先週の木曜日(15日)、篠原哲雄監督の新作「花戦さ」を観た(丸の内東映)。篠原監督らしい丁寧な作り、的確なカメラワーク、カッティングで世界を堪能させてもらった。クライマックスの主人公の言葉に目頭が熱くなった。
 一つだけ文句。
 映画の冒頭、若き日の主人公と織田信長との邂逅を描き、時代は12年後に移る。〈12年後〉とス―パーが出るのだが、再登場する主人公が12年前とちっとも変っていない。これにはゲンナリだった。
 12年の歳月を、時の流れを一瞬(1カット)で観客にわからしめる、映画の見せどころなのに。
 そんなことを一緒に観たYさんと語り合う。

 一昨日の火曜日(20日)はMOVIXの日、地元のMOVIX川口で「22年目の告白 ~私が殺人犯です~」を観た。
 むちゃくちゃ面白くて、一時もスクリーンから目を離せない。しかし、この映画で描かれたことはぜったいありえないと思う。なぜありえないか、説明したいが、それ自体がネタバレになってしまうので書かない。
 本編を観てわかる。この映画、予告編で観客をミスリードしているのだ。




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2017/06/01

 「美しい星」(TOHOシネマズ日本橋)

 「美しい星」が映画化されると知ってから楽しみにしていた。
 「美しい星」は、大学時代に三島由紀夫にハマるきっかけとなった小説である。
 予備校のときに読んだ。友人に借りた。
 「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」に感想がある。
 この小説は、自身の日記を基にしているが、当然、人物造形やエピソードには創作がある。とはいえ、本や映画の感想はそのまま使っている。てにをはの間違いやよりわかりやすい表現に訂正している箇所もあるけれど。

     ▽
1978/05/07
 (略)
 借りたのは安部公房の『密会』と三島由紀夫の『美しい星』。
 『密会』はちっとも意味がわからず面白くなかったが、『美しい星』の世界にはすっかり酔いしれてしまった。この小説はSFではないがUFOや宇宙人が登場するという話を聞いて興味を持ったのである。完璧なまでもの文章による〈三島芸術論〉と言おうか。
     △

 三島由紀夫の小説を初めて読んだのは高校生のとき。「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」にこんな風に書いている。

     ▽
1978/06/22
 (略)
 高校時代に『午後の曳航』が海外で映画化された。日本文学がどう翻訳されて映像化されたのか知りたくて小説と『キネマ旬報』に掲載されたシナリオを読み比べたことがある。小説は登場する少年がどうも好きになれなくて物語も期待したほどではなかった。映画は観なかった。
 (略)
     △

 今、「美しい星」は三島由紀夫の異色SF小説と紹介されている。当時、70年代はそうではなかった。日記にも書いているが、SF的趣向による純文学というような位置づけで、〈SFではない〉と新潮文庫が発行する文庫目録の解説にあったと記憶している。
 何かの本でわかったのだが、60年代になってSF小説が定着してくると、純文学の書き手がこの新しいジャンルに興味を示し、その手の小説を発表するというようなことがあった。そうしたある種のブームの中、安部公房が「第四間氷期」を、三島由紀夫が「美しい星」を書いたということだろう。

 さて、「美しい星」。どんな内容だったか、ほとんど忘却の彼方である。
 とはいえ、映画化にあたって、小説世界を大胆に変更していることはわかる。

 原作の時代(1960年代初期)を現代に変更したことにより、核兵器による人類滅亡の不安という問題から、地球の温暖化といった環境問題に論議の論点をすり替えているということだけではない。ストーリーの趣旨そのものを大幅に変えているのである。
 小説において、主人公家族は実際に宇宙人だった。UFOも本当にでてくる。
 映画は、そこを一捻りして世界観を構築している。
 父親はある日火星人であることを覚醒する。娘は金星人、息子は水星人であることを覚醒するのだが、ほんとうのところ、それは彼らの妄想なのではないかと思わせる作りにもなっているのだ。

 気象予報士(お天気キャスター)の父親(リリー・フランキー)は、不倫と仕事の疲れから一種の躁状態になってしまったとは考えられないか。躁になるととんでもない妄想をするようになるのは、自分の経験でわかっている。
 フリーターの息子(亀梨和也)は、謎の男(佐々木蔵之助)に何らかの意識操作された(催眠術にかけられた)とか。
 大学生の娘(橋本愛)の、金星人としての覚醒についてははっきりしている。
 娘はやはり金星人を自称する青年と運命的な出会いをして、一緒に海辺でUFOを呼ぶ儀式を行う。やがて上空には2機のUFOらしき光が現れて、それまでの展開に懐疑的だった僕も本当なんだと思ったのだが、これは青年による完全なるイカサマだった。
 唯一地球人の母親(中嶋朋子)は、孤独を紛らわすかのように、何やら怪しい水の販売にのめりこんでいく。

 前半はリリー・フランキーの怪演が笑わせる。ニュース番組内の自分が担当する天気予報コーナーで、環境問題を取り上げ次第に暴走していく様に。あの決めのポーズがたまらない。
 娘が妊娠したあたりから様相が変わってくる。

 以下ネタバレ。

 やがて父親が癌であることが判明。
 入院した父親を見舞う娘。父親は自分が調査してわかった妊娠にまつわる真実を告げる。娘も父親に癌で余命いくばくもないことを告げる。
 このシーンに涙があふれた。まったく個人的なことだと思うが(その理由は後述する)。
 ここから、実はこの映画、父親の癌が発見されたことを契機にバラバラになった家族の絆が再生する話だったんだと気がつく。その昔、「それぞれの秋」で描かれた普遍的な物語が21世紀に甦ったというべきか。その模様がSF的趣向(父親を火星に帰還させる)で描かれるわけだ。
 一気呵成の展開。ラストまで涙が乾くことがなかった。

 ラスト、UFO内の父親(火星人)が名残惜しそうに地上を見下ろす。そこには父親を帰還させるべく奮闘する父親を含めた家族4人姿が。UFO内のコンピューター(?)が父親(火星人)に尋ねる。
「ワスレモノデスカ?」
 無言の父親(火星人)。
 また声が尋ねる。「ワスレモノデスカ?」
 切なさでまたまた涙があふれた。
 僕にとって忘れられない映画になった。

 ところで火星人の父親は本当に火星に帰ったのだろうか?
 このシーンだって、こう考えることもできるのだ。
 力尽きた父親が昇天する際に見たつかのまの夢なのでは、と。


 父親が娘に真実を告げられるシーン。
 実は、5年前、同じ経験をしている。映画とは逆パターンであるが。
 映画の橋本愛は、真実を告げてから「お父さんごめんなさい」と泣きながら父親の胸に飛び込んだ。
 僕の場合、まず娘の半泣き状態での「お父さん、ごめんなさい」があった。「携帯(のメール)を無断で見てしまったの」
 それから、真顔になって、僕が家族に伏せていた隠し事に対する容赦ない追求が続いた。隣には何も知らないかみさんがいて呆然となっていた。そして家庭の崩壊ーー

 僕の涙の意味は複雑だ。
 映画「美しい星」はある意味、僕の理想(願い)を具現化してくれたのである。


 【おまけ】

 橋本愛が「私は金星人」と言ったことで、初めて気がついた。
 「三大怪獣 地球最大の決戦」のシナリオは「美しい星」の影響があるのではないか?
 調べてみると小説「美しい星」が発表されたのは1962年。映画「三大怪獣 地球最大の決戦」の公開は1964年。あながち間違いではないだろう。




 昨日6月1日(木)は映画サービスデー(ファーストデー)。
 TOHOシネマズ日本橋で12時30分から「美しい星」、19時15分から「メッセージ」を観る。
 もともと友人とは新宿で「メッセージ」を観る予定だったのだが、TOHOシネマズ新宿は19時台の回が午前中に完売になってしまったとの連絡を受け、日本橋が穴場かもと、昼前に向かったら、何とかチケットが買えたのだった。それにしても「メッセージ」、すごい人気である。日本橋だって19時台以外の回はチケットは完売していたのだから。

 「美しい星」にやられた。前半は何度も笑わせられ、クライマックスは涙が流れてしかたなかった。ただ、これはあくまでも個人的な理由によるものかもしれない。詳細は後で書く。

     * * *

2017/05/30

 「DONT LOOK BACK」(K's cinema)

 この映画を知ったのはラピュタ阿佐ヶ谷の待合室だった。チラシが置いてあった。〈ボブ・ディラン〉の文字が大きくあって、若いディランの写真から過去のフィルムを使用しながら、新たにディランの現在の活動を追った新作のドキュメンタリーだと思っていた。ノーベル文学賞を受賞したのだから、ドキュメンタリーが公開されてもいいと。
 公開は6月27日(土)。当然、ノートにチェックした。

 ボブ・ディランについてそれほど詳しいわけではない。高校時代に当時の新作アルバム「欲望」を買っただけ。「コーヒーもう一杯」が好きでこれはレコードを買わなければと収録されているアルバムを購入したのだ。そのころEP(シングル)レコードはレコードという認識がなく、好きな曲があると必ずアルバムを手に入れた。
 「欲望」は激しい楽曲が満載でお気に入りの1作となった次第。

 ノーベル文学賞を受賞したからというわけではないが、また「コーヒーもう一杯」を聴きたくて、「欲望」のCDを購入した。店で何度かかけている。もう少し他の曲も聴きたいと最近「血の轍」を手に入れた。傑作といわれるアルバムだ。全曲、ボブ・ディランらしい。これまた店でかけている。

 ボブ・ディランについての認識はその程度だか、映画、それもドキュメンタリーとなるととたんに興味津々となる。公開を楽しみにしていた。

 27日の公開日は西宮の夙川にいた。夙川のライブハウスで開催された紙ふうせんのシークレットライブ時、休憩時に後藤さんに伝えた。
「ボブ・ディランのドキュメンタリー映画の公開、今日が初日なんですよ」
「ディランの映画がつくられたの?」
 後藤さんが驚く。「なんていう映画?」
 タイトルを憶えていなかったが、ノートに記載しているので、取り出して言う。
「DONT LOOK BACK、です」
「ああ、それなら観てるよ」
 今度はこちらが驚く。「リバイバルなんですか!」
「面白い映画だよ。ディランがドノヴァンに嫉妬するところがあるんだよ」と笑う。
 ドノヴァンといえば、なんたって「ブラザー・サン シスター・ムーン」の主題歌だ。レコードにならなくて残念だった。

 「DONT LOOK BACK」は、D.A.ペネベーカー監督による1967年のドキュメンタリー映画だった。チラシには〈音楽ドキュメンタリー史上の金字塔〉とある。50年前の作品なのだ。

 上映は、夕方から夜にかけての2回。17時の回をチケットを買いに早めに劇場に行くとなんと整理券NO.が1番だった。初めての経験だ。

 オープニングのタイトルバッグ。とある場所でディラン本人(若い!)が、自身の歌に合わせて、画用紙に書いた歌詞を一枚々見せていく(画用紙を捨てていく)のが斬新だった。鑑賞後に知るのだが、世界初のPVだとか。言われていると確かにそうかもしれない。

 カメラは1965年英国ツアー中のボブ・ディランを追いかけていて、そのどれもが興味深い。録音が見事だと思う。24歳のディランがまるでカメラを意識しないで、素の姿をさらけだしている。会話が自然なのだ。ディランだけではなく被写体になる人すべてがそうだから、まるで劇映画を観ている感覚になってしまう。パーティー時の喧嘩(言い争い)、記者との怒りのやりとり等々。
 高校時代に観て衝撃を受けたビートルズのドキュメンタリー「レット・イット・ビー」もこのドキュメンタリーがあったから生まれたのかと思えてしまう。
 ペネベーカー監督のドキュメンタリーに注目する必要がある。あまりに遅過ぎるけれど。
 どうすれば観ることができるのか?




2017/05/25

 「追憶」(新宿ピカデリー)

 最初に予告編を見たとき、「ミスティック・リバー」の翻案、日本版リメイクかと思った。
 幼なじみの少年たちがある事件にかかわって、離れ離れになって25年。一人は刑事になっていて担当した殺人事件の容疑者がかつての幼なじみ……。プロットがよく似ている。

 監督が降旗康雄、撮影が木村大作。かつて高倉健主演の映画を撮っていた名コンビだ。
 このコンビが岡田准一、小栗旬、 柄本佑といった若手(でもないか、中堅)人気俳優を起用してどんな映画を魅せてくれるか?
 大学生のとき、「駅 STATION」の予告編を初めて観たとき涙がこぼれた。いしだあゆみが列車に乗って、見送る高倉健に敬礼する際の泣き笑い。そのしぐさと表情。内容も状況もまったくわからないというのに。
 昨年、木村大作と金澤誠の共書「誰かが行かなければ道はできない 木村大作と映画の映像」を読んで、木村大作が撮影を担当した作品を立て続けにDVDで鑑賞した。

 だからだろうか、この「追憶」という映画、監督とカメラマンが昔とった杵柄でそれこそ撮った作品という印象を受けた。
 タイトルバックの冬の日本海は素晴らしいのだが、どこか既視感があった。
 コンパクトにまとめられていて、役者陣も皆がんばっているのだが、もろ手を挙げて拍手喝采できない自分がいる。
 まとめられすぎているのだ。
 少年時代の回想シーンは銀残し(?)、現在はカラーという区分けもテクニックが際立つだけのような感じがした。いや、映像は良いのだ、確かに。

 話も出来すぎている。というか、展開に違和感をあった。
 信じられなかったのは、刑事の岡田准一が昔の幼なじみと再会し旧友を暖めた翌日にその幼なじみが殺されたことを知り現場検証に行くシークエンス。
 普通の感覚なら、自分の知り合いであること、昨日会ったこと等、同僚に伝えるのではないだろうか。
 岡田准一が率先して事件を捜査していると、容疑者がかつての幼なじみだとわかり、苦悩、葛藤の末、ある種の隠蔽工作を行い、警察機構の中で孤立していく……なんていう展開になるのではないか。
 前日に会ってないのなら、まだわかるのだけれど。

 岡田准一と小栗旬の関係も腑に落ちない。
 同じ町に住んでいて、まったく関係を絶てるのだろうか。
 どんなに絶っていても、仲間からの情報で何をしているかくらいわかりそうなもんだ。
 岡田准一が故郷を捨てて上京し、逆に柄本佑が同じ町に住んでいるという方が展開に不自然さがないと思う。
 最後に明かされる真相もそんなことできるのか? という思い。
 どこか作り物感が鼻につく。

 役者が頑張っていると書いたが、岡田准一は少し肩に力が入りすぎていないか。
 女優陣が印象的だった。
 りりィ、長澤まさみ、西田尚美。
 木村文乃の身重姿は、知り合いの女性(30代)が結婚して妊娠するとこんな感じかなと微笑ましかった。
 ただ、安藤サクラだけはミスキャストではないか(あくまでもこの映画において、ということで)。 血だらけの床に伏せながら台詞をいうところなんて蛇女みたいでそこだけホラーになっていたような。
 老け姿も、いまいち。

 感動的に締めくくられたあとのエンディングクレジット。
 縦書きの文字が左から右に流れる。
 原案脚本が青島武と瀧本智行。では脚本は誰なのか、注意深く見ていると最後まででてこなかった。
 どういうこと?
 帰宅して公式サイトを調べてみると、原案・脚本となっている。
 単に・を省いただけか。まぎらわしい。

 「犯人に告ぐ」で注目した瀧本智行は最初から脚本だけの担当だったのか?
 当初は監督も担当する予定だったのか、途中で交代になったんではと邪推する。
 瀧本監督ならどんな作品に仕上がったのだろうか。
 



 
 最近、映画や読書のレビューを書いていない。理由がある。中途半端なものをUPしたくないのだ。いろいろ書きたいことがあるから、後回しにしてそのままというパターンに陥っている。いかんいかん。

 昨日の昼間、地元シネコンで「無限の住人」を観た。予告編を見てアンテナにひっかかっていたのだ。公開されたらすぐに劇場に足を運ぼうと思っていたのだが、体調不良、ぎっくり腰等でなかなか行けなかった。
 公開されてからは、あまりお客が入っていないということで、またいつものキムタク演技をあげつらって、何かと批判の声を目にしたり耳にしたりしている。
 本当にそうなのか? 

 かつて、キムタクは山田洋次監督の時代劇に主演したことがある。
 レビューでこう書いた。

     ▽
2006/12/22

 「武士の一分」(丸の内ピカデリー)

 このままでキムタクはいいのだろうか? ずいぶん前から思っていた。別にSMAPのファンではないし、ジャニーズなんて昔の渡辺プロみたいで大嫌いだ。にもかかわらず考えてしまう。

 キムタクは本当にこのままでいいのだろうか?
 「anan」が毎年実施している〈好きな男アンケート〉では13年連続のトップ。TVドラマに主演すれば高視聴率で話題を呼ぶ。SMAPとして何曲もヒット曲を持つ。

 タレントとしてならそれでいいかもしれない。中居くんの立ち位置だ。俳優としてはどうだろうか。確かにドラマは高視聴率だ。しかし、10年後、20年後、彼のドラマは語られるだろうか。たとえばショーケンの「傷だらけの天使」、松田優作の「探偵物語」のように。
 たぶん、ノーだ。語られるとしても、あくまでも〈高視聴率〉という側面でという注釈がつくと思う。

 俳優としてなら、同じSMAPの草なぎくんの方がずいぶんといい仕事をしている。ジャニーズでいえば岡田准一や長瀬智也に注目している。あと二宮和也。彼らはTV、映画、隔たりなく出演している。個人的に観たくなる作品だ。

 キムタクにこれまで本格的な主演映画がなかった、というのが信じられない。
 香港映画に出演してから事務所も方針を変えたのだろうか。
 山田洋次監督のオファーを受けて、藤沢周平原作の時代劇第三弾「武士の一分」に主演すると知ったときは、やっと〈作品〉作りに取組む気持ちになったのかと思ったものである。

 前評判も上々。かなり期待していた。
 平日の午後、映画館はかなりの混雑だった。年齢層は雑多。けっこう高いか。

 海阪藩の毒見役である三村新之丞(木村拓哉)は妻加世(檀れい)と中間の徳平(笹野高史)と質素に暮らしている30石の下級武士。かわりばえのしない仕事に嫌気がさし、剣の腕を活かした道場を開きたいという夢を持っている。
 ある日、いつものように毒見をした新之丞は激しい腹痛に襲われた。食した貝に猛毒が含まれていたのだ。命はとりとめたものの、高熱で3日間寝込んだ後、意識をとりもどした新之丞は新たな悲劇に見舞われる。失明していたのである。
 盲目では仕事はつとまらない。家名断絶を覚悟した新之丞だったが、藩主の温情により、これまでどおりの生活が保証された。
 妙な噂は、口かさのない叔母(桃井かおり)からもたらされた。加世が見知らぬ男と密会しているというのだ。
 外出した加世の後を徳平につけさせると、果たして用事を終えた加世は傍目を気にしながら茶屋に消えた。少し遅れて藩の番頭、島田(板東三津五郎)が入っていく。
 帰宅した加世を問い詰めると、あっさりと白状した。家禄を失う夫を心配した加世は、叔父叔母たちの勧めもあって、藩の有力者で、子ども時代から顔見知りだった島田に口添えを頼んだ。その代償に加世の身体を求められたというのだ。それも一度ではない。
 すぐさま加世を離縁した新之丞は、島田が実際には藩主に何の口添えもしていないことを知る。新之丞は島田に果し合いを申し出た……。

 観終わっての率直な感想は「それほどのものか?」。スクリーンに登場したのはいつもと変わらないキムタクだった。違いはちょんまげをつけているか否か。冒頭なんて「スマスマ」の寸劇か、なんて突っ込みたくなるほど。
 慣れてくると悪くない。が、全体を通して武士の威厳というか、侍魂は感じられなかった。たとえば、毒見役を誠心誠意つとめているのなら、まだわかる。ところが、仕事が嫌になってふてくされて女房に甘えるような男。それが夫の行く末を案じて、それも自ら望んで抱かれたわけではないというのに、その結果だけで判断して離縁を迫る。気持ちが迫ってこない。

 それに比べて檀れいは見事に下級武士の妻を演じていた。少し汚れた足の裏がリアルだった。中間役の笹野高史もいい。

 確かに映画は丁寧に作られているが、キムタクが主演ということで、スタジオ撮影が中心。開放感がなかった。
 卑怯な手を使って襲ってきた坂東三津五郎を、どうやって斬ることができたのか、わからずじまい。剣の師匠(緒形拳)に極意でも伝授されたのか?
 ラストも甘い。あっさりと離縁した後、また簡単に受け入れてしまうのはどんなものか。その間の妻への想いが、描かれているのなら、まだしも。

 館内が明るくなると左隣の中年夫婦の会話が聞こえてきた。「別に映画館で観る必要はないね」
 前の席の夫婦は、夫が立ち上がりながら言った。「2時間ドラマのようだったな」 
 右隣の老女は途中から涙を流しっぱなしだったのだけど。 
 
 山田監督の時代劇三部作の中では第一作の「たそがれ清兵衛」がダントツにいい。
     △

 「武士の一分」と比べて、「無限の住人」の方が数倍いい。断然、キムタクが輝いている。何しろ面白いのだ。

 ストーリーがシンプルだ。
 とある集団に両親を惨殺された少女が復讐のために不死身の用心棒を雇い、見事本懐を遂げる話。
 ほら、簡単に説明できる。これ、映画にはとても重要な要素だと昔何かで読んだことがある。
 少女を演じるのが昨年「湯を沸かすほどの熱い愛」でナチュラルな名演技を見せた杉咲花。この映画でも存在感を魅せつけてくれる。相手の問いに「えっ」と応える際の、声と顔の表情。泣きの台詞まわし。
「巧いんだなぁ、これが!」
 オレはモルツのショーケンか。

 この少女との微妙な関係で、キムタクのいつものキャラクターが引き立つというもの。いつものよりかなり汚れているところが魅力かも。
 巷間、キムタクのワンパターン演技を批判する向きがあるが、僕自身は気にならない。スターというものはそういうものなのだから。高倉健を見よ、いつも同じ演技ではないか。僕は東映の仁侠映画を観たことがなく、その後の高倉健しか知らないが、「八甲田山」も「幸福の黄色いハンカチ」も「野性の証明」も「駅 STATION」も「居酒屋兆治」も(以下略)皆高倉健だった。ビートたけしも同様。ワンパターンの極致だよ。
 ただ、違うのは、どの映画の中でちゃんと役になりきっていることだ。だからスターなんだろうけれど。

 対して、キムタクの場合、演技だけでなく、キャラクターも同じに見えてしまうのがネックだった。
 この映画でも演技は同じなのだが、不死身の浪人役がよく似合っていた。
 後半に交流の末の、浪人の少女に対する想いを如実にかもし出す何気ない台詞があり、目頭が熱くなった。キムタク流のぶっきらぼうな台詞だからこその効果だ。

 そして、何といっても殺陣である。これがすごい。
 昔、小学生の高学年のころだが、TVの時代劇をバカにしていた。刀で斬っても着物は破れない、血は流れない。実に嘘っぽくてたまらなかったのだ。刀自体いかにも作りものという感じもしたし。
 2000年代になり、CG、デジタル加工の技術で斬られた瞬間血が流れるなんて描写も可能になった。北野武監督「座頭市」では快哉をあげたものだ。本作でも当たり前のように血が飛び出ている。

  この映画で瞠目したのは、接近戦における間合い、斬りあいだ。本当に刀が身体に触れている(あるいはすれすれ)のだ。300人対一人だからスペースはない。その中できちんと鮮やかな斬りあいをするのだから恐れ入る。
 キムタク、TVのスペシャルドラマで宮本武蔵を演じ、かなり評判がよかった。時代劇はこれからの方向性の一つかも。
 ちなみに、この映画の描写について、凄惨だとか残酷だとか言う人は、一度その手の時代小説を読んでみるといい。斬殺って正視に耐えないものだとわかるから。

 SMAP解散のとき、キムタクは。ひとり、育ての親Iマネージャーに逆らってジャニーズ事務所に残った。これで世間の顰蹙を買ったわけだが(僕はその急先鋒だった)、この映画を見て考えが変わった。
 この映画のオファーを受けたとき、もうIマネージャーが外れていたと仮すると、キムタクの造反に得心できるのだ。これまでのドラマ選定ではあくまでもI女史の意向が反映されていて、自分のやりたい方向とズレが生じてきた。キムタクはそんな状況に、ある時期から忸怩たるものを感じていたのではないか。
 II史がいないからこそ、「無限の住人」のような映画に主演できたのではないかと思えてならない。
 つまり、これまでのイメージ(の延長)ではない役を演じるには、I女史と袂を分かつしかないとの判断をした、と。
 あくまでも個人的な、勝手な憶測でしかないのだが。




 休養は昨日1日では足らなかった。今日も朝起きたら身体が動かず仕事を休んだ。

          * * *

 SMAPが解散して名実ともにジャニーズ事務所のトップに躍り出た嵐。歌にバラエティーにドラマに映画にと、メンバー各人が活躍しているが、役者としては二宮和也の躍進がめざましい。
 映画では「青の炎」(監督:蜷川幸雄)に主演してから「硫黄島からの手紙」、(監督:クリント・イーストウッド)、「母と暮らせば」(監督:山田洋次)と着実に地位を築いている。
 TVでも、「赤めだか」(TBS)、「坊っちゃん」(フジテレビ)とスペシャルドラマで存在感を示した。
 この二宮くん、現場ではほとんど自己主張しないらしい。いつも無言で本番を待っている。困るのスタッフである。あれこれ、二宮くんの気持ちを慮って行動しなければならない。
 業界では、これを二宮忖度というとかいわないとか。

 【おまけ】

2006/12/16

 「硫黄島からの手紙」(丸の内ピカデリー)

 物事にはそれぞれの立場、考え方がある。戦争なんてその代表だろう。どちらが善でどちらが悪かなんて一概に断定できない。ゆえに、硫黄島の戦いを日米両方の視点から描く。
 クリント・イーストウッド監督の考えに間違いはなかった。その目論みは見事に成功したといえる。
 アメリカ人に日本人の心情がわかるか! そう反発した自分の不明を恥じる。

 硫黄島の戦いを日本側から描く「硫黄島からの手紙」にどこまで日本人スタッフが協力したのか(意見が反映されたのか)わからない。言えるのは、アメリカ人監督が、日本人を起用して日本語による日本人のドラマを撮った、そして日本人が観てほとんど違和感がなかったこと。
 これはアメリカ映画史の中で画期的なことではないか。

 映画は現代から始まる。調査隊が硫黄島の洞窟に入り、地面を掘り返すといくつもの包みが出てくる。これはいったい何か?
 時代が飛んで、太平洋戦争末期の1944年。硫黄島では、本土防衛の最後の砦を死守すべく、来るべき米軍の攻撃に対して様々な準備に余念がなかった。最高責任者は栗林陸軍中将(渡辺謙)。米国留学の経験があり、家族、部下思いの切れ者だ。
 彼の着任により、これまでの作戦は一掃され、地下要塞のためトンネルが島のいたるところに掘られることになった。
 部下への体罰も禁止された。
「本土の家族のために、最後まで生き抜ぬいて島を守れ」
 栗林の言葉に、末端兵士の西郷(二宮和也)らはやる気を見せるが、西中尉(伊原剛志)以外の古参将校は冷やかだ。特に死こそ名誉と考える伊藤中尉(中村獅童)にはおもしろくない。
 翌年、米軍が上陸してくると、栗林の奇策は功を奏するものの、その圧倒的な兵力の前に、次第に防戦一方となる。
 家族のため最後まで生き抜こうと考えている西郷にも死が近づいていた。それも進退窮まった部隊長の、栗林の忠告を無視した全員自決の命令。
 手榴弾を爆発させて、一人またひとり命を落としていく。
 死にたくない、こんな死に方なんて最低だ! 栗林の言葉に望みを託した西郷のとった行動、それは……。

 西郷役に二宮和也の演技(態度と言葉づかい)は、まるで現代の青年が太平洋戦争時代にタイムスリップしたような印象。しかし、それで救われた。
 もし実直、真面目だけが取り柄の、上司から虐げられるだけの存在だったら、スクリーンを最後まで見ていられたか自信がない。ちゃらんぽらんの、ある種のふてぶてしさが、非情で過酷なドラマの息抜きになった。
 絶体絶命の中の「もうだめだぁ」の叫びに思わず笑ってしまったのだから。

 栗原中将が着任早々地図を片手に硫黄島を散策して、作戦を固めていく過程は、まるで「七人の侍」の勘兵衛のような風格が感じられた。
 映画は、この栗林と西郷の、家族に宛てた手紙の朗読がナレーションの役目を果たす。西郷の手紙が硫黄島から〈今〉を綴っているのに対して、栗林のそれがすべて米国滞在時代の愛児への書簡というところが、彼の心情を象徴していたように思う。
 親米家で、アメリカの実力を知っている。本当なら戦いたくないのだろう。しかし、軍人として遂行しなければならない。だいたい、陸軍と海軍は反目し、現場の直属の部下には白い目で見られ、頼みの綱の大本営からの支援はあてにできない。孤立無援の状態。そんな心情を、自身の一番良き時代の回想することで癒されているような。

 ロサンゼルスオリンピック馬術競技の金メダリスト・西中佐の心情も栗林に通じるものがある。
 この二人が、過酷で悲惨な状況における真の軍人姿を見せてくれる。それは死に直面した際の部下への対応だ。
 たとえば、西郷の部隊長は、「現場から撤退、最終地点で合流」との命令があったにもかかわらず、自決の道を選び、部下を道連れにした。伊藤中尉(中村獅童)は最終地点に向かう西郷たちに恥を知れとばかり、斬首しようとした。自身も玉砕に命を賭した(その結果が情けない)。
 対して、西は敵の攻撃で両目を負傷すると、自分の部隊を部下にまかせ、一人自決する。栗林もやはり最後の最後で部下に自分の首を斬らせようとする。
 この違いは何なのか。
 サラリーマンを長くやっていると、理想の指導者という観点でも戦争映画を見てしまう。

 クリント・イーストウッド監督の力を見せつけられた映画である。70代半ばで、硫黄島二部作をほとんど同時に撮り上げ、そのどちらも秀作なのだから恐れ入る。これまでの監督作品の充実度を考えれば、驚異ですらある。
 細かいところへの目配せを怠らないのもいい。
 栗林の硫黄島とアメリカ滞在時のヘアスタイルの違いなんてうれしくなってしまう。時の流れをきちんと刻ませている。もしこれが本当の日本映画ならそこまで気を使わないだろう。

 一つだけ気になったのは、憲兵隊をクビになり、硫黄島に左遷させられた清水(加瀬亮)の過去を描くエピソード。回想シーンではなく、あくまでも清水が西郷に話し聞かせた方が効果的だったのではないだろうか。なまじ映像で描くと嘘っぽくなる。

 クライマックスからラストにかけて涙が流れた。栗林や西郷の気持ちを考えると、たまらなくなった。
 しかし、これもイーストウッド監督のすごさなのだが、これでもかの感動の押し売りをしない。この映画の場合、感動というと語弊があるか。流した涙は哀しみによるものなのだから。
 煽らない。いつだって冷静。テーゼを投げかけると、静かに淡々と映画を終わらせるのだ。
 自身が書く音楽と同様に。




 映画「X-MEN」シリーズについて、個人的に「ミュータント・サブ」+「サイボーグ009」だと思っている。実際、原作のアメコミに石森章太郎のコミックの影響があるのかどうか気になるところだ。
 第1作「X-メン」、続編「X-MEN2」はビデオ(DVD)で観た。3作めから劇場で押さえている。
 3部で一応完結して、4作めは前日譚となり、これがむちゃくちゃ面白かった。この路線で新たな3部作を作ればいいのに、5作めでは過去と現在が入り乱れるストーリーになってがっかりした。
 スピンオフ作品「ウルヴァリン」シリーズには興味がない。

     ◇

2006/10/01

 「X-MEN:ファイナルエディション」(日比谷スカラ座)

 アメコミもその実写映画も興味がない。にもかかわらず、このシリーズはビデオになると必ずチェックしていた。特殊能力を持つ者が力を合わせて敵と戦うストーリーが好みという個人的趣味が大いに関係する。
 舞台や設定、キャラクターは全然違うが要は「サイボーグ009」の実写映画みたいなものなのだから。

 遺伝子の突然変異で出現した新人類(ミュータント)が、その超人的パワーゆえ、通常の人間たちから差別と迫害を受ける近未来のアメリカ社会。
 そんな社会状況下、人類を支配してミュータントの世界を築こうとする一派と人類と共存する道を模索する一派(X-MEN)に分かれて戦う物語。
 それぞれマグニートー(イアン・マッケラン)とプロフェッサーX(パトリック・ステュワート)を長とするが、面白いのはこの二人がもともと仲間であり、その関係が現在も緩く続いているということ。完全に敵対していないのだ。
 だから、第1作で人類ミュータント化作戦を実行するマグニートー派に決死の戦いを挑んだX-MENだったが、2作めでは、ミュータント抹殺計画を画策する元陸軍大佐の野望を粉砕するため、手を結んだりする。

 X-MENのメンバーは驚異的な治癒能力を持つローガン(ヒュー・ジャックマン)、目から破壊光線を放つスコット(ジェームズ・マーズデン)、プロフェッサーに次ぐ強力なテレパス能力を持ち助手的立場のジーン(ファムケ・ヤンセン)、天候を自在に操るストーム(ハル・ベリー)、他人の能力を一時的にコピーするローグ(アンナ・パキン)、物を瞬時に氷化するアイスマン(ショーン・アシュモア)。
 敵役のマグニートーは磁力を持ち鉄を自由自在に操れ、部下にどんな人物にも変身可能なミスティークがいる。このミスティーク、普段は全身青色でイボイボがついている醜さなのだが、肢体は女性そのものの全裸。登場するといつもムフフフなんですわ。

 PART2が作られたら、PART3が登場するのは映画の常識。
 ただしこのシリーズ、最新作はかなり強引なストーリーになっている。スコットとジーンのカップルにローガンが加わり、三角関係になって、その関係がどうなるかというのも楽しみの一つであったのだが、前作のラストでジーンが仲間を救うため犠牲になってしまった。
 ところが最新作であっけなく復活するのだ。それも地球を壊滅させるかもしれないとてつもない能力を持つキャラクターとして。そんなこと、1はもちろん2でも説明なんかなかった。ご都合主義の極地。原作にはあるのかもしれないけれど。それはいいとして、ジーンが復活した代わりにスコットがあっけなく退場してしまうのには驚いた。せっかく特殊眼鏡をはずし素顔で活躍してくれると喜んだのに。

 今回はミュータントの能力を奪い普通の人間にしてしまう〈キュア〉という特殊薬が開発されることから巻き起こる騒動を描いている。薬はある少年ミュータントの能力から開発されたもの。ミュータントが人間になるのはもってのほかだ! マグニートーは新たな仲間を加えて少年ミュータントを抹殺するため動き出し、X-MENたちが阻止せんと対峙する。
 悪の権化となったジーンを中心にまさかまさかの展開。意外なラスト。すべてが丸く収まる大団円を予想していたので、少々裏切られた感じだ。でもまあ、疲れていたのにもかかわらず、一度も眠気に襲われなかったってことは、とても面白かったという証拠だろう。CG技術で20年若返ったプロフェッサーXとマグニートーの皺のない顔には驚いた。人間になったミスティークも拝めるし(当然全裸だ!)。それに、なんといってもハル・ベリーがこれまで以上にキュートだったので許してしまおう。

 だいたいこの映画でミュータントの死は絶対ではない。ラストはマグニートーの力の復活を暗示させるものだし、案の定、長い長いエンディングロールの後に、あの方の甦りが付け加えられていた。
 3年の周期で続編が公開されているこのシリーズ、2009年にはまったく同じキャストでPART4が製作されるに決まっている。


2011/06/20

 「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」(MOVIX川口)

 こちらを参照


2014/06/01

 「X-MEN:フィーチャー&パスト」(MOVIX川口)

 単純に前作の続編で良かったのに……。


2016/08/18

 「X-MEN:アポカリプス」(新宿ピカデリー) 

 最後の戦いは、神。
 なんていうキャッチコピーで、やっぱりこのシリーズはサイボーグ009のアメリカ版かと思ったのだが、あれのどこが神なのか。
 敵が味方で味方が敵で。
 シリーズを見通すとそういうことだ。
 それにしても辻褄が合わない。旧シリーズ3部作と新シリーズが合わないだけではない。新シリーズでも第1作と合っていないじゃないか。スタッフ、確信犯だ。若かりしストームが見られたのでまあいいけれど。




 一昨日は休みだったのだけれど、通常どおりに出勤し(とはいえ、早朝品出しの方は休みだから、朝風呂に入ってゆっくりできた)、さくらフェスティバルの準備等、12時半まで働く。
 14時過ぎに店を出て、有楽町へ。ガード下のディスカウントチケット店で「キングコング:髑髏島の巨神」のムビチケ(1400円)を3枚購入。そのまま新宿へ。

 「キングコング:髑髏島の巨神」を観る会なのである。
 参加者は、特撮仲間のSさんとKさん。これは!という特撮映画があるとこのメンバー+αで一緒に観ることにしている。映画を観ることはもちろんだが、鑑賞後の居酒屋でのおしゃべりが至福のときなのだ。
 新宿バルト9の17時15分の回。3D。プラス400円を払ってチケットを購入。

 予告編を初めて観たとき、キングコングの巨大さに驚いた。
 アメリカ映画のキングコングは、オリジナル及びそのリメイク(ピーター・ジャクソン監督)が8m弱、77年のリメイクでも20mほどであった。
 ところがこの新作はそれ以上のデカさなのである。
 ピンときた。
 今後製作が予定されているレジェンダリー版「キングコング対ゴジラ」への措置なんだな。何しろギャレス監督「GODZILLA ゴジラ」に登場するゴジラは100mを超すのだから、この新作のコングも100m近くあるのだろう。
 その後、コングの身長は30m強と知り、少し肩透かしをくらった感じ。それじゃあ、ゴジラと戦えないだろうに。

 これも鑑賞直前に知ったことなのだが、この映画の時代はベトナム戦争末期(1973年。ベトナム戦争の終戦は75年)。予告編に出てきた米軍はベトナム戦争従軍の兵士なのか。これはどういうことだろう?

 アメリカ映画にはもともと怪獣という概念がなかった。
 「ロストワールド」にしても「キング・コング」にしても、あるいはまた「原始怪獣現る」にしても、登場するのは恐竜や翼竜といった巨大生物なのである。
 キングコングだって、単に巨大な猿(ゴリラ)でしかない。だから、軍隊の攻撃で、銃弾を浴びれば血が流れるし、被弾が続けばやがて命を落とすのである。オリジナルも2本のリメイクも、キングコングの最期はあっけなかった。
 このキングコングが日本映画に登場すると、巨大猿から怪獣に様変わりする。

 東宝がアメリカRKO映画から権利を取得して製作された「キングコング対ゴジラ」のキングコングは、ゴジラの身長(50m)に合わせて45mに巨大化している。またゴジラが口から吐く白熱光(放射能)に対抗するため、劇中、帯電体質になって雷の電気エネルギーを手から放つという設定が取り入れられている。
 同じく東宝が創立35周年を記念して製作した「キングコングの逆襲」では身長が20mに変更になっている(「キングコング対ゴジラ」のコングとは別もの)が、銃撃にはびくともしない怪獣であることに変わりなかった。

 このまま続けます
 3月31日(金)、4月1日(土)、2日(日)の3日間、靖国神社で開催される「さくらフェスティバル」にBC二十世紀が出店するため、その準備に追われている。
 断熱仕様の紙コップを神保町の百円ショップで大量に購入しようとしたら、在庫分しかないという。注文しようにも、倉庫に在庫がないというのだから仕方ない。
 いろいろ他をあたったところ、浅草橋のシモジマにあることがわかった。
 一昨日(28日・火)、休みを利用して午後直接行って購入した。何のことはない、シモジマですべてがまかなうのである。紙コップのほか、プラカップ、マドラー、etc……

 お店に運んで、しばらく時間をつぶし、夕方から有楽町で映画を観ることにした。角川シネマ有楽町で上映している「牯嶺街少年殺人事件」。
 TCGメンバーなので火曜日は1000円で観られると当初予定していた地元シネコン「パッセンジャー」から変更したのだが、調べてみると、2200円なのである。あわてて劇場に電話して確認すると、メンバーなら1800円だとのこと。
 18時30分の回に足を運んだ。
 料金のことばかり先行して肝心の体調を考慮しなかった。映画は3時間を超える作品なのに。

 実は前日(27日・月)はラピュタ阿佐ヶ谷のレイトショーで「0課の女 赤い手錠」を鑑賞した。映画のあとはお決まりの知人のスナックへ。朝までコースでカラオケ三昧。スナックでひとりカラオケ!
 そうじゃなくても毎朝4時起きで疲れているのに、映画が面白ければ関係ないさとタカをくくっていたのだが、それこそ面白さに関係なく暗闇の中に身をゆだねていると睡魔が甘くささやくのだ。
 気がつくと意識がなかった。
 全然内容が理解できなかった!!
 仕方ない、もう一度観よう。




2017/2/25

 「ラ・ラ・ランド」(MOVIX川口)

 「セッション」の監督(デイミアン・チャゼル)がミュージカルを撮ったというニュースを目にしたとき、ものすごい期待感があった。
 「セッション」はドラマ的にはある部分破綻しているところがあるものの、クライマックスのドラムソロの圧倒的迫力でもうそれだけで満足してしまった。この映画の魅力はドラマではなく、音楽が醸し出す高揚感の体感にあったのだ。
 同様の高揚感を、「ラ・ラ・ランド」のミュージカルシーンに求めたわけだ。

 公開前に一度だけ予告編を観る機会があった。
 全編、歌って踊っているのだが、少しも興奮しない。むしろダサさを感じてしまった。
 「シン・ゴジラ」の予告編第一弾を観たときと同じ反応なのである。

 ミュージカルには詳しくない。10代まではミュージカルにまったくというほど興味がなかった。タモリがよく言っていた「それまで普通に演技していたのに、なぜ急に歌ったり、踊ったりするのか」に与していたのだ。
 ミュージカルへの偏見を取り去ってくれたのが1980年に日本で公開された「オール・ザッツ・ジャズ」だ。もともと音楽映画が好きだったこともあり、ミュージカルもその一つとして楽しむようになった。
 ちなみに音楽映画とは〈音楽をモチーフとする映画〉と自分の中で規定している。「小さな恋のメロディ」も僕にとっては音楽映画である。全編にわたって、ビー・ジーズの楽曲を使用していると言う点で(エンディングのみCSN&Y)。
 ミュージカルと聞けば、もうそれだけで足を運ぶ。音楽(楽曲)が琴線に響けば、サントラを購入する。
 「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」は映画版だけでなく舞台版のサントラも購入した。「ジャージーボーイズ」なんて一週間に3回観た。米国キャストの舞台(日本公演)まで観に行った。もちろんサントラも購入。

 予告編は期待外れだったが、公開が近づくにつれてワクワク感で胸がはち切れそうになった。「シン・ゴジラ」の場合、予告編第二弾で印象がガラリ変わって、実際本編は傑作だったのだから、「ラ・ラ・ランド」も同様だと思った。
公開二日めに観たのだが、観る前は朝から興奮していた。興奮と書くと少々大仰だが、今晩観るんだと思うと胸が高鳴ったことは確か。

 どこで観ようか。仕事終わりで駆けつけるからレイトショーでないと間に合わない。
 調べるとTOHOシネマズ日本橋があった。しかし、レイトショー対象の最終回の開始が遅く、翌日を考え断念。
 有楽町ではTOHOシネマズみゆき座スカラ座でやっていた。開始時間も日本橋より早い。これにしようと思ったが、念のために電話して確認してみた。案の定、レイトショー料金ではないという。有楽町のTOHOシネマズはいつもそうだ。
 地元MOVIX川口で観ることにした。
 新宿や渋谷ではないので、それほど混まないだろうと予想していたら、さすが話題の映画、かなりのお客さんの数である。それもカップルばかり。座った列は僕以外カップルなんだから!

 胸の高鳴りを抑えながら開巻を待つ……
 オープニングは、ハイウェイを使った、大胆奇抜な大群舞(?)。しかし、ノレなかった。以降、いわゆるミュージカルシーンには心がときめかなかった。ラストに待っていた、この映画の肝心要のシークエンスにも。これはいったいどういうことなのだろう? 自分でも信じられなかった。
 数々のシーン、ショットが、往年のミュージカルへのオマージュ(が含まれている)であるのことは、ミュージカルに詳しくなくてもわかる。しかし、元ネタを知っている、知らないなんて関係ない。目の前で繰り広げられる歌唱(楽曲)やダンスが胸にくるかどうか、だ。

 (ネタばれあり)
 「映画はつまらなかったのか?」と訊かれたら、否と答える。
 ラストの、ふたりの再会ショットに短剣で胸を貫かれた衝撃を受けた。切なすぎて涙がでてきた。20代のころの個人的な思い出が頭をよぎったことも大きい。

 前述の肝心要のシークエンスは、現実とは逆の、たらればの世界を歌&ダンスで盛り上げる。これも僕には疑問だった。
 このシークエンス、始まりはふたりの最初の出会い。しかし、本当なら、フランスロケから帰ってきたヒロイン(エマ・ストーン)と主人公(ライアン・ゴズリング)から描くのが筋ではないか。紆余曲折がありながらふたりは結ばれたのだから。が、あることで仲たがいして別れることに。エマにはフランスロケの仕事が舞い込み、怖気ずくエマの背中をライアンが推す。この映画が大ヒットしてヒロインはトップ女優の仲間入りを果たすのだ。
 普通なら、映画が成功したのだから、あるいは映画に手ごたえを感じたなら、その前に別れたとはいえ、エマはライアンに連絡をとるのではないか。そこでまた恋仲になったり。そうはならなかった。ふたりに何があったのか? そこらへんのすれ違いを僕は知りたかった。

 歌やダンスには胸ときめかなかったが、ライアン・ゴズリングのピアノプレイには始終注目していた。もちろん、音はあとで差し替えているのだろうが、指の動きが音にリンクしていて、まさにホンモノに思えた。ピアノソロも素敵だったし。

 この映画が、不遇なジャズピアニストと売れない女優のロマンス、ピアノをモチーフにした音楽映画だったら、僕はハマったに違ない。誰も共感してくれないだろうが。




 話題のミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」の感想を書く前に、2000年代になって、僕がどんなミュージカル映画を観てきたか、そのレビューをピックアップする。僕自身のミュージカルに対する考え方、趣味嗜好が理解してもらえると思うので。

     ◇

2001/03/07

  「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(丸の内プラゼール)

  ロバート・アルトマン監督のカンヌ映画祭グランプリを受賞した「ザ・プレイヤー」はハリウッドの映画界を皮肉った内容で、人気俳優たちがカメオ出演していることも話題になった。  
 大いに笑ったのは主人公の映画プロデューサーが購入したシナリオを映画化した映画内映画のラスト。
 ハリウッド映画の商業主義、楽天主義を嫌悪するシナリオライターの卵のそれは最後にヒロインが無実の罪で死刑になってしまうという非常に暗い、リアリズムの極致みたいなストーリー。主人公は出来のよさを評価しつつも観客の支持が得られるようにラストをハッピーエンドにしろと要求する。シナリオライターは拒否する。そんなことをしたらこのシナリオの意味がない、と。  
 ところが映画化された作品のラストは処刑室に連れていかれ、あとわずかで刑が執行されるヒロインを助けに銃を乱射しながら「ダイハード」よろしくブルース・ウィルスが助けにくるという大ドンデン返し。リアリズムも何もあったものじゃない。結局シナリオライターの卵氏は映画界で名をあげるため、ハリウッドシステムを受け入れてしまったのだった。  
 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観終り、この映画内映画を思い出していた。  

 かつてハリウッド映画を代表するジャンルにミュージカルがあった。本場ブロードウェーの舞台同様、映画の方も歌、タップダンス、レビューがドラマと渾然となって観客に夢と希望を与え、アメリカ映画の華やかさ、楽しさ、わかりやすさを具現化したジャンルともいえる。日本でもミュージカルファンは多い。  
 ただ映画はある種のリアリズムを基調とする。SFだろうがアクションだろうが、実際にはありえない虚構の世界を描いていても独自のリアリズムで観客を納得させている。この観点からいくとミュージカルはまったくリアルでない。それまでドラマを演じていた俳優が突然歌を歌い出し、踊り出す。それがミュージカルなんだといっても、ルールを知らない人にしてみれば「何これ!」てなものになる。  
 一時期ミュージカル嫌いのタモリがさんざTVで文句を言っていたし、僕自身ある時期までその違和感をぬぐいきれなかった。  
 実際僕も昔ながらのミュージカル・ミュージカルしたものは観たことがない。ミュージカルの黄金時代を知る世代ではないからよけいそうなのかもしれない。「ザッツ・エンタテインメント」はもちろん、空前のブームを呼んだ「ウエストサイド物語」さえTVで放映された際、チャンネルをあわすものの途中で断念してしまったほど。  
 20代になってからはダンス(&ソング)に興味もでてきて、その手の映画も観るようになったが、ショービジネスの舞台裏やダンサー志望の若者たちの青春ものといった内容で、容易にドラマの中に歌やダンスを取り入れられるものに限った。  
 絶対に言えることは〈シリアスなストーリーとミュージカルは相容れない〉ということ。もちろん自分のミュージカルに関する知識がないだけで過去にシリアスなドラマのものもあったかもしれない。しかし「ダンサー・イン・ザ・ダーク」ほど救いのないドラマはなかったのではないか。  
 監督(&脚本)のラース・フォン・トリアーはハリウッドで量産されたミュージカル映画に敬意を表しつつも、その人工的な甘美な世界、いかにもな虚構世界でない、まったくそれとは対局にある世界とミュージカルの融合を試みたのではないか。ミュージカル嫌いな人にも受け入れられるようにとの考えかどうかは別にして、ドラマの中に何の抵抗もなく歌と踊りのシーンを挿入する構成にしたいとも考えた。  
 「ザ・プレイヤー」の映画内映画がヨーロッパのネオリアリズム映画を無理やりハリウッド風にしたように、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はその逆を狙ってのではないか、と。  

 この映画には注意書きが多い。まず劇場ドアのいたるところに「この映画は手持ちカメラで撮影され、画面がブレるので酔いやすい方は…」との注意書きが貼付されていた。  
 映画の冒頭ではオープニングの4分弱まったくの黒味であることを触れ、これも演出による云々という字幕がでる。  
 この映画も内容についてほとんど事前に仕入れなかった。タイトルから盲目のダンサーがヒロインであること、非常に暗い内容であること、観たことを後悔する人がいる、と聞いていたくらい。  
 オープニングの黒味にはフルオーケストラのとても印象的な曲が流れる。途中から目をつむり、舞台に実際にオーケストラがいて、懸命に指揮棒をふる指揮者を思い描いた。  
 ドラマが始まるとやけに色がくすんだ画質、素人が撮った8mmみたいなイライラするほどブレとパンを繰り返す映像が続く。  

 やがて失明してしまうヒロインのセルマ(ビョーク)はチェコからアメリカにやってきたミュージカル好きな移民で、やはり同じ眼病の息子・ジーン(ブラディカ・コスティック)とともに親切な警察官夫婦(デビッド・モース&カーラ・セイモア)の好意で敷地内にあるトレーラーに住む。息子の眼の手術費用を捻出するため生活を切りつめ、つつましい毎日を送っている。
 セルマは市民劇団が上演するミュージカルに主演するため、そのリハーサルにも余念がない。が、眼はますます悪くなり、ほとんど見えない状態に。にもかかわらず検査ではインチキしてまで正常を装い、深夜残業、内職と精をだす。そんなセルマに親切な夫婦、実は妻の浪費で多額の借金を背負っているビルが借金を申し込む。訳を話して断るセルマ。が、ビルはセルマが目の見えないことをいいことに金の隠し場所を見つけ、盗み出す。  
 セルマが工場でミスを犯しクビになった日、金が盗まれたことを知る。ビルが犯人だと確信するセルマが金を返すようにビルに迫るが逆にピストルで脅される始末。言い争いの途中でピストルが暴発。ビルが倒れる。ビルはやってきた妻に警察に知らせろといいながら、二人きりになるとセルマに自分を殺せと迫る。気が動転したセルマはピストルを発射、最後は顔を殴打して殺してしまう。  
 その足で病院に駆け込んだセルマは医師に息子の手術を依頼し、その後警察に逮捕される。すべての証言、証拠がセルマの有罪を物語り、死刑の判決が言い渡される……。    

 ドキュメンタリータッチで社会派風ドラマが展開される中、ミュージカルシーンはヒロインの白日夢、心象風景として要所々に挿入される。このシーンになると画面は鮮やかなカラーとなり、カメラもフィックス、さまざまな角度からダンス&ナンバーが切り取られる手法。  
 最初のナンバーはセルマが働く工場が舞台。工場内にこだまする機械音が徐々にリズムを刻み、やがて工員たちの乱舞になる瞬間は興奮もの。ダンスそのもの、カッティングはそれほどでもなかったが。  
 不意に涙があふれでたのは次のナンバー。鉄橋でセルマに思いを寄せる無骨な男・ジェフ(ピーター・ストーメア)がセルマの目が見えないことを知り、二人のかけあいから通過する列車の貨物車両の上での男たちのダンスに発展するシーン、そしてビルが死んで、不幸を呪うセルマに一人息子が「母さんに罪はない」と歌いかける繊細な声の響き。死んだビルが生き返り、妻とともに「逃げろ」とアドバイスする、なんてミュージカルらしい何でもありの世界が再現される。  

 映画の後半からラストまで、ヒロインを襲う不幸の数々に隣席の二人連れの片方の女性は鳴咽をあげ泣きじゃくっていた。僕はというと悲惨な現実に心苦しく、目をふさぎたくなったもののドラマそのものはわりと冷静に観られた。いくらなんでも裁判はああいう方向に進まないと思うし。  
 もしこの映画がヒロインの悲劇をことさら強調し、観客の涙をしぼるような作りなら、はっきりと拒否反応を示していたただろう。  
 だが僕はヒロインのやりきれない現実を受け入れるための心根、ミュージカルシーンを夢想する気持ちに胸をつかれた。
 現実と白日夢の落差がはげしいほどその思いは強くなる。息子の手術代確保のため(もしかしたら死刑にならずにすむかもしれない)再審を拒否したヒロインが処刑室に向う際の「107ステップス」のナンバーに胸ときめいた。こういう作りもありなんだ、と〈目から鱗〉状態になった。  
 処刑台に立ったヒロインは何かと面倒をみてもらった仕事仲間・キャシー(カトリーヌ・ドヌーブ)から息子の手術成功を知らされる。そこではじめて現実の中で歌をくちずさむ。小さな声がやがて処刑室内に響き渡る迫力となって、その頂点をきわめた時、それこそ観客に何かしらの奇跡を期待させるその瞬間、それを裏切るかのようにショッキングな結末で幕となる。現実の厳しさを再認識させるかのように。  

 この方法論がすべてに通用するとは思わない。またこの映画のヒットに刺激され、安易に悲劇とミュージカルが融合した映画が主流をしめることも憂慮する。が、ミュージカルに縁がなかった人たちがこの映画を観て夢見る心の必要性、華麗なダンスに心躍らせてミュージカル映画の存在を認識するのであればそれはまたけっこうなことではあるまいか。  

 追記  
 ミュージカルシーンはビデオ映像をフィルムに転換したように思う。どのように撮影され、ビデオ処理されたのかパンフレットに記載されていたのであれば、サウンドトラックの「セルマソングス」とともにぜひ購入したい。観終わってもう一度冒頭の「Overture」を聴き直したいと思う。あの真っ黒なスクリーンに何が見えるか、とても気になった。

     ◇

2002/03/13

  「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」(渋谷 シネマライズ)  

 オフブロードウェイでロングランを続けたミュージカルの映画化だという。  

 東ドイツに住む、ロックを子守唄がわりにして育った同性愛者の主人公(ヘドウィグ)がアメリカ兵に見初められて結婚、渡米前に性転換手術するが失敗し、アメリカに着いたとたん捨てられる。
 やがてベルリンの壁が崩壊。彼女(?)はベビーシッターのアルバイト先で知り合ったロックシンガー志望の17歳の高校生・トミーと意気投合。彼をロックシンガーにするべく、自分の持てるすべての愛を注ぎ、ロックの真髄を教え込む。自分の運命を赤裸々に綴った歌作りの日々。ところがある日トミーがヘドウィグの楽曲を盗んで遁走。プロデビューして、あっというまに人気アーティストになってしまった。
 トミーを許せないヘドウィグは自分のバンドを率いて、彼のツアーを追いかけるストーカー的ドサ回りの旅にでる。  

 タイトルの〈アングリーインチ〉とは性転換に失敗したヘドウィッグの股間に残ったわずかな突起物を指している(怒りの1インチ)と同時に、そのままバンド名にもなっているというわけ。  
 トミーのコンサートが開催される大ホールの近くにあるレストランやパブでのライブ。そこで一部のお客の不快感など省みず、ハデハデゴテゴテ、奇抜な衣装で自分の数奇な運命を歌い上げ、トミーの不正を弾劾する。    

 ヘドウィグのこれまでの半生(ロックシンガーになるまでの軌跡)を描く方法が巧い。まずライブで、ヘドウィグ自身が歌で語る。時に当時の映像がインサートされ、やがて歌と映像がシンクロし、いつしかミュージカル特有の時間と場所を超越した世界に突入していく。個人的なミュージカルで一番気になる部分、芝居から歌のシーンに転換するところがごく自然に受け入れられた。
 ロックバンドがフィーチャーされたミュージカルに一番期待したのがここなのである。
 とにかくライブシーン、ミュージカルシーンが楽しい。「Origin of Love」のヘタウマアニメのインサートが効果的。
 また「はい皆さん、ご一緒に」とヘドウィグの掛け声とともに「Wig in the Box」の歌詞がインポーズされて、映画がカラオケ映像になるなんて、コロンブスの卵的新鮮さでカラオケ好きにはたまらない。心が躍った。もう一度カラオケシーンがあったらぜったい声出して身体を揺らして歌っていただろう。最高!

 脚本・監督・主演のジョン・キャメロン・ミッチェルはその気があるのかないのか。まあ、そんなことはどうでもいいけれど、女装姿が見事に決まっていた。ハデハデなステージ衣装以外の、カジュアルな格好の時に見せる足の形(細さ)だとか肩のあたりの曲線だとか、ホント女なのだ。
 トミーとの蜜月時代に、ドアのところでくちづけを交わすシーンがある。このときヘドウィグの全身から醸し出す雰囲気がとてもナチュラル。痺れました。1インチぐらいの突起なんかゆるしてしまいたくなる。小さな胸のふくらみが始終気になって気になって……

  この映画、映画本来の楽しみとは別にソックリさん大会の趣きもあります。
 ヘドウィグはある時は〈狩人〉のお兄さん、またある時は京唄子、黒柳徹子(あくまでもヘアスタイルが)、ファラ・フォーセット……、トミー(マイケル・ピット)はどうみたってディカプリオでしょう。バンドのメンバーでヘドウィグの現在の夫・イツハク(ミリアム・ショア)はジョニー大倉かケミストリーの野人みたいな方(名前知りません)、なんて。
 このイツハク、髭面ではあるけれど、一目見た時から、声を聞いたらなおさら女性だとわかる。役もヘドウィグの目を盗んで彼女のかつらをそっとかぶってうっとりしたりする、ちょっと屈折した、わけありの性格の御仁。それからはいつヘドウィグを凌駕するような美貌の女性に大変身してくれるのか、胸わくわくものだったのだが、そういう展開にはなりませんでした。(ラスト近く、ステージから客席にジャンプし、変身した女性は本人なのかな? 僕にはそう見えなかったのだけれど。)

 冗談はさておき。
 劇場を出るときエンディングロール曲を口ずさんでいた。これは昔からの観た映画がたまらなく素敵だった証拠である(ラストの不可解さは別にどうでもいいことだと思う)。
 この映画ももう一度観たい。いやその前にサントラ買って、ナンバーをソラで歌えるように練習しておこうか。

     ◇

2003/05/18

  「シカゴ」(川崎チネチッタ)  

 話題の映画をやっと観る。  
 ミュージカル「シカゴ」については、そのタイトルとボブ・フォッシーの作であることだけしか知らなかった。小林信彦の「週刊文春」連載のエッセイ(コラム)「人生は五十一から」で、この映画をとりあげていて、内容を紹介していた。あれっと思った。  
 殺人を犯した女性と悪徳弁護士が活躍する、およそミュージカルらしからぬ内容、ヒロインの一人がヴェルマという名前、何よりミュージカルシーンが主人公たちの白日夢(心象風景)というところがひっかかった。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」によく似ている。いや、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」が似ているというべきだろう。
 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のヒロインの名はセルマ、内容も無実の罪で処刑される薄幸な女性の悲劇だ。ミュージカル好きなセルマの白日夢がミュージカルシーンになっているという手法。もしかしたらラース・フォン・トリアー監督は「シカゴ」に影響を受け「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を企画したのかもしれないと。  

 パンフレットのロブ・マーシャル監督のインタビューと読むと逆だった。映画「シカゴ」のミュージカルシーンの発想は「ダンサー…」にあるらしい。  
 考えてみれば、舞台のミュージカルにリアリズムなんて必要ない。役者が突然歌いだし、踊りだしても別にそれほどの違和感はない。なんでもありの世界なのだ。  

 では舞台の「シカゴ」とはどんなものなのだろう。少々調べてみた。  
 もともとは実際の事件をもとにした戯曲だった。1975年、ボブ・フォシーがこの舞台劇をミュージカルに仕立てる(演出&振付)。〈ミュージカル・ボードビル〉と呼ばれる作品で、司会者と生のバンド演奏がドラマを要所要所で転換させていくショー的要素の強い舞台。この年、トニー賞11部門にノミネートされるが、「コーラスライン」に独占され無冠に終わる。
 96年リメイク(ウォルター・ボビー演出、アン・ラインキング振付)して上演され、大ヒット、トニー賞6部門受賞、ロンドンでもロングランとなる(成美堂出版「ミュージカル作品ガイド100選」)。
 日本では85年に鳳蘭と麻美れいのコンビで上演されている。悪徳弁護士役は植木等だ。演出は井原高忠。  

 1920年代のシカゴ。ダンサーを夢見るロキシー(レニー・ゼルウィガー)は自分を騙した愛人を射殺し、収監される。関係者にコネがあって、いつかダンサーにしてやるという愛人の約束がまったくのデタラメだったのだ。
 監獄にはショウビズ界の憧れのスター、ヴェルマ(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)が浮気していた夫と妹を殺した罪で収監されていた。ヴェルマは賄賂で女看守長を手なずけ、悠々自適な監獄生活を謳歌していた。また悪徳弁護士ビリー(リチャード・ギア)を使って、自分に有利な判決にもっていこうと画策していた。  
 憧れのヴェルマに冷たくされたロキシーは対抗するかのようにビリーを雇い入れた。悲劇のヒロインに仕立てられたロキシーは次第に人気者になっていく……。  

 映画は「And ALL THAT JAZZ」のナンバーで幕を開ける。
 ボブ・フォシー監督の傑作ミュージカル映画「オール・ザット・ジャズ」(1980年)のタイトルはこれからとられたのか。〈てんやわんや〉〈あれやこれや〉という意味と認識していたこのタイトル、〈何でもあり〉と訳されていた。ミュージカルナンバーで有名な「エニシング・ゴーズ」(僕は「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」のオープニングで知った)も確か〈何でもあり〉という意味だった。ミュージカルにはやはり〈何でもあり〉が似合うということか。

 キャサリン・ゼタ=ジョーンズのダイナミックな踊りに驚く。とにかくキレがあって見ていて心地いい。この女優、こんなこともできるんだ!! 
 収監された刑務所には6人の女犯罪者がいた。彼女たち一人ひとりを紹介するナンバー「Cell Block Tango」のセットがまんま「監獄ロック」だった。
 この時代、女性は死刑にならないというのが常識だった。ところが、6人の中から初めて死刑の判決がくだされた女性がでる。彼女はハンガリー移民。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のヒロインも東ヨーロッパからの移民だった。公開死刑の絞首刑の様はまさしく「ダンサー…」のクライマックスそのものだ。
 ドラマとミュージカルの構成が絶妙だ。
 ドラマがいつのまにかミュージカルシーンに変わって、自然にこちらもリズムを刻んで、身体を動かしたくなる。
 特にリチャード・ギアのタップダンスのシーンに発揮されていた。クライマックス、ロキシーの判決が有罪か無罪かのサスペンスとのシンクロに唸った。
 女看守長がどこかで見た女優だと思ったら、「ボーン・コレクター」の介添人(クィーン・ラティファ)だった。従弟(大学時代柔道部の主将として活躍した180cmを超す大男)によく似ているのだ。
 ロキシーの夫役ジョン・C・ライリーがいい味でした。不貞妻の、不倫の末の殺人だと知らず、自分が犯人だとかばう姿、妊娠したと嘘をつく妻の言葉を信じる姿、自分はまったく目立たないと嘆く姿……情けなくて愛しい。
 ロキシーの人気を脅かす、次の殺人者役がルーシー・リューというのも驚き。ホント人気者なんだな。

 シリアスドラマだったら、こんな不道徳なものもないと思われる(ヒロインのロキシーなんてそれこそサイテーの女だもの)内容もミュージカルになると大人の寓話になってしまう。
 まさにミュージカルは何でもあり、だ。

     ◇

2003/07/11

  「シカゴ」(川崎チネチッタ)  

 ロードショー最終日に再度「シカゴ」を観る。会社の同僚からタダで前売券を手に入れたのだ。感謝してます、Iさん。  

 2回めの鑑賞となるとスト-リーを追わなくてもいい。じっくりとミュージカルシーンを楽しむことができる。  
 堪能した。  
 1回めではよく把握できなかった、冒頭の2つの事件(ヴェルマの殺人とロキシーの愛人殺し)の時制がはっきりした。自分の目を盗んで情事を重ねていた夫と妹を射殺した後何食わぬ顔をして仕事場のステージへ駆け込むヴェルマ。妹と二人で踊るナンバー、「妹はどうした?」「彼女がいなければ踊れない」の声など無視して、ダイナミックなダンスを披露する。やんややんやの喝采。客席の隅では事件を知った刑事がステージのヴェルマを見つめている。同じ客席にロキシーがいた。ヴェルマに憧れうっとりしているロキシーをせかす愛人。アパートに着くと廊下で激しく抱擁しあうふたり。隣人の冷たい視線の中、部屋に消える。一戦を終えると急に冷たくなる愛人。口論の末、引出しから銃を取り出したロキシーが愛人の背中に向って撃つ。  
 ヴェルマのダンスとロキシーの事件が1日の出来事だと思っていた。そうなると愛人のベッドを供にした前後の態度の急変が信じられなかった。
「男ってそういうものなの」  
 そう反論する女性もいるだろうが、いくらなんでもあの態度はないよ、というのが僕の意見。  
 情事の前と後は別の日なのだと今回わかった。そうすると先に収監されていて女王みたいに振舞っているヴェルマの存在も理解できる。  

 あの作りならミュージカル嫌いの人でも観られますね。とはIさんの感想。  
 ミュージカルシーンをドラマと区別して構築するのは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の応用である。とはいえ、「ダンサー……」と違って、ミュージカルシーンとドラマ部分が密接に関係しあって効果をあげてくるところがこの映画のミソだ。  

 収監されている女囚たちのプロフィールを紹介する「Cell Block Tango」。何度観てもわくわくするなぁ。初の女性受刑者で死刑執行となったハンガリー移民の女性は一貫して無罪を主張する。このナンバーを聴きながら、この女性は本当に無実なのかもしれないと思った。  
 どのミュージカルシーンも本場アメリカの実力をみせつけてくれるが、特にお気に入りなのが「We Both Reached For The Gun」だ。  
 ロキシーを悲劇のヒロインに仕立てようと自分のシナリオどおりに会見にのぞもうとする弁護士ビリーと、彼に反発しようにもいいように扱われてしまうロキシーの関係を人形使い師と腹話術人形、聞き手の記者たちをマリオネット人形に見立て、記者会見の模様をコミカルに描いている。  
 ロキシーに裏切られ、まったく相手にされない自分の立場、存在感のなさを嘆く夫のナンバー「Mister Cellophane」も忘れがたい。  
 無罪か有罪か、ロキシーの判決がでる瞬間をビリーのタップダンスとシンクロさせ緊張感を高めるなんて目から鱗。「やられました」の心境だ。  

 やっぱりサウンドトラックCDが欲しくなってきた。……買っちゃおうかな。

     ◇

2006/04/30

  「RENT/レント」(東劇)

 このミュージカルについては、つい最近新聞の広告で知ったばかりだった。一面すべてを使って日本公演とロードショーを告知していた。スチールからロックの迫力に満ちた現代に生きる若者たちの生態を描いた群像劇ではないかとアンテナが反応した。本当なら舞台を観るべきなのだが、チケットの入手が面倒なことと料金が割高なためパス、映画だけチェックしておこうと思っていた。そんなところにMさんから無料鑑賞招待の知らせ。天女の囁きですな。

 80年代にブロードウェイでロングランしたミュージカル。なんてことはもちろん、ストーリーもまったく把握していなかった。予備知識ゼロ。タイトルの「RENT」の意味も〈貸す〉ぐらいの認識だった。〈家賃〉だったのね。お恥ずかしい。

 映画は舞台上に横一列に並んだ10名ほどの男女が「Seasons of Love」を歌うシーンからスタートする。まずメロディが耳をとらえた。いわゆる〈オーバーチュア〉が終わると、本編の始まり。古臭いアパート(といっても、日本のアパートのイメージではない高層建物だし、部屋はだだっ広い)に無断宿泊して芸術活動にしそしむ若者たちの生態が活写される。

 ドラマに馴染んでくると、冒頭の舞台上の男女は、映画の主要人物だったことがわかってくる趣向。
 台詞はあるが、ほとんど登場人物の歌で進行する。バラードありロックありといった迫力ある今風の楽曲ばかりなのが新鮮。

 エイズで友人が死ぬシーンはバックに歌を流すといった処理をして、好感を持った。にもかかわらず、恋人に死なれた(実際は死なないけれど)男が、その別れを悲しむところでは、昔ながらミュージカルといった感じ。自分の気持ちを歌にのせてうたってしまう。ここは引いた。それまでの新しさが台無しになったような気がする。
 また、ここまで歌やダンスで押し通すのなら、いっそ、普通の芝居、台詞なんてないほうがいいようにも思えてきた。

 人物への感情移入ができた中盤、ニューヨークの街をバックに「Seasons of Love」がもう一度流れてくる。今度は歌詞が耳をとらえた。

 52万5600分、1年間を何で数える?
 夜明け、日暮れ、深夜 のコーヒーカップ……

 さまざまな瞬間を並べながら、愛や人生について問いかけ、生きていることの意味、生きるていくこと大切さ、尊さを訴えてくる。

 瞬時に最近急逝した友人の顔が思い浮かんだ。ニューヨークが大好きだった彼女、もし生きていたら、この映画に、この歌に何を感じるだろうか。あるいは四十数年間の人生、何を道標にどんな想いを刻んできたのだろうか。突然道を閉ざされて、やはり無念だったか。それとも運命を素直に受け入れたのか。

 もう映画なんてどうでもよくなった。
 少なくとも僕にとっては。

     ◇

2008/02/01

 「スウィーニー・トッド フリード街の悪魔の理髪師」(丸の内プラゼール)

 「スウィーニー・トッド」
 このタイトルにはずいぶん前から見覚え、聞き覚えがあった。しかしさっぱり思い出せない。荒川静香がイナバウアーで喝采を浴びた曲? それは「トゥーランドット」だ。
 では、いつどこでこのタイトルにお目にかかっているのだろうか?

 疑問は、ネット界のジキル&ハイド・黒犬獣氏のブログで氷解した。「スウィーニー・トッド フリード街の悪魔の理髪師」がミュージカルだと書いている。それでピンときた。ああ、宮本亜門だ。昨年、宮本亜門が手がけたミュージカルではないか。そのTVスポットや広告で憶えていたのだ。
 そう、この映画は、ブロードウェイ・ミュージカルの映画化なのである。ティム・バートン監督&ジョニー・デップのコンビ、それに共演がヘレナ・ボナム=カーターだ。ミュージカルのミュの字も想像できるわけがない。だいたい、予告編ではミュージカルなんて謳っていなかったような。
 アメリカの実相寺昭雄&岸田森にもかかわらず、これまで、このコンビの映画に縁がなかった。名作の誉れ高い「シーザーハンズ」もまだまともに観ていないのだ。「スウィーニー・トッド」も関心がなかった。しかし、ミュージカルと知って気が変わった。ミュージカルは舞台が一番。そうは思っても懐具合からすると映画しかない。若いころのミュージカル映画嫌いの体質もずいぶん改善されてきた。最近はできるだけ鑑賞するようにしている。
 というわけで、映画サービスデーに丸の内プラゼールのレイトショーへ。

 舞台は19世紀のロンドン。愛する妻との間に娘が生まれ、幸せな生活を営んでいた理髪師(ジョニー・デップ)が、好色な悪徳判事(アラン・リックマン)の陰謀で無実の罪をきせられ、流刑となる。判事が妻に横恋慕して、邪魔な亭主を追い払ったのだ。
 15年後、理髪師は復讐の鬼となって街に舞い戻ってきた。スウィーニー・トッドと名を変えた彼は、パイ屋の女主人(ヘレナ・ボナム=カーター)の協力を得て、2階に理髪店を開業する。自慢の剃刀さばきで理髪店はまたたく間に評判になる。同時にそれまで閑古鳥が鳴いていたパイ屋も大繁盛。彼の狙いは、店の評判を聞いて訪れる判事にあった。「この剃刀で早くあいつの喉を切り裂いてやりたい」

 冒頭からミュージカルの威力を発揮している。長くなる状況説明をすべて歌で処理。すんなり受け入れられる。説明台詞だとこうはいかない。市川崑監督「映画女優」(当然わかっていてやっているのだろうが)の冒頭は説明台詞の応酬だった。
 もうひとつ、ミュージカルだから観ていられるが、こんな残酷で悲惨な話、普通の劇映画ならつきあいきれない。と思ったら、10年前にベン・キングスレーの主演で映画になっているのだった。それも当初はティム・バートンの監督だったらしい。

 アラン・リックマランは見るからに偽善者。夫(理髪師)が流刑にされ絶望した妻が自殺すると一人残った娘を養女にする。なかなかいいところもあるじゃないと思ったら、適齢期まで待って自分の嫁にするつもりでいるのだ。こんな男への復讐というのだから完全に理髪師に感情移入できる。
 サブタイトルに「フリード街の悪魔の理髪師」とある、おまけに映像も暗く沈んだタッチ。だいたいジョニー・デップもヘレナ・ボナム=カーターも死神メイク。にもかかわらず、未来を予言する謎の女が登場したことで、なぜかハッピーエンドを予想してしまった。ハッピーエンドというとおかしいかもしれない。ジョニー・デップたちが犠牲になってある人たちは幸せになる。そんな展開だ。
 だから、最初の殺人は仕方ないとしても、店を訪れた客を次々に殺害していく光景にわが目を疑った。椅子に座って気持ちよく髭をあたってもらうつもりで喉を切られた被害者はそのまま特殊ルートを伝わって地下に落ちていく。これだけの死体をどう処理するのか。この死体とパイ屋の大繁盛が結びつけられなかった。それまで肉が手に入らなくて開店休業中だったというのに。バカというか何というか。
 なんていうストーリー! やっぱりミュージカルでなければ観ていられない。

 とはいえ、台詞がそのまま歌になるだけのミュージカルは好みではない。やはりそこにダンスの躍動感やバンド演奏のライブ感といった要素がないとノレないのだ。この映画も始まってしばらくの間は(ミュージカルとして)肩透かしをくらった感じだった。楽曲にもそれほど耳をとらえられなかったし。しかし、観ているうちに、ジョニー・デップとヘレナ・ボナム=カーターの掛け合いにわくわくするようになった。
 映画「レット・イット・ビー」で一番興奮したのが、ルーフトップコンサートと呼ばれるビル屋上のライブ演奏で、特に「I've Got a Feeling 」に快哉を叫んだ。ポールのパート、ジョンのパート、まったく別ものと思われた曲が最後に合体する爽快感。とても気持ちよい。
 「スウィーニー・トッド」も同様で、歌詞の内容より、その様、歌(音)そのものに反応してしまった。
 もう全編血に彩られた映画であるが、ラストカットに〈美〉を感じたことも付記しておく。




 ブックカフェ二十世紀で現在水曜日に一緒に働いているK嬢は、女優青葉マーク。彼女が出演している映画「退屈な日々にさようならを」をK's cinemaに観に行く。28日(火)のこと。
 そんなに期待していなかった。K嬢は監督への思い入れを語ってくれるのだが、僕はまったく知らなかったし、これまで作品を観たこともない。上映時間は2時間20分。新人としては長すぎるのではないか? 
「もし、つまらなかったら、つまらないって言うからね」
 彼女は毎日、監督とゲストのトークがある18時の回に自主的に参加して、お客を見送っているという。
「だったら、休みの日、その回に行くから」

 観た。終了後、エントランスに出ると、彼女がいた。こちらに気がつき手をあげて近づいきたので、言った。
「すげぇ、面白かった! 2時間20分、確かに変にカットできないよね。会話とか表情とか愉快で、何度も笑っていたよ」
 俳優の素を生かした台詞廻し、いわゆる演技演技した振る舞いを排除して、リアルな空間を醸しだしている。
 構成は意識しているのかどうかわからないが、「パルプフィクション」を彷彿させる。
 ストーリーは本来ならありえないと思う。あまりにも登場人物が結びつきすぎるのだ。ある種のファンタジーか。

 俳優が普通の芝居をして、リアルな空間を作り出している、ということで、「tokyo.sora」という映画を思い出した。

     ◇

2002/08/27

 「tokyo.sora」(TOKYO FMホール 試写会)  

 東京の空の下、20代女性たち6人の物語。  
 ティッシュ配りのアルバイトを繰り返すモデル志望の娘(本上まなみ)。コインラインドリーにたたずむ留学中の中国人(孫正華)。小さな胸に心痛めている美大生(仲村綾乃)。  
 ランジェリーパブで働く小説家志望の葉子(板谷由夏)と美容師見習いの由香(井川遙)。流行らない喫茶店でマスターとおしゃべりばかりしているウェイトレス(高木郁乃)。  
 彼女たちの日常生活がそれぞれさりげなく淡々と描かれる。いわゆるスケッチの積み重ね。  

 モデル志望の娘はいつも眼鏡をかけていて、オーディションの時もけっしてはずさない。オフの日はいつも一人で部屋でビデオを観ている。  
 中国人留学生はコインランドリーで見かける日本人男性を好きになり彼の愛読書(町田康)を購入、彼の隣でページを開いてみる。同じ本を読んでいるということで、話しかけられるけれど、日本語があまりうまくないのでとんちんかんなやりとりになってしまう。女優志望と留学生は同じアパートの隣同士だが、まったく交流はない。  
 留学生はアルバイトで美大の絵のモデルをしている。ヌードデッサンの時、その豊満な乳房に嫉妬したのが美大生。アンナミラーズでバイトしようとするが、その胸を強調したユニフォームにおじけづく。以来胸パットを愛用している。彼氏に身体を求められても貧弱な胸だと知られるのが怖くてそれ以上の関係になれない。  
 葉子は某小説誌の新人賞に応募した小説が最終選考まで残ったことで、若い編集者との接触を持つことができた。編集者から勧められて書いた小説はそのままでは雑誌に掲載できない。編集者がリライトしたものならGOサインがでるという。しかしそれはもう自分の作品ではない。固辞した葉子に編集者は「じゃあボクの名前で発表するよ」。  
 ある日一人で居酒屋に入ると由香がいた。意気投合した二人は葉子の部屋で飲み直す。由香は毎日シャンプーばかりでカットをさせてもらえないと悩みを打ち明ける。その夜二人で飲み明かし久しぶりに気持ちのいい空を見ることができた。  
 世間に認められない焦燥感、孤独感に苛まれて、ある日、発作的に自殺未遂を起こした葉子は左の手首から血を流しながら電話する。由香が客からもらった名刺をにぎりしめながら。由香に伝えてもらいたいことがあると。相手は喫茶店のマスターだった……。  

 演技的なものを排した台詞廻し、会話で、できるだけ素の彼女たちを浮かび上がらせる。カメラも一定のポジションに固定し、距離をおいて必要以上の状況説明をしない。まるで定点観測の様相だ。 芸達者な香山照之もココリコの遠藤章造もどこにでもいる生身の一人の人間として登場する。  
 自然光を重視した照明が全体的に青みがかった映像にして都会で生きる女性たちの孤独を浮き彫りにする。時折挿入される見上げた角度の空模様が彼女たちの心象風景となって効果的だ。  

 「マグノリア」の世界を佐々木昭一郎が撮ったような映画といえようか。(佐々木昭一郎は70年代から80年代にかけて活躍したNHKの名物ディレクター。素人を好んで起用し、その一種独特な詩的世界で数多くの賞を受賞している。)  
 監督はこれが劇映画デビューとなるCFディレクターの石川寛。透明感あふれる水彩画みたいな映像。まるで役者たちの呼吸が聞こえるような、時をいっしょにすごしているような演出。先輩格の市川準監督「トキワ荘の青春」を彷彿させる。東陽一の「もう頬づえをつかない」のタッチも思い出した。

 もうずいぶん前から不思議に思っていることがある。  
 たとえば電車に乗っていると外人(アメリカ人)の会話を耳にする。身振り手振り、会話の調子って、そのまま映画のワンシーンになってもおかしくない。実生活の会話風景=映画の世界・のよう、なのである。
 これが日本人になると、あちらこちらで交わされる会話と映画(TVドラマ)の中のそれが同じに思えない。別物という感じ。  
 外人の会話ってもともと演技的な要素が備わっているのだろう。  
 恥の文化・日本ではそうはいかない。抑揚のない、ぼそぼそとつぶやくような、ささやくような会話がほとんどなのだ。
 だからこの映画の会話、やりとりは街のあちらこちらで交わされているものと同じ。リアルそのもなのである。

 この映画は全編デジタル撮影で、ビデオをフィルムに転換している。ビデオ撮影だからこそ、長廻しが可能になってドキュメントタッチの映像、リアルな雰囲気が得られたとも思えるが、惜しむらくはこの映画のテーマともいえる空の色の〈抜け〉が悪いところ。
 観終わってすがすがしい気分になれる。2時間強の上映時間がそれほど長いと感じなかった。僕はこういう世界、ストーリーも映像も大好きなのだ。  

 シナリオが読みたくなった。あの台詞は一字一句シナリオに書かれているものなのだろうか。それとも状況説明、台詞の要旨だけまとめられたものなのか。

     *

 「マグノリア」がそうであったように観客は6人の誰かに自分と重なるものを見て感情移入できるのではないか。僕は葉子だった。今時原稿用紙に鉛筆で文字を書く若い女性はいないと思うけれど(でもこの方が絵になる)、自分の才能を信じて孤独に机に向かう姿が目に焼きついた。煙草を持つ指のしぐさが魅力的。
 孫正華は横顔が驚くほど天海祐希に似ていた。眼鏡姿の本上まゆみもよかったなあ。
 癒し系タレントとして人気の高い井川遙の魅力がやっとわかった。小林信彦がコラムで紹介してから気になってグラビア等で何度眺めてみてもそれほどいいとは思っていなかった。由香のかわいらしさったらない。守ってあげたくなる。




 ピーナッツ主演の「私と私」のレビューがまだだ。早く書かなければ。そう思いながらまだの映画がいくつかある。
 とりあえず、2月に劇場で鑑賞した映画の簡単な感想を記しておく。

     ◇

 2月9日(火)

 「破門 ふたりのヤクビョーガミ」(新宿ピカデリー)

 関西弁をしゃべる北川景子を見たくて足を運んだ。彼女、三の線の方が魅力的だと思っている。
 それから、関西弁がしゃべれる役者を探しているので、その確認もあって。
 というのも、久しぶりに読んだ、小林信彦「唐獅子株式会社」に大笑いし、もしこれを時代背景をそのままに、TVドラマ化したら(これまで2度映画化されているけれど成功していない)と夢想して、個人的にキャスティングしているため。

 2月13日(月)

 「恐怖女子高 女暴力教室」(ラピュタ阿佐ヶ谷)

 今、ラピュタではレイトショーで池玲子と杉本美樹を特集している。BC二十世紀ではチラシを置く関係で、招待券をもらえる。2枚あるので、最初の映画をこれにした。杉本美樹は好きなタイプではないが、池玲子にヤラれた!

 2月19日(日)

 「愚行録」(丸の内ピカデリー)

 面白い映画ではあるが、原作はもっと面白いんだろうなと思える内容だった。3度の衝撃とポスターにあるが、途中で展開がわかったので、個人的には1度の衝撃だった。詳しくは項を改めて。

 2月21日(木)

 「沈黙 -サイレンスー」(MOVIX川口)

 この映画も項を改めて。

 2月23日(火)

 「暁の追跡」(神保町シアター)

 市川崑監督の、1950年の作品。こんな作品があったなんてこと、全然知らなかった。これも項を改める。

 「たかが世界の終わり」(ヒューマントラストシネマ有楽町)

 期待はずれだった。会話だけで成り立つドラマ作りがあっていいし(フランス語だし)ら、クライマックスの家族の言い争いには思わずグッときたけれど、あとはもう……。おまけに挿入される音楽(楽曲)のシーンになると、音が厚くなって、カメラワーク、カッティングがミュージックビデオになってしまうのだ。すごい違和感。


日曜日は「家族の肖像」を鑑賞予定。




2017/02/08

 「マグニフィセント・セブン」(丸の内ピカデリー)

 傑作として名高い「荒野の七人」(60年)のリメイク。
 「荒野の七人」は、ハリウッドが黒澤明監督の代表作「七人の侍」(1954年)を西部劇に翻案した作品として往年の映画ファンなら知らない人はいない。

 個人的には「荒野の七人」に何の思い入れもない。
 映画(のタイトル)を知ったのはわりと早い時期だった。小学校の高学年か。西部劇の傑作であること、スターが大勢出演していること、日本映画が基になっていること。記憶が定かではないのだが、たぶん「七人の侍」より先に知っていたと思う。テーマ音楽も耳に馴染んでいる。
 が、観る機会がなかった。TVの洋画劇場で放映されたことがあったのだろうか。観た覚えがない。

 高校時代に「七人の侍」がTVで放映された。全編後編に分けて二週にわたって。むちゃくちゃ面白くて、その後は劇場(リバイバル上映)で、ビデオで、DVDで何度も鑑賞している。
 「荒野の七人」を観たのは最近である。この歳になると10年前も最近であるから、時期ははっきりしないのだが。
 映画の印象だけ覚えている。「七人の侍」の方が断然面白いじゃないか! 

 「七人の侍」のすごいところは、映画の前半、志村喬演じる勘兵衞が仲間を集めるくだりから夢中になれることだ。
 野武士の襲撃から村を守るために、村人は侍を雇うことにする。町にやってきた村の代表たちが侍をスカウトして、最初に選ばれるのが浪人の勘兵衞。この勘兵衞を慕って6人の浪人が集まるエピソードが愉快、痛快なのである。七人の侍のそれぞれの個性を際立たせながら、侍の侍らしさが描かれるのだから目が離せない。

 上映時間が3時間強の「七人の侍」に対して、「荒野の七人」は2時間しかないためか、ユル・ブリンナーによるガンマン集めにそれほど時間をさけない。僕が「荒野の七人」を面白くないと思うのは、ここに要因があるのかもしれない。
 もし、もっと早く、「七人の侍」より先に「荒野の七人」を観ていたら、印象は違っていただろう。

 最初に予告編に触れて反応したのはアップのデンゼル・ワシントン。どことなく志村喬に似ていたのだ。志村喬をもっと男前にした感じか。次にバックに流れる曲。「朝日のあたる家」だ。劇中に流れる、もしかしたらエンディングロールに流れるこの曲を聴きたいと思った。
 「荒野の七人」のリメイクなのに、なぜにタイトルが「The Magnificent Seven」? 数秒おいて得心した。「荒野の七人」の原題なのである。
 続けて思った。〈マグニフィセント〉とは何ぞや? 調べてみると「崇高な」「豪華な」「偉大な」「素晴らしい」を意味する形容詞だという。

 「荒野の七人」が「七人の侍」をわりとそのまま翻案しているのに対して、「マグニフィセント・セブン」はリメイクだからか新規軸を打ち出している。
 敵方に絶対悪、それも個人を配置したのだ。
 「七人の侍」では野武士が、「荒野の七人」では盗賊が貧村を襲う。野武士も盗賊も頭領がいるが、あくまでも集団の中の一人という扱いだった。
 この映画では、とある開拓地に金鉱があり、それを独占したいがために悪徳実業家があの手この手を使って、住民を追い払おうとする。そのためには殺人も厭わない極悪非道な奴なのだ。もちろん、実行するのは部下たちだが。

 この実業家に亭主を殺された未亡人(ヘイリー・ベネット)がヒロイン。ちょっと見、「ロミオとジュリエット」のオリビア・ハッセーみたいで(胸元から上)、中学時代を思い出してちょっと胸キュン。
 この未亡人(ともう1人)がデンゼル・ワシントンに敵の排除を依頼する際に、「復讐」という言葉を発する。亭主を意味もなく殺されたわけだから当然なのだが、少々違和感があった。

 七人のメンバーに東洋人を入れた。
 その一人がイ・ビョンホン。ナイフの使い手で、実になんともかっこよいのであるが、文句を言いたい。
なぜ韓国の俳優なんだ!  
 日本のアニメ「マッハGOGOGO」をハリウッドで実写映画化した「スピード・レーサー」でも主要キャストの一人が韓国人俳優だった。
 日本映画の名作を翻案した映画のリメイクなのだから、原作にリスペクトするなら、日本人俳優を起用してもらいたい。
 まっ、イ・ビョンホンは若き日の藤竜也みたいで素敵なんですけどね。
 インディアン、もとい、ネイティブ・アメリカン(マーティン・センズメアー)もメンバーになる。
  
 デンゼル・ワシントンのメンバー集めのシークエンスから、何かと「七人の侍」と比べてしまい、不満タラタラだった。
  手垢のついた展開もあって、がっかりもした。クライマックスのアクションもとりたてて驚愕することもなかった。
  が、クライマックスのクライマックス、デンゼル・ワシントンと敵のボス(バーソロミュー・ボーグ)の戦いで膝を打った。冒頭で抱いた違和感も解消された。

  映画が大団円をむかえて、七人を紹介するクレジットとなる。バックに流れるのは「朝日のあたる家」ではなく、「荒野の七人」のテーマ。胸が躍るね、やっぱり。
  



 一昨日(6日)、仕事を終えて有楽町へ。丸の内ピカデリーで「マグニフィセント・セブン」鑑賞。
 予告編でバックに流れていた「朝日のあたる家」は劇中では一切使われていなかった。残念。
 この映画については項を改める。
 
 昨日(7日)は、午前中、ラピュタ阿佐ヶ谷で「三大怪獣 地球最大の決戦」を、午後はテアトル新宿で「島々清しゃ」を鑑賞。
 
 (昭和の)ゴジラシリーズは「三大怪獣 地球最大の決戦」までだと思っている。自分の中では。
 以前にも書いたが、この映画は、キングギドラが登場しなければ、それほどのものではない。大人になってから、特撮や怪獣よりも、「ローマの休日」を下敷きにしたようなドラマを楽しむ映画だと思っている。主演の夏木陽介と彼が護衛する某国の王女(若林映子)の関係とか、夏木の妹(星由里子)とのたわいないやりとりとか。60年代のファッションも素敵だ。70年代になるとなぜあんなダサくなるのか。特にスーツ姿。細いネクタイが決まっている。

 後年知ったことだが、「三大怪獣 地球最大の決戦」は、64年の暮れに公開される予定だった「赤ひげ」が延期になったため、代替作品として製作されたという。この年は、4月に「モスラ対ゴジラ」が公開されているわけだから、製作はバタバタだったのだろう。
 それは特撮や怪獣の着ぐるみに垣間見られる。子どものときはわからなかったが。
 ラドンの造形が「空の大怪獣 ラドン」に比べるとヌルい。飛びラドンはピアノ線が目立って仕方ないし。
 小美人がゴジラやラドンの言葉を通訳するシーンは、おいおいって感じ。あまりにバカらしくて笑ってしまったけれど。
 ただし、ミニチュアによる大胆構図もあり、一概に批判はできない。

 キングギドラを撃退した三大怪獣。モスラは小美人とともにインファント島に帰る。見送るゴジラとラドン。その後、2匹はどうしたのか?
 それはともかく、「GODZILLA ゴジラ」の続編は、この映画のリボーンになるのだろうか? それはそれで楽しみだ。

 「島々清しゃ」。
 昨年12月のシネりんが新藤風監督をゲストに呼んでのこの映画のプレイベントだった。
 予告編を見て、島の子どもたちの吹奏楽を描いていて興味を持った。
 火曜日なので1,000円。これは助かる。
 絶対音感(といえるのだろう)を持つ主人公の女の子の、雑音(音程の狂い)を耳にしたときのイライラ、ザワザワ感は、僕がトイレを借りにパチンコ店に入ったときの感覚に似ているのだろう。あの騒音、爆音を耳にして皆よく平気だよなぁ。いつも思う。慣れもあるのか。
 ラスト、何気ない楽器演奏に涙がでてきて仕方なかった。

 映画鑑賞後、そのまままっすぐ帰って川口中央図書館に行くつもりが、新宿駅東南口に向かう途中に「一軒め酒場」を発見。寄ってしまった。日本酒2杯。目当てのもやし炒め。神田旨かつ。
 ほろ酔い気分で図書館へ。続いて、地元の書店へ。注文しておいた「続・時をかける少女」(石山透/復刊ドットコム)を手に入れる。




 一応前項から続く

 キネマ旬報2016年邦画ベストテン、第二位に選出されたのが「シン・ゴジラ」。
 この映画については、すでに書いているし、加筆訂正して「まぐまPB⑧ 特撮怪獣映画50年誌」に寄稿した。
 その際、加筆し忘れたことがある。

 「ゴジラ」(1954年)が製作された1950年代から60年代のある時期まで、原水爆や放射能が怪獣誕生の重要な要素になっていたということだ。ブームだったというべきか。
 「原子怪獣現わる」(1953年)では、ゴジラに先駆けて核実験の影響で古代の恐竜が出現するし、「放射能X」(54年)では、核実験の影響で巨大化した蟻が登場する。
 「戦慄!プルトニウム人間」(57年)は、核実験で被曝した軍人が巨人となって暴れまわるという話だった。続編「巨人獣」(58年)も作られている。
 驚いたのは「美女と液体人間」(58年)である。東宝変身人間シリーズは「マタンゴ」以外長いこと観る機会がなかった。DVDを借りてきたのは数年前だ。
 液体人間は核実験の死の灰を浴びた漁船の船員たちが変身した姿なのだ。もろ第五福竜丸の事件をモデルにしていたというわけだ。

 「ゴジラ(54年版)」も、真正面から反・原水爆実験を訴えるというより、巨大な怪獣が登場する理由づけに原水爆実験を使っただけではないか。
 「ゴジラ(54年版)」を評価するのなら、それまで映画に登場することがなかった〈怪獣〉を登場させこと(それまでは、あくまでも恐竜や巨大猿が現代に蘇ったり、登場したりするものだった)、高度な特撮技術、ドラマ演出で荒唐無稽な物語をきちんとフィルムに定着させたこと、ではないかと思っている。
 この考えは大学時代に特撮怪獣映画やゴジラの話になると、得意気に披露した憶えがある。

 「シン・ゴジラ」にはドラマがないと言う人がいる。
 本当にそうだろうか? 僕にはどうしても理解できない。
 核の影響で突然変異し進化した謎の巨大生物を、政府、自衛隊、特別チームがどのように排除するか、撃退するか、そこだけに特化したドラマがきちんと描かれているではないか。
 主人公とヒロインの恋愛や、親子、家族との絆等を描かなければドラマではないというのか。
 「シン・ゴジラ」はそういう余計なドラマを排除して、ゴジラとの攻防戦だけに絞った作劇が見どころだと個人的には思っているのだが。




 書き忘れていたこと。
 今年になって、最初に発売された「漫画ゴラク」。北川れい子の映画紹介(タイトルは「極楽シアター」)のページを開いたら、タイトルのところに「〈ネタばれ注意〉とあった。
 この表記、昨年もあったっけ? なかったような気がするが。

 しかし、呆れてしまうではないか。
 この頁は新作映画の紹介なんだよ。
 キネマ旬報や映画芸術といった雑誌への寄稿ならば、論考としての側面があるからストーリーの記述でネタばれがあってもいい。
 でも、このコラムはあくまでも読者がこれから観ようとする映画の指針となるべきものだろう。だったら、映画のキモとなる要素はできるだけ伏せて紹介するのがプロだろうに。
 それをしないで、堂々とタイトルにネタばれ注意と書くアツカマシサ。
 そんなんじゃ、一般人のブログと変わらない。

 ドキドキしながら読みましたからね、私。また「ピンクとグレー」や「ミュージアム」みたいなことになるのかなと思いながら。
 これからは、ミステリ、及びミステリ要素の濃い映画が紹介されていたら読まないことにします。

 先週の週刊文春の小林信彦の「本音を申せば」では、「この世界の片隅に」について書いていた。こちらもある意味ネタばれしていた。
 御大、いつもネタばれに関しては細心の注意を払って書いているのに、どうして? と疑問に感じながら、こう結論づけた。
 映画は公開されてからずいぶん経つ。大ヒットして、拡大公開になって、多くの人が鑑賞している。だから、あくまでも自分が感銘を受けた要素を、ストーリーを含めて書いた。書いても、これから観る人の妨げにはならない、との判断のもと。
 これから公開される新作、すでに公開された映画、その差の違いではないか。

 キネマ旬報の2016年のベストテンが発表されて、「この世界の片隅に」がベストワンに輝いた。2位は「シン・ゴジラ」である。
 やったぁ!と新聞記事で知ったときは小躍りした。
 以前にも書いているが、キネマ旬報のベストテンはあくまでも選者個々のベストテンの平均が反映される。
 各人が4位や5位と考えて選出した作品にもかかわらず、皆がその順位だと、平均で一位になってしまう弊害があるというわけだ。
 洋画の「ハドソン川の奇跡」など、そんな感じがする。いや、「ハドソン川の奇跡」はいい映画だと思う。タイトルだけだと、なぜ、イーストウッドが? という疑問が生じるが、実際に観れば得心できる。ただ、2016年のベストワンか言われると考えてしまう。これも平均値がなせる結果だろう。

 で、「この世界の片隅に」である。
 僕自身は、このアニメ映画がベストワンになったことに対して大いに納得できる。
 この映画は、アニメでなければ描けない要素がたくさんあった。描写そのものに。それだけで涙がでてきたもの。
 映画は昭和8年から始まる。この年に母が生まれたので、個人的には感慨深い。
 とても愛おしい映画。鑑賞後、ヒロインの声を耳にするだけで、絵を見るだけで目頭が熱くなってしまう。




2017/01/05

 「モスラ」(ラピュタ阿佐ヶ谷)

 昨年の11月から、ラピュタ阿佐ヶ谷ではモーニングショー(10時~)でザ・ピーナッツ特集をしている。
 昭和の銀幕に輝くヒロイン〔第83弾〕、「伝説のデュオ、魅惑の歌声」。

 ラインアップに「モスラ」「モスラ対ゴジラ」「三大怪獣 地球最大の決戦」があり、こりゃ「行かなくちゃ」。「モスラ対ゴジラ」は昨年、神保町シアターで観たから、「モスラと「地球最大の決戦」をチェックしなくては。特に「モスラ」、一度もスクリーンで観ていないので。

 5日(火)、早めに阿佐ヶ谷に到着。駅前のバーガーキングでお茶してからラピュタへ。
 これまで、TVで、ビデオで、DVDで、何度か「モスラ」を観ているが、スクリーンでの鑑賞は格別のものがある。
 映画全盛時代、東宝特撮の黄金時代の作品であることを改めて感じた。もう1カットも目が離せない。
 ミニチュアがきちんと画面に存在し、演技しているのだからたまらない。かなり大胆なカットも散見される。ミニチュアでやるか! てなもん。合成もすごい。
 フランキー堺の口跡に聞きほれ、軽妙なしぐさに堪能。

 とにかくシナリオがうまいと思う。
 21世紀になってすぐ、原作とシナリオを読み比べる機会があった。「発光妖精とモスラ」という本を図書館で見つけて読んだのだ。
 この本には、原作のほか、関沢新一のシナリオも掲載されており、その面白さに唸ったものだった。

     ▽ 
2001/06/30

「発光妖精とモスラ」(中村真一郎・福永武彦・堀田善衞/筑摩書房)  

 小林信彦「小説世界のロビンソン」(新潮文庫)で純文学作家・福永武彦が加太伶太郎名義で推理小説も書いていたことを知り、だから「モスラ」の原作を共同執筆しているのかと目から鱗が落ちた状態でいるところに、図書館の書棚で本書を見つけた。  
 中村真一郎・福永武彦・堀田善衞による原作「発光妖精とモスラ」、関沢新一の映画「モスラ」の第一稿および決定稿が収録されている。  

 ロシリカ共和国の水爆実験場となったインファント島に住む小美人を悪役ネルソンがさらって東京で見世物興行を行う。小美人の歌声によって島の守り神であるモスラが卵から誕生すると小美人を追い日本に上陸する。体長100mのモスラには小美人救出の本能しかなく、そのため東京は大混乱に陥るのだった。  

 「発光妖精とモスラ」は小説というより、シナリオの梗概という印象を受けた。主人公、映画ではフランキー堺が軽妙に演じていた新聞記者の福田善一郎とは作者3人の名前を合成したもであることを今さらながら知った。
 シナリオ(映画)には取り入れられなかったモスラに関する伝説が面白い。

 小説とシナリオ(映画)の違いはいくつかある。まず小説の小美人は4人で、身長も映画(30cm)の倍ある。またロシリカ共和国は決定稿ではロリシカ共和国となっている。もろロシア+アメリカだからだろう。
 驚いたのはモスラが繭を作る場所が国会議事堂というところとラスト小美人をインファント島に返した後宇宙に飛び出し半世界へ突入するくだり。平成のゴジラシリーズ「ゴジラVSモスラ」はしっかりかつての原作を踏襲しているのですな。  

 関沢新一によるシナリオは原作の魅力を大きく膨らませて傑作である。映画を知らなくても映像を頭に浮かべることができる。人物像がしっかり書き込まれて、人間側のドラマとモスラの都市破壊スペクタクルが見事にシンクロしているのだ。怪獣映画黄金時代のよき時代を感じさせる。
 第一稿と決定稿の大きな違いはそのラスト。一稿はロリシカ共和国の首都をモスラが襲う映画同様のもだが、決定稿では九州に逃げたネルソンをモスラが急襲するエピソードに変更されている。このラストは実際に撮影されたらしいが、結局オクラ入りになって元のラストが採用されたとのこと。
     △




2016/12/30

 「湯を沸かすほどの熱い愛」(ヒューマントラストシネマ有楽町)

 田中好子が亡くなった翌日だったか、早朝のワイドショーで彼女の声が流れた。東北大震災で被災した人たちへのメッセージ。病室で録音したものだ。声は「疲れちゃった」という夫への呼びかけで終わり、僕は笑った。
 キッチンで朝の支度をしていたカミさんがすばやく反応した。「なんで笑うの?」不謹慎だと言うのだ。
 TVのある居間とキッチンはつながっていて、TVを観ている僕はキッチンからだと背中しか見えない。正面から見れば、僕が泣いていたことにも気づいたはずなのに。
 亡くなったことはとても悲しくて、でも夫に甘える声がかわいくて微笑ましくて笑ったのだ。

 TVドラマや映画では、泣かせることが評価される風潮がある。泣く=感動というわけだ。笑わせて、笑わせて、ここぞというところで泣かせる。この作りに、特に日本人は満足する。ラストでしんみりさせるのがミソ。で、大ラスはまた笑いに転化させて大団円。拍手喝采だ。

 泣かせを売りにする映画があるが、僕はどうしても敬遠してしまう。泣かせることがいけないわけではない。泣かせるためのあざとい演出が嫌いなのだ。実際、そういうシーンではシラけてしまうことが多い。泣いたとしても、心の中では舌打ちしたりして。
 たとえば、予告編で泣けることを強調する映画は絶対観ない。子どものころ、親に泣かせるよりも笑わせることの方がどれだけ大変か、何度も言われていて、涙<笑という数式が自分の中に出来上がっているので。
 作り手は意識しているのかどうかわからないが、なんでもないシーンに目頭熱くすることもたびたびだ。

 恐怖と笑いは紙一重だと言われる。
 実際、「遊星からの物体X」を観たとき、あまりの怖さにニヤニヤしてしまった。
 いつのころからか、笑いと涙も同じだと思うようになった。

 笑って、笑って、泣いて、というのではない。笑いながら泣くのである。泣きながら笑うのである。
 実際、そういう展開のドラマや映画に触れるようになった。
 落語でも経験している。
 「湯を沸かすほどの熱い愛」はまさしくそういう映画だった。

 宮沢りえとオダギリジョーの共演。ふたりが夫婦役で銭湯を営んでいるのだが、オダギリジョーが蒸発してしまい、宮沢りえは娘と夫の帰りを待っている……なんてことしか知らなかった。

 評判が良くて観る気になったのだが、実際に観た人の感想「泣けるよ~」に少し身構えた自分が恥ずかしい。
 扱っている問題はとんでもなく重い。それも三段構えだ。にもかかわらず、適度のユーモアをまぶして語っているところが、単なる泣かせの映画と違う。この差は大きい。

 映画は地方の町を舞台していて、途中からどこか気になって仕方なかった。渡良瀬という文字(看板)がでてきて、「もしかして?」。どこか見慣れた風景もでてきて、やはり足利だった。郷里太田の隣町だ。中学、高校時代、映画鑑賞でお世話になった。
 大学時代は、脳腫瘍の手術で母が赤十字病院に入院し、毎週土曜日泊まり込んで看病した。
 そんなわけで、映画の後半、寝たきりの宮沢りえを見るのはつらかった。母の姿とダブるのだ。もうそれだけで涙があふれた。

 宮沢りえは「紙の月」を契機にしたのか演技派の道を突き進んでいる。惚れ惚れしてしまう。
 それ以上に娘役の杉咲花だ。この子、こんなに巧かったのか! 




 一応、前項から続く

 映画「ミュージアム」の監督は大友啓史。NHKのドラマ「ハゲタカ」の演出で名前を知った。当然、チーフディレクターを務めた大河ドラマ「龍馬伝」は一年間視聴した。
 その後、NHKを辞めてフリーに。映画監督に転身したというべきか。局員時代に「ハゲタカ」の映画を撮って、映画の世界に魅了されたのか。個人的には少々残念な気持ちがあった。もう少しNHKでテレビドラマの可能性を追求してほしかったので。
 実際、映画「ハゲタカ」には、ドラマのようなカメラワークの切れが感じられなかった。

 手持ちカメラ、全体的にブルーの色調の世界というと、堤幸彦を思い出す。連続ドラマ「ケイゾク」にハマって、映画化されると真っ先に劇場に駆けつけた。が、期待に応えてくれる出来ではなかった。その後さまざまな映画を手がける人気監督になるのだけれど、個人的には「?」。らしくない作品ばかりで、足を運びたいと思えないのだ。

 昔からTVから映画に進出するディレクターはいる。実相寺昭雄や五社英雄が有名だ。五社英雄は映画界の巨匠になってしまったが、実相寺昭雄は、TVの音楽番組、CMのほか、オペラ等、さまざまなメディアを舞台にしていた。映画監督でくくるには少し違うと思っている。

 大友監督はNHK退社後、「るろうに剣心」3部作で大ヒットを放った。予告編を何度か見て殺陣の激しさに興味を持ったが、結局鑑賞しなかった。TVで放映された際に録画したのだが、まだ一度も再生していないテイタラク。
 「プラチナデータ」、「秘密 THE TOP SECRET」は全然興味がわかなかった。
 注目している監督ではあるのだが、映画だけにとどまらず、TVの世界でもっと頑張ってほしいと個人的には思っている。

     ◇

2007/08/24

 「ハゲタカ」(NHK総合)

 NHKの土曜ドラマは昔から秀作の宝庫だった。TVドラマにほとんど食指が動かなくなった今もこの番組だけはチェックを入れている。ところが「ハゲタカ」はノーマーク。いや違う、主演が大森南朋ということで興味はあったのだ。映画「カルテット」や「ヴァイブレータ」で注目した俳優。それに初の主演ではないか!
 にもかかわらず、題材がどうしても好きになれず初回チャンネルを合わせなかった。株や投資の話はわが家ではご法度なのだ。
 結婚した当初、かみサンが証券会社の営業ウーマンの甘い口車に乗って株を始めて痛い目にあったことがある。ハイリターンの説明ばかりでハイリスクについてはまるで触れなかった。事実を知ったかみサンが当の営業ウーマンに説明を求めても逃げの一手。会社ぐるみで電話口に出そうとしない。声を枯らして嘆くかみサンを「知識がなかったことが要因」と諭した。
 また、かつて証券会社に勤めていた同僚の、泥沼にはまった証券マンたちの悲惨な生活ぶりを聞いてからというもの、その手の話には一切耳をふさぐことにしていたのだ。
 ドラマが始まって、いろんなところから評判が聴こえてきた。最初から観ていないので追いかけることもしなかった。後の祭りとあきらめた。

 再放送で評判が嘘でないことが確認できた。
 まず映像にしびれた。
 1970年代の後半、村川透監督、松田優作主演の〈遊戯シリーズ〉と呼ばれた映画があった。優作扮する一匹狼の殺し屋が活躍するアクション映画3部作だ。ディティールがリアルなストーリーはもちろん独特のカメラワーク(撮影:仙元誠三)に夢中になった。この世界観に角川映画が注目し、同じトリオを起用して「蘇る金狼」、「野獣死すべし」が製作された。ブルーを基調とした硬質なトーンがハードヴォイルドの世界をより際出させていた。
 90年代末になって、ビデオでこの世界を構築することができることがわかり歓喜した。堤幸彦監督の「ケイゾク」である。「ハゲタカ」はこの路線をしっかり継承しているのだ。

 始まりは一話完結風、進むにしたがって一つの物語に収束していくのは「踊る大捜査線」を意識したのだろうか。原作(真山仁「ハゲタカ」「バイアウト」)を読んでいないので、小説世界がどうなのか知らないけれど。実際にさまざまな企業のTOBがメディアをにぎわせてしているから、ドラマに緊迫感がある。似たような出来事を勤めている会社で経験しているし、株主総会なんて数年前まで毎年事務局の一員としてその時期慌しい毎日を送っていたから余計にそう感じるのかもしれない。
 大森南朋は若手役者(中堅役者?)の多良尾伴内だ。映画の中で本当に七つの顔を持つ。出演するたびにイメージが違う。このドラマでは非情な投資ファンドマネージャーを演じている。内にガラスの心、トラウマを持つ……。ライバルになる柴田恭平はいつもながらの恭平節(批判ではない)に深い思慮を滲み出していた。いつもうっとりしてしまうのが頬から顎にかけてのライン。あの鋭角は昔も今も変わらない。大森南朋に家族を崩壊させられ、やがて同じ道を歩みだす松田龍平はかつて父親が「野獣死すべし」で表現しようとしていた爬虫類キャラクターを好演。聞くところによると、某件で降板せざるをえなかった俳優の代演だという。これも何かの縁だろうか。
 しかし何といっても田村泯だろう。圧倒的な存在感だった。上手さというよりその人になりきってしまうというのか、台詞の一つひとつに含蓄がある。
 いやもっというなら、最初に映像ありきのドラマがNHKで生れたことに快哉を叫びたい。個人的なことといわれればそれまでだけど。


 【おまけ】

2000/03/20

 「ケイゾク/映画 Beautiful Dreamer」(ニュー東宝シネマ1)

 TVシリーズ「ケイゾク」が正式に映画化されるのを知って、一番期待したのは、方向性もタッチも全く違うけれど「L.A.コンフィデンシャル」みたいな上質なミステリ映画の誕生だった。
 柴田と真山の凸凹コンビ(および捜査二課メンバー)によるギャグの応酬、独特な映像テクニックはそのままに本格的な(本格派ではない)ミステリ映画になったら、日本映画史に残る斬新なものになるんじゃないかと思ったのだ。

 タイトルに「Beautiful Dreamer」なんておよそ「ケイゾク」に似つかわしくないサブタイトルがついてがっかりきた。「コナン」や「金田一少年の事件簿」みたいなストーリー(南の島に関係者が集まって一人ひとり殺されていく)も期待をしぼませるのには十分だった。

 堤幸彦監督は自身が演出したTVドラマ「金田一少年の事件簿」の映画化作品でも舞台を香港にして一大ロケーションを敢行したのは記憶に新しい。TV出身の監督にすれば、映画はやはり〝お祭り〟〈フルコースメニュー〉〈見栄えがいいもの〉という認識なのだろうか。装飾を豪華にすればいいという問題でもないと思うのだけど。

 映画だからこそ、日常(「ケイゾク」の舞台は都会がよく似合う)に潜んだミステリアスな犯罪とその解明の模様を二転三点する練り込んだ脚本と独特な映像でフィルムに構築して欲しかった。
 クスクス笑いあるいは大爆笑の中で、クライマックスに向けての謎解きの伏線を見逃(聞き)さないように、一時もスクリーンから目が離せない。で、あっというドンデン返しがあって真犯人がわかる仕組み。僕はそういう展開をのぞんでいた。
 真犯人がわかってからはハードボイルドタッチ(かつての遊戯シリーズみたいに)で警察VS犯人の戦い(銃撃戦)を描いてもいい。

 映画は昨年末に放映された「ケイゾク/特別編」の後日談として始まる。
 上映時間約2時間の3/4(1時間30分)は映画用に新たに設定された事件がTV同様柴田のボケと真山のツッコミで笑わせながら描かれる。犯罪のトリック自体は稚拙なもので、始まっていくらもしないうちに犯人がわかってしまったのはちょっと残念だが、「ケイゾク」の雰囲気はうまく表現されている。これはこれでいい。ただこれだけのエピソードでラストまでひっぱるのは無理というもの。当然事件が解決してから大きなひねりがある。

 問題なのはそのラスト30分だ。TVシリーズから執拗に続いている殺人鬼・浅倉と真山の対決が描かれ、やっと戦いに終止符をうたれた(らしい)。が、これが、どうにもよくわからない展開なのだ。
 このエピソードはそれまでの物語を拒否するかのような形で追加され、TVシリーズを知らない観客はもちろん、観ていた人だって、朝倉が何者で何をしたかったのかわからない。
 観客に媚びたあまりに説明過多な浪花節ラストもイヤだけれど、監督の一人よがりなわけのわからないものも困ったもんだ。TVシリーズ、スペシャル、映画と観てきて、何よりスタッフがなぜあそこまで浅倉に固執するのか僕にはわからない。

 「ケイゾク」の凝った映像はTVドラマの中でも特筆ものだろう。ビデオでハードボイルドが撮れるというのは何とも心強かった。TVは名キャメラマンを生み出せなかったと言われて久しいが、堤幸彦の片腕として数々の作品に参加している唐沢悟はその範疇に入るのではないだろうか。
 かなりフィルムの質感に迫った映像設計で、「ケイゾク」の映画化はその点でも期待が大きかった。ところが、TVと同じカメラワークでもどうもキレが感じられないのである。「ケイゾク」の映像はビデオだからこそ堪能できるもの、逆の意味でフィルムとビデオの違いを思い知った。

 木戸彩(鈴木沙理奈)の元恋人に大阪弁で啖呵をきるところはゾクゾクきた。




 永井豪が「激マン」の第2弾「マジンガーZ」編の連載を始めてからというもの、「漫画ゴラク」を立ち読みするようになった。実際は隔週連載なのだが、毎週金曜日、出勤前の近くのコンビニでページを繰っている。

 巻末の記事の中に北川れい子の映画評(一頁)がある。主に邦画が取り上げられていてけっこう参考にさせてもらっている。
 ただ、この方、映画に仕掛けられたトリックに無頓着で、何気なく紹介してしまうので困ってしまう。

 以下、ネタばれあり。

 たとえば、昨年公開された「ピンクとグレー」。監督が行定勲というので興味を持っていたところにこの映画評を読んだ。原作がジャニーズのアイドルが書いた小説であることもはもちろん、どんな物語なのかも知らなかった。
 映画評で「ピンクとグレー」の概略がわかったわけだが、映画を観て驚いた。
 冒頭からの約1時間は映画中映画で、その後、主演の菅田将暉と中島裕翔の役柄(立場)が逆転するのである。映画にどんでん返しが仕掛けられていたわけだが、映画評では、このトリックを明かしているのだ。いや、読んでいてトリックだなんて意識していなかった。あたかもアーバンタイトルのごとく書いていたので、それほど重要だとは考えておらず、だから映画を観て驚いたというわけ。
 映画鑑賞後に知るのだが、ポスターには「開始から62分後の衝撃」とあった。その衝撃が何なのか、北川れい子は書いているのである。
 いいんですか? それで。
 まあ、ポスターに書いてしまうことで、観客は身構えるから、本当の意味でどんでん返しになるのか疑問だが。

 同じことは「ミュージアム」でもあった。
 「ミュージアム」は「ピンクとグレー」と違い、劇場で何度も予告編が流れて興味を持っていた。予告編では、主演が小栗旬であること、刑事に扮し、謎の連続殺人(それも残忍な)事件に家族ともども巻き込まれてしまうということしか紹介していない。犯人は蛙のマスクをかぶった男なのだが、誰だかわからない。
 「犯人は誰か?」が映画の謎解き、重要なポイントになるのだろうと推測できる。

 にもかかわらず、北川れい子は、映画評の最後の1行にこう付け加えた。
「犯人役は妻夫木聡」
 おいおい、である。読まなきゃよかったと思ったが、後の祭り。
 実際、映画の冒頭にはクレジットタイトルはなく出演者の詳細はわからない。ポスターにも蛙男は?になっていた。やはり犯人が誰かという推理は展開の主軸になっているのである。
 だからこそ、小栗旬が別居した女房・子の居場所を訊きに女房の友人が働く病院を訪れたシーンで極上の恐怖を味わえる作りになっていて、個人的にはこの映画の一番斬新なところだったと思っている。ホラー小説「黒い家」で、精神科医が犯人が子ども時代に書いた詩を分析し、この人には心がないと結論づけたくだりに似た恐怖だ。
 ところが、こちらは犯人が妻夫木聡だと知っているから、その前にあるエピソードがあって、映画の中で唯一本人だとわかるショットがある。「ああ、こいつが犯人だと」とわかってしまい、つまり展開が読めてしまって全然怖くなかった。
 どうしてくれるのよ、北川れい子さんよ。

 なぜ、最後に「犯人役は妻夫木聡」なんて書くのだろう。せめて、共演は、として、二人ほどの役者名を記し、その中の一人を妻夫木聡にしてほしかった。
 思うに、北川れい子って、ミステリとか謎解きに興味がないのだろう。あくまでも人間ドラマが重要であって、映画に仕掛けられたトリックなんて眼中にない。でなければ、最後の1行で犯人役を明かすなんて愚行を犯すはずはないのだ。

 映画「ミュージアム」は賛否両論があるが、個人的には面白く観られた。何より鑑賞後の充実感があった。
 突っ込みどころはいくつかある。
 連続殺人の犠牲者にはある共通点があった。皆ある殺人事件の裁判の裁判員だったのだ。その一人、引きこもりの若い男。裁判員の要請を了承するだろうか。身重の女性も同様。
 また、犯人だが、あんな短期間、短時間で、大胆奇抜な殺人を実行できるものだろうか。それもたった一人で。誰にも目撃されないというのもどうにも腑に落ちない。
 ここでつまずくと、この映画が受けつけなくなる。僕は「そういうもの」と受け流したので、その後の展開を楽しめた、のかも。
 開巻から雨模様が続く。まるで「ブレードランナー」のようだなと思っていたら、後半で単なる雰囲気作りではないことが判明する。ちゃんと意味があったのだ。




 昨日(6日)の休日、また3本鑑賞敢行!

 10時30分 「モスラ」(ラピュタ阿佐ヶ谷)
 15時30分 「遊び」(角川シネマ新宿)
 18時30分 「エルストリー 1976」(新宿武蔵野館)

          * * *

 年末年始休暇最終日の3日は、地元シネコン、MOVIX川口で12時30分の回、字幕版の「ローグ・ワン」を鑑賞する。
 30分前に行ったのだが、ほぼ満席だった。あと少し遅れたらチケットがとれなかったかも。正月だからだろうか。

 (以下、ネタばれあり)
 元日の新聞に「ローグ・ワン」の全面広告があった。惹句の〈泣けるスター・ウォーズ〉に得心した。僕の目頭が熱くなったのは、盲目の戦士が「フォースは我と共にあり、我はフォースと共にあり」と繰り返し唱えながら、砲弾の中を進んでいくショットだったのだが。
 観客が涙する二人の最期は「ディープ・インパクト」の引用だろうか。あちらは娘と父親だった。
 
 クライマックスの戦いは惑星の成層圏が舞台となる。このヴィジュアル(VFX)が新鮮だったのだが、「ゼロ・グラビティ」の影響があると思う。それにしても美しさが際立っていた。
 デススターの一撃で惑星が破壊されるくだりは、明らかに1作めとリンクしていない。「スター・ウォーズ」では一瞬のうちに惑星を破壊していたのだから。
 しかし、ふたりが迎える最期でその理由が理解できた。
 そして、ラストの若きレイア姫。前回の鑑賞のときは驚愕だったが、今回は涙がひとすじ。
 
 モフ・ターキン総督とレイア姫は実際の俳優が演じ、顔をCG加工で1作めと同じキャラクターにしているのだと思う。声はどうなのだろう? 同じなのか、違うのか。
 で、思った。こういうことができるのなら、過去の名作、傑作の続編が可能ということになる。たとえば、若き三船敏郎を蘇らせ、「七人の侍」の続編が作れるわけだ。いや、前日譚か。観たくないけれど。

 「ローグ・ワン」は「スター・ウォーズ」シリーズのスピンオフ作品というよりギャレス・エドワーズ監督の新作という点に興味があった。演出力が非凡であることが確信できた。
 「GODZILLA ゴジラ」の続編に期待しよう!




 年末最終日の仕事を終えてから神保町から有楽町へ出てヒューマントラストシネマ有楽町で「湯を沸かすほどの熱い愛」を観る。2016年最後の映画鑑賞。
 最後の映画が2016年ベストワンになった。もちろん自分にとっての。映画に順位なんてつけたくないのだが。
 この映画については項を改めて詳述する。

 元日の昨日は映画サービスデー(今はファーストデーというみたい)ということで、新宿へ出て2本観た。元日の映画鑑賞は、いつのまにか年の初めの恒例になっている。
 本来の目的は18時からシネマカリテ「ヒッチコック/トリュフォー」。が、せっかく新宿に出るのだからと、もう1本鑑賞することにした。だったら、キャリー・フィッシャー追悼で、13時40分からの新宿ピカデリー「ローグ・ワン」を観ようと午後あわてて外出したのだが、タッチの差で間に合わず。
 新装オープンした新宿武蔵館で「エルストリー 1976 ―新たなる希望が生まれた街―」を上映していることを知って、行ってみると上映時間が完全に「ヒッチコック/トリュフォー」とダブってしまう。断念。

 結局、新宿ピカデリーで「土竜の唄 香港狂騒曲」を観ることに。
 1作めは観ていないのだが、予告編で菜々緒の悪女ぶり、セクシーカットが気になって。
 期待には応えてくれた。もちろん笑えた。静かな笑いだが。ただし、主人公が勃起するときの表現として小学生の男の子が笛を吹く挿入カットに大笑い。

 「ヒッチコック/トリュフォー」、特に新しい発見というものはなかった。しかし、ラスト近くのヒッチコック監督が功労賞を受賞するシーンに胸が熱くなった。




 一昨日の定休日は、丸の内ピカデリーで「バイオハザード ザ・ファイナル」を鑑賞した。
 映画を観ながら、始終表現のオリジナリティーということについて考えていた。
 「バイオハザード」は、第一作のときに書いたけれど、過去の映画の引用で成り立っているといっていい。しかし、それがけっこう快感だった。アレンジが巧かったというのか。映画によってはうんざりすることが多いのだが。
 第一作ではオマージュ(パクリ)が快感だったのに、この最終作では逆に鼻について仕方なかった。まさか、クライマックスに「ロボコップ」を持ってくるとは! 「ブレードランナー」みたいな展開はどうなのか? ってな感じで。
 ただし、ラストですべてを許してしまった。
 それにしても、シリーズを完結させるのに6作必要だったのか? 3部作でちょうどよい。

     ▽
2002/09/04

 「バイオハザード」(丸の内ピカデリー)  

 今月も定時で仕事が終わり映画サービスデーの恩恵が受けられた。  
 「MIB2」でも観ようと劇場を調べたら何ともう終了していた。ロードショーが始まったばかりの「オースティン・パワーズ ゴールドメンバー」にしようか「バイオハザード」にしようか、大いに悩み上映時間を見ると、マリオンの「バイオハザード」の最終上映が遅い。よし、こっちを観よう!

 ゲームに興味がない。ゲーム会社に勤めているのに、ほとんど、いやまったくゲームをしない。  
 カプコンの人気ゲーム「バイオハザード」も一度もプレイしたことがない。当然どういう内容なのか知らない。細菌によってゾンビ化した集団が襲いかかる中、主人公を操ってある目的地に到達させるアドベンチャーゲームというくらいの知識しかない。  
 男が主人公だったらたぶん観なかっただろう。そう、ゾンビを相手に闘う腕っぷしの強い女が「フィフスエレメント」のミラ・ジョビジョバ……もとい、ミラ・ジョヴォヴィッチだと聞いて、もう彼女だけを観にいったようなもの。  
 期待は裏切られなかった。ミラのスレンダーな肢体を堪能できただけでなく、物語そのものにも引き込まれた。  

 世界的な製薬会社アンブレラ社は地下深く、コンピュータで厳重に警備された研究所で秘密裏にウィルスを開発していた。そのウィルスが何者かに盗まれ、うち1本が故意に施設内にばら撒かれた。コンピュータは直ちに外部と繋がる通路を遮断、研究員たちを施設内に閉じ込めた。施設内に廻ったガスによって研究員が次々と命を失っていく。  
 ある大邸宅(そこは地上と地下の研究室を列車で結ぶ秘密の入口となっている)のシャワー室で全裸で横たわっているミラ(ほら来た!!)。意識をとりもどしたミラは自分が何者なのかわからない。記憶喪失。そこに一人の謎の男が侵入してきた。すぐ後得体の知れない特殊部隊が集団で邸宅を襲い、男を取り押さえた。男は刑事だという。特殊部隊はアンブレラ社からある任務をおびて派遣されてきた。地下の研究所に侵入し、メイン・コンピュータの電源を解除し、制限時間内に脱出すること。
 実はミラもこの特殊部隊の一員なのであった。後に列車の中で発見される男とともに邸宅に住む夫婦を装い、侵入者をチェックする役目を負っていたのだ。邸宅にも流れてきたガスの影響で一時的に記憶喪失になっているらしい。  
 セクシーな衣装にジャンパーを羽織ったミラ(ウフフフ!)と男、刑事を連れ、特殊部隊は研究室に到着する。地獄が待っていることも知らずに。生きて帰れる者は誰?  

 ストーリーは過去のホラー、SFものの焼き直しである。男勝りの姐ちゃん(ミシェル・ロドリゲス、これがいい)のいる特殊部隊は「エイリアン2」の海兵隊、研究所のメインコンピュータは「2001年宇宙の旅」のHAL、特殊部隊から最初に犠牲者がでる八つ裂きレーザーは「CUBE」、ウィルスで蘇った死者との攻防は一連のゾンビ映画そのもの。帰りの列車内におけるミラと女隊員とのやりとりは「遊星からの物体X」だろうか。  
 監督ポール・アンダーソンは確信犯的に御馴染みのショッキングシーン、ショットを挿入しているのではないか。ほとんどはこの手の映画を見慣れた者なら十分予測できる。その予測に期待どおりに応えてくれる痛快さ。  

 過去の映画の引用オンパレードでも面白い映画を作れるのだ、ということをこの映画は教えてくれる。
 一つはミステリの味付け。冒頭でウィルスを盗んだ(ばら撒いた)犯人は誰かという謎、ヒロインを一時的な記憶喪失にして、記憶を徐々に取り戻すごとに判明してくる新事実。単純なホラーだけに終わらせない。  
 もう一つは特殊部隊のリアルな描写。いかにも厳しい訓練に耐えぬいた精鋭隊員たちのプロフェッショナルな活躍が見ていて心地いい。研究所に侵入した女隊員が小型懐中電灯を口にくわえて床下を調査しているところなんてワクワクしてしまう。まあ、職人フェチの個人的な好みかもしれないが。  
 最近は企業の不祥事が立て続けて起きている。アンブレラ社みたいな会社があっても不思議ではないと思わせるところもタイムリーか。  
 全編にわたる緊迫感はなかなかのもの。アクションも切れがある。  

 冒頭のエレベータのシーンが生理的に受付けなくて思わずのけぞった以外、隣の女性客のようなオーバーアクションな反応にはならなかった。  
 しかしラスト、病室の診察台で意識をとりもどしたミラの衣装に驚愕した(アレが衣装と呼べるかどうか)。銃を片手に無人の都市にたたずむ超ヒロイン、ミラ・ジョヴォヴィッチにOh! Jesus!!


2004/09/24

 「バイオハザードⅡ/アポカリプス」(川崎チネチッタ)  

 ミラ・ジョヴォヴィッチのアリスが還ってきた!   
 予想以上の出来で夢中にさせてくれた「バイオハザード」の続編。サブタイトルのアポカリプスとは「地獄の黙示録」の原題「APOCALYPSE NOW」の〈APOCALYPSE〉だ。黙示、啓示を意味する。そんなことはどうでもいいか。ミラが前作同様スレンダーボディーの肌を露出しながらアクションをかましてくれれば、もうそれだけであたしゃ満足です。  

 アリス自身のナレーションにより前作の概要が説明され、本当に前作のラストから始まる。  
 地下の研究施設から漏れ出したウィルスは地上に蔓延、人間がゾンビ化した某都市が閉鎖される。からくも地下から逃げ出したアリスともう一人の男は謎の白衣集団に捕らえられ離ればなれに。アリスは意識をなくし気がつくととある病院のベットに横たわっていた。白衣集団によって身体に何らかの処置が施されたらしい。誰もいない病院を抜け出し、ゾンビが徘徊しているであろう屋外へでるアリス……これが前作のラスト。  
 映画にはもう一人ヒロインが登場する。女刑事のジル(シエンナ・ギロリー)だ。聞くところによればゲーム版の主人公だとか。黒髪の、アリス同様細身で腕っ節が強いおねえちゃん。そのコスチュームにムフフフ、ですな。完全に閉鎖された都市で逃げ場を失ったジルと同僚の黒人刑事、ニュースキャスターの女性(テリ・モラリス)3人が教会に立てこもる。ゾンビの親玉(?)に襲われ絶体絶命! そこへ仮面ライダーよろしく教会の窓ガラスをぶち割って登場する完全武装したアリス。超人的な活躍で難なく敵を倒すのだ。アリスがすでに普通の人間でなくなったことを示す伏線でもある。  
 都市からの脱出を試みる4人に監視カメラを使って接近する男がいた。ウィルスを開発した博士(ジャレッド・ハリス)である。行方不明になった娘(ソフィー・ヴィヴァサー)を見つけ出してくれたら逃げ方を教えると云う。アリスたちはゾンビたちが跋扈する都市の中枢に向かう。娘を救うことはできるのか。そして完全閉鎖された都市空間から脱出することはできるのか。  

 前作がそうだったように今回も過去の映画でお目にかかったおいしい要素が満載だ。基本は「エイリアン2」だろうか。墓場でゾンビが蘇るシーンではいつゾンビたちが「スリラー」のBGMで踊りだすか期待してしまった。敵キャラのメネシスには「ターミネーター」が入っているような。勘繰り過ぎか。  
 ショック効果も何度となく押し寄せてくる。とはいえそれほど恐怖を感じない。安心して最後まで観ていられた。本当はタイムリミット内に脱出できるか手に汗握る展開でなくてはいけないのだろうが、まあ、これはこれでいいのではないか。
 本家「ドーン・オブ・ザ・デッド」のゾンビが今風に俊敏なキャラクターになっているのに、亜流の「バイオハザード」はあくまでも昔ながらのゾンビにこだわっているところが面白い。  
 ホラー映画のパターンとはいえ、それにしても、行方不明の娘を探しに学校にやってきた3人がバラバラになるのがどうしても解せない。ジルと同僚が別行動をとるのはまだわかる。しかしニュースキャスターに慣れない銃を持たせ一人にさせることはないだろう。ゾンビにやられろといっているようなものだ。案の定……  
 クライマックスからラストにかけての、次回「3」に向けての段取りが見え見えなのが興をそぐ。まあ、はなからオハナシなんかに期待してはいないのだけれど。  
 次回「Project Alice」に乞うご期待!

 【追記】  
 ウィルスが蔓延した都市を核爆弾で殲滅という処置にうんざり。アメリカ映画って何かというとすぐ核爆弾を使用したがる。

 「バイオハザード」って海外では「Biohazard」ではないのですね。今回タイトルで気がついた。原題は「Resident Evil: Apocalypse」。前作はどうだったのだろうと調べたら「Resident Evil」でした。
     △




 先週、13日(火)に出勤し、14日(水)、15日(木)の連休を使って関西へ行ってきた。14日の夜に紙ふうせんのリサイタルがあったからだ。

 13日の夜、深夜の高速バスで梅田へ。14日早朝に到着すると、近くのサウナでさっぱりして、午後は次作の小説の取材で宝塚を散策。夜は兵庫県立芸術センターの紙ふうせんリサイタルを鑑賞。終了後、FC+キャストスタッフの懇親会に参加し二次会~某所に移動して恒例の朝までおしゃべり。のつもりが二次会の日本酒が効いて寝てしまった。

 翌15日は、Uさんのおごりで遅めの昼食、コーヒータイム。夕方、Uさん運転のクルマで千日前へ。味園ユニバースのビルにあるイベントスペースで開催された「桂咲之輔・立川寸志二人会」にUさんと参加。終わって、Uさんに梅田まで送ってもらい、高速バスで東京に帰る。

 16日(金)東京駅に到着すると秋葉原のサウナでひと休み。そのまま店に出勤する。夜はイベント「ちあきなおみ聞きまくり」。17日(土)もイベント「ブックカフェ二十世紀忘年パーティー」。
 高速バスの旅は快適で、ぐっすり寝られた。とはいえ、身体は悲鳴をあげていて、節々が痛くて、おまけに眠むくてたまらない。17日は帰宅時、西川口を通り過ぎて、隣の蕨駅まで行ってしまった。18日は御徒町駅で目が覚めて、秋葉原は次だと思って目をつむると、気がつくと神田駅だった。

 クタクタの一週間だったわけだが、気になる映画はしっかり観ている。

 18日(日)は地元シネコンで「ローグ・ワン」鑑賞。第1作に敵方(帝国軍)の幹部として登場していたモス・ターキン提督が当時のままの姿で再登場していて感激した。まるでピーター・カッシングが蘇ったようだ。ラストショットでも同様の、いやそれ以上の驚愕が味わえる。似た役者が演じているとはいえ、メークだけでは無理というもの。CG技術の賜物だろう。

 今日、もう昨日(20日)だが、神保町シアターで「アフリカの光」「青春の蹉跌」「宵待草」。なんと3本続けて。高校時代を思い出した。当時、郷里の映画館では3本立てが当たり前だった。それも休憩なしの。今回は1本ずつ別料金興行だから、40分ほどの休憩がとれた。で、なければ、この年齢で3本は無理ですよ。

 とにかくブログをきちんと更新しなければ。
 頑張ります。


 タイトルの睡魔損は「スイマソン(すいませんの意)」を変換したら出てきたので、内容に合っているじゃないかとそのまま使用してみました。




 承前
 
 あさめし前プロジェクト及び、座長の佐久間孝さんの活動を、僕が批評(活字)の立場から応援することになり、まず同人誌「まぐま」でインディーズ映画を特集した。題して「インディーズ・ムービー名鑑」。佐久間さんとの共同編集である。

 佐久間さんは、自身の団体の上映会のほかに「作家の全貌」シリーズと銘打って、一人の自主映画作家を取り上げる上映会を始めた。
 この「作家の全貌」シリーズで知り合ったのが、飯野歩監督、松田彰監督で、きらめく才能に快哉を叫んだものだ。もし、僕が昔同様に作品を撮っていたら軽い嫉妬を覚えたと思う。「まぐま」のインディーズ映画特集第二弾はこの二人を取り上げた。

 この「作家の全貌」シリーズで下倉功さんと知り合った(と思う)。下倉さんは前述の二人とは違って、普段はサラリーマン、休日に映像作家に変貌するという二足のわらじ的な活動をしていた。
 とはいえ、作品はプロフェッショナルで、ミュージッククリップ「今は偽りの季節」は、下倉さんに編集をお願いした次第。

     ◇

2005/03/27

 「クリスマス・イブ」/「シルク」 ~下倉功個展“ご挨拶”~(SCUM2000)

 個展と銘打たれているが映画の上映会である。普段はサラリーマン、休日は自主映画の監督と2つの顔を持つ下倉監督が新作「シルク」を完成させた。すでに一度リトルシアターでお披露目は済んでいるのだが、この新作と併せ過去の8㎜作品を上映して映像作家〈下倉功〉を知ってもらおうという趣旨で企画された。
 その昔、ロマンポルノから撤退したにっかつがプログラムピクチャー的な一般映画に方向転換した。名づけて〈シネ・ロッポニカ〉。神代辰巳、藤田敏八、村川透、実相時昭雄等、気鋭の中堅監督たちを起用した新作を上映しはじめた。残念ながら〈シネ・ロッポニカ〉は集客の起爆剤とならず、あっというまに中止に追い込まれた。その後にっかつは会社更生法の適用を受けることになり、ゲームメーカーのナムコの支援のもと、日活として復活するのだ。
 それはともかく、〈シネ・ロッポニカ〉の1作品である藤田監督の「リボルバー」が上映された際、新宿の日活館で、あるコンクールに入賞した自主映画が併映されたらしい。下倉監督の「クリスマス・イブ」が4日間上映されたと聞いて、がぜん興味がわいた。

 「クリスマス・イブ」

 下倉監督、大学時代の8㎜フィルム作品。
 大学生を主人公にした等身大の青春恋愛ドラマだ。
 親友の彼氏を好きになってしまって苦しむヒロインがある日学食でスカした男子学生に声をかけられる。イメージにぴったりだから卒業記念の映画に出演してくれないか。その映画は男女の三角関係を描くストーリーで、おまけに自分の役は、親友の彼に想いを寄せる女の子。まるで自分みたいだととまどいながらもOKするが、スタッフ・キャストの顔合わせに行って驚いた。相手役のヒロインはまさにその親友、そしてカメラマンとして紹介されたのは意中の彼だったのだ。複雑な気持ちのまま映画制作はスタート。現実と映画世界を交錯しながら彼らがむかえるラストとは?
 まず冒頭のタイトル処理に驚いた。夜景をバックにしたタイトルが透過光でピンクに光る。劇中では何度かワイプ処理が施されている。8mmフィルムでよくぞまあ!
 ひょんなきっかけで一晩飲み明かすことになった主役ふたりの、飲み屋からでてきた早朝の会話のあまりに説明台詞っぽいところ、男の部屋に立ち寄って結ばれるシーンのカメラワーク、気恥ずかしくて仕方なかった。僕自身が撮った大学時代の作品を思い出すのだ。同じようなカットや同じ言い回しなどいくつも散見できた。
 キスシーン、ベッドシーン。これは学生監督としてどうしても撮りたいものだろう。タバコを吸うしぐさも意識して撮る。あれやこれや、大学時代の撮影に望む自分の心情が思い出され、そのたびに頬が赤くなるような、全身こそばゆくなるような、そんな感覚になって下を向きたくなる。が、それ以上に映画が進行するにつれてどんどん引き込まれていった。

 劇中に引用されていたロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープ主演の「恋におちて」。これには強烈な思い出がある。
 結婚を前提に始めた同棲が破局を迎え彼女が部屋を出て行くその日、彼女が観たいというので会社近くの東劇でふたりで観た。恋が破れた日に「恋におちて」なんて何たる皮肉。上映前の予告編が面白そうで、隣の彼女は「これ観たいねえ」なんて僕に声をかける。他人がみたら仲のいいカップルに見えただろう。ホント女心はわからない。映画の内容なんて忘れてしまったが、あの日の光景だけはしっかり脳裏に刻まれている。

 閑話休題。
 学生映画「クリスマス・イブ」はシナリオもカメラワークも堂々としている佳作だった。伏線が効いている。主人公のズボンのポケットから吸殻を見つけて、翌日(?)大学のホールにたたずむ親友の前へやってきた恋人が頬を叩くシーン、実は映画撮影の一場面だったというオチにはすっかり騙された。しかし周りにいるスタッフは叩かれた親友の演技を誉めているけど、あれは叩く恋人の緊迫感あふれる演技を賞賛すべきものではないか?
 クライマックスのちょっと臭い台詞もこちらの胸に響いてきた。〈登場人物の感情がこちらに届くか否か〉が一般でも自主でも僕の映画を判断するよりどころになっている。それからするとこの映画はすごい。全編、監督の主張に彩られている。まさしく自主映画。
 帰郷するヒロインを追って駅に走る主人公のシーンへの回想を挿入させる、その絶妙なバランスに酔った。

 「シルク」(4時間バージョン)

 普通、メジャー映画だって4時間の上映時間だと観るのを躊躇してしまう。敬愛する監督作品なら別だけど、それでもかまえてしまうかもしれない。今は3時間を超す映画もいくつもあるが、特撮やアクションをメインにもってきて、観客を飽きさせない配慮はされている。
 それを自主映画、それも人間ドラマで4時間である。プロの役者を起用しているとはいえ、あまりにも無謀すぎる。昨年のお披露目上映会では賛否両論で、それは当たり前のことなのだが、その否定的意見がすごい罵倒の仕方なのである。確かに素人映画を4時間も見せられたらたまらない(ちなみに僕の中ではアマチュア映画と素人映画は別ものである、念のため)。実際はどんなものだろうか? 「クリスマス・イブ」で監督の資質、技量を判断して「シルク」に挑戦しよう。ダメだったら「鉄人28号」か「あずみ2」をチェックすればいい。そう考えていたら「クリスマス・イブ」が期待以上の出来で(考えてみれば当たり前のこと、一般の劇場で上映されているんだから)、そのまま会場に居残ることにした。

 4時間を1時間ごとに分割して、途中3回休憩が入る構成。
 人生に挫折したキャリアウーマン(山浦りえ)と彼女に憧れる新人社員(峰野勝成)、癌に冒され余命いくばくもないゲイ(西川方啓)が主人公。
 不倫相手と別れた山浦が淋しさの埋め合わせに峰野と一夜を過ごし、峰野は勝手に彼女と恋人気分になっているところに西川と出会う。いろいろあって、二人は西川が若い頃普通に結婚して一児をもうけていることを知る。今はもう妻子と別れて一人暮らしの西川は死ぬ前に一度息子に会いたいと熱望し、西川の病気を知らないまま二人が協力して妻子の居場所を探し出し、一緒に訪ねるという話。

 とまあ、映画の主要ストーリーはこういうことになるが、生真面目な監督は登場人物すべてにドラマを作り見せ場を用意する。この兆候は「クリスマス・イブ」にも散見できるのだが、とにかく各人物に問題を抱えさせ、その問題をどう克服するかまできっちり描くから2時間の映画が4時間になってしまうのだ。
 主役の3人のほか、山浦の不倫相手の男、その妻、その妻に思いを寄せる旧友。この旧友は何と山浦の兄でもある。
 3部まではゲイが息子と再会するまでの話を中心に「幸福の黄色いハンカチ」テイストを入れ、ロードムービー風に描き、その最中に山浦がなぜ仕事一筋の女性になったか、その根本的原因は父との不和ということもクローズアップされていく。
 4部はゲイが死んだ後日談で、山浦と父の和解がテーマになる。同時に幼い頃父に捨てられ母一人、子一人で育った峰野にも母親の虐待にあっていた事実が判明して、屈折した末の母への愛情を切々と訴える名シーンもある。

 けっして4時間が退屈したわけではない。構成、描写はしっかりしているから、的確な役者の演技とあいまって二転三転するストーリーに引き込まれた。肉体的には疲れはしたけれど。キャラクター造形でもヒロインにセブンスター(BOX)を吸わせるところなんて男には負けたくないという内面の強い意思を感じさせてくれる(やはり女性のタバコはセーラム系だろう。偶然だとしても意味がある)。
 ただしTVで放送される4回の連続ドラマあるいは二夜連続のスペシャルドラマならまだしも、映画という媒体からするとやはり4時間は長すぎると思う。
 映画は省略の芸術である。主要なテーマは何か。テーマを訴えるためにストーリーをどう構築するか。どのエピソードを強調し、削除するか。削除することによって残されたエピソードが引き立つこともある。小説でいうところの行間を読ませる行為か。
 あれもこれも描きたいという気持ちはわかるし、名演技を見せてくれる役者たちのことを考えれば、そう簡単にカットできるはずもないけれど、映画は監督のもの、不特定多数の観客を相手にするならば、やはりそこは決断が必要ではないか。

 幸いこの4時間版はあくまでも関係者用だという。一般用ともいうべきバージョンを編集するなら、主要3人の物語にすべきだろう。不倫相手の男性やその妻の物語が必要かどうか。
 そう考えた場合、おのずと4部は独立した作品になるだろう。明らかにテイストが違うのだから。「その後のシルク」(by アworker氏)「もうひとつのシルク」なんていかが。
 残る3時間のドラマ、ラストはやはりゲイと息子の再会だと思う。息子の別れ際の言葉にはぐっときた。そのラストにむけ、どうエピソードを削っていくか。たとえばの話、息子に会いに行くゲイの服がどうのこうのなんていらないのでは? 西川の服にそれほどのケバさ、異様さは感じられなかった。そうしたエピソードをとりあえずカットしてみるとか。
 一般公開用の「シルク」に期待する。

     ◇


 【おまけ】

 「お散歩」 インディーズらしい切り口 メジャーに匹敵する完成度

 壮大なスケール、破天荒な世界観で観客を圧倒させた自主映画「夢の祭」の松田監督の新作が完成した。当初10分程度の短編ということで取り組んだものの出来上がってみたら48分の中編に様変わりしてしまったという。しかし、10分のものが15分や20分になるのならわかるけれど約5倍になるとはどういうことだろう。不思議な気持ちで試写会に向かった。    
 ある真夏日の早朝から主人公の男女(鍋山晋一、村田牧子)が近所を散歩する、ただそれだけのストーリー。その合間にふたりが単独でインタビューに答える形で出会いから定期的に散歩する現在の関係に至るまでの過程を説明していく。
ドラマの中にインタビューを挿入するのは「恋人たちの予感」「ストーリー・オブ・ラブ」の影響だろうか。冒頭から始まる散歩はまさしくスケッチといった按配。ふたりの会話はまるで素のそれであり、まったく演出や演技を感じない。まるでドキュメント風。そんな中にあってこのインタビューが後半に効果を上げてくる。  
 インタビューで浮かび上がってくるのは同じ事象について男女の考え、印象の違いである。三島由紀夫「潮騒」のラストが脳裏によぎり、「お散歩」は松田監督の男女論、恋愛論なのかと、このまま映画が淡々としたお散歩風景とインタビューだけに始終してもいいかなと思いなおしていた。
 中盤でちょっとした衝撃が生まれる。女を探しに男が自転車で駆けずり回るのだ。すぐに見つかってなーんだってことになるのだが、これでこの映画はもしかして〈なことからふたりが喧嘩しはじめて、その内容にニヤニヤしながら若い頃の苦い経験を思い出していセックス〉そのものをテーマにしているのかと考えた。これまでの淡々さは前戯で、ふたりのすれ違いが挿入、突然のサスペンスは射精……  
 とはいえ、上映時間はまだまだ残っている。どうやってこの映画に決着をつけるのか? 固唾を飲んで見守っていると(もう松田監督の手の内はまっているのね)、ほんの些細た。女の論理、感情、男の反応。いやはや、まったくこういう展開にもっていくわけか。
 男の場合、一度でも恋愛したことがあるのなら、女のこういう態度、表情に振り回されたことがあるだろう。男女の普遍的な関係。
 特筆すべきなのは、この一連の流れが冒頭の散歩風景同様にまったく作為的なものを感じないこと。だからこそ余計にこのクライマックスがこちらの胸に響いてくる。
 ふたりの役者の素晴らしさをまずあげたい。
 男(鍋山晋一)はつぶやきシローをかっこよくした感じ。インタビューに答えていくうちに、単細胞なのだけど、その気持ち、わかる! という風に徐々に共感していく。恋の成就を応援したくなる。
 女(村田牧子)はELTの女性ヴォーカル的なマスク。男に比べてもっと冷静的で客観的にものをとらえる。散歩時の帽子姿がかわいい。
 カメラワークも自己主張している。撮影は「ハズしちまった日。」の監督・飯野歩。映像自体、銀残しといわれる手法みたいなやさしいタッチでこれまた効果をあげていた。全編にわたる手持ちカメラによる揺れも心地よい。
 平成の姫田真佐久、仙元誠三。堤幸彦監督の名パートナー唐沢悟の向うをはるカメラマンでもあるのだな、飯野監督。
山下敦弘監督「リアリズムの宿」がインディーズ映画の一つの方向性としてあるのではと思っていたが、さすが松田監督、その線でも見事な傑作をものにしてしまった。


 「ガソリンゼロ」 下妻物語に勝るとも劣らない青春映画の傑作!

 驚愕の疾走映像と息つかせない展開で観客を圧倒した「ハズしちまった日。」。衝撃的な映画で数々のインディーズムービーコンクールを総なめにした飯野歩監督の待ちに待った新作の上映会が佐倉で開催された。
 予告編は朝めし前プロジェクト主催の〈作家の全貌〉シリーズで何度も流れていた。にもかかわらず完成の情報がなかなか伝わってこない。撮影は終了しているのに、編集で暗礁に乗り上げているなんてことも伝えられていた。前作が単なるフロックでない、映像作家としての真価を問われる2作めなのだから相当のプレッシャーを感じていたのだろう。
 完成を危ぶむ声もなくはなかったが僕自身はまったく心配していなかった。予告編は構図やタッチが完璧だったし、編集中にカメラマンとして参加した「お散歩」(松田彰監督)ではずばぬけた飯野イズムあふれるカメラワークを披露していたのだから。
 とにかく飯野監督が新作で何を〈魅〉せてくれるか。「ハズしちまった日。」の疾走感覚の単なる焼き直しでは意味がない。期待はそこにあった。
 主演は「ハズしちまった日。」でちんけなスリを好演した山崎吉範。一人前の社会人になれず仕事や生きがいについてあれこれ思い悩むフリーター、等身大の青年役だ。時間があれば道路脇の空地で愛車の原付バイクを駆って半径数メートルの円を描くようにクルクルまわるのを日課としている。何を考えているのか? 何に悩んでいるのか? 何も考えていないのか? 奥に見える「この先行き止まり」の看板が彼の心情を代弁しているかのようだ。クルクルした後はガソリンスタンドに立ち寄って100円ぼっきりの給油をしてもらう。嫌な顔せず接客してくれる女店員の笑顔だけに癒される毎日なのだ。
 彼のバイト先であるDPE店に決死のまなじりで訪れた女子高生がもう一人の主人公。演ずるは水野由加里。三原順子と加藤夏希を足したようなマスク。思いつめた鋭い目つきがこちらの心を射抜く。誰かに対する怒りだろうか、憤怒のエネルギーを内に秘め仁王立ちするポーズが決まっていた。
 彼女が店内の品物を万引きして脱兎のごとく逃げ出し、青年があわてて追いかけてゆくことから話が転がっていく。
 閉塞した現状から脱出したいフリーターと女子高生。年齢も生活環境も違うふたりのヘンな出会いと奇妙なふれあい。特に腹を割って話したわけではない、本当にお互いの気持ちを理解しあえたのかどうかもあやしい。しかしこのほんのちょっとした交流が互いに影響しあって、それぞれの力、それぞれの方法で心にうずまいていた靄を吹っ切り、明日への活力を得るという青春映画。
 ミレニアムセンター佐倉の大スクリーンで観るシネスコサイズの「ガソリンゼロ」は映像的にもストーリー的にも堂々としたものだった。インディーズ映画の枠を超越していた。このままどこかのシネコンにかけても遜色ない。
 何より画で見せる語り口に感心した。余計な説明台詞がない。あくまでも目で見えるもの、映像の積み重ねで主人公たちの心情を描写するから、観客として彼らの行動がごく自然に感じられる。シナリオと演出と演技が見事にシンクロしていた。一箇所だけ、ちょっとそれベタすぎないかと思ったところがあったが、それもクライマックスに通じる伏線で大いに納得した。
 テーマに直結したタイトル、その意味付け。なるほどと感心していると、タイトルを成り立たせている原付バイクをフル活用して主人公の感情の高まりを観客に投げかけてくる。その高揚感と爽快感。まさしくこれは映画の醍醐味ではないか。
 今年(2004年)の日本映画ベストワン(だと僕が考えている)「下妻物語」に勝るとも劣らない青春映画の傑作が誕生した。




 9日(金)、「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」出版記念と銘打って、「新井啓介〈昔撮ったキネマ〉蔵出し上映会Ⅱ」を開催した。おかげさまで好評で、「楽しかった」との感想をいただいている。
 19時に開始して2時間が上映、1時間が歓談(自己紹介)という流れで、予定の22時にぴったり終了した。

 今回、軽食のメインとなった寿司は自腹で用意。会費3,000円(書籍代700円を含む)以上の満足感を与えたいと考えたからだ。実は〆でごった煮汁(白菜、大根、人参、しめじ、なめこ、豆腐、厚揚げ等々の入った味噌汁)もあったのだが、話に夢中になってしまい、出すのを忘れた!

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 プログラム最初の作品「某オープニングビデオ」に続く「1973 バラキの夏」、ミュージッククリップ「今は偽りの季節」、「ミニミニアニメーション」の3作品。
 すべて、00年代前半にインディーズ映画の上映会に足繁く通った賜物である。上映会(懇親会)で知り合った映像作家の皆さんに、未完成のまま眠らせていた学生時代の作品を何とか蘇らせようと、編集をお願いして完成させたからだ。

 インディーズ映画製作の団体との出会いについては、かつてこんな風に書いている。夕景工房にUPしたレビューを「夕景工房 小説と映画のあいだに」に転載した。

     ◇

●僕はこうして朝めし前プロジェクトと出会った

 僕が勤めるゲーム会社では毎年年のはじめに〈初出式〉という恒例行事がある。企画、運営を担当する僕は、21世紀を迎えるにあたって、オープニングにどうしても『2001年宇宙の旅』のテーマ曲として有名なR・シュトラウス「ツラトゥストラはかく語りき」を流したかった。単に曲を流すのも芸がないので、「19世紀は小説、20世紀は映画、21世紀はインターネット+ゲームの時代」という内容の英文を音楽にあわせて加工した映像をでっち上げた。
 
 翌02年は赤字決算が続く会社が今年こそ蘇るという願いを込めて、本社ビルから〈火の鳥〉が宇宙に飛び出す絵コンテを描いた。社内のCGを制作する部署で映像を制作してもらった。出来上がったものは絵コンテのイメージとはかけ離れた、ゲーム画面とシンセサイザー音楽が組み合わさったデジタル感覚あふれる内容だった。これはこれでいい。でも次回(03年)は逆にアナログ感覚の映像にしたいと思った。  
 若手の社員一人ひとりにスポットを当て、スチール構成で会社の一日を描写する。BGMはビー・ジーズ初期のヒット曲「In the morning」。ちゃんとフィルムで撮影したスチールをビデオで撮影して、生の楽器を使用した〈暖かい〉音楽を当てる……なんて要は「小さな恋のメロディ」のオープニングをパクって自分なりの世界を作りたかっただけのこと。
 
 当初社内で制作するつもりが、いろいろわけあって外部に発注することになった。かといって予算はあまりない。そこに登場したのが友人紹介による自主映画出身の棚木和人氏だった。今は東映でカラオケの映像を演出している。アマチュアなら〈お友だち価格〉でお願いできるのにと思いながら、とりあえずお会いし、絵コンテを交えて製作意図を説明するともうその場でカメラマンのスケジュールを押さえる仕事の速さ。日の出を狙った早朝からの撮影も快晴にめぐまれ無事終了。音楽にあわせてカットを積み重ねる編集もお手のもの。こうして構想一年のオープニングビデオは完成したのだった。
 
 そんな棚木氏から自主映画上映会の案内をもらった。短編2編。〈朝めし前プロジェクト〉という棚木氏が参画している製作集団が制作した作品で、そのうちの『武士道/一期一会』に脚本、監督、出演しているという(棚木氏はプロの役者さんでもある)。  
 いくら短編でもSFと時代劇は無理があるのではと観る前は思っていた。どちらも舞台設定に金がかかる。貧弱な設定だともうそれだけで引いてしまう。自主映画の世界ではいかんともしがたい。  
 ところがこれが杞憂、余計なお世話だった。2作品ともこちらの抱いていたイメージをいい意味で裏切る内容なのだ。入場料500円(ということは1本あたり250円)の価値は絶対あると断言できる。アイディアにおいては制作費ウン十倍(?)の『Jam FilmS』の各作品と肩を並べるのではないか。
 
  『ハーレム エイジ』
 人類の大半を死滅させた〈細菌戦争〉後の24世紀、顔面を焼かれるという謎の連続女性殺人事件を追う女性捜査官の活躍を描く人見健太郎監督作品。  
 会場に到着するのが遅れて冒頭の5分を見逃している。一番の見せ場はこの5分に集中しているとのことだが、それでもかなりの面白さだった。ストーリーがどうのというのではなく、そのディティール描写にわくわくした。未来社会の小道具をCG技術を駆使して魅せてくれる。『ウルトラマン』シリーズの新作がまたTVでオンエアされるとして、レギュラー監督の一人になって、この感覚を生かせれば注目されるのに……。川崎郷太監督のテイストを感じる。

 『武士道/一期一会』
 明日の女優を夢見る若い女性(上村愛香)が主人公。ハリウッドでトム・クルーズ主演の時代劇『ラスト・サムライ』が製作されると知って、仲間たちでチームを作り、オーディション用のビデオを作るが、彼女だけが落ちてしまう。ハリウッドに飛び立つ仲間たちを空港で見送る傷心の彼女が遠く離れたメル友とメールのやりとりをしながら元気になっていくという棚木和人監督作品。  
 この中で紹介される2本のオーディション用ビデオが時代劇仕立てとなっている「武士道」と「一期一会」というわけ。  
 ヒロインと見知らぬ相手とのやりとりすべてが画面上にメール文字で表示されるのがユニーク。新種の無声映画とも言える。時代劇には英語のスーパーインポーズがつく。これがほとんど直訳の英文。  
 日本語と訳の英語のギャップに笑いはじけるかというとそうでもなく、ほとんどあり合せの衣装、小道具、セットで作った時代劇そのものがメインになるわけでもなく、でも何となく面白く、不思議世界に引き込まれ、ラストに鮮やかなオチがあって大いに納得させられた。

●『ボンネットバスブルース』のラストは『雨上がる』のそれより数倍よかった!

 朝めし前プロジェクト上映会第2弾。
 『ボンネットバスブルース』はプロジェクトの座長、佐久間孝監督作品。
 佐久間監督は長くカラオケ映像や歌手のプロモーションビデオを撮ってきた方。Vシネマも監督しているという。 
映画への夢絶ちがたく、ゆくゆくは長編映画を企画、制作したい、その前段階として短編映画の自主制作を、と仲間たちとプロジェクトを立ち上げた。それが朝めし前プロジェクトだ。  
 本来なら『ボンネットバスブルース』はプロジェクトのお披露目を兼ねた第一弾の上映会で上映される予定だった。しかし、納得のいく出来ではなかったらしくリテイクとあいなった。再編集と音入れを上映ぎりぎりまで行っていたとか。
 その埋め合わせに急遽制作されたのが『武士道/一期一会』だった。
 ハリウッド映画(トム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』)に出演するために仲間の俳優たちが作ったオーディション用ビデオ2本をちゃんとした劇映画にするべく、後撮の現代劇となかば強引に結びつけて1本の作品にしたのだとか。
あの奇妙な味はそういう事情があったのか。
 その『武士道/一期一会』の監督、棚木氏が『ボンネットバスブルース』の脚本を担当している。   
 妻に離婚を迫られているボンネットバスの運転手と、怪我によって野球生命を絶たれた男の邂逅と共感、再生を描く物語。いま流行りの〈癒し〉がテーマだろうか。  
 朝めし前プロジェクトの映画は、先の2本もそうだったが、事前にイメージしているこちらの想像をいい意味で裏切ってくれる。
この映画も絵ハガキチラシのポスターを見て、実はもっとクサい人情話を予想していた。ところが映画はほとんど台詞のない映像詩といった按配で、特に後半、その映像(夕焼け)の美しさに心洗われる(撮影・松尾誠)。
 台詞が少ない分、主役の運転手(町田政則)と男(村添豊徳)の顔(の表情)がモノを語ってくれる。うまいキャスティングだ。
運転手と男のやりとりはフランス映画『ヘッドライト』を彷彿させた。
……なんて『ヘッドライト』、観たことないんですけどね。
映像、カッティングから受けた印象は〈本格派〉というもの。佐久間監督、フィルムで撮りたかったのではないだろうか。  
 始めにボンネットバスありきの企画だから、仕方ないのかもしれないが、いやだからこそ、ボンネットバスの存在にそれなりの理由付けがほしかったと思う。
 映画ではなぜか運転手の目の前にバスがあって、勝手に運転してしまう展開。これはボンネットバスが走ってもおかしくない状況を考えるべきではないか。ボンネットバス自体が魅力的であるだけに、時代を昭和40年代に設定するなり、ボンネットバスが走る架空の田舎町を舞台にする等の工夫が必要だと思う。
 短編で予算に限りがあるから無理な注文かもしれないけれど。

     ◇

 棚木さんには「1973 バラキの夏」を、人見さんには「ミニミニアニメーション」の編集をお願いした。
 知り合ったときは、二人とも独身、それが今や生涯の伴侶と生活をともにしている。
 立場が逆になってしまった。
 ちなみに人見さんの奥さんは上村愛香さん、棚木さんの奥さんはあの……まあ、いいや。
 

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乾杯の音頭をとっていただいた、フォトジャーナリストの新藤健一さん(左)
締めの挨拶をお願いした、映像ジャーナリストの原渕勝仁さん(右)

新藤さんとは、BC二十世紀のイベント(写真展&トークイベント)で
知り合ったのですが、実は著書を何冊か読んでいるんです。
原渕さんは「ショーケンという孤独」で、ショーケンを密着取材した方
また、「ALFA MUSIC LIVE」のWOWOW放送に併せて、
赤い鳥復活のドキュメンタリーを関係者に依頼されたとか。
実現しませんでしたが。




 「淵に立つ」の詳細な感想も書いていないし、何より「赤々煉恋」のレビューもUPしていない。
 いけない、いけない!

     ◇

10月27日(木)

 「めぐりあい」&「今夜は踊ろう」(シネマヴェラ渋谷)


11月9日(水)

 「キリマンジェロは遠く」(K’Sシネマ)


11月17日(木)

 「シン・ゴジラ」(MOVIX川口)


11月29日(火)

 「ミュージアム」(新宿ピカデリー)


11月30日(水)

 「NET CINEMA FESTIVAL GOLDENEGG」(ユーロスペース)


12月1日(木)

 「湾生回家」(岩波ホール)

 「シン・ゴジラ」(スバル座)


12月5日(月)

 「この世界の片隅に」(楽天地シネマ錦糸町)


12月6日(火)

 「マダム・フローレンス! 夢見るふたり」(MOVIX川口)






 書きたいこと、書かなければいけないこと、いろいろあるのだが、なぜかキーボードを叩く気力がない。

 一つだけ。
 12月1日は映画の日。毎月1日は映画サービスデーで1,100円にて鑑賞できるが、12月は特別で1,000円なのである。
 今年の12月1日は木曜日で仕事が休み。だったら映画のはしごをしようと神保町へ向かった。岩波ホールで「湾生回家」。
 13時30分の回に何とか間に合い、チケットを購入すると、1,400円。えっ、岩波ホールって独自のシステムで割引しているわけ? 
 実は岩波ホールは初めて。少しお高くとまった作品選定にずっと敬遠していたのである。ゆえに、サービスデー料金が独自のシステムであることを知らなかったのだ。
 「湾生回家」は冒頭の「故郷」の歌で涙がでてきた。あとは推して知るべき。
 いい映画だった。

 近くの蕎麦屋で遅めの昼食をとってから、BC二十世紀へ。
 コーヒーを飲みながら、次の映画のための時間調整をしていると、フォトジャーナリストの新藤健一さんが僕を訪ねてきた。本当ならいないわけだが、たまたま居合わせてラッキーだった。新藤さん、週刊金曜日編集部に寄った帰りみたいだ。9日の出版記念イベントについて少し打ち合わせ。

 17時すぎ秋葉原まで歩いて、JRで有楽町へ。
 18時50分からのスバル座「シン・ゴジラ」。7回で打ち止めにしたつもりだったが、スバル座で上映と知って、もう一回いいかと思って。
 1階のチケット売り場を探すがない。2階に移動していた。しばらく行っていない間に改装されていたのだ。
 チケットを購入すると料金は1,100円。なんだよ、スバル座も独自システムか。開場を待っている間、次々とお客さんがやってくる。いつも思うのだが、客層が平成シリーズやミレニアムシリーズではお目にかかったことがないような人たちなのだ。大ヒットとはこういうことなのか。
 最前列真ん中の席で鑑賞。満足。8回めで初めて知ったことがある。あの小池百合子がクレジットされていた。余貴美子演じる防衛大臣は、その化粧からして小池百合子を意識していると感想に書いたが、似ているはずだよ。

 ……結局、1,000円の恩恵は受けられなかった。




 12月2日(金)、シネマDEりんりん今年最後のイベントが開催されます。
 題して【スペシャルゲスト 新藤 風監督の語る 新作映画『島々清しゃ~しまじまかいしゃ』と祖父、新藤兼人】

 以下、シネりんからの案内を転記します。
 もし、興味あれば、足をお運びください。
 飛び入り参加、大歓迎です。

     ▽
 故・新藤兼人さんのお孫さんで映画監督の新藤風(かぜ)さんをゲストにお迎えし、ご自身の11年振りとなる新作『島々清しゃ』(来年1月21日公開/安藤サクラ・伊東蒼主演)の制作裏話や第39回日本アカデミー賞「百円の恋」で最優秀主演女優賞を受賞した安藤サクラさんのことなど、他では聞けない裏話を大いに語って頂きます。

 また、風さんは晩年の新藤兼人監督と同居し、公私ともに氏を支えてきました。間近で見てきた新藤兼人監督は、風さんにとってどんな方だったのでしょう?
 兼人監督の作品や製作スタイル、お人柄などのお話をじっくりと伺いたいと思います。
 聞き手は、おなじみのキネマ旬報元編集長の植草信和さんです。

 トークショーの後は恒例の風監督を囲んでの懇親会です。
 参加者の自己紹介や映画宣伝タイムも設けておりますので是非是非ご参集くださいませ。
 気鋭の監督とともに寒い12月の一夜をホットに過ごしましょう!

 映画『島々清しゃ』とは?
 『島々清しゃ』は、沖縄・慶良間諸島を舞台に、音楽が人々をつなぐひと夏の物語です。人並み外れて音感が鋭敏なため、僅かな音のズレでさえひどく気になり、うまく学校生活を送れずに心を閉ざして毎日を過ごす少女(伊東蒼)。
 一方、唄も踊りも下手で、それを気にして少女と離れて暮らす母親(山田真歩)。コンサートのために島を訪れた女性ヴァイオリニスト(安藤サクラ)。彼女たちが島唄をともに奏でることでやがて心が通じ合い、お互い新たに生きていこうとするまでが丁寧に描かれています。

 『島々清しゃ~しまじまかいしゃ』
 2017年1月21日(土)テアトル新宿他にて全国公開予定
 公式HP 

詳細----------------------------------------------

 12月の楽生會シネマDEりんりん スペシャルゲスト 新藤 風監督
 【新作映画『島々清しゃ~しまじまかいしゃ』と祖父、新藤兼人】

日時:2016年12月2日(金)19:00スタート(18:30オープン) 
 ※12月は土曜日ではなく金曜日に開催なのでお間違いのないように!
   懇親会 20時~22時(中締めは21時)遅刻・早退OKです! 

会費:2500円(男性でアルコールを飲む方)2000円(女性 /学生/アルコールを飲まない男性)
 ※ドリンク、軽食付き。特典映像あり。★差し入れ大歓迎です!

場所:竹林閣 東京都 新宿区 新宿5-14-3 有恒ビル6F
 ※「花園神社」はす向かい、明治通り沿い。有恒ビルの1Fには 「鍵の救急車」があります。
 ※隣には「ホテルサンライト新宿」

<アクセス>
●地下鉄「新宿三丁目駅」の「E1」出口から3分。
●地下鉄「新宿三丁目駅」または「東新宿駅」から徒歩7分。
●JR線・西武新宿線「新宿駅」から徒歩15分。
     △

 新藤兼人監督とは一度だけお話ししたことがある。
 ということで、以下、おまけ。

【おまけ】

2007/08/25

「陸に上った軍艦」(ユーロスペース)

 今年元旦の朝日新聞。市川崑と新藤兼人、両監督による対談を夢中で読んだ。二人合わせて180歳以上。90歳を越えまだ現役の監督なのだから、そのバイタリティにひれ伏してしまう。
 例外はあるけれど総じて映画監督は長寿なのではないか。政治家同様現役のまま天寿をまっとうするイメージがある。昭和世代になると状況は変わってくると思うけれど。

 映画監督・新藤兼人を知ったのはいつだったろう? 
それがはっきりしないのだ。高校時代だったことは確か。本で知ったのだろうか。初めて読んだ著作が「ある映画監督 ―溝口健二と日本映画」だった。関係者へのインタビューだけで構成されたドキュメンタリー映画「ある映画監督の生涯 溝口健二」に興味を持ったから読んだのだが、いまだに映画は観ていない。社会人になってからは「小説田中絹代」を読んでいる。中学生のときに高橋竹山に興味を持ったことがあり、「竹山ひとり旅」も面白そうだった。TVで観た「鬼婆」の衝撃が忘れられない。

 一度だけ新藤氏と話をしたことがある。
 大学を卒業して、希望の映像業界に就職できなかった僕は就職浪人の道をとった。シナリオの勉強を親に対する口実にした。別にシナリオライターになるつもりはなかったが、一度きちんと勉強したい気持ちはあった。再開されたシナリオ講座の第一期生として半年間高田馬場の教室に通った。学長が新藤氏だった。
 学長の講義があった日、帰りの山手線で偶然一緒になった。向かいの席に姿を見つけ、黙礼すると、「こっちにいらっしゃい」手まねきしてくれた。信じられなかった。自分で授業料を捻出したものだから、授業もしっかり学ぼうと、いつも一番前の真ん中に座っていた。だから顔を覚えていたのだろう。緊張しながら隣に移動した。高田馬場から恵比寿まで。至福のときだった。何話したのか覚えていないけれど。

 新藤監督が戦争の証言者として主演する映画「陸に上った軍艦」を観た。
 「陸に上がった軍艦」。〈陸〉は〈おか〉と読む。

 太平洋末期(終戦の前年)に新藤氏は召集され、海軍の二等兵となった。当時32歳。新進シナリオライターとして「さあ、これから」というときだった。30歳過ぎてからの召集がはずいぶんと遅いが、この時期、兵隊が不足していたのだろう。どういうことになるか。上司(兵長)が年下になる。20代前半の若者が30代男を相手に徹底的な軍隊教育を施すのである。その内容がドラマで再現されるわけだが、悲惨、過酷を通り越してまさに喜劇だ。

 軍隊に体罰は当たり前。びんたや海軍精神注入棒等、現場での体罰はまだしも、休日、久しぶりに持った家族の団欒にまでも暴力が及ぶのではたまらない。公園で家族と昼食を楽しんでいて、前を通り過ぎようとした上官(?)に気づかない。
「挨拶(敬礼)しないとは何事か!」
 彼は女房、子の前で、しこたま殴られ蹴られるのだった。
 海軍は陸軍に比べ、もっときちんとした規律、規範があって、目を覆うような横暴さはないと思っていたが、勘違いだったらしい。こうした暴力の日常化は伝統だったのか、それとも戦争の混乱によって生じたものなのか。

 鉄かぶとがなくなったことについても、容疑者を白状させようと拷問する。本人は無実を主張しているにもかかわらず、にだ。それも軍の所有物が3個なくなっただけのこと。銃や爆弾ではない。そこまで神経質になる事件なのか? 犯人をでっちあげなければならない理由はどこにあるのか。
 軍法会議にかけられた彼は無実が証明されまた隊に復帰するが、まるで心ここにあらず、廃人のような状態で毎日を送ることになる。
 敵に後退と見せかけて前進するための、靴を前後逆に履いて行進する訓練。作戦の意味がわからない! 敵戦車との接近戦を想定した板で作られた戦車を相手にした訓練。チームを二手に分け、戦車を綱引きよろしく引っ張るAチーム、それに向かって走り爆弾を放り投げるBチーム。号令でABが入れ替わりながら進められる。底抜け脱線ゲームか!

 こうした隊の上層部の人たちが、8月15日、終戦の報が伝えられるやいなや、姿を消してしまう。部下の報復を恐れてということだが、ならば、自分たちが非道な行為をしていたことは最初からわかっていたことになる。映画の中ではそれほど重きがおかれていなかったが、実はここに一番衝撃を受けた。

 新藤氏の淡々とした証言が効果を上げていた。全編証言だけで構成されたものを観たかったという気持ちもある。

 再現ドラマの出来が悪かったというわけではない。モノクロのドラマはかなりリアリティがあった。軍法会議にかけられた兵士が隊に復帰したときの顔に驚愕。ほんと、ゲッソリしてやつれているのだ。
 ラスト、カラーになった夕焼けが胸にしみた。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。さまざまなイベントを企画、開催していますので、興味あれば一度覗いてみてください。

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