NHK「ファミリーヒストリー オノ・ヨーコ&ショーン・レノン」は8月18日(金)19時30分~20時43分に放送されます。
 再現フィルムの撮影にスタッフ&エキストラで参加した番組です。73分の特別編。

 番組の案内にこうあります。
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 オノ・ヨーコさん84歳。1969年にビートルズのジョン・レノンと結婚、数々の共作を残している。前衛芸術家、平和活動家としても活躍してきた。ヨーコさんは、息子ショーン・レノンさんに自らのルーツを伝えたいと、出演を決めた。祖父は日本興業銀行総裁、父は東京銀行の常務取締役を務めた。また、母は安田財閥・安田善次郎の孫にあたる。激動の時代を生き抜いた家族の歳月に迫る。収録はニューヨーク、73分特別編。
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 日本興行銀行総裁のお祖父さんが戦時中、軍に金を融資するか否かの会議のシーンで、もしかしたら私が写っているかもしれせん。
 どうぞお楽しみに!

20170711




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 承前

 K監督から携帯に電話があったのが先々週だった。最初は7月26日に予定されている「ウルトラセブン」上映イベントに関することかと思った。
 K監督が申し訳なさそうに言う。
 某国営放送の、某番組の再現フィルムの撮影をするんだけど、予算がないので、エキストラ(の一人)で出演してもらえないだろうか。ちなみに、実際はデジタル撮影だが、便宜上「再現フィルム」としておく。
 撮影は11日の月曜日。場所は埼玉県入間市の某施設。

 月曜は仕事だ。とはいえ、K監督の頼みなら断れない。いや、撮影自体に興味があるので、なんとか参加したい。集合は15時だというから、13時ごろに店を早退すればいい。月曜はそんなに混まないし、一緒に働くW嬢一人にまかせても大丈夫だろう。W嬢の了解も得た。スケジュール帳にメモもしたら、11日は火曜日だということがわかった。K監督に確認すると、撮影は火曜日だという。
 だったら、個人的な定休日なので、気兼ねなく参加できる。
「その日は休みなので、午前中から参加して撮影を見学してもいいですか?」
 K監督にお願いした。
「いいけど、なら、見学ではなく、撮影の手伝いしてくださいよ」
「了解でーす」
 スタッフは現地に9時集合ということで、僕も同じ時間に合流した。

 著名人(主に芸能人)の家族の歴史を描くこの番組。今回のゲストは、世界的な超スーパーグループのメンバーと結婚、グループを解散させた張本人として、ファンには恨まれているあの女性(と息子さん)。再現フィルムは彼女の祖父が主人公で、祖父と若かりしころの父親の関係が描かれる。
 
 撮影の手伝いは記録だった。スクリプターと呼ばれるものだ。まあ、本当のスクリプターは、カットごとに事細かくチェックしてノートに記載するのだろうが、僕の場合は、カットナンバーとテイク数、OKかNGか、NGならその理由、を書けばいいもの。

 撮影は集合後、すぐに始まった。
 ロケセットとして使用されている建物は、旧石川組製糸西洋館。かつての製紙会社の迎賓館は大正10年に建てられた由緒ある建築物で、今は一般公開されている。この建物を終日借りての撮影だ。
 この建物のいくつかの部屋を、主人公が留学した米国の大学の教室、社会人になってからの演説をするホール、会社の執務室、会議室に見立てて、撮っていく。
 主要な人物は、プロの役者さんが演じているのだが、その他は監督の友人、知人が呼ばれて扮している。
 皆さん、用意された衣装を着るとそれらしく見えるから不思議なものだ。エキストラは外部の人だけではなく、スタッフも演じている。当然のことだろう。
 驚いたのは助監督のIさんである。現場で動き回るIさんは、Tシャツに短パン姿の、夏の撮影現場で目にするスタッフのあるべき恰好。顔の下半分は白い髭に覆われている。このIさんが内トラとしてスーツに着替えたら、見違えるほど立派な紳士に変身してしまったのだ。
「Iさん、すごい! 浮浪者から大学教授まで演じられますよ」
 叫ばすにはいられなかった。
 
 撮影は、監督自身が描いた絵コンテに沿って、ほぼ順撮りで行われる。
 再現フィルムのシナリオ(台本)はどうなっているのだろう?
 スタッフが使用しているのは絵コンテのほかに、撮影するカット(NO.や登場人物が記されている)をとりまとめた一覧表があるが、番組そのものの台本もあった。台本というか、スクリプトみたいなものだ。横書きでびっちり書き込まれている。
 スタジオにおけるゲストの対応が書かれていて、その会話の中で、会話にでてくる話題に沿って再現フィルムが挿入される。

 昼食後、僕がエキストラで出演するカットの撮影になった。主人公の会社の会議のシーン。幹部の一人だ。
 最初に衣装さんから名前を呼ばれ、着替えようとしたら、K監督からその前に撮影するカットの記録について指示があった。
 そんなわけで、着替えは後回し。一番最後になった。

 準備万端、さあ撮影となった。ところが僕自身の着替えがまだだった。あわててスーツを着たのだがネクタイが締められない。会社辞めてからネクタイを締めたことないから、締め方忘れた。あたふたしていたら、カメラの角度ではネクタイは見えないから締めなくていい、上着だけ着て! となった。
 主人公を中心に3人がメインになるので、その他大勢(といっても4人だけど)は写っていれば御の字ということで。カメラ位置を変えて3カット撮影。
 撮影終えてから、ネクタイを締めて記念撮影する。

「出番終わったから、帰ってもいいけど……」
 K監督が訊いてきた。
 スタッフとして参加しているのだから「はい、そうですか」と帰れるわけがない。
 終了までお手伝いします!

 本当なら撮影は夜7時を過ぎる予定だった。夕食の弁当も用意されていたらしいから。
 ところが、予想以上に撮影が順調で5時に終わってしまった。
 そんなわけで5時過ぎには帰宅の途についた次第。ボランティアのつもりだったから、帰り際に寸志(交通費)をいただいて喜んだ。その額は来るときにチャージしたのと同じ。ラッキーってなもんで、赤羽の居酒屋にしけこんだ。そこで気がついた。「番組の放送日、聞くの忘れた!」



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旧石川組製糸西洋館 全景

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建物は国登録有形文化財です

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撮影準備中 後姿がK監督
会議のシーンはこの部屋が使われています

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再現フィルムのラストはこの部屋を主人公の執務室として撮影されました

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この衣装で会議のシーンに出演しました
たぶん、ほとんど写っていないと思います




 先週、疲れで1日仕事を休んだことはすでに記した。
 すっかり疲れもとれて意気揚々と出勤した朝の品出し作業。脚立を利用して棚の上にある商品を降ろして棚を補充していた。脚立を何度か昇り降り。作業が終わって脚立を降りたとたん腰に激痛が走った。
 そう、やってしまいました、ぎっくり腰。
 痛みはまだひかない。
 明日、病院に行ってきます。

 以下、FBからの転載。

     ◇

 先週は4日連続イベントでした。
 5月のイベントも残すところ一つ(実は25日(木)にもうひとつあるのですが、それはクローズドの会合なので)。
 21日(日)、15時からの「小中和哉の特撮夜話 Vol.2 ゲスト飯島敏宏氏」。
 夜話なのに、なぜ昼間に開催?
 まあ、そうカタいことは言わないでください。
 日曜日ですし、飯島さんも高齢ですので。
 日曜日の午後ですと、お客さんも来やすいのでないでしょうか。

 飯島さんは第一期ウルトラシリーズのレギュラー監督で、当日は特撮の話で盛り上がるのでしょうが、木下プロダクションでドラマをプロデュースしていた名プロデューサーの顔もあります。
 昔、TBSの木曜日22時から〈人間の歌シリーズ〉というドラマシリーズがありました。私がこのシリーズで最初に惹かれた作品が「それぞれの秋」でした。一家の大黒柱である父親が脳腫瘍となり、その発症、入院、手術をとおして家族の絆が描かれる内容でした。私、このドラマで脳腫瘍というものを知ったような気がします。

 父親が小林桂樹、母親が久我美子、その息子が林隆三、小倉一郎、娘が高沢順子。ドラマは小倉さん演じる次男が語り部となって進行します。スケバン役で桃井かおりも出演しており、私、それで女優桃井かおりを認識したのでした。
 まったくのフィクションとしてドラマを楽しんでいたのですが、まさか、7年後に我が家でどうようなことが起きるなんて、思いもしませんでした。母親が脳腫瘍になったんですね。手術は成功したものの、ドラマの小林桂樹のように回復することはありませんでした。一級の障碍者になり、その後20年間寝たきりの生活でした。

 「それぞれの秋」は、この春、BSで放送されました。友人に頼んで録画してもらい、先日、収録されたDVDをいただきました。
 まだ観ていません。ちょっと怖いんですね。フィクションとして楽しめませんもん。
 このドラマでシナリオライター、山田太一を知り、その後は倉本聰とともに追いかけました。
 飯島さんにはドラマ作りについても、いろいろお聞きしたいんですよ。

 まだ、席は若干の余裕がありますので、ぜひご予約のほど、お願いいたします。

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 この項の【おまけ】から続く

 大河ドラマ「元禄繚乱」が放送されたのは20世紀最後の年だ。
 市川崑監督「四十七の刺客」を観てから、自分の中で忠臣蔵への興味が芽生えた。史実としての赤穂事件を知りたくなって、図書館から関連書を借りては読み漁った。
 赤穂事件から背景となる元禄文化や大河ドラマ「八代将軍吉宗」で享保の改革、その時代背景に興味がわいて、やはり関連書をあたった。映画「写楽」や大河ドラマ「徳川慶喜」も同様。大河ドラマは江戸時代が舞台になると1年間つきあうようになった。ドラマ、映画の原作から、時代小説も読むようになった。
 こうして江戸時代がマイブームになった。
 江戸時代への興味は今も続いている。

 「元禄繚乱」は最近(この最近は数年前の意)までソフト化されなかった。1970年代は初期までのドラマなら、ビデオが保存されていないということもあるが、「元禄繚乱」は2000年の製作だ。
 なぜかというと、これはあくまでも僕の想像だが、NHKサイドがソフト化したくても主演の中村勘三郎(当時は勘九郎)の了承がとれなかったからではないか。中島丈博との喧嘩が尾を引いていたと解釈している。
 ソフト化されたのは、勘三郎が亡くなってからなので、そう推察するのだが。

 ちなみに「勝海舟」は総集編のみビデオが保存されていたらしい。だからなんとかショーケンの人斬り以蔵を観ることができる。


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2000/12/12

 「元禄繚乱 忠義の士」(NHK総合)

 「元禄繚乱」が終了した。
 討ち入りの回の時に書いた感想どおり、作者・中島丈博は〝幕府が討ち入りした赤穂浪士たちに対してどんなお裁きをするか〟をクライマックスに持ってきた。
 大石は吉良に復讐するためではなく、片落ちの裁定に対する幕府(綱吉)への異議申立て、あるいは「生類憐れみの令」等の庶民の生活を省みない政治を断行する将軍に対する批判のために討ち入りしたという解釈が今回の忠臣蔵には取り入れられている。この解釈は井沢元彦の「元禄十五年の反逆」で知って、討ち入りの真相が理解できた思いだったが、原作の船橋聖一「新・忠臣蔵」も同様なのか、それとも中島丈博のオリジナルなのか。

 大石の堂々たる将軍批判を、お忍びで面会にやってきた当の本人の前でさせるという掟破りのフィクションにはまさしく驚いたが、ショーケン演じる綱吉が怒りまくる姿を見ながら、世の忠臣蔵ファン、歴史家たちの批判を浴びるには違いないけれど、この展開は正解だと思った。こうしなければ(つまり大石の意見を直接綱吉が聞かなければ)本当の意味で大石が綱吉に一矢報いることができないからだ。
 大石が将軍に対する批判を幕府の用人に口にしても決して将軍の耳には届かない。それは絶対どこかでにぎりつぶされる。自分の裁定で運命を狂わされた人たちの嘆きなどお上が知る由もない。だからこそ中島丈博としては自分への批判で地団太を踏む綱吉を描きたかったのだろう。ショーケンはそれをコミカルに演じ、大河ドラマ四度めの忠臣蔵・「元禄繚乱」の新機軸(テーマ)が鮮やかに浮かび上がった。僕はこのフィクションを断固支持する。

 シリーズ初期だけでなく、最後もやはり「元禄繚乱」はショーケンのドラマだったと言える。製作が発表された時、数年前の12時間ドラマ「豊臣秀吉」で名演技を見せた中村勘九郎がこれまで歴代の役者たちが演じた大石内蔵助とは一味も二味も違うイメージを構築すると期待していたのだが、それほどでもなかった。打ち上げ時に中島丈博が「眼が死んでいる」と言って物議をかもしたそうだが(そこまでは言い過ぎだと思うが)、わからないでもない。
 ショーケンは従来の彼独特のアドリブをきかせた演技で、エキセントリックな綱吉を好演した。ショーケンファンにとってはうれしい限りだ。彼にとっては「勝海舟」のニヒルな人斬り以蔵とともに大河ドラマの歴史に名を残すキャラクターになるだろう。
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 一昨日は今年最初のシネマDEりんりん。早稲田松竹とのコラボ企画で今上映している「ハドソン川の奇跡」を観て語り合おうという呑み会だった。会場は高田馬場の居酒屋で、19時に仕事を終えてから30分遅れで参加。
 何と参加者は40名! 呑み足らず二次会へ。
 結局1週間で4回も呑んでしまった。

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 この前、大友啓史監督について書いた。NHKを辞めてフリーの演出家となり、今は映画監督として活躍しているわけだが、NHKというと注目した演出家が二人いる。

 その一人が片岡敬司。90年代、気鋭のシナリオライターと新進ディレクターがタッグを組んで単発ドラマを発表する「ニューウェーブドラマ」というシリーズがあった。感銘を受けた「ネットワークベイビー」の演出が片岡敬司だった(脚本:一色伸幸)。
 大河ドラマ「元禄繚乱」では、必殺シリーズを彷彿させるような画面作りで、片岡演出の回を楽しみにするようになった。

 もう一人が佐々木昭一郎。70年代から80年代にかけて夢中で追いかけた。
 90年代になってから、古書店で著書「創るということ」を見つけた。この本は昨年だったか、一昨年だったか、新装版がでている。 佐々木昭一郎監督作品の上映に合わせた企画だったらしい。知ったのは上映後だったので、映画はまだ観ていない。
 
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1999/11/03

 「創るということ」(佐々木昭一郎/JICC出版)

 1974年10月15日(僕の誕生日だ、放映日はこの本で知ったのだが)、NHKで芸術祭参加作品として「夢の島少女」が放映された。たぶん新聞のTV欄でこの番組が紹介されていて興味を持ってチャンネルを合わせたのだと思う。
 観終わって、従来のNHKらしくない作風にショックを受けた。今、憶えているのは、こういう映像をNHKが流してもいいのか? 問題ないのか? という思いだ。
 女性の裸などのきわどいカットもあったと思う。ただ、そういうところだけに反応したのではない。詩情あふれる映像そのものに衝撃を受けたのだった。
 ストーリーは忘れてしまったが、その衝撃は今でも実感としてある。
 放映後、もう一度観たくて、この作品が芸術祭に入賞することを祈った。入賞すると必ず芸術祭受賞作として再放送されるからだ。残念ながら何の受賞もしなかった。が、演出の佐々木昭一郎の名前はしっかり刻まれた。(昔の日記帳をみたら、10/15に「夢の島少女」、 メルヘンの世界、素晴らしいと書いていた)

 高校時代には「紅い花」が放映された。つげ義春の劇画を原作にして、当時つげ義春の世界が好きだった僕は佐々木昭一郎の演出によるドラマ化に歓喜した覚えがある。
 80年、「四季・ユートピアノ」が放映され、絶賛を浴び、国内外の数々の賞を受賞した。この頃だっただろうか、佐々木昭一郎は賞取り男として社内で優遇されている、そのため1年に1本作品を担当すればいい、なんて記事を読んだことがある。

 この本の存在は全く知らなかった。知っていたら真っ先に買っていただろう。独特の映像制作の極意が述べられているのだから、貴重なものである。
 デビュー作当時から数々の賞を受賞していて、その自信はこの本の自作を語る部分に色濃く反映されている。すべて順風満帆と思いきや、「夢の島少女」の前にはAD、FDとして3年ほど他人の作品にかかわっていたというのだから、やはり出る杭は打たれる、というか、NHKの企業体質というか、全くもって信じられない。

 彼の演出理論にまことに的を射たものだと納得してしまう。役者はあくまでも映像の素材ではある。いわゆる演技を否定し、その役になりきるまで、一人ひとりの生理を大切にする。素人を役者として起用するのはよくわかる。
 その後、「四季・ユートピア」のヒロイン・A子(中尾幸代)を起用して(この本で知ったのだが、「夢の島少女」のヒロインも彼女だった。驚いた)、ヨーロッパを舞台にした「川」シリーズを撮るのだが、まともに観た覚えがない。この時期じっくりと腰をすえてTVに向かう姿勢がなかったので、観たとしても感銘を受けたかどうか。
 一度佐々木作品を劇場で鑑賞してみたいものだ。
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 【おまけ】

1999/11/30

 「元禄繚乱 四十七士討入り」(NHK)

 録画しておいた「元禄繚乱 四十七士討入り」を観る。
 刃傷の時と同じく演出・片岡敬司を予想していたが、別の人だった。彼は光と影を多用した、必殺シリーズを彷彿させる斬新な映像と演出を見せてくれるのでちょっと残念だった。大河ドラマで初めて演出家を意識させてくれた人で今後の活躍を期待したい。

 1年間の連続ドラマを締めくくるクライマックスだし、忠臣蔵一番の見せ場だから当然スタッフ、キャストともに気合の入った見ごたえある一編だった。45分間があっというまに過ぎてしまった。  技術の進歩もあるだろうが、前日に降り積もった雪が、本物っぽく表現されていたのがたまらない。雪の質感もいいが、また赤穂浪士が雪の上を歩く際の音にも神経を配っていてとてもリアルだった。

 見所は2ヶ所。
 赤穂浪士が吉良家に討ち入ったことを知り、討伐に行こうとする上杉家の当主(吉良の実子)とそれを必死に止める家老・色部又四郎の押し問答。柳沢吉保の陰謀により、討伐に行けばお家断絶は間違いない。それを事前に察知していた色部の「殿が今討伐に行ったらわが藩も赤穂と同じ道をたどるのですぞ」の台詞が重くのしかかってくる。通常の忠臣蔵ものにくらべ、刃傷に至るまでの長いドラマがここでいきてくる。
 無能な江戸家老のために殿の刃傷事件を阻止することができず、お家断絶の憂き目にあって、討入りをせざるをえなかった大石と、赤穂藩の二の舞だけはおこしたくないと命をかけて殿の暴挙を阻止する色部の、二人の家老の対比が胸を打つ。

 浪士につかまった吉良が大石に尋ねる。「わしを本当に敵と思っているのか?」大石は答え ない。しかしその眼は何かを訴えているかのようだ。吉良はわずかに微笑む。吉良は大石の本心を見抜いたのだ。大石の本当の敵は幕府だということをここではっきりした。
 さて、その敵役・幕府はこの決着をどうつけるのか。「元禄繚乱」のテーマはここにある。




 昨日テレビ朝日で放送された「地方紙を買う女」、朝日新聞の紹介でラストを褒めていたので期待して観たのだがそれほどでもなかった。以前、日本テレビで放送されたドラマの方が面白かったと思うのだが。
 松本清張の小説は平成の時代(21世紀)を舞台にすると何かと無理が生じてしまう。原作同様の時代設定が必要なのではないか。

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 ●黒澤明ドラマスペシャル「天国と地獄」&「生きる」 2007/09/11 

 最近黒澤明監督作品のリメイクが流行している。ハリウッドで「生きる」がリメイクされるのだとか。古くは「用心棒」「七人の侍」が「荒野の用心棒」「荒野の七人」という西部劇としてリメイクされている。正確にいうと「荒野の用心棒」はリメイク権を取得せず、盗作問題になったのだが。
 どちらも公開は1960年代前半、物心つく前。もう何年も前になるが、やっとTVで「荒野の七人」を観る機会があった。傑作として名高い「荒野の七人」はそれほど面白いとは思えなかった。小学5、6年、中学生の時代だったら、アクションに興奮したかもしれないが、悲しいことに、もう何度も「七人の侍」は観ているのだ。何かと比較してしまっては分が悪い。
 日本における黒澤作品のリメイクというと「姿三四郎」が思い出される。これまで何度も映画やTVで映像化されている。ただこれは富田常雄の小説の力によるものだろう。「忠臣蔵」や「宮本武蔵」の系譜。
 リアルタイムで覚えているのは「野良犬」だ。小学6年生だったか、中学1年だったか。映画館で予告編を見た。まったく話題にならなかった。
 後年、黒澤映画の真髄に触れてからというもの、「野良犬」のリメイクの無謀さを思い知った。海外ならともかく日本映画で黒澤作品のリメイクなんて出来るわけがない。それが日本映画界の常識というもの。そう勝手に判断していた。
 フィルムが残存していない、あるいは旧作は名画座でしか鑑賞できない、という時代ならまだしも、今はビデオやDVDで黒澤作品は日本のどこででも目にすることができるのだ。
 だから角川春樹が「椿三十郎」のリメイク権を取得し、森田芳光が監督すると聞いたときは耳を疑ったものだ。そこへTVのスペシャルドラマである。それもヒューマンドラマとして黒澤作品の中で名作の誉れ高い「生きる」、そしてサスペンス映画の傑作「天国と地獄」。
 映画はそれぞれ1952年(昭和27年)、1963年(昭和38年)の時代を背景にしている。TVドラマは、現代に置き換えて作られているという。
 何考えているんだ! 真っ先にそう思った。確かにテーマに普遍性がある。だからストーリーの細部を変更しさえすれば現代にも通じる内容になる。TV局(企画プロデューサー)はそう判断したのだろうが、冗談言ってはいけない。時代が、その時代の風俗、慣習がどれだけ重要な要素を持っているか。
 あるいは娯楽色の強い「天国と地獄」は可能かもしれない。しかし「生きる」に関してはかなり旧作のストーリーを換骨奪胎しなければ現代に通じるとは思えない。
 まあ、お手並み拝見。それほど期待せずに観た。
 オリジナルを知らない世代にとってみれば、両作品ともかなり質の高いドラマだったと思う。どちらも旧作のシナリオを尊重した展開。だからこそ面白く観られたのだろうが、現代を舞台にしたことが逆にアダになった。それは思ったとおり「生きる」で顕著だった。
 その前に「天国と地獄」について。
 7年前、ビデオで再見してその感想をこう書いた。

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 犯人特定までは映像にくぎづけになるのに、その後の展開がどうもピンとこない。一つは麻薬常習者の巣窟シーンが現実にありえないこと(昭和30年代の横浜に本当にあったのか?)。もう一つは犯人の権藤に対するどうしようもない恨み、犯人を極刑にしようと熱い正義感ぶりを発揮する刑事たちの心情がいまいち理解できないからかもしれない。
 つまりどちら側にも感情移入できないまま、権藤と犯人の対立という構図でこちらがあっけにとられたまま物語が唐突に終了してしまう、その違和感がどうしてもぬぐえないのだ。
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 この違和感をリメイク作品ではどう処理してくれるのか。
 鶴橋康夫監督(脚色も)はかなりの映像派で、オープニングのクレジットから凝っている。前半の密室劇ではガラス窓への映りこみに神経を注ぎ、目を瞠らせてくれた。たぶんに合成も利用しているのだろう。でなければ撮影クルーが映ってしまう角度、ショットが何度もあったから。
 当初犯人側が3人になっていることから、原作である「キングの身代金」寄りの、新しい展開になるのかと思われたが、やはりあっけなく殺された。これは誘拐された子どもが主犯以外の犯人(女性)を庇うことによって、後半刑事たちが主犯を極刑にすべく捜査するモチベーションへの伏線なのだった。
 犯人の、靴メーカー重役に対する怒りというのが、オリジナルでもわからなかった。丘の上の豪邸が憎悪の対象ということだが、少なくとも犯人は医者の卵であるのだから、今後の生活は保障されているではないか。なぜラストの面会であれほど怒り狂うのか。不思議でたまらなかった。
 これはリメイクでもそのままの形で取り入れられていて、ますますおかしなことになってしまった。昭和30年代はまだ貧富の差が激しかった。だから、黒澤映画に遅れてきた僕は、理解できないまでも、そういうこともあるかしれないと要因を時代に求めて無理やり納得させてしまうことはできる。
 現代だと話は違ってくる。丘の上の豪邸にどれだけの価値がある? もし犯人がとんでもなく上昇志向が強く、そのうえ頭も要領もいい男なら、病院内での出世や金儲けを目指すのではないか? 仮に犯罪に手を染めるとしても、明らかにデメリットの多い誘拐を画策するかどうか。
 現役時代、大学受験で東京の施設に宿泊したときのこと。全国から集まった受験生5、6人と同部屋だった。その中の一人が医学部に通う学生をしきりに羨んでいた。
「だってさぁ、頭脳優秀か、親が金持ちかどちらかなんだぜ」
 丘の上の豪邸に住むセレブに対する怒り。それには犯人と主人公の、何か別のエピソードがどうしても必要だったと思わないではいられない。
 キャスティングは悪くなかったと思う。主演の佐藤浩市に叩き上げの靴職人気質を感じられなかったのは残念だけど。
 それから「天国と地獄」の代名詞にもなっているピンクの煙と特急こだまの緊迫シーンは、新しいアイディアを導入すべきだったのではないか。ピンクの煙があがって何事もないような顔をしている漁師(?)はないだろう。泉谷しげるだから許してしまう、か。

 「天国と地獄」の中で、主犯の研修医(インターン)が共犯の夫婦を殺害した方法が純度の高い麻薬の投与だった。いつも純度30%の麻薬を使用している中毒者が純度90%のものを摂取したらショック死してしまうという。麻薬中毒死に見せかけた、共犯者の口封じ。完全犯罪を狙った犯行は逆に墓穴を掘る結果となって、営利誘拐罪の15年の刑から殺人罪による極刑になってしまうのだ。
 リメイクのドラマを観た限りでは、キャスティングも適役でとても丁寧に作られた(通常のドラマに比べて)質の高い作品に仕上がっていた。時代を現代に置き換えたことによる不自然さはあるものの、作品自体を真っ向から否定するようなものではなかった。と思ったのである、観終わったときは。ところが「生きる」でどうしてもオリジナルを確認したいことがあって、一昨日ビデオを借りて衝撃を受けた。
 全然違うのだ。それこそ純度90%と30%の差!
 もちろん全盛時代に予算と日数をたっぷりかけて製作された映画と、現在の、いくらスペシャルとはいえTVドラマの状況の違いというものがある。単純に比較してはいけないかもしれないが、リメイクするからにはそれなりの新しさ、アイディアがなければ意味がない。「生きる」では、それが主人公が息子の子ども時代を回想しながら名前を連呼するところだと膝を打ったのだ。オリジナルはTV放映やビデオで数回観ているはずなのだが、このシーンがまったく記憶になかった。しっかりあった。やはりオリジナルの方が断然いい。昨日は「天国と地獄」を借りてしまった。観終わった後の満腹感といったらない。いったいリメイクの2作品は何だったんだ?

 黒澤明の映画はリアリズムの極致みたいな印象があるが、本当のところかなり様式美や誇張された表現で成り立っているのではないか、と思うことがある。モノクロ映像だからわからない、いや、だからこそ逆にリアルに見えてしまう。リアルに見せるためにとんでもなく作りこみをする、というのか。黒澤映画の現代劇、特に「生きる」を観ると必ず感じる。  
 舞台を現代の東京近郊の町に置き換えて「生きる」をリメイクすると知って、まず思ったのが、通夜のシークエンスをどう処理するのかということだった。
 通夜、葬式は地域によって、内容が変わってくるから、断言はできないが、現在、通夜の席で親族や会社関係者が揃って、夜遅くまで食事をし、酒を飲むなんてことがあるのだろうか。
 今では自宅を式場にすることがなくなった。公共あるいは私営のセレモニーホールで通夜、葬式(告別式)をおこなってしまう。その場合、通夜は焼香をした後、そのまま帰る場合が多い。中には別の部屋に飲食が用意されることもあるが、それだってちょっと口をつける程度。長居は無用。つまり「生きる」のような飲むほどに酔うほどに議論白熱なんていう展開になりそうにない。
 そのほか、オリジナル脚本を現代に合わせて脚色する程度では、何かとおかしい点がでてくるのだ。

 黒澤明監督の「生きる」のストーリーを要約するとざっとこんな風になる。
 主人公は市役所勤め30年になる初老の男(志村喬)。早くに妻を亡くすが、再婚もせずに男手一つで一人息子(金子信雄)を育て上げた。息子が結婚してからも一緒に暮らしている。
 何の取柄もない。仕事は可もなく不可もなく課長として目の前に積まれた書類に判を押すだけ。市民の陳情は内容に応じて該当部署に回す。率先して自ら行動を起こすタイプではない。面倒なことにはかかわらない。趣味もなく平々凡々と毎日をすごしてきた。己の生き方に何の疑いも持たずに。
 ところが胃がんで余命半年だと知って、激しく動揺、絶望に打ちひしがられる。息子は頼りにならない。
 これまでの人生は何だったのか。半年間何を糧に生きていけばいいのか。
 元部下で今は玩具工場で働く若い女性(小田切みき)の一言から、生きる目的、その価値を見出した男は、住民の陳情の中で部署をたらいまわしにさられていた案件に着目する。汚水溜めの悪臭を放つ土地の再開発。男はそこに児童公園を建設しようと奔走する。
 5ヵ月後、完成した公園のブランコに揺られながら男は絶命。しかし、その死顔は穏やかで満足気だった。

 クサい話だ。しかも男は「ゴンドラの唄」を口ずさみながら死んでいく。今、新作映画でそんなシーンを見せられたら照れて下を向くか、虫唾が走って腹を立てるか、どっちかだろう。
 まだ書籍でしか黒澤映画を知らなかったとき、いくら名作と謳われていても、ストーリー紹介を読んで敬遠したくなった。黒澤流ヒューマニズムといっても、こんな話は昭和20年代だからなりたつんだよなぁ。そう考えていた。
 ところがTV放映で初めて観たとき、すぐに引きずりこまれてしまった。役者の演技、脚本(構成)、演出、どれをとっても完璧といった感じ。クサさはまったく感じなかった。
 中盤、主人公が元部下の一言で自分の成すべきことを悟るシーンにぐっときた。レストランの2階、語り合う二人の背後では若い男女の学生たちが仲間の誕生パーティーの準備をしている。玩具工場で働く元部下はゼンマイ仕掛けのウサギを見せながら、モノ作りの楽しさを語る。主人公は公園建設を思いつき、何かにつかれたかのように階段を下りていく。そこへパーティーの主賓がやってきて、みんなが待つ2階へ駆け上がる。2階の仲間が「ハッピー・バースディー」の合唱で主賓を迎えるのだが、まるで生きる目的を見出した主人公を祝っているかのようなショットなのだ。
 翌日、まるで人が変わったかのようにやる気を見せた主人公が、問題の土地を観に行くところで、主人公の遺影がアップになる。
 その後は、通夜の席で課長の死の真相をめぐる討論。その中で癌に侵され余命いくばくもない課長が最後の力をふりしぼって公園建設に尽力したことが判明する。
 真相を知った部下たちが感激して自分たちも生まれ変わろうと誓い合うが、翌日からまたいつものような覇気のない毎日が繰り返されるという皮肉まじりなラストがいい。
 主人公がブランコに乗って歌うシーンで涙があふれたのは、心情が十分すぎるほど理解できたからだった。主人公は公園建設に奔走する。しかし、それは売名行為でも、組織の中で評価されたいからでもない。公園の完成を楽しみにしている住民、その子どもたちのことは意識しているかもしれないが、あとは関係ない。あくまでも自分の中の充実感だろう。その気持ちが痛いほどわかった。
 リメイク版「生きる」はほぼオリジナル通りに進展する。それなりに胸打たれたりするのだが、現代が舞台だから何かと不自然さがつきまとうのは前述のとおり。
 全般的に適材適所といった配役だが、肝心の主人公を演じる松本幸四郎がミスキャストだった。
 これは本人の演技力には関係ないことで、あくまでも役者が持っているイメージ、雰囲気の問題だ。あまりに立派だから、部下の女性から「ミイラ」と渾名をつけられる小役人に見えない。市役所の課長ではなく、官庁か何かでバリバリ仕事をしているタイプだろう。
 では誰が適役かといえば、助役の岸辺一徳あたりがふさわしいのではないか。歌舞伎役者だったら、中村勘三郎とか。
 女房に死なれ、男手一つで息子を育てたというのも、時代を考えると信じられない。現在でさえ、まだ〈現役〉といった感じなのだから若いころは女の方がほっとかないだろう。再婚して、妻と息子のどうしても埋まらない距離にあれこれ悩んで最終的に離婚してしまったとかの方がまだわかる。
 現時点から30年前というと1977年ということになる。子どもに手がかからなくなる80年代後半から、主人公は趣味やレジャーに興味を持たなかったのだろうか?
 昔と違って、仕事は仕事と割り切って、趣味に生きがいを求める人もいるだろう。
 リメイクでは、小田切みきの役を深田恭子が演じていて、ドンピシャリの配役だった。
 しつこいと言われそうだが、彼女をめぐる描写にもいろいろと不自然さが目立つ。
 今の時代、退職用書類に上司の判が必要だからといって、家を訪ねるだろうか。社内で本人不在の場合、代理を決めているはずである。
 退屈な市役所を辞めて、さて転職先はどこだろうと期待していると、玩具工場。派遣社員だそうだ。レストラン(喫茶店)での会話では昔ながらのぬいぐるみを取り出してくる。今の若い娘、そんな工場に派遣で勤めないし、だいたいその手のぬいぐるみの生産工場は中国あたりにあるのではないか。オリジナルと同じ「赤ちゃんと繋がっている」なんていう台詞が空々しい。
 通夜に小田切みきも深田恭子もやってこなかったのは不思議なことだが、まあいい(すべてを知っている彼女が来てしまったら、そこで議論も終わってしまう)。たぶん来られない理由があったのだ。翌日の告別式にはちゃんと参列しているはずだから。
 なぜ今「ゴンドラの唄」なのかというのも疑問の一つ。
 志村喬にとって、「ゴンドラの唄」は青春時代の流行歌だった。唯一うたえる歌なのかもしれない。松本幸四郎にとってはどうだろうか。子ども時代、青春時代、もっといろいろな歌があっただろう。酒場で「ゴンドラの唄」をリクエストする世代でないことは確か。時代設定はこういうところで如実に表れる。
 唖然としたのはラストシーンだった。最初から公園建設における課長の働きを評価していた部下(ユースケ・サンタマリア)が感慨を持って公園を見つめているところに、市議会選挙に立候補した助役の選挙カーがやってくる。ここはリメイクの脚色部分だ。
 何とウグイス嬢が深田恭子なのだ。何のために彼女は市役所を退職したのか。どれだけ市役所の連中を嫌悪していたのか。そんな彼女が元助役の選挙を手伝うはずがないではないか! いや、日給の良さに目がくらんだか。だとするとこのドラマの作劇が根底から覆されることになる。ホント何考えているのか。
 脚色は市川森一。ドラマ冒頭のクレジットでそれを知り、驚くと同時に期待したところがあった。
 「生きる」は主人公の孤独を描いているわけだから、本来の作風に合うと思ったのだ。
 「ウルトラセブン」の「狙われたウルトラアイ」「ひとりぼっちの地球人」は孤独をテーマにした異色作だった。メインライターを務めた「傷だらけの天使」も若者二人の焦燥感が漂っていた。主人公が孤独な死を選ぶ「バースデーカード」の衝撃は忘れられない。向田邦子賞を受賞した「淋しいのはお前だけじゃない」はその集大成だったか。
 そんなわけで、「生きる」の世界をどんな風に現代に甦らせてくるのか、クレジットを見るや期待してしまったのだ。黒澤明作品、脚本へのリスペクトは大いに感じるのだけれど。




 承前

 雑誌「en-taxi」は今発売している号で休刊になる。先日書店で立ち読みして知った。
 立川談春が前座時代を振り返ったエッセイ「談春のセイシュン」はこの雑誌に連載されていた。
 立川流の若手人気噺家が〈本書く派〉の仲間入りをしたのか、ぐらいの認識で真剣に読んだことはなかった。
 連載が終了し、「赤めだか」と改題されて出版されると、人気を呼んでベストセラーになった。賞も獲った。

 落語もできる小説家、立川談四楼ファンとして何かモヤモヤした気分だった。
 立川流の文筆家第一号の談四楼師匠は処女作「シャレのち曇り」以降何冊も上梓しているがそれまでヒットに結びついたものがなかった。皆内容は面白いのに。
 そんなところに弟弟子が初めて書いたエッセイがベストセラーとなりおまけに受賞までしてしまうのだ。
 志の輔、志らく、談春を立川流の三羽烏と呼ぶ(見る)向きがある。談笑を入れて四天王か。

 談春師匠は一度だけ生の高座を観る機会があった。
 ああ、立川流の志ん朝なんだなと思った。その口跡に聞き惚れてしまうが追いかけようとはしなかった。マシンガンのごとくギャグが炸裂する志らく落語が好きだし、それ以上に談笑落語に興味がある。
 ただ、僕の場合、メインの愉しみは映画で落語は余興(?)なので、談四楼師匠以外は追いかけるつもりはない。本格的に高座を観ようとしたらいくらこずかいがあっても足りっこないし。

 そんなことはともかく。
 単行本「赤めだか」は2009年に読んでいる。
 感想は〈感動が押し売りでないところがいい。目頭が熱くなるようなくだりのあと、ふっと落として笑いに転化させる。著者の照れだろうか?〉。

 「赤めだか」がTBSでドラマ化された。
 談四楼師匠の「ファイティング寿限無」はむちゃくちゃ面白い小説で、アクションもかなりあるから映画化されないかかなり期待していた。映像化の話は聞こえてこない。
 どこまで間がいいんだ。
 談四楼師匠がドラマ「赤めだか」に触れて、ツイッターでそう呟いていた。同感。

 さて、スペシャルドラマ「赤めだか」。
 演出が一種独特で見ごたえがあった。
 既成の音楽の使い方が印象的。
 演出はタカハタ秀太。TBSの社員ディレクターだろうか? 脚本が八津弘幸だから福澤克雄一派か。

 たけしはいつものたけしの演技なのだが、ちゃんと落語界の風雲児、異端の才能を持つ噺家を体現していた。立川談志だといわれると困ってしまうが。
 予想通り志の輔(香川照之)以前の弟子たちは無視されていた。
 とはいえ、ドラマの中でも談志は落語協会を脱退しているのだ。

 主演の二宮和也を筆頭に弟子たち(志らくの濱田岳、関西の宮川大輔、談かんの柄本時生)が好演。ダンボール役の新井浩文、藤木悠と親子を演じたらぴったりだなあ。藤木悠は亡くなっているけれど。落語も自然と聞ける。
 
 談志の自宅は現志らく邸をロケセットとして使用していた。撮影が大変だったろう。




 すいません、前項の続きではありません。

          * * *

 3月28日(土)、「マッサン」が終わった。
 別に毎日テレビ小説を観ていたわけではない。毎週月曜日、朝日新聞ではTV小説のその週のあらすじを紹介してくれるので、必ずチェックして、土曜日のみドラマを視聴する習慣が身についた。
 また、NHKの某番組では一週間のダイジェストを見せてくれるコーナーがあって、よく利用させてもらっていた。

 だったら、毎日録画して楽しめば良いのに、と誰もが思うだろう。なぜか、それはしたくなかった。10年ほど前、クドカンの昼ドラ「吾輩は主婦である」が放送されていたときは、毎朝、ビデオの予約録画をセットするのが日課だったのだが。理由は自分でもわからない。
 前半を再編集した特番はしっかり録画して観ているので、後半もそのうちやるだろうと期待している。

 さて、最終回は15分、涙、涙だった。マッサンの老けメイクはイマイチだなあと思いながら。Sさんによると前日(ラス前)が感動的だったとか。
 そういえば年末は「ごちそうさん」と「花子とアン」の総集編一挙放送があって、どちらもしっかり頭からおしまいまでつきあった。どちらもクライマックスで大泣きだった。
 ほんと、最近、極端に涙腺が緩くなった。

 「マッサン」が始まるとき、外国(欧米)人が主演するのはテレビ小説史上初だと知って「やられた!」と思った。
 実をいうと、ある本を読んでテレビ小説の原作にぴったりだったから、ドラマ化してほしい旨NHKに手紙を書こうと考えていたのである。もしドラマ化されたら外人がメインキャストとなるのである。

 ある本とはミッキー・カーチスの自叙伝「おれと戦争と音楽と」(亜紀書房)。
 本を読んだのはずいぶん前だが、ミッキーさんのご両親の話がむちゃくちゃ面白くて、このふたりをメインに、波乱にとんだカーチス家の昭和史を描くドラマを夢想したのだ。ミッキーさんを語り部にして、現代の視点から描いたらどうだろう。それにはNHKの朝のテレビ小説が最適ではないか、と。

 テレビ小説の定番、年代記ものに音楽(ロカビリー)を取り入れたところがミソである。クライマックスでは日劇ウェスタンカーニバルの熱狂を全面に押し出したいのだが、もし時代を1970年代まで引き延ばすなら、キャロルやガロを登場させることができる。ミッキーさんがプロデューサーとして手掛けたのがキャロルやガロなのだ。
 ドラマの中に音楽が入るととても楽しくなるのは、「あまちゃん」で証明済み。

 NHKドラマ部(東京)のプロデューサーの方々、どうですか、この企画?




 クリアアサヒのCMに山口智充が登場した。ぐっさんといえば、つい最近まで、キリンビールののどごし生のキャラクターではなかったか。けっこう長い間担当していたので、今でものどごし生=ぐっさんのイメージがある。

 ある時期から契約が切れれば、タレントは簡単に競合他社のCMに出演するようになった。
 それまで某社の化粧品CMに出演していた女優が、別の化粧品メーカーのCMに登場したときにはびっくりした覚えがある。ずいぶん昔のことだ。

 80年代半ば、CM制作会社に勤めていた。企画の手伝いでイメージキャラクター候補を選出する際、上司(プロデューサー)からきつく言われたのは「競合他社のCMに出演したタレント(俳優)はNG」ということだった。一度でも関係をもったらダメだと。

 そんな業界タブーがなくなったということだろう。
 NTT(のCM)に出演していたSMAP(5人がガッチャマンに扮したCMは話題になった)が、ソフトバンクに登場したときもかなり衝撃があった。「そんなこと許されるのか?」
 タレント(俳優)からすると、単なる仕事の一環なので気にすることもないのかもしれない。昔は、企業の顔になるということで、タレント自身もかなり公私にわたって気を使ったということだが。

 企業側のCMタレントの起用法が大きく変化したに違いない。
 ネットで調べた際に知ったのだが、ぐっさんに今回のオファーがきたとき、最初は辞退したという。しかし、企業サイドの要望が強かったため了解したと。

 アサヒビールつながりでもう一つ。
 松下奈緒が出演するプライムリッチCMを初めて観たときは、金麦と勘違いした。キャラクターが檀れいから松下奈緒に変更になったのだと。それくらいよく似ていた。
 クリエーターにプライドはないのだろうか。これまたクライアントの強い要望か。

 あと一つ。
 すでに10本ほどのCMに起用されているタレントをずいぶんと遅くなってから起用する企業がある。
 視聴者からすると、そんな起用には意味がないように思えてしまう。それは当該タレントの新しいCMであって、こちらサイドには何の商品なのかわかっていないことが多いからだ。新しい企業(商品)のCMというより、これまでのCMの新バージョンというような印象しかない。
 とんでもない後出しでもタレントの人気に便乗したいのだろうか。




 3度めの「アメリカン・スナイパー」鑑賞。
 本日が期限の1,300円鑑賞クーポンをムダにしないため。
 丸の内ピカデリーで上映しているのは「アメリカン・スナイパー」「ソロモンの偽証」「ミュータント・タートルズ」。
 「ミュータント・タートルズ」は全然興味ないし、「ソロモンの偽証」はもうすぐ後編が公開されるし、ってことになると観る映画は決まってくる。

          * * *

 演劇は役者のもの、映画は監督のもの、TVドラマはシナリオライターのもの。
 そう言われて久しい。
 2000年代になっても、ドラマはシナリオライターのものなのだろうか。

 視聴率が悪いと、叩かれるのはいつも主演俳優だ。でも、本当にそうなのか? 
 企画自体が現在の視聴者層に合わなかったのではないか。シナリオがよくなかったのではないか。演出に問題はなかったのか。裏番組が強すぎるということもあるのかも。
 低視聴率にはさまざま要因があるはずで、一概に主演俳優にその責任を押しつけることはできないと思うのだ。にもかかわらず、メディアの主張はいつも同じ。

 70年代から80年代にかけて、TVの連続ドラマは、シナリオライターのオリジナルが多かった。僕自身、ドラマは脚本家で観ていたところがある。
 今は圧倒的に原作ものが幅をきかせている。それも漫画(コミック)が多い。これは映画も同じなのだが。

 映画といえば、今は製作にTV局が絡んでいる場合が多い。TVシリーズを映画化するのが最近の流行だが、何とかならないものか。映画化ではなく、TVのスペシャルではいけないのか。映画を特別視するつもりはないが、それでもTVと映画は別物という意識は強い。
 TV局がスペシャルドラマを作るのと、映画を作るのとでは、どこがどう違うのか。
 TVのスペシャルでいい映画作品があるかと思えば、これなら劇場の大きなスクリーンで観たいと唸らせるスペシャルドラマがある。
 この違いを誰か教えてほしい。

 そういえば、最近は複数の脚本家、監督が参加するTVシリーズがない。昔のTV映画といわれたジャンルのことである。
 「太陽にほえろ!」「傷だらけの天使」「探偵物語」等々、毎回、監督や脚本が変わるシリーズだ(原則2本持ち)。「相棒」がそうか。テレビ朝日の東映作品が該当する。

 「ネオ・ウルトラQ」もSFアンソロジーという趣旨からすると、複数のシナリオライターが参加していそうだが、12本一人のライターが担当しているのだ(数本、共同執筆)。「ネオ・ウルトラQ」に凡作が多いのは、このシナリオ一人体制のせいだと思う。

 昨年やっとブルーレイ・レコーダーを買った。それまでTV番組はオンタイムで観ていた。観られなくて悔しい思いをしたことが何度もある。
 レコーダーを買ってからは気になる番組は予約録画する。しかし、録画してそのままというのがけっこうある。ビデオのときは、早く観なければ次の番組を録画(上書き)できないので、録画したらすぐ観る習慣があったのだが、HDの場合、余裕があるから後回しになり、結局そのままになってしまう。
 そんなわけで、正月のスペシャルドラマ「オリエント急行殺人事件」をすべて観終わったのが先日である。「永遠の0」最終編はその翌日のこと。
 「紅白が生まれた日」も録画していたらまだチェックしていないかもしれない。

 ドラマは録画しながらまずオンタイムで観ること。それに限る。


  「紅白が生まれた日」
 
 丁寧に作られたドラマで、内容も興味深かった。
 紅白音楽試合に出演した歌手が、司会も含めて皆実名というのが良い。本人に似ているとかということではない。紅白歌合戦誕生の実話(細部はフィクションだらけだろうが)を扱っていながら、ディック・ミネではなく、マイク・ハマ、並木路子ではなく茨木康子なんていう仮名の歌手がでてくると興ざめするということだ。
 終戦後の東京の街並みも見ごたえあり。
 久しぶりの松山ケンイチ、目チカチカ演技が様になっていた。


 「オリエント急行殺人事件 第1夜・第2夜」

 予約録画してしばらくしてから第1夜を観たのだが、それほど面白くなかった。第二夜はパスして消去してしまおうと思っていたところ、Sさんと飲んだとき、このドラマに触れてこう言った。「実は第2夜が三谷幸喜らしいんですよ」
 確かに、いかにして12人が殺人を遂行したのかを、犯人側から描いたドラマに夢中になった。
 それにしても、アガサ・クリスティの傑作ミステリはこういう内容だったのか。原作と映画をあたってみよう。


 「永遠の0 第1夜・第2夜・第3夜」

 第1夜と第2夜はオンタイムで観た。3夜のみ外出したため録画したのだが、再生する気になれなかった。第1夜、第2夜がつまらなかったわけではない。ゼロ戦の飛行シーンなど、ラジコン模型を使って表現していて悪くない。
にもかかわらず、すいぶんと放っておいた。
 同一人物である、戦時中の若者と現代の老人がまったくの別人に見えてしまうのが、要因かもしれない。
 違う役者が演じているわけだから、別人なのは当たり前なのだが、でも、あの若者が齢をとればこんな老人になるかもと思わせるようなキャスティングでないと、話に夢中になれない。
 それからラストで感じたこと。
「登場人物に大泣きされると、観客は泣けない」
 そんな格言(?)を思いだした。
 映画はどうなのか、DVD観てみよう。




 TVの連続ドラマが1クールで終了するようになったのはいつからだろうか。
 僕がドラマを夢中で追いかけていた70年代は2クールが基本だった。視聴率が良ければ新たに2クール伸びて1年間の放送になったり、極端に悪ければ1クールで打ち切られたり。TV番組全般がそういうものだった。番組は半年(2クール)続くもの、だから、4月と10月が番組改編期なのである。

 たとえば、特撮ドラマ、30分のTV映画であるが、ウルトラシリーズの作品群で当時の状況がわかる。
 「ウルトラマン」は全39話。毎週高視聴率なのでTV局としては当然2クールの延長を要望した。が、制作が追いつかず3クールで終了した結果だった。
 「ウルトラセブン」(全49話)だって、最初から49話が決まっていたわけではなく、2クール(26話)の結果が良かったため、23話が追加されたのだろう。
 「怪奇大作戦」(全26話)は視聴率が局が期待したほどではなかったため、当初の予定どおり2クールで終了してしまった。

 2クールごとの契約の弊害がでてきたのが、「帰ってきたウルトラマン」だ。MATの隊長が途中で交代するのは演じる役者の契約の問題だった。番組の延長が決まったものの、隊長役の俳優は所属する劇団の地方公演があって出演継続がままならない。そこで、劇中で隊長交代という苦肉の策がとられたのだ。

 ウルトラシリーズではないが、「シルバー仮面」という特撮ドラマがあった。等身大のヒーローものだが、裏番組の「ミラーマン」に敗れて苦戦していた。苦肉の策として、11話から巨大化したが視聴率はよくならず26話で終了した。
 アニメ「ルパン三世」や「宇宙戦艦ヤマト」も低視聴率で2クールで打ち切られている。調子が良ければもっと(1年間?)放送する予定でいたのだろう。

 連続ドラマに目をむけると、たとえば倉本聰がメインで脚本を書いた「前略おふくろ様」は全26回である。「北の国から」は全24回。
 同様に山田太一の「それぞれの秋」は……わからない。では、「高原へいらっしゃい」……あれっ、全17回だ。「想い出つくり」は全14回。山田太一のドラマは2クール(13話)より少ない。
 ということは、ここらへんが1クールの元祖か。
 鎌田敏夫の「金曜日の妻たちへ」は14回。
 1980年代前半から1クールのドラマは始まっていたのか! フジテレビのトレンディドラマが先鞭をつけたとあたりをつけていたのだが。
 一人のシナリオライターが全話担当するのには13回が適当という判断があったのかもしれない。

 今のドラマは1クールといっても、実質は10回前後の場合が多い。視聴率が悪いと、1、2話短縮されて、9回とか8回で終了となる。これって何か意味があるのだろうか。26回が13回になるのならわからなくはない。しかし、ドラマが1週もしくは2週早く終わろうが、代替の番組が急に視聴率をとるとは思えない。スタッフ、キャストへの見せしめ、スポンサーに対する配慮、なのだろうか。

 この冬、その時間、TVの前にいれば観ていたのが「ゴーストライター」「相棒 season13」「流星ワゴン」の3本だった。

 「ゴーストライター」

 たまたま第1話を観て興味を持ったのだが、毎週チェックしていたわけではない。展開が早いので見逃すと面食らうことになる。中谷美紀と水川あさみが手を結んだと思ったら、裁判沙汰になっているのだから。
 最終回はきちんと観た。もうほとんど予定調和的な終わり方で不満はないものの感激もない。

 「相棒 season13」

 ミッチーが降板した時点で、ドラマへの興味が薄らぎ、season11から熱心な視聴者ではなくなった。「season13」は1回めだか、2回めのスタッフクレジットに驚いた。生みの親ともいえるゼネラルプロデューサーの名前がなかったからだ。
 その後、女性週刊誌にその顛末を綴る記事が掲載された。
 TV番組、特にドラマの場合は長く続けばいいというものでもない。「太陽にほえろ!」がいい例だろう。
 「相棒」も、岸部一徳、高樹沙耶(益戸育江)、大谷亮介とレギュラーが辞めていき、魅力がなくなっている。
 3人めの相棒が右京さんのもとを去っていく最終話。
 殉職して番組を去るのはもう手垢がついた手法だ。確かに今回の方法は斬新だと思う。しかし、初登場のときから、この展開が決まっていて、シーズンごとに伏線が挿入されているのなら拍手喝采だが、単なるその場の思いつきではいただけない。

 「流星ワゴン」

 西島秀俊と香川照之の共演もいい加減飽きてきた、か。週刊文春の恒例のシーズンドラマ評(第1回視聴)で、今井舞はこのドラマをシーズン中で最低と評していた。それに反発したこともあって、出来る限りチャンネルを合わせた。後半になって面白くなってきた。次回が気になって、外出した際にはきちんと録画予約までするようになったのだから。
 最終回は大団円、それで良い。納得いった。




 9日(月)にシネリーブル池袋で「宇宙人ポール」鑑賞。
 昨年「恋の罪」を観たとき、この映画のチラシを見つけすっと気になっていた。何の前情報も予備知識もないのだが、これは劇場で押さえなければと。
 面白かった! 
 70年代、80年代のSF映画ネタがいたるところに飛び出してきて、大笑いしたりニヤニヤしたり。ヒッチコックの「北北東に進路をとれ」まででてくるとは!
 主人公の二人組とヒロインが立ち寄る酒場。3人が入ったときに流れている音楽って、「スター・ウォーズ」のあの宇宙人ウヨウヨの酒場と同じだよね? アレンジは全然違うけれど。
 ラスト、なかなか飛び立たないUFOに対して、ポールの一言がサイコー。誰でも経験したことがあるのでは?
 

 前日8日(日)から今年の大河ドラマ「平清盛」が始まった。大河ドラマは江戸時代を舞台にした作品しか観ない主義(ってほどでもない。江戸時代がマイブームなもので)。
 主人公が松山ケンイチなので、とりあえず第一回を観た。この時代が舞台になるのは「新・平家物語」以来か。

 映像のタッチが「龍馬伝」と同じ。フィルム的な陰影のある映像となっている。おまけにリアリティ重視。ドラマも見ごたえがあった。特に白河法皇役の伊東四朗が圧巻。その昔、「天と地と」に出演していた伊東四朗を見て、コメディアンだけでなく役者としても認識したことを思い出した。コント55号に夢中になる前はてんぷくトリオのファンだったもので。
 今回の白河法皇は「天と地と」以上のインパクトだった。存在感が強烈だ。あのスキンヘッドは本当に頭を剃ったのか、それともカツラか。

 主人公の清盛(まだ幼名だが)を演じる子役、どこかで見たことがあるなあ、と思ったら小学生漫才「まえだまえだ」の弟くんだった。お兄ちゃんが、清盛の父親に殺された盗賊(隆大介)の息子として、浮浪児役で登場したことでわかった次第。
 清盛の父親(忠盛)役は中井貴一。ラストの、清盛に向けて放つ台詞に胸が熱くなった。
 「勝海舟」は第一回に感動して1年間視聴したのだった。

 「龍馬伝」は、まずその映像に惹かれ、特に室内に差し込む光が、まるで本物の太陽光みたいで毎回注目していたのだが、フィルム的な映像処理を「暗い画面」と切り捨てる視聴者がいることに驚いた。
 こういう人って、昔の「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」等の時代劇、16ミリフィルムで撮影された作品を見ても「暗い!」と言うのだろうか。というか、フィルム作品をご存じないのか? 映画は観ないのか? TVは鮮明で明るく瑞々しいビデオ画面が当たり前という料簡なのだろう。
 まあ、いい、人それぞれの趣味嗜好というものだ。僕とは合わないだけのこと。

「また画面が暗いとかなんとか言われるんだろうなあ」
 第一回を観ながら心配したのはそこだった。
 案の定、第一回の視聴率が過去ワースト3だったことを受けて、「鮮やかさがなく、薄汚れた画面ではチャンネルを回す気にはならない」と酷評する輩が現れた。
 兵庫県知事だという。
 映像、ドラマにおけるリアリティをどう考えているのか。
 だいたいこの人はドラマを観たのだろうか。薄汚れていると判断してチャンネルを回してしまったので観ていないか。
 地元が舞台になっていることで、知事の立場として観光客誘致のことしか頭になく、〈視聴率が悪い=観光客が来ない〉といった短絡的な発想で、発言してしまったのだろう。

 これはNHK側も悪いと思う。
 いつのときからか大河ドラマは舞台となった自治体(都市)が製作協力するようになった(すべてではないだろうが)。たとえば「太平記」では、足利市や太田市(僕の郷里)が自費で豪華なロケセットを作った。そのセットは撮影のないときは観光名所となる。
 自治体の長がそういう目で大河ドラマを評価するのも仕方ないのかも。

 とはいえ、大河ドラマはドラマなのだ。いいドラマを作るのが本当の目的だろうに。
 それから、TVドラマを視聴率で語るのはやめにしませんか。TV局(の営業)、広告代理店、スポンサーが視聴率を話題にするのは理解できる。しかし、メディアが問題視すべき事柄ではない。もっと中身について語るべきだろうに!
 



 昨日2日は浅草で大衆演劇を初観劇だ。橋本正樹さんが書かれた「あっぱれ!旅役者列伝」(現代書館)の影響だ。この件についてはまたあとで。

 昼間はTVを観ている。正月のテレビ朝日は祭りづいている。「家政婦のミタ」の高視聴率で企画されたであろう『「家政婦は見た」祭り』。朝起きてから観ていたが、チャンネルを替えるとフジテレビで「マルモのおきて」を再放送していて、その第一話に夢中になった。で、思った。このドラマが評判になるわけだ。子役はかわいいし(嫌味がない)、おまけに犬もレギュラーで、これまたいい演技を見せてくれるのだ。
 今日もすっかりつきあった。
 最終話が終ると、テレビ朝日に替える。午後から『新春「相棒」祭り』なのだ。元旦に放送される2時間半スペシャル2本立て。1本目は僕が「相棒」にハマるきっかけをつくった「バベルの塔」。じっくり鑑賞させてもらった。
 僕はこのスペシャルドラマを年末の再放送で観たのである。
 以下、夕景工房レビューを転載する。

 ところで、今回気がついた。大塚寧々の拳銃自殺ですごいのはその倒れ方なのだ。身体をまっすぐにきちんと背面から床に倒れこむ。あれなら誰だって自殺か? と思ってしまうぞ。どうやって撮影したのだろうか。

     ◇

2007/12/29

 「相棒 バベルの塔」(テレビ朝日)

 沈着冷静で頭脳明晰なベテラン水谷豊が直情型の若手寺脇康文とコンビを組み、得意の推理で難事件を解決する刑事ドラマ「相棒」の評判がいい。「土曜ワイド劇場」枠の2時間ドラマとして誕生し、その後シリーズ化。1時間ドラマとしてレギュラー枠を確保してからは毎年定期的に放送されている。今やテレビ朝日の看板番組となり、来年のGWには何と映画が公開されるのだ。
 水谷豊の主演映画は何年ぶりだろう。工藤栄一監督の「逃がれの街」以来か。

 僕は「相棒」の熱心な視聴者ではない。帰宅してTVをつけ放送していると観る程度。そして思うのだ。「それほど面白いか? このドラマ」
 テレビ朝日には東映制作のヒットドラマが何本かあるが、どれもイマイチのめり込めない。そういったドラマに比べて「相棒」は出色ではあるが、演出というか映像、カメラワークが弱い気がする。「踊る大捜査線」や「ケイゾク」ほどシャープではなく、凝っているようでどこか野暮ったい。描かれる警察機構も緩い感じがして仕方ない。そんな印象があるところに、妙に分別臭くなった水谷豊に魅力を感じないことも大きい。

 水谷豊は「パンパイヤ」のころからのファンで、70年代から80年代にかけては萩原健一、松田優作と並ぶ憧れの役者だった。3人の中では隣の兄ちゃん風で一番自分を投影できるスターでもあった。
 「太陽にほえろ!」は第一話に犯人役で登場したほか、何話か出演しているはずだ。「傷だらけの天使」で注目されてから売れっ子になり「熱中時代」「熱中時代 刑事編」で人気が爆発したわけだが、個人的にはTV「バースデーカード」、映画「青春の殺人者」「幸福」が忘れがたい。「太陽を盗んだ男」では警察官役でカメオ出演していたっけ。長谷川和彦監督の「青春の殺人者」でキネマ旬報主演男優賞を受賞したんだものなぁ。主演女優賞は原田美枝子、監督賞は長谷川和彦。あのときは自分のことのように喜んだ。

 人気が一段落した90年代からは主に2時間ドラマに活躍の場を移した。確か最初に浅見光彦を演じたのは水谷豊だったと思う。記者、探偵に扮したドラマはいくつもシリーズ化された。「火曜サスペンス劇場」枠で放送されたこの手のシリーズはけっこう観ていたのだが、やがて飽きがきてチャンネルを合わせなくなった。
 自分にとっての3大スターのうち、松田優作は糟糠の妻を捨て熊谷美由紀に走ったことで興味を失い(離婚したことではなく、相手が熊谷美由紀だったことが個人的な問題。若いころの熊谷美由紀ってホント、大嫌いだったんだ、ワタクシ)、水谷豊とはこの時期疎遠となった。

 なんてことはどうでもいい。水谷豊とも「相棒」とも距離を置いていた僕がなにげなく観た「バベルの塔」にすっかりハマってしまったという話。
 
 「相棒」2時間半スペシャル「バベルの塔」について内容はもちろん、いつ放送されたかも知らなかった。昨年の正月番組らしい。

 オープニング、まず音楽に反応した。荘厳な合唱曲。聞き覚えがある。映画だったか、TVだったか。けっこう耳にする。クラシックだと思うが、作曲家名もタイトルもわからない。
 夜景がやけに美しい。何が始まるんだ? 画面を注視していると、とある超高層ビルの屋上に女(大塚寧々)が現れる。場所はお台場。右手に拳銃を握り締めていること、非常階段を走って後を追う水谷豊と寺脇康文から、二人が捜査している事件の犯人なのだろうとわかる。心ここにあらずといった表情の大塚寧々は拳銃を自分のこめかみに。発射音がして、そのまま地面に倒れこむ。屋上にたどりついた水谷と寺脇はその姿を呆然と見守るしかなかった……。

 荘厳な音楽をバックにした光景がとんでもないインパクトを持って迫ってくる。
「わぁ、『絡新婦の理』と同じ展開だぁ!」
 京極堂シリーズ第5弾「絡新婦の理」(京極夏彦/講談社ノベルス)は冒頭某人物と対峙した京極堂が「犯人はお前だ!」と叫ぶところから始まるのだ。いきなりクライマックス。度肝抜かれた。「M:I:Ⅲ」もアバンタイトルがクライマックスだった。

 こうして、「バベルの塔」は、大塚寧々が何の事件を犯すのか、なぜ自殺に至るのか、時制を元にもどしてその顛末を追っていく。
 2006年の大晦日から元旦にかかるわずか1日の出来事だ。

 大塚寧々は元警視庁刑事で、退職後、さる代議士の警備を担当している。バツイチで聾の一人娘を抱えた生活を送っていたわけだが、代議士にみそめられ婚約。そんな背景が代議士主催の大晦日のカウントダウンパーティーの会場で、招待客の水谷豊と寺脇康文とやりとりすることで視聴者に知らされる。
 この娘が何者かに誘拐されてしまうところからドラマが急展開していく。
 娘の命と引き換えに犯人が大塚寧々に要求したのは代議士を殺させること。指示通り、大塚は用意された拳銃を使って代議士に発砲、失敗やするやたまたま居合わせた若い女性を人質に籠城する。
 直ちに捜査本部がビル内に設置され、犯人射殺が決定する。警視庁一のスナイパー(寺田進!)が観覧車に乗り込み、その指示を待つという段取り。しかし、大塚寧々の突飛な行動の裏にある〈何か〉をかぎとった水谷豊の機転で射殺を回避させると、得意の推理で彼女を遠隔操作する真犯人の存在を察知する。誘拐した娘とアジトに隠れている真犯人の杉本哲太は、時限爆弾を作動させ、もし代議士を殺せなかった場合、娘もろとも小屋を爆破するつもりなのだ。

 水谷豊たちは、時間内に犯人のアジトを見つけだし、無事娘を救うことができるのかどうか。これが後半のサスペンスを盛り上げる。もちろんその過程で、さまざまな人間模様が浮かび上がっていくという作劇。
 大塚寧々の元夫をココリコの遠藤が演じているのだが、自分の落ち度で娘を聾にしてしまったと後悔するダメ男ぶりを体現していてうまいキャスティングだ。前日突然のように千秋との離婚が発表されたので、この再放送では意味深だった。
 そのほか、何よりイメージを優先して物事を考える代議士秘書、秘書の言いなりで行動する代議士、等々、登場人物も申し分なく、おまけに外様の水谷・寺脇コンビと捜査を指揮する監察官との反目、共感、協調もあって、TVから目が離せなくなった。

 正月特番ということで、スタッフは「踊る大捜査線」ばりの凝ったカメラワークによる群像劇、ミステリ活劇を狙ったのだろう。とにかく夜の空撮シーンは秀逸だった。最新テクノロジーを使った捜査もこちらの職人フェチを刺激する。犯人を特定してから捜査員がアジトに急行するシークエンスなんて、思わず叫んでしまった。「『羊たちの沈黙』じゃないか!」 といっても真似ではなく応用。だから夢中になれる。熱くなれる。
 代議士と敵対する左翼組織の存在、手話による意思の疎通、別れた妻と娘に未練タラタラの元夫……伏線の貼り方も、なかなかのものだ。
 でも、自慢じゃないが(自慢なのだが)、大塚寧々が籠城するショットで、犯人が仕込んだトリックがわかってしまった。

 事件は無事解決したとしても(小さな子どもが死ぬわけがない)、疑問は残る。冒頭で示されたように大塚寧々はビルの屋上で自殺するのである。ちっともハッピーエンドじゃないではないか。ラストで屋上に向かう大塚寧々。そこでピンときた。やはりそうだった。やるじゃないか、「相棒」!
 観終わって、充実感と爽快感に浸れた。
 ボディガードとして始終一緒にいるくせに、相手の本質もわからず結婚を承諾するものだろうかと思った。が、三度目の結婚になるのにノリで決めてしまい後で撤回したプロ野球監督のお嬢さんの例もあるので、納得できた。
 昨年の正月に観ていたら、すっかり「相棒」フリークになっていたかも。


 【追記】

 冒頭の印象的な音楽のタイトルが判明した。「カルミナ・ブラーナ」。さっそくAmazon.co.jpに注文した次第。






 昨日の「家政婦のミタ」はラスト前の15分拡張版。
 次男が授業(授業参観)の宿題に悩んでいる。お母さんへの感謝状を書かなければならない。次男の場合、母親がいないのでお父さんでいいと担任の先生に言われているというのだが……。
 またまたがっくり。何ていう展開なのか。次男の母親がもう何年も前に亡くなっているのなら、有りうることかもしれない。でも、亡くなったのは今年でしょう(半年前ほどか)? そんな児童が自分のクラスにいるのに、お母さんへの感謝状を書かせるなんて。そんな担任いるものか!
 
 はるか昔、僕が小学生のときのこと。カルメン・マキの「時には母のない子のように」がヒットした。で、問題になった。母親のいない子どもの気持ちを考慮していない曲名ではないかと。
 まだ世の中が大らかな時代でさせそうなのだ。何かにつけてせちがない今、最近母親を失った児童がいるにも7かかわらず母親への感謝状を書かせるなんてことは大問題になるのではないか。それこそ教育委員会を巻き込むような。メディアは無神経な教師だと鬼の首をとったような報道をするだろうな。
 だいたい、そんな授業参観が開催されるのなら、お父さんは真っ先に担任に抗議しろって。出席できないことをあれこれ悩む前にさ。

 結局、次男は母親の作文を書いて授業で朗読する。先生を含めクラスの反応はよくないが、前日に作文を読んだミタさんから「大変よくできました」の花マルをもらって大喜び! 
 この感動的なシーンを描きたいために、まったくリアリティのない、というより、ありえない「母親への感謝状」の設定を取り入れたわけなのか。

 この感動シーンも嘘っぽい。ミタさんの花マルは次男が書いた作文(の原稿)2枚目に書かれてあった。
 つまり次男の作文は1枚で終わっている。ミタさんが花マルを書いた原稿を1枚足したのだ。だったら、次男は作文を鞄に入れる際に気がついているだろう。いや、作文はミタさんが鞄に入れたのだ、というのなら、授業で取りだしたときにわかっているはずではないか。作文を朗読したあとに気がつくという意外性はどう考えてもないのである。脚本の作為だけを感じてしまう。

 映画の日にミタ、いや、観た「ステキな金縛り」。初めて劇場に足を運んだ三谷幸喜監督作品である。三谷映画はTV放映されても観たことがなかったので、初めて観るといっていい。
 今回、なぜ足を運んだかというと、予告編でアンテナが触れたのだ。主演の深津絵里がとてもいい雰囲気を醸し出していて、何より落武者の幽霊が裁判の証人になるという設定に興味を覚えた。前者は案の定大満足できた。後者に関していれば、ちょっと残念な結果だった。

 映画は面白かったんですよ。幽霊が証人することに関するさまざまエピソードは抱腹絶倒といってもいい。
 気になったのは、裁判所(裁判官)が幽霊の証人を認めるくだり。ここを映画はどう処理して観客を納得させるのだろうか? この映画の肝だと思っていた。ところが、裁判官がとてもやさしい方で、あっさりと幽霊(の証人)を認めてしまうのだ。自分は幽霊を見ることができないのに、だ。そんなバカな! 映画なんだから、コメディなんだからというのは逃げでしかない。こういうところを手を抜かず、きちんと納得させる設定を考えるのがプロではないのか?

 先週「家政婦のミタ」が30%近くの視聴率をとっていいのか、と書いた。言葉が足らなかった。別に30%とろうが40%とろうがかまわない。今後このドラマ(の悪いところ)を真似た番組がでてくることを憂うのだ。
 つまり視聴者を不安にさせたり喜ばせたりするため、リアリティのない、ただ結果から逆算された無茶な展開を優先させるようなドラマが増えるのではないかと。

 最近のTVドラマの傾向として、映像的にはよく出来ているのに、シナリオがイマイチ、イマニのドラマが多くなった。
 器はいいのに料理がおいしくない。いや、食材が悪いのになんとか見栄えでごまかしているというか。
 カメラ機材の発達で水準以上の映像がものにできる。対してシナリオはあくまでもライターが知恵をだすもの。原稿に手書きする時代も、ワープロ、PCへのキーボード入力の今もそれほどの違いがない。もちろん原稿の仕上がり具合は大いに変わっただろう。カット&ペーストで推敲は早い。完成した原稿は読みやすい。でも映像そのものには反映しない。
 高視聴率に関係者やTV局がうかれるのはわかる。しかし、メディアが一緒にはしゃいでいてどうする!

 昔はよかった、なんてあまり口にしたくない。したくはないが、TVドラマは70年代から80年代初期までが黄金時代だった、と言わざるをえないのか。



 帰宅時川口駅で下車。S水産で読書してから川口中央図書館へ。数冊借りてからリンガーハットでかみサン、娘と待ち合わせ。月に一度くらいの割合で長崎ちゃんぽんが食べたくなる。実は前日に約束していたのだが、久しぶりの残業で延期になったのだ。来るたびに餃子セットを注文して後悔する。餃子がもう少しうまければと思わないではいられないのだが、新メニューが登場していた。チーズ明太子ギョウザ。なかなかの美味。
 知人から聞いた話を思い出す。長崎に出張したときのこと。タクシーの運転手に一番うまい長崎ちゃんぽんの店に連れて行ってくれと指示。その店でだされたちゃんぽんを一口食べて叫んだ。「リンガーハットと同じ味だぁ!」

 帰宅してPCを開くと、市川森一の訃報が目に飛び込んできた。大声あげた。
 まっ先に思った。「なぜ、あのドラマを観なかったのだろう!」
 11月、二週にわたってNHK土曜ドラマ枠で放送された「蝶々さん 最後の武士の娘」のことだ。市川森一の脚本ということで、興味をもったが、主演が宮崎あおいなので結局チャンネルをあわせなかったのだ。ロリコン系の顔がどうにも苦手で、彼女が主演でパスしてしまった映画がいくつかある。
 まあ、いい。
 70歳。まだまだ現役の人だった。これからも活躍するものだと疑いもしなかった。秋の番組改変期のスペシャル「名作ドラマ大事典! 豪華スター同窓会SP」(TBS)ではいつもと変わらない姿が拝見できたのに。ほんとすごいショックだ。肺がんと知って諦めざるをなかったのだが。
 ショーケンを主役にした旅情豊かな映画とか、「傷だらけの天使」の映画とか、どうなっているのだろうか?
 「ウルトラセブン/盗まれたウルトラアイ」「ウルトラセブン/ひとりぼっちの地球人」「傷だらけの天使/街の灯に桜貝の夢を」「傷だらけの天使/祭りのあとにさすらいの日々を」「バースデーカード」「私が愛したウルトラセブン」「ゴールデンボーイズ」
 書きたいことはたくさんあるけれど、今は考えがまとまらない。

 合掌




 今日は映画の日、レイトショーで「ステキな金縛り」を観たこともあり、違う話題を。
 北海道のJさん、許されて。

          * * *

 昨日の「相棒 season10」、ゲスト出演が柴俊夫だった。シルバー仮面の人、なんていってもわからないか。「ゴジラ対ヘドラ」のときは名前が違っていたっけね。
 水谷豊とのツーショットで、懐かしさがこみあげてきた。
 NHK土曜ドラマ「男たちの旅路」で二人は同じ警備会社で働く同僚として共演していたからだ。柴俊夫は森田健作に代わって第2シリーズからレギュラー入りした。同僚のもう一人が桃井かおりで、三人の上司が鶴田浩二。この4人が派遣された会社で事件が起きる展開で、特攻隊の生き残り(という設定)鶴田浩二と〈戦争を知らない〉世代の3人がさまざまな場面でぶつかりあう。戦中派(の中年)と団塊世代(の若者)の葛藤、反目、和解、共鳴がドラマの骨子だった。
 脚本・山田太一、主演・水谷豊ということで、第一シリーズから夢中で観ていた。音楽はミッキー吉野だ。

 高校時代はやることなすことうまくいかず、悩みっぱなしの3年間だった。そんな僕の、横っ面がはたかれたかのような衝撃をこのドラマで受けた。水谷豊に対する柴俊夫の台詞だった。
 当時の日記にこう書いている。

     ▽
1977/12/03
 NHK「男たちの旅路/別離」の中にこんなセリフがでてきた。
「自分を哀れむ奴は、俺はキライだ」
 一瞬、ハッとした。
 自分を哀れむ奴――すなわちこの自分のことではないか!
 この頃、自分という人間はダメなやつで、バカだよと笑ってみせて、だけどやっぱり本当はかわいくて、心の奥ではかわいそうな奴と泣いているんだよね。
     △

 「別離」は第三シリーズの最終回。病気で余命いくばくもない鶴田浩二と鶴田に一途の桃井かおり、桃井かおりが好きな水谷豊の三角関係が描かれる。桃井かおりにふられた水谷豊の投げやりな態度に怒った柴俊夫が言うセリフだった。




 地方のTV局5局と円谷プロが組んで制作されることになった新番組「ウルトラゾーン」。テレビ埼玉では昨夜(正式には今日の0時30分)が第一回だった。
 タイトルだけ見ると「新しいウルトラシリーズか!」と勘違いしてしまいそうだが、ウルトラ怪獣をネタにした30分のバラエティ番組である。
 サドラー、ベムスター、グドンが、それぞれ与えられたシチュエーションで人間とミニドラマ(コント)を繰り広げる。唐沢なおき「ウルトラファイト番外地」等のマンガを実写化したようなテイストというか。怪獣のスーツの出来にかなり感心したりして。特にグドン!
 怪獣漫才も笑えた。
 音楽が宮内國郎っていうのがうれしい。

 こういう番組があってもいい。ウルトラ第一世代としては。
 昭和と平成のウルトラシリーズをドッキングさせ、懐かしさを前面に押し出した、ファンに媚びる最近の作品よりは! まあ、個人的な意見だけど。

 今日から始まった「相棒 season10」。
 2時間スペシャルのドラマには「ゴールデンスランバー」の問題がリアルな形で取り入れられていた。関係者が右京たちの質問に対して十数年前の事件の当事者のフルネームで言えるのは「?」だけど。

 「家政婦のミタ」第二回。
 4人の子どもたちのキャスティングに新たな発見。
 男兄弟、姉妹、それぞれが確かにそう思えるところがいい。男兄弟の方は父親に似ているし。まあ、それだけだけど。
 斉藤和義の主題歌は「やさしくなりたい」。確認した。




 昨日、新番組(ドラマ)「家政婦のミタ」を観た。かみサンのリクエストだ。
 かみサンの場合、僕と違ってあまりTVを観ないのだが、自分のアンテナに触れたドラマは、初回必ずチャンネルを合わせる習慣がある。で、面白くなければ2回めはパス。シビアな視聴者なのだ。今年のNHK大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」も2、3回は観ていたような。
 僕はといえば、番宣スポット(のタイトル)で毎回ニヤニヤしていたが、別に観ようとは思っていなかった。だからTBS「やっちまった伝説3」のウルトラマンネタを楽しんでいたのだが、かみサンの「10時になった、早く4(チャンネル)にして」の声に従ったまでのこと。

 そういえば、最近、日本テレビのドラマを観たことがない。話題になるドラマもあるのだが、興味がわかないものばかりなのだ。
 今秋ちょっと期待していた「妖怪人間ベム」は番宣スポットで一気に萎えた。ベム、ベロの顔を被り物で処理するっていうのはどういう料簡なんだ。実に安易な発想。ドラマ自体もCM「爽快人間」から思いつたんじゃないのか? ベロのキャスティングなんて完全に「マルモのおきて」の影響だろうし。

 そんなことはどうでもよくて。
 松嶋菜々子が演じる家政婦は、最終回になって最新鋭の技術で作られたアンドロイドだったなんていうオチがつくのだろうか? そんな伏線となる描写がいくつかあったもので。まさかね。「家族八景」のような一話完結ものでもないみたいだ。
 彼女が派遣された先は父親と子ども4人(長女、長男、次男、次女)の家庭。母親が最近事故で亡くなっていて、四十九日が過ぎたことで家政婦を雇って新しい生活をはじめることになった。
 家族を見て視聴者は皆こう思ったのではないか? 
「お父さんが若すぎる!」

 お父さんと長女はいったい何歳の設定なのだろうか? お父さん役の長谷川博己の実年齢は34歳。長女役の忽那汐里は18歳。な、なんと16歳のときの子である。長女が中学生(3年)としても20歳の子。お父さんは会社では課長だから、もう少し歳が上(の設定)なのかもしれないが、見た目が若いから無理がある。最初から長谷川博己、忽那汐里ありきのキャスティングなんだろうなぁ。
 つい最近知ったのだが、長谷川博己ってNHKドラマ「セカンドバージン」で鈴木京香の相手役として売り出した俳優さん。スペシャルドラマ「砂の器」の関口役はそんな要因があったのか。忽那汐里はどこかで見た顔だと思ったら、ポッキーのCMで元気いっぱいのダンスを披露していた女の子だった。ずっと新垣結衣だと思っていたよ。

 エンディングクレジットで、こちらの琴線に触れる主題歌(メロディ、アレンジ、歌声)が流れてきた。一体誰の楽曲だ? クレジットを注視していると、斉藤和義だった。
 やっぱいいよね、斉藤和義。CD(アルバム)買おうかな。主題歌聴きたさにこれから毎週観たりして。ライブにも足運ぼうか。

 ウィキペディア「家政婦のミタ」に、タイトルは「家政婦は見た」へのオマージュとある。あのね、そういうのは〈もじり〉というんです!


 【追記】

 学生結婚、それも死んだ奥さんは年上でOL、ある時期まで生活の面倒をみていたとか。そんな設定なら義父(平泉成)の怒りが理解できる。もしかして父親と長女は血がつながっていないとか?




 「痛快!ビッグダディ」最新作が放送された(8日)。
 生活費を稼ぐため愛知の豊田市に単身赴任して整骨院で働いていたビッグダデイが、5人の子の母であるバツイチ女性と恋仲になって、復縁した妻と離婚、奄美を引き払って愛知に移住した。現在は再婚して現妻は妊娠中。そんな予想外の展開になって、番組は中止、なんていうニュースをネットで見たのはついこの前だったような気がするのだが。
 素朴な疑問。ビッグダディ(夫婦、新旧の)には避妊という概念はないのだろうか?

          * * *

 ハリウッドでリメイクされた「幸福の黄色いハンカチ」は日本でも昨年公開されたが、評価のほどはどうだったのか。あっさりと公開されいつのまにか終了してしまったような気がする。個人的には劇場まで足を運んで観る映画ではなかった。DVDになってもレンタルするつもりはないが。
 まさか日本でもTVのスペシャルドラマでリメイクされるとは思わなかった。高倉健の役には阿部寛、武田鉄矢&桃井かおりの役は濱田岳と堀北真希。阿部寛の別れた奥さんは夏川結衣。キャスティングに興味をそそられ時間が来る前から4にチャンネルを合わせていた。

 この数年、黒澤明監督作品が次々とリメイクされた。TVは、テレビ朝日がスペシャルドラマとして「天国と地獄」「生きる」。映画は「椿三十郎」「隠し砦の三悪人」。オリジナルシナリオを使用した「椿三十郎」以外どれも無残な結果だった。まあ、TVにしろ映画にしろ過去の名作、傑作のリメイクがオリジナルを超えるものになったためしがない。これは海外だって同じこと。
 にもかかわらず、なぜリメイクが横行するのか。特に現代劇の場合、オリジナル版とはかなり時代の隔たりがあるのだから、リメイクするなら、それ相当の改変が必要なのだ。TVの「天国と地獄」「生きる」なんて、そこらへんの問題に無頓着すぎた。現代を舞台にしたことが、まず失敗だったと思えてならない。

 そんな作品群に比べたら、昨日の日本テレビ「幸福の黄色いハンカチ」は、1977年に公開されたオリジナルのテーマ、キャラクター、ストーリー(エピソード)を踏襲しながら、きちんと2011年に蘇らせた稀有なリメイク作品なのではないか。ホント、かなりよく出来たドラマだった。

 映画は武田鉄矢が女に振られてなけなしの貯金でクルマを購入して北海道旅行を計画、その最中に桃井かおりや高倉健と知り合い、ドライブしながらクライマックスの黄色いハンカチを探しになるロードムービー。
 リメイクされたドラマは、刑期を終え出所した阿部寛と本土から仕事を探しに北海道にやってきた濱田岳が堀北真希の住む町(羽幌町)で出会うところから話が転がっていく。港から見える島に阿部がかつて暮らしていた家があり、もしかしたら別れた妻が待っているかもしれないという設定。
 阿部寛を若いころやくざ稼業に身を置いたこともある漁師に設定したのが光る。クライマックスはもちろんだが、ふたりの出会い、愛の告白(これは斬新!)、妊娠を知った際の阿部の喜び等々に生かされた。
 爆笑を誘った武田鉄矢がカニにあたって下痢に苦しむエピソードを冒頭にもってきたり、チンピラに絡まれる危機はオリジナルと変えて取り入れている。下痢のシーンは、青年が羽幌町に滞在するきっかけとなり、チンピラのシーンは男の内面に隠れた強さを表現していた。単なる引用ではないのだ。黄色いハンカチ(模様入り)を使ったふたりの合図も、その前にそうなるような伏線をはっている。ドラマのオリジナルではないか?

 妊娠していたことを、鯉のぼりの竿の先につけた黄色いハンカチで知らせるシーン。船から双眼鏡で見て妊娠を知った男の内面ではとんでもなく喜んでいる様子に、ニヤニヤ。
「そういうのを草野球のキャッチャーというんだ。ミットもない……」 
 男のダジャレに対する青年の反応も今風で笑えた。

 わからなかったのは、男が町の警察署に連れて行かれるくだり。オリジナルでは無免許運転という確かな理由があった。ドラマは、過去に殺人を犯した犯人であるという単なるチクリの電話(だったと思う)。旅館まで警察官が出向くことになるだろうが、男からいきさつを聞いて身元を調べてそれでケリがつくような気がするのだが。

 それから、これはあくまでも演出上の問題なのだが、クライマックスの漁船の動き方について。羽幌町を出港した漁船は島に向かって、視聴者から見て右に移動していく。途中で引き返すことになって、Uターンして左に向かう。で、島に向かうことになってまたまたUターン。このとき、船は左から右に曲がって、そのまま進行しなければならない。ところが、なぜか、また右から左に曲がって、そのまま左に移動していく。
 ここでイマジナリーライン云々を指摘するのは間違いだと思うが、進行方向を一定にする(島がフレーム右にあるなら、船は必ず右に移動させる)のは映像作品の基本ではないのか。

 オリジナル映画の主役たち(倍賞千恵子と武田鉄矢)のゲスト出演がうれしい。高倉健は無理にしても桃井かおりも出演してほしかった。
 一緒に芝居するシーンはなかったが、濱田岳は金八先生の教え子だった。初の師弟(?)共演か? 最近濱田岳が結婚したのは、このドラマの影響があるのではないか。


 【追記】

 「幸福の黄色いハンカチ」は、一度TBSでドラマ化されているのですね。菅原文太の主演で。知らなかった!




 昨日は台風15号が首都圏を直撃した。その影響で交通機関がマヒ、夕方だったこともあって、多数の帰宅難民がでたと台風の被害状況とともに夜のニュースが伝えていた。

 「どうして?」最初にそう思った。台風が列島に上陸することは朝からわかっていた。浜松に上陸した後、関東を通過すると、昼ごろにはその時間まで確定していたのではないか。
 それを受けて僕が勤める会社は、上長判断で帰宅してよしとの指示がでた。昼休みが終わって席についたときだった。別に急ぎの業務もなかったので、13時30分に退社した。西川口について、マクドナルドで少し読書して、ブックオフを覗いたりいていると、雨脚が激しくなってきたので急いでバスで帰った。
 家に着いたら、かみサンも娘もいた。娘はまだ大学が夏休み、かみサンは仕事が休みだという。
 帰宅したとたん、外の様子が一変した。激しく降る雨に、風が加わった。とにかくすごい。何度か外で音がした。どこかの看板が吹っ飛ばされたような。

 そんなわけで会社の判断に感謝した次第なのだが、台風のコースが前もってわかっていることなのだから、どこの会社もこういう指示をだしていると思っていた。もちろん仕事が忙しくて帰れないという人もいるだろう。それ以前にそんな余裕のない会社だってあるだろう。時間どおりに働いてもらわなければならない、なんて。
 とはいえ、3.11で電車がストップしてどんなに大変だったかは皆身を持って体験しているはず。だったら、通常どおり定時に退社した人、仕事を抱えていて残業した人、ニュースで自分が利用している交通機関がどうなっているのか、きちんと確認してから行動すべきではないのか。
 会社をでるときは動いていたけれど、いざ駅に到着すると、ストップしていた、というパターンだったのだろうか。動いていないことがわかっていながら、まあ何とかなると帰ったとしたら、学習能力がないよなぁ、と思わざるをえないのだが……。

 早く帰宅できて、とても喜んだことがある。TBSの特番(今週から各局秋の特番体制に入った)「名作ドラマ大事典! 豪華スター同窓会SP」を冒頭から観られたからだ。
 ショーケンをはじめとする「太陽にほえろ!」歴代刑事の面々がスタジオに集うというのだ。リアルタイムでマカロニ、ジーパン、テキサスまでを視聴していたファンとしてはチェックしたいが、どうやら登場は番組の最初の方。どんなに早く帰っても20時近くなってしまうので、すっかり諦めていた。まだ録画機器は購入していないので。

 番組が始まってまず最初取り上げたのは「思い出にかわるまで」。今井美樹と石田純一主演のトレンディドラマの一つだという。今井美樹と石田純一が恋人同士なのだが、今井はなかなか結婚に踏み切れない。その隙に今井の妹、松下由紀がストーカーまがいの行為を繰り返し、最後に石田を奪ってしまうドロドロの愛憎劇だったんだそうな。放送された1990年はバブル末期か。眉毛が太い今井美樹に、珍獣ハンターイモトかあ!と何度も突っ込んだのだが、スタジオでは誰も話題にしない。
 今は俳優という肩書のバラエティタレントになった石田純一だが、かつてはトレンディドラマにひっぱりだこだったんですね。週刊誌に作家という肩書のTV評論家(コメンテーター)がいるしなぁ。

 続いて、お待ちかねのショーケン&「太陽にほえろ!」。ショーケンが登場するとゲストコメンテーターの一人である石田純一(ほかに藤井隆、MAXの3人、秋野暢子、市川森一)が立ち上がって挨拶する。「ファンです!」。日本テレビのモノマネ番組ではショーケンに扮したこともあったもんね。

 まずはショーケン一人で「太陽にほえろ!」と「傷だらけの天使」の思い出話。
 第一回のクライマックス(後楽園球場でマカロニが犯人を逮捕するシーン)が流れると、犯人役が水谷豊なので、司会の今田耕司がハッとする。あとになって(他のレギュラー陣が登場してからだったかも)初回のゲストが水谷豊であることが披露されるのだが、ついでにその後も別の役で何度かゲスト出演していることに言及してくれって。
 あるいは、松田優作がジーパン刑事で登場する前、カメラテストを兼ねて役所の職員役で出演していることとか。
 せっかく市川森一がコメンテーターにいるのだったら、70年代初期(「太陽にほえろ!」前?)からショーケンと親交があったこと、その縁で「帰ってきたウルトラマン」にPYGの「花・太陽・雨」が使用されることを話題にして、歌が流れるシーンを流せばよかったのに。TBSなんだから日本テレビの番組ばかり流してもしょうがないでしょうに。今田耕司や藤井隆なんて喜んだんじゃないですか。

 時計を確認していないのではっきり断言できないが、ここまでが19時台だろうか。20時になって「太陽にほえろ!」同窓会。ということは、通常だったらショーケン単独ゲストの部分は視聴できなかったことになる。

 さて、その同窓会であるが、出演は歴代新人刑事が、ショーケン(マカロニ)のほか、勝野洋(テキサス)、木之元亮(ロッキー)、神田正輝(ドッグ)、先輩刑事で竜雷太(ゴリさん)、小野寺昭(殿下)の計6人。マカロニ、ジーパン、テキサスまでは名前が同じ〈ジュン〉だったなんてこと、皆忘れているんでしょうね。
 ショーケンの我儘から始まった歴代刑事の殉職シーンが話題になる。シーンを見ながらの各人の思い出。やはりショーケンとジーパンのそれがずば抜けている。
 テキサスになるともうアメリカン・ニューシネマの時代ではなくなるのだろうか。いかにもなベタな死に方になるのだ。山さん、ゴリさん、島さん、長さん……死にいく狭間で一人ずつ呼びかけていったような。何これ? がっかりした僕は「太陽にほえろ!」卒業を宣言した。僕の中では「太陽にほえろ!」はショーケン、ジーパンなのである。
 だいたい新人刑事が降板するときは殉職だなんて、とんでもない儀式をつくったものである。その他のレギュラーの降板時にも適用されたのには唖然茫然。あのね、そんなに殉職が続いたら、誰も七曲署・藤堂係長の部下にならないって!
 ショーケン、この話題のとき毒つきたかったんじゃないかなぁ。文句言ってほしかったなぁ。



 承前

 *ネタばれしています

 さて、今回の松本清張ドラマスペシャルと銘打たれた「砂の器」。意欲作ではあるが肝心要な部分をないがしろにして失敗してしまった、とても残念なドラマ。それが率直な感想である。
 原作同様の時代設定は評価できる。が、あの時代に主役の玉木宏のあのヘアスタイルはないだろう! とドラマが始まってまず思った。玉木宏ファンの20代以下の視聴者には気にならないだろうが。ファンでなくても気にならないか。この世代は太平洋戦争時代の日本で長髪の人がいても何の疑問も抱かないだろうから。

 それはともかく、最近、松本清張作品を映像化する場合、原作同様の時代設定にすることが多くなった。数年前のドラマスペシャル「点と線」や映画「ゼロの焦点」がいい例だ。「点と線」は現代から当時を回想するストーリーだったが。
 今ではそうせざるをえないということもあると思う。その昔、松本清張ミステリを映像化するときは、時代をいつも現代(映像化した時点の時代)にする傾向があった。松本清張ミステリの傑作、名作といわれる作品は実際に執筆された昭和30年代のものが多い。これを昭和40年代、50年代にしてもまだ通用した。同じ昭和ということで、殺人の動機やトリックにギリギリ間に合ったのだ。

 平成の、特に21世紀になってからはまるで応用がきかなくなった。インターネットや携帯電話が生活を一変させてしまったからだ。
 たとえば、松本清張には「地方紙を買う女」という傑作短編がある。もう4年前になるが日本テレビで2時間ドラマになった。ドラマ自体は面白かったが、女が地方紙を買う理由が現代にまったく合わなくなっていた。

 映画「砂の器」も時代は昭和40年代半ばに変更になっていた。僕自身には時代の変更に特に違和感はなかったのだが、「清張ミステリーと昭和三十年代」 (藤井淑禎/文春新書)という本を読んで、ひとつだけ得心したことがある。
 三木が伊勢参りの途中でなぜか上京して和賀に会う。そのきっかけが、旅先で三木が映画を見に行くことなのだが、著者はそれがおかしいと指摘していた。昭和30年代なら映画の黄金時代なので、娯楽の乏しい地方で、さほど映画好きとも思われない三木が映画館に足を運ぶことはありうるかもしれない、しかし、日本映画が斜陽と呼ばれた昭和40年代半ばで果たしてそれが通用するか。
 
 ドラマに話を戻す。
 オリジナルの女新聞記者の存在がまことに嘘くさかった。いくら恋人とはいえ、吉村が捜査で知りえた情報を記者と共有しすぎる。聞き込みに同行しているんだぞ。ありうるか、そんなこと? 特に前半が顕著でもう完全に吉村は必罰もの。後半は推理の主導権を持って吉村の和賀犯人説の主張の裏付けをしていく。
 個人的には中谷美紀のファンだから、登場することに文句はない。ないけれど、もう少しリアルなキャラクターにしてくれ。現代が舞台なら、吉村とコンビを組む女刑事が考えられるが、昭和30年代にはありえないし。

 吉村を東京大空襲で母妹を亡くした戦争孤児(?)にして和賀と対峙させたのはドラマの新機軸だが、最初の出会いの印象、コンサートで新曲を聴いて、とあまりに本人の主観ばかりが強調されて引いてしまった。
 それから、せっかくヌーボーグループを登場させたのだから、評論家の関川には佐々木蔵之介(和賀)と同格の俳優に演じさせ、どちらが犯人かという推理で引っ張った方がよかった。

 その和賀だが、やはり現代音楽の作曲家(指揮者)という設定だった。軽音楽のミュージシャンではいけないのか。というかなぜ音楽家なのか。そりゃ、原作がジャンルは違えど音楽家だ。現代音楽にすればBGMとして利用できるし、演奏風景は映像的に申し分ないからだろう。

 原作のミュージックコンクレートの旗手という設定は、単なる設定だけでなく、殺人事件にも深く関わっていた。詳細は忘れたが、和賀が作曲に使用する楽器(?)は、超音波を発する。この超音波を悪用して、関川の情婦を堕胎させようとして結果的に殺してしまう。これで、関川の和賀に対する態度が豹変。和賀の新曲についてとても好意的な批評を書くのである。
 原作の後半は、ある数字のメモをめぐって今西たちが右往左往する。この数字は何なのか? やがて、堕胎に適した超音波をだすためのメモリの値だったと判明し、それまでの関川犯人説から和賀犯人説に方向転換するのだ。

 昭和30年代前半、ちょうど僕が生まれる前後なのだが、フランス映画でヌーヴェルバーグが始まった。その影響で日本でも松竹で大島渚、篠田正浩らが同様の活動をはじめた。新しい世代が上(の世代、文化を)を否定し、自己主張しはじめたということだろうか。
 何かの本で読んだのだが、松本清張は、こうした新世代に批判的で、そこからヌーボーグループという設定を思いついたのだとか。それから、評論家も大嫌いだったので、関川というキャラクターを作って、その批評態度を皮肉った、と。

 決定的だったのは、本浦父子の放浪の旅をさせる要因だ。殺人犯の濡れ衣を着せられて故郷を捨てた。それで一人息子を連れて遍路に出るか? 女房子と一緒に旅に出るか、それとも一人で出るか、どちらかではないのか? 旅中で父親が病気になって、それで息子と離ればなれになるだろうか? だいたい病気って何だよ!
 やはり感動のラストにもっていった。「砂の器」の宿命だろうか。感動は病気療養中の父親の絵、および付記された息子への言葉だった。晩年の父親が絵を趣味にしていたのなら、息子を絵描きにしたらどうだったろうか。これは別に皮肉ではない。音楽家に固執する必要はなかったということだ。

          * * *

 ドラマ「地方紙を買う女」の感想をmixiに書いていた。参考のために。

     ◇

 ●仕事をやり遂げた後の一杯にご用心 2007/02/07

 先週1月30日(火)、日本テレビ系で放送された火曜ドラマゴールデン「松本清張スペシャル 地方紙を買う女」。
 内田有紀の主演に興味を抱いたが、なぜこの時代に「地方紙を買う女」なんだ? と朝刊のTV欄を眺めながら思った。いや、松本清張の短編「地方紙を買う女」は読了後、かなり余韻を残す小説ではあった。

 地方新聞に小説の連載を持った作家が、ある件をきっかけにして一読者の完全犯罪を暴くというストーリー。

 小説が面白そうだからという理由で定期購読をはじめた都会に住む女性。作家にしてみれば大変うれしいことだ。ところが、物語がこれから佳境に入ろうとする寸前で突然購読を止めてしまった。
「なぜ?」「この女性には地方新聞を閲覧しなければならない理由があったのでは?」
 疑問を感じた作家は購読を止めた当日のニュースを調べた。心中事件を伝える小さな記事が掲載されていた。こうして作家は女性の身辺を丹念に調査して、この心中事件が実は女性が犯した殺人事件であることを解明する。ラスト、女性は殺人事件に使用した青酸カリを使って服毒自殺をはかる。

 女性がなぜ男(と女)を殺さなければならなかったのか。そこには時代(昭和30年代)が密接にかかわっている。確か戦争の犠牲者という位置付けがあった気がする。
 そもそも昭和でなければ成り立たない話なのだ。殺人の動機や地方紙を購読する理由が現代では通用しなくなっている。
 インターネットの時代になぜ「地方紙を買う女」なのか? 疑問はそこだった。

 帰宅してTVをつけるとちょうどドラマのクライマックスだった。作家に扮するのは高嶋政伸。高嶋が内田を追いつめ、やがて彼女は自殺する……と思われたラストが大幅に変更されていた。
 なんと高嶋はこの事件を題材に新作を書き上げたのだ。タイトルは「地方紙を買う女」。
 作品を完成させると目の前に置いてあるワイン(?)で一人乾杯する習慣がある。今回もワインをグラスについで飲むのだが、そのとたん喉をかきむしってその場で急死してしまうのだ。
 どうやら、前半で高嶋は内田に求婚し、一緒に生活していたらしい。内田は犯罪を暴いた高嶋の口を封じるため、ワインボトルに青酸カリを混入させていたというドンデン返し。薄幸な女性の完全犯罪は完全犯罪として成立してしまう、このオチ。

 なかなか面白いじゃないかと、先入観にとらわれて録画しておかなかったことを悔いたのだが、しかし、やはり腑に落ちない。
 これは本当に松本清張原作の「地方紙を買う女」なのだろうか。原作のプロット、トリックを使った別のドラマなのではないか? せめて「新・地方紙を買う女」「地方紙を買う女 2007」等の差別化が必要だったと思うのだけれど。




 承前

 *ネタばれしています

 映画「砂の器」は構成的にも内容的にもよくできている。特にクライマックスは映像だからこそ表現できるものだ。「男はつらいよ」シリーズとともに70年代の松竹映画を代表する作品といってもいいだろう。
 TV中継された何かの映画賞で子役の少年(春田和秀)が受賞したところを今でも覚えている。劇中、ちょっとした表情で心情や父親への愛情を表現していて受賞は当然だった。子役特有の臭さがなかったところが特に。
 にもかかわらず、「砂の器」以外で見かけることがなかったのはなぜか。この映画一作で俳優をやめてしまったような気がするのだが。その潔さがまたよかったりして。

 それはともかく。
 映画「砂の器」は何度かリバイバル公開されている。「これが最後の劇場公開」なるコピーを夕刊の広告で見たのはいつだったか。
 公開は1974年。僕が観たのは翌年の75年だった。隣町(足利市)の映画館に足を運んだのだが、中に入るとラスト近くで、スクリーンには老けメイクの緒形拳がカメラ目線で叫んでいた。
「シデオ、なぜなんだ? あれだけ苦労をともにしてきた親と子だよ、お前の首に縄かけてでも引っ張っていくから、一緒に来い!」
 セリフは正確ではない。なぜか秀雄がシデオと聞こえた。
 和賀英良に殺される寸前の、三木謙一が和賀(本浦秀夫)に発した言葉だった。今は施設に収容されている本浦千代吉は余命いくばくもない。千代吉はずっと三木と手紙のやりとりをしているのだが、千代吉が書くことはいつも決まっていた。死ぬまでに一度息子に会いたい……。

 映画が原作を凌駕した要因としてまずシナリオの上手さが挙げられる。原作では死んでいる千代吉を生きている設定にしたことが、和賀が三木を殺してしまう理由に大きな意味をもたらしたのだ。「小説と映画のあいだに」にこう書いた。

     ▽
 …千代吉は余命いくばくもない状態だ。三木にはすぐにでも秀夫(和賀)を父親と対面させなければならない役目があった。その切羽つまった末の行動が新曲準備に忙しい和賀には悪意そのものでしかなく、突発的な殺人を誘発する結果を招いたのだ。
     △

 原作ではヌーボーグループの一員、評論家の関川の愛人が妊娠して殺されるのだが、これも映画では和賀の愛人に変更。愛人は産みたいと懇願するものの和賀は拒否する。「あなたに迷惑はかけない、自分ひとりで生んで育てる」と言っても聞く耳をもたない(その後愛人は流産による出血で死んでしまう)。

     ▽
 妊娠した情婦に対して、その出産を頑なに拒んだのも、わが子への業病の血の遺伝を恐れてのことだったとわかってくる。
 愛するものの存在が逆に自分の身をおびやかすという皮肉――。和賀に感情移入する瞬間だ。
     △

 というように、映画「砂の器」は、テーマにもストーリー展開にも、大きくハンセン(氏)病が絡んでくるのである。
 TBSの連続ドラマに失望したのは、まさにここなのだ。映画「砂の器」のシナリオを潤色してドラマを作るなら、ハンセン(氏)病ははずせないはず。ウィキペディアによると、ドラマ化に際して、ハンセン(氏)病を扱わないことは松本(清張)家側の要望だったとあるが、だったら、その時点でドラマ化を断念するか、映画シナリオの潤色はあきらめなければならない。
 それでもなお「砂の器」をドラマ化したいのなら、別のアプローチを考えるべきではないか。
 それが原作をできるだけ忠実に映像化すること。だと僕は思ったわけだ。
 感動作というより、刑事の捜査に重点を置いたミステリドラマとして。
 それにしてもハンセン(氏)病に代えて、31人殺しを取り入れるなんて。脚本・橋本忍+監督・野村芳太郎コンビの次作「八つ墓村」からアイディアをもらうとは、なんて安易な!

 映画「砂の器」は、和賀英良を現代音楽の作曲家(&ピアニスト)に変更したことがクライマックスで涙と感動を呼ぶ構成になった。これもシナリオの功績だが、実はこの変更がある意味映画「砂の器」の弱点でもある。この点についても、かつてこう書いた。

     ▽
気になるのが犯人役・和賀英良の音楽家という設定だった。クラシック畑というのがどうにも気になる。原作では前衛音楽家だった。これなら、孤児が独力で天性の才能を開花させるという展開に無理がない。しかし、クラシック、それもピアニストになると通用しない。どうしたって英才教育が必要になるのだ。
     △

 今回のスペシャルドラマは、若手の吉村刑事が主役になるというものの、原作と同じ時代設定ということで、かなり原作に忠実なドラマになるのではないか。僕自身が考えたような。そんな期待を抱いたのだ。


 この項続く




 承前

 *ネタばれしています

 ある年代(40代以上とか)にとって「砂の器」といったら、こんなストーリー(キーワード)をイメージしているのではないか。箇条書きにして並べてみる。

 ・蒲田操車場で起きた身元不明の殺人事件を追う刑事二人
 ・謎の言葉〈カメダ〉
 ・出雲地方のズーズー弁
 ・紙吹雪の女
 ・犯人は新進気鋭の音楽家
 ・音楽家は過去に戸籍詐称して別人になりすましている
 ・音楽家は幼いころ父親と放浪の旅へ(お遍路)
 ・父親はハンセン(氏)病を患っていた

 そして、これは個人的な勝手な推測なのだが、イメージのほとんどが映画からきているのではないか。
 映画を観てから原作を読むと驚かれると思う。ずいぶんと印象が違うと。つまり「砂の器」は、小説のストーリーより映画のそれが人口に膾炙している気がするのだ。
 「砂の器」の原作と映画の検証は拙著「小説と映画のあいだに」(発行:studio zero/蒼天社 発売:文藝書房)で取り上げている。原作との違いをこう書いた。

     ▽
 脚本の橋本忍と山田洋次は、原作のプロットとトリックを生かしながら登場人物を大幅に整理してストーリーの簡略化をはかった。
 殺人事件は最初の三木殺しだけ。あくまでも和賀の単独犯とした。前衛音楽(ミュージック・コンクレート)の旗手という設定もオーソドックスな音楽家に変更された。
 原作の骨格をなす〈犯人は誰か〉という謎解きをやめ、なぜ新進音楽家が善良な罪のない三木を殺すに至ったのか、その解明がクライマックスに用意される。
     △

 そのクライマックスが斬新だった。
 和賀が作曲した交響曲「宿命」が発表されるコンサート。その演奏(音楽)に乗せて、捜査会議と和賀の子ども時代の回想シーン(本浦父子の放浪の旅)がシンクロする。
 この回想シーンが観客の涙を誘った。ハンセン(氏)病患者に対する世の中の差別と偏見、そんな中での父子の情愛が浮き彫りにされたのだから、涙なくしては観られないショットが次々にでてくる。感動作といわれる所以だ。
 以後、「砂の器」といえば、この映画のクライマックスが応用されることになる。
 犯人が音楽家で交響楽を作曲してその発表会に逮捕されるというパターン、といえばいいか。

 しかし、原作は違う。全体を貫いているのは謎解きなのだ。蒲田操車場の殺人事件を端に発する連続殺人の犯人は誰か。その犯人を追って今西と吉村の二人の刑事が活躍するミステリ。
 ハンセン(氏)病、本浦父子の放浪は、小説では最後の方にほんのわずか書かれているに過ぎない。
 

 この項続く




 一昨日(10日・土)、昨日(11日・日)とスペシャルドラマ「砂の器」が二夜連続で放送された。本当は3月12日(土)、13日(日)に放送される予定だった。東日本大震災で延期になったのだ。3月のときはかなり番宣のスポットを目にしたが、今回はまるで目にしなかった。10日の朝刊で初めて気がついたほど。いや、テレビ朝日を始終観ていたら、目にしたのかもしれない。まあ、知らなかったのは自分だけということもありうるか。

 「砂の器」がテレビ朝日でスぺシャルドラマになると知ってまずうんざりした。もう何度目の映像化になるのか。決定版としてすでに松竹映画(野村芳太郎監督作品)があるのだからいい加減によせばいいのに。
 原作と同じ時代を舞台にして描くと知り興味がわいた。中居正広が主演したTBSの連続ドラマはまるで観る気がしなかったのに。その理由について、かつてこう書いた

     ▽
 以前、同じTBSで「砂の器」がドラマ化されたが、野村芳太郎監督作品に強く影響された内容で失望した。
 TVドラマは橋本忍(と山田洋次)の書いた映画シナリオを原作としながら、現代を舞台にストーリーを改変した。
 どうしてそんなことをしたのか?
 映画と違い、TVドラマは時間がたっぷりある。だからこそ、原作の「砂の器」とがっぷり四つに組めばいいのだ。時代や登場人物を原作同様にして、きちんと当時の風俗を挿入しながら若いアーティストたちの犯罪劇、群像劇を描けば、映画とは一線を画す新しい「砂の器」が生れる可能性があったのに。
     △

 今回のドラマ化の売りは若手刑事の吉村を主役にするというものだった。映画で森田健作が演じた所轄署(蒲田?)の刑事である。今回のドラマでは玉木宏が演じている。ちなみに本来の主人公は警視庁の今西刑事(映画では丹波哲郎が名演技を見せた。今回のドラマでは小林薫が演じている)。

 原作にはない役で中谷美紀扮する新聞記者が登場する。吉村と友達以上恋人未満的な間柄。TBSのドラマみたいに現代を舞台にするのなら当然パスしていた。原作と同じ昭和30年代半ばが舞台と知って、ある期待を持った。犯人捜査の対象が和賀英良を含む若きアーティストたちになるのではないか。
 予想はある部分的中した。ヌーボーグループがきちんと登場したのである。

 もうひとつ、これはまったく個人的なことだが、吉村と女新聞記者がよく利用する喫茶店が〈JAZZ&COFFEE JamJam〉だったこと。神戸は元町にあるジャズ喫茶。紙ふうせんライブの会場として昨年は5月と年末、今年はGWに足を運んで、もう馴染みのお店なのである。この店をロケセットとして使用している。

 TBSの連続ドラマがそうだったように、このスペシャルドラマもハンセン(氏)病を無視した作りになっている。つまり本浦千代吉が幼い息子を連れて故郷を捨て放浪の旅に出る理由づけがまったく別のものに差し替えられているのだ。
 思うに、現在のTV業界では、ハンセン病はアンタッチャブルな事項なのだろう。タブーとして暗黙の了解があって、最初からスタッフサイドに扱う気がないのか、扱おうにもハンセン病患者の団体から許可がでないのか、その理由はわからないけれど。たぶん前者だと思う。

 名作の誉れ高い映画「砂の器」もシナリオが書かれてから実際に撮影に入るまで14年の月日を必要とした。問題は映画の中におけるハンセン(氏)病の扱いだったと「脚本家・橋本忍の世界」(村井淳志/集英社新書)で知った。打開策としてラストに次のような文言(字幕)を挿入し団体からの了解を得たという。
「ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰が続いている。それを拒むものは、まだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみであり、本浦千代吉のような患者はもうどこにもいない」

 21世紀になっても差別と偏見は残っていた。もう何年も前になるが、某温泉旅館でハンセン病患者に対して宿泊を拒否する事件が起きた。
 この騒動がなければ、「砂の器」をドラマ化してもハンセン病が無視されることはなかったのかもしれない。勝手に思っているだけだが。

 テーマの一つである病気が扱えないなら、映像化なんてしなければいいのに。


 この項続く




 日本テレビの「ぶらり途中下車の旅」。最初は30分番組だったのに、数年前(?)に1時間に拡張された。人気があるからだろう。
 土曜日の午前、起きていれば観る。まあ、TVをつければ、の条件つきだけれど。TVをつけててもほかの番組を見ていることもある。チャンネルを替えてこの番組をやっているのに気づき、あわてて見入るなんてことも度々だ。

 ところで、この番組、本当に〈旅人〉がぶらり途中下車する旅だと思っている視聴者はいるのだろうか? 
 駅を降りた〈旅人〉が近所の公園を訪れた。何やら奇抜な木のおもちゃで遊んでいる年配の男性がいる。一緒になって遊ぶ〈旅人〉。おもちゃは男性が作ったものだという。
「近くに工房があるのでちょっと寄っていきませんか」
「よろしいんですか」
 なんてやりとりがあって〈旅人〉は工房にお邪魔してあれやこれや。

 番組の中でよく見るパターンだが、たまたま偶然なんてあるわけないじゃないか! 
 調査(?)担当の構成作家が、今度取材する沿線の駅周辺を調べて、こういう有名な工房がある、出演してもらいましょう。いついつ撮影にいきますので、何時に○○公園で待機していてください、なんて交渉して。お店やレストランも同様。
 実際にロケハンしてから決めるのかも。
 TVなんだからそんなことは当然だ。しかし、〈旅人〉が訪れる場所は途中下車した駅周辺。ずっとそう思っていた。うちの近所の団子屋に取材が来たことを知るまでは。

 その団子屋は西川口から歩いて15、16分ほどのところにある。住宅街にあるから、初めての人が西川口駅から歩いてたどりつけるものではない。ぶらり歩いて行ける店ではないのである。
 オンエアを見て驚いた。
 JR京浜東北線のぶらり途中下車ではなかった。埼玉高速鉄道線。南北線が赤羽岩淵駅を境にこの鉄道に切り換わる。その川口元郷駅を降りてぶらりやってきたところがくだんの団子屋。
 そんなバカな! 川口元郷駅からだといったい何分かかると思っているのか? だいたい川口元郷駅圏内じゃない。いくらなんでもの世界なのだ。
 ずいぶん経ってから、店の人に訊いた。
「どういう経緯で取材が来たんですか?」
「インターネットで知ったらしいんですよ」
 以後、番組で紹介されるスポットが降りた駅の周辺だとは思わなくなった。

 番組ではたまにこんなシーンにお目にかかることがある。
 それまでは晴れていたのに、カットが変わると 雨になって〈旅人〉が傘をさしているなんてシーンだ。変わりやすい天気だったのだろう、くらいの認識だった。
 数年前、某落語会(二人会)で真相がわかった。若手の人気噺家某がマクラで「ぶらり途中下車の旅」の思い出を語ったときだ。〈旅人〉として小田急線沿線を紹介した。このとき撮影に3日間を要したと。2日目だか3日目だかに雨が降った。前日は晴れているので画がつながらないだろうと心配すると、ディレクターは鷹揚にかまえていて「別にいいんじゃないですか」。
 考えてみれば、いくつもの駅に降りて取材するわけだから1日で終了するわけがない。晴れから雨のつなぎはそういうことだったのかと得心した次第。
 それにしてもタイトルに偽りありの番組だなぁ。

 似たような番組でテレビ朝日「ちい散歩」がある。あれは見るからに行きあたりばったりのような気がするのだが、実際はどうなのだろう。
 行きあたりばったりといえば、テレビ東京「モヤモヤさまぁ~ず2」もそうだ。とはいえ、番組内で必ず立ち寄る食べ物屋はどうなんだろう? その日に決めて事前に交渉するとしても、料理の味が大いに関係するので(必ず感想を言いますからね。まずかったら目も当てられない)、やはり撮影日前の事前調査はしているような気がする。
 真相はいかに?




 声優の滝口順平が亡くなった。ニュースを目にしたのはネットだった。「ぶらり途中下車の旅」のナレーションはどうなる?! ちょっとあわてたが、すでに別の方が担当しているとか。
 ああ、そうなんだ。土曜日はいつも朝早くから出ることが多く、最近はほとんどこの番組を観ることがなかった。降板に気づいていたら、訃報に接してもあわてなかったかもしれない。
 TVを通じて子どものころから親しんできた声だけれど、じゃあ何の声と言われると困ってしまう。「ヤッターマン」のドクロベェと「ぶらり途中下車の旅」のナレーション……。
 ウィキペディアを見たらアニメ作品に「悟空の大冒険」(八戒)とある。最初の出会いはこれか。

 80歳。もう大台になっていたのかと驚いた。
 声優は仕事柄表舞台に登場する機会がない。おまけに歳をとっても声にそれほど変わりがない。だから実際の年齢を知って驚いてしまうことがたびたびだ。僕が子どものころから親しんできた声優たちは、皆70歳を超えた。後期高齢者医療制度に加入する世代になっている。うちの父親がそうであるように。
 永井一郎なんて、かなり若いときから波平を演じていたわけだ。演じているうちに、年齢に追いつき、追い越した。にもかかわらず、イメージはほとんど変わっていない。だから僕たちは錯覚してしまう。永遠にこの声が聞いていられるものだと。
 「ドラえもん」で声のレギュラー陣を総入れ替えしたのはある意味英断だったのではないか。

 そうそう、ゼクシィのCMで着物姿の樹木希林を見て思った。「寺内貫太郎一家」のあの「ジュリー!」と叫ぶおばあちゃんの年齢になったんだなぁ、ごくごく自然に演じられる年齢だよなぁ、と。内田裕也との共演した第一弾は、ふたりの共演の衝撃(?)でそんなことはまったく思いつかなかったのに。
 で、第二弾。ひとりになった樹木希林がしみじみとつぶやく。
「やっぱりひとりがよろしい雑草 やっぱりひとりじゃさみしい雑草」
 ニヤリとして、言えているなぁとうなずいた。
 後で知るのだが、このつぶやき、山頭火の句だという。句というなら俳句ですよね? だとするとはあまりにも字余りだと思うのですが? 二つの句で成り立っていたりして? まあ、いいや。

 朝日新聞に連載されている天野祐吉のコラム「CM天気図」で、このCMが取り上げられた。昨日のこと。
 ずいぶん長い連載で、毎週楽しみにしている。いつも共感し、あるいは得心させられる。
 天野祐吉はこのCMを震災や原発事故と結びつけて語っている。今回だけは思いっきり突っ込んだ。
「そうじゃないでしょう!」
 第一弾のCMが夫の不祥事で吹っ飛んだ。共演なんて慣れないことはすべきじゃないわね。
 そんな樹木希林の嘆き、あるいは長年の別居生活に対する本音が垣間見えて面白いんじゃないか。
 ひとりがよろしい、ひとりじゃさみしい。このつぶやきでまず内田裕也の存在を思わなければおかしい。それともわざと無視したのだろうか?

 閑話休題。
 本当は「ぶらり途中下車の旅」について書こうと思ったのに。
 
 ……合掌




 少々遅くなったが書いておこう。
 高視聴率を記録して話題になった日曜劇場「JIN -仁-」。最初のシリーズはそれほど興味もなくて第一回しか観なかった。今シリーズは、かみサンがチャンネルを合わせたことで初回からチェックすることができた。いつのまにか亭主の方が夢中になっていたのがおかしい。
 最終回は珍しくかみサンも観ていた。
 どんな風にドラマを終結させるのか。
 江戸時代にタイムリープした仁が現代に戻ってきて、現代に生きる仁に会う。
 このシーンにかみサンが文句を言った。
「本人が対面しちゃダメじゃない」
 静かに反論。
「それは映画『時をかける少女』の中のルールだろう。このドラマはパラレルワールドを採用しているんだから」
 かみサンは納得しない。こんな展開はダメ、よってこのドラマは大したことない、と結論づけた。
「あのねぇ。もしオレがだよ、あなたが真剣に観ているドラマに同じように言ったら、怒り狂うでしょう?」
 そんな経験を何度したことか。

 ラストが原作と変えてあることは知っていた(原作は読んでいない)。
 最後まで観てこう思った。
 もしかして、このラスト、宮部みゆきの「蒲生邸事件」に影響受けていないか?
 ということで、夕景のレビューをそのまま掲載する(誤字脱字は訂正)。

 綾瀬はるかの健気さに涙がひとすじ……
 
     ◇

2000/10/02

 「蒲生邸事件」(宮部みゆき/毎日新聞社)

 この春にNHK「土曜ドラマ館」シリーズで宮部みゆきの「蒲生邸事件」がドラマ化された。予約録画したのはいいけれど、後でゆっくり観ようと思いながらなかなか再生する気になれなかった。
 小説「蒲生邸事件」が発表されたとき、作者お得意の超能力者ものとニ・ニ六事件をからめたミステリとしてかなり評判になった。ミステリファンとしては当然何の予備知識なく小説を読みたい気持ちがある。しかし先にドラマを観てしまうと、ミステリの一番の醍醐味である謎解きのスリルが味わえないので、できれば小説の後にドラマを楽しみたいと思っていたのだ。
 通常小説を映像化(映画化、TVドラマ化)をした場合、小説を先に読んでいると自分のイメージが邪魔になって純粋に映像化作品を楽しめないということがある(それに映像化作品になかなか傑作が生まれない昔からの法則もある)。
 だから通常は映像化作品を観てから原作を読む方が間違いないのであるが、ことミステリに関しては謎解きの部分の問題があって、何ともいえない。昨年度のミステリの傑作「ボーンコレクター」もまだ読んでいなく、先に映画を観ていいものなのかどうか悩んだあげく結局断念した経緯がある。
 そんなわけで、ドラマ鑑賞をずっと後回しにしていたのだが、それも我慢の限界、間違えて録画を消してしまう可能性もあるので、早いとこ小説を読まなければと思っていたところ、図書館の棚にあった次第。

 予備校受験で上京し、平河町のとあるホテルに滞在していた高校3年生が火災に遭遇、危機一髪というところを時間旅行の超能力を持つ男に助けられた。高校生はニ・ニ六事件が勃発した昭和11年の現場近くにある蒲生邸に連れてこられ、事件終結後自決した蒲生大将の死因の謎に巻き込まれるという物語。
 タイムトラベルものにはどうしても作劇上の矛盾が生じてしまう。よく言われる「未来から過去へやってきた人がもし自分の祖父を殺したらその人はどうなるのか」といった問題で、小説にしろ、映画にしろ、それぞれが独自のルールをもって対応してきた。 この「蒲生邸事件」も独自の見解を持つ。歴史は生きものであると。本当は死ぬことになっていたAをいかしておいても、Bが死ぬことによって帳尻を合わせてしまうというのだ。大胆な発想である。
 また時間旅行者がむやみに他人と接触しないように、タイムトラベルの超能力者は生まれながらにまるで負のオーラに包まれたような他人を寄せつけない陰気な雰囲気を持っているという設定もなるほどと思わせる。

 読み進むうち自決した蒲生大将が実は密室で何者かに射殺されたのではないか、犯人は蒲生邸の住人の誰かなのではないかという、宮部みゆきによる趣向を凝らした〈新本格派〉なのかと思った。
 実をいうと僕は〈新本格派〉が苦手である。ミステリ好きな友人に薦められて何冊か評判のその手のミステリを読んだけれど、トリックのために作られたリアリティの感じられない虚構世界に共感を覚えることがなかった。
 が、この〈新本格派〉の舞台を現代ではない時代、たとえば戦前や戦後の、僕が生れるはるか前に設定すると、俄然おもしろく読めることがわかった。京極夏彦の一連の作品などその最たるものだろう。
 つまり、宮部みゆきはそうした状況を鑑み、タイムトラベルの手法を使って、舞台を過去に設定することによって、世の〈新本格派〉嫌いのミステリーファンにとって違和感のない世界を展開させようとしたのではないかと。

 考えすぎでした。
 別に密室殺人事件がメインではない。謎は簡単に解明されてしまう。
 この作品の主題は時空を超えた若い男女の恋愛、というか心の触れ合いだった。
 主人公の高校生は昭和11年の蒲生邸で使用人として働く少女ふきと出会う。高校生はこの少女の行く末が心配(東京大空襲で焼死する運命にある)で、彼女を助けようと自分の時代へ連れていくか、あるいは自分が残るかしようとする。しかし、少女は未来へもどってくださいと言う。けっしてあなたのことは忘れない、あなたへ手紙を書きます、そしてあなたの時代で逢いましょうと再会する年月日、場所を約束する。高校生は昭和11年に残って人生を送ろうとする時間旅行者にふきの身を守ることをお願いし現代にもどってくる。
 果たして高校生はふきと再会できるのか? ラスト、おばあちゃんになったふきが主人公に宛てた手紙のくだりは、60年にわたる彼女の気持ちが胸にせまり思わず目頭が熱くなった。ちょうど会社の昼休みに読んでいて涙を隠すのに苦労した。

 読んでいて気になった点を……。
 この物語の時制は「ジュラシックパーク」が大ヒットした翌年となっている。実際主人公は同映画を銀座の映画館で鑑賞するのだが、銀座にそんな映画館があったのだろうか? (名画座だったら並木座があったけれど。)
 また、主人公が〈タイムトリッパー〉の謎の男と知り合って、「タイム・トラベラー」(「時をかける少女」)を話題にする。しかし、NHKの少年ドラマシリーズ「タイム・トラベラー」が放送され話題になったのは主人公が生れる4年も前、角川映画「時をかける少女」が大ヒットしたのは5、6歳の頃。映画好き、ドラマ好きとも思えない主人公がこれらの作品を知っているとは思えないのだが。

 思うに宮部みゆきはかつて心ふるわせたSFドラマ「タイム・トラベラー」を自分なりに小説化したかったのではないか。決して結ばれぬ運命にあるケン・ソゴルと芳山和子の関係を時代や設定を変えて描きたかったのではないか。
 主人公をケン・ソゴルに、ふきを芳山和子に置き換えてみればいい。ケンは和子の時代の700年後の世界の住人だったが、宮部みゆきはなんとかふたりが同時代を共有できるように約60年の時の隔たりをもって、ふたりの関係に決着をつけさせた、と見るのやはり考えすぎかな。




 疲れている。
 今、角川シネマ有楽町(以前のシネカノン)で三島由紀夫原作映画の特集をしている。14、15日ともに、朝10時30分から市川崑監督「炎上」(原作「金閣寺」)が上映されるので、いい機会だから駆けつけようと思っていた。結局行かなかった。起きるには起きたのだが、身体が重くて外出する気になれなかったのだ。二日続けて。「炎上」は6月1日にまた上映があるのでそのとき押さえるつもり。

 夜は、かみサンのリクエストでテレビ朝日「最後の晩餐」にチャンネルを合わせる。フジテレビ「世にも奇妙な物語」を観たかったが仕方ない。以前宣言したブルーレイレコーダーの購入はまだ果たしていない。Y電器先着5名さまの格安品は現金のみの扱いだという。諦めた。
 布団に横になりながら「最後の晩餐」を観ていた。

 開店初日のイタリアンレストランが放火され死傷者をだした。放火殺人事件として捜査本部が設置され、刑事の佐藤浩市は新米刑事とともに当日の客の身辺を洗うことに。看護婦(安達祐実)、激安量販店の女社長(黒木瞳)、刑務所から出所したばかりの男(西田敏行)、TV局のディレクター(石黒賢)、政治家(中尾彬)、引きこもり大学生(本郷奏多)。ドラマには「刑事・遠野一行と7人の容疑者」というサブタイトルがついている。あともう一人の容疑者が、レストランのオーナーシェフ(成宮寛貴)というわけだ。
 途中から目をつむって音声だけ聴いていた。いつのまにか寝ていた。目が醒めたら、犯人と刑事が対峙していた。

 ドラマが終わってからかみサンに言う。「冒頭で犯人わかっちゃったよ」
 かみサンが冷たく答える。「誰だってわかるわよ。このドラマ、期待したほどじゃなかった」
 オリジナル脚本(井上由美子)と容疑者7人に主演クラスの役者を揃えたのは評価できるけれど。
 事件解決後、妻(斉藤由貴)に去られた佐藤浩市は警察学校に左遷(?)されるのだが、終わり方が中途半端だった。今、わかったのだが、このラストから連続ドラマ(7月開始)になるらしい。

 犯人がわからなかったといえば6日(金)に再放送された2時間ドラマ「警視庁電話指導官〜深川真理子の事件簿」。なかなか面白かった。用事があって夕方4時に外出しようと思っていたのに、ドラマに夢中になってそのまま終了する(5時)まで見てしまったほど。
 菊川怜の主演、共演は内藤剛志。田口主将さんが米屋の役で出演していた。ドラマだからある程度キャスティングでわかってしまうのだが、もし活字だったら意外な犯人に驚いたことだろう。
 菊川と内藤が犯人の自宅に向かう際、別の容疑者の自宅とカットバックさせて、あたかもそちらを訪れたように描く演出上のトリック。映画「羊たちの沈黙」の応用だ。「相棒 バベルの塔」でも見られた。

 昨日、帰宅してTVをつけたら始まった「ハンチョウ ~神南署安積班」も意外な展開だった。ダーツバーの店長役って、めちゃいけの新メンバー、Tバックモデルの人だよね?

 話は飛ぶ。
 「みのもんたの朝ズバッ!」のコメンテイター(だった?)高木美也子って、岡田茂(東映名誉会長)の娘だったのね。ということは岡田裕介(元俳優、東映社長)の妹なのか。知らなかった! 通夜か告別式でTVの取材に答えて「いつも岡田茂の娘と言われるのがつらかった」云々と言っていたが、僕自身はそんな目で見たことはなかった。いつも偉そうな態度だよなとは思っていたけれど。

 団鬼六も亡くなった。小説はそれほど読んでいないが、日活ロマンポルノのSMシリーズにはお世話になった。東映ビデオ制作の「花と蛇」シリーズも2本とも劇場に足を運んだほど。ただし、昨年公開された小向美奈子主演の第3弾はDVDになってもどうにも食指が動かない。

 合掌




 昨日は予定を変更して「金八先生」のレビューを書いてしまった。書き出したときは感想のさわりだけのつもりだった。なのに、あれもこれもと止まらなくなって、前説の許容をはるかにオーバー。
 ドラマへののめり込み度は、その夜の夢に現れた。いろいろ金八先生がらみの夢を見ていたのだ。目が覚めてちょっと切ない気持ち……
 おいおい、これって、中学時代に「ロミオとジュリエット」「フレンズ」を観たときの反応ではないか。

 印象的な夢を一つだけ挙げておく。
 なぜか、クライマックスの撮影現場を拝見できることになった。近くの体育館で撮影しているという。中に入ると、撮影は終了して打ち上げが始まっていた。武田鉄矢が完全に出来上がっていた。
「さあ、次行くぞ!」
 と大きな声でわめき叫ぶ。後についていくと、どこかの野原。そこで気がつくのだが、まわりには僕ともう直江喜一しかいない。ほかの人たち(共演者&スタッフ)は帰ってしまった(ほかに流れた?)らしい。番組関係者じゃない自分がここにいるということは、酔っ払った武田鉄矢の面倒をみろ、という誰かの指示なのか。
 それもいいかもしれない。いろいろ話を伺えるし。

「武田さん、大昔、見かけたことがあるんですよ。目黒に住んでいた大学生のころのことです。朝、駅に向かって歩いていたら、向こうから武田さんが走ってきたんですよ。スポーツウェア着てたからジョギングだったんでしょうね。知っている顔なので、通り過ぎるとき思わず頭下げてしまったんです。無視されましたけど」

「CMの仕事をしているとき、俳優の宣材を受け取りに武田鉄矢商店に伺ったこともあるんですよ。事務所、表参道でしたっけ?」

 本人、グーグー寝入って応えてくれなかった。
 仕方ないので、直江さんと「3年B組金八先生」論に花を咲かせて……。


 【追記】

 3年B組の卒業生は250名ほどいるらしい。金八先生の卒業式に152(151?)名が出席したというのはすごいことではないか。
 生徒役はそのまま芸能界に入った者、一般人に戻った者に分けられる。仮に芸能OB、一般OBと呼ぶとすると、一般OBへは通常の同窓会のように撮影への参加を往復はがきで案内したのだろうか。
 問題なのは芸能OBだ。スケジュール的に参加できなかった人もいるだろうが、最初から呼ばれないということも十分ありうる。番組自体、ジャニーズ事務所と太くて強いパイプがあるので、トシちゃんなんて出演の可能性はなかっただろう。たのきんトリオの3ショット見たかったのに。それにしてもマッチは何の職業だったのか。マッチはマッチの役だった気がしてならない。
 名前の点呼シーンで、現在活躍している若手女優がいるのに驚いた。本仮屋ユイカとか福田沙紀とか。いろんな人を輩出しているのだなあと改めて思った次第。

 ああ、今回も前説でなくなってしまった。




 昨日の「3年B組金八先生ファイナル 最後の贈る言葉」。4時間つきあった。第3シリーズといくつかのスペシャルドラマをのぞいてリアルタイムで観てきたのだから当然だろう。
 本当なら、第9シリーズとして半年間の連続ドラマがあって、その最終回がこの「ファイナル」になるのかもしれない。しかし、前シリーズが予想外の低視聴率だったために次につながらなかった。そう勝手に思っている。
 まあ、脚本の小山内美江子が病気降板した時点(第7シリーズ)で終わっていたのだ。小山内美江子の降板は確かに病気が原因だが、実はその前からドラマの内容をめぐってスタッフとの確執があったという。降板はある意味更迭だったと。週刊文春の記事でわかったことだが。
 ショックだった。

 生みの親を更迭して始めたシリーズの視聴率が悪いんじゃ目も当たられない。ちょうど武田鉄矢の年齢もあって、金八先生の定年によるシリーズの終了を宣言するのもうなずける。
 ちなみに第8シリーズは、決して出来が悪かったわけではない。原点に戻ったようなドラマ作りには好感を持っていた。
 
 さて、ファイナルの「最後の贈る言葉」。ドラマそのものは期待していなかった。別の期待感――、同窓会に出席するときの、あのちょっとしたドキドキ感というのだろうか。
 ところが、その同窓会的趣向と、ドラマの展開がうまい具合にドッキングしていた。特に加藤勝(第2シリーズの「腐ったミカンの方程式」のあの問題生徒)と再会して金八が一念発起してクラスの問題解決に立ち上がるあたりまでは。加藤を演じる直江喜一の演技は俳優廃業のブランクなんてまるで感じさせない堂々たるもの。思わず見入ってしまった。

 現在の3Bの問題生徒を再度クラスで受け入れるための保護者への説明会も、反対意見にタジタジになるものの、保護者に混じって説明会を聞いていた宮沢保・雪乃夫婦(第1シリーズの「十五歳の母」のカップル)に助けられる。雪乃に扮する杉田かおるは昔のままの清純イメージ。女優魂を見せつけてくれた。

 金八の娘、乙女(星野真理)の披露宴。元校長(赤木春江)の祝辞のなんという深さよ。乙女の成長をずっと見てきたからなあ。第一、第二シーズンのレギュラー教師陣(財津一郎、上條恒彦、吉行和子、茅島成美)の姿にしみじみ。
 
 マッチが登場するあたりからドラマはファンタジーさを増していく。それこそ顔見世興行の態。ご都合主義。
 いや、それをいうなら加藤のエピソードにしたって、そんなに金八先生に感謝しているのだったら、桜中学卒業後も年賀状はだしていただろう。近況報告は欠かさないはず。加藤が新潟で建築屋の社長になっているくらいを知らないはずがない。なんて突っ込みもできる。
 でもまあそれが「3年B組金八先生」の世界観だから。毎年の3年B組の担任、ほとんど異動しない教師。一定の教師しかいない職員室。番組の約束事と言い換えてもいい。

 その手のファンタジーも理科室における金八最後の授業のリアルさで解消される。
 3Bのクラスメートは金八の説得で問題生徒を受け入れる。で、生徒は都立高校の二次に合格してめでたしめでたし。あとは卒業式のみ。
 にもかかわらず、時計は22時過ぎ。あと1時間どうするんだろう? まだ一波乱あるのか?

 違った。
 定年退職する金八先生のために新旧の3Bの生徒たちが卒業式を催す。それがドラマのクライマックスなのだった。
 送辞は、今回の主役である問題生徒。しかし、この送辞の内容、演技でシラけてしまった。なぜ一度画で見せたことを能弁に語らせるのか。あの場合、何か言おうとして、でも言葉にならない、そのじれったさに感じるものがあると思う。あるいは何も言えないまま感極まって泣いてしまうとか。
 金八の答辞が圧巻だった。150名近くの生徒たち、一人ひとりの出欠をとるのである。もちろん、それぞれに当時の映像が挿入されて。そのやりとり、金八の言葉。演技なんかじゃない。まさにドキュメンタリーの様相を呈していた。

 涙ボロボロ……。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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