今日は13時から芝居を観劇するので、覚醒しない意識、だるくてしかたない身体にムチ打って何とか11時過ぎに起き上がった。目覚ましは9時から定期的に鳴っていたけれど。
 シャワーを浴びて、歯を磨きながら朝刊に目をとおす。

 三面訃報記事でまた叫んでしまった。
 野沢那智が亡くなった。
 最近TVの洋画劇場で放映された映画で、ハリソン・フォードもシルヴェスター・スタローンも慣れ親しんできた声ではなかった。昨日のブルース・ウィリスは当然違っただろう。フジテレビは村野武範、テレビ朝日は野沢那智だったから。

 アロン・ドロンは野沢那智でなければいけない世代だ。70年代前半、もう一人だったかアロン・ドロンをアテている声優がいたっけ。
 虫プロ制作「クレオパトラ」ではジュリアス・シーザーの声だった。最後になってオネェ言葉になるのだ。おかまのシーザー。六文銭が主題歌や挿入歌を担当していた。
 高校生になると、「パック・イン・ミュージック」を毎日聴くようになった。木曜日深夜のナッチャコパック。ほとんどおしゃべりばかり。音楽がかからない深夜放送は珍しかった。
 「ダイ・ハード」シリーズがTVで放映されるようになって、ブルース・ウィリスが持ち役になった。「スター・ウォーズ」の3POも。

 実は、野沢さん(ここから敬称)に手紙を書こうと思っていた。昔の芝居について取材したかったのだ。
 昨年の夏、東京で紙ふうせんFCの懇親会があった。後藤(悦治郎)さんとFCメンバーで二次会へ。大いに盛りあがって三次会へ。後藤さんは当日関西へ帰るのをやめて一泊することに。メンバーもつきあって同じホテルに一泊した。夜中の2時3時まで騒いだのだから帰れるわけがない。
 後藤さんが翌日神保町で古本屋巡りをするというので、一人つきあった。神保町でまず喫茶店でモーニング。そこで聞いたのだ。赤い鳥時代に後藤さんが野沢さんの芝居の音楽を担当したことを。
「野沢さんなら音源持っているんじゃない?」
 すでに劇団薔薇座だったのか。その前なのか。詳細を野沢さんに訊きたかった。もしあるのなら音源も聴かせてもらいたかった。
 行動を起こしたくても、どうしたらいいか迷っていて。
 
 二重の意味でショックを受けた。
 享年72。
 
 合掌。




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 すいません、前項の続きではありません。

 昨日は「シネマdeりんりん」だった。「442 日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍」プレイベント。自動車事故を起こして来日が危ぶまれたすずきじゅんいち監督が奇蹟の快復をして日本で数多くの取材を受けている。
 ということは、予定どおりプレイベントのゲストになるのではないか? 少々期待した。実は奥さんの榊原るみさんもご一緒されると思ったもので。
 叶わなかった。代理として、日本で宣伝、パブを担当しているI氏が招かれた。意表つく宣伝に瞠目した。実際は制作側(プロデューサー)だからとのこと。ディレクターズ・カンパニーに所属していた方なので、懇親会で早速質問した。「長谷川和彦監督は今何やっているのですか? なぜ新作を撮らないのですか?」
 もう長谷川監督の「連合赤軍」は諦めているのだが。
 I氏のトークが面白く、懇親会は盛り上がった。

          * * *

 夕景工房のBBSで声を小さくして告知したので、こちらでもしますね。
 「ミリオン・ピープル」の「もうっこ」に衝撃を受けた。平山さんのヴォーカルに渡辺貞夫のサックスに痺れた。何度も聴くうちにパーカッションに興味を持った。
 続いてエレクトリックピアノ。演奏者が深町純さんだった。赤い鳥が解散して後藤さんと平山さんが結成した紙ふうせんのデビューシングルの「いかつり唄」をアレンジしている。「円山川舟歌」も。最近、共演でなくても、後藤さんと深町さんのトークしてくれないだろうかと思っている。
 このブログを読んで紙ふうせんのライブを聴きたい方、連絡ください。生の「竹田の子守歌」に触れてほしいんです。

         記

紙ふうせんシークレットライブ

●日時 2010/12/04(土) 18:00開場 19:00開演

●場所 Cafe & Livespot FJ's(エフジェイズ)
      東京都目黒区中目黒5-1-20
       03-3760-2825
         
     *深町純さんのお店です

●料金 ¥4,000(Drink & Food は別途)

●出演 紙ふうせん(後藤悦治郎&平山泰代)
      今出 哲也(Piano)
      すぎた じゅんじ(Guitar & Cho)

                   以 上




 自伝「ショーケン」(講談社)の出版以降、ショーケンのメディアへの露出がじわりじわりと増えてきた。
 肝腎の映像作品は「TAJOMARU」の次に予定されていた「ナオミ」がポシャってしまったらしいが、ライブ活動(「ANGEL OR DEVIL」)が今年1月に引き続き今秋も開催されている。前回と違ってほとんどライブなのに〈トーク&ミニライブ〉と銘打っているのはフルバンドでないことのエクスキューズなのか。
 9月の横浜(関内ホール)に始まって、名古屋、大阪。ラストは東京(なかのZERO)。

 関内ホールのライブはツアー(?)の最初ということもあったのか、まとまりに欠けていた。シッチャカメッチャカ。この表現が正しいかどうかわからないけれど、それが率直な感想。ショーケンとスタッフの意思の疎通がうまくいっていなかったような気がする。一番前の席(の端の方)だったので、始終ソデ(のスタッフ)に向かって指示しているショーケンの表情を目の当たりにして苦笑いするしかなかった。イライラ感が伝わってくる。声の状態にも一喜一憂。

 ……ああ、書いちゃった。
 新しい発見もあった。ギターの長井ちえ。女キース・リチャーズって感じで実に堂々としていてかっこよかった。
 その後の名古屋、大阪は良くて「横浜は何だったのか?」なんていう感想もあるので、東京のラストライブに期待している。

 CM出演には驚いた。サントリーのウィスキー山崎。「TAJOMARU」の主役、小栗旬と共演している。まだ一度しか見たことがないが、ショーケンらしくて大変うれしい。

 雑誌へも頻繁に登場している。時代の証言者としての役割が大きい。つまり「ショーケン」に綴られた70~90年代の映画、TV作品への関わりに言及しているインタビューが多いように思う。
 「映画秘宝」5月号では「神代辰巳を語る」と題して取材されていた。12,000字のロングインタビュー。
 先々週あたりのTV番組雑誌(雑誌名失念!)では主にNHK大河ドラマ「元禄繚乱」について。インタビュアーがペリー荻野だった。もっともっと訊いてもらいたかった!

 「ショーケン」に影響を受けた思われる本が出版された。
 「日本映画[監督・俳優]論」だ。

 この項続く




 珍しく週刊現代を買った。モノクログラビアでショーケンが特集されているのだ。単なる記事なら立ち読みするだけだが、特集だとそうはいかない。
 買って驚いた。400円もするのだ。特別価格とあるのでいつもはもう少し安いのかもしれない。週刊文春の特別価格は370円(通常価格350円)だから、通常価格は380円か。週刊ポストは380円だって。週刊新潮は340円のはず。サンデー毎日、週刊朝日はいくらなんだろう? いつも立ち読みばかりの雑誌は価格まで気にしていない。
 まあ、どうでもいいことだけど。
 
 週刊文春・先々週号で桜庭一樹の「伏~贋作・里見八犬伝」が終了した。桜庭一樹の小説を読んだことがなかった。直木賞を受賞する前後まで男性作家だと思っていたほどだ。連載が始まったときは、題材が「八犬伝」ということもあって興味深く読み始めた。なかなか夢中になれなかった。ちっとも盛り上がらないのである。一時はなかなか終わらない「一刀斎夢録」(浅田次郎)と後から始まった「真夏の方程式」(東野圭吾)と3本立てになって読むのに苦痛を感じていたほど。

 「一刀斎夢録」も途中まで義理で読んでいたところがある。「壬生義士伝」を読まなかった失敗があったので、同じ新撰組もの、幕末ものならば押さえておこうと読み始めたのだが、段々読むのが億劫になってきた。どこが面白いのかわからなかったからだ。ラスト近くになって一気に盛り上がって目頭を熱くさせてくれた。途中でやめなくてよかったと心底思ったものだ。一冊になったらまた読むつもりでいる。

 対して「伏~贋作・里見八犬伝」は最後までその面白さがわからなかった。予想していた物語とは全然違う展開になっていったことも要因かもしれない。それでも「一刀斎夢録」のように、ラストに近くになれば大いに盛り上がるのだろうと期待して毎週読み進めたわけだが、先々週号が最終回だと知って驚いた。ええ! もう終わりなの? とするとこの数回はクライマックスだったのか。お義理で毎週文字だけ追いかけていたのでそういうことになる。
 連載回数からいってももう少し連載が続くと思っていた。普通小説は1年間、50回前後は続くのに「伏~贋作・里見八犬伝」は42回で最終回を迎えた。なんとも中途半端な気がする。
 驚いたもう一つは来月には本が店頭に並ぶこと。ちと早すぎやしませんか。人気作家の証なのだろう。僕とは相性が悪かっただけのこと。

 「伏~贋作・里見八犬伝」より少し遅れて始まった「真夏の方程式」は、さすが東野圭吾というべきか、最初から読ませてくれた。こちらは毎週のお楽しみになっている。最近になって気がついたのだが、このミステリ、探偵ガリレオシリーズの最新作だった。主要登場人物の湯川が福山雅治だったのね。 「容疑者Xの献身」を読んでいるのに、湯川の存在を忘れていました。いや、お恥ずかしい。
 こちらは先々週号で事件の真相が明らかにされてボルテージが一気に上がった。いやはや意外な展開! 最終回も近い。




 数年前まで毎年秋に実施される健康診断で〈異常なし〉だった。禁煙してから再検査の通知が届くようになったのは皮肉としか思えない。
 尿にたんぱく、脂肪過多等々、再検査の結果問題なし、様子見の段階で特に治療の必要なし、というものなのだが、「黄斑変性症」だけは、実際に眼科で検査したら〈疑い〉から〈確定〉になってしまった。それが一昨年のこと。幸いにも症状がでていないので、半年に一度だけの検査だけで済んでいるのだが。
 検査は、点眼薬で瞳孔を開かせてから行われる。開いた瞳孔は検査が終わってもすぐには元の状態にはならない。外に出ると光が異様にまぶしく感じられる。映画でいうホワイトアウトみたいな状態になるわけだ。
 そんなわけで検査の日は有休を取っている。
 10月が半年ぶりの検査なのだが、今度はいつにしようか?

 先月の「シネマdeりんりん」でサムライシアター新宿の支配人K氏から、同シアターで行われる試写会の招待状をいただいた。すずきじゅんいち監督のドキュメンタリー「442 日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍」、その最後の上映が22日(金)18時からある。定時に退社していては間に合わない。だったら、この日、午後半休をとって、眼科に行って終わったら新宿にむかえばいい。夕方だし問題はないだろう。
 試写室は満杯だった。
 それにしても、上映中に携帯電話をとりだす人はいるわ、寝息をたてながら寝ている人はいるわ、皆さん映画ジャーナリストではないのか? それもかなり年配の方!

 映画は442部隊の方たちへのインタビューと当時の記録フィルムで構成されている。インタビューを聞きながら、脳内変換して劇映画に仕立てていた。記録フィルムの内容にも驚愕した。
 インタビューは原則英語。他の言葉になると英語の字幕がつく。中には英語でしゃべっているにもかかわらず、英語の字幕がつくのもあった。とても訛っているとか、聞き取りにくいというわけではない。英語字幕の有無の基準がわからない。何か別の意味があるのだろうか。

 本2冊読了。
 「大魔神の精神史」(小野俊太郎/角川oneテーマ21・角川書店)
 「日本映画[監督・俳優]論」(萩原健一・絓秀実/ワニブックス【PLUS】新書)

 23日(土)、「怪獣人生」(中島春雄/洋泉社)を読み進める(本日読了)。

 24日(日)は本とDVDを返却するため川口中央図書館へ。
 今回は返却だけ。本は借りないと心に決めていた。でもねぇ、奥田英朗の「無理」(文藝春秋)を見つけてしまったら借りないわけにはいかない。ついでに「勝新 役者バカ一代」(肥留間正明/音羽出版)も。
 DVDは3巻。
 「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」(監督:山田洋次)
 「喜びも悲しみも幾年月」(監督:木下恵介)
 「トップガン」(監督:トニー・スコット)




2010/10/20

 「七瀬ふたたび」(シアターN渋谷)

 2年前のちょうど今ごろ(10月)NHKで「七瀬ふたたび」のドラマが始まっている。1クール、毎週ビデオを録画してチェックしていた。NHKのドラマでヒロインを演じたのは蓮佛美沙子。70年代に少年ドラマシリーズで同じ役を演じた多岐川裕美とはイメージが全然違って、高校生といってもいい面影だった。

 某ビル内の一室。男がピストルで頭を撃ちに抜いている。捜査本部で上司(大杉漣)に対し死因を説明する刑事(平泉成)。ピストルを持つ手首が骨折していた。この状態では引き金を引けない。では他殺か? エレベーターの防犯カメラに写る若い女。犯人?
 粒子の荒いビデオに写る、 この女がヒロインの七瀬だ。

 七瀬が今何しているのかが同時に描かれる。
 北海道で知り合った女(前田愛)と一緒に羽田空港に降り立った。エスカレーターで降りる二人をスナイパーが狙う。何やら超能力(シャイニング?)を使ってどちらが七瀬か判断している。なぜか定めた狙いは七瀬ではなく女の方だった。銃弾一発。その瞬間女は身をかがめた。落とした何かを拾おうとしたのだ。後ろの男が倒れた。七瀬は異変を察知しあわてて女を連れてその場を去った……。

 ミステリアスでスリリングな幕開け。
 七瀬たち超能力者たちと彼らの抹殺を狙う謎の組織、指揮者(吉田栄作)。その人間関係と構図がわかる仕掛けとなっている。
 前田愛はその後ホテルで殺されてしまうのだが、七瀬はタイムトラベラーの藤子(佐藤江梨子)の力で過去へ飛び彼女を生き返らせる。つまり、彼女がまだ生きている数日前に戻り、そこで彼女と別れてしまうのだ。狙われているのは自分なのだから、別れてしまえばその後事件に巻き込まれることもない。死そのものをなかったことにするのである。

 確かに女は助かった。が、それでめでたしめでたしにはならない。なぜなら七瀬も藤子も過去に飛んでいるのだ。もとの世界に戻って、それでも女が生きているというのならわかるのだが。七瀬にそんな意識がない。
 映画はまったくそのことに触れずに進行していく。いいのか、それで?
 しかし、その問題こそが、この映画のテーマだったのだ。途中で藤子がその問題に触れタイムトラベラーのジレンマが提示され、ラストの映画オリジナルの展開で思わず膝を打った。エンディングロール前にもう一度「七瀬ふたたび」のタイトルが出てくるが、とても意味がある。

 特撮に新しさはない。昔ながらのローテクだが、表現の仕方を工夫していて好感を持った。他人の心を読む際のヴィジュアル等々。クライマックスのスチールを使った動画は大林監督「時をかける少女」へのオマージュか。
 残念なのは七瀬が敵に捕らえられた少年ノリオ(今井悠貴)を助けに湖を渡るショット。仲間のヘンリー(ダンテ・カーヴァー)の力(テレキネシス)で空中を飛ぶのだが、このショットが昔ながらの合成で何の迫力も感動もない。もっとこちらのエモーションをかきたてくれたら……。

 主演の芦名星は初代同様大人の魅力を持つヒロインを演じていた。いろいろな顔も持っていた。カットによって天海祐希に見えてくる。あるいは草刈民代や冨永愛とか。ロングで暗いと貞子にも(失礼)。調べてみたら「仮面ライダー響鬼」で魔科魍(敵の怪人)を統率する男女(童子と姫)の姫役だった。ええ!、である。

 「蒲生亭事件」は「時をかける少女」(「タイム・トラベラー」)に対する宮部みゆきのオマージュだと思っている。だとすると「七瀬ふたたび」のそれは「クロスファイア」なのか!

 タイトルデザインは洒落ていて好みだし、テーマ音楽も印象的だった。
 

 【追記】

 映画の後半、クライマックスあたりから画面の端部分に縦に走るギザギザの線がときたま写るようになった。左側は一瞬何箇所かだったが、右側はずっとそのままで消えることがない。
 演出のひとつだと思っていたが、エンディングロールになってもやはり消えない。映画が終わって場内が明るくなってもそのままだった。
 スクリーンの傷だったのだ! こんな経験初めてだ。




 昨日はシアターN渋谷で「七瀬ふたたび」を鑑賞する。

 本当は先週(木)チネチッタ川崎のレイトショーを押さえようとしたのだが、都合で叶わず、今週に延期した。翌週も上映があると予想してのことだ。が、上映はあることはあるものの、昼間の回のみ。
 だったら、水曜日1,000円のシアターNがあるじゃないか! 
 心配なのは時間だった。最終回は18時45分から。定時(18時)に会社を出たとして渋谷に着くのは40分過ぎ。劇場に電話して確認した。
「あの、本編が始まるのは何時でしょうか?」
「予告編が5分ありますので、50分からです」
「本編の前に、プロローグがつきますよね」
「そうです、プロローグは10分です」
「ということは、19時から開始ですね」
「はい」

 S氏からメールが入った。もう、「七瀬ふたたび」見に行っちゃっいました? 本日は水曜ですよ。
 渋谷で観ると返信したら、一緒に観ましょうと。劇場で待ち合わせすることになった。

 渋谷駅に着いて腕時計を見ると18時42分。定期券(Suica)で改札を通ろうとしたら扉が開かない。何度やっても拒否される。自動車免許の更新をしてからというもの改札で拒否される割合が増えた。免許のパスワードにICが導入されたからだと睨んでいる。定期入れに免許も入れているので互いが反発するのではないかと。最初は拒否されるが二度目にはすんなり通れるはず――なのに、今回は何回やっても反応しない。いったいどうしたことか。
 わかった! チャージが20円しかない。渋谷駅は定期では通れないのだった……

 それでも駅からダッシュで走ったためか、何とか予告編上映中に入ることができた。S氏はいない。遅れてきても声がかけられるように入口そばの席に座った。

 映画が始まった。まずは「七瀬ふたたび プロローグ」。
 「シネマdeりんりん」で小中監督のトークを聞いていなかったら、本編前の短編だなんてわからなかっただろう。監督が中川翔子だからもっとぶっ飛んだ内容を想像していたのだが、まるで違った。ヒロイン七瀬の少女時代を描きながら、きちんと「七瀬ふたたび」冒頭にリンクしているのである。なおかつ、クライマックスの敵との戦いに重要な意味を持たせるエピソードとなっている。
 七瀬の母親を演じるのは多岐川裕美。少年ドラマシリーズのヒロインが母親役という憎いキャスティング。実年齢からすると、幼い七瀬は娘というより孫になるのだろうが、外見が若いからまったく違和感がない。

 S氏はプロローグが終わってからやってきた。反対側の入口(スクリーンの左右にある)から入ってきたので声をかけることはできず、同じ列の一番端の席に着席した。

 この項続く




 退社後、六本木の珈琲店カファブンナへ。店内で「蘭舟・二井康夫 二人展 秋のことばたち/はがきのなかの映画の世界」が開催されているのだ。
 二井さんは邦洋の映画タイトル。ニヤリとしたのは「MASH」だ。オリジナルを尊重しながら(☆!)ふたい流にしているところがグー。
 蘭舟さんの文字は「龍馬伝」のタイトル文字より良いと思うし好きだ。まあ、あくまでも個人的に、ですが。

 マスターがお客さんと40年代、50年代のアメリカ音楽について、CDを流しながら語っていた。好みの偏屈さに筋が通っていた。店内に流れる音楽に耳を傾けた。

          * * *

 これもmixiだけど、〈小林信彦を読む〉特別版として転載します。

     ◇ 

 ●「東京少年」&PR誌「波」 2005/11/08

 昨日、小林信彦の新刊「東京少年」(新潮社)読了。
 新潮社のPR誌「波」に連載中は定期購読して毎月読んでいた。

 一冊にまとまったものを読むとまた別の味わいがある。

 太平洋戦争時、疎開の体験を綴った自伝的小説。まだ中原弓彦時代に本名(小林信彦)で上梓した「冬の神話」のリメイクだというのだが、私は初期の小説を読んだことがない(読みたくても本がない!)ので何とも言えない。

 戦争時代の話なのだから決して楽しいものではない。餓えと寒さ、東京に対する望郷の念で息がつまってくる。終戦を迎えても帰れないもどかしさ、その中で東京の暮らしに絶望した父親が詐欺(?)にあって、先祖代々の土地を二束三文で奪われてしまうくだりのいらつき。とはいえ、それが小林(純)文学の魅力でもある。
 あらためて読むと、新潟時代の同級生・曽我の、ひょうひょうとしたキャラクターが一服の清涼剤的存在だったことがわかる。この人が登場するとホッとする。

 「波」は1年間1000円。継続したとたん、「東京少年」の連載が終了し、その後は送られてきてもそのままにしておいた。先々月で送付終了。
 ところがである。今月号は「東京少年」刊行ということで、著者インタビューが掲載されているのだ。
 これはどうしても読みたい。「波」は書店でも置いてあるところがあり(売り物ではない)、いくつか確認しているが、すべてなし。
 大型書店にはあるのだろうが、会社の帰りには寄れそうもない。
 どなたか、「波」今月号お持ちではないでしょうか? 


 ●イエスタデイ・ワンス・モア 2005/11/10

「マンガ学への挑戦 進化する批評地図」(夏目房之介/NTT出版)
「増量 誰も知らない名言集」(リリー・フランキー/幻冬舎文庫)
「素晴らしき特撮人生」(佐原健二/小学館)
「夕ばえ作戦」(光瀬龍/ハルキ文庫)
「変身」(東野圭吾/講談社文庫)
「ムーン・リヴァーの向こう側」(小林信彦/新潮文庫)
「イエスタディ・ワンス・モア」(小林信彦/新潮文庫)

 古書店に寄ると、文庫本コーナーで「か」の行をチェックする。小林信彦の本がないか確認するわけだ。といっても、ほとんどは単行本が上梓された際、購入しているのである。ただ、文庫になっても手に入れることを最近心がけている。

 「ムーン・リヴァーの向こう側」は東京3部作の第3弾。山の手育ちのコラムニストと下町育ちの女性ライターの恋愛物語。その前に新聞連載された「イーストサイドワルツ」という小説があって、これは初老の小説家が若い女性に翻弄(?)される物語だった。作家が山の手、女性が下町と、同じ構造、ちょっと二番煎じっぽいところもあって、単行本を読んでそれきりになっていた。久しぶりに読んでみて、セックス描写に夢中になった。
 オリジナルビデオで映像化された(未見)「イーストサイドワルツ」を読み直したくなった。単行本を探したが見当たらない。文庫本探そう! 
 そういえば、「ウェストサイドワルツ」という海外の芝居があるんですね。朝日新聞朝刊の広告で知りました。

 「イエスタデイ・ワンス・モア」は簡単にいうと小林信彦版「バック・トゥ・ザ・フィーチャー」だ。
 1987年の現代、18歳の青年がふとしたことで1959年にタイムスリップする話。
 青年は両親を早く亡くし、叔母に育てられた。その叔母が死に、多額の遺産が手に入るはずだったのに、なぜか引退して郷里に引きこもっている某放送作家への遺言が書かれているのが発端。東京オリンピックのために街破壊が行なわれる前の東京にスリップした青年が、70年代~80年代のギャグを借用して、当時のTV、ラジオ界で人気(放送)作家になっていく。
 面白いことは面白いのだけど、どうしても主人公が18歳に思えないところにひっかかってしまう。
 たとえば、高速道路がない墨田川沿いの風景を見て青年の感慨。
     ◇
 生まれてから見なれていた醜悪な二本の高速道路が消えていた。
     ◇
 物心がつく前から見なれていたものを醜悪と感じるものだろうか。そこにあって当然という感覚だと思うのだ。そこにあるものがなくなって、初めてそれが異様なものだった、醜悪だったと気づくのなら理解できるのだけど……。


 ●われわれはなぜ映画館にいるのか 2005/11/11

 朝一、東京駅にほど近い某所に直行した。1時間弱で打ち合わせを終え、そのまま八重洲ブックセンターへ。
 ブックセンターならPR誌「波」がおいてあるだろうとの判断だ。それから「丘の一族 小林信彦自選短編集」(講談社文芸文庫)が発売になったので、あわせて購入するつもりでいた。この文芸文庫、文庫にもかかわらず1365円もする。昨年だったか、「袋小路の休日」を手に取った際、値段を確認して驚いた。そういう類の文庫なのだ。

 ルンルン気分で4階の文庫新書コーナーへ向かう。
 ところが「丘の一族」がないのである。調べてもらうとたぶん今日の午後入荷するだろうとのこと。
 仕方ない、「波」だけでもと思って、案内された1階のコーナーに行くと、すでに入荷分ははけてしまったと。ブックセンターでなければどこにあるというのだ! かなりのショック。

 重い足取りで駅にむかった。地下街に下りると、古書店があった。映画関係書のあるコーナーをながめているとけっこう欲しい本が並んでいる。
 まず実相寺昭雄の旅のエッセイ集があった。そんな本がでてることなんてまったく知らなかった。「大映テレビの研究2」もある。この本、続編もあったのか。
 どちらを買おうか、ちょっと悩んだ次の瞬間、な、なんと「われわれはなぜ映画館にいるのか」の背表紙が目に入った。

 高校時代の昼休み、図書館でよくこの本を読んでいたのである。当時は「キネマ旬報」のコラム(「小林信彦のコラム」)を読むくらい、特にファンというほでもなかった。大学生になってから、その連載が1冊にまとまり、購入したことから、コラム、エッセイの本が気になりだした。
 次に手に入れたのが中原弓彦名義の「定本日本の喜劇人」だった。
 今ものすごく後悔しているのは、このとき、同時に「東京のロビンソン・クルーソー」「東京のドン・キホーテ」を購入しなかったことだ。晶文社から刊行されていた小林信彦のコラムシリーズで、「われわれはなぜ映画館にいるのか」もその1つ。

 気づいたときにはもう書店では見かけなくなった。いや古書店でも見たことがない。現在、ネットで調べると、どれも1万円前後する。その本が目の前にあるのだ。あわてて手にとって、値段を調べた。3000円。安い! そのままレジに走った。
 すげぇうれしい。
 
 実は昨日も文庫になった「テレビの黄金時代」(文春文庫)を買った。先週は「夢の砦 上下」(新潮文庫)を地元の古書店で見つけ今読んでいるところ(当然、ハードカバーは持っている)。
 この秋は小林信彦づいている。通勤時と昼食時が楽しくてたまりませんぜ、旦那。


 ●60年代の「タイガー&ドラゴン」 2005/11/14

 昨日はキーボードを打つ気力がなく(なんとなく体調不良)、早くから布団に寝そべり、本を読んでいた。

 「夢の砦(下)」読了。
 1983年に上梓された単行本は二段571ページという分厚いものだが、めっぽう面白くてあっというまに読めてしまう。確か2度読んでいる。今回「イーストサイドワルツ」の文庫を探しに入った地元の古書店で上下2冊になった文庫本を見つけた。
 当時、巷では60年代がブームになっており、その先鞭をつけたのが本書だと言われた。続けて「小林信彦60年代日記」なんてものも出版された。

 江戸川乱歩に見込まれて20代の若さで「ヒッチコック・マガジン」の編集長に起用された作者自身をモデルにした前野辰夫が主人公。弱小出版社から創刊された翻訳推理雑誌「パズラー」の編集長に任命されるのだが、売上が悪ければ3号でクビを切られる運命。
 当初はそれほどではなかった雑誌がある時を境に好調な売れ行きを示し、辰夫は時代の寵児として、編集者だけでなく、TVの構成作家、ミュージカルのプロデューサー、タレントとして活躍しだす。
 辰夫がその才能を高く買っている放送作家兼タレントの川合寅彦がもう一人の主人公。青島幸夫を代表とする当時の放送作家(永六輔、前田武彦、野坂昭如等々)を混ぜ合わせたようなキャラクターなのだが、こちらもれっきとした作者の分身である。
 この二人が60年代前半のマスコミを駆け巡る物語。

 面白いのは、この物語には「宝石」も「ヒッチコック・マガジン」も存在すること。当然中原弓彦も編集者の一人として登場してくる。 

 自社の政治に無関心な辰夫がある男たちの陰謀で退職させられる顛末なんてどこまで本当のことなのだろう(なんて読み方はいけないかもしれないが)。
 とにかく辰夫の一直線で不器用な生き方は、まさしく60年代の「坊っちゃん」である。

 文庫になった「テレビの黄金時代」(文春文庫)と併せて読めば、あの時代がより鮮明に理解できること間違いない。




 ●「アナコンダ」 2005/05/20

 Hさんという女性の友人がいる。よく試写会の招待券をまわしてくれた。たぶん「アナコンダ」からだと思うが、その感想を送るようになった。それまではあくまでも日記用だったが、このときから人が読んでもわかるような感想文になった。彼女も楽しみにしてくれるようになった。
 それが数多くなって、HP開設につながっていく。
 思い出深い映画だ。
 というわけで、またまたある日の日記から。

     ◇

 1997/09/09

 Hさんから招待状をもらい、九段会館ホールにて「アナコンダ」の試写を観る。
 アマゾン、ジャングル、探検隊、大蛇。
 わくわくするシチュエーションじゃないか。
 昔、TVの“川口浩の探検隊シリーズ”のひとつで「伝説の双頭蛇を追う」(タイトル不確か)というのがあった。
 探検隊がどこか南の国のジャングルへ出かけた時のこと。ラスト近くで大雨で氾濫する大河の対岸からこちらにむかって巨大な蛇が泳いでくるのだ。全身は見えない。しかし川面に異常にとがった蛇の背面が見えかくれする。それが徐々にこちらに近づいてくるのである。その恐怖!
 やらせ番組、何かトリックを使ったのであろうが、あの時はひどく興奮した。あの興奮が再び味わえるのではないかと期待したのである。
 今までいわゆる“大蛇”が登場した映画でその出来がよかったためしがない。
 作り物の蛇だとリアル感がなく、動きもぎこちない。だからどうしても蛇を目の当たりにした恐怖の描写できない。観客に肌で感じさせない。
 しかし昨今のCG技術の発達でリアルな巨大な蛇の本物そっくりに動く表現が可能になった。そういう意味では「アナコンダ」は90年代の映画といえるだろう。
 映画撮影隊がアマゾン河をさかのぼっていく前半の緊張感はたまらなくいい。
 コナン・ドイルの「ロストワールド」現代版の趣だ。カメラがアナコンダの目線になるともうそれだけでわくわくしてしまう。
 にもかかわらず、観終わった感想はと訊かれれば「うーん」と首をかしげてしまう。
 いや、全編にわたって何度も椅子から飛び上がるほどのショックを受けているのだ。しかし、それは突然画面に何者かが現れるといったホラー映画にありがちなテクニックであり、本当に大蛇の恐怖を描けていたかというと大いに疑問なのである。
 その要因の一つはアナコンダの全身を写しすぎるのだ。14mもある巨大な蛇が川を泳ぎ、草地を這うのである。その一部がぬめぬめと動いているのを見せるだけでも充分怖いはずなのに、そういうきめ細かいカットがなく、途中からもう大蛇の全身が俊敏に縦横無尽に動く、動く。それが逆に興ざめになる。
 ただ、この映画でユニークなのは撮影隊の敵がアナコンダだけでなく、アナコンダを生け捕りにして一攫千金を狙うマッドハンター、ジョン・ボイドの存在だ。
 蛇のためなら人の生命などかえりみない非情な人物を好演している。こっちの方がアナコンダよりよっぽど怖かった。

     ◇


 ●「MASTERキートン」とある映画 2005/05/22

 木曜日に発売された「週刊文春」に浦沢直樹の傑作コミック「MASTERキートン」が絶版になっているとの記事がでていた。
 私、このマンガが大好きでそれまで立ち読みしていた「ビックコミックオリジナル」を毎号購入するようになり、コミックスも全巻揃えたほど。
 その中で一読しただけで、これは映画になると思えるエピソードがあった。
 それはコミックス第6巻に収録されている「青い鳥消えた」。
 英国から西ドイツに越してきた夫婦。越してきたとたん、一人娘が行方不明になる。妻はあわてて警察を呼び大騒動に。ところが夫婦はともに再婚同士、夫は有名なジャーナリストで仕事に忙殺されて英国ではその娘に一度も会ったことがないという。西ドイツで一緒に暮らしはじめる予定だったのだ。おまけに持ってきた娘の服、アルバム等すべてがなくなっている。目撃者もいない。警察は妻が精神科の世話になっていたことを知ると、すべて彼女の妄想とかたづける……
 この後、キートンが登場して事件はあっと驚くオチがついて解決するのだが、このプロットをいかして上質のサイコミステリ映画ができるのにと考えたのだ。
 今年「フォーガットン」という映画が公開される。途中までの展開はまさしく「青い鳥消えた」である。ハリウッド映画、日本のマンガをパクッたか? とても期待できる映画だ。




 今日の「龍馬伝」、明光丸の衝突でいろは丸が沈没するアーバンタイトル。衝突の衝撃に驚いた龍馬が叫ぶ。「なんじゃ、こりゃ~!」
 シナリオライターは狙っていたのだろうか? 「太陽にほえろ!」ジーパン刑事編の最終回を。

 ドラマ部門で毎週トップを維持してきた「龍馬伝」の視聴率が夏あたりから落ちてきた。10月の改変期では最低を記録したとか。歴代の中で最低近くの視聴率で始まった「ゲゲゲの女房」が最終回に近づくにつれて視聴率を上げていったのとは対照的だ。ドラマ関係者には大問題だろう。まあ、一視聴者としてはドラマが面白ければいいのであって、視聴率なんて関係ないけれど。

 なぜ、視聴率が落ちてきたのか?
 ドラマが龍馬をヒーロー然と描くフィクションばりの展開だから? ならば始まったときからそうだった。こりゃ作ってるなあというエピソードが目立った。
 とすると、考えられるのは一つ。あの映像に違和感を抱く大河ドラマファンが多いということか。

 週刊文春の連載コラムに「テレビ健康診断」がある。亀和田武と青木るえかが交代で執筆しているのだが、青木るえかのTV批評に納得できないことがしばしばだ。あるとき、「龍馬伝」を取り上げて、画面が暗い! と指摘していた。昔、フィルム撮影のテレビ映画とビデオ収録のテレビドラマがあったとき、テレビ映画の画調を暗いと感じていた人がいた。「龍馬伝」はこれまでの作品に比べて一種独特な映像ではあるが、決して暗くはない。陰影がはっきりしているだけではないか。それを暗いだなんて。「何言ってんだ、この人は」と怒り狂った。
 でも、世間一般は同じ考えなのか、な。

 ドラマは第4部を迎えてとても盛り上がっている。確かに史実はたぶん違うんだろうなあという思いもあるのだが、それ以上にドラマに夢中になっている自分がいる。
 お楽しみの「龍馬伝紀行」BGM。今回はYuccaという女性の声のみ。これまたいい。ギター、ピアノ、チェロときて最後がヴォーカル。タイトルバックのメインテーマとともにこの4曲が収録されたサントラがあったら絶対買うのに。
 



 わが母校、太田高校の文化祭は2年に一度。高校1年にあったのだから次は3年時。生徒会長からお願いされた。休部状態の映画研究部を復活させてもらえないか。はい、喜んで! 
 まずやろうとしたのは太田女子高映画研究部との合コン。ラグビー部の連中が大挙して集まった。地元の映画館(大勝館&太田シネマ)にかけあって映研部員が格安料金で鑑賞できるようにした。
 秋の、高校最後の文化祭。映画研究部のメインの業務は視聴覚ホールでの映画上映だ。顧問の先生と相談して「八月の濡れた砂」にした。個人的に幻の映画だったからだ。東京の業者から16ミリ映画をレンタル。フィルムは貨物列車で運ばれてくる。駅に取りに行ったのを何となく記憶している。
 高校に戻ってホールで試写。アクシデントが起こった。
 映画はシネスコサイズ。フィルム事体はスタンダードサイズで楯に圧縮されている。これを専用レンズで横に引き伸ばすのだ。レンズはどこにある! 一時混乱したが顧問の先生が持っていたことで解決した。翌日の文化祭は、映画をロマンポルノと間違えた生徒たち(男子高校だ)がつめかけて大盛況だった。
 実は、映画研究部の部長としてやりたいことがあった。映画研究部用のブースを70年代の数々の邦画ポスターで彩りたかった。ショーケン、水谷豊、松田優作、関根恵子、原田美枝子、秋吉久美子……。コメントで70年代の男優論、女優論を展開させたかった。結局ポスターが集まらなくてできなかったけれど。

 「八月の濡れた砂」は「飛び出せ!青春」の村野武範と剛達人のキャラクターが逆転していて驚いた。剛達人が真面目、村野武範がワルなのだ。主役を演じているのは広瀬昌助。後年、広瀬さんの奥さんで女優の志水季里子さんと「八月の濡れた砂」の思い出話をする機会ができるなんて思ってもいなかった。

     ◇

 1977/10/26

 文化祭の映画研究部の活動の一つ、映画上映は「八月の濡れた砂」。
 そこで、映画をよく調べようと顧問の先生から資料としてキネ旬1971年8月下旬号を借りた。読んでいてたいへん懐かしくなった。
 たとえばこうである。
 裏表紙の広告は「潮騒」。小6の時、雑誌で知って観たいなァと思っていたもの。夏休みにTVで観た。
 続く広告は「ベニスに死す」。やはり小6の時、足利へ「小さな恋のメロディ」を観に行った時にいっしょに上映されたものだ。意味もわからずスクリーンを見つめていてラブシーンのところは胸をドキドキさせた。
 その他、出てくる出てくる。
 「ある愛の詩」「栄光のル・マン」「小さな目撃者」。僕が映画を知りはじめた頃、最初に観たものがヒット中であるとか、公開されるとか。
 あの「フレンズ」が邦題として「夏の終わり」に決まっていたのに予定が変更になって原題のまま封切られたんだって。そういうことがあったのか。
 小6、中1、あの頃、僕は映画を観ては何かしらの影響を受け、青いエネルギーとでもいうようなものを吸収していた。
 大きな夢を持って、悩みもしない、ものすごく平和で楽しかった時だ。
 そして邦画にまったく興味をもっていなかった(「潮騒」は別)。日本の文化をバカにしていた。音楽も映画も外国(それもアメリカ、ヨーロッパ)が一番いいと思っていた。
 子どもだったのだ。

 そうゆう僕にとって、“懐かしい時代”になってしまったあの時代「八月の濡れた砂」は作られた。
 観る価値はある。

     ◇ 




 50歳最後の日。
 帰宅したらかみサンが「誕生日おめでとう」とワンカップ酒をテーブルにだした。
「明日は落語会でしょう? 1日早いけど誕生日のプレセント!」
 何言っているの、この酒、昨日すでに買っていたじゃない。これはプレプレゼントだろう? 明日は何がもらえるのかな?
「ほんとに、これがプレゼントだから」
 毅然と言う。
 またぁ。
「あなたなんて、わたしの誕生日覚えていなかったじゃない! 冷蔵庫開けて、なんでケーキあるの、なんて訊いていた!!」
 そうなんだけど、さ。
 
          * * *

 ●レビューは笑う 2005/04/18

 夕景工房でUPする読書日記や映画の感想で心がけていることがある。
 本当の日記ならば内容(ストーリー等)など必要ないのだ。読んだまま観たまま感じたままを直接記せばいい。ところが不特定多数(多数かどうかはわからないが)の他人が覗くサイトではそうはいかない。その本(小説)や映画がどんな内容なのか紹介する必要がある。
 その要約も出版社や映画会社のものをそのまま写すのは気がひける。あくまでも私というフィルターを通したものにしたい。できれば、その要約で興味を引きつけたい。ネタバレに細心の注意を払いストーリーをまとめる。レビューで一番時間がかかるのがここなのだ。
 どうしても書きたいことがネタバレ部分になるのならば、その旨注記してから書く。
 これは「まぐま」に連載している「小説と映画のあいだに」にも言えることだ。とにかく映画やその原作である小説の要約に一苦労する。字数が限定されているので長くなれば、検証部分がおろそかになり、短ければ意味がわからないなんてこともおこるかもしれない。
 簡潔にストーリーを印象づけたい。そのためにどんな方法、技術が必要なのか。
「映画とその原作(小説)を考察するなんてナンセンス、意味がない。映画は映画で、小説は小説なんだから」
 友人に言われたことがある。しかし、日本映画の黄金時代、脚色という技術が大いに評価されたというのだ。今はないがしろにされている。
 確かに私も映画はオリジナルであるべきという考え方をしてきた。が、今の映画界ではそれがほとんど不可能であることがわかり、一度脚色に注目してみるのも手かなと思ったのだ。
 昔キネマ旬報の「小林信彦のコラム」を愛読していて、一冊にまとまると買い求めた。以来、エッセイ、コラム、小説と小林信彦氏のファンである。
 誰でもがいうことだが、氏の手にかかると小説や映画が実に面白いものに思えるのだ。興味を覚えて実際の作品にあたってみるとそれほどでもないということもある。不思議なものだ。嘘だと思うのなら一度読んでみるといい。新潮文庫の「コラム」シリーズが手ごろだろう。
 氏の書評や映画批評に心酔する私はどうにかその真髄に少しでも近づきたいと思っている。

 ああ、また話が脱線してしまった。本当は映画の感想を書く場合、役者名の確認にオフィシャルwebサイトを利用することから、昨日やっとUPした「パッチギ!」のオダギリ・ジョーのプロフィールについて気づいたことに展開させたかったのだ。
 それは明日ということで。


 ●プロフィールは誰のもの? 2005/04/20

 映画「パッチギ!」のオフィシャルサイトを開いた。キャスト紹介のページ。朝鮮高校に通うヒロインとその兄に扮した俳優の名前を確認。各人プロフィールがついている。何気なくオダギリジョーの欄に目が行った。主人公にフォーククルセダースの存在を教え、ギターの手ほどきをする坂崎役で出演しているのだ。かなり詳しく紹介されていた。TVに映画、いやはや売れっ子ですなあ。
 あれ? このプロフィール、出世作の「仮面ライダークウガ」のことにまったく触れられていない。かすかに怒り。
 オダギリジョー、お前もか! 
 
 奥田瑛ニのデビュー作(だったと思う)は「円盤戦争バンキッド」なのだが、「もっとしなやかにもっとしたたかに」と答えるインタビュー記事を読んことがある。村上弘明もつい最近までプロフィールから「仮面ライダー(スカイライダー)」を抹殺していた。
 子ども番組、特撮ヒーロー番組がデビュー作だと何かまずいことがあるのだろうか?
 この傾向は、デビュー後一般ドラマで有名になった俳優に見られる。
 オダギリジョーも「クウガ」が評判になり、番組終了後、次々に夜9時台以降のドラマに出演、いつのまにか主演クラスになって、主演映画もあっというまに増えた。
 そうこうするうちに私自身「クウガ」の主演俳優であったことを意識しなくなってしまったのは事実だ。
 だからといってプロフィールに記載されないのは納得いかない。
 幼い頃夢中になった番組で名前を覚えた俳優が、その後いろいろなところで活躍していく様子は見ていてうれしい。応援もしたい。にもかかわらず売れっ子になったらその番組(作品)を切り捨てる行為はどこか裏切られた気持ちがする。
 村上弘明にしろ、オダギリジョーにしろ、その後の活躍の礎はデビュー作にあるのだからどうしてもわりきれないものを感じてしまう。デビュー作に誇りを持ってくれよ。「Shall we ダンス?」で名を馳せた周防監督のデビュー作は今だって「変態家族兄貴の嫁さん」なんだぞ。
 と書きながら、ふと、これは俳優個人の問題なのではないかもしれないと考えなおした。所属事務所の意向なのではないか、と。

 ああ、やはり長くなりそうだ。すいません、以降明日。


 ●プロフィールは誰のもの? two 2005/04/20

 プロフィールは本人の考えとは別に所属事務所の意向が大きく反映されているのではないか?
 というのは、「まぐま」の編集でその一端を垣間見たからである。
 インディーズ特集の11号で某俳優さんにインタビューした。大変楽しいひと時だった。会話はすべて録音されているが、こちらの質問に対して、俳優さんだって活字にしていいもの、悪いものはわかっていて、答える際に一言添える。「これ(記事に)しないでね」そうして語られた大物俳優の付き人時代の思い出話は爆笑、爆笑の連続だった。
 録音されたテープは、聞き書きの名手、K氏の手によって原稿化された。酒が入って、収支がつかなくなったインタビューが見事に整理されていた。内容に問題はない。俳優さんにゲラのチェックをしてもらおうと、やはり一部意味の不確かな部分に赤が入っているだけで戻ってきた。
 訂正して最終確認の段階。事務所にも目をとおしてもらうと、あるエピソードがまるまる削除願いになっていた。子役時代の、撮影現場のある種の現実、当然予測できる現象でありほほえましくもある内容。別になくても大筋には影響ないけれど、あったほうがインタビューに陰影がつく。それがNGになって少々残念だった。俳優さんも「なぜこれがいけないのかなあ、あったほうが面白いのに」なんて言っていた。
 まあ、そんなことから、宣材の一つであるプロフィールに事務所がことさら神経を使うのは当然とはいえ当然と思った次第。
 では、なぜデビュー作が特撮ヒーローものの場合、封印されてしまうのか?
 業界のジンクスがあるのだろうか。子ども番組で主役を演じた俳優は大成しない、とか。主役のイメージが強烈しすぎて起用しづらくなる? 思い当たるところはありますねぇ。
 奥田某の場合は、たぶんに恣意的な要素があると思える。村上某は最近デビュー作を解禁したようだ。オダギリジョーにいたってはプロフィールに何が書かれているかなんてことも知らないのかもしれない。この方、「仮面ライダークウガ」、その主役をはったなんて意識、思い入れもなく、「クウガ」終了後にゲスト出演したバラエティでファンの子どもたちの夢を破るような発言して司会者をあわてさせていましたからね。その屈託のなさがその後の人気につながったのかもしれない。




 理由あって、蔵出しシリーズをもう少し続けます。まだまだ、かも。

 10日(日)、本2冊を購入。

 「日本映画[監督・俳優]論」(萩原健一・絓秀実/ワニブックス【PLUS】新書)
 「特撮円谷組 ゴジラと、東宝特撮にかけた青春」(東宝ゴジラ会/洋泉社)

 積読本が増えてばかりいるというのに図書館から本2冊を借りる。前回期限内に読了できなかった2冊とともに。

 「役者六十年」(小林桂樹 聞き手・中山敬三/中日新聞社)
 「イノセント・ゲリラの祝祭」(海堂尊/宝島社)

 この本を読んだら、積読本を読破する。
 誓います。
 
          * * *

 ●携帯電話に関する車内アナウンスについて考える 2005/04/23

「優先席付近では電源をお切りくださいますよう、ご協力をお願いいたします。それ以外ではマナーモードに設定の上、通話はご遠慮ください」
 JRの車内で毎日のように聞くアナウンス、その後半部分が気になってしかたない。
 どうしてこんなまわりくどい言い方をするのか。「マナーモードにしてメールだけ行なってください」でいいではないか。まあ、インターネットの閲覧、ゲーム等ほかにもできることはあるけれど。
 そういう文言にすると、JR側でメール等の行為を積極的に推進していることになるからか。本当はすべて禁止したいのだが、現実的な対応として通話以外は黙認しよう、というところだろうか。
 いくら車内でアナウンスしようが、着信メロディはいたるところで鳴っている。受けた人は人で「今、電車だから」と言いながら長電話にこうじている。アナウンスの後でも平然と電話する人もいる。マナーも何もあったものではない。
 思うに、大部分の人は車内はもちろんのこと、どこだって携帯電話の使用が当たり前と考えているのではないだろうか。
「なぜ電車内で携帯使っちゃいけねぇんだ?」
「どうやって時間つぶすのさ?」 
「ペースメーカーに支障をきたすたって、誰かが死んだなんてニュース聞いたことないぜ」
「携帯電話、迷惑じゃないもん。嫌な顔するほうがおかしいのよ」
 若者だけを非難することはできない。いい年齢した男女だって同じ。仕事の用件だったらさも当然のように大声をだす。
 マナーは守られるもの、なんていう性善説はやめにして、人は電車(公共施設)で電話するものであるという考えを徹底させませんか。
 携帯電話が禁止されているところはもう建物自体電波をシャットアウトしてしまう。喫煙場所のように携帯電話通話エリアみたいなところを作り、そこだけ電波がつながるようにすればいい。
 電車だったら、携帯電話専用車輌を作る。痴漢対策の女性専用車輌があるくらいなんだからわけはない。この専用車輌内なら着信音が鳴り響こうが大声で話そうが、すべてOK。その代わり、ほかの車輌では携帯は絶対禁止。電波が届かないようにする。
 利用者数によっては逆に携帯電話禁止車輌を作ってもいいかもしれない。携帯使えないとその車両だけだいぶ乗客が減るんじゃいかな。
 静かでいつもすいている。私はそんな車輌で読書にいそしむ。疲れていたら寝る。なんて快適空間なんだ! 考えただけでもうれしくなります。
 JRおよび私鉄各社さん、どうか検討していただけませんか。


 ●きすうほんのう 2005/05/15

 帰宅途中の京浜東北線。
 ドア近くにいた4、5人の若いサラリーマンが騒いでいた。その中の一人が言った。
「それは、きすうほんのうが……」
 きすうほんのう?
 一瞬、何のことかわからなかった。
 頭の中で漢字を並べてみた。
 帰巣本能。
 それをいうなら〈きそうほんのう〉だろう。
 いや、きすうだったっけ? 
 今すぐ辞書で調べたい。でもない。ああ、気になる。電子手帳なんて持っていないし。
 閃いた。
 電車の中で携帯電話を取り出すのは抵抗ある。メールをパコパコするのはもっと恥ずかしい。おまけに両隣がメール打ちに夢中なのだ。3人そろって右手に携帯姿なんて赤面ものだ。
 でも仕方ない。
 携帯をメールモードにして、きそうほんのうと打って、変換したら「帰巣本能」と出た。
 やっぱり。
 胸のつかえがとれた。
 別の意味で携帯電話のありがたさが身にしみた。




 「七人の侍」を初めて観たのはTVだった。日本テレビの「水曜ロードショー」(現「金曜ロードショー」)。評判どおりのすごい映画だった。
 上京してから劇場で観る機会に恵まれた。千代田劇場の閉館記念で東宝映画の名作群が上映されたのだ。プログラムの1つだった。劇場で観て感激をあらたにするとともに、上映時間の3時間強がまったく気にならなかったことに驚愕した。後半、野伏りと百姓+侍たち連合軍の戦いはアクション中心になるのだから当然とはいえ、侍探しの前半がまったくダレないのがすごいなあ、と。
 その後もTVで(会社訪問解禁日に何もせず、夜はこの映画を観ていた)、ビデオで、DVDで何度も観ている。
 一番好きなシーンは、侍探しのシークエンスの1エピソード。木賃宿の奥に勘兵衛(志村喬)が鎮座し、入口陰で勝四郎(木村功)が木端を持って構えている。腕のある侍ならそんな卑怯な攻撃も難なくかわしてしまうだろうという(勘兵衛の)考えによるもの。百姓に連れられてやってきた五郎兵衛(稲葉義男)。外で立ち止まって中の勘兵衛に言う。「ご冗談を」 
 九蔵(宮口精二)を見ていると、できる侍はこうであったのだろうと思えてならない。

 最近小学館から黒澤明DVDブックが刊行された。「七人の侍」が一枚のDVDに収まっていることに注目した。またまた誓いを破って購入しようか、今迷っているところ。

 「七人の侍」はリアルタイムで観た映画ではないが、書かないわけにはいかない。
 本当なら市川崑監督「股旅」や斎藤耕一監督「約束」もそうなのだ。が、最初にTVで鑑賞した感想がいくら日記を探しても見当たらないのでパスするしかないのである。

    ◇

 1976/06/02

 TVで「七人の侍」を見る。
 ○○ロードショーという番組で邦画をやるのはめずらしく(やったとしても日米合作が多い)、それにこの映画はあの黒沢明の監督によるものだ。
 やはりすごかった。これは前編だけだったが、カットのつなぎがすばらしい。それに無駄がない。
 モノクロだったが、それがかえってよくて雨のシーンなんか最高だった。
 来週が楽しみだ。

 1976/06/09

 「七人の侍」後編。一週間ぶりのご無沙汰だった。
 三船敏郎があんな役を今までにしていたとは思えなかった。すこしぬけていてけんか好きで……。
 何も書くことがない。ただ一言。
 よかった。

    ◇




 昨日、赤坂レッドシアターにて「神様に一番近い場所」を感激、いや観劇。田口主将さんのお薦めの劇団、LIVESプロデュース公演。いつも田口さんからお誘いのメールが来るのだが、3度めの今回はなんと本人も出演すると! まあ、予想はしていたんですけどネ。
 LIVESの芝居は、個人的にもお気に入り。笑いとともに感動を呼ぶのだが、これがあざとくない。感動(=泣き)の押し売りをしないところが貴重なのだ!
 
          * * *

 ライブドアが近鉄に代わって球団を運営していたら、その後とんでもないことになっていたでしょうね。そんなこと、当時は考えもしなかった。なぜライブドア、堀江さんは財界で嫌われているのか、それが不思議でたまらなかった。根拠はあったわけで。

 「ER」を観なくなって久しい。現在、シリーズはどこまでいったのか。「太陽にほえろ!」しかり、番組は続けばいいってものではない。AKB48が登場したとき、モーニング娘。の完全なる亜流という感じがしたものだ。それが今では立場が逆転した。いやはやなんとも。

     ◇

 ●なぜ? いつから? ホリエモン 2005/03/26

 もう今からだと恥ずかしくて聞けない疑問。
 ライブドアの堀江さんってどうしてホリエモンと呼ばれるようになったのだろう?
 ほりえという苗字で、見た目がずんぐりしていてドラえもんみたいだからそんな渾名になったかなと思っているのだが、いつ誰がそう命名したかがわからない。あるとき週刊誌の中吊広告だったかで目にしてからあっというまにどのメディアも追従するようになった。ユースケ・サンタマリアが司会をする「平成教育予備校」(だっけ?)あたりで愛称つけられたのかなあ。
 それにしても堀江氏の経営人、財界人からの嫌われ方といったらない。
 プロ野球の近鉄とオリックスの合併問題で登場したときは、肝心の近鉄は買収できなかったし、新球団設立も結局後だしの楽天にその座を奪われてしまう。気がついたらダイエーがソフトバンクになっていた。
 審査の段階でアダルトサイトの運営が問題にされた。その論理からいえば松下やビクター等の家電メーカーだってあぶない。かつてビデオデッキの拡販にどれだけ裏ビデオが貢献したか忘れたのか。DVDのソフトにはアダルトだってあるんだぞ。実際に販売していないからというのはあまりに卑怯だ。単なるライブドアいじめでしかなかった。
 堀江氏が「朝まで生テレビ」に出演した際、ある年配の評論家にTシャツ姿を罵倒されたという。いったいそんなバカなことを言う評論家って誰だよと思っていたら三宅久之さんだった。ったく三宅さんか……。
 以前毎朝「やじうまテレビ」を見ていた私は日替わりのゲストコメンテイターの中で三宅さんの意見は納得できた。ところが、この方、読売新聞の渡辺某のことになると、声高に擁護しまくる。親友という関係はわかるが、そして世間の渡辺某への偏見、無理解を是正しようとのことはわかるが、どうやったって悪いのは渡辺某なんだから、意味がない。
 生テレビでの罵倒も、渡辺某が画策した1リーグ制に待ったをかけた堀江氏に対する嫌がらせかと、余計な詮索をしたくなる。
 ま、その時は堀江氏に同情的だった私だが、今回のニッポン放送、フジテレビ買収問題では逆に堀江氏がどうしてここまで金の力で物事を進めるのか理解できない。確かに堀江氏がやっていることは間違ってはいないと思う。アメリカでは当たり前なのでしょう。でもここは日本なのだ。会社は株主のもの、なんて誰も会社のトップは考えていません。長く株主総会を運営スタッフをしてきた私がいうのだから間違いない。(儲けさせればいいんだろうという考え)
 それにしてもまたしてもソフトバンクの登場である。でもこれで楽しみがまた増えた。あくまで部外者だから言えるのですが。

     ◇

 ●「モーニング娘。」と「ER」 2005/04/16

 結局、朝はみのりかわさんの番組を見ている。「みのもんたの朝ズバッ!」。
 昨日発売された週刊新潮に批判記事がでていた。朝から見たくない顔だ、と。考えることは皆同じなんだな。私なんて、あんなに文句いっていたのに、もう慣れてしまった。何様のつもりと思わなくないけど、それが彼の魅力なんでしょう。しかしよく体力が続くもんだ。
 今朝の「朝ズバッ!」芸能ニュースで、〈モーニング娘。〉の新リーダー、矢口某が脱退すると伝えていた。銀角とのつきあいがフライデーされて、リーダー失格と自分で判断してのことだとか(銀角とは恋人のイケメン俳優が映画「あずみ2」で扮していた役名です)。
 最近までモー娘のメンバーの顔と名前が一致しなかった。いや名前なんて今だってよくわからないが、どうにか顔は判別できるようになった。ところが、その娘たちが次々に脱退していく。矢口某が抜けたことで、その最後の砦が崩れた。まるで「ER」のカーターが降板したみたいに。
 3月終了の「ERⅧ」でついにグリーン先生が脳腫瘍の再発で死去してしまった。この事態が私には信じられない。緊急治療室の医者たちの群像劇だとはいえ、グリーン医師はシリーズを通しての主役ではなかったか。ベントン、グリーンの下で学びながら成長していくカーターという構図。これが崩れたら、もう「ER」でなくなってしまうのではないか。
 聞くところによるとベントンも降板するらしい。カーターはどうなるのだろう。オリジナルメンバーがいなくなっても、人気があるうちは続けるのだろうか? それは意味あることなのだろうか?  
 モー娘なんてどうなったってかまわない。しかし、夢中になって観ていたTVドラマが本来の趣旨を逸脱して、ダラダラと続くのは我慢できない。
 アメリカに長く滞在していた方によれば、いくつかのエピソードが並行して描かれ、シーズンごとに続くドラマはアメリカではあたりまえらしい。だからといって、シーズンの最終回がすっきりしないのは困る。
 「ER Ⅶ」だったか、その前のシリーズだったか、最終回に仰天した。ERにかつぎこまれた凶悪犯をグリーンが別の階に一人で運ばなければならない。エレベータ内では二人っきり。そこで犯人に発作がおこった。直ちに電気ショック機(何ていう名称なんでしょうか?)で心臓を刺激すべきなのに、グリーンは手に持ったままで近寄ろうとしない。見殺しにしてしまった。で、そのグリーンのアップで終わってしまったのだ。いくら半年後(1年後?)に再開されるとはいえ、それはないだろう。
 この手のドラマはアメリカの専売特許ではない。日本にもある。TBS系の「ありがとう」「肝っ玉かあさん」等々。石井ふく子プロデュースの一連のシリーズだ。各家庭の問題が細切れに続いていき、最終回で大団円となる。スタジオドラマといわれていた。当時は夢中で見ていたなぁ。その伝統は「渡る世間は鬼ばかり」に引き継がれているのではないか。興味がなくてチャンネル合わせたことがないから何ともいえないのだが。




 テレビ東京「名曲ベストヒット歌謡」は昭和40年代のヒット曲特集。
 紙ふうせんが出演すると聞いて、あれ、「冬が来る前に」は昭和50年代なのにと不思議に思った。「翼をください」だったのね。おまけに「竹田の子守唄」も!

 さて。
 5年前は「エンタの神様」が大人気だった。エンタメ=芸人の笑い、はそこからきている。
 今から思えば「ものまねバトル」は当時が頂点だった。その後一気に力を無くしていく。完全に「ものまね王座決定戦」が息を吹き返した。番組自体が終了してしまったのは、内容(視聴率)が落ちたということもあるが、司会の二人を降板させる口実だったのか。終了するちょっと前に始まった、関根勉のアドバイスによる意外なモノマネコーナーは斬新だったのに。
 シュプレヒコールと言いたくなる中島みゆきの歌は「世情」でした。

     ◇

 ●略せばいいのか?!  2005/03/18

 エンタテインメントがエンタメと言われるようになって久しい。最近のTVを見ているとエンタメ=芸人の笑いという意味に使われていてちょっと気になるのだが。
 いたるところで言葉が略されて表現されている。
 俳優やタレントが親しみを込められて言われることは昔からあった。古くはエノケン、新しくはトヨエツ、深キョン、ハセキョーか。
 名作「傷だらけの天使」も「傷天」と呼ばれることが多くなった。特にファンの間で。これも一種の愛称、親しみの意味があるのだろう。私は絶対拒否したいけど。この線でいけば「ウルトラマン」は「ウルマン」、「木枯し紋次郎」は「木枯紋」になってしまう。「世界の中心で愛をさけぶ」じゃないんだから別に略さなくても簡単に言えるでしょうが。
 まあ、今は略されて一人前、ヒットの一因と思われていて、当事者自身が略称を吹聴する、略称されるのを喜ぶ風潮がある。
 数年前『誰が「本」を殺すのか』(佐野眞一/プレジデント社)が話題になった。この手の本にしてはかなり売れたというが、著者自身が「ホンコロ」と呼ばれて得意になっていることを知ってちょっとあきれた。キムタクと呼ばれるのを嫌う誰かさんをみならえよな。って問題が違うか。 
 世の中、略称がブームだといえ、略せばいいのかと言いたくなることが多すぎる。
 アコースティックギターをアコギと言うのはどんなものか。じゃあなにか、アコースティックギターを弾く人はアコギな奴なのか。あんまりではないか。昔は生ギターと言っていた気がする。
 新聞のTV欄で驚いたのは「カスペ」「ドスペ」である。「火曜スペシャル」「土曜スペシャル」の略だが、これってスタッフや出演者が打ち合わせの際に使う言葉でしょう。あくまでも会話の中だけの話。それがそのままタイトルになるなんて、プロデューサーの言葉に対するセンスを疑ってしまう。いや、そんなことを問題視する私のセンスがおかしいのか。

     ◇

 ●さよなら! 金八先生 2005/03/23

 先週最終回をむかえたドラマ「ごくせん」の、ラストに向かって視聴率がうなぎのぼりしてメディアの話題になっていく過程は「3年B組金八先生」の第1シーズンを彷彿とさせるものだった。
 視聴率の高さがメディアに取り上げられ、内容がいかに素晴らしいかという視聴者の意見が新聞の投稿欄に掲載され、それに歩調をあわせるかのように主題歌がヒットしていく。

 当時大学1年生だった。5才下の弟がちょうど中学3年生で完全にドラマにはまっていた。私もかなり夢中になっていた。
 裏番組「太陽にほえろ!」に視聴率で完全に差をつけられていたTBS金曜夜8時の1時間枠で開始された教師ドラマ。
 金曜の8時だから金八と安易につけられたタイトルだが、日本テレビの青春ドラマに嘘っぽさを感じていた私には中学生たちの行動や会話が新鮮だった。
 マッチが主役になってガクランを着て毎日のように登校してきて学校側が右往左往するエピソードがあった。
「ガクランを着ているだけで別に悪いことをしているわけじゃない、なぜ先生たちはそんなことで大騒ぎするんだ?」
 確かそんなことをマッチが口にして、大いに納得した私は以後毎週かかさずこのドラマを観ることになった。第1シーズンは15才の妊娠と出産が話題になったが、私にとってはこのガクランのエピソードが一番印象深かった。
 ラスト前の放送は大学のサークルの春合宿の最中だった。見逃したくなった私は宴会を抜け出して隣の部屋で一人視聴して「金八先生なんて見ているの?」と先輩たちに笑われた。以後隠れ金八ファンとなる。社会人になってから連続ドラマはほとんど観なくなってしまったが、「金八先生」の新シリーズが始まると必ずビデオに録画するようになった。
 
 「金八先生」といったらやはり第2シーズンの「腐ったミカンの方程式」だろう。今でもあの回のラストは語り草になっている。中島みゆきの歌(ついシュプレヒコールといいたくなるが別にタイトルがある、すぐ忘れるが)がシーンを盛り上げた。
 警察に逮捕され、護送車(パトカーだったか?)に乗せられた生徒を追って母親がその後を追う。まんまイタリア映画の名作「刑事」のラストシーンの引用だと思うが、その効果は絶大だった。
 で、この方法は以後の金八先生の定番、基本となった。
 ひきこもり、性同一性障害と扱う題材がディープになってきて今シリーズはついに麻薬、覚醒剤を取り上げた。とはいえドラマツルギー的には第2シーズンの焼き直しを繰り返しているのである。
 これは別に批判でない。前々回の放送覚醒剤中毒の3B生徒が逮捕されるシーンでそれを強く感じたのだ。引きこもりをテーマにした前々シーズンでもラス前でやっていたし。
 とにかく今回もはまっていることは確か。3Bの生徒の一人に穂積ペペを中学生にしたような男子がいて私のお気に入りなのだ。25日はいよいよ最終回。辞表を提出した金八先生の運命はいかに?!

     ◇

 ●亜流が本家を凌駕する? 2005/03/24

 日本テレビで「ものまねバトル」が開始されたときはそのあざといやり方にため息がでた。完全にフジテレビ「ものまね王座決定戦」の二番煎じではないか。いやそれだけならまだしも「王座決定戦」のレギュラーを引き抜いて番組を構成する強引さ。第一次日テレvsフジ視聴率戦争の始まりだった。って、うそだけど。
 この引き抜きについての詳細はわからない。「王座決定戦」のレギュラーをはずされたタレントがいて、それがこの番組が企画された要因からもしれない。強引な移籍だったとしたら、たぶん「一社独占は資本主義社会における正常な形ではない。競争相手がいてこそより発展する」なんていう大義名分がまかり通ったんだろうな。
 にしてもだ、いくらものまね番組でもここまで本家を真似していいのだろうか。クリエーターの意地はないのか、おい! というように開始当初は冷ややかなまなざしで見ていた。内容もお寒い限りだった。
 ところがである。この数年で驚異的な進化を遂げた。かたや本家の「王座決定戦」(「紅白歌合戦」?)が司会者を一新、新しくレギュラーになったタレント陣が頑張っていても往年の勢いがなくなってきている中、亜流の方が断然笑えるのだ。
 まず審査方法がいい。観客も審査に参加して、その1票がゲスト審査員と同格なのである。普通紅白の対戦になった場合、その結果はほとんど肉薄しているものだが、一般審査員が加わることで、かなり点数に開きが生じてくる。昨年暮れのNHK紅白歌合戦では一般の結果が圧倒的に白有利だったにもかかわらずゲスト審査員の評価で紅が勝ってしまった(らしい)。紅白どっちが勝とうが負けようがどうでもいいが、けっこう批判を浴びていた。それにくらべると「ものまねバトル」は公明正大だ。似ているかどうか、巧いかどうかが評価に直結していないところも面白い。あくまでもインパクト重視。
 今回は俳優という肩書きのバラエティタレントになってしまった石田某のショーケンに個人的に拍手喝采したい。いや見た目だけで、その歌唱もアクションもカラオケBOXレベルなのだが、そのはじけ方が素晴らしかった。審査員のウェンツ瑛二(最近よくTVでみるけど何者なんでしょうか?)がなんだかんだ言っていたけど、石田某が誰のものまねをしたかなんてわからなかったのでは?
 はなわの美空ひばりも最高でした。息子との会話という視点が斬新だった。
 この手の番組はいつもビデオ録画したものをよけいな部分をふっとばして見ているのだが、今回はオンタイム。それで最後のスタッフテロップまでつきあって、驚いてしまった。構成作家が「王座決定戦」を担当していたベテランの方ではないか。タレントだけでなくスタッフまでもが移籍していたのね。ビジーフォーもいなくなってしまったし、「王座決定戦」に何があったのだろうか? 




 昨日(5日)は地元シネコンで「十三人の刺客」を鑑賞。「たそがれ清兵衛」を観たときの感情が蘇った。本格時代劇はもうそれだけで気持ちいい。内容は「必殺仕掛(仕置)人」+「七人の侍」。前半の屋内シーン――陰影を強調した映像、行灯による照明、トーンの暗さ、ゆらゆら感が新鮮だった。レイトショーが終わったのが23時50分。帰宅したら0時30分過ぎ。

 一昨日(4日)はフジテレビ「世にも奇妙な物語」。もう何年も観ていなかったのだが、朝刊TV欄の紹介で興味を持った。人気作家の短編をドラマ化していていて、特に宮部みゆき「燔祭」に注目したのだ。
 時間の関係で後半の3本のみ観る。

 「燔祭」はまず小説を読んでいる。数年後「クロスファイア」が映画化され、映画のあとに小説をあたった。その前に「クロスファイア」が「燔祭」の後日談だと知って「燔祭」を読み直している。あれからもう10年経つのか。
 夕景工房に書いた映画と読書のレビュー、その変遷をまとめてみた。文章は一部訂正しています。

 ちなみに今回のTVドラマで広末涼子と香川照之が演じた主人公の青木淳子と多田一樹、映画では矢田亜希子と伊藤英明だった。
 〈燔祭〉とは聖書に出てくる言葉だとか。

     ◇

 ●「クロスファイア」(日劇プラザ) 2000/07/14

 当初、金子監督で宮部みゆきの傑作ミステリ「火車」を映画化すると発表されたように思うのだが、僕の勘違い、あるいは別プロジェクトで動いているのだろうか。
 どちらにしても念力放火能力〈パイロキネシス〉を持つヒロインが活躍する「クロスファイア」の方が映画化には適していると思う。

 金子監督作品だから期待しないわけはなかったけれど、これほどよくできた作品とは思っていなかった。
 アバンタイトルのヒロインの過去を描くシーンが手際よく簡潔にまとめられ非常に興味深いプロローグとなった。これですぐに映画の世界に引き込まれる。また、後半「謎の焼殺事件はバイロキネシスの犯人によるものだ」と信じて疑わず強引に捜査する刑事とヒロインを結ぶ重要な伏線にもなっている。
 ドラマの展開も早く、ダレることがない。ヒロインおよびその仲間たちに素直に感情移入できる。脚本は原作をうまくまとめていると感じた。
 惜しむらくは後半クローズアップされる超能力集団〈ガーディアン〉が何者で何を企んでいるのか、という部分がウヤムヤになってしまったところ。これとて、〈悪〉に対するヒロインの感情の爆発と迫力ある特撮がシンクロしたクライマックスの怒涛の展開でそれほど気にならなかった。

 ヒロイン(矢田亜希子)が魅力的だ。金子監督はヒロインの描き方がほんと巧い。衣装や小道具にも目を行き届かせヒロインの存在を浮き立たせている。
 ヒロイン以外でも登場人物の配役が的確で印象深かった。刑事役の桃井かおりと原田龍二のコンビが新鮮で、特に桃井かおりがいい味をだしている。ポツリつぶやく一言が絶妙。このコンビでTVの2時間ドラマのシリーズが作れるのではないか。
 自閉症と診断され、特殊学級に入れられているパイロキネシスを持つもう一人の少女がトリイ・ヘイデンの本を読んでいるなんて「わかっているな」って感じ。
 火炎の特撮はかなりの迫力で、遊園地の爆発も遜色ない 。
 それだけではない。リリカルな特撮に心がなごむ。雪の夜、ヒロインと恋人が抱きあうと、炎の膜ができて、ぶつかる雪が音をたてて溶けていくシーン。ラストのろくそくが灯火されるカット。ヒロインの死という哀しい結末を、彼女の肉体はなくなっても精神はいつまでも生きているんだよ、とやさしく語りかけているかのようだ。

 大谷幸の音楽は平成ガメラシリーズでも観るたびに印象深くなって、興奮させてくれるが、本作でもその威力を発揮している。「ガメラ」ゆかりの役者たちが多数ゲスト出演していることもファンにはうれしいところ。
 本邦初の撮影監督、高間賢治氏が撮影で参加していた。

     ◇

 ●「鳩笛草」(宮部みゆき/光文社カッパノベルス) 2000/07/28

 映画「クロスファイア」には原作として「クロスファイア」とともに「鳩笛草」がクレジットされていてちょっと驚いた。
 実は「鳩笛草」を数年前に読んでいて、にもかかわらずストーリーは全く覚えていないのだ。   
 いったいどんな物語だったのだろうと、感想を書いた当時の日記帳をあたってみると〈超能力を持つ女性を主人公にした短編(中編)が3編収録されている、表題作の「鳩笛草」の世界がいい〉とあって内容には触れていない。だから「鳩笛草」と「クロスファイア」がどう関係しているのか、映画化にどう影響しているのかわからなかった。
 仕方なくもう一度図書館から借りてきてチェックすることにした。

 本書は「朽ちていくまで」「燔祭」「鳩笛草」が収録されている。前記のとおりすべて超能力を持つ女性が主人公だ。
 「燔祭」のヒロインが青木淳子。なんと「クロスファイア」はその続編にあたり、映画の前半部分はこの「燔祭」をベースにしてストーリーが組み立てられていることがわかった。
 「燔祭」は妹を不良グループに殺された多田一樹の立場から物語が描写される。青木淳子は多田の前を吹き抜けていった風のような存在で、映画のような恋愛に発展する出逢いはない。
 不良グループを殺そうとする淳子の動機はあくまでも多田への同情であり、〈装丁された一丁の銃〉として多田の武器となることを強く望む。それが自分が生れてきた証のように。
 映画では自分に好意を持ってくれる多田への想いや彼の妹が殺されたことに対する自責の念がないまぜとなって、復讐心に燃える設定となっていた。一番の違いはこの動機だろう。
 ろうそくの点灯もラストで映画とは違うニュアンスで描かれていてこちらもとても印象深い。  

 「燔祭」だけ目をとおせばいいと思っていたものの、面白くて結局全部を1日で読んでしまった。 
 透視力を持つ女刑事が徐々に力を失っていく不安におののきながら、事件を解決していく姿を描く表題作「鳩笛草」は彼女をあたたかく見守る同僚、上司たちのキャラクターがいい。心がなごむ。 
 それにしても一度読んでいるというのに本当にストーリーを忘れていて、まるで新作を読むような感覚でページをめくった。

 「朽ちていくまで」は3編中一番ミステリ色が強い。
 小学生のころ父母を事故で失ったヒロインには事故前の記憶がない。ずっと一緒に暮らしてきた祖母も亡くなり、家を整理していると押入れから多量のビデオを発見する。それは父母が幼い頃からの自分の予知能力を記録したものだった。
 もしかして自分は父母の死をも予知しているのでは? 
 いや予知能力を持つ娘に嫌気がさした父母が無理心中をはかったのではないか? 
 ヒロインは懸命にビデオを再生する。果たして……。
 これもまた結末を忘れているからヒロイン同様、真相が解明されるまでこちらも落ち着かなかった。
 最後に読了したからだろうか、今回は3編の中で「朽ちていくまで」が一番心に残った。

     ◇

 ●「クロスファイア」上下(宮部みゆき/光文社カッパノベルス) 2000/08/10

 「クロスファイア(上)」の〈作者のことば〉で立ち読みでもいいから前作「燔祭」を読んでくれ、と書いた気持ちが(下)を読了した今痛いほどわかる。
 これは前作と対をなす警察小説の形を借りた孤独な超能力者・青木淳子の愛と哀しみの物語だ。

 「燔祭」の淳子は(多田一樹の主観で描かれているといえ)あまり目立たない、他人と交流をもつことを拒む暗い女性として登場する。それが本作では他人の目を引くかなりの美人に変貌している。
 「燔祭」における淳子は〈装填された銃〉として悪を征伐する武器でしかなかった。そう自覚して他人との触れ合いを一切拒否していた。正義のためという大義名分はあるものの、誰のために戦うのかというはっきりとした目的意識をもっていなかった彼女には生きる喜びも見出せなかったことだろう。
 そこに不良グループに妹を惨殺された多田がいた。多田のために多田の同意を得たわけではなかったけれど、犯人を探し出し焼殺することに数年の歳月をかけた。ある意味そこに生きる目的、喜びを見つけた。だから外見も変わったのだと僕は思う。
 同時にそれは彼女を殺戮者として変貌させてもいる。「クロスファイア」の淳子は容赦なく人を殺す。真犯人を追いつめるためには殺すまでにはいたらない共犯者(あるいは仲間)まで手をかける。 
 凶悪な犯人グループに連れ去られた女性を救うためとはいえ、彼らのアジトを知る拳銃密売組織のチンピラや主犯の母親、前作で取り逃がした共犯者の女を躊躇したとはいえ、あっけなく殺す彼女の姿に少々戦慄してしまった。先に映画を観たから当然なのだけれど、そうでなくてもラストの彼女の運命はわかったようなものだ。
 孤独に生きてきた淳子が木戸という超能力を持つ仲間と知り合い、人を愛すること、一番大切な人のために生きていく喜びを知ったとき、それが彼女の最期を意味するという何という皮肉な運命。
 作者が描きたかったのはまさしくここではないか。

 映画ではよくわからなかった悪狩りの組織〈ガーディアン〉も小説を読めば、その設立意図や行動に納得がいく。組織のボス(映画では永島敏行が扮していた)が執拗に淳子の抹殺を狙っていたのは、彼女の個人的な行動で超能力者集団〈ガーディアン〉の活動が表沙汰にならないためという理由による。(しかし映画では木戸まで殺してしまう。それがよくわからない。)
 映画は映画本来の特色である特殊技術を駆使して、スペクタクル要素を前面におしだしたクライマックスだった。原作は心理描写に重きをおいたサスペンスで読者を揺さぶり、あっと言わせるどんでん返しの後、彼女の悲劇を描く。
 絵的にも雪で真っ白に覆われた夜の河口湖畔、狙撃され横たわった淳子の身体から流れ出る真っ赤な血、彼女の最後の力でオレンジの炎に包まれ燃え上がる木戸、と色のコントラストが印象的だ。

 映画「クロスファイア」はよくできていると思うが、最初に原作を読んでいたら〈ガーディアン〉の描き方云々に関係なく、映画のクライマックスからラストにかけて不満をもらしたかもしれない。 
 特に淳子の死んだあとのエピローグが切なく忘れがたく、電車の中で涙があふれてきてその始末に往生した。
 ヒロインが死んだからかわいそう、悲しい、というのではない。
 連続焼死事件の真相を求め、彼女を追い続けていた刑事たち、彼女が対面を望んでいた小さなパイロキネスト倉田かおり、ほんの一時会話しただけの豆腐屋の娘……おのおのがそれぞれの立場で彼女が生きてきたことをしっかり認識し、その死を悼んでいる心根がうれしかった。




 ということで、「mixi失格。」としてシリーズ化する。
 本当は本にしたいのだけど、当分の間できない。懐具合の関係で。
 これまで、何か理由をつけて転載していた。最近は関係づけが面倒くさくなってきたので、ストレートの直球を投げることにした。

 1日(金)は地元シネコンにて「バイオハザードⅣ アフターライフ」を鑑賞。3Dしか上映していない映画を押さえるには、1,000円で見られるサービスデーでないと。
 2日(土)は大阪は天満天神繁昌亭にて「立川談四楼・桂文鹿二人会」を。
 大阪で初めて観る寄席。全然東京の定席に詳しくないけれど、それでも東西の文化の違いを認識できた。それはまた後で。
 また後でばっかり?

 ところで、みのもんたの早朝番組、結局見ている。フジテレビも日本テレビもテレビ朝日もNGなので。
 意志薄弱、です……

     ◇

 ●mixi失格!?  2005/03/15

 毎週の夕景工房の更新でブログまで手がまわらない。紹介文も書いていないし(下書きはできあがっているんだけど)。
 HP・夕景工房だって数年前に比べると読書日記が全然更新できない状態になっている。以前は読了した本、ほぼ全部感想書いていたのだから、すごいというか暇だったというか。今も手をぬいてはいないのですが。トータルで2、3本書いて、UPして訂正なんかしているともうそれだけでもうへとへとになってしまう。
 この数年は半年に1回まぐまの原稿執筆があって、「小説と映画のあいだに」2P、「体験的紙ふうせん論」約10Pにとりかかると更新の方もおぼつかなくなってしまう。ブログ(日記)だって書くことはいっぱいある。テーマはいろいろあるんですよ。しかし、HPの執筆、まぐまの執筆の後はもうキーボードなんて打ちたくなくなるのが実情です。
 というわけで私のホームグランドは夕景工房だとご理解ください。

 本日、まぐま13号の体験的紙ふうせん論の版下データを郵送し、とりあえず自分の担当作業はすべて終了した。あとはK氏の奮闘を祈るのみ。4月の完成を待つのみだ。
 いや、14号の特集についてあれこれ考えなければ……
 その前に完成パーティーの内容と進行か……


 ●元祖難病&純愛モノ 2005/03/16

 「世界の中心で愛をさけぶ」が大ヒットして、今の時代、難病ものと純愛ものがこんなに受けるのなら、ぜったいアノ作品をリメイクすべきなのにと思っている。
 マコ甘えてばかりでごめんね……
 「愛と死を見つめて」である。
 骨肉腫で若くして亡くなった女性ミコ(みちこ)と学生マコ(まこと)の往復書簡。この書簡集をまとめた本がベストセラーになり、まずTBS「日曜劇場」でドラマ化され高視聴率を獲得した。次に吉永小百合主演で映画化され大ヒット。昼メロにもなった。私が見たのはたぶんこの昼メロ版だったと思う。
 保育園の年長組だったとき、交通事故で入院したことがある。そのとき、顔に包帯をした私は盛んに「ミコになった、ミコになった」と騒いだことを思い出す。そのくらい大ブームだった。
 今、映画化(ドラマ化)したら若い人にかなり受け入れられるのではないかと思っていたら、書店で復刊された「愛と死を見つめて」(大和書房)を見つけてびっくりした。
 で、もっとびっくりしたのは韓国映画に「愛と死を見つめて」というのがあるんですね。原題は違うと思うけど。

 あっ、もちろん映画化されても、難病ものは大嫌いだから私は見ませんからね。


 ●みのりかわさん、いい加減にしてください 2005/03/17

 終焉が刻一刻と迫っている。
 TBSの朝の情報番組「ウォッチ!」のことだ。

 1980年代フジテレビが視聴率三冠王を毎年のように獲得するようになって、その視聴率至上主義が鼻についてしかたなかった。
 90年代になると日本テレビがまるでフジと同じ状態になって(いやそれ以上か)決別した。だから朝は日本テレビもフジテレビにもいっさいチャンネルを合わさない。以前はテレビ朝日の「やじうまワイド」を見ていた。芸能レポーターの梨元さんのしゃべりが嫌いとのかみサンの一言でTBSにチャンネルを合わせるようになって5、6年は経つ。
 この間、TBSの朝の番組は毎年のように変わった。視聴率で苦戦しているようだ。普通、人は「ズームイン」か「めざまし」を見ているのだろう。
 フジテレビを定年退職した露木さんをキャスターに起用したこともあったが、あっけなく玉砕した。続いてはじまったのが、局アナの若手(中堅か?)の土井さんをメインにした「ウォッチ!」なのだが、これも何度かテコ入れを繰り返した。城戸真亜子とラサール石井が途中からレギュラー(メイン)になって、城戸さんはあっというまにいなくなった。石井さんの新聞チェックのコーナーも何回仕様が変わったことか。それでもこのコーナーは面白い。今はラサール石井と用稲千春のコンビを楽しみにしている。というか、用稲さんにけっこうホの字。ワンピース姿に欲情してます。
 関係ないけれどレギュラーの小林麻耶を最初タレントだと思っていた。局アナだとわかってからはあのおきゃんぶりが許せなくなった。かみさんに言わせれば、朝からあの声を聞きたくないのだとか。

 とにかく2年間朝のひと時を楽しませてくれた「ウォッチ!」が終わってしまう。さびしい。
 それだけならまだいい。後番組がみのもんたになると知って頭を抱えてしまった。文化放送のアナウンサー時代からファンだったけれど、ホント、最近出すぎじゃないだろうか。
 朝からあの暑苦しい顔を見たいとは思わない。いやその前に昼の帯番組を持ったまま朝の帯番組に進出するなんてどういう神経だろう。いったいいくつレギュラーを持つ気なのか。
 破格のギャラでタレント呼んだからといって視聴率が上がるとは思えない。露木さんがいい例だった。みのさんになったからといって朝の勢力地図が変わるとは思えない。それより今のまま固定ファンに支えてられている方がいいのでは? と思うのは私だけだろうか。




 今春、TVでmixiのCMをよく見た。
 なぜ今になって宣伝するのだろうと不思議だったのだが、ずいぶん経ってから理由がわかった。あの時期、mixiの登録の仕方が変わったのだ。それまで登録は紹介制だった。誰かに紹介(招待)されないと会員になれなかった。それが、自由にできるようになったのである。

 初めてmixiの名前を聞いたのは、あるインディーズ映画の上映会。04年だったろうか。
 場所は八丁堀。上映会後の打ち上げの席でその日知り合った映画関係者の方がmixiを話題にしたことを覚えている。あのときは知る人ぞ知るといった存在だった。

 一時かなりハマったものだが、mixiのシステムに疑問を持つようになった。むなしくなったというか。徐々にマイミクの意味がわからなくなってきた。プリクラが大ブームのころ、女子高生(?)たちは友人と撮ったプリクラ(写真シール)の数を競った。mixiにハマりだした人たちって同じようにマイミクの数を競っていなかったか? 自分も含めて。 
 〈読み逃げ〉なる言葉を知って愕然とした。何だ、それ? マイミクの中でも特定の人と〈内緒話〉ができるようになって決定的となった。

 「真衣&未来」にでてくるマイミクを切られた件。理由がまさに自分の日記に対してのコメントがない、だった。若い世代だったらまだしも、同世代(ちょっと上)だから信じられなかった。「読むだけではいけないんですか?」とメールしたら、「実はあなたの書いている日記(の内容)についていけなくて」。だったら、そう書けばいいのに。なら理解できたんだ。同じアーティストのファンだというのに話が合わないというのは悲しい。まあ、それはうすうす感じていたことだから。
 「舞美玖奇談」は創作である。しかし二人の会話は自分の経験に基づいている。ウソではない。心情吐露しないのがポリシーだったから、こういう形で溜飲を下げていた。

 とにかく、昨年の8月でmixiを退会した。

 最初は(HPの)BBSだった。ブログが登場したらあっという間に広まった。SNSが話題になってmixiが代名詞になったと思っていたら、今度はツイッターが幅をきかせている。
 このツイッターの面白さがわからない。つぶやきをフォローするってどういうこと? だいたいそんなことしていたら、いつもネットを覗いていなければならない。それって中毒ってことではないか?

     ◇

 ●自分、mixiに何望む? 2006/02/18

 ふと気づいたことがある。この2月でmixiの仲間入りをして1年が経過していたのだ。

 もう2年以上前のこと。元会社の同僚H氏がブログをやりだしたからとHP「夕景工房」BBSに挨拶があって、私は思わず聞き返した。
「ブログって何?」
 その後、ブログはまたたくまに増殖してネットの主流になってしまった。
 ただ書き込むだけでいい、画像添付も簡単、読み手もコメントを書き込める。ネコも杓子もブログ、ブログ。それまでHPを運営している人も、コンテンツの1つとしてブログを取り入れる。PC音痴の私をして、HP設立をさせたH女史もいつのまにかブログ始めて、誘いの声をかけてきた。
 こうなると天邪鬼、意固地の私のとる態度はきまっている。
 誰がブログなんかやるものか!

 にもかかわらず、mixiに登録して1年。
 実は当初mixiが何なのか全然わかっていなかった。Sさんから松田監督特集のコミュニティを(上映会に先駆けて)作ったので参加しませんかとのメールを受けて、コミュニティを覗ければいいかくらいの感覚で手続きをしたら、自分の日記コーナーができてしまって大いにあわてた。
 
 本格的にmixiに書き込みすることを宣言して心に誓ったことは3点。
 1.日記は書かない(個人的なこと、心情吐露はしない)
 2.HPの読書日記、映画感想以外のこと、主にTVや雑誌について、あるいは身辺に起きたことを読み物(エッセイ)として書く
 3.土日はHP用の執筆として休み、月~金の間毎日書く

 書き出すと、けっこうはまった。テーマが自由だから本や映画の感想より書きやすいのだ。ネタにつまって(というか備忘録のために)映画の感想も書き出したが、そうすると、それとは違った内容でHPを書こうとしてかなり苦労する。最近はmixiのものをそのままコピーしてしまうことも多い。

 「夕景工房」を開設した当初の趣旨はブログそのものだったなあ、と今さらながら思う。読書日記も映画の感想も実は同じ欄で取扱いたかった。本は本、映画は映画というようにはっきり区別できるものではない。ネットサーフィンというものがあるように、興味の対象は映画→原作、あるいは原作→映画とさまざまに派生し、それが絵画展、芝居、コンサートに広がっていくかもしれない。興味はごった煮。だから感想はあくまでも同じコーナーで取扱いたかった。最初に考えたコーナータイトルが「買った! 借りた! 読んだ! &観た」なのはそんな理由による。結局2つに分けたわけだけど。

 知らないうちにネット独自の書き方、文法なるものが存在するようになった。一切無視している。基本は縦書き。原稿用紙に書くのと同じ要領。絵文字はもちろん(笑)も挿入しない。読みやすくするため1行空けなどしているが、この方針はHPと変わらない。
 だからさ……いやいや心情吐露はしないのが約束でした。


 ●真衣&未来 2007/05/01

 週刊文春の「女の窓」(読者のお便りコーナーに連載されている伊藤理佐の1コマ漫画)に、こんなのがあった。
 どこかのカフェでお茶している作者の隣のテーブルに二人の若者。その一人がマイミクを突然切られたらしく、もう一人に「理由がわからなくて悩んでいる」と語る。作者はいつの時代でも(若者の)悩みの本質は変わらない、とかなんとかしみじみ感じるのであった……

 先週、友人と飲んだときの話。
「mixiの読み逃げについてどう思います?」
「びっくりした。読み逃げ禁止なんて、そういう感覚の人がいるんだって」
「日記読んだら必ずコメントしなけりゃいけないなんてねぇ」
「日記を読む、読まれる、それだけでもいいと思っているオレはマイミク失格なのかなぁ」
 
 こういうことは、これまで思ってはいるものの、心情吐露をしないと誓った者としてmixiには書かないことにしていた。しかし、大阪に出かけている間に、ある方からマイミクを解除されて、一度自分のmixiの、マイミクに対する考えを公表していた方がよいと思ったので、野暮を承知で記しておきます。

 誤解しないでほしい。その方はちゃんと筋をとおしている。きちんとメッセージで、その理由を述べ、だから一度切りますと伝えてきた。
 お互いあるFCの一員だからこれからも会う機会はたびたびある。あくまでもmixiの交流に対する考え方の相違なので、別に怒っているとか、恨んでいるとか、傷ついた、ということではないのでお間違いなく。

 以前、見知らぬ方からマイミク要請があって、一度ある上映会でおしゃべりした方だと勘違いして了解したことがある。承認してから勘違いが判明したのだが、だからといって、すぐに断ることもない、無から始まる交流もあるさ、と毎日読みに行っていたら、数日後、何のことわりもなく切られた。これはかなりのショックだったけれど。

 マイミクをお願いするのはとても勇気がいる。少なくとも私はそうだ。だから、要請があったら基本的にはOKする。一度だけ見知らぬ方をキャンセルしたことがある。それだって、単にキャンセルするのは申し訳なく、後からメッセージで送って、その理由(要請理由が信じられない、趣味趣向にまったく接点がない)をきちんと述べた。
 
 もうだいぶ前に一度記したが、mixiの会員になってすぐに、人とのコミュニケーションのとりかたがわからず、少々悩んだことがあった。で、助言もあって、あくまでも自分のために書くという方針に決めた。ただし、書くからには誰かに読んでほしいという気持ちがあり、内容もコラム、エッセイ風にして、単純に、今日は○○に行った(○○を鑑賞した)、面白かった、という個人的日記にならないよう、読み物としての配慮を考えた。

 マイミクとはお互いの日記(というと語弊がある。だって、本当の日記なら他人に読ませられない)の読者なんだ、という結論づけた。読んだことで、感じたこと、考えたことがあったらコメントつける。それが自分のスタンス。
 ただし、あまりに考えることが多くて、コメントしづらい場合はパスすることもある。批判の場合も、実際に親しくつきあっている方以外はパス。

 そういえば、こんなこともあった。
 あまり面識がない方の日記で、コメントするにもいつも批判になってしまうことが多くて、躊躇していた。マイミクやめようかな、でも自分からお願いしたのだから、それもできない。悩んでいたら、先方からmixiそのものを脱退していった。
 コメントをもらうのはうれしい。だからといって、コメントだけのやりとりが交流だなんて思わない。

 とにかく更新したら読みます! というのを信条にしていたわけだが、最近は怠っていることも多い。やはり全然足跡のないマイミクとは疎遠になってしまう……。
 
 観た映画や読んだ本について、あるいは芝居や落語について人はどう感想を持つのか、検索かけてよく読みに行く。でもよほどのことがない限りコメントなんて残さない。逆に見知らぬ人が足跡を残した場合、彼(彼女)は何の項目で検索したのか知りたくなる。読みに行ってそれが判明する場合もあるし、わからないことも。
 恥ずかしいのは、踏み返した際、その方が自分の足跡をたどってきたという場合。すいません、感想だけ読んで、プロフィールまで確認しないことが多いのです。
 不定期に足跡を残す方もいて、久しぶりに名前を見ると、何か書いたな、と喜び勇んで読みに行ったり。

 イベントの告知で、「申し訳ありません、行けません」コメントもやめにした。

 そんなわけで、私の駄文に興味のある方、これからもおつきあいのほど、よろしくお願いいたします。


 ●舞美玖奇談 2008/05/14

 品川駅で京浜東北線に乗り込んで、空いている席に座りしばらく読書にいそしんでいた。ふと隣から〈マイミク〉の言葉が聞こえてきた。すばやく反応した。耳をそばだてるとやはりmixiについての話だ。
 会話の主は二人の若い男性。大学生か。カジュアルな服装だったので、そう思っただけなのだが、もう少し上からもしれない。会社員という感じはしなかった。フリーターか。
 そんなことはどうでもいい。
 以後、二人の会話が気になって、本の内容が頭に入らなくなった。

A「一人、マイミクがいなくなったんだけど、誰が消えたかわからないんだ」
B「オレも一度、あったよ。マイミクの数が増えるのも考えものだよね」
A「誰だかわからないというのは、日頃交流がないってことだからさ」
  私も、つい最近あったんですよ! 話に加わりたくなったが、ぐっとこらえる。
A「その前にも、一人消えたんだ」
B「いちいち気にしているわけ? 別にどうでもいいじゃん」
A「そうなんだけどさ、その人は知っている人だから」
B「普通のつきあいがあるってわけ? mixiで知り合ったんじゃなく」
A「うん、よく行く△△のお客さんでさ」
B「お客さん同士で知り合ったってわけか」
  この人、わけ?が多すぎないか。
A「だから、ちょっと悩んでるんだ。△△行けば顔合わすだろう」
B「だって、本人、mixiやめたんだろう? そんなのよくあることじゃん、ある日ぷっつり姿消すなんてさ。ま、挨拶なしってのは寂しいけど、それが普通なんだよ、mixiの常識。そう考えれば悩むこともないだろう」
A「それがね、その人、mixi脱退したわけじゃないの」
B「マジ?」
A「うん」
B「ってことは、勝手に切られたってこと? 実際の知り合いで? それはつらいかもなあ」
A「脱退なら気にしないよ。自分ひとりだけ、というのがね。……オレ、もう△△行けないよ」
B「その人に会うから?」
A「うん、会ったら、どうしたって、マイミク切られたこと聞きたくなるじゃない」
B「まあね」
A「理由聞かせてって」
B「まあね」
A「でも、そんなこと聞きたくもない。かといって、そこに触れずに今までどおりのおしゃべりもできない」
B「だから△△に行けないって?」
A「××(料理?)うまかったのになあ」
B「どうするわけ?」

 最後まで聞いていたかったが、残念、二人は上野で降りてしまった。

 ちなみにタイトルは「本牧奇談」のもじり。字余りだ。舞椋奇談? 訛ってるよ。センスなし。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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