のミュージカルに関する知識がないだけで過去にシリアスなドラマのものもあったかもしれない。しかし「ダンサー・イン・ザ・ダーク」ほど救いのないドラマはなかったのではないか。  
 監督(&脚本)のラース・フォン・トリアーはハリウッドで量産されたミュージカル映画に敬意を表しつつも、その人工的な甘美な世界、いかにもな虚構世界でない、まったくそれとは対局にある世界とミュージカルの融合を試みたのではないか。ミュージカル嫌いな人にも受け入れられるようにとの考えかどうかは別にして、ドラマの中に何の抵抗もなく歌と踊りのシーンを挿入する構成にしたいとも考えた。  
 「ザ・プレイヤー」の映画内映画がヨーロッパのネオリアリズム映画を無理やりハリウッド風にしたように、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はその逆を狙ってのではないか、と。  

 この映画には注意書きが多い。まず劇場ドアのいたるところに「この映画は手持ちカメラで撮影され、画面がブレるので酔いやすい方は…」との注意書きが貼付されていた。  
 映画の冒頭ではオープニングの4分弱まったくの黒味であることを触れ、これも演出による云々という字幕がでる。  
 この映画も内容についてほとんど事前に仕入れなかった。タイトルから盲目のダンサーがヒロインであること、非常に暗い内容であること、観たことを後悔する人がいる、と聞いていたくらい。  
 オープニングの黒味にはフルオーケストラのとても印象的な曲が流れる。途中から目をつむり、舞台に実際にオーケストラがいて、懸命に指揮棒をふる指揮者を思い描いた。  
 ドラマが始まるとやけに色がくすんだ画質、素人が撮った8mmみたいなイライラするほどブレとパンを繰り返す映像が続く。  

 やがて失明してしまうヒロインのセルマ(ビョーク)はチェコからアメリカにやってきたミュージカル好きな移民で、やはり同じ眼病の息子・ジーン(ブラディカ・コスティック)とともに親切な警察官夫婦(デビッド・モース&カーラ・セイモア)の好意で敷地内にあるトレーラーに住む。息子の眼の手術費用を捻出するため生活を切りつめ、つつましい毎日を送っている。
 セルマは市民劇団が上演するミュージカルに主演するため、そのリハーサルにも余念がない。が、眼はますます悪くなり、ほとんど見えない状態に。にもかかわらず検査ではインチキしてまで正常を装い、深夜残業、内職と精をだす。そんなセルマに親切な夫婦、実は妻の浪費で多額の借金を背負っているビルが借金を申し込む。訳を話して断るセルマ。が、ビルはセルマが目の見えないことをいいことに金の隠し場所を見つけ、盗み出す。  
 セルマが工場でミスを犯しクビになった日、金が盗まれたことを知る。ビルが犯人だと確信するセルマが金を返すようにビルに迫るが逆にピストルで脅される始末。言い争いの途中でピストルが暴発。ビルが倒れる。ビルはやってきた妻に警察に知らせろといいながら、二人きりになるとセルマに自分を殺せと迫る。気が動転したセルマはピストルを発射、最後は顔を殴打して殺してしまう。  
 その足で病院に駆け込んだセルマは医師に息子の手術を依頼し、その後警察に逮捕される。すべての証言、証拠がセルマの有罪を物語り、死刑の判決が言い渡される……。    

 ドキュメンタリータッチで社会派風ドラマが展開される中、ミュージカルシーンはヒロインの白日夢、心象風景として要所々に挿入される。このシーンになると画面は鮮やかなカラーとなり、カメラもフィックス、さまざまな角度からダンス&ナンバーが切り取られる手法。  
 最初のナンバーはセルマが働く工場が舞台。工場内にこだまする機械音が徐々にリズムを刻み、やがて工員たちの乱舞になる瞬間は興奮もの。ダンスそのもの、カッティングはそれほどでもなかったが。  
 不意に涙があふれでたのは次のナンバー。鉄橋でセルマに思いを寄せる無骨な男・ジェフ(ピーター・ストーメア)がセルマの目が見えないことを知り、二人のかけあいから通過する列車の貨物車両の上での男たちのダンスに発展するシーン、そしてビルが死んで、不幸を呪うセルマに一人息子が「母さんに罪はない」と歌いかける繊細な声の響き。死んだビルが生き返り、妻とともに「逃げろ」とアドバイスする、なんてミュージカルらしい何でもありの世界が再現される。  

 映画の後半からラストまで、ヒロインを襲う不幸の数々に隣席の二人連れの片方の女性は鳴咽をあげ泣きじゃくっていた。僕はというと悲惨な現実に心苦しく、目をふさぎたくなったもののドラマそのものはわりと冷静に観られた。いくらなんでも裁判はああいう方向に進まないと思うし。  
 もしこの映画がヒロインの悲劇をことさら強調し、観客の涙をしぼるような作りなら、はっきりと拒否反応を示していたただろう。  
 だが僕はヒロインのやりきれない現実を受け入れるための心根、ミュージカルシーンを夢想する気持ちに胸をつかれた。
 現実と白日夢の落差がはげしいほどその思いは強くなる。息子の手術代確保のため(もしかしたら死刑にならずにすむかもしれない)再審を拒否したヒロインが処刑室に向う際の「107ステップス」のナンバーに胸ときめいた。こういう作りもありなんだ、と〈目から鱗〉状態になった。  
 処刑台に立ったヒロインは何かと面倒をみてもらった仕事仲間・キャシー(カトリーヌ・ドヌーブ)から息子の手術成功を知らされる。そこではじめて現実の中で歌をくちずさむ。小さな声がやがて処刑室内に響き渡る迫力となって、その頂点をきわめた時、それこそ観客に何かしらの奇跡を期待させるその瞬間、それを裏切るかのようにショッキングな結末で幕となる。現実の厳しさを再認識させるかのように。  

 この方法論がすべてに通用するとは思わない。またこの映画のヒットに刺激され、安易に悲劇とミュージカルが融合した映画が主流をしめることも憂慮する。が、ミュージカルに縁がなかった人たちがこの映画を観て夢見る心の必要性、華麗なダンスに心躍らせてミュージカル映画の存在を認識するのであればそれはまたけっこうなことではあるまいか。  

 追記  
 ミュージカルシーンはビデオ映像をフィルムに転換したように思う。どのように撮影され、ビデオ処理されたのかパンフレットに記載されていたのであれば、サウンドトラックの「セルマソングス」とともにぜひ購入したい。観終わってもう一度冒頭の「Overture」を聴き直したいと思う。あの真っ黒なスクリーンに何が見えるか、とても気になった。

     ◇

2002/03/13

  「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」(渋谷 シネマライズ)  

 オフブロードウェイでロングランを続けたミュージカルの映画化だという。  

 東ドイツに住む、ロックを子守唄がわりにして育った同性愛者の主人公(ヘドウィグ)がアメリカ兵に見初められて結婚、渡米前に性転換手術するが失敗し、アメリカに着いたとたん捨てられる。
 やがてベルリンの壁が崩壊。彼女(?)はベビーシッターのアルバイト先で知り合ったロックシンガー志望の17歳の高校生・トミーと意気投合。彼をロックシンガーにするべく、自分の持てるすべての愛を注ぎ、ロックの真髄を教え込む。自分の運命を赤裸々に綴った歌作りの日々。ところがある日トミーがヘドウィグの楽曲を盗んで遁走。プロデビューして、あっというまに人気アーティストになってしまった。
 トミーを許せないヘドウィグは自分のバンドを率いて、彼のツアーを追いかけるストーカー的ドサ回りの旅にでる。  

 タイトルの〈アングリーインチ〉とは性転換に失敗したヘドウィッグの股間に残ったわずかな突起物を指している(怒りの1インチ)と同時に、そのままバンド名にもなっているというわけ。  
 トミーのコンサートが開催される大ホールの近くにあるレストランやパブでのライブ。そこで一部のお客の不快感など省みず、ハデハデゴテゴテ、奇抜な衣装で自分の数奇な運命を歌い上げ、トミーの不正を弾劾する。    

 ヘドウィグのこれまでの半生(ロックシンガーになるまでの軌跡)を描く方法が巧い。まずライブで、ヘドウィグ自身が歌で語る。時に当時の映像がインサートされ、やがて歌と映像がシンクロし、いつしかミュージカル特有の時間と場所を超越した世界に突入していく。個人的なミュージカルで一番気になる部分、芝居から歌のシーンに転換するところがごく自然に受け入れられた。
 ロックバンドがフィーチャーされたミュージカルに一番期待したのがここなのである。
 とにかくライブシーン、ミュージカルシーンが楽しい。「Origin of Love」のヘタウマアニメのインサートが効果的。
 また「はい皆さん、ご一緒に」とヘドウィグの掛け声とともに「Wig in the Box」の歌詞がインポーズされて、映画がカラオケ映像になるなんて、コロンブスの卵的新鮮さでカラオケ好きにはたまらない。心が躍った。もう一度カラオケシーンがあったらぜったい声出して身体を揺らして歌っていただろう。最高!

 脚本・監督・主演のジョン・キャメロン・ミッチェルはその気があるのかないのか。まあ、そんなことはどうでもいいけれど、女装姿が見事に決まっていた。ハデハデなステージ衣装以外の、カジュアルな格好の時に見せる足の形(細さ)だとか肩のあたりの曲線だとか、ホント女なのだ。
 トミーとの蜜月時代に、ドアのところでくちづけを交わすシーンがある。このときヘドウィグの全身から醸し出す雰囲気がとてもナチュラル。痺れました。1インチぐらいの突起なんかゆるしてしまいたくなる。小さな胸のふくらみが始終気になって気になって……

  この映画、映画本来の楽しみとは別にソックリさん大会の趣きもあります。
 ヘドウィグはある時は〈狩人〉のお兄さん、またある時は京唄子、黒柳徹子(あくまでもヘアスタイルが)、ファラ・フォーセット……、トミー(マイケル・ピット)はどうみたってディカプリオでしょう。バンドのメンバーでヘドウィグの現在の夫・イツハク(ミリアム・ショア)はジョニー大倉かケミストリーの野人みたいな方(名前知りません)、なんて。
 このイツハク、髭面ではあるけれど、一目見た時から、声を聞いたらなおさら女性だとわかる。役もヘドウィグの目を盗んで彼女のかつらをそっとかぶってうっとりしたりする、ちょっと屈折した、わけありの性格の御仁。それからはいつヘドウィグを凌駕するような美貌の女性に大変身してくれるのか、胸わくわくものだったのだが、そういう展開にはなりませんでした。(ラスト近く、ステージから客席にジャンプし、変身した女性は本人なのかな? 僕にはそう見えなかったのだけれど。)

 冗談はさておき。
 劇場を出るときエンディングロール曲を口ずさんでいた。これは昔からの観た映画がたまらなく素敵だった証拠である(ラストの不可解さは別にどうでもいいことだと思う)。
 この映画ももう一度観たい。いやその前にサントラ買って、ナンバーをソラで歌えるように練習しておこうか。

     ◇

2003/05/18

  「シカゴ」(川崎チネチッタ)  

 話題の映画をやっと観る。  
 ミュージカル「シカゴ」については、そのタイトルとボブ・フォッシーの作であることだけしか知らなかった。小林信彦の「週刊文春」連載のエッセイ(コラム)「人生は五十一から」で、この映画をとりあげていて、内容を紹介していた。あれっと思った。  
 殺人を犯した女性と悪徳弁護士が活躍する、およそミュージカルらしからぬ内容、ヒロインの一人がヴェルマという名前、何よりミュージカルシーンが主人公たちの白日夢(心象風景)というところがひっかかった。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」によく似ている。いや、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」が似ているというべきだろう。
 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のヒロインの名はセルマ、内容も無実の罪で処刑される薄幸な女性の悲劇だ。ミュージカル好きなセルマの白日夢がミュージカルシーンになっているという手法。もしかしたらラース・フォン・トリアー監督は「シカゴ」に影響を受け「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を企画したのかもしれないと。  

 パンフレットのロブ・マーシャル監督のインタビューと読むと逆だった。映画「シカゴ」のミュージカルシーンの発想は「ダンサー…」にあるらしい。  
 考えてみれば、舞台のミュージカルにリアリズムなんて必要ない。役者が突然歌いだし、踊りだしても別にそれほどの違和感はない。なんでもありの世界なのだ。  

 では舞台の「シカゴ」とはどんなものなのだろう。少々調べてみた。  
 もともとは実際の事件をもとにした戯曲だった。1975年、ボブ・フォシーがこの舞台劇をミュージカルに仕立てる(演出&振付)。〈ミュージカル・ボードビル〉と呼ばれる作品で、司会者と生のバンド演奏がドラマを要所要所で転換させていくショー的要素の強い舞台。この年、トニー賞11部門にノミネートされるが、「コーラスライン」に独占され無冠に終わる。
 96年リメイク(ウォルター・ボビー演出、アン・ラインキング振付)して上演され、大ヒット、トニー賞6部門受賞、ロンドンでもロングランとなる(成美堂出版「ミュージカル作品ガイド100選」)。
 日本では85年に鳳蘭と麻美れいのコンビで上演されている。悪徳弁護士役は植木等だ。演出は井原高忠。  

 1920年代のシカゴ。ダンサーを夢見るロキシー(レニー・ゼルウィガー)は自分を騙した愛人を射殺し、収監される。関係者にコネがあって、いつかダンサーにしてやるという愛人の約束がまったくのデタラメだったのだ。
 監獄にはショウビズ界の憧れのスター、ヴェルマ(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)が浮気していた夫と妹を殺した罪で収監されていた。ヴェルマは賄賂で女看守長を手なずけ、悠々自適な監獄生活を謳歌していた。また悪徳弁護士ビリー(リチャード・ギア)を使って、自分に有利な判決にもっていこうと画策していた。  
 憧れのヴェルマに冷たくされたロキシーは対抗するかのようにビリーを雇い入れた。悲劇のヒロインに仕立てられたロキシーは次第に人気者になっていく……。  

 映画は「And ALL THAT JAZZ」のナンバーで幕を開ける。
 ボブ・フォシー監督の傑作ミュージカル映画「オール・ザット・ジャズ」(1980年)のタイトルはこれからとられたのか。〈てんやわんや〉〈あれやこれや〉という意味と認識していたこのタイトル、〈何でもあり〉と訳されていた。ミュージカルナンバーで有名な「エニシング・ゴーズ」(僕は「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」のオープニングで知った)も確か〈何でもあり〉という意味だった。ミュージカルにはやはり〈何でもあり〉が似合うということか。

 キャサリン・ゼタ=ジョーンズのダイナミックな踊りに驚く。とにかくキレがあって見ていて心地いい。この女優、こんなこともできるんだ!! 
 収監された刑務所には6人の女犯罪者がいた。彼女たち一人ひとりを紹介するナンバー「Cell Block Tango」のセットがまんま「監獄ロック」だった。
 この時代、女性は死刑にならないというのが常識だった。ところが、6人の中から初めて死刑の判決がくだされた女性がでる。彼女はハンガリー移民。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のヒロインも東ヨーロッパからの移民だった。公開死刑の絞首刑の様はまさしく「ダンサー…」のクライマックスそのものだ。
 ドラマとミュージカルの構成が絶妙だ。
 ドラマがいつのまにかミュージカルシーンに変わって、自然にこちらもリズムを刻んで、身体を動かしたくなる。
 特にリチャード・ギアのタップダンスのシーンに発揮されていた。クライマックス、ロキシーの判決が有罪か無罪かのサスペンスとのシンクロに唸った。
 女看守長がどこかで見た女優だと思ったら、「ボーン・コレクター」の介添人(クィーン・ラティファ)だった。従弟(大学時代柔道部の主将として活躍した180cmを超す大男)によく似ているのだ。
 ロキシーの夫役ジョン・C・ライリーがいい味でした。不貞妻の、不倫の末の殺人だと知らず、自分が犯人だとかばう姿、妊娠したと嘘をつく妻の言葉を信じる姿、自分はまったく目立たないと嘆く姿……情けなくて愛しい。
 ロキシーの人気を脅かす、次の殺人者役がルーシー・リューというのも驚き。ホント人気者なんだな。

 シリアスドラマだったら、こんな不道徳なものもないと思われる(ヒロインのロキシーなんてそれこそサイテーの女だもの)内容もミュージカルになると大人の寓話になってしまう。
 まさにミュージカルは何でもあり、だ。

     ◇

2003/07/11

  「シカゴ」(川崎チネチッタ)  

 ロードショー最終日に再度「シカゴ」を観る。会社の同僚からタダで前売券を手に入れたのだ。感謝してます、Iさん。  

 2回めの鑑賞となるとスト-リーを追わなくてもいい。じっくりとミュージカルシーンを楽しむことができる。  
 堪能した。  
 1回めではよく把握できなかった、冒頭の2つの事件(ヴェルマの殺人とロキシーの愛人殺し)の時制がはっきりした。自分の目を盗んで情事を重ねていた夫と妹を射殺した後何食わぬ顔をして仕事場のステージへ駆け込むヴェルマ。妹と二人で踊るナンバー、「妹はどうした?」「彼女がいなければ踊れない」の声など無視して、ダイナミックなダンスを披露する。やんややんやの喝采。客席の隅では事件を知った刑事がステージのヴェルマを見つめている。同じ客席にロキシーがいた。ヴェルマに憧れうっとりしているロキシーをせかす愛人。アパートに着くと廊下で激しく抱擁しあうふたり。隣人の冷たい視線の中、部屋に消える。一戦を終えると急に冷たくなる愛人。口論の末、引出しから銃を取り出したロキシーが愛人の背中に向って撃つ。  
 ヴェルマのダンスとロキシーの事件が1日の出来事だと思っていた。そうなると愛人のベッドを供にした前後の態度の急変が信じられなかった。
「男ってそういうものなの」  
 そう反論する女性もいるだろうが、いくらなんでもあの態度はないよ、というのが僕の意見。  
 情事の前と後は別の日なのだと今回わかった。そうすると先に収監されていて女王みたいに振舞っているヴェルマの存在も理解できる。  

 あの作りならミュージカル嫌いの人でも観られますね。とはIさんの感想。  
 ミュージカルシーンをドラマと区別して構築するのは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の応用である。とはいえ、「ダンサー……」と違って、ミュージカルシーンとドラマ部分が密接に関係しあって効果をあげてくるところがこの映画のミソだ。  

 収監されている女囚たちのプロフィールを紹介する「Cell Block Tango」。何度観てもわくわくするなぁ。初の女性受刑者で死刑執行となったハンガリー移民の女性は一貫して無罪を主張する。このナンバーを聴きながら、この女性は本当に無実なのかもしれないと思った。  
 どのミュージカルシーンも本場アメリカの実力をみせつけてくれるが、特にお気に入りなのが「We Both Reached For The Gun」だ。  
 ロキシーを悲劇のヒロインに仕立てようと自分のシナリオどおりに会見にのぞもうとする弁護士ビリーと、彼に反発しようにもいいように扱われてしまうロキシーの関係を人形使い師と腹話術人形、聞き手の記者たちをマリオネット人形に見立て、記者会見の模様をコミカルに描いている。  
 ロキシーに裏切られ、まったく相手にされない自分の立場、存在感のなさを嘆く夫のナンバー「Mister Cellophane」も忘れがたい。  
 無罪か有罪か、ロキシーの判決がでる瞬間をビリーのタップダンスとシンクロさせ緊張感を高めるなんて目から鱗。「やられました」の心境だ。  

 やっぱりサウンドトラックCDが欲しくなってきた。……買っちゃおうかな。

     ◇

2006/04/30

  「RENT/レント」(東劇)

 このミュージカルについては、つい最近新聞の広告で知ったばかりだった。一面すべてを使って日本公演とロードショーを告知していた。スチールからロックの迫力に満ちた現代に生きる若者たちの生態を描いた群像劇ではないかとアンテナが反応した。本当なら舞台を観るべきなのだが、チケットの入手が面倒なことと料金が割高なためパス、映画だけチェックしておこうと思っていた。そんなところにMさんから無料鑑賞招待の知らせ。天女の囁きですな。

 80年代にブロードウェイでロングランしたミュージカル。なんてことはもちろん、ストーリーもまったく把握していなかった。予備知識ゼロ。タイトルの「RENT」の意味も〈貸す〉ぐらいの認識だった。〈家賃〉だったのね。お恥ずかしい。

 映画は舞台上に横一列に並んだ10名ほどの男女が「Seasons of Love」を歌うシーンからスタートする。まずメロディが耳をとらえた。いわゆる〈オーバーチュア〉が終わると、本編の始まり。古臭いアパート(といっても、日本のアパートのイメージではない高層建物だし、部屋はだだっ広い)に無断宿泊して芸術活動にしそしむ若者たちの生態が活写される。

 ドラマに馴染んでくると、冒頭の舞台上の男女は、映画の主要人物だったことがわかってくる趣向。
 台詞はあるが、ほとんど登場人物の歌で進行する。バラードありロックありといった迫力ある今風の楽曲ばかりなのが新鮮。

 エイズで友人が死ぬシーンはバックに歌を流すといった処理をして、好感を持った。にもかかわらず、恋人に死なれた(実際は死なないけれど)男が、その別れを悲しむところでは、昔ながらミュージカルといった感じ。自分の気持ちを歌にのせてうたってしまう。ここは引いた。それまでの新しさが台無しになったような気がする。
 また、ここまで歌やダンスで押し通すのなら、いっそ、普通の芝居、台詞なんてないほうがいいようにも思えてきた。

 人物への感情移入ができた中盤、ニューヨークの街をバックに「Seasons of Love」がもう一度流れてくる。今度は歌詞が耳をとらえた。

 52万5600分、1年間を何で数える?
 夜明け、日暮れ、深夜 のコーヒーカップ……

 さまざまな瞬間を並べながら、愛や人生について問いかけ、生きていることの意味、生きるていくこと大切さ、尊さを訴えてくる。

 瞬時に最近急逝した友人の顔が思い浮かんだ。ニューヨークが大好きだった彼女、もし生きていたら、この映画に、この歌に何を感じるだろうか。あるいは四十数年間の人生、何を道標にどんな想いを刻んできたのだろうか。突然道を閉ざされて、やはり無念だったか。それとも運命を素直に受け入れたのか。

 もう映画なんてどうでもよくなった。
 少なくとも僕にとっては。

     ◇

2008/02/01

 「スウィーニー・トッド フリード街の悪魔の理髪師」(丸の内プラゼール)

 「スウィーニー・トッド」
 このタイトルにはずいぶん前から見覚え、聞き覚えがあった。しかしさっぱり思い出せない。荒川静香がイナバウアーで喝采を浴びた曲? それは「トゥーランドット」だ。
 では、いつどこでこのタイトルにお目にかかっているのだろうか?

 疑問は、ネット界のジキル&ハイド・黒犬獣氏のブログで氷解した。「スウィーニー・トッド フリード街の悪魔の理髪師」がミュージカルだと書いている。それでピンときた。ああ、宮本亜門だ。昨年、宮本亜門が手がけたミュージカルではないか。そのTVスポットや広告で憶えていたのだ。
 そう、この映画は、ブロードウェイ・ミュージカルの映画化なのである。ティム・バートン監督&ジョニー・デップのコンビ、それに共演がヘレナ・ボナム=カーターだ。ミュージカルのミュの字も想像できるわけがない。だいたい、予告編ではミュージカルなんて謳っていなかったような。
 アメリカの実相寺昭雄&岸田森にもかかわらず、これまで、このコンビの映画に縁がなかった。名作の誉れ高い「シーザーハンズ」もまだまともに観ていないのだ。「スウィーニー・トッド」も関心がなかった。しかし、ミュージカルと知って気が変わった。ミュージカルは舞台が一番。そうは思っても懐具合からすると映画しかない。若いころのミュージカル映画嫌いの体質もずいぶん改善されてきた。最近はできるだけ鑑賞するようにしている。
 というわけで、映画サービスデーに丸の内プラゼールのレイトショーへ。

 舞台は19世紀のロンドン。愛する妻との間に娘が生まれ、幸せな生活を営んでいた理髪師(ジョニー・デップ)が、好色な悪徳判事(アラン・リックマン)の陰謀で無実の罪をきせられ、流刑となる。判事が妻に横恋慕して、邪魔な亭主を追い払ったのだ。
 15年後、理髪師は復讐の鬼となって街に舞い戻ってきた。スウィーニー・トッドと名を変えた彼は、パイ屋の女主人(ヘレナ・ボナム=カーター)の協力を得て、2階に理髪店を開業する。自慢の剃刀さばきで理髪店はまたたく間に評判になる。同時にそれまで閑古鳥が鳴いていたパイ屋も大繁盛。彼の狙いは、店の評判を聞いて訪れる判事にあった。「この剃刀で早くあいつの喉を切り裂いてやりたい」

 冒頭からミュージカルの威力を発揮している。長くなる状況説明をすべて歌で処理。すんなり受け入れられる。説明台詞だとこうはいかない。市川崑監督「映画女優」(当然わかっていてやっているのだろうが)の冒頭は説明台詞の応酬だった。
 もうひとつ、ミュージカルだから観ていられるが、こんな残酷で悲惨な話、普通の劇映画ならつきあいきれない。と思ったら、10年前にベン・キングスレーの主演で映画になっているのだった。それも当初はティム・バートンの監督だったらしい。

 アラン・リックマランは見るからに偽善者。夫(理髪師)が流刑にされ絶望した妻が自殺すると一人残った娘を養女にする。なかなかいいところもあるじゃないと思ったら、適齢期まで待って自分の嫁にするつもりでいるのだ。こんな男への復讐というのだから完全に理髪師に感情移入できる。
 サブタイトルに「フリード街の悪魔の理髪師」とある、おまけに映像も暗く沈んだタッチ。だいたいジョニー・デップもヘレナ・ボナム=カーターも死神メイク。にもかかわらず、未来を予言する謎の女が登場したことで、なぜかハッピーエンドを予想してしまった。ハッピーエンドというとおかしいかもしれない。ジョニー・デップたちが犠牲になってある人たちは幸せになる。そんな展開だ。
 だから、最初の殺人は仕方ないとしても、店を訪れた客を次々に殺害していく光景にわが目を疑った。椅子に座って気持ちよく髭をあたってもらうつもりで喉を切られた被害者はそのまま特殊ルートを伝わって地下に落ちていく。これだけの死体をどう処理するのか。この死体とパイ屋の大繁盛が結びつけられなかった。それまで肉が手に入らなくて開店休業中だったというのに。バカというか何というか。
 なんていうストーリー! やっぱりミュージカルでなければ観ていられない。

 とはいえ、台詞がそのまま歌になるだけのミュージカルは好みではない。やはりそこにダンスの躍動感やバンド演奏のライブ感といった要素がないとノレないのだ。この映画も始まってしばらくの間は(ミュージカルとして)肩透かしをくらった感じだった。楽曲にもそれほど耳をとらえられなかったし。しかし、観ているうちに、ジョニー・デップとヘレナ・ボナム=カーターの掛け合いにわくわくするようになった。
 映画「レット・イット・ビー」で一番興奮したのが、ルーフトップコンサートと呼ばれるビル屋上のライブ演奏で、特に「I've Got a Feeling 」に快哉を叫んだ。ポールのパート、ジョンのパート、まったく別ものと思われた曲が最後に合体する爽快感。とても気持ちよい。
 「スウィーニー・トッド」も同様で、歌詞の内容より、その様、歌(音)そのものに反応してしまった。
 もう全編血に彩られた映画であるが、ラストカットに〈美〉を感じたことも付記しておく。




 ブックカフェ二十世紀で現在水曜日に一緒に働いているK嬢は、女優青葉マーク。彼女が出演している映画「退屈な日々にさようならを」をK's cinemaに観に行く。28日(火)のこと。
 そんなに期待していなかった。K嬢は監督への思い入れを語ってくれるのだが、僕はまったく知らなかったし、これまで作品を観たこともない。上映時間は2時間20分。新人としては長すぎるのではないか? 
「もし、つまらなかったら、つまらないって言うからね」
 彼女は毎日、監督とゲストのトークがある18時の回に自主的に参加して、お客を見送っているという。
「だったら、休みの日、その回に行くから」

 観た。終了後、エントランスに出ると、彼女がいた。こちらに気がつき手をあげて近づいきたので、言った。
「すげぇ、面白かった! 2時間20分、確かに変にカットできないよね。会話とか表情とか愉快で、何度も笑っていたよ」
 俳優の素を生かした台詞廻し、いわゆる演技演技した振る舞いを排除して、リアルな空間を醸しだしている。
 構成は意識しているのかどうかわからないが、「パルプフィクション」を彷彿させる。
 ストーリーは本来ならありえないと思う。あまりにも登場人物が結びつきすぎるのだ。ある種のファンタジーか。

 俳優が普通の芝居をして、リアルな空間を作り出している、ということで、「tokyo.sora」という映画を思い出した。

     ◇

2002/08/27

 「tokyo.sora」(TOKYO FMホール 試写会)  

 東京の空の下、20代女性たち6人の物語。  
 ティッシュ配りのアルバイトを繰り返すモデル志望の娘(本上まなみ)。コインラインドリーにたたずむ留学中の中国人(孫正華)。小さな胸に心痛めている美大生(仲村綾乃)。  
 ランジェリーパブで働く小説家志望の葉子(板谷由夏)と美容師見習いの由香(井川遙)。流行らない喫茶店でマスターとおしゃべりばかりしているウェイトレス(高木郁乃)。  
 彼女たちの日常生活がそれぞれさりげなく淡々と描かれる。いわゆるスケッチの積み重ね。  

 モデル志望の娘はいつも眼鏡をかけていて、オーディションの時もけっしてはずさない。オフの日はいつも一人で部屋でビデオを観ている。  
 中国人留学生はコインランドリーで見かける日本人男性を好きになり彼の愛読書(町田康)を購入、彼の隣でページを開いてみる。同じ本を読んでいるということで、話しかけられるけれど、日本語があまりうまくないのでとんちんかんなやりとりになってしまう。女優志望と留学生は同じアパートの隣同士だが、まったく交流はない。  
 留学生はアルバイトで美大の絵のモデルをしている。ヌードデッサンの時、その豊満な乳房に嫉妬したのが美大生。アンナミラーズでバイトしようとするが、その胸を強調したユニフォームにおじけづく。以来胸パットを愛用している。彼氏に身体を求められても貧弱な胸だと知られるのが怖くてそれ以上の関係になれない。  
 葉子は某小説誌の新人賞に応募した小説が最終選考まで残ったことで、若い編集者との接触を持つことができた。編集者から勧められて書いた小説はそのままでは雑誌に掲載できない。編集者がリライトしたものならGOサインがでるという。しかしそれはもう自分の作品ではない。固辞した葉子に編集者は「じゃあボクの名前で発表するよ」。  
 ある日一人で居酒屋に入ると由香がいた。意気投合した二人は葉子の部屋で飲み直す。由香は毎日シャンプーばかりでカットをさせてもらえないと悩みを打ち明ける。その夜二人で飲み明かし久しぶりに気持ちのいい空を見ることができた。  
 世間に認められない焦燥感、孤独感に苛まれて、ある日、発作的に自殺未遂を起こした葉子は左の手首から血を流しながら電話する。由香が客からもらった名刺をにぎりしめながら。由香に伝えてもらいたいことがあると。相手は喫茶店のマスターだった……。  

 演技的なものを排した台詞廻し、会話で、できるだけ素の彼女たちを浮かび上がらせる。カメラも一定のポジションに固定し、距離をおいて必要以上の状況説明をしない。まるで定点観測の様相だ。 芸達者な香山照之もココリコの遠藤章造もどこにでもいる生身の一人の人間として登場する。  
 自然光を重視した照明が全体的に青みがかった映像にして都会で生きる女性たちの孤独を浮き彫りにする。時折挿入される見上げた角度の空模様が彼女たちの心象風景となって効果的だ。  

 「マグノリア」の世界を佐々木昭一郎が撮ったような映画といえようか。(佐々木昭一郎は70年代から80年代にかけて活躍したNHKの名物ディレクター。素人を好んで起用し、その一種独特な詩的世界で数多くの賞を受賞している。)  
 監督はこれが劇映画デビューとなるCFディレクターの石川寛。透明感あふれる水彩画みたいな映像。まるで役者たちの呼吸が聞こえるような、時をいっしょにすごしているような演出。先輩格の市川準監督「トキワ荘の青春」を彷彿させる。東陽一の「もう頬づえをつかない」のタッチも思い出した。

 もうずいぶん前から不思議に思っていることがある。  
 たとえば電車に乗っていると外人(アメリカ人)の会話を耳にする。身振り手振り、会話の調子って、そのまま映画のワンシーンになってもおかしくない。実生活の会話風景=映画の世界・のよう、なのである。
 これが日本人になると、あちらこちらで交わされる会話と映画(TVドラマ)の中のそれが同じに思えない。別物という感じ。  
 外人の会話ってもともと演技的な要素が備わっているのだろう。  
 恥の文化・日本ではそうはいかない。抑揚のない、ぼそぼそとつぶやくような、ささやくような会話がほとんどなのだ。
 だからこの映画の会話、やりとりは街のあちらこちらで交わされているものと同じ。リアルそのもなのである。

 この映画は全編デジタル撮影で、ビデオをフィルムに転換している。ビデオ撮影だからこそ、長廻しが可能になってドキュメントタッチの映像、リアルな雰囲気が得られたとも思えるが、惜しむらくはこの映画のテーマともいえる空の色の〈抜け〉が悪いところ。
 観終わってすがすがしい気分になれる。2時間強の上映時間がそれほど長いと感じなかった。僕はこういう世界、ストーリーも映像も大好きなのだ。  

 シナリオが読みたくなった。あの台詞は一字一句シナリオに書かれているものなのだろうか。それとも状況説明、台詞の要旨だけまとめられたものなのか。

     *

 「マグノリア」がそうであったように観客は6人の誰かに自分と重なるものを見て感情移入できるのではないか。僕は葉子だった。今時原稿用紙に鉛筆で文字を書く若い女性はいないと思うけれど(でもこの方が絵になる)、自分の才能を信じて孤独に机に向かう姿が目に焼きついた。煙草を持つ指のしぐさが魅力的。
 孫正華は横顔が驚くほど天海祐希に似ていた。眼鏡姿の本上まゆみもよかったなあ。
 癒し系タレントとして人気の高い井川遙の魅力がやっとわかった。小林信彦がコラムで紹介してから気になってグラビア等で何度眺めてみてもそれほどいいとは思っていなかった。由香のかわいらしさったらない。守ってあげたくなる。




 ピーナッツ主演の「私と私」のレビューがまだだ。早く書かなければ。そう思いながらまだの映画がいくつかある。
 とりあえず、2月に劇場で鑑賞した映画の簡単な感想を記しておく。

     ◇

 2月9日(火)

 「破門 ふたりのヤクビョーガミ」(新宿ピカデリー)

 関西弁をしゃべる北川景子を見たくて足を運んだ。彼女、三の線の方が魅力的だと思っている。
 それから、関西弁がしゃべれる役者を探しているので、その確認もあって。
 というのも、久しぶりに読んだ、小林信彦「唐獅子株式会社」に大笑いし、もしこれを時代背景をそのままに、TVドラマ化したら(これまで2度映画化されているけれど成功していない)と夢想して、個人的にキャスティングしているため。

 2月13日(月)

 「恐怖女子高 女暴力教室」(ラピュタ阿佐ヶ谷)

 今、ラピュタではレイトショーで池玲子と杉本美樹を特集している。BC二十世紀ではチラシを置く関係で、招待券をもらえる。2枚あるので、最初の映画をこれにした。杉本美樹は好きなタイプではないが、池玲子にヤラれた!

 2月19日(日)

 「愚行録」(丸の内ピカデリー)

 面白い映画ではあるが、原作はもっと面白いんだろうなと思える内容だった。3度の衝撃とポスターにあるが、途中で展開がわかったので、個人的には1度の衝撃だった。詳しくは項を改めて。

 2月21日(木)

 「沈黙 -サイレンスー」(MOVIX川口)

 この映画も項を改めて。

 2月23日(火)

 「暁の追跡」(神保町シアター)

 市川崑監督の、1950年の作品。こんな作品があったなんてこと、全然知らなかった。これも項を改める。

 「たかが世界の終わり」(ヒューマントラストシネマ有楽町)

 期待はずれだった。会話だけで成り立つドラマ作りがあっていいし(フランス語だし)ら、クライマックスの家族の言い争いには思わずグッときたけれど、あとはもう……。おまけに挿入される音楽(楽曲)のシーンになると、音が厚くなって、カメラワーク、カッティングがミュージックビデオになってしまうのだ。すごい違和感。


日曜日は「家族の肖像」を鑑賞予定。




2017/02/08

 「マグニフィセント・セブン」(丸の内ピカデリー)

 傑作として名高い「荒野の七人」(60年)のリメイク。
 「荒野の七人」は、ハリウッドが黒澤明監督の代表作「七人の侍」(1954年)を西部劇に翻案した作品として往年の映画ファンなら知らない人はいない。

 個人的には「荒野の七人」に何の思い入れもない。
 映画(のタイトル)を知ったのはわりと早い時期だった。小学校の高学年か。西部劇の傑作であること、スターが大勢出演していること、日本映画が基になっていること。記憶が定かではないのだが、たぶん「七人の侍」より先に知っていたと思う。テーマ音楽も耳に馴染んでいる。
 が、観る機会がなかった。TVの洋画劇場で放映されたことがあったのだろうか。観た覚えがない。

 高校時代に「七人の侍」がTVで放映された。全編後編に分けて二週にわたって。むちゃくちゃ面白くて、その後は劇場(リバイバル上映)で、ビデオで、DVDで何度も鑑賞している。
 「荒野の七人」を観たのは最近である。この歳になると10年前も最近であるから、時期ははっきりしないのだが。
 映画の印象だけ覚えている。「七人の侍」の方が断然面白いじゃないか! 

 「七人の侍」のすごいところは、映画の前半、志村喬演じる勘兵衞が仲間を集めるくだりから夢中になれることだ。
 野武士の襲撃から村を守るために、村人は侍を雇うことにする。町にやってきた村の代表たちが侍をスカウトして、最初に選ばれるのが浪人の勘兵衞。この勘兵衞を慕って6人の浪人が集まるエピソードが愉快、痛快なのである。七人の侍のそれぞれの個性を際立たせながら、侍の侍らしさが描かれるのだから目が離せない。

 上映時間が3時間強の「七人の侍」に対して、「荒野の七人」は2時間しかないためか、ユル・ブリンナーによるガンマン集めにそれほど時間をさけない。僕が「荒野の七人」を面白くないと思うのは、ここに要因があるのかもしれない。
 もし、もっと早く、「七人の侍」より先に「荒野の七人」を観ていたら、印象は違っていただろう。

 最初に予告編に触れて反応したのはアップのデンゼル・ワシントン。どことなく志村喬に似ていたのだ。志村喬をもっと男前にした感じか。次にバックに流れる曲。「朝日のあたる家」だ。劇中に流れる、もしかしたらエンディングロールに流れるこの曲を聴きたいと思った。
 「荒野の七人」のリメイクなのに、なぜにタイトルが「The Magnificent Seven」? 数秒おいて得心した。「荒野の七人」の原題なのである。
 続けて思った。〈マグニフィセント〉とは何ぞや? 調べてみると「崇高な」「豪華な」「偉大な」「素晴らしい」を意味する形容詞だという。

 「荒野の七人」が「七人の侍」をわりとそのまま翻案しているのに対して、「マグニフィセント・セブン」はリメイクだからか新規軸を打ち出している。
 敵方に絶対悪、それも個人を配置したのだ。
 「七人の侍」では野武士が、「荒野の七人」では盗賊が貧村を襲う。野武士も盗賊も頭領がいるが、あくまでも集団の中の一人という扱いだった。
 この映画では、とある開拓地に金鉱があり、それを独占したいがために悪徳実業家があの手この手を使って、住民を追い払おうとする。そのためには殺人も厭わない極悪非道な奴なのだ。もちろん、実行するのは部下たちだが。

 この実業家に亭主を殺された未亡人(ヘイリー・ベネット)がヒロイン。ちょっと見、「ロミオとジュリエット」のオリビア・ハッセーみたいで(胸元から上)、中学時代を思い出してちょっと胸キュン。
 この未亡人(ともう1人)がデンゼル・ワシントンに敵の排除を依頼する際に、「復讐」という言葉を発する。亭主を意味もなく殺されたわけだから当然なのだが、少々違和感があった。

 七人のメンバーに東洋人を入れた。
 その一人がイ・ビョンホン。ナイフの使い手で、実になんともかっこよいのであるが、文句を言いたい。
なぜ韓国の俳優なんだ!  
 日本のアニメ「マッハGOGOGO」をハリウッドで実写映画化した「スピード・レーサー」でも主要キャストの一人が韓国人俳優だった。
 日本映画の名作を翻案した映画のリメイクなのだから、原作にリスペクトするなら、日本人俳優を起用してもらいたい。
 まっ、イ・ビョンホンは若き日の藤竜也みたいで素敵なんですけどね。
 インディアン、もとい、ネイティブ・アメリカン(マーティン・センズメアー)もメンバーになる。
  
 デンゼル・ワシントンのメンバー集めのシークエンスから、何かと「七人の侍」と比べてしまい、不満タラタラだった。
  手垢のついた展開もあって、がっかりもした。クライマックスのアクションもとりたてて驚愕することもなかった。
  が、クライマックスのクライマックス、デンゼル・ワシントンと敵のボス(バーソロミュー・ボーグ)の戦いで膝を打った。冒頭で抱いた違和感も解消された。

  映画が大団円をむかえて、七人を紹介するクレジットとなる。バックに流れるのは「朝日のあたる家」ではなく、「荒野の七人」のテーマ。胸が躍るね、やっぱり。
  



 一昨日(6日)、仕事を終えて有楽町へ。丸の内ピカデリーで「マグニフィセント・セブン」鑑賞。
 予告編でバックに流れていた「朝日のあたる家」は劇中では一切使われていなかった。残念。
 この映画については項を改める。
 
 昨日(7日)は、午前中、ラピュタ阿佐ヶ谷で「三大怪獣 地球最大の決戦」を、午後はテアトル新宿で「島々清しゃ」を鑑賞。
 
 (昭和の)ゴジラシリーズは「三大怪獣 地球最大の決戦」までだと思っている。自分の中では。
 以前にも書いたが、この映画は、キングギドラが登場しなければ、それほどのものではない。大人になってから、特撮や怪獣よりも、「ローマの休日」を下敷きにしたようなドラマを楽しむ映画だと思っている。主演の夏木陽介と彼が護衛する某国の王女(若林映子)の関係とか、夏木の妹(星由里子)とのたわいないやりとりとか。60年代のファッションも素敵だ。70年代になるとなぜあんなダサくなるのか。特にスーツ姿。細いネクタイが決まっている。

 後年知ったことだが、「三大怪獣 地球最大の決戦」は、64年の暮れに公開される予定だった「赤ひげ」が延期になったため、代替作品として製作されたという。この年は、4月に「モスラ対ゴジラ」が公開されているわけだから、製作はバタバタだったのだろう。
 それは特撮や怪獣の着ぐるみに垣間見られる。子どものときはわからなかったが。
 ラドンの造形が「空の大怪獣 ラドン」に比べるとヌルい。飛びラドンはピアノ線が目立って仕方ないし。
 小美人がゴジラやラドンの言葉を通訳するシーンは、おいおいって感じ。あまりにバカらしくて笑ってしまったけれど。
 ただし、ミニチュアによる大胆構図もあり、一概に批判はできない。

 キングギドラを撃退した三大怪獣。モスラは小美人とともにインファント島に帰る。見送るゴジラとラドン。その後、2匹はどうしたのか?
 それはともかく、「GODZILLA ゴジラ」の続編は、この映画のリボーンになるのだろうか? それはそれで楽しみだ。

 「島々清しゃ」。
 昨年12月のシネりんが新藤風監督をゲストに呼んでのこの映画のプレイベントだった。
 予告編を見て、島の子どもたちの吹奏楽を描いていて興味を持った。
 火曜日なので1,000円。これは助かる。
 絶対音感(といえるのだろう)を持つ主人公の女の子の、雑音(音程の狂い)を耳にしたときのイライラ、ザワザワ感は、僕がトイレを借りにパチンコ店に入ったときの感覚に似ているのだろう。あの騒音、爆音を耳にして皆よく平気だよなぁ。いつも思う。慣れもあるのか。
 ラスト、何気ない楽器演奏に涙がでてきて仕方なかった。

 映画鑑賞後、そのまままっすぐ帰って川口中央図書館に行くつもりが、新宿駅東南口に向かう途中に「一軒め酒場」を発見。寄ってしまった。日本酒2杯。目当てのもやし炒め。神田旨かつ。
 ほろ酔い気分で図書館へ。続いて、地元の書店へ。注文しておいた「続・時をかける少女」(石山透/復刊ドットコム)を手に入れる。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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