承前

 続いて、2000年代になってから観た、読んだ、映画や書籍のレビューをUPする。

     ◇

2000/07/13

 「ボーイズ・ドント・クライ」(渋谷シネマライズ)

 ミスターレディ(ニューハーフ)とともに〈おなべ〉がマスコミに登場して話題になったとき、どこから見ても男にしかみえない彼女たちの容姿に驚くと同時に、男らしさの中に〈女〉を感じて実によこしまな考えを夢想したものだ。
 アダルトビデオの企画の1つで、見るからに男らしい〈おなべ〉を最初はAV女優がインタビューし、徐々にノセて全裸にさせてから、ファックシーンにもっていき、本人にはわからない形でAV男優に交替して最後には女の喜びを感じさせるというもの。
 妖艶な女性よりどちらというと男、というか少年っぽい女性がある瞬間に女らしさを垣間見せた方がエロティシズムを感じてしまうのは僕だけだろうか。

 「ボーイズ・ドント・クライ」に興味を抱いたのは性同一性障害がどうのといった社会的問題に対する関心より、主演女優がどんな男っぷりを見せてくれるか、そこにどんなエロスを感じられるか、という不純な動機からだった。

 数年前、吉本多香美主演の「樹の上の草魚」を観た。
 薄井ゆうじの原作は男として育てられた両性具有の青年があるときを境に肉体的にも完全に女性に生れ変わり、変化に対する心の揺れ、幼なじみの友人との微妙な関係(友情から恋愛)を描いた透明感あふれるある種ファンタジーとも呼べる恋愛小説である。
 小説世界にとても感銘を受け、だからこそ映画化には不安を覚えながらも、本物の肉体を持つ女優が男と女をどう演じわけるのか興味津々だった。しかし当時ボーイッシュだった吉本多香美といえども、女性に変身する前の男役には無理があったといえる。全体から醸し出される雰囲気は明らかに女なのだ。
 トランスジェンダー、トランスセクシャルを扱う映画(ドラマ)はそれが実写でシリアスな場合、非常にむずかしい問題をはらんでいると思う。性転換あるいは女装、男装した主人公がまず〈絵として〉納得できる容姿をしていなければならない。
 この手の話はコメディーがお似合いなのかと思っていたら「ボーイズ・ドント・クライ」の主演女優(ヒラリー・スワンク)が本年度のアカデミー主演女優賞を受賞と知り、がぜん興味がわいた次第。

 映画は1993年アメリカのネブラスカで実際に起きた事件を題材にしている。ドラッグづけの若者たちの生態をロックをふんだんに挿入しながら描く手法は「トレインスポッティング」の影響をかなり感じる。
 性同一性障害の主人公が見知らぬ町で〈男として〉あるグループの男女と親しくなる。グループの中の女性と恋仲になるが、彼女が女だとわかるとまわりの連中は手のひらを返したように冷たくなる。中でも彼女を男だと信じていた男たちは裏切られた腹いせに彼女をレイプし、警察に被害届をだしたと知ると怒り狂って射殺してしまうのだ。
 ヒラリー・スワンクはオスカーを受賞しただけあって、ブランドン・ティーナという〈男〉を好演している。顔だけじゃなく身体つきまでそれっぽく見せるなんてさすが。彼女の存在なくしてはこの映画は成り立たなかっただろう。役作りの確かさにおいてもアメリカ映画は懐が深い。

 変な意味ではなく、映画の見所は主人公が怒り狂った男友だちに衣服を脱がされ、正体をばらされるところだ。男物のパンツを剥ぎ取られるとそこにははっきりとヘアだけが映しださる。姿形は男なのにやはり肉体は女であることが一瞬にわかり、そんなことはわかりきっているこちらも劇中の男たち同様衝撃を受けてしまう。ここに例のボカシが入ったら、映画のテーマがそれこそボカされてしまっただろう。
 この後、時間がとんで、レイプされた主人公が警察との取り調べで過去を回想することになるのだが、ここだけ回想形式になるのがわからない。実際の事件に取材しているのだから、時系列でエピソードをつないだ方が自然だと思うのだが。
 だまされた恋人がそれでも主人公を受け入れているというのに、最後に射殺され、部屋を貸していた(それも幼子をかかえた)何の罪のない女友だちまで殺されてしまうラストは何とも後味が悪い。

 観終わって、いろいろ考えさせられた。
 ゲイとかレズと違い、あくまで心は異性として同性を好きになる性同一性障害はやっかいな障害だと思う。精神的な病気はなってみないとその実状がわからないからなかなか一般には理解されない。 もし自分が精神は今のままで性別だけ変わったとしたらどう反応するか考えてみればいい。僕だったら1日や2日、期間限定だったら大いに楽しむが、一生となると気が狂うんじゃないかと思う。  
 ネブラスカという田舎町でなかったら、こんな惨劇も起きなかっただろう。
 実際、だまされたといえ、あまりに過剰反応する連中の気持ちがわからない。やっていることは何かと反体制的なのに、性に限っては保守的ということか。
 ラスト、一緒に逃避行をはかろうとする主人公に同意する恋人が部屋にもどり、支度している最中、迎えにきた主人公の髪型の変化に、ふと〈女〉を感じて一瞬躊躇してしまうシーンがある。微妙な女心が垣間見られ印象的なシーンとなっている。

 「ボーズ・ドント・クライ」というタイトルは挿入曲からとったものだとエンディングタイトルでわかった。


2000/08/02

 「性同一性障害 -性転換の朝」(吉永みち子/集英社新書)

 映画「ボーイズ・ドント・クライ」を観たからというわけでもないけれど川口中央図書館に行ったらまるで読めとばかりにおいてあったので借りてきた。
 妊娠中の女性が情緒不安定な場合、生れてくる子ども(男の子)がおかまになる確立が高い、と聞いたことがある。
 性同一性障害も胎児期の性決定メカニズムの狂いが原因とのことだが、どうしてそうなるのかはよくわかっていないらしい。
 「ボーイズ・ドント・クライ」の感想でTG、TSなんて言葉を使ったけれど、本質的な部分で何もわかっていない。
 TV(トランスヴェスタイト)は服装倒錯者、異性装嗜者を指す。TG(トランスジェンダー)は社会的に異性として扱われたい、だが性器まで変換しようとする意識は希薄という人たちを総称していう。それに対して心身ともに異性になりたいというのがTS(トランスセクシャル)だ。
 この世界も何かと奥が深い。

 性同一性障害という言葉が一般化したのは埼玉医大総合医科特別チームの性転換手術が認可されたことが大々的に報道されてからだと思う。それまで性転換手術は海外で行うのが常識だった。
 モロッコといえば名画「外人部隊」の舞台になったところとして有名だが、僕にとっては長い間性転換手術する国という認識だった。カルーセル麻紀の性転換手術はそれくらい小学生にはインパクトがあったのだ。
 なぜ日本で性転換手術がタブー視されていたのかも説明されている。
 昭和39年の〈ブルーボーイ事件〉が原因だという。3人のゲイボーイの睾丸の全摘出手術を執刀した町医者が優生保護法違反で検挙された事件だ。
 とにかく性同一性障害に苦しむ人たちに光明が射したことは確かなことであり、めでたいことではあるが、本書で取材されている数人の性同一性障害の男女が歩んできた足跡にはとてつもない苦労がしのばれる。
 誰もがカミングアウトしてショーパブで働けるわけではない。普通の人が普通の場所で静かに暮らしたいと考えるという方が当たり前なのだ。

 しかしいつも思うのだが、人はなぜこの手の人たちを白眼視するのだろう?
 子どもころ、手塚治虫「リボンの騎士」のアニメやコミックに夢中になった。ヒロイン・サファイアが自由に男になったり女になったりするのが楽しかった。手塚マンガにはこうした男装・女装のキャラクターが登場するものが多く、手塚マンガの特にそういう部分に興味を持っていた僕はたぶんに刷り込みもあるのだろう、〈おかま〉や〈おなべ〉あるいは性転換した人に対する偏見というものはない。
 大学1年のGWに彼女に会いに仙台に行ったときのことだ。上野駅で特急列車に乗ると、おかまの3人組が同じ席になって、意気投合した僕はまわりの冷たい視線は何のその、仙台まで大騒ぎしたものだった。リーダー(?)の名前は〈フジコ〉といった。「東京にもどったらお店に遊びに来てね」と仙台で別れてそのままになってしまったけれど、彼らともっと話しをしたかった。僕にはその気がないので、相手が〈性の相手〉として接してくれば頑なに拒む。が、いわゆる〈友だち〉としてだったらとことんつきあってもいいと思う。

 だから本書でも触れられている、映画「ボーイズ・ドント・クライ」の題材になったブランドン・ティーナ事件には暗澹たる気持ちにさせられる。
 実際の事件は映画以上に悲惨である。カミングアウトして自分の選択を堂々と主張、自信をもって男性として生きると宣言したティーナだったが、男友だちの怒りをかってしまった。男友だちはだまされていた悔しさ、性を変えるという行為への憎しみによってティーナを輪姦し殺害してしまった。 
 そんなに男どおしの友情って崇高なものなのか? 女から男に(あるい男から女に)なる行為はそんなに憎むべきことなのか?
 本書でも再三指摘されている〈第3の性〉というのをまじめに検討してもいいのではないだろうか。


2001/02/07

 「ブレンダと呼ばれた少年 ジョンズ・ホプキンス病院で何がおきたか(ジョン・コラピント/村井智之 訳/無名舎)

 吉永みち子の「性同一性障害 -性転換の朝」(集英社新書)の中で紹介している事件でもう一つ詳細を知りたくなったものがあった。
 8ヶ月の双子の兄弟の兄の方が包皮切除手術に失敗してペニスを喪失、動揺した両親は性科学の権威・ジョン・マネーの強い勧めで、この子を性転換させることにした。
 以後女の子として育てられたその子は順調に経過していると発表され、メディアはキンゼーレポート以来の偉大な発見と書き立てた。
 が、実態はまったく逆だった。成長するにつれ、次第に女性としての違和感を持ってきたその子は精神のバランスがとれないくらいに追いつめられ、苦悩し、暴れ、最終的に男性にもどったという。
 この事件を綿密な調査、取材でフォローしたレポートが「ブレンダと呼ばれた少年」だ。ブレンダとは少女時代の名前のこと。

 小説、マンガには男が女になってしまうという物語がある。ある日突然女になってとまどうが、やがて女の喜びを知るというパターンだ。〈性転換〉ものとでもいうのだろうか。
 薄井ゆうじの「樹の上の草魚」(講談社文庫)はこのパターン(プロット)をうまく文学に転化させ新しい恋愛小説を創造した。
 デイヴィッド・トーマスの「彼が彼女になったわけ」(法村里絵訳/角川文庫)は歯の治療で入院した青年が病院側のミスで性転換手術をされてしまう悲喜劇で、彼が女性になるために悪戦苦闘する姿をとおして、女性という生き物の内面的、外面的気苦労がわかる仕組みになっていた。
 驚いたのはこの手の小説をさかんに書き綴るマニアがいることで、作品を収集、発表している専門サイトも存在する。僕自身小学5、6年の頃、この手のマンガを描いたことがあり、興味ある世界だ。
 が、映画「ボーイズ・ドント・クライ」や前述の新書「性同一性障害」の項でも書いているとおり、これらに描かれていることはあくまでも虚構の世界、好事家が思い描くファンタジーでしかない(やおいの世界に通じるものがある)。実際に自分本来の性と違う身体になった場合、精神的苦痛は計り知れないものがあると思う。

 で、ジョン・マネーである。本書を読む限りマッド・サイエンティストとしか思えない彼は「性別の自己認識は環境的要因によって決まる」という理論を実践するため、幼児期にペニスを喪失した子を格好のモルモットにしたに過ぎない。
 面接時には研究のため年端のいかないブレンダに卑猥な言葉をあびせ、ポルノフィルムを見せる、ブレンダがいやがっても容赦しない。ブレンダが両親に訴えても博士を盲信する両親は聞く耳をもたない。ブレンダの真の叫びを聞かず、自分の研究に都合よく学会に発表する。
 女として育てられた〈少年〉はやがて思春期になると局部の整形<性転換>をすすめられる。
 間違えやすいのは〈少年〉は事故後にすぐに性転換させられたわけではないこと。ペニスを喪失した後は身体が成長するまで性器の整形はまたねばならず、定期的な女性ホルモン注入と服装、しぐさ等の矯正の育てられていたのである。
 博士に局部整形を勧められると〈少年〉は激しく抵抗する。両親もその他の医師もみな今後のことを考慮し〈少年〉に整形を勧めるのだ。ジョン・マネーに「NO」と言える者は誰もいない。
 八方塞になった〈少年〉は自殺を繰り返し、ようやく心の内を理解してもらうことができ、男性にもどる。人工のペニスを造型、今では結婚して幸せな人生を歩んでいるという。

 この本には幼児期から思春期にかけての〈少年〉の写真が掲載されている。女の子の格好はしているけれど僕には女性には見えなかった。写真でさえそうなのだから、一緒に生活していた親や診察にかかわった医師たちにはその違和感がもっとわかっていたはずだ。〈少年〉の自殺は未遂で終わったからよかったものの、もう少しで若い命を失うところだった。ジョン・マネーおよび彼に与した関係者たちはもしかしたら殺人者になっていたかもしれないのである。
 こんなデタラメな研究をしているジョン・マネーがこの事件以降も処罰の対象にならないばかりか権威が失墜しなかったというのが不思議。だいたいペニス喪失=女性化という論理がわからない。当時(1967年)の技術ではペニスの造型より膣の形成の方が容易だったと説明しているが、本人の承諾もなしに勝手に性を決めてしまう行為が許されてたまるものか。
 性同一性障害、半陰陽といった問題からかけ離れたところで性転換が議論されているから怒りがこみあげてくる。

 もうひとつ。これも大いなる、そして根本的な疑問なのだが、アメリカではなぜ幼児に包皮切除手術をするのだろうか。子どもの頃の包茎なんてあたりまえのことだし、手術しなければこんな問題も起きなかったはずだから。


2006/07/30

 「トランスアメリカ」(シネスイッチ銀座)

 樋口可南子のヘアヌード写真集以来、いつのまにか映画でもヘア解禁になっている。これは一般映画の描写においてとてもありがたいことだと思うことがある。
 性同一性障害を主人公にした映画では、2000年に公開された「ボーイズ・ドント・クライ」という実際に起きた悲惨な殺人事件を扱った作品がある。
 感想にも書いていることだが、外見上はまったくの男性なのに、身体は女性という事実を一瞬のうちにわからせるシーンに衝撃を受けた。ずばり主人公の股間を捉えたショットだ。このショットに、もしボカシが入っていたとしたら映画のテーマはそれこそぼやけてしまったことだろう。
 ありがたいと思うのはこういうときだ。
 大昔のことだけれど、アロン・ドロン主演「太陽はひとりぼっち」で、女性のヘアが描かれたボールペンが映されるところで、しっかりそこだけボカシが入ったらしい。あるコラムで読んで、映倫は何考えているんだと呆れたものだ。
 「太陽はひとりぼっち」、小学生5、6年だったか、映画は観たことないのに音楽が大好きで、放送部員になった際、給食の時間にレコードをかけまくっていたことがある。関係ないか。

 「トランスアメリカ」の主人公は「ボーイズ・ドント・クライ」とは逆の、心が女性の男性。それも中年の少々くたびれた外見を持つ。この主人公を女優(フェリシティ・ハフマン)が演じていることでこの映画に注目した。素顔は美貌なのに、メイクと演技(特に発声)でスクリーンの中では女装している男性に見えてくるから不思議。それも時間が経つにつれて魅力的になっていくのがニクい。ちょっと衣装のセンスやメイクを変えるだけなのに。
 最近企画の貧困で悪あがきをしていると感じないでもないアメリカ映画だけど、こういうメイクアップ技術は、役者の演技力を含めて、日本映画の数段上をいく。とうていかないそうもない。

 ロサンゼルスに住むブリー(フェリシティ・ハフマン)は性同一性障害を持つ男性で、普段は女装して女性として毎日を送っている。女性ホルモンで胸は人並みに膨らんでいるが、身体はまだ男性のまま。股間の膨らみはガードルでしっかり矯正する涙ぐましい努力を続けている。
 カウンセリングを受けながら性転換手術を心待ちにしているブリーに朗報が。数日後に手術が確定した。ところがそこに問題が起きた。かつてまだ外見的も男性だった頃にガールフレンドと関係を結んで出来た息子(ケヴィン・ゼガーズ)と会わなければならなくなったのだ。母親は急死している。過去を捨てたブリーにとってあまりに唐突で受け入れたくない事実。しかし、カウンセラーの勧めで、というか問題を解決しなければ手術を受けられないとあってはやらざるをえない。
 ニューヨークまで出かけ、窃盗罪で留置所に入っていた息子を保釈金(1ドル!)払って引き取った。もちろん正体は明かさない。教会から派遣されたボランティア女性と偽ってのことだ。引き取った息子をどうするか。養父のところへ連れていこうと一計を案じたブリー。
 こうして不思議な関係の父(母?)と息子の大陸横断の珍道中が始まった……。

 映画はいたるところに笑いの要素を入れ、音楽も多用、観客は軽い気持ちで観ていながら、親子の関係のあり方を考えることになる。

 冒頭でヘアにボカシが入らない現状について述べた。ただしそれはあくまでも女性のそれ。男性だったら当然〈男性自身〉が写り込むことになる。そういう場合、映倫はどう対処するのだろうか。素朴な疑問が解消された。答えはOK。
 ブリーと息子が車でロサンゼルスに向かう途中何度か野宿する。ブリーは小用のたびトイレットペーパー片手に藪の中に消えるのだが、ある時車のそばで済ます。しゃがんでスカートをたくし上げ放尿するやいなや、獣の鳴声か何かの音におののき思わず立ち上がってしまうのだ。そのまま普通の男性のように用をたして、その際しっかり〈男性自身〉が見え、息子に目撃されてしまうという展開。
 これには大笑い。その様がおかしいということもあるのだが、実際に演じているのが女優であるということがポイントだ。つまり〈男性自身〉は作り物。にもかかわらず実に良く出来ていて、それを右手(だったか?)でつまんで中腰で小用するところがいかにもってな感じに反応したのである。
 作り物だからボカシが入らないのかとも思えたが、もうひとつのシーンで確信に変わった。
 二人がヒッチハイクの青年を途中で同乗させる。とある湖畔(池? 沼?)でこの青年と息子が全裸になって泳ぐシーンで、青年が池からあがってこちらに振り向く際にそれは見えるのだ。まわりの女性の唾を飲み込む音が聞こえた。っていうのは嘘だけど。もしかしたらこういうのってすでに当たり前になっているのだろうか。

 珍道中の後に息子と養父の感動的、実は屈辱的な再会、ブリーの家族(両親と妹)との再会と続き、特に息子の、養父と過去が暴かれるくだりでは、いやおうなく現実を直視しなければならない。どんなふうにエンディングにもっていくかと興味津々で見守っていると、あっけなくやってきた。なるほど、そうきたか。
 「ボーイズ・ドント・クライ」のような、後頭部を重石でなぐりつけられたような、観終わって感情をかき乱される、深く考え込まされる内容ではない。コメディーでもないが、軽さ(笑い)の中に渋み、苦さがあって、それがいい。
「おもしろかったね」
「観てよかったね」
 劇場を出るとき、前を行く若い女性二人連れの会話にうなづいていた。




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 書き忘れていたが、2月28日(火)の午後、新宿ピカデリーで「サバイバルファミリー」を観ている。
 3月になってからは、地元MOVIX川口で次の作品を観ている。
 7日(火) 「彼らが本気で編むときは、」
 12日(日) 「チア☆ダン 〜女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話〜」
 14日(火) 「相棒 劇場版Ⅳ」

 で、「彼らが本気で編むときは、」である。
 かつてこのブログに書いた文章を加筆訂正(一部削除)して、「まぐま」の手塚治虫特集に寄稿した。
 タイトルが長い。

     ◇

 トランスセクシャルと手塚マンガ  
 ジェンダー論なんてこむずかしい話ではなく、腐女子に人気なのがBLものなら、その対極には略称〈少年少女文庫〉あるいは〈強制女装〉ものがあり、少年が少女に変身(性転換)する過程に萌えるという文化には、その根っこに手塚マンガが大いに関係しているのだ! と、小学生時代「リボンの騎士」に夢中になった私が主張する経緯と理由


 もう8年前になるのか。
 フジテレビで日曜午後2時から放送されている「ザ・ノンフィクション」で「性同一性障害の恋人たち ~精神科診察室の物語~」を観たことがある。
 心が女性の男性とその逆の女性が、性転換手術を受けるために一緒にクリニックに通う日々を取材したものだ。割れ蓋に綴じ蓋。うまい具合にカップルができたものだと感心した。ネットの、その手のサークルで知り合ったという。
 好きな彼女がレズビアンで、女の子にしか興味がない、そこで、自分が女性になって恋愛を成就しようとする男性のブログがあった。彼女も応援してくれて、徐々に女性へと生まれ変わっていく、そんな日記が綴られていくのだが、フィクションだろうと睨んでいる。彼女がレズだから女になる、そんな男性の精神構造が信じられないからだ。
 このドキュメンタリーでは、男性、女性、性同一性障害の男性、女性、それぞれの脳のある一部のレントゲン写真を見せてくれた。確か人間の性を形づくる部分とか説明があった。驚いたことに、性同一性障害の男性と女性のそれがほとんど同じなのだ。
 性同一性障害の男性の両親は同世代。ここで考えてしまった。もし、自分の息子が「女になりたい」と言い出したらどう反応するだろうかと。うちは娘だから「私は男になりたい」と言われたらどうするか。環境とか育て方とかの問題ではない。脳の写真が証明している。明らかに疾患なのである。

 トランスセクシャル、今は〈TS〉という言葉で括られる事象に興味を持ったのは手塚治虫のマンガがきっかけだった。
 小学2年のとき、アニメ「リボンの騎士」に夢中になった。コミックスも揃えて何度も読み直した。
 サンケイ新聞に連載されていた「青いトリトン」(アニメ化で「海のトリトン」に改題)は、前半がトリトンの兄、和也の冒険譚だった。ある船にしのびこんだ(?)和也が船長の部屋をのぞくと、着替えをしていて、実は女ではないかと思わせるコマがあった。この何気ない絵に興奮した(コミックスにはこのカットがない)。
 隔週刊の少年チャンピオンに連載されていた「ザ・クレーター」では死んだ少女の心が、ある一定期間主人公の男の子にのりうつるというエピソードがあった。
 これら一連の描写にある種の感情が芽生えた。〈萌え〉なんて言葉は当時なかったが。
 同じチャンピオン連載の永井豪「あばしり一家」にも宇宙船から放たれた光線を浴びた吉三(あばしり家の三男)がみるみる女の子に性転換して右往左往するなんて回があった。「リボンの騎士」より直截的に肉体の変化を描いていて、少年の心がうずいた。
 そんな物語に影響されて男から女へ強制的に性転換手術させられるマンガを描いたことがある。小学5年だったか、6年だったか。かなりマセていた、というか、「お前何考えてるの?」と言われても仕方ない。

 それはともかく手塚マンガにはこの手の話が多い。
 「どろろ」の最終回でどろろが女の子であることが判明する。「ブラック・ジャック」にも卵巣を失った女性がブラックジャックの手術で男性に生まれ変わって生きていく話がある。
 驚愕したのは「ミッドナイト」の最終回だ。事故で再起不能となった主人公の脳が直物人間になった恋人に移植されるのだ。つまり主人公は女になって生きていくというわけで。
 性転換ものは今では一つのジャンルになっている。マンガだけでなく小説でも題材になっている。手塚マンガの影響とみていいのだろうか?




2016/01/28

 「ゴジラ東宝チャンピオンまつりパーフェクション」(電撃ホビーマガジン編集部/KADOKAWA/アスキー・メディアワークス)

 このムックは書店で見かけるたびに立ち読みしていたのだが、図書館で見つけ借りてきた。書店ではパスしてしまうページがじっくり読めた。

 東宝特撮怪獣映画は最初父に連れられて観ていた。小学生の高学年になると友だちと一緒に観るようになった。チャンピオンまつりは友だちと一緒に観た方だ。チャンピオンまつりの第一弾はしっかり覚えている。「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」は69年の冬休みの公開。というと、うちの郷里では春休みに上映されたのか。だったら5年になる春休みだ。とてもがっかりした。この映画は大人に、それも親にならなければ良さなんてわからないだろう。「帰ってきたウルトラマン/ウルトラ5つの誓い」と同じだ。

 東宝チャンピオンまつりは1969年から始まり1978年に終了した。
 僕が小学4年生から大学受験に失敗して東京の予備校に通いはじめたころまでということになる。
 「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」で卒業して、以降は足を運ばなかった。

 70年春期の「キングコング対ゴジラ」はなぜか「キングコングの逆襲」に差し替えになった。当初、クラスの友だちと「キングコング対ゴジラ」を初めて鑑賞できるとあって感激しながらどちらを応援するか話し合っていたのに、実際上映されたのは「キングコングの逆襲」。ちょっとがっかりしたのだが、映画そのものには感動して、1日中映画館にいて繰り返し観た。

 「ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 南海の大怪獣」は「南海の大決闘」以降のゴジラ映画にうんざりしていた僕にはとても新鮮で実際映画はよくできていた。

 「怪獣大戦争 キングギドラ対ゴジラ」は「怪獣大戦争」の短縮版。とはいえ僕にとっては初めて観た映画なのだが、初めて感銘を受けなかった怪獣映画なのである。シェーするゴジラは嫌だったし、宇宙空間に怪獣は似合わないと思った。

 チャンピオンまつりの歴史をまとめると以下のようになる。
 
 ■1969年 冬期
 「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」
 「巨人の星 行け行け飛雄馬」
 「コント55号 宇宙大冒険」

 ■1970年春期
 「キングコング対ゴジラ」
 「巨人の星 大リーグボール」
 「アタックNo.1」
 「やさしいライオン」

 ■1970年夏期
 「ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 南海の大怪獣」
 「巨人の星 宿命の対決」
 「アタックNo.1 涙の回転レシーブ」
 「みにくいアヒルの子」

 ■1970年冬期
 「モスラ対ゴジラ」
 「柔の星」
 「アタックNo.1 涙の世界選手権」
 「昆虫物語 みなしごハッチ」

 ■1971年春期
 「怪獣大戦争 キングギドラ対ゴジラ」
 「アタックNo.1 涙の不死鳥」
 「みなしごハッチ お月さまのママ」
 「いなかっぺ大将」
 「ムーミン」

 ■1971年夏期
 「ゴジラ対ヘドラ」
 「帰ってきたウルトラマン」
 「みなしごハッチ 傷だらけのバレリーナ」
 「いなかっぺ大将 猛獣の中にわれ一人だス、オオ!ミステークだス」
 「日本むかしばなし わらしべ長者」

 ■1971年冬期
 「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 地球最大の決戦」
 「帰ってきたウルトラマン 竜巻怪獣の恐怖」
 「みなしごハッチ 忘れな草に願いをこめて」
 「いなかっぺ大将 猫も歩ければ雀に当たるだス、当たるも当たらぬも時の運だス」
 「マッチ売りの少女」

 ■1972年春期
 「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」
 「ミラーマン」
 「帰ってきたウルトラマン 次郎くん怪獣にのる」
 「かしの木モック」
 「みなしごハッチ ママにだかれて」
 「天才バカボン 夜まわりはこわいのだ」

 ■1972年夏期
 「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」
 「ミラーマン 生きかえった恐竜アロザ」
 「赤胴鈴之助」
 「天才バカボン 別れはつらいものなのだ」
 「かしの木モック ぼくはなかない」

 ■1972年冬期
 「ゴジラ電撃大作戦」
 「怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス」
 「パンダコパンダ」

 ■1973年春期
 「ゴジラ対メガロ」
 「飛び出せ!青春」雨ふりサーカスの巻」
 「パンダコパンダ 」
 「ジャングル黒べえ」

 ■1973年夏期
 「怪獣島の決闘 ゴジラの息子」
 「レインボーマン 殺人プロフェッショナル」
 「ウルトラマンタロウ ウルトラの母は太陽のように」
 「科学忍者隊ガッチャマン 火の鳥対火喰い竜」
 「おもちゃ屋ケンちゃん よそではいい子」
 「山ねずみロッキーチャック ロッキーとポリー」

 ■1973年冬期
 「キングコングの逆襲」
 「侍ジャイアンツ ほえろバンババン」
 「ウルトラマンタロウ 燃えろ!ウルトラ6兄弟」
 「山ねずみロッキーチャック がんばれチャタラー」
 「エースをねらえ! テニス王国のシンデレラ」
 「科学忍者隊ガッチャマン 電子怪獣レンジラー」

 ■1974年春期
 「ゴジラ対メカゴジラ」
 「新造人間キャシャーン 不死身の挑戦者」
 「侍ジャイアンツ 殺生河原の決闘」
 「アルプスの少女ハイジ」
 「ウルトラマンタロウ 血を吸う花は少女の精」
 「ハロー!フィンガー5」

 ■1974年冬期
 「燃える男長島茂雄 栄光の背番号3」
 「モスラ」
 「海底大戦争 緯度0大作戦」

 ■1975年春期
 「メカゴジラの逆襲」
 「新八犬伝 第一部芳流閣の決斗」
 「アグネスからの贈りもの」
 「アルプスの少女ハイジ 山の子たち」
 「はじめ人間ギャートルズ マンモギャー」
 「サザエさん 送辞をよむぞ!」

 ■1976年春期
 「ピーターパン」
 「ミッキーのがんばれ!サーカス」
 「ドナルドダッグのライオン大騒動」
 「チップとデールの怪獣をやっつけろ!」
 「ドナルドダッグの人食いザメ」
 「元祖天才バカボン」
 「勇者ライディーン」
 「タイムボカン」

 ■1977年春期
 「キングコング対ゴジラ」
 「巨人軍物語 進め‼栄光へ」
 「ヤッターマン」
 「円盤戦争バンキッド」
 「まんが日本昔ばなし 桃太郎」

 ■1978年春期
 「地球防衛軍」
 「ルパン三世 ベネチア超特急」
 「新・巨人の星 嵐の中のテスト生」
 「家なき子 はじめての友だちグレース」
 「まんが日本昔ばなし かぐや姫」

 詳細なデータのほかに佐原健二、高橋厚子、麻里圭子、石川博、川瀬裕之、大門正明、藍とも子、坂野義光、中野昭慶のインタビューが読める。




 三連休を使ってかみサンの実家(大分県佐伯市)へ行ってきた。うちは飛行機が嫌いなので、往復ともにブルートレイン〈富士〉を使って。9日(金)の夕方に東京駅を立ち、本日10時ちょっと前にまた東京駅へ。
 現地1泊の、少々あわただしい日程だったが、ブルートレインの旅はゆったりとしていて疲れない。新しい出会いもある楽しい旅だった。
 この件については、項を改めて。

          * * *

 承前

 表2は、松竹映画「愛と誠・完結編」の広告だ。早乙女愛と加納竜の主演。そんな映画、確かにあったなあ。表4はジャン・ポール・ベルモンド主演の「危険を買う男」。
 黒澤明が復活して、ソ連で「デルス・ウザーラ」を撮った後なので、増刊「黒澤明ドキュメント」の広告もある。第Ⅰ部「デルス・ウザーラ」、第Ⅱ部・黒澤映画創造の秘密、第Ⅲ部・事典・参考文献・年譜。

 この号は「愛のコリーダ」も特集している。大島渚監督による日本初のハードコア。主演は松田英子と藤竜也。アルゴス・フィルム=オセアニック=大島渚プロダクション、東宝東和配給の表記がある。カラー2P、モノクロ5P。
 ラウレンティス製作の「キングコング」が撮了したことを伝える2P。貿易センタービルから墜落死したコングのショットが何枚か掲載されている。
 「冒険喜劇大出世」1Pのあとが、お待ちかね「犬神家の一族」だ。
 〈横溝ミステリの完璧映画化/監督市川崑/角川春樹事務所第1回作品〉。見開きで横溝正史と金田一に扮した石坂浩二が語らっているカットがいい。
 その他、紹介されている映画は、マーチン・スコセッシ監督の長編2作め「明日に処刑を…」、バート・ランカスター、ソフィア・ローレン主演の「カサンドラ・クロス」、マリリン・チェンバース主演のハードコア「グリーンドア」、コッポラ監督の「地獄の黙示録」第一報も。
 東映は「太陽の恋人アグネス・ラム」「爆発!750CC族」「男組・少年刑務所」の3本立て。「爆発!750CC族」には町田(政則)さんが出演しているのではないか?

 「六輔七転八倒」というタイトルの1ページコラムがある。この連載が終了して「小林信彦のコラム」が始まるのだ。このコラムに夢中になって、1冊にまとまる(「地獄の観光船」)と、迷わず購入。以来、熱狂的なファンになる。
 「第一回湯布院映画祭」の開催を伝えるページもあって、今ではすっかり有名になった地方の映画祭がこの年に始まったことを知る。この映画祭で、湯布院が僕にとって憧れの温泉郷になった。

 記事のトップが「顔と言葉」。横溝正史が「映画の中の金田一耕助の思い出」のタイトルで書いている。
 金田一のモデルは、劇作家の菊田一夫だという。この人にサトウ・ハチローのイメージも入って、最初は〈菊田一耕助〉にしようとして、〈菊田一〉ではちょっとへんなので、なまって〈金田一〉になったとか。金田一京助にはまったく関係ないのか、と当時思ったような。

 座談会のメンバーは、監督の市川崑、プロデューサーの角川春樹、音楽を担当した大野雄二の3氏。司会は編集長の白井佳夫だ。以前、角川春樹が崑監督に「犬神家の一族」をオファーする際、「吾輩は猫である」ではなく、「雪之丞変化」のような映画を注文したと書いたことがある。それはこの座談会の記事で知ったことなのだが、三十数年ぶりに読んだら、若干違っていた。角川春樹が前売り券を購入してもらった銀行・支店長の言葉だった。
「最年少のプロデューサーと最年長の映画監督」と角川春樹が言えば、すかさず崑監督が「最年長ではない(笑)」と否定する。このとき崑監督60才。写真を見ると、実に若い。
 白井佳夫が言うには、この座談会は(これまでに比べて)とても盛り上がったらしい。その要因に角川春樹という外部の世界の血が、映画界に輸血されたことが、巧くいっている証明と語っている。
 しかし、その後、キネマ旬報を退社し、映画評論家になった白井佳夫が角川映画に批判的になると、角川春樹は、試写会からシャットアウトしてしまう手段にでる。なんだか大人気ない。

 シナリオ(長田紀生・日高真也・市川崑)も掲載されている。ミステリなので、公開時まで犯人を知りたくないと読むのを我慢した。
 なのに、なのに、モノクロのスチールに、高峰三枝子が静馬の頭に斧を振り下ろそうとしているところがあって、嗚呼! 

 白井佳夫は、この号のあと、少しして編集長を解任されてしまう。オーナーと喧嘩したのだ。その原因となった広告が掲載されていた。竹中労の連載「日本映画縦断・73 山上伊太郎のシナリオ・Ⅳ 〔生活の虜と情熱〕」の4ページめの上段、「浪人街」ツアー募集の囲み広告。
 山上伊太郎が亡くなったフィリピン・ラムット河畔に地蔵尊を建立するツアーに45名の(読者の)同行を募っているのだが、この募集広告がオーナーの逆鱗に触れたのだ。ツアー中に事故が起きたら誰が責任をとるのか! と。

 白井佳夫解任後、編集長は編集員で主に興行関係の記事を担当していた黒井和男に引き継がれる。この後も僕はキネマ旬報を購読し続けるが、なんだか妙に垢抜けして面白くなくなってしまうのだ。ある種のマニアックさがなくなったのは残念だった。



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「顔と言葉」

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「座談会 新しい日本映画の誕生」


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「犬神家の一族」主題曲の広告

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1976年はこの1年後





 年末、TVでリメイク版「犬神家の一族」が放映された。市川崑監督の遺作となった作品。市川崑ファン、石坂=金田一映画ファンとして、このリメイク版について、今回もあまり多くを語りたくない。ただ、ラスト、田んぼ道を一人寂しく去っていく金田一の後ろ姿に目頭が熱くなったことは確か。劇場で観たとき以上に。
「あの時代に田んぼのあぜ道が舗装されているのはおかしい!」
 公開時そう指摘した友人の言葉には耳をふさいで。

 正月に帰省して、弟の部屋(かつて半分は兄も使用)の本棚(当然、かつては兄の所有物)を眺めると、キネマ旬報が並ぶ一角があった。高校時代にせっせと買い集めていたものだ。懐かしくなって、ある号を手に取った。
 1976年10月上旬秋の特別号(No.692)。特集が「犬神家の一族」なのである。

 当時、横溝正史の小説は一冊も読んだことがなかった。もちろん、横溝ブームはすでに始まっていたし、書店に寄れば角川文庫のシリーズがいやでも目に入る。ミステリは嫌いではないから、興味はあったのだが、文庫を購入する気になれなかった。表紙のイラストが好みでなかったことと、文章に古臭さを感じたことが要因だ。
 にもかかわらず、市川崑監督が「犬神家の一族」を映画化するとのニュースに拍手喝采した。金田一探偵のキャラクターや時代設定等、こんなに映画に適した題材はない! そう勝手に考えて公開を心待ちにしていた。
 そんな期待作の情報第一弾として、〈秋の特別号〉を手にしたときの感激は忘れられない。

 1976年(昭和51年)。高校2年生だった。
 どんな年だったか、ちょっと調べてみた。
 モントリオールオリンピック。田中角栄逮捕。新自由クラブの結成。毛沢東逝去。この年、少年ジャンプに「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の連載が始まったのか。村上龍も「限りなく透明に近いブルー」で颯爽とデビューしている。
 
 この〈秋の特別号〉、ちょっと振り返ってみよう。 

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 キネマ旬報 
 1976年10月上旬秋の特別号
 

 この項続く(12日以降)






 承前

 「ジュラシック・パーク」の続編「ロスト・ワールド ジュラシック・パーク2」の単行本は1995年に出版された。またスピルバーグの監督で映画化され1997年に公開された。映画のタイトルは「ロスト・ワールド ジュラシック・パーク」。タイトルから〈2〉がとれたのは、スピルバーグに続編を撮らないポリシーがあるためだろう。
 こう書くと、「インディ・ジョーンズ」シリーズがあるではないかという反論がありそうだ。僕自身が当時そう考えていた。でもね、あれは主人公が共通なだけで、あくまでも一編、一編が独立した映画。シリーズであっても続編ではないのだ、たぶん。
 違った。フリー百科事典「Wikipedia」によると、マイケル・クライトンの小説は「ロストワールド(The Lost World)」が正式タイトルらしく、副題の「ジュラシック・パーク2」は日本向けにつけられたものだとか。そう訳者があとがきに書いていると。一度読んでいるのにすっかり忘れている。まあ、「ロスト・ワールド」だけだとオマージュを捧げたコナン・ドイルの「失われた世界(The Lost World)」と区別がつけにくいという版元の考えもあるのかもしれない。いや、ジュラシック・パークの文字がないと売り上げに影響するのだろう。
 それはともかく。

 「ロスト・ワールド ジュラシック・パーク」は、上映後から、かなり批判されたが、個人的には、ストーリーの破綻は認めつつも、とても興奮したことを覚えている。
 だいたい、恐竜の孵化、飼育を目的とした島(サイトB)の存在なんて、「ジュラシック・パーク」では全く触れられていなかったではないか。小説ではラストで死んでしまったマルカム(ジェフ・ゴールドブラム)を主人公にするのはいいとして(映画では生き残ったのだから)、あれほどの恐怖体験をした島にもう一度乗り込むものだろうか? マルカムの娘が登場する。明らかに黒人だ。ジェフ・ゴールドブラムは、WASPではない(と思う)が、かといって純粋な黒人でもない。ふたりは本当の父娘なのか? ヴェロキラプトルの凶暴さをいやというほど知り尽くしたマルコムが、夜の草原を歩くわけがない! 映画を観ている最中にいくつもの疑問が浮かんできた。 

 というように、ストーリー(シナリオ)は隙間だらけ、欠陥だらけ。スピルバーグにすれば、ストーリーのつじつま合わせより、ヴィジュアル先行だったような気がしてならない。
 とにかく観客をハラハラドキドキさせる監督の手腕に唸ったものだ。T(ティラノサウルス)-レックスによって海へ突き落とされるトレーラーのシークエンスに驚愕した。絶対絶命の危機で、トレーラーの窓ガラス上に落ちたヒロインのサラ(ジュリアン・ムーア)。ガラスにはひびが入り、動くと、ひびが広がっていって割れてしまう。しかし、動かなければ、トレーラーごと海に落ちてしまう。そのジレンマ。こんなサスペンスがあったんだ! スクリーンを凝視しながら快哉を叫んだ。(後で強化ガラスはああいうひびははいらないだろうと気がつくのだが)
 ジャングルでのT-レックスと人間たちの追いかけっこにもとんでもなく興奮。「餓亥羅」を企画しているものとして、「待ってました」の心境だった。そして、怪獣映画ファンのためのT-レックスの都市蹂躙!

 スピルバーグにとって恐竜の王者はT-レックスだった。それは「ジェラシック・パーク」を観ていればよくわかる。T-レックスにゴジラをリンクさせていることも。「ロストワールド ジュラシック・パーク」で決定的となった。
 本来なら、クライマックスはヴェロキラプトルの追撃をかわし、ヘリコプターで島(サイトB)を脱出したマルコムやサラたちが、翼竜と戦うというものだったという。技術的な問題で、まだCGで翼竜を十分に描くことができなかったので、T-レックスが海を渡って街に上陸するエピソードを採用することになった。
 コナン・ドイルの「失われた世界」はジャングルからプテラノドンをロンドンに連れ帰ってひと悶着が起きるエピソードが最後にある。「失われた世界」を映画化した「ロスト・ワールド」では、原作のプテラノドンをブロントサウルスに変更して街を破壊するシークエンスがクライマックスになっている。
 マイケル・クライトンがコナン・ドイルの作品にオマージュを捧げて同名タイトルにした小説は、映画化されると、今度は映画にオマージュを捧げられる展開になっているわけだ。ブロントサウルスがT-レックスに姿を変えたのである。同時に「GODZILLA」が公開される前に自分なりのゴジラ(による都市破壊)を映像化したかったのではないだろうか。

 原作は映画鑑賞のあとに読んだ。小説の主人公はどうなっているのか? まさか、前作でラストで死んだマルカムが主人公なわけがない。原作では別のキャラクターだったものを、映画化にあたってマルカムに変更した、と思っていたのである。
 原作でもマルカムが主人公だった。死亡説が流れたが奇跡的に一命を取り留めたとあっさり生き返ったのだ。そんなバカな! 「ジュラシック・パーク」では、絶命の瞬間も描かれているのである。
 映画「ジュラシック・パーク」が大ヒットして続編の製作が検討されたとき、マルコムの再登場という案にマイケル・クライトンがノったのではないか。自分の分身みたいな存在のキャラクター。殺すのが惜しくなった……。だからあっと驚く強引なウルトラCの処置で生き返らせた。
 しかし、やはり無理がある。ゆえに、続編の小説は、映画で生じた疑問点がいろいろと解消されたにもかかわらず、1作目に比べると明らかにパワーダウンしている。一度読んでそれっきりになった。

 今回、「ジュラシック・パーク」を読みなおしてわかったのは、この1作にすべてが含まれているということだった。もう見てみたいヴィジュアルが満載! 実際、映画「ロスト・ワールド ジュラシック・パーク」の冒頭のエピソードは「ジュラシック・パーク」からもってきたものだ。映画オリジナルの第3弾「ジュラシック・パークⅢ」は翼竜が登場して見せ場を作るが、これだって、原型は「ジュラシック・パーク」にある。
 映画しか知らない人は一度読んでみるといい。




 小説世界をそのまま映画化するのは、予算的、技術的に無理というもの。よって、映画は基本ラインを押さえながら、ストーリーも登場人物もシンプルなものになっている。子どもの観客を考慮して、T-レックスが弁護士を噛み砕く以外、直截的な残酷描写はない。

 小説と映画の違いをあげると、まず、小説の兄妹が映画では年齢が逆転して姉弟になっていること。これは、兄妹コンビをすでに「ET」で描いているので、二番煎じになるからだと推測していたのだが、実際はスピルバーグ監督が弟を演じた子役を気に入っていたためらしい。その子役を起用するのであれば、もう一人は年齢的にいって妹ではなく姉でなければならない。
 また、映画ではグラント(サム・ニール)とサトラー(ローラ・ダーン)は恋人だが、小説では大学の教授と教え子の関係にある。
 ハモンド(リチャード・アッテンボロー)のキャラクターもずいぶん違う。映画では、いつも夢を追っているやさしいおじいさんといった感じだった。小説では金儲け主義の野望に燃えた企業家。パーク関係者の誰からも嫌われている。だからだろうか、ラスト近くで恐竜の餌食になってしまう。
 ハモンドと犬猿の仲で、始終カオス理論を使って、ジュラシック・パークの破綻を説いてきたマルカム(映画ではジェフ・ゴールドブラムが演じている)もT-レックスに噛まれた傷が悪化してラストで絶命する。ところがこの二人、映画では助かって、(マルカムは大怪我はするものの)島から脱出するのである。映画がある種のハッピーエンドと書いたのは、この変更があったから。二人が助かる代わりに、小説でラストまでグランドたちと一緒に恐竜と戦う弁護士のジェナーロや恐竜監視員のマルドゥーンが犠牲になるのだった。

 映画にはグラントたちがジュラシック・パークのツアーで出かけ、途中で病気で動けなくなっているトリケラトプスに出会うシーンがある。飼育員に一ヶ月ごとの周期で繰り返す原因不明の病気と説明されると、サトラーがあたりの植物や糞を調査してその原因を追究するが、結局わからずじまい。小説では、なぜ周期的に起こるのかちゃんとサトラーが解明してくれる。罹病するのはトリケラトプスではなくステゴサウルスであるのだが。
 そういえば、映画でジュラシック・パークを訪れたグラント一行が最初に目撃する恐竜はブラキオサウルスだった。小説にはブラキオサウルスは登場しない。アパト(ブロント)サウルスなのである。

 映画はハモンドやマルカムが生き残り、あたかも続編を示唆するような終わり方だったが、小説はこの一作で完結していた。ジュラシック・パークはコスタリカ軍によって恐竜もろとも徹底的に粉砕された。関係者はコスタリカ政府によって軟禁。情報が外部に漏れないよう画策された。こうしてインジェン社の事業は闇に葬られたのだ。
 もし、続編があるとしたら、海を渡っていった恐竜たちのその後を描くことになるのだろう。たぶんないだろうが。
 だから、4年後の1997年にマルカムが再登場する続編「ロスト・ワールド ジェラシック・パーク」が公開されたのはおかしくない。が、映画の原作でもある小説「ロスト・ワールド ジェラシック・パーク2」の主人公もマルカムだとすると、にわかに信じられなくなる。
 これはいったいどういうことなのか?

 この項続く




 承前

 マイケル・クライトンの小説は単行本が上梓されてころから読みたいと思っていたものの、スピルバーグ監督による映画化を知って、映画の鑑賞を最優先にした。映画を観るまでは読むまいと。小説を先に読んだら、映画を楽しめないと思ったからだ。原作つき映画で、原作を凌駕する作品なんてほとんどない。「ジュラシック・パーク」はCGを駆使した、今までにない特撮を見せてくれると前評判だったが、ストーリー的には、活字による情報量に勝てるはずもない。それまでの経験からも、映画を先に観て後から原作をあたったほうが何かと納得がいくことがわかっていたのである。
 
 1993年の7月20日の日記にこう書いている。

     ◇
 久しぶりのスピルバーグ映画。久しぶりにスピルバーグが本領を発揮した映画ということ。
 スリル&サスペンス。
 もちろん、CGとフルモデルを巧みに使い分け、まさしく本物!と思わせるヴィジュアルも楽しみだが、ストーリーを引っ張るのは恐竜と人間の追いかけっこ。やるか、やられるか、その緊張感だ。
 オープニングで「未知との遭遇」を思い出した。ショッキングな映像の連続は「ジョーズ」を連想させた。
 SFXを少しも感じさせない。
     ◇

 同じ年、公開前にでた文庫版「ジュラシック・パーク」(マイケル・クライトン/酒井昭伸 訳/ハヤカワ文庫)は書店で見つけてすぐに手に入れていたのではないだろうか。映画鑑賞後に読み始めた。
 予想していたとおりだった。先に読んでいたら、キャスティングやストーリーの改変あるいはその展開に大いなる不満を抱いただろう。
 7月27日の日記を引用する。

     ◇
 思った通り、小説の方がストーリー展開にしろ、描写にしろ、何倍も奥行きが深いし面白い。
 これは批判ではない。
 小説と映像が同じ素材で勝負するなら、ほとんど小説に軍配があがる。
 映画と小説に続けて触れて、その表現の違いが理解できた。
 たとえば、オープニング。映画は轟音とともに暗闇の森林からブルトーザーが出現する。観客もここでもう映画の虜になるだろう。最初から何かが起こりそうな予感。しかし、すぐに物体が恐竜でないことがわかりがっかり。その後、作業員が檻の中に〈何者か〉に引きずられるシーンでまたまた興奮!
 小説では、まず事件の概要が紹介される。プロローグで奇妙な事件がいくつか起こって、さて、その真相は……的展開。映画みたいに最初から弾んでいない。
 エンディングも、映画はある種のハッピーエンドだが、小説は未来への不安を残しつつ、不気味な読後感を与えながら幕を閉じる。
     ◇

 DVDを観ていたら、案の定小説が気になってきた。プロローグの、すでにジュラシック・パークの崩壊を予感させる事象のスケッチと恐竜の一部が管理の隙間をぬって海を〈わたっ〉てしまい、あらたな恐怖が生まれつつあることを知らしめるエンディングの余韻を味わいたい。
 読み返した。3度目の読書である。

 この項続く





 もう何週間も前になる。無性に「ジュラシック・パーク」が観たくなった。
 ロードショー時に真っ先に劇場に駆けつけた。映画は夏休みの一番の目玉として1993年7月に封切られたのだが、夏休みになったら子ども連れの家族でものすごく混雑する。土日も同様。というわけで、今だから言えるのだが、平日、昼休みに食事をしてくるふりをして有楽町の日劇に向かったのである。にもかかわらず、45分前ですでに列ができていたのだから驚く。
 劇場でもう一度観たいと思ったほどだからビデオになってまた鑑賞。TV放映されれば必ずチャンネルを合わせる。これまで何度観たかわからない。

 金曜日に帰宅途中のレンタルビデオ店でDVDを探したがない。まあ、TSUTAYAまで行けばあるだろうが、そこまで寄り道するつもりはなかった。
「明日、図書館に行くとDVDがあったりして」
 予感が的中した。最近2週間おきに図書館に行っているものの、一度も棚で見かけたことがなかったのに。レンタル店なら一週間290円だが、図書館なら二週間無料。なんたる幸運! 二週間で何度も観た。まずは字幕で、次に吹き替えで。もう一度字幕で。特典映像もすべてチェックした。

 恐竜が大好きだ。小学生のころ「恐竜グワンジ」「恐竜百万年」という恐竜映画に驚愕した。日本の怪獣は作り物だが、この2本の映画に登場する恐竜にはホンモノの質感があった。以来、恐竜について興味がわいてきた。入門書も買って勉強した。ジュラ紀、白亜紀。ブロントサウルス、ティラノサウルス、トリケラトプス、プテラノドン……。この本を参考に「恐竜物語」というタイトルの漫画を描いたこともある。生まれたばかりのブロントサウルスの赤ちゃんが母親を探すストーリー。大学ノートを使っての鉛筆描き漫画であるが、描いているときの楽しみといったらなかった。
 体長50mの(日本の)怪獣はあくまでも架空の生物だ。対して、恐竜や翼竜は何千万年も昔にこの世に存在していたのである。大きさもさまざまだ。はるか昔、地球上を闊歩していた恐竜。想像しただけで興奮してしまう。その姿をこの目で見てみたい! いつしかそれが夢の一つになった。

 あるときから恐竜の擬似ドキュメンタリーが作れないものかと夢想するようになった。ジュラ紀や白亜紀に、もしカメラを持ち込めたらという世界観で、恐竜たちの生態を追うのである。TV「野生の王国」のノリ。ビデオにして売り出したらどうだろう。テーマ別に各巻30分、セットとバラ売りで。特撮をどう処理するかが難問だが、当時は映像事業部というところに所属していたから、ぜひとも実現させたい商品だった。「密林恐竜」なんてタイトルを考えていた。
 そんなある日、電車の中吊広告で単行本「ジュラシック・パーク」の発売を知った。作者はマイケル・クライトン。現代に恐竜を蘇らせる話だという。これは読みたい、となったわけだが、もっと胸ときめかせたのは、この小説をスピルバーグが映画化するというニュースを聞いたときだ。
「こりゃ、恐竜ブームがくるな」
 それは確信に近かった。だから、部長、その前に恐竜ビデオを作りましょうよ。ブームに乗って脚光浴びますから! 部長は聞く耳を持たなかった。実際にGOサインが出たとして、鑑賞に堪えられる内容(映像)になったかどうか。

 この項続く



プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
私家本「僕たちの赤い鳥ものがたり」
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」

神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。遊びにきてください。

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