「『東京島』読んだんだって?」
「桐野夏生は江戸川乱歩賞受賞作から、ずっとフォローしているからね」
「で、どうだったの?」
「無人島に男31人、女一人だよ。そうでなくても桐野夏生なんだから。もうみんなイヤな奴ばかり。その最たる人物がヒロインだもの」
「この小説も実話を基にしているんだってね」
「けっこう多いよね、実話にインスパイアされて書くの」
「終戦直後に起きたアナタハン事件……」
「そうそう、NHKのテレビ小説にもなった」
「それはおはなはん!」
「……今日から『太陽を曳く馬』を読み始めたよ」
「なんだか強引だなぁ、この会話」

          * * *

 ●村薫と桐野夏生 2006/11/17

 大阪の余韻がまだ残っている13日(月)「新リア王(下)」(村薫/新潮社)を読了した。まるまる二週間かかった。(上)も二週間、何と一ヶ月ががりの読書になる。苦行だった。何度やめようと思ったことか。

 自民党所属の老政治家が地元青森にでかけ、愛人に生ませて今は僧侶となっている息子の寺を訪ねる。小説のほとんどが二人の会話で進行していくのだが、とにかく盛り上がりに欠け、内容が頭に入ってこない。ただただ文字だけを追いかけていた気がする。80年代前半が舞台。ちょうど大学時代にリンクするので時代背景は懐かしかったけれど。
 目当ての合田刑事はほんの一瞬登場する。考えてみれば、この時代、合田は駆け出しの警察官なのだ。寺に電話があり、老政治家がとると、その声の主が合田なのである。僧侶と別れた妻が東京で死亡し、身寄りがないので元亭主への確認の電話だった。この、ほんの2、3行のために小説を読んだことになる。

 続けて一緒に図書館から借りてきた「アンボス・ムンドス」(桐野夏生/文藝春秋)。
 長編と短編(集)、情報量(文字数)の違いはあるが、こちらはあっとゆうまに読めてしまった。どの短編も人間の負の部分をルーペで拡大し、性格の醜さをことさら強調した主人公ばかりの短編集。そんなわけだから登場人物は感情移入を一切拒否する。読者は物語の観察者でしかない。読んでいるときも後味も悪い小説群。でも面白い。

 村薫と桐野夏生。二人ともミステリでデビューして、今やまったく違うジャンルの大家になってしまった。エンタテインメントと純文学があるとしたら限りなく後者に近い。

 村薫なんて文章だけ読んでいると女性に思えないところがある。徹底した取材に裏付けられた濃密な作品世界。「マークスの山」の後に同じ警察小説の「新宿鮫」(第一作)を読んだらスカスカに感じたものだった。
 文庫化にあたり、加筆改稿して、同じ物語なのにイメージがまったく違う作品にしてしまう傾向がある。単行本と文庫の「神の火」を読み比べたらわかってもらえると思う。キャラクターの造形が正反対なのだから。
 思い入れの強い「マークスの山」も「神の火」ほどではなかったけれどやはり違う。待ちに待った文庫になったから購入したのに……。読了後、古書店で単行本を買って、もう一度読み始める始末。「マークスの山」は都合4回読んでいる。
 「レディ・ジョーカー」は森永・グリコ事件を素材にした、構成に全く隙がない犯罪小説だった。被差別部落、在日朝鮮人、身体障害者等々、タブーとされる問題を随所に挿入しながら、圧倒的な筆致でビール会社脅迫事件を描くのだ。

 桐野夏生の変わり様がすごい。江戸川乱歩賞受賞作「顔に降りかかる雨」で始まる女探偵ミロシリーズを短編「ローズガーデン」で方向転換させ、「ダーク」でズタズタにしてしまったのだから。ズタズタという表現が適しているかどうか。
 リアルタイムで追いかけている作家は何人かいるが、描かれる世界に反発しながら読んでいる珍しいタイプ。小説家ではないが、読み始めた頃の中野翠がそうだった。
 作品はほとんどあたっている。未読だった「魂萌え」はこの前NHKでドラマ化されて、自分勝手な人物が織りなす人間模様にうなってしまった。活字だともっと激しいのではないか?
 短編集「アンボス・ムンドス」は表題作が白眉。女子児童の悪意によって破滅させられる教頭と女性教師の不倫カップル。陰湿ないじめの実態も描写され、まさに現代のリアルホラーだ。




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 ディアゴスティーニ「東宝特撮映画DVDコレクション」。創刊号は「ゴジラ」、おまけに特別価格の990円だった。買おうかどうか、何度も書店で手にして結局パスしてしまった。ただし、このコレクション、でたら購入しようと決めている作品がある。
 「フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)」「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」「キングコングの逆襲」。3作品ともビデオを持っている(ダビングしたもの)が、ビデオデッキが壊れてしまったので、もう観ることができない。DVDで揃えたいと思っていたところだ。一つ心配なのは「フランケンシュタイン対地底怪獣」のエンディングが公開版になっているかどうか。いわゆる海外版といわれるものだと、あの映画のテーマが台無しになってしまうのだ。だいたいなぜ山奥に大蛸が出てくるんだ!

 とにかく、「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」が刊行されたので、買ったのが2月末。以来封も開けずそのままにしておたいのだが、先週やっと開封。DVDを何度も観ている。

          * * *

 ●「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」 2005/12/27

 郷里の群馬県太田市にはかつて4つの映画館があった。東宝、東映の「太田映劇」、大映の「電気館」、松竹、日活の「大勝館」。そしてピンク映画の専門館「中央劇場」。
 今から考えるとすごい数だ。まあ、映画の斜陽化で私が中学生になると大勝館だけになってしまうのだが

 もっぱら通ったのは「ガメラ」や「大魔神」を上映する電気館とゴジラや東映動画の「太田映劇」だった。小さかった頃は父親に連れられて、小学校の高学年になると(東宝チャンピオンまつり・東映まんがまつり)友人と一緒に足を運んだ。
 怪獣映画のプログラムの土日、この2館には多くの客が訪れたのだが、「太田映劇」には前代未聞の記録が残っている。
 ある新作怪獣映画の公開初日(だったか2日めだったか)、ものすごい観客が「太田映劇」に押し寄せたのだ。入場を待つ客の列がすごい。その最後尾が何百メートル先の太田駅まで続いた。その日は1館だけでは客が収容できす、道をはさんだ反対側にある中央劇場(同じ経営者だった)でも急遽時間をずらして上映された。
 同級生の間では今でも語り草になっている。

 その映画が「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」。確か併映は「ジャングル大帝」だったと思う。

 「サンダ対ガイラ」は「フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)」の後日談という体裁をとっている。といっても続編というわけではなく、ある程度世界観が共通しているということだ。「フランケンシュタイン対地底怪獣」のフランケンシュタインがサンダになっていて、その細胞が海に流れてガイラになったというわけ。いってみれば兄弟である。怪獣版「海彦山彦」。
 善玉(サンダ)、悪役(ガイラ)の戦いがクライマックスになっているが、とにかく前半のガイラが人間を襲うシーンが怖い。夢で何度もうなされている。

 かつての日記から。文芸坐(文芸地下)で特撮映画の特集があり、大学の自主映画サークルの仲間と押しかけた。

    ◇
 1979年12月20日

 もう観たくて観たくてたまらない映画だった。
 ストーリーにおいても特撮の技術においても最高の位置にあるのではないかと思うぐらいこの映画に惚れている。
 何しろガイラの怖さが格別だ。
 冒頭、船を襲った大ダコが急に海の中に引きもどされる。ほっとひと安心の船長(?)が窓から外を見ると、大ダコと戦う見るからに凶暴そうなガイラがいるのだ!!
 漁民たちが地引網をしていると急に網が引きづられる。沖には網を手にしたガイラが現れる。
 ああ、昔の怪獣映画はよかった。
 ミニチュアの1つ1つがちゃんとその役割を果たしてして、つまり物語の中に存在している。サンダもガイラもぬいぐるみであるはずなのに表情を持っている。
    ◇
 
 主演はラス・タンブリン、水野久美、佐原健二。この3人がフランケンシュタインの細胞を研究する科学者として二匹の怪獣の戦いに巻き込まれていく。ラス・タンブリンが「ウエストサイド物語」で人気を呼んだハリウッドスターだったことを後年知った。

 「フランケンシュタイン対地底怪獣」「サンダ対ガイラ」の2作はアメリカ、ベネディクトプロとの合作である。怪獣がそれまでの50mから20mになったというのは「キングコングの逆襲」を含め、アメリカとの合作というところに起因しているのかもしれない。「大怪獣バラン」に登場するバランも10mそこそこの大きさなのが不思議だったのだが、これもアメリカのTV局だかの要請で製作されたと知り、合点がいった次第。
 50m級の怪獣はあまりに大きすぎてリアリティがないということなのか。それは私も首肯する。怪獣はでかければいいというわけではないのだ。平成ゴジラはビルの高層化に合わせて80m、100mの設定となった。愚の骨頂とはこのことだ。


 ●「餓夷羅」 2005/12/28

 もうずいぶんと長い間ガイラの復活を夢見ている。
 アイディアノートにその企画を文字にしたのは今から20年近く前。ガイラといっても「サンダ対ガイラ」とはまったく関係ない。
 タイトルは「餓夷羅」。
 10m級の人間体をした凶暴な怪獣(怪人)が住む島に迷い込んだ男女5人の決死の逃避行を描くサバイバルホラー。つかまったら食われるわけだから、もう逃げる逃げる。全編人間と怪獣の追いかけっこ。
「ロストワールド/ジェラシックパーク」のT-REXに追われて逃げまどう一行のシークエンスで「オレがやりたいのはこれなんだよ、これ!」と叫んだ。心の中で。

 「悪魔のいけにえ」のリメイク「テキサス・チェーンソー」の感想で追記としてこう綴った。
                  
    ◇
 もう十何年も前から夢想し、映画化を企んでいる、ある島の限定空間における男女5名のサバイバルホラー「餓夷羅」。身の丈10mもあり、人を食らう謎の人間型怪物と、怪物が住む島を訪れた男女の攻防戦。島には火山があり、今にも爆発しそうな状況下、獲物を求める怪物・餓夷羅と島からの脱出を試みる男女の追いかけっこ。その恐怖とサスペンスだけを描こうという「餓夷羅」のプロットはまさしくこの映画そのものなんだと気づいた。ということは僕は「悪魔のいけにえ」のイメージをずっと追いかけていたということになる。(略)
    ◇

 金子監督が平成ガメラで快進撃を続けていた時、ぜひともメガフォンをとってもらいたいと願った。

 プロットは出来ている。後は怪獣の設定やストーリーだ。
「まぐま」で知り合ったK氏に話すとノッてくれた。一度詳細なシノプシスを書いてくれたのだが、餓夷羅の設定にいまいち説得力がなくそのままの状態。今年になってK氏がもう一度取組んでくれるとの知らせがあって大いに楽しみにしている。

 K氏にはいろいろお世話になっている。
「餓夷羅」はあくまでも商業映画の企画だが、自主映画用の企画でも相談相手になってくれる。
 
 ウルトラマンが大好きな精神薄弱の中年男がある研究で徐々に知能が上がっていく様を観察ビデオで追っていく、その記録がウルトラマンシリーズの批評になっているという「ウルトラマンに花束を」をすぐにシナリオ化してくれた。

 特撮仲間のS氏と酒の席で盛り上がった〈ゴジラが毎年上陸して日本のどこかで猛威をふるうことが当たり前になった世の中。ゴジラ接近の危機の中、それでも出社しなければならないサラリーマンの悲哀〉を描く「Gは今年もやってくる」を自分流にアレンジして「Gの日」のシナリオを書いた。

 金があればすぐにでもプロデュースできるのに!


sg
東宝特撮映画DVDコレクション11
「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」




 前回がジャクソン監督版「キング・コング」公開前の予習編だとすると、今回は劇場鑑賞後の復習編である。
 ホント、5年前の年末は「キング・コング」で一人盛り上がっていた。

          * * *

 ●King Kong 2005/12/21

 一人で盛り上がっている「キング・コング」。
 映画鑑賞の前にオリジナル版で予習したわけだが、オリジナル版を観ていると何かと楽しめることがあることは確か。
 
 映画を観た後は復習だ。
 日曜日、「キングコングの逆襲」と76年リメイク版「キングコング」のビデオを借りてくる。

 「キングコングの逆襲」はダビングしたテープがあるはずなのに、いくら探してもでてこない。代わりに「サンダ対ガイラ」のビデオが見つかった。この映画についても書きたいことは山ほどあるがそれはまた別の機会に。

 「キングコングの逆襲」は日米合作である。同世代の人なら知ってると思うが、同時期TVで「キングコング」のアニメが放映されていた。こちらの制作は東映動画。ただこれも日米合作。
「怖くなんかないんだぞ、キングコングは友だちさ」という主題歌は今でも歌える。
 このアニメではキングコングと仲がいいのは少年なのだが、敵役はドクター・フー。つまりTVアニメと映画は同じ世界観で成り立っていたのである。

 コングの大きさについていつも考えてしまう。
 「キングコングの逆襲」に登場するコングは20m。最初に観たこともあって、コングの大きさは20mというイメージを長い間持っていた。
「キングコング対ゴジラ」ではゴジラ(50m)に合わせて巨大化したが、あくまでも例外的処置。76年リメイク版でも16m前後だった。ところが、ジャクソン版キングコングは身長7メートル半と劇中で説明されている。オリジナルのコングもそのくらいの大きさなのだろうか。


 ●Hong Kong 2005/12/21

 日米のキングコングを比較して面白いのは、コングに対する考え方の違いである。
 日本のコングはあくまでも怪獣の一種で、ある意味無敵の存在。銃の攻撃などにびくともしない。
 対してアメリカのコングは巨大な獣という認識。巨大だといってもあくまでも動物の一種であって、執拗な銃撃には血を流し、最後は命を落としてしまう。この捉え方は「GODZILLA」にも通じるものだ。

「キングコングの逆襲」は日米合作ということで、主人公がアメリカ人俳優(ローズ・リーズン、リンダ・ミラー)と宝田明の3人。外人男優に対して宝田明が(見た目に)まったく引けをとっていないところがすごい。宝田明はほんとかっこよかった。憧れの俳優だったものなあ。
 リンダ・ミラー(声・山東昭子)がヒロインなのだが、悪役の浜美枝が実にチャーミングで心奪われる。エレメントXという新しいエネルギー鉱石発掘を画策するアジア某国の女スパイ。このアジア某国というのが、今観るとまるで北の某国と思えるから不思議だ。

 東京タワーのコングvsメカニコングの死闘はかなり手に汗握る。リンダ・ミラーがタワーから墜落するか否かのサスペンスはオリジナルにはない要素。これが、ジャクソン版の「キング・コング」に形を変えて取り入れられているからうれしくなる。
 コングの造形は「キングコング対ゴジラ」に比較してずいぶんと改良されている。ただ、手の長い通常のタイプとアクション用の手の短いタイプで顔が違うのがつらい。
 ラスト、敵のドクター・フーが乗る船を攻撃する際、このタイプの違うぬいぐるみが同ポジカットで切り替わる大胆な編集があるのだが、もう明らかに別コングなのだ。(しかし子どもの時、大スクリーンでも全然気がつかなかった。手の長さが違う2種類のぬいぐるみが使用されていることを知ったのもビデオなのだから)

 76年のリメイク版はあくまでも現実世界が舞台である。コングが生息する島に行くのは石油会社の一行。新しい油田を見つけ、発掘するのが任務だった。
 ヒロインは難破した船の生存者として一行に救助される。女優の卵で、撮影のため香港に向かっている最中だった。Hong Kongには行けず、代わりにKing Kongに出会ったというわけ。
 船内である映画の上映会が始まり、気分が悪くなったヒロインが外にでると中で爆発が起こった。「あの映画のために私は助かったのよ」というその映画が「ディープ・スロート」。当時大ヒットしたポルノ映画というのが70年代らしい。

 ジャクソン版ではヒロインの外見的な露出はあるものの、オリジナル版にあったコングとヒロインのエロティックな描写は皆無だった。ところがこのギラーミン版はけっこうエロかったことに驚いた。泥で汚れたヒロインを滝で洗って、自分の息で乾かすシーンなんて、ヒロインの表情といい、まさにセックスそのもの。初公開時なぜ気がつかなかったのだろう?
 実物大のコングはニューヨークでの見世物興行に登場する。やはりぬいぐるみのコングとはスタイルからして違う。編集でごまかしてはいるが、その差は歴然。特撮はミニチュアっぽさが全然ないのでかなりの感動ものなのだが。




 戸田から川口へ引っ越した17、18年前、西川口駅から自宅へ帰る途中、ビデオレンタル店が5軒もあった。商店街に3軒、自宅近くに2軒。それがあっというまに1軒になってしまった。近隣にTSUTAYA等の大型店ができて、個人店が淘汰された結果だった。唯一残った店はチェーン店だったと思うが、ここも昨年の12月末に閉鎖となった。けっこう利用させてもらったので閉店はショックだった。
 たまに川口駅で降りて帰ることがある。その途中にもビデオレンタル店があった。市川崑監督の昔の作品が揃っていて一時期毎週のように通ったものだ。ここも昨年のうちに閉店になった。
 そういえばレンタルビデオももう死語なのだろう。店にあるのはDVDかブルーレイだもの。

          * * *

 ●30年前の「犬神家の一族」 2007/01/30

(略)
 一つ手前の川口駅で降りた。ダイエットのため少し歩きたい。途中ビデオレンタル店に寄る。ずっと貸し出し中だった「犬神家の一族」のビデオがあった。

 すでに深夜の1時を過ぎていたがとりあえず再生。
 「悪魔の手毬唄」を再見したときに真っ先に思ったのは、金田一シリーズはスタンダードサイズだったんだということ。高校時代、あまりの期待感から地元の公開(東京よりすいぶん遅れる)を待てなくて、ロードショーの初日だか二日目だかに日比谷まででかけた。
 このとき、スタンダードサイズにちょっとがっかりしたことを思い出した。スタンダードというと昔の映画、小品というイメージがある。シネスコやビスタといった横長サイズこそ映画という慣習が身についていた。豪華な作品にはそんな映画らしさがあってほしいと。

 角川春樹事務所第1回作品。芸術祭参加作品でもあった。

 信州の製薬王、犬神佐兵衛の臨終。メインタイトル。大野雄二のテーマ曲をバックにした大胆なデザインによるキャスト、スタッフクレジット。タイトルが終わると、スチール構成と字幕による犬神佐兵衛の一生。そして、われらが金田一耕助の登場。
 金田一がスクリーンに登場するまでの構成とリズムは何度観てもわくわくさせられる。特に田舎然とした那須市街を歩く金田一をロングで捉えたショットに興奮したものである。今回も夜中に第一の殺人事件が起こる手前まで観て、翌日(昨日)、頭まで巻き戻して一気に鑑賞した。

 公開当時の批判でよく覚えているのがこのロングショットに対する異議申し立てだ。曰く「画面に(TVの)電柱や電線が写っている。昭和22年にTVがあるはずがないではないか」。
 昭和20年代を知らない高校2年生には、電柱や電線の有無なんてどうでもよかった。それよりも、いかにもな地方都市ののんびりした風景の中に、風采の上がらない探偵をぽつんと置いた構図に心和んだ。と同時に、まったくヒーローらしくない主人公がこれから奇怪な殺人事件の渦中に飛び込んでいき、どんな活躍をしてくれるのかと期待に胸震わせた。とても印象的なショットだと感激したのだ。

 この評論家の言わんとしていることは、今ならわかる。自分がよく知っている1970年代を描いた作品があるとして、そこにどうしても時代とそぐわないものがあったら文句の一つもつけたくなる。
 ただし、こうも思った。崑監督のことだから、電柱、電線が写り込んでいるなんて百も承知だろう。写り込んでいてもなお、そのカット(光景)が映画に必要だからこそ、採用したのではないか。今ならデジタル処理で消去できるだろうが、当時は不可能だったのだから。で、それは間違っていなかったと今も思っている。

 もう一つは、ストップモーション処理(コマ抜き、落し)について。
 湖で、ボートに細工されて遭難しかけた珠世を金田一が救うシーン。いくつかのカット(の画)がストップして台詞だけが流れるのだが、これも意味のないシーンと切り捨てられた。
 「木枯し紋次郎」のタイトルバックで、紋次郎が木にかけた振り分け荷物を忘れてあわてて駆け戻るというシーンが同じ処理をされていて、とてもユーモラスな雰囲気を醸しだして気に入っていた。それを本編に流用したわけだ。珠代の命を狙って何者かによってボートの底に穴が開けられていた、ということを観客にわからしめるだけのシーンだから、この処理はとても有効だし、観ていて快感だった。
 にもかかわらず無意味だと!


 ●新旧「犬神家の一族」のあいだに 2007/01/31

 当時の認識からすると、市川崑は黒澤明と並ぶ日本映画界の巨匠だった。「東京オリンピック」ではその名を世界に轟かせた。にもかかわらず、いわゆる研究本がないことが不思議でたまらなかった。
 1970年代半ば。たとえば黒澤明はキネマ旬報から何冊か出ている。大島渚、深作欣二だって出ている。どうして市川崑の本はないのだろうか? 
 作品数が多すぎる。ジャンルが多岐に渡りすぎる。傑作、駄作の差が激しい。作家としてより職人として評論家筋には捉えられているのだろうか。なんてことを後年考えたりもした。

 崑流のカッティングを真っ向否定する評論家がいた。
 被写体をまずロングで捉え、一気にアップになったかと思ったらまたロングに戻る、なんていうのは人間の生理(眼)からいっても自然ではない。ロングから徐々にアップにならなければとその人は書いていた。
 そういうものなのか。自分は、神業に近い編集にいつも快感を覚えて、学生時代は盛んに自作で真似したものだが。

 そういえば淀川長治は、スクリーンいっぱいに広がった縦横自由自在に配列された極太明朝体の文字に対して、「これは崑監督流の照れじゃないか」と語っていた。それまでの崑監督作品のクレジットは小さな文字が画面の隅にひっつくように並んでいたのである。
 あるいはまた第3の殺人事件が起きて、捜査陣が激しい雨の中、犬神邸の屋根に登って現場検証を行うところを俯瞰で狙ったショットを「これが映画だ」とも評していた。この構図は崑映画で何度も目にすることができる。

 当初リメイクのニュースを知っても食指は動かなかった。映画公開以降何度となくTVでドラマ化されていることにも「無意味なことを」と相手にしなかった。崑監督自身のセルフリメイクでなければ腸煮えくり返っているところだ。詳細なキャスティングが発表されて、もしかしたらという気がした。心動かせられる配役だったのだ。

 三姉妹(高峰三枝子・三条美紀・草笛光子→富司純子・松坂慶子・萬田久子)
 珠世(島田陽子→松島奈々子)
 古舘弁護士(小沢栄太郎→中村敦夫)
 はる(坂口良子→深田恭子)
 猿蔵(寺田稔→永澤俊夫)
 佐武(地井武男→葛山信吾)
 小夜子(川口晶→奥菜恵)
 那須ホテル主人(横溝正史→三谷幸喜)

 特に深田恭子と永澤俊夫。ところが、スクリーンの中のはるや猿蔵にそれほどの良さが感じられない。今回オリジナル版を観て、坂口良子に顔がほころび、寺田稔に圧倒された。演技力と存在感の違いか。
 小沢栄太郎の口跡にも聴き入った。映画の最初の方で、金田一と並んで歩きながら古館が犬神家の関係者を説明するシーンがある。その声が、説明される人物(三姉妹)中心のシーンに切り替わると、とたんに声のトーンが変わってしまう。それまでは芝居の発声、その後はナレーション。たぶん、別の日にナレーションブースで台本片手に録音されたものなのだろう。残念。
 青沼静馬が素顔のまま気を失っていて、駆け寄った金田一が傍らに落ちているマスクの匂いを嗅ぐカットがある。シナリオでは、クライマックスの謎解きのシーンで、ポマードの匂いから、静馬と佐清の入れ替わりを推理するくだりがあるのだが、本編ではカットされていた。リメイク版でもしっかり金田一が匂いを嗅ぐので、カットされた台詞が復活するのかと期待したら、やはりなくて、これまた残念。あの時代、ポマードを使っていたのかという疑問もあるが。

 金田一映画の常連役者も忘れがたい。三木のり平の役はリメイク版では林家喜久蔵が演じていたが、味のある台詞まわしと滲み出るようなおかしさでは、かないっこない。小沢昭一だったら……。

 映像がシャープで美しかった。確かこの映画で長谷川清というカメラマンの名を覚えたのだ。編集の長田千鶴子と並んで、崑監督の名パートナーと認識していたのだが、「おはん」から五十畑幸勇に交代した。調べてみたら「細雪」で引退したみたいだ。
 とにかく日本家屋の良さを認識させてくれたのがこの映画だった。古舘の助手が殺された那須ホテルの洗面室。そのいかにも旅館にありそうなタイル張りの洗面台にものすごく感動した。そのほかにも、前述した瓦屋根、黒光りする廊下、畳。1976年はディスカバージャパン元年だった。少なくとも自分にとっては。




 「悪いのはみんな萩本欽一である」という番組が放送されたらしい。タイトルとは逆の欽ちゃんをトリビュートする内容とのこと。
 この前、テレビ東京のゴールデンで、やはり欽ちゃんをフィーチャーした特別番組をやっていて、チャンネルを合わせたのだけど、イメージしていたのとは違った。その後、冒頭の番組を知ったのだ。
 3年前に考えた番組に似てるかなあ、と。
 観たい!

          * * *

 ●欽ちゃん! 2007/09/26

 最近ちょっと萩本欽一ブームである。時の人というべきか。
 視聴率100%男と呼ばれ、TV界を席巻したのは、もうずいぶん前のこと。その後、タモリ、ビートたけし、明石家さんまの登場で、その座を奪われた。
 このときのマスコミの欽ちゃんバッシングがひどかった。ビートたけしの欽ちゃん攻撃の尻馬に乗った形。要は一連の欽ちゃん番組は面白くない、いつまでお山の大将でいるんだという内容。

 コント55号の時代から追いかけてはいたものの、あまり番組を観なくなっていた僕はあわてていくつかの番組にチャンネルを合わせてみた。全盛時の勢いがないけれど、言われるほどの内容ではない。少し安心した。が、少しして休養。復帰してからの番組ははっきりいって無残の一語だった。案の定、あっというまにすべての番組が終了してしまった。
 この間、欽ちゃんはビートたけし及びその関係者の挑発にまったく乗らなかった。何一つ反論しない。徹底していた。実際のところどう思っていたのだろうか? 
 コント55号時代の、一度やったコントは二度としない、というポリシーとともに、この態度にも好感を持った。ある種の生き方を教わった気がした。

 しばらくして、欽ちゃんはショート映画の製作に着手、若手の映画作家の育成に乗り出した。上映館では観た本数で料金が決まるシステム。確か1本300円で、客は申告して入場料金を支払う。マスコミはまた態度を豹変する。その持ち上げ方に、あのバッシングは何だったのかと憤ったものだ。
 数年前の野球クラブ設立でも同じ現象が起きた。
 それが日本テレビの「24時間テレビ」のマラソンに出てから、頂点に達した感がある。
 ニッポン放送ではあの「欽ちゃんのドンといってみよう」が復活するんだとか。

 先週だったか、TBSラジオ「伊集院光の日曜日の秘密基地」は欽ちゃんがゲストだった。昔話に花咲かせたインタビューがむちゃくちゃ面白かった。
 コント55号のコントで、本当におもしろかったものは今ほとんど残っていないという。往年のコントを収録したDVDが発売され、購入したけれど、「なんでそーなるの?」はもう全盛時代のものではない。
 本人もそれは認めている。「台本がなかったころのコントの比ではない」と。
「では本当に面白かったコントを収録したビデオはあるんですか?」
 伊集院の質問に「うーん、3、4本はあるんじゃない」

 だったらテレビ局の方、そのビデオをメインにした、萩本欽一に徹底インタビューする番組を作ってください。〈いい人〉でまとめる番組なんてもううんざりだ。
 TVがダメなら、本でもいい。かつての「市川崑の映画たち」みたいなロングインタビュー本ができないものか。




 円谷プロがTYO傘下からパチンコメーカーの子会社になったことを伝えるニュースに唖然とした。
 いったい円谷プロはどうなるのだろう? ウルトラマンは?
 新キャラクター、ウルトラマンゼロの造形や設定に円谷プロのゆらぎが見え隠れする。ウルトラセブンの息子なのになぜにウルトラマン〈ゼロ〉なんだ? アイスラッガー本来の描写がご法度になっている今、どうしてそのアイスラッガーを2本も頭につけているのだ?
 あと数年すると公式設定でウルトラセブンはウルトラマン〈セブン〉になるのではないだろうか。

 「ULTRASEVEN X」 は最終回でトンデモ設定が明かされ、ハラホロヒレハレになってしまった作品。

          * * *

 ●君の名は バツ? ペケ? 2007/10/09

 先週5日(金)の深夜、「ULTRASEVEN X」第1話が放送された。
 にもかかわらず! 
 予約録画するのを忘れた!!
 朝までちゃんと覚えていたのだ。朝刊のTV欄見ながら、新番組として取り上げられないんだ、悲しいなあと。フツーならその時点で録画予約する。しかし、深夜の放送だから帰宅してからも十分間に合う。その油断が命取り。
 案の定、夜になったら「忘却とは忘れ去ることなり」。
 久しぶりに「タモリ倶楽部」を見て、「検索ちゃん」を楽しんでそのまま深い眠りへ……。

 悲しいのは翌日もまったく思い出すことがなかったこと。「週刊ブックレビュー」公開録画の件で頭がいっぱいだった。
 かみサンに午後放送される芸術祭参加ドラマ(高畑淳子主演)の録画をお願いして家を出た。
 往復の電車の中では「蘇る封印映像 幻の特撮&アニメ徹底ガイド」(天野ミチヒロ/三才ブックス)を読み続けた。以前、書店で見つけて衝動買いして、そのまま積ん読状態だったムック本。冒頭は「ウルトラセブン」幻の12話だというのに、それでも「ULTRASEVEN X」はまったく頭をよぎらない。
 夜になってmixiを開いて、見知らぬ方の足あとを訪ねたら「ULTRASEVEN X」に触れた文章があり、「ああああ!!」。

 もっと悲しいのはそう叫んで、10秒後にはどうでもよくなってしまったこと。「ティガ」や「ダイナ」の時代だったら、荒れ狂ってその夜は眠れなかっただろうに。ちと大げさか。
 ビデオ(DVD)になったら観ればよい。そう考えても借りることはないのだろう、たぶん。「ネクサス」も「マックス」ももちろん「メビウス」も見逃しているエピソードはあるのだが、まったく手を出す気になれない。
 果たして、今度の金曜日は忘れずに録画を予約できるか?
 忘れたら、もう今度こそどうでもいいや。
「忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」


 ●ウルトラセブン 幻の12話 2007/10/10

 第一期ウルトラシリーズは、内容はもちろんのこと、サブタイトルも実にかっこよかった。「ウルトラQ」からの伝統で短編SFアンソロジーの趣きがあった。
 「ウルトラセブン」の中から適当に挙げてみる。
 「姿なき挑戦者」「湖のひみつ」「マックス号応答せよ」「ダーク・ゾーン」「狙われた街」「アンドロイド0指令」「散歩する惑星」「蒸発都市」「セブン暗殺指令」「ノンマルトの使者」「第四惑星の悪夢」
 サブタイトルを目にするだけでもワクワクする。
 このセンスは「怪奇大作戦」、「マイティ・ジャック」まで貫かれている。

 それが第二期ウルトラ(マン)シリーズになると、徐々に〈そのものずばり〉調になって情けなくなる。
 たとえば「ウルトラマンタロウ」の中からみつくろってみよう。
 「タロウの首がすっ飛んだ!」「ゾフィが死んだ! タロウも死んだ!」「怪獣エレキング満月に吼える!」「ウルトラ父子餅つき大作戦!」
 まあ、対象が完全に幼児~小学低学年になっているのだから、逆にいえば、このほうが子どもたちの好奇心をあおる要因になったかもしれない。しかし、「餅つき大作戦」とは……。「ウルトラマン」第一話「ウルトラ作戦第一号」、あるいは「電光石火作戦」とはえらい違いだ。

 そんなわけで、しばしの年月をおいて復活した「ウルトラマン80」は、毎週放送前に「TVガイド」を立ち読みしてサブタイトルをチェックしていた。第一回「ウルトラマン先生」ではじまった番組は、「必殺! フォーメーション・ヤマト」「タイムトンネルの影武者たち」「砂漠に消えた友人」等々、いかにもSFといった感じになって喜んでいたら、いつのまにか路線変更して、「ヘンテコリンな魚を釣ったぞ!」「山からすもう小僧がやってきた」等、(いい意味にとれば)児童文学的香りを漂わせ、最終回は「あっ!キリンも象も氷になった!!」……。

 「ウルトラマンマックス」「ウルトラマンメビウス」は各エピソード、みな真面目なものが多いのだが、どれも画一的なところが気になる。「○○の△△」ばかりなのだ。
 「ウルトラセブン」はサブタイトルもバラエティに富んでいたと思わないではいられない。
 「ウルトラセブン」に前後編の「ウルトラ警備隊西へ」というエピソードがある。地球はもとより宇宙規模で活躍するウルトラ警備隊がたかだか日本の、関西(神戸)へ行くのに「西へ」の表現はどうよ? という意見がかつて某特撮HPのBBSにあった。すかさず、書き込みした。それは岡本喜八監督の「独立愚連隊西へ」のもじりだと。「円盤が来た」は「狼が来た」からの発想だろうが、原題は「夜ごとの円盤」だった。これはルネ・クレール監督の「夜ごとの美女」のもじり。
 とすると今では幻の12話になってしまった「遊星より愛をこめて」は「ロシアより愛をこめて」(映画ではなく、小説の)を意識したのだろうか?


 ●第三期ウルトラ(マン)ブームと実相寺昭雄監督 2007/10/11

 高校時代に朝日ソノラマからアニメや特撮に関する研究本(ムック)が出た。〈ファンタスティック・コレクション〉と銘打たれ、最初が「科学忍者隊ガッチャマン」で、続いて「空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマン(ウルトラQ/ウルトラセブン)」。歓喜して買い求めた。
 ファンタスティック・コレクションはその後も刊行され円谷プロの主だった作品を網羅し、活字世界から第三期ウルトラ(マン)ブームを巻き起こした。
 また「特撮映像の素晴らしき世界」と題する読み切り雑誌(何かの別冊扱いだった)がその後「宇宙船」という季刊の特撮雑誌に発展していく。初期の「宇宙船」はすべて持っている。

 「特撮映像の素晴らしき世界」には実相寺監督が「タロウ」用に書いた未映像化シナリオ「昇る朝日に跪く」を原案にした漫画が掲載されていた。鎌倉を舞台にタロウと宇宙人が戦う話なのだが、ラスト、大ピンチのタロウに代わって、すくっと立ち上がった大仏が宇宙人を抱えて海に消えていく、タロウの世界に実相寺イズムを注入したような面白さだった。
 今から思うと、このブームは〈ウルトラシリーズに実相寺監督あり〉をアピールしたものだったかもしれない。円谷プロは「ウルトラマン」のエピソードの中から実相寺監督作品をピックアップして再編集し劇場用映画として公開した。同時期にTVで「ザ☆ウルトラマン」というアニメーションを手がけるが、やはりファンは実写(特撮)を望み、翌年の「ウルトラマン80」につながっていくのだ。

 それはさておき。
 「空想特撮映像のすばらしき世界」では、放映作品が一覧表になって紹介されていた。首をかしげたのは「ウルトラセブン」の項だった。第12話が欠番と表示されていたのだ。
 この手の雑誌をむさぼり読むうちに、この欠番が「遊星より愛をこめて」だと知ることになり、本放送では観ていることを思い出した。
 スペル星人。そうそう、そんな宇宙人がいたなあ。しかし、なぜこのエピソードが欠番扱いになったのだろうか? 脚本・佐々木守、監督・実相寺昭雄のコンビによる作品と知ってからその思いが強くなった。

 ウルトラシリーズ(「怪奇大作戦」を含む)における実相寺監督作品は、今では傑作、名作として喧伝されているが、リアルタイムで視聴していた小学生、少なくとも僕にとっては、異様でしかなかった。観終わって何か異物感が残るような。
 「ウルトラマン 空からの贈り物」はウルトラマンを冒涜していると怒り狂った。「ウルトラセブン」の「狙われた街」ではセブンと宇宙人の戦いがストップモーション処理、「第四惑星の悪夢」や「円盤が来た」はそもそもウルトラセブンと宇宙人がほとんど登場しない。不満でたまらなかった。
 ところが再放送を繰り返し観ているうちに、いつしか他のエピソードより心が捉えられるようになった。面白いのだ。寓話の皮肉が効いている。中学、高校になると特撮シーンよりドラマに夢中になっているのだった。映画監督志望だったこともあり、カメラワークやカッティング、映像そのものに魅了された。「木枯し紋次郎」以降、市川崑監督作品を追いかけたのと同じ理由である。
 そんな実相寺監督作品がもう1本あると知れば、これが観られずにいられるものか。映像を堪能したい。本放送の印象なんてまったく忘れているのだから。

 詳細な理由(欠番に至るまでの経緯)はずいぶん経ってから知ることになる。
 「映画宝島 怪獣学・入門!」(JICC出版局・後の宝島社)というムックにこの問題が取り上げられていたのである。


 ●「遊星より愛をこめて」 2007/10/13

 「映画宝島 怪獣学・入門!」の奥付に1992年7月2日発行とある。
 ベストセラー「ウルトラマン研究序説」に対する苛立ちから編まれた怪獣映画の本格評論集。実際読み応えのある内容だった。ジャンルは違うけれど、満足度は「大特撮」に匹敵すると当時思ったものである。

 掲載された評論の一つ「ウルトラマンにとって正義とは何か? 」で切通理作さんを知った。ウルトラシリーズを代表するシナリオライター3人(金城哲夫・上原正三・市川森一)を取り上げていて、感銘を受けたのだ。もちろん後に上梓される「怪獣使いと少年」は真っ先に購入した。
 もう一冊「ゴジラとヤマトと民主主義」(佐藤健志)も買ったのだっけ。こちらはうんざりしてすぐに手放してしまうのだけど。

 問題の「遊星より愛をこめて」封印は巻末のコラムで取り上げられていた。タイトルは〈「幻の12話」を20年間追い続けた男〉。取材・文は編集部となっており、ということは編集担当の町山智浩氏なのか。

    ◇
 『×××××××』の第十二話「遊星より愛をこめて」は現在、TVでもビデオでも見ることができない。そこに登場した×××星人に関する記述も出版物からその姿を消している。この「幻の十二話」に二十年間もこだわり続けている人物がいる。
    ◇

 こんな書き出しで始まるコラムは、かつて被差別部落開放運動にかかわり、「橋のない川」上映阻止運動に参加した男を俎上にする。上映阻止運動は間違っていたと〈総括〉する彼は「遊星より愛をこめて」封印事件の顛末を調査研究し、関係者に質問状を送り、会見したりしている。

 なぜか?
 彼らが肝心の「遊星より愛をこめて」という映像作品を観ずにメディアから消し去ったからである。
 彼は答える。「ぼくたちのグループは作品そのものを見もせずに糾弾したわけです。でも後になって、ちゃんと見たうえで糾弾すべきだったと後悔しました」

 とある爆弾実験の結果、放射能の影響で血液に異常をきたした宇宙人が、正常な血を求めて地球人の女性を狙う。特殊な腕時計で血液を採取するのだが、採取された女性の白血球を極度に減少させ死にいたらしめてしまうしろもの。連続して起こる事件にウルトラ警備隊が調査を開始し、最後はセブンとともに宇宙人の陰謀を阻止する……。

 〈核兵器を全廃した近未来の地球を舞台にし、そこに核の悲劇を背負った宇宙人を登場させることで、平和と繁栄に溺れ、核の恐怖を忘れたすべての日本人を批判し〉たドラマ。コラムの中で、そう紹介されたドラマを、彼らは封印したのである。制作側の意見にまったく耳をかさずに。某雑誌が宇宙人を〈ひばくせい人〉と説明書きしたことによって。


 ●「遊星より愛をこめて」2 2007/10/15

 コラムで知った封印の経緯はこうだ。
 昭和45年、小学館の学習雑誌「小学二年生」11月号に掲載された「怪獣決戦カード」でスペル星人を〈ひばくせい人〉と説明書きしていた。この記述を中学1年生の女の子が発見し、父親(原爆被爆者団体協議会の委員の由)に相談した。父親は直ちに小学館に抗議の手紙を書くのだが、回答される前に朝日新聞が記事にしたため、問題は拡大していった。

    ◇
 その後、他社の出版物からも「×××星人」の記述が集められ、すべてが激しい糾弾にさらされた。「被爆星人」というネーミングをしたのは、脚本の佐々木守、監督の実相寺昭雄はじめ、作品の作り手たちではなかったのだが、結局、制作プロはこの×××星人の登場する「遊星より愛をこめて」を欠番とし、以後、あらゆるメディアへの露出を「封印」した。
    ◇ 
                         
 とにかく被爆者を怪獣扱いしたことが問題なのだった。それが作品本来のテーマとはまったく関係ないことだったにもかかわらず。
 コラムは問う。だとしたら、「ゴジラ」はどうなのか! ゴジラは水爆実験で犠牲になった生物なのだ。
                           
 平成シリーズの「ゴジラvsキングギドラ」に登場するゴジラは、放射能の影響で20m弱の恐竜が100mもの巨大な怪獣になってしまう描写がある。また、スペル星人の肌にケロイドの痕を問題視するなら、ゴジラの皮膚なんてケロイドそのものなのだ。
 彼は問う。

    ◇                      
「地球防衛軍」のミステリアンはどうなるんでしょう? それに放射能の被害者としての怪獣はそれこそ数えきれないほどいますよ。アメリカ映画の怪獣なんてほとんどそうだし……
    ◇                          

 アメリカ映画には放射能の影響で巨大化した蟻の恐怖を描く「放射能X」がある。放射能を浴びて巨大化した軍人の物語「戦慄! プルトニウム人間」も。続編は「巨人獣 プルトニウム人間の逆襲」だ。
 東宝特撮映画の中で、幼いころ僕が一番恐怖しなおかつ感動した「フランケンシュタイン対地底怪獣」は、広島に落ちた原爆の放射能によって巨大化した〈絶対死ない心臓〉なのである。
 「遊星より愛をこめて」を糾弾するのなら、こうした映画に対してすべて同じ対応をとるべきではないか。

 ではなぜ、その他の放射能の影響によって巨大化した怪獣の映画は封印されなかったのか?
 団体が動かなかっただけのこと。
 たとえば、「帰ってきたウルトラマン」の「怪獣使いと少年」。在日朝鮮人差別を宇宙人に仮託して描いたエピソードが、もし、その手の団体から糾弾されていたら、間違いなく封印されているだろう。

 「怪獣学・入門!」は評判を呼んで、かなり長い間書店で見かけることができた。
 ある日、ページをめくってみて、わが目を疑った。ラストのコラム〈「幻の12話」を20年間追い続けた男〉がないのである。まったく別のコラムに差し替えられていた。
 ショックだった。
 削除を要求したのは、件の団体か、それとも円谷プロなのか。

 12話のビデオがマニアの間に出回っている、と知ったのはもうずいぶん前である。「観てみたい」と言うと、必ずこうかえされた。「大した内容ではないですよ」 
 そのたびに説明する。「内容なんてどうでもいいんです。実相寺監督の映像を観たいんだから」
 願いが叶ったのは昨年、いや一昨年か。
 ダビングが繰り返されたとみえ、とにかく画像がひどい。ひどいけれど、実相寺タッチのカメラワークは堪能できた。ウルトラフォーク1号と宇宙人の円盤の空中戦で、発射された光線がそのまま残り、画面が光線ばかりで何も見えなくなってしまうカットがある。今ならその遊び心に快哉を叫ぶ。しかし、本放送のときはTVの前で「ふざけている!」と憤っていたのではないかな、小学2年の僕は。
 ゲスト出演は、「ウルトラマン」のフジアキコ隊員を演じた桜井浩子。アンヌ隊員の友人役で、菱見百合子との共演もうれしい。ダンのスーツ姿がかっこいい。
 ストーリーもそれまで耳にしていた〈大した内容〉ではなかった。恋人が実は宇宙人で、自分をモルモットにしていることがわかったにもかかわらず、それでも相手を信じているヒロインの心情がいまいちよく理解できないが、テーマはしっかり伝わってくる。特技監督・大木淳(吉)さんの夕景シーンも「狙われた街」と対をなす出来。

 「蘇る封印映像 幻の特撮&アニメ徹底ガイド」では冒頭4ページに渡って「遊星より愛をこめて」を取り上げている。問題の新聞記事が目を引いた。またスペル星人のアジトとなった百窓ビルのカラー写真も大きく掲載している。
 一番を興味を抱いたのは次の一文だ。

    ◇                         
 「FLASH」2005年11月22日号(光文社)誌上で行われた「中島竜美と佐々木守の対談」が思い出される。抗議した側とされた作品の脚本家によるその対談は、お互いが歩み寄りを見せ、第12話の復活に向けて進歩的な意見が交換されるという歴史的なものだった。
    ◇

 この記事についてはまったく知らなかった。だったら円谷プロが復活に向けて動き出すべきだろう。
 実相寺監督も生前こう言っていたそうだ。
 「もっときれいな画質で観て欲しいね」
 クリアな画質で観るべき価値は絶対ある。断言できる。




 書き込みがずいぶんと遅くなってしまったが、井上ひさし氏の訃報に肩を落とした。以前、肺がん闘病のニュースが流れたのでそのときが来ることは覚悟していたけれど。

 最初の出会いはNHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」。これでミュージカルの基本を教わったような気がする。当時はまったく意識していなかった。今考えるとそうだ。続く「ネコジャラ市の11人」も夢中になった。
 てんぷくトリオの座付き作者になり、数多くのコントを書いた。コント55号の前はてんぷくトリオの笑いが好きだったので、高校時代にそれらのコントを集めた本が出版されると買い求めた。で、ラグビー部の仲間にやってしまうのだ。そいつが試合で骨折して入院し、そのお見舞いに持って行った。たぶんその日、本屋に買い物に行くと、これから見舞いに行こうとする連中と会って「俺も行く」ということになったのではないか。そのまま、購入した本を見舞いの品にしまったわけ。実際に読んだのは社会人になってからの文庫本だった。

 小説家として、劇作家(こまつ座主宰、座付き作家)として有名だが、個人的にはその方面で追いかけたことはない。恥ずかしいことに「青葉繁れる」も「吉里吉里人」も読んでいないのだ。
 僕にとっては〈日本語の先生〉のイメージが強い。日本語に関するエッセイの類は見つけると必ず読んだ。
 週刊文春連載の「ニホン語日記」を楽しみにしていた時期がある。この連載、休載ということで中断したように思う。終了したわけではないのだ。再開されることはなかったけれど。
 その他、フランス座のこととか、渥美清とのこととか。いろいろ教わった。ほんと、井上先生だった。
 そういえば、小学校の最初の担任が井上先生(女性)だ。3年と4年も担任だった。おふくろは井上先生を「教師の鑑」と評した。23歳のころ、先生を呼んでクラス会を開催した。先生今でも元気だろうか?

 ふたいサロン主催のFさんが井上ひさし似であることはこれまで何度か触れている。会の自己紹介(Fさんから突然振られる)で話題にしたことがあって、それを受けてFさんが言った。「西舘さんがゲストで来たときは、僕が隣にいて、少々不機嫌だったもん」

 訃報に接して改めて思う。
 両親世代の終焉が刻一刻と近づいている。


 映画監督西河克己氏も亡くなった。享年91。もうそんな歳になるのか、と驚いた。


 合掌




 16日(金)に「NINE」を観なかったのは、疲れていたこともあったけれど、MOVIX川口ということも要因だった。このシネコンでは会員になると映画が無料になる。1回10ポイント、6回通うと60ポイントになってご招待になるわけだ。レイトショーは1200円。だったら通常の1800円が無料になった方が得ではないか。
 というわけで本日鑑賞。しみったれていてすいません。

          * * *

2010/04/18

 「NINE」(MOVIX川口)

 この映画、川崎チネチッタで観るべきだった。封切当時、チッタで観るつもりだったのだ。
 なぜか。開巻すぐにわかる。

 プロローグが終わって、主人公が愛人と逢瀬を重ねようと有名ホテルに向かう途中で流れる「24000回のキッス」(24MILA BACI)に感激した。
 歌謡曲(GS)を知る前、物心つく前の、それこそ音楽なんてまったく理解していないころ(1960年代初期)、オールディーズ(当時の洋楽流行歌)をさかんに耳にしていたのだろう。特に「24000回のキッス」がお気に入りだった。日本では藤木孝がカヴァーしていた。ツイストが流行って、僕は盛んに腰を振ったもの。僕の中では「24000回のキッス」=ツイストだった。
 ある日、家族(親族一同かも?)で旅行したときの旅館のジュークボックス。誰かが「24000回のキッス」をリクエストした。音楽が鳴り出すやいなや、僕は踊りだした。会場の注目を集め拍手喝采をもらった。とても思い出深い曲なのである。

 この曲が流れて、「ああ、あの時代か」と肌感覚でわかった。予告編を含めてそれまで現代を舞台にしていると思っていたのだ。フェリーニの「8 1/2」は1963年作品(日本公開は65年)。今ウィキペディアで調べた。
 「8 1/2」のタイトルの意味はわからないが、「NINE」は主人公の映画監督の9作目という意味。「イタリア」というタイトルの映画が10日後にクランクインするというのに、まったく脚本が書けないでいる、スランプに陥った世界的な映画監督。サングラス姿、黒ずくめのスーツ(ネクタイも)姿が、若き日の黒澤明を彷彿とさせる。見た目はシーナ&ロケットの鮎川誠だけど。

 「オール・ザッツ・ジャズ」は、ボブ・フォシーの「8 1/2」だった。そうか、「8 1/2」はフェリーニの〈いい気なもん映画〉だったわけか。いかに自分がモテて、作品づくりに神経をすり減らしているか。そんなこと他人にとっては知ったこっちゃねぇ。つまりそういうことで。
 ボブ・フォシーはクスリとヤクに溺れ、「NINE」の監督は煙草とコーヒーに安穏を求める。

 イタリアを舞台にした、イタリア人たちのドラマなのに、言葉が英語なのはアメリカ映画だから仕方がないにしても、みんな訛っていたような。
 元はブロードウェイミュージカル。映画化でソフィア・ローレン等、ヨーロッパの役者たちもキャスティングして英語をしゃべらせるのだから訛るのは当然かもしれない。とはいえ、そうじゃない人たちも訛っているように聞こえたのはわざとなのか。ミュージカルシーンのナンバーも訛っているのだから。ちなみにほとんど60年代風アレンジ。そこがいい。

 ダニエル・デイ=ルイスの英語はクイーンズイングリッシュかも。「CAN'T」をキャントではなくカントと発音する。僕がハリウッド映画に毒されているということか。
 ジュディ・デンチはソロでいかにもイタリア(フランス?)訛りを聴かせてくれる。彼女はイギリス女優ではないか?

 カラーとモノクロが入り混じる映像にその昔の「男と女」を思い出していた。まあ、あちらはほんとに感覚的に入れ替わるのだが。

 ボブ・マーシャル監督らしく「シカゴ」同様、ミュージカルシーンはあくまでもイメージだから、それまで演技していた役者が突然歌いだすなんていう不自然さはない。もとのミュージカルがそうなのかもしれない。 

 カーテンコール(終わりの始まり?)でソフィア・ローレンが登場したときに涙がこぼれそうになった。理由はわからない。
 迫力の「BE ITALIAN」を聴くためにサントラ買うべきか。

 フェリーニの「8 1/2」が観たい!


 【追記】

 団時朗がプロデューサー役で出演していたとは!
 ニコール・キッドマン、どうしても「モーニング娘。」初代リーダーに見えてしまって。
 だったら、もし日本で舞台化するとしたら、主役は役所広司、元女優の奥さんは大竹しのぶでどうだ? デザイナーは赤木春江で。
 



 今週は、13日(火)「ふたいサロン」、14日(水)「TMシアター短編上映会」、15日(木)「談四楼独演会」と3日連続でアフターファイブを楽しんだ。帰宅してからの原稿執筆がつらかったが。
 昨日地元シネコンでレイトショーを観ようとした。「NINE」のレイトが昨日までだった。しかし、疲れ気味なのでまっすぐ帰宅。
 
 「忍者ハットリくん」の実写映画化にはまったく興味がなかったのに、「怪物くん」の実写ドラマ化はちょっと気になる。チェ・ホンマンのフランケンがナイスキャスティングじゃないか。容貌はぴったり、台詞は「フンガー」しかないし。

 2005年の12月はリメイク版「キング・コング」で盛り上がっていた。ジャングル×アドベンチャー×巨大クリーチャー。僕が一番愛するジャンルかも。


          * * *

 ●二つの「ロスト・ワールド」と「キング・コング」 2005/12/12

 先日「キング・コング」をDVDで再見した。帰宅途中によく立ち寄るレンタルビデオ屋。最近ここにクラッシック名作群のDVDが大量に入荷され、100円でレンタルし始めたのだ。各巻の背表紙を眺めていたら「キング・コング」を発見、ピーター・ジャクソン監督のリメイク版公開の前にチェックしておこうと借りた次第。

 面白い映画は何度観ても面白い。
 前半30分強、撮影隊がスカル島に上陸するまではキングコングのキの字もでてこない。
 ヒロインの発掘、撮影隊の出航、原住民とのいざこざ、撮影隊のメンバーとヒロインの恋など簡潔に描かれる。
 原住民にヒロインがさらわれてから一気にワンダーワールドに突入していく。

 コングに連れ去られたヒロインを追って、ジャングルの中に入った一行が最初に出会うのがステゴザウルス。思わず膝を打った。スピルバーグ監督「ロスト・ワールド/ジェラシック・パーク」で島を訪れた主人公たちが目撃する最初の恐竜がステゴザウルスなのだ。
 ステゴザウルスを倒した一行は筏で沼を渡ろうとする。今度はそこへブロントサウルスが襲いかかる。草食恐竜が人間を襲うのはご愛嬌。陸に上ってからもブロントサウルスに追われる一行。
 このスリル&サスペンスは同じく「ロスト・ワールド/ジェラシック・パーク」でティラノサウルスレックス(T―REX)に置き換えてジャングルでの恐竜と人間の追いかけっこシーンに引用されている。

 「キング・コング」ではその他、ティラノサウルスvsコング、大蛇(よくみると胴体が太く手足がみえる?)vsコング、プテラノドンvsコングが描かれる(コングと闘わないが、大トカゲも登場する)。
 コングが生け捕られると、舞台は一気にニューヨークへ。どうやってコングを運んだのか? まったく無視。この不満をジョン・ギラーミン版リメイクが解消していた。「ロスト・ワールド/ジェラシック・パーク」は当然ギラーミン版を採用してT―REXを運搬した。

 で、またまた膝を打つ。「キング・コング」はコナン・ドイルの「失われた世界」と映画化「ロスト・ワールド」の多大な影響がそこかしこに垣間見られるのだ。
 ジャングルの冒険、絶滅した生物との邂逅。生け捕りにした絶滅生物の都市への連行、逃げ出した生物の都市破壊。だいたいプロットが同じではないか。

 原作ではロンドンにやってくるのは翼竜(プテラノドン)だった。映画化にあたって、ブロントサウルスになる。ちなみに私の幼少時、大型恐竜の代名詞だったブロントサウルス(「怪獣王子」のネッシー!)は現在アパトサウルスという名称になっている。
 ということを踏まえて、スピルバーグの「ロスト・ワールド/ジェラシック・パーク」。シナリオ段階では、ヘリコプターで島から逃れた主人公たちが翼竜に襲われるストーリーだった。が、技術的に無理だと判断、T-REXが街を襲うシーンに変更されたという。

 つまり映画「ロスト・ワールド」のブロントサウルスを巨大ゴリラにして、美女をからませたのが「キング・コング」。その「キング・コング」の興奮シーンを独自に消化しながら、映画「ロスト・ワールド」や小説「失われた世界」にオマージュを捧げたのが「ロスト・ワールド/ジェラシック・パーク」なのである。
 いかにストーリーが破綻していても、私が「ロスト・ワールド/ジェラシック・パーク」に親しみを覚えるのはまさにここなのだとわかった。

 「キング・コング」では最後まで美女と野獣の心の交流はなかった。ヒロインは始終叫んでばかり。絶叫女優と言われた由。ギラーミン版では最初恐怖におののいていたヒロインがニューヨークで(囚われの身となって)行動を共にするうち、コングの身を案じるようになる。オリジナルとリメイクの決定的な違い。
 もうすぐ公開されるピーター・ジャクソン版リメイクもTVスポットで確認する限り、ギラーミン版の線〈心の交流〉を狙っているらしい。
 まあそんなことはどうでもいい。ギラーミン版でばっさり削除された絶滅恐竜がオリジナル以上に登場するのがうれしくてうれしくて。密林(ジャングル)と恐竜ってまさにぴったりの組み合わせだと思う。

 もうひとつ、今回オリジナル「キング・コング」に殿方が大喜びするシーンがあることに気がついた。巣にもどったコングが左手でヒロインを握りながら、右手で徐々に衣装を脱がせるくだり。まるで美少女フィギュアで遊ぶ×××の様。ピーター・ジャクソン監督のことだから絶対リメイクに取り入れているはず……。
 あやうし、ナオミ・ワッツ!




 「体験的石ノ森ヒーロー論」、何とか書き上げた。簡単にいうと昭和と平成の「仮面ライダー」比較論。納期とページ数を死守するため、後半はあっと驚く展開にした。受け入れられるかどうか。8ページ。
 もうひとつは書評「石ノ森章太郎を読む」。「絆 不肖の息子から不肖の息子たちへ」「石ノ森マンガ学園」「章説・トキワ荘・春」の3冊を取り上げた。4ページ。

 「まぐま 18号 石ノ森章太郎スピリッツ」は5月発売らしい。

 で、今回も転載です。自慢話に受け取られるかもしれないが……過去の話。いや、はい、自慢です、と言った方がスッキリするか。

          * * *

 ●早熟といふこと 2005/05/03

 以前、私の映画がABWで配信された際、Sさんが夕景工房BBSに告知し、中学生の私を早熟と評された。小学校高学年から高校生にかけて、確かに早熟だったと自分でも思う。
 なんたって、小6の私は性教育のオーソリティーで、クラスメートの男子にいろいろと講義してやっていたんですから! 生理とは何か、セックスについて、あれやこれら。
 3、4年の頃から父親が持ち帰る大人の雑誌(いわゆる月刊誌ですね、エロ本ではない)を盗み読みして、○ナニーという言葉を覚えた。しかし、この○ナニーは女性がする行為だと思った。そういう文章だったので。ということで、いまだにこの言葉は恥ずかしい。

 なんてことはどうでもいい。
 そんなわけで、中学生になって、別の小学校から来たクラスメートがその手の話をしているのを目にしたり、耳にすると「幼いなあ」なんてちょっと蔑んだ目つきをしていた(と思う)。あるとき、クラスの女の子に言われたことがある。
「新井くんって大人びているね」
 3年になると高校生に見えると言われるようになった。男友だちは「老けているなあ」 はっきり言う。高校生になると今度は社会人みたいだと揶揄され「老けている」が連呼された。これは傷つく。顔は笑って心で泣いていた。一度母親に相談したこともあった。
「お母ちゃんも学生時代はよく老けていると言われたよ」
 40歳過ぎて年齢より若く見られるようになったと。あの時は早く40歳になりたいと願ったものだ。
 老けているという言葉は、今でもトラウマになっていて、他人に対してもあまり口にすることがない。

 また話が飛んでしまった。早熟についてだった。
 ということで、今週は早熟のこころだあ! でいきます。


 ●フィルムとビデオ 2005/05/05

 いつ頃かは忘れたが、小学生時代にTVのドラマにはフィルム作品とビデオ作品があることを知った。カラー番組が多くなってからその違いが顕著になったことから、たぶん5年生くらい(1970年)だったろうか。ここらへんからいわゆるアニメ、特撮番組以外の大人向けドラマも自分の意思で観るようになった。「2丁目3番地」「君も海を見たか」で倉本聰という脚本家を知り、中学時代は脚本倉本聰とあると必ずチャンネルを合わせた。

 それはさておき。
 フィルムとビデオの質感は明らかに違う。にもかかわらず、昔、スタジオでの収録はビデオなのに、屋外になるとフィルムというドラマがけっこうあった。それがイヤでイヤで。昔はビデオカメラが大型で屋外に持ち出せなかったことが要因だが、だったらあくまでも室内だけのドラマを考慮すればいいだけではないかと、腹立たしかったことを憶えている。カメラが小型化されて、屋外でもビデオで収録(昔、ビデオの場合は収録といった。撮影はあくまでもフィルムの時。いまはもう何でも撮影だ)されることが主流になっても、NHK「中学生日記」はかなり遅くまでビデオとフィルムが混在していたように思う。

 またフィルム作品(TV映画)はアメリカのTV作品にくらべて画像が悪いことも気になった。美しくないのである。当時、映像の美しさが自分の中で一番の評価だったので、これもいつも気になっていた。後年、アメリカはTVでも映画と同じ35ミリを使用するのに、日本では16ミリが主流だということを知り、納得した。同じ16ミリでも現像会社によっても違うことがわかった。東洋現像所(現イマジカ)は一流、東映化学は二流という認識があった。

 同じことはCFにも言えた。なぜCFでは空が蒼く、海が透き通るようなブルーなのか。TV映画ではぜったいお目にかかれない世界。何のことはない、CFも35ミリで撮影し、海外ロケが多いだけだったのだ。1シーン、1カットにかける予算はTVのそれと桁が違う。

 映画好きだったので、TVでもフィルム作品を好んで見たが、だからといってビデオをないがしろにしていたわけではない。ビデオにはビデオの良さがあった。倉本脚本作品などはビデオだからこそ面白かったといえるかもしれない。ただし大河ドラマのビデオ画像にはいつも失望していた。時代劇にはビデオ映像の生々しさが似合わない。妙に嘘っぽさが強調された。
 とまあ、小学校の高学年から中学生にかけてはTVを視聴しながら、上記のようなことをいつも考えていた。それはごく当たり前のことだと思っていたのだが、人と映像体験的な昔話で話すと皆驚く。そういう意味では早熟だったのだな、と今になってわかるのである。
 そのまま成長していれば天才になっていたかもしれないのに、高校で挫折を味わい、以降ずっと低空飛行が続いている……


 ●「ねむの木の詩」論争 2005/05/06

 女優の宮城まり子氏が自身で運営する身障者たちの学校「ねむの木学園」がある。学園に通う児童たちの生活を記録したドキュメンタリーの第1作「ねむの木の詩」が公開されたのが1974年。
 宮城氏の製作・脚本・監督で撮影は岡崎宏三氏。
 地元太田市では市民会館で公開され、授業の一環として先生に引率され観に行った。映画には学園の中で成長していく過程が描写されておりとても感動したことを憶えている。

 映画が終わっての帰り道、親友のAが映画のある描写について文句をつけだした。それは身体障害の男の子が小さな山を登る姿を延々と撮ったシーンで、山頂に登りきるまでを映し出していた。
「長すぎる」
 Aが指摘するのは長すぎるから興がそがれるというのだ。中だるみする。もう少し、途中をカットすべきじゃないかと。

 私は一連の8ミリ映画で撮影を担当したAらしくない発言に異を唱えた。
 カメラは嘘をつく。カットとカットの間には見た目はそのままつながっていても、実際はどのくらいの時間が生じているかわからない。ノーカットで少年が山頂に到達するまでを映し出しているからこそ、あの映像に意味があるのだ。監督の宮城氏はそこのところをわかっていて、あえてそのままフィルムを切ることなく使っているのだと。だからこそ少年の達成感が胸に迫ってくるのだ。Aはそれを認めつつ、映画の全体の構成からやはりもうすこしシーンを短くすべきだと主張する。これは劇映画じゃない、ドキュメンタリーなんだ、あのシーンは映画の核なのだから、絶対切ってはいけない。私はゆずらない。
 帰り道での白熱した議論。結局Aを納得させられたのかどうか、忘れてしまった。




 Y様

 映画「もう頬づえをつかない」が面白くなかった由。
 その気持ち、わからなくはないんです。
 私も初めて観たときにはヒロインに反発していましたから。でも何度か観るうちに気持ちが変わっていくんですねぇ。その変遷を、5年前、mixiに綴っています。大学時代の日記からの写しです。ある日のエンタテインメントレビューの蔵出しということで。

 ところで、mixiって、それまでの紹介制から登録制に変更になったんですね。別に友人から紹介されなくても、好き勝手にmixiができるというわけ。昨日(もう一昨日か)の朝日新聞の記事で知りました。ああ、だからCM流していたのか。
 

          * * *

●3つの視点 「もう頬づえをつかない」 2005/05/19

 まあ、息抜きに、ある日の日記から……

    ◇

1979年
 11月27日
「もう頬づえはつかない」(試写)
 主人公まり子の生き方に納得してしまうところがある。しかしこれは共鳴ではない。本質的にはまり子の生き方は疑問だらけだ。こういった女は好きになれない。
 もしこの映画のテーマが「女の自立」だったらふざけるなと叫んでやりたい。
 この映画に描かれているのは女のずるさと男のたよりないやさしさしかない。

    ◇

1981年
 2月8日
 佳作座で「四季奈津子」「もう頬づえはつかない」を観る。
 東陽一の作品はこの2本と「サード」しか知らないが、氏の映像における色彩感覚には一種独特のものを感じる。すべての色に白をまぜた淡い水彩画のようだ。
 語り口は何となくウディ・アレンの映画に通じるものがあるように思う(ウディ・アレンをそれほど知っているわけじゃないけれど)。
 毎日の生活の中でのほんのささいな部分をさりげなく描写してくれる、そんなところがうれしい。

 試写の時「もう頬づえはつかない」のまり子の生き方にすごく反発したわけだけどあらためて観てみると、彼女の孤独感や悲しみ、あるいは怒り、焦燥などがよく理解できた。しかしそのために利用されたとしか思えない奥田英二演じる心やさしき男の惨めなふられ方はどうしたらいいのか。

    ◇

 9月14日
 TVで「もう頬づえをつかない」を観る。
 初めて観た時よりも、そして二度目よりももっと深く考えさせられた。
 この映画は簡単に言うと、一人の女性が、自分のことしか考えない無鉄砲な、それでいてどこか不思議な魅力を持つ男と、ごくごく平凡な、例えば故郷に帰って役所で働こうと考えてる男との間で揺れ動く話だと思う。
 桃井かおり演ずる主人公まり子の気持ちが実によくわかる。
 ラスト近くの森本レオの恒夫との決別でみせたまり子のしぐさ――テーブルの上のコップの水を床にこぼしてゆく――はまり子のとどめもなく流れていく涙を表しているのではないか。
 まり子の気持ちはわかる。わかるのだけれど俺は男だ。どこにでもいるような女の子一人愛せばそれで充分な橋本くんと同じ大学生なのだ。
 だから橋本くんが最後に女に裏切られて見せた涙に、まり子以上の共感を覚えてしまう。

 映像がまるで呼吸をしているようだ。
 俺もこんな映画を作りたい。

    ◇




 相変わらず「まぐま」の原稿執筆でジタバタしている。

 先週8日(木)、下北沢の小劇場楽園にて水木ノアさんが主演する二人芝居「The Loving ~Rondo~」を観た。二人芝居なのに出演者が4人とはこれいかに!? 一人を3人が演じるところが新機軸、みたいだ。面白い。おかっぱ頭(ボブ?)のノアさんって友近に似ている。以前から似ていると思っていたけど。ノアさんの自作曲、いいなぁ。あとは雰囲気、情緒だろうか。文机での原稿執筆のしぐさとか日本酒の飲み方とか。
 会場にまぐま発行人のK氏がいた。実際に会うのは数年ぶりのことだ。
 メールで3月末の締切を延ばしてもらったのだが、会ったついでにいつまで待ってもらえるのか確認した。14日までというので以降帰宅するとできるだけPCに向かっている。

 ……はずなのに、フジテレビ開局50周年記念ドラマ「わが家の歴史」が15日(金)から三夜連続で放送されるんだもの。当日の新聞TV欄で紹介されるまで知らなかったし、関心もなかった。たまたま第一回の冒頭部分を観たらハマってしまって。
 三谷幸喜ゆかりの豪華キャストによって描かれるある一家の歴史。とはいえ、八女家はある種の狂言まわしだろう(特に大泉洋のつるちゃん!)。ドラマの主役は昭和という時代そのものだ。

 昭和を象徴するさまざまな有名人、著名人が八女家とすれ違ったり、交流したり。「ありえねぇ~」と突っ込みながら、その嘘っぽさを笑って容認していた。それがこのドラマのキモでしょう。
 ただし、手塚治虫のエピソードだけは受け入れられない。特にアシスタントを務める八女家三女に対するマネージャーの非情な言葉。オリジナルのマンガを描きたいという夢を否定するなんてこと、あの時代ではありえない! 三女が漫画家になる夢をあきらめさせる理由づけならほかにもあったと思う。
 昭和30年代になってからの柴咲コウに、自分の母親を重ねた世代には市川崑監督「私は二歳」を観ることをお勧めする。

 話を戻す。
 小劇場楽園の客席には、田野良樹さんもいた。サンハロンシアターの役者で「上海、そして東京の屋根の下で」では主役の服部良一に扮していた。あの芝居も真の主役は戦中から戦後にかけての時代そのものだと個人的には思っているのだが。
 田野さん、この前爆笑問題がMCを担当したスペシャル「ニュースの目撃者」に出演していた。正確にいうと、番組の中の再現ドラマに。漁船が転覆して4日間漂流の末に助かる漁師3人のうちの一人の役。この再現ドラマが見ごたえあった。リアル海猿、ミニポセイドンアドベンチャー的趣きもあって、3人の絶望感がにじみ出ていた。

 昨日は「わが家の歴史」の前に大河ドラマ「龍馬伝」。暗殺者(人斬り)になっていく過程で人間的弱さを垣間見せる岡田以蔵(佐藤健)がいい。「勝海舟」のショーケンとはまた違った魅力。武市半平太に認められたいがために人斬りに走る姿に目頭が熱くなったりして。広末涼子もいい。ほんと、いい女優になった。彼女の場合、結婚、出産が成長へのいい糧になっただろう。
 ドラマ自体はやはり〈作られ〉感がいたるところに漂っている。別れた恋人に会うために上洛するか? その恋人が勝海舟の存在を教えるか? 史実にフィクションを挿入することを否定するわけではないが、あまりにも作為を感じてしまうのだ。

 「龍馬伝」の前はゴールデンに進出したテレビ東京「モヤモヤさまぁ~ず2」。深夜番組時代には見たことなかったが、ふと耳にしたナレーションが気になって気になって。自主映画上映会「アウトプッツ」のレギュラーアニメ「日本(世界)名作劇場」シリーズ(監督:EMIPON.COM)とほとんど同じ調子なのである。この番組がスタートしたのは3年前(だと番組の中で語っていた)。アニメに初めて触れたのは5年前。ということは……?

 「まぐま」の原稿、いつ書いているのか。




 承前


2010/02/11

 「日本語は天才である」(柳瀬尚紀/新潮文庫)

 ここまで原文の意味や法則をきちんと日本語に変換しているとは!
 著者の翻訳力に感服してしまった。


2010/02/16

 「くたばれ! 朝日新聞」(大澤正道/日新報道)

 副題に〈国民を欺く卑怯なメディア〉とある。
 朝日新聞はつまらない。beはもっとつまらない。
 著者は朝日新聞における広告の割合が増えていることを批判しているが、学生時代、まさに就職のために、求人広告を見るために朝日新聞を購読していた僕にとって、広告があってこその新聞である。
 それにしても、なぜ〈朝鮮民主主義人民共和国〉を〈朝鮮人民民主主義共和国〉と書く? 〈赤旗新聞〉を〈しんぶん赤旗〉と書く?


2010/02/16

 「落語家はなぜ噺を忘れないのか」(柳家花緑/角川SSC新書)

 収録されている創作落語の疑問。
 なぜ呉服屋、醤油やの隠居が長屋に住んでいるのか?


2010/02/20

 「ラクガキいっぷく」(中野翠/毎日新聞社)

 ときどき中野翠が鼻持ちならなくなる。
 落語は志ん生、文楽。日本映画は小津安二郎。
 70代、80代の年寄りじゃないんだから。
 なぜ今の寄席に足を運ばない? どうして現役の噺家に興味を持たない?
 コラムの中で扱う映画ベストテンは外国映画だけ。なぜか日本映画への言及はさける。別に観ていないわけでもないのに。邦洋混在したベストテンではまずいのか?
 アニメが大嫌い、今の小説に興味がない。
 独身貴族よろしく、休暇となると友人と海外旅行。大恋愛したことはないのだろうか?
 いろいろうんざりすることは多いのだが、社会時評を読むと、ああやっぱり中野さん!となる。この人の社会時評には首肯せざるをえない。共感できるのだ。

 ――「サンデー毎日」の連載コラム、20周年を記念に終了してもよかったのではないか。


2010/02/22

 「上を向いて歌おう 昭和歌謡の自分史」(永六輔 聞き手=矢崎泰久/飛鳥新社)

 「いい湯だな」ってもともとは群馬の歌だったのか!


2010/02/24

 「山田洋次 なぜ家族を描き続けるのか」(新田匡央/ダイヤモンド社)

 「おとうと」を観てから読めばよかった。
  山田監督、もしかして現役で活躍する映画監督の中で最長老かも。


2010/02/28

 「お言葉ですが…⑧ 百年のことば」(高島俊男/文藝春秋)

 週刊文春に連載されている間、一冊にまとまるたびに図書館から借りて読んでいるはずなのだが、本書だけは借りた覚えがなかった。
 連載が終了して何となくどことなく文春が面白くなくなった。小林信彦とセットになって木曜日の楽しさだったのだ。
 今からでも帰ってきてくれないか。無理だよなあ。




2010/02/03

 「平凡パンチの三島由紀夫」(椎根和/新潮文庫)

 マスコミに登場するスーパースターの顔、事件後に三島由紀夫を知った者には何から何まで「!」の世界。
 三島由紀夫の意志を伝えようとしない夫人の行動に不満を覚える。遺族としては仕方ないのか。


2010/02/04

 「月ば撃つぞ! 落語家歌之介がゆく」(三遊亭歌之介/うなぎ書房)

 著者が近所の〈湯の郷〉に出演するという告知看板を見た。鹿児島弁の落語で人気の噺家が、なぜ、川口のサウナ施設に? その疑問が頭のどこかにこびりついていた。本書を図書館の棚で見つけて手に取ったのはそんな理由による。
 読んでわかった。著者と同い歳だった。湯の郷出演の理由も。若いころ、川口、それも西川口でアパート暮らししていたのだ。師匠(円歌)の家(麹町)に通うため、市ヶ谷駅を利用した。僕は大学4年間市ヶ谷(&飯田橋)通いましたよ。
 すごい親近感。今度高座を観たい!


2010/02/06

 「封印漫画大全」(坂茂樹/三才ブックス)

 どんなマンガが封印されているのかと手に取ったのだが、知らないものが多かった。
 なんたってこちとら、少年ジャンプなら「こち亀」、少年マガジンだと「魁!! クロマティ高校」しか読まないのだから。


2010/02/07

 「必死のパッチ」(桂雀々/幻冬舎)

 これは傑作小説だ。本書は噺家になるまでの第一部という感じで、早く第二部が読みたい。枝雀師匠との出会いや下済み生活の模様を知りたいではないか。
 それにしても、大阪の人って、子どもの存在をどう思っているのだろう。「ホームレス中学生」の親にしろ、著者の親にしろ、借金のために子どもを路頭に迷わすんだよ。恥ずかしくないのだろうか。まあ、同じような境遇をバネにして芸人になったのがたまたま大阪人だっただけなのかも。


 この項続く




 
 本当に備忘録です。
 書きたいことはあるのだけれど。

          * * *

2010/02/15
 
 「談四楼独演会 第168回」(北澤八幡神社参集殿)

 立川長四楼  「?」
 立川らく兵  「?」
 立川らく太  「?」
 立川談四楼  「粗忽長屋」

 〈仲入り〉

 林家二楽   紙切り
 立川談四楼  「井戸の茶碗」


 着いたら、師匠の一席目が始まっていた。前しか空いていないため、途中入場できず、通路のソファに座って声だけ聴いていた。これはこれでオツなもの。その間、開口一番の長四楼さんが目の前を通ってトイレへ。軽く会釈すると笑顔を見せた。この時点ではこの日が最後だなんて知りはしない。スーツ姿の三四楼さん、ソデでじっと師匠の噺を聞いていました。


          * * *

2010/03/18

 「立川三四楼二つ目昇進披露の会」(雷5656会館ときわホール)

 立川こはる  「つる」
 立川談笑   「片棒・改」
 立川談四楼  「ぼんぼん唄」

 〈仲入り〉

 立川談春   「替り目」
 立川三四楼  「大工調べ」

 
 三四楼さんが二つ目になることを知ったとき記念の会があるならぜひ参加したいと思った。ネットで情報入手してため息ついた。立川流四天王の二人がゲストだと!? それもチケットはeプラスで購入しなければならない。手に入らないよ。
 2月の独演会、仲入りで三四楼さんから直接買えた。それも500円引き。やったね。
 トリの三四楼さん、「いち、に、の三四楼!」がなかったのは初めてのような気がする。マクラが全然グダグダじゃない。やればできるじゃないか! 似顔絵ダジャレは客を選ぶと思うけれど、がんばって。 






2010/04/01

 「ハート・ロッカー」(MOVIX川口)

 映画サービスデー。地元シネコンで「ハート・ロッカー」を観る。

 以前、アカデミー賞で「ハート・ロッカー」と「アバター」が互角に勝負すると思っていたのか? と書いた。作品としての質を問うたわけではない。アカデミー賞は、伝統的にSF映画に対して点が辛いこと、このジャンルの作品には作品賞、監督賞といった主要な賞が与えられないことを指摘したかっただけのこと。ヴィジュアルや音響に関する賞が妥当なのだ。
 たとえば、戦争における残酷描写でも「スターシップ・トゥルーパーズ」だと批判の対象となり、「プライベート・ライアン」は賞賛されてアカデミー賞を受賞することになるわけだ。

 とはいえ、「ハート・ロッカー」を観たあとに「アバター」とどちらが面白かったと訊かれれば「ハート・ロッカー」だと答えざるをおえない。全編を貫く緊迫感がただことではない。
 爆弾処理を扱うチームを描くのだからいつ爆弾が爆発するのか、その緊張感があるのは当然とはいえ、中盤の銃撃戦のシークェンスに身震いした。まるで自分がそこにいるかのような感覚に陥って2度ほど声をあげてしまった。悪意ある傍観者あるいは無垢なる抵抗者の存在も光る。
 展開に余計な説明がないのもいい。まるでハリウッド映画らしくない。
 「アバター」と「ハート・ロッカー」の勝負とはハリウッド映画vs非ハリウッド映画でもあったのだ。

 ハリウッドの女性監督というと、キャスリン・ビグローのほかにミミ・レダーがいる。どちらも女性を感じさせない作風というのは偶然か。

 職人フェチにはたまらない映画だ。爆弾処理のシーンは別の意味でドキドキしてしまった。
 3人が1チームとなって働くということで、「ウルトラマンガイア」のXIGを思い出した。軍隊とか特殊部隊とかを描く映画を観ると、映画の中で彼らが活躍すると、いつも考えてしまう。このタッチで新しいウルトラマン(シリーズ)の特捜隊を描けないかと。武器を携帯する音を含めていろいろ想像してわくわくしてしまうのだ。ウルトラファンの悲しい性で。
 
 ひとつだけ。
 カメラワークは「ハゲタカ」チームに軍配があがるゾ。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。さまざまなイベントを企画、開催していますので、興味あれば一度覗いてみてください。

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