2001/06/16

 「デンジャラス・ビューティー」(丸の内ルーブル)  

 男が女になったり女が男になる話に興味があるってことは何度か書いていて、新井啓介って変態じゃないかと思われているのではないかと時々心配している。いわゆるメタモルフォーゼの楽しさというものなんだけど。
 同じ理由で少女が女性になる瞬間、ボーイッシュな女の子がふと見せる女性らしさにたまらないエロティシズムを感じる。

 FBIの中で男勝りの女性捜査官(サンドラ・ブロック)がミス・コンテストに潜入捜査するため、短期間で絶世の美女に変身させられるというこの映画を予告編で知った時、その変身ぶり、エロティシズム見たさに前売券を買ってしまった。
 日本でも醜女が美女に変身するTVドラマがよくある。美人女優がメーキャップでブスになる方法だ。この映画のサンドラ・ブロックは素顔と演技で色気のない女性捜査官を体言している。 ストーリー自体はたわいもないサスペンスコメディである。

 世間を騒がす爆弾魔からミスコンテスト会場に爆弾を仕掛けるとの予告がありFBIが潜入捜査を開始する。その捜査官に任命されたのがサンドラ・ブロック。ミスコンで数々の優勝者を輩出したメイキャップ・アーティスト(マイケル・ケイン)の指導で一夜漬けで世紀の美女が誕生するわけだが、心まで女らしくなるわけがなく、外見と内面のギャップ、それによって巻き起こるドタバタが笑いを誘う。  

 期待していた以上でも以下でもない映画、でも楽しい映画、アメリカ映画らしい映画といえる。  マイケル・ケインの十八番、おかまっぽいアーティストぶりがいい。  

 映画館をでてからポスターを見て知ったのだが、ミスコン理事長にキャンディス・バーゲン、司会者にウィリアム・シャトナーが扮していた。まったく気づかなかった。

     ◇

2001/06/30

 「A.I.」(丸の内ルーブル)  

 急逝したスタンリー・キューブリック監督が次回作に予定していた作品が未来を舞台にした人間と少年ロボットとの愛の物語「A.I.」と知ってとても残念な思いがした。これはまさしくキューブリック版アトムではないか。「2001年宇宙の旅」の美術デザインを当初手塚治虫にオファーしたキューブリックの、21世紀初頭を飾る作品としてまことにふさわしいものであり、「時計仕掛けのオレンジ」以降久々のSF作品でもある。キューブリックの未来造形の質感、色彩感覚を堪能できると考えたからだ。

 原作のブライアン・W・オールディス「古びた特製玩具」(望月明日香 訳)は昨年暮れに読んだキューブリック研究本「ザ・キューブリック」(フットワーク出版)に収録されていた。掌編のような短編で、これをどう肉付けしてSF大作にするのか、キューブリックのことだから原作とはテイストの違う、ほとんどオリジナルに近い内容になるのではないかと逆にそれが楽しみに思えただろう。
 人間を描くことにほとんど興味を持たないキューブリックに人とロボットの愛をテーマにした映画が撮れるのか、という不安もあるにはあったけれど。  

 そんな未完の大作「A.I.」をスティーブン・スピルバーグ監督が引き継ぐことになった。生前キューブリックは映画の題材をスピルバーグに向いていると判断し、スピルバーグに演出をさせ自身はプロデューサーを担当する意向もあったと何かの本に書かれてあった。果たしてそんなビッグプロジェクトが成功したかどうか。資質が極端に違う巨匠が並び立つわけがない。  
 そんなわけで公開が近づくにつれ話題が高まっているスピルバーグ監督作品「A.I.」には何の期待も抱いていなかった。個人的には「A.I.」より手塚治虫の初期の傑作をアニメーション化した「メトロポリス」の方が興味深かった。同じ未来世界、ロボットが主人公の物語なのに超大作「A.I.」の陰に隠れてしまった感があり、手塚ファンとしてははがゆくてしかたないのだ。  

 だからこの日は本当は「メトロポリス」を観る予定だったのだ。2週間に一度通っている有楽町のクリニックに行った際ついでに観ようとしたものの有楽町・銀座界隈では上映が終了していて、たまたまのぞいたガード下のディスカウントチケット屋に「A.I.」の前売券があったので、そのまま直行したというわけである。 

 温暖化で南極の氷が溶け地球の大都市の多くが水面下に沈んだ未来、ロボット工学は驚くほどの発達をみせ、外見は人間と変わらないロボットが作られている世界。  
 人を愛することができる少年ロボットがある夫婦に授けられるが、問題を起こして捨てられてしまう。母親に愛されたい、愛されるには人間にならなくてはいけないと願う少年ロボット・デイビットはピノキオが〈青い妖精〉によって人間になったことを知ると、〈青い妖精〉を捜し求めてはるかかなたへと冒険の旅にでる……という物語。  

 前半は一人息子を不治の病で失おうとしている夫婦(特に母親)とデイビットの関係、奇跡的に回復し帰ってきた息子との確執を描く室内劇が延々と続く。もしキューブリック監督だったら、この室内のデザイン、色感、シンメトリーを多用するカメラワーク等々、ドラマ以外に楽しめる要素がたくさんあるだろうと思いながらスクリーンを見つめていた。  
 デイビットが森に捨てられてからはジュード・ロウのセックスロボットの演技を堪能した。ロボット狩りやジャンクショーのシークエンスではさまざまな意匠のロボットが登場し、ビジュアル的にも目を見張る部分があるものの圧倒されることもなかった。
 大都会に舞台に移してからも、派手なデザインのビル群、建物がスクリーンを飾ってもそれほど〈センス・オブ・ワンダー〉を感じなかった。スピルバーグ映画にとっては当たり前の世界という気がする。
 
 ストーリーもわからないほどでもないけれど、何かと説明不足が気になる。  
 海に沈んだマンハッタンのビルにデイビットがやってくると「君をずっと探し求めていたんだ!」と長年少年ロボットの研究をしていたとおぼしき博士がとびだしてくるのだが、その後デイビットが人間になれない現実を悲観して海に飛び込んで自殺をはかっても博士は何の行動もしない。登場もしない。あのエピソードは何だったのか。  

 【以下これから映画を観る方は読まないでください】  

 デイビットが海の底で眠りついて2000年が経過し、映画冒頭のナレーターの正体(絶滅した地球に調査にやってきた宇宙人)がわかってからラストにむかってどうドラマを締めくくるのかとやっと姿勢が前のめりになってきた。  
 デイビットに記憶されていたデータで絶滅前の地球の様子を知りえた宇宙人は君の願いをかなえてやると言う。デイビットは「人間になりたい」と答えるがそれは無理な話。彼らに人間を再生させる能力があることを知ると母親に会いたいと懇願する。再生させてもなぜか1日しか生きられない、それでもいいのかとの問いにうなづくデイビット。  
 奇跡はすぐにやってきた。懐かしいあの部屋にやさしい母親がいた。デイビットは母親を抱きしめて言う。
「僕を愛して!僕をやさしく抱きしめて!」  
 ここで涙が一粒頬を伝わった。

 この映画は母親に愛されず捨てられた子どもがそれでも母を信じて母の愛を得る物語だった。母に捨てられた少年は母親に「愛している」と言ってもらいたい。そのためだけに2000年の年月をかけてわずか1日だけの至福を享受する。愛に飢えた少年の気持ちを考えたら一粒の涙が二粒三粒となり、ラスト幸せそうにベッドで眠りに入る母子の姿に思わず嗚咽をあげそうになった。  
 親に虐待された子どもの、それでも親の愛を求める姿に弱い。子どもたちのけなげな姿が僕の涙腺をゆるめてしまうのだ。「永遠の仔」に号泣したことは記憶に新しい。
 
 なぜ泣くのか。そんな親子の関係がわからないからだと思う。僕は親の愛を受けて育った。自分の子どもが誕生してからは同じように愛情を持って接している。子どもが生まれたばかりの頃、夜泣きに苦労したことがあった。六畳一間しかない部屋、こちらの精神がまいっている時で思わず手をあげたくなることもあった。我慢できたのは自分の子どもだからだ。この子に自分の血が流れていると思えば手なんてだせない。かわいいのである。だから近年メディアを騒がす親の児童虐待、育児放棄の問題には「なぜ?どうして?」と心痛めている。  
 ラストシーンでこうした様々な思いがよみがえってきたのだ。  

 「A.I.」のラストで僕は泣いた。では「A.I.」は素晴らしい映画か、感動作か、と問われれば素直に「はい」と答えられない。  
 常々思っていることなのだが、泣ける映画=感動作ではない。世の中には変な風潮があり、泣くという行為に特別な意味を持たせる人が多い。  
 たとえば山田洋次監督の「学校」という作品がある。TV放映された際、後半泣きながらTVを観ていたのだが、いい映画だと思わなかった。田中邦衛演じる男のあまりにも悲惨でかわいそうな生い立ちに涙したに過ぎない。  
 大事な人、愛しい人を失えば誰だって泣くだろう。それは決して感動の涙ではない。それと同じだ。
「人を泣かすことは簡単なんだ、笑わせることがいかにむずかしいか」
 TVのコメディ番組や喜劇映画を見るたびによく親から言われた言葉がバックボーンになっている。  
 いくらラストで涙を流したからといってそれが映画全体の評価にはならない。
(「A.I.」には観客を泣かせようというあざとさがない分素直に観ていられたところもある。)  

 大ヒットを連発するスピルバーグ作品に対して反発する人、所詮お子様ランチと蔑む人も多い。が、僕自身精神が幼いのか、スピルバーグ映画にはいつも夢中にさせられる。特に冒険活劇における演出力はすごい。
 酷評された「ロストワールド ジュラシック・パーク」でさえ恐怖やサスペンスをかもし出す演出は超一級だった。「ロストワールド」はシナリオが破綻していた。昔の頃に比べスピルバーグはシナリオにあまり重きをおかなくなってしまったのだろうか。「A.I.」ももう少し練る必要があったのではと思う。




スポンサーサイト
2001/05/02

 「バトル・ロワイアル 特別篇」(新宿オスカー)

 「バトル・ロワイアル」が公開され大ヒットしていた今年はじめ、とあるファーストフード店でコーヒーを飲みながら読書にいそしんでいた時のこと。隣の女性たちの会話が聞こえてきた。話からすると二人は出版社に勤める編集者らしい。  
 耳をそばだてたのは「バトル・ロワイアル」の話題になった時だ。話を要約するとこうなる。映画「バトル・ロワイアル」が国会議員の上映中止要請等何かと話題になって多くの中学生が関心を抱いたものの映画は観られない。かっといって活字嫌いの彼らのこと、小説を読むのはおっくうだ。で、彼らはマンガ化された「バトル・ロワイアル」にとびついた。だから「バトル・ロワイアル」のコミックスが売れているのだそうだ。  
 この話を友人にすると、「バトル・ロワイアル」の小説を読み、映画も鑑賞し、マンガも目をとおしている高校生になる娘の3つの作品に対する印象を教えてくれた。なんでもマンガの描写が一番残虐度が高いらしい。  
 となると、せっかくR-15に指定して中学生以下には見せないようにした処置はなんだったのだろうと思う。映画「バトル・ロワイアル」を教育上好ましくないと声高に糾弾する側にとって小説やマンガの存在は許せるのだろうか。  

 小説「バトル・ロワイアル」は某ホラー大賞の最終選考まで残ったものの内容がきわめて反社会的と審査員の反感を買い落選した経緯がある。  
 この小説が映画化されると某映画BBSで話題になりだした時は、007シリーズが今なぜ?くらいの認識しかなかった(あちらはカジノロワイアルか)。書籍の情報にはわりと敏感のつもりでいた僕としては小説の存在を全く知らなかったのは恥ずかしい限りだが、深作欣二監督によって映画化されると知り、まずは映画化作品に内容に触れよう、本を読むのはとりあえず後回しにした。  
 そうこうするうちにあの騒ぎである。映画がどんなにひどい内容であっても権力で上映中止にするような真似はよくないと思っている(それは小説でもマンガでも同じこと)。だからあの騒動が何だったのか。映画を純粋に観て自分なりの判断を下したいという思いが強くなった。が、いざ、ふたを開けたら大ヒット。そうするとイマイチ劇場に足を運ぶ気持ちがにぶった。そのうちにと思っていたらロードショーが終了。で、特別篇こそ真っ先に観ようと思いつつ、またズルズルとのびてしまい(人殺しがメインの映画って敬遠しがちなのだ)、会社帰りに寄れる丸の内東映での公開は終わり、新宿まで行かなければならなくなった。
 考えてみれば、この映画は銀座より新宿の場末の映画館で観たほうが似合っている。     

 国会議員が大騒ぎするほど殺人ゲームにインパクトはない。  
 テーマは中年男と少女の心の交流と断絶をまぶした逆説的友情論である。  
 近未来、多発する少年犯罪に業を煮やした政府は〈バトル・ロワイアル法〉通称〈BR法〉を制定した。全国の中学校の中から選別されたクラスの生徒たちを一定期間ある地区に閉じ込め、サバイバルゲーム(殺し合い)をさせ、最後に生き残った一人だけが脱出できるというもので、体のいい少年減らしの法律である。世の大人たちは傍若無人と化した少年少女は生きる資格なしと判断したのだ。  

 深作監督の演出は軽快だ。映画世界の状況を簡潔に説明した後、たたきこむように一気にサバイバルゲームに突入していく。さまざまシチュエーションでの殺し合いの描写。ある者は問答無用に相手に牙をむく、ある者は共存の道を模索する、ある者(カップル)はあっさり死を選ぶ。デフォルメはされているものの、行為自体は学校内(あるいは会社)における人間関係を象徴しているように思えた。  
 仲良く灯台に立てこもる女子生徒たちのところへ負傷した主役の男子生徒(藤原竜也)がかつぎこまれ、彼に殺意を抱く一人の女生徒の行為に起因してあっというまに仲たがいが始まりやがて銃の乱射で全員が死亡してしまうエピソードが特に印象深い。  
 女子生徒といえば、登場する女生徒たちの制服が理解できなかた。スカートからはみ出したスリップ(?)が目障りだし、たまにスカートがめくれて見え隠れするパンツなんて中世のそれ。別にそんなところを期待したわけではないが、思うにこの映画はわざと性(セックス)の問題を切り離しているのですな。  
 自分の生命が風前の灯火となった状況なら、なおかつクラスに意中の人がいるのなら(カップルだったらなおのこと)、「死ぬ前に一度やりたい!」と思わないか。あっけなく心中してしまうカップルを見ながら(男子生徒は金八先生の息子・幸作くんでした)おいおい、お前らホントにそれでいいのか!とつっこみたくなった。大きな声で言えないけれど、どうせ死ぬのならと女生徒を襲う奴等も出てくるだろう。  
 もちろん中盤にクラスで一番大人びた女生徒(柴咲コウ)がその問題を請け負うわけだが、あくまであっさりに、だ。  
 そういう意味で映画の殺人ゲームはゲームでしかない。リアリティなんてないわけだから騒ぐことなんてないのである。  
 先生(ビートたけし)の不気味な存在感がいい。役を自分に近づけるたけしらしい相変わらずの演技が他を圧する。一言も台詞を発せず、ひたすら殺人鬼に徹する安藤政信も魅力。もう一人の転校生・山本太郎ともどもいくら留年しているといっても中学生に見えないが。  

 少々クサいところもあるがそれなりに人物に感情移入し、ゲームのエンディングに仕組まれた罠にはまり、逃亡した彼らはどうなるのかとスクリーンにくぎ付けになった。が、大きくスクリーンに映し出された「走れ」の字幕でずっこけた。一気に脱力。おいおいこれは長渕剛の「ウォータームーン」か?  
 その後に続く先生とヒロイン(前田亜季)のラスト、その際たけしがつぶやく台詞がなかったら怒り心頭だったろう。

 追記  
 回想シーンで描かれたバスケットのシーソーゲームに胸熱くした。クラスメートが一致団結して応援するところは僕自身中学3年時に全く同じ経験をしていることから、あの時の感動が蘇った。

     ◇ 

2001/05/06

 「ダブルス」(テアトル新宿)

 「JOKER 厄病神」以来3年ぶりのショーケン主演の映画。
 一昨年の大河ドラマ「元禄繚乱」の綱吉役はショーケンらしさを発揮した久々の快演で、長年のファンとして溜飲を下げる思いだった。  
 90年代のショーケンは髪を短くして日曜劇場「課長さんの厄年」「冠婚葬祭部長」等のホームドラマで新たな魅力を発揮したが、以後ほとんど同じヘアスタイル。それがテンプターズ以来のショーケンファンである僕には不満だった。出演するドラマも「どうしてショーケンが?」と思ってしまうものも少なくなかった。

 70年代「約束」「太陽にほえろ」から始まったショーケンの役者人生は、そのまま髪の長さの変遷ともいえる。
 「太陽にほえろ」の頃肩まであった長髪は次の「傷だらけの天使」では少しすっきりとなり、BIGIのファッションとともに当時の若者の人気を決定的にした。僕も夢中になった一人である。
 「前略おふくろ様」ではあっと驚くスポーツ刈りを披露した。
 「前略おふくろ様」の収録が終わって髪を伸ばしはじめ、ごく自然に耳が隠れる程度になって「祭ばやしが聞こえる」に主演する。実をいうとこの時のショーケンが一番好きなのだ。
 「傷だらけの天使」のファッションには憧れるだけで手はでなかったが、「祭ばやしが聞こえる」で見せた普通の青年(競輪選手)役は高校生だった僕にはとても身近に思えた。劇中で無造作に着ていたトレーナーが気になってデパート巡りしたのが思い出される。
 その後ちょんまげ結ったりアフロになったり髭を伸ばしたりと自由自在。そんな中にあって85年のライブビデオ「アンドレ・マルロー・ライブ」のショーケンも長くもなく短くもなくという感じで僕の中でベストスリーに入る。

 「JOKER 厄病神」では往年のショーケンらしさを見せつけてくれたが、映画自体は共演の渡辺篤郎をフィーチャーしたストーリーだった。
 「ダブルス」も若手の人気俳優(鈴木一真)との共演だが、スチールのショーケンに目を見張った。ちょっと長めの髪のオールバック。まるで「傷だらけの天使」の小暮修が中年になったような容貌でとにかくかっこいい!(そういえば傑作「居酒屋ゆうれい」のショーケンは「前略おふくろ様」のさぶちゃんのその後の姿だった)

 eメールで知り合ったコンピュータおたくの青年と元鍵師の中年男がある会社の金庫から大金を盗み出し、何とか成功したもののエレベーターに閉じ込められてしまう。ふたりは一度も会ったことがなく、お互いの素性も知らない。はじめは反発しあうふたりだが語り合ううちにある種の連帯感を深めていく……。

 エレベーター内における密室劇、二転三転するストーリー展開。邦画では珍しい意欲作(脚本・米村正二、我妻正義 監督・井坂聡)でショーケン主演という以外にもかなりの期待があったが、まあまあの出来。エレベーター内の男たちドラマと同時に深夜バーで男を待つふたりの女性が描かれるが容易に結びつきが想像できるし、結果何のひねりもなくまったくそのとおりの展開だった。
 とはいうもののこの映画の面白さはショーケンと鈴木一真のぶつかりあいだ。ラストにみせるショーケンの笑顔を見るだけでもファンとしては劇場に足を運んだ甲斐があった。

 川原亜矢子には何も感じなかったが、平愛梨の愛くるしさに輝いていた頃の宮沢りえを見た。けっこう胸キュン。オレもついにロリコンになったか。

     ◇ 

2001/05/19

 「トラフィック」(丸の内ピカデリー1)  

 本年度のアカデミー賞4部門(監督、脚色、助演男優、編集)受賞作品。  
 アカデミー賞云々に関係なく予告編を観るたびに興味をそそられる映画だった。
 週刊文春の映画評では評者全員が3つ星を進呈していた。こんなことはほとんどない。映画への期待は高まるばかりだったが、内容に関して大きな勘違いをしていたみたい。麻薬流通組織と取り締まる政府組織がラストでアクションが炸裂するハリウッドお得意のストーリーだと思っていたのだのだ。
 だってさあ、予告編はそういう作りになっていたし、チラシのコピーは〈闘わなければ、呑み込まれる〉なんだもの。

 映画は3つの麻薬に関するドラマが同時進行する。
 メキシコ警察の刑事(ベネチオ・デル・トロ)が仲間とともにアメリカとメキシコを結ぶ麻薬コネクションを摘発しようとして逆に利用される様。
 麻薬撲滅作戦を開始した麻薬対策本部長(マイケル・ダグラス)が一人娘の麻薬汚染に右往左往する様。
 麻薬捜査官(ドン・チードル)に亭主(デニス・クエイド)を逮捕され、初めて彼が麻薬王であることを知った妻(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は動揺するものの、家族を守るため亭主を救うべく、捜査官たちが逮捕し公判の証言者となる麻薬の売人を抹殺しようと動き回る様。
 監督のスティーブン・ソダーバーグはこの3つのドラマをまったくタッチを代えて描いた。赤く荒涼として乾いた映像でベネチオ・デル・トロのやるせない表情を追い、青く冷たい手持ちカメラのブレた映像では父娘の断絶と再生を記録、そして麻薬捜査官と組織の追いかけっこ、その過程はアメリカ映画の王道を行く見慣れた映像で構築する。
 この3つのエピソードがラストになって微妙に重なり合うところが巧い。

 5月に入って一気に仕事が忙しくなり、この映画も前売券を買ったもののなかなか観に行く機会がなく、このままでは券を無駄にしてしまうとばかり仕事帰りに疲れた身体で観たものだから前半は何度も意識が途切れてしまう始末。だから巨大麻薬コネクションの流通機構が今いち理解できなかった。
 理解できたとしても観終わって全米の興奮を肌で感じることはできなかったと思う。

 自分の理解力を棚に上げて書くのも気が引けるが、麻薬と宗教(キリスト教)の問題に踏み込んだ映画って日本人には理解できないのではないか。
 中学3年の時「エクソシスト」を観てそれほどの怖さを感じなかった。ある評論を読んだら、真のキリスト教徒でないと映画で描かれた恐怖は実感できないとあった。それは「スリーパーズ」を観た時にも感じた。
 同じように日本では麻薬が一部浸透しているものの、一般社会を混乱させるほどのものではない。だから各エピソードで描かれた内容が、家族(夫婦、父娘)、友情といった普遍的な問題として捉えることはできるものの、それ以上にこちらに迫ってはこなかった。
 とはいうものの、ラスト、組織の汚職を暴く条件に要求した照明設備が整ったグラウンドが完成し、少年たちが嬉々として野球する姿を観客席で眺めるベニチオ・デル・トロの表情は一見の価値はある。




2000/02/07

 「溺れる魚」(丸の内東映)  

 映画サービスデー。
 「バトルロワイアル」にするか、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」にするか、迷った末、堤幸彦監督の新作「溺れる魚」にした。
 何やら意味深な、でも何のことやらわからないタイトルがいい。原作は戸塚圭太とあるが、まったく知らない作家だ。
 新スタイルのミステリ映画の誕生と大いに期待した「ケイゾク/映画」には裏切られたが、「溺れる魚」はポスターから妖しい雰囲気が感じられ、けっこうイケるんじゃないかと思えた。

 快作だった。
 タイトルの由来となるオープニングの不気味シーンから、映画とTVを混在させたような感覚の映像で最後まで飛ばしまくる。笑いの連続。同じく大笑いだったにもかかわらずクライマックスで引いてしまった「スペーストラベラーズ」に比べ、本作のそれは絶体絶命の緊張感の中、ここぞの台詞にぐっときて、けれどもユーモアは忘れない。
 脚本(横谷昌宏)がしっかりしている。

 主人公の問題刑事二人、〈エースのジョー〉フリークの椎名桔平と女装マニアの男ねえちゃん(スペシャルドラマ「少年H」で印象的なおかまを演じ、以後我が家では彼をそのときの役名でこう呼んでいる。窪塚洋介というんですね)の紹介のあと、何の脈絡もなく舞台は銀座の歩行者天国に飛ぶ。
 雑踏の銀座4丁目交差点付近で何やらあやしい男たちが「やれ」「やらない」の問答をしている。と、中の一人(河原サブ)が意を決してコートをとる。何と下半身裸、男は大声で叫びながら銀座通りを駆け抜ける。その模様をデジタルカメラに収録する謎の男(IZAM)。
 椎名は捜査で踏み込んだ現場の金を横領した件で、窪塚は署内の制服(婦人警官)を盗んだ件でそれぞれ査問委員会にかけられ、警察庁特別監察官(仲間由起恵)からある秘密捜査を担当するならば罪を不問にすると言われ、しぶしぶ了承する。
 それが某フィルムメーカー脅迫事件で、銀座通りの一件は犯人から指示された脅迫に対する会社側の応対だった。あやしい男たちはフィルムメーカーの部長たちなのだ。その中に穂積ぺぺがいてうれしくなってしまう。
 IZAMは幼少時に家族を惨殺された過去を持ち、それがトラウマとなっている新進芸術家で夜は奇抜なファッションで身をつつんだ若者たちが集うクラブを経営している。
 椎名と窪塚が担当させられた捜査とはそのクラブに潜入し、脅迫事件の犯人がIZAMであることをつきとめることだったのだ。
 先にメーカーからの依頼で潜入している悪徳刑事(伊武雅刀)と主人公、警察、やくざがからんで展開するドタパタはかなり練れていて退屈しない。唯一まともに見えた紅一点仲間由起恵もファミレスの大食い以降はそれこそ他のキャラクターのお仲間になるわけ。
 〈エースのジョー〉フリークの椎名がたまらなくおかしい。このキャラクターは「大統領の晩餐」(小林信彦)に登場する旦那刑事に通じるものがある、というかそのまんんまか。最初の見せ場である西新宿の銃撃戦会場にホンモノの宍戸錠がタレントとして出てくるだけで次の展開が予想できて大笑いだ。
 思うに椎名桔平はあたりまえの二枚目よりこういうぶっとんだ役の方が数倍いい。女装の窪塚洋介も負けずおとらず魅力を発揮。最後まで女らしさを忘れない。
 おふざけで展開しているようで真犯人解明ではちゃんとハードヴォイルドの定石を踏まえているところがなかなか。ラストまでほとんど顔を見せない特別監察室室長の渡辺謙の設定が生きてくる。

 内容は「傷だらけの天使」「探偵物語、映像は「遊戯」シリーズの平成版といった感じか。ただ「傷だらけの天使」や「遊戯」シリーズが映画人の作品としたら、「溺れる魚」は映画を意識しないビデオ世代のそれだろう。
 映画はエンディングロールが終わっても楽屋落ちが続く(堤監督の趣味か?)。スクリーンが真っ暗になっても席を立たないように。最後の最後まで笑えること間違いなし。
 問題刑事に特別監察官を加えた男2人+女トリオでシリーズができるのではないだろうか。

【註】
 笑えたと書いたけれど、映画館では笑う人とまったく笑わない人とはっきり分かれていた。万人向けの爆笑映画ではないことは確か。



2001/03/30

 「ミート・ザ・ペアレンツ」(東商ホール 試写会)  

 予告編やTVCFを見て興味がわき、監督が「オースティン・パワーズ」のジェイ・ローチということもあってかなり注目していた映画だったが、今週の週刊文春の映画評では各人ともいい評価をしていない(中でも信頼している品田雄吉は相変わらず星2つだけど短評がきびしい)。ビデオになってからでいいかと思っていたところ、昨日友人から試写会招待状がまわってきた。ラッキーだし、こうゆうのってとてもうれしい。
 
 主演のベン・スティラーが何やってもダメな男として日本でも「メリーに首ったけ」以降人気急上昇らしい。  
 看護士のベンが同棲している恋人との結婚の承諾をもらうため彼女の両親に会いに行くのだが、父親は娘を溺愛する堅物の元CIAの調査官(ロバート・デ・ニーロ)。ベンは何とか父親に気に入ってもらおうとするのだが、やることなすこと裏目に出てドジッてばかり。一発逆転を狙って行方不明になった愛猫を探すが、なかなか見つからない。そこである工夫(ズル)をして見事探し出したことにして、やっと一家の一員に認められたかと思ったらこれが元で大騒動を巻き起こし、哀れ恋人と別れなければならないことに……というストーリー。もちろんコメディーだから最後は大団円をむかえるのだけれど。
 
 最初に父親の運転でドラッグストアへ買い物に行く際、ラジオからPPMの「レモンツリー」と並ぶ名曲「パフ」が流れてきて二人が歌詞の内容で議論するシーンにニヤリ。煙草、麻薬を嫌悪する父が「パフ」がいい曲だというと、すかさずベンがコレ暗喩で麻薬の歌なんだと説明する。父は父で「何言っている、あれは魔法使いのドラゴンの話じゃないか」と。このやりとり、昨年「放送禁止歌」(森達也/解放出版社)の著者と対談しているデーブ・スペクターのアメリカにおける禁止歌についての解説を読んでいなければまったくチンプンカンプンだったろう。僕なんて長い間「パフ」って語感からマシュマロのイメージを持っていたのだから。  
 ほかに笑えたのは主人公の本名を知って両親が驚きの声をあげるシーン。  
 日本でいえば近藤さんと結婚したムツミさんの行末とか××樹里ってアイドルは千昌夫と結婚できないねという類いの話。  
 全編にわたってつまらないというわけではないけれどば笑いがはじけるってことがなかった。  

 関係ないけど主人公が夢中になっている恋人(テリー・ポロ)より母親(ブライス・ダナー)の方がよっぽど魅力的だった。

     ◇

2001/04/04

 「ハード・デイズ・ナイト」(川崎チネチッタ)  

 高校時代にビートルズにはまった。当然ビートルズ映画も地元の映画館にリバイバル3本立て(「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」「HELP! 四人はアイドル」「レット・イット・ビー」が来た時は真っ先に観に行ったものだ。  
 当時はビートルズの生の姿が見られるということでドキュメンタリー「レット・イット・ビー」を一番評価していた。
 映画デビューの「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」はまあまあ、最高傑作とされる「HELP! 四人はアイドル」はちっとも面白くなかった。  
 アイドル時代のビートルズのメンバーにも楽曲にもそれほど関心がわかなかったこともあるが、映画の作りがもろTV映画「モンキーズ」と同じというところが要因だったのかもしれない。そう、バンドのメンバーが歌と寸劇を繰り広げるドラマの原点は僕にとっては「モンキーズ」であって「ビートルズがやってきた…」は亜流でしかなかったのだ(本当はモンキーズがビートルズを真似ていて、この時だって当然そんなことは知っているんですけどね。小さい時の刷り込みって影響大なのよ)。    

 その「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」が装いを新たにデジタル・リマスターバージョンの「ハード・デイズ・ナイト」という原題のまま公開された。  

 もし映画や音楽、特に洋楽にまったく疎い若者に「この映画は60年代のイギリスを舞台に当時世界のトップアイドルだったビートルズというバンドの人気ぶりをメンバーのそっくりさんを起用して描いた昨年制作されたイギリス映画で、当時の雰囲気を再現するためにわざとモノクロで撮影されているんだ」なんて説明したらきっと信用してしまうのではないか?それくらい映像が鮮明で、ファッションも現代にそのままフィットしそうな感覚。登場する女の子たちのメイクもまさしく〈今〉のものだ。これには驚いた。個人的には70年代に思い入れがあるが、ことファッションに限定すれば60年代はまさしく黄金時代だ。
 
 リチャード・レスター監督の才気が最初から最後までほとばしっている映画でもあった。ファンに追いかけられ逃げまくるオープニングから列車内で、あるいはTVスタジオ、ステージでの演奏シーン等、今流行のプロモーションビデオの先駆となる映像がまったく古臭さを感じさせない出来なのだ。  
 ビートルズの面々が広大な敷地に飛び出てふざけまくる模様を空撮したシーンなど席を立って思わずスキップしたくなるような爽快な気分に包まれた。  
 またいたるところにギャグが挿入されていて映画自体が音楽を介在させたギャグアンソロジーという趣きもある。リチャード・レスター監督がビートルズのメンバーを素材に楽しんで演出しているのが目に見えるようだ(脚本はアラン・オーエン)。  

 唸ったのはエンディングタイトル。当時映画のエンディングは物語の後「THE END」「FIN」「FINE」「終」「完」の文字がでて終了が当たり前だった。ところがこの映画はエンディングに主題歌「A Hard Day's Night」が流れる中スタッフタイトルが続くのである。こういう処理も今風に感じた。  

 これも一種のミュージカルだろう。ふと「小さな恋のメロディ」の原点はこの映画ではないかと思えた。

     ◇

2001/04/10

 「天使がくれた時間」(九段会館ホール 試写会)  

 ずいぶん前から京浜東北線の駅ホームに貼り出されている大型ポスターでこの映画を知っていた。最初は内容も知らずそのタイトルから大甘なラブロマンスの類だろうくらいしか認識していなかったのだが、ストーリー(プロット)を知って俄然興味がわいた。  
 主人公の中年男性がかつて別れてしまった女性と結婚していたら人生はどうなっていたかを描く内容で、ああ、また藤子・F・不二雄の異色短編の世界だなと。  

 藤子の短編もやはり中年の男性が主人公だ。主人公は今の妻(仮にA子)と間には子ども生まれ、ごく平凡な生活をおくっているのだが、何かと口うるさい彼女のやることななすことに辟易していた。かつて別れた女性(B子)と結婚していたらどんなに素晴らしかったか、と思いめぐらす毎日なのだ。と、その思いが通じたのか、ある日、何かに導かれるように白い靄のなかを通り抜けると、そこはB子と結婚した主人公が毎日をおくるパラレルワールドだった。主人公にはA子との生活していた記憶もなくなる。念願かなった主人公だったが、しばらくするともしA子と結婚したらどんなに素晴らしかったかと思い巡らすようになる……隣の芝生は何とやらの話である。  

 「天使がくれた時間」も同様なストーリーだろうと思ったら、ずいぶん違った。  
 主人公(ニコラス・ケイジ)は若かりし頃、研修のためイギリスに旅立つ際に弁護士志望の恋人(ティア・レオーニ)から、今離れたら二度と会えない気がする、イギリスに行かないでと懇願されたにもかかわらず、「イエス」と言えなくて、結局別々の道を歩むことになり、独身のまま今は金融会社の社長。ビジネス以外関心のない超リッチマンだ。ふとしたきっかけで知り合った黒人のチンピラに今の生活に満足しているのかと訊かれ、「満ち足りている」と答えると、翌朝目覚めると不思議な世界の住人となっていた。何と彼はかつて別れた恋人と結婚し、二人の子を持つタイヤ販売を生業とするごくごく平凡な父親なのだ。最初はそんな生活にとまどい元の生活にもどりたくてしょうのない主人公がやがて家族の愛にめざめてしまうという物語。  

 仕事をとるか、家族をとるかの究極の選択というわけなのだろう。しかしこれ、はじめから答えは決まっている。しがない生活といえ、美人の妻(もともと結婚したかった相手)とふたりの愛児にかこまれ、郊外に一戸建てのマイホーム、社長時代のフェラーリとは比べられないけれどちゃんとマイカーだってある。
 この生活のどこが不満なのだ? と子ども部屋も与えられない狭いマンション生活、たぶん今後もマイカーなんて持つこともない生活をおくる僕はつっこみたくなる。  
 子どもが寝たからとちょっと淫乱気味に主人公にセックスを迫る妻がとてもキュート。しかしこれも子供部屋と寝室が別になっている家ではさほど問題ではないだろう。親子3人川の字で寝ている我が家では切実な問題だが。  
 まあ、アメリカの寓話と思えば腹も立たない。  

 原題は「The Family Man」、原題をそのままタイトルにしてしまう風潮の中、これでは客は呼べないから邦題は正解だ。




 一昨日の午後、丸の内ピカデリーで「ダンケルク」を観る。
 この秋一番の期待作。けっこう長い間、劇場で予告編を見せられたような気がする。
 クリストファー・ノーラン監督版「プライベート・ライアン」だと勝手に思っていたのだが、まったく違った。
 前作「インターステラー」がわかりやすい「2001年宇宙の旅」だとすると、本作は戦場版「2001年宇宙の旅」だ。体感する映画ということ。詳細は「関ヶ原」同様項をあらためる。
 「シン・ゴジラ」にはドラマがない、と書いた人たちは、この映画についてどう思うのだろうか?

 夜は下高井戸シネマで「美しい星」を再見する。ちょうど小説を読んでいるところなので、この機会にと高井戸まで足をのばしたわけ。

          * * *

2001/01/16

 「クリムゾン・リバー」(銀座ガスホール 試写会)

 最近はハリウッドでも活躍が著しいジャン・レノと「ドーベルマン」公開時に〈フランスの松田優作〉なんて呼ばれたヴァンサン・カッセル共演のサイコミステリー&アクション。

 アルプス山脈の麓にある森林で全裸の男の死体が発見された。生きながら身体中を傷つけられ徐々に命を奪われる残忍な殺人方法で奇妙なのは身体が胎児のような格好に折り曲げられていたこと。捜査支援のためパリからやってきた刑事(ジャン・レノ)は同じ手口の第2の殺人に遭遇する。
 かたや勤務中にマリファナを吸うトッぽい若手刑事(ヴァンサン・カッセル)は交通事故死した少女の墓荒らしを追っている。
 全く別の場所の何の関連性もない2つの事件がやがて交わり、二人の刑事は協力しあいながら事件の真相を調べるうちに閉鎖的な片田舎の大学町で行われている驚愕な事実をつきとめる。果たして殺人事件の犯人は…… 。

 タイトルバックは変死体を嘗めまわすように撮ったショットの数々。やがて山道を走る一台の車を空撮で狙う。まるで「シャイニング」のようだ。内容はもちろん映画のスタイルもハリウッド映画みたいだが、台詞がでてくるとやはりフランス映画だ。
 劇場でフランス映画を観るのは久しぶりのことだ。例の核実験以来、我が家ではフランス商品を一切ボイコットしていたわけだが(だからと言ってフランス映画を観なかったわけではない。単に興味をひく作品がなかっただけ)、やはりフランス語の響きはいい。

 ジャン・レノは少し髪が伸びいつもとイメージが違う。短髪の方が似合うと僕は思うが。ジャン・レノの胸を借りるヴァンサン・カッセルは「ドーベルマン」を未見の僕にはお初の俳優なのにいつもお目にかかってる感じがしてならなかった(CFに出演していることが後でわかった)。

 物語の構成、クライマックス等々、全編にわたってアメリカン(というかハリウッド)テイストというのはどうかなと思う。この映画、日本語吹替えしたら誰もフランス映画だなんて思わないだろう。

 まあ、こちらの体調のせいもあって、前半は睡魔に襲われて僕の頭には別のストーリーが浮かんでしまうことがたびたびあった。映画がいつのまにかコメディになってしまうのだから弱った。
 が、二人の刑事が敵に命を狙われるあたりから目も覚めた。だからだろうか、犯人に殺人をさせる動機づけとなった陰謀の仕組みが今いちわからなかった。もうすぐ原作本が発売されるというからそこら辺のことは小説で確認しよう。

 アルプスで殺人犯が登場するカットはその処理の仕方が斬新で初めて経験するサスペンスだった

     ◇

2000/01/20

 「愛のコリーダ 2000」(シネアミューズイースト&ウェスト)

 大島渚監督のフランス製ハードコアポルノ「愛のコリーダ」が公開されたのは1976年。僕が高校2年のときだ。
 当時なぜ観なかったのだろうとふと考え、笑ってしまった。18歳未満お断りなのだから観られないのは当たり前ではないか。
 嘘である。高校生になってからは独立系のピンク映画を皮ぎりに日活ロマンポルノをかなり観に行っていた。中間や期末試験が終わるとそのまま映画館に直行し、3本立てのプログラムに興奮していたわけだ。だいたい期待外れだったけれど。と書いていて、いくらなんでも制服姿で映画館に入れるわけがないと気づいた。記憶なんていい加減なもんだ。

 そんな中であの大島渚がポルノ映画を撮ったと。題材は阿部定事件、主演は阿部定に新人の松田英子、愛人の定に男性自身を切り取られる男・吉蔵に藤竜也。何より話題になったのは二人の本番プレイだった。
 高校時代は「キネマ旬報」を毎号買っていたから、「愛のコリーダ」の製作発表から日本公開までのメディアの騒動はよく憶えている。
 〈芸術か猥褻か〉論争が起こったとき、大島監督の「猥褻のどこが悪い!」という開き直った反論は印象的だった。監督の妻でもある女優の小山明子はインタビューの中で「今に女優はヘアの形にも神経つかわなくちゃならないときがくる」というようなことを発言していて、大胆なことを言うなあ、と瞠目するとともに、でもそういうあなたは人前でヌードなんかにならないでしょう、と揶揄したい気持ちもあった。しかし樋口加南子のヘア出しヌード写真集が大ヒットして以来、ヌードにヘアはつきものになってしまった。ヘアヌードを見るたびに僕は小山発言を思い出す。

 芸術か猥褻か、という問題について、大島監督の反論に大いに納得できる。
 「エマニエル夫人」が大ヒットしたとき、「なぜ観に行くのか」という問いに女性たちは映像の美しさを強調した。僕はあれはアジア蔑視の映画じゃないかとはなから観る気もしなかったから映画についてどうのこうの言える立場にない。が、女性たちがシルビア・クリスティルの奔放なセックス描写見たさに劇場に足を運んだことは容易に想像できるし、その恥ずかしさを〈映像の美しさ〉でごまかした、と思っている。
 大島監督が芸術に逃げずに「愛のコリーダ」を語る姿は頼もしかった。
 とはいうものの、結局僕は「愛のコリーダ」を観なかった。メディア側の騒ぎ方にうんざりしていたこと、本番、モロ出しといったって、日本公開版は大幅にボカシが入って何がなんだかわからないものになると思ったこと、そして何よりスチールで見る主演女優の松田英子に何の魅力も感じなかったことが原因だった。(次の「愛の亡霊」はちゃんと劇場で観ている。)

 そんな「愛のコリーダ」が完全版とはいかないものの新たな修正を加え、なるべくオリジナルに近くした「愛のコリーダ 2000」として公開された。

 冒頭、殿山泰司が定に言い寄る薄汚い浮浪者の役で登場し、堂々とふんどしの間からペニスをのぞかせる。これには驚いた。当たり前といえばそれまでだが、脇役にいたるまで裸、局部全開なのだ。老いも若きもの感。役者たちがよく納得したものだ。
 映画は最初から最後までセックス描写が続く。噂どおり〈やりまくり〉の映画だった。しかし、当然裏ビデオともアダルトビデオとも印象はまったく違う。もちろん〈OSHIMA〉ブランドの威力でこちらがそう構えていることも要因だろう。
 ただ描かれる内容は一部突飛ではあるけれど、男女関係においてはいくつかの恋愛、女性関係を経験、ましてや既婚の40歳過ぎの中年男には激しさの差はともかくよくある光景に思えた。すべてを見せることでドラマが作られているのだから逆にボカシがある方が不自然だし、別の意味でいやらしい。

 平々凡々とした容姿の定役・松田英子には最初やはり何も感じなかった。ところが物語が進行し、着物を脱ぎ、藤竜也相手に愛欲の世界に浸りだすにしたがってだんだんと魅力的になってくるから不思議。カットによっていくつもの顔を持っているのだ。何よりスタイルがバツグンにいい。それほど大きくはない乳房の形の良さは森下愛子のそれを思い出した。
 駆け落ちし、いっしょに暮らしていた吉蔵がいったん自宅にもどると、ひとりぼっちで帰りを待つ定が宿のふたりの全裸の幼子(男の子と女の子)と戯れながら、ふいに男の子のおちんちんにむさぼりついてしまうシーンには定の孤独、愚かしさとけなげさがあふれていた(演ずる男の子がトラウマになっていなければいいけれど)。

 吉蔵が町を歩いていて兵隊の集団とすれ違うシーン。
 徐々に軍国主義に覆われていく昭和初期の日本。一方は国のため命をすてようとする集団、片やひたすら自分の悦楽だけに生きている男。公と個のすれ違いの対比が胸にこたえる。

 僕には二人の関係が究極の愛かどうか断言できない。ただ二人の愛が永遠に続くものとも思えないのは確かである。
 観終わって深く感動するというのではないが、時間が経つうちにひしひしと〈何か〉が胸をつついてくる。

 しっとりと濡れたような、全体的に赤が染み出たような深みのある映像、そんな映像にマッチした三木稔の音楽も忘れがたい。

     ◇

2000/01/29

 「ビッグママスハウス」(九段会館 試写会)

 最近、友人から調達してもらう試写会の招待状、その作品にまったく知らないものが多い(映画雑誌を読まなくなったからなあ)。
 この映画もそうである。だいたい主演のマーティン・ローレンスを知らない。
 監督は「ホーム・アローン」のクリス・コロンバス監督の作品でコンビを組んだ名フィルムエディターで「ホーム・アローン3」で監督に進出したラジャ・コズネル。
 ということを会場で配布されたチラシで知った次第。
 昨年の夏、アメリカで大ヒットしたコメディで、マーティン・ローレンスは「バッドボーイズ」でウィル・スミスとともに人気スターの仲間入りした、とこれまたチラシに書かれているが、僕は「バッドボーイズ」を観ていないし、どんな内容かも知らない。恥ずかしい!

 映画の魅力とは何かを考えた場合、特撮・アクション・音楽・コメディだと思っている。
 小さいころから〈お笑い〉が大好きで、コントを考えたりして学校の演芸会などで舞台に立ったりしていたにもかかわらずコメディ映画を率先して観に行くことがない。特にこの10年くらいはコメディといわれる作品で大爆笑する映画に出会える機会がなかった。

 刑務所を逃亡した強盗犯をつかまえるため、立ち寄る可能性が高い彼の元恋人の祖母に家に張り込むFBI捜査官の一人で変装の名人(マーティン・ローレンス)が巨漢の祖母(女装したKONISHIKIだあ!!)に扮することから巻き起こるドタバタ劇である。

 本物の祖母と主人公がニアミスするバスルームでのうんこネタはあまりの下品さでちっとも笑えなかった。
 この映画の売りである主人公のメイクはもちろん素晴らしい出来なのだけれど、何年も会っていない孫娘(ニア・ロング)をだませたとしても、毎日顔を会わせる隣人たちが本人だと思うはずがないだろうに(そこが映画、コメディの真髄なのだけれど)。

 孫娘を演じるニア・ロングがキュートだ。それほど美人というわけではないが、プロポーションが抜群。思わず鼻の下が伸びちまいます。
 それにしても最近アメリカの映画、TVドラマに登場する黒人女性はきれいな人ばかりだ。男優にしてもけっして極悪人を演じることがない。主人公かNo2あたりのちょっといい役が指定席。ワルだとしても根っからの悪人というわけではない。たぶん、そういうきまりごとがあるのだろう。
 昔、手塚治虫がTVアニメ「ジャングル大帝」をアメリカのTV局に売り込みに行ったとき、登場する黒人は限りなく二枚目にかっこよく、白人はおもしろおかしくしてくれと要望されて困ってしまったというエピソードが自伝マンガ「ガチャボイ一代記」にでてきた。現在ユニオンか何かでそれが徹底されているのではないか。
 でもこれ、逆差別のようにも感じるんだよなぁ。

 黒人といったらやはりゴスペル&ダンスという印象が強い。
 この映画でも歌とダンスがミックスしたこちらも思わずリズムをとりたくなってしまうシーンもある。これがもっと迫力あるものになっていたら、星2つだったのに。




2000/06/26

 「失われた宇宙の旅2001」(アーサー・C・クラーク/伊藤典夫 訳/ハヤカワ文庫)

 来年が2001年だからその記念に上梓されたと思ったら、原書は1971年に出版されていて、日本では長い間未訳だった由。
 書店で本書を見つけたとき、解説に「クラークによるメイキング・オブ・2001年宇宙の旅」とあって、映画「2001年宇宙の旅」の原作になったクラークの短編「前哨」も収録されていたので、即買ってしばらくツン読状態だった。

 読んでみるともちろんメイキングもあるのだが、それ以上に、映画製作にあたってキューブリックとクラークが書き、実際には映画化されなかった当初のシノプシスが映画の進行どおりに並んでいる。
 これはもう一つの「2001年宇宙の旅」である。

 映画に登場したコンピュータHAL9000のHALはIBMのアルファベットをひとつずらした単語と噂されて久しいが、クラークは本書できっぱりと否定している(Heuristically purogrammed Algoristhmic computer 発見的プログラミングをされたアルゴリズム的コンピューターの略)。

 映画が公開された際、ラストの難解さが話題になった(あくまでも後年知ったことだが)。「あれは予算がなくなったせいだ」と推測する評論家がいたが、まったくそのとおりであることも述べられている。

 映画「2001年宇宙の旅」を劇場でちゃんと観たのは20代のころの何回めかのリバイバルロードショーだった。その前にもTVで何度か観ていて感じていたことだが、新宿プラザの70㎜スクリーンの迫力ある映像を目のあたりにして、これはストーリーがどうのというより、映像そのものを体験する映画なのだと確信した。
 〈人類の夜明け〉では精巧な類人猿のぬいぐるみ演技がみものだし、空に投げ上げた骨が宇宙船に変わってからは、未来の宇宙旅行の実際をつぶさに観察すればいい。あるいはディスカバリー号における突然のHALの反乱シーンの息づまるサスペンスにハラハラドキドキしたり。

 ストーリーに意味を求めたいなら、小説版「2001年宇宙の旅」を読めばいい。主人公・ボーマン船長がスターゲートを飛び越えるシーンを映画では光の洪水といった感じで描写し、かなりの迫力ではあったけれど、小説では宇宙、地球、人間の進化を短い間に体験させるというほとんど映像化不可能な非常に壮大な空間を描き出し、その果てにボーマンが神になったことを告げていた。描写力において、やはり映画は小説にはかなわないのかと思ったものである。

 本書にはたぶん予算的な問題で見送られたであろうシークエンス(ボーマンがスターゲイトを通り抜け、高度に発達した異星人の惑星に到着する)のシノプシスが収録されている。
 理解できない単語が並び、描かれている世界が今ひとつ頭の中で絵にできないもどかしさがあって、これが映像ならばという思いが何度もよぎった。

 久しぶりに「2001年宇宙の旅」の映画と小説を堪能したくなった。

     ◇

2000/11/29

 『未来映画術「2001年宇宙の旅」』(ピアーズ・ビゾニー/浜野保樹・門馬淳子 訳/晶文社)

 アーサー・C・クラーク版の〈メイキング・オブ・「2001年宇宙の旅」〉というべき「失われた宇宙の旅2001」を読んでから、もう一度小説と映画をあたろうと(郷里からちゃんと文庫本を持ってきたし、部屋のどこかにはコピーしたビデオテープがあるはずだ)思っていたにもかかわらず、まったく行動していない。
 あれから数ヶ月過ぎて、図書館で本書を発見した。当時のデザイン、設計図、未使用カット、絵コンテ、イラストのほかにポスターや写真などが掲載されている大判の本書は前から読みたかったものだ。

 秘密主義、完璧主義のキューブリックのこと、その製作過程は多くの謎に包まれていたという。そんな状況のもと数々の関係者に取材して製作の現場に迫ろうとしたのが『未来映画術「2001年宇宙の旅」』である。
 著者が1968年に公開された「2001年宇宙の旅」を観たのが9歳のときだった。感想を訊ねる両親に対して、この難解な映画について「理解する必要なんてない。ただ見ていればいいんだ」と答えたのは何とも頼もしい。僕も同じ意見なのだが、9歳でそう感じたというのだからすごい。

 長く語り継がれる優れたSF映画を撮りたいというキューブリックは(まさしくそのとおりになったわけだが)、クラークと徹底的にミーティングを重ねた。 月面に存在していた謎の物体を発見し、何者かに送る信号装置を作動させた人間を描いたクラークの短編「前哨」を原案に映画用のいくつものシノプシスを書いた。それをキューブリックは、映像化し、クラークは小説化した。だから映画のクレジットタイトル(シナリオはキューブリックが先で、クラークが後に続く。小説本では逆にクラーク、キューブリックの順になる(と書かれているのだけど、文庫本にはキューブリックの表記はない。少なくとも僕が持っている本には)。

 キューブリックは製作にあたり、さまざまなSF映画のフィルムを取り寄せた。日本映画も、とあるから本多・円谷作品も観ているのだろう。
 本書を読んで初めて知ったのだが、特殊撮影に関してもキューブリックがしっかり指揮をとっていて、有名なダグラス・トランブルはスタッフの一員でしかない。特撮スタッフの一部は「サンダーバード」の(アンダーソン夫妻の)プロダクションから引き抜いているという。最初美術を手塚治虫に依頼した件もでてくるかと思ったがそれはなし。
 「2001年宇宙の旅」のメイキングというと、どうしてもミニチュアを使った特殊撮影の裏側を知りたいという気持ちが先立つ。しかし、俳優を使った部分でもカメラアングル等に神経を使って宇宙のシーンを撮影していたことがわかる。スクリーン上では当たり前過ぎてうっかり見過ごしてしまうカットである。

 オープニングに登場する類猿人の造型は今みても〈リアルという点〉においてまったくもって素晴らしい出来である。にもかかわららず同時期公開の「猿の惑星」にアカデミー賞最優秀メイクアップ賞が贈られたことに対してキューブリックをはじめとしたスタッフが憤慨したのはよくわかる(結局「2001年宇宙の旅」は最優秀視覚効果賞しかとれなかった)。
 公開時、あの<スターゲート>の光の乱舞シーンが麻薬でトリップした若者たちに歓迎されたというのもいかにも時代を感じさせる出来事だ。

 来年はいよいよ2001年。それを記念して「2001年宇宙の旅」がリバイバルロードショーされるのだろうか?
 絶対観に行くけれど、その前にビデオを借りよう。もう我慢できない。

     ◇

2001/04/21

 「2001年宇宙の旅 新世紀特別版」(ル・テアトル銀座)  

 昨年、アーサー・C・クラークの〈メイキング・オブ2001年宇宙の旅〉ともいうべき「失われた宇宙の旅2001」(ハヤカワ文庫) を読んでから時期が時期だけに「2001年宇宙の旅」がマイブームになっていた。もちろん映画はこれまでにTVやビデオで観ているし、83年の何度目かのリバイバルの際は新宿プラザのスクリーンで感動を新たにしたものだ。  

 21世紀をむかえるにあたって、この映画を避けて通れないだろう。関連書籍をあたりビデオをレンタルしたりしていたが、やはり「2001年宇宙の旅」は大スクリーンで鑑賞したい。  
 話題性もあることだから、2001年には どこかでリバイバル上映されるだろうと思っていたら、案の定春に公開というニュース!それもかつてシネラマで有名だったテアトル東京の跡地にできた劇場での公開と聞いて胸躍らせた。  
 記事にはシネラマでの上映を検討中とあったので喜び勇んで出かけたらサイズは従来と変わらず、後でポスターを確認すると新世紀特別版 デジタル・リミックス・サウンド、スコープ・サイズ〔70mm再現比率〕とある。
 ちなみに劇場内にはディスカバリー号の1/100サイズのミニチュアや公開当時のポスターが展示されていた。ポスターの表記はスタンリー・カブリック。当時カブリックと呼ばれていたことはずいぶん前にキューブリック特集本の和田誠の文章〈カブリックの頃〉を読んで知っていたが、いざその証拠を示されると笑ってしまう。  
 この特集本「イメージフォーラム増刊 :KUBRICK:」(88年)の別のコーナーではやがて来る2001年に行われる架空の「2001年宇宙の旅」公開の模様が書かれており、初公開以来のシネラマで上映とある。そのイメージが頭のどこかにインプットされていたのだろう。シネラマでなかったのは残念だったが映像は驚くほど鮮明でわかりきったことなのに改めてキューブリックの色使いに惚れ惚れしてしまった。  

 この映画の日本での初公開は1968年。僕が小学3年の時である。当時、SF映画の傑作として有名だった(というか僕自身が知っていた)のは「猿の惑星」「ミクロの決死圏」で、どういうわけか「2001年宇宙の旅」の存在を知ったのはずいぶん後になってからのことだった。
 「恐竜グワンジ」「恐竜100万年」の特撮に「まるで本物だ!」と驚愕した僕が、もし当時この映画を劇場の大スクリーンで観ていたらいったいどんな影響を受けていたか計り知れない。内容は別にしてその映像が人々にショックを与えたことは83年のリバイバル時も、そして21世紀の今も十分理解できる。

 ボーマン船長がコンピュータ・HALの知能機能を切断するくだりは「ハンニバル」の〈最期の晩餐〉シーンとイメージが重なった。
 ボーマン船長がチップを抜き取るごとにHALの知能が退化していき、しまいに歌をうたいだす。小説の「ハンニバル」でもレクター博士に前頭葉を削られるたびにクレンドラーは狂っていき、しまいに大声で歌いだす……。

     ◇

2001/05/02

 「2001年宇宙の旅」(アーサー・C・クラーク/伊藤典夫 訳/ハヤカワ文庫)  

 昨年再読しようと郷里から持ってきていたにもかかわらず、なかなか機会がなかった。劇場で映画を観てやっと本棚から取り出した。  

 83年のリバイバルを観た後、1年後くらい経って原作を買ったのだから約17年ぶりの読書になるのだが、記憶というものがこれほど当てにならないものなのか、これまで以上に痛感した。  
 昨年6月にクラークの「失われた宇宙の旅2001」を読んだ際、僕は次のように感想を記した。
     ▽
 主人公・ボーマン船長がスターゲートを飛び越えるシーンを映画では光の洪水といった感じで描写し、かなりの迫力ではあったけれど、小説では宇宙、地球、人間の進化を短い間に体験させるというほとんど映像化不可能な非常に壮大な空間を描き出し、その果てにボーマンが神になったことを告げていた。描写力において、やはり映画は小説にはかなわないのかと思ったものである。
     △
 問題はスターゲートを飛び越える場面である。
 今回一番楽しみにしていたのもこの部分で、いつ〈宇宙、地球、人間の進化を短い間に体験させる〉くだりがでてくるか胸ときめかせていた。
 が、ないのである。スターゲートを飛び越える描写はもちろん詳細で思い描く映像は映画の比ではないのだが、宇宙や地球、人間の進化に触れる文章なんてない。何度も読み返してみたが、それっぽい文章も見当たらない。
 そんなバカな! 17年前確かに同じ感想を日記に綴ったはずだと昔のノートをとりだしてみたら〈雄大で奥深く神秘的〉と書いてあるだけで進化のシの字もない。じゃあ、オレが思い続けてきたイメージはなんだったのか。まったく狐に化かされた気分だ。
 コンピューター・HALによる反乱のサスペンスは映画の方が上とあり、これは今回も同印象。

 21世紀を迎えた今、「2001年」の映画と小説に触れてみて一番感じるのは、インターネットの隆盛をまったく予測できなかったのだなということ。60年代にインターネットの概念があったのかどうかを確かめてみたい気もする。




 昨晩、地元シネコンのレイトショーで「関ケ原」を鑑賞。
 天下分け目の戦いが、たった6時間で決着がついていたなんて! オレは学校で何を学んだのだ?

 今日は「ダンケルク」を観ようと思っていたが、朝から少々体調が思わしくなく、部屋でじっとしていた。
 観たい映画はいっぱいあるというのに!

          * * *

2000/04/29

  「ハンニバル」(トマス・ハリス/高見浩 訳/新潮文庫)

 デビュー作「ブラックサンデー」以来、トマス・ハリスは超寡作作家で有名ある。二十数年の間に発表した作品はたったの3作。前作「羊たちの沈黙」からもすでに十年以上が経過していて、しかもなお現役、けっして過去の人になっていないところがすごい。

 トマス・ハリスの最高傑作(と信じている)「レッド・ドラゴン」に登場したレクター博士は次の「羊たちの沈黙」が映画化された際、アンソニー・ホプキンスが演じることによって、世界中の人々の決定的な印象を与えたと思う。ヨーロッパ的な優雅さと得体のしれない残虐さを併せ持つ斬新なキャラクター。原作(映画でも)のラストは逃亡したレクター博士が獲物を見つけ、雑踏の中に消えていくところで終わっていた。

 当然、続編に期待がかかるわけだが、これがなかなか書かれなかった。映画化されてからも10年近く、原作が発表されてからはそれ以上経っているのだ。
 映画情報誌のニュースで、トマス・ハリスが続編を書き終えたことは知っていたし、その映画化で、ジョディ・フォスターが主演をキャンセル、ジョナサン・デミ監督の降板等といろいろ聞こえてくるが肝心の小説の方がいつ日本で上梓されるのか全くわからなかった。
 書店の文庫コーナーで大量の本書の陳列を見た時は血が逆流する思いだった。

 「羊たちの沈黙」の続編はいったいどんな物語になるのか。それが第一の、そして最大の興味の的だった。
 レクター博士シリーズの完結編としてFBI行動科学課のクロフォード課長とレクター博士の3度目の対決がクライマックスになるのではと勝手に予想していたのだが、「ハンニバル」は過去2作と全く趣きの異なる作品になっていた。

 作者は怪物・レクター博士に対峙させるべくこれまたとんでもないキャラクターを創造した。それが大富豪のメイスン・ヴァージャーである。かつてレクターによって見るも無残な容貌、下半身麻痺にされた彼は恵まれない子どもたちに愛の手をさしのべているとみせて、その裏でいたぶり、その涙をマティーニに入れて飲むのを楽しみにするというレクターに負けない異常者だ。そんな彼が豊富な資金、人脈を使って、レクターへの復讐を画策する。レクターをおびきだす囮にFBI捜査官クラリスが利用されるというわけである。

 本作は怪物vs怪物の残酷小説とも、レクターとクラリスの究極の恋愛小説とも受け取れる。   
 冒頭からまるで映画化を前提にしたようなクラリス&SWATチームの麻薬密売団急襲のアクションが展開される。密売団の女ボスを射殺する決定的瞬間をTVクルーに撮られてしまったクラリスが窮地に陥ってしまう事件なのであるが、これがヨーロッパに潜伏していたレクターがまた表舞台に登場してくる伏線となるうまいプロローグとなっている。

 大ヒット映画「羊たちの沈黙」の影響からか、作者自身アンソニー・ホプキンスとジョディ・フォスターをイメージしてレクターとクラリスを描写している印象を受けるのは気のせいか。
 思えば映画「羊たちの沈黙」で調査のため初めてクラリスが独房に収監されているレクターと対面した時のジョディ・フォスターの美しさにため息をついたものだ。
 だからこそクライマックスのほとんど映像化不可能なグロテスクなシーン以上にラストに描かれるふたりの愛欲の日々を映像としてこの目で確認してみたい。
 ジョディ・フォスターはオファーを断ってしまったのはとても残念なことであるが、「エイリアン」「ブレードランナー」のリドリー・スコットが「ハンニバル」をどう映像化してくれるのか。   
 読了した今、今度は映画化作品に興味津々な僕である。

     ◇

2001/04/12

 「ハンニバル」(丸の内ルーブル)

 今年一番の期待作。  
 早々と前売券も購入し、先週ロードショーされてからは大ヒットを告げるTVCFを目にするたびはやる気持ちを押さえ、やっと今日足を運んだ。劇場は映画サービスデーでないにもかかわらずそれも平日でほぼ満員の状態だった。大ヒットを実感した。  

 率直な感想は〈キレはあるけどコクがない!〉の一言。  
 ただ、これはトマス・ハリスの原作を読んでいるからで、映画の出来は及第点だろう。  
 前作「羊たちの沈黙」は映画を観てから原作を読んだのだが、小説世界を遜色なく映像化している印象を受けた。小説にはない映像的なアイディアを活かす完璧な映画化といえた。  
 しかし今回上下2冊の原作をそのまま映像化できるわけがなく、登場人物を整理し本筋部分のみをうまくまとめているという印象。
 リドリー・スコット流の華麗なカメラワークは映画の前半、イタリア・フレンチェのロケシーンで発揮され、絵画、建築、オペラ等ヨーロッパ文化の優雅さをうまく醸し出している。
 残念なのは、潜伏しているレクター博士(アンソニー・ホプキンス)をはじめ、イタリア人の刑事までがすべて英語で会話していたこと。レクターは流麗なイタリア語をしゃべり、英語訛りのイタリア語、イタリア語訛りの英語が錯綜しなければ意味がない。日本人観光客の日本語がよく聞こえたのは皮肉。  

 オープニングで繰り広げられるヒロイン・クラリス(ジュリアン・ムーア)をリーダーとするFBI・SWAT混成チームの麻薬犯との銃撃戦。赤子を抱いた女ボスを射殺し、その決定的瞬間を新聞に撮影され窮地に追いやられるクラリスの苦悩も彼女を何かと敵視し裏でFBI失脚へ手引きする司法省査察次官補・クレンドラーの非道さもあっさりしすぎている。
 
 かつてレクター博士によって顔の皮を剥がされ、下半身麻痺、見るも無残な姿にされた大富豪・メイスン・ヴァージャーの、レクターに対する復讐心以外に人格異常さを示すエピソードもほとんどない。(メイスンの奇怪な容貌は映画用にかなりアレンジされていたが蛇のような右目の無気味さが背筋を寒くさせてくれた)  
 この二人の悪人ぶりを徹底させないと、「羊たちの沈黙」と違って特異なヒーローになってヒロインを救う怪物レクターへの感情移入が中途半端になってしまう。だからクライマックス、レクターがふたりをそれぞれ死に至らしめるくだりでそれほどカタルシスが得られないのだ。  
 映像化不可能と思われた例のグロテスクな〈最期の晩餐〉シーンは最新の特撮技術でリアルに再現されかなりのインパクトではあったが、原作で驚愕したのは料理されることによって徐々に狂っていくクレンドラーの様子であり、それからすると物足りない。表現上の倫理的問題でもあったのだろうか。
 
 クラリスに対するレクターの異常とも思える執着も、レクターの過去、幼い頃ナチの手で無残に殺された妹への憧憬が描かれていないからもうひとつぴんとこない。原作にあったレクターとクラリスの〈究極の恋愛〉部分を削除してしまったので当然の結果ではあるのだが(個人的にはこの官能シーンをぜひとも観たかった)。
 
 小説とはあえて変えたラストは映画お得意の〈Ride to rescue〉を採り入れた。あと10分で警察がやってくる間にいかにしてレクターは屋敷から逃げ出すことができるかのサスペンスなのだが、これがまったく平凡な展開。「羊たちの沈黙」における息の詰まる逃亡劇に比べるとまるでとってつけたようなエピソードだった。続編を作れるように配慮したのだろう。
 トマス・ハリスが絶賛したというラストは小説の中盤にある旅客機のくだりをアレンジしたシーンを指しているのだ、たぶん。

 スチールで見る限りジュリアン・ムーアはミスキャストに思えた(この顔、僕はどうも苦手)が、映画の中ではそれほどの違和感はなかった。しかし、劇中で前作バッファロー・ビル事件に触れる会話になるとどうしてもジョディ・フォスターの容姿がかぶさってしまって困った。  
 だいたいラストを大幅に変更したこの映画にジョディ・フォスターの降板する理由がないではないか! 映画に対する一番の不満はやはりそこにつきる。




2000/11/24

 「ホワット・ライズ・ビニーズ」(渋谷東急 試写会)

 この映画についてはその存在すら知らなかった。友人に試写会の招待状をもらい、タイトルからはどんな内容かはわからなかったが、ハリソン・フォードとミシェル・ファイファーの共演、ロバート・ゼメキス監督作品だと知り、俄然興味がわいた。

 ハリソン・フォード扮する学者と再婚した元チェリストのミシェル・ファイファーは娘を大学の寮に送り出し、学者の父が建てた瀟洒な家で夫婦ふたりの生活が始まった。
 愛する娘を送り出して寂しくてたまらない彼女は家の中で不思議な現象にさいなまれる。閉めたと思ったドアが開いていたり、突然電源が入ってラジオが鳴りだしたり。
 最近、引っ越してきた隣家は夫婦喧嘩が絶えない。ある日夫人がいなくなってなってしまって、亭主に殺されたのかもしれないと思った彼女はそのときから女の幽霊を見るようになる。妄想がひろがる彼女はやがて一年前に起こした交通事故で失った記憶が蘇ってくる。幽霊の正体は実は……というサイコホラー。
 ゼメキス監督がヒッチコックの「サイコ」を代表とするスリラー映画を意識して最新技術を駆使し自身のプロダクションで製作された作品(観た後、チラシの解説で知った。だから劇中「サイコ」そっくりの音楽が流れるのですな)。

 クライマックスはかなり怖いけれど、「黒い家」を知っている者としてはどうかなと思う。この手のたたみかけるような恐怖は映画の十八番だろう。それより前半のじわじわ迫ってくる現実か妄想かヒロインも観客もわからない怖さをもっと徹底させていたら新しいホラーの誕生を祝えるのに。

 それにしてもハリソン・フォードは幸せな役者だ。確固たる人気のシリーズものをいくつも持ち(「スターウォーズ」「インディアナ・ジョーンズ」等)、なおかつ単発で印象的な作品がある(「ブレードランナー」「刑事ジョン・ブック」)。いろいろな役柄に扮し、それがけっこうぴったりくる。アクションから学者、大統領までこなせるというのはすごいことではないか(これも「インディアナ・ジョーンズ」シリーズのおかげか)。
 ミシェル・ファイファーを僕はそれほど知っているわけではない。「ストーリー・オブ・ラブ」が最初の出会いだと思う。実をいうとミシェル・ファイファーとキャメロン・ディアスと「アリー My Love」の主演女優の区別ができない……。

 試写会の時間がとんでもなかった。開始が午後9時55分、上映時間が2時間10分。終了すると終電に間に合うかどうかの時間だ。
 エンディングロールが流れたとき、観客の退席の様子はそりゃ壮観でしたよ。
 まあ、それとは関係なく2時間10分は長すぎるけれど。

 タイトルを直訳すれば「下に横たわるのは何?」。〈Lie〉は「横たわる」と「嘘」をかけているのかもしれない。

     ◇

2000/12/11

 「ペイ・フォワード [可能の王国]」(一ツ橋ホール 試写会)

 内容はまったく知らず、ケビン・スペイシー主演、ミミ・レダー監督作品と聞いて大いに期待したこの映画なのだけれど、会場で配付されたチラシを見て驚いた。2001年アカデミー賞確実とある。
 確かにケビン・スペイシーは「アメリカンビューティー」で、共演のヘレン・ハントは「恋愛小説」でともにアカデミー賞を受賞しているし、ハーレイ・ジョエル・オスメント(「シックス・センス」の少年)は「シックス・センス」で候補になった。この3人が出演するからといってアカデミー賞確実というのも安易ではないか!? それにサブタイトルの[可能の王国]もあまりに直訳調で少し引いてしまったところがある。

 ミミ・レダー監督は開巻早々雨の中の人質事件をお得意の緊迫感あふれる演出で展開させ観客を一気に映画に引きずり込む。事件を取材中に車で逃走する犯人に体当たりされて自家用車をメチャメチャにされた記者が、突然何の理由もなく自分に新車のジャガーをプレゼントしてくれる奇特な男に出会うというアーバンタイトルエピソードで、まず観客に謎が提示されるのだ。

 劇場デビュー作「ピース・メーカー」、スマッシュヒット「ディープ・インパクト」とミミ・レダー監督は女性を感じさせないスリリングなアクション映画の旗手というイメージがあった。そんなミミ・レダーがやっと全編にわたって女性らしい感性と繊細さを発揮した映画が「ペイ・フォワード」といえようか。

 ケビン・スペイサーは顔に火傷痕を残す中学教師。新学期、彼が担任するクラスに新入生のオスメント少年がやってくる。先生が毎年新学期に出題する「世界を変えるにはどうしたらよいか」の課題に対するオスメント少年の回答が非凡だった。
 ある人が3人に善意の施しをする。3人はその人への感謝のしるしに別の3人に同じ善意の施しをする。これを〈先渡し〉(これがタイトル「Pay It Forward」の由来)といって、この仕組みで次々に善意が広がっていく。〈先渡し〉はやがて世界中を席捲し、そうなれば世界は変わっていくのではないかと、と説明する。いってみれば善意のねずみ講、チェーンレターの変形版だ。

 少年は手始めにホームレスの男を自宅に招き入れ、食事をさせる。少年の母であるヘレン・ハントはアルコール依存症で禁酒に苦しんでいるホステス。同じアル中の暴力夫は行方知れずの状態。少年は2人めの〈先渡し〉を先生にし、母親と恋仲になるよう画策する。もう一人は友だちをいじめっ子たちから救うこと。
 冒頭の新聞記者が〈先渡し〉の存在を知り、関係者を取材する過程と、その発祥の元になった少年の行動を交互に描きながらクライマックスで結びつき、衝撃的な事件のあと、心洗われるラストをむかえるという構成だ。その中で母子が抱える問題、中学教師のトラウマが浮き彫りにされていく。
 教師と母親の仲を裂くように突然姿を現わす夫にボン・ジョビが扮している。これがなかなか適役なのだ。話題作りというよりあくまでもオスメント少年が成長したときの容貌からキャスティングされたのではないかと思う。まさしく親子って感じ。

 ラストは会場の女性たちの涙を誘っていた。
 この映画のテーマを考えたら僕としてはクライマックスの出来事は許せない。もう少し別の方法があったのではないかと思う(原作がそうなっているのだろうが)。
 ただその後の展開で好感をもったのはこのくだりを感情過多の泣きの演出で描いていないことである。普通なら病院の教師と母親のシーンからラストまでをもっとベタにオーバーアクションと音楽を使って、観客の感情に訴えかけて盛り上げるのだろうが、ミミ・レダー監督はカメラを引いて、客観的に見つめ、さりげなく事実を直視させる。




2000/11/07

 「カオス」(テアトル新宿)

 原作は歌野晶午の「さらわれたい女」。二転三転する物語に眼が釘づけになってしまったのだから、原作を知らなくて本当によかったという思いである。

 美貌の社長夫人(中谷美紀)が夫へのあてつけに狂言誘拐を便利屋(萩原聖人)に依頼、決行する。便利屋は夫人を部屋に監禁し、指示があるまで絶対に外に出るなと念をおして外出、綿密な計画のもとに夫へ誘拐金目当ての電話をかける。警察も動きだすが簡単に身元が割れるはずがない。自身満々で部屋にもどった彼を待っていたのは社長夫人の死体だった。動転しながらも死体を山中に埋めた彼はある日街で社長夫人を見かけるのだった……。

 冒頭夫と一緒に昼食をとる黒いドレス姿の中谷美紀に魅了された。デビュー当時の髪の長い清潔感あふれる容姿にこの数年めっきり力をつけた演技力で便利屋を翻弄する人妻役を好演。監禁された中谷が萩原に縄で縛られるシーンには思わず鼻の下が伸びちまいましたよ。
 対する萩原聖人も悪くない。悪くないけれど、どうも僕には今いちピンとこないところがある。個人的な印象かもしれないけれど、彼に大人の男性を感じることができないのだ。妻子と別居し、便利屋は世の中の酸いも甘いも知った少しばかり社会からずれた男という役柄なのだが、萩原だと社会を知らない学生くずれに見えてしまう。息子とのツーショット、別居している妻との会話、それ以上に人妻の妖しさに取り込まれてしまう男にはどうしても見えない容貌、とでもいえばいいだろうか。外見の幼さが足を引っ張ってしまう。

 妻を誘拐される夫に光石研、誘拐事件を追う刑事に國村隼。ともに巧い。
 光石研なんてその昔「博多っ子純情」でデビューしたときはオーディションで選ばれたズブの素人だったことを思うと、隔世の感がある。今では性格俳優だもの。
 このふたりに大杉漣、岸辺一徳を加えると、癖のある映画〈脇役常連カルテット〉とでもいいたくなる。大杉漣は最近出世して主役はるようになったから〈トリオ〉と呼ぶべきか。好きな俳優が活躍するのはうれしいけれど、毎回だと食傷気味だ。それだけ日本映画界をしょってたつ役者の層が薄いというわけか。  

 この映画で一番期待したのは「女優霊」「リング」で圧倒的な恐怖を体験させてくれた中田秀夫監督がジャンルの違う映画でどのような手腕を見せてくれるかということだった。
 本作の前に手塚治虫原作を映画化した「ガラスの脳」が公開されたが、主演がジャニーズ事務所の新人と知って劇場まで足を運ぶ気にはなれなかった。
 そこに「カオス」公開のニュース。主演が中谷美紀とあっては期待しないわけがない。
 ホラー映画における中田秀夫監督の演出はオーソドックスで、あまり奇をてらわない。対象をごくごく平凡な構図で狙い、それが逆に恐怖シーンを際立たせる。その姿勢はこのミステリアスムービーでも変わらない。もう少しスタイリッシュにと思わないでもないけれど。が、相変わらず恐いシーンは特筆もんである。

     ◇

2001/06/07

 「さらわれたい女」(歌野晶午/カドカワノベルス)  

 昨年秋に単館ロードショーされた中田秀夫監督作品「カオス」の原作。
 
 便利屋が美貌の人妻から夫へのあてつけの狂言誘拐を依頼され、緻密な計画を練る。警察の追及をかわす作戦が功を奏して喜び勇んで人妻を監禁している部屋に戻ると、そこには首を締められ殺された人妻の死体が横たわっていた。恐怖におののき逃げ出そうとする便利屋に殺人犯から人妻と便利屋を結びつけるメモをネタに遺体を処理せよとの脅迫電話がかかってくる。便利屋は何とか死体を人里はなれた山中に始末して事なきを得るが、すぐに警察に発見され、落ち着かない毎日が続く。そんある日、街中で死んだはずの人妻を見つけ、独自に調査してみると狂言誘拐には巧妙な罠が仕組まれていたことを知るのだった……。
 
 事件に巻き込まれる便利屋〈俺〉の一人称と妻を誘拐される若手経営者側の三人称で物語は語られている。  
 ちょっとびっくりというかがっかりというか、映画は小説を何の工夫もなくそのまま映画化したところ(ラストが若干変更されている)だ。原作を読んだ人はキャスティング以外映画に違和感はないだろうし、映画を観てから原作をあたった人は新たな発見はない。個人的には、原作では人妻と便利屋の騙し合いに手が込んでいたり、便利屋の人間なり、生活なりがより深く描かれているのではないかと期待していたのだが。

 僕はいわゆる〈新本格派〉と呼ばれるミステリ群が苦手である。その手のミステリを数多く読んだこともないので、断定することはできないけれど、それでも一時期ミステリ好きの友人の薦めで〈新本格派〉の大御所的存在である島田荘司の作品をまとめて読んだことがある。おもしろくはあるが、トリックのためだけに作られた物語に夢中になることができなかった。  
 たとえば小説のなかで伏線としてとりこまれた日記、手紙の類があったとする。それらの内容が読者のために書かれたのが歴然としていて、ちっともリアリティが感じられない。このリアリティのなさがネックだった。主人公に感情移入できない僕はどこか醒めていてトリックだけで成り立つ物語に満足したためしがなかった。(じゃあ、おまえが書いている小説・のようなものはいったい何なんだ、あんな日記があるものかと言われれば反論できないのですが……)
 
 そんなわけでたまに友人に薦められることはあっても〈新本格派〉を標榜する若手作家たちの作品を読んだことがない。  
 「さらわれたい女」も伝言ダイヤルを活用して警察の逆探知をうまくかわす誘拐の手口、主人公に仕掛けられた罠、どんでん返しが斬新といえるかもしれないけれど、ただそれだけのおもしろさであって、ほかに何の充実感、満足感はない。小説を先に読んでいれば、また違った印象を受けたかもしれないけれど。




2000/11/03

 「砂の女」(ビデオ)

 大学時代は三島由紀夫に狂っていて、他の小説が読めなくなっていた。それじゃしょうがないと、読んだのが安部公房の「砂の女」だった。一度「密会」という小説を読んで、まったくというほど理解できなかった。その名誉挽回という気持ちもあった。あのころは安部公房描くところの前衛世界が何とも魅力的に思えたのだった。
 「砂の女」は「密会」よりわかりやすく面白かったものの、以後安部作品を読むことはなかった。

 崖の下の砂丘の中に建つ小屋に住む女と、村人に騙されて小屋に迷い込み砂地獄の蟻のようにそこから抜け出せなくなった男の愛欲物語。侵食してくる砂に苦しみながら女の魔力にとりつかれた男の不可思議な体験を描く「砂の女」は小説より映画としてその存在を知っていた。そのビデオが図書館にあったのであわてて借りてきた。レンタルビデオ店ではお目にかかれない作品があるという点でも図書館はあなどれない。
 脚本は安部公房自身が書き、勅使河原宏監督の1964年度作品。主演は若き岸田今日子と岡田英二。男を砂地獄に誘いこむ村人の一人が三井弘ニ。
 小説の非現実な物語が見事に映像化されていた。砂の怖さ、いやらしさは活字以上にこちらに伝わってくる。

 映画はその内容が優れていることはもちろん、映画の顔とも言えるスタッフ・キャストのタイトルデザインにも神経を注いで欲しい。
 僕が市川崑監督を好きなのはいつも斬新なタイトルを見せてくれるというところにもある。
 「砂の女」のタイトルも秀逸だ。
 白地に黒い明朝体の文字。実相寺昭雄監督が後年得意としたデザインである。勅使河原監督のそれは英語とフランス語の訳も一緒に並び、おまけに名前の横には各人の捺印があるという凝りよう。
 武満徹の現代音楽も印象的。

     ◇

2000/11/03

 「源氏物語 あさきゆめみし」(渋谷エルミタージュ)

 宝塚歌劇の世界を受けつけなくなったのは中学生になってからだ。
 「リボンの騎士」のアニメに夢中になっていた小学生の僕は男装の麗人の魅力にとりつかれ(といったって当時そんな意識はなかったけれど)、母親が宝塚のファンということもあって宝塚歌劇に何の違和感も抱かなかった。NHKには宝塚歌劇の番組があって、毎週楽しみにしていたものだ。
 中学生になると池田理代子の「ベルサイユのばら」が大ブームになって、宝塚で舞台化もされ、これも大ヒットとなった。NHKでも何度もその舞台中継があって、そのたびにチャンネルを合わせるのだけれど、派手な化粧と男役の声質、演技に触れるとどうしても背筋が寒くなって、最後まで鑑賞することができなかった。

 宝塚歌劇団の花組のキャストで源氏物語が映画化されたことなど全然知らなかった。原作は大和和紀の人気コミックだという。
 東京国際映画祭の〈カネボウ国際女性映画週間〉で上映されるこの映画の招待券をたまたま手に入れただけなのだが、女優が光源氏に扮する作劇に興味がわいた。何よりもこれは舞台ではなく、映画。宝塚歌劇とは別の魅力に包まれているのではないかと期待したのだ。

 上映前に〈カネボウ国際女性映画週間〉事務局代表の方の挨拶があり、この映画がハイビジョンで撮影されたビデオをキネコにしたもの、コミック「あさきゆめみし」の後半はすでに宝塚で舞台化されていることを知り、不安を覚えた。

 不安は的中した。結局この映画は宝塚歌劇の単なる映像化でしかなかった。宝塚ファンなら受け入れられる内容も、門外漢の僕にはとうてい理解できないしろものだった。
 映画は〈何でもあり〉とはいうものの、リアリズムを基本にしているはず。にもかかわらず舞台とまったく変わらない男役の〈いかにも〉な演技と容姿。かつらをかぶって女性が僧侶を演じるなんてまるでコントの世界ではないか。

 NHK大河ドラマ「葵 徳川三代」のオープニングでベテラン女優(浅利香津代・鷲尾真知子)のふたりが介さん、覚さんに扮して中村梅雀の水戸光圀と絡みドラマの解説をするコーナーがある。これがなかなか愉快なのだが、「あさきゆめみし」で男でも女でもない妖艶さを期待していた光源氏の愛華みれや頭の中将の匠ひびきが並んで芝居するたびに、このコーナーを思い出して苦笑してしまった。

 事務局代表の方が強調していた映像の美しさも、確かに日差しのゆらめきなど、照明や美術に神経をゆきとどかせ、とても丁寧に仕上げられているものの、映像設計がビデオ用のため、キネコでスクリーンに映しだされると、どうしても全体的に押しつぶされた色彩となって本来の美しさが表現されていなかったように思う。あるシーンで青い絹がアップになったとき特にそれを感じた。

 というわけで、更衣・藤壺の女御を演じた大鳥れいの美しさに心奪われた以外、僕にとっては眠けを誘う映画であった。

     ◇

2000/11/06

  「スペース カウボーイ」(丸の内ピカデリー1)

 週刊文春連載のコラムで小林信彦が「1年に1回しか映画館で映画を観ない人はこの映画を観てください」と大絶賛していた。またその前週の映画評(5人の知識人による星取表)でも概ね好評だった。

 クリント・イーストウッドの製作・監督・主演、イーストウッドとともにトミー・リー・ジョーンズ、ドナルド・サザーランド、ジェームズ・ガーナーたちが活躍する宇宙冒険モノと聞いて特にイーストウッドのファンではないけれど胸躍らせた。
 何しろ丸の内ピカデリーではこの映画に関して毎週月曜日を〈メンズデー〉に設定して、1,000円で入場できるようにしているのだ。これはぜがひでも月曜日に押し寄せて、好評を博させ、このシステムを継続させたいという気持ちにもよる。(それにしては観客が少なかったなあ。そりゃまあ月曜日の夜なんて大の大人だったら疲れてますもんね)

 また純粋にリアルな宇宙モノに興味があるということもある。
 アメリカ初の宇宙飛行士になるはずだったのにその座をチンパンジーに奪われた男たちが40年後、ロシアの旧型の人工衛星が地上に落ちることを阻止するため宇宙へ飛び念願の夢を叶えるというストーリー。
 アポロ計画が華やかりしころ、ケロッグのおまけがアポロロケットのシリーズで小学生だった僕は近所の1年上の男の子と一緒に盛んにおまけを集めたものである。将来の夢は野球選手から宇宙飛行士にかわっていた。(ジェットコースターも怖くて乗れない今の自分からは信じられないけれど)そんな子ども心が疼いたのだ。

 オープニングの主人公たちが乗る練習機が大空をマッハで飛ぶ疾走感がたまらない。イーストウッドはこのシークエンスでおもしろい演出をしている。4人の老優(?)たちの青年時代を実際の若い俳優に演じさせ、声だけ本人たちが吹き替えているのだ。確かに声はそれほど老けないし心憎い方法である。若い俳優たちも40年後の姿を想像させる容姿でこういうところでもアメリカ映画は手を抜かない。
 主役の名優たちは人間くさい男ばかりだから前半イーストウッドが昔の仲間を集めるところはそれだけで1本の映画になりそうな出来である。

 しかし特撮好きな僕としては後半の宇宙に飛び出してからの映像に目を見張った。いわゆるSF映画の実際には(たぶん)ありえない映像については最近では〈CG〉、〈デジタル合成〉のキーワードですんなり受け入れしまう僕であるが、TV、ビデオ等で見慣れている大気圏外の映像は本物を知っているだけに思わず身を乗り出した。
 この夏うちの会社も出展している関係でお台場で開催された「夢の技術展」を観に行った。特に僕の興味を引いたのがある団体のブースでモニター放映されていた「毛利衛の撮った地球」(タイトルが違っているかもしれない)だった。スペースシャトルから単純にビデオカメラで撮影した地球の姿に坂本龍一の音楽が流れるだけのものだが、大気圏外から見るさまざまな地形が心をなごませてくれた。
 地図と同じ関東地方の形、そこだけ盛り上がった雪におおわれた富士山。赤茶けた砂漠地帯、緑だらけのアマゾンの熱帯雨林。 そんな実物と遜色ない映像が急展開する物語の背景として存在していることに驚いた。シャトル内の無重力状態はどんな風に撮影したのか。昔ながらのブルー(グリーン?)バックによる吊りだろうか。それにしては合成っぽくなかった。

 サスペンスとスリルにあふれた、それも前半の伏線が大いに効いているクライマックスに興奮して満足した。
 ただひとつ疑問なのはラスト、トミー・リー・ジョーンズによって導かれた核ミサイルを乗せた衛星がどこに消えたかという問題。宇宙の彼方に消えたのか? 彼ととともに月面に衝突したのか? 前者だったらまだいいが(よくはないか)、後者の場合月で核爆発が起こりますよね。アメリカ映画ってホント核爆発に対して無頓着なのだ。そこんところがどうにも気になった。




2000/10/04

 「キッド」(丸の内ピカデリー1)

 少年時代に思い描いた理想的な大人にはならなかったけれど、有能なイメージ・コンサルタントとして、それなりに名誉も収入も得て、優雅な独身生活を謳歌している中年男のもとになぜか8歳の自分が現われた。
 子ども時代の夢(パイロットの免許をとる、犬を飼う)を一つも実現していないばかりか、もうすぐ40歳をむかえるというのに未だ結婚していない男の現状に少年は嘆き哀しみ男を非難する。
 その後、男は少年の言動に右往左往しながら、なぜ〈8歳〉の自分が会いにきたのかを考えるうち、自ら封印して知らぬ間にトラウマとなっていた出来事に思い当たる。男は少年に助言を与えながらその出来事を克服、すると意外な人物がふたりの前に現われて、ふたりの輝かしい未来を確約する。甘いといえばそれまでだけれど、まさに絵に描いたようなハッピーエンド。ハリウッドらしいというか、ディズニーらしいファンタジー映画である。

 現在の自分が過去の自分に会うという話はよくある。
 たとえば藤子・F・不二雄の異色短編に「自分会議」というのがあった。
 ある学生のところに青年(数年後の学生)と中年(十数年後の学生)がやってきて、もうすぐ学生に転がり込む遺産の処理についてそれぞれの意見を言い合う。ふたりともその処理に失敗して、学生に自分の二の舞だけはさせたくないというのだ。喧々囂々の討論しても結論はでない。もう一人小学生の自分の意見も訊いてみようと呼んできたのはいいけれど、またまた大喧嘩に。少年は未来の自分たちの情けない姿に絶望して、部屋の窓から飛び降りてしまう。とその瞬間、あとの3人も消えてしまうのだ。
 この設定をひっくり返すと「キッド」になる。

 「キッド」に興味があったのは個人的な理由がある。
 二十代半ば、ちょうど仕事に行き詰まって落ち込んでいたころのことだ。人生に行き詰まった男(僕)が中学生の自分自身に会いに行く短編小説を書こうとしたことがあった。
 中学時代はそれまでの人生の中で一番輝いていた時期だった。勉強もそこそこできて、趣味やスポーツに積極的に取り組み、すべてにかなりいい成績を残せた。彼女と両思い(!!)になって放課後の語らいや交換日記が楽しみだった。そんな自分に少し元気をもらおうと訪ねるというわけ。ところが実際は当時の自分も悩み多き年頃で、逆に励ますはめになるというオチで、かつての自分を励ましながら、男自身も生きていく自信をとりもどすというストーリーだった。 だが、結局完成せずに終わった。
 ま、そういう物語を考えたのもまだ自分の人生を思いどおりにつき進んでいたからだろう。

 「キッド」で注目したのは、看板のコピーにあった<今の私は、あの頃なりたかった大人だろうか?>というナイフのような言葉だった。これにはぐさりと胸を突き刺さされたような思いがした。  映画の主人公(ブルース・ウィリス)は39歳、僕は40歳。主人公は8歳のころになりたかった大人でないことを非難される。じゃあ今の自分は中学生(14歳)だった僕自身が夢に描いた大人になっているだろうか。
 映画界、映像業界で働きたいという夢は30代直前に挫折した。何とか家族3人の生活を維持していくために、業界から足を洗った。お金の問題があった、精神力の弱さもあった。それでも自分の好きな仕事のまわりでウロチョロしていたのだが、流れ流れて、今ではまったく関係ない業務についている。中学時代からはまったく想像もできない仕事である。
 すべて自分自身の判断、行動の結果であるから仕方ない。せめて映画の主人公みたいに仕事に成果や張り合いを持てればいいが、それもなく、いまだに天職は何かを頭の中だけで模索している状態。それなりに地位と収入がなきゃいけない40歳にしてこのテイタラク、14歳の僕が知ったらどう思うだろうか。
 そんなわけで、かなりマジに主人公の対応を見つめていた自分がいた。

 過去にさかのぼったふたりが病気がちな母親を見つめながら、その死について語り合うシーンは、どうしても7月に死んだ母のことがダブってしまい冷静に観られない。
 14歳のときに未来から中年になった自分がやってきて「おかあちゃんは8年後には病気で寝たきりになってしまうんだ。26年後には……」なんて言われたらどう反応しただろうか。そう考えたらスクリーンが涙でかすんだ(といってもあくまでも悲しいからで感動ではない)。

 あのころの14歳の僕へ

 あのころは楽しかった。至福の時だったな。世の中こんなにうまくいっていいのだろうかと不安を覚えたこともあった。
 でもその後は挫折ばっかりのような気がする。30歳前には人生を降りようとしたこともあったんだ。
 あの頃思い描いたような大人になっていないのつらいし、生き方に対しては今でもジタバタしている。
 でもね、これだけは言いたいんだけど、あのころに帰りたい、あのときああしていたら、とか考えていないよ。こういう人生だったから今のかみさんや娘がいるのだろうから。喧嘩ばかりしているけどね。後悔だけはしたくない。

                              もうすぐ41歳になる君より

 追記
 主人公の家でTVを見る少年が「99チャンネルもあるのにおもしろい番組がひとつもない」とため息をつく姿は笑った。TV業界の人はこの言葉に耳をかたむけるように。
 主人公の恋人役エミリー・モーティマーがデミー・ムーアをもっと若くオキャンにしたような感じで、ブルース・ウィリスとはお似合いだなと思った。
 途中で気がついたのだが、この映画は始終音楽がバックに流れていたような。

     ◇

2000/10/11

  「顔」(テアトル新宿)

 映画館には毎月〈映画サービスデー〉というのがある。入場料が1,000円になるのでけっこう重宝している。これで映画を観る回数が増えたほどだ。なかにはレディースサービスデーなるものもあって、どうして女性ばかり優遇するのか、男性向けのサービスも少しは考慮してくれてもいいではないかと思うこのごろなのである。
 が、テアトル新宿(ちなみにここ、テアトル東京系の映画館は毎週水曜日がサービスデーとなっている)に「顔」を観に行って、女性たちが優遇されるのも無理ないかなと思い知った。
 ヒットの噂を聞き、おまけに水曜サービスデーでもあるのでかなりの混雑を予想して、最終上映1時間前に入場した。後から続々やってくるお客さんはほとんど女性ばかり。それも若い人から年配までという幅の広さだ。
 女性の面白いものに対する敏感さ、俊敏さを改めて認識した次第。まったくもって恐れ入ります。口コミを狙うのだったらやはり女性だろう。映画館が女性にサービスするのは当然の行為かもしれない。

 同僚のホステス殺しで指名手配され、全国を逃亡、時効寸前で逮捕された福田某の事件を下敷きにしたと思われるこの映画、とはいえ、ヒロインのキャラクターはオリジナルだし、ストーリーもフィクションである。
 母親が急死し、その通夜に日頃仲の悪い美人の妹を殺してしまったヒロインが逃亡生活の中で人と触れ合い、だんだんと心を開き、きれいになっていく様子が描かれる。
 このヒロイン・正子のキャラクターがユニークだ。裁縫の技術だけに長けたどん臭い引きこもりの年増女性という設定で藤山直美が扮している。

 冒頭、正子は舌打ちしたくなるようなイヤな女として登場する。
 口論の末、たぶん発作的に妹(牧瀬里穂)を殺したあと、放心状態の正子は風呂に入りながらナイフを手首にあて自殺を図ろうとするができない。それは転生を信じる正子のうちにある「たとえ生れ変わったとしても何も変わらないから」という絶望感による。理由を知って急に正子が愛しく見えてきた。それに妹を殺したことに対する罪の意識を常に持っていて、逃亡中も妹の幻影にさいなまれているところも彼女にたいする思い入れを強くしてしまう。
 逃亡を図った早朝、商店街の一角で睡眠をとろうとして阪神大震災に遭遇し「バチがあたった!」と何度も叫ぶ姿がおかしい。

 主演の藤山直美がいい。自転車に乗れない。泳げない。この見るからにどん臭い女の正子を外から内から見事に演じている。特に巧いなあと思ったのは正子が大分に逃げてからスナックで働き出し、客とカラオケに興じるシーン。タンバリンを叩けばリズムをはずす、唄をうたえば英語の歌詞がメロディに半テンポ遅れる。ちょっとしたしぐさでどん臭さを体言している。

 共演者が豪華だ。
 正子に道を教えるそぶりでトラックに連れ込み、犯してしまう酔っ払いに中村勘九郎。ほとんど信じられない役柄だ。
 最初に正子が働くラブホテルのオーナーに岸辺一徳。いつも同じ演技なのに不思議とその役になりきってしまう。
 正子が恋する憧れの男性に佐藤浩一。特急「にちりん」でのふたりの会話は抱腹絶倒。台詞と間の取り方に藤山直美が寛美の娘であることを再認識できる。
 正子が世話になるスナックのママに大楠道代。見るからにちょっと疲れた気のいい田舎のママさんだった。いい。彼女の弟のちんけなやくざが豊川悦史。トヨエツってこういうエキセントリックな〈普通じゃない〉役が似合う。スナックの客で正子に恋する男は國村隼。
 派手さがなく、演技演技していない芝居をする役者たちが脇を固めている。

 倫理的にはけっして正しくはないけれど、ラストに見せる正子の生きていくことへのずぶとさが実に爽快である。

     ◇ 

2000/10/20

 「五条霊戦記」(日劇東宝)

 思えば1970年代後半から80年代にかけて登場してきた自主映画界の旗手たちは、今では日本映画界の中堅監督として活躍しているのだ。
 「地球に落ちて来たクマ」の小中和哉監督は春に公開されるウルトラマン映画を連作し、斬新なビジュアルショックで往年のウルトラファンを熱狂させてくれた。「九月の冗談クラブバンド」の長崎俊一監督は「死国」で一部に16mmをイメージさせる映像処理を施したホラー映画に挑戦し職人ぶりを発揮した。
 邦画が衰退したのは撮影所システムが崩壊したからだという指摘がされて久しいが、徒弟制度を経験していない監督たちが実力を示してきたのは新しい日本映画の未来を感じられてうれしい。

 「高校大パニック」でデビューした石井聡互監督も「五条霊戦記」などという時代劇を撮るまでになってしまったのは感慨深い。
 8mm映画「高校大パニック」が評判を呼び、日活がいち早く劇場公開用に映画化を決定、当時日活のエース監督・沢田幸弘と協同で演出にあたった。その撮影現場を取材した記事が「キネマ旬報」に掲載されたのを今でも鮮明に覚えている。
 沢田監督の横でふてぶてしい態度をした石井監督の表情には「なんでオレがこんなオヤジと一緒に映画撮らなきゃいけねーんだ」と書かれていた(と思った)。
 このときのヤンキー風の風貌に馴染めなかったのか、あるいは作品に感じられるアナーキーさが肌に合わなかったのか、僕はこれまで石井監督作品を観たことがなかった。評価の高い「爆裂都市」「狂い咲きサンダーロード」「逆噴射家族」、どれも描く世界が今ひとつ僕の琴線に響かなかった。
 しかし「五条霊戦記」を観て考えを改めた。これほどまでアクション(アクションをどう撮るか)を極めている人だとは思いもしなかった。

 昨年からブーム到来とばかりに時代劇映画が公開されているが、刀と刀がぶつかりあう、いわゆる〈チャンバラ〉の醍醐味を満喫させてくれるものはなかった。刀の持つ重厚さ、残酷さを描いているけれど、それをアクションにまで転化させたものはない。映画の主題、狙いが違うのだから当然なのだが、1本くらいその手のものがあってもいいと思う。唯一期待した「梟の城」はまったくアクション映画とはかけ離れた内容だったし。
 「グラデュエーター」を観て、その殺陣に興奮し、こんな剣と剣の迫力ある戦いを時代劇で再現できないだろうかと思ったが、非常にむずかしいこともよくわかっている。石井監督は見事にそれをやってのけたのだ。

 「五条霊戦記」は有名な源義経と武蔵坊弁慶の物語を独自の解釈で大胆に映像化している(といったって元の物語もあくまでも伝説でしかないのだが)。
 平家に復讐を果たすべく仲間2人を伴って京の町で平家武者への殺戮を繰り返す義経(浅野忠信)とそれを阻止すべく彼らの前に立ちはだかる僧侶・弁慶(隆大介)の戦い。
 何と映画の中では義経と弁慶の立場が逆転しているのだ。
 弁慶もかつては無法者だったのだが、かつて犯した女が産み育てた自分の息子を殺めてしまったことで改心し、仏門に入ったという設定。手塚治虫「火の鳥 鳳凰編」の我王みたいなキャラクターである。
 伝説で有名な千本の刀の収集は後に仲間になる刀鍛冶・鉄吉(永瀬正敏)が受け持つ。

 アーバンタイトルのエピソードがなんとも魅力的。夜警の平家武者の首が一陣の風とともに鮮やかに斬り落とされるショットは敵が何者なのかわからない不気味さがうまく表現されている。これで僕の心はわしずかみされたと言ってもいい。
 森の中で展開される最初のアクションのカメラワークに目を見張った。役者たちはもちろんカメラも自由に動きまわる。黒澤監督「羅生門」の有名な森をかけめぐる多譲丸のショットへの石井監督なりのアプローチだろうか。(中には本当に酔いそうになるブレの連続もある。)
 美術も凝っている。衣装、小道具、セットの作りはかなりリアルで、画面全体に神経を注いでいることが作品世界を確実なものにしている。森や川などの自然描写もいい。

 頭を剃った隆大介がボロ雑巾のような僧衣を身に着けて圧倒的な迫力。かたや無表情の浅野忠信の二刀流も様になっている。義経の弟・芥子丸(細山田隆人)の美少年ぶりに注目。声を聞くまで女優が扮しているものとばかり思っていた。
 岸辺一徳、國村隼がそれぞれ平家武者の大将・平忠則、平家側の僧侶・朱雀法眼の役で出演している。岸辺一徳のいつもと変わらない演技(でもそこがいい)なのと対照的に國村隼は「顔」のスナックの客人とはまったく別人格の僧侶を見事に演じ、思わず唸ってしまった。
 岸辺は役を自分に近づけ、國村は役に自分を近づける名脇役といえるだろう。その他、出てくる役者陣が日頃あまり馴染みの人ばかりで実に新鮮だった(単に僕が無知なだけかもしれない)。
 弁慶の師匠にあたる阿闍梨役の勅使河原三郎って一体何者なのか?

 圧巻は何と言ってもクライマックスの〈五条の橋の戦い〉。
 剣と剣のぶつかりあいをかつてこれほどまでに激しく目まぐるしく描いた映画があっただろうか。まさに命を賭けた〈火花散る〉戦いでこのシーンを観るだけでも金を払う価値がある。
 二人とも死んでしまうのか? その後の物語はどうなるのか。あっと驚く結末があって、そしてちゃんと伝説どおりのラストに落ち着かせる配慮が心憎い。

 【追記】
 坊主頭の隆大介の風貌は池波正太郎描くところの藤枝梅安そのものだ。
 原作に忠実な江戸情緒たっぷりな隆大介主演の「仕掛人・藤枝梅安」を観てみたい。
 
     ◇ 

2000/10/24

 「インビジブル」(新宿文化シネマ)

 ケビン・ベーコンの名前と顔が一致したのは「アポロ13」だった。
 第一印象は「なんて魅力的な声の俳優なんだろう」。美声というのではないが、声を落としてボソボソとつぶやく、その孤独感あふれたところが魅力的だった。
 もし僕が女だったら、耳元で彼に愛の言葉を囁かれたりなんかしたら思わずイッテしまうのではないか?

 ……。

 そんなわけで、透明人間になって、劇中ほとんど姿をあらわさず、声だけで芝居する主人公にオファーされたのは当然の結果といえる。
 残念なのはケビン・ベーコンが知的なマスクでなく、どう贔屓めに見ても科学者らしくないこと。そもそも彼が得意とするのは、得体の知れない悪人(もどき)なのだから、物語の後半、透明薬の影響と元恋人と同僚の仲に対する嫉妬に狂った彼が次第に暴力的になって殺人鬼へと変貌していく過程は容易に想像できる。
 だいたい彼が上層部へ嘘をつき、周囲の反対を押し切ってまで人間の透明化実験に挑戦するのか、それも自分の身体を投げ打ってまで実験を遂行するのか、その憧憬と焦燥の気持ちがこちらの胸に響いてこない。

 前評判の高かった動物(人体)が透明化(あるいはその逆)するプロセスはバーホンベン監督らしいえぐさではあるけれど、CGだったらこれくらいできるんじゃない、ってな感じでそれほどのショックはなかった。
 映像的にもテーマ的にも前作「スターシップ・トゥルーパーズ」の方が優っていると思う(識者には悪評たらたらだったけれど)。
 せめて透明人間になったら男だったら誰でも思う行為(この映画でも主人公は当然やりますわなあ)をもっと徹底的に描いて欲しかった。

 劇中、透明になったらまぶたが本来の機能を果たせず(光をさえぎれなくて)、まぶしさに大騒ぎするシーンがこの映画の目新しさだが、それだったら他の臓器にだって当てはまることがあるのではないか。脳や内臓を保護する頭蓋骨や肋骨などについても同じようなことがいえないだろうか。眼球自体、透明になったら本来の働きをしないと思うのだけど。

 タイトルの「Invisible」とは〈見えない、姿を現さない、表面に出ない〉という意味。しかし原題は「Hollow Man」〈からっぽの男〉。原題のままでは日本ではヒットしないだろうけど、風刺の効いているタイトルではある。




 身体中が痛くて、布団の上でウンウンうなっていた7日(木)に観ようと思っていた「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」を本日鑑賞。ひょんなことから招待券を手に入れたからなのだが、観て良かった。
 映像と音楽。そして演技。
 ヒロインを演じる役者が途中で変わるのだが、まったく意識させない交代だった。

          * * *

2000/09/03

 「ホワイトアウト」(川崎 チネグランデ)

 オープニングは非常にシンプルである。
 黒バックに「ホワイトアウト」の文字。画面がフェードアウトするとメインキャスト、スタッフのクレジットもなく、音楽の盛り上りもないまま、カメラは主人公の行動を追い、やがて大雪に閉ざされたダムで働く所員たちの仕事ぶりを活写する。このシンプルさに監督の並々ならぬ自信を感じることができる。舞台となるダムの全景が大写しになったとき、もしかしたら傑作なのかもしれないと思った。

 実際、前半はむちゃくちゃスリリングだった。
 主人公(織田裕ニ)が抱えるトラウマ(雪山で同僚を見殺しにしてしまった)の原因、そしてそれがヒロイン(松嶋菜々子)との接点となる数年前の遭難事件が短く描写された後、本筋のテロリストによるダム占拠がテンポよく続く。
 ダム職員の一員として物語に大きくかかわってくると思われた平田満や河原崎健三があけなく敵に殺されるという贅沢なキャスティングで、先の展開が読めない。この映画製作を知って原作を読まずにいたのが幸いだった。テロリストに外界への逃道を封鎖され、警察側も手も足もでない。一人敵の魔の手のから逃れた主人公がどう反撃にでるか。考えただけでも興奮してくる。

 「千里眼」と同じように原作者がシナリオを担当しているが、もともとTVアニメの演出家出身だけに活字の映像化に成功しているように思えた。
 主人公が最初にテロリストの一人を殺すシーンはまったく本家「ダイハード」と同じというのはどうかと思うが、厳寒の雪山やダム施設を熟知している主人公がその知識をもってテロリストたちを欺き、一人ひとり始末していく姿が痛快だ。

 が、絶体絶命の窮地に追い込まれた主人公が敵の策略を逆手にダムの放水パイプを使って脱出するところで大きな疑問を感じてしまった。
 防寒服やズボンの隙間をガムテープで防水し、酸素ボンベとマスクで3キロ先の川岸に押し流されて助かるまではいい。しかしそれからビニール袋に入れ携帯してきた設計図らしき紙の束を燃やして暖をとるだけで厳寒の雪中をダムにもどるというのはあまりにも自然をバカにした行為ではないか。着ていた衣服をすっかり着替える、というのであればとりあえずエクスキューズになるけれど、濡れた防寒服をそのまま着て長時間雪中を歩いていたら、いくらなんでも凍え死んでしまうだろう。

 というわけでこれ以降、いくらドラマが急展開しようとも、下がってしまったボルテージを上げることはできなかった。
 テロリストのリーダー(佐藤浩一、あの付け髭だけはなんとかならなかったか)が仲間に仕掛けたトリックも活字だからこそ生きてくるというもの。警察側の人間と話す声はどうしても佐藤には思えず、誰がしゃべっているのだろうとずっと思っていたのだから、クライマックス前のドンデン返しもそれほどのインパクトはなかった。

 ドラマがラストに向かって急激な展開をみせても、つめが甘いというかご都合主義が垣間見られ、前半のような手に汗にぎる状態にはならない。
 主人公と敵ヘリコプターのチェイスは一番の見せ場であるにもかかわらず、その〈結果〉を予告編、TVスポットで何度も見ているから興奮度は低い。出来がいいだけに残念だった。それにしてもこんな重要なシーンを予告編に使用する映画会社の見識を疑ってしまう。

 日本映画には珍しい重厚でサスペンスフルなアクション映画の傑作が生まれたのではないかという期待は裏切られた。
 まあ、織田裕二のワンマン映画としては大成功だろう。どんな理由であれ、ヒットすることは喜ばしい。このヒットに刺激されて第2、第3のアクション映画が生まれてほしいからである。

     ◇

2000/09/06

 「パーフェクト・ストーム」(新宿ミラノ座)

 予告編の、世界最大級の高波に小さな漁船が立ち向かっていくシーンに圧倒された。この特撮シーンを大スクリーンで観るだけでも価値ありと、映画サービスデーということもあって劇場にかけつけたのだった。

 ストーリーについては何の情報も仕入れていなかった。ジョージ・クルーニー主演、1991年にマサチューセッツ沖で起きた実話の映画化というくらいの認識しかなく、映画の冒頭で「この映画は実話に基づいている……」のスーパーで前代未聞の暴風雨に巻き込まれたにもかかわらず救助された船員がいたのか、とびっくりしたものだ。

 漁師たちのくらしも遠洋漁業についてもほとんど知らないことばかりだから、描かれている世界は興味深く、またドラマもよくできていた。漁のシーンでは海で働くプロフェッショナルな男たちの魅力が存分に感じられた。
 人間ドラマがちゃんと描けているからこそクライマックスに大いに興奮できるというもの。とにかく〈パーフェクト・ストーム〉と呼ばれる大嵐に巻き込まれた、漁船、ヨット、救助隊(ヘリコプター)の悪戦苦闘ぶりに手に汗握った。セット撮影とCGによる特撮が見事に融合して緊迫した迫力あるシーンの連続だ。これほどの映画とは予想していなかった。
 だから最後の最後、助かったと思いきや大高波によって漁船が転覆して乗組員全員が海に飲み込まれてしまったのには呆然自失。シーンが変わって乗組員たちの葬儀になっても誰かが生きて帰ってくるものと信じていた。

 考えてみれば、あれほどの暴風雨の中、生きて帰ってくる方が奇跡に近いのだが、漁船の人間模様は誰か生き証人がいなければわからない。冒頭の「実話に基づいている……」とはそういうことだと思っていた。でなければ漁船の話はまったくの空想話、〈講釈師見てきたような嘘をつき〉の世界になってしまう。
 要は〈パーフェクト・ストーム〉に巻き込まれたアンドレア・ゲイル号という漁船が遭難したことだけが事実なのだろう。
 ラストになって肩透かしをくらった格好になった。まっ、事実を知らなかった僕自身がいけないのだけれど。




2000/08/23

 「梟の城」(ビデオ)

 昨年から今年にかけて時代劇映画が次々と公開されている。どの作品も評判がよく、好きな監督ばかりだったから僕も劇場へ足を運んでいる。
 が、司馬遼太郎の原作を完全映画化したと話題をまいた篠田正浩監督の「梟の城」だけは映画関係の個人サイトの感想、BBS等の書き込みを読む限りどれも悪評で二の足を踏んでしまった。
 曰く「CGが安っぽく、映像が平坦」「ストーリーがわかりにくい」「期待を裏切られた」……。

 新春に会社の賀詞交歓会があり、その講演会の講師が篠田正浩監督だった。
 講演の内容はこれまでの講師たちにくらべ格段の面白さであった。当然司馬遼太郎との交流にも触れ、自作「梟の城」についても語っていた。
 クライマックスである主人公の忍者が伏見城に忍び込むシーンで、闇の中、月光に照らされた黒い瓦屋根、黒装束の忍者の微妙な色の違いについて海外の著名な評論家が絶賛していたという。俄然映画に対する興味もわいてきたものの、結局、一般人の意見を尊重して劇場で鑑賞することはなく、ビデオで間に合わせてしまった。

 予告編やTVスポットを観る限り、「梟の城」は忍者アクション映画という売りだった。だから派手な殺陣や活劇、鶴田真由や葉月里緒菜のお色気シーンを期待すると見事に裏切られる。ストーリーも多くの登場人物が複雑に入り乱れわかりづらい。
 しかし豪華絢爛な安土桃山時代をリアルに再現した映画として観るとなかなか見ごたえがあった。
 
 開巻早々の織田信長軍による伊賀の里襲撃シーンは確かにCGっぽい合成が目立ち、特に伊賀女の斬られた首が画面右が左に飛ぶショットはいかにも合成っぽくてがっかりくる。この手の〈絵〉はそれからも2、3でてくるが、それ以上に美しい映像に目がくぎづけになった。
 由緒ある建物や緑映える森や林を活用したロケーションと豪華なセット、きらびやかさや渋さで眼の保養をさせてくれる本物志向の衣装。CGを使って再現された奥行きのある堺や京の町。邦楽、雅楽をとりいれ映像にマッチした重厚な音楽。
 俯瞰で京の町の全景が映り、建物の間を人が走り抜けるショットや人の叫びを効果的に使用した音楽に興奮して、なぜ劇場の大スクリーンで観なかったのかと後悔することしきりだった。

 この映画、スタイルはとてもいい。タイトルデザイン、キャスティング、映像美、カッティング等々、僕の好みに合致するからだろう。
 ただストーリーはというと、やはり?がいくつも並んでしまう。
 信長に伊賀の里を滅ぼされてから隠遁生活を送っていた葛籠重蔵(中井貴一)が師匠の下柘植治郎左衛門(山本学)より豊臣秀吉暗殺を依頼された際、全く興味がないことを述べる。説得されてやっと重い腰をあげるわけだが、そんな経緯があるからクライマックスでの重蔵の心変わり(秀吉を暗殺せず、殴るだけ)が当たり前すぎてしまうのだ。

 史実では秀吉は病死する、しかし、この映画ではもしかして暗殺されるのかもしれないという期待感(不安感か?)がなければサスペンスは生じない。クライマックスの緊張感がないのはそのためだと思う。
 冒頭で長々と字幕による物語の状況説明があるにもかかわらず、その後中村敦夫によるナレーションがたえまなく入ってくる。ストーリーをわかりやすくするための処置だろうが、映画にそぐわない感じがした。
 また、せっかくリアルに時代を再現しているのだから、前田玄以の禿頭は本当に髪を剃るくらいでないと絵的に浮いてしまう。

 ラスト近く突然のように石川五右衛門の名前がでてくる。敵役の風間五平(上川隆也)が石川五右衛門として釜茹での刑に処せられるが、なぜ五平が石川五右衛門を名乗ったのか、実在の五右衛門とどう関係してくるのかまったく説明がないも不服(何のためのナレーションか!)。
 木さる(葉月里緒菜)が途中であっけなく殺されてしまうのは合点がいかず、小萩(鶴田真由)の存在もいまいちよくわからなかった。

     ◇

 「忍者秘帖 梟の城」(ビデオ)

 「梟の城」公開にあわせて、〈東映時代劇〉黄金時代の「忍者秘帖 梟の城」がビデオ化されたので新旧作品の比較という意味もあって続けて観た。

 こちらは脚本・池田一朗、監督・工藤栄一という豪華さ。
 工藤監督は昔「大殺陣」「十三人の刺客」の傑作をものにし、僕らの世代には「必殺」シリーズで知られている。脚本の池田一朗は後に傑作時代小説「影武者徳川家康」を書く小説家・隆慶一郎である。このコンビによるチャンバラ映画なのでさぞかし傑作なのだろうと期待した。

 この映画も織田信長軍の伊賀襲撃シーンで始まる。このシーンはCGを多様した篠田作品より迫力を感じた。女が襲われるところでは乳房丸見えで昭和30年代ということを考えるとびっくりする。

 ストーリーの構成は篠田作品とほとんど同じ(いや、篠田作品が似ているというべきか)。
 大きく違うのはラスト。重蔵(大友柳太朗)と小萩(高千穂ひづる)が結ばれるのは同じだが、篠田版では劇中殺されてしまう木さる(本間千代子)が工藤版では生き残り、重蔵の部下(河原崎長一郎 )と幸せに暮らす。五平が処刑されたことも知らず、大坂から逃げ出した重蔵と小萩がかけつけるところが木さる夫婦の家であり、二組のカップルの明るい未来を感じさせるハッピーエンドとなっている。

 総じてストーリーがわかりやすい。
 ただ忍者というと僕には細身のキャラクターのイメージがあり、先に中井貴一を見ていることもあって、大友龍太朗のそれはいまいちピンとこない。アクションも期待したほどでもなかった。

 どちらの映画が原作をうまく映像化したか、さっそく読んで確かめてみたい。

     ◇

2000/09/16

 「梟の城」(司馬遼太郎/新潮文庫)

 新旧の映画「梟の城」との比較と、映画で生じた疑問を解明するべく原作を借りてきた。

 直木賞受賞作で昭和34年に発表されたと解説にある。僕が生れた年だ。
 この「梟の城」と山田風太郎「甲賀忍法帖」で一気に忍者ブームが到来したという。マンガ、劇画では横山光輝「伊賀の影丸」、白土三平「忍者武芸帖」が続き、青年、子どもたちの間でも忍者があこがれの的になったということだろうか。
 僕自身が忍者を知ったのはTVアニメの「風のフジ丸」であり、藤子不二雄のマンガを実写でTV化した「忍者ハットリくん」だった。正義の忍者は伊賀、敵対するのが甲賀という認識をもったのも「忍者ハットリくん」だと思う。
 この伊賀忍者と甲賀忍者の違いなど、本作を読むとよくわかる。伊賀は個人主義のニヒリスト、甲賀は仲間意識が強く結束力もある。甲賀の方が人間らしい生き方じゃないか。

 「梟の城」は豊臣秀吉の命をめぐって伊賀忍者、甲賀忍者、九ノ一等々、さまざまな人間が入り乱れて殺戮を繰り返す物語だが、メインは主人公・葛籠重蔵と謎の女・小萩のスリリングな関係だろう。お互い任務遂行のため、相手をいいように利用し化かし化かされながら惹きつけられ、愛し合い、肉体の欲望に溺れ、しかしいつか殺そうとそのきっかけを探っている。
 「不夜城」(馳星周)の主人公、健一と夏美の関係に似ている。「不夜城」のふたりのヒリヒリする関係の原形は40年前の「梟の城」にあったということか。

 また、葛籠重蔵とかつての仲間でありライバルだった風間五平の対立という構図も重要な要素である。
 映画の中では仲間を裏切った五平に悪者のイメージがあるが、小説を読むと、先に書いたように、伊賀は裏切りなんて当たり前の世界。そんな世界に嫌気がさし武士に仕官した風間五平(下呂正兵衛)の気持ちはよくわかる。
 映画では最後まで重蔵の師匠然としていた下柘植治郎左衛門が、小説世界では簡単に弟子を裏切ってしまうのだから。

 映画「梟の城」で大きな疑問だったのは五平が町人姿で重蔵の後をつけている最中、町のチンピラに絡まれるというくだりである。難なく彼らを倒すと、騒ぎを聞きつけてやってきた町役人に名を訊ねられ迷うことなく〈石川五右衛門〉と答える。これがあまりに唐突なのだ。
 なぜ石川五右衛門なのか、とっさに思い浮かんだ偽名なのか、前から用意していたものなのか、名前に意味があるのか。映画は何も語らず、ラスト、仕えていた前田玄以に裏切られ、哀れ五平は石川五右衛門として処刑される。
 小説には五平と石川姓の深い関係が書かれている。だいたい僕らが知っている石川五右衛門の実在を示す資料はほとんど残されていないという。つまり五平がとっさに使った偽名〈石川五右衛門〉が当時の忍者の悪行と結びつき、後の伝説をつくりだしたと小説は語っているわけだ。




 昨日、日ごろの疲れが一気にでたのだろうか、朝から熱っぽく身体中が痛くなり動けなくなった。
 夜には昔の同僚と会う約束をしていて、楽しみにしていた。なんとか夕方までに直したくて、予定を変更して部屋でじっとしていたのだが、全然効かなかった。
 今日も具合が悪い。朝の仕事は休んだ。
 明日も、両方休む。この状態なら医者にも行くつもり。

          * * *

2000/07/20

 「オール・アバウト・マイ・マザー」(テアトル池袋)

 映画公開時、いくらおすぎがTVCMでその素晴らしさを絶叫しようと特に心動かせられることはなかった。しかし、メディアは大絶賛だし、ロングランは続いているし、ヒロインの夫が何やら得体の知れない人らしいってんで、急に興味がわいてきた。
 もうひとつの理由として、スペイン映画ということもあるかもしれない。
 思えば中学時代までは洋画の範疇に日本以外の国すべての映画が入っていたはずで、ヨーロッパ映画も興味の対象だった。それがいつの頃から洋画といえばハリウッド一辺倒になってしまい、その言葉(米語)、カメラワーク、語り方にすっかり慣れきってしまった。アメリカ映画はもちろん大好きだし、とてもおもしろいけれど、ある部分嫌気がさしていることもまた事実である。
 痛快無比なエンタテインメント映画もいいけれど、もっと違った映画の魅力も感じてみたい、と思う今日このごろなのである。

 巻頭、ヒロインとその息子がTV放映の「イブの総て」を観る。そのオリジナルタイトルが「All about eve」。本作のタイトルはその引用なのだ、と初めて気づいた。
 かつてヒロインが女優として「欲望という名の電車」の舞台に立ったことがあり、ストーリーの要となる有名な老女優とのエピソードの中でも何度も「欲望の…」の舞台模様がでてくる。何か映画のモチーフになっているのだろうか。マーロン・ブランドの主演映画あるいは杉村春子の代表作というくらいしか「欲望の…」を知らない僕には舞台のテーマと映画のテーマがどうリンクしているのかわからない。
 とはいえ、映画そのものは役者たちが発する英語以外の言葉というのが新鮮で、映像も色使い、テンポ等、堪能できた。
 息子を事故で失った母親のその後の生き方に〈女の強さ〉、あるいは彼女のおかま友だちの〈忍耐強さ、ふてぶてしさ〉を感じながら、笑い、ほろりとし、ラストでは修道女の忘れ形見となった赤ちゃんを抱えたヒロインの姿に希望を見出し、すがすがしい気分にさせてくれる。

 ただ、どうにもふに落ちないのがヒロインのかつての夫(死んだ息子の父親)の生き方だ。後半、ひどく意味深に登場してくるが、こいついったい何考えているんだ!と罵声を浴びせたくなる心境だった。姿形は女性だけれど、しっかり修道女と寝て、エイズを感染させ、妊娠させ、それが原因がどうか、友人の金を盗んでトンズラをきめこむ。修道女がどうしてそういう男に惹かれたのか、身体を許したのか、というところも全然描かれていないからなおさらだ。
 というわけで僕自身はおもしろくはあったけれど、世間が大絶賛するほどすごい映画には思えなかった。

     ◇

2000/08/02

 「グラディエーター」(丸の内ピカデリー1)

 スペクタクル史劇に特に関心があるわけではない。のだが、次に「ハンニバル」が控えているリドリー・スコット監督なら見逃せない。

 冒頭のゲルマニアの戦いのド迫力で一気に引き込まれた。
 剣と剣との戦いがこれほど重厚にそしてリアルに描かれた映画を久しく観ていないような気がする。
 これは日本の時代劇にもいえることだけれど、刀(剣)を使った戦いの演出は非常にむずかしいと思う。相手を斬ったさい、衣服が切れ、ざっくり裂けた肌に血がにじむといった描写がなかなかできない。だから斬りあいのシーンが嘘っぽくなる。
 TV時代劇などは着物は破れないし、血もでないし、あくまでも役者の演技だけで〈斬られた〉ことを表現していた。観る方もそれが当然といった傾向があって、僕はどうにも納得できなかった(別に残酷な描写にしろというのではない)。
 それが最近公開される時代劇ではうまく刀の重厚さ、怖さというものを描いていてうれしく思っていたのだが、同じことがこの映画にも言える。特に接近戦はわざとコマを抜いたような特殊処理が施されていて迫力たっぷりだった。

 噂どおり主演ラッセル・クロウの勇者ぶりに惚れ惚れする。「L.Aコンフィデンシャル」にも出演しているが印象が全く違う。
 父親の皇帝アウレリウスを暗殺し後を継いだコモドゥスの策略で妻子を惨殺され奴隷の身におとしてしまう将軍マキシマスがグラディエーター(剣闘士)として再起し、ついに復讐を果たすまでを見事に演じていた。
 剣闘士としての戦いの日々の中でマキシマスは次第に実力を発揮し、まわりの仲間からリーダーとして一目置かれる存在になっていく。それを的確に表現したのが彼らのチームがローマのコロシアムで行った最初の戦いだ。歴史の1シーンの再現の形で公開されるこの戦いに、やられ役として参加しながらもマキシマスの指示どおり攻防し、見事なチームワークで敵チームを打ち破るシーンは興奮と感動を呼ぶ。

 敵役コモドゥスのホアキン・フェニックスも印象深い。父の愛に飢え、将軍マキシマスへの嫉妬と羨望に狂った英雄願望の強い粘着質のシスコン男という設定がありきたりの悪役とは一線を画している。だからこそラッセル・クロウのヒーローぶりが引き立つ。ホアキン・フェニックスがどことなく北村一輝にみえてしかたなかった。
 クライマックスは再び自由を得たマキシマスがかつての軍隊を率いてコモドゥス軍と大合戦と繰り広げるのかとわくわくしていたのだが、予想は裏切られ、マキシマスとコモドゥスの一騎打ちという展開。予算的に無理があったのだろうか。
 復讐を果たし、妻子のもとに旅立ったマキシマスが故郷の麦畑で最愛のふたりに再会するシーンに不覚にも涙があふれてしまった。

 昨今のCG技術の発達はSF、アクション映画以外に時代劇(コスチュームプレイ)にもかなり影響を与えていくのだろうということがこの映画を観ていてよくわかる。
 昔ならアメリカ映画の十八番であった巨額な予算、膨大な土地に建てられた大掛かりなセット、大量のエキストラを使ってのモブシーン、今はCG合成で遜色ない映像作りが可能になった。古代ローマの街並みの俯瞰シーン、コロシアムの外観、圧倒的な観客等、違和感なく再現されている。

 数年前TVで篠田正浩監督の「写楽」を観たときのこと。ある建物をクレーンで下から上へ移動撮影していて、その建物のむこうに江戸の町が広がったときの感激といったらなかった。
 何もCGは未来都市やメカニックを描くだけのものではない。過去の時代、それも明治、大正、昭和といった近過去の街並を再現するのにもっとも有効な技術といえるのではないだろうか。

 CGを多用しているからというわけではないだろうが、「グラディエーター」の世界観が「スター・ウォーズ」シリーズとダブってしょうがなかった。台詞の中に「帝国」、「共和制」、「連邦制」という単語が出てきたり、主要舞台が森や砂漠、辺鄙な街並、そこに奴隷商人が登場して、コロシアムでの殺人ショーが繰り広げられたりと、「スターウォーズ」から宇宙、宇宙人、最新メカを削除するとまさしくこんな世界ではないかと思えるような物語だった。




 銀幕とはスクリーンのこと。
 この言葉、僕は活字用だと思っている。
 書籍や雑誌記事等のタイトルで度々使用されているが、会話の中で銀幕(ぎんまく)なんて言葉は使ったことがない。
 上の世代はわからないが、少なくとも50歳代以下の映画ファンは〈銀幕〉とは目にするもので、口にするのは〈スクリーン〉ではないか?
 皆さんはどう思われますか?

          * * *


2000/06/04

 「太陽を盗んだ男」(TBSテレビ)

 長谷川和彦監督が「青春の殺人者」で監督デビューした時、これからの日本映画が変わっていくような大きな期待感があった。
 デビュー作でいきなりキネマ旬報ベストテン第1位、監督賞、主演男優賞(水谷豊)、主演女優賞(原田美枝子)を軒並み受賞。どえらい新人が現われたなあという印象。当時30歳か31歳の監督の「できれば20代でデビューしたかった」という言葉が心に残っている。

 僕が日本の青春映画ベストワンだと思っている「青春の蹉跌」のシナリオを書いたことも知りますます気になりだした。
 骨太で緻密な取材に裏付けされた物語。そんな作風で"現代"を描く長谷川監督は閉塞した邦画界に風穴をあけ、やがては邦画をしょって立つ存在になる!高校生だった僕はそう信じていた。
 確かにその後若手の映画監督の集団「ディレクターズカンパニー」を組織し、プロデューサーとして、それなりの活躍はしていたが、肝心の監督作は「太陽を盗んだ男」以降、発表される企画がことごとく中止になっていまだに3作目に着手していない。
 ひところ、週刊誌の麻雀記事に雀士で登場するくらいしかその名を拝見する機会がなく、再婚して女優・室井滋の夫というポジショニングになってからはほとんど映画界での動きというものが伝わってこなくなって、かつてのファンとして淋しい思いをしていた。
 最近貴志祐介の「天使の囀り」を映画化すると聞いて歓喜したものだが、これもどうやらポシャったらしい。
 才能とバイタリティのある人なのだからとにかく次作を撮ってほしい。せめて、前々から宣言していた連合赤軍の映画はものにしてほしいと切に願う。

 ビデオが廃盤になってレンタル店ではお目にかかれなくなっていた監督第2作めの「太陽を盗んだ男」が久しぶりにTV放映された。
 79年に公開されたとき、邦画として破天荒な物語設定と映像、音楽(井上尭之)のセンスに衝撃を受け、ロードショーに2度足を運び、名画座に落ちたらまた行って…サウンドトラックはもちろん劇中で使用されたカルメン・マキ&OZやボブ・マリーのアルバムもすべて買ったというくらいこの映画に惚れていた。

 個人が原爆を製作して政府に脅しをかける物語自体、核アレルギーの強い日本ではかなり反発を買うと思われたし、冒頭主人公である犯人(沢田研二)と彼を追う刑事(菅原文太)の最初の出会いでは、中学の理科教師である主人公が引率するバスを武装した精神のいかれた老人が乗っ取り、天皇に合わせろ、天皇に戦争で死んだ息子を返せと訴えたいというエピソードが描かれ、天皇の戦争関与を批判しているのだ。
 重いテーマを当時の邦画としてはかなりのエンタテインメントとして昇華させた監督の手腕は大いに評価できる。
 メディア大絶賛という状況下、今は亡き著名な、僕の大好きだった映画評論家・大黒東洋士のこの映画に対する批判もよく憶えている。確か主人公の人間性について追求したもので納得できる批判内容だった。

 今回観直して改めて感じたのは、前半が緻密によく練られた展開であるがゆえに後半(日本映画にしては)度肝を抜くアクション描写に重点がおかれてしまい、肝心な部分で手抜きが目立って損をしているということだ。
 前半の原爆作り(特に液体プルトニウムから固体への変換作業)の丹念な描写は(僕に数学的、物理学的素養がないからかもしれないが)何度観ても心奪われる。
 原爆を作ってから何をしていいか悩む主人公の心情も70年代のシラケ世代の戯画化として納得できる。プロ野球中継の延長、ローリングストーンズの日本公演実現の要求というのも面白い。

 が、ターザンよろしく主人公がロープにぶるさがってビルの窓から侵入し原爆を奪還するところから物語は一気にマンガになってしまうのだ。
 池上季実子のDJの存在が薄っぺらい、というのは当時でも指摘されていた。彼女の所属するラジオ局が原爆奪還に成功した犯人と警察の攻防を(録音)中継するというのはどう考えて非現実すぎる。
 パトカーとのチェイスシーンで主人公のRX-7が道路をふさいだトレーラーを(なぜか)ジャンプして飛び越えたり、着地する時、その衝撃でRX-7のフロントがかなり破損するのに、カットが変わると元どおりになるのはご愛敬としても、中継のヘリコプターにつかまった刑事が50m以上ある上空から飛び降りてもほとんど無傷というのはどんなものか。(スピルバーグの「ロストワールド」と同様で最初に画ありき、の発想なのである)

 あまりにもリアルに描き過ぎた前半に対して「これはあくまでもフィクションなんですからね」という製作者側のメッセージだと僕は好意的に解釈してはいるもののやはり釈然としない。
 中盤にDJが主人公とキスをした後、海に投げ込まれるシーンがある。DJがとっさに主人公の髪をつかむと、ごっそりと抜けてしまう。主人公がプルトニウムの加工中の事故で被爆したことを示し、クライマックス前彼女が絶命する寸前に主人公に握っていた髪の毛の本数を告げるシーンにつながる重要な意味を持つところである。
 しかし、海に漂う彼女は手の平を開いたままの状態でもちろんその手には髪1本すら握ってはいない。何度目かの鑑賞でそれに気づき失望したものだ。

 「太陽を盗んだ男」は完璧な映画ではない。ロードショー時のようにもろ手をあげて大絶賛する気持ちも今はない。しかし、どんなに瑕疵が見つかろうとも、この映画に対す愛情だけは失ってはいないつもりだ。
 初めてスクリーンで接した時の、冒頭のタイトルから感じた「これが映画だ」という高揚感はいまだに忘れられないし、観るたびに長谷川監督の熱意、心意気みたいなものがこちらに伝わってくる。
 メーデーの大群衆が闊歩する大都会の真ん中で繰り広げられる主人公と警察の、原爆を爆発させるか阻止するかの駆け引き、そのサスペンスは今も色褪せていない。

 韓国映画「シュリ」がハリウッドばりのアクション映画として国内はもちろん日本でも大ヒットしたけれど、20年前「太陽を盗んだ男」は日本映画の「シュリ」のような存在になるべく公開されたはずなのだ。邦画でいえば「踊る大捜査線」みたいにとにかく多くの人たちが劇場に押し寄せるそんなエポックメーキング的な作品になるべき映画だったはずで、そうならなかったことが僕にはわからない。

     ◇

2000/06/17

 「人狼 JIN-ROH」(テアトル新宿)

 幼い頃からTVや映画で親しんできたことから特撮、アニメーションともに大好きだったが、「宇宙戦艦ヤマト」が空前の大ブームになってからというものアニメに関してはほとんど興味がなくなってしまった。
 宮崎駿作品もそれほど関心はないし、毎年公開されるディズニー作品もそれ以上に僕にとってはどうでもいいことだった。
 ただ、「機動警察パトレイバー」劇場版や「攻殻機動隊」に感銘を受けた者としては押井守作品には注目せざるをえない。

 押井守の名を知ったのは「うる星やつら」劇場版第1作だったと思う。
 併映が相米慎二監督の「ショベンライダー」だったので、それが目当てで劇場へ足を運んだのだが、観客のほとんどがアニメファンだった。実際「うる星やつら」はかなりのおもしろさで、押井監督のセンス、才気を肌で感じたのだった。
 「機動警察パトレイバー」劇場版は巷の評判を聞いてビデオで観た。あの衝撃は今も忘れられない。脚本・伊藤和典の力にもよるのだろうが、都市論というものをSF的手法を使ってダイナミックかつミステリアスな娯楽大作として展開させてしまう手腕に圧倒された。
 作品世界の濃密度、あるいは映像と音楽の融和で興奮させられた「攻殻機動隊」もなぜ劇場で観なかったのかと後悔したものだ。

 押井守の脚本・監修「人狼 JIN-ROH」(監督はこれがデビュー作の沖浦啓之)は、「赤い眼鏡」「ケルベロス 地獄の番犬」に続くケルベロスシリーズ第3弾というふれこみである。
 「赤い眼鏡」は押井守監督の初の実写映画として一部で話題になったが、実写映画には数々の制限があり、アニメで類いまれなセンスを見せる押井監督といえども、技術的、予算的な問題でそれほどの出来ではないだろうと、関心を抱くこともなく未だにビデオも観ていない。
 ケルベロスシリーズについてはまったく知識がないのだが、「人狼 JIN-ROH」は別の意味で僕の興味をかきたてた。
 映画は日本が太平洋戦争後に進んだもうひとつの(架空の)戦後史を描いていて、昭和30年代前半の東京が舞台である。リアルに再現された当時の街並がみものなのだ。
 東京オリンピック以降東京の街が大きく変貌してしまった現在、実写でこの手の物語を撮るのはとうてい無理だろう。これこそアニメの真髄を発揮する内容ともいえる。
 あまり高くないビル群の遠景、道路を走る都電、デパート屋上の遊園地、混雑する商店街、モノクロTVに流れる三船敏郎(をイメージした)ビールのCF(本物のCFは40年代だったと思うが)等々、スクリーンに映しだされた懐かしい風景の数々にため息をついてしまう。

 ある事件をきっかけにした反政府ゲリラの少女と反政府ゲリラ鎮圧のために組織された"首都警"特殊部隊ケルベロスの一員である主人公との出逢い、共感。反目しあうべき少女と主人公の仲をスキャンダルにして首都警の威信失墜を目ろむ公安部とそれを察知した首都警の情報戦(だましあい・化かしあい)。目的のために個人の感情など省みない組織の非情さを知りつつも、現実を甘受する少女と主人公(=狼)。その葛藤。
 少女が語る「赤ずきん」の物語とシンクロしてふたりがむかえるクライマックスまでの描写はなかなか見ごたえがあった。
 ラストの悲劇を感傷的に描かず、余韻も与えず、暗転してクレジットタイトルを流すなんてまさにアダルトな映画であった。

     ◇

2000/06/25

 「チロヌップのきつね」(川口市民会館)

 川口市が定期的に開催している親子映画大会のプログラム。対象は市内の親子なので、小6の娘を誘ったが、冷たく拒否され一人で観てきた。
 それほどまでこの映画に興味を抱いたのは、あくまでも個人的な理由で原作の良さや映画の出来には全く関係ない。ただ単に音楽を後藤悦治郎氏が担当していたからである。

 中学時代に赤い鳥のファンになってからリーダー・後藤さんの音楽に対する姿勢に共鳴し、赤い鳥のメンバーで夫人でもある平山さんと紙ふうせんを結成してからはずっと彼らの活動を追い続けてきた。
 紙ふうせんの歌の本質、声質はアニメーションの主題歌には最適だと日頃思っていたのだが、あまり起用される機会がなかった(と思っていたが、調べてみるといくつかあった)。
 そんなところに(今から10年以上前だけれど)主題歌だけでなく、音楽全般を担当するニュースが届いたときはうれしかった。ただ「チロヌップのきつね」は通常の公開方式とは違ったので、今まで観ることがなかった。
 そんなわけで映画鑑賞というより紙ふうせんのコンサートを聴く感覚で会場に出かけたのであった。

 原作は高橋ひろ幸の有名な絵本である。反戦童話とでもいうべき内容で、本来なら老夫婦の漁師以外ほとんど人間が訪れない小さな島で親子4匹幸せに暮らせるはずだったキタキツネの家族が戦争で島に前線基地を設営した兵隊にその毛皮を狙われ、悲惨な最期をとげるという悲しい話。
 悲劇で観客の涙を誘う映画は苦手というか好きではない。
 クライマックスの母きつねと仔ぎつねの死はそれほどあざとい演出でなく、「何もしなくていいからそばにいて」という仔ぎつねの言葉に涙した。二匹の死骸が雪におおわれ、春がやってくるとその後が真っ白な花につつまれたラストはさわやかで明るい紙ふうせんの歌声に締めくくられたので好感をもった。

 紙ふうせんの歌はオープニング曲「故郷の色」、挿入曲「みんなおやすみ」、エンディング曲「君の手をとり」の3曲が使用されている。悲劇は嫌いだといいながら哀しい場面に流れる「みんなおやすみ」が印象に残る。




 昨日のお昼、休憩時間を使って、飯島敏宏監督の「バルタン星人を知っていますか?」出版記念パーティーに出席する。
 円谷プロ、ウルトラシリーズ関係者が大勢いらしゃっていて、もうドキドキものだった!
 
 飯島監督にテレビドラマを語っていただくトークイベントは、10月に開催予定です。

          * * *

2000/05/08

 「現実の続き夢の終わり」(シネ・リーブル池袋)

 奥山和由のチームオクヤマによる日活製作作品。
 日本資本による台湾映画ともいうべき映画で、水野美紀、柏原崇以外はほとんど台湾人のスタッフ・キャストによるハードヴォイルド異色作である。(ベストテン選出の時、邦画、洋画、どちらに区分けされるのだろうか?)

 別に台湾映画にも、やくざ映画にも興味があるわけではないが、この映画だけはスクリーンで鑑賞したかった。
 「千里眼」が水野美紀主演で映画化されると聞いて彼女のアクションがどの程度のものかこの目で確認したかったのだ。
 映画化を前提として書かれた小説「千里眼」を読んだ時からヒロインは知性を感じさせ、なおかつアクションができる女優でなければと思っていた。水野美紀のキャスティングは悪くはないが、果たしてアクションができるのかどうか、付け焼き刃程度あるいはやられ役の受けの演技におまかせというのでは「千里眼」が凡作になるのは目に見えている。
 そこに水野美紀が単身台湾に乗り込んでアクション、ガンプレイに挑戦した映画がGWに公開されるというニュース。何と彼女はアクションが得意と言うではないか。

 映画は台湾やくざに恋人を殺された水野美紀扮するヒロインが復讐を果たすというような紹介をされていたが、実際は台湾やくざの組と組との争い、内部抗争が主軸になっており、そこに水野美紀がからんでくる展開。
 本当の主役はそんな抗争に巻き込まれて(水野の存在も大いに関係してくる)命を失う組の若者とその恋人なのかもしれない。
 印象としてはメリハリをきかせた正攻法の演出ではなく、逆にストーリーも映像もツボをちょっとはずすことを狙った映画といえようか。(台湾映画のスタイルがこういうものなのかもしれない。)  完全に映画の世界にはまって、手に汗にぎる展開にくぎづけになるわけではない。かといってつまらないというものでもない。登場人物と観客との間にある種距離感をわざとつくっているような感じがする。

 特筆すべきなのは映画の中の銃の存在だ。その取扱いには重厚さを、発砲音、弾着にはリアルさを感じさせ、凶器としての銃の怖さが十分に表現されていた。
 自然体の柏原崇、ラストに流れるイエローモンキーの主題歌がいい。
 台湾側の役者では敵役のちょっと小室哲哉似の人と、すぐ暴力をふるいたがる昔ながらのやくざを演じた短髪男が印象深い。

 で、肝心の水野美紀のアクションなのだが、肉体を使ったアクション場面がなかったのでよくわからなかった。走るスタイルを見る限りでは及第点かな。

     ◇

2000/05/14

 「民族の祭典」(ビデオ)

 市川崑監督の「東京オリンピック」を観たからにはその手本となったレニ・リーフェンシュタール女史の「民族の祭典」「美の祭典」もチェックしなければならないだろう。
 運良く川口中央図書館に「民族の祭典」のビデオがあったのでさっそく借りてきた。

 いわずと知れた1936年に開催された「ベルリンオリンピック」のドキュメンタリーである。
 オープニングに驚愕した。
 古代オリンピアの勇姿の彫刻がホンモノの人間にかわり、肉体美を競うのだ。全裸の男性、そして乳房全開の女性たち。今なら別に大したことはないけれど、30年代という時代を考えれば物議を醸すのは当然のことだろう。

 「民族の祭典」は陸上競技だけを取り扱っていて、これがなかなか興味深い。カメラワークは望遠を多用した「東京オリンピック」に及ばないが、その精神性はしっかり感じられる。

 日本人選手の活躍は、手塚治虫「アドルフに告ぐ」のオープニングで知っていた。水泳の前畑、長距離走の村杜、棒高跳びの西田……。彼らの勇士が実写が見られるなんて感激である。
 棒高跳びの熱戦は夜遅くまで及ぶのだが、「市川崑の映画たち」によれば、映画のこのハイライトシーンは技術的な問題で実際には撮影できず、後日選手たちに集まってもらって再撮したという。まあ、それはいい。全く違和感は感じない。日本勢が勝つか負けるか手に汗にぎった。

 が、ラストを飾るマラソンでキャメラがトップランナーの目線で自分の足元を映すカットはなんなのだろうか。これはあからさまなヤラセではないか。はっきりとやらせとわかるし、このカットが映画全体の中でどうしても必要な、重要な意味をもつ画にはどうしても思えない。
 というわけで、最後の最後で興奮して最高潮に達していた気持ちが一気に萎え、しらけてしまった。

     ◇

2000/05/19

 「股旅」(ビデオ)

 むしょうに「股旅」が観たくてたまらなかったところ、会員証更新で久しぶりに訪れたレンタル店で発見。

 市川崑監督はこの映画をATGで映画化したく、その資金稼ぎでTV「木枯し紋次郎」の監督、監修を引き受けたという。
 「木枯し紋次郎」はニヒルな主人公とラストのドンデン返し、今から思うとミステリ的要素が魅力だったが、もう一つ、当時の渡世人の生活をリアルに描いていたことが特筆できる。
 主人公の紋次郎は破れた三度笠をかぶり、貧しい農家出身から無宿渡世の道に入ったのだから当然剣術を習ったこともなく、その殺陣もむちゃくちゃという、これまでの時代劇でお馴染みだったいなせな渡世人のイメージを破る斬新なキャラクターであった。とはいえ、その強さといい、非情さを装いながら、事件に巻き込まれて結局は人助けする展開(おおかた悲劇で幕となるが)といい、ヒーロー以外の何者でもない。
 「木枯し紋次郎」の世界をよりリアルに、主人公をアンチヒーローとして描いたのが「股旅」といえようか。

 冒頭で主人公である若い3人の渡世人たち(小倉一郎、尾藤イサオ、萩原健一)のきる仁義が事細かく描写される。まるで"ハウツーJINGI"といった塩梅で、仁義を切る方、切られる方の文言、作法がこれほどきっちり描かれたのはこの映画が初めてなのではないか。
 仁義の締めのところで一宿一飯の礼にと渡世人が懐から粗品用の手ぬぐいをだし、侠客側はそれをあたかも受け取ったかのように挨拶してまた返すという行為がいかにも日本的で笑ってしまう。
 この若者3人の情けなさがたまらない。紋次郎以上のボロボロの三度笠、つぎはぎだらけの合羽を身にまとった姿はほとんど乞食同然。ちんけなちんぴら風情で、口だけは達者だが、度胸の方はからきしない。だから出入りの助っ人はてんで役にたたない。ただ刀を勢いよくふりまわすだけで、当たればもうけ、当らなければ、逃げるだけのへっぴり腰。
 そんな彼らを受け入れる侠客もケチでくずな貧乏やくざたち。その他登場してくる者は皆貧乏を絵に描いた人物ばかりだ。

 この映画は当時の底辺に生きる人たちの生活ぶりを徹底的に描き出していて、そこが斬新かつ新鮮だった。
 渡世の義理だとバカな見栄はって親を殺し、農民たちの簡易賭博場を襲っては金を盗み、人の嫁を奪って一緒に旅に出て、足手まといになれば飯盛り女を囲う宿に売払う。
 惨めで無様な彼らの生き方が、逆に魅力的に思えてしまうのは製作された1973年という時代のせいだろうか。 (ショーケン扮する黙太郎なんて翌74年放映「傷だらけの天使」の小暮修に通じるものを感じる。)

 主役の3人はもちろんいいのだが、源太(小倉一郎)と再会する、かつて家族を捨てて家出した親父(大宮敏充)が出色。アル中気味の身振り手振り、口跡は江戸前の芸人の面目躍如といった体。何回観ても惚れ惚れしてしまう。今ならいかりや長介が得意とする役柄だろうか。
 ほとんどオールロケーションの、雄大な山々をバックに、ぽつんと人物を配置した構図が素晴らしい。思わず「誰かが風の中で」を口ずさんでしまいそうだ。
 またどしゃ降りの雨の中を歩く三度笠、合羽姿の3人(と女一人)のシルエットが詩情をそそる。
 太鼓の音を基本にした素朴な音楽も印象的だ(クレジットには久里子亭とある。ということは市川監督自身のことなのだが)

 同行する女にふざけたはずみに転んで足を切り、破傷風であっけなく死んだ信太(尾藤イサオ)。 些細なことで黙太郎と内輪喧嘩になって刀をふりまわしたあげく、あやまって谷底に落ちて死んでしまった源太。
 ラスト何も知らない黙太郎が源太を探して「おーい」と淋しそうに呼ぶ声。暗転してもなお呼ぶ声が胸に突き刺さる。
 僕にとって日本の青春映画ベスト3に入る傑作である。

     ◇

2000/05/21

 「どら平太」(日劇東宝)

 昭和40年代半ば、低迷する日本映画に活を入れようと黒澤明、木下恵介、市川崑、小林正樹の日本映画を代表する4人の監督が結成した「四騎の会」。その旗揚げに製作しようとして4人がシナリオを合作したのが「どら平太」だという。
(実は「四騎の会」を長い間「しきの会」と読むのだとばかり思っていた。「四季」と四人をかけていると勝手に考えていたのだ。「よんきの会」と読むのですね。)

 結局「どら平太」は映画化されず、「四騎の会」では黒澤監督が「どですかでん」を監督するだけに終わってしまった。
 その幻の作品を市川監督が映画化すると聞いて胸踊った。80歳を過ぎてなお映像に瑞々しさを失っていないところがうれしい。

 「どら平太」は痛快娯楽時代劇という謳い文句どおり、正統派のチャンバラ映画(といっても人殺しのシーンは一切ない)で、ストーリーは単純明快。わかりすぎるくらいの内容だ。
 とある藩の一角に「壕外」という売春、賭博なんでもありの治外法権をこしらえ暴利をむさぼるやくざ衆とそこから甘い汁を吸ってのうのうと藩政を行っている藩の要職者たちを征伐するため江戸から派遣されてきた町奉行・望月小平太、通称どら平太の活躍を描く。彼が奇策をもって徐々に悪者を追いつめていく様が痛快だ。

 映画は山本周五郎の「町奉行日記」を原作にしているように、とある小藩の町奉行所の二人の日記番の会話から始まる。銀残しというお馴染みの手法で独特な暖かさを感じさせる映像だ。
 そして、久々に見る「金田一」シリーズでお馴染みの極太明朝体を大胆に構成した斬新なデザインのクレジットタイトル。
 家老たちが集まる会議の席には市川組といわれる役者たちの顔が並ぶ。
 小林昭二が存命ならば、きっとこの顔ぶれの中に見ることができたのだろうと思うとちょっとセンチメンタルになる。
 ラスト近くにちらっと出てくる馬子も姿形といいかつて三木のり平が得意とすると役柄だ。
 岸田今日子の女賭博師はいくら常連とはいえ、あまりにとおが経ち過ぎている。ここはもう少し若い女優をキャスティングすべきではなかったか。(岸田今日子にはもっと違う役はなかったのかと思ったが、考えてみるとこの映画、あまり女性が登場しないのだ)
 とまあ、かつて金田一シリーズに夢中になっていたファンとしては、あれこれ思うことはあるけれど、キャスティングは演出の70%と市川監督が常々言っているとおり、配役はほぼ完璧。
 役所広司のどら平太を伸び伸びと演じており、すがすがしい。

 市川監督の映画は傑作、駄作の振幅が激しいとよく言われる。僕に言わせれば、内容はともかく、その映像を見ているだけでも楽しめるのだけれど。カット割、構図、カッティング、こと映像に関しては全く無駄がないし、違和感というものを感じない。
 壕外の俯瞰ショットに目を見張った。よく作り込まれたセットとその向うに見える街並み、海の合成が素晴らしい。
 いつもながらのことだが室内のセットも惚れ惚れする。黒光りする板張りと窓から差し込む太陽光がまぶしい。市川映画の醍醐味だ。
 どら平太と友人(片岡鶴太郎)が密会する最初のシーンに二人の台詞が同時進行してかぶさるところがある。こういうのは他の映画では見られない。市川ファンにはこたえられない演出だ。
 ユーモアの感度も申し分なく、2/3あたりまでは、多いに笑わせられ楽しめた。が、話題の50人斬り(峰打ち)以降には不満がある。

 どら平太には城勤めの二人の友人(片岡と宇崎竜童)がいる。このうちのどちらかがやくざと藩をつなぐ裏切り者なのだが、その謎解きの興味がラストの平太の真相解明まで引っ張れない。途中でバレバレになってしまうのだ。あまりのバレなので、これは何かある、そう思わせておいて、あっと驚かせるどんでん返しがあるのじゃないかと期待していたら何もない。そのまんま。
 噂の50人斬りもあまり興奮しなかった。「四十七人の刺客」の討入りでも感じたのだが、市川監督はこういう殺陣の演出は苦手のようだ(「木枯し紋次郎」や「股旅」の無勝手流のチャンバラは迫力あったのに…)。

 何より残念だったのはラスト。いつも印象的なショットで映画を締めくくってくれるはずが今回は平凡。ファーストシーンを受ける形としては当然のラストともいえるが、それにしてももう少しひねりがあってもよかった。
 お楽しみのエンディングクレジットも音楽にインパクトがなかった気がする。
 予告編、予告CFのBGMに洋楽「Stand By Me」が使用されているが、本編にも斬新な主題歌を持ってきた方がグラフィカルなクレジットがもっと生きたのではないだろうか。

 その昔、山口百恵主演で時代劇「牢獄の花嫁」を映画化する話があった。どういう話か忘れたがたぶんにミステリの要素があったと記憶している。当時すごく期待していたので時代劇ブームの兆しのある今、この作品をとりあげてもらえないものだろうか。




2000/04/05

 「発狂する唇」(テアトル新宿)

 メインタイトルのデザインがおどろおどろしく、おまけに赤一色のけばけばしさでスクリーンいっぱいに映し出される。まるでかつての新東宝映画十八番のエログロ怪談映画。音楽もそれっぽくて、開巻早々笑ってしまった。
 女子高校生連続猟奇殺人の容疑で逃亡した兄の行方を捜すヒロイン(三輪ひとみ)が得体の知れない心霊研究所の女霊感師とその助手の協力を得て真犯人を追い求めていく姿を描く映画なのだが、いやはやこれほどぶっとんでいるとは思わなかった。

 映画はミステリホラー風に始まる。女霊感師が殺された首のない女子高生を呼び出すシーンは「リング」ほどではないけれど、それなりの怖さ。
 ところが、あっというまに転調に次ぐ転調、脱線また脱線という感じで、ストーリーはあってないようなもの。

 要は映画についていけるかどうか、笑えるかどうかの問題である。僕は大いに楽しめた。各シークエンスの〈いかにも〉な音楽を聞いているだけでもニヤニヤしてしまう。
 あるシーンは日活ロマンポルノ風、またある時は青春歌謡映画風(何と、突然ヒロインがフォーク調のちょっと暗い唄をうたいだすのだ!)。

 やつれ気味の母、ナイスバディの姉が心霊研究所の助手の餌食になるのは予想していたとおりだったが、男と刑事が〈もしも「絞首刑」がピンク映画だったら〉ってな感じでヒロインを犯す模様は、「皆月」吉本・レナ・多香美に続いて、三輪ひとみお前もか!的複雑な心境。しかし、この手のシーンにエロティシズムが感じられなかったのは残念至極。AV全盛のこの時代にピンクやロマンポルノははるか過去のものになってしまった。

 「キイハンター」「バーディ大作戦」(あるいはミッション:インポシブルか?)っぽいキャラクターの男女も登場(なんとFBIなんだと。阿部寛、怪演)。世界的秘密組織の陰謀がどうしたこうしたと、無国籍スパイ映画の様相を呈し、画面も内容もぐっと明るくなったかと思うと、物語は急展開して「怪奇大作戦」か「ザ・ガードマン 夏の怪談シリーズ」か、というタッチになってまたまた妖しげな雲行きに。

 事件の真相に向けて皆を乗せた車は走る。これって「セブン」?
 舞台は田舎の日本家屋に移って、なにやら一連の金田一映画の雰囲気が漂う。「犬神家の一族」的血しぶきの後、探し求めていた兄貴登場。あっと驚くドンデン返し! 事件解決かと思いきや、クライマックスは大殺戮、カンフー大アクション大会だあ!
 なんて、いちいち解説したってしょうがないか。

 猟奇殺人、オカルト、サイコキネシス、ミュージカル、レイプ、3Pファック、スプラッター、アクション、カンフー、パロディ等々、ヒットを狙える娯楽映画のあらゆる要素を詰め込んだごった煮ムービーとはこのことだろう。
 そういえば昔ビートたけしにこんな映画を予測させるギャクがあったっけ。

 これまた〈何でもありの映画〉で、この手の映画は今後も増えるのだろうか?
 これだけのヒット要素をつめこんだのなら、ラストは思わせぶりでなく、ちゃんと特撮を駆使した大スペクタクル映像で締めくくってほしかった。予算の関係で無理だろうけれど、そのくらいのぶっとび感覚がなければね。
 全体的に映像が安っぽく感じたのは気のせいだろうか。

     ◇

2000/04/12

 「スリー・キングス」(試写会 東京厚生年金会館)  

 チラシの惹句に「最高にノレる新感覚アクション・アドベンチャー。」とある。
 劇場で何度か見た予告編もかなりの興奮度で、ジョージ・クルーニー主演だし、かなり期待して試写会(先週公開されているのに、試写会とはこれいかに?)に足を運んだのだけれど、少々勝手が違った。
 確かに映像は新感覚。ガサガサした画面は砂漠を舞台にした映画にマッチしているし、スローモーションを多様したアクションは昔からよく使う手であるけれども、編集の妙もあって、かなり新鮮に思えた。
 にもかかわらず僕はあまりノレなかった。

 この映画は湾岸戦争を舞台(というか背景)にした「隠し砦の三悪人」だ。
 イラク軍がクウェートから奪った金塊の在処を示す地図を手に入れたアメリカ軍のはぐれ者4人(後に3人)。難なく金塊を奪い返すことには成功するが、イラクの反乱分子たちを助けたことから、停戦中のイラク軍と戦わざるをえなくなる。
 イラク軍に監禁された仲間を救助し、厳重に警備されている国境から反乱分子を連れ出さなければならない。半日で終わる作業が予想外に長引き、やがて、彼らが勝手な行動にでたことを知ったアメリカ軍上層部からの追及も迫ってくる。
 つまり、度肝を抜くアクションは前半だけで、後半は主人公たちがいかにして金塊と反乱分子たちを連れて国境を脱出するか、直面するいくつものピンチをどのように突破していくか、その知恵比べ、かけひきのサスペンスが重要な要素になるのに、そこから生まれるわくわく感、ハラハラドキドキ感が最後まで味わえなかった。

 その要因はいくつか考えられる。
 展開が途中途中で寸断され、画面に集中できなかったのがまず1つ。
 映画自体を覆う何とも言えない雰囲気に対する嫌悪感というのが2つめ。
 冒頭の武器を持っているだけで、アメリカ兵に撃ち殺されてしまうイラク兵のエピソード。子どもの目の前で、イラク兵に頭を撃ち抜かれる反乱分子リーダーの何の罪もない妻、イラク軍に銃撃してあっけなく犠牲になる年端の行かない男の子。何ともやりきれないものを感じてしまう。

 これが戦争の真実なのかもしれないが、そのものずばりをリアルに描写されてしまうとそれだけでこちらの気持ちが萎えてしまうのだ。
 湾岸戦争に対する批判、皮肉なんて必要ない。ただただ主人公とイラク兵とで繰り広げられる〈お宝〉の奪いあいで、後半、息つく暇もないようなノンストップアクションムービーになっていたら思う。
 まあ、除隊した後の3人を紹介するエピローグがさわやかで、とりあえず後味はよくなってはいるけれど。

 ジョージ・クルーニーと女性記者とのファックシーンで、外部からの侵入者で思わず立ち上がった女性記者がしっかり下着をつけていた。パンツはいた状態でどうやってあんな激しいセックスをするのだろうか?
 台詞の中にトヨタ車、日産車という言葉が何回もでてくるのだが、英語でなんて言っているのか、最後まで聞き取れなかった。
 イラク軍に監禁されたトロイが部屋にあった携帯電話で自宅に連絡するシークエンスがある。当時、弁当箱みたいな大きさの携帯電話はあったけれど、それで海外まで通話できたかどうか?

     ◇

2000/04/19

 「続・男はつらいよ」(ビデオ)

 小林信彦「おかしい男 渥美清」には「男はつらいよ」シリーズのギャグが詳細に記されている。 「男はつらいよ」の、特に初期の作品(おいちゃん役が森川信の頃)についてはこれまでビデオで何度となく観ているので、今さらという気がしないでもない。
 「おかしい男 渥美清」で「続・男をつらいよ」で渥美清はそれまでみせたことがなったサイトギャグを披露しているとそのシーンを具体的に描写する文章があって声をたてて笑ってしまったのだ。そうなるとやはり映画を確認したくなるのが人情ではないか。

 ミヤコ蝶々が寅の生き別れた母親としてゲスト出演している。また東野英次郎が寅次郎の恩師役で、佐藤オリエがその娘(今回のマドンナ)役で出演。この二人はテレビドラマでも同じ役だったとのこと。
 まだシリーズ化など考えられなかったこの時期、二人の出演はTVドラマ視聴者へのサービスだったのだろうか。

 恩師宅の宴で寅が腹痛をおこし、病院にかつぎこまれるのだが、ここの主治医を演じるのが山崎努。元気になった寅が恋敵になる主治医に対して吐く有名な台詞「てめぇ、さぞかしインテリだな」は「おかしな男 渥美清」で渥美自身がインテリコンプレックスだったことを知った後だからとても重くこちらに響いてくる。

 病院を抜け出し、舎弟の登(津坂匡章、後の秋野大作)と居酒屋でドンチャン騒ぎ、結果的に無銭飲食となって店主といざこざをおこして警察のご用となってしまう。後期のシリーズでは考えられないような寅次郎のキャラクターである。

 初期の作品は寅次郎が本当にワルでイキがいいという魅力はもちろんなのだが、もうひとつ森川信やミヤコ蝶々等々、日本を代表する喜劇人と渥美清との芸のうえで丁々発止が見られるというのがうれしい。
 寅次郎と久しぶりに再会した蝶々が、やさしさを見せたと思うや、息子に毒づき喧嘩別れしてしまうシーンなんて芸人としての貫禄十分。

 ラスト、マドンナが新婚旅行に訪れた京都で偶然にも寅と母親が和解して仲良くしているところを目撃する。寅次郎が母親に甘えるラストシーンが何とも言えず幸せな気分にさせてくれるのだ。

     ◇

2000/04/21

 「天使に見捨てられた夜」(ビデオ)

 桐野夏生の江戸川乱歩賞受賞作「顔に降りかかる雨」に続く女探偵・村野ミオシリーズ第2弾の映画化作品。

 小説が発表された時、何よりその題材に注目した。
 アダルトビデオ「ウルトラレイプ」に主演したAV女優が失踪。このビデオ自体、本当に女優をレイプしたしろものではないかと、ビデオメーカーと監督に執拗に抗議するフェミニストの友人から女優探しを依頼されたミオが殺人事件に巻き込まれ、真相を究明する物語なのだが、これは実際に当時世間を騒がしていた出来事をモデルにしているのである。

 V&Rプランニングの「女犯」シリーズがそれで、監督(実際のクレジットは構成)はバクシーシ山下。写真週刊誌でその存在を知り、一時期見まくったことがある。ビデオ自体はやらせなのだが、演出がうまいので、世間のフェミニストたちが噛み付いた。バクシーシ山下は何度か彼女たちの主催する会に参加し、いろいろとつるし上げられたらしい(と、山下自身が何かに書いている)。

 V&Rプランニングはその手の過激ビデオで有名な会社(バイオレンス&レイププランニングじゃないかと仲間内で揶揄していた)だったが、その後タイトルに「女犯」を使用することを禁止され、しまいにはビデ倫を除名されてしまった。
 女流ミステリ作家がさっそくこの出来事に取材したのが興味深かったのだ。

 この村野ミロシリーズ(といってもまだ2作だが、番外編でミロの父親が活躍する「水の眠り 灰の夢」もある)は映像化するには最適だと思う。
 新宿2丁目に事務所をかまえる女探偵、友人にホモバーのマスターがいて、その設定だけでもわくわくする。
 「天使に見捨てられた夜」が映画化されると聞いて、かなり期待したのであるが、ミロ役がかたせ梨乃だと知って劇場に足を運ぶ気が失せた。かたせ梨乃がどうのというわけではなく、これはまったくもってミスキャスト。
 で、ビデオになってからの鑑賞になった次第。

 ロック歌手のパンタがステージに登場し、しぶく歌う姿にはほれぼれするが、その歌にあわせて展開する人物紹介のプロローグがもたついていてどうも映画の世界に入っていけない。ここは新宿の街を魅力的に描き、その中でヒロイン・ミロの人なり、生活ぶりを浮き出させなければいけないのに。
 その思いがラストまで続くのがつらい。
 原作では調査に赴いたビデオ会社の社長に迫られて、ミロが身体をゆるしてしまうという考えられないくだりがある。探偵家業を生業にしている者、その前に女として、ほとんど信じられない行動をとるミロに失望してしまったのであるが、映画ではわりとすんなり受け入れられる展開となっている。
 ホモマスター役で大杉漣が相変わらずいい味だしている。

     ◇

2000/04/22

 「ジョビジョバ大ピンチ」(ビデオ)

 「スペース・トラベラーズ」の原作となった、現在人気急上昇中のコント集団(?)ジョビジョバの舞台劇のビデオがレンタルされていたのでさっそく観る。
 ジョビジョバの存在は最近NHKの番組にゲスト出演しているのを見て知った。
 映画「スペース・トラベラーズ」を観た際、ラストのエピソードに不満を持った僕は原作の舞台劇がどんなものであるか確認したかった。

 本来舞台というのは生のステージを観なければ本当のおもしろさは得られないと思っている。TV中継だとかビデオ化作品で判断するのは間違いだろう。

 高校時代、授業の一環である劇団の芝居を観たときのこと。
 特に有名な役者が出演するわけでもない地方巡業を主体にした劇団で、上演作も樋口一葉の「十三夜」だが「大つごもり」のとりたてて興味深いものでもなかった。授業のかわりというだけの、ただそのうれしさだけの芝居鑑賞だったが、驚いたことに上演中かなり芝居の世界にはまってしまったのだ。
 役者たちの芝居はもちろん、芝居にかかわるその他もろもろのこと。たとえば舞台装置、大道具・小道具のたぐい、照明。こういうって生の舞台でなければわからない。
 しかし、芝居(これはコンサートでもいえることだが)を観るというのはなかなか手間がかかる。 まず前もってチケットを予約しなければならない。まあ、なかには当日券もあるのだろうが、人気の高いものは予約にしろ当日券にしろ、あっという間に完売になってしまうだろうし、上演期間にも限りがある。けっして舞台が嫌いなわけではないけれど、そういう理由で足が遠のいてしまうのだ。その点、映画は自分の都合で好きな時間に合わせ気軽に観られる。
 というわけで、あくまでもビデオ鑑賞ということを前提に感想を書く。

 舞台はいたってシンプルだ。メンバー6人が銀行員2名、お客2名、銀行強盗2名に扮する。女性銀行員、テロリスト、離婚寸前の夫婦というのは映画のオリジナル。舞台でも<スペーストラベラーズ>の名称はでてくるが、あくまでも流れの中で宇宙旅行が話題になるからであり、アニメとの関係はない。ビデオで観る限りでははっきり言ってそれほど笑いははじけなかった。映画の前半がかなり笑えたので、舞台はもっととんでもない展開があるのではないかと期待していたのだが……。
 肝心のラストは、銀行強盗のふたりが警察隊に突入、2発の銃撃音が聞こえ射殺を暗示させるところで幕となる。
 映画のベタベタのエピローグはやはりオリジナルであった。

     ◇

2000/04/23

 「東京オリンピック」(中野武蔵野ホール)

 中野武蔵野ホールで「新選組」がアンコールロードショーされている。同時上映が市川監督の旧作が日替わりだと知り、市川監督ファンとしては見逃せないプログラムなのだが、いかんせん、旧作の上映時間が勤務時間内というのがつらい。
 ちょうど日曜日の上映作品が「東京オリンピック」。これは前々から観たかったので、喜び勇んで出かけたのであった。

 最近、新しい劇場がいろいろできていて、中野武蔵野ホールもその一つだろう。ここは建物の中にロビーというものがない。ドアを開けるとすぐ座席という作りで、入場券を買うと次の回まで外で待っていなければいけない。もちろん売店なんていうものもない。自動販売機が1台あるだけ。中はこじんまりとしていて、小品を観るになかなかいい環境ではあるけれど、どしゃ降りの雨の日の待機や空腹時の対処が大変だろうな。

 映画「東京オリンピック」は小学生になるかならないかの頃、祖父と叔母に連れられて隣町の映画館で一度観たような憶えがあるがはっきりしない。TVでも放映された気もするが、じっくり腰をすえて観たことがなかった。
 市川映画の研究本「市川崑の映画たち」で知ったことだが、もともとこの記録映画は黒澤監督に依頼されたものだという。途中でゴタゴタがあって、いわば市川監督はピンチヒッターで起用されたのだ。それが市川監督の名を世界的にしたというのだから運命というのはよくわからない。

 「東京オリンピック」といえば当時「記録か芸術か」で物議をかもしたことが有名である。たびかさなる論議の上、記録用の別バーションを作ることで決着がついたという。全くばからしい。
 僕自身、この映画では誰が勝って誰が負けたかということより、スポーツに打ち込む人間の肉体そのもの、その動き、しぐさの一つひとつに注目してしまった。
 その傾向はそれほどメジャーでない種目(砲丸投げ、槍投げ、重量挙げ等)に強い。たとえば選手が砲丸を投げるまでの、各人それぞれの精神を集中させる方法。砲丸を何度もいつくしむようになで、シャツに手をやる。まるでロボットのように同じ動作を繰り返すしぐさを見ているだけでも飽きないものだ。
 重量挙げの三宅選手がウエイトを持ち上げるまでのしぐさなんてまるで職人が陶芸品を仕上げるような雰囲気がある。
 そういったシーンにある種のエロティシズム(という表現が適切かどうかわからないが)を感じてスクリーンに見入ってしまうのだ。
 もちろん、東洋の魔女たちとソ連の女子バレーの模様は結果がわかっているにもかかわらず、けっこうハラハラするし、ラストを飾るマラソンの2位の円谷と3位の外国選手のデットヒートは手に汗にぎる。

 開催から36年もたつと1964年の東京の風景、風俗がどんなものであったか、という興味もわいてくる。代々木競技場はそこだけ輝く未来からタイムスリップしたような超近代的な建物であるし、マラソン選手がかけぬける甲州街道(新宿駅南口)はまるで田舎の道といった感じ。
 選手たちを応援する野次馬の中に5歳くらいの少年を見つけると、まるで当時の自分をみる思いで懐かしさがこみあげてくる。

 総監督市川崑といっても各競技を撮影するのは何十人ものキャメラマンである。市川監督が腕をふるえるのは編集においてだろう。だから劇映画みたいな全編において崑タッチと呼ばれる映像に触れられるわけではない。とはいえ、その真髄はいくつも確認できた。
 「犬神家の一族」に雨の中金田一探偵が警察と一緒に、瓦屋根に登るところを俯瞰で撮ったショットある。淀川長治が「これぞ映画!」と絶賛した俯瞰ショットも聖火ランナーが走るシーンで観ることができ感激した。
 思えば、その昔、オリンピックが終了した後は必ず記録映画が公開されたものだ。クロード・ルルーシュの「白い恋人たち」、篠田正浩の「札幌オリンピック」、市川監督も参加した「時を止まれ君は美しい」。
 その後、映画公開の話はまったくというほど聞いたことがない。TV中継があまりに一般的になった今ではほとんど意味がないものになってしまったのだろうか。

 追記
 万全な体調で鑑賞した「新選組」。前回、後半でかなり意識がなかったのがよくわかった。傑作。

     ◇

2000/04/27

 「野良犬」(ビデオ)

 「おかしな男 渥美清」の中で、渥美清と小林信彦の会話にでてくる映画である。スリ担当刑事に扮した河村黎吉を渥美清がほめるのであるが、肝心のそのシーン、河村黎吉がどんな役者なのかもわからない。
 実をいうと「野良犬」は一度ビデオで観ている。にもかかわらずそのシーンのことは記憶にない。まったくお恥ずかしい限り。

 「野良犬」は小林信彦をして黒澤映画のベストと言わしめた映画である。数年前、かなり期待してビデオを借りてきたものの、僕はそれほど興奮しなかったし、傑作だとも思わなかった。
 終戦直後の東京の街並み、プロ野球(川上哲治が現役なのだ!あたりまえだけど)の観戦シーンにドキュメンタリーとしてのすごさを感じたけれど。

 しかし、数年おいて観る今回、冒頭からかなりインパクトがあった。ハンチングをかぶり、白い麻のスーツできめた三船敏郎がとにかくかっこいい。黒澤映画はパターンの確立ということでも有名だが、この三船の服装はその後の刑事、探偵モノに多大な影響を及ぼしているのではないか。昔の探偵マンガの主人公ってみなこの格好していたもの。暑い夏の最中、手ぬぐいで首まわりをふきながら、調査する刑事の姿というのもこの映画がお手本なのだろうか。
 拳銃密売の手先を演じ、三船敏郎につかまってしまう千石則子が実に魅力的。ひし美ゆり子と倍賞千恵子を足して2で割ったようなかわいらしさ。後年のおばあちゃん役しかしらない僕にとってこれは新発見だった。

 犯人・遊佐の恋人役は淡路恵子。今の淡路恵子と全く結びつかない。まるで別人のような容貌なのである。
 ビルの屋上で志村喬のベテラン刑事が思いつめた三船刑事を諭すシーンがある。ふたりのバックには夕焼けの空がひろがる。雲の動きの雄大さといいモノクロにもかかわらず、あざやかな色を感じさせる陰影で、とてもすがすがしい。
 絶望の末に三船刑事の前で一張羅のドレスを着て踊りまくる遊佐の恋人。安宿で犯人を追いつめる志村刑事、緊張感が土砂降りの雨とともに爆発するクライマックスが迫力満点。人間の感情と自然現象の見事な対比が素晴らしい。




2000/03/07

 「グリーンマイル」(試写会 イイノホール)

 イイノホールの試写会に行く。立見が出るほどの盛況ぶりだ。
 S・キング原作の映画化作品はデビュー作の「キャリー」以外、ことホラーに関しては成功したものがなかった。
 唯一キューブリック監督の「シャイニング」の評価が高いが、これはあくまでキューブリックの映像テクニックが魅力の作品である、ということが原作を読んでみるとわかる。キューブリックは単に素材としか原作をみていないのだ。かなり評判のよかった「ミザリー」も恐怖のインパクトは原作と比べて数段落ちる。
 これがホラーでなく、短編だと「スタンド・バイ・ミー」という青春映画の傑作があるし、僕は未見だが数年前には多数の支持を受けた「ショー・シャンクの空に」がある。
 圧倒的筆力と映画的な構成で描かれるキングの長編は映画化しても、単に小説のビジュアル付きダイジェストって感じになって、その本当の魅力が活かせないからだと僕は思っている。(それほどキングを読んでいるわけで偉そうなことは言えないし、これはどんな長編小説にもあてはまるのだけど)

 文庫で6冊にもなる大長編「グリーンマイル」(未読)を「ショー・シャンクの空に」の監督、フランク・ダラボンがどう映像化したのか非常に興味があった。トム・ハンクス主演というのも期待が大きかった。

 上映時間3時間8分。少しもだれるところがなかった。大長編小説を映画化した場合、たとえよくできていたとしても人間関係が不明確だったり、描きたらない部分があったりするものだが、そういうところは見当たらなかった。フランク・ダラボンの脚色力の非凡さを見せつけられた(だから3時間を超えているのであろうが)。
 しいて不満をいえば、刑務所長と主人公の信頼関係、脳腫瘍に侵された所長夫人と主人公(および看守仲間)の交流、病状が悪化していく夫人を看病する所長の苦悩等がもっと克明に描けていればという点だろうか。そうすれば夫人の病を治癒させるべく彼らが厳罰を覚悟しながら、人々の病を治癒する力を持つ死刑囚を連れ出す動機がもっと明確になって、より彼らに感情移入できたと思う。
 それからラストの奇跡をより効果的にするために回想を終えた年老いた主人公に対する聞き役の老婦人のちょっとした不信感を抱かせるような伏線を挿入してもらいたかった。ただこれらはないものねだりというものだろう。そこまで要求するのは酷というものだ。原作を読めばいいのである。
 クライマックスで死刑囚が主人公の手をつかんで真犯人を確定させる過去の出来事を見せるシーンがある。映画「リング」に同じようなシーンがあって、これは原作にはない。観客に映像で見せるインパクトは台詞なんかよりよほど大きく、回想シーンというのも当り前すぎる。そのため登場人物を超能力者にして、観客にも過去を体験させるこの脚色にとても感心したものだった。もしかすると「リング」のシナリオライターは小説「グリーンマイル」を引用したのかもしれない。

 相変わらずトム・ハンクスはうまい。「フォレスト・ガンプ」同様に短髪の彼の容貌は「ブラックレイン」の松田優作に肉をつけさせ、もっとやさしくしたイメージでかなりお気に入りなのだ。(あくまでも僕の主観であって、同調してくれる人はいないだろうが)
 共演者では長身の看守仲間・デヴィッド・モース(寡黙で頼りがいがある)と敵役の新入り看守ダグ・ハッチソン(デーブ・スペクター似でいかにも狡賢しそう)が印象に残る。

     ◇

2002/04/30

 「グリーンマイル」(スティーブン・キング/白石朗 訳/新潮文庫)  

 映画「グリーンマイル」を試写会で観た時、原作が6冊に分かれていると聞いてとてつもない大長編だと誤解していた。
 そんな長い物語をよく3時間強にまとめあげたものだ、いったい原作はどうゆう物語で映画ではどこがはしょられたのか? という感嘆と疑問がわいた。
 しばらくして一緒に観た友人が原作を買ったからというので、借りたのだが、その1冊分の薄さに拍子抜けしてしまった。6冊合わせても京極夏彦の1冊とどっこいどっこいなのだ。  
 合本にすれば値段も安くなるのに、と出版社の金儲け主義に反発してそのままずっと〈積ん読〉状態で1年以上経過してしまった(ごめんなさいね、Hさん)。  

 第1巻の〈著者のまえがき〉を読んで、分冊形式に意味があることをわかった。  
 アメリカでは新聞や雑誌に連載小説がないのだそうだ。書き下ろしというのが通常の出版形態で、キングは続きモノで本をだしたかったのだとか。最高潮でむかえたラスト、さてこの続きは3ヵ月後……てな具合で読者は続刊が発売されるまで首を長くして待つことになる。かつてディケンズが試みて好評を得た方式を踏襲した由。  
 だったら「月刊スティーブン・キング」なんていう雑誌を発刊してしまえばいいのに。  

 全6巻の副題は次のとおり。  
 1 ふたりの少女の死  
 2 死刑囚と鼠  
 3 コーフィの手  
 4 ドラクロアの悲惨な死  
 5 夜の果てへの旅  
 6 闇の彼方へ  

 当初、この本が3ヶ月ごとに出版されていたように、続けて読むことはやめて途中々別の本を挿み読みしながら、楽しもうかと思っていたのだが、ダメでした。1巻を読了すれば、当然次が読みたくなる。そういう作りになってるんだからしょうがない。それでも前半の3巻、後半の3巻と少し時間をおいて読了した。

 元コールドマウンテン刑務所看守主任・ポール・エッジコムの1932年二人の少女を暴行し惨殺した黒人・ジョン・コーフィが死刑囚として収監されてきた当時の回想録。
 コーフィは病気を癒す不思議な力を持っていた。ポールが患っていた尿感染症を治癒したり、意地悪な看守パーシーに殺されかけた独房のアイドル鼠(ミスター・ジングルズ)を生き返らせたり。
 ポールは脳腫瘍で明日をもしれない状態になっている刑務所長の妻をコーフィの力を借りて治そうと看守仲間とともに彼を刑務所から脱出させる……そして自覚する。コーフィは無実だ!  

 映画はラストになって老人ホームで余生を送る主人公の現在に時制がもどり、あっと驚くオチがつく。
 小説は作者の自由自在に現在と過去を行き来する。このタイミングが絶妙。
 ポールは過去で大物政治家の後ろ盾を持つパーシーの横暴な振る舞いに悩み、現在では自分を敵視する職員ブラッド・ドーランのいじめに恐怖する。
 それぞれのサスペンスで読者をあおってくるのだからたまらない。さすがストーリーテラーの大御所!
 確か映画は最初の少女殺しの犯人について触れていなかった気がする。小説ではコーフィの前に収監された極悪犯ワイルド・ビルの犯罪であることがあばかれる。
 老人ホームのエピソードではよき理解者の女性エレノアとの淡い恋も描かれる。文章だけ、会話だけの印象では20、30代の女性に思えてならなかった。

 各巻にそれぞれ訳者の白石朗をはじめ小池真理子、中島梓などの解説がついていることも分冊の楽しみだ。最終巻には風間賢二、吉野仁、白石朗の鼎談までつくおまけつき。




 17、18日と久しぶりに郷里に帰る。
 薮塚温泉で疲れを癒した。
 もちろんお目当てのへびセンター(正式名称はジャパンスネークセンター)で、リアル・ジュラシックパークを楽しんだ。今回は三日月村にも行こうとしたら、休みで断念。

 20年前の劇場(映画館)、今ほとんどなくなっている。
 唯一現在もあるシャンテシネだって、新しいTOHOシネマズが完成すれば、お役目御免になるのだろう。

          * * *

2000/03/31

  「雨あがる」(日比谷 シャンテシネ)

 今日で上映が終わると知って、あわてて観てきた。それほどのキャパシティではないけれど、客はかなり入っていた。やはり最終日だからだろうか。

 観終わって、初監督の小泉氏には悪いけど、黒澤監督の演出で観たかった、というのが率直な感想。
 開巻、どしゃ降りの雨に濡れるかやぶき屋根の堂々としたたたずまいに心洗われる。「羅生門」の迫力と「赤ひげ」の静寂さを兼ね備えたオープニング。
 木賃宿で繰り広げられる旅人たちの飲めや唄えやのシーンは「どん底」、雨上がりの朝、主人公が一人森に入って剣術の稽古をする姿は「七人の侍」の久蔵、若侍たちのけんかに割って入るのは「椿三十郎」と、黒澤映画のワンシーンを思わせる引用はその後もたびたび出てくる。
 だからというわけではないが、黒澤監督だったらどう撮るだろうか、とカメラワークが気になって仕方なかった。

 黒澤監督の遺作(脚本)を黒澤組のスタッフが結集して製作された映画だから、映像のテイストは過去の黒澤映画そのもの。ただ違うのが画の切り取り方(とらえ方)だったように思う。カットの構図とつなぎの間が微妙にずれているようで、始終違和感を抱いていた。黒澤監督の場合、カットの一つひとつにもっと重みが感じられる、というのだろうか。

 まあ、しかし、ほのぼのとした雰囲気の時代劇もいいものだ。こういう世界は大好きだ。
 寺尾聡が人のいい剣の達人を好演。柔と剛を巧みに使い分けていた。
 「御法度」同様、この映画でも刀の持つ気品、重厚さがちゃんと表現されている。殿様がさやから抜いた刀を手にしてうんちくを述べるところは何ともいえない心持ちにさせる。僕はこういうシーンにうっとりしてしまう。
 殿様役の三船史郎は演技はへただが、その豪快さ、のぶとい声が魅力。この映画においてはまさに異彩を放つキャラクターになっていた。
 従者役の吉岡秀隆は時代劇調台詞の滑舌が悪く、ミスキャストに思われたが、ラスト近く、殿様の「浪人を連れ戻せ!」の命に満面の笑みで応えるあたり、彼自身の持つキャラクターが生きた。
 藩への取りたてを断りにきた家老に対して、宮崎美子演じる妻の毅然とした態度、夫への信頼を強く感じさせる台詞に目頭が熱くなる。

 ラスト、また旅に出た夫婦が山道を歩きながら、海を望むその絶景に思わず立ち止ってしまう。映画のテーマを画として凝縮した名シーンである。
 キャメラがパンして観客に見せるこの風景、高台から見る海や空の青さがもっと鮮やかで目にしみるような美しさったらもっともっと晴れ晴れした気持ちになっただろう。


2000/03/30

 「ボイスレター」(渋谷東急)

 パトリック・スウェイジ主演のミステリ映画という認識しかなかった。最後まで犯人がわからないと某映画評にあったので、「L.A.コンフィデンシャル」「交渉人」みたいな謎解き(犯人当て)の面白さが味わえるのではないかと思ったもののあまり期待していたわけではない。
 それほど話題になっている映画でもないのに、渋谷東急最終回は多くはないけれどそれなりのお客さんでびっくり。

 4人の女性とボイスレターのやりとりをしている無実の死刑囚が、看守のイタズラによるテープの入れ替えで、4人のうちの誰か(嫉妬深い女性)から恨みをかってしまうというのが発端。
 その後、無実が証明され、晴れて出所した主人公が、お詫びと釈明のために、女性たちのもとへ訪ねることになるのだが、最初に訪ねた女性が何者かに惨殺される。無罪を勝ち取ってくれた女弁護士も同じ手口で殺され、直前に被害者に会っている主人公はまたもや殺人の容疑で警察に追われるはめにおちいってしまうのだ。
 果たして主人公は真犯人を探し出すことができるのか?

 主人公があっけなく出所するまでは事件に巻き込まれる段取りでしかないから、殺人事件の目撃者がでてきて、安易に判決が覆されるくらいのものなら、そもそもどうして無実の主人公に死刑判決がくだったのかなんて考えてはいけないのだろう。
 当初4人の女性から犯人を探しだすのかと思っていたら、二人は中盤までに殺されてしまって肩透かしをくった感じ。
 残った二人の女性、一人は「出所したあなたに興味はない」と早々に主人公に別れを切りだし去っていき、もう一人は主人公の不実に怒り狂いながらも犯人探しに行動をともにする。

 この展開なら〝映画の法則〟からいっても犯人はわかったようなもの。だが、クライマックスにむけいろいろとひねりをきかせてこちら判断をぐらつかせる演出が心憎い。
 当てがはずれた僕は終盤一気呵成にラストまでなだれこむ展開に犯人外部説まで唱えしまう始末。 
 やはり真犯人は最初に思ったとおりだったが、窮地に追い込まれた主人公の救われ方にかなり驚いた。序盤に張られた伏線がこんなところで効いてくるとは!すっかり忘れていました。「お見事!」と唸るしかない。
 バッドエンドを予想していた僕としては、納得のいく決着のつけ方になった。

 渋さの増したオールバックのパトリック・スウェイジは一見スティーブン・セガールみたい。


2000/03/24

  「スペーストラベラーズ」(試写会 新宿東映)

 19:00開場の試写会に30分も早く着いたにもかかわらず、会場前から横道へすでに行列ができていて、裏道まで続いていた。お客さんはというと、中にはカップルもいるけれど、ほとんどは女性の二人連れだ。さすが金城武人気。
 「踊る大捜査線-The Movie-」の本広克行監督の満を持した劇場用映画第2弾ということで一人で行った僕はほとんど場違いという感じ。

 銀行強盗の話なのになぜ「スペーストラベラーズ」なんてSFドラマっぽいタイトルかというと、強盗3人組の一人が大のアニメファンで、彼が今ハマっているアニメが「スペーストラベラーズ」という番組。これが後で物語に大きくかかわってくるのである。そのオリジナルアニメも挿入されてなかなか興味をひくオープニングとなっている。

 孤児院出身の3人組(金城武、安藤政信、池内博之)が用意周到のもと銀行強盗を企てるが、行動が次々と裏目にでて、人質をとってたてこもらざるをえなくなる。銀行を包囲した警察も情報が錯綜して犯人を特定できない。そこで3人組はたまたまその場にいあわせ人質になったテロリストの指示を受けて、他の人質たちも仲間に引き入れ、偽の情報を流し、警察を混乱させる計画にでる……というハチャメチャコメディ。「踊る大捜査線」の世界を犯人側から描いたと言えようか。
 芸達者な役者(筧利夫、鈴木砂羽、甲本雅裕、武野功雄、深津絵里)を揃え、その絶妙なコンビネーション、ドタバタぶりに会場は爆笑の渦だった。爆笑の後、拍手まで飛びだすのだからかなり大受けだ (ロングラン中、2番館で観た「踊る大捜査線」の観客の反応を思いださせる)細かいところでいろいろと不満はあるがクライマックスまでは、とにかく笑わせてくれて大いに楽しめた。
 ところがSAT(特殊急襲部隊)の強行突入で仲間一人を失った二人が「明日に向って撃て」よろしくピストル片手に警察に立ち向かって行く姿(俯瞰のストップモーションで捉えた彼らの引きの絵は印象的)の後のエピローグには失望してしまった。

 人質の一人で3人組に特にシンパシーを抱いた女子銀行員が、警察隊に突入していった二人(その後どうなったかは全く語られない)に想いをはせる感傷的なシーンがかなり長く続く。観客を感動させようという意図がありありだ。
 本広監督は笑いの後に必ず感動(泣き)を入れないと作品として成り立たないという信念があるのだろうか?「踊る大捜査線」も事件が解決してからの長い長い感動エピローグに辟易したもんだ。
 感動とか泣かせがいけないというわけではなく、とってつけたような展開だからとても残念に思うのである。今の若い人はこういうのが好みなのだ、これがヒットの要因さと言われてしまうと返す言葉がないけれど。

 人質も仲間に引き入れ、互いの友情も芽生えたことだなんだから、人質と強盗団が最後まで力を合わせ、いかに何もなかったように警察の包囲網から逃げ出すか、そのスリルとサスペンスをクライマックスにもってくるべきではなかったか。テロリスト役の渡辺謙が途中退場してしまったり、金庫の中に退避してしまった支店長(大杉漣)と警備員(ガッツ石松)が最後まで主役にからまないうなんて、全くもってもったいない。
 「踊る大捜査線」を知っていればもちろんのこと、知らなくてもかなり楽しめる映画ではある。

     ◇

2000/03/20

  「ケイゾク/映画 Beautiful Dreamer」(ニュー東宝シネマ1)

 TVシリーズ「ケイゾク」が正式に映画化されるのを知って、一番期待したのは、方向性もタッチも全く違うけれど「L.A.コンフィデンシャル」みたいな上質なミステリ映画の誕生だった。
 柴田と真山の凸凹コンビ(および捜査二課メンバー)によるギャグの応酬、独特な映像テクニックはそのままに本格的な(本格派ではない)ミステリ映画になったら、日本映画史に残る斬新なものになるんじゃないかと思ったのだ。

 タイトルに「Beautiful Dreamer」なんておよそ「ケイゾク」に似つかわしくないサブタイトルがついてがっかりきた。「コナン」や「金田一少年の事件簿」みたいなストーリー(南の島に関係者が集まって一人ひとり殺されていく)も期待をしぼませるのには十分だった。
 堤幸彦監督は自身が演出したTVドラマ「金田一少年の事件簿」の映画化作品でも舞台を香港にして一大ロケーションを敢行したのは記憶に新しい。TV出身の監督にすれば、映画はやはり〝お祭り〟<フルコースメニュー><見栄えがいいもの>という認識なのだろうか。装飾を豪華にすればいいという問題でもないと思うのだけど。
 映画だからこそ、日常(「ケイゾク」の舞台は都会がよく似合う)に潜んだミステリアスな犯罪とその解明の模様を二転三点する練り込んだ脚本と独特な映像でフィルムに構築して欲しかった。
 クスクス笑いあるいは大爆笑の中で、クライマックスに向けての謎解きの伏線を見逃(聞き)さないように、一時もスクリーンから目が離せない。で、あっというドンデン返しがあって真犯人がわかる仕組み。僕はそういう展開をのぞんでいた。
 真犯人がわかってからはハードボイルドタッチ(かつての遊戯シリーズみたいに)で警察VS犯人の戦い(銃撃戦)を描いてもいい。

 映画は昨年末に放映された「ケイゾク/特別編」の後日談として始まる。
 上映時間約2時間の3/4(1時間30分)は映画用に新たに設定された事件がTV同様柴田のボケと真山のツッコミで笑わせながら描かれる。犯罪のトリック自体は稚拙なもので、始まっていくらもしないうちに犯人がわかってしまったのはちょっと残念だが 「ケイゾク」の雰囲気はうまく表現されている。これはこれでいい。ただこれだけのエピソー ドでラストまでひっぱるのは無理というもの。当然事件が解決してから大きなひねりがある。

 問題なのはそのラスト30分だ。TVシリーズから執拗に続いている殺人鬼・浅倉と真山の対決が描かれ、やっと戦いに終止符をうたれた(らしい)。が、これが、どうにもよくわからない展開なのだ。
 このエピソードはそれまでの物語を拒否するかのような形で追加され、TVシリーズを知らない観客はもちろん、観ていた人だって、朝倉が何者で何をしたかったのかわからない。
 観客に媚びたあまりに説明過多な浪花節ラストもイヤだけれど、監督の一人よがりなわけのわからないものも困ったもんだ。TVシリーズ、スペシャル、映画と観てきて、何よりスタッフがなぜあそこまで浅倉に固執するのか僕にはわからない。

 「ケイゾク」の凝った映像はTVドラマの中でも特筆ものだろう。ビデオでハードボイルドが撮れるというのは何とも心強かった。TVは名キャメラマンを生み出せなかったと言われて久しいが、堤幸彦の片腕として数々の作品に参加している唐沢悟はその範疇に入るのではないだろうか。
 かなりフィルムの質感に迫った映像設計で、「ケイゾク」の映画化はその点でも期待が大きかった。ところが、TVと同じカメラワークでもどうもキレが感じられないのである。「ケイゾク」の映像はビデオだからこそ堪能できるもの、逆の意味でフィルムとビデオの違いを思い知った。

 木戸彩(鈴木沙理奈)の元恋人に大阪弁で啖呵をきるところはゾクゾクきた。

     ◇

2000/03/08

  「DEAD OR ALIVE 犯罪者」(ビデオ)

 深作欣二監督の「仁義なき戦い」シリーズはフォローしなければと思いつつ、ずいぶん前に第1作のビデオを借りて以来ご無沙汰している。やくざ映画が好みでないということもあるが、なにより出演者の顔ぶれに躊躇してしまうのだ。
 菅原文太、松方弘樹、梅宮辰夫…一人ひとりは好きな俳優なのに一緒になるとあまりに濃すぎて引いてしまう。

 70年代にブームを巻き起こした実録やくざ路線は劇場用としてはすたれてしまったが、中国マフィア、台湾マフィアとの抗争を描いたニューウェーブものがオリジナルビデオとして人気を博している。その手のビデオにおける2大俳優とも呼ぶべき竹内力、哀川翔が初共演し、バイオレンス描写に定評があって、現在邦画界で最もエネルギッシュ に作品を発表している三池崇史がメガフォンをとったのがこの映画である。
 竹内力、哀川翔と聞いただけで、胸焼けをおこしてしまいそうだが、公開されてから話題沸騰の衝撃のラスト見たさにさっそくビデオを借りてきた。

 新宿歌舞伎町を舞台に、地元やくざ、中国マフィア、中国残留孤児3世グループのギャング団の三つ巴の抗争に一匹狼の刑事がからむ。暗殺、報復、裏切り、そして殺戮。よくあるストーリーではあるが、最後は妻子を殺された刑事(哀川翔)と仲間を失ったギャングのボス(竹内力)の一対一の戦いとなって、ボルテージは一気にたかまり、衝撃のラストをむかえるところが新機軸だろうか。いつかどこかで観た映画の1シーンが様々に引用されている。
 海沿いの河口べりでうんこ座りした竹内と哀川がカメラ目線でカウントを数え、本編が始まってからのバイオレンスとエロスに満ち溢れた猥雑な映像フラッシュは、バックに流れるヘビメタとシンクロしてかなりの興奮もの。
 プロローグが終わると、逆にカメラは固定され、ほとんど1シーン1カットのような雰囲気で静かに役者たちの演技を凝視する。で、一癖二癖ある役者たちが各々楽しんで自分の役を演じているのが何とも愉快だ。
 冒頭だけの出演にもかかわらず印象度バツグンの麻薬中毒の中国マフィア・大杉漣。石橋蓮司のどこかぶちぎれたやくざの親分。ギャング団NO.2として確かな存在感を見せる小沢仁志。
 屋上で笛作りに精を出す警察署長の平泉成。本田博太郎のやくざとつながっている小心刑事(相変わらずの怪演ぶり!)。子連れの刑事が何とも情けなく生活感あふれる寺島進。
 中国マフィアの親分に扮した鶴見辰吾など、流暢な中国語を駆使して、途中まで誰だかわからなかったほどだ。刑事の、ちょっと疲れた妻をけだるそうにこれまたリアルに演じるのは杉田かおる。画面上で一緒になることはないが、この二人の共演は「金八先生」以外では初めてではないか。
 殺伐とした映像が続く中、ギャング団のボスの弟がアメリカ留学から帰ってきて、仲間たちとパーティーに興じる雨の降る干潮時の海岸風景に、やるせない詩情を感じた。

 マジで考えていけないのだろうが、ラストはの戦いは竜虎の決戦(あるいは「怪竜大決戦」)なのか? とすると竹内力の投げる球が説明できるのに、と思ったら、彼の名前は龍というのだった。




 昨日(15日)は、今日と休みを換わってもらって、午後、渋谷区文化総合センター大和田へ。
 14時30分から練習室で「木部与巴仁×森川あづき 第7回未来式 ミライシキ」を観た。
 昨年だったか、一昨年だったか、BC二十世紀で開催した「伊福部昭二十一世紀」というトークセッションがあった。司会が木部さんで、自身は生ギターをバックにキベダンスを披露した。キベダンスの創出者だ。
 木部さん、伊福部昭には、現代音楽家として私淑しているわけだが、特撮に関しては馬淵薫に造詣が深い。僕も馬淵脚本作品はどれも大好きだから、話が合うのだ。

 ピアノの森川さんが急遽出演できなくなったのは残念だった。ただし、その代替として、木部さん自身が詩を朗読したテープをエンドレスで流して、即興で踊ったのだが、これがよかった。

 終演後、カラオケで時間をつぶして、18時からの談四楼師匠の独演会(下北沢)へ行こうとしたのだが、疲れが一気にでてきて、そのまま帰宅、早めに就寝した。

          * * *

2000/02/02

 「シュリ」(シネ・ラ・セット)

 魚の名称(そしてそれが北朝鮮テロリストの暗号になっている)からとったタイトルにセンスを感じる。ハリウッドに負けないアクション映画ということで人気を呼んでいる作品であるが、同時に語感のいいタイトルであまり馴染みのない韓国映画というイメージをとっぱらい、特に女性たちの足を運びやすくしていると思う。

 内容についてほとんど知らずに観たのであるが、これは韓国版「ブラック・サンデー」であった。 スタジアムに特殊爆弾を仕掛け、観客もろとも国家元首を殺害しようと画策するテロリストとそれを阻止しようと奮戦する主人公の情報部員という構図。そこにテロリストの女性工作員と主人公のラブロマンスを挿入したのがこの映画のミソであり、対象を女性層まで広げた要因だろう。
 北朝鮮の韓国に対する様々な工作は常日頃ニュースで目にしている。だからこそ物語は(細部は別にして)リアルに受け入れられる。

 冒頭、北朝鮮の一女性が特殊工作員に養成される様をできるだけ台詞を排除した映像だけでたたみかけるように見せてくれる。監督のこの映画にかける意気込み、力量が感じられる素晴らしいシークエンスだ。銃撃シーンの迫力も特筆ものである。
 映画「ブラック・サンデー」は未見であるが、小説にはとても感銘を受けた。何よりテロリスト側の心情が詳細に描かれていて、スタジアムに集う大統領を含めた何万という観客を殺害しようとするテロリストを肯定してしまったほどである。
 本作でも工作員のリーダーがその理由を国家の分断、北の貧しい生活にあることを熱く語るシーンがあるのだが、その多くは自国のトップの失政に起因するのだからあまり説得力はない。(ちなみにこのリーダー役、「レオン」のゲーリー・オールドマンを意識した西岡徳馬って感じで非常に印象的だった)ラストに用意されている主人公と女テロリストの悲恋も、二人の関係を型どおりにしか描いていないからそれほど胸に響かなかった。

 残念だったのは事件が解決してからのラストまでがやけに長く、おまけにあまりに感傷的だったこと。個人的な好みの問題かもしれないが、観客の涙を誘おうとする意図がありありで、ちょっと引いてしまった。
 が、韓国がこれだけの娯楽アクション映画を製作したことに対してアジア人として喜ばしく、日本人としては脅威、嫉妬を感じてしまった。日本の映画人たちはこの映画をどう観ているのだろうか?
 当時を知らないから勝手な憶測なのだが、かつて「七人の侍」が公開された時と同じ興奮をこの映画は韓国の人に与えているのではないだろうか。
 とにかくすごい映画である。

     ◇

2000/02/05

 「海の上のピアニスト」(丸の内ピカデリー)

 有楽町にあるクリニックに行った帰り、よく利用するガード下のチケット屋で丸の内ピカデリーの株主優待券(1,400円)を購入し、大ヒット中の「海の上のピアニスト」を観る。
 まわりはほとんどカップルか女性の二人連れで男一人が何となく場違いな気がする(「タイタニック」の時みたい)。

 この映画はファンタジーだ。そう考えないと船上に捨てられた孤児が全く音楽に親しむ環境にない、あるいはそういった教育を受けていないにもかかわらず、ある日突然ピアノを弾いてしまう設定、その他もろもろ無理が生じてしまう。
 幼い頃、母親に語ってもらったおとぎ話のように映画の語り口、主人公1900が紡ぎだすピアノに酔いしれればいい。

 ストーリーとか、展開がどうのこうの言う前に、純粋に音楽が持つ人の心を感動させる力を改めて思い知らされた。音楽は作りだすものではない。見たもの、感じたことを素直に表現する媒体だということをしみじみ感じた。
 1900が映画の語り部である友人トランペッター・マックスに豪華客船のパーティーに集う人々の中から、これはという人を選び出し、彼(彼女)にインスパイアされた物語を語り、イメージした曲を聴かせるくだりは音楽の真髄を垣間見た思いで心踊った。だからこそ初のレコーディングで窓の外にいた少女に一目ぼれした1900が弾くピアノの甘い調べに涙してしまうのだ。
 そして何より大地に住む人間として、金を儲けて家を建てたり、高級車を乗り回したり、結婚をして、子どもをもうけたりという、日頃当たり前に思っていることも、立場の違えばいかに意味がないかということも思い知らされる。
 とにかく泣けた。ラスト近く、鳴咽をあげそうになってこらえるのに苦労した。
 エンディングのロールタイトルで少女にささげたピアノ曲が流れたら、たぶん大泣きしていただろう。

     ◇

2000/01/10

 「新選組」(ユーロ・スペース)

 以前から気になっていた市川崑監督の実験的な異色作「新選組」をやっと観ることができた。
 セルアニメでもCGでもない、名づけて〈ヒューマン・グラフィック崑メーション〉。[三次元的立体漫画映画]と説明されている。原作である黒鉄ヒロシの原画を拡大コピーして作った切り絵のキャラクター人形を操演、撮影したというまことにユニークな時代劇である。

 製作はフジテレビ。TV用に製作されたにもかかわらず、出来がよかったということだ。
 放映前に単館ロードショーされた「帰ってきた木枯し紋次郎」の続編企画がずいぶん前に発表されたが、それが紆余曲折を経て、この「新選組」になったとおぼしい。

 コミックを映像化した場合、いわゆるアニメ以外には全く動かない原画をキャメラ操作で動きがあるように表現した作品がある。大島渚監督が白土三平の劇画を映画化した「忍者武芸帳」や石森章太郎のTVシリーズ「佐武と市捕物控」などがあるが、原画の切り絵人形というのは見聞したことがない。予算については知らないがまことに手間のかかる撮影であったことは予想できる。
 キャラクター人形の操演のほかに原画や実写との合成を駆使して、一つの世界を構築しているの確かである。

 冒頭、池田屋騒動が描かれるが、その顛末後に池田屋から赤い血が流れて画面全体を覆うカットなど異様な雰囲気が醸し出されていて目を瞠った。
 声の出演は市川組常連の役者ばかり。中でも中村敦夫は黒鉄原画の四角張ったごつい顔の近藤勇にぴったりであった。端正な二枚目(というのをこの映画で知った)土方には中井貴一。
 とすると「御法度」のビートたけしは原作のイメージにはほど遠い、全くのミスキャストになるのですな。

 「新選組血風録」を読んでいたので物語はよくわかった。ただ、こちらのコンディションが悪く、途中で睡魔に襲われ、何回か意識がなくなったことから、前評判ほどのおもしろさではなかったというのが率直な感想だ。本当におもしろかったら眠気など吹き飛んでしまうだろう。
 ラスト沖田総司と黒猫のエピソードで、ふと気づくと「完」のタイトルになっていた。ほんの一瞬もことだったが、とてもくやしい。傑作かどうかはビデオになってからもう一度確認したい。
 市川監督流のシャープな映像は健在。80歳を越えたとは思えない瑞々しい映像の数々で次作の「どら平太」が大いに期待できる。

 ユーロ・スペースでは「新選組」公開に併せてレイトショーで市川監督の過去の映画を数日ごとに上映している。その第1回が「雪之丞変化」。この情報を知っていたらと劇場で地団太踏んだ。ラストは「木枯し紋次郎」なのでこれはぜったい押さえておきたい。

     ◇

2000/02/24

 「ストーリー・オブ・ラブ」(渋谷東急)

 何年前になるのだろうか、こんなことがあった。かみさんがロブ・ライナー監督の前作「恋人たちの予感」のビデオ(日本語吹替え版)借りて夜一人で観ていた。僕自身はこの「恋人たちの予感」について、名作「スタンド・バイ・ミー」監督の新作というくらいの知識しかなく、恋愛ものには興味がわかないので、どうでもよかった。ただ、何となく映画はアメリカ人の"普通の生活"を描いていて、登場人物たちの立ち振る舞い、会話の全てが重要な要素になっていると感じたので、なぜ日本語吹替え版を借りてきたのか、吹替え版だと映画の魅力が半減するんじゃないかとを何気なく尋ねた。するとかみさんは突然怒りだしたのだった。
「私は家事で忙しいの!あなたが何も手伝ってくれないから、画面観ていなくてもストーリーがわかるように日本語吹替えを借りたんじゃない!!」
 その後彼女の日頃の不満が爆発して、大喧嘩になり……以下略。

 わが家では年に数回派手な夫婦喧嘩をしてしまう。外ではかっとなることはない僕も相手がかみさんだと怒鳴ることもたびたびだ。相手はよけいに無口になり会話のない日が何日も続く。まあ、だいたいはこちらが悪いのだし、最後はあやまるのだが、そんなことが何度も続くと、いい加減うんざりしてくる。
「全部オレが悪いのか?君はちっとも悪くないのか? 君の言い分を聞いているとまるで自分中心に地球が 回ってるみたいじゃないか」

 ブルース・ウイリスとミシェル・ファイファーのやりとりは、だからけっして他人事ではない。台詞の一つひとつが胸に突き刺さる。ミシャル・ファイファーが時折見せるぶすっとした沈んだ表情。同じ表情を実生活で何度見ていることか。コメディじゃなかったら、正視できないですよ、この映画。

 夫婦の離婚、その過程を描いた映画に「クレイマー・クレイマー」があるが、僕は別の意味でこの映画を思い出していた。
 ごく普通の家庭の朝食風景。親子の会話。友人夫婦とのレストランでの夕食。ワイングラスが触れ合う音、食事をしながら繰り出される早口な英語の台詞、食器とフォークのぶつかる音等々。何気ない描写がいい。
 二人の出会いから妊娠、出産、子育てを経て、現在に至るまでの変遷が、端的に描かれる。時の経過を二人の髪型の変化でみせてくれる。何より評価したいのは、わずか1時間半の時間で夫婦であること、親子であることの歴史がちゃんと描かれていることだ。(「秘密」の脚本家、監督に見せてやりたい)この歴史があるからこそ、ラスト、ミシェル・ファイファーの長台詞が重みを持つのである。

 原題は「Story of us」。このusは主人公夫婦だけではなく、子どもたちを含む家族を意味していることをラストの台詞で知って、感動を新たにした。
 いつもはヒロイックな役柄が多いブルース・ウィリスの普通人ぽさがいい。エリック・クラプトンのアコースティックな主題歌に聴き惚れた。

     ◇

2000/02/25

 「恋人たちの予感」(ビデオ)

 洋画の場合、英語の原題をそのままカタカナタイトルにしてしまう、あまりの芸のなさにあきれてしまうことがたびたびあるが(007の最新作、『ワールド イズ ノット イナフ』なんて配給会社のセンスを疑ってしまう)が、逆に日本語のオリジナルタイトルだと内容がよくわからないというのもある。
 「恋人たちの予感」の原題が「When Harry Met Sally」だと知り、内容を的確に表していると思った。

 1977年、大学卒業時に出会った男女(ハリー&サリー)が紆余曲折の末、89年に結ばれるまでの十年ちょっとの断面をスケッチしていく。主演のメグ・ライアンとビリー・クリスタルが、ヘアスタイルと衣装でだんだんと年齢を重ねていき、それがいかにもリアルなので驚いてしまった。登場してきた時、ほんとに二人は大学生に見えたもの。時代の変遷にともなう人物の風貌の変化って表現するのはけっこうむずかしいと思うのだが、うまくいっている。こういうのってとても大切なことだと思う。
 「ストーリー・オブ・ラブ」でも感じたが、ロブ・ライナー監督はこの手の演出がうまい。

「男女の間に友情は存在するか?」
 この問題については大学時代にサークルの連中とよく議論したもんだ。僕は高校時代から女友達(とういうか、男子高校だったから中学時代からの友人か?)がいて、さまざまな話をしていたし、男女の恋愛の介在しないつきあいは尊重すべきだという考えを持っていたので「存在する」派だった。ところが、彼女たちが結婚したとたん没交渉になってしまって自分の考えもあやしくなった。こちらにそういう気持ちがなくてもダンナがヤキモチやけばそれまでだ。
 後半のプラトニック・ラブに固執する男の心情はとてもよくわかる。僕が彼でもものすごくこだわると思うのだ。この点、女性というのは気持ちの切り替えが早い。

 この映画のユニークなところは物語の要所要所に熟年世代の夫婦へのインタビューを挿入していること。夫婦は互いの出会いをカメラにむかって幸せそうに語るのである。 「ストーリー・オブ・ラブ」でも同様に主役の二人がインタビューに答えていて、「恋人たちの予感」との関連性を強調している。

 80年末に若い男女の恋の経過、90年代末には倦怠期の夫婦の危機と描いたロブ・ライナー監督には、もう1つ10年後に熟年夫婦の愛と性の問題を扱ってもらいたい。
 インタビューされるのは結婚したてのラブラブ中の男女。「恋人たちの予感」と全く逆のパターンになる、というわけである。




 最近、このブログ、手を抜いていないか。みんな転載ばかりではないか。
 あなた、そう思っているでしょう?
 はい、正解です。
 実は、もう疲れがたまりにたまって、帰宅して、すぐ横になって、TVを見ているといつのまにか寝てしまう。目を覚ますと早朝、すぐに出勤支度をしないといけなくなる。そんな毎日が続いています。

 もうひとつ、HPのレビューをとにかくどこかに保存しておかないと、いつ閉鎖されるかわからないという理由もあります。

 とにかく、体制を立て直さないと。
 本当なら、小説も書いていなければならないのに、全然筆が進んでいない。
 尻に火がついた状態なので、秋には一つの答えを出します。

          * * *

2000/01/11

 「天国と地獄」(ビデオ)

 娘に「踊る大捜査線 -The Movie-」の元ネタをみせてやろうと借りてきた。もう何度目の鑑賞になるだろうか。

 前半は権藤邸における密室劇で、そのまま舞台劇として通用する。後半部分の内容を変えて「天国と地獄」を舞台化しようとする演劇人は現われなかったのか?
 映画は犯人を特定するまでがむちゃくちゃ興味をそそられる。警察の犯人検挙までの捜査方法をこれほど具体的にリアルに描いた映画はこれが初めてではないか。僕自身は映画「砂の器」で刑事たちが二人一組になって、地道に事実を拾い集めていく捜査の過程、あるいは刑事が一同に集まって情報交換する捜査会議の実態を知り、TVの刑事ドラマにはないリアルさが新鮮に感じたのだが、すでに黒澤監督は具現化していたのである。
 にもかかわらずTV界は「天国と地獄」の世界を踏襲せず「七人の侍」のチームワーク部分を引用して「七人の刑事」が生まれ、それが基本(伝統)となって「太陽にほえろ」「大都会」に続いていく。「踊る大捜査線」はピンクの煙以外にもちゃんと本家のいい部分を引用しているということだ。身代金に使用する札のナンバーを一枚一枚チェックするため徹夜するところなんて「踊る…」の水野美紀の台詞を思い出して笑ってしまう。

 これまで特に感じなかったのだが、三船敏郎演じる靴職人あがりの重役・権藤がいい。冒頭他の重役から新商品として発売する安価な靴をバラバラにしてダメなところを指摘するところ、犯人に渡す身代金の入ったバックに特殊装置を組み込む際の、「昔の経験が活かせる」と自らバックを手にとって加工するしぐさにプロの男を感じてしまう。
 今回初めてわかったのが、三船の息子役は江木俊夫だったということ。熊倉一雄も市場の男で登場する。

 犯人特定までは映像にくぎづけになるのに、その後の展開がどうもピンとこない。一つは麻薬常習者の巣窟シーンが現実にありえないこと(昭和30年代の横浜に本当にあったのか?)。もう一つは犯人の権藤に対するどうしようもない恨み、犯人を極刑にしようと熱い正義感ぶりを発揮する刑事たちの心情がいまいち理解できないからかもしれない。
 つまりどちら側にも感情移入できないまま、権藤と犯人の対立という構図でこちらがあっけにとられたまま物語が唐突に終了してしまう、その違和感がどうしてもぬぐえないのだ。

     ◇

2000/01/30

 「どん底」(ビデオ)

 ラストが鮮やかだ。
 なんだかんだと小競り合いの続くボロ長屋の住民たちが一つにまとまり、馬鹿囃子で最高調に盛り上がったその時、住人の一人(役者)が裏で自殺したとの連絡が入って、住民のリーダー格的存在の喜三郎がポツリつぶやく。
「ちぇっ、せっかくの踊りをぶちこわしやがって、馬鹿野郎!」
 拍子木がカチンと鳴って「終」のタイトル。あっけない幕切れだ。
 徐々に盛り上げていって、一気に突き離す感覚、これは黒澤監督の「ボレロ」ではないか。
 ゴーリキーの有名戯曲を江戸に移して映画化した作品であるから、全編役者たちの白熱した演技が見物なのだが、ラストの馬鹿囃子のシーンが特に気に入った。役者たちの見事なアンサンブル、そして踊るみんなの表情がたまらなく素敵で、観ているこちらもついつい身体を動かしたくなる。
 嘉平役左卜全のひょうひょうさ、喜三郎役三井弘次の口跡、留吉役東野英治郎が馬鹿囃子の時に合いの手を入れる際のうれしくってたまらないという表情が出色。香川京子が美しい。




1999/12/09

 「赤ひげ」(ビデオ)

 「赤ひげ」が黒澤映画の集大成ということは知っていた。陰りをみせはじめた日本映画界に活を入れるべく、渾身を込めて製作した映画である。ビデオ化されてから観なければいけないと思いつつ、結局今まで借りなかった。ビデオが「七人の侍」と同じく上下2巻組。いわゆる娯楽巨編でなく、黒澤のヒューマニズムが色濃く表れているというので、今まで敬遠していたのだ。
 土屋嘉男の「クロサワさーん!」を読んで、減量に苦しんでいる痩せた土屋嘉男を観たくてやっとビデオを借りてきたのだが、ちょうど「赤ひげ」の音楽を担当した作曲家・佐藤勝の訃報にふれ、追悼を兼ねた鑑賞になった。

 いくつもの瓦屋根をアップで撮ったタイトルバックにテーマ曲が流れ、途中から売子の声がダブってくるところで、もう「赤ひげ」の世界に引き込まれてしまった。
 ストーリー、テーマを云々するよりも、まずその美術(セット)に惚れ惚れしてしまう。
 養生所の壁や廊下がいかにも使い古されたといった作りで、それを見ているだけで江戸の情緒に触れた思いがする。小道具一つひとつを含めてセット然したものが全く感じられず、「七人の侍」の経験が活かされている。あるいは小石川近辺の通りの土埃。これなんか「用心棒」そのものだ。

 登場する人物もそれぞれ実にリアルだ。ちょんまげもかつらをつけている感じがしないところがいい。養生所の賄婦たちの小汚さ、猥雑さなんていかにもって感じで、女優が演じている感じがしない。
 佐八のエピソードでは感情の表現にうまく風鈴の音が使われている。回想シーンの大地震で家屋が倒壊するショットはスペクタクル映画級の大迫力。狂女に襲われる主人公の緊迫したシーンには息を飲んだ。
 しかし台詞に関してはあくまでも現代語なのだ。江戸末期に「膵臓癌」なんて名称があったのだろうか?仮に使っていたとして腹部を触ったりするだけで、癌が発見できるものか?

 圧巻は後半のおとよと長坊のエピソードである。養生所に引き取られてから病気が完治するまでの間おとよの目にライトがあてられ、暗闇の中でのその眼の輝きが異様な怖さを際立たせた。また図師佳孝の天才子役ぶりが堪能できる。僕にとっては日本テレビの「飛び出せ!青春」の落ちこぼれ高校生の印象が強いが、黒澤映画「どですかでん」の主人公の前にこんな印象深い役をやっていたなんて驚きだ。原作では長坊は死んでしまうが、黒澤監督は殺さなかった。映画はそうでなくてはと思う。現実だけを見せられても辟易するだけだ。
 三船敏郎の赤ひげをなでるしぐさがいい。「七人の侍」と同じく年に一度くらいの割合で鑑賞する映画になりそうだ。

     ◇

1999/12/23

 「御法度」(丸の内プラゼール)

 何よりキャスティングに大島渚の才能を感じた。主要キャストはもちろんだが、花魁に神田うのを起用し、一言も台詞をしゃべらせないところなんてさすがではないか。
 坂本龍一のテーマ曲は美しい調べでとても印象に残る。だからこそここぞというところで使用すればいいのに、冒頭から何度も流れて、くどすぎる。
 ナレーション(佐藤慶)、サイレント映画風字幕による状況説明、土方(ビートたけし)の独白、映像と台詞以外になぜこうも物語を語らせたがるのか、理解に苦しむ。字幕は無声映画の頃の書体で味があり、効果的に使用されているので、これだけで〝語り〟は十分なはず。特に土方の独白は、それこそ表情やしぐさで表現すべきであり、何も言葉で説明することはない。
(若い人にも観てもらいたいとの監督の要望で、わかりやすい演出をしたのか、それとも原作がそもそもそういう語りになっているのか)
 前半、そういう思いがあって、少々違和感を抱いたが、全体の印象にしたら些細なことだ。
 剣道の稽古時の打ち合いの激しさ、死体の胸から腹にかけてざっくり裂けた刀傷を見せることにより、真剣の重厚さ、怖さが観客に印象づけさせる。TV時代劇によくある竹光の刀ではない本物の斬りあいが音と所作で堪能できた。
 クライマックスの幻想シーンが素晴らしい。舞台がセットなのかロケなのかわからない。まさしく幻想。
 噂どおりトミーズ雅がいい。坂上二郎の口跡も聞いていて惚れ惚れする。
 しかし何と言ってもラスト、開の桜の木を一刀で斬るビートたけしがかっこいいし、その様が美しい。




1999/11/02

 「ワイルド・ワイルド・ウエスト」(試写会 東京厚生年金会館)

 月刊「スターログ」誌新創刊号に砂漠の谷から巨大なクモみたいなロボットが出現し、それを見上げる小さな人間の写真が掲載されていた。それが今度お正月映画として日本で公開される「ワイルド・ワイルド・ウエスト」で、最近では珍しい西部劇と知り、興味がわいた。別に西部劇だからというわけでなく、西部劇とSFXの融合に新しい作劇を感じたのだ。監督が「MIB」の人で、主演はウィル・スミスということも期待は大きかった。
 その試写会があるってことで東京厚生年金会館へ行ってきた。

 タイトルバックは凝った画面構図と西部劇らしいテーマ曲でなかなかの始まりであったが、その後はちっとも盛り上がらない。チラシには主役ふたりのジョークの連発とあるが、客は全く反応なし。僕自身はそれなりに笑えたけどその声がむなしく劇場内に響くのだ。
 肝心のローテク風SFXはやけに合成が目立ち、今いちノレなかった。いや、メカの出来、動き自体はよくできている。たとえば昔のアクション映画なので、列車の上、飛行中の機内なのがロングではスタントの実写、アップではリアプロジェクションを使用して、暗い背景をバックにして役者が演技することが多々あった。その場合、暗い背景がいかにも嘘っぽくて、白けたものだ。同じことがこの映画のSFXに言えるのである。
 随所に映画のパロディがみられた。「駅馬車」、「スピード」、「ET」、憶えているだけでとりあえずこれだけ。他にもたくさんあった気がする。(まっ、パロディなのか単なるパクリなのか)  クライマックスもそれなりのもので興奮も高揚感もなかった。そんなわけでエンドタイトルに流れるウィル・スミスの主題歌につきあう気にもなれず、足早に劇場を後にしたのであった。本当にこの映画がこの夏、アメリカで大ヒットしたのだろうか?

     ◇

1999/11/03

 「リトル・ヴォイス」(シャンテ・シネ)

 「ブラス!」の監督マーク・ハーマンによるある種<スター誕生>的ストーリー、ヒロインがスタンダードナンバーを熱唱する音楽映画だと知り、興味がわいた。
 映画サービスデーということもあるのだろうか、やはり人気がある映画はすごい。1時間前なのにすでに列ができていた。

 予告編が終わり、本編が始まった。タイトルが「デザイア」と出て、原題と邦題がずいぶん違うなと思った。海辺にユアン・マクレガーが歩いてくる。浜辺になぜかエクレア(?)が置いてある。手にとって、ながめるユアン。クリームをなめてみる。一気にそれをほうぶるとなんと針がユアンの頬を突き刺す! 針には糸がついていて、ユアンはそのまま海にひきずられていき消えてしまうそこでキャスト・スタッフのクレジットが流れる…。「人間釣り」のオチというわけか。???状態でいると今度はちゃんと「リトル・ヴォイス」が始まったのだった。 後で知ったのだが、これは同時上映の短編映画でした。

 この映画はイギリスで大ヒットしたミュージカルの映画化だという。ヒロイン・LVを演じるのは舞台と同じジェイン・ホロックス。全く知らない女優でだからこそ役柄そのものを素直に受け止められ、最初に登場した時の内気でほとんど人と会話ができない様と一夜だけのワンマンショーでお得意のナンバーを<なりきり>で歌う様のギャップが激しく、こういうのを鳥肌がたつ状態というのだろうか、あまりの感動で涙がでてきた。この瞬間に立ち会えただけでもこの映画を観る価値があったと言うものだ。
 映画は単純なスター誕生物語ではなかった。確かにこの内気な娘がショービジネスの世界で生きていけるとは思わない。にもかかわらず彼女の才能に目をつけた母親や二流のマネージャー(ブレンダ・ブレシン、マイケル・ケイン、ともに好演。巧い!)が一攫千金を夢見て<売り出し>にやっきになって、はかなくも夢やぶれるところはあまりに急な展開だが映画というメディアを考えれば仕方のないことか。
 一体どんな結末になるのだろうかと息をのんだ火事のシークエンス後の、LVが母親にくってかかるシーンは圧巻。LVに恋心を抱く純朴な青年役のユアン・マクレガーもいい味だしている。
 サウンドトラックが欲しくなった。

     ◇

1999/11/19

 「黒い家」(丸の内プラゼール)

 森田監督の前作のサイコミステリ「39 刑法三十九条」が佳作だったので、この「黒い家」は原作の秀逸さもあり、とんでもない傑作になりそうな予感がしていた。
 今回も森田監督流の裏切りがあるのだけれど、僕にとってそれは納得のいかないものなってしまったのがつらい。
 決してつまらない作品ではない。たぶん原作を知らない人が観れば、文句なしの面白さかもしれない。

 映画化に対して一番期待していたのは物語の要となる性格異常の夫婦を大竹しのぶ&西村雅彦がどう演じるかだった。実際ふたりは異常ぶりを楽しむかのように演じていて、それはそれでいい。ただ、冒頭、大竹しのぶが最初に主人公に電話をかけてきた時からいかにも性格異常です、といった感じで、そこから僕の映画「黒い家」に対する違和感が生じてしまった。
 当初夫が異常で、妻の方は夫に虐げられている存在という印象を主人公にも、観客にも与えないとクライマックスの圧倒的な恐怖に至るまでのサスペンスが成り立たないと思う。それが第一の不満。  第二の不満はあまりにもケレン味たっぷりなカメラワークに対して。「39」は(静)で本作は(動)を狙ったと森田監督が公開前に新聞のインタビューに答えている。だからなのか「39」では抑制が効いて、効果的だった森田流の映像の遊びが逆にくどくなって少々目障りだった。
 もしかすると原作そのものの怖さは映像で表現できないと意識した結果なのかかもしれないし、それを見越して役者たちに過剰な演技をつけたためか、全体的にブラックユーモアの味わいに包まれ、笑える映画に仕上がっている。
(保険契約のつぶし屋・小林薫と大竹しのぶの会 話の中で、大竹が約款を(やかん)と聞き違えるシーンがある。主人公が恋人を救うため黒い家に忍び込み、床をあけると小林の死体の横にひときわ大きいやかんがちゃんと置いてあるのだ。緊迫したシーンで、思わず笑ってしまった)
 森田芳光をあれこれ語れるほど彼の映画を観てきたわけじゃないけど、2作続けて鑑賞して思うのは、テーマよりテクニックを重要視して、素材を選定する姿勢だ。市川崑の系列に入るかもしれない。
 風景の切り取り方に独特のものを感じる。




1999/10/06

 「双生児 ~GEMINI~」 (スバル座)

 映画サービスデーなので、今月は映画のはしごをしようと有給休暇をとった。
 まず夫婦でシャンテシネに「リトル・ヴォイス」を観に行った。が、昼食をとっている間に初回が満席になってしまった。立見で観る元気もなく(なんせ徹夜なもんで)、ほかの二人で観られる作品を探したが、適当なものがなく、仕方なく一人で「双生児」をスバル座で観た。

 予告編で強烈な映像を見せられていたし、また塚本晋也監督のことだから一筋縄でいかない映画だろうと予想はしていたが、最初から役者たちの眉毛なしの異様なメークに度肝をぬかれ、絵の具を飛び散らせたような貧民窟のセットに唖然とした。
 癖のある映像、語り口である。わざと意識したカメラのブレ。観客を不安に落とし入れる音楽。観客を限定するのは当然で、会場は割と閑散としていた。平常時ならいざ知らす、徹夜明けの身体に塚本映画は毒だった。突然襲ってくる眠気と戦いながらなんとかストーリーを追うのがやっとだった。もしかしたら途中で寝ていたのかもしれない。
 本木雅弘の善と悪の双子の演技は絶品。いつしかふたりの意識(外見も含めて)が交替してしまいどっちがどっちだかわからなくなるところがこの映画のテーマなのだろう。
 最初は気持ち悪かったりょうが終り頃には美しく見えるのだから不思議。

     ◇

1999/10/26

 「秘密」(キネカ大森)

 原作を読み終わってから、映画化するなら、ラストのドンデン返し(思い悩んだ末、これからは父と娘の関係になるという夫の決断に従い、巧妙なトリックで娘の意識がもどったかにふるまい、実は妻の意識のまま嫁にいく。その事実を結婚式当日に知った夫は立場上確かめることもできなく、花婿を前に娘と妻を同時に失ったことの深い悲しみで鳴咽してしまうという非常に残酷なエピローグ)はない方がいいのではないか、と書いた。妻と娘の意識が交互しながら、やがて妻の意識がなくなっていく、その二度目の別れをメインに、変則的な夫婦であったこと、それでも愛し合っていること、さまざまな思いがオーバーラップし、互いをいとおしみながらラストを迎えてもいいのではないかと。

 やはりこのエピローグははずさなかった。ここが原作の核たるものという一般的認識なのだろうか。
 ただ、映画化にあたって若干の修正がされている。原作では妻が最後まで嘘をつきとおして嫁に行くのに、映画では最後の娘からの挨拶のところで夫婦しか知らない儀式(?)をついやってしまい、ばれてしまう展開になる。とりあえずお互いの意志の疎通がなされ、これである程度心が休まるから不思議だ。(しかしこれをやると、娘の意識がもどり始めた頃の母と娘の手紙、ビデオレターのやりとり等の妻が夫に仕掛けたトリックに全く意味がなくなってしまうのですけどね。)
 若返った妻に対しての嫉妬心からストーカーもどきの行為を繰り返す夫の様を原作ではリアルに描いて不安を覚えたが、映画ではコミカルタッチにして観客の笑いを誘った。ここらへんの処理もうまいと思う。
 難を言えば(と言うかここが肝心なのだが)、中盤のバス転落事故を起こした運転手の息子と父娘たちたちとのエピソードはあまりにもはしょり過ぎで、嘘っぽい。だからエピローグのふたりの結婚があまりにも唐突な感じがしてしまうのだ。

 最後に流れるクレジットタイトルのバックに主人公家族のスナップ写真が写し出され、娘の徐々に成長していく姿も見られた。これを劇中でうまく活用できなかったのか残念でならない。
 つまり、この映画に抜けているのは夫婦あるいは親子が夫婦であり親子である関係を築いた歴史(時間)なのだ。
 原作では娘が小学4年生の頃から大学生になるまでの話なので、夫のお見合いの話だとか、夫婦生活(セックス)の問題だとか、妻に対する嫉妬、それゆえのストーカー行為等が切実に迫ってくる。それは二人の長い生活が続いていたからだと思う。
 映画は主演のヒロスエにあわせて高校3年生から大学生までのほんの短い期間しか描かず、歴史の積み重ね(子育て等)が感じらない。だから、娘(妻)とのセックスにとまどう夫の気持ちも画面からは伝わってこない。顔を隠してやろうとか、口でしてあげるとかの問題ではなく、娘を子どもとしてしか受け入れられない、18年間の歴史があるはずなのに。

 いろいろ文句を言いつつも、ファンでなくてもラストのヒロスエの表情がたまらなく素敵だった。それだけでこの映画を認めてしまおうと思える作品である。「Wの悲劇」のラストの薬師丸ひろ子を彷彿させる。何とも切ない気持ちが後を引き、竹内まりあの主題歌が余韻を倍加させる。

     ◇

1999/10/30

 「皆月」(テアトル新宿)

 確かにこの映画を観る動機は吉本多香美のヌードであり、ファックシーンであった。だが、それはあくまでも表向きの下心であり、本当のところ主人公・奥田英二演ずるダメ中年男にどれだけ感情移入できるかというのがポイントだった。

 この映画の脚本を担当した荒井晴彦には自身が監督した「身も心も」という作品がある。団塊の世代(全共闘世代)の男女4人の青春時代をひきづった愛憎物語で、だらしない男たちと性根のすわった女たちの対比が面白かった。いくつになっても出会った頃の気分そのままに友だちとつきあい、その精神と実際の年齢とのギャップに悩む姿は一世代下の僕にも十分共鳴できた。
「おれたち、もうすぐ50になるんだよな」と言う奥田の言葉の50を40に置き換えれば、当時それはそのまま僕自身のモノローグとなって、観終わった後、主題歌の「セクシー」(下田逸郎)のメロディとともに映画の切ない感触が胸のあたりをチクチクさせたのだった。
 「身も心も」でマザコン男を好演した奥田英二は本作では妻に逃げられたパソコンおたく男としてダメさぶりを発揮する。ソープ嬢役の吉本は体当たりでファックやレイプ、放尿シーン等に挑んでおり、ここまでやるのかと驚愕した。

 にもかかわらず僕の目をうばったのは逃げた妻の弟、奥田にとって義弟役のやくざを演じた北村一輝だった。まるでこの映画は彼のため作られた感じさえする。彼と姉の別れのシーンにオッサンとソープ嬢の純愛もかすんでしまった。
 実際、二人の純愛に共鳴することができなかった。お互いにひかれた理由を台詞では説明しているのだが、実感がわかないのである。




1999/08/07

 「シャロウ・グロウブ」(ビデオ)

 「トレイン・スポッティング」のダニーボイル監督&主演ユアン・マクレガーコンビのデビュー作だと知ってずっとビデオ屋で探していて、やっと見つけてきた。
 同居人3人組(女1人&男2人というのはやっぱり絵になる)の仲が大金によっておかしくなっていく様を個性的な映像で見せる。

     ◇

1999/08/26

 「砂の器」(TV)

 この映画を初めて観たのは高校1年の時だった。
 この時の併映作品のカップリングがよかった。「男はつらいよ 寅次郎子守唄」。確か十朱幸代がマドンナ、上條恒彦と最後に結ばれる話で、映画館で初めて観た寅さん映画だった。寅さんで笑い、砂の器で泣く。
 とにかく「砂の器」は泣ける映画だった。その後何度か映画館、TV、ビデオ等で再見しているが、いつも同じシーンで涙があふれてくる。
 後で原作を読んだが、映画の方ができがいいと思ったものだ。構成が素晴らしい。前半はスーパーインポーズを多用して事件の流れを追い、後半は捜査会議と犯人の少年時代の回想シーンを交互させる。少年時代を演じた子役の表情と芥川也寸志のテーマ音楽がシンクロして、相乗効果で観ている者の涙腺を緩ませるのである。
 久しぶりに観た今回、同じように泣いてしまったのであるが、あまりにもでき過ぎな展開が気になった。感動させようとするスタッフの意図も必要以上に感じた。
 当時、事件の舞台となった蒲田は全くの見知らぬ街であった。それが今では住居のある川口の次に会社のある所として非常に身近な存在になってしまった。蒲田がでてくると、そこがどこだか確認したくて、ブラウン管に顔を近づけたほどだ。
 公開当時、主演の一人森田健作がヘタクソだと淀川長治に批判されていて、僕は若者の代表って感じでいいではないかと日記に反論を書いた憶えがある。やはり見事にヘタだ。ミスキャスト。

 今回初めて気がついたのだが、刑事役の某俳優が「順風満帆」をジュンプウマンポと言っている。まわりのスタッフ、誰も気がつかなかったのか? 当人にとっても恥ずべきことだと思うのだけど。 

     ◇

1999/09/01

 「オースティン・パワーズ:デラックス」(丸の内プラゼール)

 前作の「オースティン・パワーズ」はまだ観ていない。にもかかわらず、やけに評判がいいんで映画サービスデーに友人に誘われ、さっそく観てきた。
 60年代のスパイ映画を当時の風俗、ファッションを含め、現代(90年代)の感覚から笑い飛ばそうという狙い、ギャグが下ネタの、たぶんに下品な内容、今風で言えば「おバカ」映画くらいの認識しかなく、笑えなかったどうしようと思っていたら杞憂だった。もう全編大爆笑だ。
 オープニングの「007」風のテーマ曲でニヤリ。続く「スターウォーズ」の字幕、タイトルバックの主人公が全裸でホテルを闊歩し、プールのシンクロナイズドスイミングに乱入するところで、完全に映画の世界に入り込んでしまった。
 敵役のDr.イーブルが最高。キャラクター自体コント55号時代の二郎さんを彷彿させ、「飛びます、飛びます」をいつ言いだすか、けっこう期待したりして……。扮する役者が何ともうまく、なんて人なんだろうと思ったら、主役であるマイク・マイヤーズの二役でした。全然知らなかった!  60年代をそれなりに知っている者としては60年代のファッション、歌の数々が懐かしく胸躍った。今見てもけっして古めかしくも、おかしくもない。サイケはエネルギュッシュだったなあ。それにオシャレだ。

 「I'll never fall in love agein 」(この曲を僕は初期の赤い鳥のレコードで知った)がバート・バカラックのオリジナルで聴けたのは幸せ。

     ◇

1999/09/26

 「マトリックス」(丸の内ピカデリー)

 最初はキアヌ・リーブス主演のSFアクションぐらいの認識しかなかったが、巷の評判がやけに高い。キアヌ・リーブスも「スピード」時のスリムな体型に戻っていることだし、これは観る価値あるってんで、昨日前売り買って、病院に行ってから丸の内ピカデリーに寄ったら、すでに立見の状態。
 しょうがないから今日2回目の上映に行ってきた。余裕をみて1時間前に行ったにもかかわらず、すでに行列ができていた。すごい人気である。

 仮想現実の世界を描いたSF小説は僕が知らないだけでけっこうあるのだろう。
 藤子不二雄の異色SF短編集にこんな話がある。妻子のいる平凡なサラリーマンが何となく自分の生活のうそ臭さが気になってしょうがない。まわりの人間たちは「気のせいさ」と笑い飛ばすのだが、その気分はますますひどくなって、ついには人殺しまで犯してしまう……。そこで男は仮想現実から現実世界ー核戦争によって破壊されてしまった地球があったであろう空間ーにひきもどされる。宇宙に残ったたったひとつの細胞から主人公を再生し、彼が不自由なく生活していけるよう仮想現実を与えたのは心やさしき宇宙人だったのだ。宇宙人は男の不信感を嘆き、去っていく。男はただ一人宇宙空間を寂しくさまようところでジ・エンド。
 現実が作られた仮想現実だと知った時の衝撃はたまらないものがあるに違いない。

 この映画は主人公ネロが1999年の仮想現実からモーフィアスに導かれ2200年代のコンピュータに支配された現実に引き戻されたところからドラマが始まるのであるが、この1999年の舞台が仮想現実というところがこの映画のミソだ。つまり何でもありの世界になってしまうのだからどんなSFX、アクションがでてこようが、観客は納得してしまう。個人的にはロードショー前から有名だった人物をワイヤーで吊って数十台(もっとか?)のカメラで360度撮ったシーンより、ヘリコプターがらみのアクションシーンに度肝を抜かれた。そのくせ現実世界でのイカの形をした敵の潜水艇と主人公が乗船する乗り物のチェイスシーンのSFXは完全に見慣れたもので何の感慨も起きやしない。
 そしてクライマックスの、時間までにネロが脱出できるかどうかハラハラドキドキのサスペンス。これぞ映画の醍醐味って感じ。
 ダイエットして痩せた短髪姿のキアヌ・リーブスはかっこいいけど、相手役・トリニティのキャリー=アン・モスの吹き替えなしのアクションに心奪われた。音楽もいい。

     ◇

1999/09/27

  「バウンド」(ビデオ)

 マフィアの情婦とレズの関係になった刑務所帰りの窃盗のプロ女が、共謀して情婦の男が預かったマフィアの大金を盗もうという話。まんまと大金を手に入れるが、男が予定どおりの行動をとらず、そこからドラマは二転三転。途中から話の展開が読めなくなり、緊迫したシーンの連続で、後半は画面から目が離せなくなった。クライマックスでは思わず声をあげてしまったほど。
 ほとんど室内で進行するドラマで、これだけ見る者を引っ張れるなんて、さすがウォシャウスキー兄弟監督。デビュー作からほとばしる才能が感じられる。
 「マトリックス」に通じるものもいくつか発見できた。ジェニファー・ティリー扮するコーキーはトリニティのプロトタイプか。アナログな旧式タイプの電話にも何か思い入れでもあるのだろうか。




1999/07/05

 「新幹線大爆破」(ビデオ)

 公開当時、国鉄に撮影協力を得られなかったということや日本の特撮で初めてシュノーケルカメラを使用したことで話題になった。同じ新幹線を扱ってやはり国鉄に協力を無視された同時期公開の「動脈列島」(東宝)より内容的に評論家に評価され、その後フランスで大ヒットした1975年の東映作品である。
 当時から観たいと思いつつ、結局今回初めてのビデオ鑑賞となった。

 「ウルトラQ 地底超特急西へ」と「スピード」を足したような内容で、時速80km以下に減速すると爆破する爆弾を新幹線にセット、乗客1,500名の身代金を奪おうとする犯人側、事故を回避しようと努力する国鉄側、犯人の検挙に奔走する警察側と、それぞれの話がきちんと描けていて、ストーリーそのものはとても面白かった。

 しかし演出のセンスを疑ってしまうところが何ヶ所もある。
 たとえば冒頭の犯人グループの一人、山本圭が夜間、北海道の夕張で機関車に爆弾をセットするシーン。バックには女性スキャットの甘い、なかなか印象的な曲が流れるのだが、これが画面にちっともあっていない。ここは音楽なしに第1の犯行を丹念に描写すべきではなかったか。
 それから国鉄側の人物紹介があって、新幹線操作システムの解説がナレーションで入るのだが、これも唐突な感じがする。台詞で説明できなかったのだろうか。
 音楽に統一感がない。その場その場に合わせて適当に作られている気がしてならない(1曲1曲は印象深いのに)。
 ズームイン、ズームアウトを多用するカメラワークも気になる。

 この映画、タイトルの新幹線が爆破されるかどうかのサスペンスより、主犯高倉健と警察とのやりとり、爆破回避後の逃亡劇の方がメインの物語なのであった。さすが健さん、どの映画でも同じ健さんだけど、存在感が違う。
 ラスト、追いつめられた高倉健が射殺されるシーンでストップモーションになって音楽が…当然冒頭のスキャットが流れるかと思いきや、これまでに聞いたことがない、そこだけに用意された音楽が使用されるのだ。やはりセンスがない。
 今、リメイクしたら面白いんじゃないかと思うのだが。

 豪華キャストの誰もがみんな若かった。そしてみんな熱い。暑苦しいほどだ。70年代の映画(TV映画を含む)の特徴と言えるかもしれない。

     ◇

1999/07/06

 「催眠」(キネカ大森)

 優待券を利用してキネカ大森で「催眠」を観る。
 監督・落合正幸の前作「パラサイト・イブ」は最低な出来だった。「パラサイト・イブ」は原作自体が傑作であり、とても映像的なので読んでいる最中も映画(映像)化についてあれこれ想像していた。葉月りおな主演で一気に興味をなくし、ビデオになっても手にとらなかった。TVで放映されて初めて観たのだが、小説のクライマックス前でエンディングをむかえてしまう作りに唖然としてしまった。売りである特撮(CG)も葉月のバーチャルヌード、疑似乳首のために使われたようでなんとも哀しい。

 ただ小説を先に読んでいなければどうだったかと最近思うようになった。先に小説を読んでしまうとどうしてもイメージを限定されてしまう。どんなにピュアな気持ちで望んでも原作と映画化作品を比較してしまうのだ。
 落合監督の第2弾は新進作家・松岡圭祐のサイコミステリの映画化である。今回は原作を読んでいないから、何の先入観もない。原作の良さを活かそうが殺そうが知ったことではない。要は映画として面白いかどうか、である。

 映画自体はホラー映画として最後までだれずに観られた。それなりに恐いし、物語に引き込まれた。
 しかし、全編にただようグロテスク趣味に辟易する。骨が飛び出し異様に折れ曲がった足、バックするトラックと壁に挟まれて砕かれる顔、釘に打ち抜かれた額、ピストルの弾が貫通する頭、そのものずばりを特殊メイクで再現させる。何とも趣味が悪い。
 ホラーっぽいサイコミステリという認識でこの映画を観たので何の解決もされないラストはどうかと思うし、あまりにも後味が悪い。
 オープニングタイトルも最近のTVドラマのそれが凝った作りで眼を見張るものが多いというのに、いつの時代?と思わせるほどのダサさなのである。TV出身の監督でしょうに。

 それから、これは意識してだと思うが、背景から日本的なものを排除している。屋内、屋外、すべてにおいて欧米風。街の風景も、ロケは都内なんだろうが、全く東京を感じさせない切り取り方。看板までなるべく日本語を使わせない。
 洋画しか観ない若い観客への配慮なのだろうか。それとも単なる監督の趣味か。

     ◇

1999/07/07

 「あの、夏の日 とんでろじいちゃん」(丸の内シャンデリア)

 久しぶりの大林映画だ。尾道3部作以降、いくつかの作品を観て、大林映画は卒業だと思っていた。
 新尾道3部作も別に興味はなかったのだが、この最終作「あの、夏の日…」は某サイトの映画批評で絶賛されていて、原作が山中恒ということもあって劇場まで足を運んだ。
 相変わらずの大林調で懐かしいやら、うんざりするやら。映像以外でやたら饒舌なのが気になった(尾道市市制100周年に対する監督の言葉とか、病魔と戦う少年(少女だったか?)への励ましの言葉とか)が、物語自体はよくできていた。
 冒頭から快調な語り口。小学生の一夏の冒険、異文化との出会い、年上の少女へのほのかな想い……。これはまさしく「ぼくがぼくであること」ではないか。
 小林桂樹と菅井きんがうまい。
 病床のじいちゃんと少年との会話、特にじいちゃんの孫へ生きることに対する喜びを伝える言葉に目頭が熱くなった。これまで反感ばかり覚えた松田美由紀もお母さん役がぴったりはまって好印象。

     ◇

1999/07/14

 「スターウォーズ エピソード1 ファントムメナス」(日本劇場)

 ついに観たぞ!スターウォーズ最新作。1作目が日本で公開されてから21年目に新シリーズが観られるなんて思っていなかった。まさしくサーガ。
 アメリカ公開直後の批評が賛否両論なんで、少々心配だったが全くの杞憂だった。
 一番うれしかったのは海底王国が登場したこと。SWでは砂漠、「帝国の逆襲」では氷の惑星、「ジェダイの復讐」ではジャングルや森の惑星が舞台になっていたから、次のシリーズでは水や炎の惑星が描かれるにちがいないと勝手に想像していたのだ。

 この20年の技術の進化はすさまじい。主要キャラクターの一人がCGで描かれているのには驚きだ。全編目を見張る映像の連続ではあるが、哀しいかな、前シリーズの時のような「この絵はどうやって撮影したのだろう」というドキドキ感、わくわく感はなかった。すべて「CG、デジタル合成」の合い言葉で納得してしまうのだ。本作の賛否両論ってたぶんにこんなところにあるのではないだろうか。
 ポッドレースは「ジェダイの復讐」のスピーダバイクに優るとも劣らない血沸き肉踊るシークエンスだ。

 アナキンと母親との別れ、その時母親が言う「運命は変えられない。夕陽を止められないように」は「帝国の逆襲」ハン・ソロとオーガナ姫の「Ilove you」「I know」に次ぐ名台詞。

     ◇

1999/07/12

 「ケイゾク」(ビデオ)

 現在のTV界ではテレビ映画というジャンルが確実に消滅している。
 80年代の後期、フィルムからビデオに変換する方式がテレシネからFtoT方式になって画像が飛躍的に鮮明になった。フィルムのような暗さはなく、かと言ってビデオの、美しいけれど、どことなく画像が薄っぺいというものでもない。そんな新しい映像で90年代はテレビ映画が生き残っていくのかと思われた。が、VTR機材すべての機能の向上で、あっというまにFtoT方式のドラマが ビデオに取って代わってしまったのだった。

 今、フィルム撮影によるドラマは一部の子供向け特撮番組と時代劇しかない。「水戸黄門」がビデオになった時は驚いたものだ。
 それに関係しているのかどうか、70年代の、たとえば「傷だらけの天使」「探偵物語」、「大都会」シリーズみたいなアクション系の番組がまったく作られなくなってしまった。
 しょせんビデオはビデオでしかない。フィルム特有の陰影のある映像、手持ち撮影による16mmカメラのブレ感覚等々VTRでは表現することができないのだろう、とあきらめていた。
 ところが最近ビデオであの表現をしようと試みているドラマがみられる。その発祥は日本テレビの「金田一少年の事件簿」から始まった一連の劇画原作のドラマだ。この劇画シリーズ(?)にフジの「踊る大捜査線」のテイストを加え、ミステリ仕立てにしたのがこの冬に放映された「ケイゾク」だと思う。

 描かれる事件の設定は稚拙だが、何より中谷美紀と渡辺篤郎演ずる柴田&真山のキャラクターが出色である。
 中谷美紀は鶴田真由の後釜として日石のCFで登場したとき、長い髪と整った美顔、箒を使ったダンスが印象的だった。しばらくは本当に鶴田真由の二番煎じみたいな感じでCFで活躍していたが、女優として確固たるイメージを作りたかったのか、出演するドラマ、映画で濡れ場のシーンが多かったような気がする。そんな彼女が痛々しかったが、「ケイゾク」で一皮むけたと思う。
 渡辺篤郎はヒロインが柴田純という名前からか、ちょっと「大都会パート2」の松田優作を意識したようなツッコミ役を楽しそうに演じていた。
 二人のボケ&ツッコミも愉快だが、捜査過程におけるレギュラー陣の会話がむちゃくちゃおかしい。
 フィルムの陰影を思わせる映像にも酔える。捜査二課の蛍光灯の青を基調とした色彩設計は村川透+松田優作コンビの「遊戯」シリーズを彷彿させる(撮影:仙元誠三)。最終回の銃撃戦ではビデオでもアクションが撮れるのかと驚愕したものだ。

 映画化に期待したい。




1999/06/22

 「39 刑法三十九条」 (新宿ピカデリー)

 こちらが映画に対してイメージしていたものををいい意味で裏切られた。
 ヒロイン香深(カフカ!)役の鈴木京香が少々神経を病んでいる女性で、彼女のまわりの人たち(師匠である大学教授、母親)もどこか変であるところが、いかにも現代を反映していると見た。
 正義感ぶるでなく、何事においても自信のない素振り。精神異常者と精神鑑定者は紙一重であると納得がいくのである。

 健常者が刑法39条を逆手にとって精神異常を偽り無罪を勝ち取ろうとする話は昔松本清張の短編で読んだことがある。小説の主人公は警察側の策略にひっかかり最後の最後で敗れてしまうのだが、この映画も基本プロットは同じだ。決定的に違うのは、この映画では刑法39条の存在意義そのものを問うていることだろう。

 一人の精神異常者に妹を惨殺された男。精神異常者は罪に問われることなく、精神科を退院した後、一般人として、結婚して幸せな家庭を築いている。男の方は妹を殺された悲しみとその原因を作った罪の意識を恋人と共有し、かつての犯罪者への復讐とその完全犯罪にかりたてるのだ。

 法廷シーンの合間に挿入されるすべての原因となった事件の回想シーン。少女の惨殺遺体の全身が映し出されていてショックだった。「トレインスポッティング」の赤ちゃんの死体同様、これまでの常識として観客に暗示させるだけだった死体をリアルに描写することも現代を象徴しているのか。

 事件の真相を回想という形で観客にわからせてしまったのはどうしてだろうか。あれは劇中の進行同様にドンデン返しにした方がサイコミステリとしてインパクトが大きかったように感じる。真相が解明され、ラストに淡淡と回想シーンが流れてもよかったのでは?

 堤真一の二重人格者ぶり、その演技力に圧倒された。役者冥利につきるだろう。その他出演者たちも熱演とは正反対の演技ぶりで好感が持てた。




1998/05/07

 「トキワ荘の青春」(ビデオ)

 市川準監督の「トキワ荘の青春」がテアトル新宿で単館ロードショーされたとき、ぜがひでも観たいと思った。
 僕のマンガ人生は石森章太郎、藤子不二雄、赤塚不二夫といったトキワ荘出身の漫画家たちの作品から始まった。そんな彼ら、若き漫画家たちの梁山泊となったトキワ荘の伝説は彼らの自伝的マンガや書籍等で子どものころから親しんできた。
 何しろトキワ荘関係の書籍を収集するのが趣味の一つなのだ。
 藤子不二雄の「まんが道」がNHKで連続ドラマ化され、評判を呼んだ際、トキワ荘の物語を映画にできないものか、と夢想したりした。
 だから市川監督が「トキワ荘の青春」を撮ると知ったとき、かなり期待した。
 忙しさにかまけて劇場に足を運ばず、ビデオになってもなかなか借りようとしなかった怠惰な自分が恥ずかしい。
 「トキワ荘の青春」は青春映画の傑作だった。
 これはビデオなんかではなくて映画館の暗闇の中で静かにじっくりと鑑賞すべき作品である。

 いわゆる演技というものをことごとく排除し、ドラマチックな展開を拒否した演出と透明感あふれるドキュメントタッチのカメラワークがうまくマッチしていた。
 前半はトキワ荘に集まってきた漫画家志望の若者たちの生活をスケッチ風に積み重ねていく。
 ところどころに挿入される当時の写真が効果的で、昭和30年代初期の東京を鮮やかに描きだされていた。
 プロの漫画家になろうと切磋琢磨する若者たちの群像ドラマとして、マンガに詳しくない観客でも充分楽しめるが、若かりしころの彼らをまがりなりにも(写真等で)知っていると、役者たちが本当によく似ていることに驚く。
 つのだじろう、我孫子素雄、藤本弘なんてまさにそのまんまって感じ。
 主役の本木雅弘(寺田ヒロオ役)以外は一般的にはほとんど無名の役者たちだが、赤塚不二夫役の大森嘉之、森安直哉役の古田新太が光る。
 後半はこの二人がクローズアップされ、漫画家として成功する者、挫折するものの明暗を好演していた。
 編集者役のきたろうが実にいい味だしている。
 
 自分の理想とするマンガを描けない現状への怒り、悲しみを仲間たちと相撲をとりながら、何気なく涙をぬぐう寺田のしぐさに感じて目頭が熱くなった。

     ◇

1998/06/16

 「レインメーカー」(銀座ガスホール 試写会)

 ジョン・グリシャムの小説は出版するたびに次々と映画化され、その都度話題になっているものの、映画自体の一般的評価はそれほどのものでもないという気がする。
 「ザ・ファーム/法律事務所」はトム・クルーズ、「ペリカン文書」はジュリア・ロバーツという人気スターを起用してそれなりに評判を呼んだけれど、内容はというと原作のダイジェスト版といった感じだったのではないだろうか。(「法律事務所/ザ・ファーム」については映画も観ていないし原作もまだ読んでいないので何とも言えないが「ペリカン文書」は圧倒的に原作の方が面白かった)
 第3弾として公開された「依頼人」は「グリシャムの映画化作品の中で一番の出来」と前評判も高かったことからすごく期待して観に行ったらそれほどのものでもなかった(まあ、水準作といったところか)。
 そんなわけですでに原作を読んでいた「評決のとき」は全く観る気もしなかった。

 さて、最新作の「レインメーカー」はあのコッポラの監督作である。主演は新鋭マット・デイモン、共演がジョン・ボイド、ダニー・デビード、ロイ・シェイダーと豪華な顔ぶれで、しかも法廷ドラマだという。
 これはもう面白さは保証されたようなもの、胸ワクワクで観たのだが、また肩すかしをくったようだ。
 主人公である弁護士の卵が簡単に法律事務所に就職したり、資格を取得したりとあっけないオープニングで興をそいだ。悪徳弁護士のボスと純粋な主人公との間に仕事を進めていく上で何か葛藤でもあるのかと思ったらそれもない。
 一番期待していた法廷場面でも、息詰まるような、あるいはあっというような展開は見られなかった。
 何より不思議だったのは主人公が暴力亭主から依頼人の奥さんを救おうとして、逆に亭主をバットで殴り倒してしまうところ。結局奥さんが殺してしまい逮捕されて不起訴になるけれど、直接の原因をつくったにもかかわらす、その場から逃避し、奥さんに罪をかぶってもらったのに、主人公にそれに対する後悔とか動揺がないことだった。
 マット・デイモンのうぶな新米弁護士ははまり役で、相棒のダニーはうまいし、ミッキー・ロークの悪徳弁護士ぶりをもっと見たいと思わせるのに、全体の印象としてはまあまあといったところか。
 音楽の良さが特筆できる。

     ◇

1998/07/01

 「ディープ・インパクト」(丸の内ルーブル)

 この映画の予告編を初めて見た時、藤子・F・不二雄の短編マンガ(確かタイトルは「方舟はいっぱい」だったと思う)を思い出した。
 彗星の衝突(実際にはかする程度なのだが)、予測される地球規模の大災害、政府が秘密裏に推進するノアの方舟政策、TVキャスターによるスクープ、その暴露、避難できる国民の選出、選に漏れた者たちの嘆き、苦悩。暴動、混乱等々、藤子のマンガはその後の大惨事を暗示するところで終わるのだが、「ディープ・インパクト」はその後の大災害(大津波による首都崩壊)のSFXがウリである。
 ミミ・レダー監督は一見その作風に女性を感じさせない。前作「ピースメーカー」はアクション巨編、今回はSFパニック、何も知らなければ、ストーリー、映像ともに、その印象は堂々たる男性ベテラン監督の仕事ぶりではないか。
 しかし本編を観れば、ある部分で女性らしい情感を見せつけてくれる。
 前作は敵役のアメリカ合衆国に対する復讐する動機に女性の視点を感じ、そこが新鮮だったのであるが、今回はクライマックスである大津波襲来前のヒロインと父親の和解するシークエンスにそれを見た。
 ミミ・レダー監督の演出力は「ER」で一目瞭然ではあるがとにかく生半可のものではない(さすがスピルバーグに見込まれただけのことはある)。
 前半のメサイヤによる彗星爆破シーンのサスペンスは息がつけないほど興奮した。
 藤子マンガの印象からあくまでも秘密裏にノアの方舟政策を進めようとする政府と、それを阻止し、国民に真実を発表しようとするTV局との丁々発止のやりとりを描くサスペンスタッチの物語だと勝手に考えていたら、全然違った。
 モーガン・フリーマン扮する大統領は堂々と職務をこなす人物であった。
 「ID4」に続き、この映画でも自己犠牲による地球救助が描かれる。こういう展開って昔は日本の専売特許だったのに、アメリカ人の好みが変わってきたのだろうか。
 核弾頭による彗星爆破だけど、地球への放射能汚染の心配はないのだろうか?




1998/03/13

 「ブラス!」(シネ・ラ・セット)

 単館ロードショーながら静かな人気を呼んでいるイギリス映画。
 なるほど平日だというのに僕らが観た2回目の上映後ロビーでは次のお客さんが多数列を作っていた。派手な宣伝はしていないのだから、口コミによる人気だろう。
 日頃、アメリカ・ハリウッド製の映画に慣れ親しんでいる身としては映像のタッチ、カメラワーク、台詞(イギリス英語)にちょっとした違和感を覚えた。しかしこれも映画なのである。スター主演の大作映画だけが映画じゃない。小ぶりのしみじみする映画を暗闇で観るのもまたおつなものである。

 主演のピート・ポスルスウェイトの役者ぶりを堪能した。「ユージュアル・サスペクツ」のミスターコバヤシ役では全身から醸し出す異様な雰囲気に圧倒された。最初に登場した時は「何者だ、こいつ!」とばかり、この人の顔だけが印象に残った。
 「ロストワールド ジュラシックパーク」の恐竜狩りに命をかけるハンター役では、ティラノザウルスレックスを目の前にしても少しも動揺せずにライフルをかまえる、プロフェッショナルな猛者ぶりを好演していた。
 そして今回のブラスバンドの指揮者役。同じ容姿なのにこの映画では毎日音楽のことしか考えないちょっと無骨な親父に見えるのだから不思議。まさに役者!

 ストーリーはこの指揮者と市民ブラスバンドに中途から入ってくる紅一点の女性(実は石炭会社側の人間)とバンドの若い男性(二枚目)との恋を中心に展開するのかと思っていた。
 実際は指揮者の息子が真の主人公ともいえる存在で、彼の家族の崩壊、生活をとるか音楽をとるかの苦悩、他のメンバーと指揮者の仲介等々の悪戦苦闘ぶりが切実に描かれていた。
 失業するかどうかでバンドのメンバーが練習もままならない状態のまま強豪が多数集まるコンクールで優勝してしまうのはどうかと思うけど、まあいいや。
 夜、ピートが入院する病院の庭でバンドの連中が最後の演奏をするシーン、ラスト、ロンドンから帰るバスの中で皆で演奏するシーンが涙を誘った。
  
     ◇
 
1998/05/05

 「スターシップトゥルーパーズ」(日比谷映画)

 「週刊文春」の映画評でこの映画を取り上げていた。一部の人以外は黒星(観たら損するぞ)をつけていて、白星二つ(観る価値あり)をつけている人でさえ、その好戦的内容に文句をつけていた。実に評判が悪いのである。
 原作であるハイラインの「宇宙の英雄」も発表当時は全体主義だと批判されたという。

 まあ、ストーリー云々よりフィル・ティペット指揮するところの昆虫軍団の特撮がお目当てで観に行ったわけだが、地球連邦軍と昆虫軍団の戦いの残酷描写はすごい。腕や足が吹き飛ばされるのは当たり前、首はちょん切られるわ、頭がかちわられて脳髄は飛び出るわ、そのものずばりをなんの容赦もなく劇画調に描きだす。敵の昆虫も連邦軍のマシンガン攻撃でぐじゃぐじゃになる。スプラッター嫌い、昆虫嫌いの女性にはたまったもんじゃないだろう。(にもかかわらず親子連れやカップルで観に来る連中の神経はどうなっているの?)
 でも連邦軍を米軍に、敵の昆虫軍団をベトコンにしたらどうなるのか? かつてのアメリカの愚行をSF仕立てにしてリアルに描写しただけではないか。
 内容は確かに軍事力賛美である。地球連邦軍の正当性をアピールするTVニュースを随所に挿入して(まさしく「ロボコップ」のノリ)、主人公の若者たちが軍のトップとして活躍しだすまでを描いていてはいるが、それをそのまま素直には受け取れない。
 ポール・バーホーベン監督はそんな世界を戯画化してシニカルに見つめているように思う。
 内容は好戦、気分は厭戦・・・だ。

     ◇

 「エイリアン4」(日劇プラザ)

 封印した映画というのがある。
 僕が勝手にそう思っているだけで他人に強制はしないけれど、『エイリアン3』がまさしくそれで、僕の記憶には「エイリアン3」という映画は存在しない。
 「エイリアン2」はすごい映画だった。前作のストーリー展開を踏襲しながら、テイストの全く違う内容(ゴシックホラー→スペクタクルアクション)にしただけでなく、母性愛を全面的押し出したテーマがストーリーに合致し、何より観る者に安堵と静寂の余韻を与えたハッピーエンドが単なるSF映画を後世に残る感動作にしたのだった。
 にもかかわらずその続編である「エイリアン3」は前作の感動をあっさりと否定しまったのである。
 リプリーが命懸けで守った少女をいとも簡単に冒頭で殺してしまったのだ。エイリアンファンへの冒涜である。
 「2」のラストで地球への帰還の途に就いた少女、ロボット、そして傷ついた兵士は絶対に地球にもどさなければならなかったと今でも信じている。
 一度帰還した後、リプリーが新たな旅にでて「エイリアン3」の物語が始まったとして何らおかしくはない。
 3人を殺してしまったスタッフの真意がどこにあったのか理解に苦しむ。

 さて、「エイリアン4」はタッチが「エイリアン」に似ていてラストも希望にあふれたもので安心した。
 リプリーのクローニングに失敗した実験物がずらっと並んでいるところが一番の衝撃だった。
 エイリアン研究に挑む人間の愚かさをイヤというほど見せつけてくれた。




 「22年目の告白 ~私が殺人犯です~」はとても面白かったが、ぜったいありえない話だと書いた。それよりもっとありえないのが「フェース/オフ」だ。ニコラス・ケイジとジョン・トラボルタ。全然違う体型ですからねぇ、いくら顔をすげ替えてもすぐわかるってもんだ。

     ◇

1998/03/03

 「フェース/オフ」(丸の内ルーブル)

 最初この映画のプロット(顔の交換で善と悪が入れ替わる)を知ったとき、役者冥利につきるストーリーだと思った。
 主役と敵役が演じられるのである。二人の役者が同じ役をやるわけだから、お互いの演技力が評価される危険もあるが(だからこそ役者冥利なのだ)。

 もとは遠い未来を舞台にしたものだったという。ジョン・ウー監督がメガホンをとるにあたって、現代の話に変えた。
 その違和感が顔の移植手術とハイテク技術で管理された刑務所に残ったきらいがある。
 この映画を楽しめるかどうかは顔の移植をすんなり受け入れられるかどうかで決まると思う。未来だったらありえるかもしれないと軽く流してしまうこの部分に対して、現代の話になるといろいろと批判したくなる。(ヘアスタイル、体格の問題等。ジョン・トラボルタ扮するFBI捜査官が任務のため、ニコラス・ケイジの悪人に変身する際、そこらへんの問題は台詞でクリアされているが、その逆はどうも納得いかない。)
 とはいうものの、その後の展開はグーの音もでない。まいった。展開もアクションも文句ない。見せ場が何度でてくることか。緊張の連続である。
 テレビ朝日の某アナウンサーが涙がでてきたというスローモーションの殺戮シーンは「オーバー・ザ・レインボー」の歌声とあいまっておとぎ話のような夢の空間を作り出した。涙はでないがうっとりはした。
 「レザボアドックス」のクライマックスをいただいた二重三重(四重、いや五重か)のピストルによる対峙に快哉。敵の(というか真の主人公にとっては味方の)元愛人の犠牲によって、このピンチを脱出するが、死に際の愛人の言葉がせつない。
「子どもの面倒をみて。悪の道に走らせないで」
 小さい子どもがからんでくるとどうも涙腺がゆるくなる。
 次々とアクションが展開され息つく暇がない。モーターボートのチェイスシーンは「スピード2」をはるかに超えていた。
 ちんぴら風情が似合うトラボルタがなぜ善人役なの?という疑問が映画を観れば氷解する。彼こそ悪人なのだ。
 観終わって言いしれぬ感情が全身を包んだ。アクション映画特有のカタルシスだけでない何かだ。



 だめだ、ダメだ、全然ブログが更新できない。
 前項なんて何日かかって書き上げたか。
 反省。
 なんとか体制を立て直さなければ!

          * * *

 先日(先週か)、テレビ東京「午後のロードショー」で「メン・イン・ブラック」が放映された。BC二十世紀におけると学会イベントを紹介した際、話題にした映画だ。
 劇場で観たのは19年前になる。今はなき新宿ミラノ座で。

     ◇

1998/02/02

 「メン・イン・ブラック」(新宿ミラノ座)

 地球には数多くのエイリアンがすでに滞在していて、それを秘密裏に管理する団体がある。その中の不法侵入・不法滞在するエイリアンを取り締まる男たちふたりの活躍を描いた映画である。
 なんてかっこつける必要はないか。
 大いなるホラ話、バカ話なのだ。巨大バッタ出現!とか手のひらに乗るミニクジラとか、いかにも嘘っぽい写真とともに紹介する海外の大衆紙(日本でも「ムー」などが転載・特集本なども発売)のいかがわしい世界を一流のSFXで表現したといえようか。
 実際映画の中でエイリアンの情報源が街の露店で売っている大衆新聞紙だというエピソードがあり笑ってしまう。

 夜、村中を飛行するトンボの目線でカメラが縦横無尽に動く冒頭のクレジットバック、とある農家の一軒家の向こう側の夜空に流れる小さな流星、それがだんだんとこちら側に接近してきて巨大な火の玉になったかと思うと庭先に駐車していた自家用車に衝突するシーンが印象的だった。
 しかしその他の驚異的なSFXシーンはもう感覚が鈍感になってしまって何も感じない。「CGじゃん、デジタル合成じゃん」と思えばすべてが納得できるのだ。
 このカットはどうやって撮影したのだろうといろいろ想像できた一昔前の特撮映画がなつかしい。  




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top