昨日で18日間という連続勤務を終えて本日は休み。
 ……のはずだった。

 だから、帰宅してから、一週間前から借りているにもかかわらずなかなか再生することができなかったDVD「大都会 ~闘いの日々~」最終巻(8巻)収録の3話を鑑賞し、続いて「ウルトラマンダイナ Vol. 12」収録の4話をチェックしたのである。
 なんて夜中の行動のように書いたが、本当は、「大都会」の最初の1話を観ながら寝てしまい、すべては観たのは朝だった。
 返却日は月曜日だったのだが、翌日の昼までは大丈夫なので、延滞金は派生しなかったというわけだ。

 今、横になってDVD(TV番組)を観ると、必ず途中で寝てしまう。
 わかっているなら、横にならなければいいのだが、疲れているのでどうしても寝そべりたいのだ。身体中が痛い。全身マッサージをしたくてたまらない。

 それはともかく、「大都会 ~闘いの日々~」。やはりリアルな刑事ドラマはいいなあ。
 アクション主体になった「大都会PARTⅡ」は大好きなのだが、改めて「大都会 ~闘いの日々~」全話を見直すと(一週間に1巻づつ鑑賞していた)、その差がわかる。
 ちなみに渡哲也演じる黒岩刑事。この名前って、渡の復帰作「やくざの墓場 くちなしの花」の主人公からとられているんですね。映画の渡哲也は一匹狼の不良刑事なのだが。
 仁科明子の妹とのふれあい、高品格とのコンビによる捜査描写。「PARTⅡ」では年下の上司と年上の部下の関係になるのだが、本作では高品が先輩刑事、渡が後輩刑事としてコンビを組んでいる。佐藤慶がリーダーで、深町軍団と言われている。
 倉本聰+村川透コンビ作品なんて、これ以降ないし。

 「ウルトラマンダイナ」は46話の「君を想う力」が観たくて借りてきた。そのほかのエピソードを含め、丁寧な作り(ドラマも特撮も)でうれしくなる。

 話を戻す。
 本当なら、自宅で休養をとって、夕方日暮里寄席に行く予定だった。
 ところが、急遽イベントが入ってしまった。
 今日勤務のSさんは定時以降私用があって、イベント対応できない。オーナーも別件がある。というわけで、先週同様、夕方からの勤務になったというわけだ。

 だったら、午後は映画を観ようと地元シネコンで「君の名は。」を鑑賞する。

 この項続く

 ああ、「シン・ゴジラ」のレビューが……。




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 本日フジテレビで放映された「ホワイトハウス・ダウン」、ある意味「ダイ・ハード」のパクリなのだ。「インデペンデンス・デイ」同様、アメリカ合衆国万歳!で味付けして。エメリッヒ監督はドイツ人なのに。

 この映画は試写会で観た。
 精神的なことで会社を休職しているときに。
 まあ、それなりの面白さ。

     * * *

 2週間前に図書館のDVDコーナーで見つけたので借りてきた「フライ・ダディ」。金城一紀の小説「FLY,DADDY,FLY」は岡田准一、堤真一主演で映画化された。韓国でも映画化されていたなんてちっとも知らなかった。

 日本の人気小説が日本だけでなく韓国で映画化されるのは珍しいことではない。貴志祐介「黒い家」がそうだった。韓国映画「黒い映画」はDVDで観た。残念ながら日本も韓国もあまり出来のいい映画ではなかった。

 しかし「フライ・ダディ」は違う。これは韓国映画に軍配が上がる。
 主人公の父親が訓練によって肉体改造していることが実感できるのだ。そのほか、原作を損なうことなく、映画のオリジナルを挿入している。

 本当なら、もう一度原作をあたり、日本映画の方もDVDで確認してから書くべきなのだが、そんなことしたら時間的にUPできないから、あくまでも記憶だけで書いていることをご了承のほどを。

     ◇

2005/06/28

 「FLY,DADDY,FLY」(金城一紀/講談社)

 岡田准一、堤真一主演により映画化されたと知って、あわてて借りてきた。「GO」の感動が忘れられない者としては当然の行為。作者も映画化作品に対する想いは同じだったらしく今度は自分で脚本まで書いているというのだ。これは期待するなというほうが無理だろう。「小説と映画のあいだに」で取り上げられるかもしれないという下心見え見えだな。

 鈴木一、47歳。大学時代の同級生だった女房と名門女子高に通う一人娘の3人暮らし。会社でも順調に出世して今は経理部長だ。一戸建てのマイホームも手に入れ、平凡ではあるが充実した毎日を送っていた。
 そんな彼が遭遇した人生一大のピンチ! 娘がカラオケボックスで暴行を受け入院したのだ。
 暴行した相手は都内の有名私立高校のボクシング部選手・石原。インターハイで二連覇している強者で、両親はふたりとも芸能人、病院へは教頭、顧問とともに訪れはしたものの、まったく反省の色がない。だいたい事件の詳細が要領を得ない。学校側も多くを語ろうとせず、この不祥事を金と力で解決しようとするだけ。娘の心の傷は大きく、怪我が完治しても固く口を閉ざす。
 家族の長として、男として失格……
 失意の彼が知り合ったのが、先の有名私立高校と同じ地区にある某三流高校の落ちこぼれ生徒たち。南方、板良敷、萱野、山下、朴舜臣(パク・スンシン)のグループだ。
 会社から一か月の休暇をもらった彼は喧嘩の達人、舜臣の指導のもと、激しいトレーニングを積む。喧嘩の極意をマスターした彼は、石原に素手による一対一の対決を申し込む……

 主人公と驚くほどシチュエーションが似ていた。
 まず年齢が近い。中肉中背。女房と高校生の娘の3人家族。娘は一人っ子を感じさせないしっかりタイプ。マイホームから駅まで約2キロ。バスを利用している。
 ま、こちらは同じ上場企業に勤めながらも出世にはほど遠く、自宅も狭い中古マンションで娘に勉強部屋も与えることができないだらしない父親ではあるのだけれど。

 物語はある種のファンタジーといっていい。仕事一途に突き進んできた平々凡々の男が、ある事件をきっかけにして激しく苦しいトレーニングを積み、やがて一対一の男の決闘に挑む。その過程で、その結果、男は何を手にするのか。
 普通に考えれば、〈そんなバカな〉と思えるような展開もあるが、シラけることはない。読み進むうちどんどん熱くなっていく。クライマックスの対決では手に汗握ることになるが、個人的にその前のバスとの競争のくだりに胸にくるものがあった。
 最終バスに乗るサラリーマンのグループ。いつも同じメンバー、互いに認識しているものの会話を交わしたことはない。彼もその一人だったが、トレーニングに励み脚力に自信をつけてからはバスに乗るのはやめ、走って帰ることにした。バスの発車とともに駆け出し、利用している停留所までどちらが先に到着するか競争するようになったのだ。普通に走ればバスが早いのは決まっている。しかしあちらには信号待ちがあるのだ。最初は全然かなわなかったが、いつのまにか肉薄するようになってきた。ついに勝利する時がやってくる。勝利した時の、それまで無関心を装っていたメンバーたちのはしゃぎようがいい。

「GO」同様、やはりこの作者は〈軽さ〉が身上だ。よみやすい軽快な文章、散りばめられた笑い。あっというまに読了してしまった。
 聞けばスンシンたち落ちこぼれグループが活躍する物語の、これは第2弾だという。第1弾の「レボルーションNo.3」もあたらなければなるまい。

     ◇

2005/07/17

  「FLY,DADDY,FLY」(丸の内東映)

 原作者(金城一紀)自身がシナリオを書いた映画(監督:成島出)はいかなるものか。かなり期待して丸の内東映会館に向かった。
 入口に立って看板を見上げると、「FLY,DADDY,FLY」の隣に昨日公開されたばかりの「姑獲鳥の夏」が。こちらも主演が堤真一である。片やダメ中年オヤジ、片や古書店の主にして頭脳明晰の陰陽師・京極堂=中禅寺秋彦役。まったくタイプの違う人物を演じるのは役者冥利につきるだろう。

 高校生の娘(星井七瀬)に理不尽な暴行を働き大怪我をおわせた有名私立高校ボクシング部の選手(須藤元気)。腕力だけで理性のかけらもないが、インターハイ三連覇に賭ける選手は学校にとって名誉なことであり、表沙汰にできないこの不祥事を金と権力で闇に葬ろうとする教頭(塩見三省)と顧問の先生(モロ師岡)の態度。彼らに怒りを覚えながらもただオロオロするばかりの父親(堤真一)
 俺は娘のため家族のため何をすればいいのだろう?
 娘の信頼を失くした男が、落ちこぼれ高校の5人組と知りあい、喧嘩の達人・スンシン(岡田准一)の特訓を受け、見事復讐を果たす物語。

 うまく小説世界を映像に転換させていた。ロケが効果的だ。この世にありえない架空の世界、といって絵空事ではない人間味あふれる世界が確かにスクリーンに存在している。
 冒頭、主人公のプロフィールを語るモノクロシーン、その語り口はかなり快調である。原作の設定を変え、毎日最寄駅まで妻(愛華みれ)が送迎していることに、その夜は娘も一緒に迎えにくることによって、家族構成を含め、その仲の良さをアピールする。
 続くもう一人の主人公スンシンの登場シーンでは瞬時にカラーとなって空の蒼さを強調する。映像処理や対比がいい。
 いいのではあるが、娘が3代目夏っちゃんこと星井七瀬であることと父と娘の仲が良すぎることに違和感を覚えた。星井七瀬だとどうにも幼すぎるのだ。もっと大人びた、クールな感じをイメージしていた(途中、友人役で渋谷飛鳥が出てくるが、彼女の方が個人的には適役だと思う)。それに娘と父親のやりとりがいかにも絵に描いたようで嘘っぽい。この年頃の娘はもっと父親に冷たいぜ、悲しくなるほどに。
 この違和感を最後まで引きづってしまった。

 もうひとつ、バスとの競争シーンで常連の乗客たちが最初から主人公を応援する態度に閉口した。主人公一人だけの達成感が、実は乗客一人ひとりの感動に結びついていたという原作の味がなくなった気がする。というか、一人で喜びをかみしめていた主人公、そこにバスがバックしてきて乗客、運転手が拍手喝采する、展開の方が感銘は倍増すると思うのだが。
 原作では主人公が家族には内緒で特訓を受ける。会社に行く振りをして毎日スンシンに会っているわけだ。もちろん仲間たちが家族に連絡をとって、肉体改造の食事メニューやらなんやら教えているのだが。直接には高校生と家族のやりとりは描かれなかったところが、対決前の夫婦の会話に活かされていた。映画は夫(父親)の勝利を願う妻や娘の姿を描いている。それも出来すぎていて肩透かし。
 スンシングループの面々が協力して、仲間一人を屋上からロープで吊るし、娘の病室のところまで降ろさせ、意思の疎通をはかるなんて行為は少々やりすぎではないか? トトカルチョのくだりは映画オリジナルでこれは納得。

 大木に吊るされたロープを腕だけで昇る特訓がある。何度も失敗し、やっと昇った主人公がスンシンと太幹に腰を下ろして対話するシーン。夕暮れ時で空には星が瞬き、眼下には住宅街が広がる。木に登った二人とバックの空や住宅街はたぶん合成だろう。この合成が素晴らしい。手前の二人を移動カメラで捉え、その動きに合わせてバックの空も色を変えながら動いていく。内容的、映像的に屈指の名シーンといえるのだが、やはり合成は合成なのである。開放感がいまひとつ感じられないところが悔やまれる。
 それからこれはないものねだりかもしれないが、特訓によって徐々に肉体がリフレッシュされていく様、頬がこけ精悍になったり、胸板が厚くなったりといった描写があったら、また違った感動、感銘を受けたと思う。

 というわけで、観終わってすがすがしい気持ちに浸れたものの、「GO」のように絶賛する気になれないのが残念で仕方ない。
 原作を先に読んでいなければ印象も違ったものになったと思うのだけど……。

 カメラワークの良さは特筆できる。キャメラマンは誰だろうと気になってエンディングロールで確認すると仙元誠三だった。


 【追記】

 その1
 決闘の前に主人公が娘の幼少時代のビデオを見るシーン。1年に一度くらい僕も無性に見たくなるときがある。キスしてと言うと喜んで唇を近づけてくれた。歩くときは必ず手をつないできた。それが今は――。

 その2
 主人公がジョギングしているコースにいつも登場する老夫婦の旦那さん、東映特撮ヒーロー番組でいつも悪役(の幹部)やっていた役者さんですよね? 懐かしかったなァ!

 その3
 協力のクレジットに〈太田市役所〉とあった。これは郷里の群馬県太田市のことだろうか? 何年か前に瀟洒な建物に建て替えられていているのだ。




 1日(映画サービスデー)はユーロスペースで公開している「野火」を観るつもりでいた。川越の直行直帰の仕事が終わったのが17時30分過ぎ、JR川越駅に着いたのは18時。そのまま渋谷へ向かっても19時の最終回には間に合わないのは確実だから、さいたま新都心のMOVIXで「ミッション:インポッシブル ローグ・ネイション」もしくは「テッド2」でも観ようかと計画変更したが、それも時間的(18時30分、18時50分)に叶わず映画鑑賞は諦めた。川越って遠いのね。

 昨日(もう一昨日だが)は、角川シネマ有楽町で「ラブ&マーシー 終わらないメロディー」を観た。
 公開されたのは8月1日、なかなか時間がとれなかった。火曜、もしくは金曜日なら会員サービスで1,000円なのだが、本日(4日)は別の予定があるし、上映は今週で終了なので仕方ない。それでも1,300円だから。予想していた内容とは全然違った。エンディングロール(歌)でなぜか泣けてきた。

          * * *

 承前

 「ゼロファイター 大空戦」
 (脚本:関沢新一、斯波一絵 監督:森谷司郎 特技監督:円谷英二 主演:加山雄三、佐藤允)

 「日本沈没」の森谷司郎監督の監督デビュー作。
 某南島の基地を舞台にした若い戦闘機パイロットたちの青春群像といった趣きで完全に作品世界にのめり込んだ。この映画に限ってはカラーで観たかったという思いが強い。それほど瑞々しい印象なのだ。
 登場人物のキャラクターが良い。森谷監督の演出力に並々ならないものがあることがわかる。
 「日本沈没」が大ヒットしたのは、脚本(橋本忍)、特撮(中野昭慶)の力もあっただろうが、森谷監督の演出も影響していたのだと思う。もし84年版の「ゴジラ」でメガホンをとっていたら(当初森谷監督が予定されていたというが、病気のため新人監督が起用されたという経緯がある)、もう少しは面白い映画になったのではないか。同じ脚本だったとしても。
 初期に手がけた作品から青春映画を得意とする監督だと考えていた(小学6年のときに学校の体育館で「赤頭巾ちゃん気をつけて」を観賞している)。それが、「日本沈没」の大ヒットによって大作映画(「八甲田山」「聖職の碑」「動乱」等)へとシフトしていったのは本意ではなかったのではないかと。
 この映画を観てあながち間違いではなかったと思った。
 
 肝心の特撮のこと。
 戦艦(海上)の特撮は今でもそれなりに見られる出来なのに(人間ドラマから切り替わっても)、ゼロ戦の空中戦、発進や離陸といった特撮は少々恥ずかしい。太陽光の有無によるものだろう。海洋シーンは基本屋外の大プールで撮影する。対して飛行機の飛行シーンは屋内のスタジオだ。太陽光の下で撮影すると、同じミニチュア模型でも角度によってはリアルに見えるのである。


 「零戦燃ゆ」
 (脚本:笠原和夫 監督:舛田利雄 特技監督:川北紘一 主演:堤大二郎、橋爪淳、早見優)

 1980年代、シナリオライターの笠原和夫はやくざ映画から戦争映画にシフトしていた。東映の「二百三高地」「大日本帝国」「日本海大海戦 海ゆかば」という3部作のあと、同じ舛田監督とのコンビで東宝でゼロ戦ものに取り組んだ。東映作品の特撮は中野昭慶特技監督が担当していたが、東宝は川北特技監督起用した。出来は「セロファイター 大空戦」で感じたまま。
 若手俳優がいい味だしていた。
 主題歌と挿入歌を石原裕次郎が歌っている。いい歌とは思うが、映画に似合っているかというとそうではない。「二百三高地」のさだまさし「防人の詩」や「戦艦大和」の谷村新司「群青」の路線を狙っているのだろう。
 ゼロ戦の特撮は屋外でラジコン模型を飛ばしたシーンはいいが、スタジオの吊り撮影はいかにもミニチュアといった感じでいただけない。ゼロ戦のリアルな映像は「聯合艦隊司令官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」まで待たなければならないのか。「永遠の0」の画期的VFXも「聯合艦隊司令官 山本五十六」があればこそ、だ。


 「大空のサムライ」
 (脚本:須崎勝弥 監督:丸山誠治 特技監督:川北紘一 主演:藤岡弘)

 東宝の作品なのに、なぜかDVDが他社から発売されている。なぜだろうと思ったら、オープニングクレジットに〈大観プロダクション〉とあった。聞いたことのない制作会社だ。調べてみたら、ねずみ講組織である「天下一家の会」の宗教法人だという。
 ねずみ講とは懐かしい。あまり大きな声ではいえないが、うちの親はねずみ講で儲けて軽トラック1台を購入している。僕が中学生のとき。親戚(僕にとっての叔父、叔母)を巻き込んでそりゃ大変な騒ぎだった。
 そんな話はどうでもいい。
 冒頭に原作者であり、映画の主人公(のモデル)である坂井三郎のインタビューが挿入されていてちょっと萎えた。藤岡弘との落差が……
 川北特技監督の劇場映画デビュー作。飛行シーンにラジコンを使って実際に空に飛ばしているところのみ目新しい。


 「竹取物語」
 (脚本:菊島隆三、石上三登志、日高真也、市川崑 監督:市川崑 特技監督:中野昭慶 主演:沢口靖子、三船敏郎、若尾文子) 

 この作品も公開時にパスしてしまい、以来観たことがなかった。市川崑監督なのに。ラストに登場する月から使者がもろ「未知との遭遇」のUFOというところ、それもシャンデリア風の造形に反発したのである。これが「未知との遭遇」の公開直前、直後ならまだわかる。10年も経っていて、にもかかわらず同じアイディアなのが許せなかったのだ。脚本に石上三登志が参加した結果がこれなのか。菊島隆三の名前にもびっくり。
 三船敏郎と若尾文子のシーンがいい。竹林のシーンも素晴らしい。実相寺昭雄監督が「ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説」で竹林をスタイリッシュに撮っていて目を瞠ったが、その前から崑監督はその美しさを認識していたのだ。




 「特技監督 中野昭慶」(ワイズ出版)を読めば、当然、助監督として特技監督として参加している一連の東宝作品を観たくなる。ここのところ毎週DVDを借りてきている。

     ◇

 「日本海大海戦」
 (脚本:八住利雄 監督:丸山誠治 特技監督:円谷英二 主演:三船敏郎)

 NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」の海戦シーンをVFXで再現する際、スタッフは東宝「日本海大海戦」を意識してらしい。東郷ターンの描写では負けたくない、という意識があったことをメイキング本で知ってこの映画に興味を持った。
 東宝が「日本のいちばん長い日」「連合艦隊司令長官 山本五十六」に続いて制作した8.15シリーズ第3弾。そうか、円谷英二の特撮を売りにした東宝の戦記映画は「日本のいちばん長い日」が出発点なのか。
 まあ、「ゴジラ」以前から「ハワイ・マレー沖海戦」等戦記映画は作られていたから全く新しいジャンルというわけはないだろう。
 また、この映画に関しては8.15シリーズといっても明治時代の日露戦争を描いてるから特別編という位置づけだろう。
 確かに特撮シーンは見事といえる。堂々とした絵なのだ。惚れ惚れしてしまう。円谷特技監督の実質的な最後の作品とのこと。


 「連合艦隊」
 (脚本:須崎勝彌 監督:松林宗恵 特技監督:中野昭慶 主演:小林桂樹、丹波哲郎)

 大和の巨大なミニチュア(実際に自力で動く)が製作されて盛んに宣伝にかりだされていたことを思い出す。特撮には興味があったはずなのに、映画は観なかった。戦争映画があまり好きでないからだろうか。自分もよくわからない。
 特撮シーンは、「日本海大海戦」の方が迫力あったように感じた。大和の最期はすごいヴィジュアルだったけれど。
 山本五十六というと、三船敏郎のイメージが強いのだが、本作では小林桂樹が演じていた。その最期は東映の「聯合艦隊長官 山元五十六」を先に観ているので、復習をしているような気持になった。
 松林監督の名前は市川崑監督「女王蜂」のクレジットで覚えた。協力監督とは何ぞやと。また、宗恵をずいぶん長い間〈そうけい〉と読んでいた。〈しゅうえ〉が正しい。「帰ってきたウルトラマン」にも参加しているがまるで印象にない。


 「東京湾炎上」
 (脚本:大野靖子、舛田利雄 監督:石田勝心 特技監督:中野昭慶 主演:藤原弘)

 この映画の製作が発表されたとき、ストーリーを知って疑問符がいくつも並んだ。タンカーを人質にしたテロリストが政府につきつけた要求は、某石油コンビナートの爆破してその模様をTV中継せよというもので、政府は映画スタッフが撮影した特撮映像をTVで放送することでこの危機を回避する……「そんな映画を本当に作るのですか? 公開するのですか?」と質問状を送付したくてたまらなかった。だって、絶対にありえない話だもの。
 東宝の特撮がどんなに優秀だといっても、本物そっくりに見えたことはない。あくまでも特殊撮影ということがわかって上でミニチュア模型、セットの精巧さや繊細な造形、爆発等の迫力を楽しんでいるわけだ。
 よくこの企画にGOサインがでたな、という気持ち。いくら映画ゆえの嘘と弁解されてもねぇ。いや、特撮映画が大好きだからこそ話を聞いただけでまるでノレなかった。だからこれまで一度としてこの映画を観たことがなかった。
 テロリストの一人が水谷豊だった。

 で、実際に観た感想。思ったとおりの出来でした。以上。


 「連合艦隊司令長官 山本五十六」
 (脚本:須崎勝彌、丸山誠治 監督:丸山誠治 特技監督:円谷英二 主演:三船敏郎)

 8.15シリーズ第2弾。冒頭の船頭(辰巳柳太郎)と山本五十六(三船敏郎)のやりとりがいいなあ。
 東映「聯合艦隊司令長官 山本五十六」では、〈連合〉が〈聯合〉になっていて疑問に思っていたのだが、この映画との差別化だったのか。太平洋戦争70年の真実なる副題もついていたな。
 「日本のいちばん長い日」もそうだったが、キャストで東宝映画であることがすぐにわかる。東宝オールキャストといえるのではないか。昭和40年代半ばまでは、まだ大部屋制度も五社協定も存在していたというわけだ。

 この項続く




 4日に開催されたシネりんスペシャル、春日太一氏トークショーの質疑応答で、ある方が黒澤明監督の「影武者」がまるで期待はずれだったのだが、春日さんはどう思われるか、という質問をした。
 質問者が「影武者」否定派だとすれば、春日さんは肯定派。それも主役は仲代さんに交代してよかったと言う。
 僕はといえば、「影武者」肯定派で、仲代起用否定派といえる。
 打ち上げの席に、当の質問者、Sさんがいたので、しばし「影武者」談義となった次第。

 もともと、長い間封印していた映画なのだ。そこらへんのことはかつて夕景工房に長いレビューを書いている。

          * * *

2008/05/15

 「影武者」(DVD)

 黒澤明監督が久しぶりに時代劇「乱」を撮るというニュースを聞いたのはいつだったのだろう。予備校時代だったか、それとも大学に入ってからか。このニュースにとても興奮したことを憶えている。
 「リア王」の物語を日本の戦国時代に移し変えた「乱」は製作費の問題で棚上げとなった。その代替というか、前哨戦で、勝新太郎主演で「影武者」を撮ることが正式発表された。武田信玄とその影武者に扮する男の二役が勝新太郎。黒澤監督と勝新太郎という意外な組み合わせにこれまた興奮した。1979年のことだ。

 「影武者」は勝新太郎以外のキャストを一般公募するという大胆な試みがなされた。それもプロアマ問わず。同時に一部スタッフも公募したように思う。確か朝日新聞にでかかでかと公募の広告が掲載されたのをこの目で見ている。
 スタッフ公募にちょっと心を動かされた。いや、スタッフでなくてもキャストに応募して運よく何かの端役につけたら、黒澤組の撮影現場に参加できる。もうそれだけでも感激だ。なんて思ったものの、応募する勇気なんてこれっぽっちもなかった。だいたい、大学では8㎜映画制作のサークルに入部、その活動に熱中していたのだから。

 オーディションの結果、ショーケンが準主役で出演することを知って期待は倍増した。何しろ、ショーケンは昔から黒澤監督を尊敬していたから、その入れ込み様は半端ではなかった。ほかにも山崎努、室田日出男といったTV映画「祭ばやしが聞こえる」の出演者が揃っていて完成を心待ちにしていた。
 ショッキングなニュースは撮影開始後すぐに流れた。勝新太郎が降板したというのだ。
 勝新が自分の演技チェックのために撮影時にビデオカメラをまわしたいと言い出し、黒澤監督に却下されたことが発端らしい。
 「影武者」の製作が決定してから、黒澤監督は絵コンテを盛んに描いていた。その一部がメディアで紹介されたりしていたが、勝新をイメージした武田信玄と影武者の男がたくさん描かれていた。つまり〈勝新ありき〉で企画された映画から、つまらないことであっけなく肝腎の主役がいなくなってしまったのだ。代役は往年の黒澤組の役者、仲代達矢になったが、あまりにイメージが違いすぎる。期待は半減した。

 翌80年、映画は完成し、海外のメディアも多数招待したプレミアロードショーが開催された。このとき映画を観た小林信彦がキネマ旬報でショーケンを酷評した。曰く何を言っているのか台詞がよく聞こえないので英語字幕で確認する始末、とか何とか。
 これで観る気が失せた。カンヌ映画祭でグランプリを受賞しようが関係ない。実際、国内の批評はあまり芳しいものではなかった。以後、28年間、まったく無視してきた。「乱」以降は最終作の「まあだだよ」以外、すべて劇場で観ているというのに。

 しかし、黒澤監督と勝新の衝突は、たとえビデオカメラ云々がなくても、避けられなかったものだったのだ。「ショーケン」や「天気待ち」を読むとよくわかる。最初に黒澤監督が勝新主演で企画したところに間違いがあったのだと。
 そもそも、この映画は若山富三郎と勝新太郎がよく似ているというところから発想されたものらしい。黒澤監督には若山に武田信玄、勝新に影武者を演じさせる案があって、野上照代は直にそのアイディアを聞いている。若山富三郎が体調不良を理由に断ってきたので、勝新の二役でいくことになったのだとか。体調不良というが、弟の性格をよく知っている若山富三郎が、後に起こるであろう騒動を予想してオファーを蹴ったというのが本当のところなのではないか。問題が起これば解決に奔走しなければならなくのは自分なのだから。
 と、納得しつつ、それでもやはりこの映画の主役、影武者役は勝新太郎だと思う。そうとしか思えない台詞、しぐさなのだ。

          *

 「影武者」は、佐藤勝も降板している。早坂文雄亡き後、「どん底」から「赤ひげ」までの黒澤映画黄金時代の音楽を担当した作曲家だ。
 個人的には昭和ゴジラシリーズ後期の音楽で名前を覚えた。「ゴジラ・モスラ・エビラ 南海の大決闘」「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」「ゴジラ対メカゴジラ」。当時は怪獣映画=伊福部昭主義だったので、あまりいい印象を持っていなかった。今となっては恥ずかしい限り。
 「天気待ち」を読むと、佐藤勝の降板は苦渋の決断だったことがわかる。自らの意思で降板したとはいえ、以来ずっと「黒澤学校の中途退学」と忸怩たる気持ちがあったと。黒澤組のスタッフが集結した「雨あがる」の音楽をオファーされたときはことのほか喜んだそうだ。「影武者」降板から18年。「これで黒澤学校に復学できた」と知人への手紙に綴っていたとある。
 佐藤勝の降板を知った黒澤監督は後任に武満徹をあたったが、スケジュールの問題か、本人の推薦によって、池辺晋一郎が担当することになる。武満徹は「乱」に起用されるのだが(当初からの予定だったのかもしれない)、やはり降板騒動が起きている。

 なぜ黒澤監督と作曲家の間で軋轢が生じるのか。
 黒澤監督が映画に使用する音楽について完璧なイメージを持っていることが要因だ。監督として当然のことなのだが、黒澤監督の場合は、度がすぎて、時によって音楽家のプライドなんて顧みなくなってしまうからだ。
 常日頃、クラシックを聴いている黒澤監督は、映画に最適な音楽を選び出し、ラッシュで流して打ち合わせする。言葉で伝えるよりこの方がイメージが伝わることは確か。磁気テープが開発されてからは、音楽に合わせてラッシュを編集するようになり、音楽入りの試写になったというほどだ。
 「赤ひげ」のときに、あるシーンに流れる曲として、佐藤勝にハイドン(「驚愕」第二楽章)を聞かせた。
「いいだろ、ドンピシャだろ。佐藤もこれくらいの、書いてよ」
「だったら、このままハイドンをお使いになったらいかがですか」
 このとき、佐藤勝の笑顔はこわばっていたと「天気待ち」に書かれている。無論、黒澤監督に邪気はない。
「でもさあ、お客はこのハイドンに、それぞれ違ったイメージを持ってるだろう。それは邪魔するよね。だからさ、ハイドンよりいいのを書いてよ」
 こうして、佐藤勝はオリジナルを作曲するのだが、出来上がった曲を聴いた黒澤監督の感想は「なんだ、ハイドンとそっくりじゃねえか」。
 
 「影武者」では、最初の音楽付きラッシュ試写でぶつかった。今回は考えにギャップがありすぎた。「降りる」という佐藤勝を説得するために会いに行った野上照代は逆に説得されてしまう。
「(中略)あまりに有名な、いわゆる名曲に似ていて、しかもそれよりも優れたものを、なんて考えられますか」
 そりゃそうだろう。

 「乱」のダビング時にも、重低音を聞かせるため、勝手にテープのスピードを落とし、武満徹が怒って帰ってしまう事態が起きた。
 勝新太郎が自分の演技チェックのためのビデオ収録を黒澤監督は許さなかった。監督である俺を信用しろということだと思うが、ではなぜ、音楽について武満徹を信用しないのか。

 黒澤監督が同じ仕打ちを最高責任者であるプロデューサーにされたらどんな反応を示すだろうか。
 シナリオはもちろろんのこと、詳細な撮影プラン、絵コンテもすべて出来上がっている。おまけに参考資料で 映画史上傑作とされる映画を試写室で見せられて、こう言われるのだ。
「こういう映画を撮ってくれ。イメージはこのまま。しかし、この映画より素晴らしいものを」

          *

 さて、何かと負のイメージがついていた「影武者」初のDVD鑑賞だが、これがなかなか面白かった。一週間のレンタルだから毎日のように観ていて、観るたびに面白くなっていく。同時に影武者を勝新太郎が演じていればという思いも強くなっていくのだが。

 ストーリーの核は、武田家、武田家臣内の「隠し砦の三悪人」ではないか。つまり、影武者の正体が見破られそうになる危機また危機をいかに乗り越えるかというところが見ものなのだ。
 遺言によって信玄の死は3年間伏せておかなければならない。重臣たちは、信玄そっくりの男(処刑寸前だった盗人)を信玄に仕立てるのだが、この事実を知っているのは一部の関係者のみ。よって、屋敷内部で偽者であることが露呈しそうになるのだが、男の機知(アドリブ)と偶然で切り抜けるのだ。それぞれのエピソードがユーモアたっぷりに描かれ、愉快であり爽快でもある。
 側室二人にバレそうになったときの、男と信廉(山崎努)のやりとりなんて声だして笑った。孫の竹丸との交流模様が微笑ましい(竹丸がかわいい!)。

 竹丸に「なぜおじじはお山と呼ばれるのか」と訊かれ、そばにいた近習(根津甚八)に「風林火山」の説明を受けるくだりも、孫よりも熱心に耳を傾け、「うん、なるほど。そういうことじゃ、わかったか竹丸」。もうにやけてしまう。
 これがヒントになって、その後の評定(家臣の会議)の席上、本来なら最後に「一同大儀であった」というだけでよかったのに、勝頼(萩原健一)から発せられた、想定外の申し立て〈戦さを仕掛けるべきか否か、御屋形さまの指図を仰ぎたい〉に対して「動くな。山は動かぬぞ」と回答する展開につながる。信廉に言わせれば「影武者の分際で抜けぬけと裁きおった」。もちろん咄嗟の判断を肯定しつつ、その苦しい心境を理解する。「また磔にかけられた気持ちだろう」
 ただし、こうしたシーンのほか、前半のお宝が入っていると思って大壺をこじあけると中から信玄の遺体がでてきて驚愕するシーン、湖畔で重臣たちに「影武者で働きたい」と懇願するシーン等々、仲代達矢がどんなに人間臭く豪放磊落に演じても、生真面目さが根っこにあって、勝新の演技を模倣している印象を受けてしまう。
 衣装の着こなしを含めた立ち振る舞いは勝新用に考えられたものだ。代役立てて時間がないから勝新プランのまま押し切ったのだろう。勝新が演じていればという思いはこれだ。その思いは黒澤監督自身一番強かったのではないか。絶対口にしなかっただろうが。

 ストーリーのもう一つの核は、重臣たちの、信玄派vs勝頼派の対立構図だ。
 亡き信玄の教えを頑なに守ろうとする信廉、山縣昌景(大滝秀治)、馬場信春(室田日出男)等。しかし、勝頼には面白くない。複雑な出自ゆえ、父の世継ぎは自分の息子になる。それでも後見人として、父亡き後は御屋形様として君臨できるのに、3年間はどこの馬の骨かわからない男を父として敬い仕えなければならないのだ。そんなやり場のない怒りを傅役の跡部大炊助(清水紘治)にぶつける。
 影武者が有効に機能していたときは信玄派の力は大きいが、信玄の死が公になったとたん立場は逆転する。が、晴れて軍の指揮を執ることになった勝頼の功を焦った稚拙な戦法のため長篠の戦いの大敗という悲劇に突入していく皮肉な幕切れ。
 当然準主役の勝頼がクローズアップされる。のだが、ああ、ショーケンに精彩がない。

          *

 ショーケンの演技については、小林信彦以外にも、多くの映画評論家から「何言っているかわからない」と指摘されていた。
 DVDでは音声がクリアになったから「何言っているかわからない」なんてことはなかったが、当時劇場で観れば、聞き取りづらかったかもしれないと思えるのは確か。

 だいたい発声が他の役者と違うのだ。大滝秀治、山崎努、清水紘治と比べればその差がわかる。喉だけでわめいているような気がする。腹から声を出していないというか。きちんとした俳優修行をしていないのだから、当然といえば当然か。演技的に重臣の中で一人浮いている。
 ただし、何度か観ているうちに、だからこそ勝頼のキャラクターをより浮彫りにしていると思えてきた。
 勝頼は信玄の実子だ。いくつかの合戦で功績をあげている。にもかかわらず、老臣たちからひよっこ扱いされ、相手にされていない。なんとか一泡吹かせたい。現状への不満と焦燥を抱えている悩める青年なのだ。
 ショーケンは、若いときに、それまでにない斬新な瑞々しい演技で人気絶頂となった。ある種の自信とプライドを持って、憧れの黒澤作品に臨んだことだろう。ところがこれまでの現場と勝手が違う。だから余計いきり立って演技が空回りする……。勝頼とショーケンの焦燥が重なって見える。というと贔屓の引き倒しにとられてしまうか。

 役者では、大滝秀治と山崎努が出色である。大滝秀治の声と山崎努の目。特に山崎努だ。目で、影武者に対して徐々に変化していく心情を代弁していた。「影武者」の低音部に流れるテーマは、この信廉の心情だろう。
 キャスティングの妙もいたるところで感じる。信長(隆大介)、家康(油井昌由樹)。間者役の3人。隆大介の信長なんてベストではないか。そういえば、「さすがは信玄、死してなお、3年の間、よくぞこの信長を謀った!」のショットがTVスポットで流れ、サークル内でよく真似したものだ。春の合宿を思い出す。蘭丸の、信長を見る目も気になって仕方ない。
 竹丸役の子役は油井昌由樹の息子。親子揃ってズブの素人にもかかわらずいい味をだしている。
 根津甚八は最初の登場シーンでは本人だとは気づかなかった。まるで少年のような初々しさ。雨の中の影武者との別れが印象的だ。
 藤原釜足や志村喬の姿にはちょっとした感慨が。

 信玄を狙撃した兵に、家康自ら実地検証するシーンで、黒澤監督の真骨頂を見せられた気がする。戦国時代の鉄砲の使い方を具体的に兵に説明させる。どのように弾をつめ、狙いを定めて撃つのか。その一部始終が描かれていてゾクゾクした。多くの人は長すぎると切って捨てるだろうが。
 個のディティール描写を群にしたのが高天神城の戦いにおける風・林・火各騎馬隊の動きである。独断で高天神城を攻めた勝頼を、後方で信玄が見守ることで、敵に脅威を与える作戦。ここでも、敵の攻撃に対して武田軍がどう動くのか、指示系統を含めた騎馬隊や歩兵の動きを克明に描いてくれる。下手なアクションより、こういう描写の方が興奮する。個人的な資質といわれればそれまでだけど。
 長篠に出兵する勝頼に反対を唱えるも、却下されて、後に従う重臣たち3人が槍をかざして「御屋形様のもとでまた会おう」と誓うショット。勝頼を少しも信用していないんだと驚くとともに、その侍魂が胸にくるものがあった。
 そんなわけだから、公開時にさんざ酷評されたラストの合戦はおまけでしかなかった。

 馬の疾走、蹄の音、砂埃、手綱さばき。風にはためく旗。黒澤映画ではお馴染みだが、やはり興奮する。〈色〉の楽しみもあった。
 なぜ劇場で観なかったのか。せめて名画座あたりで押さえておくべきだった。今さら後悔しても遅すぎるか。




 先日、映画「永遠の0」を観た。
 ずっと敬遠していたのだが、やっと重い腰を上げブルーレイを借りたというわけ。

 特撮ファンとしては、公開時VFXに興味があったものの、なんとなく原作者に対して不信感があったのと、主題歌にサザンオールスターズが起用されゲンナリしてしまって劇場観賞はパスしてしまった。
 サザンはデビュー時から好きなグループだが、映画の主題歌となるとベタじゃないかと思ってしまうのだ。

 で、感想。TVのスペシャルドラマより映画の方が断然面白かった!
 TVのラジコン模型を使ったゼロ戦の空中戦も悪くなかった。予算がないのだから、特撮場面には知恵と工夫が必要である。ラジコン模型は目から鱗のヴィジュアルで、それなりに楽しめた。そう、それなりに楽しめたのだが、映画のVFXと比較するには無理がある。迫力が全然違うのだ。特に戦艦との戦いに。
 (甲板で逃げ惑う人たち、海面で右往左往する人、よく見ると作られたもの。小さなTVでもわかるのだから大スクリーンではどうだったのか。)
 ドラマもコンパクトにまとまっていて好印象。TVはスペシャルが3夜続いたが、長ければ良いというものでない。

 ただし、TVドラマと同様にキャスティングには問題がある。つまり、戦時中の青年とその青年の現在の姿である老人がどうしても同一人物に見えないところ。これがネックなのだ。
 たとえば新井浩文が歳を重ねて田村泯になると思えますか? 染谷将太(夏八木勲)、濱田岳(橋爪功)も同様。三浦貴大と山本学はなんとかつながるか。

 別に役者が悪いわけではない。それぞれ自分のパートで好演しているわけだから。舞台だったら気にならないのだが、映像作品だとリアリティの観点から余計なことを考えてしまう。これが小学生(あるいは中学生)と老人だったら、大きな相違でもありうるのだが、青年になると外見上の変化が見られなくなる。肥満化すれば別だけど。
 山本学、山本圭の兄弟は映画とTVドラマで同じ役を演じていたんですね。

 ヴィジュアルとともに、TVドラマと映画の違いは泣かせ作用の有無も指摘できる。TVの方が視聴者を泣かせようという作為がありありだったような気がする。いや違うか。TVの場合は、こちらが泣く前に、劇中の役者が大泣きするので、気持ちが萎えてしまうのだった。
 映画はその手の作為をあまり感じなかった。

 TVドラマのときも映画のときも、原作を読んでみようという気持ちにならない。どうしてだろう?

 「寄生獣」「永遠の0」を観ると、山崎監督による「ゴジラ」も悪くないかもしれないと思えてくる。
 



 「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」を観てからというもの、イニャリトゥ監督の作品をもう一度チェックしたくなった。まったく知らなかったのだが、「21グラム」のあとに「ビューティフル」という作品があるという。

 先週の17日(金)、地元駅ビルに入っているDVDレンタル店で「バベル」「21グラム」「ビューティフル」を借りようとした。この店、毎週金曜日は旧作が7泊8日100円になるので。「21グラム」が見当たらず、2作を借りてきた。
 まず「バベル」、続いて「ビューティフル」を観た。

 「バベル」は公開されたとき劇場で観ている。

     ▽
2007/06/01

 「バベル」(品川プリンスシネマ)

 映画で聖書やキリスト教を題材ににされると根本的な部分が理解できなくて往生することがある。
 30年以上前のこと。中学3年、「エクソシスト」が大ヒットしたときだ。とてつもなく怖い映画ということでワクワクしながら観に行って肩透かしをくらった。ある批評で、キリスト教徒でないと本当の恐怖はわからないと書かれていて、とてもくやしかったことを憶えている。
 666が不吉な数字として日本で知られるようになったのは「オーメン」がきっかけだったが、このヒットシリーズも日本と欧米では本質的な部分で受け止め方が違ったのではないかと思わずにはいられない。
 最近、といってももう何年も前になるが、ロバート・デ・ニーロが神父に扮した「スリーパーズ」が公開された。海外で圧倒的な評判を呼んでいるといわれたがそれほどのものかという気がした。なぜ神父が苦悩するのかまったく理解できなかった。
 とにかく聖書の思想が入ってくるとお手上げなのだ。

 そんなわけで、何度も映画館で予告編を目にしても、「バベル」に対する興味はほとんどわかなかった。
 GW中に聞いたラジオ番組で気持ちが変わった。番組の中でこの映画が紹介されたのだが、パーソナリティが得意げに語る映画のユニークな構成に反応したのである。ブラッド・ピッドと役所広司(&菊池凛子)はまったく別パートの主人公であることもこのとき知った。それも舞台は日本。それまで中近東あたりでハリウッド俳優を相手に英語で芝居する日本人俳優(女優)という構図をイメージしていた。
 俄然興味がわいた。

 バベルというとまず〈バベルの塔〉が頭をよぎる。遥か昔、人間が天に届く塔を建設しようとして、神の怒りに触れ崩壊してしまったという旧約聖書のエピソード。ところが「創世記」にはそのような記述はないのだそうだ。当時人々は同じ言語を話していた。ところが塔の建設に怒った神が言語をバラバラにして、人々の意思の疎通を遮断して、建設を中止にさせたというのが本当の記述。また、バベルには〈混乱〉という意味があるとのこと。

 なるほど、映画「バベル」は〈混乱〉をモチーフにした4つのドラマで成り立っていた。
 この映画の斬新さは、ある1本の線で結びついているこの4つのドラマを、時間軸を無視して、カットバックで並列に描いたところにある。本来なら4編からなるオムニバス映画になってもおかしくないものを、強引に1本にしたことにより、観客にもある種の混乱を与え、サスペンスも倍化する。
 ラジオの紹介で興味を持ったのはこの構成の妙、語り口だった。
 
 モロッコの山村で山羊の放牧で生計を立てている家族。父親はジャッカルから山羊を守るためにライフルを手に入れる。父親の命により二人の息子はライフルを持って山羊の世話に出かけるが、好奇心旺盛な年端のいかない兄弟にとって初めて手にする銃はかっこうの遊び道具にもなるのだった。二人ははるか遠くを走るバスを標的に射撃の腕前を競い合う。その結果どんな悲劇が二人に襲いかかるのか知る由もなく……〈モロッコ兄弟編〉。

 離れた心をつなぎとめようとモロッコを旅するアメリカ人夫婦(ブラッド・ピット&ケイト・ブランシェット)。ふたりを乗せたツアーバスが山道を走っていると突然何者かに銃撃された。弾丸は妻の肩を貫く。夫は血まみれの妻を近くの村に運び込むが寂れた寒村では止血の応急措置が関の山。アメリカ大使館に救助を求めるが言葉の壁と通信の不備で遅々として事態が進展しない。苛立ちはやがて絶望へと変化していく……〈モロッコ夫婦編〉。

 アメリカで長く家政婦として働いているメキシコ女性(アドリアナ・バラッザ)。息子の結婚式に出席するため、母国に帰らなければならないが、二人の幼い子を残して旅に出たアメリカ人夫婦が予定日までに戻れなくなった。仕方なく子どもを連れて母国に帰り、宴を楽しむことになる。悲劇はメキシコからの帰り、甥の運転するクルマで国境を越えようとしたときに起きた。不法移民と疑われ検査が厳しいことにキレた甥がクルマを暴走させて……(メキシコ編)。

 東京で暮らす聾唖の女子高生(菊池凛子)とその父親(役所広司)。ある事実確認のため刑事の訪問を受けた父娘は問題を抱えていた。母親に自殺された娘の、孤独を癒すための不可解な行動の数々……(東京編)。

 〈モロッコ兄弟編〉〈モロッコ夫婦編〉〈メキシコ編〉は進行していくにつれて話が悪い方へ悪い方へ転がっていく。まさに混乱の極み。全編ドキュメンタリータッチだからその不安感は尋常ではない。まったく自分とは別世界の話なのに、他人事に思えない。なぜだろう?
 歯痒いのは〈モロッコ兄弟編〉と〈メキシコ編〉。最初のボタンさえ掛け違わなければ、丸く(というと楽観的過ぎるが)収まるはずだった。にもかかわらず登場人物は不利な状況へと自分たちを追い込んでいく。
 兄弟の父は息子たちの犯行をを知ってからなぜ逃亡を企てたのか。もう逃げられない状況になってもどうして警察に背を向けたのか。あの状況で銃撃戦になる必然性は?
 家政婦にしてもなぜ当日の帰宅なのか。白人の子どもがいなければ楽に国境を渡れたのか。せめて荒原で二人の子どもから離れないでほしかった。

 人種問題、言葉の壁、情報伝達の不完全さ。ボタンを掛け違う過程、歯車が狂っていく様が一目瞭然から、余計にやりきれなくなっていく。しかし、やりきれなくなるほど、それぞれのエピソードがどんなエンディングをむかえるのか、目はスクリーンに釘付けになる。実際後半になってどうしようもなくトイレに行きたくなったが結局我慢してしまったほどなのだから。
 そしてこれが肝心なのだが、観ている最中巷間指摘されるような不快な気持ちにはならなかった。エンディングロールが流れると、しみじみとした感覚が全身を包んだ。
 同じブラッド・ピット主演の「セブン」と比べてみたらいい。クライマックスまで心臓をわしづかみにされながらショッキングなラストに落ち込んだ。いくら現代をリアルに描写したといってもあのラストは絶対に許せない。個人的な意見かもしれないが。

 意外な展開だったのは〈日本編〉だ。一番身につまされるはずなのに始終違和感がつきまとった。アレハンドラ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は、他の3編とは明らかに違うドラマをなぜ日本を舞台にして撮ったのだろうか。アジア及びアジア人のエピソードは全体の構成からすると当然なのだが、あの女子高生の行動はどう考えてもエキセントリックすぎる。それとも渋谷あたりにたむろする女子高生の真の生態を理解していないこちらの頭が古いだけなのか。
 菊池凛子は女子高生になりきって(これは驚異&見事!)、ヘアを全開して裸身を惜しげもなく披露する。まさしく体当たりの演技ではあった。局部露出のシーンなどその潔さに拍手喝采、笑わせてもらったものの、感情移入は最後までできなかった。

 他の3編と違い、〈東京編〉は映画の中で必要最小限の背景しか説明しない。母親に自殺されて娘が苦悩していること。父娘の関係がおかしくなっていること。その代償として、好みの男性に対して常軌を逸した愛の行動にでること、妻の自殺で父親は何度も警察の事情聴取を受けていること。
 父娘は近親相姦だったのだ、だから母親は自殺したんだ、といわれれば確かに納得できる。しかし、行動の理由づけ、理屈なんかどうでもいい。謎解きなんて関係ない。彼女の心の叫びを肌で感じられなかったことが残念。
 ただ、ラストの、大都会の夜景をバックにマンションのベランダで肩寄せ合う父娘を捉えたロングショットが解消した。あのショットは嫌が上でも二人の孤独感を浮き彫りにし、いくばくかの優しさをともなって映画全体を締めくくってくれた。 
 映像と音楽は幾千の言葉を紡ぐより、一瞬に心に届くこともある。
     △

 (モロッコ夫婦編)モロッコの某所で横たわるケイト・ブランシェットが失禁してしまうシーン。「我慢できなくて」と夫に言い訳すると、夫は洗面器を用意する。女房のおしりの下に洗面器を置くと、そのまま下着をおろし、そのままさせる。そのときのブランシェットの表情が妙にエロティックだった。
 「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」で、ロシア語訛りの英語をしゃべるソ連軍の将校(?)と同一人物には見えない。

 (メキシコ編)甥っ子が、子どもたち(含アメリカ人の子ども二人)に飼っている鶏をつかまさせるシーン。アメリカ人の子どもが喜んでつかまえた鶏の首を甥っ子はその場で引きちぎると、驚きのあまりその場で硬直してしまう男の子に大笑い。  
僕が小学生のころ、うちでも何度か鶏をつぶした。父親が斧で鶏の首を切断すると、そのまま(首がないまま)何メートルか走ってそのまま動かなくなる光景を覚えている。確かに子どもにはショッキングなことだろう。

 この項続く




 DVDでWOWOWドラマ「レディ・ジョーカー」を観た。
 前作「マークスの山」がそうだったように、「レディ・ジョーカー」も映画を凌駕する出来になっている。
 「マークスの山」と違うのは、面白さが最後まで持続していることだ。第1話が終わると引き続き第2話を観たくなり、同様に第3話が気になってしまう。
 ただ、これには僕自身の小説に対する愛着度の差に要因があるかもしれない。

 ドラマ「マークスの山」が映画より出来が良くても傑作にはならなかったと感じたのは、こちらがあまりにも小説に対して思い入れが強すぎたからであり、原作を知らなければ十分面白かったかもしれない、と今では思っている。
 何しろ「マークスの山」は何度も読み返しているのだ。どうしても映像作品を小説と比べてしまう。対して、「レディ・ジョーカー」は単行本を一度読んだきりなので、それほど小説世界と比較することがない。

 時間も関係している。「マークスの山」以上に人物が入り乱れる複雑な物語の「レディ・ジョーカー」は2時間前後の映画で描ける内容ではないのである。

 ドラマ「レディ・ジョーカー」は第1話のみ68分で、第2話~第7話は各50分となっている。計368分。民放のTV局の1時間ドラマは実質45分(NHKの大河ドラマや木曜時代劇は45分)だから、「マークスの山」のレビューで書いたように長編小説をきちんと映像化するには1クール必要なのである。

 単行本上下2冊の「レディ・ジョーカー」は文庫化(新潮文庫)されて上中下の3冊となった。DVDも上中下の3巻で、上巻には第1話~第3話、中巻に第4話、5話、下巻に第6話、最終話が収録されている。

 日之出ビール社長(柴田恭兵)が誘拐から解放される冒頭からドラマに釘づけになってしまった。丁寧に作られていることが映像全体から感じられる。前述したように1話が終わると次が気になってしかたない。原作を読んでいてこうなのだから、原作を知らない人が観たらどうなるのか。
 犯人グループ、被害者側、警察、マスコミ、それぞれの人間模様が無理なく描かれる。脚本は前川洋一。演出は水谷俊之と鈴木浩介。

 キャスティングが巧い。
 最初、薬店店主役の泉谷しげるに違和感があった。この人に犯罪グループのリーダーが務まるのか、と。映画の渡哲也は立派すぎるだが、泉谷だと崩しすぎではないかと。
 ただ、あるシーンから気にならなくなった。一人息子を亡くして、その原因を知った薬店店主の娘が父親を激しく非難するくだり。結婚相手の出自についてなぜ調べなかったのか、調査するのは親として当然の義務だろうと泣き叫ぶと、「そんなことどうでもいいことだと思った」と言いたげな何ともたよりない表情を、泉谷しげるがするのだ。これで変なわだかまりは氷解した。実際リーダー的な役割でなかったし。

 特筆すべきは不良刑事役の豊原功補である。映画の吉川晃司も悪くなかったが、合田雄一郎役の徳重聡が新人だったから、バランスがとれず損をした。ドラマの豊原功補vs上川隆也なら文句ない。役者としてのキャリアという観点からも二人の立ち位置が推察され、それが劇中のエリート刑事に立てつく不良刑事に重なる……なんてことは考えすぎか。

 自らの不正は隠蔽しようとする警察機構の体質を盾にして大胆にも居直ろうする不良刑事、警察機構への不信から捜査を逸脱して真犯人に迫っていく合田刑事。二人が内面から醸し出す静かな狂気により、クライマックスの対峙、対決までのサスペンスが生まれた。
 刺傷事件が雨の中で起きたことで神経をざわつかせる。最初から不良刑事が包丁を持っていることをわからせたのはちょっと興ざめだったが。このエピソードに関しては、映画で不満だったことがすべて解消されていた。

 小道具のビール(日之出ビール)のパッケージデザイン等、かなり手の込んだもので、劇中効果的に使われている。
 総会屋への利益供与で逮捕される社長(柴田恭平)と副社長(益岡徹)が、警察がやってくる前にビールを飲むシーンはビールが実に旨そうだ。

 ひとつだけわからなかったことがある。姪に送った社長の手紙の内容だ。自分が殺されること、殺されたのちに手紙が読まれることを知っていた。
 総会屋を裏切ったのだから復讐されるのはわかっていたかもしれない。警察にも見捨てられた。だから殺されるかもしれないと書くのはわからないではない。しかし、手紙が姪の目に触れる前に殺されてしまうなんてことまでわかるものなのか。社長はその情報をどこで知ったのだろうか。
 もう一度小説をあたってみよう。

 それにしてもWOWOWのドラマは秀作ぞろいだ。TBSと共同制作した「ダブルフェイス 前編・後編」や「MOZU」シリーズが秀逸なのはWOWOWのおかげなのか。実際には一般の映像プロダクションが制作しているだから(クレジットは制作協力)、WOWOWのプロデューサーが優秀といえるのかもしれない。
 「マークスの山」「レディ・ジョーカー」の制作は東阪企画。朝日放送の名物ディレクター・プロデューサー澤田隆治が設立した東阪企画はかつてバラエティ(演芸)番組を得意としていたのに、いつからドラマも作るようになったのだろうか。




 高村薫の「レディ・ジョーカー」が「マークスの山」に引き続きWOWOWでドラマ化された。2年前の2013年のこと。以前、レンタル店でDVDを見つけたときは〈新作〉だった。先週見たら〈一般〉だったので、あわてて借りてきた。金曜日は7泊8日100円になるのである。

 主人公の合田雄一郎には「マークスの山」同様に上川隆也。WOWOWの合田雄一郎シリーズ第2弾という位置づけだ。小説ではその前に「照柿」があるのだが、タッチが違うのでこのドラマシリーズには向かないと判断されたのか。
 「マークスの山」「レディ・ジョーカー」は警察小説、犯罪小説に区分できるが、「照柿」は少々ジャンルが違うように思う。犯罪をめぐる犯人と刑事たちの物語というよりも、犯罪が起きてからの合田の精神世界、男女の情念を執拗に描いたようなものだった。「マークスの山」に感激して、続編として「照柿」を読むと納得がいかないかもしれない。

 同様に「レディ・ジョーカー」のノリで、「冷血」を読むと脳裏に?がいっぱい並ぶことになる。「冷血」は「マークスの山」「レディ・ジョーカー」のように犯罪者にスポットをあてた小説である。また、「レディ・ジョーカー」同様に、実際の事件にインスパイアされたものでもある。そんなわけで、特に前半(上)は、あの合田雄一郎(が活躍する警察小説)の復活かと期待させてくれるのだが、後半(下)になると、まるでテイストが変わってしまって裏切られるはめになる。

 「照柿」は一度NHKの土曜ドラマ枠でドラマ化されている。合田には三浦友和が扮していて原作の雰囲気とはほど遠かったが、ドラマはよくできていた。今、アーカイブスで観られるのだろうか。

 ちなみに、高村薫の別のシリーズ第2弾「新リア王」の後半に若き合田雄一郎が一瞬登場する。続編の「太陽を曳く馬」にも合田は登場するが、「マークスの山」や「レディ・ジョーカー」とはまったくの別物と考えた方がいい。

 「レディ・ジョーカー」の話だった。
 1997年に上下2冊が上梓されると、一気に話題となった。
 2年後、やっと図書館の棚で発見して借りてきた。もう16年前になるのか。

     ▽
1999/06/08

 「レディ・ジョーカー(上・下)」(高村薫/毎日新聞社)

 話題の小説をやっと読んだ。
 「マークスの山」「照柿」に続く合田警部補シリーズの第3弾。かつて日本中を震撼させたグリコ・森永事件を素材に噂に違わない濃密な高村ワールドを展開している。構成に全く隙がない犯罪小説だった。

 犯人グループ、恐喝される企業、事件を追う警察、あるいは事件を追いかけるマスコミ各社の人間模様を、被差別部落、在日朝鮮人、身体障害者、総会屋と政治家の癒着等、現在日本がかかえているさまざまな問題をさりげなく挿入しながら、克明に描写するその筆力には感服してしまう。

 この小説ではグリコ・森永事件をビール業界(日之出ビールという架空の名称だが、もろキリンビールをイメージしている)に置き換えて描いているのだが、実際、商品を人質にしてグリコ・森永を恐喝した犯人たちの真の目的は企業の株価操作による暴利着服にあったのではないかと思えてしまうから不思議だ。まさしく高村薫のアイディアの勝利といえるものだが、このオリジナリティが凡百の実録犯罪小説との違いだろう。

 犯人グループの描き方がいい。僕は勝手に高村薫を日本のトマス・ハリスと呼んでいるのだが、本家同様犯人の生い立ち、犯罪にかりたたせる動機づけが抜群にうまく、読んでいると完全に犯人側に感情移入させられる。それは「マークスの山」で実証済みだが、本作でも、単なる競馬仲間たちが、大企業の論理に抹殺されてしまった一個人の復讐のために立ち上がるところに共鳴してしまい、彼らの成功を祈らないではいられなかった。

 驚きだったのはその犯人グループに現職の刑事が含まれているところで、この刑事と合田の関係も後半の一騎打ちの伏線となっていて、クライマックスにおける合田が捜査を逸脱して刑事へ出す挑戦状のサスペンスを盛り上げる。

 舞台が蒲田近辺だったことも、個人的には親近感を抱いた。大鳥居界隈や糀谷駅周辺が登場するとそれだけでもうれしくなる。なんてたって、犯人側の刑事は蒲田署勤務なのだ!
(僕の会社は大鳥居駅から歩いて5分のところにあり、仕事で蒲田署にお世話になっている。)

 前2作(特に「マークスの山」)の合田はエリート意識が鼻について、いまいち好きになれなかった。ところが今回は「照柿」事件で左遷されたことにより、本庁から所轄署に異動させられた合田が今後の生き方に悩む姿があったりする。彼の人間性、弱さが随所に垣間見られて好感を持てた。素直に「かっこいい」と3作めで初めて思えた。小説中のイメージとは程遠いが、なぜか僕の頭には渡辺宏之が浮かんでしかたない。

 重たいテーマが全編を覆い、事件もカタルシスをもたらせる解決をみなかったにもかかわらず、ラストシーンがさわやかで、読後感はすこぶるいい。
     △

 小説を読んでから6年後に映画が公開された。

     ▽
2005/01/12

 「レディ・ジョーカー」(品川プリンスシネマ)

 映像化は無理だろうと思っていた。何しろ高村薫の傑作ミステリ「レディ・ジョーカー」は現代日本が抱えるさまざまな問題(被差別部落、在日朝鮮人、身障者等)が内包されていて、それがビールメーカー社長誘拐事件の一因になるのだから、もうそれだけでアウトだということがわかる。
 脚本・鄭義信X監督・平山秀行のコンビだと知って、もしかしたらという気持ちになった。原作の持ち味を失わず映画用にオリジナル展開させた「OUT」の感激は忘れられない。彼らが映画化にあたり、原作をどう料理するのか。

 「レディ・ジョーカー」は合田警部補シリーズの第3弾にあたる警察小説でもある。
 合田が初めて登場した「マークスの山」は直木賞を受賞した傑作であり、犯人とその恋人に感情移入した僕はラストで涙ぼろぼろになった。単行本で2回読み、文庫を購入したが、大幅に書き換えられていたこともあり、古本屋で単行本を手に入れてもう一度読み直したという惚れこみよう。
 映画化もされた。脚本が丸山昇一、監督が崔洋一ということでかなり期待したのだが、裏切られた結果となった。要因は原作をまるごと取り込んだ構成だったからだと思う。

 小説は連続殺人事件を犯人側、警察側それぞれの視点で描いている。犯人の生い立ちを詳細に描き、同時に犯人検挙に向かって警視庁と所轄署の刑事たちが協調、反目しあいながら捜査していく姿がスリリングに交叉する。
 活字なら可能なこの構成を、わずか2時間の映画が踏襲できるわけがない。合田を主人公にするのなら、誰が犯人か、なぜ殺人を犯したのか、その過程を詳細に描くべきだし、犯人を主人公にするのなら殺人にいたった経緯、年上の女性との恋愛模様を濃密に描き、クライマックスの逃避行、ラストの雪山山頂における荘厳なる死に持っていく。前者なら犯人はあくまでもクライマックスまで伏せておく。後者なら合田以下警察側の人間はすべて脇役という扱い。

 映画は結局小説そのままの構成で、なおかつ細部を変更して原作ファンにとって納得いかないものにしてしまった。
 合田は中井貴一が演じた。昨年、単行本を読んだ際、合田は古尾谷雅人、マークスは窪塚洋介がイメージされた。あくまでも個人的な印象だが。

 シリーズ第2弾の「照柿」はミステリの枠をはみだす。たまたま電車飛び込みの現場に居合わせた合田がある女性に異常な関心を寄せ、幼馴染みの友人と敵対して捜査を逸脱する姿が描かれた。男女の情念が絡み合いうずを巻く話。NHKでドラマ化された。合田役は三浦友和。中井貴一以上に原作のイメージではないのだが、ドラマ自体はなかなか見応えがあった。

 第3弾「レディ・ジョーカー」では「照柿」の事件の結果、警視庁から所轄の大森署に左遷された合田がビールメーカー社長誘拐事件、その後の脅迫事件の捜査で奔走する。
 グリコ・森永事件を下敷きにしたこの事件の全貌が、犯人グループ、警察、マスコミとあらゆる角度から詳細に描かれ、「マークスの山」同様に犯人グループの描写が秀逸だった。各人がなぜ事件に関わるのかが納得でき、感情移入してしまう。
 だからこそ原作そのままだと1クールみっちり描けるTVドラマならともかく、2時間前後で完結させなければならない映画化は無理だろうと懸念していたのだ。

 小さな薬店を営む老人(渡哲也)が甥の交通事故死をきっかけに大手ビール会社の社長の誘拐と脅迫を画策する。仲間は競馬場で顔見知りになったトラック運転手(大杉漣)、信用金庫職員(吹越満)、旋盤工の若者(加藤晴彦)そして蒲田中央署勤務の刑事(吉川晃司)。
 周到な計画のもと社長を誘拐し、開放した後、今度はビールを人質に50億円を手に入れた。完全犯罪と思われたこの事件は、しかし、大森中央署勤務の合田(徳重聡)が、合同捜査加わっている蒲田中央署の男の不審な行動、アリバイに目をつけたことから意外な展開になっていく。

 「マークスの山」と同じ轍をふむことになった。
 犯人グループで過去が描かれるのは薬店の老人だけだから、他のメンバーがなぜ危険を冒してまで誘拐事件、脅迫事件に加わってくるのかよくわからない。主人公の老人だってビール会社を不当に解雇された兄の思い出や甥の交通事故死がきっかけになってと冒頭で描かれてはいるものの、犯罪に駆り立てる動機が弱すぎると思う。幼い頃兄からもらった笛ですべてを語らせるのは映画として巧いのだが。

 トラック運転手には身障者の娘がいる。この娘が仲間から〈レディ〉と呼ばれていてタイトルの由来になるのだが、映画ではこの父娘の関係がまったく語られない。在日朝鮮人の信金職員や若者の心情も単に台詞で説明されるだけ。これでは感情移入なんてできやしない。原作を読んでいなければ単に競馬が趣味の男たちの集団が老人の犯罪計画に何となく乗ってしまったという印象しかない。

 唯一存在感を示したのが犯人グループの一人である不良刑事なのだが、彼の行動に不審を抱き、これまた捜査を逸脱して追いつめる合田役が〈21世紀の石原裕次郎〉だからどうにもバランスが悪い。演技力云々の前にあまりにも若すぎるのだ。刑事がなぜ合田を意識するのか、敵対心を燃やすのか。合田の過去や現在の立場があって成り立つ話なのに、何の説明もない。これでは若くてかっこいい兄ちゃんに嫉妬したおかしな刑事でしかない。せめて吉川晃司と同年代の役者をキャスティングしなければこの対峙は成り立たないだろう。刑事の屈折した心情まで踏み込んでもいない。だから、クライマックスの一対一の対決に盛り上がりがないし、合田を刺して捕まったにもかかわらず、どうして事件が解決しないままうやむやで終わってしまうのか理解できない。

 映画全体の雰囲気は決して悪くなかった。中でも犯人グループが警察の厳重な追尾をかわして50億円を奪い取るシークエンスには興奮した。黒澤監督「天国と地獄」の特急「こだま」シーンに匹敵するものだ。
 だからこそ、小説の世界すべてを映像化しようなんて欲張らず、あくまでも犯人側の視点で事件を追いかけてほしかった。
     △

 この項続く






 今日の「平清盛」第6回「西海の海賊王」。
 ドラマも映像もかなり迫力あった。
 第1回から中井貴一の充実した演技に圧倒されていたが、やっと松山ケンイチが力を発揮した印象がある。

 大河ドラマ以外でも中井貴一が光りまくっている。

          * * *

 突然「ゴジラ対ヘドラ」を観たくなった。
 昨夜、駅ビルにあるレンタル屋にDVD3枚(「M:I 2」「光る雨」+AV)を返却に行ったついでに借りてきた。
 「M:I 2」はこの前最新作を観た為。ただし第1作は認めない。「スパイ大作戦」を夢中で観ていたあのころの小学生にとっては、あれは冒涜でしかない!
 AVはあまりにくだらなかったので、特にタイトルも感想も記さない。

 で、「光る雨」。
 長谷川和彦監督に対する強いシンパシーのため、ずっと無視していた映画だ。原作は読んでいる。夕景工房にこう書いた。

     ▽
2002/10/21

 「光の雨」(立松和平/新潮社)  

 映画「光の雨」を見逃してから、原作である小説が気になっていた。  
 立松和平の小説を読むのは初めての経験だ。いわゆる純文学を読むのも久しぶりのこと。  
 ページの端から端まで文字だらけで読むのに苦労した。
 別に難解な文章だったわけではない。最近のエンタテインメント系の小説は改行が頻繁に行われ、見開きページにおける白地部分がけっこう多い。それに慣れていたから昔ながらの、論文みたいな長い段落が続く本作は〈息継ぎ〉がうまくできないのである。おまけに過去を語る老人が、時と場合によって、いろいろな人物に成りきってしまうので、今誰が話しているのか、時々わからなくなってしまうこともあった。前のページを読み返すこともたびたびだった。

 いわずと知れた連合赤軍について書かれた物語。以前作者は盗作問題を起こして話題になった。その作品がこれ。雑誌連載時、もともとは登場人物も団体も実名で書かれていたらしい。ところが、リンチ殺人事件の当事者の手記から引用された文章が盗作としてクローズアップされたのに伴い、いったん執筆を中止し、再度まったくのフィクションとして書かれた。  

 ということで、この小説の舞台は死刑制度が廃止された近未来になる。  
 日本中に衝撃を与えた連合赤軍(小説では赤色パルチザン)事件後50年が経過し、死刑を免れた唯一のメンバー、すでに齢80を越えた玉井潔(連合赤軍の坂口弘がモデルだとか)が、同じアパートに住む予備校生・阿南満也とクラスメートの美奈に語る回想の形で、事件の詳細が浮かび上がる。  
 まるで現在、多くの人たちにとって、はるか遠い記憶、歴史の中のひとつの項目でしかなくなった太平洋戦争と同じ感覚で、満也と美奈は連合赤軍の凄惨なリンチ殺人事件(小説では14人となっているが、実際には16人の命が失われた)と向き合うことになる。  
 その内容も玉井潔本人の独白であったり、殺されたメンバー各人の目となり口となって、また事件に巻き込まれた一般人の供述調書も適時挿入されて、事件のはじまりから顛末までを仔細に記す、前衛的手法がとられている。  

 人里離れた山にこもり、革命戦士育成に励む赤色パルチザン。  
 組織を抜けた裏切り者男女2名を見せしめのため殺した指導者倉重鉄太郎(連合赤軍の森恒夫がモデル)と上杉和江(同じく永田洋子)は、総括の名のもとに次々と仲間を粛清していく。  
 ある女性戦士は裏切り者と決別するためセックスをした理由で、別の女性戦士は訓練中も化粧をしていつまでも女性意識が抜けないとの理由で。ある者は山を降りて組織の金で隠れて飯を食ったため、ある者は銭湯に行ったため。  
 何なんだ、このくだらなさは! なぜこんな理由で殺されなくてはならないのか!  
 さっきまで仲間を批判し、総括を迫ってリンチを加えていた者が、次にはささいなことから逆に総括を迫られる立場になってやがて命を落としていく。それは悲惨をとおりすぎて喜劇の様相を深めていく。「ソ・ウ・カ・ツ ~そして誰もいなくなった」なんてタイトルでコントが作れそうだ。  
 彼らが目指した革命そのものも陳腐である。本当に彼らは革命が起こせると考えていたのだろうか。まるで〈ごっこ〉の世界だった。読みながらダブったのがオウムだ。外から見ると実にアホらしい。  
 が、実際自分がこの中にいたとすると(学生運動にのめりこまない、ということはこの手のメンバーにならない自信はあるが)、やはり、善悪の判断、ものごとを俯瞰的、多面的に見る判断なんてなくしてしまうのか。リーダーを批判して、その場で処刑されるのがオチか。    

 はじめは老人の話をバカにしていた満也と美奈が、徐々に内容に圧倒されていき、ふたりでゲームセンターのバイク(オートバイを駆って、宇宙空間を疾走するゲーム機器)に乗りながら、興奮のあまりまぐわって果てる、というくだりが一番印象深かったのが情けない。
      △

 リンチ殺人の被害者を実際に16人と書いているが、これは僕の間違い。山岳ベースでの被害者12人プラスその前に殺している同志2人で14人。それを14人+2人として計算していたのだと思う。

 小説「光る雨」の映画化するにあたり、別のアプローチをしている。
 小説で扱われている赤色パルチザンのリンチ殺人からあさま山荘事件に突入するまでの物語(本編映画)と、映画化するまでと撮影、撮了までのキャスト、スタッフの物語(ドキュメントビデオ+映画ビハインド)が交錯するのだ。
 つまり、今の若者の立場で連合赤軍を振り返るわけだ。小説の主人公(の一人)阿南は、映画の中では、映画「光る雨」のメイキングをビデオ撮影する新進映画監督として登場する。演じるのは萩原聖人。

 そしてもう一つ、現代における全共闘(団塊)世代のだらしなさも描く。映画「光る雨」のメガホンをとる監督(大杉漣)は、過去(学生時代の活動)を中傷されるはがきで撮影中に逃亡してしまうのだ。本当の意味での総括もできない男。というか、ずっとトラウマに苛まれていたのか。

 小説で描かれた現代と過去の交錯が、別の形で表現されて意味を持った。
 警察に追われあさま山荘へ逃れる前、雪原を走る玉井(池内万作)が見る幻想――リンチ殺人の犠牲者たちへの贖罪(ベタな描き方だけれど)、そしてその後のあさま山荘から放つ銃弾一発、「ここから始まった」に涙がにじんだ。
 撮了してからのインタビューで、倉重に扮した元漫才師の書きものや(山本太郎)が倉重本人に問う。
 なぜあんたは自殺してしまったのか、ずるいじゃないか!
 あなたの言葉が聞きたかったと言ったあとのひとこと。
「うぉー!」
 声出して笑いながら泣きまくった。





 今週は月曜日(12日)に二つの図書館へ行った。
 まず昼休みに会社近くのH図書館へ。予約していた本を受け取る。業務で会計関連の本を上期に4冊読むと目標をたてている。6月に2冊読んだきりなのであわてて予約したのだった。悪い癖がでた。予約本を借りるだけでいいのに、いろいろ棚をまわってどうしても読みたい本が2冊。……借りた。

 「美容院と1,000円カットでは、どちらが儲かるか?」(林總/ダイヤモンド社)
 「トキワ荘最後の住人の記録」(山内ジョージ/東京書籍)
 「純平、考え直せ」(奥田英朗/光文社)

 帰宅時、川口駅で降りて川口中央図書館へ。
 借りていたDVDを返却。

 「内海の輪」(監督:斎藤耕一)
 「放浪記」(監督:成瀬巳喜男)
 「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」(監督:スティーブン・スピルバーグ)

 「内海の輪」は、中学時代にTVで観た。いや、もしかして高校だったか。松本清張原作、斎藤耕一監督作品。主演は岩下志麻と中尾彬。ふたりは不倫関係にある。中尾彬が東京の某大学の助教授で、岩下志麻が愛媛にある有名呉服屋の後妻。岩下の夫(三國連太郎)が不能の老人ということもあるのか、ふたりは3ヶ月に一度逢瀬を楽しんでいる。もともと岩下は中尾の兄嫁だった。兄が浮気して家を出て、一度ふたりで押しかけたことがある。岩下は亭主に離婚を申し立て、その夜、ふたりは結ばれた。
 大学理事長の娘を嫁にして出世を望む中尾にとって、あくまでも岩下との仲は不倫だった。しかし、中尾の子を宿した岩下にとって違う。夫と別れて一緒になることを願うようになっていた。中尾に殺意が芽生えて……。
 中尾彬がまったく自分勝手な男で憎らしくてたまらないのだが、ラストに発する言葉で一気に感情移入してしまう。ボタンを握る岩下の手のアップ(爪)が衝撃だった。
 斎藤監督らしい映像に堪能できる。瀬戸内海のカットの数々がたまらなく美しい。

 僕はこの「内海の輪」と同じ松本清張原作の「影の車」(短編「潜在光景」の映画化。やはりTVで観た)で、濡れ場のうまい女優として岩下志麻がインプットされた。別に裸になるわけではないのだが、あのときの声がたまらないのだ。
 「内海の輪」で、三國連太郎相手によがり声をあげまくるというシーンがある。実は三國にマッサージしてもらっているというオチで大いに笑えます。

 「放浪記」は、林芙美子原作、高峰秀子主演。監督は成瀬巳喜男。僕にとって初の成瀬映画だ。今では、森光子の舞台が有名だが、こんな物語だったのか。高峰秀子はやはり上手い。どうしようもない夫役(やがて離婚する)の宝田明も。特撮怪獣映画とは別の顔を見せてくれて、これまたかっこいい(かっこ悪い、か)。母親役の田中絹代は、この時代(1962年)から、サブちゃんのお母さんしている。
 大学生の役で、岸田森が1シーンだけ出演しています。

 川口中央図書館では本は借りなかった。
 DVD3枚だけ。

 「フレンチコネクション2」(監督:ジョン・フランケンハイマー)
 「用心棒」(監督:黒澤明)
 「容疑者Xの献身」(監督:西谷弘」

 


 その1よりやっと続く

 我が家のTVは地上波しか映らない。BSはたぶん見ることができるはず。なのだが、配線(?)等のやり方がわからない。よって見られない。CSはかみサンの反対で契約できない状態が続いている。
「CSが視聴できるようになれば、あなた、今まで以上にTVに釘づけになるでしょう!」
 映画はDVDを借りてくればいいという論理なのだが、CSで放映する映画はTSUTAYAでレンタルしていないものが多いんだよ。わかってないなぁ。
 まあ、いいや。

 WOWOWはBSなのかCSなのか。それすら知らない機械音痴であるが、これまで数々の国内外の映画を放映してきた映画ファンには加入がマストのチャンネル(局)である。
 この数年、単に映画を放映するだけでなく、自ら制作するようになってきた。観たいと思わせる作品を手掛けている。人気ミステリの映像化なのだが、これがかなり健闘しているのだ。確かに「犯人に告ぐ」なんてよくできていた。最近では「白夜行」の映画化、「幻夜」のドラマ化が話題になった。
 「白夜行」はクライマックスの船越英一郎の叫びで台無しになってしまった感がある。叫んだことに対してではなく、叫んだ内容に。
 同じ東野圭吾原作で悪女ものの姉妹編「幻夜」はどうなのだろうか? 深キョンの悪女ぶりは?

 「マークスの山」は「幻夜」の前に放送されたドラマだったのではないか。
 新聞広告だった思う、WOWOWドラマ「マークスの山」の宣伝を見て、原作に近い形で映像化するには、映画より連続ドラマの方が適してると喜んだ覚えがある。
 日本映画界には、ベストセラーになった長編小説(主にミステリ)を映画化する傾向がある。いくつかの例外(「OUT」「犯人に告ぐ」とか)を除きことごとく失敗している。映画で、原作どおりの展開で描こうとすれば、情報量、時間の問題で破綻が生じるのは目に見えている。にもかかわらず、ほとんどが登場人物を少し整理するくらいで、原作同様の構成のまま映画化してしまう。
 僕自身、小説を読了して「これは映画になる!」と思ってしまうタイプである。しかし、こと長編の場合、TVドラマの方が映像化に向いているのではないだろうか。1クール(13回)は少し長いが、スペシャルドラマの前後編・3部作、あるいはNHKが得意とする短期間シリーズ(5、6回で完結)。「マークスの山」はまさにこの作りだった。

 主人公の合田雄一郎に上川隆也、合田の友人で東京地検特捜部の検事・加納に石黒賢。原作を知る者にとってはどちらもイメージではないが、NHKドラマ「照柿」の三浦友和の例もある。要はドラマの中で存在感を示せるかどうか。そういう意味では二人は好演していた。
 ふと思った。映画では誰が加納を演じていたのか? 調べたらなんと加納はカットされていたのだった。
 ドラマのもう一つのキーとなるマークスと看護婦。高良健吾と戸田菜穂が演じていて個人的にはイメージがぴったりだった。DVDのVol.1は全五話のうち、第一話と第二話が収録されていた。この二話を観る限りでは、映画をはるかに凌駕する傑作になりそうな予感がした。
 しばらく間を置いて鑑賞したVol.2(第三話、第四話)、Vol.3(最終話)で、大いなる期待はしぼんでしまう。映画より出来はいいけれど、傑作にはならなかった。

 結局マークスの精神障害をきちんと描けないことに起因するのではないか。映画化でも感じたことだが。
 3年周期で訪れる闇、その闘病を描かかないことには看護婦との純愛(同棲生活)も胸に響かない。原作(当然講談社文庫版だ)と違って、マークスが精神障害を患うのは、子どものころの母親の虐待が原因となっている。なぜ原作と違えているのかわからないが、母親の虐待を要因とするなら、その虐待が少年にどのようなトラウマを植え付け、精神障害になったのかという過程をきちんと描かなければ意味がない。きちんと描ければ、原作で感じた恋人というより母子のような関係がより鮮明になるのに。
 また、連続殺人の犯人がマークスであることが判明、北岳に登った彼を追うのは合田ほか数名というのは拍子抜けした。そうせざるをえない理由も説明されているが、これは警視庁と所轄署の合同捜査しなければ、物語的にも映像的に意味がない。
 そして山頂から晴天でくっきりはっきり見える富士山を見せなければ。メモの引用もとってつけたようだった。

 週刊誌記者を男性から女性にして(演じるのは小西真奈美)原作以上に活躍させたのはドラマのオリジナル。ラストは甘いけれど、山頂のシーンでそれほど感動できなかった者としては、ある種ほっとできる解決法だと思う。

 映画を観たとき(ビデオで、だが)同様、ドラマ全話を観終わると、原作を読みたくなった。
 単行本をまた読もうか。
 なんて思っていたら、新潮文庫で「マークスの山」(上下)が出たことを知った。〈決定版〉とはどういうことか。講談社文庫にまた加筆訂正しているのか。買うしかないか。




 まだ7月で秋には程遠いけれど、デザインを元に戻す。

 先週、「ゴールデンスランバー」を読んだら、映画が観たくなってしまった。TSUTAYAで一週間5枚1,000円サービスを利用して借りてきた。ほかに「告白」「明日に向って撃て」、そしてWOWOWドラマ「マークスの山」Vol.2、3。

 小説を読むと、キャスティングのうまさがわかる。主人公の堺雅人、元カノの竹内結子、後輩の劇団ひとり。大学時代の仲間たちでいえば、唯一、親友の吉岡秀隆だけがちょっとイメージ違う。学生時代の、髪が長くて無精髭姿は〈らしい〉のだが。あとロックな先輩(渋川清彦)や巡査(でんでん)、顔みるだけでニヤけてしまう。
 でも、やっぱり、素晴らしいのは父親役の伊東四朗だ。最初の登場シーンは巻き戻してもう一度観るほど。大笑い。そして涙。父親が「息子は犯人ではない」と断言する理由が原作を読むと理解できる。斉藤和義「幸福な朝食、退屈な夕食」が良い! エンディングロールはこの曲が聴きたくて何度もチェックした。
 「告白」は音楽が聴きたくて。サウンドトラック購入しようか。
 「明日に向って撃て」は初めての鑑賞。映画館はもちろんのこと、TVでもない。ラストシーン以外は。しかし、これは劇場のスクリーンで観なければいけない。美しい映像の数々に心洗われる。

 で、WOWOWドラマ「マークスの山」である。
 村薫のミステリ「マークスの山」にはたまらない思い入れがある。思い入れの深さについては、かつて講談社文庫になったときのレビューに書いている。夕景から転載する(誤字脱字訂正。最近このパターンばっかりだ)。

     ◇

2003/03/12

 「マークスの山(上・下)」(村薫/講談社文庫)  

 小林信彦およびマニアックな本以外の小説、エッセイ集等、ほとんどの本は図書館で借りることにしている。懐具合の事情と自宅の狭さに起因する。
 小説(主にミステリ)はまず単行本を読み、これは手元に置いておきたいと思えるものは文庫化された時に購入する習慣になった。宮部みゆき、逢坂剛、貴志祐介などの傑作はこうして集めたものだ。ところが「マークスの山」はなかなか文庫にならなかった。通常、単行本は1年くらいで文庫になるものだが、早川書房から出た「マークスの山」が話題を呼んだのは一昔前のことである。  

 「マークスの山」との出会いはとある書店の平台コーナーだった。山積みとなっている「マークスの山」を手にとった若いカップルの女性の一言に反応した。曰く「これ読み始めたらとまらなくなるの。徹夜して読んじゃった。最後はもう涙ボロボロ」。
 すでに直木賞を受賞して、評判になっていたのは知っていた。徹夜するほど面白いのなら読んでみようかと図書館に行ったらすごい人気でとてもすぐ読める状況ではない。そうなるとすぐにでも読みたくなる。どうしようかなと考えていたら、何と人事部の図書コーナーにあるではないか(当時はそういうサービスがあった)。  
 さっそく借りてきた。

 南アルプスの北岳で同時期に起きた親子心中事件と登山者惨殺事件。心中事件で唯一生き残った少年、神経を病んで発作的に登山者を殺してしまった飯場で働く労務者、二人が十数年後偶然に東京で接点をもつことで殺人者〈マークス〉が誕生した。
 碑文谷の閑静な住宅街で元やくざが何者かに殺される。続いて王子では法務省官僚が……。二つの殺人事件を結ぶものは何か? 警視庁の合田を中心とする七係は、執拗な捜査の末、事件が某大学山岳部グループが過去に封印した〈ある事件〉に起因していることをつきとめるのだが……。  
 本庁と所轄、キャリアとノンキャリア、上司と部下、さまざまな関係の中で個性豊な刑事たちが時に反目し、時に協調しあって事件の真相に迫っていく。怒鳴りあい、わめきあい、化かしあい…その捜査の実体がリアルで迫力あった。  

 それだけでも十分読みごたえがあるのに、それ以上に心惹かれたのは犯人〈マークス〉の生い立ち、看護婦との純愛模様だった。  
 両親は死亡し、一人生き残った少年は排ガス自殺による極度の二酸化炭素中毒の後遺症でいわゆる〈躁鬱病〉となって、3年周期で入退院を繰り返す。  
 精神病棟の劣悪な環境のもと、非人間的な扱いを受ける彼を庇い暖かく看護してくれた看護婦。青年に成長した彼と看護婦が再会しひっそりと同棲生活を送る様は心が和んだ。年上の女性に甘える彼に殺人犯の面影はない。  
 実をいうと、読んでいて警察側の人間誰一人も好きになれなかった。主人公の合田雄一郎でさえそのエリート意識が鼻についた。完全に殺人犯〈マークス〉に感情移入してしまったのだ。  
 女を幸せにするために、大金を手に入れたいと願う〈マークス〉があるきっかけで手にしたネタで今では名士となった男たちグループに強請りを働く。しかし結果的に二人の男を惨殺し、逆に相手から生命を狙われるはめになる。  
 〈マークス〉を狙った銃弾が女の身体を貫いた。すべてを失った〈マークス〉がとった行動は……。

 確かに読みだしたら止まらなかった。2段組、かなりのボリュームのページ数も苦にならない。特に後半は次の展開が気になって本を閉じることができなかった。翌日朝が早いのに、夜中の2時過ぎまでかかって一気に読了した。ラストは目がくもって活字がぼやける始末。大泣きだった。  

 話題を呼んだミステリだからすぐに映画化が発表された。監督は崔洋一、脚本は丸山昇一。主人公の合田が中田貴一というのは?ではあったものの、かなり期待できるものだった。結局劇場には足を運ばなかった。  
 なぜか。
 連続殺人事件を追う警察側、犯人〈マークス〉と看護婦の絆、それぞれの人間模様を濃密に描いたこの警察小説をそのまま2時間前後の映画にするのは無理があると思ったのだ。小説の感動を映画でぶちこわしたくない。ビデオになってからの鑑賞になった。案の定物語の骨格はそのままに細部をいじくりまわした展開に始終違和感ばかり抱いていた。かみサンは開始早々「なにこれ」と文句を言って寝てしまった。最後までつきあった僕はというと小説と同じラストでも何も感じることができなかった。(と、これは原作を読んだ者の感想。原作を知らない人の中では面白かったという人もいた。中には〈マークス〉と看護婦のやりとりに僕が原作で感動したのと同じものを感じた人もいて驚いた。)  
 映画の出来に腹をたてた僕は翌日また人事部から本を借りて、もう一度読み直した。  

 文庫になったら購入しよう。そう心に決めて早10年、やっと発売された! と思ったら、全面改訂だって。全面改訂といえば同じ作者の「神の火」が頭をよぎる。同じ物語、同じ登場人物なのにキャラクターが大幅に変わっていて印象が全く違う小説になっていた。ふたつを読み比べて実感した。巧さは別にしてうねるような展開、感情の発露が旧版にあることも。

 思い入れの深い「マークスの山」の印象が変わってしまったら……嫌な予感を感じながら文庫本上下2冊を購入した。
 単行本を読んだのがずいぶん前なので、どこがどう違っているのか逐一書き記すことはできない。確か単行本では現在のマークスは病気がほとんど治癒していたのではないかな。だから看護婦との濡れ場もあった。文庫ではいまだに3年周期で躁鬱を繰り返していて、健忘症がひどい。物事をすぐに忘れる。看護婦との関係も男女というより母子といった感じ。  
 単行本では嫌な奴ばかりだった刑事たちの印象も変わった。個性の豊かさはそのままでそれぞれの立場が理解できる。こちらが年齢を重ねたからだろうか。
 マークスと看護婦が仲むつまじく病院からでてくるところを敵に狙われ、看護婦が誤射されてしまうくだり、単行本ではクライマックス直前に用意されていて、ここから物語は怒涛の展開になる。ところが文庫版では上下に分かれた本の(下)の最初の方、つまり中盤で撃たれてしまうのである。  

 全面改訂された「マークスの山」も「神の火」と同じ作者のスタンスを感じることができる。
 まずリアリティの優先。過分な盛り上げ方の否定。だからといって小説がおもしろくなくなったというわけではない。過去の事件に関係する弁護士に真相を聞きだそうとして合田ともう一人の刑事がさまざな証拠を小出しにしながら迫る取り調べのくだりに圧倒される。健忘症ゆえ青年がメモ魔になったというのもちゃんとラストへの伏線となっている。これは効いた。  
 本書を読み終えたのは夕方の渋谷駅ホーム。一筋の涙が頬を伝わった。  

 今回の加筆訂正が悪いというわけではないが、僕にはやはり単行本の世界こそ「マークスの山」だと思っている。
 仕方ない、単行本を購入しよう。


 この項続く




 昨日DVDで「空気人形」鑑賞。観終わって後悔した。やはり公開時に劇場で観れば良かった! と。いや、公開時当然劇場に行こうと思っていたのだ。が、劇場は限定されているし、前売券を購入していないにもかかわらず、通常料金で観たくない。なんだかんだとスケジュールが合わなかった。二番館(名画座)を押さえればよかったか。

 後悔と同時に安堵もしている。
 この手の作品は――映画世界に一種独特な時間が流れている作品はあわただしい生活と切り離された暗闇で観ることこそふさわしい。自宅で見ると映画世界に溶け込めない場合がある。すべての雑音をシャットアウトして鑑賞したい。
 市川準監督「トキワ荘の青春」をビデオで観たときもくやしい思いをしたものだ。
 この世界観は是枝監督のほか、西川美和監督や山下敦弘監督の作品に共通している。かつて、朝めし前プロジェクトのS氏がmixiで「静かな映画」なるコミュニティを作った。静かな映画。言い得て妙である。こういう映画は劇場で観るべきだと主張したい。
 しかし、「空気人形」は、途中から目頭が熱くなって仕方なかった。心を持ってしまった空気人形(ダッチワイフ)の切なさ、哀しさがびんびん伝わってきて、何度か頬に涙が伝わった。ラストのハッピーバースデーには嗚咽をもらしそうになった。劇場でそんな姿をさらしたくないじゃないか。
 ハッピーバースデーに嗚咽した、なんて書くと勘違いする否定派がいるだろう。「パンズ・ラビリンス」のラストと同じようなものを感じ、だからこそヒロインの心根に共鳴、共感したといえる。

 「空気人形」は「映画芸術」のワーストテンで一位になった作品で、実際、ブログでは否定するレビューの方が多かったような気がする。僕が覗いたブログではとんでもない否定のされ方をしていた。この映画を褒めた小林信彦まで誹謗するのだから。
 そんなにひどい映画か? 確かにラストのラスト、タンポポの綿毛のシーンはいらないと思う。ハッピーバースデーのあと、ごみとなった空気人形の姿、その落差がショックとある種の感銘を与えるのに。
 最初、ストーリーを知ったとき、手塚治虫の「やけっぱちのマリア」を思い出した。小学校高学年のとき少年チャンピオンに連載されて、毎週楽しみにしていた。あのマンガも、ヒロインのマリアがダッチワイフに魂が入って活躍する話だった。ラストは抜け殻のマリアがボロボロになって川に流されてしまうのではなかったか。
 オリジナルだと思った映画には原作があった。業田良家のマンガだった。
 まあ、ファンタジーだと思えば、納得できない展開も許せてしまうところが僕にはある。

 空気人形にペ・ドゥナをキャスティングしたことを特筆したい。ペ・ドゥナも見事それに応えている。台詞が少ないということもあるが、映画はまったく韓国人だということを感じさせない。ペ・ドゥナが日本語が堪能になった、のではないことは、エンディングロールで確認できる。現場の指導がよかったということだ。全裸になったときの、肌の感触がまるで人形のようなイメージにも瞠目した。
 ARATAもいい。それから高橋昌也の老人!
 ちなみに空気人形を日本の女優が演じるとしたら、上野樹里が適任だと思う。ぜったいにヌードにはならないだろうが。




 先週の日本テレビ「金曜ロードショー」は「デジャヴ」だった。
 デンゼル・ワシントン主演、トニー・スコット監督の、というより、ジェリー・ブラッカイマー製作の、〈時間〉を題材にしたサスペンス映画。
 
 この映画、劇場で何度か予告編を観た。けっこう映画アンテナが反応したのだが、結局足を運ぶことがなかった。DVDになっても借りようともしなかった。
 TV放映でやっと観た次第なのだが、その面白さに「なぜ劇場で押さえなかったのか!」と後悔しきり。
 タイトルを「デジャヴ」にし、タイムリープものとして映画を宣伝しなかったのは、戦略として賢い。拍手喝采したい。

 冒頭、無残な焼死体で登場する女性がかなりの美形だ。扮するはポーラ・パットン。東のハル・ベリー、西のポーラ・パットン、なんてね。こんな美人が端役か、と思ったら大間違いだった。
 映画が進行するにつれてラストのオチがわかった。案の定、過去監視システムはタイムマシンの一種であることがわかり、4日半前に戻ったデンゼル・ワシントンはフェリー爆破の阻止はもちろんのこと、ポーラー・パットンをも救おうと大活躍することになる。監視範囲外の空間でのゴーグル付ヘルメット(?)を使ったカーチェイスの緊迫感と迫力。普通ならあの事故で何人かは死んでいるはずだが。

 パソコンでブログを書きながら観ていたので、いくつか見落としたところがある。
 翌日DVDを借りてきた。

 なるほど、そういうことか。
 タイムリープの連鎖反応……。
 デンゼル・ワシントンはすでに一度(?)は過去へタイムリープしている。研究所の所員がそのことを知っているそぶりだった。が、途中で失敗。デンゼルは死んだ。話のつじつまがどうなっているのかよくわからないがそういうことだろう。
 研究所の所員だけではない、犯人のテロリストも知っている。あれだけの殺戮を犯しているにもかかわらず、「警察は自分を告訴できない」と自信満々に語っているところをみると、違法捜査であることを認識しているからに違いない。
 ラスト、ポーラからすべてを知らされたデンゼルはもう一度タイムリープするのではないか? 友人の捜査官を救うために。

 TV放映ではカットされてしまったタイトルロールの主題歌が気に入った。

 翌日公開の「ザ・ウォーカー」に併せたTV放映である。新作映画の宣伝。そういう観点で観ると、デンゼル・ワシントン主演の映画は面白いと判断できる。「デジャブ」はそう判断したからこそ主演オファーを受けたのだろうと。
 ということは「ザ・ウォーカー」も大いに期待できるか?


 17日(木)は地元シネコンで「告白」を鑑賞。中島哲也監督は今一番信用がおけるかも。脚色が巧い。原作は読んでいないがたぶん原作ファンを裏切っていないと思う。原作の核の部分をすくうのが絶妙なのだ。原作の評を読むと読後感が悪いとか。映画の後味は悪くない。クライマックスである種納得させられるからだと思う。〈癒〉といってもいいかもしれない。
 音楽が良い! 「トレイン・スポッティング」が好きな人は耳をそばだてるのではないか? サントラ絶対買いだ。
 観る気がしなかった「パコと魔法の絵本」、今度DVDを借りてこよう。
 



 先週、神戸から帰ってきたら、Amazonから小包が届いていた。ウフフフ。封を開けるとDVDソフトが3枚(と数えるのだろうか)。「小さな恋のメロディ」「ロミオとジュリエット」「フレンズ」である。
 Youtubeで「フレンズ」のオープニング映像を観ていたらいてもたってもいられなくなりAmazonでDVDを検索していた。数年前にDVD化されたのは知っていた。だったらついでに、ってんで「小さな恋のメロディ」と「ロミオとジュリエット」も一緒に注文したというわけだ。

 これまでDVDの収集には自分なりのルールを設けて規制していたところがある。でないと狭い部屋がとんでもないことになってしまうからだ。とにかく闇雲にコレクションすることだけは固く禁止していた。
 購入してもいいのは自分に多大なる影響を与えたTV作品。これが一つめのルールだ。「傷だらけの天使」のDVD-BOXが発売されると、真っ先に手に入れた。まだDVDプレーヤーがないにもかかわらず。「タイム・トラベラー」のDVDは当然購入。「木枯し紋次郎」の第1シーズンもBOXで。「ウルトラQ」もBOXが出るなら購入しようと思っているのだが、単品バラ売りだけなのでまだ手を出していない。

 コント55号にコントの真髄を教わったので、全盛期のものではないと知りながら「なんでそうなるの?」「傑作コント集」を手に入れた。現在「ゲバゲバ90分」のDVDを購入するからどうか迷っている。これまた小学生時代にとんでもない影響を受けているので。
 NHKの佐々木昭一郎の一連の作品がDVD化されたら迷わず購入する。あるいは東芝日曜劇場のHBC制作のドラマとか。「夢の島少女」と「バースデー・カード」は絶対!

 コレクションはTV作品に限定したかった。もともとTVはブラウン管(液晶)で鑑賞するものだから。
 映画は劇場で、スクリーンで観るべきものという意識があるので、収集しない。
 もしコレクションするのなら、あくまでも特撮怪獣ものとジャンルを決め、なおかつ、その中でもより限定したものにする。でないと収支がつかなくなるのは歴然だもの。これが2つめのルールだ。昭和のゴジラシリーズ、その初期作品もぐっと我慢。中古で販売していたリメイクの「キング・コング」や「宇宙戦争」を購入したのはあくまで例外的処置である。いわゆる普通のドラマは、過去にどんな感銘を受けていようが無視することにしていた。

 3つめのルールが音楽(ライブ)もの。これはショーケンのライブを揃えている。「アンドレ・マルロー」「シャンティ・シャンティ」「THANK YOU MY DEAR FRIENDS」&たぶんもう観ることもない「エンター・ザ・パンサー」。それから露天で買ったボブ・マリー。

 自分の中の三大ラブストーリーのDVDをコレクションしたことで、パンドラの函を開けてしまったような感じがする。 
 昨年だったか、一昨年だったか、川崎のCDショップで「ブラザーサン・シスタームーン」のDVDを見つけたときは、安価ということもあり飛びつきそうになってもぐっとこらえたのに。
 市川崑監督「股旅」はぜひ手元に置きたい。「幸福」も。金田一シリーズなら「悪魔の手毬唄」か。ショーケン主演の「約束」「青春の蹉跌」。どちらもまだDVD化されていないけれど。

 DVD三作品は一週間経った今もまだ開封していない。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
私家本「僕たちの赤い鳥ものがたり」
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」

神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。遊びにきてください。

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