みなさんはおやつの語源をご存知でしょうか?

 江戸時代は日の出と日没を基準に日中と夜が六等分され、正午が九つ、午後2時が八つ、午後4時が七つ、そこから八つに仕事を休んでとるお茶やお菓子をおやつというようになったんです。
 今では午後3時に食べるようになりましたが、本来は午後2時だったんですね。

 で、この午後2時に休憩をとるのは人間の生活リズムからいっても理想的なのだそうです。
 というのは、この時間に一番眠くなるからなんです。

 人間は、原則8時間眠り、残り16時間を起きて過ごしますが、続けて16時間起きているのは大変なことで、真ん中あたりで一度頭と身体をリフレッシュしないといけません。
 人間は朝起きてから2時間おきに眠気がやってくるそうです。午前10時、正午、午後2時、午後4時が眠いとのことです。休憩が必要になったと脳が察知し、身体の活動にブレーキをかけると考えられます。
 そんな時間に仕事をしても能率はあがりません。そういう状態で頑張っても、イライラしたり、猜疑心が強くなったり、自信がなくなったりするそうです。
 ですから、休憩時間を作っておやつを楽しむのはとても合理的なんですね。

 また、昼寝も効果的だそうです。
 ただ長く眠っていてはマイナスで、10~15分でいいそうです。
 時間がきたらソファに移るか、そのまま机に突っ伏して短い時間眠る。すると頭がすっきりして作業のうっかりミスも減らすことができる。
 と、広島大学総合科学部の堀教授が語っております。




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 またネガティブな意見になってしまうかもしれませんが、今日はソニーのプレステ2の宣伝のうまさについてお話しします。

 この夏公開されている映画「ジュブナイル」は、4人の少年少女たちが、未来からやってきた小型ロボットと、地球を狙う宇宙人をやっつける物語なんですが、劇中の小道具としてプレステ2が出てきます。

 小型ロボットの知識を広めるためにインターネットを利用したい。しかし少年たちはパソコンを持っていない。プレステ2だったらインターネットに接続できると、TVゲーム好きの主役の男の子が、接続するにはどうしたらいいのか、ソニーに電話するんです。
 特別のアダプターがなければ接続できないと教えられ、結局あきらめてしまうわけですが(そうしないと次のお話に展開しないのです)、この映画を観た子どもたちはプレステでもインターネットができるんだとわかるわけです。
 この後も、小型ロボットが宇宙人と戦う人が操縦する大型ロボットを作成して、それに男の子が乗ってクライマックスの対決シーンになります。ここでもロボットの操縦はプレステ2のコントローラーなんですね。

 ソニーがどの段階でこの映画にからんだのかわかりません。すでにシナリオに書き込まれてあって、ソニーに話を持っていって資金を提供したのでしょうか? 
 それとも、最初から資金提供が決まっていたからそれらしいシナリオを書いたのでしょうか?

 昨年公開された「ガメラ3 邪神覚醒」にはドリームキャスト(DC)が出てきます。宣伝協力にセガがクレジットされていました。
 しかし、登場するDCは単にソフトを起動させるハードでしかなかったんです。別にDCである必要はありません。
 あのとき、DCの、ネットワークに簡単に接続できる機能を映画の中でうまく使っていれば宣伝としても利用できたのに、と今更ながら思います。

 まあ、唯一の救いは「ジュブナイル」がポケモン映画に押されてあまりヒットしていないということでしょうか。




 午前中、医者に行ってきた。すごい混雑で1時間以上待たされる。おかげで読書できたわけだが。
 一昨日、朝風呂に入ったあと、熱っぽくなり、身体中が痛くなり(特に背中から腰にかけて)、日ごろの疲れから風邪をひいたのでは、それがインフルエンザだとやばいと思ったので診察に来た、と言うと、「熱は平熱(最初に熱を測っている)だからインフルエンザではないですね」。
 結局、下痢を止めるための整腸剤をもらって帰宅した次第。
 昨日よりは具合は良くなったが、まだ少しフラフラしている。
 午後は部屋でゆっくり寝ていよう。

          * * *

 NHKで興味深い番組を観ました。
 「そして子どもたちは42才になった」というドキュメンタリーです。
 イギリスで無作為に選ばれた7歳の少年少女たちをその後7年ごとに追いかけ、インタビューをします。彼らの、実に35年にわたる人生の変遷が垣間見られます。

 子ども時代の夢を実現しながら挫折するものの、家族とともに幸せにくらす人、エリートコースを歩む人、離婚した二人の友人とは別に、仕事も家族も手に入れて充実した毎日を送る女性等々、彼らの容姿の変わりようとともに人生とは何かを考えさせられました。

 実は7年前にもこの番組を観たんです。
 印象的だったのでは、そのとき、最後に登場した男性でした。若いときは何かと活動的だった彼が35歳になると職も、住む家もない悲惨な状況になったんです。
「7年後どうなっていると思いますか?」という問いに「ロンドンでホームレスになっているかもしれない」と答えてところで終わっていました。

 7年後、彼は、何と市議会議員になっていました! 
 服装はもちろん顔の表情が全く違いました。

 いろいろとからくりはあるのかもしれませんが、とにかく35歳からも人生は変えられるのか、と驚くとともに、その可能性というものを考えさせられました。

 私自身、若いころは希望に満ちていました。
 学生時代から映像の世界に進みたかった私は1年の就職浪人後、CF制作会社に入りました。
 その後、テレビ番組制作会社、視覚効果会社、出版会社(ビデオ販売)等々さまざまな映像に関わる仕事を点々とし、出版会社からセガで新しく設立された映像事業部に出向しました。期限がきて他の出向メンバーは出向元に帰りましたが、僕一人セガに転籍しました。
 転籍したとたん、子会社の語学会社に出向となりました。2年後戻ってきたら、受け入れてくれる部署がなく、後にリストラ部門〈新規事業開発室〉のプロトタイプ部屋の第1号となりました。あとから入って来た人は皆退職しましたが、何とか私は踏ん張り(妻子ありますから)、某部署に入り、現在総務部で働いています。

 7年後、私は何をしているのでしょうか? 




 怒涛のイベント4日間が終了した。
 最終日の一昨日は、後片付けを終えて、店を出たのが0時10分過ぎ。もう終電に間に合わないことがわかっていたから、秋葉原の「安心お宿」で仮眠して早朝の仕事に備えようと思った。
 途中でお腹がすいたので吉野家に寄って豚丼を注文。食べていたら、猛烈な睡魔に見舞われた。
 もう歩けない! 
 というわけで、朝の仕事場にUターン。休憩室で爆睡した次第。

 疲れた! 
 それ以上に充実感はあるが。

          * * *

 最近のニュースを見て感じたことをお話しします。

 池袋で起きた通り魔事件。痛ましい事件でしたが、犯人は東急ハンズで包丁と金槌を購入したその日に事件を起こしたわけではないんですね。
 東急ハンズの横に地下に続く階段があるのですが、そこで何日も両手に包丁と金槌をもって佇んでいたそうです。目撃した人の話ですと、いかにもあぶない目つきをしていたというではないですか。
 で、思ったのは、通行人は、そんな状態のあぶない人を見て、どうして近くの交番とか警察に連絡しなかったのでしょうか?

 77歳でしたか、自宅で双子の老人が亡くなって一週間後に発見された事件。これもTVのインタビューに答えて近所の方が「一晩中部屋の電気がつけっぱなしになっていた」と言っています。
 1週間ずっと灯りがついていたんでしょう? 老人ふたりが暮らす部屋でたとえ1日でも灯りがつけっぱなしになっていたら、何かあったと思いませんかね?

 以上、二つの出来事から人と人の関係の希薄さが浮き彫りにされたような気がします。
 都会は田舎にくらべて他人に干渉されないドライな日常生活が魅力とも言えますが、人はぜったい一人では生きていくことができません。
 ですから、「面倒くさい、他人とかかわりたくない」などと思わないで、必要最低限に人間関係は保たなければならいのではないでしょうか。




 先週、ドリキャス撤退のニュースが日経にリークされ、それにまつわるマスコミ各社の報道合戦が過熱した感があります。
 それこそ、「待ってました!」というマスコミのセガへの対応でした。

 ここ数年、マスコミのセガへの対応は、いいニュースでも悪く、悪いニュースはことさら悪く、書くという情けない状況でして、これを打破するには一にも二にも赤字脱却しかわけですが、まあ、その話はとりあえず置いておきまして、今日はマスコミの悪意についてお話しします。

 皆さんは週刊誌は読まなくても、電車の中吊広告をご覧になる機会は多いでしょう。
 その中吊広告のタイトルが実際の記事の内容とまったく逆の場合があることがあります。

 一昨年、大河ドラマ「元禄繚乱」が始まったころ、ドラマの担当ディレクターが綱吉役のショーケン(萩原健一)を批判する、というような記事(のタイトル)を中吊広告で目にしました。ショーケンファンとして、ショーケンの綱吉は久々にらしさを発揮していましたから、スタッフの批判はとても気になります。すぐに週刊誌の記事をあたりましたよ。
 読んで驚きました。内容は逆なんです。ディレクターはショーケンを褒めているんです。

 中吊広告の記事のタイトルに惹かれて実際の記事を読めば良いですが、大半の人は中吊だけで判断してしまうでしょう。
 こうして個人あるいは団体、法人に対して偏見をもつ、誤解をしてしまうことがかなりあるはずです。

 マスコミ、メディアというのはある種の聖域であり、私たちの中に特別視するところもあります。
 しかし、マスコミも一つの企業で利潤追求しなければなりません。儲けるためには、一般大衆に受ける、雑誌を購入する、TVを視聴する、そうさせるための記事やニュースを作る側面があります。
 そういうことも心しておく方がよいと思っています。




 今日はネガティブ思考についてお話しします。

 ネガティブというと、どうしてもマイナスイメージがありますが、ここで言うネガティブ思考は物事を対処するときに「最悪の事態が起きたことを想定して、解決法を用意しておく」という思考です。
 
 プロ野球の福岡ダイエーホークスが昨年日本一になりましたが、その陰にネガティブ思考の若手選手の活躍があったということです。
 篠原投手はドラフト2位で入団し、活躍が期待されましたが、1年目は2勝4敗3セーブの不本意な成績におわりました。
 メンタルトレーナーの岡本さんが、先発して速球で打者をなぎ倒すというポジティブ思考の強い篠原投手の考えを改めさせ、中継ぎとしてのイメージを思い描かせたのです。
 つまり、走者が塁にピンチの場合、どんな球を投げるか、そういうことを常に心がけさせ、14勝1敗の好成績に結びつけたのです。

 私事になりますが、この前の日曜日、所属する草野球チームの公式戦がありまして、わがチームは2点差で勝っていたにもかかわらず、最終回に登板した投手がフォアボールを連発、同点にされ、さらにフォアボールをだして負けてしまいました。
 最初、四球を出したとき、もしかしたら押しだしで負けたりしてと思ったんです。これもネガティブ思考なのではないかと思うんです。で、その後の作戦をどうとるか?
 このとき、投手は試合に初めて参加した新人でした。野球の経験が豊富ということで確かに守備や打撃で大活躍だったんですが、ことピッチングに関しては、球が上に上に集まってしまって、ストライクが入らない状態で、彼に最後まで投げさせたのが果たしてよかったのか? 
 それまで好投していた投手を再登板させ、それで四球が出た、あるいは打たれたといった結果の方が、ほかの選手にしてみれば、ある種の諦めがついた、気持ちも切り替えられ、次の大会にのぞめるのではないか、と思った次第です。

 考え方の一つとして、今日はネガティブ思考をご紹介しました。




 今日は読書、というか図書館の有効利用についてお話しします。

 私は学生時代から本が好きでして、読書にいそしんできましたが、年間に読む冊数なんてたかがしれていました。
 本を買って読むわけですから、こずかいには限りがありますし、本当に好きな作家の本とか、実用的な本しか買えません。それでもけっこうな本がたまってしまいました。

 結婚してから特に家のスペースの問題からこの蔵書の問題は切実になりまして、かみサンの助言もあって図書館を利用するようになりました。
 無料で本を読めるというのは、それまで興味があっても手をださなかった様々なジャンルの本が読めるようになって、自分の世界が広がった気がしました。本は2週間で5冊借りられます。

 で、皆さんにも図書館利用をお勧めするわけですが、何がいいかといいますと、もし棚に目当ての本がなくても、リクエストができるところです。
 たとえば、本社の裏にある羽田図書館を例にとりますと、もし羽田になくても同じ大田区内の図書館から取り寄せてくれるのです。どこにもない場合だったら購入もしてくれます。

 私の場合、地元の川口中央図書館と羽田図書館をもっぱら利用して、話題になっているミステリだとか、読みたいけれど購入してまで読もうと思わない高価な本などを読み漁っております。
 本に興味がなくても、ビデオやCDも貸し出ししています。本にくらべて種類は少ないですが、とりあえず有名どころの映画やアルバムは取り揃えていますから、借りない手はありません。返却予定日に返却できなくても、後で催促はされますが、延滞料金をとられる心配はありません。

 ということで、皆さん、図書館を大いに利用しましょうということでした。




 今日はサマータイムについてお話しします。

 サマータイムとは何かといいますと、簡単にいうと日の出の時間が早い夏だけ、日本の時計を1時間繰り上げる、というものです。
 日中時間を有効活用する制度というのでしょうか。

 たとえば、1時間繰り上げた場合、総務部の就業時間は8:30から7:30になり、終業時間は17:15から16:15になります。
 あまり話題になっておりませんが、政府は審議委員会みたいなものを設置して検討している段階です。

 欧米ではすでに導入されていて、先進諸国でやっているのだから日本でもという考えと、導入することによって1日に消費されるエネルギーが削減するメリットがあるとのことです。

 私は、1年を通して朝5時に起きて、6時くらいに家を出るのですが、同じ時間でも冬と夏では印象が全然違うんですね。
 冬の5時は真っ暗で、まるで夜中のようです。夏は日差しがまぶしいくらいで、確かに日照時間の長さを有効活用するのは一理あるかなと思うこともあります。

 ところが、識者によると、日本と欧米を単純に比較できないそうなんです。緯度の関係であまりメリットがないと。
 また、かつて日本でもサマータイムを導入したことがあるそうですが、皆睡眠不足に悩まされてすぐ撤廃されたそうです。
 
 エネルギーの削減といっても導入時各所のシステムの変更等けっこう経費がかかるみたいですし、そう簡単に導入はできないんじゃないかと思うのですが、盗聴法があまり論議されことなく承認されたように、気がついたらサマータイムが導入されていたなんてことがないように、ニュースには注意を払っていこうと思っています。




 盗人猛々しいという言葉があてはまるかどうか知りませんが、ダウンタウンの浜田雅功が相方とMCを担当する歌番組内で、宇多田ヒカルを相手に「倉木麻衣が宇多田ヒカルをパクった」云々の発言に倉木サイドが名誉棄損、告訴も辞さないと猛反発したことに対して、どうにも納得がいきません。

 私が倉木麻衣を初めてTVで見たとき、画面にはデビュー曲のプロモーションビデオが流れていたんですが、まるっきり宇多田ヒカルでしたよ。
 ラジオで倉木の歌が流れたときは、宇多田ヒカルの新曲じゃないか、と一瞬思いました。

 別に、宇多田ヒカルの二番煎じ、モノマネで売るというのも一つの戦略ですし、それで一気に売り出し、次第に独自の色をだしていくのも手なのかもしれません。ただし、世間一般の人たちが思っていることを浜田雅功が代弁するに及んで、告訴するという態度がどうにもこうにも解せないのです。

 ゲーム業界を振り返ってみても、こういうモノマネ、パクリなんて当たり前、それで業界が成り立ってきたともいえます。
 たとえば、ナムコの「鉄拳」は「バーチャファイター」のパクリともいえますが、「鉄拳」には「鉄拳」のファンがいて、根強い人気を維持しています。
 もし、「鉄拳」が登場したとき、セガ関係者が「あれはバーチャファイターのパクリだ」と指摘したとして、ナムコ側は「告訴だ」と反発するのでしょうか? もっと鷹揚にかまえて、「鉄拳」のいいところ、バーチャファイターとの差別化部分を力説するんじゃないでしょうかね。

 私が言いたいのは、倉木サイドって自分たちが常日頃意識して触れられたくないところを浜田にズバッと言われてしまったことで過剰反応をしてしまった、その過剰反応でやはり宇多田の真似であることが印象づけられてしまった、ということです。

 エンタテインメントの世界では完全なオリジナルなんて望むのはもはや不可能です。ルーカスやスピルバーグの映画が大ヒットしますが、彼らは過去の映画をうまくパクリ(引用して)、今様の意匠をほどこしているわけです。
 話は飛んでいますが、要はセガでもうまく人気ソフトを引用して、大ヒットをだしてほしい、ということなんです。




 一昨日(26日)の夜、仕事を終えてから深夜高速バスで大阪へ。
 翌27日に夙川のライブハウスで紙ふうせんのシークレットライブがあったのだ。
 2日間は休めないので、27日の夜に深夜高速バスで帰ってきて、そのまま仕事へ。
 強行スケジュールのように見えるが、毎日の睡眠時間が3時間なので、往復のバスの中で熟睡、逆にたっぷり休養できた。不思議なものだ。
 ライブの詳細については次項で。
 そういえば、昨年のリサイタル、まだ何も書いていないんだよね。いかん、いかん。

          * * *

 どうでもいいことかもしれませんが、以前から気になっていたことがあります。

 日本語で映画、音楽、演劇など一般的に娯楽を指す英語にentertainmentという言葉あります。
 その日本語表記なんですが、昔、1970年代中頃までは「エンターテイメント」でした。ところが、アメリカのMGMが往年のミュージカル映画の名場面で構成した「ザッツ・エンタテインメント」という映画が公開され絶賛をあびてから、「エンタテインメント」という表記が当たり前になったんです。
 会社名、雑誌名、私が知っている限り皆「エンタテインメント」です。そういう表記にする暗黙のルールができたのかと思っていました。

 そんな中、思い出したくもないのですが、セガとバンダイが合併することになり、新社名「セガバンダイ・エンターテイメント」と発表され、ちょっと違和感を憶えたんです。
 時流に乗っていない、遅れているというのが、その時の私の率直の感想でして。案の定、合併話は消えてしまいました。

 それから注意深くセガのニュースリリースを見ていると、必ず「エンターテイメント」なんですね。昨年発表された中期計画の総称である「ネットワークエンターテイメント」もそうでしょう?
 これはどうしてそうなのか、社内で決まりでも作っているのだろうかと、広報に訊いたところ、一番発音に近い「エンターテイメント」に統一しているとの回答で、そう言われると何も言い返せません。

 確かに、ほかに追随する、真似をするというのはほめられることではありませんし、独自の道を行くことは良いことだとは思うのですが、ゲームもエンタテインメントの一つ、最近のセガを見ていると言葉の表記においても、今の時流に乗り遅れているとという印象を持ってしまうのです。




 林真理子が最近のエッセイで、電車の中で鼻毛の処理をしている若い女性を目撃して驚いたことを書いていました。化粧なんて当たり前、もう鼻毛を人前で抜ける時代になったんです。

 今の若い子には他者は存在しないそうですね。たとえばカップルがいるとすれば、ふたりだけがすべて、ふたり以外は舞台裏というか、全く価値のないものだというわけで「他人の目」など考えることもない。自分と接することのない人なんてどうでもいいという考え方なんだろうと。
 私もちょっと前、帰りの電車の中で、けっこう満員だったんですが、楽しそうにキスしあっている高校生のカップルに出会いました。

 林真理子はそういう人は見て見ぬふりをすれば何とかやりすごすことができると、困るのは異人種としか思えない人が仕事の相手になってきていることだと嘆いていました。

 ある女性編集者がインタビューの仕事で林真理子の事務所を訪れました。仕事が終わると「サインをいただきたい」と言います。ときどき編集者やライターの方がもじもじしながら林真理子の本を取り出しサインを乞うのだそうで、その行為自体は何とも思わない。
 ところが、その編集者は本でも色紙でもなく、ファイルノートの切れっぱしをとりだしたそうなんです。で、「仕事で会った人には記念にサインをもらうんです。〇〇(女性編集者の名前)さん頑張って! とか何か一言添えてほしい」とのたまわったそうで、これには林真理子がかちんときた。
 それじゃ田舎のラーメン屋のオヤジじゃないか! 
 ちゃんとした出版社の社員で、その出版社の看板を背負って私に会いに来たのだ、会社を代表しているわけだ。なのに、そんなシロウトさんみたいな真似なんてしなさんな。
 と、注意したいのですが、できないんですね。
 結局サインして後悔するんです。
 で、彼女の上司なりに忠告しておこう、それが親切というものだ、と思ったところ、アシスタントというか、秘書の人に言われてしまいました。
「人に嫌がられてまで親切にすることはない、損をするだけです。バカは一生バカなままでいいんです」

 このあと、林真理子は自分の若いころは恥ずかしいことばかりやっていたが、まわりにはちゃんと注意してくれる大人がいた。自分は今その立場にいるが、とても他人を注意する器ではない、この時代に若いバカを気づかせてくれる大人がいるのだろうかと結んでいます。

 この問題にはいろいろ複雑な要素が含まれています。
 会社員としての立場、仕事上の注意の仕方等々、私自身とても考えさせられます。
 皆さんはどう思われますか?




 若いころ、大学生のころですが、心に誓っていたことがあります。
 大人になったら、つまり親の世代になったらという意味ですが、そういう年代になっても 「今の若いやつらは」といった調子で若者たちを非難するのはやめようということでした。
 しかし、最近、どうにもこうにも我慢できないことが続いています。

 先週22日、事業計画発表会があった日のことです。
 朝、京浜急行品川駅で電車を待っていたら、若い女性が、今流行の座った状態で待っているんです。別に誰にも迷惑をかけているわけでもないし、座って電車を待ってはいけないルールもないですが、その姿勢がその場に適していない、というか、そぐわない、とても違和感があったんです。

 で、発表会が終わって帰りの品川駅、京浜東北線のホームなんですが、今度は若い女性が二人、同じスタイルで電車を待っているんです。
 疲れているのならベンチに座ればいいんですよ。これって、常識っていうか、羞恥心があればできないことではないでしょうか?

 私自身、非常識なことをやるし、他人さまのことをとやかく言える人間でないことは承知していますが、こと、社会の中で、あくまでも公共施設というか、そういう場所では、他人の目を気にします。
 それは、見られているからという理由だけでなく、見られる見られていないにもかかわらず、そうすることがエチケットとわきまえているからだと思うんですよ。

 以前、酒の席でもお話しましたが、電車内で化粧する女性、それも最初から最後までえんえんとやるわけですね。これも羞恥心の欠如だと思うのですが、全般的に羞恥心がなくなっているからだと思うんです。

 今朝のニュースで携帯電話の電車内での使用を不快に思う人が日本人の約半分いることを伝えていましたが、番組内のコメンテーターの大学教授は大学生の60%は迷惑ではないと思っていると言っていました。
 確かに電車内で携帯電話を使っている人たちすべてが迷惑ではありません。きちんとマナーを守っている人もいます。
 でも、私にしてみれば、そういう公共の中で、自分のプライバシーをさらけだすというのが恥ずかしいのです。




 今日はクレーム対応時の〈ガス抜き〉について話しします。

 ずいぶん前になるのですが、家族で外食した後、自宅でワインでも飲もうと近くの某東武ストアに買い物したときのことです。
 入口のところに酒屋コーナーがあって、そこで1本赤ワインを取り出しました。おつまみも必要だと思い、中の食料品売場に行こうとすると酒屋の店員(50代くらいの女性)が、お酒はその場で清算してくれと言います。
 お金を払って、ビニール袋に入ったワインを渡されて、売場に行った私はカキPを1袋つかんでレジでまた清算しました。レジの女性がカキPを別の袋に入れようとするので、ワインの入った袋があるから要らないと断ったんです。

 レジを出たところで、かきPをワインの袋に入れて、別の買い物をしている家族が来るのを待っていました。
 そのとき、足元にワインが落ちて瓶が割れこなごなになって靴や靴下が赤く汚れてしまったんです。店の人がでてきて後片づけで大騒ぎになりました。ほんと、一瞬のことで、何が何だかわからない私は手に持っていた袋を見ると破れているんです。

 酒屋コーナーに文句を言いに行くと、店員はその袋は弱いもので、鋭利なものを入れると切れてしまうもの、そういう袋にカキPを入れたのが悪いといった感じで「すいません」の一言がないんです。別に弁償してもらおうなんて考え(たかだか350円のワインですから)はなかったですが、その態度にムカッときて、それ以上は何も言わず、別の店で同じワインを買って自宅に戻りました。

 以前にもお話ししましたが、サービスが悪い店だったら何の抗議もせず、二度と行かないというのが私のポリシーなんですが、この日ばかりは家に戻ってからも怒りが収まらず、店に電話しました。応対した女性はこちらの文句を聞いてくれて申し訳なかったとあやまり、それでどうにか怒りを収まったわけです。

 株主対応だとか、代表電話にかかってくるユーザーだとか、怒りを露わにしてこちらがビビってしまうことが何度となくあります。
 これもいろいろ話題になっておりますが、自分の怒りをどこにぶつけていいものかわからず電話してくるんだと思います。その場合、もちろん、中には金品の要求やクレーマーもどきのホントに嫌な人いますが、怒りや文句を言いたいための、そのはけ口として代表電話にかけてくる人もいるわけでして、その場合、その人の気持ちになって話を聞くというのも仕事なのかなと思った次第です。




 今日は言葉に関する話です。
 私は高校時代から日本語そのものに興味をもち、言葉の間違った使い方や耳障りな言葉等々に興味がわいて、その類の本だとか、エッセイやコラムを読んでいます。
 当然、言葉に関する師匠みたいな存在の作家もいまして、古くは外山滋比古、今は永六輔、井上ひさし、小林信彦、中野翠らの提言に影響を受けております。
 最近では週刊文春に言葉に関するエッセイを連載している高島俊男という、中国文学の権威の、大学の先生なんですが、この方には眼から鱗が落ちる思いで、言葉についてのうんちくを学んでいます。
 で、この高島さんが昨年暮れにエッセイに書いていたキライな言葉に対して読者からの反響があって、キライな言葉ベスト5、というかワースト5を発表しています。

1. させていただきます
2. じゃないですか
3. あげる
4. いやす、いやし
5. な

 もうひとつ話題にしていたのが、「と思います」という言い回し。これは私がこの数年ずっと気になっていたことです。
 たとえばTVのレポーターが「インタビューしたいと思います」とか言いますが、これはもうインタビューするのは当然なんですから、「インタビューします」でいいんですね。
「食べてみたいと思います」
「やってみたいと思います」
 思います、思いますの洪水でうんざりしてきます。当然それに影響をる受けて私たちのまわりでも同じく「思います」が常套句になっている感がします。私自身使わないよう心がけているにもかかわらずポッとでてしまって、心の中で舌打ちしてしまいます。
 若いころ、「~するつもりです」という言葉をよく使っていました。やることを前提に、だけどまだ行動におこしていないので、「つもり」という風に言っていたのですが、当時の上司に「つもりじゃダメなんだ、やるんだよ!」とよく怒られました。
 今、TVで使わなくていい状況で「思います」と言うアナウンサーやタレントがいると、TVの前で毒づいております。

 言葉は時代とともに変わるものだという意見に異議を唱えるつもりはありませんが、ファッションと同じように流行しているから安易に乗るのではなく、もっと自分の中で吟味して、使ってほしいと思う次第です。


 【参考】

2001/09/08

 「お言葉ですが…5 キライなことば勢揃い」(高島俊男/文藝春秋)  

 「お言葉ですが…」シリーズももう5冊め。週刊文春連載のエッセイの連載がすでに5年続いているということなのだ。月日の経つのは何て早いことか。  
 同じ級数で書名を書くと「お言葉ですが…5 キライなことば勢揃い」となるが、実際は「きらいなことば勢揃い」がメインであり、頭に小さく「お言葉ですが…5」がくっついている。「お言葉ですが…」が先か、サブタイトルが先か、これまど毎年そのルールが変わる本も珍しい。版元の本を売る論理、読者のファン心理、それに挟まれて右往左往する著者の気持ちはあとがきに詳しい。  

 「キライなことば勢揃い」は連載の時もかなりの面白さで、嫌いな言葉、耳障りな言葉に敏感(なつもりの)僕はさっそくその内容を「1分間スピーチ」(僕のいる部署では毎朝交替でやらされていたのです)に活用させてもらった。  
 読者のアンケートの結果、キライなことばのワースト5は次のとおり。

 ・させていただきます
 ・じゃないですか
 ・あげる
 ・いやすもしくはいやし
 ・な  

 〈させていただきます〉は会社にいると、いくらでも聞くことができるし、自分でも使っている。〈じゃないですか〉は以前テレビ朝日の早朝ニュースショー「やじうまワイド」の吉沢アナウンサーがよく口にしていて覚えた。〈あげる〉〈やる〉の誤用は昔からよく指摘されている。〈いやし〉は小林信彦の恥語言葉でおなじみ。〈な〉は「…だな、と思いました」の〈な〉。
 まったくそのとおりと膝を打ったのは同じ文章の中で糾弾していた「……と思います」の乱用についてだ。いつの頃からか、リポーターも司会者も何かというと語尾に「思います」をつけるようになって、耳障りでたまらない。
「インタビューしたいと思います」「インタビュ-するのは当然のこと、インタビューいたします、となぜ言わない!」
「それでは表彰式にうつりたいと思います」「お前が思わなくても、次は表彰式なの!」
「思います」のオンパレードに心の中で毒づく。
 にもかかわらず。  
 いざ人前で話をすると、大嫌いな「と思います」とつい使ってしまうのだ。口では「と思います」といいながら、心で「そうじゃない、そうじゃない」とつぶやく情けなさ。
 
 その他、「よし」「だめ」の怨念(戦争時代の野球ではストライク、アウト等敵性語をすべて日本語に置き換えたという間違った認識に対する検証)、白兵戦の語源、忸怩たる思いの正しい使用法など、今回も興味深いことが盛りだくさんだ。




 今日はマーケティングの話をします。

 少年マンガ週刊誌の世界では、長い間少年ジャンプがトップを独走してきましたが、現在、少年マガジンがその座を奪っております。
 勝因として、作家に依存せずに編集者主体で内容の舵をとっているからと言われています。今、人気を博している「金田一少年の事件簿」も漫画家はあくまでも絵を担当しているだけでしかないと聞いたことがあります。
 ただし、この編集者主体の編集方針は今に始まったことではなく、少年マガジンの第一期黄金時代を築いた1960年代から70年代にかけても同じだったんですね。

 当時の編集長、内田勝さんが書いた「奇の発想」にそのへんのことが綴られております。
 あのころ、少年サンデーに発行部数で水をあけられていたマガジンは、背水の陣で形勢逆転を狙っていて徹底的に小学生たちにアンケートをとったそうです。そのデータからいくつかのキーワード(どういうものだったかは一昨年読んだものなので忘れましたが)を引き出し、そこから作家さんを選択し、誕生したのが、今ではコミックの金字塔、名作といわれる「巨人の星」、「あしたのジョー」、「愛と誠」なんですね。
 決して作家側から発想された企画ではないわけです。もちろん梶原一騎の原作、川崎のぼる、ちばてつや、ながやす巧らの絵というコンビがヒットの要因ではあるのですが。

 「奇の発想」を読んで、少年コミックの世界にこれほど徹底したマーケティング戦略があるものなのかと、目から鱗が落ちたのです。
 今、プレステ2の話題でもちきりのゲーム業界、社長の話ではななかなかヒットがでない状況の中で、この内田さんの発想をもとに、少年たちの胸を熱くするようなソフトを開発してほしいと切に願う次第です。




 今日は本の紹介をさせてください。
 毎週月曜日の夜10時から日本テレビで「永遠の仔」が放送されています。今夜は3回めですが、天童荒太の原作は、昨年年末に発表された数々のミステリーベストテンで第1位を獲得しています。
 私はまったく内容を知らずに読んだのですが、「永遠の仔」はミステリというジャンルを超えて、これまでの私のオールタイムベストファイブに入ると言ってもいい、心が揺さぶられる小説でした。
 最近、ニュース等でいろいろ報道されている、児童虐待をテーマにしたとても重い内容の、最初は読み進むのがつらい小説です。

 親からの虐待でトラウマを持った1人の少女と2人の少年の精神病棟における、17年前の物語と、その後再会して事件に巻き込まれる3人の現在の現在の物語が交錯しながら、彼らがつらい現実にぶちあたりながら、なんとかトラウマを克服して生きていこうとする姿、生きていくことの尊厳を謳いあげた傑作だと私は思っています。

 最近は本でも映画でも泣けるということが1つのお薦めの意味を持っていて、どうにも納得がいきません。安易なお涙頂戴ものは昔から嫌悪の対象でした。何も感動だけに人は涙を流すわけではありませんから。悲しい現象にも涙を流すんですから。むしろその方が多いでしょう。
 ですから、泣けるということで、「永遠の仔」を紹介したくはないですが、後半は泣きどおしでした。それは目頭が熱く熱くなる、涙が頬を伝わるなんてものではなく、ほとんど号泣に近い。嗚咽を漏らしながら読んでました。

 想像してください。隣の部屋でカミさんと子どもが寝ている夜中、わんわん泣きながら本を読んでいるいい歳をした男の姿を。
 とにかく、後半は明日が仕事でもう寝なくてはと思いながらもやめられなくて、ほとんど一気に読んでしまいました。
 上下巻がそれぞれ約500ページあって、二段組ですが、ぜったい読んで損はしないと思います。
 ということで、今日はお薦めの本の紹介でした。

     ◇

【参考】

2000/02/07

 「永遠の仔」上下(天童荒太/幻冬舎)

 下巻を一気に読了した。
 ラスト近くになるにつれ3人の主人公たちの台詞の一つひとつが胸にしみた。涙腺がゆるみ、涙が頬をつたわり、鳴咽がもれ、終章になってやっと平静さをとりもどしたかに思えたら、ラスト3人が互いに励ましあうために言いあったという言葉を目にするにいたってまた大泣きだ。
 「マークスの山」の時も読書が深夜に及び、泣きながら読み終えたのであるが、あの時以上に魂が揺さぶられた。
 「永遠の仔」は昨年末に発表された数々のミステリベストテンで1位を獲得し、いったいどんな作品なのか注目していた。図書館に予約はしたが、人気が高くて当分借りられないだろうと思っていたら、割と早く連絡がきて驚いた。

 まさに現代を象徴する重いテーマである。親の児童虐待、育児放棄、裏切り。親の愛を受けられず、心を喪失した子どもたちの悲惨な毎日。裏切られ、傷つけられ、ねじまげられる幼い精神。それでも親に愛されたいと願う、切なく哀しい子ども心。
 ここに描かれていることはフィクションであるが、似たようなことはまぎれもなく現実に起こっていて、その犠牲者は確実に存在することを思うと何ともやりきれなくなる。

 トマス・ハリスの「レッド・ドラゴン」には残虐非道な精神異常の殺人者が登場する。最初彼の犯罪に怒りを覚えるが、両親に虐待された生い立ちを知るにつれ、彼が犯罪に走るのも仕方ないかもしれないと同情してしまったことを思い出した。
 日本中を震撼させた神戸・酒鬼薔薇事件の加害者の少年、9年間少女を監禁したゲス野郎、小学生刺殺事件の犯人とおぼしき自殺した21歳の青年あるいはウサギを惨殺したり、小犬の足を切断して歓喜にしたっているであろう名もない人たちにも(どんな事情があろうとも、絶対彼らの犯罪は許されないけれど)精神を歪めた残酷な幼年、少年時代があったのだろうかと考えてしまうのだ。

 本作は少年少女時代のトラウマをかかえてもがき苦しみながら生きる3人の男女の過去と現在を交叉させながら、「いま生きているということ」の尊さを高らかに謳いあげた物語である。
 重たすぎるテーマだから上巻は読むのがつらかった。ミステリの要素がなかったら読み進められたかどうかわからない。しかし、下巻において少女のトラウマの原因が提示されてからは、3人が再会してから巻き込まれる殺人事件の解明なんてどうでもよくなってしまった。逆にラストですべての謎が解き明かされた時など、あまりの着地のよさに「現実はそんなものではないだろう」と不満を持つ始末だ。

 3人が出会った1979年と再会した1997年を季節の移り変わりとともに章立てで交互に描く。過去と現在が微妙に関連しあう構成が見事である。
 3人の過去を描いた部分は名作「スタンド・バイ・ミー」を彷彿させる。3人の少年少女たちが愛しくてたまらない。過去の体験が現在の生活に深くかかわってくると言う点では「スリーパーズ」か。安易に映画化なんてしてほしくないが、もし完璧に映像化できたとしたら、人間の尊厳に迫った深く重いテーマを持った名画が誕生するだろう。




 皆さんは「京のぶぶづけ」をご存知でしょうか?
 「京のぶぶづけ」とは京都のお茶漬けのことで、「ぶぶづけをいかがですか?」と言われることは「帰ってください」という意味だそうです。

 ある本に書かれていたことですが、五木寛之がこの「京のぶぶづけ」の風習をおくゆかしい高級な文化と持ち上げているそうです。
 五木寛之との対談か何かのゲストに(京都の)一流料亭の女将をゲストに呼ぼうとしたところ「そんな器ではない」と丁寧にきっぱりと断れたそうです。
 だったら仕方ないと諦めてそのままにしていたら、半年後、女将が気分を害していると人づてに聞きました。

 実は京都の慣習として、依頼に対して最初に断るのはマナーなのだそうです。再度の依頼も断ります。で、三度めでやっと了解するといいます。
 五木寛之は、こうしたやりとりに驚きつつも「京のぶぶづけ」に結びつけて肯定するわけなんですが、このエッセイを読んだ某大学教授が反論します。
 言葉を信じない文化の頂点が高級なわけがないと、「野蛮な文化じゃないか!」と否定するのです。

 私もこの教授の意見に大賛成です。
 思ったことを言って相手を傷つける、不愉快にさせることはよくあります(あるいはその逆も)。かといって、言葉の裏読みばかりするなんてエネルギーの無駄使い、愚の骨頂だと思います。
 これはプライベートでも仕事でもいえることで、こういうことに関しては、自分は外国人になってしまい、「イエス、ノーをはっきりしてもらいたい」と言いたくなります。

 皆さんはどうお考えでしょうか?

     ◇

 【参考】

2000/09/22

 「私の嫌いな10の言葉」(中島義道/新潮社)

 羽田図書館の新刊コーナーにあった。著者は現在電気通信大学教授(専門はドイツ哲学)。プロフィールを見るとこれまでに何冊もの著書を上梓しているが僕はまったく知らない人。タイトルに惹かれて借りてきた。
 これがもし「私の好きな10の言葉」だったら絶対見向きもしないだろう。〈嫌いな10の言葉〉に日頃僕自身が使ってしまうものもあって不安半分、でももしかしたらこの著者と相通じるものがあるかもしれないと思った。
 著者が毛嫌いする〈親身になって相手のことを考え忠告する言葉〉を章タイトルにして世の中に跋扈している偽善的考え、無意味な行為を豊富な例をあげながら糾弾していく。
 著者が嫌いな言葉としてあげ、章タイトルになっているのは次のとおり。

 相手の気持ちを考えろよ!
 ひとりで生きているんじゃないからな!
 おまえのためを思っていっているんだぞ!
 もっと素直になれよ!
 一度頭を下げれば済むことじゃないか!
 誤れよ!
 弁解するな!
 胸に手をあててよく考えてみろ!
 みんなが厭な気分になるじゃないか!
 自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!

 単なる皮肉、受けを狙ったへそ曲がり論、人と違ったことを言って優越感に浸るものだったら、自分の〈読み〉がはずれたというだけで、本をまた図書館に返却するだけだが、思ったとおり最初からぐっと僕の心はをつかまれてしまった。

 中野翠のコラムを例にあげ、彼女の卓抜なユーモアを賞賛する。
 笑う哲学者・土屋賢二の〈笑い〉がちっともおかしくないという指摘もわが意を得たりの心境。(僕も週刊文春連載の土屋氏のコラムを開始当時読んで、どこがおもしろいのかわからなかった。)

 著者は言葉の裏読みを極端に嫌う。
 五木寛之のエッセイにでてくるエピソードで「京のぶぶづけ」を無条件にもちあげているそうだ。 
 五木寛之との対談か何かのゲストに一流料亭の女将をゲストに呼ぼうとしたところそんな器ではないと丁寧にきっぱりと断られた。だったら仕方ないと諦めてそのままにしていたら半年後、女将が気分を害していると人づてに聞いた。実は京都の慣習として、依頼に対して最初に断るのはマナーなのだと。再度の依頼も断る。そして三度目でやっと了解するという。
 有名な「ぶぶづけ(お茶漬け)をいかがですか?」は「帰ってください」という意味で、五木寛之はそんな慣習を肯定するのに対して、言葉を信じない文化の頂点が高級なわけはない、と「野蛮な文化じゃないか」と著者はいきまくのである。
 僕もまったくそのとおりだと思う。思ったことを言って相手を傷つけることはよくある。かといって言葉の裏読みばかりするなんてエネルギーを無駄に消費するだけ。イエス、ノーをはっきりしてもらいたい。

 もうひとつ著者自身が経験したエピソードで特に共鳴したものがある。
 奥さんとのことで、ある日自宅に友人たちを招待して大いに盛り上った。友人たちが帰った後、なぜか奥さんがブスっとしている。理由を訊くと「どうしてあんなことを言うの?」と非難される。会話の中で友人に対して奥さんがさる有名な哲学者を知らないと著者の言った言葉にカチンときたらしい。「知らないから知らないと言ったっだけだ。別に知らないことをバカにしたわけではない」と説明しても奥さんの機嫌は直らない。
 僕もこれと同じような喧嘩を何度もカミサンと繰り返している。こちらの何気ない言葉に過敏に反応する。いや、反応するならするでいい。その場で指摘すればいいのに、そういうことは何も言わず、一週間くらいダンマリを決め込む。そんな毎日に耐え切れなくなって、「何を怒っているんだよ?」と訊くと「わからないの?」と驚く。こちらの鈍感さを憂う。
 こちらの発した言葉に対して傷ついたのならそのときにそう言ってくれればいい。こちらはそんな気持ちなんて持っていないのだから。ところが傷ついたことをわかったこととして相手は黙り込むから始末に悪い。著者はそこを嘆くのだ。
 その他、かずかずのエピソードが紹介され、そのたび怒り心頭、ときには行動で示すこともあって、「よくもそこまで」と感心したりあきれたり。
 もちろん書いていることの100%を支持するわけではないけれど、読んでいて痛快な気分になれる。




 新しい仕事を始めて一週間経った。
 何とかやれそうだが、とにかく疲れている。夜中の1時ごろに寝て4時過ぎに起きるのだから当たり前か。
 仕事中は(新しい仕事も通常の仕事も)別になんともないのだが、映画鑑賞にもろ影響している。
 疲れですぐに寝てしまうのだ。気がつくと意識がなくなっていて「いかん、いかん」。
 映画がつまらないということではなく、あくまでもこちら側の体調の問題。
 先日は、映画が始まる前から寝てしまった。
 こうなると、なんとか起きていようと頬を拳骨で叩きながらの鑑賞となる。傍から見ると少々異様だろうな。

          * * *
 
 小学3年生に出題された算数の問題です。
 
 1つに6人ずつ座れる長椅子があります。61人の子どもが座るには長椅子はいくついるでしょうか?
 皆さんもちょっと解いてみてください。

 クラスの解答は半々に割れたそうです。
 11脚とするグループ。 
 61÷6=10余り1
 6人ずつ座るのが10脚、1人だけのが1脚で、計11脚。
 もう一つのグループは10脚。
 余った子が1人で座らされるのはかわいそうだから、どれかの長椅子を7人掛けにすれば10脚ですむというわけです。
 子どもらしい答えですが、算数の問題として答えはやはり11脚が正しいそうです。
 算数の規則はやさしい気持ちとは別なのだと先生が説明し、子どもたちは納得したのですが、一人の女の子がある計算式を提示しました。
 (6×6)+(5×5)=61
 11脚のうち、6脚には6人ずつ座り、5脚には5人ずつ座ります。そうすれば余った子が1人で座らされることはありません、とその女の子が言うとクラス全員から拍手喝采されたそうです。

 6人座れる長椅子を5人掛けにするのは増やすのではないから問題文に対する違反にはなりません。そのうえ、余った子がひとりぼっちにならないよう、ちゃんとやさしい気持ちを生かしています。

 物事を杓子定規に考えるのではなく、やさしい気持ちを持って対処するということを教えられた感じです。




 皆さんは本多勝一というルポライターをご存知でしょうか?
 かつて朝日新聞の花形記者として活躍し、現在はフリーの文筆家として「週刊金曜日」を仲間たちと発行しています。本多勝一は私にとって愛憎相半ばする方でして、彼の本を読んで感銘を受けたり、逆に腹が立ったりしています。

 今日は別に本多勝一の書籍を紹介するわけではありません。
 彼の作品は朝日文庫シリーズでまとめられています。
 その一連の文庫に〈凡例〉が掲載されております。それは本多勝一が書く文章に、本人だけの約束ごとがあって、それを紹介しているものです。
 アメリカ合衆国は合州国、ローマ字はヘボン式ではなく日本式、外国人の名称などの分かち書きで使用する〈・〉(ナカテン)は〈=〉二重ハイフォン、等々、より文章をわかりやすくするための処置なのですが、その中で一番納得できるのが、数字の表記です。
 三進法ではなく、四進法を導入しています。

 会社に入り、現在では稟議書などでよく数字を読むわけですが、単位を千円、百万円として数字が書かれています。
 数字が二桁くらいならいいのですが、4桁以上になると桁をいちいち数えなければなりません。
 20(千円) = 2万円       2000(千円) = ?
 30(百万円) = 3千万円     3000(百万円) = ?
 
 数字で3桁ずつカンマをつけるのはいいとして、以上のような漢字を使用すると日本語は無理があります。
 西洋ではthousand、billionが単位になりますが、日本語では万、億が単位になります。
 300(千円)より、30(万円)の方が一目瞭然だと思うのですが、いかがでしょうか?

 というわけで、数字の表記で千、百万の単位を使用するのはやめてもらいたいという私の主張でした。





 早いものでもう12月です。
 11月に新札が発行され、かなり流通してきて、よく見かけるようになりました。
 もうずいぶん前になりますが、千円札と五千円札、それぞれの肖像画が野口英世と樋口一葉に変更されるとニュースで知ったとき、笑ってしまいました。
 紙幣の肖像画が本当にこの二人でいいのかと思ったんです。

 野口英世は世界に誇る日本の偉人として、皆さん、小学生時代に一度は伝記を読んで、読書感想文を書いたりしているでしょう。樋口一葉は「たけくらべ」などで女流文学者として、また若くして亡くなった薄幸な女性として喧伝されています。
 それはそうなんですが、二人の素顔はというと、借金ばかりでしていて、お金に対して数々のエピソードが伝えられています。

 たとえば、野口英世。村一番の秀才として帝大、今の東京大学に入学しました。村の誇りだと、上京時に村人たちは寄付を募り、今の金額で400万円ほど集まり、学費の足しにと渡したのですが、野口英世は芸者宿で散財してしまうのです。それも一度だけでなく、二度も同じことを繰り返し、3度目でやっと東京行きの汽車に乗ったそうです。
 この手の話はいくつも伝えられていて、アフリカで研究生活をしている時も友人から借金をして、それをうまく理由をつけて踏み倒してばかりいたと聞いたことがあります。

 樋口一葉が貧しかったことは有名で、そのためにいろいろなところから借金をしています。その証拠として、彼女の記念館には多くの借金証文が展示されているとのことです。

 大蔵省、財務省は新札の肖像となる人物を選定する際、二人のこうした借金にまつわるエピソードを知ったうえで決定したのか、まったく知らなかったのか、気になります。

 財政状況が芳しくなく、何かというと増税、増税の政策が聞こえてくる昨今、この二人が新札の肖像画になったことは偶然ではないような、そんな気がしてなりません。




 (1998年)11月20日は、昨年公開されて大ヒットした「タイタニック」のビデオが発売される日です。映画は日本でNO1の興行収入を記録しましたが、ビデオもこれまでの最高記録を塗り替えるのは間違いないでしょう。

 今日は1912年実際に起きタイタニック号の沈没事故を危機管理の観点から考えてみましょう。
 当時世界最大だったタイタニック号には約2,200人が乗っており、事故によって約1,500人が死亡しました。

 この海難事故はその後多くの教訓を残しました。
 まず、救命ボートですが、当時船の救命ボートは乗船客数ではなく、船の総トン数で決められていました。それによればタイタニック号は962人分の救命ボートを積んでいればよかったんですね。実際には1,718人分のボートを積んでいたわけですが、それでも乗船者の半分しか乗せることができませんでした。
 事故後は規則が改正されて、乗っているすべての人に十分な救命ボートの積載が義務づけられました。

 もう一つは無線配信です。
 当時船の無線通信士は24時間勤務ではなく、深夜仮眠をとってもいいことになっていました。沈没の危機に直面したタイタニック号の通信士は必死に遭難信号を打ち続けましたが、わずか16㎞しか離れていないところにいたカリフォルニア号の通信士はその直前に無線のスイッチを切って寝てしまっていたのです。このときカリフォルニア号が受信して救助に向かっていたならば、ほとんどの乗客は助かっただろうと言われています。
 実際に遭難信号を受信したのは現場から92㎞も離れたカルパチア号で、到着するまでに3時間以上もかかり、救助できたのは700人そこそこだったのです。
 以後、客船の無線通信は24時間体制になったということです。

 そのほかにもタイタニック号の見張員が双眼鏡の引継ぎをしなかったために、氷山の発見が遅れたとか、引退まじかの最後の航海だった船長が大西洋横断スピード記録をだす誘惑にかられて氷山の多い北寄りのコースを選んだとか、いろいろと問題が多かったわけですね。
 こうして事故の原因を挙げていくと非常に腹が立ってきます。なぜならこの海難事故はどう考えても人災でしょう。
 当時船は沈没しないものとでも考えられていたのでしょうか?




 上岡龍太郎という芸人がいました。先月、先々月ですか、引退してしまった方です。昔、漫画トリオという3人組で横山ノックらと漫才をしていました。

 上岡龍太郎は人生の中で、これは仕事でもプライベートでも、迷うことがあって、どちらに決断しなければいけないとき、必ず楽な方を選択してきたといいます。
 この楽な方を選択するということで、どういう効用があるかといいますと後でぜったい後悔しないそうです。
 選択の間違いを後悔したくても、自分で楽な方を選んでしまったのですから、「仕方ない」ですんでしまうそうです。
 なら、つらい方を選んでも同じことが言えるのではないかというと、そうでもないらしいのです。
 人間という生き物は本来怠惰にできているそうで、楽な方へむかう性質があるそうです。ですから、つらい方を選択して、もし間違った選択だとすると、必ず、なぜあのときに、と後悔するのだそうです。
 上岡龍太郎の言うことですから、どこまでホントなのかわかりませんが、一理あるなと思います。

 私の場合、迷った場合に心がけているのか、やらないで後悔するならやって後悔したいということです。
 たとえば、好きな人がいて、彼女の気持ちがわからない、自分の気持ちを打ち明けて「ごめんなさい」と言われる方が、何も告白しなくて、その女性がほかの男とつきあってしまったら、あきらめがつくのかどうか、ということです。
 仕事においてもさまざまな選択場面がでてきます。みなさんはどのような心構えで選択しているのでしょうか?

 と、今日は、二者択一しなければならない場合の気持ちのありようについてお話ししました。




 某ゲームメーカーには二十数年勤めた。
 最初は某出版社から新設の映像事業部へ出向の立場、転籍したとたんに子会社に出向、戻ってきたら受け入れる部署がなく、リストラ用の部署(の先駆となる部屋)に入れられた。後から来た人はほとんど辞めていったが、何とか食いしばって、アミューズメント機器の販売部にもぐりこんだ。だか、すぐに使えないとの烙印を押され、総務部に移った。

 総務部では毎朝朝礼があって部員が司会を担当する。月曜日は司会が1分間のスピーチをしなければならない。
 自分が担当のときは、出社してすぐにパソコンで原稿書き(打ち)に精出した。話題は読んだ本、雑誌、あるいはTVから仕入れる。仕入れたエピソードを紹介して、仕事に結びつけるところがミソで、これで、私のスピーチは評判がよかった。
 その原稿(プリントアウトした用紙)が出てきた。

 適度に紹介していきます。
 このスピーチをアレンジして誰か有効活用してくれないかなぁ、なんてと淡い期待を抱いています。

     ◇

 先日、久しぶりにビデオで「ブレードランナー」を観ました。
 リドリー・スコット監督のカルト映画として人気の高いSF映画なんですが、別にこの映画についてあれこれお話するわけではありません。
 実は映画の冒頭で、主演のハリソン・フォードが日本人が経営する立ち食いソバ屋でうどんを注文するシークエンスがあるんですね。画面ではわからないのですが、たぶんその上に乗せる天ぷらをハリソン・フォードが4つくれと言うんですね。すると日本人の主人が「4つじゃ多すぎる、2つでいい」と。それでもハリソン・フォードは4つ欲しいんだ、4つくれと言うと、なお「2つで十分ですよ、わかってくださいよ」と食い下がります。職人肌のこだわりともとれますが、お客さんサイドに立った気遣いの一言だとも言えないでしょうか?

 それで思い出したのは、もう何年も前に家族3人で渋谷のイタリア料理のお店に行ったときのことです。
 パスタを私とカミさん用に2種類、それから2品ほど注文しました。出てきたパスタを見て驚きました。何と量が3人前くらいあるんです。それが2つですから女性を含む大人2人と子どもで食べきれるわけがありません。当然大量に残しました。
 なぜ注文を受けた際、ウェイターは当店ではパスタの量がこれくらいだから1つでいいんじゃないかと説明してくれなかったのでしょうか。
 まあ、客から注文をされたからそのとおりにオーダーをとっただけでしょう。マニュアルにもないことだから、余計なことは言いたくないのかもしれません。
 あるいは、理由を話せば注文の数が減り、売上に影響すると考えたのかもしれません。
 しかし、客は夫婦とその子どもですから、どう考えても食べられる分量でないことは一目瞭然なんです。ちょっと気をきかせて、やさしさを見せてくれたら、なんて良心的なお店なんだろうと、また渋谷に行った際に立ち寄るかもしれないのです。
 こうして、その店は客を1組、永遠になくしてしまったのでした。

 こういうちょっとした一言を言えない、言いたくない、それで信用をなくしてしまう、ビジネスチャンスを失う、ということは私たちの仕事でもよくあることではないでしょうか。
 こういうと、じゃあ、お前はちゃんとやっているのか、と反論された場合、自信をもってイエスと答えられないのがつらいところですが、少なくても代表電話にかかってくるお客様に対してはできるだけの対応をしているつもりです。私の一言で当社のファンが消えてしまうというのはけっこう怖いことです。
 東芝の事件が、ホント、他人事には思えない今日この頃、サービスということについて思いをめぐらせた映画の1シーンでした。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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