〈小説と映画のあいだに〉ラストです。

          * * *

 『ローレライ』『戦国自衛隊1549』に続く福井晴敏原作の映画化作品。巷では福井晴敏三部作のトリを飾る作品と呼ばれている。
 小説を読んでからというもの映画化を熱望していたはずなのに、いざ発表されるや先の2本に比べてそれほどの高揚感はなかった。
 単行本は二段組654ページ。その膨大な情報量を2時間強にまとめられるわけがない。ビジュアルも原作を忠実に再現するとなるといくらCG技術が発達したとはいえ、生半可な予算では出来は知れている。そのくらい小説「亡国のイージス」は衝撃的、破天荒で骨太なドラマが展開されのである。

 荒唐無稽な展開をいかにリアルに見せるか。
 たとえば、北朝鮮の女工作員チェ・ジョンヒは海外逃亡を企み旅客機をハイジャックする。機内で防衛庁情報局員に行く手を阻まれ絶体絶命になるや、飛行中の旅客機を爆破、自ら太平洋に落ちてミサイル護衛艦〈いそかぜ〉に救助されるなんていうくだりがある。〈いそかぜ〉内でも人間兵器ぶりを発揮して超人的なアクションを展開させるのだ。並みの映像(演技とカメラワーク)なら失笑されるに決まっている。

 予告編が上映されるにいたって、その思いはいっそう強くなった。原作のイメージとは隔たりはあるもののキャスティングはなかなかいい(ともに二世俳優の中井貴一と佐藤浩市が共演する映画・ドラマにハズレがないとは友人某の言葉)。
ところが、映像に迫力がない。海上自衛隊の全面協力がウリで、確かに本物の戦艦や戦闘機が映し出されてはいるが、単にフィルムに収めているだけのような印象。心を躍らせる何かが足りない。
 にもかかわらず、公開されてからの反応は3作の中で一番いい。『ローレライ』『戦国自衛隊1549』ともにドラマ的には期待はずれだったので(ヒットしたのはうれしいが)、やはりこれは『KT』の阪本順治監督の演出に見るべきものがあるのではないかと、一気に興味がわいてきた。

 有楽町の劇場は1回めの上映にもかかわらず、客席はかなり埋まっていた。それも年齢層が高い。なるほどヒットの報は嘘じゃなさそうだ。
 海上自衛隊が誇るイージス艦〈いそかぜ〉が北の某国工作員ヨンファ(中井貴一)一味に占拠された。副艦長の宮津(寺尾聡)の手引きで、東京湾沖で訓練航海中の出来事だった。宮津の薫陶を受けている部下たちも仲間である。
 宮津は敵対する乗員をすべて下船させ、艦の全ミサイルの標準を首都圏に合わせた。ヨンファはアメリカが秘匿していた特殊兵器を盗み出していた。この化学兵器は1リットルで東京を壊滅させることができる。ミサイルの弾頭にこの化学兵器が搭載されるのである。
 東京を救うにはある事実を世界に公表せよとの要求。しかしそれは絶対に受け入れられるものではなかった。
 そんな中、ヨンファたちにたった一人で立ち向かう青年、如月一等海士(勝地涼)がいた。如月の上司、誰よりも〈いそかぜ〉を愛し、その構造を知り尽くしている先任伍長・仙石(真田広之)も引き返してきた。
 テロリストに対する二人の徹底抗戦が始まるが、通信機器が破壊された〈いそかぜ〉から外部に連絡する手段はない。
 苦渋の決断の末、政府は特殊爆弾で〈いそかぜ〉を排除する方針を決定した。
 刻々とタイムリミットが迫る。
 果たして二人はミサイル攻撃を阻止することができるのか? 宮津の裏切りに隠された真相とは? 如月の本当の任務とは? 闇に消された〈亡国のイージス〉とは何か?

 あの膨大な原作をよくぞここまで刈り込んだものだ。それが率直な感想。
 だいたいベストセラー小説の映画化作品は、それが長編の場合、ストーリーの要約に汲々としてキャラクターの掘り下げまでに至らず、また原作を知らない者にとって意味がわからないエピソードも挿入されて、失敗するケースが見受けられる。
 そういう意味ではこの映画は小説の核の部分をしっかり把握し、うまく抽出していた。最後までダレルことなく観ていられるアクション映画に仕上がっている。

 ただし絶賛というわけにはいかない。日本映画にしては、福井三部作の中では、といった条件付きになってしまうのだ。
前半のカメラワークがなんともしょぼい。スマートさ、かっこよさに欠けるのだ。いい意味でのケレン味がない。
 原作の季節がいつだったかもう忘れてしまったが、〈いそかぜ〉乗員の制服が夏服というのも、絵的にどうにも軽すぎる。冬服の重厚さが必要だったのではないか。
 映画化にあたって北朝鮮の名称が使えないのはわからなくはないが(確か「宣戦布告」も別の国名に変更されていた)、劇中、朝鮮語が交わされないというのも不自然だ。『KT』の実績から、韓国人俳優、日本人俳優の共演を期待していたのだけれど。

 わからないエピソードといえば、女工作員の扱いはいったい何だったのだろうか。原作ではヨンファの片腕として前述のようにとんでもない活躍をする人物なのだが、映画では登場する意味がまったくない。「いったい何者なんだ、こいつ?」という感じ。敵対する如月と海中で戦っていて、なぜくちづけを交わすのか(原作にあったのだろうか?)。ヨンファの妹だということも明示されないのだから、スクリューに巻き込まれて死亡、その衣服の破きれを渡されたヨンファの悲しみ、絶望なんていうのは観客に伝わってこないだろう。

 ハリウッドが得意とするアクション映画に、時間に間に合うかどうかというサスペンスをクライマックスにもってくるものがある。不思議なことによく出来たこの手の映画は何度見ても同じシークエンスでハラハラしてしまうのだ。
 映画『亡国のイージス』はこの緊迫感が物足りなかった。〈いそかぜ〉が爆撃される前に化学兵器を奪取できるか否かのクライマックス。人物関係やストーリーが多少わかりづらくとも、その攻防戦に拳を握り締めたり、喉をゴクリと鳴らせたら、もうそれだけで十分なのに。
 自衛隊員のプロフェッショナルな行動を描く(たとえば情報局員如月の動きとか)という点もおざなりだった気がする。
 『交渉人 真下正義』のスタッフ(監督・本広克行)が撮れば、もっとサマになったのではないか。

 福井晴敏は週刊文春に新作「OP・ローズ」を連載していた。若い自衛隊情報局員と中年刑事のコンビが活躍する相変わらずの福井節なのだが、何とクライマックス前に突然連載が終了してしまった。後は単行本でとは読者をバカにするにもほどがある。まあそれはともかく、この小説の前半でお台場を舞台にアクションが炸裂する。当然フジテレビも登場するのだ。
 単行本がでたらたぶん映画化が発表されるだろう。
フジテレビが絡むことは十分予想できる。そうなったらぜひとも本広監督にメガホンをとってもらいたいなんて思っている。




スポンサーサイト
 書き忘れている映画鑑賞メモ

 10/2(日)   「赤々煉恋」(阿佐ヶ谷ユジク)
 10/5(水)  「赤々煉恋」(阿佐ヶ谷ユジク)
 10/6(木)   「イエスタディ」(シネマカリテ)
 10/10(月)  「ハドソン川の奇跡」(丸の内ピカデリー)
 10/18(火)  「おはん」(神保町シアター)

          * * *

 十年ほど前に京極夏彦のミステリが大ブームになった。
 もともと高校時代に松本清張にはまってからというもの、ミステリは広く浅く読んでいたのだが、会社の同僚に超がつくほどのミステリ好きがいて薦められるままに本格ミステリを読むようになっていた頃だ。
 島田荘司の代表作を何冊か借りて読んだところ、面白いことは面白いがどうもしっくりこない。トリックのためだけにストーリーが構築されていて、謎解きはスリリングなのに登場人物の行動がリアリティに欠ける。嘘っぽさが鼻につくというか。たとえば挿入される日記。これが他人に読ませるためのものであるのが歴然、普通こんな文章書かないだろうなんて突っ込んでしまう。そんなことがよくあってイマイチ夢中になれない。
 そんな不満を、もう一人の、やはりミステリに造詣の深い同僚に述べると京極夏彦の一連のミステリを薦められた。「ああ、あの新人作家ね」。書店の新書コーナーに分厚い(通常の新書の2倍、3倍の厚さ)本が並んでいて気にはなっていた。図書館で借りようとしていたところ、以前出向していた会社にたまたま用事があって顔を出すと、後任の女性が「姑獲鳥の夏」「魍魎の匣」「狂骨の夢」の3冊を持っていて貸してくれるという。あわてて読み出して夢中になった。

 妖怪、憑依、呪詛といった怪奇趣味に昭和20年代の舞台設定が合致し、全編に散りばめられた精神医学や心理学その他もろもろの薀蓄話も気に入った。
 この小説を本格ミステリといえるのかどうか、僕には判断できないが、とにかく現代でないという時代設定でリアリティの問題が解消されていた。
 3冊のうち特に怒涛の勢いでページを繰ったのが「魍魎の匣」「狂骨の夢」の2作だった。
 終戦直後の舞台設定というところから、今、映画化したら平成の〈金田一シリーズ〉の趣きがでるのではないかと思った。「魍魎の匣」に、列車の向かい合わせになった男がスーツケースを開くと切断された少女が入っていたというくだり(詳細は忘却の彼方)があって、映画化するのなら実相寺昭雄監督が適任なのではと、実相寺風映像を思い描き一人悦に入っていた。
 まさか本当に実相時監督の手で映画化されるなんて!

 このシリーズはレギュラー陣のキャラクターのユニークさも人気の一因である。いやそれが一番かもしれない。
 事件に遭遇し、あるいは巻き込まれ、語り部的役割を果たす作家の関口、薔薇十字探偵社の探偵で透視能力を持ち、独断専行の榎木津、刑事の木場修太郎こと木場修、彼らがそれぞれの立場から事件を追い、推理して、にっちもさっちもいかなくなって最終的に古本屋の主にして陰陽師、名探偵の京極堂の助けを得て見事解決というのがシリーズの大きな流れ。
 心配していたキャスティングも京極堂に堤真一、榎木津に阿部寛、個人的には見事ストライクゾーンだ。関口の永瀬正敏、木場修の宮迫博之も悪くない。木場修、もう少し強面を強調させるなら遠藤憲一でもよかったかもしれない。
 というわけでこの夏邦画の一番の期待作になった。

 てなことをしたり顔で解説しながら、どんな内容だったか、ほとんど覚えていないのが恥ずかしい。逆にいうと原作に引きずられることなく映画を映画として楽しめるということだ。

 昭和20年代の東京。関口は世間に流布している奇怪な噂の解明を求めて友人である京極堂の古本屋を訪れていた。雑司が谷にある久遠寺医院の娘(原田知世)が妊娠20ヶ月になるというのに、出産の気配がなく、おまけに夫が失踪、何と密室から忽然と姿を消したという。最初は相手にしなかった京極堂だが、夫が学生時代の先輩だと知るとにわかに顔色を変えた。
 京極堂の勧めで共通の友人、榎木津の探偵事務所に足を運んだ関口はそこで久遠寺医院のもう一人の娘(原田知世 二役)に出会う。身重の梗子の姉にあたる涼子が義弟の探索を依頼に来ていたのだった。
 こうして奇妙な噂に端を発した調査は、木場修が捜査している久遠寺医院の元看護婦の謎の急死事件、新生児連続行方不明事件に絡み合い錯綜して迷宮の世界へ突入していく。涼子にある感情を抱いている関口は何とか彼女を救いたいがため京極堂の救援を求めた……
「この世に不思議なことなど何もないのだよ、関口くん」

 実のところ、この映画に原作同様のミステリの面白さ、謎解きなんて期待していなかった。実相寺監督のことだから当時の風俗、風習の再現、凝りに凝ったスタイリッシュな映像に重きをおき、原作を読んでいないと内容的に意味不明な展開になるのではと勝手に予想していた。膨大な原作の単なるダイジェストになるくらいなら、それでもいいと。
 昨年放送された「ウルトラQ darkfantasy」のラス前を飾った「ヒトガタ」「闇」で実相寺イズムが存分に発揮されていたので、期待はその映像美、センスにこそにあったといっていい。

 当時の東京の街並みを切り取ったスチールで構成されたタイトルバックに痺れた。実相寺監督がよく寄稿する「東京人」に繋がる世界。明朝体のクレジット、そのデザインにやはり市川崑監督の金田一シリーズを意識しているような。劇中にたびたび挿入される月に関する報告カットに使用されている文字は「怪奇大作戦」に対するセルフオマージュだろうか。
 ストーリー的には原作を要領よくまとめたと思う。懸念していたミステリとしての体裁もちゃんと保たれていた。榎木津が登場する意味があったのかという意見もある。確かに映画だけを考えたら「?」なのだが、それはまあファンサービスということで。謎解きのクライマックスでは前半にはられた伏線に気づいて2度ばかし膝をたたいたものである。

 セットや美術に、かつて金田一シリーズがそうであったような(セミ時代劇)の雰囲気が満載。それも何気ないショットに写りこむ桐箪笥だとか廊下だとかにしみじみしてしまう。
 しかし、しかし。肝心の映像、演出はというと、これがちっとも〈らしく〉ないのである。全体的にシャープな感覚が欠如していた。
 何度も繰り返し挿入される姑獲鳥のイメージショット。いかにも女性が作り物の羽根をまとったという感じでチープというかダサいというか。「ウルトラQ darkfantasy/闇」で廃墟写真を絶妙なタイミングで挿入したカッティングのキレにほど遠いものだった。
 久遠院病院の暴動シーン。迫力も緊迫感もない。拍子抜けした。
 クライマックスの炎上シーン。いかにもミニチュア然としていてがっかり。その昔、「怪奇大作戦/呪いの壺」で本当にお寺を燃やしているとTVの前で小学生をあわてさせた大胆な合成、構図の勢いなんて少しも感じられない。
 ほかにもやけにカメラ目線の演技が多くて、エンディングロール後にスポットライトの京極堂が登場して名台詞を言うに至っては本当にこれが実相寺監督作品なのかわが目を疑ってしまった。声だけの処理の方がよっぽど洒落ているのに。
 京極シリーズの(かつての)ファンとしては及第点、実相寺ファンとしては不満タラタラ。そんな映画だった。




 ずっと定期掲載シリーズの更新をしていない。忘れているわけではないのだが、手がまわらないのだ。
 というわけで、久しぶりに。
 
     ◇

 この映画化に関しては原作を読んだ時点でまったく期待していなかった。
 理由の第一は膨大な情報量を詰め込んだ原作を2時間にまとめあげるのが至難の技であること。
 第二に監督の森田芳光には『39刑法三十九条』というミステリの佳作があるが、続く『黒い家』では原作ファンを納得させるだけの映画にすることができなかったこと。
 第三に〈ピース〉に中居正広を配役したこと。別に俳優として中居正広を否定しているわけではない。彼のキャラクターを生かすなら、物語の重要な人物、共犯者の栗橋浩美の方が似つかわしい。原作どおりのキャラクターならば、とてもやりがいのある役だと思う。
 ところが、いざ公開が近づいてきたら、こちらの思い込みを打ち砕く、斬新なサイコミステリに仕上がっていることを願う自分がいた。
 連続女性殺人事件の被害者の祖父・有馬義男に山崎努、浩美の幼なじみでやはり物語の要となる人物・高井和明におよそイメージとかけ離れた藤井隆をキャスティングしたところに森田監督の余裕を感じたのだ。

 若い女性たちを誘拐しては監禁、いたぶり殺す連続女性殺人事件がメディアを騒がしている。犯人は最新のデジタル技術を駆使して、インターネットや携帯電話で情報を撹乱させ楽しむのだ。
 行方不明となって十ヶ月の孫娘の安否を心配する有馬義男は犯人から直接電話を受け、何かと翻弄させられるが、TV局に2度にわたってかけられた電話の話しぶりから単独犯ではなく、二人による犯行だろうと推理する。
 ルポライターの前畑滋子はかつて取材をした〈教師一家殺人事件〉唯一の生存者の青年が、連続殺人事件の犠牲者(腕と遺品)の第一発見者であったことから、この劇場型犯罪についてのルポを担当することになる。

 事件の犯人はあっけなく判明する。
 犯人が予告した携帯電話による殺人の実況中継がまさに始まろうとする、ちょうどその時、山中の道路から一台の乗用車が事故で崖下の湖に転落。引き上げられた乗用車のトランクには明らかに殺されたと思われる男性の遺体が発見される。滋子の夫だった。いくつかの遺留品から警察は運転手および助手席の二人の男(栗橋浩美・高井和明)を連続女性殺人事件の犯人と断定。事件は解決したかに見えた。
 ところが、高井和明は犯人ではないと主張する男がメディアに登場する。浩美と和明の中学時代の同級生、そして事件のシナリオを考え、浩美を使って実行していた網川浩一である。沈着冷静、頭脳明晰、不敵な微笑。浩美が事件に関係していることを察知した和明を、浩美とともに葬ってしまった後の大胆な行動。この〈ピース〉と呼ばれる男の狙いは何か。
 一方夫を殺された滋子は悲しみのどん底に陥る。また取材する側から取材される側にまわり、苦悩の日々を過ごす。
 果たしてピースの犯罪が白日のもとにさらされる時がくるのか?

 映画は原作どおり事件を最初被害者側、続いて加害者側から描く。原作の詳細な人間関係、その機微まで焦点をあてられないから、多少わかりづらいところはある。が、劇場型犯罪の報道に巻き込まれるメディアや一般視聴者の混乱ぶり、インターネットによる盛り上がり方が、森田監督得意の映像テクニックによりそれなりに面白く観られる。
 一番評価できるのは、やはり物語の要となる、連続殺人事件のルポルタージュで人気を呼ぶ前畑滋子(木村佳乃)の夫を殺人事件の犠牲者の一人にしたことだ。これで悲しみ苦しみ傷ついた彼女が事件の真犯人を追求する姿に感情移入できるし、だからこそ天才犯罪者ピースとのクライマックスにおける対決が引き立つというものだ。

 インテリ妻と職人夫の学歴の差、仕事によるすれ違い等の葛藤は、原作では夫の親を巻き込んで、よりリアルに描かれるが、映画は畑違いの仕事に邁進する妻を暖かく見守る夫というように理想的な夫婦として見せる。それはそれでいい。しかし、原作では町工場を経営する夫の設定を畳職人にしたのは何故なのか。扮する寺脇康文はまるでそれっぽく見えなかったのが痛い。普通のサラリーマンでもよかったのではないか。

 いやあれは畳の見積もりを犯人から依頼され、事件に巻き込まれるきっかけになるために必要だった、なんて理由にならない。殺されるきっかけなんてどういう風にでも作れるはずだ。
 浩美(津田寛治)も原作にある過去のトラウマに苦しむ姿なんてまったくないから、ただの精神のいかれた野郎にしかみえないし、なぜ和明が自分を利用するだけの幼なじみに肩入れするのかも映像上の説明ではあまりに希薄だ(友人曰く「浩美と和明ってホモ関係なの?」)。ピースを主役にするなら、二人はもっとオリジナルな人物造詣にしてもよかった。

 まあ原作を読んでいる者としていろいろ不満はあるが、それなりに二つのドラマの交錯は見られるものだった(友人も納得していた)。中居正広もかなり健闘していたと思う。
 だが、クライマックス以降で一気に脱力した。「太陽にほえろ!」の松田優作じゃないが、「なんだ、コリャー?!」だ、まったく。

 原作では、ピースの存在に胡散臭さを感じはじめた滋子が、彼が真犯人である決定的な証拠をつかむため、大きな賭けにでるところが山場となる。ミステリの原書を蒐集している知り合いに「何でもいいから1冊貸してほしい」と依頼した滋子はそれを持って、TVのワイドショーでピースと討論にのぞむ。
 番組の中で、滋子は「今回の連続女性殺人事件は日本で出版されていない海外ミステリで描かれた事件をただ単になぞっているだけにすぎない」と自説を言い放つ。するとそれまで沈着冷静だったピースは模倣犯と言われたことに対して、自分の犯罪の完璧性、オリジナリティを否定されたことで、一瞬かっとなって、思わず「模倣ではない、すべて自分が考えたことだ」と口をすべらせてしまうのだ。

 映画も討論中に滋子が模倣云々を口にするところは同じだが、ピースはあくまでも冷静だ。滋子の嘘を簡単に見破り、それを見越した上で自らの犯罪を告白。そしてその場で自爆してしまうのである。
 自爆のショットはCG処理で、分断された首が空中に舞い上がるとニヤリと笑って二度めの爆破。原作と違った展開が悪いわけではない。しかしこの自爆シーンに必然性がない。だいたいCGが稚拙で、映像的にまったくリアリティがない。それになぜピースが爆弾を持っているのかという設定自体もおかしなものになってしまう。事前に爆弾に精通しているところを挿入するなりして、ちゃんと伏線をはらなければストーリーが破綻したものになってしまう。自決するならするで、もっと別の方法があるだろう。これじゃまるでコメディだよ。

 映画は原作にはない謎を冒頭で提示する。有馬の孫娘が帰宅しようとするところで、携帯電話で呼び出した相手は誰なのか。「私は殺されてもいい。でもこれだけはおじいちゃんに言わないで」と孫娘がピースに懇願したこととは何なのか。
 ピースが自爆した後、まだ映画は続くのだから観客は誰だってその謎の答えを期待しているというものだ。

 ピースの死後、彼から送られた手紙に書かれている指示によって有馬は公園に隠しているある物を探し出す。それがピースの赤ちゃんだというのだから唖然、呆然。
「自分の血が流れている子を育ててほしい。人は血ではなく環境によって良くも悪くも育つことを証明してほしい」とピースは有馬に子どもの未来を託すのだ。
 黒澤明の『羅生門』でですら、とってつけたようなヒューマニズムだと批判されたラストと同じものを突然もってきたのはいったいどういう理由からなのか。
 赤ん坊を抱いて、空を仰ぎ見る山崎努の顔が「なぜオレはこんな映画に出演したのだろうか」と自問しているように思えてならなかった。

 孫娘が行方不明になって〈十ヵ月後〉に一連の事件が起きる。ということは、赤ん坊は孫娘とピースの間にできた子どもだというのか? あるいは誘拐された時孫娘が妊娠していたとか。そんなこと共犯者の浩美は知っていたのか? これまた何の脈略もない唐突なエピソード。これが冒頭の謎の答えだとするとあまりに情けない。
 百歩ゆずって自爆も赤ん坊もいいとしよう。なぜそれに繋がる物語を前半に用意しないのか。それがミステリのイロハではないか。

 大長編「模倣犯」を映画化するとなると、ある種のいさぎよさが必要だ。あれもこれも取り入れようとしたらぜったい失敗する。物語の核となるべきものを抜き出したら、それを映画用に改変あるいはオリジナルとして創造する。
 愛を知らずに育った者と違った価値観ながら互いを尊重しあう夫婦間の愛情を対比させながら、天才犯罪者の完全犯罪、それをアッと驚く気転で崩す女流ルポライターといったプロットだったら、最後まで息もつかない展開になったかもしれない。
 森田監督が「模倣犯」を読んで「これはぜったい自分で映画化する」と取り組んだにもかかわらず、原作のどこに反応して、何を映画で描きたかったのか、何を訴えたかったのか、僕にはわからない。そりゃ、もちろんラストの明日への希望なのだろうが、だからといってあんなラストで本当にいいのだろうか。スタッフも皆納得しているのだろうか?

     ◇

 すいません、記事が重複しておりました。「OUT」を削除し「模倣犯」に差し替えます。
 ほんと、バカ。
 お詫び申し上げます。
 (10月20日)




 能年玲奈問題。
 いったい何がどうなっているのか?
 もうあそこまでこじれたら、事務所にもどることなんてできないだろう。
 それにしても、本名=芸名の場合、独立したら名乗れない、改名しなければならない、なんて、ちょっと、いや、かなりおかしい。
 そこまで事務所に権利があるのだだろうか。 
なんとか金で解決できないものか。とにかく一人の女優の才能をつぶすなんて許されない。
 
 水野美紀が大手芸能事務所を辞めたときは、けっこう長い間TV、映画から干されていた。レギュラーだった映画「踊る大捜査線」から外されたときは怒り心頭だった。TV局ってナベプロの時代から大手芸能事務所には頭が上がらないのかとタメ息をついたものだ。
 最近は舞台以外、さまざまに活動されていて喜んでいる。

     ◇

 ずいぶん前に松岡圭祐のデビュー作「催眠」の映画化に関するゴシップが作者自身の経歴詐称問題とともに「噂の真相」に掲載された。どこまでが本当のことなのかはわからないけれども、続編という名目で上梓された「千里眼」を読む限りでは、原作者として少なからず映画『催眠』に不満を抱いたことは容易に想像できた。
 小説「千里眼」は心理カウンセラーを主人公に心理学やカウンセリングを応用したミステリという点においては「催眠」と同系統といえるだろうが、登場人物も内容もまったく違うし、関連性はほとんどない。
 物語の展開についていろいろ追及していくとさまざまな設定に無理があって、傑作というものではないが、勢いでラストまで一気に読ませ、その面白さは保証できる。
 何より作者がたぶんに映画化を意識した作品であり、本格的に映画化されたら日本映画には珍しい第一級のエンタテインメント作品になるだろうと思った。

 かつて航空自衛隊のエースパイロットとして将来を嘱望されていたにもかかわらずある事件を契機に自衛隊を辞め、心理臨床士(心理カウンセラー)として〈千里眼〉の異名を持つ高名な脳神経科医師友里院長のもとで働くヒロイン・岬美由紀が日本壊滅を狙う謎のカルト教団と戦うミステリアクションともいうべき破天荒な物語である。
 日本全国で原因不明の爆発炎上事件が相次ぐ中、岬は友里とともに米軍横須賀基地に呼ばれる。爆発炎上事件は基地から何者かによって発射されたミサイルによるもので、今度は総理府に向けてミサイルが発射されようとしているという。
 基地に侵入した男はミサイル発射をセットし、パスワードを変更。このパスワードを解読して発射を阻止することが彼女たちに与えられた命題であった。パスワードの入力は3回まで。3回間違うと否応なくミサイルは発射されてしまうのだ。岬は男との対話、男が自決した後はビデオカメラに収められた男の表情からパスワードの数字をあてはめていく……。心理学とサスペンスを融合した見事な導入部である。
 読み始めたときはかつてエースパイロットで今は心理カウンセラーというヒロインの設定がどうにも嘘くさく感じたものだがクライマックスで得心した。
 カルト教団が仕掛ける罠をことごとく打ち破った岬は敵がさしむけた刺客と素手で戦い、満身創痍で最後の決戦にのぞむ。それが東京湾上空で展開される自衛隊機Fー15同士のドッグファイトだ。教団に奪取され、東京を爆撃せんと離陸したミサイルを塔載したFー15を追い、私服のままFー15に飛び乗るヒロイン。このヒロインの勇姿こそ作者が描きたかったものではないか、と確信したのだ。
 映画化作品ではスリルとサスペンスにあふれる導入部、単身敵に素手で立ち向かうヒロインの小気味良いアクション、そして特にクライマックスのドッグファイトが重要な要素になると思えた。
 小説は大興奮のドッグファイトのあとにエピローグとしてもうひとつのエピソードが描かれているのだが、読了した際、僕の中ではすでに映画のラストシーンが浮かんでいた。
 敵機を撃墜し、基地に帰還したヒロインがヘルメットを片手に颯爽と滑走路を歩く。彼女が髪をかきあげ笑顔をみせたところでストップモーションとなってスタッフ・キャストのロールタイトルが流れる……。
 というようなわけで、まるで自分がプロデューサーになった気分で「千里眼」の映画化に対してあれこれ思いをはせたのである。
 映画化にあたって心配したことは、
 1.アクションができてなおかつ心理カウンセラーの知性を感じさせる女優がいるだろうか?
 2.Fー15機のドッグファイトシーンのリアルな特撮が可能だろうか?
 という2点だった。
 2.に関しては現在のCG技術の発達で何とかなるかもしれない。実際TV番組『ウルトラマンガイア』第6話「あざ笑う目」で演習ではあったけれど、目を瞠るリアルな、興奮度120%の飛行シーンの特撮を見せられたので心配はなかった。
 が、1.に関してはどうにもぴったりな配役が思い浮かばい。アクションのできる女優はいるだろうけど、映画の主役ということを考えると一線で活躍する女優としてのネームバリューが必要で誰でもいいというわけにはいかない。
 やはり映画化はむずかしいかな、と考えていた頃、ヒロインに水野美紀決定というニュースをスポーツ新聞の芸能欄で知った。僕はまったく知らなかったが、水野美紀はかつて倉田プロモーションでアクションを習っていて、一度アクションものに挑戦したかったというのだ。彼女なら心理カウンセラーの役柄も十分こなせるだろう。
 映画には原作者もスタッフとして参画するというし、僕の映画『千里眼』に対する期待が一気に膨らんだ。
 映画化にあたって若干の変更があった。ヒロインは心理学の知識を持つ現役の航空自衛隊パイロットという設定。これは原作のミステリの要素より、ヒロインvsカルト教団の戦いを前面に押し出した結果だろうと喜んだ。へたにミステリ仕立てにするより、最初からヒロインのアクションと活劇で物語を引っ張った方がいい。また現役パイロットにすることで自衛隊組織、男所帯の中で自分の能力を発揮しようとするヒロインの葛藤が描けるというものだ。
 完成した映画の内容を知って愕然となった。一番期待していたドッグファイトが削除されているのだ。作者自身がシナリオに絡んでいて、原作のメインとなるエピソードをカットするなんて信じられない。これではヒロインの設定を変更した意味もなくなってしまうのではないか。
 観る前から先に抱いた期待はしぼんでしまったのだが、もしかしたら原作以上に緊迫したクライマックスが用意されているのかもしれない。そう考え直して映画館に向ったのだが……。
 映画はそれなりに観られる内容ではあるものの、とりあえず話をまとめてみたという印象が強い。 
現役の自衛隊パイロットにしたせっかくのヒロインの設定がほとんど生かされていないのが致命的だ。実際の操縦シーンがなくても、せめてヒロインがパイロットなのだと観客に認識させる小道具、描写は必要ではないか。
 映画を観る限りでは、ヒロインが自衛隊員でありさえすればいいように思える。いや自衛隊員でなくても(原作どおり友里の助手であっても)何ら問題はないのである。
 一ヶ所だけクライマックスへの伏線としてヒロインが自衛隊員である必要があるのだが、そんなもんどうにでもなる気がする。だいたい劇中に張られた伏線がその場で伏線とわかってしまったら何の意味もない。
 ドッグファイトに代って原作以上にスリリングな展開を期待していたクライマックスも冒頭の米軍横須賀基地におけるミサイル発射騒動と同じシチュエーションをもってきたことで、最初のアラが何かと目立って困ってしまう。
 敵はどうやって米軍基地内の、それもミサイル発射装置のあるセキュリティが厳しい部屋へ侵入できたのか? たぶん基地内にも仲間がいて、外部の人間を手引きしたのだろうが、そういった部分がまったく描かれていないから、話にリアリティが感じられない。
 クライマックスでは誤って発射されてしまったミサイルの爆発をどう防ぐか、ヒロインの活躍が描かれる。ミサイルが発射されてもどうにかなるのなら冒頭の騒動はいったいなんだったのか。パスワードを解読して未然に防いだことなんてほとんど意味がないように思えてしまうのだ。
 過激派集団「ミドリの猿」(小説におけるカルト教団)のボスが誰なのかという謎解きも、最初から友里のカウンセリングセンター所員を異様に描いているから容易に特定できてしまう。
 中盤爆破に巻き込まれ死亡したと思われた友里が再登場した時も、かすり傷ひとつ負わずにどうやって現場から逃れられたのか何の説明もない。
 東京湾観音内でヒロインと敵との一騎打ちで、水野美紀が惚れ惚れするようなアクションをみせてくれるが、これだって劇中では突然カンフーものに早変わりした印象になった感じで違和感を覚えてしまう。
 このように登場人物は単にストーリーを展開させるためのコマでしかなく、それもご都合主義で処理してしまうから興奮も感動もよばないのだ。
 何より脚本がまずいというべきだろう(演出的には、構図だとかタッチだとかいくつか見るべきところがあったと思う)。
 当初起用されるはずだった監督が降板したというのも脚本をめぐって原作者と意見の相違があったからに違いない。
 それにしても松岡圭祐はこの脚本で本当に面白い映画ができると思ったのだろうか。
 映画化にあたってはいろいろと方法論があるかと思う。映画『催眠』みたいに原作からキャラクターのみ借りてきて別のストーリーを組み立てるのも一つの方法である。
 水野美紀の体技を生かしたアクションものにするのか、ミステリとして謎の解明を主題にするのか、はたまた特撮を主体にした活劇に徹するのか。切り口を変えることで、いかようにでも映画はできるはずなのに、ストーリーをあくまでも原作どおりに、それも中途半端に進めようとするから無理が生じるのだ。
 原作者が映画に口だしても決していい結果を生まないという好例だった。いかにして映画を面白くするかというより、出版社主導のメディアミックスの方に興味があるようだ。

 誰か水野美紀の魅力を最大限に生かしたアクション映画を企画してください。TVの連続ドラマの準主役をやっている場合じゃないですよ! 志穂美悦子以来久々のアクション女優の逸材じゃないですか!!




 小説を読んで、その映像化を夢想する時、僕には映画作品として考えてしまう癖がある。  
 桐野夏生の「OUT」を読んだのはずいぶん前になるが、読みながらこれは映画になると思った。  
 弁当工場の深夜パートとして働くヒロインが、ひょんなことから死体をバラバラに解体処理するはめになって、成功したことから、とんでもない道へ入り込んでしまう話は映画の題材にぴったりだと思った。  
 フジテレビで飯島直子主演でドラマ化された。ストーリー、設定がTV用に大幅に改変され見るも無残な内容になっていた。2回め以降はチャンネルを合わせることもなかった。  
 同じ時期だったか、ベストセラー「永遠の仔」が日本テレビでドラマ化された。これは映画にするのはむずかしいだろうと思っていたが、連続ドラマになるとは予想もしていなかった。  
 考えてみれば2時間前後で完結してしまう映画より、ワンクール十三回(実際は十一回くらいか)のTVドラマの方が、特に長編の場合など、人間関係や心理の襞を深く濃密に描けるのは確かである。  
 『リング』の成功例もあるが、この何年かの映画化作品を見て、小説のヒット→安易な映画化というのはやめた方がいいと思わずにはいられない。出版社にしてみれば、作品の出来不出来にかかわらず、映画化されることで、本がまた売れるというメリットがあるのだろうが、映画ファン、邦画ファンはたまったもんではない。  
 「OUT」はTVドラマ化されて、もうそれ以上の進展はないと思った。まさか平山秀之監督のメガホンで映画化されるなんて。キャストも発表されて期待はいっそう高まった。原田美枝子、室井滋、西田尚美、倍賞美津子。原作のイメージ云々ではなく、この女優陣ならぜったい映画『OUT』は面白くなる! そんな予感がした。  
 弁当工場の深夜勤務のパートをしている4人の女性たち。他の3人に金を貸す原田美枝子は一戸建ての自宅に住み夫と一人息子がいる。一見幸せそうだが、すっかり夫婦仲が冷え切っていた。夫はリストラされ今は無職。ほとんど無気力状態。部屋に閉じこもる一人息子とも会話がない。未亡人の倍賞美津子は寝たきりとなった義母を一人で面倒みている。二人が住む古い長屋風の一軒家は建て替えのため大家から立ち退きを迫られている。生活に余裕がなく引っ越す金もない。ブランド狂の室井滋はサラ金の借金の返済で四苦八苦。身重の西田尚美は夫の賭博と暴力に手を焼いていた。  
 ある日、西田が夫を発作的に殺してしまった。処置に困った西田は原田に協力を求める。拒否する原田。だが、ちょっと情けをみせて自分の車のトランクに死体を隠したことから、自分で処理せざるをえなくなってしまった。死体をバラバラにして、それをいくつものゴミ袋に入れ、少しずつ生ゴミの日に出してしまおう。そう考えた原田はいやがる倍賞を金でつり、たまたまやってきた室井も誘って計画を実行する。  
 西田の夫が賭博による借金で行方不明になった。本当ならそれで一件落着のはずだったが、捨て場所に困った室井が墓地のゴミ箱に〈生ゴミ〉をいっぺんに捨てたことから、翌日に殺人事件は発覚、事態は意外な方向にころがりはじめる。
 死体の身元がわかり警察が動きだした。夫がバカラに熱中していたことから犯人は賭博場関係者ではないかと執拗な取り調べを開始する。
 自分たちの身は安全だとホッとしたのもつかのま、バラバラ殺人事件と原田たち主婦グループの関係に気づいたサラ金会社の男(香川照之)が接近してくる。何と死体処理のビジネスを持ちかけてきた。そしてもう一人、バラバラ殺人の容疑者として警察に疑われた賭博場の用心棒やくざ(間寛平)も。厳しい取り調べの末解放されたやくざは復讐のため4人を狙う……  
 映画を生かすも殺すも台詞なんだと思い知らされた。『GO』もそうだったが、この『OUT』も会話の面白さが際立っていた。正視に堪えない死体解体作業のシーンなんて笑いの連続だった(全裸で風呂場に横たわる西田の夫を見てつぶやく倍賞美津子の一言に大爆笑!)。省略ギャグも随所にいかされている。事件の発生から何とか死体を処理するまで、笑いに包んで心地よいテンポで進めていく(脚本・鄭嘉信)。  
 4人のリーダー的存在の主婦、原田はその普通っぽい容姿が魅力(黄色いワンピースの水着姿にゾクゾクした)、下ネタ好きな少々疲れ気味の倍賞とのコンビに、金遣いの荒いわがままな室井、亭主に暴力をふるわれ一見悲劇のヒロイン、実は何事も中途半端な怠惰な主婦・西田がからんでくる構図もおもしろい。それぞれのキャラクターが生きている。  
 仰天キャスティングのやくざ役、間寛平のキレ方に思わず目をつぶった。    
 中盤まで原作どおりに進行する映画は、やくざが4人を追いかけるくだりになって独自の展開になる。これが正解だった。
 原作ではやくざと原田の一騎打ちになるのだが、映画はやくざから逃れた原田、室井、西田の逃避行を描く。  
 実をいうと小説を読んだ時、やくざと主婦の一騎打ちになるや、そのスリルに富んだ面白さに夢中でページを繰ったものの、いくらなんでも普通の主婦がやくざ相手に互角に闘えるわけがないじゃないか、とそれまでのリアルな緊迫感が少々揺らぐ思いがしたのだ。
 伏線もさりげなく挿入されている。
 映画は現実的な展開でヒロインの現状からの脱出(OUT)を描いた。閉塞しきった現実をただ惰性で生きているヒロインにロマンスと実現可能な夢を与えて、北へと向かわせる。(惜しむらくはやくざを復讐にかきたたせる警察の取り調べの苛酷さ、執拗さが原作ほど描ききれていなかったことだが、まあいいか。)
 怖がらせ笑わせながら、ラストになるとすがすがしい気持ちになれる。この感覚、どこかで味わったような気がすると思ったら、『顔』のラスト、殺人を犯して指名手配になっているヒロインが警察の追求を逃れて海を泳いで逃げていく爽快感と同じだった。




 もう何年も前から落語ブームが囁かれていた。下地があったところにTVドラマ『タイガー&ドラゴン』で一気に過熱した。「大銀座落語祭」も夏の風物詩になった感がある。ブーム到来、か。
 この勢いに乗じて「ファイティング寿限無」(立川談四楼/ちくま文庫)が映画化されないものか。
 噺家とプロボクサーの二足の草鞋を履いた青年の物語。売名目的で始めたボクシングの才能が開花し、あれよあれよと世界チャンピオンまで駆け上っていく過程はとにかく痛快。ラストの、実際にはありえない決着のつけ方に作者の落語への愛を感じて感激した。アクション(ボクシング)中心の青春小説は絶対映画向きなのだ。
 主人公には岡田准一でどうだ? 『タイガー&ドラゴン』で噺家、映画『フライ、ダディ、フライ』で格闘技に長けた高校生を演じているのだからまさに適役だろう。勝手にキャスティングして一人悦に入っていたら思わぬ伏兵が現れた。
 『しゃべれども しゃべれども』である。主演はTOKIOの国分太一。先を越された。オリジナルかと思ったら原作がある。十年前に「本の雑誌」ベストテンで一位に輝いている。全然知らなかった。あわてて公開前に同名小説(佐藤多佳子/新潮文庫)をあたった。

 主人公の〈俺〉は今昔亭三つ葉という二つ目の噺家。高座以外でも和服を着て江戸情緒にどっぷりつかろうとする平成の〈坊っちゃん〉。短気でせっかちで無鉄砲な青年だ。幼いときに両親を失い、今は茶道教室を開く祖母と二人きりの生活という境遇もどこか本家に通じるところがある。
 このところスランプのようで、師匠にはいつも小言をくらっている。現代に生きた古典落語、師匠のセコなコピーではない自分の落語を求めてあれこれ悩んでいるところに、ひょんなことから自宅で落語教室を開くハメになる。
 生徒は4人。吃音に悩む従弟の良。失恋して笑顔を忘れた勝気な女性の十河。大阪弁がいじめの対象にされている小学生の村林。マイクを前にするとまともにしゃべれず、解説の仕事を干され気味の元プロ野球選手、湯河原。4人にきちんと「まんじゅうこわい」をしゃべらせることが三つ葉の役目だ。が、これがうまくいかない。
 とにかく4人の仲が悪い。ちっともまとまらない。やる気があるのかないのか。そんな生徒と三つ葉のやりとり、会話の面白さに何度も大笑いしながら、やがてタイトル「しゃべれども しゃべれども」の本当の意味がわかってくる。
 落語教室をとおして4人は何を得るのか? 教えることで逆に三つ葉は何を学ぶのか?
 熱狂的な阪神ファンでこまっしゃくれた村林と、生徒の中で一番孤立している湯河原の関係が愉快だ。本質をついた小学生の指摘に分別のあるいい大人が本気で怒りまくるのだから。
 この経緯があるからこそ、いじめっ子のボスに野球対決で挑む運動音痴の村林の心意気を知り、湯河原がバッティングコーチを買って出るくだりに胸が熱くなる。
 最終決着をつけるべく開催された「まんじゅうこわい」発表会。決して予定調和でない展開に涙が滲み、爽快感が全身を駆け抜ける。それは肝心要の三つ葉と十河の和解にも言えることだ。こちらは十分予想できたけれど。
 先生も生徒も皆不器用だけどまっすぐな心根が気持ちいい。
 四季のうつろいがさりげなく描写されていて心がなごむ。桃、ほおずき、金木犀、沈丁花。色や匂いが感じられた。

 映画が公開されるとすぐに足を運んだ。監督は平山秀幸。前作『レディー・ジョーカー』は残念な結果になってしまったが、桐野夏生のベストセラーを映画化した『OUT』は快作だった。原作を尊重しながら、映画オリジナルの展開(脚本・鄭義信)にしたところが功を奏した。素材がまったく違う今回はどうだろうか?
 映画は登場人物の簡略とストーリーの短縮が施されている(脚本・奥寺佐渡子)。
 まず従弟の良がカットされた。落語教室の提案者であり、生徒たちの潤滑油的存在にもなる役どころなのだが、吃音が差別につながるという配慮だろうか? 三つ葉役の国分太一をより引き立たせる意味合いもあるのかもしれない。なにしろ良はしゃべらなければ女性にモテモテのイケメンなのだから。
 三つ葉が失恋する女性も、踊りの師匠の娘から、村林(森永祐希)の叔母(占部房子)に変更されている。祖母(八千草薫)の茶道教室の生徒で、三つ葉とは以前からの知り合い。この叔母がクラスに馴染めるよう甥っ子に落語を教えて欲しいと三つ葉に落語教室を提案する役を請け負うことになる。
 ストーリーが簡潔になった分、展開が強引になったきらいはある。
 湯河原(松重豊)の落語教室への参加に少々無理がないか。
 失恋のため、三つ葉が傷んだ弁当を無理やり食べて腹をこわすのもあまりにもとってつけたようなエピソードだ。相手がいくら料理下手といっても、人に食べてもらうのに食材の賞味期限に神経を注がないわけがない。
 ラストも唐突すぎる。いつも反発していた三つ葉と十河(香里奈)が実は互いを意識していたとわかる一瞬。小説ではこれからの恋愛を暗示させ物語を締めくくってくれるのに、いきなり三つ葉のプロポーズになってしまうのだ。「(家には)ばばあがいるぞ」をそこで使うか。隅田川を走っていく水上バスといったシチュエーションにゆずの主題歌がはまっていたのに……。
 と、まあ、ドラマ的には及第点といったところなのだが、エッセンスはそのままだし、何よりラストで爽やかな気持ちになれるのだから映画化としては上出来である。
 しかし、この映画で特筆すべきなのは、落語という日本の伝統芸が映像できちんと表現されたことだと思う。役者がプロの噺家を演じ、風情を醸し出すだけでなく、実際に落語を披露する。その落語がホンモノに見えたこと、なおかつその話芸に魅了させられたこと。どんなに言葉を紡いでも芸そのものを小説で見せることはできない。映画はその芸を、芸の質を段階的に描いて観客を納得させる。
 三つ葉の師匠である小三文の十八番「火焔太鼓」を伊東四朗がごく自然に演じてみせる。原作では「茶の湯」なのだが、誰にでもわかるようにポピュラーなネタにしたのだろう。その「火焔太鼓」を一門会で三つ葉が初披露し、スランプを抜け出す一瞬を体現する。これは技ありの演技、演出だった。それまでの不甲斐ない高座ぶりとの対比が鮮やかだ。映画化の意味はここではないか。
 もうひとつ、村林の「まんじゅうこわい」も実際に笑えるところに瞠目した。いじめっ子のボスが笑いだすのが実感できるのだから。 
 予感はあった。冒頭の、カルチャーセンターの「話し方教室」特別講師として講義するため外出する師匠に病気でダウンした前座に代わって三つ葉がお供するシーン。「どこに行くんです?」の質問に「カルチャ」と暢気に答えるそのアクセントがたまらない。おまけに下町風情の、昔ながらの佇まいをバックに初夏の日差しを浴びながら和服姿で並ぶ二人を正面から捉えたショット。
実になんとも粋ではないか!




 すいません、後で感想を追記するつもりでUPした各項、なかなか書けません。帰宅すると何もしたくなくなってしまうんです。
 というわけで……。

 原作に対してまったく別のアプローチで映像化しながら、ラストの味わいは原作同様というのは三池監督「愛と誠」にも言えますね。「愛と誠」もミュージカル仕立てでした。なぜ今「愛と誠」なのかと疑問を感じ劇場に足を運ばなかったことを大いに後悔しています。

          * * *

 『下妻物語』で中年男にティーンエイジの心を蘇らせてくれた中島哲也監督。次作が『嫌われ松子の一生』だと知ったのはいつのことか。主演が中谷美紀。もうそれだけで観る価値あり、と判断して、原作「嫌われ松子の一生」(山田宗樹/幻冬舎)の存在、内容なんてまったく眼中になかった。
 劇場で予告編が流れるようになり、目にするのは前作同様の人工加工バリバリのカラフルハイテンション映像。しかも今度はミュージカル仕立てだ。この時点でもどんなストーリーなのか、まったくわからない。女性の転落人生を描くとはいっても、少しばかり毛色の変わったコメディの一種との認識だった。原作自体がそういうものだと。タイトルからして人を食っているではないか。
 映画を観る前に本が手に入った。読み出して驚いた。何とシリアスな展開。悲劇なのだ。

 物語は東京・北千住のアパートで中年女性の他殺死体が発見されたことを伝える01年7月のベタ記事で始まる。共同生活のルールを一切無視、部屋はゴミだらけ、突然ひとりごとを叫んだりする、ちょっと危ないデブ女の名は川尻松子。享年五十三。住人から〈嫌われ松子〉と呼ばれていた由。
 こうして時代が遡り、本人を語り部にした波乱万丈な半生が綴られていく。
 前途有望な中学教師として、社会人の一員となった彼女がなぜ突然故郷(福岡・大野島)から失踪したのか。どんな経緯で風俗嬢に転身したのか。ヒモを殺した背景に何があったのか。服役後、美容師として再出発したのにもかかわらず、また躓いた、覚醒剤に手をだした原因とは。晩年の自堕落な生活、精神障害……。
 悲惨な転落人生を描きながら、団塊世代の一女性の愛と性、夢と希望、その葛藤と挫折を浮き彫りにする。
 小説「嫌われ松子の一生」が斬新なのは、本人の語りと並行して、もう一つ別の視点で松子の人生を振り返る点にある。松子の甥・笙の眼である。
 父親の依頼で、それまで存在すら知らされていなかった伯母の部屋の整理をすることになった大学生の笙。最初は恋人に促されて嫌々ながら、やがて自らの意志で伯母の知人、関係者を訪ね歩き、才能はあるのに男を見る目がなく、一途になって愛情を注ぐも結局裏切られる、愚かで不器用な女性の悲惨な人生に共鳴することで光を当てていく役割を担う。
 笙と松子の語りが交互に並び、主観と客観、アップがあるかと思えばロング、といったように、互いに関連しあう構成が見事だ。
 松子の、最後に信じた男に捨てられた後の、何の希望も持てず、無為に年末年始を過ごすくだりが胸を刺した。心理描写はまったくなく、松子の行動の一つひとつを淡々と記すだけ。TA音の連打が孤独感を引き立たせる。
 ラストになって松子の死の真相が明かされる。堕ちるところまで堕ちた松子が昔の友人の誘いで、どうにか生きる希望を見出したとたんの、ほとんど理不尽としかいいようのない死。
 松子が息絶えるくだりで涙がにじんだ。不幸を嘆いてのことではない。父への愛、若くてして逝った妹への贖罪、さまざまな思いが胸を突き刺すからである。続く笙の語りによるエピローグでは、ある種清々しい気持ちになれる。明日への希望、その小さな輝きを見出せた。

 小説を映画化する場合、先に小説を読んでいると、活字のイメージに囚われてしまって、映画を楽しめないことが多い。巷では評価が高いのに実際に接すると〈まあ悪くはない〉程度なのだ。映像にする必要性、映像化ゆえの独創性が感じられない。
 要は原作に対するアプローチの仕方が問題なのである。
 『下妻物語』は原作と映画が実に幸せな関係にあったが、『嫌われ松子の一生』はどうだろうか? 先に原作を読んだことで少々不安を抱いての鑑賞だった。
 まったくの杞憂だった。 
 自身で脚本も書く中島監督は原作の持つテーマ、核となる部分をうまくすくいあげ、独自に映像化できる稀有な才能の持ち主だったのだ。二作続けば確信できる。今回も原作へのアプローチの巧さを見せつけてくれた。
 悲劇を喜劇と捉え、ミュージカル仕立てにしながら、原作のエッセンスはそのまま。全然ずれていない。ストーリーをなぞっただけのダイジェストにも、登場人物を借りただけの独りよがりの映画にもなっていない。ラスト、胸にこみ上げてくる感情はまさに小説の読了時と同じものなのである。
 映画化にあたってのオリジナルアイディアが功を奏している。
 まず、笙(瑛太)をミュージシャンになる夢に破れ怠惰な毎日を送るフリーターに設定したこと。
 冒頭で何度も繰り返される2時間ドラマのクライマックスシーン。映画内ドラマのヒロイン(片平なぎさ!)が犯人にむかって吐く台詞「あなたの人生、このままでいいの?」がそのまま笙の現状に対する鬱屈、焦燥に火をつける。
 2時間ドラマのカリカチュアで笑わせながら、しっかりとテーマを打ち出す作劇。『下妻物語』同様つかみの巧さに舌を巻く。
 あるいは病弱な妹(市川実日子)ばかりに父親(柄本明)の愛情が注がれていると嫉妬した松子が自分への注意を惹きたくて、幼少時に発案した変な顔。いつも仏頂面の父親を笑わせようと考えだしたこの変な顔が成人してからも要所々で飛び出してきて、意味を持たせる。
 キャスティングも光る。
 出番は少ないが柄本明の父親が秀逸。奔放な生き方をする姉に反発する弟(笙の父親)役の香川照之も印象的だ。郷里を捨てた松子が最初に愛しとことん尽くす作家志望の男に宮藤官九郎。その悲哀に満ちた表情にしびれた。
 ガレッジセールのゴリ、カンニング竹山、劇団ひとり。旬の若手芸人たちを起用した意表つく配役。特にゴリの、原作のキャラクターを大幅に改変、デフォルメした役がぴたりはまった。
 ストーリーはほぼ原作どおり。長編小説をそのまま2時間弱にまとめるなんて本来ならできないはずだが、ここでミュージカルシーンが二重の意味で効いてくる。
 原作の重要なエピソード、松子が風俗嬢として持ち前のセンスと頑張りで店のナンバーワンに登りつめ、やがて時代の流れ、世代交代で去ってゆくまで。ヒモを殺して刑務所に服役、過酷な毎日の中で一発奮起して美容師の資格を取得するまで。
 映画はその過程をオリジナルナンバーに乗せて、華麗にテンポ良く、一気に見せる。時間の短縮はもちろん、実際のドラマだったら観ていて辛くなる内容が思わず身体を動かしてしまう爽快感あふれるシーンに様変りしてしまうのだ。この発想のユニークさ!
 松子の人生の再現は、晩年熱狂的なファンになった光GENJIの某メンバーに送った膨大な長さのファンレターが根拠になっている。自分の半生を詳細に綴ったもので、このエピソードに思わず膝を打った。原作の半分を占める松子の語りには何のエクスキューズもなかったのだから。原作に対する些細な不満をも解消してしまう。
 映画化にあたって、中島監督は原作者の絶大な信頼を得ているに違いない。これまた確信できた。




 H・G・ウェルズの『宇宙戦争』といったらSF小説の古典として、誰でもタイトルくらいは知っているだろう。
 ただし、どんな内容なのかと問われたら返答に窮するかもしれない。地球外知的生命体の地球侵略を描いた元祖的存在。火星人が地球を侵略してきて最後に撃退される話。まあそれくらいの認識だと思う。僕自身がそうだった。
 スピルバーグ監督がトム・クルーズと再び組んで『宇宙戦争』を映画化する。そんなニュースを耳にして、何を今さらという気がした。たぶん必要なのは『宇宙戦争』のタイトルと〈原作 H・G・ウェルズ〉のクレジットだけ。一九九〇年の『宇宙戦争』とでもいうべき『インデペンデンス・デイ』で大ヒットを飛ばしたエメリッヒ監督の『GODZILLA』と同じ方法論。
 しかしそれはある意味原作を冒涜していることになるのではないか。なぜ最初からオリジナルで勝負しないんだ! アメリカ映画の企画の貧困を嘆きながらハタと気づいた。実際のところ『宇宙戦争』とはどんな物語なのだろうか?
 というわけで公開前に原作(斉藤伯好・訳/ハヤカワ文庫)をあたってみた。
 イメージしていたものとずいぶん違った。火星人と人類の戦争を真正面から描いていないのだ。
 主人公はロンドン近郊の町に住む知識人。小説はこの男の手記という形で、火星人の地球侵略の発端から未遂に終わるまでを綴っていく。男はその渦中に巻き込まれた一市民、一目撃者の立場でしかない。火星人による無差別殺戮(巨大戦闘マシンから発射される高熱ビームは人間を一瞬のうちに焼き殺す)の模様、軍隊の反撃にびくともしない圧倒的強さ、にもかかわらずひょんなところから敗退してしまうまでの描写は、男の逃避行中における目撃や伝聞、あるいはそれに基づく推察なのである。 
 あくまでも男の目をとおして語られた物語ということなのだが、作者はそれだけでは侵略の全体像(街の破壊活動)が万全ではないと考えたのか、男の弟の体験談も火星人撤退後に聞いた話として、挿入する。
 悪夢のような出来事の後に書かれた手記であること、つまり最初から男が助かることがわかっているので、その分サスペンスの要素は弱く、全体を通して緊迫感が今ひとつ足りない。
 活劇の興奮は英国軍が誇る攻撃艦が巨大戦闘マシンに反撃するくだり以外ほとんどなかった。ラストもあまりにもあっけない。
 これは、十九世紀の小説だからというわけではなく、作者の狙いが、人類vs火星人の戦いそのものよりも、緊急時における人間性の変化こそにあったからではないかと思えてならない。
 逃避行中に出会う兵士や牧師補、特にある家の地下に閉じ込められてから繰り広げられる牧師補と男の丁々発止のくだりが実はこの小説の芯だったのではないかと。

 『宇宙戦争』は小説よりSF映画の傑作として人々の記憶に残っているかもしれない。一九五三年に公開されたジョージ・パルの作品として有名な映画である(監督バイロン・ハスキン)。
 映画は舞台をアメリカ西海岸、巨大戦闘マシンを空飛ぶ円盤状のフォルムに変更したほかは、前半ほぼ原作に沿った展開だ。3本足で闊歩する巨大戦闘マシンを円盤にしたのは当時の特撮技術を考えれば当然の処置だろう。
プロデューサーのジョージ・パルやハスキン監督が非凡なのは、原作のプロットを活かしながら、スリルとサスペンスに富んだスペクタクル映画に仕立てたことだ。
 主人公を科学者に設定することで、米軍の対火星人攻撃に関与させる。これで後半は米軍とマシンの迫力ある戦いが描けるわけだ。ヒロインとのラブロマンスもあり、原作にある愛妻との再会シーンを、もっと劇的な構成で観客の高揚感を煽る。だからこそ、あっけない火星人の敗退もカタルシスになりえるのだ。
 公開時は原作以上の面白さを持つ映画化作品として喧伝されたのではないだろうか。
 ただし今の目からすると、オーソドックスなSF映画という印象が強い。かつて一世を風靡した(東宝の)SF特撮、怪獣映画はみなこのパターンだった。主人公は必ず科学者とかジャーナリストといった類の職業で、事件に巻き込まれた彼(および仲間たち)はやがて自衛隊の対敵作戦の中心的人物として最後まで戦いを見守るというような。
 浴びるようにその手の映画を観て育ち、いい大人になった今でも現実世界のいたる場所でふと怪獣が出現する姿を追い求めてしまう僕にとって、スピルバーグ版『宇宙戦争』は画期的な作品だった。
 トム・クルーズ扮する離婚歴のあるごく普通の男・レイが、最初の巨大戦闘マシン出現に遭遇し、辛くも難を逃れるシークエンスに目を瞠った。
 異星人の設定やマシンの出現の仕方に二十一世紀の現代らしい意匠をこらしてはいるが、ストーリーは旧作以上に原作に忠実である。なにしろレイは天文学・生物学の権威でもなければ、TVリポーターでもない。政府に異星人の生態分析を依頼されることも、取材の過程で敵の弱点を知り、軍に協力することもない。彼にできるのは〈今そこにある危機〉から脱出すること、別れた妻から預かった息子(ジャスティン・チャットウィン)と娘(ダコタ・ファニング)を戦闘マシンの襲撃から守り抜くこと――カメラはこの親子の逃避行を追うだけなのだ。
 なるほど! 今この時代に『宇宙戦争』が再映画化された意図を理解した僕は歓喜し、興奮した。
 これはスピルバーグ監督による怪獣映画なのである。それも、かつてゴジラやガイラに襲われる悪夢に何度もうなされた経験のある少年が大人になってから夢想した究極の怪獣映画。巨大生物の襲撃に巻き込まれた一市民がただ逃げ惑うだけのスリルとサスペンス。その恐怖を最新のCG技術を駆使したリアル映像で観客に同時体験させるパニック(サバイバル)スリラーといえばわかりやすいか。
 巨大物体の撮影に関して、アメリカ映画は人間の視点を基調にしたリアルなタッチが多いのだが、この映画はそれを一歩進めて、最初から最後まで主人公レイの視点でしか描かない。徹底して原作の一人称描写を遵守し、そこが斬新なのである。
 その結果、全編にわたって繰り広げられるのは主人公たちの逃亡劇のみ。侵略の全貌が見えてこない。情報網も遮断されているから、異星人の正体や目的、全世界の様子なんて、伝聞と憶測の域を出ない。さらに、通常ならこの手の映画のクライマックスになるであろう米軍と異星人の総力戦もその一部を目撃させるだけ。だが、それこそ本当のパニック模様ではないか。原点『激突』への回帰という意味もあるかもしれない。
 スピルバーグが『GODZILLA』を撮っていたらどんな映画になったのだろうか? 『ロストワールド ジュラシック・パーク』のクライマックスはスピルバーグなりのゴジラだとは思っているが、もう一度本格的に取組んでもらえないものか。一つ案がある。『原始怪獣現わる』のリメイク。ブラッドベリの「霧笛」を換骨奪胎した映画化に挑戦してほしいのだ。




 世の中はGWに突入したが、僕自身にはまるでその意識がない。昨年までは毎年長期休暇を謳歌していたというのに。
 いや、GW=休み、ではなく、GW=稼ぎ時という意識の変換があったということだ。通常なら日曜、祝日は18時で閉店になるのだが、GWは最終日以外平日同様19時まで営業を続けることになって喜んでいる。時給月給のアルバイトには勤務時間の延長はありがたい。
 二十数年、GW、夏季休暇、年末年始とそれなりの休暇を取得していたわけだが、今年からは年末年始以外、休みがない。まあ、事前に申請すればそれなりの連休を取得することはできるが、そうなると収入がダウンしてしまうのだからおいそれと申請できない。のんびり温泉につかって、なんてことを考えるが当分は無理か。
 北海道に行ってみたいのだが……

 休みはなくなったが、その代わり、毎日の充実感は会社勤め時代に比べてはかりしれない。これは大きい。

     * * *

 二〇〇四年の日本映画ベストワン。そう信じて疑わないのが中島哲也監督の『下妻物語』である。
 実をいうとこの映画、当初はまったく注目なんてしてなかった。青春映画には人一倍敏感だとはいえ、こちらは四十半ばの中年男だ。ロリータファッションに身を包んだ女子高生(深田恭子)とヤンキー娘(土屋アンナ)のポップでお洒落なハイテンションカラフルムービーに気が引けたのである。
 そもそもあのフリル全開ヒラヒラ服に虫唾が走る。街で見かけるロリータ娘には後ろからケリをいれたくなるくらいだ。演じる深キョンにそれほど興味がなかったということもある。
 にもかかわらず劇場に足を運んだのは、友人に背中を押されたことが大きい。まあ笑えればいいかくらいの認識だった。それが、クライマックスで目頭が熱くなり、エンディングロールに流れる「タイムマシンにお願い」のビートに酔いしれながら、心地良い気分に浸っている自分がいた。
 何が四十男の心を捉えたのか。
 登場人物の強烈なキャラクターと抱腹絶倒なストーリーをまず挙げたい。
 茨城は下妻というあまり聞き慣れない田舎町。見渡す限り田んぼばかりのロケーションにロリータ服といったら、まるで丹下健三の建築物みたいなものか。赤坂のプリンスホテル新館、新宿都庁、まわりの風景を無視して自己主張するだけの存在なのだ。
 当然ヒロインの桃子は学校でも街中でも浮きまくっている。友だちもいなかった。ところが本人はおかまいなし。全然気にしていない。十八世紀フランスを支配したロココ文化に心酔する桃子にとって、あくまでも自分が信じるものがすべて。他人の目を気にしたり意見を聞いたり――なんて姿勢は一切ない。唯我独尊のジコチュー女。
 強固な個人主義者である桃子のキャラクターが清々しい。何かと仲間と群れたがる現代の若者に対するアンチテーゼか。
 意表をつくオープニングの後、映画はロリータファッション発祥のもとになるロココ文化とは何ぞやという非常にアカデミックな薀蓄話で始まる。時代を十八世紀に逆行させ懇切丁寧に解説してくれるのである。
 これでフリルヒラヒラに対する偏見が解消されるとともに、極度に加工された映像と桃子の語りによって進行していく映画独特のリズムに馴染ませるという寸法。
 大胆かつ奇天烈なつかみで映画世界に引きずり込まれたと思ったら、下妻=ジャスコ万能論、尼崎=ヤンキーの町・ジャージ天国論を展開、爆笑を誘いながら桃子の生い立ちを説明してしまう。ヤンキー娘イチゴとの出会いの伏線にもなっている。構成と語りが巧みなことにも瞠目した。
 何より愛車の50CCバイクで下妻を爆走するアナクロの極致みたいなイチゴが出色。メイク、振る舞い、台詞廻し、桃子との掛け合いがたまらない。
 演技はズブの素人のはずの土屋アンナの上手さにも舌を巻いた。かわいいんだ、これが。
「人を見た目で判断するのはよくないよな」と桃子に歩み寄ろうとするイチゴに対して「人は見かけだもの」と拒絶する桃子。
「借りたものは返すのが筋」と仁義を通すイチゴに「自分の一番大事なモノは絶対貸しちゃいけないの。貸していいのはどうでもいいものだけ」と即座に否定、「だから私、借りたものは返さない主義。貸す時は戻ってこなくていいと思うことにしてるの」とあくまでも自分の流儀を曲げない桃子。
 浪花節的ウェットvsシニカルな観察眼、激烈単細胞vs沈着冷静、尾崎豊vsヨハン・シュトラウス、ミーハーでパープリンvs高い偏差値……etc。外見はもちろん内面にいたるまで、まるで水と油のような二人がヴェルサーチのバッタもんが縁で知り合って巻き起こすなんやかんやの大騒動。
 現役の人気CFディレクターである中島監督らしく、特撮やアニメを取り入れて、パロディ、デフォルメ、もうなんでもありのタッチで縦横無尽に描くエピソードの数々に腹を抱えた。脇を固める達者な俳優陣(樹木希林、本田博太郎、生瀬勝久等々)の怪演もあって、まさに笑いの絨毯爆撃だ。
 涙よりも笑いを高く評価する僕にとって、もうそれだけでも大満足なのに、クライマックスでは久しく忘れていた感情を蘇らせてくれた。
 得意の刺繍を通じて徐々にイチゴとの仲を深めていく最中、自分のせいでイチゴがレディース仲間からケジメをつけられることを知ると、もういてもたってもいられず、運転できない原付バイクを駆る桃子。
 助太刀に現れた桃子のヒラヒラ服が仲間に嘲笑されるや、その孤高の気高さ、美しさ、素晴らしさを絶叫しながら説くイチゴ。
 高揚感と爽快感の中、二人の心根がビシバシと響いてきて、気分は一気にティーンエイジャー。胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。

 原作は嶽本野ばらの同名小説(小学館刊)。〈ヤンキーちゃんとロリータちゃん〉の副題が付く。作家も小説もまったくの守備範囲外。乙女のカリスマ的存在というのだから映画を観なければ本を手に取ることもなかったに違いない。
 冒頭のロココ話からクライマックスの牛久大仏をバックに繰り広げられる大乱闘まで、桃子の一人称による語りの面白さで一気に読ませる。
 ジャスコ、貴族の森、BABY,THE STARS SHINE BRIGHT、VERSACEなど固有名詞をふんだんにちりばめているのは予想したとおりだが、VERSACEを父親やイチゴの台詞ではベルサーチと表記するところなど細やかな配慮も垣間見られる。
 映画でも踏襲された桃子の語りが秀逸で、特に相手が発する言葉に対する桃子の受け答え、地の文が楽しい。声だして笑える。
 たとえば、イチゴの敬語の使い方や思考法、行動論理など、その都度驚き呆れ、茶々入れて、訂正して、揶揄しながら切り捨てる。その間、ボケとツッコミ。たまに挿入される旧かなづかいによるクスグリ。笑いのセンスはなかなかのものだ。会話のおかしさではなく、反応があくまでも桃子の心の声というのがポイントだろう。
 ラスト、桃子がイチゴをサイコーのダチだと認めるくだりがいい。最後の一行では涙がひとすじ流れた。
 読了してわかったのは、映画との違和感がほとんどないことだった。これには驚いた。
 つまり映画『下妻物語』は原作ファンを裏切らない作品になっているのである。映画化されると、原作の単なるダイジェストになって意味がよくわからなかったり、独自の展開で原作のテーマを逸脱してしまったりと、小説とその映画化作品は別物だと割り切らなければ楽しめない最近の日本映画にあって(それでも楽しめれば御の字か)、これは奇跡に近い。
 構成や展開が原作どおりということもあるかもしれないが、独自のアプローチ(前述した何でもありのタッチ)が逆に小説世界の雰囲気を醸し出す結果となった。
 映画も小説もともに愛しい。両ファンにとって実に幸せな作品になったと、これまた信じて疑わないのである。




 熊本地震で被災にあわれた方々たちへ、遅ればせながらお見舞い申し上げます。
 元パートナーの実家が大分ということもあって、ニュースを見るたびに心が痛みます。特に東海大学の寮が押しつぶされて、2名の学生が亡くなったことに言葉を失いました。あんな風光明媚なところで、まさか地震で命を落とすなんてこと考えもしなかっただろうに、と。
 湯布院(由布院)に憧れていて、結婚して二度ほど遊びに行きました。住んでもいいなあと思ったこともありました。
 震度6の揺れなんて、一度体験しただけでも恐怖なのに、それが何度も続くなんて。
 自分に何ができるのか?
 とりあえず、募金しました。大した額ではありませんが。給料が入ったらまたします。

     * * *

 大ヒット作『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』でオマージュが捧げられていたこともあり、今回は野村芳太郎監督の名作中の名作『砂の器』を取りあげる。

 映画『砂の器』を初めて観たのが今から二十八年前、高校1年の秋だった。とにかく泣けた。その後も映画館、TV放映、ビデオと機会あるごとに観ているが、必ず同じシーンで涙があふれてくる。
 あざとい展開で観客に涙を強要するのは好みではないが、この映画に限っては泣くことに恭順な自分がいる。
 何度も観ているからだろうか、今ではテーマ音楽の「宿命」(音楽監督・芥川也寸志/作曲・菅野光亮)が流れてくるだけで目頭が熱くなってしまうほどだ。
 映画『砂の器』は、数多く映像化された松本清張のミステリの中でも原作をはるかに凌駕している点で語り継がれるに違いない。松本清張自身「原作を超えた」と語っていた由。長編小説の映画化で原作の持ち味をそこなわず成功した稀有な例といえるだろう。
 
 東京蒲田の操車場で発見された身元不明の惨殺死体。被害者である初老の男は、直前に犯人らしき若い男と近くのバーを訪れていた。手がかりは被害者が口にした東北弁の〈カメダ〉という言葉。
 警視庁捜査一課の今西(丹波哲郎)は〈カメダ〉が地名ではないかと推理し、所轄署の吉村(森田健作)とともに秋田の羽後亀田に向う。が、進展はなかった。
 二ヶ月後、被害者の身元が判明した。気ままな一人旅にでかけたまま行方不明になっていた三木という雑貨商を営む男(緒形拳)。三木は出雲地方で長年にわたり巡査として勤務していた。真面目で人情味に厚く、他人に恨みを買われる性格ではない。東北ともまったく縁がなく、「カメダ」姓の知り合いもいない。
 今西は、巡査時代に三木が行き倒れの遍路乞食の父子を保護したことを知る。ハンセン氏病を患い故郷を追われた本浦千代吉(加藤嘉)と一人息子の秀夫(春田和秀)の二人だ。三木は千代吉を施設に収容し、残された秀夫を引き取る決心をするが、ある日秀夫は失踪。以来行方が知れなかった。
 一方吉村は犯人が着ていた返り血のついたシャツを処分した女(島田陽子)の行方を追っていた。女が急死したことにより、ある男との接点が明るみになる。女は新進気鋭の音楽家・和賀英良(加藤剛の情婦だった――。
 なぜ三木は和賀に殺されなければならなかったのか? 善良な元警察官と将来を嘱望されている音楽家を結ぶものは何か?
 今西の執念の捜査によって和賀の哀しい過去が浮かび上がる……。

 原作は昭和三十五年に発表された長編の社会派ミステリ。翌年光文社から上梓された(現在新潮文庫)。
 ストーリーは複雑だ。和賀が所属している若手芸術家集団〈ヌーボーグループ〉の複雑に絡み合った人間模様や三木殺しに始まる連続殺人事件が描かれる。
 連続殺人の容疑者として今西にマークされる関川という評論家の存在が大きい。天才音楽家に嫉妬する神経質で上昇志向の強い男。前衛劇役者の突然死やホステスの流産死に関与しているのではと疑われる。実際原作では最後までこの男が犯人ではないかと思わせる展開になっている。

 構想十四年の末に実現した映画化に際して、脚本の橋本忍と山田洋次は、原作のプロットとトリックを生かしながら登場人物を大幅に整理してストーリーの簡略化をはかった。
 殺人事件は最初の三木殺しだけ。あくまでも和賀の単独犯とした。前衛音楽(ミュージック・コンクレート)の旗手という設定もオーソドックスな音楽家に変更された。
 原作の骨格をなす〈犯人は誰か〉という謎解きをやめ、なぜ新進音楽家が善良な罪のない三木を殺すに至ったのか、その解明がクライマックスに用意される。

 映画は、二人の刑事の羽後亀田における聞き込み捜査から始まる。
 いったい何の事件なのか、誰を追っているのか、こちらの疑問を待ちかまえているように、時制が遡り、殺人事件の発生から目撃者への事情聴取、そこで聞き出した東北弁の〈カメダ〉を追って秋田へ……というスリリングな展開。語りにスーパーインポーズを使用していることも効果的で、その後の捜査の行方、犯人特定までの経過をテンポよく見せていく。
 クライマックスは事件にかかわった捜査員が再結集され、今西を語り部に事件の全貌が明らかになる捜査会議。この後半の構成が斬新で『砂の器』が語られる際必ず話題になる。
 和賀が全身全霊を込めて取り組んだ交響曲「宿命」の発表コンサート、その音楽に乗せて同時間軸で進められる捜査会議の模様と和賀の子ども時代(秀夫)の回想シーンが交錯し、シンクロしていく。 
 映画だからこそ可能な方法だ。
 映画独自のテーマを打ち出した点でも大きな意味を持つ。台詞のない、まるで映像詩のような回想シーンで千代吉と秀夫の〈父子の絆〉をクローズアップさせたのだ。
 丹念に日本の四季を追った映像(撮影・川又昂)、加藤嘉の演技と子役の表情、そこに「宿命」の音楽が重なって、涙なくしては観られないいくつもの名シーンを生みだした。差別と偏見の中で育まれる父子の情愛に胸を打たれる。
 もう一つ映画には大きな変更が施された。原作ではすでに死亡している千代吉をまだ施設で生きている設定にしたのだ。生存を告げる今西の言葉は原作を読んだ人にも衝撃を与えたに違いない。
 実をいうと原作の和賀は冷徹な殺人者でしかなかった。三木を殺す理由があまりに独善的すぎて同情の余地がない。三木はあくまでも懐かしくて和賀に会いにきたのだ。その善良な性格からすれば、成功した和賀を祝福はしても過去や経歴詐称を暴露するはずがない(劇中今西自身も指摘している)。
 映画の犯行動機は納得できた。――施設に収容された後も千代吉と三木の交流は続いた。何十通にもおよぶ手紙のやりとり。別れた息子にひと目会いたい、ただそれだけが切々と綴られている文面。しかも千代吉は余命いくばくもない状態だ。三木にはすぐにでも秀夫(和賀)を父親と対面させなければならない役目があった。その切羽つまった末の行動が新曲準備に忙しい和賀には悪意そのものでしかなく、突発的な殺人を誘発する結果を招いたのだ。
 そこには己れの出世だけを考える冷徹な殺人者の姿はなかった。
 妊娠した情婦に対して、その出産を頑なに拒んだのも、わが子への業病の血の遺伝を怖れてのことだったとわかってくる。
 愛するものの存在が逆に自分の身をおびやかすという皮肉――。和賀に感情移入する瞬間だ。
「和賀は父親に会いたかったのでしょうね?」
「そんなことは決まっとる! 今、彼は父親に会っている。彼にはもう音楽……音楽の中でしか父親に会えないんだ」
 ラストの吉村と今西の会話がすべてを語っている。
 原作を超えたと言わしめた所以はここにある。




 同世代の作家で一番注目しているのが貴志祐介だ。
 リアルな状況設定と幅広い知識、緻密な取材を駆使した抜群のストーリーテラーぶりに脱帽した。
 角川ホラー大賞を受賞した『黒い家』、処女作にあたる『十三番目の人格』、個人的に一番衝撃を受けた『天使の囀り』。心理学を応用したホラーを得意として、作品ごとに傾向を変えているところに作者の力量を感じる。(ほかに文庫書き下ろしのサバイバルもの『クリムゾンの迷宮』がある。)
 貴志ワールドにすっかり魅了された僕は一九九九年に『青の炎』(角川書店、後に文庫化)が上梓されるやすぐに飛びついた。驚いた。『天使の囀り』でミステリ要素を取り入れあざやかなテクニックを見せた作者が何とそのものずばりの倒叙ミステリに挑戦しているのだ。
 義父殺しの完全犯罪に挑戦する主人公が十七歳の高校生というところが斬新だった。

 母と妹3人で平穏に暮らす家庭に突然闖入してきた男。弁護士を介してやっと別れることができた、母親のかつての再婚相手だ。酒浸りの毎日、すぐに暴力を振るう。もう二度と顔も見たくないと思っていた男がなぜか家に居ついてしまった。働く気配はない。元妻に小遣いをせびってはギャンブルに狂い、帰宅してからは部屋で酒盛りの日々。
 このままでは家庭が崩壊してしまう。愛する家族を守るにはこの世から抹殺する以外方法がない。そう悟った高校生の秀一は男を殺す完全犯罪を考える。
 なぜ義父を殺さなければならないのか、主人公に感情移入しやすい状況を作り、前半は犯行の計画と実行を綿密に描く。このくだりがかなりスリリングだった。陶芸や染色で職人の腕さばきにうっとりしてしまう個人的な〈職人フェチ〉を刺激されたところも大きい。
 だが、どんな理由があろうとも、殺人が許容されるわけがない。 
 『刑事コロンボ』よろしく、頭の切れる刑事が登場し、鋭い推理と執拗な事情聴取で秀一を追いつめていく。後半はどんな些細な糸口から完全犯罪の崩壊が始るのか、読者はハラハラしながら秀一と刑事の対決を見守ることになる。
 湘南を舞台に、ロードレーサー、インターネット、バーボン、キャンバス、絵の具、サバイバルナイフ等々、トリックの設定、小道具の使い方も効果的だ。絵になる素材をうまくストーリーに溶け込ませている。
 教科書からのインスピレーションを計画に応用させる展開も巧い。
 沈着冷静に、少々冷酷さを漂わせながら殺人を決行する頭脳明晰な高校生が、警察に追いつめられるにつれて、十七歳の素顔をかいまみせてくる。自分に好意を寄せる同級生の紀子への感情の変化、その心の揺れに共感した。
 そう、『青の炎』は定番ミステリの形を借りた青春小説なのだ。

 読了して「これは映画になる!」と思った。自分なりの映像の断片が頭の中でフラッシュして一人悦に入っていた。
 たとえば殺人に至るまでの過程は、『太陽がいっぱい』の偽サインの練習シーン、あるいは『太陽を盗んだ男』の液体プルトニウムを固体に変換させる作業に匹敵する恍惚感が得られるのではないか。たとえば死を覚悟した主人公が迎える哀しい結末は『早春』と同じくらいの衝撃を味わえるのではないか。
 的確なキャスティングとミステリの基本をがっちり押えたシナリオが得られるのなら――。
 ただ、それが無理であることは十分承知していた。
 小説が上梓されてから実際に十七歳の少年による殺人事件が起きてしまったのだ。「一度人を殺してみたかった」という動機は常識ある大人たちを震撼させた。以後続けてこの手の事件が頻発した。 
 完全犯罪に至るまでの行動を完璧に映像化すれば、殺人そのものが、魅力的に見えなくもない。世の中、短絡的な青少年が多すぎる。その結果どうなるか……。 
 映像の、青少年に対する影響は活字の比ではない。『バトルロワイヤル』公開前の、国会議員を巻き込んだバカげた騒動がそれを証明している。
 映画化はない。そう踏んでいた。
 数年経って青少年による殺人事件も記憶の彼方に消えたのだろうか?

 監督は蜷川幸雄。「アイドル映画を撮る」という言葉に不安を覚えながらの初日鑑賞となった。
 不安はある部分的中し、ある部分は霧散した。
 映画はほぼ原作に忠実に作られている。小説の語り(三人称だが、あくまでも秀一のモノローグが中心)を活かすためか、犯罪の発端から結末までを秀一(二宮和也)がテープレコーダー片手に逐一録音する処置がとられた。
 青を基調した映像設計が素晴らしい。カメラワークは大胆かつ流麗(撮影・藤石修)。様々な細工が施されている。  
 人気アイドル二人を起用しては原作にあるベッドシーンなんて撮影できない。そこで、ガレージの勉強部屋に原作にはない、人が入れるほどの大きな水槽を設置し、そのガラス越しにおける手のしぐさで、クライマックスの秀一と紀子(松浦亜弥)のなまめかしくも心にしみる交流を描いた。
 ロードレーサーで海岸通りを走る秀一を狙った移動ショット、第二の殺人に発展するコンビニ偽装襲撃の打ち合わせで秀一と登校拒否の同級生がエスカレーターを上がったり下がったりするシーンも印象深い。
 ただしこうした魅力的な映像処理がミステリ映画、犯罪映画としての瑕疵となったともいえる。
 完全犯罪を行う者がその証拠をテープに残そうとするだろうか。犯罪の打ち合わせを人目のつくエスカレーターでするものだろうか。
 だいたい前半の見どころとなるべきアリバイ工作が、どう贔屓めに見ても完璧に思えない。自ら墓穴を掘っているかのようだ。だから後半の刑事(中村梅雀)との息詰まるような対決に昇華しない。
 思うに、これはわざとそうしたのかもしれない。この映画の主要な観客、十代の少年少女への影響を考慮した結果ではないか。
それはラスト、死を決意した秀一に対する、原作にはない紀子の言葉「この地球上で殺されてもかまわない人間なんて一人もいない」に集約されている。
 人間の生理という観点から納得できないところもある。
 嫌悪する男(元亭主=山本寛斎)に無理やり抱かれて女(母親=秋吉久美子)はあえぎ声をあげるものだろうか。あれは確かに感じている風だった。このくだりは原作にもある。声を聞いて秀一の殺意は沸点に達する重要な意味を持つ。ただしその質までは言及していない。
 活字と映画の差を実感した。
 二宮和也、松浦亜弥はともに好演。とくに松浦の、ラストで見せるこちらを射るような表情は特筆モノ。ミスキャストだと断定していた自分の不明を恥じる。
 秀一の妹役、鈴木杏も達者な演技を見せてくれる。可愛い。
 映画『青の炎』はミステリとして、その他作劇的な不満もあって、もろ手をあげて絶賛するつもりはない。とはいえ、青春映画の佳作であることは間違いない。




 奇しくも一九七〇年代初頭日本列島を震撼させた事件が続けて映画化された。
 七二年二月に起きた〈あさま山荘〉における警察と連合赤軍の攻防を描いた原田眞人監督の『突入せよ!「あさま山荘」事件』、翌七三年八月に起きた〈金大中拉致事件〉の真実に迫った阪本順治監督の『KT』。
 僕自身が十代前半の一番多感なころの出来事で、大変印象深い。
 一九七〇年代を象徴する事件がスクリーンに蘇るということは、当時の風景、ファッション等、時代そのものが再現されることでもある。七〇年代への思い入れが強い僕としては両作品に対する期待は大きかった。
 
 連合赤軍については、昨年高橋伴明監督が立松和平の小説『光の雨』を映画化している。当時を知らない若い人たちに人気を呼んだという。
 三十年という月日が節目になって、「連合赤軍ならあさま山荘事件がある!」とばかりに、映画人が佐々淳行の『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文藝春秋)に目をつけたことは十分予想できる。
 〈金大中拉致事件〉の映画化には驚いた。事件そのものが謎に包まれていること、被害者が韓国の政治家、それも(現在の)現職の大統領であること、映画化には韓国側の協力が不可欠であること、映画化の困難さを数えたらきりがない。
 時代が変わったのだ。
 思えば当時北朝鮮も韓国もよくわからない国だった。社会主義で国交のない北朝鮮に対して、韓国は朴大統領の独裁政権。個人的にはどっちもどっちという印象だった。北朝鮮はいまだにわからない国だが韓国は政権が変わるに従って徐々に変化していった。
 その過程で日韓の文化交流が深まっている。韓国では日本映画の公開が解禁された。日本では『シュリ』や『JSA』がヒットして韓国のエンタテインメント映画の真髄を見せつけてくれた。ワールドカップの共催も大きく働いているのだろう。TV各局が日韓共同制作ドラマに力を入れていたのだから、映画界も動かない手はない。
 TVドラマは日韓男女の人種問題がからむラブストーリーが主だった。映画は実際の事件、それも両国にとって触れられたくない〈金大中拉致事件〉を取り上げているところが頼もしい。

 事件は一九七三年八月八日の白昼堂々都心のホテルで起きた。当時朴正煕大統領の政敵と目された金大中が何者かに誘拐されたのだ。朴大統領の独裁政権下、事実上の亡命生活を余儀なくされた金大中は日米間を往来し南北の民主的統一、朴政権批判の遊説活動を行っていた。その日本滞在中の出来事だった。誰もが最悪の結末を予想したが、5日後、韓国の自宅近辺で無事保護された。
 現場に残された指紋から悪名高いKCIAの暗躍、朴政権の事件への関与が噂され、日本主権への介入等も問題されたが、結局ウヤムヤに幕が降ろされた印象が強い。
 金大中拉致は誰がどのように画策し実行されたのか? 空白の5日間に何が起きたのか? 事件を大胆な推理と仮説で描いたのが、日韓合作のポリティカルサスペンス『KT』だ。
 タイトルが魅力的。アルファベット2文字は金大中〔キム・テジュン〕のイニシャルであるとともに、金大中暗殺の暗号〈Kill the Target〉を意味する。
 原作は、映画公開前に惜しくも亡くなった中薗英助の「拉致 ―知られざる金大中事件」(新潮文庫)。
 国家の意向により金大中暗殺を狙うKCIA諜報員・金車雲一派。密告によりその情報を入手した金大中シンパは巧妙に居住を変更して、敵との接点をもたせない。金車雲は元自衛官・富田が設立した調査事務所に金大中探索の依頼をする。
 運命の日。宿泊する旧友に面会するため、ホテルを訪ねてきた金大中が一人になる瞬間を狙い、拉致が決行される。不測の事態が生じた。その場に、金大中をロビーまで送ろうとする別の友人がいたのである。後に引けない金車雲は目撃者を残して計画を実行。拉致された金大中は神戸に運ばれ、神戸港に停泊していた韓国船に監禁される。沖合で海底に沈めようという段取りだ。
 船は神戸港を出て韓国に向った。まさに暗殺が行われようとする、その時、暗殺中止を求める日本警察のヘリコプターが飛来、事なきを得る。計画を事前に察知し、KCIAの動向を監視していた米CIAが日本政府を動かした結果だった。

 小説は、この事件を主に金大中側から描いているが、映画は首謀者側の人物が主役となってストーリーが進行する。
 事件に自衛隊が関与していたこと、犯行現場に犯人の指紋が残されていたこと、二つの事実を踏まえて、脚本の荒井晴彦は映画に独自の解釈を与えた。
 まず原作では端役でしかなかった調査員・富田の存在を大きく膨らませ、拉致計画に加担する現職の自衛官に仕立てた。
 自衛隊の存在意義の曖昧さ、軍人でありながら朝鮮関係の情報収集を職務とする自分に忸怩たる思いを持つ富田(佐藤浩市)は自衛隊を辞めようと決意するものの、上層部から慰留される。
 結局表向き調査事務所の所長におさまり、上層部からの指示でKCIAの金車雲(キム・ガブス)と接触、金大中(チェ・イルファ)の居場所をつきとめる仕事を請け負うことになる。ところが、事が拉致、暗殺に発展すると、上層部は計画から手を引くよう態度を翻す。
 逆に自らすすんでのめりこんでいく富田。任務に失敗すれば本人のみならず家族までも殺されてしまう金車雲へ共感、自分なりの「国家と個人の戦い」というわけだ。
 この富田の人物造形はいま一つわかりにくい。上に反逆する心情がこちらに届いてこないのだ。
 それに比べて金車雲の、計画を成功させなければ抹殺されてしまうという焦燥感、悲壮感は全編に渡って波打っている。
 金車雲は失敗した時の〈保険〉のため、わざと現場に指紋を残す。犯人が特定されれば、〈国家〉は簡単に自分を殺せなくなる、と。「なぜプロの諜報員が現場に指紋が残すようなミスをしたのか」という疑問に対する回答に思わずうなずいてしまった
 国家の思惑に翻弄させられる二人とは対照的な、若い富田にかつての己を見て、共鳴するがゆえに反目してしまう男も主要人物として登場する。
 映画オリジナルの夕刊紙記者・神川(原田芳雄)である。戦争時は軍国主義にどっぷりつかり、戦後はその反動で共産党に入党、そのどちらにも裏切られた過去を持つ。
 この無頼派記者を原田芳雄が演じることで「確かに七〇年代にこんな記者がいたのだろうなあ」と思わせる。富田を諭す「オレは誰かのために生きないし、誰かのために死にもしない」「勝たなくてもいい戦争もあるんだ」の台詞が説得力を持った。

 映画は一九七〇年の三島由紀夫自決事件を介して富田と神川が最初に出会うところから始まる。
 三島に心酔する富田と思想に縛られず自由に生きようとする神川。ふたりの立場の違いを明確にすると同時に、七〇年代初頭の、あの時代を鮮やかに観客に印象づける。うまい導入だ。
 富田がKCIAと接触するために利用する韓国人女性の李政美(ヤン・ウニョン)も映画のオリジナル。ふたりは恋に落ちるのだが、政美が初めて富田に見せる裸身がショッキングだ。かつて民主化デモに参加し投獄され、KCIAによって受けたリンチの傷跡が生々しい。戒厳令下の朴政権の実態が如実にわかる仕組み。
 金大中のボディガード・金甲寿(筒井道隆)のキャラクターも映画独自に造形していて好感を持った。
 在日二世で母国語が喋れない、たぶん祖国の統一も民主化にもあまり関心がない大学生がそれほど乗り気でない金大中のボディガードをすることになって、徐々にその人柄に惹かれていく。金大中が書いた詩の意味を知りたくて韓国語の勉強をはじめるくだりが微笑ましい。
 そんな彼が拉致事件に巻き込まれ、自分の不甲斐なさに意気消沈しているところに、警察の取調室で「母国語もしゃべれねえくせに」と馬鹿にされ、泣き喚くシーンに目頭が熱くなった。映画の中で一番感情移入できるのがこの人物だった。

 阪本監督は奇をてらわず、テクニックにも走らず正攻法で淡々と、KCIA側の、事件をリークする造反者が誰かというミステリ的要素もつけ加えながら、事件の経過を描写する。それがクライマックスまで静かにサスペンスを盛り上げる結果となった。ラストの衝撃は忘れられない。
 タブーとされる題材に挑戦し、原作以上の人物造形で当時の風俗描写を含めて、水準以上のエンタテインメント作に仕上げた阪本監督以下スタッフの姿勢は賞賛に値する。
 今後も政治の闇にメスを入れ、薄汚い政治屋たちを右往左往させるような骨太な映画を期待したい。




 昨日はシネマDEりんりんのイベントがブックカフェ二十世紀の開催された。
 元ぴあ編集長の坂口英明さんをゲストに「ぴあ的映画生活のいま、むかし」と銘打ってのトークショー&懇親会。
 大盛況だった。

bcnijusseiki160319

     * * *

 シナリオライター・横谷昌宏の名前を覚えたのは、昨年の夏、金子修介監督『クロスファイア』のエンディングロールだった。
 原作(宮部みゆき「燔祭」&「クロスファイア」)のストーリーを要領よくまとめ、冒頭からスピーディな展開で観客を映画世界へ引き込み、なおかつクライマックスでは映画本来の魅力である特撮を駆使してスペクタクルな要素を全面に押し出したオリジナルな展開で映像の威力を存分に見せつけてくれた。
 細部に不満は残るものの、素直にヒロインに感情移入できて、観終わったあと、心に響くものがあった。最近のエンタテインメント小説の映画化では成功した部類に入るのではないか。脚色の上手さを感じた。
 そんな横谷昌宏の脚色の腕前を再認識する映画に出会った。2月に公開された堤幸彦監督『溺れる魚』である。
 中谷美紀と渡部篤郎のコンビのおかしさと斬新な映像で話題を呼んだTVドラマ『ケイゾク』が映画化されたときには、コミカルな演技に笑いながらリアルな謎解きを展開する、同時に凝ったカメラワークも堪能できる新趣向のミステリ映画が誕生するのではないかと大いに期待したものである。
 ところが肝心のストーリーがあまりにケレン味たっぷり、おまけにトリックそのものが陳腐だった。何よりクライマックス、監督のひとりよがりの演出に辟易した。
 『溺れる魚』は『ケイゾク/映画』の系列に入る。邦画に新感覚ミステリ映画が誕生することを願ってやまない僕としては今度こその期待があった。ポスターからなにやら妖しい雰囲気が漂ってきて、シナリオも横谷昌宏だからひょっとすると、と思ったら、想像とは違っていたものの、快作に仕上がっていた。
 映画を観た時点では原作の存在を知らなかったが、映画は原作を大胆に脚色していることは容易に想像がつく。

 原作は『闇の楽園』という、新潮ミステリー倶楽部賞を受賞した戸梶圭太の同名ミステリ。
 盗金の横領と万引きという犯罪によって、警視庁特別監査室で取り調べを受けている問題刑事二人が、女監査官から罪を不問にするので、ある公安刑事の悪事を暴く調査をせよと任命されるのが発端。愉快犯〈溺れる魚〉に恐喝されている大手複合企業の幹部と公安刑事の癒着の事実が判明するが、癒着を知ったもう一人の借金まみれの公安刑事が〈溺れる魚〉になりすまして当の企業に大金を要求してきて話が大きくうねりだす。
 秘密裏に事件を解決したい特別監査室の意向で仕方なく任務を遂行する問題刑事、犯人を始末するため企業幹部から雇われた暴力団、何としても金を奪いたい公安刑事と彼のイヌに成り下がっている過激派幹部。中盤から、このとんでもない連中が入り乱れ、白昼の大都会の真ん中で金の争奪戦を繰り広げる怒涛の展開になっている。
 ミステリの要素はほとんどない。リアリティを無視した警察小説とでもいうのだろうか。落ちこぼれ刑事が主役となり、ダメ人間ばかりが登場するのが目新しい。

 映画は原作のトンデモ世界をよりグレードアップさせ、堤監督らしい遊び感覚を随所に挿入しながらドタバタハチャメチャ度を増している。それだけでも面白いと思うが、オリジナルエピソードでミステリ的味わいを加えているのがミソ。
 開巻、少年が部屋の水槽を眺めていると、異様な風体をした男が侵入してきて少年に問う。
「魚が溺れるのを見たことがあるか?」
 怖気づいた少年が階段を駆け下りると、両親と姉の惨殺死体が横たわっている……。ミステリアスな導入である。
 目を瞠ったのはタイトル後に続く一見脈略のないエピソードが続けざまに羅列される構成だ。
 まず主役である二人の刑事(椎名桔平&窪塚洋介)のダメさぶりが紹介される。検挙のために踏み込んだ現金強奪犯グループのアジトであっけなく犯人たちを射殺し、机に置かれた札束をネコババしてしまう椎名刑事。非番の火に女装でショッピングを楽しむ窪塚刑事(署内で婦人警官の制服を盗んだ微罪があると後の監察官の取調べでわかる)。
 銀座4丁目の交差点。怪しげな男たちが数人。コート姿の河原サブを囲んで何やら脅しをかけている。河原サブは落ち着かないそぶり。時間がきて、河原は意を決すると下半身真っ裸で銀座通りを雄叫びをあげながら駆け抜けた! その模様をデジタルカメラで撮影しているIZAM。
 それぞれの査問委員会で問われる椎名桔平と窪塚洋介。
 新進気鋭のデザイナーであるIZAMが経営するクラブに集う奇抜ファッションの若者たち。その中に陽気に外人たちとおしゃべりする伊武雅刀。身分(公安刑事)を隠しての捜査だが、IZAMはすべてお見通し。店内から昼間撮った銀座の写真をネットに公開してご満悦の体。
 全国でDTPチェーンを展開する某フィルムメーカーの部長会議。河原サブや一緒にいた男たちの顔が見える。彼らは同じ職場の幹部だった。愉快犯〈溺れる魚〉から次にどんな自尊心を傷つけられる要求がくるか戦々恐々としているのだ。この部長会のボスである専務は事件を警察に届けず〈溺れる魚〉メンバーの選定を個人的に伊武に依頼していた。
 また監査室。椎名と窪塚はそれぞれ女監察官・仲間由紀恵から罪を不問にする条件に特命を受けるのだ。伊武がどんな裏取引きをしているのか探りなさい。
 一見、バラバラの人物、エピソードがここで結びつき、観客に事件の全貌をわからせる仕組みとなっている。この構成にまず唸った。
 女装趣味の窪塚に対抗して、椎名を映画俳優・宍戸錠(日活アクション全盛時代のエースのジョー)に心酔するキャラクターにしたのも特筆もの。この宍戸錠フリークぶりは徹底していて、椎名桔平の怪演もあって始終笑いっぱなしだった。また原作では単なるチョイ役でしかなかった女監察官のキャラクターを膨らませてダメ刑事ふたりに絡ませたのも光る。
 とにかくこの映画、全編笑いの連続なのだ。
 『スペーストラベラーズ』もかなり笑える内容ではあった。が、ラストのまるで観客に泣きを強制させるようなベタベタな演出がどうしようもない。
 映画『溺れる魚』は前半から中盤にかけて主役二人の特異なキャラクター、〈溺れる魚〉のばかばかしい要求に右往左往する愛社精神溢れる社員の愚かな姿等々、登場人物の台詞、行動にバカ笑いし、絶体絶命の危機に瀕したクライマックスでは椎名桔平の一言にちょっとばかり胸を熱くさせてくれる。しかしそのまま涙や感動にはもっていなかない。全編ユーモアのスタンスは変わらないのだ。その姿勢がいい。
 主役二人の刑事を含む登場人物たちの造形と抜群の構成力が堤監督のスタイリッシュな映像、プロモーションビデオのようなカッティングとあいまって愉快な映画に仕上がった。リアリティの無さが逆にこの映画に弾みをつけたような気がする。
 ドラマの要となる、中盤までなかなか顔をださない監査室長の警視正(渡辺謙)のアップはなかなかの衝撃だった。大河ドラマ出演で頭を剃った渡辺謙の起用も功を奏している。中途半端に起用した『スペーストラベラーズ』との差はこんなところにも表れているというと言い過ぎか。

 さて、そんな横谷昌宏の次回作は金子監督とふたたび組む『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』。ゴジラ映画の新作だ。脚色に才能を発揮した彼がオリジナルでも魅力的なドラマを書いてくれるのかどうか。
 印象に残る人物造形、抜群の構成力で平成ゴジラの物語を紡いでもらいたい。 
 



 「小説と映画のあいだに」もシリーズ化します。
 これまた困ったときの……じゃないですから、本当に!

     ◇

 本が好きで映画も好き、という者にとって、とてもやっかいな問題がある。
 その面白さに夢中でページをめくったり、感銘を受けたりした小説が映画化された場合、映画も気になって映画館に足を運ぶ。ところが、ほとんど期待を裏切られる結果となる。
 あるいは映画を観てから原作に興味がわいて読む場合、よくできたと思える映画でさえ、小説はそれ以上に奥が深いことが多い。展開に新たな発見があったり、登場人物のキャラクターの陰影がより濃密さを増して映画で描かれた世界をもっと理解できるのだ。そのたびに「映像は活字にかなわないのか」とため息をついたりしている。
 映画に興味がなければ好きな小説の映画化なんて無視すればいいし、根っからの映画ファンならば、原作と小説は別物と割り切って映画世界を堪能すればいい。
 それができない。映画とその原作となる小説をついつい比較してしまうのが個人的な悪い癖なのである。特にこの数年脚色という作業について、あれこれ思いをはせてしまう。
 単純にストーリーの面白さを比較したら小説に軍配が上がると思う。「百聞は一見にしかず」とは言え、描写力、特に心理描写では、情報量で活字の方が圧倒的に有利なのだから。
 小説は作者の想像力でいかにでもストーリーを紡ぐことができる。しかし、シナリオライターや監督がいかに素晴らしい話や絵を考えても予算の関係でカットなんてことはよくあることだろう。役者の問題もある。絵で見せなければならないことが逆にネックになってしまうのだ。
 しかし、それでも映画に期待してしまう自分がいる。期待するからこそ何かと口出ししたくなる。
 ちなみに僕はけっして原作と同じ感動を映画で味わおうとしているのではない。
 僕が思い描く理想的な映画化とは、原作の〈核なるもの〉を活かしつつ、映像でしか表現できないオリジナリティを持っていること。映画は原作の単なるダイジェストでは意味がないわけだから、何のために映画化したのか、その〈何か〉を映像で確認したいのである。
 ベストセラーになった、あるいは話題になった小説だから映画化するというのでは何とも情けない話だし、あまりに芸がないではないか。
 というわけで、映画と原作の関係について言及する拙い文章をつづっていきます。

       *

 『リング』である。
 今さらストーリーを紹介する必要もないほど小説はベストセラーを記録し、映画も大ヒットした。
 従姉妹の突然の死をきっかけに同日同時刻に死亡した若者グループを取材するうち、見た者は一週間後に死ぬという呪いのビデオを見てしまった新聞記者が大学講師で少々癖のある旧友の協力を得ながら、テープからはすでに消去されてしまった呪いを解く〈おまじない〉を求めて悪戦苦闘する姿を描いたホラー小説だ。
 鈴木光司の小説は主人公が一週間で解除方法を見つけ出せるかどうかのサスペンスが中心となっている。それは妻子をも巻き込んでしまった主人公の苦渋にあふれた焦燥となって、読者は主人公と同化し期日までに自分自身(ということは妻子を)を救うことができるかどうか胸をしめつけられる思いでビデオテープに隠された謎を解明していくことになる。
 その過程で超能力者の山村志津子とその娘・貞子の薄幸な人生が浮き彫りにされていく。貞子がなぜ呪いのビデオを作ったのかという理由づけが(ご都合主義も垣間みられるが)きちんとされているので、貞子にもかなり感情移入してしまうのだ。
貞子が<睾丸性女性化症候群>の本当は男性だったこと(当時エンタテインメント小説ではこの症候群がいたるところで取り入れられていた)。この症候群の人たちが皆そうであるようにかなりの美女であった。貞子に欲情した最後の天然痘患者によって襲われ無残に殺されてしまったこと。誰にも知られずに一人寂しく井戸の下で眠る貞子が世の中を恨むのも仕方のないことかもしれない、と。
 貞子の遺骨を探しだし、供養してやることが呪いを解く〈おまじない〉だと主人公と旧友は確信し、調べていくうちにやっとその場所を確定する。ふたりは貸別荘下の古井戸にもぐりこみ、時間との戦いの中ぎりぎり間に合って記者は命拾いする。
 ここまででも相当スリリングな展開で満足できるものだが、小説『リング』の本当の恐怖はそのラストにあった。一息ついた読者はラストになって一気に恐怖のどん底に落とし入れられるのだ。
一日遅れて〈主人公がコピーした〉ビデオを見ている旧友が翌日突然死したことで本当の呪いの解除方法を知った主人公は愛する妻子の命を守るため、ビデオのコピーとそのテープを親に見せることを決意し故郷に向う……。
貞子が自分たちを迫害しつづけた世の中へ復讐するために生んだ1本の呪いのビデオテープはやがてねずみ算式に増殖し、全世界を席捲するであろうことを暗示させる不気味なラストである。
 読者は読了したとたん、この恐怖を自分ひとりのうちにとめておくことができず、また読ませないと、まるで小説の中の呪いを受けてしまいそうな気分になって、本好きな友人に『リング』を薦める現象が起きたことは十分想像できる。
 『リング』は映画化の前に一度スペシャルドラマになっている。主人公に高橋克典、旧友に(あっと驚く)原田芳雄のキャスティング(超能力を信じる大学教授に設定を変更、主人公とは取材で知り合った関係)で、『NIGHT HEAD』の飯田譲治が脚本を担当した。(祖師谷大蔵と共同、演出は瀧川治水。)
 ドラマは原作に忠実に丁寧に作られてはいる。しかし、単なる小説の焼き直しといった感じでそれほどのものではなかった。何よりビデオテープに念写された映像が小説に描かれたイメージを超える不気味さを持っていないことに失望した。
 だから新生角川映画が怒り心頭の『パラサイト・イブ』に続いて『リング』(&『らせん』)を映画化すると知ってもまるで期待していなかった。
 ラストのショックはあくまでも小説(活字)の怖さであり、映像にしてもたかが知れている。貞子の人生を描くにしても2本立ての上映時間ではダイジェストにしかならないだろう、と観る気もおきなかった。
 『タイタニック』が満員で時間つぶしにこの映画を観て恐怖におののいた友人のメールで気が変わり、劇場に駆け込み考えを改めた。
   
 ストーリーを知っているにもかかわらず冒頭からかなり背筋が寒くなる思いがした。呪いのビデオテープの都市伝説、ビデオを観た者がその後写真を撮ると顔がゆがんでしまう現象、呪われて死んだ人のこの世のものとは思えないようなショッキングな表情といった映画独自のアイデアに唸ったものだ。
 ビデオテープの映像もかなりのインパクトだった。この映像が驚愕のクライマックスへの伏線となることも見逃せない。
 主人公を女性(松嶋菜々子)に変更し、旧友の大学講師を別れた夫(真田広之)にしたことが、製作ニュースで知ったときはあきれてしまった。しかし、この変更が映画の進行とともに功を奏してくる。特に人に触れるだけでその人の考えが感じとれる超能力を持つ元夫の設定が気に入った。
 小説では詳細に語られていた貞子の人生をすっぽり削除して貞子を単なる化け物としか描かず、その過去を夫の超能力によってヒロイン(=観客)に感じ(見)させてしまうところが巧い。いかにもな説明台詞や回想シーンが排除され、おまけに時間も短縮もできる。(だったらラスト、貞子のしゃれこうべを見つけたとき、貞子の復讐が何なのかわかりそうなもんだ、という突っ込みはこの際しません)。
 そしてクライマックス。映画はそれを夫の呪い死ぬ様にもってきた。このくだり、小説ではそれほどの怖さはない。呪いは解かれたはずなのになぜ旧友は殺されてしまうのかというショックは受けるものの、それ以外の作用はない。
 映画は映像で〈ビデオを見た者がどのように貞子に殺されていくか〉を具体的にきっちりと見せてくれる。鳥肌がたったのはその驚愕シーンが冒頭に見せられたビデオ映像に関係してくるところ。これは映画のオリジナルであり、この怖さはまさしく映像だけのものである。TV画面のなかから貞子が抜け出てくるショットはまさにコロンブスの卵的ショック。そして貞子の怒りに燃えた片目のアップ。生理に訴えるような斬新なショットだった。劇場内が絶叫に包まれたのはいうまでもない。
 その後も夜道を歩きながらこのシーンを思い出すたびに背筋が寒くなる。ホラー映画でここまで怖い思いをさせられた映画というのも珍しい。
 『十三日の金曜日』『エルム街の悪夢』といったホラー映画はあくまでも突然何者かが画面に現れてショックを与える〈ショッカー〉ともいうべき作りになっている。その場は反応して飛び上がるけれど、2回目以降はどうということもない。映画『リング』は映像そのものが持つ恐怖(視覚的恐怖)が肌を突き刺してくる感覚なのである。
 子どものころ、親戚のおじさん家で車座になって聞かされた怪談話にそれこそ目を閉じ耳をふさいで震えたことを思い出す。そう、映画『リング』はホラーというより昔ながらの怪談話なのだ。怪談話をきっちり映像にした希有な映画といえようか。
 映画『リング』は小説のエッセンスをそのまま抽出して、映像に不向きな要素は排除し、映像でしか味わえない恐怖を付加して見事に映画化した作品といえる。
 絵としての怖さを知リ尽くした高橋洋の脚本を、奇をてらわず正攻法で恐怖そのものを映像にした中田秀夫監督の才能に拍手喝采したい。




 直木賞受賞作である金城一紀の『GO』(講談社)については受賞後何かと話題になっていたように思うが、ほとんど関心がわかなかった。ミステリなら真っ先に飛びつくものの、恋愛小説には興味がない。当然映画化を知っても食指は動かなかった。
 久しぶりに東映系の劇場で映画を観た際、『GO』の予告編が流れて気持ちが変わった。映像からほとばしるエネルギーをびしびし感じられたのだ。

 期待に違わない青春映画の傑作だった。主人公をはじめ登場人物たちがこちらの固定観念を打ち破るような造形で、まず度肝を抜かれた。映像の疾走感がたまらない。とにかく笑えることが精神衛生上よろしい。
 映画『GO』は笑いを散りばめ、過去と現在を交錯させながら主人公を取り巻く状況を説明し、親友が巻き込まれた事故、そして自身の日本人女子高生との恋愛によって在日朝鮮(韓国)人のアイデンティティや差別問題を浮き彫りにさせていく。
 語り口と構成の妙、在日朝鮮(韓国)人二世の主人公に扮した窪塚洋介の魅力、両親役の山崎努、大竹しのぶの上手さ、個性的な脇役たち。ラストの甘さが気になるものの、観終わって爽快な気分にさせ、なおかつ日ごろ僕たちが直視しない(したくない)問題を投げかけてくる。
 そうなると原作を読んでみたくなるのが人情だ。さっそく小説をあたった。

 小説『GO』の魅力はユーモアに包まれた軽さだと思う。とかく深刻になりがちなテーマを軽妙洒脱に語っていく。笑いがとれなければ意味がないというような主人公〈僕〉の語り口が愉快だ。突っ込みの比喩と例の出し方がうまくて、声をあげて笑ってしまうくだりが何度もあった。
 冒頭父親がハワイ旅行を計画し、国籍を朝鮮から韓国に変更するエピソードを紹介しながら、在日朝鮮(韓国)人の成り立ち、朝鮮と韓国の国籍の違い、それぞれの日本での出先機関「総連」と「民団」の説明など、ちょっとした在日朝鮮(韓国)人のうんちく講座になるのだが、ここでもう小説の世界にはまってしまう。
 戦争で日本に連れてこられ、無理やり日本人にさせられたにもかかわらず敗戦と同時に棄てられた父親。その後故国は二つに分断され、日本在住を許されるもののどちらかの国籍を選択しなければならず、貧乏人にやさしい(とされる)マルクス主義で、在日朝鮮(韓国)人に気遣ってくれる(はずの)北朝鮮を選んだという。
 元プロボクサーで現役時代は一度もダウンを喫したことがない父親に十九歳でナンパされ二十歳で〈僕〉を生んだ母親は亭主に従順を装いながら何度も家出を繰り返し、逆に亭主をコントロールしてしまう。
 〈僕〉は韓国籍になってから「広い世界を見るのだ」とばかりに民族学校を辞めて「偏差値が卵の白身部分のカロリーしかない」私立の男子高校に通っている。
 差別から身を守るには腕力がものをいう。喧嘩を売ってくるクソガキどもを父親直伝のボクシングを生かしてのしているうちにいつのまにか学校一のワルのレッテルを貼られていた。
 唯一の友だちは最初の挑戦者でやくざの親分を父に持つ加藤だけ。一番の親友は、朝鮮学校「開校以来の秀才」と呼ばれる正一(ジョンイル)だ。彼はかつて〈僕〉が挑戦し成功した〈スーパー・グレート・チキン・レース〉の模様を目撃して、それから「開校以来のバカ」と呼ばれた〈僕〉を何かと気にかけてくれる。
 加藤の誕生パーティーで知り合ったのが桜井という女子高生。不思議なところがあるけれど、とにかくかわいい。すぐに意気投合し、映画や音楽を話題しながらデートを重ねていく。
初めてふたりがむかえた夜のこと。自分が日本人でないこと、在日韓国人であることを告白する。国際感覚を身に付けている父を持つ彼女の言葉がショックだった。
「子供の頃からずっとお父さんに、韓国とか中国の男とつきあっちゃダメだ、って言われてたの……」「お父さんは、韓国とか中国の人は血が汚いんだ、って言ってた」
 
 映画は小説の中盤に出てくるエピソード、高校バスケット部の対抗戦で敵味方のふるまいにキレた主人公(窪塚洋介)の大乱闘事件から始まる。この乱闘と小説の最初のページで述べられる主人公のモノローグ「これは僕の恋愛に関する物語だ」がキーワードとなって、過去と現在が交錯する構成となっている。
 続けて〈スーパー・グレート・チキン・レース〉という肝試しに挑戦する主人公の中学時代の思い出が描かれる。
〈最寄り駅のホームの端に立ち、電車がホームの端から五十メートルの地点に入ったのと同時に線路に降り、ホームの端から端まで進行方向に向って走り切〉るゲームだ。見守るのは悪友二人。
 無事ホームを走り抜けた主人公と駅から逃げ出した悪友が合流し、バイクを駆って三人乗りで街中を突っ走る。三人を追いかけるパトカーとチェイスを繰り広げるタイトルバックが秀逸だ。音楽と映像が絡み合い、挿入されるクレジットがスパイスとなったエネルギッシュでアナーキーなオープニング。とても爽快だった。
 無二の親友や彼女と知り合う最初のきっかけを作ったこの二つのエピソードを冒頭に持ってきたことが、ドラマの進行につれて重要な意味をもってくる。
 原作の味わいをそこなうことなく映像に再構築している脚本(宮藤官九郎)がいい。
 映画用のオリジナルエピソード、アレンジも効果的だ。
 日本語を禁止する朝鮮学校で日本語を喋った悪友(たこ八郎を若く硬派にしたような新井浩文)が、批難する先生(塩見三省)に対してなぜ喋らなければならなかったかを延々と弁明するシーンは抱腹絶倒のおかしさで、なおかつ言葉に対する明確な主張が感じられた。
 彼女に振られた主人公が帰宅途中で警官(萩原聖人)に職務質問されるくだりも、その前にちょっとした前ふりをおくことで、警官の人の良さをより引き立てている。
 両親や友だちとの会話のキャッチボールが面白い。台詞が活き活きして何気ない捨て台詞にニヤリ。
 こうした台詞の中にあってこそ、「たまに、自分の肌が緑色かなんかだったらいいのにって思うんです。そしたら誰も寄ってこないのに」という心情吐露や「(父親に対して)あんたたちのことはあんたたちの世代でけりをつけろ」と激昂する主人公の胸の内がこちらに響いてくるのだ。
 ただし、親友が不幸な事故で死んでしまい、主人公が静かに怒り一人嘆き悲しむくだりは小説の方が心にしみる。
 女子高生が発する差別的な言葉も(すでにわかっているにもかかわらず)小説の方がショッキングだった。これは父親を演じた役者のイメージの問題だろう。
 女子高生(柴崎コウ)との会話で映画や音楽、本などのさまざま固有名詞がでてくる楽しさも映画は活かしきれなかった。その代わりデートシーンなどで絶妙なカッティングで雰囲気を醸し出していたように思う。カットの流れが心地よい。

 今年は矢口史靖監督『ウォーターボーイズ』、行定勲監督『GO』と高校生を主人公にした青春映画の秀作が続いている。
 若手の俊英たちが、素直に笑えて、清々しい気持ちにさせてくれる映画に取り組んでいることは喜ばしい限りである。





プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
私家本「僕たちの赤い鳥ものがたり」
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」

神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。遊びにきてください。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top