なぜ改名したのだろう? 
 磯野貴理と渡辺えりの二人。改名というほどでもないか。単に名前から子がなくなっただけもの。とはいえ、それだけでもずいぶんイメージが変わる。個人的には以前の方が安定感(どっしり感)があって好きなのだが。字画やら何やらでその道の人にアドバイスされた結果なのだろうか。
 いつのころからか女性の名前に子がつかなくなった。そんな流行にのっただけではあるまい。

 流行といえば、女性のカタカナ名も最近よく目にするようになった。
 土屋アンナ、加藤ローザ、梅宮アンナ……ハーフに多いが、宇多田ヒカルや沢尻エリカは純日本人だ。木村カエラはどうなんだろう。

 土屋アンナを初めて見たとき、何となく川村かおりを彷彿とさせた。川村かおりはもっとボーイッシュだったけれど。
 川村かおりが川村カオリとなってTVに登場したときには、ちょっとした違和感があった。ロシアと日本のハーフだからカタカナ名はおかしくないはずなのに、イメージが全然違う。癌闘病のドキュメンタリーだったと思う。

 別にファンだったわけじゃない。でも一枚だけシングルCDを持っている。「翼をください/I'll Be There」。
 「翼をください」をロックバージョンでカバーしたのは知っていた。が、興味を覚えたのはC/Wの「I'll Be There」。当時、本人が出演する日本航空のCMで流れていて耳を捉えた。曲もCMもかなり琴線に触れたのだ。
 NHK「新宿鮫 毒猿」では、鮫島刑事の恋人、晶を演じていた。ぴったりの役柄だった。

 前記の番組で癌闘病と知ったときからいつかはと思っていた。でも、そのときがやってくるとやはりショックは隠せない。
 7歳の娘さんにお母さんと過ごした日々がしっかり刻まれたことを願っている。

 合掌






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 PCが故障して、6月の読書録がウヤムヤになっていた。
 とりあえず……。


2009/06/01

 「なぜポニョはハムが好きなのか」(荻原真/洋々社)


2009/06/04

 「誤読日記」(斎藤美奈子/朝日新聞社)

 著者は自分の中ではポスト中野翠といった感じ。フェミニズムに関する主張がちょっと……。


2009/06/06

 「平成落語論 12人の笑える男」(瀧口雅仁/講談社現代新書)

 本書も著者も落語ファンに極端に嫌われているのはなぜなのか? 
 amazonのレビューで興味を持った。読了後、その理由が納得できた。 


2009/06/09

 『「お笑いタレント化」社会』(山中伊知郎/祥伝社新書)

 著者は同世代。この世代で、喜劇や芸人に興味を持っている者は、少なからず「日本の喜劇人」の小林信彦の影響を受けている。小林信彦がことあるごとに言ってることは〈お笑い〉という言葉は差別用語であると。であるから、小林信彦ファンはこの言葉づかいにとても敏感になっている。僕自身、どうしても使わざるをえないときは〈お笑い〉と〈〉でくくっている。お笑いタレントなんてたぶん会話だけの言葉だと認識していた。それを堂々と書名に使っているから驚いたのだ。もちろん本文にも次から次へ出てくる。ラサール石井が書いた本と比較してみれば、その違いがわかる。


2009/06/12

 「昭和マンガ家伝説」(平岡正明/平凡社新書)

 あの平岡正明の著書を初めて読んだ。「山口百恵は菩薩である」「筒井康隆はこう読め」の、あの平岡正明である。落語論なども上梓していて、これまでも興味はあったのだが、なんとなくどことなく怖くて手がだせなかった。本書は書名に惹かれて借りてきて、あとから著者を知って驚いた。期待したほどの内容ではなかった。

 先日の訃報に愕然。


2009/06/16

 「映画監督市川崑 崑さんをめぐる映画の旅」(土屋好生/近代映画社)

 森遊机以外で個人の市川崑本は初めてではないか?


2009/06/17

 「赤めだか」(立川談春/扶桑社)

 話題の書をやっと読む。
 「entaxi」連載時にほんのたまに目を通していたが、真剣に読んだことがなかった。
 感動が押し売りでないところがいい。目頭が熱くなるようなくだりのあと、ふっと落として笑いに転化させる。著者の照れだろうか?


2009/06/19

 『「父」手塚治虫の素顔』(手塚眞/あいうえお館)

 「天才の息子」は読んでいる。手塚治虫の遺族がアニメ作家として宮崎駿をどう見ているか、よくわかる。


2009/06/23

 「漫画に愛を叫んだ男たち」(長谷邦夫/清流出版)

 活字版の「まんが道」。巷では「裏まんが道」と呼ばれているとか。書名に偽りなしの内容である。
 著者が作詞した井上陽水「桜三月散歩道」には、石森章太郎の姉の死のイメージがあるのではないか?
 昭和54年のくだり、「スター・ウォーズ」「未知との遭遇」、24時間テレビの手塚治虫アニメの記述は昭和53年と記憶が交錯している。


2009/06/26

 「元祖テレビ屋ゲバゲバ哲学」(井原高忠/取材・構成 恩田泰子/愛育社)

 「元祖テレビ屋大奮戦!」(文藝春秋)を夢中で読んだ者には「ショウほど素敵な商売はない」が読めるのがうれしい。かつてヒッチコック・マガジン」に連載されたエッセイがすべて所収されている。連載を依頼した当時の編集長、小林信彦の前説も楽しめる。


2009/06/30

 「時代観察者の冒険」(小林信彦/新潮文庫)

 単行本は持っていて、何度も読んでいる。この手の本がこの十数年で上梓されていないなあと思って、ハタと気がついた。その代わり、週刊文春のエッセイが毎年まとめられているではないか。




 承前

 「REC/レック」はホラー映画の定番、ゾンビものをP.O.V.で撮ったところが斬新だった。ハリウッドがすぐにリメイクしたことが証明している。構成、展開、特にラストの恐怖、とてもよく出来た映画である。その点は十分認めるものの、前述したとおり、この手の恐怖パニック映画は、カメラ1台だけの主観撮影では成り立たないことがわかってしまった。

 観客に恐怖や臨場感、緊迫感を与える手法として、主観撮影はとても効果的である。ハンディ(ムービー)カメラがあふれる世の中だから、映像そのものも十分リアリティがあってよい。が、人は極限の恐怖を感じたりやパニックに陥るとその場から逃げ出したり、うずくまったりする習性がある。撮影なんて二の次になるはずだ。
 本当なら、クライマックスで、画面はブレにブレほとんど何が写っているのかわからない状態で、音声のみ聞こえてくるなんていう状況になるのではないだろうか。最初から最後まで同一カメラによる主観なんてありえないとはそういう理由による。リアルさを追求すると映画として成り立たないのだ。

 そんな思いがあったので「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」を知ったときは色めきたった。ゾンビ映画の大御所、ジョージ・A・ロメオ監督がP.O.V.でゾンビ映画の新作を撮っていたのである。興味を抱いたのは3台のカメラによる主観撮影というところ。
 「クローバーフィールド」の感想にこう書いた。

     ◇
 プロローグ、中盤、クライマックスくらいに分けて、視点が入れ替わればよりリアリティが増したのではないか。たとえば、一般市民、TVクルー、軍の広報部(撮影部隊)といったように。
     ◇

 もしかしたら、このアイデアが応用されているかもしれないと思ったのだ。
 実際は、カメラ2台で撮影された〈ゾンビの群れが人間を襲う実態〉素材に、監視カメラの映像を挿入し編集したビデオという体裁だった。カメラ1台の同一視点とそれほどの違いはない。カメラを回す大学生には、ドキュメンタリー作家志望というモチベーションを与えたり、すべてを記録しようとする態度を仲間に批判させたりと、同一視点に対するエクスキューズに工夫を施しているのだが、やはり、目の前に迫る危険を顧みず撮影する行為には違和感が残る。

 実のところ、P.O.V.は恐怖パニックものには向いていない。
 では何のジャンルなら向いているのかというと、普通の映画にこそ似つかわしい。恋愛もの、青春もの、いわゆる人間ドラマだ。
 十数年前、NHKに〈ニューウェーブドラマ〉というシリーズがあった。局の若手演出家と新鋭シナリオライターが組んだ単発ドラマの競作なのだが、新趣向のかなり面白いドラマシリーズだったと記憶する。「ビデオレター」はその一つだった。ショーケンが小学生の父親に扮し、息子と車で旅行する。その模様を、持参したビデオカメラで撮っていく。ドラマはこのカメラで撮影された映像だけで構成されているのだ。これだったらカメラはラストまで被写体を狙うことができる。こういうドラマ(映画)なら大いにありうるなと思った。だが、その後お目にかかったことがない。あまりに奇抜すぎてしまうのだろうか? 前衛的になってしまうと考えているのだろうか?
 インディーズ映画なら挑戦する作家がいると思っていた。誰かこれぞP.O.V.映画といえる作品を発表してくれないだろうか。


 【追記】

 僕が考えている「ウルトラマンに花束を」をまさにこの世界である。タイトルにウルトラマンがあるからといって特撮もの、怪獣ものではない。「アルジャーノンに花束を」をまんま真似したもので、知的障害を持つ主人公が大のウルトラマン好きというところがミソ。
 脳手術によってIQが高くなっていく主人公の、定期的に行われる研究員との対話の模様がビデオで記録されている。その映像だけで成り立つ映画といったらわかってもらえるだろうか。
 最初は単純にかっこいいウルトラマンついて思いのたけを語っている主人公が、やがて作品としての「ウルトラマン」を認識していく。ストーリー性やテーマに注目し、脚本家や監督の資質までも言及するほどになる。ついには第一期と第二期の相違性、商業主義に堕したウルトラ(マン)シリーズへの嫌悪を表明し、円谷プロを批判するまでになっていく。
 インディーズ映画がほとんどビデオカメラで撮られている現状から、わざとビデオ画面を前面に押し出した映画にしようと考えたものなのだが、本家と同じようにまずは小説にすべきかもしれない。




 3連休最後の日に「REC/レック」のDVDを借りてきた。2泊3日のレンタルなので、最初は原語(スペイン語、日本語字幕)、2日目は日本語吹替えで楽しんだ。今回初めて気がついた。この映画、正味80分もないのだ。公開時に劇場で観ているというのに。

 「オープンウォーター」はもっと短かったような気がする。確か70分前後だったのではないか。この間、やっとDVDで観たのである。
 実話の映画化と聞いていたので、海に取り残された夫婦が無事救助されるものと思っていた。旦那さんが絶命して「えぇぇ!」。時計を見たら始まって60分を過ぎたところ。ヘリコプター等の本格的な救助活動が始まり、どうやって奥さんを発見するのか、と期待していると、奥さんは海に潜って浮いてこない。自殺。あっけない幕切れだった。
 夫婦が死んだ? だったら海に取り残されてからの行動はどうやって知りえたのだ? まったくの想像だろう。これのどこが実話なんだ! 
 とにかく何の救いもないラストに愕然とした次第。
 
 「REC/レック」の話だった。
 決定的瞬間を捉えたビデオ映像を特集したTV番組がある。春と秋の番組改変期に多く見受けられる。この手の番組は大好きでよく予約録画する。録画というところが肝心。ゲストコメンテイターのおしゃべりをすべて早回しできるので。
 UFOがタワーの裏からカメラの方に寄ってきたかと思ったら一瞬のうちに上空高く舞い上がるという映像に度肝抜かれたことがある。爆笑問題が司会していた番組で見た。まさにホンモノという感じがした。こりゃすげえ話題になるなあと思っていたらその後何の反応もなかった。

 今ならあの映像が作りものだとわかる。なぜならその後ずいぶん経ってからwebサイトで似たような驚愕映像を見たからである。砂漠を走る車に向かって、空から隕石が落ちてくるというビデオがあった。間一髪、落下場所がそれて車は無事。街のビルに隕石が落ちて大爆発、なんていうのもあった。2本ともとにかくリアルだった。ハイキングしているカップルの近くに隕石が落ちて、中から飛び出してきた宇宙人に襲われるというビデオもあった。前半はリアルなだが、宇宙人が登場してにわかに信じられなくなる。わざと「うそだよーん」とことわっているみたい。

 「クローバーフィールド」は、この手のビデオから発想された映画ではないか。
 確かにP.O.V.(ポイント・オブ・ビュー=主観撮影)は現代を象徴する映像で、その場に居合わせた人が怪獣=巨大生物の都市破壊を撮影するというのは、十分ありえそうなシチュエーションだ。が、映画を観ていれば、そんなことはありえないことだとわかってくる。その手の決定的瞬間の映像が撮影できるのは、あくまでも撮影者が安全地帯にいるからなのだ。もし危険地帯に入ったら、悠長にカメラを構えてなんていられない。撮影者が素人だったらなおさらのことだ。
 「REC/レック」は撮影者をTV局のクルーにして、上記の疑問を解消している。それだって、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたら、カメラを投げ捨てて逃げ出すだろう。

 この項続く







 先週、図書館で高島俊男「お言葉ですが…」の最新3巻を見つけあわてて借りてきた。
 文藝春秋から出た最後の単行本「お言葉ですが…⑩ ちょっとヘンだぞ四字熟語」、週刊文春のラスト1年間の連載をまとめた「お言葉ですが…第⑪巻」(連合出版)、草思社のwebで始まった新「お言葉ですが…」(現在休止)+その他のエッセイを収録した「お言葉ですが… 別館①」(連合出版)。
 2冊は先週読了した。別の本を読んでから、今、別巻を読んでいる最中なのだが、なんとなく気になってmixiを調べてみると「お言葉ですが…第⑪巻」は読んでいたことが判明した。こう書いている。

     ◇

 ●預言と予言 2007/02/23

 予言と預言の違いがわかる方いらっしゃいますか?
 文章の中に預言あるいは預言者という文字がでてくるといつも悩んでいた。預言と予言、どこがどう違うのだ?
 予言はわかる。当然予言者も。預言がやっかいだ。たとえば、預言者の意味として〈神と直接接触・交流・対話し、直に聞いた(とされる)神の言葉を人々に伝え広める者のこと〉とある。ああ、そういうことか。納得する。が、いまいちピンとこない。キリスト教が絡んでくるとどうも分が悪くなる。

 この言葉を一刀両断したのが、高島俊男だった。言葉の師匠として11年、週刊文春連載のエッセイ「お言葉ですが…」は毎週木曜日の楽しみだった。高島先生が連載終了間際、何週にもわたって解説してくれたのだ。
 曰く、預言も予言も意味は同じ!!

 現在、もっともらしく預言に意味が与えられているが、そんなバカなことがあるかい。いったいどこのどいつが決めたのだ? 国会で青島幸夫が決めたのか? フン、ちゃんちゃらおかしい。高島先生、とてもご立腹なのだ。
 聖書が中国に入って、中国語に翻訳された際、預言という文字が使われた。それで日本でも預言となっているが、そもそも漢字の預と予に違いはない。たとえば廣と広。予は預の略字体でしかないのだ。
 詳しくは「お言葉ですが… 第11巻」(連合出版)をあたってもらいたいが、これで長年の胸のつかえがとれた。

 「お言葉ですが…」は小林信彦の「本音を申せば」(その前は「人生は五十一から」)同様、半永久的に連載が続くものと思っていたら、11年めで突然終了してしまった。
 その終わり方からして編集部の意向なのだろうと推測したのだが、本書を読むとやはりそうだった。高島先生、かなり未練があるようだ。
 だいたい、これまでずっと文藝春秋が出していた単行本が、最終巻だけ別の版元になっているということ自体どうにも解せない。
 いったい両者のあいだに何があったのだろうか。

     ◇

 単行本が10巻で終了するのは、本が売れなくなったからだと、高島さんは版元から聞いて納得していたようだ。何とか拡販に協力しようと、自分でも購入して知り合いに配ったりしている。
 単行本は出なくなるが連載は続く。高島さんはそう考えていた。が、編集部から突然の連載中止の知らせ。本人もショックだったろうが、読者だって同じだ。その後始まった連載がどれも面白くないから余計に連載終了が残念でならない。
 





2009/07/10

 「LIVESプロデュース公演 Dear My Hero」(東京芸術劇場小ホール)

 田口(主将)さんに誘われて今年二度目のLIVES観劇。

 無名のプロボクサーたちを主人公にして、彼らが所属する弱小ジムが企画した自主興行の1日を描く。
 自主興行が開催される某公共施設(ホール)の控室を舞台にしているところがミソだ。この日リングに上がる選手は3人。16年のプロ生活の末に引退するベテラン選手、前日に恋人の浮気が発覚して意気消沈している中堅選手、今日がデビュー戦であがりまくりの新人選手。
 3人の選手たちとジム関係者のほかに、担当のホール職員や選手の両親たちが入り乱れ賑わっている控室にボクシングにまるで縁のなさそうな主婦たちも訪れる。ホール職員の手違いで部屋をダブルブッキングした紅茶教室を開く面々だ。さまざまな人たちの交流模様が笑いを誘い、胸を熱くさせてくれる。

 今年1月、吉祥寺シアターで観た「ROPPONGI NIGHTS 2009」同様、オーソドックスな芝居である。笑わせながらグッとくる展開も同じ。ただ「ROPPONGI NIGHTS 2009」はいくつか注文をつけたくなる内容だった。観ていて照れくさいところもあった。
 「Dear My Hero」は違った。展開も役者の演技もほぼ完璧に近い。少なくとも僕はそう思った。目を一度も伏せることもなく舞台に集中していたのだから。
 全編にちりばめられたギャグに大笑い。笑いの連打の中、感動を呼ぶ展開になるのだが、すぐに笑いで落とす。過剰な演出で感動の押し売りをしない。テレビドラマ、映画、芝居……最近顕著になってきたあざとさがない。考えてみたら前作も同じだった。感動は一瞬でサッと引く演出。このセンスを買う。誰がなんと言おうと。

 ベテランボクサー役のため大浜さん(脚本、演出も)はダイエットした。その姿は、あるときは中谷一郎、またあるときは國村隼、はたまた小田和正……。客席から見ると確かにそう見えたのだ。嘘じゃない。
 役者だなぁ、と唸ったのが、ジム会長役の雑賀(克郎)さん。「ROPPONGI NIGHTS 2009」では、ムードコーラスグループの目だないリーダーだった。前回も唸ったが今回もやられた。ベテランボクサーの父親に扮した登戸(髭生)さんも、老け役を見事こなした。「ROPPONGI NIGHTS 2009」では老人だった山田(古馬)さんは今回髪をモヒカンにして中堅ボクサーを熱演。これはキャラクター的においしい。

 二つだけ注文がある。一つは上演時間。一幕、2時間20分は長い。2時間以内、できれば1時間40分ほどにまとめられないか。
 それから、登戸さんの老け役はよかったが、年齢相応の役者の客演を考慮したらどうだろうか。その方が芝居が引き締まることもある。

 とにかく、次回公演が楽しみ。
 田口さん、また声をかけてください。






 昨日、帰宅時の京浜東北線。車両の真ん中あたりの席に座って本を読んでいると、後部車両との連結部分あたりから大声が聞こえてきた。
 見ると、中年男性が3人掛のシートに座っている男性に向って注意している。
「煙草はやめなさい!」

 上京して2年目の苦い経験を思い出した。大学1年だから1979年か。友人と山手線に乗っていて、煙草をとりだして火をつけそうになって目の前の乗客に注意されたのだ。「ここは禁煙ですよ」
 みるみる顔が赤くなっていったのが自分でもわかった。
 知らなくて注意されたのならまだいい。東京暮らしにも慣れたころ、山手線だけでなく、東京を走る電車の中は、国鉄も私鉄もすべからく禁煙であること。そんなことは十分すぎるほど承知していた。にもかかわらず、煙草を喫いそうになってしまったからとても恥かしかったのだ。

 なぜ煙草を喫いそうになったのか? 隣の友人が小学校からのつきあいだったからだと思う。友人とおしゃべりしていて、一瞬、東武伊勢崎線の車両と間違えてしまったのだ。
 今は当然禁煙であるが、当時、東武伊勢崎線の車両は自由に喫煙できた。新幹線や特急列車みたいに席に灰皿が備え付けられているわけではなく、煙草の灰も吸殻もみな床に捨てていた。それが当たり前の光景だった。
 友人に久しぶりに会って、東京から太田へ向う電車の中だと錯覚した。そうとしか思えない。

 今から30年ほど前は、喫煙に対してかなり甘い世の中だった。会社だったら自分の机で煙草が喫えた。歩き煙草なんて普通の光景。国鉄、私鉄のホームではそこかしこから紫煙が立ちのぼっていた。何たって地下鉄のホームだって喫煙できたのだから恐れ入る。
 そんな喫煙者天国だったにもかかわらず、(東京の)電車内は禁煙だった。特に禁煙を謳わなくても、ルールは守られた。車内で煙草をくわえている人なんて一度として見たことがなかったのだから、確かなことだ。これはこれですごいことではないか。
 こんな経緯を知っているから、昔と違い禁煙が当たり前の現代、電車内で煙草を喫う人がいること自体に驚いた。

 たぶん車内の喫煙はうっかりではないだろう。その証拠に注意されても男は喫煙をやめなかったのだから。確信犯か?
「やめろって言っているのが聞こえないのか!」
 声の調子が怒りになって車内の空気が一変した。
 座っている男はよく見えなかったが、50代、60代といったところ。ちなみに注意する男は40代から50代前半のサラリーマン。
 怒りまくる注意男と暖簾に腕押しの煙草男といった感じ。キレた注意男が煙草男の腕をとり、次の駅で降りろと叫ぶ。放そうとする煙草男。そのやりとりから乱闘が始まった。
 一度乱闘は収まるのだが、電車が駅に着くと駅員がやってきた。注意男がすかさず吸殻を指して「これが証拠です」。
「降りてください」
 駅員が煙草男の腕をつかんで外に出ようとする。男は駅員の手を払いのける。何度かその繰り返し。その間、電車は停止。車内放送では「ホームの非常停止ボタンが押されたため」のアナウンスが流れている。
 注意男が駅に着いた際、すばやくホームに下りて停止ボタンを押したのだろうか?

 10分ほど電車が停止している間に煙草男は外に押し出された。その間、アナウンスは「ホームの非常停止ボタンが押されたため」のみ。なぜ非常停止ボタンが押されたのか、その原因には言及しない。
 いつも不思議に思っていた。非常停止ボタンが押された。原因調査中と言っておきながら、その理由がアナウンスされたためしがない。今回だって、乗客のトラブル云々の説明があってもよかった。が、何の説明もなく電車は動き出したのだ。
 これがJRのやり方と悟った次第。







2009/07/09

 「トランスフォーマー リベンジ」(TOHOシネマズ日劇)

 1作目同様、特撮仲間のS氏と鑑賞する約束をして、チケット売場前で待ち合わせした。
 売場で次のような案内(看板)を目にした。「前売券と明日以降のチケットの購入する方は直接劇場にお越しください」。はっきり憶えていないが確かこんな文面だった。
 そうか、1階の売場は、当日チケットを購入する人だけを相手にしているのか、事前に前売券を購入した人は直接9階に行けばいいんだ。ここでいう前売券とは、今後上映が予定されている映画の前売券のこと。なのに、「前売券で入場する方」と勝手に判断してしまったというわけ。

 約束の時間にちょっと遅れたS氏から「今、駅に着いた」と電話があった。早速9階で待っているからと伝えエレベータに乗り込んだ。1階できちんと席を確保したS氏がやってきて、自分の間違いに気がついた。9階の売場のお姉さんに怪訝な顔をされ嫌味を言われて席を確保した。それもS氏の隣の席を。混雑していたらこんな芸当はできない。
 それにしてもどうしてこんな間違いをしたのかというと、日劇PLEXが知らない間にTOHOシネマズになったからだ。劇場のオーナーが代わってチケットの購入方法も新しくなった……そう勝手に判断した結果のこと。
 
 この手の映画はできるだけ大きなスクリーンで観たい。「ターミネーター4」も本当は丸の内ピカデリーで観るべきだった。映像も音も迫力が全然違う。まあ、1日のサービスデーは「愛を読む人」(「朗読者」の映画化)のレイトショーまで時間があったので、「ターミネーター4」にしたという経緯があるのだが。

 それにしても、この映画の、まるでジェットコースターのような急激な展開に観客はついていけたのだろうか? ストーリーそのものはとてもシンプルなのだが、話のポイントがどんどん切り替わっていくので、ちょっとよそ見、あるいは別のことを考えていると、とたんに置いてけぼりを食らってしまう。
 「ターミネーター4」がそうだったようにVFXは出色もの。CGと実写(実演)の境目、合成がわからない。たとえば、敵ロボットの攻撃で米軍ヘリが墜落(不時着)ショットがある。画面の奥から手前にヘリが落ちてくると、操縦席にはきちんと人間が乗っているのだ。たぶんヘリはスタジオのグリーンバックによる別撮りしたもの。合成しているのだろうが、まるで違和感がない。

 リアル戦隊もの! と叫んだ(もちろん心の中で)のが、さまざまな車両が合体して巨大なロボットに変身するショットだ。巨大ロボは善玉のツインロボットとセクター7の残党とバトルを繰り広げるのだが、ある意味、この映画の一番の見せ場だったかもしれない。
 日曜朝7時30分、ごくごくたまに戦隊シリーズにチャンネルを合せることがある。クライマックスは必ず敵の怪人が巨大化して、戦隊のメカが合体した巨大ロボットと戦うことになっている。お約束の特撮シーンなのだが、あまりにショボくて見る気になれない。合体した後のロボットの造形もイマイチ、特撮自体も昔ながらのミニチュア、着ぐるみまるだし。円谷プロに比べ、こういう特撮に何の進化も見られない。戦隊ものに夢中になっている幼児たちがこの映画を観たらどう感じるだろうか。予算がまるで違うのだから比較したって意味ないのだが。

 主人公のシャイア・ラブーフが大学生ということで、「インディー・ジョーンズ4」がダブってくる。また、巨大ロボだけでなくバイクも活躍するからだろうか、「ターミネーター4」に通じてしまう。
 劇中、あるシーンからシャイア・ラブーフの左手(だったと思う)に包帯が巻かれている。突然といった感じ。S氏によると巻いているショットがあったとのことだが、印象としてはやはり唐突だった。確か撮影中、シャイア・ラブーフが交通事故で指を切断するかもしれない重傷を負ったとのニュースがあった。結局、指の切断は誤報だったが、その影響が映画後半の包帯になったのだろう。
 
 前作、ジェット機が変身してロボットになるのを観て「マグマ大使だ」と叫んだ(もちろん心の中で)。だとすれば、本作の前半、大学構内でシャイア・ラブーフに色仕掛けで迫ってくる機会女はさしずめモルの悪女版だな。あっ、モルはマグマの奥さん。いったいどんなシステムで人間に化けているのだろうか?







2009/07/01

 「ターミネーター4」(MOVIX川口)

 ジェームス・キャメロン監督が絡んだシリーズものは同じ運命をたどる。「ターミネーター」と「エイリアン」のことだ。
 キャメロン監督が前作の世界観を壊さずアクション巨編に仕上げたのが「エイリアン2」だ。感動的なエンディングで映画を締めくくってくれた。
 にもかかわらず、「エイリアン3」はその感動を台無しにした形で始まる。リプリーが命を賭して守った少女を冒頭事故で殺してしまったのだ。少女だけではない。生き残った海兵隊員(マイケル・ビーン)もアンドロイド(ランス・ヘンリクセン)もすべて亡き者にしてしまった。「エイリアン2」に夢中になったファンを裏切る行為と思われても仕方ない。

 「エイリアン3」のプロデューサーを兼ねたシガニー・ウィーバーにしてみれば、ラストでリプリーを殺すこと以外どうでもよかったのかもしれない。女優を続けていくためには、あまりに強烈すぎるリプリーのイメージを消すことが先決だったのだろう。
 こうして「3」でシリーズが完結したにもかかわらず、しばらくして「エイリアン4」が制作された。主演はやはりシガニー・ウィーバー。リプリーがクローン人間として蘇ったのだ。個人的に「エイリアン3」を封印、なかったことにしているのだが、この処理はシリーズとしても「3」がなかったことにした結果ではないか? 

 キャメロン監督にとって「エイリアン2」は、あくまでも〈脚本と監督〉を請けおった作品にすぎない。「2」の感動をないがしろにする「3」についてどう思っているのだろうか。関係ないといえば関係ない。「ターミネーター」は違う。プロデューサーのゲイル・アン・ハードとともに企画から携わっているからだ。
 ハリウッド映画としては低予算で制作されたこの映画が大ヒット、その後「エイリアン2」等でヒットメーカーの仲間入りしたキャメロン監督は超A級予算の「ターミネーター2」を完成させた。1作目がヒットしたから単純に続編を作ったわけではない。テーマをより浮き彫りにして「ターミネーター」の世界をきちんと完結させたのである。

 続編なんて考えられなかった。だから十数年ぶりに「ターミネーター3」が制作されるというのニュースに首をかしげたのだ。案の定キャメロン監督自身は反対だったらしい。映画の内容についても怒り心頭だったのではないか。これまた「2」のテーマ、ストーリーが完全に無視されているのである。
 結局のところ、完結した「2」のラストを変更(否定)し、その後のシリーズへの橋渡し的な作品だった。「2」で回避された核戦争は結局勃発してしまうのだ。あのラストには愕然となってしまった。
 TVシリーズ「ターミネーター サラ・コナー・クロニクル」が紹介された際、映画「ターミネーター2」の世界観を引き継ぎ、「ターミネーター4」に続くものと言われた。キャメロン監督の意思のようにも伝えられた。これまた「3」がないものにされたということだろう。


 「エイリアン4」以降、「エイリアン」シリーズは大きく方向転換してプレデターとのVSものが2作公開された。年齢的にシガニー・ウィーバーはお役目御免ということだろうか。
 「ターミネーター」シリーズはというと、新作「ターミネーター4」ではついにあちら側の物語になってしまった。これまで未来からタイムトラベルしてきたターミネーターを相手にした現代を舞台にしたジョン・コーナー(その関係者)の物語が、未来におけるジョン・コーナーの話になったというわけ。これまた方向転換した。新「ターミネーター」シリーズの第1作という印象だ。

 反乱軍の一部隊長でしかなかったジョン・コナーがいかにして全体のリーダーになったのか、どのようにカイル・リースとの出会い、深い絆で結ばれていくのか。「ターミネーター4」はこの2点について描いていくのだが、第一作のターミネーターとはまったく逆の存在であるマーカス・ライト(サム・ワーシントン)という新しいキャラクターが活躍させることで印象深いドラマになった。実写版の島村ジョーだろうか。
 映像も、通常のカラーからちょっと色を抜いたような、全体的にざらついたイメージ。これがいい。
 VFXは文句なし。冒頭ジョン・コナーと敵方のバトルが繰り広げられる。その中でジョン・コナーの操縦するヘリが敵の攻撃で墜落するシーンがあるのだが、カメラがヘリコプターのまわりから中に進入して、また外に出るところを1カットで撮っている。「宇宙戦争」の車両シーンの応用だと思うが、いったいどうやって撮っているのか。

 キャメロン監督は「エイリアン2」にしても「ターミネーター2」にしても、前作の展開をなぞるようにして新たな物語を構築する傾向があった。本作も踏襲している。「ターミネーター」や「ターミネーター2」で観たシーン、ショットが様々に引用されていてうれしい限り。もちろん「I'll be Back」の台詞もある。CGで蘇ったシュワルツェネッガーのターミネーターにも意味がある。巨大ロボが暴れまくるシークエンスなんて、このセンスで怪獣映画ができないものかと唸ってしまった。
 新シリーズに何も期待していなかったのだが、こうなれば、ジョン・コナーとカイル・リースの物語がどう完結するのか。まあ、結果はわかっているのだが、もうしばらくつきあってみるとしよう。
 
 タイトルロールのトップ(亡くなったスタン・ウィンストンへの哀悼)にぐっとくる。







プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
私家本「僕たちの赤い鳥ものがたり」
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」

神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。遊びにきてください。

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