日曜朝の7時30分からのスーパー戦隊シリーズにハマっている。今は仕事の関係でリアルタイムで観られなくなってしまったが。
 以前は平成仮面ライダーシリーズとセットだった。「仮面ライダーカブト」で卒業してからは、8時になるとチャンネルを6に替えて「サンデーモーニング」を見るようになった。

 前作「動物戦隊ジュウオウジャー」はかなり夢中になった。プロットが「未来戦隊タイムレンジャー」に似ていることが要因だろう。僕がスーパー戦隊シリーズを観るきっかけになった番組だ。
 別世界からきた戦隊メンバー4人と現代の青年が知り合い、一緒になって敵と戦うという構図。青年が主役(レッド)になるのだが、メンバー4人のリーダーが女性というところも好みだ。演ずる女優も含めて。

 「ジュウオウジャー」の場合、エンディングのダンスも楽しみだった。
 エンディングのダンスというと、ドラマ「逃げるははじだが役に立つ」が大ブームになったが、もっと前からスーパー戦隊はエンディングで主要キャストがダンス踊ってたもんね。なんて世の逃げ恥ブームを揶揄していたら、その前から東映アニメではやっていたらしい。小学生の娘をもつ友人が教えてくれた。

 「ジュウオウジャー」ロスで始まった「宇宙戦隊キュウレンジャー」は、何から何まで新しかった。何しろメンバーが9人いるのだ。玉に導かれた人物がキュウレンジャーになるということで、ベースは「サイボーグ009」+「八犬伝」か。メンバー9人は人間もいれば、着ぐるみキャラクターもいる。唯一の人間女性は柴咲コウ+中川翔子のような容貌で僕好み。もう一人の女性は着ぐるみキャラクターで、ミニスカートから微かにみえる下着がキュート。
 驚愕したのは、その舞台設定。なんとスペースオペラなのである。数話で地球が舞台になってしまったが、現代の日本ではなく、あくまでも未来だから、ヴィジュアルが斬新。まあ、TV番組の予算は限られているから、出来はしれているが、その志、よし! あっというまにハマってしまった(メンバーは、新たに二人が加わり、野球からサッカーの人数になっている)。

 特出すべきなのはエンディングの歌とダンス。お気に入りになって、実は毎週、このエンディングが楽しみで、番組を観ているといっていい。
 2月から早朝の仕事が入って、すぐに録画視聴となった。忙しくて録画が溜まってしまって、時間があるときに消化していき、先日、やっと最新の回を観た。で、気がついた。ある箇所の振り付けが変わっている!
 この部分は初回から気になっていた。「変なおじさん」ダンスとほとんど同じだったからだ。
 たぶんクレームがあったのだろう。しかし、いつ変わったのか。録画はチェックした後消してしまうので、確認することができない。




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 ブックカフェ二十世紀で始めた特撮トークイベント「小中和哉の特撮夜話」。その第2回の開催が決定した。
 FBからの転載をどうぞ。

     ◇

 5月21日(日)、約1年ぶりに「小中和哉の特撮夜話」の第2回が開催されます。
 ゲストは第一期ウルトラシリーズ(「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」)&「怪奇大作戦」のレギュラー監督(及び脚本)の飯島敏宏氏。
 昭和30年代生まれで第一期ウルトラシリーズに夢中になった人、その後何度も再放送を観つづけていたファンにとって、飯島敏宏という名前には特別の想いがありますね。
 「ウルトラQ」では、都会の道路を走るケムール人が不気味だった「2020年の挑戦」がまず思い出されます。このサブタイル、感慨深くありませんか? 幼少時、未来の象徴だった2020年が3年後というのが驚きです。
 「地底超特急西へ」も忘れがたいですねぇ。近所にM1号に似た子どもがいたんですよ。
 放送第一回の作品「ゴメスを倒せ!!」では脚本を担当しています。
 個人的には「SOS 富士山」が印象深いんです。子どものころ、岩石怪獣ゴルゴスの絵を何度も描いた記憶がありますので。
 飯島監督といったら、何より「ウルトラマン」ですよね。「ウルトラマン」は飯島監督が最初から参加していて、バルタン星人が登場する「侵略者を撃て」、ウルトラマンが植物怪獣グリーンモンスと都心で戦う「ミロガンダの秘密」、ウルトラマンを代表する怪獣(の一つ)ネロンガの雄姿に惚れ惚れする「科特隊出撃せよ」の3本から撮影に入ったんです。
 本邦初の巨大化ヒーローを最初に映像に定着させたのは飯島監督なんです。ウルトラマン生みの親の一人と言われる所以です。
 ウルトラマンファン、特撮ファンの方はぜひ足をお運びください。
 予約開始します。

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 これまた、FBからの転載です。

     ◇

 もうすぐ「キングコング:髑髏島の巨神」が公開されます。レジェンダリー版「キングコング対ゴジラ」につなげるための映画であれば、〈髑髏島の巨神〉ではなく〈髑髏島の魔神〉にしてほしかったと往年の東宝特撮映画ファンとしては思います。
 また、この映画、ウルトラマン(初代)の「怪獣無法地帯」のキングコング版と言えますよね。まだ観てないから断言できないですが。
 
 それはともかく、書籍の方でも、特撮関連本が立て続けて出版されています。そんな書籍の出版を記念してブックカフェ二十世紀では4月28日(金)にトークライブを開催します。

 たとえば、ウルトラマン(シリーズ)ファンでも、世代によって、何をウルトラマン(の世界観)に求めるか、全然違いますからね。
 当日は、ひとつの世代論が展開されるのではないかと思っています。

 特撮ファンは要チェックですよ!

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 先月末から始まった「神田古本まつり」と年末に出版される「まぐまPB⑧ 特撮特集(仮)」の寄稿(執筆と版下作成)で忙殺されていた。古本まつりが終わると、版下作成に集中した。本当は10月末が締め切りなのだが、完全版下なので10日延長してもらった。
 そこに、この本を販売するコミケ会場にある方がゲストで来てもらえるかもしれないことが判明。あわてて追加の原稿(版下)を執筆(作成)した。「シン・ゴジラ」の原稿はブログ更新と同時進行だ。14日までに納品しますからとまたまた延長してもらい、なんとか15日の午前中に送付することができた。
 ということで、この期間書けなかったことを順々に。

          * * *

 先月、ちょうど「神田古本まつり」の初日(28日)、BC二十世紀でトークイベントがあった。ピンク映画の監督生活20周年を記念した吉行由美さんのトークライブ。聞き手は切通理作さん。お客さんに白石さんと呼ばれる方がいて、話の内容で吉行さんの自主映画のスタッフ(出演者とのこと)らしいということがわかった。

 懇親会で切通さんとも知り合いだとわかり、ピンときて訊いてみた。
「もしかして白石さんって、白石雅彦さんですか?」
 そうです、と言われて、「わぁ!」となった。
 白石さんの「円谷一 ウルトラQと“テレビ映画”の時代」『飯島敏宏 「ウルトラマン」から「金曜日の妻たちへ」』、「ウルトラQの誕生」(すべて双葉社)、皆即購入している。

 「まぐまEX 怪獣文化とウルトラマン」に寄稿したものの一つに「特撮極楽読書録」がある。
 HP「夕景工房」に掲載した特撮及び特撮関連本のレビューを集めたものだが、この中にどうしても載せたくて、あわてて書いたのが以下の文章だ。

     ◇

 「円谷一 ウルトラQと“テレビ映画”の時代」(白石雅彦/双葉社)

 書店で見つけたときは歓喜して、すぐ手に取りレジへと急いだ。
 円谷一の初の本格的評伝とオビにある。確かにそうかもしれない。しかし、金城哲夫がそうであったように、ファンタスティックコレクションを始めとするウルトラシリーズを総括したムックや第一期シリーズの関係者によって上梓された書籍等によって、円谷一の「ウルトラQ」以降の半生や功績については十分刷り込まれてしまったような感覚になっている。  
 今さら、「ウルトラQ」の番組がどのように企画され、そこに円谷一がどのようにかかわってきたかということには関心はない。
 ではなぜ歓喜したかというと、〈テレビ映画の時代〉という言葉に反応したのである。
 かつて、TVには、16mmフィルムで撮影される〈テレビ映画〉というジャンルが存在した。特撮もの、刑事もの、時代劇等はすべてテレビ映画だった。フィルム独特の陰影や奥行きのある映像に夢中になった。
 当時、ビデオ収録のドラマは〈スタジオドラマ〉といって、バカにしていたところがある。あまりに鮮明で、極端に薄っぺらな画面がどうにも好きになれなかった。
 時代劇であるにもかかわらずビデオ収録の大河ドラマにはいつも違和感を憶えたものである。スタジオはビデオテープ、ロケはフィルムといった使い分けしているドラマなんて問題外。まったく世界観が違うのだから。それを良しとするスタッフの気が知れなかった。
 テレビ映画が、日本においてどのように生まれ発達していったか。その過程を綿密な調査によって綴ったのが本書である。
 何よりうれしかったのが、1962年に芸術祭文部大臣賞を受賞した円谷一演出の「煙の王様」に対する言及である。その成り立ち、スタッフ・キャスト、ストーリー紹介。
 特撮好き、ウルトラ好きに限らず、TV映画に影響を受けた者は絶対読むべき一冊、だと思う。(2006/7)

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白石雅彦/双葉社



 その6から続く

 特撮に目を瞠った。
 本当の街に巨大な怪獣が出現した。それもまっ昼間だ。CGだから、デジタルだからと言うのは簡単だが、たぶん一部はミニチュア撮影もあるのだろう。鎌倉に上陸したときの瓦の描写。しびれた。
 こちらに向かってくるゴジラを移動カメラで捉えたショット。「ガメラ2 レギオン逆襲」の応用だが、ゴジラの巨大さを的確に表現していた。
 自衛隊(ヘリ、戦車等)の対ゴジラ戦のなんというリアル感。ゴジラが通常の兵器にびくともしない様子が見事に描かれている。
 そして、『ゴジラ』のオマージュでもある、夜の大都会を炎で焼き尽くすシークエンス。これまでのゴジラのイメージを打ち破るショットの数々。
 ゴジラの口が横に開くのは、アメリカ映画のクリーチャーを意識してのことだと思う。
 口から吐く白熱光のイメージも大胆だ。口からだけでなく背中からもいく筋ものの光線が飛び出す。
 その圧倒的な映像に涙がでてきた。
 たぶんに音楽の影響があると思う。僕が勝手に「ゴジラ 憎しみと怒りのアリア」と名づけた曲だ。
 蒲田の街を蹂躙するシーンに流れた曲も素晴らしい。これは購入したサントラCDを聴いてからわかったことだが、弦楽四重奏で同じ旋律をチェロ、ビオラ、第二ヴァイオリン、第一ヴァイオリンと順に弾いていくところなんてゾクゾクしてしまう。
 とにかく鷺巣詩郎の音楽が特筆できるのだ。
 だからこそ、この映画では伊福部昭の音楽を使ってもらいたくなかった。もう完全に過去のゴジラとの関係が切れたのだから。まあ、大方のゴジラファンには同意してもらえないだろうけれど。
 特撮は、ギャレス版『GODZILLA ゴジラ』と比較しても、まるで遜色なかった。ドラマは凌駕してるわけだから、そりゃ3回以上劇場に足を運びたくなるさ。

 劇場鑑賞3回目から、一番の楽しみはヤシオリ作戦のシークエンスになった。作戦開始が宣言されると、「宇宙大戦争」のマーチに乗って新幹線がゴジラに向かって走っていき大爆破するショット。まさに〈新幹線大爆破〉!
 伊福部昭の音楽は使ってほしくなかったと書いた手前、気が引けるのだが、燃えるんだからしょうがない。
 しかし、ここからドラマはマンガになる。
 ヤシオリ作戦の前線基地が科学技術館の屋上。庵野総監督、どこまで『太陽を盗んだ男』が好きなんだ!?
 映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の、第3新東京市が朝を迎えるシーンで『太陽を盗んだ男』の音楽(「YAMASHITA」)が効果的に流用されている。見事に映像に合致していたのだから何も知らなければこのシーン用に作られたオリジナル曲だと思うだろう。
 『太陽を盗んだ男』は中盤まで実にリアルに進展する。ところが警察の手に渡った原爆を主人公が取り戻すところから一気に展開がマンガになってしまうのだ。
 『シン・ゴジラ』も同様の展開になっていて、ヒロインにまるでリアリティがないところも似ている。まあ、石原さとみ演じるカヨコ・アン・パタースンは、『新世紀エヴァンゲリオン』(ヱヴァンゲリヲン新劇場版)の惣流(式波)アスカ・ラングレーの実写版だと認識しているのだが。
 マンガといって、別に批判しているわけではない。前述したとおりヤシオリ作戦のシークエンスは、特撮も含めて大好きなのだから。何度も観ても興奮できる!
 人間が、科学技術を結集してゴジラを倒す展開、それも非常にアナログな方法に手に汗にぎるのだ。突然のように新兵器が登場したのではしらけてしまう。
 『ゴジラ(84年版)』との違いはいくつも指摘できる。
 旬の俳優(女優)たちがカメオ出演しているが、きちんとドラマに溶け込んでいて嫌味にならない。

 米国との核爆弾をめぐる攻防、主要人物の一人、政治家の赤坂(竹野内豊)が言う「アメリカはもしゴジラがニューヨークに現れたとしても核を使用する」云々とは、「クローバーフィールド/HAKAISHA」のラストを指してるのではないか。あのとき米軍は謎の巨大生物殲滅のためセントラルパークに核爆弾を投下したのだ。
 東京都心への核爆弾投下に猶予を与えることにフランスが同意したのは、エメリッヒ版「GODZILLA」で、イグアナを巨大化させた核実験を断行した国にされてしまったことに対する意趣返しなのでは?

 観客の感情を高揚させる描写も秀逸だ。
 都心を焼き尽くされて怒り狂う主人公の矢口(長谷川博己)。仲間の政治家(松尾諭)に「まずは君が落ち着け」と諭されて水のペットボトルを手渡す。僕が矢口だったら、水は飲まず頭にかけるか、顔にぶちまけただろう。

 様々な人物が登場するが、まさに適材適所といったキャスティングだ。
 特に印象的だったのが、巨災対メンバーの高橋一生、市川実日子、塚本晋也。そして、内閣総理大臣臨時代理の平泉成。前述の松尾諭を含めて助演賞ものだ。
 紅一点の大臣、余貴美子はもろ小池百合子のイメージだ。化粧の仕方といい、ぜったい狙っている。

 これまでのゴジラシリーズ(平成、ミレニアム)はどんなにヒットしたとしても観客は限定されていた。いわゆるジャンル映画であり、対象は往年の特撮ファン、親子でしかなかった。『シン・ゴジラ』の客層はこれまでゴジラシリーズには足を運ばなかった年齢層が目立った。年配の男女、若い女性。一人で観る若い女性もいた。
 デートムービーになったといってもいいだろう。快挙である。
 大ヒットしたからといって、続編なんて期待していない。何やら意味深長なラストカットだったが、何、庵野さんのことだから、何も考えていないのではないか。
 続編を作るなら、別の怪獣映画、特撮映画を企画してくれないだろうか。
 個人的には『MM9』の映画化を期待する。




 その5から続く

 樋口真嗣監督、庵野秀明総監督が発表され、ゴジラの身長がギャレス版ゴジラ(107m)を超える118.5mに設定されたことを知ってうんざりした。なぜゴジラをそこまで巨大にする必要があるのか。そこまでアメリカに対抗するのか。
 後で考え直した。身長118.5mは、初代ゴジラへのオマージュなのではないかと、と。54年版「ゴジラ」に登場するゴジラの身長はもちろん50mだが、品川に上陸したとき、映像上は100mを超えていると「円谷英二の映像世界」の中で実相寺昭雄監督が書いていたような気がする。

 予告編第一弾が劇場で流れるようになって、そのあまりの陳腐さに失望した。(ゴジラが出現して)街を逃げ惑う人たちを描写しているのだが、画が安っぽく感じたのだ。
 ところが予告編第二弾で印象ががらり変った。オリジナルの音楽をバックに激しいカット割りで綴られる群像劇に「これは叙事詩だ!」と膝を打った。

 期待は裏切られなかった。
 総監督が庵野秀明であることから、「エヴァンゲリオン」との類似点を指摘する感想を目にして少し不安を覚えた。主人公もしくはほかの誰かの精神世界を深く追求する内容になっているのかと思ったのだ。実際は構図やカット割りのことだった(一部音楽の流用もある)。
 TVシリーズ「新世紀エヴァンゲリオン」を観たとき、この感覚で怪獣映画ができないものかと願っていたから、うれしくてたまらなかった。長年の願いが実現したのである。快哉を叫ぶのは当然のこと。

 「シン・ゴジラ」は、ある意味84年版「ゴジラ」のリメイク、リボーンといえる。
 ゴジラ(と名づけられた巨大生物)が原発のメタファーであること。ゴジラが日本に上陸し東京を破壊すること。その都市破壊と人間との攻防がクライマックスになっていること、ゴジラが撃退されること。
 すべてのゴジラ映画に目配せしている点でも特筆に値する。(国内のシリーズだけでなくハリウッド版のゴジラ映画に対しても)
 冒頭の、ゴジラの幼体が上陸して進化しながら蒲田の街を破壊し海に戻っていくシークエンスは、もろ54年版「ゴジラ」に則っている。
 その進化を第一期~第四期に区分して、さももっとなことを劇中で解説しているが、なに、庵野さん流のお遊びじゃないのか。

 第一期 昭和ゴジラシリーズ
 第二期 平成ゴジラシリーズ
 第三期 ミレニアム(ゴジラ)シリーズ
 第四期 シン・ゴジラ

 というような。
 考えすぎか。

 冒頭の、プレジャーボートで東京湾に出て行方不明になった博士の名前が牧悟郎。写真は映画監督の岡本喜八。岡本映画の常連俳優だった岸田森は『怪奇大作戦』で牧史郎という人物を演じていた。し(四)の上はご(五)というわけでこれも庵野総監督の遊びだろう(と思っていたら、『ゴジラ(84年版)』で田中健演じる新聞記者の名が牧吾郎だとある人から教えられた)。

 幼体ゴジラが上陸するシーンはまさに東北大震災を思い出させる。進行方向のみ建物が破壊されている様は、ギャレス版『GODZILLA ゴジラ』からのイタダキだろう。あの映画で蘇ったムートーがラスベガスの街を破壊しながら進むショットは初めて見る光景で、まさに〈コロンブスの卵〉だった。

 『ゴジラ』が原水爆実験、太平洋戦争の災禍をバックに構築された怪獣映画だとすれば、『シン・ゴジラ』は、東北大震災、原発問題に真正面から切り込んだ画期的な怪獣映画である。
 会議シーンが長すぎるとの評を耳するが、個人的にはこの会議シーン、閣僚たちのやりとりがとても興味深かった。
 巨大生物の上陸はないと発表するやいなや、易々と上陸されてしまったシークエンスなんて、福島原発が津波で破壊された直後の政府発表の戯画そのもの。
 あのときもこんな風に議論されていたんだろうなとニヤニヤしていた。彼ら、本当に目の前の現実に真摯に対応していたのか否か(〈以下略〉のギャグは笑える)。

 政府御用達の学者3人は、アニメなら西部邁、宮崎駿、大槻義彦のソックリさんになるのではないか。役者でないことはわかるが、どこから連れてきたのだろうと思ったら、皆映画監督なんですね。犬童一心、原一男、緒方明の3氏。犬童監督、原監督の姿を初めて見た。(これも、富野由悠季、宮崎駿、高畑勲を意識してのキャスティングだとのこと。本当に?)

 この項続く




 その4から続く

 東宝がゴジラの新作を製作するというニュースを知ったとき、いくつもの疑問符が頭の中を駆け巡った。ハリウッド映画「GODZILLA ゴジラ」が世界中で大ヒットしたのだ。東宝は何もしなくても著作権料が入ってくる。それもたぶん莫大な。シリーズ化も決まり、次はモスラとキングギドラが登場するという。そんな状況下での新作発表だ。「なぜ、今なのだ?」と思っても当然だろう。
 エメリッヒ監督版が不人気だったとはいえ、直後に公開された「ゴジラ2000ミレニアム」と内容、特撮(VFX)を比較すればその差は歴然としている。ギャレス版は、VFXはもちろんのことドラマも十分面白かった。
 今回だって同じ結果になるのではないか。

 少しばかり逡巡して膝を打った。「そうか、そういうことか」
 もし東宝の新作ゴジラが、初代ゴジラをリメイクするような、つまり現代日本を舞台に、核問題をリアルに捉えたドラマにするのだったら話は違うと思った。
 ハリウッド映画は核に対する認識がとんでもなく甘すぎる。核爆弾なんて通常の兵器より少し威力がある程度の扱いで劇中に登場するのだからたまったものではない。
 別にどうでもいい監督の、その他大勢の作品なら、まあ、いい。特に気にすることもない。夢中で追いかけている監督だとそうはいかない。
 キャメロン監督「トゥルーライズ」、ルーカス製作+スピルバーグ監督「インディー・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」、クリストファー・ノーラン監督「ダークナイト・ライジング」等々。
 ギャレス版「GODZILLA ゴジラ」も同様で、クライマックスで「おい、おい」となった。
 だいたい、過去の核実験をゴジラ撃滅のためとのたまっているのである。

 何だ、お前、「GODZILLA ゴジラ」を高評価しているじゃないか、公開時に3回も観たんだろうが。言っていることが違うではないか!
 僕が「GODZILLA ゴジラ」を評価しているのは、〈東宝チャンピオンまつり〉版ゴジラのハリウッドリボーンと位置づけているからと言えば納得してくれるだろうか。
 日本のゴジラだって、ある時期から核問題がおざなりになって、ヒーロー化したではないか。
 そんなわけで、東宝チャンピオンまつり版のゴジラが最新のVFXで再現された「GODZILLA ゴジラ」の核の扱いがどうであろうが、ゴジラが人類の味方であろうが気にならない。それも、ここが一番重要なのだが、あくまでもアメリカのオリジナルなので、いちいち細かいことに目くじら立てたくない。
 そういえば、エメリッヒ版では、ゴジラを誕生させた要因はフランスの核実験でイグアナが変異してしまうのだ。あくまでもアメリカはゴジラの被害者を装うのだから呆れてしまう。

 だからこそ、日本で核問題に真っ向から取り組んだゴジラを製作することに意味がある。

 この項続く




 その3から続く

 「ゴジラ」のラストでこんなことを考えたのだ。
 芹沢博士(平田昭彦)が、もし、恵美子(河内桃子)とつきあっていたとしたら、恋仲であったとしたら、それでも自分を犠牲にしてオキシジェンデストロイヤ―を使用したのだろうか?
 恵美子は芹沢博士の許嫁だった。たぶん父親の山根博士(志村喬)が決めたことなのだろう。しかし、年頃になった恵美子の前に南海サルページの社員、海の男・尾形(宝田明)が現れた。恵美子は心変わりして尾形とつきあいだす。

 そんな状況下で謎の巨大生物騒動が起こるのだ。
 恵美子と尾形に対する芹沢博士の屈折した感情が描かれているシーンがある。
 映画の前半、大戸島の大災害の調査に赴く一団に恵美子と尾形がいて、芹沢博士が港にふたりを見送りにやってくるのである。
 芹沢博士が研究室を出て人前に現れることは珍しいと言う恵美子に対して、尾形は今生の別れになるからではないかと答える。
 大戸島近辺では船舶の謎の事故が続いている。調査隊の船も同じような事故に巻き込まれないとは限らない。
 このとき、芹沢博士はふたりの死を願っていたのではないか。恵美子が自分を捨て生涯の伴侶として尾形を選んだ罰として。

 思えば、芹沢博士は二度恵美子に裏切られるのだ。
 尾形とつきあいだした恵美子への想い。それが恵美子だけにオキシジェントロイヤーの存在を教えることにつながる。芹沢博士にしてみれば、オキシジェントロイヤーの存在を恵美子と自分の、ふたりだけの秘密にすることが尾形に対する優越感になったのではないか。
 しかしそれすらも叶わなかった。ゴジラの東京襲撃後、恵美子はその秘密を尾形にしゃべり、ゴジラ撃退のためにオキシジェントロイヤーを使用するよう説得しにくるのである。
 芹沢博士の心中を考えると胸が苦しくなる。
 
 映画のラストはゴジラの断末魔が描かれるわけだが、僕自身は芹沢博士に感情移入しておりその死にしみじみしてしまったのだった。
 ゴジラとともに命を絶ったのも、オキシジェントロイヤーが原水爆にかわる兵器になるから、その製造方法を唯一知る自分の存在をこの世から抹殺するというよりも、恋に破れた故の自殺だったのではないかと勘ぐってしまう。まったく個人的な思いだが。
 本多監督には武者小路実篤の「友情」を映画化してほしかったな。

 この項続く


 【参考】

 ミニチュアと着ぐるみによる特撮ではないと、ゴジラではないとの主張をときどき目に、耳にするが、うしおそうじが書いた「夢は大空を駆けめぐる ~恩師・円谷英二伝」を読めば、考えが変わると思う。

     ▽
2002/02/08

 「夢は大空を駆けめぐる ~恩師・円谷英二伝」(うしおそうじ/角川書店)  

 子どもの頃夢中で観ていたTVの特撮(ヒーローもの)番組には3つのブランドがあった。
 御大円谷英二が監修する「ウルトラ(マン)シリーズ」、「快獣ブースカ」の円谷プロダクション。「マグマ大使」のピープロダクション、「悪魔くん」「仮面の忍者赤影」「ジャイアントロボ」の東映。  
 3つのブランドの中でも東映は他のプロとちょっと違ったテイストだった。怪奇、恐怖ドラマに長けていたという印象が強い。「悪魔くん」の水妖怪のエピソードなんてコタツにもぐりこんでみていたんだもの。その系列で「河童の三平」があり「仮面ライダー」に続く。初期の「仮面ライダー」は怪奇色が濃く、そこに興味を抱いたにもかかわらず、主役のケガによる降板、交替によって路線変更し、明朗なアクションヒーローものとして大ブームを呼ぶのである。  

 特撮をメインにしたヒーローものといったらピープロが円谷プロの好敵手だった。1966年には「ウルトラマン」より一歩先んじて「マグマ大使」を放映、円谷プロとともに怪獣ブームを盛り上げた。
 ブームが下火になった71年には円谷プロの「帰ってきたウルトラマン」とともに「宇宙猿人ゴリ」(途中で「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」、「スペクトルマン」と改題)に着手して第二期特撮ブームの先陣を切っている。もちろん「帰ってきたウルトラマン」より先に放映は始まった。  
 ただし、ピープロの特撮技術は円谷プロに比べて稚拙だった。子どもの目にもはっきりその差が感じられた。  
 「マグマ大使」ではミサイルの発射とかマグマの飛行シーンにアニメーションを多用していてずるいと思った。ひどかったのは「宇宙猿人ゴリ」である。その特撮は見るからに貧弱だった。まるで自宅ガレージにセットを組んで撮影したようないかにもな家内制手工業的な作りで、これだったら自分でも作れると思ったものだ(で、6年の時実際に8mm映画で挑戦して……失敗した)。  

 円谷がメジャーレーベルだとしたら、ピープロはマイナーといった感じだろうか。こんなピープロが時々あっといわせる特撮を見せてくれる。「マグマ大使」のアニメーションの導入もある意味大胆といえることなのだが、「宇宙猿人ゴリ」ではストップモーションで撮影された怪獣のエピソードがある。また実物大の怪獣を作ってトレーラーに乗せ撮影のため全国縦断したりする。けっこう実験精神にあふれる会社なのである。  
 ピープロの代表が本書の著者うしおそうじ(鷺巣富雄)である。書店で見つけた時はサブタイトルにびっくりした。うしおそうじが円谷英二の弟子であったとは! 
 あわてて本をつかんでレジに並びそうになったものの考え直した。すでに円谷英二研究家・鈴木和幸による「特撮の神様と呼ばれた男」がでている。いくら弟子が書いたものでも二番煎じの感はぬぐえない。少し様子をみてからでもいいのではないか。  

 1月の忙殺から解放され、久しぶりに会社の帰り羽田図書館に寄ると、本書があった。  
 円谷英二の評伝執筆については遺族からの依頼だとあとがきにある。「特撮の神様と呼ばれた男」と内容が重複することを懸念した結果なのか、円谷英二の出生から映画界入り、カメラマンとしての活躍、「ハワイ・マレー沖海戦」の特殊技術を担当するまでを、映画の誕生、普及と併せて描いている。  
 著者が同じ職場(東宝)で働いていて円谷英二を真近に見ていたのがこの時期までだから、ということもあるのかもしれない。「ゴジラ」製作の前後、その後の東宝特撮黄金時代についてはあまたの書籍があふれていることも要因なのか。  
 その結果による本書の体裁は、円谷英二の評伝の形を借りた日本映画発達史といった趣きが強くなって、資料的にも大変貴重なものになった。 興味深い話が次から次へ出てくる。  

 たとえば「ミーハー」という言葉の語源。当時大人気の蜜豆と林長二郎(後の長谷川一夫)から言われるようになったのだとか。  
 真珠湾攻撃で敵に多大な戦果をあげたのは、極秘に著者も制作に携わった爆撃の教材映画のたまものだという。  
 その特撮の出来が賞賛された有名な「ハワイ・マレー沖海戦」。さぞ海軍の協力が得られたのだろうと思っていた。ところがこれがまったくの逆。突然ハワイ真珠湾攻撃の歴史的大事件を正確に再現したいと要請をしているにもかかわらず海軍省は資料の提供を拒否。「カツドウヤは信用できないから」がその理由。
「そんなに信用できないものになぜ製作を任せるんだ」と怒る山本嘉次郎監督の気持ちはよくわかる。  
 この「ハワイ・マレー沖海戦」製作に関する苦労話は本書の中でも特に読み応えがある。  

 円谷英二の仕事ぶりを見ていた著者だからこそ書ける次の文章に瞠目した。

 円谷英二くらい「特撮」「アニメーション」の融合に熱心で、しかもその仕事に挑戦した技術プロデューサーはいない。

 円谷英二が今も生きていたとしたらCGに対してどのような態度をとるか、これで明らかになった。  

 漫画家でもある著者の描く挿絵のタッチが暖かい。
 二番煎じではないか、なんて一瞬でも考えた自分を恥じている。
     △




 一昨日10月15日(土)は57回めの誕生日。また、「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978‐79」(文芸社)の発売日。単なる偶然だが。

 57歳。
 50代の大台になってからあっという間だった。56歳までの3年間を無為に過ごしてしまったので、還暦を迎えるまでの3年間は納得のいくものにしたい。

 そんな記念すべき日、仕事を19時に終えてから下北沢へ。
 偶数月恒例の立川談四楼独演会。第208回。北澤八幡神社の参集殿に到着するとゲストのグレート義太夫さんのステージ(?)が始まっていた。最初から見たかったなぁ。
 師匠の2席めは「松勘づつみ」。井上新五郎正隆さんという落語作家が書いた新作落語で今日がネタおろし。これを観たいがために足を運んだのだ。今の時代にぴったりの新古典落語になっている。

 終演後、懇親会でいつもの仲間と大騒ぎしていると、携帯が鳴った。きくち英一さんだった。
「今、下北沢駅につきました。これから行っても間に合わないので」
 5日(水)、一緒に(特撮仲間のSさん含む)小中和哉監督の「赤々煉恋」を鑑賞、N氏のスナックで呑んだ。そのとき、15日の独演会に行きますと伝えていたので、もしかしたら会場にいらっしゃるかもしれないと客席を探したのだ。
「わかりました、懇親会も終わりますので、どこかで合流しましょう」
「じゃあ、あの店で」

 というわけで、前回に引き続ききくちさん行けつけの店で二人で呑む。
 話題はN氏のスナックで差し上げた「僕たちの赤い鳥ものがたり」。
「ね、きくちさん、言ったでしょう、私の第一志望が日大・芸術学部だって。もし入っていたら、きくちさんの後輩になっていたんですよ」
「この本の中に『ピンクレディーの活動大写真』の話がでてくるでしょう、あの映画に私、出ているんですよ」
「本当ですか?!」
「『野生の証明』にも出ているんだよ」
「!!」

 以前にも書いたことだが、小学6年のときに「帰ってきたウルトラマン」が放送された。生まれて初めてファンレターをだしたのが帰ってきたウルトラマンのスーツアクター、きくち(当時は菊池英一)さんだった。
 そのころ、きくちさんは経堂に住んでいて、〈世田谷区ウルトラマン様〉の宛名でファンレターが届いたそうだ。
 几帳面で真面目なきくちさんはファンレターの差出人と住所を一つひとつノートに記入していた。
 BC二十世紀できくちさんゲストの特撮イベントを開催し、その宣伝を兼ねた写真展をおこなった。そのセッティングできくちさんが来店されたとき、記入されているノートをみせてもらった。
 新井啓介、群馬県太田市熊野町32-3
 感激したのは言うまでもない。

 ファンレターの返信は、出してからすいぶん経ってからきた。返事なんてくることを予想していなかったら驚いた。
 ウルトラマンの飛び人形を抱えたきくちさん、ムルチと格闘するウルトラマン、それぞれの写真にサインがあって、便せんに直筆で僕の質問に対する回答が書かれていた。
 これも書いたことだが、なぜファンレターを出したかというと、3クールめあたりからウルトラマンの造形がおかしくなっていたからだった。チャック隠しのヒレが極端に大きくなって首のあたりでヨレている。これが嫌でイヤで。みっともないから何とかしてくださいとお願いしたのだ。まあ、演じる方に言っても仕方ないののだけれど。
 それから、当時8㎜映画で怪獣映画を撮ろうとして怪獣の着ぐるみ(当時はぬいぐるみと言った)作りに失敗したこともあって、「怪獣の作り方」を教えてくださいとも書いた。
 写真は郷里の家にアルバムに貼って保存しているが、手紙の方はどこかにいってしまった。

「『怪獣使いと少年』って差別をテーマにした異色作ということでしか語られていませんが、特撮もかなり凝っているんですよね」
「ムルチとウルトラマンの闘いを1シーン1カットで撮ったのは、私のアイディアなんだよね」「だからレールをスタジオいっぱいに敷いて、それでも足らなかったんだけど、ガスタンクを丈夫に作ってもらって」
「普通だったら、あのタンク、ウルトラマンが乗ったときに爆発炎上して壊れますもんね」
「リハーサルを入念におこなって、さあというときになったら、雨を降らすということになって」
「えっ! あの雨は予定になかったんですか?」
「そうだよ」
 雨の中のバトルも、1シーン1カット撮影も当時の特撮番組では斬新な試みだったといえよう。
 1カットで撮影したから撮影が短時間で終了して、スタッフに喜ばれた、とは「特撮夜話」で披露してお客さんの笑いを誘っていたっけ。
 そういう意味合いからも「怪獣使いと少年」が語られてほしいと切に願う。

 今日が本の発売日で、誕生日だと言うと、きくちさんが「そうなの」と驚き、それからマスターに「あれを」と注文した。出てきたのは「キムチ納豆腐」。きくちさん考案のメニューだそうだ。この店にはきくちさん考案のメニューがいくつかあるとのこと。
 「キムチ納豆腐」は玉子焼きに納得が入っているというシンプルなもの。きくちさんはでてきた「キムチ納豆腐」に、ケチャップで♡マークを書き込む。
「はい、誕生日のプレゼント」
 きゃぁ! う、うれしい。


161015_2240~01
ありがとうございます
忘れられない日になりました




 その2から続く

 ゴジラシリーズの第一弾、「ゴジラ」が公開されたのは1954年(昭和29年)。僕が生まれる5年前だ。当然のことだが、当時の情況は後年書籍等で知った。

 よく語られるのは、公開時はゲテモノ映画として評論家筋の受けが悪かったということ。識者の中で唯一この水爆大怪獣映画を評価したのは小説家の三島由紀夫だった。曰く「原水爆の恐怖がよく出ていて」「文明批判の力を持っている」(ウィキペディア)。

 評論家の受けは悪かったが、映画は大ヒットした。劇場はとんでもない混雑ぶりだったらしい。
 当時の人たちは「ゴジラ」の何に期待して観に劇場に足を運んだのだろうか?

 「ゴジラ」公開時のことを記した文章で、「ゴジラ」を観た人が「ゴジラがかわいそう」「なぜゴジラが殺されなければならないのか」といったゴジラに感情移入してしまう感想を述べている。
 一人、二人ではない。皆がそう語るのである。

 眉唾ものと思ってしまう。どうしても信じられない。

 水爆大怪獣映画と喧伝されているのである。多くの人は、巨大生物が東京を襲う、そんな破天荒な物語、これまで見たことがないヴィジュアルに惹かれて劇場に足を運んだに違いない。
 その期待には応えてくれた。しかし、ゲテモノ映画と識者に言われているのである。マスコミ(新聞、雑誌)のインタビューに対して単純に面白かった! 特撮に迫力あった! ではちょっと恥ずかしい。映画の感想としてはもう少し格を持たせたい。理由づけがほしい。そこで三島由紀夫の批評である。原水爆の恐怖、文明批評。そこを強調しておきたい。ゴジラも原水爆実験の被害者、ゴジラに感情移入した……

 その昔、「エマニエル夫人」を観に多くの女性たちが劇場に足を運んだ。彼女たちの感想が皆一緒だった。「映像がとても美しい」
 嘘でぇ、シルビア・クリスティルの奔放なセックスが目当てだったのだろうが! エロシーンを観たかったんだろう? でもそんな本音は言えないから建前を述べてしまう。実際、映像はとても素晴らしいものだったから。

 この傾向は特撮のTVシリーズ、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」を語るときにも見受けられる。
 「ウルトラマン」(「故郷は地球」)、「ウルトラセブン」(「超兵器R1号」「ノンマルトの使者」)、「帰ってきたウルトラマン」(「怪獣使いと少年」)と、社会的な問題をテーマにしたエピソードを紹介し、どれだけ作品に深みがあるかを強調する。
 確かに高名な文学者に〈破壊者ウルトラマン〉などと批判されたら、その手のエピソードを持ち出して反論したくなるけれど。

 小学生のときに初めて「ゴジラ」を観たとき、僕もラストでしみじみとなってしまった。しかしそのしみじみ感は果たしてゴジラへの感情移入だったのか。上記の感想は、自分の感情と同じものなのか、否か。

 大人になって再見してわかった。ラストの感情は芹沢博士の死に対してのものだったのだ。この文章を書く前にもう一度DVDを観て確認した。印象は変わらなかった。

 ゴジラは原水爆の放射能を浴びているにもかかわらず生きている。その生命の神秘を解明するためにも抹殺していけない。そう主張するのは山根博士(志村喬)だが、映画が進行するにつれてそれが難しいことがわかってくる。
 イグアナが巨大化しただけの生物だったらそれも可能だろう。しかし相手は巨大なだけでなく口から白熱光(放射能)を吐くのである。こんな生物をどう飼育するというのだ。どう研究するというのか。
 主人公の尾形(宝田明)は、ゴジラを抹殺すべきだと主張し、山根博士と対立する。このときも主人公の言い分の方が理にかなっていると思えた。以降、山根博士は孤立してしまうのだ。

 ギャレス版「GODZILLA ゴジラ」が公開される前、「ゴジラ」のデジタルリマスター版が一部の劇場で上映された。僕は日時が合わなくて劇場で押さえられなかったのだが、これを観たある方がラストで新たな発見をして驚いたと言っていた。
 山根博士がラストでつぶやく有名なセリフ「これが最後のゴジラとは思えない、人類が核実験を続ける限り再びゴジラが現れるだろう」。このセリフのあと、後方の、オキシジェンデストロイヤー作戦(?)に従事している男が、博士の言葉に耳をかたむけずそっけなくその場を離れてしまうというのだ。
「山根博士ってまったく相手にされていないんだよな」

 ゴジラにはどんな武器も通じない。一つだけ望みがあった。芹沢博士が発明したオキシジェンデストロイヤーである。水中の酸素を破壊するオキシジェンデストロイヤーならばゴジラを抹殺することができる。尾形とヒロインの恵美子(河内桃子)が、その使用の許可を得ようと芹沢博士を説得するが首を縦に振らない。これが公になれば、世界の為政者が原水爆に代わる兵器として利用するようになるというのが芹沢博士の理屈だ。
 芹沢博士はふたりにこう反駁する。
「もしもいったんこのオキシジェン・デストロイヤーを使ったら最後、世界の為政者たちが黙って見ているはずがないんだ。必ずこれを武器として使用するに決まっている。原爆対原爆、水爆対水爆、そのうえさらにこの新しい恐怖の武器を人類の上に加えることは、科学者として、いや、一個の人間として許すわけにはいかない」

 しかし最終的にはふたりの願いを聞き入れて、すべての研究データを消去したうえ、自分の生命と引き換えにゴジラを葬りさる。
 芹沢博士の葛藤、心情にくるものがあったのだ。

 今回DVDを見直して僕自身も気がついたことがあった。
 気づいたというか、ラスト、こんなことを考えたのだ。
 芹沢博士が、もし、恵美子とつきあっていたら、恋仲であったらそれでも自分を犠牲にしてオキシジェンデストロイヤ―を使用したのだろうか?

 この項続く




 昨日(25日 木曜日)は休みの日。
 休日の朝は近くのジョナサンへ。モーニングセットを注文し、ドリンクバーの1杯めは野菜と果実のミックスジュース。スクランブルエッグセットがくるとジュースを飲み干しカフェラテを取りに行く。
 このジョナサンへは、ふた昔ほど前、日曜日になると親子3人でよく来た。まだ娘が幼かったときだ。自宅からは少し距離があるから自転車で。サラダバーが目当てだった。今、サラダバーはなくなりドリンクバーになっている。
 今はひとり。
 昨日(24日)は娘の28回めの誕生だったんだなと思い,少し感傷に浸りながら食事した次第。

 銀行で給料をおろし、家賃の支払い。その後床屋へ。髭をあたってもらう。
 奮発して自転車を購入。もうボロボロだったので。

 午後は地元シネコンで「シン・ゴジラ」鑑賞。4回めである。「ジャージー・ボーイズ」、「GODZILLA ゴジラ」、「アメリカン・スナイパー」と3回鑑賞はあるが、4回は初めてだ。新記録達成!
 サントラも買って毎日聴いている。

 追伸
 23日(火)は「ジャングル・ブック」を丸の内ピカデリーで鑑賞。
 「EYEMASK&まぐま展」が赤坂のアートトラスト彩ギャラリーで開催していて、久しぶりにまぐま発行人Kさんに会ってあれこれ語り合ったあとのこと。
 「ターザン:RBORN」より面白かった。

          * * *

 その2から続く

 世の中にはゴジラ原理主義者というべきファンがいる。本多・円谷監督作品を絶対とし、特に第1作の「ゴジラ」を金科玉条のものとしている。

 一つはそのテーマ性。ゴジラもまた原水爆実験の被害者であるというテーマがラスト近くで浮彫りにされることで、1954年に公開された第一作は映画史にその名を残すことになったと特別視している。
 もう一つは円谷英二の特撮技術に対する絶対視。
 スーツゴジラ、ミニチュアセット、ピアノ線による吊り等、日本独自の技術だからこそゴジラであると主張する。

 僕自身、少年時代に本多監督・円谷特技監督作品に巡り合いその素晴らしさを実感している。製作・田中友幸、特技監督・円谷英二、監督・本多猪四郎、というトリオ(音楽・伊福部昭を加えてもいい)の作品群。
 とはいえ、ゴジラ映画に関していえば面白いと思ったのは初期の数作だけである。個人的な印象ではあるが。

 僕にとって最高のゴジラ映画は「ゴジラ対モスラ」なのだ。幼少時、親に連れられて最初に映画館で観た怪獣映画ということもある。
 とにかくゴジラが怖かった。その出現シーンに驚愕した。工場地帯に出現したゴジラを遠景で捉えたショットに震えたものだ。この手の光景はこれまで何度も夢で見ている。遠方にゴジラが現れて、逃げるのだけど、やがて追いつかれてしまうというもの。
 子どものときはモスラが好きだったこともあり、TVで観た「モスラ」に大感激した。同じくTVで観た「空の大怪獣ラドン」にも。

 「モスラ対ゴジラ」のあと、やはり映画館で観た「三大怪獣 地球最大の決戦」はキングギドラの魅力によって夢中で観たが、子ども心にがっかりしたことも覚えている。
 「モスラ対ゴジラ」で大活躍したモスラの幼虫二匹のうち一匹死んでしまったという事実が小美人から告げられたシーンとモスラが怪獣語でゴジラやラドンを説得するシーンである。なんだか「モスラ対ゴジラ」の世界が否定されたような気がした。言葉でゴジラと意志の疎通ができるのなら、「モスラ対ゴジラ」のあの闘いは何だったのか。

 次に映画館で観たのが「ゴジラ・モスラ・エビラ 南海の大決闘」。モスラ目当てで観に行ったのに、登場するのはラスト近くになって、がっかりした。小美人がザ・ピーナッツから知らない女性コンビが演じていること、ゴジラが恐怖の怪獣から三枚目に様変わりしていること。
 怪獣映画の醍醐味である都市破壊シーンがないことにも失望した。

 「三大怪獣 地球最大の決戦」の次は「怪獣大戦争」なのだが、これは数年後「怪獣大戦争 キングギドラ対ゴジラ」と改題された東宝チャンピオンまつり版を友人2人と観に行った。
 観終わって愕然とした。何の感慨もわかなかったからだ。
 これまで怪獣映画を観るたびに何かしらの感動があった。その感動が家に帰ってきてから絵になる。一所懸命描いたものだ。「南海の大決闘」でさえそれなりに感じるところはあった。
 「怪獣大戦争」にはまるでなかった。
 理由はいくつか考えられる。完全に「地球最大の決戦」の二番煎じであること。モスラが出演しないこと。前半宇宙を舞台に怪獣が戦うこと。何よりゴジラがシェーをすること。
 映画館を出たあと、近くの友人の家に遊びに行き3人で絵を描いた。
 友人2人は「怪獣大戦争」の、ゴジラ、ラドンがキングギドラと戦うところを描いたが、僕はまるで心に響かない映画の絵を描く気がしなく、ゴジラと幼虫モスラが戦う構図にした。
 大人になってからこの映画の面白さはドラマ部分にあると気がつくのだが、それはまた別の話。

 「ゴジラ」(54年版)は小学3年もしくは4年のとき、TVで観た。確か休日の昼間、NHKで放映されたのだ。ラストにしみじみした以外どんな思いを抱いたのか覚えていない。ああ、これがゴジラの第1作なのか、特撮的にもっとすごいものを期待していたのに、それほどでもなかったというのが率直な感想だったような。
 そんなわけで僕にとってゴジラ映画は怪獣映画の一つでしかない。それほど重きを置いていないのだ。
 「フランケンシュタイン対地底怪獣」「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」「キングコングの逆襲」。これが個人的なベスト3なのである。

 「ゴジラ」(54年版)は成人してから何度か観ている。名画座で押さえたこともある。
 小学生時代の印象を払拭したことはもちろんだが、新たな疑念がでてきた。
 〈ゴジラもまた原水爆実験の被害者である〉という世間一般の、というかこの映画を語るときに必ず語られるテーマについて。

 この項続く




 2年前、ギャレス・エドワーズ監督の「GODZILLA ゴジラ」に夢中になり、劇場で3回観た。同様に「シン・ゴジラ」も3回観ている。エドワーズ監督版との違いは、あと2回は劇場で押さえたいと思っていること。サントラCDの購入を考えていること。DVDが出たら手元に置きたいと願っていること。この3点である。

 僕はどうしてこれほどこの映画に惚れてしまったのか。

 まずは、この映画が54年版「ゴジラ」の呪縛から解き放たれたことに快哉を叫びたい。
 思えば、84年版「ゴジラ」が第1作の「ゴジラ」(1954年)の続編として制作されたことから間違いが始まってしまったのだ。

 ゴジラは体長50mの、ジュラ紀に生息した海棲爬虫類から陸上獣類に進化しようとする中間型の生物だった。
 海底深くの洞窟で生活していたところ、アメリカの度重なる水爆実験で生活環境を破壊され、海上に出現するようになった。
 水爆実験(放射能)の影響で白熱光を口から吐いたり背ビレを光らせたりするものの、ゴジラはゴジラという生き物だったのである。

 ところが84年版「ゴジラ」に登場するゴジラ(以降、平成ゴジラ)は、第1作「ゴジラ」のゴジラと同種の生物なのに、体長が80mになっていた。また、放射能を吸収することでエネルギーを得るという生物になっていた。
 「ゴジラvsキングギドラ」において、ゴジラはゴジラザウルスという恐竜が核(放射能)の影響で変異した生物にされてしまった。
 同時に人智を超えた、無敵の神のごとくのような存在になってしまった。
 僕はこの設定に始終違和感を覚えていた。
 もちろん、かつての人気怪獣と新しいランドマークタワーを舞台にバトルを繰り広げるだけの展開にもうんざりしていた。ミニチュア、着ぐるみもろだしの特撮は完全に過去のものになっていた。

 平成ゴジラシリーズが終結し、新たに始まったミレニアムシリーズも、それぞれの作品に関連性はないものの、1954年に日本がゴジラに襲撃されたという事実は共通項としてあった。
 違和感は、この第1作と世界が続いていることなのだ。
 なぜ、東宝は、新時代の新たな、オリジナルのゴジラを創造しないのか?
 それが僕の素朴な疑問だった。
 ウルトラマンも仮面ライダーもガメラも、新しい設定、概念のもと新作が制作されて人気を呼んでいる。ゴジラだけが立ち遅れていると思えてならなかった。

 以下、これまでのレビューに書いていることを挙げてみる。

     ▽
 しかし、それでも新しいものに挑戦するのであれば、せめて過去の伝統や栄光をかなぐり捨てるくらいの勇気を持ってほしい。
 いい加減54年版「ゴジラ」の呪縛から逃れたらどうだ。いくら映画世界をリセットしても原点にいつも「ゴジラ」があっては何かとやりにくかろう。
 伊福部昭の音楽からも開放したい。僕だってどんなにゴジラに伊福部音楽が合致しているかは理解している。しかし今回、お台場に上陸する際に流れた伊福部音楽があまりにぴったりくるから、それまで説得力をもって聞こえていた大島ミチルのそれが貧弱なものなってしまった。
(略)
まったく新しい解釈、設定で現代日本を襲う巨大怪獣ゴジラの恐怖を映画の中の登場人物ととも、特にその巨大さに驚愕したいと切に願う。
「ゴジラ2000ミレニアム」
     △

     ▽
 特生自衛隊の設定を生かし、ゴジラと自衛隊の攻防を真正面にすえ、そこに人間ドラマを盛り込むハードでリアリティあふれる(そしてそれは54年のゴジラとは解き放たれた)展開の映画を観たい。手塚監督にぜひ挑戦してもらいたいものだ。
「ゴジラ×メカゴジラ」
     △

     ▽
「『×メカゴジラ』を観て、オレが今ゴジラ映画に何を求めているかよくわかったんだ」
「と言うと?」
「初めてこの世にゴジラが出現したってことで、その出現から撃退されるまでの物語。要は自衛隊とゴジラの攻防だね。『×メガゴジラ』のオープニングの戦いをもっとハードにしたものといえる」
「面白そうだ」
「ガメラにしろ、ウルトラマンや仮面ライダーにしろ、全く新しい概念で復活して、成功しているよね。ゴジラだけなんだしつこいくらい第一作にこだわっているのは。やはり昔にこだわると何から何まで引きづられるだろう。音楽は伊福部昭じゃなけきゃダメ。ミニチュアと吊りが特撮の基本だとか。でもそうだったら昔の作品を繰り返観ればいいじゃない……この話すると長くなるからやめよう。オレがのぞむゴジラの映画だけど。太平洋でゴジラの生息が認識される。政府は半信半疑。近くの島を壊滅させることで、政府はゴジラ迎撃を決定する。まず海上自衛隊による対ゴジラ作戦。海中と海上での戦い。次に航空自衛隊の空からの攻撃。最初は報道規制が敷かれているんだけど、そのうち、マスコミ各社に気づかれ、スクープを狙うTV局が出てきたりして、ゴジラの姿が公になっていく。でも全身なんてなかなか撮れなくて、小出しに小出しに。ゴジラはどんどん日本に近づきその頃にはもう日本全体が大騒ぎになって、その進行状況からどこに上陸するか、上陸したらどのくらいの被害をだすのか、雑誌やTVで特集されたり。クライマックスは東京に上陸したゴジラと自衛隊の総力戦……。その中で自衛隊員たちの活躍を描くの。群像劇になるのかな。パイロット、艦隊乗組員、戦車隊、さまざま立場の自衛隊員が初めて敵との戦いの中で何を感じ、どう行動して、何を得るのか」
「ゴジラ×メカゴジラ」 2回めの鑑賞
     △

 ヴィジュアルについても言及している。

     ▽
 平成ゴジラシリーズが次第に尻すぼみになり、映像・ストーリーともに袋小路状態になって、一旦幕を閉じたのは何年前だったか。
 東宝が版権をアメリカに与えた時、もう二度と日本製のゴジラ映画は製作されないんじゃないか、いや作れないんじゃないかと思った。ハリウッドの巨額な制作費、リアルなSFXで描かれたゴジラを見てしまったら、東宝のミニチュア、ぬいぐるみによる特撮なんて色褪せて見えてしまう。映画、TVで円谷特撮の洗礼を受けている僕ら世代はいいにしても、若い世代は受付けないだろう。
(「ゴジラ2000ミレニアム」)
     △

     ▽
 エメリッヒ監督版「GODZILLA」のすごいところは、ゴジラの巨大さをきちんとスクリーンで見せてくれたことだ。ゴジラという名称に問題があるなら怪獣に置き換えてもいい。セントラルパークの子ゴジラと人間の追いかけっこはもろ「ジュラシック・パーク」のパクリ。あれさえなければ、つまり全編を巨大生物と人間たちの戦いで展開させてくれたら、僕の「GODZILLA」の評価はもっと高かった。ゴジラの冠がなければ十分面白い怪獣映画だと、さんざ吹聴していたのだから。

 ハリウッド映画の特撮(SFX、VFX)映画の伝統として巨大生物(物体)をちゃんと巨大に描くというのがある。「未知との遭遇」「スターウォーズ」あたりから始まったように思う。残念ながら日本映画に欠けている要素だった。平成シリーズではゴジラの巨大さを実感したことがなかった。それがエメリッヒ監督版でもギャレス・エドワーズ監督版でも巨大さは半端なかった。
     △

 これらをすべて実現してくれたのが「シン・ゴジラ」なのである。

 この項続く


 【参考】

今年公開されたハリウッド映画「GODZILLA」を全否定する人たちよ、そんなに日本のゴジラ映画は面白かったですか? 
 その1
 その2
 その3
 その4









 果実師匠へ

 果実さんが「シン・ゴジラ」にピンと来なかったこと、人間ドラマがないと指摘していること、単なるゴジラが日本を襲ったシミュレーションではないかと思うこと、災害ドキュメンタリーでしかない、ゆえにベタなドラマが欲しかったと主張すること。
 
 それでいいではないですか。
 にもかかわらず、なぜ他人の意見でフォローしようとするんですか。自分の感想を正当化しようとするんですか。自分の感想に自信がないんですか?
 大ヒットしているとはいえ、当然、アンチ「シン・ゴジラ」もいるでしょう。
 私自身がなっていた可能性もありますから。
 だから、果実さんの意見に何も申しません。

 ただし、以下の意見には賛同しかねます。
     ▽
 でも一番肝心なメッセージは残しておいて欲しかったかなと。
 だけど果実にとって原点にして頂点は本多&円谷のゴジラです。
     △

 「シン・ゴジラ」にメッセージがなかったんですか?
 本当にそう思うんですか?
 マジで?
 ヴィジュアルに、会話に、展開にあったじゃないですか。
 長谷川博己の怒りに、市川実日子の笑顔に、あなたは何も感じなかったんですか?
 ふーん、そうですか。

 ピーター・ジャクソン監督版「キング・コング」が公開されていたころ、感想を果実さんにお訊きしてところ、「『ジュラシック・パーク』の二番煎じ」と答えました。
 カチンときて、私は反発しました。私が書いたレビューをプリントアウトして後日お渡ししました。
 ジャクソン監督版の斬新さは、ヒロインと巨獣の心のふれあいを描いたところなんです。ギラーミン監督版でもそれは描かれていましたが、所詮は付け焼刃でした。
 ジャクソン版は違いますよ。それがクライマックスの伏線になるんですから。だからこそ私は涙したんですから。
 恐竜が登場するという、ただそれだけで二番煎じなんて言わないでくださいよ。
 もっと映画の根幹を、キモを、本質をわかってください。

 「シン・ゴジラ」、災害ドキュメンタリーでもいいですよ。ドキュメンタリーに涙することもあるんです! 
 詳しくはレビューに書きます。

 27日(土)、シネりんに来てくださいね。
 私、もともと予約していたショーケン・トリビュートライブ、安藤丸男バンドライブをキャンセルして行きますから。テーマは若松孝二監督ですから、赤軍やよど号ですから。足立監督の話題もでるかもしれません。何しろ私がMCですから。

 よろしくお願いいたします。




 切通さんとの出会いは宝島社(当時はJICC出版)のムック(?)だった。「別冊宝島 怪獣学・入門」。やがて単行本になる「怪獣使いと少年」の一部となる論考が掲載されていた。
 単行本は真っ先に買った。「帰ってきたウルトラマン」の異色作、問題作のサブタイトルである「怪獣使いと少年」を書名にしたわけだが、うまいタイトルだと思ったものだ。怪獣使い(シナリオライター)と少年(当時の著者)という意味になるなあ、と。
 以後、本が出るたびに買い求めた。
 ある日、切通さんからメールをいただいた。HP「夕景工房」に掲載している読書レビューを読んだのだろうか。内容は、「山田洋次の世界」の出版を記念してジュンク堂でトークショーを開催するので聴きに来てというものだった。もちろん、聴きに行った。打ち上げにも参加して初めて話をさせてもらった。
 腰の低い人。それが切通さんの印象だ。

 その後、何度か切通さんのトークには足を運んでいる。

 小中和哉監督と知遇を得てから、年に数回仲間と呑み会を開いている。映画を観る会も何度か実施している。小中さんと切通さんが知り合いであることを知ったのは昨年、監督協会の有志で開催したあるイベントだった。切通さんが自主的に手伝っていたのである。

 ブックカフェ二十世紀で開催する特撮イベント。第一弾は小中監督がホストの「特撮夜話」で、これはシリーズ化したいと、小中監督に了承を得た。続いて、お願いしたのは切通さんをホストにしたトークイベントだった。
 昨年、切通さんは「少年宇宙人 ~平成ウルトラマン監督・原田昌樹と映像の職人たち~」を上梓した。本の中で、切通さんは町田政則さんや二家本さんにインタビューしている。この3人による原田昌樹監督の思い出話トークがやりたいと思っていたのだ。

 ということで、来る8月5日(金)、特撮イベントを開催する。

haradakantoku.jpg


     ◇
 
2000/04/11

 「地球はウルトラマンの星」 (切通理作/ソニー・マガジンズ)

 本書が出版されることを知ったのは昨年の2月、新宿ロフトプラスワンの会場だった。
 平成ウルトラマンのスタッフ・キャスト、関係者をゲストに呼んで、繰り広げられたトークショーの席で本人自ら、「ウルトラマンティガ」と「ウルトマンダイナ」の研究書を夏頃発売すると語っていた。
 最近、よほど興味のある(あるいは資料的価値のある)特撮本以外は購入しないことにしているのだけれど、これは聞いたとたん「買いだ!」と思ったものだ。
 「ウルトラマンティガ」を特集した「COMIC BOX」が非常によくできていたし(たぶん著者を中心に執筆、編集されたのだと思う)、何より「怪獣使いと少年」を書いた気鋭の評論家が平成ウルトラマンシリーズをどう分析するか、その切り口は大いに期待できた。
 ところが発売予定の8月、9月になっても店頭に並ぶ気配がない。本についての何の情報も入ってこないし、実際発売されるのかどうかもわからない。
 当初版元予定だったフュージョンプロダクトが何かともめている最中だったので、そのあおりを受けて発売そのものがウヤムヤになってしまうのか、心配したものだ。
(関係ないけど、ずいぶん前に本多猪四郎の評伝を書くと言っていたがどうなったのだろう)

 この3月末にやっと発売になったわけで、なるほどこのボリューム、内容の濃さならばなかなか完成しなかったはずである。
 本書はティガ、ダイナはもちろんガイアも含めた平成ウルトラマンシリーズ3部作の研究書になっていて、主要スタッフ36人へのインタビューで構成されている。(版元もソニー・マガジンズに変更になっていた。)
 グループの共同体制のよる作業ではなく、基本的には一人で各スタッフにインタビューをし、それを単に対談という形で活字化するのでなく、著者自身で咀嚼して原稿化するというまことに気の遠くなるような手順を踏む、本当に労作と言える一冊だ。
 表表紙から裏表紙まで神経が行き届いていてうれしくなる。この感動は初めて第一期ウルトラシリーズを取り上げたファンタスティックコレクションを手にした時によく似ている。
 こういう本を待ち望んでいたのだ。

 通常より小さい活字、おまけに2段組で450弱のページ数という圧倒的なボリュームながら、興味深い話が次々にでてくるから、読むのに苦労しなかった。

 冒頭の著者自身の「総論 ウルトラマン復活の道程」は僕自身の作品に対する気持ちの代弁とも言えるもので、何度か目頭が熱くなった。
 インターネットを閲覧するようになって、わかったことは、(予想していたとはいえ)視聴者(ファン)側にはウルトラマンに対してさまざま見方、感じ方、意見があるということだった。世代の差というのも大いに関係しているのかもしれない。僕がそれほどと思えないエピソードが絶賛されたり、逆に面白いと感じたものがあまり評価されていなかったりと、まさに十人十色。
 ファンがそうなのだから、かつてのファンから製作側に転じたスタッフにしてもウルトラマンへのこだわりが各人それぞれなのは当然と言えるかもしれない。
 だからこそ、バラエティあふれるエピソードで成り立つシリーズができるのだろう。ウルトラマンシリーズの魅力の1つだ。

 いいとか悪いとかの問題ではなく、誰が自分の感性に近いか(ということは、自分にとって誰が面白い作品を作ってくれるか)ということを確かめるのに最適な本という側面もある。
 個人的には作品自体に非常に共感を覚えた監督の川崎郷太、北浦嗣巳、脚本家の長谷川圭一、太田愛、特技監督の満留浩昌の言葉に注目した。
 特にウルトラに関するインタビューはこれが最後になるだろう川崎監督のへのインタビューが貴重だった。過去のウルトラに対しての造詣の深さにかかわらず、マニアックに走るのでなく、ある部分冷めた目を持っているので、内容的にも、映像的にも非常に印象深い作品を撮っている。本人がウルトラは卒業と宣言しているので、今後のシリーズでの活躍がないのは残念。
 が、映画ファン、映像ファンの僕としては川崎監督のウルトラ以外での今後の活躍を信じている。ぜひとも川崎監督にはティガ、ダイナの傑作、異色エピソードを名刺代わりに、映画界、オリジナルビデオの世界に進出し、作品を発表してもらいたいものだ。(ティガ、終了後には引く手あまたになるのではないかと思っていたのであるが……)
 川崎監督とは別の意味で印象深いエピソードを撮った原田監督の演出理論は非常にわかりやすく、うなづくことしきりだった。
 最近ホラー映画がブームになっているが、「女優霊」「リング」「死国」と画面に霊を浮遊させ(と勝手に僕が表現している)、観ている者をゾっとさせる映像テクニックは脚本家・小中千昭の発案だというのを初めて知った。この小中氏のインタビューでは、「ガイア」のナレーション排除について言及していなかったのがちょっと残念だった。
 もちろん他の作家が担当したエピソードの何編かはナレーションを使用しているが、小中氏自身の作品には一切使用されていない。ウルトラ(マン)シリーズはナレーションそのものも一つの魅力(売り)だった。そのナレーションを排除して、映像で物語を語る姿勢というのもシリーズ構成を担当した小中氏の挑戦だったのではないかと僕は思っているのだが。
 平成ウルトラマン立ち上げの立役者・笈川プロデューサーの話にでてくる現場スタッフとの軋轢は作品は人がつくるものだという認識を新たにする。スポンサー、局と現場サイドをつなぐ作業も並大抵のものではなかっただろう。
 フィルムにこだわったMBSの局プロデューサー丸谷嘉彦の存在も忘れてはいけない。
 第一期から活躍している実相寺昭雄、佐川和夫、上原正三の三氏の登場もうれしい限り。

 36人の関係者を大枠でティガ、ダイナ、ガイアの3つに区分し、順を追うことでティガ~ガイアにつながるスタッフ証言による「メイキング・オブ・ウルトラマン」になっている。途中に主演(出演)者たちへのインタビューを挟んで適度なインターミッションをとる構成も素晴らしく、夢中でページをめくらせる秘策かもしれない。


2001/09/27

 「ある朝、セカイは死んでいた」(切通理作/文藝春秋)  

 第1期ウルトラシリーズの代表的なシナリオライター4人についての評論集「怪獣使いと少年」でデビューした著者はその後〈特撮モノ〉あるいはいわゆる〈サブカルチャー〉だけでなく、さまざまな社会問題、事象について書くオールマイティな実力を発揮し、社会派の文筆家としての地位を確立した感がある。
 権威をもった証明なのだろうか、彼を批判する文章を目にする機会が何度かあった。小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」に例のデフォルメされた似顔絵で登場した時は笑ってしまった。
 今メディアで活躍する評論家、学者たちいわゆる文化人、識者たちを批評する書籍(書名は忘れてしまった)を書店で見かけ、ページをめくったら、著者が取り上げられていた。
 高島俊男「お言葉ですが…5 キライなことば勢揃い」では〈のたまう〉の使用方法が間違っているとして、著者の文章の一部が挙げられていた。

 5歳下だから同世代といえるかどうかわからない(弟と同い年)けれど、僕は著者に自分の感覚と相通じるものを感じて、彼の言論活動を応援している。
 「怪獣使いと少年」を読んで共鳴したこともあるが、評論集の第1弾「お前がセカイを殺したいなら」を読んでますますファンになった。同じような考えをしていると確信したのだ。ただ切通氏と自分の違いもわかった。その時の感想にこう書いている。
「違うのは、僕がまがりなりにもスポーツに親しみ〈おたく〉にならなかったこと。イジメられっ子にもならなかったこと」
 その思いは本書の〈柳美里論〉の『命』をめぐる対話ではっきりした。著者は柳美里を肯定するが、僕は(「命」しか読んでいないから心もとないけれど)ほとんど全否定だ。中学、高校生時代に生じたトラウマが柳と共通するものが多いのだと思う。

 国旗掲揚、君が代斉唱問題で揺れた所沢高校に取材した(第1章 ある朝、学校で)では事件の本質、詳細がわかったし、富田由悠季を語る(第3章 ある朝、戦場で)では得意のインタビューを自分なりにまとめ、読ませる技を発揮している。小林よしのり批判も納得。

 考えさせられたのはラストを飾る書き下ろしの「ある朝、セカイは死んでいた」である。
 90年代に立て続けに起きた少年犯罪を羅列していくのだが、一つひとつの事件を振り返りながら暗い気持ちになった。

 そうした痛ましい事件があったからこそ、あまりにも人の生命をないがしろにする少年が生まれたことを後悔し、次の世代に生命の大切さを伝えるためにも21世紀のウルトラマン(コスモス)および特捜チームは怪獣を退治するのでなく、保護する内容になったのかと思わないではいられない。
 もちろん前作「ウルトラマンガイア」のラストで怪獣も地球の生物として認識し、人類と怪獣の協力でガイアとアグルを蘇らせたことにも大きく影響されているのだろう。しかし同時に、少年時代僕たちにカタルシスを与えてくれたウルトラマンと怪獣の戦いが今では空想特撮の世界の話と悠長にかまえていられなくなっってしまったのか(もちろんあの頃だって「破壊者ウルトラマン」と大江健三郎に批判された。同じ考えの大人も多かったと思う)。
 名著「怪獣使いと少年」「地球はウルトラマンの星」の著者に聴いてみたいものだ。


2003/02/03

 「特撮黙示録 1995-2001」(切通理作/太田出版)  

 80年代、特撮は〈冬の時代〉だった。70年代前半のブームがまるで嘘みたいな静けさだった。80年にウルトラマン、84年にゴジラが、その後仮面ライダーが復活したものの、喜んだのはかつての子どもたち、熱狂的な特撮ファンだけ、大ブームを呼ぶほどの拡がりはなかった。  
 平成の時代になってゴジラがシリーズ化され孤島奮闘することになる。当初僕はゴジラの新作が観られるだけでうれしくロードショーが待ち遠しかったものだが、途中ですっかり嫌気がさした。特撮技術もドラマ作りにも何の発展性も感じられなくなってしまったのだ。  
 ただ人気があるというだけで過去の怪獣がリニューアルされる、ゴジラが出現して名所を破壊して敵怪獣とバトルを繰り広げれば満足だろうと言わんばかりの展開。空疎な人物造型。それでも特撮の火を消してはいけないとばかり、なにより東宝は特撮のメッカ、いつかは大満足できるゴジラ映画にめぐりあえるのではないかと劇場に足を運んだのだけれど……。  

 そんな特撮界が一つのターニングポイントをむかえた。95年に特撮ファンはもちろん一部の映画ファンをも歓喜させた「ガメラ 大怪獣空中決戦」が公開されたのだ。大人の観客をも視野に入れた濃厚なストーリー展開と新鮮なビジュアルショック。何より僕は観終わった後、子ども時代と同じ感動につつまれた!
 続いてTVではウルトラマンの新シリーズ「ウルトラマンティガ」が始まった。それまでのM78星雲出身の宇宙人というウルトラマンの設定を変え、新たなスタートを切ったわけだが、回を追うごとに斬新なエピソードが目白押しで人気を博した。以後、「ダイナ」「ガイア」と3年間〈人間ウルトラマン〉のドラマは僕を夢中にさせてくれた。
 TVシリーズは映画化もされた。70年代のそれはTVの再編集、あるいはTVのエピソードをそのまま(16mmから35mmのフィルムにブローアップ)上映したものばかりだった。劇場用オリジナル映画を観たいというのは昔からの夢だったが、TVと連動しているとはいえ毎年公開されるなんて夢にも思っていなかった。  
 ウルトラマンの成功に刺激されたのか、オリジナルビデオで「ウルトラセブン」がリリースされた。これはTVの完全な続編。従来のウルトラマンの流れを汲む「ウルトラマンネオス」もビデオ用として映像化された。これは「ティガ」の前からTVシリーズ用に企画されていたものだ。   
 円谷プロのウルトラマンが復活するなら東映には「仮面ライダー」があるとばかりに新しいライダーが誕生した。題して「仮面ライダークウガ」。仮面ライダーに思い入れのない僕は冷ややかに状況を見守っていたのだが、これが驚くほど密度の高いドラマなのであった。劇中に「仮面ライダー」の名称は一切でてこない。警察機構の描写がかなり細やか。平成ウルトラマン以上に高年齢層の視聴者を意識したドラマ作り。そこには東映伝統のアクション重視の稚拙な(と僕自身は感じていた)演出というものがなかった。続く「アギト」では連続ミステリドラマの要素を導入して、「クウガ」以上に惹きつけられた。  
 ガメラ、ウルトラマン、仮面ライダーが過去を断ち切り、新しい装いで快進撃を続ける中、孤島奮闘していたはずのゴジラシリーズが特撮的、ドラマ的に一歩も二歩も遅れをとった印象を受けた。思えばゴジラだけが過去(第1作)の呪縛から解き放たれていないのだった。  
 平成シリーズを「ゴジラの死」で終了させた東宝はハリウッド映画「GODZILLA」の意外な不人気を糧に予定より早く新たなゴジラ映画に着手する。その第1弾「ゴジラ2000ミレニアム」は噴飯的な内容だったが、「ゴジラ×メガギラス」の後、真打金子監督がついにメガフォンをとることになる。「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 怪獣総攻撃」はモスラやキングギドラの設定に疑問があるが映画自体はやっと僕が観たいと思っていた内容になっていて溜飲を下げた。  

 特撮は90年代になって、やっと春をむかえた。特撮ファンの一人としてとても喜ばしいことではあるが、一抹の不安が残る。  
 映画ではゴジラ、ガメラ、モスラ、TVではウルトラマン、仮面ライダーと、いってみれば60年代、70年代の怪獣、特撮ブーム時の人気怪獣、ヒーローが復活したにすぎない一面があるからだ。  
 そんな状況下、オリジナルの特撮ドラマが1時間ものとして登場した。「鉄甲機ミカヅキ」である。巨大ロボット、戦隊シリーズその他特撮ものの面白い要素をごちゃ混ぜにした感があるこの作品は新しいキャラクターで勝負したという点において今後の特撮に意味をもたらすと僕は考えている。    
 90年代中盤特撮界は冬眠から目覚めて次のステップに入ったいえるだろう。この時期の作品群をまとめて評論する本がでないものかと思っていたら、やはり切通理作氏がやってくれた。
 いくつかの書店を探し回りやっと見つけた本書は前著「地球はウルトラマンの星」と同様の分厚さ。血が逆流した。

 平成で生まれ変わったガメラ、ウルトラマン、仮面ライダー、それぞれの作品群、ミカヅキ、「GMK」を時系列的に物語の紹介と作品を分析する第1章、続く第2章は各スタッフのロングインタビュー。  
 ガメラ3部作の論考が個人的には一番読み甲斐があった。中で著者が他の評論家、識者の考えで「そんな考えもあるのか」と驚いているところがあるが、僕自身著者の考えに驚くこともあった。たとえば「ガメラ2」で自衛隊員が決戦を前にいろいろ協力してくれた一般人との別れのシーンで「こんど一杯飲みましょう、奢らせてください」と言う。これを今生の別れの前のやりとりと解釈しているのだが、僕は文字どおりの台詞と受けとった。どちらも死ぬことなど意識していない。だからこそこの台詞は意味を持つと思っているのだが。  
 金子監督のインタビューを読んで、平成ガメラも「GMK」も楽しめたことがよくわかる。怪獣映画についての認識がほとんど同じなのだ。幼少時代に怪獣映画を観て刷り込まれた項目が実によく似ている。そんな金子監督だから、ゴジラを撮る際には新しい設定の過去に束縛されないゴジラを期待していたところもあったのだが。  
 「仮面ライダークウガ」はあまりに長く食傷気味だった。  
 「クウガ」のラスト、敵怪人もクウガも最後に人間体になって戦っているのは、僕自身はやはり変身がとけたというより、監督の心象風景だと思っている。クウガが最後の戦いに向かうところでは雨が雪に変わっていく、そんな自然描写が胸を打った。
 「アギト」、「龍騎」、「555」とメインライターを務める(「クウガ」も担当)という信じられない活躍をしている井上敏樹のインタビューにはぶっとんだ。この方、いつもこんな感じなのだろうか。シナリオライター伊上勝の息子だと初めて知った。
 著者との会話の中に「シャンゼリオン」や「戦隊シリーズ」の話がよくでてくるのだが、こちらはチンプンカンプンだった。
 世紀末の特撮ということで、過去の怪獣、ヒーローの復活でよかったのかもしれない。しかし、21世紀はぜったい怪獣もヒーローも新しいものを期待したい。だって「龍騎」は別に仮面ライダーを名乗る必要はなかった。怪獣保護の話を「ウルトラマン」でやる必要性もないだろう。オリジナルのヒーローを作ればいいではないか。
 〈「ウルトラマン」や「仮面ライダー」はもはやジャンルである〉と喝破した人がいるが、それってさびしい。
 21世紀の子どもたちには21世紀の怪獣、ヒーローを!


2004/11/25

 「山田洋次の〈世界〉」(切通理作/ちくま新書)

 「宮崎駿の〈世界〉」(サントリー学芸賞受賞)に続く映画監督シリーズ第2弾。宮崎駿については巷間騒がれるほどの興味がないので「宮崎駿の〈世界〉」は読んでいなかったのだが、山田洋次を取り上げると知って興味がわいた。
 興味のひとつはこれまでの評論活動で知る切通氏と山田監督作品が僕の中で結びつかなかったことが挙げられる。サブカルチャーに造詣が深く、これまで独自の視点、切り口でこちらが読みたいと思わせる何冊もの特撮本を上梓してきた著者のことだから、アニメーションの巨匠宮崎駿を語ることは十分予想がついた。しかし、そんな世界とは対極にあるはずの山田洋次の世界の何について語るのか?
 たとえば劇場に足を運ぶほどの熱狂的なファンではなかったにしろ、僕は「男はつらいよ」シリーズが好きだし(TV放映があれば必ず観るし、ビデオも借りる)、ところが周りには「男がつらいよ」を語れる友人がいないのである。特撮を通して知り合った友人はいるのに、寅さんの話となるとまるで話が通じない。特撮にも寅さんの世界にも通じる同世代の評論家(といっても氏は僕より5歳下なので同世代といえるかどうか)の山田洋次本なのだから興味がわかないわけがないではないか。

 僕にとって山田監督の本質というのは「家族」であり「故郷」なのである。映画に一貫していた冷徹な眼差しが子ども心に怖かった。勝手な言い分だが、この部分を言及しているかどうかを知りたかった。
 これまで山田映画を語る際の常套句が使われていないところが信用できる。著者自身が書いている〈ヒューマニズムへの無前提な礼賛〉がでてくるともうそれだけで距離を置きたくなる。これは一部の識者たちが手塚治虫を語る時と同じスタンスだ。そういえば山田洋次も手塚治虫も共産党の応援メッセージでよくその名を拝見したものだ。もう一つ挙げている〈特定な思想を持つ著者(山田監督)の文化運動的側面〉が当てはまるか。

 この手の評論で何が大事かといえば、読者が山田洋次監督の映画を観たくなるかどうかであろう。リアルタイムに観られなかった「男はつらいよ」以前の作品をすぐにでもあたりたくなった。ストーリー紹介がとてもうまいのである。

 吉村英夫の山田洋次論は読まなくていいことがわかったのはありがたい。性と暴力に蝕まれた日本映画、その対極にあるのが山田映画、だから山田映画が素晴らしいという理屈は1970年代に成り立つ論理ではなかったか。十代だったから信じられた論理といおうか。
 久しく疑問だった山田映画の常連俳優について、本書でその名(神戸浩)と実際に知的障害者であることを知った。
 山田監督の〈お話を盛り上げるために人を死なすことに懐疑的〉な姿勢とある。では「学校」の田中邦衛はどうなのだろうか。試写会でいい年齢の大人たちを感涙させ、中野翠を白けさせたあのシークエンスである。僕はといえば、TV放映された際、大泣きしながらその作劇に懐疑的だった。
 「たそがれ清兵衛」は「家族」「故郷」と同様な視点、姿勢に貫かれていて、久しぶりに堪能できた映画だった。
 この映画のクライマックスである余吾善右衛門と清兵衛の対決シーンで論争があったということも本書で知った。果たしてあれは余吾の自殺だったのか否かということなのだが、そんな論争が起こること自体が僕には不思議に思えてならなかった。屋内での剣の対決。そこに至るまでの二人の感情の揺れ、余吾が剣を抜いた時の目の動きがすべてを語っているではないか。
 つまり、清兵衛の実力を知っている余吾は実際に戦ったらどうなるか十分理解していた。だから話し合いで解決しようとして、恥をしのんで逃がしてくれと懇願した。ところがその過程で清兵衛の太刀が竹光であることを知った余吾の心境に異変が起こった。
 ひとつは怒りである。自分を討ちに来たというのに竹光をさしているとは何たるザマか。お前それでも武士か。オレをバカにしているのか。
 もう一つは「勝てるかもしれない」という焦りである。相手が竹光ならこの勝負何とかなる。そう思った瞬間から余吾に余裕がなくなった。最初は室内での刀の戦いということで間合いもちゃんと計っていたのが、後先考えずに刀を抜いたものだから肝心なところで梁にささって小刀の清兵衛にやられてしまう。
 武士の気構え、自尊心等々を一瞬のうちに垣間見せてくれるからこそ、名シーンになったと思っていたのだが、どうして自殺云々なんてことが考えられるのだろうか。

 著者の場合、作品と自分の関わりあいを述べる文章がいい。「地球はウルトラマンの星」では〈まえがき〉にかなり心くるものがあった。
 本書では〈あとがき〉で映画「同胞」を語っていて、あの時代の、あの匂いを感じることができた。


2015/04/26

  「本多猪四郎 無冠の巨匠」(切通理作/洋泉社)




 ブックカフェ二十世紀の特撮トークイベント第2弾です。

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 昨日、仕事の帰り、コンビニに寄ってスポーツ報知「ウルトラマン特別号」を買った。今年は「ウルトラマン」の放映50周年だそうで、その記念として編集された。まあ、特撮モノで毎年この手の特別号を発売して商売しているわけだけど。

 1966年はビートルズが来日した年である。日付を確認すると、ビートルズの武道館コンサートが終了してすぐに「ウルトラマン」の第一話「ウルトラ作戦第一号」が放映されたのだ。
 ビートルズに関しては、当時の思い出はまるでない。TV放送も観ていないし。小林信彦「ミート・ザ・ビートルズ」でその喧噪を知るしかない。この前、NHKでドキュメンタリーが放送された。リアルタイムで視聴していたし、録画もしている。
 そんなことはどうでもいい。

 西川口駅に着いて、駅ビルの書店に寄ると、「東京人」最新号を発見。特集は「特撮と東京 1960年代」。
 記事の一つを切通理作さんが書いている。題して「怪獣映画の世界は『ゴジラ』から始まった」。
 切通さんが昨年上梓した「少年宇宙人 ~平成ウルトラマン監督・原田昌樹と映像の職人たち~」(二見書房)を今、トイレタイムに読んでいる。とんでもないボリュームだから、じっくりゆっくりとの考えで。

 ブックカフェ二十世紀の特撮トークイベント第二弾として、前述した切通さんの書籍の刊行記念(少々遅いけれど)と銘打ち「叙情派原田昌樹監督の魅力を語ろう!」を8月5日に開催することが本日確定した。
 チラシ作成のための原稿を書いていて、プロフィールの参考にネットで検索したら、YouTube「切通理作×小中千昭 もっと高く! 『少年宇宙人 平成ウルトラマン監督・原田昌樹と映像の職人たち』× 『光を継ぐために ウルトラマンティガ』刊行記念トークセッション」が ヒットした。1:09:38あたりからの、「ウルトラマンガイア」におけるナレーションの欠如、「ウルトラマンティガ」の第50話「もっと高く」におけるレナの告白、に関する質問をしているのは私です。


tokyojin 201608
「東京人」No.374 august2016
 本日(もう昨日だけど)、個人的には休みなのだが午後ブックカフェ二十世紀に顔をだす。夕方予定している「小中和哉の特撮夜話」打合せのための資料をプリントアウトするためだ。

 プリントアウトを終えると、ここのところずっと読んでいる「決定版 ルポライター事始」(竹中労/ちくま文庫)を読み進めてやっと読了。
 その後は、昨日発売のサンデー毎日の特集記事をむさぼり読む。
 ウルトラセブン特集なのだ。この前はウルトラマン(初代)特集だった。売れたんだろうなぁ。だから第二弾はセブン特集だと推察する。セブンの世界観を熊本地震に結びつけるのは少々強引だけれど。元タカラジェンヌが「ウルトラマンX」に出演していたとは知らなかった。
 新作「ウルトラマンオーブ」が放送されるという。オーブってどういう意味?

 15時半、二十世紀を出て夢野書店でブラブラした後、徒歩で新宿に向かう。19時、丸ノ内線西新宿改札口できくち英一さんと小中和哉監督と待ち合わせなのだ。

 神保町~九段下~市ヶ谷~曙橋~新宿五丁目~新宿三丁目~新宿~西新宿

 歩くって東京の街について新たな発見があって実に楽しい。ゆっくりゆったり道草しながら目的地へ。待ち合わせ時間の30分前に到着した。

 トークイベントの一週間前から展示コーナーにて「帰ってきたウルトラマン・スーツアクター きくち英一の秘蔵写真・グッズ展(仮)」を開催することも確定した。

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西新宿の到着したとき
夕焼けがきれいだったので思わずパチリ
肉眼だともっと夕焼けが大きいのよ

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「007は二度死ぬ」の日本ロケ裏話、帰マンの特撮裏話、
その他もろもろ小中監督と一緒に訊くことができるなんて。
生きててよかった!





 宣伝です。

 僕が働くブックカフェ二十世紀では6月17日(金)、特撮に関するトークイベントを開催します。
 ぜひご参加ください!

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 小中監督とは「シネマDEりんりん」の「七瀬ふたたび」プレイベントで知り合った。
 平成ウルトラマンシリーズ第2弾「ウルトラマンダイナ」の第1話、第2話の感動は忘れられない。そして怒涛の展開だった最終3部作。僕にとって愛しい作品になった。
 総監督を担当した「ASTRO BOY  鉄腕アトム」も1年間夢中で観ていた。平成ウルトラマンシリーズのシナリオライターを起用していることも要因だったが、本当によくできていたシリーズなのだ。局が期待したほど人気は得られなかったのだが。

 「七瀬ふたたび」プレイベントで知ったことだが、小中監督とは同じような映像体験をしている。
 小学生のときに出会った第一期ウルトラシリーズ、その後NHK少年ドラマシリーズでSFジュヴナイルに感銘をうけ、自分たちで8mm映画を作り始める……。
 まあ、小中少年はきちんと夢を実現して映画監督になるわけだが。

 小中監督をホストにした特撮トークイベントができないものか。
 そんな夢が実現する。

     ◇

1998/08/28

 「ウルトラマンダイナ」(TBS TV)

 ウルトラマンダイナが終わった。
 川崎監督の「僕たちの地球が見たい」「うたかたの空夢」以降、今ひとつといった感じのエピソードばかりで、ティガみたいな終盤の盛り上がりというのが(僕にとっては)なかったし、ティガ同様最終3部作の第1部があまりに急展開だったため、どうなることかと心配していたら、第2部が異様な盛り上がりを見せてくれた。

 最終話を観終わった今、寂しくて、切なくて、印象的なシーンを思い出すだけで目頭が熱くなってしまうのだけど、前向きな姿勢を失わないS-GUTSのメンバーたちの涙まじりの笑顔に夢に対する希望を感じてすがすがしい気分であることに間違いない。
 ティガの時以上に感動していると言っていい。
 第1話、第2話の前後編で提示したテーマをきっちりと完結してくれた。
 僕はあのラストをアスカの死ととらえていない。全く予想していなかったラストではあるが光の中を父と子が並んで飛行するシーンはある種のハッピーエンドとみる。あれはネオフロンティア時代にふさわしい人類の新たなる一歩なのだ。
 最終話で流れた涙は、だからアスカを失った悲しみではない。「宇宙戦艦ヤマト」が大嫌いな僕としては自己犠牲で涙(感動)を呼ばせる作劇なんて絶対に認めたくない。

 ティガに続く新ウルトラマンシリーズ第2弾として「ウルトラマンダイナ」が発表されたとき、 多くのティガファン同様、あまりいい印象を持たなかった。
 ティガの世界観を引き継ぎ7年後の世界が舞台で、特捜チームがGUTSからスーパーGUTSに変更、単純明快なストーリーを目指すという新聞発表で少々心配になった。今度は『ウルトラマンタロウ』的な内容になるなんていう業界噂話を聞くと暗澹たる気持ちになったもんだ。
 お願いだからティガの世界を壊さないでくれ!それが放映開始前の率直な感想だった。

 第1話でそれが杞憂であることがわかった。

 <ネオフロンティア計画>をキーワードに宇宙に進出する人類の活動を背景にしたスペースオペラ的な舞台設定。
 かつて宇宙に消えた名パイロットだった父親との父子鷹的要素をスパイスにした、前向きに生きることだけがとりえの主人公の成長物語。
 主人公と彼をチームにひっぱった先輩女隊員との賢姉愚弟的な友情(恋愛)物語。

 と、今までのウルトラマンシリーズにはない展開が予想され、すぐにダイナの世界にはまってしまったのだった。
 そのために初のシリーズ構成者を採用したのだとも思った。

 回が進むにつれて、期待は徐々に薄れていった。最初に提示したテーマ(人間ドラマ)がうまく展開していかないし、設定やエピソードのつながりに矛盾を感じた。
 とにかく文句言ったり、見直したりの1年間だったが、今になってダイナの世界にどっぷりつかっていた自分に気づいた。

 後番組として、継続した世界観という点で、何かにつけてティガと比較されることは、仕方ないとは言え、かわいそうな気もする。
 第1弾で放映されていたら、それなりに評価されていたに違いない。
 僕としては

 せっかく最初に示したドラマ部分にシリーズを通してのまとまりがなかった(特にリョウとアスカの関係)
 TPCの組織がうまく描けなかった(なぜ基地の所在がダイブハンガーからグランドームに変更になったのか、GUTSからS-GUTSになったのか、新旧隊員の葛藤等)

 という不満はある。
 とはいえ、前作の世界観を引き継いだスタッフの意欲は多いに評価したい。
 タイトル通りのダイナミックな特撮もお見事。
 第2期ウルトラマンシリーズを凌駕していることは間違いない。

     ◇

1998/04/03

 「ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち」(新宿松竹)

 満足のいく出来だった。それは認めたい。
 しかし主要な対象が低年齢層の子どもたちとはいえ上映時間70分は短すぎるのではないか。
 それがクライマックスの首都決戦~ダイナの死(?)~ティガの復活~ダイナ&ティガ対敵の戦いと続く展開があまりに急テンポに進む結果になってしまったきらいがある。
 この部分は〈大人の観客〉としてもう少しきめの細かい描写で観たかった。
 あと20分あればダイナを失ったスーパーGUTSやTPCの隊員たち、その他避難したメトロポリスの人々の苦悩それにもめげずに立ち上がる勇気がもう少し奥行きのあるものになったのではないか。
 逆に言うとオープニングからダイナ対デスファイターまでは眼を見張るような特撮のイメージとあいまって、話の展開がスリリングで実に爽快だった。
 プロメテウスがデスファイターに変身するシーンはCGとはいえ日本特撮のイメージがやっとアニメーションのそれに追いついたことを証明していてうれしくなる。
 ティガファンへのサービスでラスト近くに旧GUTSのメンバーが勢揃いするが、単なる同窓会的な扱いなら出演させる意味がない。
 とにかくウルトラマンシリーズの映画化作品でやっと映画と呼べるものが登場したことを素直に喜びたい。




 特撮映画レビューの転載、すべて完了と思っていたら、まだ残っていた。
 この映画が面白かったのは特撮を担当した樋口特技監督の功績だ。それは絶対だと思う。
 思えば、2000年代の途中まで、特撮映画がけっこう制作されていたのだ。今は完全に冬の時代になってしまったが。いつからこうなったのか。ああ、ゴジラ映画が作られなくなってからか。

     ◇

2000/08/25

  「さくや妖怪伝」(丸の内シャンゼリゼ)

 映画館で初めてこの映画のポスターを見たとたん期待に胸ふくらませた。
 タイトルの〈妖怪〉という文字、ヒロインが「ガメラ3 邪神覚醒」で注目した安藤希。ヒロインと妖怪の対決モノなんて考えただけでワクワクしてしまった。

 幕府の命を受け、〈弟〉の河童の太郎を連れ、伊賀・甲賀の忍者2名をお供に妖怪退治のため全国行脚にでた妖怪討伐士・榊咲夜の物語。手塚治虫の「どろろ」的シチュエーションを「妖怪百物語」「妖怪大戦争」といったかつての大映映画でお馴染みの妖怪キャラクターの共演で味つけした特撮活劇映画である。
 原作・監督が特殊メーキャップ、造形の第一人者である原口智生なので、登場するさまざまな妖怪たちの描写(造形と見せ方)が楽しみだった。
 前半の道中部分のエピソードはそれほど新味はない。善玉の妖怪たちが音楽にあわせて踊るお楽しみシーンも「妖怪百物語」ラストの乱舞シーンを知る者としては少々物足りない。そもそも期待していた現代技術を駆使した妖怪の造型そのものが昔の作品とあまり代わり映えしなかった。
 原口監督は91年にビデオ用映画としてSFものの「ミカドロイド」で監督デビューし、大いに期待して試写を観たものだが、映画自体にそれほど魅力を感じなかった。
 今回も肩透かしをくらうのかと思いながら途中でウトウトし始めたのだが、クライマックスの松坂慶子扮する巨大な土蜘蛛妖怪とさくやの戦いになるやいなや、その怒涛の展開に目を見張った。このスペクタクルシーンが観られたことだけでも「さくや妖怪伝」を評価したい。

 人間と巨大妖怪の戦いを映像的に違和感なく成り立たせている。
 実際に松坂本人が土蜘蛛の衣装(着ぐるみ)をまといミニチュアセットで演技しているのがすごい。衣装の隅々まで神経がいきとどいており、松坂の妖艶さに拍車をかける。特に爪の造型、その動きにしびれた。
 日本映画伝統のアナログ技術と最新のデジタル技術が見事に融和しており、日本特撮の真髄、可能性を見せつけられた思いがする。
 これは日本映画史における20世紀最後の1つのエポックメーキングではないか。

 ファミリー映画とも言うべき「ジュブナイル」や「さくや妖怪伝」が大ヒットして、特撮(が売りの)映画のジャンルがもっともっと広がればうれしいのだが……。

     ◇




 「ULTRAMAN_n/a」なる動画がネットに発表された。知ったのは7月だった。渋谷駅前を舞台に初代ウルトラマンとザラガス(?)の戦いをCGで描いた円谷プロ制作の超短編ムービーだ。
 スーツではないフルCG仕様のウルトラマン。初代ウルトラマン、それもAタイプのマスクだ。まさしく得体の知れない宇宙人である。全身の筋肉の動きがリアルでたまらない。
 こういう初代ウルトラマンの映画をもうずっと前から待ち望んでいるのだ。

 2004年の年末に公開された「ULTRAMAN」はまさにこの路線だったのだろう。映画はヒットしなかった。登場するウルトラマンが初代だったら、もっと話題になったかもしれないと思っている。
 この映画とTVシリーズ「ウルトラマンネクサス」の失敗で円谷プロは大きな方向転換をはかった。

 ハリウッド映画では、「スーパーマン」にしろ「バッドマン」にしろ「スパイダーマン」にしろ、若干のマイナーチェンジはあるものの、何度もオリジナルキャラクターのまま作品が製作されている。  
 なぜ日本ではそれができないのだろうか?

 たとえば、「ウルトラマン」なら「怪獣無法地帯」を素材に劇場長編映画を作るというのはどうだろう。「ジュラシック・パーク」の怪獣版ができると思うのだが。
 「ウルトラQ」だったら「ペギラが来た」「ガラダマ」とか。「ウルトラセブン」なら絶対「ダークゾーン」だ。「帰ってきたウルトラマン」だとグドン&ツインテール、あるいは、シーモンス&シーゴラスの話か。

 何年も前のこと。とある特撮関係者から聞いた話なのだが、円谷プロの親会社となったフィールズは大人向けの作品を狙っているのだが、バンダイが年少者対象に固執しているのだとか……。

    ◇

2004/12/24

 「ULTRAMAN」(品川プリンスシネマ)

 もうふた昔前以上になるが、幼い頃夢中になってTVシリーズを見ていた「スーパーマン」が映画で蘇った。TVと同じキャラクター(デザイン、衣装など)が最新の特撮技術でデラックスになってスクリーンに登場してきたのだった。やはり好きだった「バットマン」も映画になった。最近では「スパイダーマン」が話題になっている。TVシリーズがあったかどうかは知らないけれど。

 「スーパーマン」がロードショーされた時、心に思い描いたのはウルトラマンがオリジナル(初代ウルトラマン)のままスクリーンで活躍する姿だった。
 ウルトラマンは時代の変遷によってその都度の世相や流行を取り入れた様々なスタイルのキャラクターが生み出され世代を越えたヒーローとなっている。僕にとってウルトラマンといえば初代でしかありえないが、5歳下の弟世代では帰マンであり、もっと下の、従兄弟たちの世代ならタロウだろう。今の子どもたちにとってはティガやガイアなのかもしれない。いやコスモスか。

 スクリーンで上映される、という意味合いにおいてはこれまで何度となくウルトラマンの映画は制作されている。
 「ウルトラマン」の放映が終了してからすぐにいくつかの特に人気の高いエピソードをつなげた映画「長編怪獣映画 ウルトラマン」が公開され、その後も東宝チャンピオンまつりで「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」のTVエピソードが16㎜から35㎜フィルムにブローアップされプログラムの1つになっていった。
 70年代後半、活字で盛り上がったウルトラブームの最中、実相寺昭雄監督作品を集めたオムニバス映画が劇場公開され話題を呼んだ。

 タロウの幼少時代を扱った「ウルトラマン物語」やタイと合作でハヌマーンとウルトラ兄弟が活躍するTVの再編集でない劇場用作品も制作されたりもしたが、ウルトラ第一世代を満足させるものではなかった。

 平成ウルトラマンになってから、単なるTVエピソードのブローアップ、再編集ではない、TVシリーズの世界観に則ったオリジナル映画が公開された。内容的技術的に水準以上の出来だったから大いに喜んだものだ。
 そうした映画に夢中になりながら、本当の意味での、つまり初代ウルトラマンが活躍するオリジナル映画ができないだろうかと夢想するようになった。

 かつて実相寺監督がATGと組んだ「ウルトラマン 怪獣聖書」という映画の企画があった。70年代の当時、あえてウルトラマンが放映されていた60年代を舞台に科学特捜隊のメンバーを一新して日本の高度成長の是非を問い、その歪みを摘発する内容だった。
 佐々木守の書いたシナリオを読んだことがあるが、映画化されなくてよかったと思う。科学の発展に対して楽天的な「ウルトラマン」には似合わない、とても重苦しいテーマで、もし映画化されていたら失敗していたはずだ。むしろセブンに似つかわしいテーマだと思った。
 このプロットは90年代になって「ウルトラQ THE MOVIE 星の伝説」に応用され惨敗したのは記憶に新しい。

 「ULTRAMAN」という、アルファベット表記されたタイトルの映画の製作が発表された時、内容については何も聞こえてはこなかった。シナリオ(長谷川圭一)、監督(小中和哉)、出演者(別所哲也、遠山景織子)以外ベールに包まれていたといっていい。

 ストーリーを知って驚いた。宇宙から飛来した赤い発光体に衝突した主人公(自衛隊パイロット)がウルトラマンに、青い発光体に衝突した男が怪獣に変化して戦う物語はまさに「ウルトラマン」の第一話「ウルトラ作戦第1号」を彷彿とさせるもので、「ULTRAMAN」とは科学特捜隊や怪獣が存在しないこの現代にもし銀色の巨人や悪魔のような怪獣が出現したらどうなるか、平成ガメラの流れを汲むシミュレーション映画の様相を持っていたのである。

 航空自衛隊F‐15パイロットの真木(別所哲也)には先天性の疾病を持つ息子がいる。少しでもそばにいてやろうと自衛隊を辞める決心をした矢先、飛行中に赤い発光体に衝突する。が、奇跡的に生還。民間の航空会社に入社した真木はある日自衛隊特殊機関に拉致されてしまう。
 実は数ヶ月前青い発光体と衝突したもののやはり奇跡的生還を果たした海上自衛隊所属の潜水艦乗務員有働(大澄賢也)が徐々に怪物に変化し、研究所から逃走する事件があったのだ。拉致には同じように怪物化するかもしれない真木の監視とともに逃走した怪物をおびき寄せる囮の意味もあった。作戦の指揮を執るのは有働の恋人でもあった化学担当官(遠山景織子)。
 奴はやってきた。ところがより進化を遂げていて自衛隊の武器はまったく効かない。巨大化した怪物に手も足もでない。絶体絶命の危機の中、真木に異変が! 銀色の超人に変身した真木は怪物に立ち向かっていく。

 映画「ULTRAMAN」に対して観る前から期待するものがあった。
 1つはそのリアルな設定。怪獣、ヒーローともに自衛隊特殊機関が命名したコードネーム〈ザ・ワン〉〈ザ・ネクスト〉が使用されていて、それだけでも硬質な雰囲気を醸しだしている。「仮面ライダークウガ」の影響だろうか。
 怪異事件に自衛隊がどのように介入してくるのか。その作戦の計画と実行。現実の武器を操作する際のカチャカチャ音が効果をあげている。真木と同僚(永澤俊矢)の自衛隊応接室(?)での会話シーンで雑誌棚に月刊誌「正論」が数冊置かれていたのには苦笑した。やはり自衛隊員の必読書なのだろうか。左寄りの知識人から何かしらの反応があったりして。

 2つめはウルトラマンと怪獣の大きさ、その表現だ。日本の特撮ヒーローものは等身大か、40~50m級の2パターンしかなく、最近それがうっとおしてくて仕方なかった。CGやデジタル加工の技術が発達したのだから、さまざまな大きさの怪獣やヒーローがいてもいい。そういう映像は今なら可能なはずなのだから。それがこの映画では段階を経て巨大化していく過程があって、屋内における10mの怪獣とウルトラマンの戦いの描写が斬新だった。

 3つめはウルトラマンと飛行怪獣との空中戦。これは「ウルトラマンガイア」の「あざ笑う眼」の演習シーンに瞠目してから、大スクリーンで拝見したくてたまらない要素だった。「マトリックス レボリューションズ」のクライマックスでその思いは頂点に達した。
 そんな願いを受け止めてくれたかのように、今回アニメで〈板野サーカス〉と異名をとるほど、空中戦描写に定評を持つ板野一郎をフライングシーケンスディレクターに招き、クライマックスの白昼新宿摩天楼上空におけるウルトラマンと怪獣の死闘を魅せてくれた。

 観終わって、胸に熱いものがこみあげてきた。初めてブラウン菅でウルトラマンを体験した当時の感覚(飛行機に対する憧れ、ヒーローと怪獣の戦いにワクワクした気分)を蘇らせてくれたことに感謝したい。斬新なビジュアルにも燃えた。

 心配していたキャスティング(特にバラエティ色の強い大澄賢也)も映画の中では皆適役に思えた。真木の妻役で久しぶりに裕木奈江を見た。かつて女性の天敵とされた彼女が何なく母親役を演じていて時代の流れを感じた。
 真木が勤めることになる民間航空会社の名称が〈星川航空〉、社長や同僚の名が万条目、一平、由利子というウルトラファン向けの遊びもいい。

 不満がないわけではない。
 新しいウルトラマンの造形に違和感があった。岩みたいにゴツゴツしてお世辞にもスマートといえない。成田亨がデザインした初代がそのままのスタイルで登場してほしかった。いやそれこそ意味があったと思う。まあ、マーチャンダイジングその他、円谷プロだけでなくスポンサーサイドの意向が反映された結果だろうし、映画における新たなスタンダードを作るという目的もあったにちがいない。
 ただしこの新ウルトラマンの造形にはスタッフの憎い演出が施されている。劇中二段階の変化をとげる、最初の身長10mのマスクはまさしく「ウルトラ作戦第1号」に登場するウルトラマンの面影があるのだ。いわゆるAタイプと呼ばれるもので肌が荒れていてどことなく表情もきつい(目や口の作りによる)。それが50mになるとB、Cタイプのそれになってツルツルの肌にきっちりした口元になる。

 残念だったのは映画一番の売りである空中戦。遺伝子レベルであらゆる動物の能力を取り込み、進化していくという〈ザ・ワン〉の設定はまるで「デビルマン」のデーモンであり、ウルトラマンとの空中戦は駄作「デビルマン」のデビルマンvsシレーヌのそれより数倍興奮させられるものの、こちらが期待していたほどのスピード感、疾走感がなくて物足りなかった。戦いにF‐15をもっと絡ませて欲しかった。
 HD撮影だからだろうか、俯瞰で撮られた新宿の街が鮮明でなかったことも要因か。

 とはいえ、ふた昔前に思い描いた夢が叶ったことに間違いはない。かつて「ウルトラマン」に熱中した大人たち、その子どもたち、できるだけ多くの人たちに観てもらいたい映画である。

    ◇




 一応前項から続く

 手塚治虫の名作「ブラック・ジャック」を実写で映像化する場合、皆、何の抵抗もなくブラックジャックをマンガ同様の造形にしてしまうのが不思議でたまらなかった。
 大林宣彦監督が「ブラック・ジャック/春一番」を映画化した「瞳の中の訪問者」で宍戸錠が扮したブラックジャックの姿を「キネマ旬報」のスチールで見たときは心底呆れたものだった。映画はつい最近まで自分に中でなかったものになっていた。
 その後もTVやビデオで有名俳優がブラックジャックを演じているが、あのメーキャップや扮装が許されるのはアニメでしょう。

 マンガ、アニメの実写化では、作品のキャラクター、世界を必要に応じて換骨奪胎して構築しなければならない、とはいえ、テーマ(の核)から逸脱してはならない。というのが僕の持論である。
 「CASSHERN」はそういう作品ではあった。だから、多くのファンから酷評されたにもかかわらず、僕個人の感想は違ったのだ。ただ、CGてんこ盛りの紀里谷作品には馴染めず、以降の作品は観ようという気がしない。

     ◇

2004/05/01

  「CASSHERN」(川崎チネチッタ)  

 1970年代、タツノコプロのテレビアニメに夢中になった。もともと「宇宙エース」に始まるタツノコプロのアニメはお気に入りだった。「マッハGOGOGO」「紅三四郎」「ハクション大魔王」「みなしごハッチ」等々。ただし制作会社の名前などそれほど意識してチャンネルを合わせた覚えはなかったような気がする。いや〈竜の子〉の文字は子ども心に印象的だったか。

 衝撃を受けたのは72年の春から始まった「科学忍者隊ガッチャマン」である。タイトルから単純な集団ヒーローものだろうといつもの習慣で何気なく観た第1回の絵の完成度、緻密さ、美しさに舌を巻いた。ストーリーも回を重ねるに従って、主人公と敵の巨大メカを使用した戦いだけでなく、さまざま要素が絡み合ったダイナミックな展開に昇華していき、日曜夕方6時の〈お楽しみ番組〉になった。タツノコプロの力量を思い知らされた。

 以降タツノコプロ作品は必ずチェックするようになる。「新造人間キャシャーン」「破裏拳ポリマー」「宇宙の騎士テッカマン」「タイムボカン」シリーズ……まさに70年代はタツノコプロの黄金時代だった。 
 ただし、「ガッチャマン」である意味僕のアニメ遍歴は終わった。その後の作品についてはそれほど熱心に追いかけたわけではない。
 ちなみに「攻殻機動隊」「イノセンス」あるいは「キル・ビルVOL1」に挿入されたアニメーションを制作した〈プロダクションI・G〉はタツノコプロの分家である。  

 「新造人間キャシャーン」は確か火曜日の夜7時から放映されていた。
「たったひとつの命を捨てて生まれ変わった不死身の体。鉄の悪魔を叩いて砕く、キャシャーンがやらねば誰がやる!」  
 納谷悟郎の名調子で始まるこのアニメは、思った以上にハードで暗いものだった(ような気がする)。
 両親を敵に拉致された孤独なヒーロー、キャシャーン。恋人ルナとロボット犬フレンダーとともにアンドロ軍団と戦う姿が斬新でけっこうはまっていた。にもかかわらず、どんな風にストーリーが展開したのか、ラストはどうなったのかまったく覚えていない。  

 宇多田ヒカルと結婚して一般的には有名になったカメラマン(宇多田のミュージッククリップ等を担当している由)紀里谷和明が「新造人間キャシャーン」を映画化すると知った時、驚いた。なぜ今「キャシャーン」なのかという思い。まさか「科学忍者隊ガッチャマン」がSMAPを使ってCFになったからではないだろう。
 だいたい紀里谷監督はこの手の特撮作品に造詣が深いのかどうか。制作費うん億円。監督デビュー作として適した作品なのかどうか。宇多田ヒカルの主題歌が使用できる、若い人の動員が見込める、だからGOサインがでた企画なのではないか、そんな感じを受けた。

 作品の出来が心配された。これが特撮に関係ない普通(?)の映画だったら何の関心もわかなかった。特撮映画、それもタツノコプロの「新造人間キャシャーン」の映画化であったからこそ注目もし、それなりの作品に仕上がってほしいのだ。
 この数年、特撮ものは「ゴジラ」、「ウルトラマン」「仮面ライダー」「戦隊もの」だけになって停滞している。もっといろいろなジャンルに発展してもいい。新しいキャラクターが生まれてほしい。

 今年はさまざまな特撮を売りにした作品が目白押しである。過去の作品、アニメーションの実写化とはいえ、「キャシャーン」をはじめとして「キューティー・ハニー」「鉄人28号」「デビルマン」が控えている。企画の貧困とも言えるのだが、ゴジラ以外の特撮が劇場で見られるのはうれしい。新しい特撮作品が生まれるきっかけになればと思えば、これは大いに歓迎すべきこと。

 ただ不安がないわけではなかった。
 もうずいぶん前になるが、とある新興の版元が「8マン」の復刻版をだして大いに儲けた。調子に乗った出版社はその儲けをはたいて実写の映画を製作(社長自らメガフォンをとった)、東京ドームで上映会を開催したのだ。結果は大惨敗。大赤字をだして出版社は倒産した。
 これから公開される映画がみな「8マン」みたいなものだったら……心配はそこにあった。

 映画の正式タイトルが「CASSHERN」となって、キャスティングも発表されて不安が増してきた。TVスポットが流れてからは不安が現実になるのでは気が気でなかった。CGオンパレードの映像。人工的な、リアリティのない世界に役者が入り込んで繰り広げられる空虚な演技。主人公にキャシャーンを感じない。いったい何をやりたいのかわからない……

 かなり否定的な気持ちで劇場にのぞんだ。完全否定の感想も読んでいる。逆に肯定的な(思ったほどひどい作品ではない)という意見もあることを知った。実際はどうなのか。これは自分で観るしかない。

 TV同様に納屋悟郎のナレーションで映画世界の状況が説明されて幕が開く。
 大亜細亜連邦共和国という架空の国が舞台。敵国と長い間大戦を交え、人々の心はすさんでいた。
 そんなさなかに東博士(寺尾聰)が重い病気で苦しむ妻(樋口可南子)を助けようと研究開発しているのが〈新造細胞〉だ。人間のさまざま部位を独自に作り出す画期的なものだという。死なない兵士を作り出すもの(死んだ兵士を生き返らす)として軍の援助で研究が進められる中、ある衝撃で新造細胞培養プールから新しい人種が生まれた。軍の皆殺し攻撃からからくも生き残った新造人間の4人(唐沢寿明、宮迫博之、要潤、佐田真由美)は、古城に立てこもり、ブライ(唐沢)をリーダーに人類に復讐を誓った。
 父、東に反発し兵士となった鉄也(伊勢谷友介)は戦場で死亡。東は死体を新造細胞培養プールに浸す。何と鉄也は蘇った。父の友人上月博士(小日向文世)の研究する強化スーツを着用した鉄也は新造人間としてブライたちに対峙するのだった……

 映画は特にその前半、CGの多用で辟易することもあったが、とにかく飽きることなくうんざりすることなく最後までスクリーンを見ていられた。これは自分でも驚いた。
 未来の世界をレトロ感いっぱいに創造したのは数年前に公開された手塚治虫原作「メトロポリス」の引用か。人類の敵となる新造人間はデ・ニーロの「フランケンシュタイン」の影響か。
 レトロでも何でもいいが、前半はもっと架空世界のディティールを描いてほしかった。ポイントとなる全体像(CG)は効果的にいくつか挿入し、あとはセットでドラマを作る。そうすればクライマックスのキャシャーンとロボット軍団の戦いのヴィジュアルがもっといきたと思うのだが。

 ただこうも言えるのではないか。
 これはあくまでもアニメ「新造人間キャシャーン」にインスパイヤされた新種の映画なのだ。アニメの世界を換骨奪胎して新しい世界を作り出す。いってみれば本物の役者をCGに組み込む表現方法。役者の動きをモーションキャプチャーで取り入れ、CGアニメにした「APPLESEED」の対極に位置するもの。

 鉄也が新造人間として蘇るシーンに納得いかなかった。だいたい戦場で敵の手榴弾で命を落とした鉄也の身体にまったく損傷がないというのが解せない。損傷した、たとえば手や足のなくした鉄也を培養プールに浸すからこそ、新造細胞の働きで無くした器官(部位)が蘇るのではないか。
 ま、それはともかく、同じ新造人間同士が戦うという構図がこの映画のミソ、要だ。この戦いの中で、戦争とは何か、憎悪とは、復讐とは何か、という普遍的なテーマを問い、人間の愚かさを浮き彫りにする。
 敵の新造人間たちがキャシャーンに敗れ死ぬ間際につぶやく言葉が重要な意味を持つことがわかるくだりに膝を打った。

 なぜ蘇った鉄也がキャシャーンと呼ばれるのか。旧アニメで活躍するフレンダーやブライキングボスによって白鳥ロボット(?)に封じ込められた母親との会話が独自の解釈で登場してくる。こういうセンスは買う。旧作品ファンにはニヤリとさせ、新しい観客には特に意識させない処置。平成ウルトラマンの川崎郷太監督が得意するものだった。
 TVスポットでキャシャーンがヘルメットをつけていないところが疑問だったのだが、これも映画で理解できた。つまりあれはヒーローとしての不完全さを表現しているのだろう。紀里谷監督はキャシャーンをヒーローとして描かなかった。戦いの中で徐々に白い強化スーツが汚れ、血がにじんでいく。そこに哀しみを込めたと思うのは穿ち過ぎか。

 鉄也役の伊勢谷友介と恋人ルナ役の麻生久美子に魅力を感じられなかったのは残念。最初ルナが登場した時、松田聖子の娘かと勘違いしたほどだ。要潤をキャスティングしたのなら彼が主役でもという意見もあるが、たぶん色のついていない役者にしたかったのだと思う。要潤は滑舌悪いし。
 逆にミスキャストだと思っていた大滝秀治や三橋達也の巧さにうなった。三橋達也が登場した時はぬくもりを感じた。ふっと息がつけた。
 ミッチ-の怪演も楽しめる。宮迫博之もおいしい役だ。
 唐沢寿明なんて、楽しみながら伸び伸びしながら敵役を演じたのではないか。「白い巨塔」の息抜きになったのでは?

 修飾されすぎた映像に違和感がないわけではない。稚拙な演出もある。絶賛するつもりはない。
 ただ何の予備知識もなくこの映画に触れたとして、映画が言わんとすることは胸に響いたと思う。ストーリーそのものに監督の意図するものがあった。
 別にキャシャーンでなくても成立する話ではあるが、胸を打つカットや台詞もある。その点において僕はこの映画を認めたい。




 11年前の2004年、05年は、70年代の人気TVアニメが次々と実写映画化された。
 最初に実写化が発表されたのは60年代に人気を呼んだ「鉄人28号」だったと思う。04年だったか、前年の03年だったかは忘れたが、これを契機に04年は次々と人気アニメの実写化映画が公開されたのだ。

 公開第一弾は「CASSHERN」。タツノコプロの傑作アニメ「新造人間キャシャーン」を、音楽PV等で活躍していた映像作家(カメラマン)の紀里谷和明がCGを大胆に導入してヴィジュアル化したのである。評判は散々だった。僕個人の評価は違うのだが。

 続いて公開されたのが「キューティーハニー」、少し遅れて「デビルマン」。永井豪原作の作品が続いた。
 「キューティーハニー」は、まあ、普通の失敗作だが、「デビルマン」は超弩級の最悪作品だった。ネットは酷評の嵐。その盛り上がりがすごかった。専用のサイトができるほどだから。

 結局、05年公開の「鉄人28号」は観に行かなかった。ビデオ(DVD)になっても借りたことがない。

 「キューティーハニー」は映画公開後にTVドラマ(実写)化された。個人的にはこのシリーズの方が面白いと思っている。
 「デビルマン」の感想で〈怒りがわいてくる映画〉と書いたが、「ガッチャマン」もそうだった。比べれば「デビルマン」に軍配が上がるのだが。

 往年の人気アニメの実写映画化はどれも大ヒットに結びつかなかったことから、「ゴジラ」「ガメラ」「ウルトラマン」「仮面ライダー」等に続く、特撮映画の新しいムーブメントにならなかった。
 ただし、タツノコプロ作品の実写映画化企画だけは進行していて、08年に「ヤッターマン」が、14年に「ガッチャマン」が公開された。 「ガッチャマン」が酷評の嵐になったのは記憶に新しい。
 
 マンガ、アニメの実写化する場合、作品世界をそのまま実写にしてもしょうがないと思っている。なにしろ相手は2次元のキャラクター、世界なのだから、人間の役者が演じること、現実の社会を反映させる(つまりリアルさ)ということを心掛けなければならない。でないと、キャラクターなんて単なるコスプレになってしまう。
 この匙加減が難しい。

     ◇

2004/06/11

 「キューティーハニー」(川崎チネチッタ)  

 永井豪原作のアニメーションの実写映画化が続いている。まず「デビルマン」が発表され、続いて「キューティーハニー」(公開は「キューティーハニー」の方が先になったが)。「鉄人28号」も映画化されるのだから、「マジンガーZ」の映画化も近いのではないか。

 永井豪というと、僕にとっては「ハレンチ学園」であり「あばしり一家」だった。「マジンガーZ」や「デビルマン」、「キューティーハニー」をアニメで夢中になったのは5歳下の弟の世代(から下)だろう。「マジンガーZ」は弟につきあって毎週観ていた。なんたって、「科学忍者隊ガッチャマン」「サザエさん」に続くゴールデンタイムだったのだ(後には名作劇場が控えていた)。

  「デビルマン」や「キューティーハニー」のアニメに関していえば、はっきりいってバカにしていた。当時打倒「8時だよ 全員集合!」とばかりNETテレビ(ネットテレビではありません、エヌ・イー・ティと読みます。今のテレビ朝日)が土曜日夜7時30分の「仮面ライダー」に続けて8時台にも特撮ヒーローものとアニメの番組を始めた。それが「人造人間キカイダー」であり「デビルマン」だったのだが、中学生だった僕はそこまでやるか! とあきれていた。「キューティーハニー」は「デビルマン」の後番組か何かではなかったか。
 どちらも技術的には下の方のランクだったと思う。一度もチャンネルを合わせることはなかった(最近TVの懐かしきのアニメ特集等で見るけれど、絵が汚いし、セルの傷が目立つ)。  

 マンガにもアニメにも思い入れはないのに、じゃあなぜ観たのかといえば「エヴァンゲリオン」の庵野監督がどんなヴィジュアルと笑いを提供してくれるか、という点に期待したのである。笑いに関しては、脇を固める篠井英介、手塚とおる、及川光博、片桐はいり等がどんな風にハジケるのか、考えただけでワクワクしてしまった。
 ところが、悲しいかなどちらにも満足できなかった。

 まあ、ヒロイン役に佐藤江梨子をキャスティングしたときから違和感があった。あのマスクがどうにもキューティーハニーに思えなかった。昨年暮れのモノマネ番組で某タレントが扮していたキューティーハニーの方がよっぽど〈らしかった〉(演技的にどうというわけではない。あくまでも見ため)。あまり知性が感じられないのだ(全国のサトエリファン、御免)。それからスタンダードな衣装時の肌の露出部分が実は肌色の生地だったというのがダサすぎる。フィギュアスケートじゃないんだからさ。
 
 映画化にあたってサトエリっぽいキャラクターになっていたのには安堵した。冒頭の下着姿に少々ドギマギしたりして。  
 最初の事件、海ほたるでの(秘密結社パンサークロー)の第一の使者(片桐はいり)との戦いで、片桐はいりのメイクが生々しくてまず萎えた。口元がアップになると黄色い歯がやけに目立つのだ。これは敵方の怪人たちのメイクすべてにいえた。フィルムでなくHDによる撮影だからだろうか。  
 実写をアニメーションにする手法も特にどうというものではなかった。だいたいその手法はふた昔前に大林宣彦監督が「ねらわれた学園」や「時をかける少女」で使用しているのではないか。
 特撮やドラマは別にどうでもいいけれど、バカ笑いができなかったのがつらい。声出して笑えたのはミッチ―とハニーの一騎打ちだけ。ミッチ―は旬の人だ。シリアスもコメディもいける。

 篠井英介は単に三輪明宏の模倣だし、手塚とおるもメイクのみが目立つだけ。そうそう手塚とおるのメイクって浦沢直樹の「モンスター」に登場にする悪役(名前失念、チビのキューピーちゃんみたいな暗黒街の顔役)にそっくりで、それにはニヤっとしたけど。

 クライマックスのテーマは言いたいことはよくわかるけど金子修介監督「ガメラ 大怪獣空中決戦」の焼き直しにすぎない。

 気になったには前半、ハニーが街をさまようシーン。まるで「帰ってきたウルトラマン/狙われた女」にオマージュを捧げたような印象を受けた。MATの丘隊員が私服姿で同じように街を徘徊し、同じモニュメントの前でポーズもとっていたような気がしてならない。(庵野監督はアマチュア時代に自身が顔出しの帰マンに扮した自主映画「帰ってきたウルトラマン」を撮っているのだ。)

     ◇

2004/10/25

 「デビルマン」(MOVIXさいたま)

 永井豪の傑作マンガ「デビルマン」が実写映画化されると知った時は快哉の文字が頭を駆け巡った。技術の進歩でやっとデビルマンのあの世界が特撮で観られる時代がやってきたのかと。
 が、しかし。脚本、監督が「ビー・バップ・ハイスクール」の那須真知子、那須博之コンビと聞いて快哉の文字に陰りが生じた。那須監督の得意とするジャンルと違うんではないかと。でもまあ、オファーを受けたというのはそれなりに自信があるということなのだろうと納得させて、公開を待っていた。 

 製作が開始されてからかなり経過されるのに特撮系の雑誌にまったくというほどヴィジュアルが掲載されない。不安になってきた。案の定公開が延期になった。
 朝めし前プロジェクト上映会で知り合い、「まぐま」でもインタビューしている芸歴40年のベテラン町田政則さんがこの映画に出演している。映画の出来具合を聞くと関係者試写があった日にちょうど京都の撮影に参加していて観ていないと言いながらこう付け加えた。「なんか面白くないみたいだよ」
 劇場の予告編ではCGによるデビルマンの造形がいかにもアニメっぽくてリアル感に乏しかった。公開が迫るにつれ耳にするのは酷評ばかり。

 MOVIXの招待券がなければ観なかったかもしれない。アニメにはまったく興味なかったが、雑誌連載されたマンガ「デビルマン」のラストには衝撃を受けた一人である。ゴジラ、ウルトラマン、仮面ライダー以外の特撮映画としてどんな作品に仕上がったのか興味がある。もしかしたら「CASSHERN」みたいに酷評の嵐の中でも個人的には注目できる要素もあるかもしれないと淡い期待もあったのだが……

 幼なじみの不動明(伊崎央登)と飛鳥了(伊崎右典)。同じ容貌を持つ二人なのに性格はまるで異なっていた。勉強、運動全ての点で飛鳥に劣る不動は飛鳥に対してある種の憧れを抱く陽気な青年。飛鳥は決して笑うことがないニヒルな青年で何かにつけて不動を庇護する存在。そのため時として信じられないような暴力沙汰を起こすこともあった。
 両親を事故で亡くした不動は牧村夫婦(宇崎竜童 阿木陽子)に引き取られ高校に通っていた。一人娘の美樹(酒井彩名)とは恋人関係にある。
 ある日飛鳥は新種のエネルギーを研究している父の異変を不動に伝え、研究所に連れて行く。そこには南極の地下から蘇ったデーモン一族と合体し醜い姿になった飛鳥の父親が。自分もデーモンになってしまったと嘆き悲しむ飛鳥。瞬時に不動の身体にもデーモンが取りつく。しかし人間の心を失わなかった不動はデーモンの超能力を持つ〈デビルマン〉として生まれ変わったのだった。愛するものを守るため、世界征服を狙うデーモンに立ち向かうデビルマン……

 いやはや、呆れてものもいえない。これを駄作と言わずして何が駄作なのか。
 主役の二人不動明と飛鳥了の子ども時代を描く冒頭シーンから引いてしまった。うどん粉を振りかけたような飛鳥の髪はいったい何なのだ。青年になった飛鳥の金髪に合せた処置だったのだろうか。イメージが全然違う。続くタイトルの音楽&ビジュアルが醸しだす高揚感。それも学校のシーンに切り替わったとたん一気に打ち砕かれる。
 主役二人の演技が拙いことは誰もが指摘している。確かに台詞は棒読みだし、感情表現も何もあったものではない。とにかく首から下の演技がまるで見ていられない。演技力がなくても映像世界ならそれなりに見られるはずなのだ。要は監督の演技のつけ方次第。那須監督ってたぶん俳優の地をそのままキャラクターに応用する人なのだろう。「ビー・バップ」はそういう類の映画だったと思う。しかし等身大の青春映画なら通用しても、「デビルマン」みたいな重厚なケレン味が必要な芝居では素人は単なるでくの坊になってしまう。
 いや演技力云々の前にこのシナリオでよくGOサインがでたものである。原作のコミックス全5巻をすべて描く映画なのだから全体の構成の緩さ拙さを指摘しても始まらない。台詞の一つひとつドラマの作りそのものがなっていないのだ。はっきり言って破綻している

 さっきまで自分もデーモンになってしまったことを嘆いていた飛鳥がデビルマンになった不動に向かって「ハッピーバースデー」だって。
 ショッピングセンター街で亀型デーモンに同級生が襲われ、そのSOSの声をキャッチした不動がやってくるのは何と海岸。あたりを探し回るが同級生はどこにも見当たらない。デビルマンに変身して飛行、着地したのが森の中。そこにデーモンに食われ甲羅の一部になった同級生がいた。ショッピングセンター街と海岸と森がどう繋がっているのか不明。
 教会にやってきた不動と美樹の会話。「美樹ちゃんの夢は?」と聞かれて「明くんと結婚して、子どもをたくさん生んで幸せな家庭を築く……」の答えに背中がこそばゆい。今時の女子高生がこんなこと言うか? だいたいそれまでの彼女のキャラクターに合っていない。とってつけたような台詞。
 デーモンに取り付かれた、それでも人間の心を持つ同級生(渋谷飛鳥)と小学生を自宅で匿うことを両親に進言する美樹がいちいち「お父さん」「お母さん」なんて呼びかける。「お父さん、お母さん、話があるの」「お父さん、XXXX」「お母さん、○○○○」 まるで素人芝居。
 その存在を近所の住民に知られ、同級生と小学生が牧村家から脱出する際に美樹がカサカサに乾いた同級生の唇に赤いルージュを引く。鏡に写った自分の姿を見ながら「美しいって素晴らしい」とか何とか。何だそりゃ!
 暴徒化した一般市民が牧村家を襲うシークエンス。両親を殺され絶体絶命に陥った美紀が「私は魔女よ」と大見得切って包丁を持って敵に向かっていき、あっけなくかわされると「私は魔女じゃない」と泣きを入れる。原作では二つの台詞に間に美樹の死闘が描かれるのだ。だからこそ意味ある言葉なのに……
 この支離滅裂さ、プロの仕事とは思えない。
 そんなこんなで最後までこちらの胸に響いてくる台詞や描写は皆無。

 シナリオの破綻をかばうどころか助長しているのが演出だ。単に文字を映像に変換しただけ。俳優の芝居のシーンでは何の創意工夫もない。CGによるデビルマンに変身する前の中間形ともいうべき役者の顔や身体にメーキャップを施したスタイルがある。一瞬だったらそれなりに見られるのに、この姿で長い芝居をやられるとお笑いタレントがコントで扮したデビルマンみたいで情けないったらありゃしない。

 キャスティングにも問題がある。主役二人は言うに及ばず、宇崎夫妻が浮きまくっていた。浮気云々の会話シーンだけいい味だしていたが、映画に必要だったとは思えない。ボブ・サップやKONISHIKI、小林幸子のゲスト出演に何の意味があるのだろう?  第一ボブ・サップにニュースキャスターやらせるか? 何の脈絡もなく「デーモンバンザイ!」って叫びながら撃ち殺されるKONISHIKIって一体…… ベンツ(?)に乗った小林幸子がたまたま通りかかった貧相な家の事情なんてわかるはずもないだろうが。

 実写シーンとVFXシーンが最後まで乖離していた。タッチがまるで違うのだ。
 肝心のVFXが心ときめかせる出来ではなかったのも痛い。前半のシレーヌとの都市上空での空中戦など、そのスリル、疾走感、スペクタクル描写で映画屈指の名シーンになるはずだったのに、少しも興奮できなかった。
 登場人物の誰一人にも感情移入できるわけもなく、単にダラダラと進んでいく物語をある距離を置いてながめているだけ。観客との意志の疎通をこれほどまで拒絶する映画も珍しい。誉めようにも皆目見当たらない。
 いやあった。不動と飛鳥が言い争いをしている最中に、画面奥の町並みにミサイルが落ちて爆発するカット、デビルマンとサタンの最終決戦時の全裸の男女がうねりながらバベルの塔みたいなものを形成するカット。それから不動が手に持つ美樹の生首の造形。この3つのみ見ものではあるかな。

 昔、「さよならジュピター」という映画があった。小松左京が自ら制作会社を設立して原作と総監督の立場で製作に望んだかなりの期待作だったが出来上がった作品は無残だった。実際の演出を担当したのは東宝の新人監督なのだが、続いて監督したファン待望の「ゴジラ」のつまらなさで僕の思いはピークに達した。この監督、センスがないと。いわゆる特撮がらみのSFファンタジーにはまったく不向きな人だったのだ。
 同じことが那須監督にも言えるだろう。東映の超大作、場合によっては世界も狙える作品だからと箔をつけるためオファーを受けたのかもしれないが、できないことに手を染めるのは自分の経歴にミソをつけるだけだった。エンディングロールの最後で監督クレジットがフィックスされる。関係者試写の時、恥ずかしくはなかったのだろうか。せめて他のスタッフ名同様上にロールさせてしまえばよかったのに。僕だったら監督名だけ消してくれと懇願する。 
 いや、監督を叩くのはお門違いかもしれない。こんな酷い映画になってしまった責任は絶対プロデューサーにある。

 「デビルマン」映画化の企画意図はどこにあったのか。映像不可能といわれた傑作マンガ。永井豪は海外からのオファーを蹴って東映に映画化を託したのである。そんなビックプロジェクトに対してなぜ那須監督なのか。デビルマンの世界が那須監督にフィットするとは思えない。高校生の主役だから「ビー・バップ」の監督という発想なのか。まさかね。
 また、ヒットしたら続編を狙える。ドル箱になる可能性だって十分にある。だったら何も1作で原作すべてを使い切ることはないではないか。最初から3部作くらいに考えればいい。その方がストーリーも作りやすい。観客に対しても親切というものだ。 

 まずは〈デビルマン誕生編〉としてデビルマンの誕生に至る経緯を十分に描きながら、デーモン一族との戦いを初戦、二回戦、最終戦といった形で見せていく。被害者だった一般市民が疑心暗鬼になって自警団を結成、〈悪魔狩り〉と称して罪なき人々を襲っていく姿を交錯させる。人間の残虐ぶりを目の当たりにして、果たして自分が守るべき存在なのかどうか悩み、戸惑いながら大ボスを倒すエンディング。あくまでも映画として完結させながらいくつかの謎も残しておき、次回作に繋がる構成にしておく。原作のキャラクターや設定を基本だけ生かして映画用にアレンジするのも手だ。不動や飛鳥が高校生であったり、飛鳥が金髪である必要はない。原作の核さえ把握し押えておけば原作のファンは納得してくれると思う。特にマンガを実写化する場合は!

 この映画のロードショー初日、台風22号が東京を直撃した日、僕は新宿ロフトプラスワンにいた。通称ガンプラといわれる銃(銃撃戦)をメインにした自主映画の本選上映会があったのだ。シネマ愚連隊の「餓鬼ハンター」が目当てだったのだが、なかなかの力作が揃っていた。
 上映後、押井監督、樋口監督等々、錚々たるメンバーによる審査員による審査発表があったのだが、審査員の中に東宝および東映ビデオのプロデューサーもいて、東宝の方の挨拶がふるっていた。
「皆さん、いいんですか? 今日は『デビルマン』の初日ですよ! こんなところに来ている場合ではないでしょう、早く劇場に行かなきゃ……」
 あれはライバル会社に対する大いなる皮肉だったんだな。同じ1,800円ならロフトプラスワンで上映された自主作品の方が観る価値があったと今さらながら思う。本当にそう思う。
 感想を書いていて、怒りがわいてくる映画はそうそうないだろう。

     *

 仮に僕がプロデューサーだったら、まず平成仮面ライダーのスタッフ、キャストに声をかけますね。東映グループが結集しているのだから当然でしょう。
 シナリオは井上敏樹。監督はシリーズのメイン監督である長石多可男。配役は不動に須賀貴匡(「龍騎」の主役)、飛鳥には羽尾レイ(「アギト」の謎の青年)。この二人ならポジとネガの関係になるのではないか? 高校生ではなくもう少し上の青年にしたい。大学院生か。ある研究室で働く同僚とか。美樹も同様。美樹をめぐる三角関係、それにシレーヌをからませながら先述したストーリーを組み立てる……なんてね。




 今年のおもちゃショーで「サンダーバード」がCGで蘇ったことを知った。新番組は今秋からNHKで放送されるというので楽しみにしていた。
 一昨日の深夜、旧作がNHKで放送されたので、9月から新番組「サンダーバード ARE GO」が始まるのだと喜んで観ていたら、終わってからの告知ですでに第1話と第2話は放送されたことがわかった。15日と16日。知らんかったよ~。
 ということで、本日(22日)は、18時10分から第3話。
 スーパーマリオネットの旧作のあのテイストはCGと相性がいい。29日には旧作及び1&2話の総集編があるらしい。

 そういえば、11年前、アメリカで実写映画化されたのだった。で、思う。どうして2号のデザインはマイナーチェンジされるのか。今回も全体的に平べったくなっているんだよね。

     ◇

2004/08/15

 「サンダーバード」(日劇PLEX )  

 少年時代はウルトラマン等の日本製の特撮番組とともにイギリス製TVシリーズの「サンダーバード」にはまっていた。精密なミニチュアワークに心弾ませた。好きなメカはサンダーバード2号と4号、ジェットモグラ。特に2号はお気に入りでプラモデルをいくつも買ったものだ。しかし腹部のコンテナをチェンジする際にTV同様4本の足が伸縮するものはついに手に入れることができなかった。ほとんどのタイプは足がそのまま横に折り曲がるだけのもので、それが大いに不満だった。  
 「サンダーバード」については興味を「ウルトラマン」ほど現在まで引きずってはおらず、思い入れもそれほどではないものの、それでも実写映画化のニュースには歓喜した。
 ところが予告編第1弾の映像で一気に期待がしぼんでしまった。サンダーバード2号が変にマイナーチェンジされていたのだ。全面的に変更されているならまだ納得がいくのだが、全体のシルエットはそのままで細部がいじられていることが昔のファンとしては残念だった。  
 公開日が近づいてくるのに、それほど話題にならない。これはいったいどういうことだろう。決定的だったのは試写を観たという特撮好きな同僚の一言だった。
「いや~ホント、つまらない作品ですよ」  

 まったく期待せずに劇場に足を運んだ。お話はつまらなくても、せめてメカの本物ぶりをこの目で確認したかったのだ。TVシリーズのそれはどんなに精巧にできていたとしても所詮ミニチュアであることは歴然だった(当然だ、人形劇なんだから)。CGの威力で現代に蘇ったサンダーバードはそれなりに迫力あるのだろうと。

 オープニングのタイトルはオリジナルに敬意を表したのか、60年代を感じさせるイラスト風アニメ(「69」のタイトルバックとダブる)。出来そのものは素晴らしいのだが、TVシリーズの主題歌に乗せるのだったら、やはり実写(&VFX)で国際救助隊の活躍をみせるべきだろう。  
 タイトル後のエピソード(ロシア油田火災の救助)も前述のメカの本物ぶりもあって興奮もの。しかし後がいけない。何がいけないって主役であるはずの国際救助隊の活躍が全然描かれないのだ。コピーの〈次々と巻き起こる危機から人類を救うため、最新鋭のメカ≪サンダーバード≫で出動する"国際救助隊"の活躍を描く冒険活劇〉なんてどこにもない!  

 映画は悪役フット(ベン・キングスレー)の策略でピンチに陥った国際救助隊の面々(トレーシー一家)を、兄弟中まだ高校生だからとの理由で正式メンバーでない五男アランと仲間たちが機転をきかせて救うというもの。
 仲間たちはブレインズ博士の息子(映画オリジナルキャラクター)や料理番の娘ティンティン(TVシリーズのミンミン、でも子ども)、そしてペネロープと運転手のパーカー。見方を変えれば、「スパイキッズ」みたいな子どもたちが主役の冒険活劇で、それはそれで面白いものではある。あくまでもオリジナルを知らなければの話だが。  
 だいたい、敵にやられていいところもなく子どもに救われる国際救助隊の話を大きなスクリーンで観たいか?

 思えばTVシリーズは人形劇とはいえドラマが濃密だった。大人向けともいえるものだった。それは国際救助隊のメンバーの人物造形にもいえる。TVのそれはみな大人だった。理知的、沈着冷静、勇敢。だからこそ世界救助という活動をまかせられるに足る人物に感じられたのだ。それに比べて映画は皆若すぎる。父親からして若すぎる。日本語版でV6が吹き替えをする(それも父親までも)と聞いたときは、自分の耳を疑ったが、役者陣を見る限り妥当のキャスティングに思えた(鑑賞したのは字幕版だが)。

 少年心を揺さぶるメカニック描写、スリリングなドラマ展開。そこに国際救助隊メンバーの連携プレイが描かれてこそ「サンダーバード」の醍醐味があるのでないか。  
 往年のファンからするとメカニック描写のみ及第点(基地の全貌には快哉)、あとはもう……。
 いやそのメカも2号のほか、4号、ジェットモグラという僕が好きだったものがほとんどオリジナルのイメージを逸脱したデザインでがっかりだ。ほかのメカがほぼオリジナル通り(と思っているのは僕だけかも。あまり思い入れがないから些細な変更は気にならない)だというところから、もしかすると現代の科学というか工学、力学(?)に見合った設計ということなのか。まあ、確かにジェットモグラ的メカ(「ウルトラマン」のペルシダーとか、「ウルトラセブン」のマグマライザーとか)は実際にはありえないと聞いたことあるし。
 とにかく、オリジナル熱中世代には期待はずれに終わった作品であった。公開前に話題にならなかった要因がわかった次第。

 【追記】
 
 ブレインズに扮していた役者を見ながら、なぜか心にひっかかるものを感じてモヤモヤしていた。途中で気づいた。「ER」の主人公、グリーン先生(アンソニー・エドワーズ)だったのだ。髪があるんだもん、わからないよ。聞くところによると、「ER」の最新シリーズでついにグリーン先生降板だとか。それも脳腫瘍の悪化で死去。グリーン先生降板時が番組終了時だと思っていたのに。  
 TVシリーズではミンミンなのになぜ劇場版ではティンティンなのか。実はTV版も本当はティンティンだったのだ。日本語版で変更したらしい。

     ◇

 【追記の追記】

 昔はティンティンなんて表記(発音)はなかった。文字にすればチンチン。そりゃ変更になるわな。




 ゴジラとモスラとメカゴジラの競演。どうせならキングギドラも出演させればよかったのに。そんな皮肉を言いたくなる。
 これまでモスラやメカゴジラが出演するゴジラ映画はヒットしたから、その路線を狙ったのだろう。前作は評判もよかったし。ところが期待したほどの興行成績をあげられなかった。そりゃそうだろう、いい加減ファンは飽きたんだよ、いくらなんでも。
 で、次の50周年記念の作品が〈東宝チャンピオンまつり〉のゴジラ映画への方向転換だ。
 もう完全にシリーズがブレまくっている。
 
 樋口・庵野コンビによる新作ゴジラはどうなるのか。「進撃の巨人」を観るかぎりではけっこう期待できるのでは、と個人的には思っている。ゴジラより餓夷羅の方がいいんのだけど。

     ◇

2003/12/13

 「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」(日劇PLEX)  

 メカゴジラ嫌いの特撮ロートルファンとしては、新作が『ゴジラ×メカゴジラ』の続編と聞いてまずタメ息がでた。モスラの再々々(?)登場にうんざりして、タイトルの「東京SOS」にほとんどげんなりとなった。  
 前作「ゴジラ×メカゴジラ」は「ミレニアム」以降のシリーズ同様ゴジラ第1作のストーリーを引き継いだ単独編だったが、ゴジラシリーズ以外の怪獣が日本を襲ったという世界観でも成りたっていた。モスラやガイラも実在する世界なのである。
 
 今回は前作の続編にモスラをからませ、何と映画「モスラ」の主役だった中條博士が登場するという。映画『モスラ』の後日談的要素を持つ。ということは「モスラ対ゴジラ」にメカゴジラ(機龍)をからませたわけか。
 
 ゴジラシリーズは伝統があり、なおかつかつてのファンにも支えられていることもあって、ある種サービスのつもりで昔の映画のキャラクターや俳優を登場させるが(それがまた話題になるのだが)、いい加減やめたらどうか。過去の名作、傑作に対する冒涜でしかない。子どものころ夢見た世界、自分の中で完結した世界をこわさないでほしいのだ。  

 前作では機龍に組み込まれた〈ゴジラの骨〉の存在がファンに不評だった。僕はそれほど気にならなかった。つまり第1作のゴジラと「ゴジラ×メカゴジラ」における1954年に上陸したゴジラとは別物という認識なのだ。  
 たとえば、「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」は「フランケンシュタイン対地底怪獣」の続編的意味合いがあるものの、実際はリンクしていない。  
 同様に「ミレニアム」以降のシリーズで描かれるゴジラ最初の日本上陸(1954年の物語)はそれぞれの作品における設定であるだけで、第1作「ゴジラ」ではない、というのが個人的な考えなのである。前作に登場する初代ゴジラは最初で最後の武器によって抹殺されたが骨は海底に沈んでいたのだろう。だからどう描かれようと第1作「ゴジラ」の世界にゆるぎはない。まあ、僕だけの勝手な思い込みといえばそれまでだけど。
 
 前作の回想で登場したモスラとガイラも過去のライブフィルムが使用されているとはいえ、考え方はまったく同じ。あくまでもモスラやガイラという怪獣だけがリンクするだけで、物語世界まで侵食しない。今の若い人がモスラやガイラに興味を持って、ビデオで観直し「こういう物語なんだ!」と感動してもらえればうれしいが。  
 ところが本作でモスラが登場するとなると話は別だ。当然ストーリーは映画「モスラ」の続編となる。主人公は中條博士の甥(特生自衛隊整備士)で、映画「モスラ」に引き続き中條博士自身も再登場する。過去と今を結ぶためつじつま合わせにきゅうきゅうとなる展開は十分予想できる。こういうのはファンサービスとはいわない。  
 もしゴジラとモスラを戦わせたいのなら、「モスラ対ゴジラ」を本当の意味でリメイクすべきなのだ。
 シナリオに横谷昌宏が加わっていることに期待が持てるものの、今度こそゴジラを見捨てるときがきたかとも思った。  

 物語は「ゴジラ×メカゴジラ」の1年後が舞台。ゴジラとの戦いで損傷した特生自衛隊の機龍(メカゴジラ)の修復をめぐって、神の領域を侵す武器は今すぐ廃棄してほしいと要請してくる小美人(モスラ)、ゴジラ再襲撃に備えて武器は必要と主張する政府にはさまれて苦悩する中條博士(小泉博)&甥(金子昇)が描かれる。

 太平洋上に出現したゴジラは機龍に呼び寄せられるかのように一路日本に向かい、東京を襲撃。そこにモスラ成虫が飛来し、激闘が繰り広げられる。小笠原諸島の某島でモスラの二匹の幼虫が生まれ、やがて親モスラに合流するが、親モスラはゴジラの熱線を浴び、死滅。政府は機龍出撃の決断をくだす……。  

 この映画、さまざまなテーマが詰め込まれすぎている。もうちょっと焦点を絞れば傑作になりえたかもしれないと残念に思う。  
 「機龍を廃棄したら(ゴジラの襲撃に対して)モスラが日本を守る」という小美人のメッセージから予想できる展開。「ガメラ2」の時、朝日新聞のバカな記事に反発した自分がいうのもおかしいが、これって国防・軍備をめぐる日本とアメリカの関係にまんまあてはまる。たかが映画なんだからそこまで追求しなくても、ゴジラに対して誰が国を守るのかという問題に機龍出動を推進したい政府と反対する野党(マスコミ・知識人)の攻防が描ける。これは前作でないがしろにされた点でもあった。
 
 「ゴジラ×メカゴジラ」の続編を謳うのであれば、前作のラストから考えて主人公は女性パイロット茜(釈由美子)が再登場しなければおかしいではないか。引き分け(悠然と海に帰っていったのだからどうみたってゴジラが勝ったとしか思えないのだが)なら、もう一度戦いたいと思うのは当然だろう。
 にもかかわらず、間単に米国留学なんて設定になっている。釈由美子側のスケジュール問題だろうか(「スカイ・ハイ」と撮影時期が重なった?)。最初から女性ではなく男性を主人公にと考えたのなら、吉岡美穂の先輩に釈由美子を置くべきだろう。
 とはいいながら整備士を主人公に持ってきたのは悪くない。しかし金子昇には任が重すぎたと思う。機械を誰よりも愛する、ある意味〈メカおたく〉の中條はやはりそれなりに演技力のある若手俳優を起用すべきだ。この整備士と整備からパイロットになった女性パイロット(それにしても吉岡美穂はパイロットに見えなかった)およびゴジラ撃退に命を賭けるタカ派の男性パイロットとの関係も深く描けるだろう。個人的にはこの3人の関係をもっと見たかった。前線部隊(パイロット)と後方部隊の協調関係、整備の仕事がどういうものか、具体的な描写もほしかった。

 手塚監督は過去のいいと思った描写は臆面もなく自作に取り入れる人だ。冒頭のモスラと空自のジェット機のシーンは「ガメラ3」そのままだし、東京湾に出現するカットは「怪獣総攻撃」(もとはUSゴジラ)。とても素直な性格なのだろう。
 モスラの造形、その飛翔シーン、幼虫の動き、口から吐く糸等、オリジナルに忠実になって好感を持った。ただし、基本であるインファント島がでてこないのは何故か。原住民など出せるわけがない。昔ながらの設定でモスラが存在するなんてことは今では通用しないことがよくわかる。
 にもかかわらず「モスラ対ゴジラ」のストーリーをなぞるように、小笠原諸島でモスラの卵を孵化させ(台詞で理由を説明しているが)、それが双子の幼虫だったり、ゴジラに倒されて海岸に漂着する謎の巨大生物がカメーバだったりと、マニアぶりを発揮するのはどうなのだろう。まあカメーバのシーンはリアルだったし、その名称についてのパイロットが突っ込む台詞には笑ったけれど。  

 いろいろ不満はあるものの、全体の印象として、とにかく夢中になってスクリーンを見つめていた、わくわくする興奮があったという点で、手塚監督の3作の中で一番気に入ってしまった。
 まずゴジラの襲撃~モスラや機龍との攻防戦を、夜をはさんだわずか二日間に限定した構成がいい(これも「ガメラ2」の影響だろうか)。朝陽が機龍の目に反射し、それまで目立たなかった赤のラインが強調されたところにぐっと来るものがあった。この描写でその後の〈そんなバカな〉的展開に拒否反応が起きなかった。それよりも機龍内にとり残された中條の、脱出できるかできないかにかなり興奮した。
 ゴジラシリーズでこういう感覚になったのは久しぶりのことだ。このシークエンスにはよく考えればおかしなこと(描写)はあるのだが、そんなことはこれまでのゴジラ映画では当たり前になっていることだし、とにかく気にならなかった。
 大きな声ではいえないが、中條博士の孫(男の子)がゴジラ上陸で誰もいなくなった小学校の校庭で、一人もくもくと机を運んでいるくだりで、すぐに何をしているかわかってウルウルきてしまった。そういえば前作では少女とヒロインの会話に背中がムズムズしえ仕方なかったのに、本作の少年と主人公の会話は素直に聴いていられた。
 前半部分の空自や海自がゴジラ探索や攻撃に活躍するシーンは大味ではあったが、これまで観てみたいシーンだったのだ。国会議事堂の崩壊も力が入っていた。  
 大島ミチルの音楽も堂々たるものだ。

 来年はゴジラ生誕50周年の記念すべき年だという。だからといって安易に記念映画を作ってほしくない。今度こそ、過去のシリーズの呪縛、第1作とは切り離し、今なぜこの時代にゴジラが出現するのか、出現したら日本はどうなるのか、人々はどう反応するのか、リアルに、具体的に描いてもらいたい。ゴジラがいて、敵役怪獣がいてバトルを繰り広げるという展開にはほとほと飽きた。

 最近つくづく思うこと。
 僕は怪獣の登場する映画は大好きだが、怪獣ファンではない。

     ◇

2004/12/04

 「ゴジラ FINAL WAR」(日劇PLEX)

 上映までの時間つぶしに入ったカフェのカウンターで、隣に座った60歳前後のおじさんがこの映画を観てきた帰りだと知った。財布からチケットの半券をとりだしてこちらの顔を意識しながら何やらぶつぶつ言っている。別に話したくもなかったけれど声かけないと申し訳ない状況だった。
「映画、どうでしたか?」
「いや~、面白かったよ、怪獣が何匹も出てきてさあ、すごい迫力なんだ」
「毎年、ゴジラ映画をご覧になるんですか?」
「観るよ」
「これまでの作品と比べていかがですか、今回の作品」
「この前、前作がTVで放映されたけれど、今回の観たら、かすんじゃうよね。すごい作品だよ、今度のは!」
 おじさんは携帯にメールが入ってあわてて出ていった。興奮気味の感想を聞いても僕の中にあるモヤモヤは晴れなかった。

 ゴジラ生誕50周年記念かつシリーズ最終作としてこの映画が発表された時からこれっぽっちも期待なんかしていなかった。なぜなら僕が怪獣映画、とりわけゴジラ映画で一番観たくない要素がテンコ盛りなのだ。

 子どもの頃、父に連れられて観る怪獣映画に必ず感動していた。そんな僕がエンドタイトルが出ても何の感慨もわかなかったのが「怪獣大戦争」だった。X星人に操られたキングギドラにゴジラとラドンが戦いを挑み、見事撃破する物語なのだが、前年に公開された「地球最大の決戦」と同じような話なのが気になった。前作に登場して人間の敵だったゴジラとラドンをとりあえず仲間にしてキングギドラと戦うモスラ(&小美人)の存在が無視されたことも許せなかった。「シェー」をして観客に媚びるゴジラなんてもってのほかだ。

 理由はいくつもあるものの、根本的な要因はゴジラ映画に宇宙人が登場する設定だったと思う。怪獣という土着的な生物に宇宙人や円盤は似合わなかった。スクリーンに人間体の宇宙人や円盤がでてくるととたんに白けてしまう。特にゴジラ映画に対してその思いが強かった。だいたい三大怪獣がタッグを組んでも倒せない圧倒的な存在感を見せつけてくれたキングギドラがX星人の手先になっている姿なんて見たくない。

 ゴジラはこのあと「南海の大決闘」で主人公側の人間に「あいつも悪い奴じゃないからな」とお墨付きをもらってから、一気にアイドル化していく。
 「ゴジラの息子」でミニラが登場したのには頭を抱えた。「オール怪獣大進撃」では主人公の少年と等身大のミニラが会話を交わし、必要に応じて巨大化したりする。子どものためを考えて大人が作った映画に対して当の子どもが面白いと喜ぶはずがない。確かに大学生になってオールナイトで観た「ゴジラの息子」は動物映画の観点からすればなかなかの出来だった。駄作だと決めつけていた「オール怪獣大進撃」も親になってみればその価値がわかってくる。
 しかし、だからといってゴジラシリーズでその手の映画を認めるかというと断じて「NO!」と叫びたい。ゴジラがゴジラらしく、怪獣が怪獣らしかった昭和30年代から40年代にかけて公開された作品(リバイバルを含めて)に触れた少年時代の目を失うことはできないのだ。

 昭和40年代半ば、日本映画の斜陽が叫ばれ、特撮怪獣映画はアイディア的にもビジュアル的にも衰退期に入っていた。そうした状況下で製作されたのが、これまでの怪獣たちを一挙に登場させた「怪獣総進撃」だ。ゴジラを頂点とした怪獣たちが地球征服を狙う宇宙人が操るキングギドラと戦う怪獣映画総決算とでもいうべきもの。
 後に知ったことだが、東宝はこの映画でゴジラシリーズに終止符を打つ予定だったという。ところがこれが予想以上の大ヒットになって、新たに「ゴジラ対ヘドラ」以後の人間の味方になった低年齢層向けゴジラシリーズを量産していくことになるのである。

 「怪獣総進撃」はお馴染みの怪獣たちがこれでもかというくらいスクリーンに登場してきて喝采を送った覚えがある。しかし内容からすると併映の「海底軍艦」(リバイバル)の方が数段面白かった。怪獣たちが太平洋の某島に集められて人間に飼育されている設定(なぜかそこにはインファント島の守り神であるモスラもいるのだ)、キラアク星人に操られるキングギドラの存在(それも撮影で使いまわしされた着ぐるみの状態が悪く、かつての精彩が全然感じられないシロモノ)、怪獣たちが手を組んで敵と戦う構図、ゴジラとミニラが同ショットに写り込む嫌悪感……

 「怪獣大戦争」のプロットに「怪獣総進撃」のケレンを加えたような「ゴジラ FINAL WARS」が歓迎できない映画であることがわかるだろう。特にこの数年着ぐるみ怪獣の肉弾戦に辟易している者としては怪獣が十数体も登場してくると知ってのけぞった。怪獣を出せばいいってものでもないだろう。
 モスラ、アンギラス、ラドン、マンダ、エビラ、ミニラ、クモンガ、カマキラス、ヘドラ、ガイガン、キングシーサー……。
 まず選出基準がわからない。ヘドラやキングシーサーなんて、映画のテーマと関わってくるので再登場なんて考えられない。第1作以外なかったことによって構築された平成、新世紀シリーズでなぜにミニラなのか? モスラがまたまた登場である。単なる端役なら出る意味がないのに。

 前述の映画以外にも主要メカにゴジラとは関係ない世界観で成り立つ轟天号(「海底軍艦」)を登場させる始末。過去の遺産だけで組み立てられたストーリーは唖然呆然の噴飯もので、おまけに主人公コンビにTOKIOの松岡昌宏と菊川怜。あくまでも個人的にだが、どちらもこちらの生理を逆なでさせるタレント(それでも松岡の演技力は買っていますが)で文句を言う気力もなくなった。
 こうなれば、ゴジラ映画、怪獣映画に対する熱い思い入れはきれいさっぱり捨て去り、単なる一観客として北村監督の見世物興行を甘受するしかない。期待はX星人に扮する北村一輝の怪演ぶりだけ。
 果たして北村ワールドを楽しむことができるのか、否か。

 近未来。過去何度も出現しては人類を恐怖に陥れた怪獣を迎撃するため地球防衛軍が組織された。防衛軍の中で特に異彩を放つのが特殊能力を持つミュータントたちが所属する特殊部隊〈M機関〉である。その一人が松岡昌宏であり、彼が護衛するのが南極で発見された怪獣のミイラの研究で国連から派遣された女科学者の菊川怜。
 突然全世界に怪獣が出現した。あまりの数に防衛軍は苦戦する。そこにX星人(伊部雅刀&北村一輝)が現れ、たちどころに怪獣たちを消し去った。彼らは地球人と手を結ぶことを申し出る。世界はその提案を受け入れるが、実はこれこそが彼らの罠だったのだ。松岡たちの活躍により正体を見破られたX星人は消し去った怪獣を再び全世界に出現させ、人類に降伏を迫るのだった。絶体絶命の危機の中、轟天号の破天荒艦長ドン・フライは南極に眠るゴジラを復活させ、X星人の野望に敢然と立ち向かうのだった……

 案の定ストーリーにオリジナリティーの欠片も感じられなかった。底は浅いし、奥行きもない。
 21世紀の時代にX星人のネーミングもないもんだと(同じことは轟天号にいえる。思い入れとは別に)、あまりのベタな設定や展開のオンパレードでお話そのものには最後までノレなかった。
 時間や距離の概念が皆無。伏線もディティール描写もあったものではない。結局ゴジラ以外の怪獣はあくまでも引き立て役でしかなく、単なる記号的存在。懸念していたモスラ(&小美人)の登場もまったく意味のない扱い。すべては北村監督お得意のテンポいい(良すぎる?)展開のために犠牲になった感がする。

 ではつまらなかったというと、これが不思議とそうではない。たまにバカ笑いしながら、最後まで飽きることなく観ていられた。バカ映画を楽しむ感覚とでもいうのだろうか。
 松岡とケイン・コスギの格闘演習、バイクチェイス、エビラとM機関とのバトルにはけっこう興奮させられた。やはりアクション描写で名を馳せた監督のことだけはある。アクションを魅せるカッティングには才を感じた。バイクチェイスのシーンなんて平成仮面ライダーで見せてくれたら最高なのに……。

 北村一輝も期待どおりの演技だった。もともと日本のホアキン・フェニックスとして注目していた俳優だが、今回はまるで「フィフスエレメント」のゲーリー・オールドマン。映画の陰の主役は彼だった。
 菊川怜や水野真紀のおみ足をやけに強調したサービスカットもいい(が、すでに金子監督が「ガメラ2」の水野美紀でやっているよね)。
 しかしそのほかはもう古色蒼然といった感じ。轟天号や円盤内のセットなんて昔の特撮映画そのものだし、演出にも何の新鮮味もない。
 全編どこかの映画で見た映像で、普通なら怒りがわいてくるはずなのだが、バカ映画だとその徹底した模倣を逆に感心し許せてしまう。ホント、人間の感情って不思議ですね。

 冒頭で旧轟天号とゴジラの戦いがあったはずなのに、その後ゴジラ映画を観ていることをすっかり失念していた。
 このままミュータント戦士とX星人と怪獣のバカ話で終わってもいいのでは? 格闘技のことは知らないけどK1の選手だという轟天号の艦長、けっこう演技が上手いじゃないですか。よくない? やはり主役はゴジラですか。嗚呼!

今度のゴジラの造形、その顔にははなはだ違和感がある。まるで鼠なのである。俊敏に動き回るという設定だからモデルが鼠なのか?
 後半ゴジラが復活して、怪獣たちとのバトルを繰り広げる。北村監督によるとこれまでのゴジラ映画とは違うスピーディーなバトル、今まで見たことがない〈怪獣バーリートゥード〉を見せるとその意図を語っていた。期待しないといいながら、実はそのバーリー何とかかんとかがどんなものか、着ぐるみ肉弾戦にうんざりしているロートルファンの、それこそ目から鱗が落ちる状態にさせてもらえたら、怪獣バトルにわずかな光明を見出せたらなんて考えていたのだが、何のことはない、単なる怪獣の擬人化プロレスだった。

 基本である怪獣の巨大さを見せる気はさらさらない。ハリウッド製の「GODZILLA」にはいろいろ文句をつけたいところはあるけれど巨大感だけは突出していたではないか(新作の「スカイ・キャプテン」でもニューヨークに出現した巨大ロボットの撮り方には工夫が施されていた)。なぜこういうところも模倣しないのだろうか。
 山中の平原におけるゴジラとキングシーサー、アンギラス、ラドンのバトル。対峙するゴジラとキングシーサーのショットで、レールを使用した移動撮影を行っているが、人間の視線で地面すれすれで捉えているのはいいとして、ゴジラの真横から一気にキングシーザーの真横まで移動してしまうのはあまりに安易すぎる。仮に間が500mあるとして、そんな早く移動できるものか。しょせんミニチュアセットの着ぐるみなのだ。それがクライマックスになるにつれ顕著になっていく。どこにカメラを設置したのか理解不能の中継映像も健在だった。

 1970年代完全に子ども向けに制作されたゴジラシリーズで観て育った世代が考える理想の怪獣映画がこれなのか。特撮の世代差を痛感させられた。
 「ゴジラ対ヘドラ」では放射能火炎を吐きながら後ろ向きに空飛ぶゴジラ。「ゴジラ対ガイガン」ではマンガの吹き出しを使ってアンギラスと会話するゴジラ。いくら特撮、怪獣好きでも中学生になると低年齢志向のゴジラに興味はなくなっていった。それでも後年ビデオで観てはいるのだが、1作だけ封印している作品がある。何の説明もなく等身大から巨大化するジェットジャガーというロボットが登場する「ゴジラ対メガロ」だ。
 よりによってこの一番観たくない要素を今回一番登場してもらいたくなかったミニラに流用してしまうとは……。事前に知っていたからよかったが、そうでなかったらラストで椅子から滑り落ちていただろう。

 北村監督の怪獣映画に対する思い入れのなさを嘆いても仕方ない。北村監督なりのゴジラ映画を構築しただけだろう。要はプロデュースサイド(東宝)の問題なのだ。
 東宝にはゴジラシリーズに対する明確なコンセプトというものがないのだろうか。

 1984年に復活した際の仕切り直しとは何だったのか。「ゴジラvsスペースゴジラ」では主要キャラクターの柄本明に「あいつも悪い奴じゃないから」と言わせる感覚。「南海の大決闘」と同じ台詞が平成シリーズに出てくるとは思わなかった。そういや同作にはリトルゴジラなんていうかわいらしいゴジラの息子くんが登場してましたっけ。昭和シリーズ後期の堕落からの脱却を目指して出発したはずなのに結局同じ轍を踏むはめになった。
 再度仕切り直ししたミレニアム以降の作品でも、結局過去の遺産に寄りかかってばかりいる。

 受ければいいのか? 観客が動員できれば何やっても許されるのか?
 「ゴジラ FINAL WARS」はあくまでもゴジラシリーズの中の異色作の位置付けだろう。だったら許せる。昔みたいに尖がっていないから、どんなゴジラ映画があってもいいと思う。ただしそんな映画に50周年記念なんて冠をつけたり、最終作だなんて宣言してほしくない。

 これまで脚本家や監督の人選であれこれ言っていたけれど、もしかするとゴジラ映画に本当に必要なのは真のプロデューサーなのかもしれない。

     ◇



 「ジュラシック・ワールド」を観る会は20日に開催することになった。
 TOHOシネマズ新宿、19時30分の回。3D上映。
 参加したい人、この指とまれ!

     ◇

2002/12/21

 「ゴジラ×メカゴジラ」(日劇2)  

 前作「怪獣総攻撃」がモスラとキングギドラ、そして今回メカゴジラ。前シリーズも「vsキングギドラ」、「vsモスラ」、「vsメカゴジラ」と続いた。ゴジラの相手役はこの3匹(?)しかいないのか。平成シリーズで、この3匹が登場すると興行成績が良かったからなのだろうが、もううんざりだ。
 
 特にメカゴジラはなあ……。僕は昭和のゴジラシリーズ末期に登場し、それなりに人気を呼んだこのメカ怪獣との相性が悪い。  
 「キングコングの逆襲」に登場したメカニコングが大好きだったにもかかわらず、メカゴジラの、フォルムも存在意義も好きになれなかった。
 ゴジラ映画にロボット怪獣が登場することに違和感がある。特に昭和シリーズの後半、定番になってしまった宇宙人(敵)に操られて暴れる怪獣には興味がない。怪獣も自然の一部。怪獣映画、特にゴジラシリーズに対してそんな思いがあるからだ。  

 平成シリーズで蘇ったメカゴジラは、かつてのファンには評判が悪かったようだが、逆に僕は気に入った。造型自体昭和のそれよりいいと思っているが、そんなことはどうでもよかった。対ゴジラ兵器という存在が新鮮だった。何度も書いているように、僕はもう着ぐるみ然とした怪獣同士の肉弾戦にほとほと愛想がつきている。怪獣映画に求めるのは怪獣出現の恐怖、人間対怪獣の攻防、そのスペクタクル、サスペンスである。
 「ゴジラVSメカゴジラ」には対ゴジラ兵器のメカゴジラを使って、どう人間がゴジラに戦いを挑むのか、どんな作戦を展開させるのか、という点に大いに期待して、それはある程度満たされた。
 
 とはいえ、人間が対ゴジラ兵器としてメカゴジラを作り出すというのは設定上無理がある。いや、どう考えてもおかしい。  
 相手は最新兵器をものともしない超生命体なのだ。そんな怪獣を倒すための兵器が二足歩行のロボットなんて、安定性が悪くてしょうがない。肉弾戦になって倒れたらもうそれでおしまいだ。ゴジラに似せたフォルムも戦闘にまったく意味をなさない。そんな兵器製造を政府が認めるはずがないではないか。
 
 好きじゃないといいながらこう書くのも変なのだが、昭和のメカゴジラこそ、その存在意義が理にかなっている。宇宙人が地球征服のため、地球人を欺こうと偽ゴジラを作り出す。見た目は本物と変わらない。しかし、〈正義の怪獣〉ゴジラと対峙しその皮膚がはがされるやメタリックのボディを持つメカゴジラが現れるというもの。宇宙人が作るとか、あるいはマッドサイエンティストとか、とにかく悪側の人物がその製造過程に関与していなければメカゴジラって存在しないと思うのだ。  
 まあ、最初にメカゴジラありきの映画にマジに反論しても仕方ないのだが。  

 メカゴジラに対して複雑な思いのある僕であるが最新作「ゴジラ×メカゴジラ」はかなりの面白さであった。興奮した。手塚監督は、前作「ゴジラVSメガギラス G消滅作戦」」の何が悪かったかを十分反省、検討して本作に取りかかったとおぼしい。  

 1954年に日本に上陸して猛威を振るったゴジラ以降、生態系の崩れによるたび重なる巨大生物の来襲を経て、陸海空のほかに対特殊生物自衛隊が組織された架空の世界。
 1999年に再び上陸したゴジラに対して、迎撃する特生自衛隊だがまったく歯がたたない。そこで2003年、日本の第一線で活躍する科学者の頭脳を結集して対ゴジラ兵器〈機龍〉を開発。そこに三たび、ゴジラが上陸してくる。機龍を遠隔操縦するのが、本映画のヒロイン(釈由美子)だ。  
 メカゴジラはあくまでも科学者(宅麻伸)の娘(小野寺華那)が命名した愛称であり、劇中の正式名称は機龍(MFS-3)というのがいかに自衛隊らしくていい。54年にオキシジェン・デストロイヤーによって海の藻屑と消えたゴジラの骨から採取したDNAとそのフォルムから開発され、ゴジラ迎撃には最も適していると政府高官に言わせているが、どう贔屓めにみてもそうは見えない(しつこいねオレも)。

 とにかくこの映画、オープニング(1999年の攻防)が最高である。特生自衛隊の誇るメーサー車が最初にスクリーンに登場するシーンのカット割りにしびれた。
 全体的には、役者、スタッフ、映像すべてにおいて平成ガメラ、平成ウルトラマン、新世紀仮面ライダーを取り込んだという印象。
 「これは演習ではない」の台詞、夕陽をバックにした機龍。ジェット噴射で上空から緊急着陸する機龍。その着陸でゴジラをなぎ倒し看護婦と少女の命を救うところなんてまさしくウルトラマンだ。
 特撮シーンもゴジラと機龍のバトルでたまに中途半端なアングルが見られるものの総じて出来がいい。
 釈由美子もTVのイメージを払拭する演技でヒロイン像を作り出した。
 俳優陣の中では文部科学省事務次官を演じた加納幸和が印象深い。
 余談だが、ヒロインの上司、〈機龍隊〉隊長役の高杉亘を見ると、僕はどうしてもタッパの高い硬派のナンチャンを想像してしまう。

 今回、大島ミチルの音楽だけで押し切ったのは評価したい。これまで他の音楽家が担当してもどこかで御大・伊福部昭のゴジラテーマを流すのが当然のようになっていて、往年のファンもそれを期待している。僕もそうだったのだが、この数年で考えを変えた。その理由は「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」で書いているのでここでは省略する。
 大島ミチルが「×メガギラス」以上のゴジラテーマを書いているのは言うまでもない。
 メカゴジラの造型は「VSメカゴジラ」のそれとそれほどの違いはないが、目の下にある赤いラインが戦いの中でまるで血の涙のように見えるの不思議。

 昨年の「大怪獣総攻撃」ほどではないが、映画の出来に満足した。が、気になるのはシナリオだ。
 特生自衛隊の女隊員がヒロイン一人というのはどんなものか。まるで「宇宙戦艦ヤマト」の乗組員みたいでリアルさに欠ける。
 ハム太郎との併映ということで、孤独なヒロインと科学者の小学生になる娘との交流が描かれたのだろうが、そのやりとりが気恥ずかしくてたまらなかった。意図するところはわかるのだけれど、思わず照れて下を向いてしまう。
 54年にオキシジェン・デストロイヤーによって葬られたゴジラの骨を機龍製造にために最近になって採取したというが、近海に眠るゴジラの骨を50年間も放っとくものか。生物学者たちが黙っているまい(映画「ゴジラ」のラストはオキシジェン・デストロイヤーによって、まさしく何も残さず消えたというものだった)。

 ゴジラ撃退の唯一の武器はオキシジェン・デストロイヤーだけ、それを開発した科学者もこの世にいないから、二度と開発できないというのも、21世紀をむかえて説得力をなくしているような気がする。たとえその設計図(?)がなくても開発者・芹沢博士と同等の頭脳を持つ者が現れていい、あるいは第2のオキシジェン・デストロイヤー開発に向けて国家的なプロジェクトチームが組織されてもいい、それだけの年月が経っていると思う。

 機龍が完成し、そのテスト起動の日にゴジラが再上陸、最初のバトルになるのだが、ゴジラを撃破できる決定的場面で、制御不能になり大暴走を始め、街に大被害を及ぼす。普通ならマスコミ、野党を巻き込む大問題になるはずなのに、次の戦いになるとまた簡単に首相の鶴の一声で出撃が決定されてしまう。本来ならこういうところの駆け引きを徹底的に描くべきだろう。そこにスリルやサスペンスが生まれると思うのだが。
 遠隔操縦が不能になり、ヒロインが機龍に乗り込んで直に操縦することになる。ここで初めて放射能汚染が問題になる。だったらゴジラに蹂躙された街はどうなる? 街は汚染されていないのか? 
 クライマックス、ヒロインの「私に力を」の絶叫もとってつけたようで僕の胸には響かなかった。

 一番違和感を覚えたのはラスト。全身武器という機龍の、最大にして最終の兵器は絶対零度の光線を相手に浴びせ、粉々に破壊してしまうというもの。ゴジラとがっぷり四つに組んだ機龍は至近距離でこの光線を放ち、そのまま海中に没する。ゴジラも機龍も助からない、そんな状況下で、まずゴジラが何事もなかったかのように、海面に姿を現し、そのまま海の向うに歩いていく。
 少し遅れて現れた機龍からヒロインが抜け出してその姿を見送る。……最終兵器の威力って何だったんだろう。
 引き分けというヒロインの言葉を受けて、作戦室の首相は「われわれの勝利だ」と結論づける。おいおい、僕は思わず突っ込みを入れたくなった。
 最終兵器のダメージなんて少しも受けたように見えないゴジラが機龍の残骸に背を向けたからといって、そんな簡単に言い切れるものなのか。機龍は破壊されたが、ゴジラは生きているのである。明日またゴジラが襲ってくることも十分予想できるではないか。まったく呑気なものである。
 強すぎるゴジラが仇になった。

 特生自衛隊の設定を生かし、ゴジラと自衛隊の攻防を真正面にすえ、そこに人間ドラマを盛り込むハードでリアリティあふれる(そしてそれは54年のゴジラとは解き放たれた)展開の映画を観たい。手塚監督にぜひ挑戦してもらいたいものだ。

     ◇

2003/01/11

 「ゴジラ×メカゴジラ」(日劇2 再)  

 特撮仲間S氏と鑑賞後、居酒屋「やるき茶屋」にて。

「keiさん、先月観ているんですって。観たなら、観たと言ってくれれば誘わなかったのに」
「いや、最初に誘ったのはオレの方だし。にもかかわらず公開2日めに黙って一人で行っちゃったからね。『仮面ライダー龍騎』の映画も結局パスしちゃったし。Sさんに対して申し訳ないなぁと」
「仮面ライダーやウルトラマンを誘うのはわかるんだけど。ゴジラっていつも一人で観てたんでしょ?」
「平成シリーズの最初の頃はまだ小さかった娘を連れて行ってたよ。小学生になったら拒否されるようになって、それから一人で観るようになったの(笑)。今回はねぇ、最初、TVスポットを見て、そのダサさ加減にがっくりきたんだよ。メカゴジラを操縦するコックピットの釈由美子を真正面からズーム、同じ角度でメカゴジラをズーム。今時こんなショットが通用もんかと、監督のセンスを疑っちゃって。対戦怪獣(?)は嫌いなメカゴジラだし、なんか一人で行く気が失せてねぇ、で、Sさんを誘ったというわけさ」
「それがロードショー2日めに行ったのは?」
「あの日、たまたま有楽町に行く用事があって、『マイノリティ・リポート』観ようと思っていたら、時間が合わなくて。それに試写の段階からえらく評判よかったでしょ『×メカゴジラ』って。で、もう観ちゃえと。まあ、映画が面白くなかったら、今回わけ話してごめんなさいしたんだけど、最初の攻防シーンはもう一度観てもいいと思っていたからさ。それから藤山直美がどこに出てたのか確認したかった(笑)」
「確かに冒頭のシークエンスはかっこよかったなあ」
「54年のゴジラ上陸から生態系が狂って巨大生物のモスラやガイラが日本を襲う。これを向い討つのが自衛隊が誇るメーサー車。東宝自衛隊で最初にメーサー車が登場したのが『モスラ』であり、その存在を決定づけたのが『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』だった。メーサー車の歴史を語るために『モスラ』や『サンダ対ガイラ』のライブフィルムを使ってて」
「メーサー車から発射される光線が樹木をなぎ倒してガイラに被弾するという今でもマニアの間で語り草になっている名特撮シーン、今観てもワクワクもんですよ」
「メーサー車が最初に登場するシーンがいいでしょ? ゴジラ迎撃のため道路を走っていく自衛隊の本物の戦車や車を真横からちょっとあおり気味に撮って、それを店から眺めるカメオ出演の村田雄浩に切り替わって、次に同じ角度で撮られたミニチュアのメーサー車が走っていく。このスムースなカット割りで、まるでメーサー車が本物に見える、かっこいいんだ、これが」
「うん、うん」
「夜そして雨。自衛隊の描写もかなり真に迫っていた」
「でも、映画全体の印象をいえば、前作『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 怪獣総攻撃』の方が断然面白いですよ。金子監督の偉大さがあらためてわかった」
「でも、『GMK』より今度の方がいいっていうファンもいるんだよね」
「へェ、どこが?」
「そんなことわからないよ。オレだって『GMK』の方がよかったもの。たぶんゴジラの造型、あの白眼とか、ゴジラが太平洋に散った兵隊たちの残留思念だという設定に違和感があるんじゃないの」
「でもあれはあくまでも登場人物が語る仮定の話でしかないでしょ。映画の中でそのものずばりが描かれることもないし。ゴジラなんて生物って感じしたじゃないですか」
「だから本当のところわからないよ。話もどすけどさ、今度の映画、同じ手塚監督の『×メガギラス』よりはよっぽどいいと思う。手塚監督の演出力って、まあ金子監督は別にして、それまでのゴジラ監督より数段上だよ。惜しむらくは脚本にめぐまれない。今回、特技監督も新しい人なんだから、どうして脚本も新しい才能で勝負しなかったんだろう」
「何度も言っていることだけど、怪獣映画でボクが一番注目してるのは怪獣の足なんです。いつだってその描写がおろそかにされている。そういう意味ではアメリカのゴジラはすごいと思うんですよ。皆悪く言うけど」
「スリルとサスペンスがジュラシック・パークでなかったら俺ももう少し評価高いかな。で、もし本当に日本に怪獣が現れたら、その全体像を見るなんてことはTVの中継くらいなもんだろう。それも遠く離れた場所からか、あるいは空からの俯瞰とか。怪獣と怪獣の戦いだって、バストショットなんてことありえないわけだから。オレが肉弾戦が嫌いっていうのは、着ぐるみによる人間ぶりの戦いということもあるけれど、その見せ方に反発しているところが大きいんだ」
「ホント、あのカメラワークはやめてほしいな」
「金子監督がすごいと思うのは、『ガメラ3』の冒頭で深海のガメラの墓場が出てくるシーン、あそこを無人潜水挺から送られてくるビデオ画像だけで処理しているでしょ。樋口特技監督のアイディアかもしれないけどさ」
「樋口さんの『日本沈没』へのオマージュですね」
「普通の感覚なら、疑似海底のセットに模型の潜水艇を吊って撮るよね。それを画像が荒れたビデオ映像を海上の調査隊の面々が眺めるという構図。そのセンスにシビれたっていう」
「なるほど」
「渋谷から飛び立つガメラは、TVのニュースで流れた一般人が家庭用ビデオで撮った映像でとらえる。いかにもありそうじゃない、こういうの。この情報化社会で怪獣と接するっていうのは、つまりそういうことじゃないかなと」
「全部見せるのは逆に興ざめしちゃうとか。中途半端なアングルはリアリティそいじゃいますもんね」
「ゴジラはっていうと、自衛隊の作戦室に大きなモニターがあって、そこにゴジラのアップの映像が映し出されるんだけど、このカメラどこにセットされているんだ、誰が設置したんだ、っていつも思っていた。それもフィルムの画を合成するという安易な方法で。今度の『×メカゴジラ』でもメカゴジラのテストシーンにそんな画が出てくるんだよね」
「金子監督は人物造詣、描写も上手いですね」
「『×メカゴジラ』って、最初からハム太郎とのカップリングが予定されていたから、小学生の女の子とヒロインのドラマが用意されたのだろうけど、気恥ずかしくてしょうがない」
「いつかどこかで観たシーンばっかりというのも気になる」
「あの『力を~!』もどこかで見たな」
「我夢の『ガイア~』ですか(笑)」
「メカゴジラが対ゴジラ兵器なんてことぜったいありえない。格闘になったらもう勝負ありだもの」
「ゴジラが出現した場所に特殊ジェット機で輸送するのも、時間がかかってしょうがないですよ」
「そうだよね(笑) 『×メカゴジラ』を観て、オレが今ゴジラ映画に何を求めているかよくわかったんだ」
「と言うと?」
「初めてこの世にゴジラが出現したってことで、その出現から撃退されるまでの物語。要は自衛隊とゴジラの攻防だね。『×メガゴジラ』のオープニングの戦いをもっとハードにしたものといえる」
「面白そうだ」
「ガメラにしろ、ウルトラマンや仮面ライダーにしろ、全く新しい概念で復活して、成功しているよね。ゴジラだけなんだしつこいくらい第一作にこだわっているのは。やはり昔にこだわると何から何まで引きづられるだろう。音楽は伊福部昭じゃなけきゃダメ。ミニチュアと吊りが特撮の基本だとか。でもそうだったら昔の作品を繰り返観ればいいじゃない……この話すると長くなるからやめよう。オレがのぞむゴジラの映画だけど。太平洋でゴジラの生息が認識される。政府は半信半疑。近くの島を壊滅させることで、政府はゴジラ迎撃を決定する。まず海上自衛隊による対ゴジラ作戦。海中と海上での戦い。次に航空自衛隊の空からの攻撃。最初は報道規制が敷かれているんだけど、そのうち、マスコミ各社に気づかれ、スクープを狙うTV局が出てきたりして、ゴジラの姿が公になっていく。でも全身なんてなかなか撮れなくて、小出しに小出しに。ゴジラはどんどん日本に近づきその頃にはもう日本全体が大騒ぎになって、その進行状況からどこに上陸するか、上陸したらどのくらいの被害をだすのか、雑誌やTVで特集されたり。クライマックスは東京に上陸したゴジラと自衛隊の総力戦……。その中で自衛隊員たちの活躍を描くの。群像劇になるのかな。パイロット、艦隊乗組員、戦車隊、さまざま立場の自衛隊員が初めて敵との戦いの中で何を感じ、どう行動して、何を得るのか」
「ゴジラ出現は生態系の狂いでもあるんだから、映画の前半に絶滅した、ある程度大きな生物が各地に現れるなんて描写があってもいいすよね」
「上陸前の前哨戦としてゴジラと闘っていい。『ジュラシック・パークⅢ』のティラノとスピノの戦いみたいに」
「ゴジラ第一作がシナリオ執筆の前にSF作家の香山滋にストーリーを依頼したように、自衛隊、そのメカニックに精通した作家にスト-リーを書いてもらうってのはどうですか?」
「『亡国のイージス』の福井晴敏って線はどうかな」
「とにかく知り合いに自衛隊関係者がいるから、彼と一緒に今度その話を肴に飲み会開きましょうよ」
「いいね、いいね。大いに盛り上がろう!」




 山崎貴監督が「ジュブナイル」で劇場映画デビューしたときはちょっとした衝撃だった。しかし2作めの「Retuner リターナー」で怒り狂う。いつか観たハリウッド映画のいいとこどりのショットばかりだったから。北村龍平監督にも言えることではないか。
 3作めの「ALWAYS 三丁目の夕日」でヒット監督の仲間入りをするわけだが、以後、タイトルが気になりだした。
 「BALLAD 名もなき恋のうた」「SPACE BATTLESHIP ヤマト」「friends もののけ島のナキ」「STAND BY ME ドラえもん」。
 なぜ頭にアルファベットの単語を挿入するのか? これが嫌でたまらなかった。監督の趣味だと思っていたら、プロデューサーの方針らしい。「永遠の0」や「寄生獣」の映画化のときは原作の力の前にアルファベットのオリジナルタイトルは入れられなかったのか。よかった、よかった。

     ◇

2000/07/18

 「ジュブナイル」(日劇東宝)

 初めて劇場でこの映画の予告編を観たとき、アメリカ映画のような特撮(クレジットにはVFXと表記されている)に度肝を抜かれた。昭和30年代を彷彿とさせる家並に最新ロボットが登場するシーン、巨大な宇宙船が航行するシーン、どちらも質感といい、動きといい、まさしくホンモノって感じで、もうそれだけでこの夏一番の期待作になった。
 おまけに内容は少年たちの一夏の冒険物語だし、タイトルはそのものずばりの「ジュブナイル」。期待するな、という方が無理というものではないか!

 小学6年の頃、クラスメートたちと学校の図書館にあった福島正美、光瀬龍、豊田有恒等のジュブナイルSFをまわし読みし、夢中で感想を語り合ったものだ。その後「タイム・トラベラー」を皮切りにNHK「少年ドラマシリーズ」を毎週(毎日)観るようになった僕としては「ジュブナイル」という単語に格別な思い入れがある。

 少年の一夏の冒険ものといえば「少年ドラマシリーズ」に「ぼくがぼくであること」があった。夏休みに家出した主人公の男の子と見知らぬ田舎町の老人と孫娘との触れ合いを描く物語で、男の子が憧れる少女がとてもかわいくて、ドラマ自体もよくできていた。
 大学時代、山中恒の原作の文庫を見つけ読んでみたら、主人公の親や学校に対する不満、怒り、異性への甘い想い等々、いろいろ共感することが多く、僕にとってのジュブナイル小説の決定版となった。
 少年+夏=冒険という公式もこの小説を読んでからできあがったように思う。自分の小学時代を考えてみても、確かにあの頃は夏休みの毎日が太陽のようにギラギラ輝いていたもの。

 未来からやってきた「テトラ」という小型ロボットと4人の少年少女たちが町の天才青年の協力のもと地球を征服にやってきた宇宙人を退治する物語でお話自体は特に目新しさはない。
 映画は少年が活躍する過去の名作、話題作から引用したシーン、構図が散見される。
 少年たちが線路でジャレ合うシーンはもろ「スタンド・バイ・ミー」なのであるが、まあそれはいい。なぜメンバーが少年3人+少女1人なのか。映画的にはここはやはり少年2人+少女1人だろう。そこまで「スタンド・バイ・ミー」を意識するのか?そんな疑問がエンディングクレジットの「For Fujiko. F. Fujio」で氷解した。
 これは山崎監督(本作が劇映画デビュー作)の「ドラえもん」なのであった。主役の少年がのび太、憧れの少女がしずかちゃん、あとの二人がジャイアンとスネ夫。当然未来からのやってきたテトラはドラえもん。テトラの送り主が誰かというのがわかるラストエピソードからもうかがいしれる。

 できれば現代だけの、つまり少年たちの一夏だけの冒険物語として映画を完結してほしかった。ラストでテトラの謎(未来の話)が明かされるにしても、現代社会と乖離するような未来世界を描いてほしくない。
 だからテトラとの別れになって、ある種お涙頂戴的な盛り上げ方に不安を覚えた。目を瞠る特撮が見せ場としても、しょせんこの程度の映画なのか、と。しかし映画のテーマはその後に続く少年たちの未来の物語にあったのだった。ラストでこの映画がとても愛しいものになった。

 主役の少年たちがハツラツとしていてうれしくなるが、何といっても香取慎吾扮する天才科学者がいい。
 今のTV界が視聴率確保のため、ジャニーズ事務所(のタレント)一辺倒になっていることにうんざりしているところに、この映画にもSMAPの香取慎吾が主演するというので、少々引いてしまう部分でもあったのだが、これが大いなる間違いだった。まさしく適役であり、ドラマをぐっと引き締めてくれた。

 エンディングクレジットの8㎜フィルム風のタイトルバックが郷愁を誘った。映像と主題歌(山下達郎)がフィットして、これこそ〈胸キュン〉ものだ。個人的には挿入歌の「ぼくらはアトムの子」というフレーズに反応してしまうのだが。

     ◇

2002/08/17

 「Retuner リターナー」(イイノホール 試写会)  

 山崎貴監督の劇場映画デビュー作「ジュブナイル」を観て、そのハリウッドばりの特撮映像(VFX)に目を瞠った。主人公の少年が操縦するロボットが住宅街を闊歩するシーンにたまらない魅力を感じ、山崎監督にはぜひ皆川亮二のコミック「ARMS」(少年サンデー連載)を映画化してほしいと思った。  
 神の腕を持つティーンエイジャーの少年(少女)たちが活躍する冒険活劇。彼らが〈ARMS〉という超人に変身して、大都会を舞台に敵と繰り広げる壮絶なバトルシーンが観たい!  
 これまでこの手のコミックはアニメ映画化されるのが通常なのだが(実際「ARMS」はTVアニメ化された)、山崎監督の映像センスなら絶対実写化できるのではないかと。

 山崎監督の第2弾が金城武主演の「Retuner リターナー」であることはずいぶん前に劇場予告編で知った。内容はわからないが、その映像の断片からこれまでの邦画にないSFアクションものの香りに満ち溢れていた。  

 公開を今か今かと待ち焦がれていたところ、試写会の話。「待ってました!」とはこのことだ。
 土曜日10時からの試写会。金城ファンの女性たちが多数かけつけるだろうから(「スペ-ストラベラーズ」の試写会の混みようったらなかった)、早起きして2時間前に行ったら、誰もいない。近くのマクドナルドで時間をつぶして30分後に行くと、ちょうど係りの人がフィルム缶を入れた重たそうなバックを持ってやってきたところだった。
 試写会の列の一番前に並ぶなんて生まれて初めての経験。ちょっと気恥ずかしい。  
 結局さほどの混雑もなく、ホールも満杯になることがなかった。休日、それもお盆休みの午前中ということもあるのだろうか。

 映画は「ジュブナイル」同様に山崎監督のオリジナルである。原作ものばかりが目立つ映画界(これは日本だけでなく、アメリカも同様、要は企画がないのだ)にあって大いに評価できるし、何とも頼もしい。

 依頼者の情報にもとづき闇の取引き現場に潜入してブラックマネーを奪還する〈リターナー〉と呼ばれる一匹狼の男・ミヤモト(金城武)。港に停泊する船。そこで行われている人身売買。潜入したミヤモトは買い手一味のボスの顔を見て驚く。かつてミヤモトの親友を殺し、以来ずっと追い求めていた溝口という悪党(岸谷五郎)だった。
 激しい銃撃戦の末、溝口を取り逃がしてしまうミヤモト。おまけに現場に迷い込んだ謎の少女・ミリ(鈴木杏)を敵と間違えて誤射してしまう。一命をとりとめたミリはミヤモトの素性を知るや、クライアントとして仕事を依頼したいと言う。今から二日後、地球の未来を恐怖のどん底に陥れる事件が起こる。それを未然に防ぐことが自分の使命だと。少女は20年後の荒廃した未来からやってきた……  

 斬新なビジュアルがあって、それなりに楽しめる。が、手放しで喜べない。気になるのがストーリーも映像もいつかどこかで観た映画のワンシーンというところなのだ。  
 20年後の世界は「ターミネーター」。ミリが未来から持ってきた〈加速装置〉は金城に「マトリックス」のあのシーンを再現させさかったから(だから皮のロングコートを着ていたのか?)。極悪非道な溝口は「ブラックレイン」の松田優作か。「E.T.」もある。  

 ストーリー自体も目新しさはなく、ラストの落ちも途中で容易に想像がついてしまう。  
 冒頭の英語表記のクレジットでふと感じたこと、人気スターを配し最新の特撮技術を駆使して製作された学生の8mm自主映画みたい、とは言い過ぎだろうか。角川春樹の監督作が頭をよぎる。  
 せめて、限られた3日間の中でミヤモトとミリのコンビが課せられた使命を果たそうと、悪戦苦闘する姿、それこそハリウッド映画が得意とする〈Ride to rescue〉、間に合うかどうかのハラハラドキドキ感を堪能したかったのだが、予定調和の展開にクライマックスでも落ち着いていられた。  
 2作続けて〈タイムトラベル〉ものというのもどうだろう。「ジュブナイル」と「リターナー」は違うジャンルの映画に見えて、その実中味は同じなのだ。
 前作でハートウォーム、胸キュンをやったのだから、今回は徹底的にハードに仕上げて欲しかった、というのは「リターナー」という映画に対するこちらの勝手の思い込みか。  

 特撮は何も怪獣映画の専売特許ではない。「ゴジラ」や「ウルトラマン」「仮面ライダー」だけが特撮ではないはずだ。それこそいろんなジャンルがあってもいい。  
 山崎監督はそのさまざまなジャンルの映画に挑戦できる、なおかつ洋画しか観ないような人たちをも納得させる絵作りの才能を持つ稀有な存在だと思う。小手先の、寄せ集めのオリジナルではなく、本当の意味のオリジナルで(実力のあるシナリオライターを起用してもいい)観客にビジュアルショックを与えて欲しいと切に願います。  


 【追記】
 
 前の方の、眺めのいい席に座ったにもかかわらず、イイノホールのスクリーンがやけに小さく感じた。それに音が悪い。この映画を楽しむには迫力ある映像と音響が必要だろう。劇場でもう一度観直したい。




 観る会まで我慢できなくて本日、地元シネコンで「ジュラシック・ワールド」鑑賞。
 リアル・ゴジラ対アンギラス、リアル・ゴジラ対ゴジラに感激!

          * * *

 この映画の批判の一つにゴジラの設定がある。ゴジラが太平洋戦争で散った日本兵士の残留思念だというアレである。問題視する人たちがいることが不思議でたまらなかった。
 いや、僕だって、映画の中で本当にゴジラがそんな扱いをされていたなら怒り狂ったと思う。でも、映画の中でそんな描写は一つもなかったでしょう? あくまでも登場人物の天本英世が語るだけで。

 そんなことより、僕にはモスラやキングギドラの登場の方が気になってしかたない。ゴジラとの戦いがヴィジュアル的に面白くないのだ。見飽きているからだろう。当初の企画どおりアンギラスやバランだったらと思わずにはいられない。

     ◇

2001/12/15

 「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」(日劇東宝)  

 監督に平成ガメラシリーズの金子修介、脚本に横谷昌宏(「クロスファイア」「溺れる魚」)、長谷川圭一(平成ウルトラマンシリーズ、劇場版)とくれば、期待しないわけにはいかない。  
 東宝もやっと外部のスタッフに活力を求めたことになるが、遅すぎるくらいだ。  

 当初製作ニュースで内容を知った時は悪役に徹するゴジラ、その造型に納得したものの、対戦する怪獣に疑問を持った。伝説の怪獣〈護国聖獣〉という設定でモスラ、キングギドラ、バラゴンが再登場するというのだ。ゴジラの日本上陸を阻止するため現代に蘇る日本古来の怪獣がモスラ、キングギドラはないだろう。
 モスラはインファント島の守り神だし、キングギドラは宇宙怪獣。平成になってから二匹の設定、性格も変わったが、それにしても人気怪獣を出せば何とかなるという会社側の思惑がかなり強い配役である。
 護国聖獣だったらバラゴン、バラン、マンダあたりが妥当じゃないかと個人的に考えたのだが、実際当初の金子監督の企画ではバラゴン、バラン、アンギラスだったとか。そういえばずいぶん前に、次作にはアンギラスが登場する、なんて噂が流れたことがあったっけ。
 本当はこういうプロットこそオリジナル怪獣で勝負すべきなのだが、大ヒットを狙うには仕方のないことかもしれない。  

 着ぐるみ然とした怪獣同士がミニチュアセットで戦う構図に辟易している僕は〈VSもの〉にあまり食指が動かなくなってきたのだが、護国聖獣が悪役・ゴジラと戦うプロットにはうなづけた。原点にもどって人間の敵になったゴジラが「VSスペースゴジラ」以降敵対する怪獣とバトルをすることによりヒーロー然となってしまった。ここに平成ゴジラシリーズのドラマが袋小路に陥った最大の要因があると僕は思っている。

 ゴジラも敵対する怪獣も人類の敵となると感情移入がしにくいのだ。  
 人間側の主役がいてその敵のゴジラがいて、そのまた敵の相手怪獣がいる。この構図だとゴジラの存在が中途半端になってしまってドラマ作りがむずかしい。敵怪獣とのバトルシーンではゴジラを応援するものの、倒してからはそのゴジラが人間に襲いかかる。観客としてどこに主観をおくのか、誰に感情移入すればいいのか、観客のエモーションを喚起させるものが希薄になってしまう。  
 だからあまりに強すぎるゴジラのキャラクターを逆手にとって完全な悪役として人間側に位置する怪獣と戦わせることによりその強さ、怖さを描く方法は巧いと思った。

 もうひとつ、最近の傾向としてゴジラと敵対怪獣とのバトルがバトルだけで成り立ってしまい、人間側のドラマが希薄になってしまっていることがあげられる。怪獣対怪獣の特撮の威力は人間ドラマをからませることによって相乗効果を発揮するものだ。  
 この映画の、僕にとっての見所はオールスター怪獣の戦いと人間ドラマをどうリンクさせてくれるか、につきた。横谷昌宏の構成力、長谷川圭一の熱いドラマ作りをもってすればこれまでの煮え切らないゴジラ映画を払拭するようなドラマを展開させてくれるだろう。シナリオさえしっかりしていれば演出は金子監督なのだから何の不安もない。

 試写会等の噂を聞くにつれ、僕の期待は破裂しそうなくらい膨らんで、初日に劇場に足を運んでしまったのだった。    

 期待は裏切られなかった。平成のゴジラシリーズ、特に「VSスペースゴジラ」以降ずっと抱いていた不満がかなり解消された。  
 冒頭から密度の濃いドラマが展開される。USゴジラに対する軽いジャブがあり、目を見張るビジュアルに驚かされ、ふと笑いがあって心和ませる。  
 内容は平成ガメラシリーズの応用といえるかもしれない。前半は「ガメラ 大怪獣空中決戦」、後半は「ガメラ2 レギオン襲来」。護国聖獣の設定には「ガメラⅢ 邪神覚醒」の影響がみられる。それに「ゴジラ」第一作に対するオマージュや「GODZILLA」の映像への挑戦が垣間見られる。暴走族や無軌道な若者に対する天罰は「クロスファイア」のスピリッツそのまま。

 何よりバラゴンとゴジラのバトルにしびれた。人間の目から見た光景。全体を把握さえるためのTV中継の俯瞰ショットが効果的。
 ロープウェイを横切るバラゴンのショットは「ウルトラQ 五郎とゴロー」の冒頭に勝るとも劣らないインパクト。今の子どもたちは今後、ロープウェイに乗るたびに前方にバラゴンの姿を思い描くのだろうか。僕がゴローの姿を求めてしまうように……。
 今回、うれしかったのは確かに怪獣は着ぐるみではあるけれど、大胆に、繊細に実景と合成していることだ。ミニチュアっぽいカットというものがなかった。

 幼虫モスラの活躍がなかったのは残念だったが横浜の夜空を飛行するCGモスラがよかった。こと飛行ということに関してはCGの威力ぬきには考えられないだろう。昔ながら吊りによるのんきな飛行なんて見せられたらたまらない。
 キングギドラの造型はイマイチだった。3本の首の両端の首がもろ中のスーツアクターが手で動かしているのが一目瞭然だ。

 TV中継に生きがいを見つける娘、ゴジラ退治に命を賭ける父。二人の気持ちがゴジラの襲撃をとおして、ひとつになっていくところは目新しくはないけれど、やはりこちらの心に響いてくる。
 うれしかったのはラストで人間対ゴジラに焦点を合わせたこと。「生きて帰って」の台詞は目頭が熱くなる。

 たぶん勢いで描いているところもあるから何度も観るとアラも目立つような気もするが(突如焼津湾に現れたゴジラが防衛軍のレーダーにキャッチされないで、大涌谷に来られるはずがない)、僕は気にならなかった。全編ビジュアルショックにおおわれていたからだろう。
 新山千春は思ったとおり、スクリーンの中で十分魅力的だった。ミスキャストではないかと少々不安の宇崎竜童もいい味だしていた。その他仁科貴、佐野史郎、モロ師岡等、キャスティングが功を奏している。ガメラ映画の常連さんのゲスト出演もファンにはたまらない。

 ほとんど誉めてばかりいるが、不満なところを2点ばかり。
 せっかく気分爽快にラストを迎えたのだから、海底で動くゴジラの心臓を見せて、やはりゴジラは不死身です、なんていちいち断らないでほしい。
 それからせっかく音楽に大谷幸を起用したのだから、エンディングロールは大谷幸のゴジラのテーマを聴かせるべきではなかったか。いやあれは金子監督のゴジラ第一作と「怪獣大戦争」への敬意なのだろうか。  

 本作が大ヒットしたからといって、すぐに金子監督のゴジラ第2弾を撮らせるようなことをしてほしくない。安易な企画は足元をすくう。来年は「ハム太郎」豪華2本立てでいい。


 【追記】

 バラゴンが婆羅護吽、モスラは最珠羅、そしてギドラは魏怒羅。劇中にでてくる「護国聖獣傳記」に表記されるネーミングである。
 「ガメラ 大怪獣空中決戦」を観た際に僕がまっさきに願ったのは、金子監督に「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」のガイラを復活(設定は別になんでもいい、人を食う人間型の怪獣のキャラクター)させてほしいということだった。タイトルは「餓夷羅」。ガイラとガイラに狙われた5人の若者たちの限定空間(島)における食うか、逃げるかの追いかけっこ。狙いは悪くないと思うのだけど。




 いつのころからか、特撮に対する趣味嗜好がまわりとズレていることに気がついた。たぶんインターネットを利用するようになってからだから1990年代の後半だ。考えが主流でないのである。それはいいのだが、自分の考えが間違いだとは思っていないかったので、孤独感にさいなまれた。

 世代によって嗜好が大きく違うのはわかった。第一期ウルトラにハマったファンと第二期ウルトラのそれでは作品に求めるものが変わってくる。過去の作品だけでなく新作に対しても。

 名無しの権兵衛さんには舌打ちされそうだが、ウルトラ兄弟の競演なんてあまり歓迎したくない。平成ウルトラマンシリーズはM78星雲とは関係ない、別設定によるウルトラマンのため、ウルトラ兄弟のゲスト出演はなくなったが、「ウルトラマンダイナ」の映画化では、ティガとダイナの競演が話題を呼んだ。
 世界観が売りの一つだった「ウルトラマンガイア」が映画化されると知ったときは、大いに喜んだものだが、ティガとダイナがゲスト出演すると知ってのけぞった。映画は幼児を対象にしたファンタジーもので、作品自体はよくできていたが、なぜ「ガイア」でこれをやるのか? という不満が残った。

 僕はウルトラマン映画にいわゆる〈お祭り〉なんて求めていない。何度か書いているが、かつてのTVシリーズ「スーパーマン」や「バッドマン」が映画として蘇った、あのテイストを願っているのだ。

 「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」は念願の作品だったわけだ。

     ◇

2000/04/01

 「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」(丸の内プラゼール)

 やっとTVシリーズの世界観そのままのオリジナル映画を観ることができた。
 当初、この映画の製作が発表された時、内容がどんなものになるのか、自分なりに想像していた。
 TVシリーズでは宇宙から何者かが地球に侵入していたというエピソードが何度か描かれていて、その謎についてはあまり言及されていなかったことから、今度は地球外生物とティガおよびGUTSの最終決戦になるのではないか。と、同時にガタノゾーアとの戦いで基地を破壊されたTPCの再建模様、GUTSからスーパーGUTSに移行する下地なども描かれればいいな、と。

 予告編で映画「ティガ」に初めて接した時は愕然とした。またしても超古代文明に関する物語、それもかつてティガの仲間だったというゴテゴテに装飾された3人のウルトラマン(闇の巨人)、〝いかにも〟といった感じの悪役三人衆の登場。僕にとって一番観たくないパターンなのであった。
 特撮もミニチュアの古代遺跡を舞台にした超人同士の戦いなので、巨大さも迫力も感じられなかった。
 公開されてから、目にする映画評があまり芳しいものでなく、期待感はどんどんしぼんでいく……。

 全くの杞憂だった。ストーリー自体は想像していたとおりだったが、ティガと闇の巨人たちとの戦い、GUTSによるイルマ隊長救出作戦のドラマが見事にシンクロして、クライマックスはかなりの興奮ものだった。
 実のところ、ロートルなウルトラファンとしてはウルトラマンと敵(怪獣、宇宙人etc)の着ぐるみによる肉弾戦にはほとんど興味がなくなっている。
 だから観る者にカタルシスを与える怪獣の都市破壊、ウルトラマンとの戦いがなくてもどうでもいい(あればあったでうれしいけれど)。

 何を「ウルトラ」に期待しているかというと、人間(特捜チーム)が敵(怪獣でも宇宙人でも巨大メカ、なんでもいい)を倒すために、どんな作戦をたて、持てるメカや兵器をいかに駆使して迎撃するか、というところのドラマであり、そんな攻防を緊迫感あふれる演出と斬新な迫力ある特撮でみせてほしいと常々思っている。
 もうひとつは近未来の社会、架空の防衛組織というものをセット(ロケセット)、ロケーション、特撮(ミニチュア&CG)を巧みに組み合わせてリアルに映像化してもらいたいこと。
 TVシリーズだとスケジュールや予算の関係でむずかしいかもしれないことも、映画作品ではある程度可能なのではないだろうか。

 そういう意味ではほぼ期待どおりの作品であった。
 特撮に関しては小中監督による前2作のような驚きはなかった。
 村石監督は「ティガ」「ダイナ」でかなり斬新な特撮シーンを意欲的にみせてくれていたのに、どうゆうわけか「ガイア」になってからどうも今ひとつといった感じがしてならない。

 最初の見せ場であるガゾートの群れが都会を襲うシーンはかなりの迫力ではなるけれど「ガイア」最終3部作の焼き直しだし、ウルトラマンと闇の巨人の戦いはこれまでシリーズで何度となく扱われているウルトラマン対偽ウルトラマンのパターン以外何物でもない(ティガと光のムチを振り回すカミーラとの戦いはかなりキタけど)。
 とはいえ、この戦いにはスクリーンサイズを意識したさまざまな工夫がされていたように思う。ほかにも破壊されたビルの残骸から鉄骨がむきだしになっていたり、古代遺跡の島が崩壊する際の(たぶんCGの)波模様がリアルだったりと細かいところに神経を注いでいた。

 特撮シーンの舞台が古代遺跡の島に限定されてしまって開放感がなかったことは残念。ストーリーがそういうものだからまあ仕方ないことか。
 くやしいのは古代遺跡の街をマット画とミニチュアだけで簡単に表現してしまったこと。これは絶対セットなり、ロケーションなりで古代都市の一部を再現し、実際に俳優をその場に立たせなければ雰囲気が伝わってこない。こういう処理こそCGをつかってほしい。

 ダイゴとレナのラブストーリーがメインの物語であるが、イルマ隊長とムナカタ副隊長のほのかな恋愛を感じさせる信頼関係の描写がなかなかいい。
 スーパーGUTSの面々も意味のある登場の仕方で好印象。
 本作はこれまでと違ってターゲットの年齢層を上げ、アニメの併映もなく上映時間も長い。にもかかわらず観客の大多数を占める就学前の子どもたちは人間たちのドラマ部分に飽きる様子もなくスクリーンを見つめていた。
 面白ければ子どもが活躍しなくても十分通用するのである。




 平成仮面ライダーシリーズの第1作「仮面ライダークウガ」が始まったのが2000年。以来、15年まったく途切れるることなくシリーズが続いている。「クウガ」の主演俳優がオダギリ・ジョーだったなんて忘れられているのではないか。佐藤健が「仮面ライダー電王」の主役だったことも。

 スーパー戦隊シリーズも平成仮面ライダー以上に長寿番組になっている。70年半ばから延々と続いているのだ。「続」も「新」も「Ⅱ」も「Ⅲ」もなく毎年新しいキャラクターが登場してくる。これはすごい。

 ただ、両方のシリーズが巨大ヒーローものだったらここまでシリーズが続いたかどうか(スーパー戦隊はクライマックスで敵が巨大化、戦隊の巨大ロボと戦うお約束シーンがあるが、基本は等身大ヒーローだろう)。
 東映も昔、「ジャイアントロボ」で巨大ロボvs怪獣という特撮に取り組んだことがあるが、赤字のため2クールで撤退してしまった。仮面ライダーやスーパー戦隊が長続きする要因としてたぶんに等身大ヒーローで特撮にあまり金がかからないということもあるのではないか。

 円谷プロの平成ウルトラマンシリーズが3部作で終わってしまったこと、「ウルトラマンコスモス」以降、シリーズが中断してしまうのは、巨大ヒーローものにはとんでもない制作費がかかるからだろう。
 だいたい、円谷プロが一制作プロダクションでしかないが東映は映画会社なのである。資金力が全然違う。

     ◇

2001/09/28

 「仮面ライダーアギト PROJECT G4」(チネチッタ)  

 TV「仮面ライダーアギト」にはまっている。  
 アギトに変身する記憶喪失の根アカな青年・津上翔一、〈もう一人の仮面ライダー〉ギルスに変身する陰のある元大学生・葦原涼、警視庁〈未確認生命体対策班〉の一員で特殊プロテクター・G3システムを装着、〈メカニック仮面ライダー〉ともいうべきG3-Xとなって敵と戦う誠実だが不器用な若手刑事・氷川誠。この3人が未確認生命体(アンノウン)と呼称される謎の怪人たちと戦う物語なのだが、さまざまな要素を詰め込んだ画期的なドラマ作りがむちゃくちゃ面白いのだ。

 アンノウンはなぜ超能力を持つ一般人を次々と殺害していくのか? 津上や葦原はなぜアギト、ギルスに変身できるのか? 3人を結びつける〈あかつき号〉事件とは何なのか? 
 こうした謎の提示や解明を縦糸に、翔一が居候する美杉家の美杉教授、その息子・太一、美杉の姪・真魚(超能力女子高生)との触れ合い、ある日突然ギルスに変身する能力を得た葦原の苦悩、警視庁内の人間関係に翻弄される氷川等、3人の人間関係を横糸に、それぞれがさまざまに絡み合い、もつれ合いながらドラマが進行する。  

 前作「仮面ライダークウガ」も、これまでの東映ヒーローもののイメージを一新するストーリー展開、VTR(ハイビジョン撮影)をうまく活用した映像設計が、いわゆるマニアだけでなく大人の視聴者をも魅了した。  
 後を受けた「仮面ライダーアギト」は、「クウガ」の世界観をよりバージョンアップし、複数ヒーロー、ミステリーの連続ドラマという要素を加味した(基本は刑事ドラマの変形か?)。いくつもはられた伏線、謎が謎を呼ぶストーリー、VTR特有の鮮明な凝った映像で毎週TVにくぎづけにしてくれる(とってつけたような謎解き、忘れさられた伏線もあって、下手すればその昔の大映テレビの〈赤い〉シリーズになるおそれもあるのだが)。

 ウルトラマンと違って仮面ライダーにそれほどの思い入れのない僕は、作品の一番の見せ場であるヒーローと怪人の闘いはどうでもよく、素顔の役者たちが活躍するドラマ部分に夢中になっている。主要な視聴者である就学前の子どもたちがついていけるのかという疑問もわくが、面白いのだからしょうがない。世の女性たちの目当ては美形の主役の青年三人衆なのだろうが。  

 「仮面ライダーアギト」が東映50周年記念作として、長い歴史を誇る戦隊ヒーローものの最新作「百獣戦隊ガオレンジャー」とともに映画化された。「アギト」は第1作の放映から数えて30周年の節目の作品でもある。  
 通勤途中にある丸の内東映の最終上映の開始時間が早すぎてとても退社後では間に合わない(それでも夜も上映するからありがたいか。「ウルトラマン」の劇場版は昼間で上映が終了し、夜は別のプログラムになってしまうのだから平日行けない)。川崎のチネチッタだと上映時間も若干繰り下がり何とか間に合う。といことで、さっそく足を運んだのだが、悲しいかなこの館、スクリーンが小さい。

 先に上映された、完全に幼児向けに作られた「百獣戦隊ガオレンジャー 火の山、吼える」を観て、はたと気がついた。何も子どもを連れて行くわけじゃないのだから、「アギト」の上映に間に合えばいいのだ。だったら丸の内東映へ行けたじゃないか。  
 「ガオレンジャー」とのカップリングということもあり、いかに「アギト」が面白そうでも大の大人が一人で観に行く勇気がない。で、特撮好きな友人を誘った。「ウルトラマン」は一人で行けるというのに。思い入れの差はこういうところで表れる。  

 映画版はTVシリーズとそれほどリンクしない独立した話になっている。  
 自衛隊が管轄する多数の超能力を持つ子どもたちを研究する施設がアンノウン(蟻の怪人)の集団に襲われた。仲間がたちが皆殺しにされる中、運良く難を逃れたふたりの子ども(少女と少年)が、やがて津上(賀集利樹)や美杉家の家族、葦原(友井雄亮)と知り合う。
 自衛隊の一等陸尉(小沢真珠)は、警視庁のG3システムの上をいきながら装着員の犠牲を生むため封印されていた〈G4〉の資料を盗み出し、独自にプロジェクトG4に着手。G4を完全無敵なものにするために、真魚(秋山莉菜)を拉致し、彼女の超能力をG4に取り込み、G3-Xと対峙させる。
 自衛隊の秘密基地に侵入し真魚を奪還しようとするアギトとギルス。G4に闘いを挑むG3。そこにアンノウンが攻撃してきて……、というテレビシリーズ同様ぐいぐい引き込まれる展開である。

 タイトル前に繰り広げられるアンノウンの集団による施設破壊、殺戮シーンは見応えがあった。同じ型をしたアンノウンの集団というのが斬新なイメージだ。このアンノウンの毒牙にやられた人間がまるで水中で息ができないように窒息していくビジュアルが単純だが効果的だった。
 物語の要となる孤児ふたりの演技に嫌味がない。
 最初佐藤藍子かと勘違いした小沢真珠の作り物っぽい鼻がいかにも敵役という感じ。
 何より拉致された真魚の衣装、表情がセクシーだった。映画の中の一番の収穫だったりして。

 話には夢中になったものの、映像的には少々期待がはずれた。
 VTR撮影の特撮ヒーローものに懐疑的だった僕の考えを「ケイゾク」ばりのカメラワークで打ち破り、そのテクニックに毎回堪能させてもらっている「アギト」のこと。その映画化では映像そのものにも関心がわくというもの。
 映画化作品は、最近ちらほらと噂に聞こえてくるデジタル撮影なのだが、これがフィルム化されて上映されるとなるとその画像に不満がでてくる。
 映像に陰影がない。画面が妙に平坦だ。またビデオ画像特有の鮮明さもなくなってしまう。
 あるいはセットに制作費をかけられなかったからか、画面全体からスカスカ感が漂ってくる。
 まあ、しかしビデオ化、DVD化される際に、本来のVTR映像になればまた印象も変わるかもしれない。




 泉政行の訃報にショックを受けた。最近見ないなあと思っていたのだが、病気だったのか。「科捜研の女」にレギュラー出演していたときはうれしくてけっこうチャンネルを合わせていた。
 35歳か、若すぎるよ。
 特撮レビューの転載シリーズ、先に「アギト」があるのだが、予定を変える。

 泉政行さんのご冥福をお祈りいたします。

     ◇

2003/09/12

  「劇場版 仮面ライダー555 パラダイス・ロスト」(丸の内東映)  

 「仮面ライダークウガ」から始まった平成のライダーシリーズも早いものですでに4作め。もう4年放映が続いているのである。  
 円谷プロの平成ウルトラマンシリーズは「ティガ」「ダイナ」「ガイア」と3年続いた。21世紀になって「コスモス」が始まったが1年でTV放映は終了して、新シリーズに続かなかった。後日談としてのコスモスの新作映画が昨年、今年と2年続けて(前日談を含めれば3年続けて)公開されているというもの、その存在感は仮面ライダーに比べるとかなり薄くなってしまった。
 
 1970年代の特撮番組ブームを彷彿させる。あの当時も後発の仮面ライダーがあっというまに「帰ってきたウルトラマン」の人気を追い抜いて大ブームになったのだった。今も昔も円谷プロファン、ウルトラファンとしてはつらいものがあるのだがしようがない。
 とにかく今、時代は仮面ライダーである。イケメン俳優を起用しての連続もの、スポンサーの意向を反映させながらシリーズごとに新たなテーマを盛り込んでいく。決してパワーダウンしていないところがすごい。美形の俳優がメイン視聴者である子どもたち以上に母親たちを夢中にさせているとメディアで話題になっているが、ただそれだけでは息は続かないと思う。  

 僕が新しい仮面ライダーに注目したのは、その世界観、ドラマの作りである。  
 平成ウルトラマンも昭和のそれとは全く異なるアプローチで世界観が構築された。とはいえ、ドラマそのものには伝統的なものがある。
 事件の発生(怪獣の出現)~特捜隊の出動~ウルトラマンの出現~怪獣対ウルトラマン~ウルトラマンの勝利。この基本フォーマットは崩せない。
 
 片やライダーはというと、ほとんど昔の面影を残していない。怪人に当たる異形者は出現するというものの、「アギト」以降、記号化してしまった感じだ。そのキャラクターにあまり重きを置かない。あくまでも主人公たち人間をめぐるドラマがメインであり、クライマックスのライダー対怪人というお約束ごとも完全に無視された格好。人間ドラマの部分だけみていると子ども向けのヒーロー番組であることすら忘れてしまう内容なのだ。
 
 「クウガ」「アギト」ともにタイトルには仮面ライダーとあるが、劇中一度も〈仮面ライダー〉と呼ばれなかったことも一つの見識だった。「アギト」以降は連続ドラマになったことからかサブタイトルが廃止された。子ども向け番組に不可欠なエンディングタイトルもない。「龍騎」「555」にいたっては主題歌にヒーローの名が入らない(アニメには多いらしいがあちらはあくまでも人気歌手とのタイアップのイメージが強い)。昔から僕が夢想していたことを次々と実現してしまうのだから「もういい加減卒業」と思いながらも目が離せなくて困ってしまう。    

 これはもはや仮面ライダーではない、にもかかわらずライダーを名乗るのはなぜ? と不満だった「龍騎」に結局最後までつきあってしまった。「龍騎」は永遠の命を求めて複数のライダーが別世界(ミラーワールド)でバトルロワイヤルを繰り返す話。スポンサーの意向で変身アイテムに流行のカードを取り入れたり、CG仕様のモンスターを登場させたりと、幼少の子どもたちに喜ばれる要素を増やしながら、ストーリーそのものはそんな子どもたちに理解できないような内容、展開になっていた。
   
 本当なら「龍騎」で仮面ライダーを卒業していたはずだった。3作、3年はシリーズの一つの区切り。「555」(これでファイズと読む)のデザインもそれほどでもないし、もうこれ以上新しい展開はないと踏んでいた。まったく期待しないで観た第1話がこれまた新しい魅力を持っていた……。  

 オルフェノクと呼ばれる怪人がいる。人間がこの怪人に襲われると普通死んでしまうのだが中にはオルフェノクとして蘇ることがある。オルフェノクとして生きることになってしまった青年の話から始まったのが斬新だった。同じようにオルフェノクとなった孤独な女子高生やギタリストへの道を閉ざされた元音大生と共同生活を営みながら、主人公トリオと対峙する。ポジティブな主人公トリオに対するネガティブな位置関係というところに目を見張った。開始当初は本当に主人公たちがコメディリリーフだったのだから驚きだった。
 
 555に変身する主人公の乾巧(半田健人)、流星塾出身で今は亡き育ての父親から555のベルト(ファイズギアと呼ぶ)を託された真理(芳賀優里亜)、二人と一緒にクリーニング店を経営する人のいい啓太郎(溝呂木賢)。
 オルフェノクになっても人間らしく生きたいと願う青年・木場(泉政行)、女子高生・結花(加藤美佳)、元音大生・海堂(唐橋充)。
 この陽と陰のグループに彼らを狙って暗躍するスマートブレインという謎の企業、真理のかつての仲間たちだった流星塾のメンバーが絡んで物語が展開していく。

 人間関係が複雑である。ファイズギアをめぐって巧たちと敵対するスマートブレイン、スマートブレインに抹殺されようとしている木場。素顔の巧と木場は互いを尊重していうが、お互い555でありオルフェノクであることを知らない二人は変身後憎しみあう関係。
 流星塾のメンバーには巧同様カイザというもう一人のライダーに変身できる草加(村上幸平)という男がいるのだが、なにやらずる賢く信頼がおけない。
 また、今度の新機軸は主人公以外の人物もファイズギアを装着すれば555に変身できてしまうところ。通常の人間にはその能力はないが、オルフェノクなら可能なのである。

 「555」が始まって一番驚いたのはシナリオがまた井上敏樹だったことだ。「クウガ」から参加していて、「アギト」ではメインになり1年間ほとんど一人で書いていた。映画も担当。続く「龍騎」ではメインこそ小林靖子だがやはり参加していた。今回もまたまたメインとなって第1話からずっと書き続けている。  
 そのほとばしる才能とエネルギーに脱帽してしまう。毎週締切があって、おまけに夏には映画がある。誰にでもできることではない。  
 ただし「555」では才気と勢いで書き飛ばしているのではという思いもある。「アギト」の映画の時に書いたことだが、〈TVシリーズはヘタすれば大映ドラマになってしまう〉と感じた危惧が「555」ではより垣間見られる。  
 展開はすこぶる面白い。クラシックギターの調べに乗せての555とオルフェノクのバトルシーンには興奮した。このエピソードは特撮ヒーロー史に残る快挙ではないか。
 しかし(たぶんに確信犯的なのだが)ご都合主義が目について仕方ない。偶然が多すぎる。世間は乾グループと木場グループ、それに流星塾メンバーしか存在していないかのように事件は彼らの廻りでしか起こらない。オルフェノクに襲われるのは彼らだけなのだ。張られた伏線もいつのまにか忘れられている。  

 そんなところに映画化の話である。昨年「龍騎」の映画はパスしてしまった。ビデオも観ていない。今回もそれほど乗り気でなかったのだが、TVスポットで気が変わった。たぶんクライマックスだろうアリーナ内での怪獣と555の闘い。よくできたCG怪獣(それほど巨大でないところがいい)と等身大の555ーがどう闘うか、その映像に興味を抱いた。  
 ロードショー最終日の最終回に劇場に駆け込んだ。  
 昨年はTVシリーズのファイナルを先に劇場で公開することが売りだった。今年は登場人物が同じにもかかわらずTVとは違ったまったく独立したオリジナルストーリーだと盛んに宣伝されていた。  
 何のことはない、TVシリーズの後日談だった。  

 世界がスマートブレインの策略によってほとんどの人間がオルフェノクになってしまった近未来。真理や啓太郎、少数の人間たちはレジスタンスを組織して反撃のチャンスを狙っている。スマートブレインが持っている伝説のギアを手に入れるため。が、なかなかうまくいかない。焦る仲間たち。かつての同士555の巧は今や行方不明の身だ。真理は彼こそが救世主と信じ再び現れることを願っているのだが……  

 舞台はまるで「リターナー」の未来世界ということは「ターミネーター」のそれ。T嬢が感嘆したように、まるで「西部警察」みたいな火薬をフルに使用した爆発のシーンの連続。スタッフ、キャスト一同が頑張っているのはよくわかる。わかるけれど、映像にどこかスカスカ感がある。アクションのアップは、ハイビジョンをフィルムに転換したためなのか、コマ抜きのようにカクカクしてどうにも気になる。  
 TVのビデオ独特の鮮明な画像、それを生かした映像美に慣れた目には薄っぺらい映像に違和感を覚えてしまうのだ。  
 他の映画から触発された(悪くいえばイタだいた)シーンに興をそがれた。海堂の結花への愛の告白。このシーン自体TVの最終回近くで拝見したかったものだが、台詞がまんま「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」のハン・ソロとレイアの会話を逆にしたものだ。クライマックスは「エピソード2」だし。CG怪獣の出来には目を瞠ったけれど、井上さん、やっぱりどこか手を抜いているような気がする。  

 この映画のもう一つの売りだった1万人のエキストラ出演は壮観だった。けれど、ある部分これまた興がそがれたものである。  
 クライマックス、オルフェノクになってしまった人間たちが観客として見守る中で、スマートブレインの魔の手に落ちたヒロイン真理が怪獣のいけにえされ、まあいろいろあって、555と木場が変身したオルフェノクとの戦いになるのだが、アップになった観客は撮影に参加できてうれしくてたまらないエキストラの顔でしかない。これはエキストラに罪はない。せめて、会場のアップの場面は役者たちを起用してもらいたかった。  

 映画がつまらなかったわけではない。しかし僕はノレなかった。TVシリーズが終了した後、ビデオで観て、こういう話もありか、と納得するべきだった。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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