早朝の品出しのアルバイトを始めてから、目覚まし時計を買った。100円ショップで、だが。
 それまでは携帯(いまだにガラケーを使っている)のアラーム機能を利用していた。5時、5時30分、6時にアラームが鳴るようセットしている。カフェの仕事は10時30分からだから家を8時30分に出れば十分間に合う。早く起きて朝風呂に入って、朝食を作って、TV見ながら食べてと、とてもゆったりとした時間の流れを愉しんでいた。

 早朝品出しは6時30分から9時30分までの3時間の業務。
 15分前までに出勤するとなると、家を5時に出なければならない。目覚ましは4時15分にセットしている。携帯アラームと目覚まし時計の二段構えだから、寝過ごすということはない……

 ……はずなのだが、たまに目覚まし時計のセットを忘れることがある。携帯アラームだけだと目が覚めない、ことが多い。
 この前なんて、目が覚めて、時間を確認すると5時だった。あせった。あわてた。急いで5分で歯磨きと着替えをすませ家を出て駅まで走った。徒歩20分の距離だからかなり身体にこたえる。

 一昨昨日はきちんと5時少し前に家を出た。
 産業道路沿いの歩道を道路を左に見ながら歩いていた。交差点。信号が青なのでそのまま歩いていると、目の前を自転車に乗った女性が右から左へ通り過ぎた。こちらの進行方向の信号が青ということは、女性は信号無視して交差点をわたったということ。でも、まあ、クルマも少ないし、僕自身よくやることなので気にもとめなかった。
 左側からクルマの急ブレーキ音が聞こえた。直後、鈍いドンという衝撃音。左を見ると、目の前を通り過ぎた女性(の自転車)と乗用車がぶつかって、女性が自転車から滑り落ちたところだった。
 ただ、衝突というより、クルマが自転車をひっかけたという感じで、大した事故じゃないとそのまま駅に向うつもりでいた。この時間、電車を1本乗り過ごすと、次までかなり時間を要するのだ。

 ところが地面に倒れた女性がなかなか起き上がろうとしない。
 心配になった。
 駆け寄って、倒れている女性に声をかけた。
「大丈夫ですか?」
 返事はない。
 運転手はなにやっているだ? 中を見ると、倒れたところは運転手側のドア前だから、運転手はドアを開けられない。
 もう一度女性に声をかける。意識はあるようだ。
 ここは道路の真ん中であぶないから脇へ行きましょうと手を差し伸べると、女性が立ち上がった。
 そのときわかった。かなり酔っぱらっている。
 立ち上がって、女性の怪我の状況を理解した。左の手のひらに擦り傷と口の中を切っている。
「口、やばくね、歯欠けてるし」
 女性が口を開ける。確かに前歯の先がほんの少しない。血も流れている。
ただし、思ったとおりそれほどの怪我ではない。それよりも、やばくねイントネーションだ。まさかこんな状況で聞くとは思わなかった。脱力した。
 ドアをあけて出てきた運転手に女性が同様に自分の怪我を訴える。運転手はスマホを取り出して電話する。救急車を呼んだ。
 少し離れて相手に事故現場がどこか説明している。女性は口の中の怪我を気にしていてこちらに同意を求めてくる。
 運転手の電話が長い。
「女性は日本人じゃないんですよ」
 そんな声が聞こえてきて、あわてた。違う、違う、日本人ですよ! 僕は叫びたかった。確かに、ちょっと見日本人じゃないみたいな感じがするけれど。
 案の定、女性が「日本人じゃない」発言にくってかかった。
「あたしは日本人だよ!」
 電話は続く。
「もういいよ、あたし帰るわ」
 そういうわけにはいかないのよ。そうだ、警察に連絡しなきゃ。携帯をとりだして110番へ。出た。事故の説明をすると、女性の年齢を訊かれた。
 困った。下手に見た目の年齢を口にしたら、また怒りの鉄拳がとんでくるかもしれない。「あたし、そんなに歳とってないわよ!」なんて。
「年齢ですか?」
 目の前の女性と目が合う。
「44よ」
 女性が言う。
 助かった! そのまま伝える。
 続いて場所の確認だ。
 今なら要領よく説明できる。西川口駅から新オートレース通りと産業道路の交差点がありますよね。そこから一つ蕨寄りの信号のところです。
 実際は、川口警察の前の道を大宮方面100mほどいったところの信号、とでも答えたのか。相手はわからない。住所を確認してきた。わかるわけない。並木、何丁目か。「何か目印は?」と訊くから直ぐ近くに松屋があると言ってもわからない。
 救急車が来た。降りてきた人に携帯を渡し、説明してもらうことにした。
 かなりの長電話だ。料金いくらかかるのか……。

 しばらくしてパトカーがやってきた。
 警官が降りてくる。3人だったか。一人は救急車の中の女性のところへ。もう一人が運転手に事情を訊く。そのあとが僕とのことで、「待っていてもらえますか? 仕事は大丈夫ですか?」と訊くので、仕方ないですよねと答えた。
 職場に電話して理由を話して1時間ほど遅れるからと伝える。

 実際は30分の遅刻ですんだ。
 早朝品出しの仕事を終えて店に出勤。当日のパートナー、K嬢(うちの娘と同い歳)に事の顛末を語ると、彼女がこう言った。
「44歳ですか! だったら新しい出会いになるんじゃないですか?」
 そうか、そういう考えもあるのか。
 女性の態度、声を反芻する。「やばくね?」
「120%ない!」
 躊躇なく答えた。




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 サラリーマン時代、お昼はいつもお弁当だった。業者が配達してくれるお弁当を事前に予約しておく制度があった。1食250円。実際はもう少し高いのだが、会社が補助してくれてこの価格。これは助かった。外に出るのが面倒だったということもあるが、少しでも時間を節約し、読書にあてた。
 補助がなくなってからは外食するようになったのだが。
 退職するまでの4年間は親会社へ出向していて、このときは近くのコンビニでお弁当を買っていた。
 とにかく、昼食=読書の時間なのである。

 BC二十世紀で働きだしたころ、当初試用期間として土日のみ出勤していて(平日は会社、週末は神保町と休みがなかった!)数軒隣の吉野家で豚丼ばかり食べていた。そのうち、店のカレーを従業員価格で食べるようになって今にいたっている。
 スパイシーポークカレー、スパイシーシーフードカレー(共にサラダ付きで販売価格600円)、キーマ&ビーンズカレー(サラダ付きで700円)。これをその日の気分で作るのだが、1年間毎日カレーだと飽きてきた。店以外でカレーを食べようという気分になれなくなって久しい。

 今年になってからイベント(のメニュー)に静岡おでんを加えるようになった。オーナーが静岡出身だからなのだが、これが実においしい。静岡おでんというと、黒い汁と黒ハンペンが特色で、この黒い汁が見た目と違って、実にあっさりしていてうまいのだ。
 おでんが残ると翌日のお昼ごはんになる。具がなくなると汁は捨てていた。先日、残った汁がもったいないので、ご飯にかけてみたらイケた。

 で、この汁を使って炒飯ができないかと考えた。
 作った。
 野菜は、ピザトースト用の玉ねぎ、ピーマンをみじん切りに。それからポークカレーのポークを少々。塩コショウで味を整えて出来上がり。これがうまいのなんのって!
 次は、もやし炒めライス。もやしとニラは買ってきて、イベントメニューで残っていたハムを使った。味付けはしょうゆと塩コショウで。
 う、うまい!

 オレって賄い料理の天才じゃないか?!
 誰も言ってくれないいから自分で宣言するしかないのだけれど。

makanai1
静岡おでん汁炒飯

makanai2
もやし炒めライス




 先週、イベントが2日続けてあった。その関係で帰宅が遅くなった。
 そのほか、個人的に落ち込んだり、ふさぎ込みたくなりこともあって、その発散のため、ひとりカラオケに精出すことになる。先週は3日連続で歌広場のお世話になった。

 今週も一昨日、昨日と歌広場へ。
 新しい職場になって、サラリーマン時代と違い、毎日がとても楽しくなったのは確かだ。とはいえ、仕事だからまあいろいろある。その憂さを晴らすのがひとりカラオケだ。
 精神的におかしくなり、土日引きこもりになってからというもの、完全にカラオケから足が遠ざかっていたのだが、昨年あたりから一人で帰宅前に立ち寄るようになった。
 駅前の歌広場、きっかり1時間。ソフトドリンクのドリンクバーで、660円。無駄な時間を使いたくないから、前奏で、間奏で入力作業。歌い終わると、すぐの演奏停止。そこらへんの操作がうまくなった。

 約束の十二月
 そして僕は途方に暮れる
 六本木心中
 ベリーベリーストロング ~アイネクライネ
 ああ無情
 かんかん照り
 傘がない
 氷の世界
 桜三月散歩道
 ダンスはうまく踊れない
 ひらひら
 狼のブルース
 僕の唄はサヨナラだけ
 ジュリアに傷心
 ほおずき
 檸檬
 飛梅
 雨上がりの夜空に
 自由に歩いて愛して
 愚か者よ
 54日間待ちぼうけ
 ホテルカリフォルニア
 雨音はショパンの調べ
 ケンとメリー
 私は風

 こんな歌をとっかえひっかえしてうたっている。




 かまやつひろしはいつからムッシュかまやつになったのだろうか。
 それまで、ムッシュは愛称だったはず。それがいつのまにかムッシュかまやつと呼ばれるようになり、表記もそうなってしまった。
 〈日本ロック界のレジェンド〉という枕詞も、どうにも違和感がある。いや、ロカビリー時代からミュージシャンやっていたのだから、レジェンドであることは確かなのだが、この言葉、かまやつひろしが元気だったころからメディアで使われていたのだろうか?
 僕自身は記憶にない。にもかかわらず、訃報記事(ニュース)を書くにあたって、皆が当たり前のように連発するから、反撥したくなるのだ。

 個人的に、スパイダースは、タイガース、テンプターズに続く第3のグループだった。かまやつひろし自身も、堺正章、井上順に続く第3の男。あくまでも個人的なイメージだが(今なら、トップは井上堯之さんになる)。
 飄々と音楽界(芸能界)を生きてきたような気がする。ジャンルを区分でなく、言葉は悪いが節操なく、あっちこっち行って楽しんでいるような。
 最大のヒット曲「わが良き友よ」は吉田拓郎の作で、あのころはロックからフォークに浮気していた。

 スパイダースはメンバー7人のうち、6人が芸能界で活躍している。GSグループの中でもTVの特別番組等で、全員ではないもののメンバーが集まる機会が多かった。堺正章、井上順とかまやつひろしが絡むとむちゃくちゃ愉快で楽しかった。いい曲、たくさんあったんだよなぁ。最初に注目したのは、メンバーの中で作詞作曲できるということだったことを今思い出した。
 何年か前、TOKYO MXの夏木マリの番組にゲスト出演したのが(僕が)元気な姿を見る最後だった。

 78歳。がん闘病の記事を読んで、いつかはと予想していたが、いざ訃報にふれると悲しくて仕方ない。

 合掌




 収入確保のため、もう一つ仕事をすることにした。早朝品出し。神保町で見つけた。
 以前、某スポーツ店で同様の仕事があって、面接した結果が不合格。たぶん髭が原因だろうと今回はきれいさっぱりしておまけに髪も染めた。努力が実って早々と決まった。
 本日から出勤。6時半から9時半までの3時間。
 サラリーマン時代早起きには慣れていたから、別にどうとも思わなかった。環境が変わると体質も微妙に変化した。4時の目覚ましにすぐには起きられなかった。それでも十分間に合うと気楽に考えていたら、朝、電車の発着が少ないことが判明。西川口駅で待つこと10分。
 秋葉原に着いてから、走った、走った!
 まあ、何とか間に合いました。




 3日間連続で夜は呑んでいた。

 30日(月)は阿佐ヶ谷のスナック「SOUND K」へ。うちの店で働いているKさんを紹介するため。Kさんがもっとバイトを増やしたいというので、もしかしてと思って、マスターのNさんに連絡するとやはりバイトの女の子を募集しているとのこと。
 だったら早いうちにと連れていった。
 で、カラオケ合戦になった。
 最終電車の1本前で帰宅。

 翌31日(火)の午後は門前仲町へ。15時にKさん(といっても前日のKさんとは違う)と待ち合わせしたのだ。以前、Kさんからメールが来て門前仲町の「魚三」に一度行ってみて、とあった。15時30分に開店する居酒屋なのだが、15時からお客さんが並んで、開店するとすぐに満席になってしまうのだそうだ。
 では、今度深川を散策したときに寄ってみますと返信していたのだが、前日に4月に開催するイベントの打ち合わせで会った際、誘われたという次第。
 15時に行くと、まだ列はできていなかった。張り紙があって、16時開店とのこと。近くの富岡八幡宮をブラブラして、15時半過ぎに行くと、何名かの男性が並んでいた。後に続いて少しして後ろを見ると、かなりの客が並んでいる。驚きの光景!
 最近、酔うと地元の歌広場でひとりカラオケのパターンが多いのだが、この夜も西川口に着いて直行してしまった。

 1日(水)は、映画サービスデー(ファーストデー)なので、仕事終わりに有楽町へ出て「マグニフィセント・セブン」でも観ようと思っていたら、特撮仲間のSさんより呑みのお誘い。神保町にでてきてもらって、「酔の助」へ。例のドラマ「恋恥」でロケされて話題になった居酒屋だ。年末、やはりSさんと神保町で呑んだとき、行ってみたら満席で入れなかった。
 料理がけっこううまかった。
 
 2日(木)は休みなので、午後地元のシネコンで「破門 ふたりのヤクビョーガミ」を観ようしていたのだが、金もないし何より外出するのが億劫になったのでやめましたとさ。




「先輩、ちょっとお訊きしたいんですが」
「また、お前かよ、もう下ネタの話題は嫌だからな」
「いえ、そんなことではないんです」
「なんだよ?」
「先輩のブログ、カウンターつけていないですよね?」
「そうだよ、HPではつけていたけどね」
「どうしてですか?」
「別に……ブログ始めたときにつけなかっただけで。でも、あるときからアクセス解析はするようになって、内々ではその日のアクセス数は把握しているよ」
「そうなんですか! だったら、アクセス数を発表すればいいじゃないですか」
「発表することにどんな意味があるの? 数が少なければ恥ずかしいし、多ければ、自慢しているようで野暮だし、さ」
「野暮ですか」
「いちいち発表することがだよ、別にカウンターでアクセス数を掲示するのはいいと思うんだよ」
「はあ」
「アクセス数は更新する張り合いにもなるしね。HPを毎週更新していた時代、もう10年以上経つのか、あのころ、ある某アクセスランキングから参加要請があって、試しにやってみたんだ」
「ほぉ」
「そしたら、すぐに1位を獲得して。で、そのあとはずっと1位をキープしていた」
「自慢じゃないですか」
「そうだよ。でもしばらくしたら、そのランキングにエロサイトが参加してきたので、嫌気して脱退したんだ」
「嫌気したというより、それでランクが下がったんでしょう?」
「……」
「当たり、ですね。先輩、けっこうプライド高いんだから」
「……」
「教えてくださいよ。HPにはカウンターつけたのに、なぜブログはしなかったのか?」
「訊きたい?」
「はい」
「どうしても?」
「はい」
「あのね……カウンターのつけ方がわからないのよ、オレ。実は最近アクセス解析のシステムが変わって、設定をやり直したんだけど、どうにも調子が悪いんだ。検索キーワードが全然表示されないんだから。お前わかるか?」
「いえ、機械苦手なんで」
「お願いだよ、教えてくれよ!」




(敬称略)

 今週の月曜日、朝刊には、この日発売の「週刊ポスト」「週刊現代」の広告が掲載される。「週刊現代」のそれには「がんばれ、松方弘樹」の見出しがあった。
 ということは、相当容体が悪いんだな、と真っ先に思った。

 案の定だった。
 午後、お店の常連、Iさんが、いつものように喫煙スペースの個室で〈仕事〉をしていて、少しお邪魔して映画談義に花咲かせた。
 厨房(カウンター?)に戻って、少ししてから、Iさんが個室から飛び出してきた。
「松方弘樹が亡くなったよ!」

 俳優、松方弘樹を意識したのは、NHKの大河ドラマ「勝海舟」である。
 当時、脚本を担当すれば、必ずチャンネルを合わせた倉本聰の初めての大河ドラマだ。主演は渡哲也。個人的は、人斬り以蔵役のショーケン、坂本龍馬役の藤岡弘に興味津々だった。
 第1回にえらく感動して毎回日曜日の夜8時に視聴するようになった。
 早い段階で、渡哲也が病気降板した。代演が松方弘樹だった。
 当時は、主役交代に残念な気持ちがあった(その後、倉本聰もスタッフとの軋轢があって降板してしまう、なんてこった!)。しかし、今、この交代は良かったのではないかと思っている。
 何より口跡が心地よかった。江戸弁だったなあ、と思うのだ。
 交代しなければ、仁科明子と出会うこともなかったろうし、ということは結婚もなかったのだろう。

 本当いうと、小学生時代に松方弘樹主演の映画を観ているのである。
 「怪竜大決戦」。東映が製作した怪獣が登場する時代劇だ。怪獣というか、巨大ガマガエルと巨大竜がクライマックスで激突する。共演(ヒロイン)が小川知子だったことに、後年観直して驚いた。

 松方弘樹の巧さを思い知らされたのが「仁義なき戦い」5部作だ。
 このシリーズ、同じ役者がシリーズを通して違う役で登場している。松方弘樹もその一人で、第1作、第4作「頂上作戦」、第5作「完結編」に登場する。驚くのは、3作とも全くキャラクターが違うのだ。別人なのである。
「役者だの~」と拍手を送りたくなる。
 こんなこと、これまで「仁義なき戦い」が語られる際には、さんざ言われていることだろう。
 74歳。

 合掌




 一昨日、京浜東北線で転落事故があったことは知っていた。
 昨日、朝刊(朝日新聞)に記事がでていた。
 見出しにこうあった。「盲導犬の男性転落 死亡」「埼玉・JR蕨駅 ホームドアなし」
 盲導犬の男性という文字にピンときた。

     ▽
14日午前7時10分ごろ、埼玉県蕨市中央1丁目のJR京浜東北線蕨駅で、盲導犬を連れた男性がホームから転落し、進入してきた大船行き普通列車と接触、頭や上半身を強く打ち重傷を負った事故で、男性は同日午後0時20分ごろ、搬送先の病院で死亡した。
(略)亡くなったのは同県川口市のマッサージ師の男性(63)で、目が不自由だった。
     △

 まさか! あの人ではないのか?

 サラリーマン時代、毎朝のようにホームで盲導犬を連れた男性とすれ違った。いつも4両め、4つめのドアのところで電車を待っているのだが、電車が到着しドアが開くと、白(本当はイエローというらしい)のラブラドールの盲導犬に先導された男性が降りてくる。 背が高く、すらっとしている。年齢は60歳を超えていたと思う。
 今の仕事になってから、通勤時間が遅くなったので会わなくなってしまったが、時間は7時10分から20分の間。

 事故が起きた時間、川口のマッサージ師ということで、思い当たったというわけだ。ざわざわしてきた。
 西川口駅で改札を通る際に、駅員に訊いてみた。
「蕨駅で起きた転落事故ですが、川口のマッサージ師って、いつも西川口駅を利用されている方ですか?」
 若い駅員は一拍おいて答えた。「詳しいことは言えないんですが、そうだと思います」
 男性と盲導犬の姿が頭をよぎる。
 涙がこぼれそうになった。

 ご冥福をお祈りいたします。




 またしても訃報だ。
 根津甚八、69歳。

 引退を知ったときはショックだった。
 自分にとって、ショーケン、優作、水谷豊に続く、第四の役者だったのだから。

 詳しくは、奥さんが書かれた「根津甚八」のレビューに書いている。

     ▽
 2011/07/06

 「根津甚八」(根津仁香/講談社)

 役者として根津甚八を意識したのはいつだったか。状況劇場の人気者(だった)で名前が真田十勇士から命名されたなんてことは後で知った。NHK土曜ドラマ「男たちの旅路」へのゲスト出演か。声がでなくて引退を宣言した(囁くようにうたうのが売りの)歌手の役だった。
 映画では「その後の仁義なき戦い」だろうか。とはいえ、この映画、ゲスト出演のショーケンが居酒屋で喚き散らすシーンしか印象に残っていない。

 出世作の「さらば愛しき大地」(監督:柳町光男)は観ていない。ショーケンがその柳町光男監督のメガホンで撮る予定だった「竜馬を斬った男」では、竜馬役で出演している。結局この映画、柳町監督は降板してしまうのだが。
 当然石川五右衛門役で人気を呼んだ大河ドラマ「黄金の日日」にも一度もチャンネルを合わせることもなかった。今思えば、このドラマの脚本は市川森一。「勝海舟」は倉本聰が脚本だから観始めたのだ。だったら、「黄金の日日」も観なければおかしいのに。
 まあ、いい。とにかく、70年代から80年代にかけて、ショーケン、優作、水谷豊に続いて、その動向が気になる役者だった。

 00年代になってから、あまり見かける機会がなくなった。病気治療や交通事故で相手を死亡させてしまったことによる謹慎で表舞台に登場しなくなってしまったためだ。その後鬱病になったという話が聞こえてきて、やがて役者引退とのニュースが流れた。ショックだった。

 本書は根津甚八の奥さんが書いた、俳優・根津甚八の回想録とでもいうもの。本来、本人が執筆(語る)ものだろうが、なぜそうならなかったかは読めばわかる。
 状況劇場前後、唐十郎との関係が興味深い。
     △

 合掌




 一昨日だったか、一昨昨日だったか、キャリー・フィッシャーが飛行機搭乗中に心臓発作を起こしたというネットニュースに驚愕した。一瞬〈死亡〉の文字が脳裏をかすめたが、続報で容態は安定したとあって一安心したのだ。
 ところが、昨日の朝早く、TBS「朝チャン」で訃報が流れて声をあげてしまった。60歳。若すぎるよ!
 「スター・ウォーズ」シリーズが再開されて、「フォースの覚醒」では旧3部作(「スター・ウォーズ」「帝国の逆襲」「ジェダイの復讐」)から三十数年経ったレイア姫の姿を見せてくれた。同窓会的雰囲気に浸りながら、新シリーズ(の今後2作)を楽しみたいと思っていたのに……つらい。
 次作(エピソード8)は撮了しているので、それが遺作となるのか。

 はっきりいって第1作「スター・ウォーズ」のレイア姫にはあまり魅力を感じなかった。こんなのがお姫様なの? おいおい、ルークよそんな女に夢中になるのか! なんて思っていた。
 しかし、「帝国の逆襲」「ジェダイの復讐」とどんどん魅力的になっていた。「帝国の逆襲」でのハン・ソロとのやりとり、「I love you」「I know」の台詞は忘れられない。「ジェダイの復讐」の最初のエピソードにはゾクゾクしたものだ。

 「スター・ウォーズ」3部作で人気女優の仲間入りをした。ポール・サイモンと結婚したときは驚いた。すぐに離婚したけれど。その後は芳しくない情報ばかり耳にしたような気がする。
 だからこそ、「スター・ウォーズ」新3部作への出演を喜んだのに。

 「フォースの覚醒」公開に合わせて、日本テレビで旧3部作が放映された。第1作は「金曜ロードshow」枠で、あとの2作は深夜に放映された。深夜の放映分は録画したままになっている。追悼鑑賞しよう。「ローグ・ワン」もあのラストカットを拝むためにもう一度観に行こうか。

 さよなら、レイア姫。あなたの勇姿は決して忘れません。

 ご冥福をお祈りいたします。




「先輩、クリぼっちって知っています?」
「クリスマスひとりぼっちの略で、クリスマスを一人で過ごすことだろう」
「先輩、今年一人だったんでしょう?」
「当たり前田のクラッカーだ! イブの夜なんてチャルメララーメンをすすりながら『エンタの神様』見てたよ」
「淋しかったでしょう?」
「もう5年ほどクリスマスはひとりさ。昨年はどうしたんだろうと思って調べてみたら、阿佐ヶ谷のスナックで過ごしていた。昔の同僚がやっているところでね」
「ほら、淋しいから、にぎやかなところに出かけたんだ」
「たまたまだよ。昨年あたりから全然淋しくなくなったんだから。その前まではつらかったけど」
「で、どうしてたんですか?」
「一切の情報を遮断していた」
「はあ」
「カミさんと娘が家を出てから、TVで父親と子ども、特に娘との絆や夫婦愛の話題になるとすぐにチャンネルを換えた。クリスマスシーズンになると、もう地獄だよね」
「……」
「娘の小さかったころが思い出されてねぇ。あのころ、クリスマスって我が家にとって一大イベントだったわけだから」
「つらいですねぇ」
「でも、さっきも言ったけど、今はひとりが楽しいよ。そういう心境になったんだ」
「立ち直ったってわけですか?」
「立ち直ったというと、カミさんと娘から文句言われそうだけど。すべてあなたが原因でしょう! って」
「娘さん、12月に入籍されるって言ってましたよね?」
「ああ、12月のいつなのか、知らないけれど。記念だからクリスマス・イブとか、クリスマスとかなのかなあと思ったりしてね」
「連絡はないんですか?」
「ないよ。オレ、娘に縁切られたんだから。結婚も、子どもが生まれたとしても、お父さんには知らせないからって。もうお父さんじゃないからって」
「……」
「しょうがないよね。自分で蒔いた種だから。お父さんは覚悟がなかったのよ。この言葉、今でもたまに聞こえてくる」
「……」
「湿っぽくなったね。……黙られるとつらいから、なんか、言えよ」
「あのね、先輩、クリぼっちって言葉、女性が言うと、なんか淫靡じゃないですか? クリスマスじゃなくてクリ〇〇〇ひとりぼっちに聞こえません?」
「お前、それが言いたくて、この話題だしたのか!」





 朝日新聞DEGITALの「bookcafe」というコーナーの取材を受け、その記事が本日配信(掲載)されました。

 取材の依頼があったのは10月。もともとは社長に取りついだ。普段、社長は朝礼後、少し店(事務所)にいるが、そのあと仕入れ等で出かけてしまう。なので、取材の時間を午前中、11時に設定したわけだ。
 ところが、前々日くらいに社長から言われた。、「どうしてもはずせない用事ができたから、代わりに取材受けてね」
 それはいいんですけど、だったら、時間を11時なんかにしませんよ、午後3時とか4時とか、そんな時間にすればよかった。
 と思っても後のまつりでして。

 取材の途中で記者の吉川さんに訊かずにはいられませんでした。
「ご出身は沖縄ですか?」
 吉川さんはにこやかに答えてくれました。
「よく言われるんですけど、違います」
「どこなんですか?」
「西宮です」

 カウンターを挟んで店長の写真を撮りたいとカメラ(ウー)マンの石野さん。
「あの女優さんに似ているって言われるでしょう? ええと、なんだっけ、名前がでてこない」
 石野さん、笑いながら「藤田朋子さん?」
「そうそう、その笑顔が似ています」




とりあえず写真だけUPしておく。

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 小学生時代、低学年時の将来の夢は宇宙飛行士になることだった。アポロ11号の月着陸なんて夢中になってTV中継を凝視していたものだ。ケロッグのおまけがアポロロケット関連で、友だちと競い合って集めた。
 次に将来の夢が漫画家になった。「マンガの描き方」類の本を買ってきて、ケント紙、ペン軸、ペン先、墨汁、筆、筆洗、絵の具、すべて買い揃えて、机の上に並べて悦に入っていた。完成したマンガは一つもなかったけれど(ノートに鉛筆描きしたものはいくつかある)。
 6年生になると将来の夢が映画監督に代わった。
 5年のころからクラスの親友と映画制作グループを組織した。その名もKアマダクション! Kは僕の名前からアマダクションはプロダクションとアマチュアを掛け合わせている。
 まずアニメ映画を作ろうとした。しかし、目指したのが、セル画を使った本格的なもので、あえなく挫折した。続いて怪獣映画。これも怪獣のぬいぐるみ作りに失敗して諦めた。
 6年になって、とにかくカメラをまわそうと、映画をつくろうと、記録映画を2本つくった。自分たちの住む町、太田を紹介する映画で、「私たちの太田 緑をたずねて」と「私たちの太田 栄ゆく太田」の2本である。
 そしてお正月に放送された「タイム・トラベラー」に触発されて、「明日を知る少年」に着手する。

 ここらへんのことは、友人のAの作文に詳しい。学校新聞に掲載されたのである。これが「明日を知らない少年たち」のモチーフとなる。
 アニメ制作のくだりでビニールカバーが出てくるので少々解説したい。

 僕たちは本格的なアニメ映画を考えていて、本当はセルを購入したかったのだ。ところが、群馬の片田舎にセルなんてものは売っていなくて、代用としてビニールカバーを思いついたというわけだ。安靖堂はカメラ店で8㎜フィルムの購入や現像でお世話になった。

     ▽
   Kアマのこと
                 有吉威
     A
 ぼくは小学生の時からKアマに入っている。Kアマというのは、ぼく達が作った映画製作グループのことだ。アマだから趣味でやっているのだ。Kとイニシャルがつくのは、一口でいうと新井啓介君が監督だからである。

     B
 啓介君はいつも家でマンガをかいていた。それを学校に持ってきて人に見せては、
「どう、おもしろいかい?」
 などと聞いていた。
 彼はマンガのかき方をマンガ本で見たり、かき方の本を買って読んだりして覚えたようだ。しかし彼のマンガは納得のいかない、おもしろくないギャグマンガもあった。だが、中には本職のマンガ家も思いつかないようなやつも、一つ二つはあったのだ。彼はマンガだけでなくふつうの絵もうまくユネスコ展などに出品していつも賞品をせしめていた。
 そんな啓介君がとっぴに
「映画作ろう。」
 などといい出したのである。Kアマは最初に彼が、この「マンガ映画作ろう」といったのがきっかけになったのだ。啓介君は巴君の『鉄腕アトム』の本を借りた。その終りの方に〈鉄腕アトムの出来るまで〉というのがあって、それを読んで映画を作る気になったのらしい。
 さっそく人を集め、お金を集め使うものを買い込んだ。ペンキ、ビニールカバー、筆、つや消し剤やシンナーなどだ。まず安靖堂の人に、
「ビニールカバーの透明なやつを細かく切って、それに絵をかいてそれを一つ一つ動かしてカメラにおさめる方法はどうですか。」
 と聞いてみた。そしたら、
「ビニールカバーは光の反射がありますし、一つ一つ写すには駒どりカメラが必要です。」
 という答えだった。
 ぼく達はビニールカバーのつやを消すのには、どうしたらいいか考えた結果、つや消し剤を使うことにした。しかし、つや消し剤は濃くてうまくのびないので、シンナーでうすめて使ってみた。けれどつや消し剤の鼻をつくにおいの上に、シンナーのあのにおいが加わったので大変なにおいになってしまい、みんな頭が痛くなって逃げだした。こんなことを続けているうちに休みが終わった。それでみんなマンガ映画のことを忘れてしまった。
 その次の休業期間のとき、今度は怪獣映画を作ろうとした。このときからメンバーがまたふえた。この話にでてくる怪獣は口から泡をふくというもので、この泡にかかると何でも溶けてしまうということにした。
 まず胴体を作るには針金を使う。啓介君の家は電気屋なので、アンテナを張る時に使う針金を使おうと思ったが、おじさんが出かけていたので細いのを使ったが、これは何重にしても弱かった。次は怪獣の皮だが、お金を出し合って安い布を買う予定だったが足りなかった。泡をふく装置は売っているものを使おうということにした。しかし、どこにもそんなものは売っていなかった。この怪獣映画も中途半端に終ってしまった。

     C
 卒業した春休みに啓介君が「今までに映画を撮ったことがないから太田市についてでも写そうか。」
 といったので、みんな賛成した。そしてできたのが[私たちの太田]で、一回が〈緑をたずねて〉、二回めが〈栄ゆく太田〉である。〈緑をたずねて〉は水道山付近を撮り、バックミュージックは木枯し紋次郎主題曲の「だれかが風の中で」である。〈栄ゆく太田〉は市民会館、市役所、太田駅などで、駅の中で新婚の人に「ばんざい」をやっているところなども撮った。
 中学生になってからの夏休みのことだ。元Kアマに入っていて、今は東京にいる布村君の家へ行った。その時撮った記録映画が[東京一日の旅]である。貿易センタービルからの景色や、皇居などを写した。サウンド・オブ・ミュージック、小さな恋のメロディー、ムーンリヴァー、流れ者のテーマなどの映画音楽を使った。二巻、約六分の映画である。
 これらの映画は完全のものではない。タイトル撮影に失敗して、〈緑をたずねて〉ではENDタイトルの“おわり”の「お」の点をかかずに撮影したりした。また、[東京一日の旅]では日付を間違えたりして大変だった。

     D
 これからは[私たちの太田]の続編や、ストーリーのあるものを写していきたいと思っている。
 ぼくは映画づくりをやってきて、友達とのつきあいが深まった。このような趣味を通じて出来た友はいつまでも失わないように心がけたいと思っている。啓介君達とつきあっていて、みんなでものを作りあげた喜びは何ともいえない。またそれを味わえるのは苦労したためである。ぼくはそんな喜びというものを少しでも得ることができて、ほんとうによかったと思っている。(47・10)




  代々木嫌い

  代々木が嫌いだ
  浪人たちのふきだまり

  原宿も嫌いだ
  駅は素敵なのに

  青山は好きだけど
  六本木は苦手

  目黒を愛してる
  たまに訪ねてみたい

  渋谷も好きだよ
  青い春がつまってる

  築地の香りがいい
  ふるさとを感じる
 
  銀座通りを歩きたい
  いろんな本屋がそろってる

  日比谷公園を歩いて
  初めてのデートに想いをよせる

  高田馬場は変わったのかな
  19の原点を忘れたりしない


 石原都知事時代に、築地の卸売市場が豊洲に移転すると決まった。建物の老朽化が理由だった。
 ニュースを耳にして素朴な疑問を抱いた。老朽化したのだったら新しく建て直せばいいではないか。何も移転することはない。もちろん一度にはできないだろうが、市場をいくつかに分割して順に新しくすれば。
 そういう意見はなかったのだろうか。
 
 大学を卒業して、希望の業種(会社)に就職できなかった。というか、春から二度目の鬱に苦しんで就職活動なんてできなかったのだ。
 秋になって何とか元気になったのだが、まだ本調子ではない。
 当時会社訪問の解禁日は10月1日。その日は外に出ずに、夜は部屋で水曜ロードショー枠で放映された「七人の侍」を観ていた。訪問活動を終えた友人U(自主映画サークルの仲間。4年生は僕とUの二人だけだった)がやってきて、TVに呆けている僕を見てあきれていたっけ。
 就職浪人して、翌年、なんとか小さなCMプロダクションに入れた。会社は築地駅のすぐそばにあった。
 辞めるまでの2年間、築地や銀座を自分の庭のように歩き回った。場外の食堂に何度か足を運んだことがある。
 自分の中では築地=市場というイメージがあるので、豊洲への移転が信じられなかった。

 それにしても、もともと東京ガスの施設があった場所で、それも土地に含まれている有害物質が国の環境基準を大幅に超えているというのに、よく移転を決めたものである。市場側の人たちはそこらへんをどう考えていたのだろう。
 そんなことを、呑みの席で特撮仲間のSさんに言ったら、築地市場の下には、第五福竜丸が積んでいた放射能汚染マグロが埋められていると教えられた。ビキニ環礁でアメリカの水爆実験によって被曝した、あの漁船である。
 初めて知った事実なのだが、翌日、読んでいた「ゴジラの精神史」(小野俊太郎/彩流社)にもその旨の記述が出てきた。
 都側から有害物質の処理を説明されて納得したのか。まあ、大いなる利権が絡んでいるのだろう。
 もし、新都知事に自民党推薦のあの方が選出されていたら、この問題はまったく封印されたままだったのだろう。
 怖い。




 訃報が続いた。
 声優の肝付兼太氏(80歳)。
 声は子どものころからTVアニメで親しんでいた。代表作を一つあげるとすれば「ドラえもん」のスネ夫になるのだろう。
 両親世代なのだと改めて認識する。この世代の訃報はこれからも続く。つらいことではあるけれど、自分の年齢を考えれば仕方のないこと。
 と考えなければつらくて、それこそ仕方がないのだ。

 第一期ウルトラシリーズ、その後、実相寺監督その他映画やCM等の美術で活躍していた池谷仙克氏。
 いつも仙克をどう読むのか悩んでいた。〈のりよし〉なんですね。
 新聞の訃報を見てため息ついた。
 「ウルトラセブン」の途中から怪獣のデザインを担当、「帰ってきたウルトラマン」の初期の怪獣らしい怪獣も手掛けている。実相寺監督がTBSを辞めてフリーになってしばらくしてから一緒に映像制作のプロダクション、コダイを設立、社長を務めていた。学生時代体操を得意として、「シルバー仮面」では、ある事情でスーツアクターに代わって、シルバー仮面の中に入った、と何かで読んだことがある。
 76歳。80歳までは活躍してほしかった。

 何よりショックだったのはりりィだ。文章の流れから〈氏〉とか〈さん〉をつけなければいけないのだが、どうもしっくりこないので、あえてりりィと書く。
 ネットニュースで逝去を知り、叫んでしまった。64歳。早すぎるよ。
 昨年だったか、一昨年だったか、TOKYO MX「小室等の新音楽夜話」に旦那さんと出演して、久しぶりに歌声を聴いて喜んでいたのに。肺がんじゃ仕方ない。
 「私は泣いています」はシングルレコードを買った。アルバムも買うか迷ったが結局見送った。ちょうどそのころリリースされたアルバムタイトルが「タエコ」だったと思う。本名からつけたと何かで読んだのだが、訃報で本名が小恵子(さえこ)だとわかった。
 松田優作の遊戯シリーズ第3弾「処刑遊戯」の冒頭に登場して、これが女優デビューだと思っていた。ところが新聞の訃報で大島渚の「夏の妹」に出演していることを知った。歌手デビューと同じころに女優もやっていたのだ。

 昨日は休みで午後はずっとニトリから取り寄せた、すきま家具を組み立てていた。TVをつけっぱなしにしていて、「新・科捜研の女」の後「新・ヤメ検の女」がはじまった。土曜ワイド劇場枠の2時間ドラマ。これにりりィが犯人役(最後は無実だと判明する)で出演していた。胃がんで余命いくばくもない母親を演じていて、見いてしまった。ラスト近くで少々涙がにじんだ。
 テレビ朝日は追悼の意味で再放送したのだろうか。

 3人のご冥福をお祈りいたします。




 アメリカの大統領選。トランプが選出されたことに驚いた。いくらなんでもそりゃないぜ。 
 しかし、こうも考えた。
 もし、日本の総理大臣が国民の投票で決まるとして、自民党と民進党がそれぞれの候補を擁立したとする。
 自民党は石原慎太郎+橋下徹+森喜朗÷3みたいな男。民進党は蓮舫。
 さて、あなたはどちらに投票しますか?

 もっとショックなのは、クリント・イーストウッドがトランプを支持していたということ。
 本当なのか。

 ちなみに、アメリカ合衆国はUnited States of Americaの訳ではない。
 幕末(だと思う)、幕府の役人(だったか?)が米国を訪れた際、かの国では王(大統領)を国民が選出するシステムに驚いた。王が国を統治するのではなく、〈民衆の代表がコングレスに集会して国を治める政治形態〉から、「合衆国」としたのである。
 高島俊男「お言葉ですが…」で知ったことだが。
 本多センセに教えてやりたい。




 すいません。
 「シン・ゴジラ」の感想、続きが全然書けません。

 毎日が忙しくて、帰ってくると何もできない。ただボーっとTVを見てたり、酒呑んで少々いい気分になってPCの画面を開くのだけれど、少し経つとそのまま横になって……寝てしまう。起きると4時ごろ。朝風呂に入って、またキーボードを叩いて少し文章を綴って、けれど、中途半端で結局完成できないで出勤時間がきてしまうというパターンだ。

 休みの日は、休みの日でやることがたくさんあって、PCに向かえない。

 台風が首都圏を直撃するかもしれない、と大騒ぎになって、東北に上陸した日(30日 火)は、トイレのタンクの修理で水道屋が来るので、朝から大掃除。水が流れっぱなしという状態が長く続いていて、使用するたびに元栓を締めていたのである。本当は、先方の都合(某所の工事があるとのことだった)で、来週の予定だったのだが、台風の影響でその工事が延期となり、来られることになった次第。

 午後はI歯科へ。年に一度の歯石取り。歯周病治療の一環で、もう何年になるのだろう。毎週一回、けっこう通うことになる。

 まぐまの同人だった荻原真さんから新刊が送られてきた。
 【宮崎駿の「半径300メートル」と『風立ちぬ』】(国書刊行会)

 昨日も休みだったが、朝から外出した。
 図書館に本とCDとDVDを返却し、まだ読了していない2冊、結局観られなかったDVDを借り直す。

 それからTOHOシネマズ新宿で映画をはしご。

 11時30分~ 「ゴーストバスターズ」
 14時20分~ 「シン・ゴジラ」

 「シン・ゴジラ」は5回めである。記録更新中!

 映画鑑賞後、区役所前にある居酒屋「清龍」へ。冷酒をちびりちびり肴はさんまの塩焼き。
 小1時間ばかり時間をつぶしてから東中野へ。
 19時から東京演劇集団風の『母が口にした「進歩」その言葉はひどく嘘っぽく響いていた』を観劇する。
 空間の使い方が面白い。これ劇団専用の小屋ですよね。うらやましがる劇団、いっぱいいるだろう。
娼婦が口ずさむ歌(メロディー)が印象的だった。観終わって駅に向かっている最中ずっとハミングしていたほど。少々驚きだったのが、その娼婦の歌い方(?)。ひとりで歌っているのに、ユニゾンのように聞こえたのだ。

 帰宅したのは23時近く。
 今日こそはとPCに向かったのだが、眠気が襲ってきてあえなくダウン。
 で、朝の4時に起きて、以下、略。


 【追記】

 訃報が続いている。

 ジーン・ワイルダー
 レイ・ハリーハウゼン
 梅津栄
 松山善三

 年齢を考えれば仕方ないのだが、やはり寂しい。

 合掌




 閑話休題。
 閑話休題の意味を、〈これまでの話題をちょっとひとやすみして違う話をすること〉と思っている人がいる。雑誌等で、そんなふうにタイトルで使っているのを目にすることもあった。
 間違いですから。
 元の話題に戻すときに使うのが正しい。〈それはさておき〉という意味なんです。
 私は、高校時代、倉本聰の本で学びました。


 涙腺崩壊。
 そう言ったのはリオから中継するTBS・石井アナウンサーだが、TVの前で何度もうなずく自分がいた。
 毎朝、リオ・オリンピックの結果に目頭が熱くなって、涙がひとすじ、ふたすじ……。ほんと、どうなってしまったのか、オレの涙腺。
 今朝なんて、女子レスリング、金メダルが3人連続ですぜ。
 いやはや、ずげぇなぁ。

 ガッツポーズのやり方と同様どうでもいい話。
 卓球の水谷選手、銅メダルが決まった瞬間を見て、ハライチの澤部佑と安田大サーカスの団長を足して2で割り、ちょっとかっこよくした顔、と思いました。
 活躍する選手のご両親が皆、自分より若い。選手たちは皆自分の娘より年下なのだから当然なのだが、ちょっとばかりショックだったりして。


 果実師匠。
 別に不愉快になったわけではありませんので謝る必要なんてないですよ。
 謝るのは私の方です

     ▽
 一番肝心なメッセージは残しておいて欲しかったかなと
     △

 すいません、意味をはき違えていました。
 一番肝心な(つまり初代ゴジラの映画にあった)メッセージはあるべきではないか、という意味に受け取ったんです。
 一番肝心なメッセージ = 「ゴジラも被害者である」 ですか。
 ……タメ息ですよ。
  一つだけ。

     ▽
ご存知のようにゴジラは水爆実験により生まれた奇形であり、望んだ肉体や能力ではありません。
     △

 本当に「シン・ゴジラ」観ているんですか?
 別に「シン・ゴジラ」のゴジラは水爆実験により生まれた奇形ではありませんから。
 私が今回主張したかったのは、まさしくこの点なんです。
 それは、本文で。

 参考) 立川キウイの小部屋 2016年8月13日





 本当は、前々々項の続きを書こうと思っていたのだが。

 とうとう大橋巨泉が亡くなった。
 がん闘病はずいぶん前から知っていたから、この日がくるのはわかっていたのに、本当にくるとショックだ。

 大橋巨泉は、永六輔と違って、愛憎相半ばしている。
 出会いは「巨泉・前武 ゲバゲバ90分」だった。この番組、見るとまるで宿題がはかどらなかった。巨泉と前武の掛け合い部分は生放送だったという。小林信彦がゲスト出演したこともあるというがまったく覚えていない。
 「11PM」はTVで同世代の人たちが言っているように、僕も最初親に内緒でこっそり見た。
 「お笑い頭の体操」は観ていなかったが、後番組の「クイズダービー」は毎週の愉しみだった。

 次第に偉そうな態度が気になりだした。
 番組内に登場する芸能人が年上だと○○さん、年下だと××くん、はっきり区分する。そうういところがどうも……。

 1978年の夏、日本テレビで始まった「24時間テレビ」で、欽ちゃんがパーソナリティ、巨泉さんは総合司会を担当した。
 番組終了時、募金は10億近くが集まった。これに対して巨泉さんはTVカメラを見据えて当時の政府にこう言った。「本来ならあなたたちの仕事なのだ」云々。
 確かにそのとおりだけれど、あなたに言われたくない。TVの前でそう思った。

 とはいえ、杉良太郎がそうであるように、自身が(司会を)担当する番組は皆面白かった。それはすごいなあと。
 政治家になったときは大いに期待したものだ。あっけなく辞めてしまって、裏切られた気分だった。

 前の奥さんがジャズ歌手のマーサ三宅だと知ったときは驚いた。ジャズ評論家なのだからあり得ることなのに。

 つらい闘病生活だったでしょう。
 「アッパレ!」です。
 
 合掌


 【追記】

2004/10/06

 「ゲバゲバ70年」(大橋巨泉/講談社)

 要は自慢話なんだよな。自分にどれだけ幅広い交友があるか。友人たちにはどんな肩書き、地位があってどれだけの力を持っているのか。その活躍ぶりで自分の立場を何気なく披露する。登場する仲間たちがどこの大学かなんてことも逐一付け加える。
 てなことを書くとみもふたもないか。TVで活躍中の時から垣間見られたことだし、その尊大さはマスコミに批判されていた。本人自身も自覚していることだ。

 僕が大橋巨泉の名前を知ったのは「巨泉・前武 ゲバゲバ90分」だった。小学4年の時から始まったこのバラエティ番組に夢中になった。ショートコントが休みなくつながる構成の妙に〈お笑い〉好きの僕は釘付けだった。当時はTVを視聴しながら宿題をする習慣があったのだが、この番組が始まるやまったく勉強に身が入らない。番組が終了したらしたで脱力感で勉強する気が起きない。罪作りな番組だよなと毎週感じていたことを鮮明に覚えている。

 TVの構成者からタレントに転身した同じような経歴、その絶大な人気によって大橋巨泉と前田武彦はライバル視されていた。そんな二人の共演も話題になった。僕は「オレがオレが」の唯我独尊的な巨泉より、物腰がおだやかで話し上手、頼れるおじさん的な前武が好きだった。
 にもかかわらず巨泉司会の番組はけっこう見ていた。代表作の1つ「11PM」、趣味の競馬をうまくクイズに取り入れた「クイズダービー」、お得意の海外情報満載による「世界まるごとHOWマッチ」etc。
 タレントとして好きでなく(はっきりいうと嫌い)ても、番組は面白かったからにほかならない(こういう類の人はほかに杉良太郎がいる)。

 本書を手にしたのも、TVの黎明期から業界で活躍していた著者ならではの視点によるTV年代記を期待したからである。そう意味では期待は裏切られなかった。興味深いことが満載だ。ジャズ評論家時代、マーサ三宅との結婚、離婚、構成作家の時代。

 著者の再婚相手(浅野順子)は日活女優の芦川いずみだとずっと思っていた。全然違かった。いわゆるパッと出のTVタレントで、自分のジャズバンドを持ちたかった著者が「11PM」でレギュラーにしようとしたところ、紅一点のヴォーカルが必要との局側の要請で彼女をメンバーに入れた。ところが彼女はジャズなんて歌ったことがない。つきっきりでレッスンしたことが縁になって結婚したという。
 それにしてもなぜ芦川いずみが大橋巨泉夫人だなんて勘違していたのだろう。(芦川いずみは藤竜也夫人でした)。巨泉の奥さんは日活女優でとてもかわいかったんだ、結婚してすぐ引退しちゃったんだけど、なんてことを昔誰かから聞いて、日活女優でかわいくてすぐ引退してしまった女優=芦川いずみと思ってしまったのかも。
 調べてみたら浅野順子は鈴木清順監督の「けんかえれじい」で高橋英樹と共演しているのだが、このことについては本書ではまったく触れられていない。

 自分の番組に対する意気込み、その度合いは尋常ではない。それは「世界まるごとHOWマッチ」に触れた文章でよくわかる。もともと構成者からタレントになったのだから当たり前なのかもしれないが。

 「コクがあるのにキレもある」のコピーで有名になったジャンボ尾崎と青木功共演のアサヒビールCFが、実は著者とビートたけしの共演で放映だったとか。たけしのフライデー暴行事件で急遽青木・尾崎バージョンに変更になったことを初めて知った。

 何週間か前にTBSラジオの永六輔の番組にゲスト出演していた。男特有の前立腺の病気の疑いがあって、その検査の話題だった。
 トイレが近いという話から子どもの頃オネショの用心として母親から夜中に目が覚めたら必ずトイレに行くように厳命された。そのいいつけを70歳になった今でも実行している。母親の影響力ははかりしれない、なんて今は亡き母親の思い出話に厚顔無人なタレントの新たな一面を見たような気がした。
 この母親への強い愛情は本書でもうかがうことができる。




 一昨日(11日・月)、仕事の最中一緒に働いているWさんが「ピーナッツの伊藤ユミさんが亡くなったって」。
「えっ、Wさん、ピーナッツ知っているの?」
 若い子だから、昭和歌謡の大御所を知っていることに驚いたのだ。
 少しして悲しくなってきた。とうとうザ・ピーナッツがこの世からいなくなってしまったのだから。
 お姉さんが亡くなったときに、もうピーナッツは消滅したようなものだが、それでも、その片割れとして、ピーナッツの生き証人として長生きするのではないかと、なんとなく思っていた。何の根拠もないのだが。
 お姉さんの息子はどう思っているだろう。単なる甥、叔母の関係ではないだろうに。もう一人の母親というような存在だったのではないだろうか。


 昨日(12日・火)の早朝、前日からTVはつけっぱなし、朝一番のワイドショーをやっていた。半分寝ながら音声だけを聞いていたのだが、「永六輔さんがお亡くなりになりました」云々という声が聞こえた。最初はよく意味がわからなかった。頭の中で反芻して飛び起きた。

 この数年、体調がすぐれず、その影響で番組が終了したことは知っていた。もう長くないことはわかっていた。にもかかわらず、いざ訃報に触れると心おだやかではいられない。TVから「上を向いて歩こう」が聞こえてくると、もうダメだった。涙がいくすじも頬を伝わった。
 著名人の死を知って泣いたのは初めての経験である。

 保育園では「こんにちは赤ちゃん」をバックに母とお遊戯したのを覚えている。
 小学校の高学年になると、浅田飴のCMでその姿を拝見することになる。
「せき、こえ、のどに浅田飴」
 続けて「永六輔です、あっ舌噛んじゃった」
 佐々木つとむの物真似は一世を風靡した。

 中学時代は、中年御三家の一人として記憶している。
 小沢昭一、野坂昭如、永六輔。
 父親世代。
 3人とも鬼籍に入られた。

 永六輔のファンになるのは高校時代だ。
 TBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」、水曜(の深夜)の担当は愛川欣也で、永六輔は毎週ゲスト(?)として登場するのだが、まるでレギュラーのような振る舞いだった。このときの話が面白かった。
 当時、尺貫法の利用は禁止されていた。尺貫法ではないと仕事が成り立たない、できない業種があったため、永六輔が立ち上がる。尺貫法の復権運動を始めたのだ。「パック・イン・ミュージック」で何度も尺貫法の話を聞いた覚えがある。
 やがて、この地道な運動が奏功し、見事尺貫法は復活する。
 すげぇと思ったものだ。

 成人してからはラジオ昼の帯番組「誰かとどこかで」と土曜日の「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」をよく聴いた。
この人の場合、おしゃべりをずっと聞いていたい気にさせてくれるのだ。
 反骨の人でもある。

 ある時期から著作も読むようになった。
 文章のスタイルが一貫していて、1行1センテンス。これは絶対だった。

 ちなみに永六輔作詞の曲では「女ひとり」(いずみたく作曲)が好きだ。

 二人に合掌


【参考】

1999/07/28

 「たかがテレビ されどテレビ」(永六輔/倫書房)

 永六輔が東京新聞に連載しているテレビに関するコラムを1冊にまとめたもの。項目別に再編集してある。
 さすが創成期からTVに関わってきた人だけあって、書かれていることにうなずくばかりである。  
TV関係者でどれだけの人がこのコラムに注目しているのだろうか。ったく説教臭い親父だなあと敬遠されるのだろうか。ま、そんな人は最初から読まないんでしょうが。

2001/01/17

 「昭和 僕の芸能史」(永六輔/朝日新聞社)

 永六輔とは何者かという漠然とした思いがいつもあった。
 放送作家から出発してタレントになり、作詞を担当した「黒い花びら」は第一回日本レコード大賞を受賞、以後「こんにちは赤ちゃん」「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」などのヒットを連発する。中村八大、坂本九との六八九トリオは有名だ。

 僕にとっては浅田飴のCFに登場したときの、その姿と声が強烈でその名を覚えた経緯がある。佐々木つとむの物真似「咳声喉に浅田飴、あっ、舌かんじゃった!」は一世を風靡した。当時永六輔の物真似といったら皆これだったっけ。

 高校時代に深夜放送に夢中になった。僕はラジオといったらほとんどTBSしか聴かず(文化放送やニッポン放送はよく受信できなかったという事情がある)、「パック・イン・ミュージック」を一時期毎日聴いていた。水曜深夜のパーソナリティーは愛川欽也なのだが、レギュラーとして永六輔が毎週登場していた。この番組で彼の考え、思想を知ることになる。

 当時永六輔は尺貫法の復権運動をしていた。日本には計量法というのがあって、メートル法以外の計量は法律違反だった。ある職人から「そんな状況じゃ仕事ができない」と聞いて運動を始め、地道な活動が世論を動かし代議士に計量法のおかしさを知らしめた。その結果、ついに法律を改正させたのだ。これらの運動を主に「パック・イン・ミュージック」その他で知り、僕は永六輔を骨のある人と思うようになり、彼の小言に耳を傾けるようになった。

 昭和50年代以降はリアルにある程度永六輔の活動を知ることになったが、いかんせんその前のことについてはほとんどわからない。

 タイトルの、特に〈僕の芸能史〉に興味がわいた。
 本書は昭和を年代別に自身のメディアとの関わり合いの範疇で語り、時代を浮かび上がらせている。週刊朝日に連載されていたものを一冊にまとめるにあたって、平成10年まで続いた連載を区切り良く昭和で切ったと〈あとがき〉にある。
 早稲田大学の学生時代にNHKラジオの人気番組「日曜娯楽版」への投稿からはじまって放送作家の道に進んだ。投稿~放送作家~作詞家の歩み方は秋元康の先をいっていたわけだ。
 日本で最初にジーパン、Tシャツを身につけたとか。

 昭和51年(1975年)の項に興味深いことを書いている。
 TVを変えたのは「欽ちゃんのドンとやってみよう」を開始した萩本欽一と「テレビ三面記事ウィークエンダー」だというのだ。番組に素人を出演させ、TVにプロの芸人が必要ないことを証明させた最初が「ドンとやってみよう」であり、現在TVに欠かせないワイドショーのリポーターという存在を認知させたのが「ウィークエンダー」だと。「ウィークエンダー」は朝のワイドショーの一企画「テレビ三面記事」の内容をそのまま土曜夜にもってきた番組(「傷だらけの天使」の後番組)で、元祖ではないと思うけど、大いにうなずける話だ。

     ◇

2002/11/28

 「六・八・九の九 坂本九ものがたり」(永六輔/中央公論社)  

 小林信彦「テレビの黄金時代」で坂本九の番組「九ちゃん」についてかなりのページ数がとられていた。
 もともとロカビリーブームから出てきた坂本九について、特にその最盛期について、遅れてきた世代の僕が知るはずもない。「上を向いて歩こう」が「スキヤキ」のタイトルでアメリカビルボード誌のトップ1に輝いたことなどもずいぶん後になって知ったことだ。作詞・永六輔、作曲・中村八大、歌・坂本九のトリオでヒットを連発していたことも同様。  
 司会をそつなくこなす笑顔を絶やさないタレント。やさしいお兄さん。物心ついた僕が坂本九にもっていたイメージはこれである。 

 僕らの世代で坂本九といったら、NHKの人形劇「新・八犬伝」のナレーションが有名だろう。時と場合によっては黒子姿で本人も画面に登場し、歯切れのいい語りを聞かせてくれたものだ。  
 十数年後のある夜、NHK教育で「新・八犬伝」を振り返る番組が放送された。坂本九もいつもの笑顔で登場して思い出話を語っていた。日航機の遭難事故が起きたのはそのすぐ後だった。  
 事故が起きた夜、当時勤めていた会社の人たちと下北沢で飲んでいた。遅れて合流した先輩が到着するなり愚痴った。TVで映画「東京裁判」が放送されるので、留守録していたら、遭難事故の緊急放送でNGになってしまったと。翌日の朝刊だったか、夕刊だったか、トップに坂本九の名が出ていた。搭乗者の名簿にその名があるというのだ。ショックだった。嘘であってほしいと願った。

 本書は婦人公論に1986年6月号から12月号に連載された評伝をまとめたもの。坂本九とともに、中村八大と著者自身の足跡を振り返り、昭和の時代を描くという試みだ。
 冒頭の「前書きにかえて」(初出は「話の特集」)が強烈だった。突然仲間を失ってしまった著者が坂本九に対して思っていることをすべてさらけだした追悼文。「死者に厳しいが泣きながら書いたに違いない」と山口瞳が評したという。
 
 坂本九が亡くなったのは43歳だった。今の僕の年齢ではないか。  
 著者と中村八大のコンビによる「黒い花びら」を歌って第1回日本レコード大賞を受賞した水原弘の評伝を読んだのは、水原弘の享年と同じ42歳の時だった。
 六・八コンビでヒットを放った歌手、まだこれからという時期に亡くなってしまったタレントの評伝を同じ年齢で読むというタイミング。特に本書は16年も前に上梓されたものなのである。単なる偶然ではあるけれど、ちょっと驚いた。    

 坂本九にとって、著者はいつでもやかましいおじさん、〈小言幸兵衛〉だった。当然距離をおいてつきあう。中村八大には甘えたが、著者とのつきあいには必ず間に中村八大が入った。
 この評伝の取材でも誰もが坂本九は著者を煙たがっていたと証言する。ただしその中の一人が坂本九が日頃口にしていた言葉を語ってくれた。
「永さんは煙たい人だけど、煙たい人がいるってことは大事なんだ」  
 著者の批判に耳を傾けることのなかった水原弘との違いを見る思いがした。

 (追記)
 本書を読み始めた時、急遽大阪出張を命ぜられ、往復ともに飛行機を利用することになった。けっこう勇気が要りましたよ、機内での読書。




 今朝の朝日新聞で瀬川監督の訃報を知った。
 松竹の「喜劇・〇〇〇〇」という映画をよく撮った監督というのが僕のこの監督に対する長い間の印象だった。
 著作「乾杯!ごきげん映画人生」を読んで、さまざまな発見があった。

 2012年だったか、13年だったか。女優の若葉要さんから電話をもらった。その日、瀬川監督のご自宅で、監督作品の上映とトークがあるので、いらっしゃいませんかというものだった。元気だったら喜び勇んで伺った。ところが、当時、重度の引きこもり状態。土日はフトンに寝たまま近くのコンビニに食事の買い物に行く以外外に出ることはなかった。人に会うなんてもってのほかだった。

 本当の理由なんて言えるわけがない。これから用事があるので、とお断りしたのだ。直接監督から話を聞けるいい機会だったのに。

 90歳。大往生だと思いたい。
 合掌。

     ◇

2007/05/26

 「乾杯!ごきげん映画人生」(瀬川昌治/清流出版)

 昭和40年代、日本映画にはタイトルの頭に必ず〈喜劇〉とつく映画があった。昔、海外のSF映画、それもB級映画のタイトルにSFという文字が冠されていた。それと同じ意味合いか。
 喜劇なのはわかっているのに、なぜ喜劇と称さなければならないのか、子ども心に不思議に思ったことがある。中学時代はバカにしていたところがあった。
 リアルタイムで観たことはない。しかし、1980年代前後、年末年始の深夜によくTVで放送されて、フランキー堺主演の旅行シリーズにはまった。こたつに寝そべり、みかんや落花生をほうばりながら見るには格好の映画だった。
 この一連の映画で瀬川昌治という監督の名を覚えたといっていい。プログラムピクチャーを量産した職人監督というイメージ。

 図書館に寄ったらこの監督が自分の映画人生を綴った「乾杯!ごきげん映画人生」があったのでさっそく借りてきた。

 松竹専属の監督だとばかり思っていたら、その始まりは新東宝だった。そこから東映、松竹と渡り歩く。
 日本映画の歴史に名を残す傑作、名作に数々の伝説や裏話があるように、一度上映されたら消えてしまうプログラムピクチャーも、同様の思い出話にことかかない。監督が愛着を持って語る話に興味はつきない。
 
 書名の元ネタとなった「乾杯!ごきげん野郎」なんて、梅宮辰夫、南廣、今井俊二(健二)、世志凡太がコーラスグループを結成して人気者になっていく話で、喜劇界の大御所のエノケンがゲスト出演している。まるで東映らしからぬ作品で、こういう映画、深夜に放映してくれないかしら。
 南廣は僕らの世代では「ウルトラセブン」のクラタ隊長で有名。世志凡太は浅香光代の旦那さんということは知っていたが、かつてフィンガー5を世に送り出したプロデューサーだったとは!
 東映では渥美清と組んで喜劇〈列車〉シリーズをものにし、これが、松竹の喜劇〈旅行〉シリーズにつながっていく。

 助監督時代に垣間見た、個性派俳優のぶつかりあい(鶴田浩二と三国連太郎)は、酒の席の話としては最高、しかし、現場にいたら息がつまるだろう。
 70年代は大映テレビの「赤い」シリーズ、80年代は「スチュワーデス物語」を手がけていて、ホント、プログラムピクチャー作家の鑑みたいな監督さんである。




 現在、アルバイト生活の自分の定休日は火曜日と木曜日である。
 今週(先週?)もそのつもりで9日(月)の仕事終わりには翌日入るSさんに対してメモを残した。帰宅してから伝え忘れていることがわかり、翌朝仕事が始まる直前に電話した。電話にでたのがSさんだったので少々驚いた。ちょうど朝礼時だから女性のSさん(ややこしい!)がでるものと思っていたからだ。
 連絡事項を伝えて電話を切った。直後、携帯電話が震えた。でるとSさん(男性の)だった。
「あの~、keiさん今日出勤じゃないですか?」
「ああ‼」
 そうだった。27日(金)、28日(土)と休む。二日連続の休みは収入に響くので、どこか定休の日が出になればいいのに。
 そう思っていたところに、10日、Sさん(女性の方の)が休みとなった。だったら私が出ます。自ら志願したのである。
 にもかかわらず、すっかり忘れていた。手帳に記入していなかったのが原因だ。
 電話を切って、外出の支度をして家を出た。
 11時半過ぎには店に着いた。開店は11時だから仕事自体には特に問題はなかったのだが、ショッキングなこともあり、凹みっぱなしの1日だった。

 11日(火)の夜、録画しておいたNHK「トットてれび」の第一話と第二話を観る。原作の一つ、「トットチャンネル」は無茶苦茶面白かった、TV黎明期のエピソードは愉快痛快。映像化したら面白いだろうなと思っていたら、東宝が斉藤由貴主演で映画化した。
このTV版は思っていた以上によく出来ていた。次回が楽しみ。

 12日(木)は本当に休みの日。
 昼は地元シネコンで「64‐ロクヨン‐ 前編」鑑賞。夜は上野広小路亭で「立川流広小路夜席」。これらのことは項を改めて。

 14日(土)はTOHOシネマズのサービスデー。日本橋で「アイアムアヒーロー」を鑑賞。この映画については次項で。





 紙ふうせんFCのメンバーであるKさん、知り合ったころは東京の交流会で話すだけだった。実はギター小僧(まあ、FCの男性メンバーはほとんどそうなのであるが)で、今は地元の千葉のアマチュアバンドの一員、昭和歌謡をレパートリーにして休みも日はライブ活動にいそしんでいる。

 水木ノアさん、プロのミュージシャン、アーティスト(シンガー・ソングライター)だ。もう10年以上前になると思うが、某自主映画の音楽を担当したことで知り合った。ロックバンドを結成していて、ある時期から盛んにライブハウスに足を運ぶようになった。オリジナル「Human」にガツンときたものだ。
 念願のワンマンライブを開催したと思ったら、あっけなくバンドは解散してしまった。以降、ソロで活動している。
 ノアさん、ミュージシャンの顔とともに占い師なんていう別の肩書を持つのである。霊感なんかもあるみたいだ。
 今は某UMA研究家(?)の事務所に所属して、タレント活動も行っている。

 そんなノアさんとKさんが知り合いだった。
 そこらへんのことについては こちらで書いている

 僕がブックカフェ二十世紀で働きだしたのは、まあ本好き、古書好きということもあるけれど、トークを中心にしたさまざまなイベントを開催していることが大きい。
 自分でもイベントを企画、実施したいのである。
 もう10年前になるが、地元川口のライブカフェで「紙ふうせんトリビュート・ライブ」を開催した。赤い鳥・紙ふうせんのファンによるファンのためのライブだった。
 その第2弾をブックカフェ二十世紀でやろうと考えている。当然、Kさんにも歌ってもらう。
 そんなわけで、Kさんは何度かお店に来ている。会場がどういうところか見てもらうために。
 ノアさんにも何かやってもらいたくて連絡をとっていた。忙しくてなかなか来店できなかったのだが、少し前にKさんからメッセージをもらった。
「(4月)25日にノアさんと19時に(お店に)伺います」
 すぐに返信した。「お待ちしています」

 少ししてノアさんからもメッセージが来た。
「25日、Kさんと19時にお店に行きますからね」
 不思議なものだが、この時は19時に反応した。お店は19時に閉めてしまうのだ。19時に来ても店内を見せられない。まあ、それでもいいか、お店で落ち合ってそのまま食事(呑み)にいけばいいのだから。
 その旨返信したら、ノアさんから「もう一度セッティングしなおします」とあった。が、その後はナシのつぶて。

 さて、25日。朝、二人がくるのかどうか気になった。普通なら連絡をとるのだが、「まあ、いいか」と思い直した。来たら来たらで、来なければ来ないでいいと。
 18時過ぎにKさんがやってきた。ああ、やっぱりあの約束は本当だったのだ。
 19時、店を閉めてから、外でノアさんを待つ。
 5分過ぎ、10分過ぎてもノアさんは来ない。
 確認の電話をしても出ない。留守電にメッセージを残した。
「ノアさん、今日のこと、ないものと認識しているんじゃないの?」
 と僕。
「もう一度セッティングしなおします」のあと、連絡がないということは、自分の中で仕切り直した結果ではないか。19時来店はなかったものになった。本当なら、新しい日時がセッティングするはずだったが、忙しくてできなかった、のでは?
「そんなことないよ、19時にお店で落ち合うことを確認したら、了解という返事もらったんだら」
「それはいつのこと?」
「10日前」
 それって、僕の「19時に閉店する」メールが届く前ではないか。
「やっぱり、ノアさん、今日のことはなかったことになっているんだよ」
 30分過ぎても、ノアさんから何の反応がないので、二人で近くの中華屋さんに入った。ノアさんから連絡あったら、店に来てもらえばいいんだし。
 黒ホッピーで乾杯。昨年の3月に開催された赤い鳥、紙ふうせんコピーバンド大会や昨年9月の「ALFA MUSIC LIVE」、ポンタさんの話で盛り上がった。

 お開きとなって、二人で秋葉原まで歩いているときにKさんのスマホが鳴った。ノアさんからだった。
「ノアさん、どうしたの、25日は19時にブックカフェ二十世紀に集合じゃなかったの?」
 Kさんの問いにノアさんが応えた。
「今日、24日でしょう?」
 
 あのね、ノアさん、わしらたまらんよ。



sannin1
Kさんのバンドのライブにノアさんに誘われて伺った際に


sannin2
まぐま同人の脚本・監督作品にノアさんとともに出演した際に




 快晴。やっと太田に行く。いや、いつだって行けるのだが、雨が降るとモチベーションが一気に下がる。このところ、火曜日、木曜日はいつも雨だったので。

 13時過ぎに太田駅に着いた。駅前の七五食堂で太田名物のソースかつ丼を注文。650円。この前来たときも食べた。
 駅前から歩いて法務局へ。小一時間ほど。駅は隣駅の三枚橋なのだが、電車が1時間に1本しか走らないので、乗り換えがうまくいかなければ、法務局へはタクシーを使うか歩くしかしかない。前回、帰りは歩いたらそれほどの距離ではなかったので、今回は往復歩くことにしたのだ。だから雨だと困るというわけ。
 暑い、暑い。シャツを脱いでTシャツになる。

 法務局に着いてトイレに入ってからベンチでバッグの中を漁っていたら女性の声をかけられた。
「歩いてきたんですね」
「ええ」
「自動車の中から歩いているのが見えて」
「太田駅から歩いてきました」
「けっこうかかったでしょう?」
「この前、来たとき、帰り歩いたんですよ、太田駅まで、それほどでもなかったので、今日は往復歩こうと思って」
「三枚橋の駅があるでしょう」
「この前、駅まで行ったんですよ。ところが電車が来るまで20分も待たなければならなくて。だったら歩こうと思ったんです。だって1時間に1本ですよ」

 処理終了。
 マンションはかみサンに名義変更する。その作業が明後日。現在、退職金の半分をかけてリフォーム中。

 法務局から母の墓参りへ。春を満喫するウォーキングだった。
 母には3月17日に離婚したことを伝えた。秋に本をだすこと、60歳まではやりたいことをやることも。応援してね。
 その前から空模様がおかしくなっていた。仏花を購入したフラワーショップの女主人と「雨降るんでしょうかね」「天気予報では雷雨になるっていってましたから」なんて会話を交わしたからか、本当に雨が降ってきた。母とゆっくり話もできず、あわてて駅に向かった。
 
 駅に着いたら雨が上がった。
 17時4分館林行の電車まで15分ほどある。切符販売機のところ元同僚のTさんに会った。太田市のロケーションの監査に来たという。何たる偶然。
「いつ退職したんだっけ?」
「2月末です」
「で、郷里に戻ったの?」
「いえいえ」
 今日の太田来訪の目的を説明する。
 ホテル宿泊のTさんとはそこで別れ、帰宅。太田→館林、館林乗り換えて久喜へ、JRに乗り換えて浦和へ。京浜東北線で西川口へ。
 駅前の日高屋でチャーハンと餃子3個。
 TSUTAYAに寄ってから帰宅する。
 ちなみに電車旅の友は「初恋芸人」(中沢健/ガガガ文庫・小学館)。

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 3月9日(水)の談四楼師匠のツィート。

     ▽
乙武さんの件でヘコんだが、間を置かずに朗報がもたらされた。大津地裁が高浜原発3、4号機の運転を差し止めたのだ。喜びと同時に怒りが突き上げた。あたりまえだ、むしろ遅過ぎると。故郷に戻れない人がまだ10万人いる中での再稼動が異常なのだ、人間のすることではないのだ。さあ何かが始まるぞ。
     △

 まったく、そのとおりだと思った。原発を再稼動したいのは誰なのか。誰か教えてください。まあ、経財界のお偉方なんだろうけど。
 子どものころ、小学時代、中学時代、社会科で日本の電力事情を教わった。水力発電に未来はない、火力発電も石油がなくなればどうすることもできない。だから原発に依存しなければならない、と。だから原発は仕方ないことなのだと自分も思っていた。政府や電力会社が標榜する「安全」は眉唾ものだが、それしか頼るものがないのだから、と。

 あれから40年以上経った。石油、まだあるじゃないか。
 東日本大震災で原発がちっとも安全でないことが判明した。地震や津波の規模が想定外だからなんて理由にならない。
 原発がすべて止まった。計画停電が実施されて、不安な日々をおくったが、やがて正常になった。原発がなくても電力が供給できるじゃないか。
 再稼動する話がでてわが耳を疑った。
 なぜ、どうして?
 もし、原発が稼動しなくて電力の供給がおぼつかないというのなら計画停電にすすんで協力しよう。

 2020年オリンピックの開催地が東京に決まったときも、何も日本でやることないだろうと思ったものだ。投票前の安倍首相のプレゼンに愕然とした。避難を余儀なくされている人たちはどう思ったのだろうか。
 すべては経済が優先されるというわけか。


 師匠はよく〈クソリプ〉という言葉を使う。たとえば、「さばのゆ」の懇親会時、ツィッターの内容を話題にしたときだ。くそリプライ。
 翌10日(木)にはこういうツィートをしている。
     ▽
保育園落ちた日本死ね! 事態を端的に表現した名コピーだ。確かに言葉は汚なく品位には欠ける。しかしこれは、頭を低く理を尽くしても通じない相手への切羽詰まった挙句の啖呵なのだ。窮鼠猫を噛むであり、なにょぬかしゃんでぇべらぼうめと言っているのだ。効いたぞ、連中オロオロしてるじゃないか。
     △
 これもそのとおりだと。
 
 が、次のようなリプライを見つけた。
     ▽
「立川談四楼の落語はつまらない落語死ね」なるブログを書いた者を、この私が「よくぞ言った。事態を端的に表現した名コピーだ」と称えたとしたら、君はどう感じる?頭にくるだろ。俺を悪く言うのはまだしも、落語を悪く言うなよと思うだろ?
     △
 書いた本人は談四楼節を真似て得意になっているようだが意味がわからない。
 某ブログの日本とは現在の政府、安倍政権のことを指している。保育園に落ちたのは安倍政権がきちんと対応していないからだ、そんな政権なんてクソくらえ!
 〈俺を悪く言うのはまだしも、落語を悪く言うなよ〉というのは、安倍政権の悪口は言うなよ、という理屈か。
 立川談四楼の落語はつまらない、(そんな弟子を育てた)談志死ね、あるいはそんな落語家が所属している立川流死ね、ならわかるのだが。

 で、もっと情けなくなったのは次のリプライ、上記のリプライに対するリプライ。

     ▽
談四楼の下手くそなツイートよりも、○○○さんのツッコミの方が痛快ですw
     △

 あなた、師匠のツィート、毎日読んでいますか?




 休みの日は仕事のときよりも忙しい。
 先月は二度軽トラを借りた。一度めはマンションに置いてきた本棚を新しい部屋へ運ぶのともらった洗濯機の受け取り、運搬のため。二度めはいらなくなった洗濯機とマンションの粗大ごみを処理するため。

 粗大ごみを処理するには、コンビニ等でシールを購入して取りに来てもらうものと思っていたのだが、自分で持ち込むことができることを知った。マンションの管理人が教えてくれたのだ。今回管理人には大変お世話になった。管理組合の理事長はやっておくべきである。
 洗濯機は家電リサイクル券が必要で、郵便局で購入しなければならないのがやっかいだった。軽トラに粗大ごみと洗濯機を積み込んで、川口市の衛生センターやら環境センター、エコセンターを回ってなんとか終了した。

 退職したことでその関係の書類が書留で送られてくるが、不在だから改めて日時を指定して受け取らなければならない。そのために午前中がつぶれてしまうのだ。郵便局が近くなら直接行くのだが、バスに乗っての長旅なので一度行って懲りた。

 一昨日は保険証そのほかを返却するため会社へ。その足で湯島の電気健康保険組合へ。2年間だけ健康保険を任意継続できると知ってその手続きに。

 今日は、マンションの抵当権解除のため郷里の太田へ行く。清原が覚醒剤を購入したところとして報道されたあの太田だ。最近はイノシシが繁殖して農作物の被害がひどいと朝のワイドショーが伝えていた。
 ローンを組む際、マンションだけではだめで郷里の家も同時に抵当に入れた。
 川口の方はもう済んでいて、共有する書類を川口法務局で受け取ってから電車で。

 4年ぶりの太田は大きく変貌していて驚いた。
 久喜から東武電車に乗り換えるのだが、伊勢崎行の電車がない。皆館林止まりなのだ。館林~伊勢崎(途中に太田がある)はワンマン運転になったとか。
 急行のりょうもう号が特急になっている。どういうわけか?

 法務局のあと、市役所へ行き戸籍謄本をもらう。
 母の墓が近くなので、4年ぶりに墓参りに。
 離婚することを伝える。


 忙しいとはいっても映画は観ている。

 2月25日(木) 「鉄の子」(MOVIX川口)
 3月1日(木) 「キャロル」(TOHOシネマズ みゆき座)
 3月3日(木) 「友情」(アトリエ春風舎) ※これは芝居
 3月8日(火) 「ヘイトフル・エイト」(丸の内ピカデリー)

 感想は別項にて。




 本日、ブックカフェ二十世紀は貸切。テレビ東京の某番組(春の特番らしい)の収録が行われた。
 12時にスタッフが集合して準備が始まり、15時から番組収録。30分番組を3回分。収録自体は19時に終了した。同時に僕の勤務も終了してあとはオーナーのSさんにバトンタッチして帰宅の途へ。
 カウンター内で収録模様を見学していただけなのに、やけに疲れた。

 ブックカフェ二十世紀のイベント告知でFC2のブログやFBを更新しなければならない。FBの場合、ログインするために個人のアカウントを取得した。取得したとたん友だち申請のメールが次々と送られてきている。
 皆承認しているけれど、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。なぜならあくまでも僕のフィールドはこの「もうひとつの夕景工房」であり、FBには興味ないので。

 mixiをやりはじたころを思い出す。
 あのときmixiが何なのかもわからずに招待されたので入会したら、自分のページができて、ブログを書けと。
 mixiに熱中した人たちが今はFBに移って活躍している。
 どうなることやら……




 野坂昭如の訃報に叫んでしまった。病気を患って長いこと表舞台に登場しなくなっていたし、年齢的な問題(85歳)もあったのだから、もっと冷静でいてもいいはずなのに。

 「フリースタイル30」の小林信彦インタビューで、野坂昭如を話題にしていたからだろう。ラジオ番組で永六輔や前田武彦が最初にフリートークをやった思い出話から、三木鶏郎事務所時代の野坂昭如の話になる。当時、永六輔に疎まれていたんだと。先日、(野坂昭如が書いた)「マスコミ漂流」が送られてきたので読んだ、自分(小林信彦)のことがでてくるのでしょうがなく等々、けっこう突き放した対象として語っている。
  
 週刊文春の見開き2頁のエッセイは、21世紀の今は、林真理子、小林信彦、椎名誠(もう連載は終了)が有名だが、昭和の時代、80年代は、野坂昭如、向田邦子、田辺聖子がその位置にいた。僕が文春を買いだしたころはこの3人がメインだった。

 70年代は、花の中年御三家の一人として認識していた。「マリリン・モンロー・ノーリターン」はしばらくの間「マリリン・モンロー・ノータリン」だと思っていた。モンローはあまり頭がよくない、でもかわいい女なんだと歌っているのだと。これ、別に作っていない、本当のこと。
 永六輔にしても、小沢昭一にしても、著作を読んでいるのに、野坂昭如だけは、これまで1冊も読んだことがない。不思議なもんだ。
 「マスコミ漂流」は読もうと思っている。

 ところで、「火垂るの墓」は二度と観たくない映画である。観ると号泣なんてものではないのだから。

 合掌




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
私家本「僕たちの赤い鳥ものがたり」
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」

神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。遊びにきてください。

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