昨日は休み。地元シネコンで映画を2本観た。
 まず、9時から「小川の辺」。辺は〈ほとり〉と読む。篠原哲雄監督の時代劇、藤原周平原作の海坂藩もの第2弾。原作の短編(「海坂藩大全」所収)は読んでいる。短編の味わいをそのまま映画にした感じ。ある種のロードムービーで、ロケーション撮影とクライマックスの殺陣が魅力。とはいっても前作「山桜」同様の〈静かな映画〉である。
 篠原監督なのでディティール描写にわくわくしてしまう。何気ない生活描写と言い換えてもいい。菊池凛子の役、寺島しのぶでもよかったかも。いわゆる美人女優、かわいい女優だとリアリティがなくなるので。
 朝一番の上映(モーニングショー)ということで1,200円だった。上映自体がこの回しかないのだが。朝早いためかお客さんは少なかった。平均年齢が高い。たぶん皆70歳前後なのではないか。

 12時40分からは「忍たま乱太郎」。夏休みなので混雑するだろうと思ったがそれほどでもなかった。親子連ればかりで、一人は僕だけ。この映画にはかなり興味があった。監督が三池崇史で脚本がアニメと同じ浦沢義雄。期待しないわけがない。にもかかわらずこの映画、子ども向けということで夜の上映がないのである。仕方ないので休みの平日に観たのだった。こちらは無料。ポイントが貯まったのでさっそく利用させてもらったというわけだ。
 TVアニメは娘が小学生のときに夢中だった。いつのまにか原作のコミックを買い集めるようにもなった。このころ娘は血小板が少なくなる病気で入院していた。娘を喜ばせようと新刊が出るたび買ってやったものだ。
 「忍たま乱太郎」にはいろいろな思いがあるので、娘を誘ってみた。けんもほろろだった。「どうしてあたしが行くのよ!」
 もうすぐ23歳になるんじゃ仕方ないか。

 アニメ同様、実写版も面白かった。面白かったけれど、もっとはじけてよかったのではないか。
 たとえば加賀丈史の歌をフィーチャーするシーン。あっというまに豪華なステージに様変わり、若い女の子たちをバックに従え、ギンギラギンに歌い踊るミュージカルシーンになればいいのにと思った。「ヤッターマン」もそうだったが三池監督ってダンス&ソングのシーンって、あまり得意ではないようだ。
 エンディングロールは、メイキングが観られる。本編には登場しないカット(撮影)がいくつかあったが、あれは単純にシナリオにはあって撮影したけれど編集でカットされたものなのか。それとも映画以外で露出されるのか。

 夜は新橋の交流サロンSHUで「シネマDEりんりん」。阿部誠監督の2作品「湖の中の観覧車」「SHINSENGUMI」がハリウッドで上映されたということで、その報告と暑気払いを兼ねた集い。




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 まだ7月で秋には程遠いけれど、デザインを元に戻す。

 先週、「ゴールデンスランバー」を読んだら、映画が観たくなってしまった。TSUTAYAで一週間5枚1,000円サービスを利用して借りてきた。ほかに「告白」「明日に向って撃て」、そしてWOWOWドラマ「マークスの山」Vol.2、3。

 小説を読むと、キャスティングのうまさがわかる。主人公の堺雅人、元カノの竹内結子、後輩の劇団ひとり。大学時代の仲間たちでいえば、唯一、親友の吉岡秀隆だけがちょっとイメージ違う。学生時代の、髪が長くて無精髭姿は〈らしい〉のだが。あとロックな先輩(渋川清彦)や巡査(でんでん)、顔みるだけでニヤけてしまう。
 でも、やっぱり、素晴らしいのは父親役の伊東四朗だ。最初の登場シーンは巻き戻してもう一度観るほど。大笑い。そして涙。父親が「息子は犯人ではない」と断言する理由が原作を読むと理解できる。斉藤和義「幸福な朝食、退屈な夕食」が良い! エンディングロールはこの曲が聴きたくて何度もチェックした。
 「告白」は音楽が聴きたくて。サウンドトラック購入しようか。
 「明日に向って撃て」は初めての鑑賞。映画館はもちろんのこと、TVでもない。ラストシーン以外は。しかし、これは劇場のスクリーンで観なければいけない。美しい映像の数々に心洗われる。

 で、WOWOWドラマ「マークスの山」である。
 村薫のミステリ「マークスの山」にはたまらない思い入れがある。思い入れの深さについては、かつて講談社文庫になったときのレビューに書いている。夕景から転載する(誤字脱字訂正。最近このパターンばっかりだ)。

     ◇

2003/03/12

 「マークスの山(上・下)」(村薫/講談社文庫)  

 小林信彦およびマニアックな本以外の小説、エッセイ集等、ほとんどの本は図書館で借りることにしている。懐具合の事情と自宅の狭さに起因する。
 小説(主にミステリ)はまず単行本を読み、これは手元に置いておきたいと思えるものは文庫化された時に購入する習慣になった。宮部みゆき、逢坂剛、貴志祐介などの傑作はこうして集めたものだ。ところが「マークスの山」はなかなか文庫にならなかった。通常、単行本は1年くらいで文庫になるものだが、早川書房から出た「マークスの山」が話題を呼んだのは一昔前のことである。  

 「マークスの山」との出会いはとある書店の平台コーナーだった。山積みとなっている「マークスの山」を手にとった若いカップルの女性の一言に反応した。曰く「これ読み始めたらとまらなくなるの。徹夜して読んじゃった。最後はもう涙ボロボロ」。
 すでに直木賞を受賞して、評判になっていたのは知っていた。徹夜するほど面白いのなら読んでみようかと図書館に行ったらすごい人気でとてもすぐ読める状況ではない。そうなるとすぐにでも読みたくなる。どうしようかなと考えていたら、何と人事部の図書コーナーにあるではないか(当時はそういうサービスがあった)。  
 さっそく借りてきた。

 南アルプスの北岳で同時期に起きた親子心中事件と登山者惨殺事件。心中事件で唯一生き残った少年、神経を病んで発作的に登山者を殺してしまった飯場で働く労務者、二人が十数年後偶然に東京で接点をもつことで殺人者〈マークス〉が誕生した。
 碑文谷の閑静な住宅街で元やくざが何者かに殺される。続いて王子では法務省官僚が……。二つの殺人事件を結ぶものは何か? 警視庁の合田を中心とする七係は、執拗な捜査の末、事件が某大学山岳部グループが過去に封印した〈ある事件〉に起因していることをつきとめるのだが……。  
 本庁と所轄、キャリアとノンキャリア、上司と部下、さまざまな関係の中で個性豊な刑事たちが時に反目し、時に協調しあって事件の真相に迫っていく。怒鳴りあい、わめきあい、化かしあい…その捜査の実体がリアルで迫力あった。  

 それだけでも十分読みごたえがあるのに、それ以上に心惹かれたのは犯人〈マークス〉の生い立ち、看護婦との純愛模様だった。  
 両親は死亡し、一人生き残った少年は排ガス自殺による極度の二酸化炭素中毒の後遺症でいわゆる〈躁鬱病〉となって、3年周期で入退院を繰り返す。  
 精神病棟の劣悪な環境のもと、非人間的な扱いを受ける彼を庇い暖かく看護してくれた看護婦。青年に成長した彼と看護婦が再会しひっそりと同棲生活を送る様は心が和んだ。年上の女性に甘える彼に殺人犯の面影はない。  
 実をいうと、読んでいて警察側の人間誰一人も好きになれなかった。主人公の合田雄一郎でさえそのエリート意識が鼻についた。完全に殺人犯〈マークス〉に感情移入してしまったのだ。  
 女を幸せにするために、大金を手に入れたいと願う〈マークス〉があるきっかけで手にしたネタで今では名士となった男たちグループに強請りを働く。しかし結果的に二人の男を惨殺し、逆に相手から生命を狙われるはめになる。  
 〈マークス〉を狙った銃弾が女の身体を貫いた。すべてを失った〈マークス〉がとった行動は……。

 確かに読みだしたら止まらなかった。2段組、かなりのボリュームのページ数も苦にならない。特に後半は次の展開が気になって本を閉じることができなかった。翌日朝が早いのに、夜中の2時過ぎまでかかって一気に読了した。ラストは目がくもって活字がぼやける始末。大泣きだった。  

 話題を呼んだミステリだからすぐに映画化が発表された。監督は崔洋一、脚本は丸山昇一。主人公の合田が中田貴一というのは?ではあったものの、かなり期待できるものだった。結局劇場には足を運ばなかった。  
 なぜか。
 連続殺人事件を追う警察側、犯人〈マークス〉と看護婦の絆、それぞれの人間模様を濃密に描いたこの警察小説をそのまま2時間前後の映画にするのは無理があると思ったのだ。小説の感動を映画でぶちこわしたくない。ビデオになってからの鑑賞になった。案の定物語の骨格はそのままに細部をいじくりまわした展開に始終違和感ばかり抱いていた。かみサンは開始早々「なにこれ」と文句を言って寝てしまった。最後までつきあった僕はというと小説と同じラストでも何も感じることができなかった。(と、これは原作を読んだ者の感想。原作を知らない人の中では面白かったという人もいた。中には〈マークス〉と看護婦のやりとりに僕が原作で感動したのと同じものを感じた人もいて驚いた。)  
 映画の出来に腹をたてた僕は翌日また人事部から本を借りて、もう一度読み直した。  

 文庫になったら購入しよう。そう心に決めて早10年、やっと発売された! と思ったら、全面改訂だって。全面改訂といえば同じ作者の「神の火」が頭をよぎる。同じ物語、同じ登場人物なのにキャラクターが大幅に変わっていて印象が全く違う小説になっていた。ふたつを読み比べて実感した。巧さは別にしてうねるような展開、感情の発露が旧版にあることも。

 思い入れの深い「マークスの山」の印象が変わってしまったら……嫌な予感を感じながら文庫本上下2冊を購入した。
 単行本を読んだのがずいぶん前なので、どこがどう違っているのか逐一書き記すことはできない。確か単行本では現在のマークスは病気がほとんど治癒していたのではないかな。だから看護婦との濡れ場もあった。文庫ではいまだに3年周期で躁鬱を繰り返していて、健忘症がひどい。物事をすぐに忘れる。看護婦との関係も男女というより母子といった感じ。  
 単行本では嫌な奴ばかりだった刑事たちの印象も変わった。個性の豊かさはそのままでそれぞれの立場が理解できる。こちらが年齢を重ねたからだろうか。
 マークスと看護婦が仲むつまじく病院からでてくるところを敵に狙われ、看護婦が誤射されてしまうくだり、単行本ではクライマックス直前に用意されていて、ここから物語は怒涛の展開になる。ところが文庫版では上下に分かれた本の(下)の最初の方、つまり中盤で撃たれてしまうのである。  

 全面改訂された「マークスの山」も「神の火」と同じ作者のスタンスを感じることができる。
 まずリアリティの優先。過分な盛り上げ方の否定。だからといって小説がおもしろくなくなったというわけではない。過去の事件に関係する弁護士に真相を聞きだそうとして合田ともう一人の刑事がさまざな証拠を小出しにしながら迫る取り調べのくだりに圧倒される。健忘症ゆえ青年がメモ魔になったというのもちゃんとラストへの伏線となっている。これは効いた。  
 本書を読み終えたのは夕方の渋谷駅ホーム。一筋の涙が頬を伝わった。  

 今回の加筆訂正が悪いというわけではないが、僕にはやはり単行本の世界こそ「マークスの山」だと思っている。
 仕方ない、単行本を購入しよう。


 この項続く




 21世紀になっても冤罪はある。足利事件や郵便不正事件がいい例だ。
 郵便不正事件では厚生労働省の元局長が、大阪地検の策略で犯人に仕立て上げられそうになった。もし、データ改竄が発覚しなかったら、元局長がいくら「無実」を叫んでも有罪になっていたのだろうか。

 先週読了した「ゴールデンスランバー」はまさにその恐怖を描いた小説だった。
 容疑者に対して警察官が無闇に発砲できるわけがない、何かというとショットガンを撃つ刑事にまるでリアリティがない、だいたい本当の犯人(組織)が何の目的で主人公を首相暗殺の単独犯に仕立てるのか、事件の真相がまるで解明されないではないか……。
 いろいろ疑問点を指摘できる。
 映画を観たとき、感銘を受けたとはいえ、最初の二つの疑問が頭をよぎった。それからあの廃車はバッテリーを交換したぐらいでは動かないだろうとも。
 小説を読んでわかったのだが、舞台となる世界はある種のパラレルワールドなのだ。そうだとわかれば何かと許せてしまう。いや、エンタテインメントだからわざとそんな設定、展開にしたのかもしれない。「嘘でぇ!」の部分がないと怖すぎるもの。

 つまり、こういうことだ。
 日本で首相暗殺なんてありえないだろう。警察がここまで徹底して無実の男を犯罪者に仕立てるなんてこともないかもしれない。描かれていることはあくまでもフィクションだ。とはいえ、似たようなことは日々行われているのではないか。程度の差はあれ、僕らはこれまで何度も目撃している。まさに足利事件や郵便不正事件がそうだった。
 サリン事件を思い出してほしい。メディアの扇動的な報道姿勢もあって、僕たちはまったく罪のない人を極悪人だと信じたではないか。

 袴田事件については、昨年、「BOX袴田事件 命とは」(監督:高橋伴明)が公開されている。

     ◇

 ●袴田事件/無実の死刑囚を救え 2007/09/21

 19日(水)の後楽園ホールにおけるボクシング観戦についてもう一つ書いておきたいことがある。

 入場時、試合のプログラムといっしょにA4サイズのチラシを渡された。着席してから内容を確認すると、表面に大きく「袴田厳さんの再審開始を支援します」の文字があった。
 袴田事件って、すでに無罪が確定したのではなかったっけ?
 一瞬そう思ったが、免田事件と勘違いしていることにすぐに気がついた。チラシは袴田事件の再審開始の活動を行っている弁護士と支援者たちが、この日の観客に活動に対する協力をお願いする内容だった。

 高校時代、学校の図書館から「狭山事件」という本を借りて読んだ。未解決の殺人事件の謎に迫る、といったようなある種ミステリを読む感覚で手に取ったのだが、読了後やりきれない思いが胸にうずまいた。続けざまに2、3冊関連書物をあたった。
 警察のこんな横暴が許されていいのか! 無罪の人を死刑にしていいのか!
 と同時に、こうも思った。事件は被告の冤罪を晴らすことだけが注目されている。被害者が誰かに殺された事実はどうなるのか、家族の心中はいかなるものか。真犯人はどこかでのうのうと生きているわけだから。こうして狭山事件、狭山裁判からわざと距離をおき無関心を装った。
 後から知る免田事件、袴田事件についても同様だった。

 チラシには袴田事件の概要が掲載されていた。
 事件が起きたのは1966年(昭和41年)。静岡県清水市(当時)の味噌製造会社の専務宅が放火され焼跡から4人の他殺体が発見された。味噌工場の寮に住んでいた元ボクサーの袴田氏が逮捕された。部屋で見つかった微量の血痕のついたパジャマが証拠だという。執拗な取調べで一度は自白したものの、裁判になってから無実を主張。
 その後、工場の味噌タンクから殺人現場で犯人が着ていた血染めの衣類(5点)が発見される。その中の一つであるズボンはサイズが小さくて袴田氏が穿けないにもかかわらず、本人のものとされ(パジャマの存在はすでに無視されている)、死刑を求刑される。東京高裁への控訴、最高裁への上告、ともに棄却され、1980年に死刑が確定した。

 昭和41年といえば僕はピカピカの小学1年生、7歳だ。現在、47歳。ということは40年間袴田氏は塀の中にいることになる。明らかに殺人を犯した人間が死刑か懲役15年かを争っているわけではない。警察の意向で証拠を捏造され、実際は無実かもしれないと思ったにもかかわらず裁判官は有罪を下したのである。いったいこれはどういうことなのか!

 メインイベントの前に、弁護士と支援者たちがリングに上がり、この事実を訴えた。支援者の一人、ボクシング協会の輪島功一会長の、くだけた、本音そのものの挨拶が胸に響いた。袴田氏は人生の半分以上を獄中で送っている。
 チラシの裏には輪島会長のインタビューが転載されていた。最近は精神に異常がみられるという。それを理由に支援者はもちろん家族の面談も許されない。
 どうやら警察も検察も大臣も獄中死を期待しているらしいのだ。

 支援って何をすればいいのか。カンパだという。会場を後にするとき千円カンパした。


 【追記】

 光市母子殺人事件の被告弁護団、特にY弁護士は、この裁判には興味ないのだろうか?


 ●「相棒」最終回スペシャルと袴田事件 2008/03/29

 先週の「相棒」最終回2時間スペシャル「黙示録」は、袴田事件の再審要求の結果が25日に出ることを予測して制作されたのだろうか?
 
 ある死刑囚が獄中死した。その解剖に立ち会った杉下(水谷豊)と亀山(寺脇康文)は19年間刑が執行されなかったことに不審に思う。独自の捜査を始めると、死刑囚は無実だったかもしれないことが判明。と、同時に、病死をきっかけに、この事件の捜査を担当した刑事と裁判時の検事が殺されていたことも。
 連続殺人事件の犯人は誰か? 死刑囚の父親(林隆三)、再審請求を続ける弁護士(ベンガル&宮川一朗太)、当時の裁判官の一人(石橋凌)……。
 最後に意外な人物が真犯人であることをつきとめるわけだが、印象的だったのはラスト。ネタバレさせてしまうが、石橋凌が犯人の無実を知りながら、他の二人の裁判官に押し切られる形で判決文を書いたことがわかるのだ。

 死刑囚とされる人物が犯した25年前の事件も袴田事件を彷彿させる。
 ドラマでは、解雇されたことを恨んだ犯人(死刑囚)が上司宅に忍び込み妻を殺害、放火したことで娘も巻き込まれてしまったというもの。
 袴田事件の概要はこうだ。静岡の味噌製造会社の専務宅が放火され、焼跡から一家4人の死体が発見された。静岡県警が工場内の従業員寮を捜査すると、従業員の部屋から微量な血痕のついたパジャマが見つかり、この部屋に住む袴田氏が逮捕された。このときの取り調べが杜撰極まりない。
 にもかかわらず、死刑が確定し、以後袴田氏は40年間獄中の身である。
 最近になって、静岡地裁で死刑判決にかかわった元裁判官が「袴田氏は無実だと思った」が、他の裁判官(一人は裁判長)が有罪を主張し、結果、死刑判決となり、判決文は自分が書いた旨告白した。
 まさにドラマの中の石橋凌である。

 それにしても、今回の最高裁の再審請求の棄却は納得できない。
 特に、袴田氏が犯人であることを決定づけた物的証拠に対する見解が信じられなかった。
 ズボンが小さくて袴田氏がはくことができなかったことについて、最高裁は「縮んだにすぎない」としている。脱力とはこのことだ。
 
 「相棒」最終回は、袴田事件の再審請求へのエールではなかったか。そして、事件を担当した刑事や検事に対して「腹をくくれ」とメッセージを送っている。まさか、最高裁で棄却されるなんてこと考えていなかったのだろう。




 先週、22日(金)は、経堂のさばの湯(雑把亭 談四楼独演会)へ。2ヶ月ぶりか。ここは開場が19時半、開演が20時だから東京のはずれで働くサラリーマンにはありがたい。金曜の夜、疲れた身体を癒してくれるゆったりまったり感も魅力。

  立川こはる 「湯屋番」
  立川談四楼 「もう半分」&「弥次郎」

 こはるさん、何度かとちったりしていたが無理もない。客席の一番うしろ、まん真ん中に談四楼師匠がいるのだから。でも、安心して観ていられる前座さん。二つ目も近い。もし勉強会(?)があったら足運ぶだろうな。
 「もう半分」、はおかみさんのキャラが大嫌いなので好きな噺ではないのだが、呑みっぷり、食べっぷりがいい。何より映像がはっきりくっきり頭に浮かぶ。「弥次郎」はギャグだけで成り立つ噺。ずいぶん前に下北沢で観た(聴いた)ような観なかったような。

 ちょっとした打ち上げ(懇親会)のあと、代々木上原へ。駅ビルの中にある居酒屋、SさんとSさんの友人K氏の飲みの席に合流する。
 K氏とは久しぶりだ。高輪に「ウルトラセブン/緑の恐怖」でロケセットとして使用された建物がある。そのころSさんが勤めていた会社の施設、社員なら誰でも借りられるということで、同好の士を集めて忘年会を開いたことがある。K氏も参加し、ウルトラ、特撮の思い出話で盛り上がった。
 六本木のライブハウスで開催した「まぐま」完成パーティーにも参加してくれたっけ。講演、映画上映、ライブ、あまりに盛りだくさんで懇親(飲食)する暇がないとのクレームもあった。三次会のカラオケまで盛大なパーティーだった。

 飲み会終了後、K氏と別れて東北沢のシアターSへ。原田芳雄氏の自宅横の道を通って行く。Sさん、昔、原田宅の隣に住んでいたこともあって、家族の交流があったらしい(松田優作氏とも)。原田宅は静かで線香の匂いが漂っていたような。
 この日のシアターSのプログラムはカラー版「ウルトラQ/宇宙からの贈りもの」。ブルーレイ(DVD)が発売される前にWOWOWで放送されたものらしい。カラーリングにそれほど違和感がなかったが、酔っ払っていて途中で寝てしまった。後半は全然覚えていない。うーむ、残念。

 翌23日(土)は、三鷹市芸術文化センター星のホールへ。Fさんご招待の落語会「古今亭菊之丞独演会」。13時30分、ホール前にいつものメンバーがそろった。

  柳亭市助「道具や」
  古今亭正太郎「寄合酒」
  古今亭菊之丞「鰻の幇間」

   〈仲入り〉

  柳家小菊 粋曲
  古今亭菊之丞「井戸の茶碗」

 今回はFさんからの案内メールで知った噺家さんだ。あわててネットで画像を見たら歌舞伎役者みたいな雰囲気だった。当然高座は初めて。
 「鰻の幇間」は談修さんが二つ目になったころ、よく独演会にかけていた。自分がだまされたことを知った主人公の幇間が鰻屋のあれこれに文句をつけるくだりで、壁にかかった額も容赦しない。談志が書いた「勝手に生きろ」。談四楼フォロワーズ大爆笑! 
 「井戸の茶碗」は談四楼師匠の、「柳田格之進」と並ぶ十八番である。演者が違うとこうもイメージが変わるのか!

 終演後、前回同様、三鷹駅前の和民で飲む。17時、オープンと同時に。
 この日はFさんの誕生日。注文を取りに来た店の人に何か誕生日の特典はないのかと訊き、なかば強引に最初の生ビールを無料にさせてしまった。
 Mさんは前日が誕生日だった。「じゃあ、私にも誕生日プレゼントを」と鞄から扇子を取り出す。「Fさん、これに何か書いてください」
 元辣腕編集者、現映画ジャーナリストのFさんは書家でもある。談四楼師匠の「寿限無のささやき」(暮しの手帖社)の表紙はFさんの筆による。Fさん、「こういうのはノーギャラだと受けないんだけど」と言いながらも万年筆で「勝手に生きろ」と書き、昨日と今日の日付と自分のサインを追加した。これがまたいい味。Wさんと僕はうらやましがるばかり。
 都々逸の「恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす」や菊之丞版、談四楼版、二つの「井戸の茶碗」談義に花が咲く。




 東電OL殺人事件。
 被害者の身体から採取された精液のDNA鑑定を行ったところ、犯人とされるネパール人(服役中)とは別人のものであり、殺害現場であるアパートの一室に残された体毛と一致した。
 昨日、この件を意外な事実が判明したというように伝える「報道ステーション」を見ながら叫んだ。
「そんなこと当たり前じゃないか! もともと冤罪なんだから」
 それにしても、なぜDNA鑑定が今なのか。どうしてもっと早く行わなかったのか? メディアも何やっていたんだ! もしかして、この遅すぎる処置、福島第一原発の問題と何らかの関係があるのではないか。東電の地位がガタガタになったから……そんなゲスな勘繰りをしてしまう。

 犯人とされるネパール人は、一審では無罪だったのだ。本人は始終無罪を主張していた。決定的な証拠もでない。〈疑わしきは被告人の利益に〉推定無罪の原則に基づいた判決だった。佐野眞一「東電OL殺人事件」の後半は、無実であろうネパール人を警察や検察がさまざまな細工をして犯人に仕立て上げようとする様を暴き出す。なんとか無実となったところでこのルポは終わるのだが、実際はとんでもないどんでん返しが待っていた。ネパール人が犯人ではないという主張は信じられないと、二審で無期懲役の判決が下されるのだ。そんなバカな!

 一連の福島原発騒動で、殺された東電OLを思い出したことがある。
 もし生きていたら、東電の現状をどう見るだろうか? それでもやはり東電を弁護するのだろうか?

 事件から14年が経過していたことに愕然とした。自分の中ではついこの間の事件という印象があったので。
 考えてみれば「東電OL殺人事件」を読んでから11年、事件にインスパイアされて書かれた小説「グロテスク」を単行本で読んでからも7年、かなりの年月が経っているのだった。
 
 以下、夕景の読書レビューを転載(誤字・脱字等訂正)します。
 桐野夏生は「グロテスク」の前に、東電OL殺人事件にインスパイアされたとおぼしき短編「デッドガール」を書いている(「ジオラマ」新潮社→新潮文庫所収)。

     ◇

2000/10/06

 「東電OL殺人事件」(佐野眞一/新潮社)

 1997年3月に起きた「東京電力OL殺人事件」は殺された女性が昼は東京電力のOL、夜は渋谷・円山町近辺を徘徊する娼婦という二つの顔をもっていたことからマスコミがいっせいに飛びついて大騒ぎとなった。
 女性のプライバシーが次々に暴かれ、そのあまりのしつこさに母親が取材の自粛を求める要請文を発表するほど。
 被害者の親の気持ちはわかる。わかるけれども、こんな〈事実は小説より奇なり〉を地で行くというか、まるで小説や映画のような(今時通用するかどうかわからないが)展開にマスコミが放っておくわけがない。空腹のライオンの檻に肉片を放り込んで、食べるなというようなもんだろう。
 被害者の女性には申し訳ないけれど、毎晩のように手当たり次第男に声をかけていては殺されても仕方ないのではないか。もちろん、だからマスコミがあることないこと書いていいのかというものでもないけど、身から出た錆というものだ。

 著者はこの事件を知って、被害者の女性にとても興味を持ち、真摯な気持ちで事件のルポルタージュを書く決意をする。事件を追及する過程で被害者女性の心のうちを明確にできればと取り組むのである。
 しかし本書を読む限りでは、女性に堕落願望があったという事実がわかったくらいで、それ以上のものはこちらに響いてこなかった。
 逆両替で何度もコンビニを訪れる、終電でパンを食い散らす、暗がりで立小便する……。何とも得体の知れない女性である。
 僕が我慢できないのは、女性の東京電力至上主義というか、自分が勤める会社に対する妙なプライドに対して。娼婦としてのプライド(たとえば自分の肉体とか、セックスの技術とか)というのならわからなくもない。彼女は勤務先の東京電力をさかんに売春相手に吹聴するのだという。有名企業に勤めることが売春と何の関係があるのだろうか。
「東京電力がナンボのもんじゃ!」と叫びたくなる。いや、東京電力がどうのこうのという問題ではない。他の有名企業でも同じこと。
 このプライドには彼女の、重役になる地位までいきながら急死してしまった父への想い、いわゆるファザーコンプレックスが要因だというのだが。

 被害女性に対する著者の思い込みが激しい分、読んでいてイライラする箇所が何度もでてくる。
 事件現場、被害者の父の故郷あるいは犯人とされるネパール人の母国等々、著者は取材で歩き回る際、目撃した風景、事象をすぐに被害者と結びつけて感慨に浸るのだ。そういう時はなぜか文章も文学的になる。
 TVでよくある心霊番組で、何も写ってはいないのに、あたかも何かがありそうに、レポーターやナレーターが言葉で煽ったりしてしらけてしまうことがままあるけれど、それと同じ思い。
「思い過ごしだよ」「考え過ぎ!」「そう感じるのはあなただけじゃないの?」
 何度も突っ込みを入れていた。(「巨怪伝」では見事に大正力の実態に迫っていたのに……) 

 本書の価値は別にある。もうすぐ21世紀をむかえるこの時代においても警察によって冤罪が作られている実際、その過程を事細かに記録したことだと思う。
 これまでさまざまな冤罪があった。しかし、それも戦前、戦後の混乱時代だからこそ起きたという認識があった。また、犯人とされた人たちは、取り調べの過酷さもあるのだろうが一度は自白をしていることが多い。
 この東電OL殺人の犯人として逮捕されたネパール人は、最後まで殺人を否定している。母国で自宅を新築するため、日本に出稼ぎにきた彼にはOLを殺したという決定的証拠はない。確かに違法滞在していた、被害者と面識があった(かつてセックスをしたことがあった)という事実はがあるけれど、それが直接殺人と結びつくはずがない。アリバイもあるのである。
 が、警察、検察はなぜか、このネパール人をどうしても犯人にしたいらしい。検察側に有利な証言をさせようと、証言者をとてつもなく時給がいい得体の知れない金融会社にアルバイトさせたりもする。
 著者はこうした警察、検察の横暴を軽やかなフットワークの取材活動で暴き出し、多分これらの活動も大いに影響をしたのだろう、ネパール人は見事無実を勝ち取るのである。

     ◇

2004/09/04

 「グロテスク」(桐野夏生/文藝春秋)  

 週刊文春連載時(2001年2月~02年9月)には毎週読んでいた。人間の負の部分をことさらクローズアップしそのいやらしさをとことんまで描写する。直木賞受賞以来作者が得意とするところだが、こういう作品を喜んで読む読者っているのだろうか。読んでいるうちにどんどん暗い気持ちになっていった。

 東電OL殺人事件にインスパイアされたとおぼしき作品。  
 語り手はスイス人の父親との間に生まれた美貌の妹に幼い時からコンプレックスを持ち嫌悪していた女。彼女が語る根っからの淫乱女の妹・ユリコと高校時代の同級生で常に一所懸命に頑張り何事も先頭集団にいなければ気がやすまらない和江という女の思い出話。
 ユリコは売春容疑で高校を中退後、その絶世の美貌を武器に数々の男と関係を結び、やがて30歳を過ぎ容貌が衰えてからは立ちんぼの娼婦となって客に殺された。
 和江は差別と嘲笑の中で高校時代を送り、大学卒業後は大企業の男社会の中で一番を目指しながらも挫折。やがて昼はOL、夜は娼婦となって街角に立つ生活を送るようになり、ユリコを殺した中国人・帳(チャン)と出会う。  
 帳は都会での成功を夢見て四川省の貧しい家を捨てた若者だった。妹と二人、手に手をとってやっとの思いで都会(広州)に出て来たにもかかわらずそこで目にしたのは厳しい現実世界。妹は高級コールガールに、自分もハイソ女の手慰みものに身を落としていく。そんな生活を一新するために組織を裏切り日本へ密入国を果たすが上陸前に妹は死亡。飽食の国日本で妹の幻影を追いながら暮らす帳の前に妹によく似た娼婦に声をかけられた。それがユリコであり和江だった。  
 小説はユリコの姉の語りによって、ユリコと和江、そしてもう一人秀才のミツルという女の子の過去・現在を描き、ユリコや和江の手記、帳の上申書が挿入される形で進む。読みながら誰が真実を語っているのか、それとも皆が嘘をついているのかわからなくなってくる。  
 当初ユリコの姉によって語られたユリコ像、和江像が、それぞれの手記によって瓦解していく。ユリコの姉の得体の知れない(精神の)醜さが二人の手記、帳の裁判時に再会することになるミツルとの会話でさらされてくるのだ。物語の〈転〉にあたる帳の上申書で浮き彫りにされた彼の貧しさからの脱出、日本への違法侵入、愛する妹との別れも本当のことなのかどうか。  

 この小説も読者の登場人物へ感情移入を拒否するものであった。ただし和江の手記に綴られることだけが胸に迫ってきた。誰からも相手にされずどんどん最悪にむかって落ちぶれていく姿、たぶん街中で出会ったら目をそむけるであろう容姿が目に浮かぶ。  
 手記の最後で彼女が望んでいたものがわかり、彼女の叫びが聞こえた気がした。これは連載時陰々滅々した気分で読み進みながらもそう感じたもので、それが本物かどうか、もう一度体験できるかどうか、確認したくて単行本を手にとったのだ。
 確かに叫びが聞こえた。そういう意味では佐野眞一のノンフィクション「東電OL殺人事件」より被害者の心情に肉薄していた、と云える。もちろんこれは小説である。フィクションであるから内容が真実かどうかなんて関係ない。昼はOL、夜は娼婦という二重生活を送った女性の心情を小説的アプローチで見事に成功したということなのだ。




 吉永小百合がオ○ニーする映画をご存知ですか?

 1975年、五木寛之のベストセラー「青春の門」が映画化された。第一部の「筑豊編」。主役のふたり、信介と織江に田中健と大竹しのぶ。信介の父親が仲代達矢、母親は吉永小百合。ふたりは再婚なので吉永小百合は継母である。父親は炭鉱夫、炭鉱事故で若くして亡くなってしまう。原作を読んでいないので、断言できないが映画は、母と子の絆を描く物語だった。
 映画の前半、夫を失った吉永小百合がある夜、ほてった身体を慰める。当時かなり話題になった。

 2年後に第二部「自立編」が映画化されて、郷里の映画館では前作と一緒に上映された。どちらも2時間を超える上映時間だから、5時間ぶっ続けで観たわけだ。
 地元の映画館は、3本上映が当たり前、それも映画と映画の間に休憩はない。続けて上映されるのである。4時間30分の上映は普通だから、5時間なんて決して苦ではなかった。
 今は……無理だろうなぁ。 

 〈中年の中年による中年のための映画〉とは封切時の批評でそう評された。金で女が買えるなんて昔のたわごとだ、なんてオレも青かったなぁ。

     ◇

1977/04/19

 「青春の門 筑豊編」「青春の門 自立編」をKちゃんと観てくる。

 「筑豊編」で感じたことは、信介や織江の恋愛ではなく、(信介の)母の愛だった。母の子を思う心、決して血はつながってはいないが、彼らはまぎれもなく親であり子である。
 「自立編」では大学生になった信介の“青春”が描かれている。この映画が中年の中年による中年のための映画であるはずがない。
 この物語は、確かに自分のそれとは似ても似つかない。第一、赤線、青線などというものは今はない。金で女が買えるなんて昔のたわごとだ。
 しかし、信介が青線で働く織江をとりもどそうと、やくざに立ち向かった時の、あの衝撃を忘れることはできない。
 「飛びたかった」信介がとうとう飛ぶことをあきらめ、地面を走りまわることにした時も何か感じた。
 決してムダではない5時間だった。




 一昨日の朝のこと。
 いつもより早めに目が覚めた。なでしこジャパン・ワールドカップの結果はもうでているだろう。まず思った。
 熱狂的なファンではないから夜中に起きて最初から観戦するつもりはない。昔、最初から観戦していて最後の最後で裏切られたドーハの悲劇を体験している。僕が観ると必ず負けるというジンクスもある。だいたい日本代表の場合、ドキドキして落ち着いて観ていられない。観たら観たでとんでもなくうるさくなる。ゆえに原則サッカーのワールドカップは結果だけわかればいいというスタンス。勝ったら決定的瞬間だけ後で何度も観ればいいと。

 TVのスイッチをつけると延長戦の後半だった。1対2で日本がリードされている。サッカーに詳しくないので、延長戦がどれだけプレーされるのかわからない。時計は12分ぐらいだったか。ああ、やはり負けか、とあきらめた瞬間、澤の同点ゴールが決まった。
 PK戦は大嫌いだ。あんなことするならサドンデスで延長戦をやるべきだ。それができなければもう運なのだからジャンケンで勝敗を決めればいい。そんな風に考える素人なので、通常ならTVを消してしまう。本当は観ていられないのだ。PK戦前のなでしこジャパンの円陣が映って気が変わった。選手みんなが笑顔なのである。負けなら負けでいいや。リラックスしてPK戦を観ることができた。
 緊張していたのはアメリカだった。まさか、まさかの結果。何度も叫んでいた。

 なでしこジャパン、万歳! 優勝おめでとうございます。

          * * *

2011/05/22

 「気になる日本語 本音を申せば」(小林信彦/文藝春秋)

 昨年度の週刊文春連載「本音を申せば」をまとめたもの。もう13冊めになるのだ。
 連載時に「B型の品格」というサブタイトルで5回にわたって書いたことがある。最初3回連続で、あとでまた2回追加されて。予想したとおり1冊にまとまった際の書名が「B型の品格」だった。
 昨年は「気になる日本語」のサブタイトルが続いたことから、これがそのまま書名になるのだろうなと思っていたら案の定だ。この線でいけば、来年は「非常事態」になるのだろうか?

 小林信彦が「気になる日本語」として言及したのは「悩ましい」という言葉。本来この言葉には「官能が刺激されて平静でいられない」という意味しかないのに、「苦悩している」「困難である」的なニュアンスで使われる場合が多いと。僕自身もチャーのかつてのヒット曲「気絶するほど悩ましい」を例にだすまでもなく、「悩ましい」といえば、一つの意味しかないと思っていたから、小林信彦の主張に大きくうなずいた。
 日本語の乱れといえば、必ず話題になる「れる・られる」の誤用。最近ではもうすっかり「見れる、出れる」が幅をきかせてしまったが(みのもんたは普通に使っている)、この言葉が問題になったときはタレントや若い人たちがまず口にしていたのではなかったか。「悩ましい」はまったく逆だ。いわゆる識者、それもある程度の年齢がいった方が使っているのを何度も目にしている。

 実際辞書には意味として「悩みの種」の類も載っているらしい。だから間違いじゃないと反論する輩もいるだろうが、問題はそんなことではない。たとえば、「やばい」という言葉、「かっこいい」「すごい」の意味が正式に辞書に採用されたとしても使う気になれない。「帰ってきたウルトラマン」のウルトラマンを「ウルトラマンジャック」として円谷プロの公式データに掲載したとしても、それがどうしたという思いに似ている。
 若いタレントが「悩ましい」を連呼するのはまだわからなくはない。いい歳したジャーナリストがしたり顔で「悩ましいですね」なんていう光景に虫唾が走る。同世代の特撮ファンが「帰マン」を「ジャック」なんて言えば軽蔑の対象だもの。
 その他、俎上に乗った言葉は「がっつり」「ムカつく」「なにげに」「こだわる」「カミングアウト」。
 〈目線〉は芸能界用語で〈視線〉とはちがう、ということもやっぱりと得心する。

 エッセイは「気になる日本語」(計7回)だけではない。映画は「ゴールデンスランバー」「インビクタス/負けざる者たち」「借りぐらしのアリエッティ」「ヒアアフター」。「上海バンスキング」の29年ぶりの再演。観たかった!!
 〈検察不況〉とコロコロ民族の項、改めて読むと、「ゴールデンスランバー」のテーマにつながるものを感じる。


2011/05/23

 「梶原一騎自伝 劇画一代」(梶原一騎/小学館クリエイティブ)

 「劇画一代」。確かさいとうたかおの本も「劇画一代」だったような。梶原一騎なら劇画(の原作)一代が正しいのに。なんて、どうでもいいことだ。
 なぜ今になって梶原一騎の自伝なのだろうと不思議に思ったら、復刊本だった。元は1979年に毎日新聞社から出版されたもの。冒頭に「あしたのジョー」をはじめとする4本の生原稿がついており、この復刊の売りとなっている(もうひとつは巻末のちばてつやへのインタビュー)。
 表紙が矢吹ジョー(「あしたのジョー」)とタイガーマスク(「タイガーマスク」)。なぜに星飛雄馬(「巨人の星」)じゃないんだ? ある方のレビューで氷解した。例の、全国にままたくまにひろがった伊達直人の善意(福祉施設へのランドセル等のプレゼント)の影響だって。
 原作を担当した劇画がことごとくヒットし、映画の世界に進出していくくだりが興味深い。三協映画の社名の由来もわかった。

 思えば、梶原一騎にとって70年代が絶頂期だったわけだ。編集者への暴行、逮捕が83年。この事件以後、さまざまスキャンダルに見舞われて、業界を干された。そして大病。どうにか死の淵から生還して、劇画原作からの引退作と銘打った自伝劇画「男の星座」を開始する。ところが、連載すぐに急逝してしまう。
 特にプロレス好きではなかったが、少年サンデー連載の「プロレススーパースター列伝」をよく立ち読み等で読んでいた。原田久仁信の絵とうまくマッチしていたということもある。同じコンビで始まったのが「男の星座」だ。
 「巨人の星」の陰にかくれて今はまったく話題にならないが、川崎のぼるとのコンビで「男の条件」という劇画があった。漫画家志望の青年を主人公にした熱血ど根性もの。コミックスの第1巻だけ持っていた(全2巻)。当時は漫画家になりたかったこともあって、こういう世界が大好きだった。
 そんな思い出があるので、「男の星座」に期待しないわけがない。梶原一騎の死を知った時とき真っ先に思ったのは「男の星座」が未完になってしまうのか、だったほど。にもかかわらず、連載中も、あるいは単行本になった「男の星座」も読んでいない。今むしょうに読みたくなってきた。


2011/05/28

 「輪違屋糸里(上)」(浅田次郎/文藝春秋)

 浅田次郎の新選組もの第二弾。詳細は(下)で。




 連休最後の今日、いつもどおりの時間に起きて郷里の太田へ。母親の墓参り。台風の影響でとんでもない雨だった。東武久喜駅ではホーム階段で雨漏りしていたほどだ。
 太田に着くと雨は小降りになっていた。無事墓参りできた。

 夕方帰宅。ネットニュースが原田芳雄の逝去を伝えていた。
「死んじゃった……」
 もし、新作映画の舞台挨拶の模様を見ていなかったら、大声だしていたと思う。そんなことありえない! スクリーンでTVで、あの独特のドスのきいた声、原田節はいつまでも聴けるものだと。何の疑いもなかった。だから、久しぶりの主演映画「大鹿村騒動記」を楽しみにしていた。 
 それが、あの舞台挨拶の車椅子姿である。

 何かで読んだのだが、渡哲也に憧れた原田芳雄がいて、その原田芳雄に憧れた松田優作がいた。かつて東北沢に黄金のトライアングルが存在していた。渡哲也の趣味が焚き火なので、原田芳雄も松田優作も焚き火を趣味にしたとも。
 最初に原田芳雄を観たのは何だったか。「赤い鳥逃げた?」か。「反逆のメロディー」という映画もあった。この映画は昨年DVDで観た。大学学祭のオールナイトで「龍馬暗殺」を観た覚えがある。復活した鈴木清順監督の「悲愁物語」はいまいちピンとこなかった。清順監督といえば、個人的には「陽炎座」だ。主演は松田優作で、原田芳雄は助演だった。シネマプラセットの第一弾「ツィゴイネルワイゼン」に主演しているが、観たのはTVだったか。
 この十年でいえば「KT」の記者、「昭和歌謡大全集」の謎の金物屋が印象的だった(たまた劇場で観た映画ということもあるが)。「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」のナレーションも忘れがたい。TVだったら「不毛地帯」の社長だろうか。

 車椅子の痩せ衰えた姿はショックだった。とはいえ、自身の企画である映画の舞台挨拶に出席することができて、お客さんから拍手をもらえて幸せだったのではないか。71歳は若すぎるけれど。


【追記】

 その1
 原田芳雄のすごいところは一貫して反体制側の人間を演じてきたことだ。石原裕次郎や渡哲也と違うのはそこだ。もちろん、年齢を重ねて普通の役もやるようになってはきたが、それでもどこか世間とずれているような立ち位置が多かった。「歩いても 歩いても」で見せた樹木希林の亭主役も、意表をついているようで、でも、らしかった。反体制側の人あるいは普通の人を演じてもどこかちょっと違うという立ち位置、ショーケンも似ているところがあるような。ショーケンの場合は反体制というより管理する側といった方がいいか。

 その2
 「タモリ倶楽部」で見せた鉄っちゃんぶり。最初は驚き、次第にかわいらしくなってきてゲストで登場するのが楽しみになった。僕自身が「タモリ倶楽部」を卒業してしまい、この1年はまったく見なくなってしまったのだが。

 合掌




 四連休二日目の昨日。
 午後NHKで「阿修羅のごとく」を放送していた。脚本・向田邦子 、演出・和田勉の傑作ドラマ。本(シナリオだったか小説だったかはっきり覚えていない)を読んだことはあるが、ドラマは初めて。
 ずいぶん前に横浜の放送ライブラリーで「阿修羅のごとく」をテーマに関係者のトークショーがあった。演出家の石橋冠が司会で、和田勉やいしだあゆみ、風吹ジュンらがゲストだった。

 「阿修羅のごとく」といえば、音楽が印象深い。とんでもないインパクトがあった。トルコの軍隊曲(?)で、和田勉が旅行したときに録音してきたものを使用したとトークショーで語っていた。
 第一話はアーカイブ枠でいしだあゆみをゲストに放送された。探偵役の宇崎竜童が、「前略おふくろ様」のサブちゃんが探偵になったらという演技で笑ってしまった。もしかしたら宇崎竜童、ショーケンを意識しているのか?
 ショーケンといえば、映画「居酒屋ゆうれい」の音楽が「阿修羅のごとく」によく似ているのだ。最初は同じ曲だと思ったくらい。

 「阿修羅のごとく」を観てから外出。中野富士見町のTHE KICHIN NAKANOへ。ドラマリーディング「ペール・ギュント」が楽日だった。ペール・ギュントの母親役で出演している南久松真奈さんからもし時間が許せばと案内を受けていて、ドラマリーディングがどういうものか、興味があったので足を運んだ次第。歌とダンスありと聞いていたけど、生演奏のミュージカルだったなんて!

 深夜に放送された「阿修羅のごとく」第二話、すっかり忘れていたよ!
 今夜は第三話なのだが忘れないように。

          * * *

2011/05/18

 「餃子屋と高級フレンチでは、どちらが儲かるか?」(林總/ダイヤモンド社)

 「コハダは大トロよりなぜ儲かるのか?」が面白かったので、あわてて借りてきた。シリーズ第一弾。「コハダは……」は第三弾にあたる。ちなみに第二弾は「美容院と1000円カットでは、どちらが儲かるか?」。


2011/05/20

 「ナニカアル」(桐野夏生/新潮社)

 女流作家と編集者の不倫関係。「IN」に続いて桐野夏生がまたしてもこのドロドロした関係を執拗に描いていく。「IN」では架空の作家と編集者だったか、本書では実在の作家(林芙美子)と毎日新聞社の編集者に仮託している。いいのだろうか? というか、この不倫は事実なのだろうか。林芙美子といったら「放浪記」しか知らない。それも森光子主演の芝居として。なので、この不倫問題については、事実に基づいたフィクションなのか、まったくの創作なのか僕にはわからない。創作だとしたら、遺族から異議申し立てが出たりしないのか。ま、天下の新潮社なのだからそこらへんはすべてクリアされているのだろうが。軍と作家の関係が興味深い。

 林芙美子が密かに書いていたノンフィクション(もしくは実録小説)という体裁なのだが、林芙美子の作品を読んだことがないから、そう見える(読める)かどうかはわからない。全体の印象としてやはり現代の作家が書いた文章というものだった。
 一つ気になって仕方なかったのは、文中にでてくる手紙だった。この小説では、まず〈○○様〉と宛名があって、本文が続く。手紙の書き方を読めばわかることだが、正しい手紙とは、本文があって、自分の名前を記して、最後に宛名となる。先に宛名を書くのは、最近(この10年、20年、30年?)のことではないか。戦時中の作家の習性として、上記のような手紙の書き方をするものなのか、どうか。
 

2011/05/21

 「70年代ノート 時代と音楽、あの頃の僕ら」(田家秀樹/毎日新聞社)

 一つ上の世代が綴る1970年代。田家秀樹ってミニコミ誌から音楽に関係していくのか。知らなかった。
 新聞連載のコラムをまとめたもの。新聞連載ならこれでいい。でも、一冊にするなら、各文章を大幅に加筆してボリュームを濃くしなければいけないのではないか。




2011/05/06

 「日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで」(長山靖生/河出書房新社)

 昔、1970年代、80年代のころまでは、エンタテインメント小説の中でSFとミステリは大きな柱だった。80年代後半~90年代以降はミステリだけになってしまった。これはミステリが直木賞を受賞するようになったことと何か関係があるのだろうか?
 今だってSFは書かれているし本も上梓されているに違いない。ただ以前ほど版元が〈SF〉作品であることをアピールしなくなっただけのこと。たとえば貴志祐介「新世界より」が上梓されたとき、誰がSFだと意識しただろうか。
 70年代初めにベストセラーになり、映画化作品も大ヒットした「日本沈没」。その続編が何年か前にやっと本になったものの、一般的にはほとんど話題にならなかった。SFを全面にだすより、ミステリ、サスペンス、アクションの要素を押し出した方が受けが良いのだ、きっと。SFが拡散していってさまざまなジャンルに吸収されていったとみるべきなのか。

 本書は以前書評か何かでメモしていたもので、図書館の棚で見つけてルンルン気分で借りてきた。
 日本でかなり昔からSFが書かれていることが理解できた。
 日本SFの元祖的存在だと思っていた押川春浪「海底軍艦」は東宝の特撮映画の原作としてインプットされている。それにしても映画と原作(小説)、まったく別ものなんですね。原作の海底軍艦は轟天という名称ではないのである。
 時代が昭和、それも40年代以降になると、うれしくなる。やっと状況が実感できるからだろう。駆け足なのだが残念だ。


2011/05/12

 「コハダは大トロより、なぜ儲かるのか?」(林總/ダイヤモンド社)

 仕事の関係で読む。
 会計関連の本を何冊も借りてきたが、専門書はやはり全然読めない。意味がわからないんだから仕方ない。そんな中で本書だけはふつうに感覚でページを繰った。意味も十分わかる。人気を呼ぶのもわかるというものだ。


2011/05/12

 「アヒルと鴨のコインロッカー」(伊坂幸太郎/東京創元社)

 借りてきたDVDの予告編に「アヒルと鴨とコインロッカー」があった。劇場公開されたときは興味がなかった。映画にも原作の小説にも。作家・伊坂幸太郎に注目するのは映画「ゴールデンスランバー」を観てからだ。映画に感銘を受けてから無償に原作を当たりたくなった(エンディングテーマの斉藤和義「幸福な朝食、退屈な夕食」はYouTubeでいつも聴いている)。でも図書館の棚にあったためしがない。だったら予約すればいいのにそこまでするつもりがない。予約する、しないの違いはどこにあるのか。そのくせ図書館に行くと必ず伊坂幸太郎のコーナーを確認することは忘れない。自分でも不思議に思っている。

 「アヒルと鴨とコインロッカー」の予告編は面白そうだった。広辞苑を盗み出すために本屋を襲撃するシーンが。広辞苑を盗んだつもりがよく見たら広辞林だったというオチ。今度機会があったらDVD借りよう。
 いつものように「ゴールデンスランバー」目当てで図書館の棚を覗くと本書があった。映画の前に小説をあたろうと思った。

 舞台は仙台。大学に入学しアパートでの一人暮らしを始めた男子大学生、椎名とペットショップで働く若い女性、琴美、それぞれの一人称による語りが交互に並びながら物語が進行する。この語りには時間差があって、椎名は現代、琴美は2年前に生きている。物語が進むにつれてある事件が浮かび上がってくる。2年前、ペット惨殺事件の犯人グループとちょっとした接点を持ったことで、琴美が犯人グループに狙われるのである。恋人(ブータン人の留学生)と女好きの元彼がいろいろ守ってはくれるのだが。
 椎名の隣人がこの女好きの元彼。同じアパートに住んでいて、失恋して落ち込んでいる外国人の友人のために広辞苑をプレンゼントしてやりたい。だから本屋を襲撃する。だから協力してくれと椎名を誘う。あまりに発想が飛躍しているが。
 次第に2年前の事件がどんなものかわかってくる。だんだん胸騒ぎがしてくる。これって最悪な結末が待っているのではないか? いやいや、もしかするとあっと驚く大逆転があって大団円に収束するとか? 
 果たして……

 一応ミステリであるから、あるトリックが仕掛けられている。このトリックにしてやられる。完全にだまされるのはうれしいものだ。現代と2年前がつながってラストを迎えるわけだ。結末はハッピーエンドではないが、読後感は悪くない。SF的手法も取り入れているからか。

 それにしても、この小説をどうやって映画化したのだろうか。仕掛けられたトリックは叙述だから成り立つものだ。小説と同じ構成でないことは確かだろう。
 別の好奇心から映画を観たくなった。




 少々遅くなったが書いておこう。
 高視聴率を記録して話題になった日曜劇場「JIN -仁-」。最初のシリーズはそれほど興味もなくて第一回しか観なかった。今シリーズは、かみサンがチャンネルを合わせたことで初回からチェックすることができた。いつのまにか亭主の方が夢中になっていたのがおかしい。
 最終回は珍しくかみサンも観ていた。
 どんな風にドラマを終結させるのか。
 江戸時代にタイムリープした仁が現代に戻ってきて、現代に生きる仁に会う。
 このシーンにかみサンが文句を言った。
「本人が対面しちゃダメじゃない」
 静かに反論。
「それは映画『時をかける少女』の中のルールだろう。このドラマはパラレルワールドを採用しているんだから」
 かみサンは納得しない。こんな展開はダメ、よってこのドラマは大したことない、と結論づけた。
「あのねぇ。もしオレがだよ、あなたが真剣に観ているドラマに同じように言ったら、怒り狂うでしょう?」
 そんな経験を何度したことか。

 ラストが原作と変えてあることは知っていた(原作は読んでいない)。
 最後まで観てこう思った。
 もしかして、このラスト、宮部みゆきの「蒲生邸事件」に影響受けていないか?
 ということで、夕景のレビューをそのまま掲載する(誤字脱字は訂正)。

 綾瀬はるかの健気さに涙がひとすじ……
 
     ◇

2000/10/02

 「蒲生邸事件」(宮部みゆき/毎日新聞社)

 この春にNHK「土曜ドラマ館」シリーズで宮部みゆきの「蒲生邸事件」がドラマ化された。予約録画したのはいいけれど、後でゆっくり観ようと思いながらなかなか再生する気になれなかった。
 小説「蒲生邸事件」が発表されたとき、作者お得意の超能力者ものとニ・ニ六事件をからめたミステリとしてかなり評判になった。ミステリファンとしては当然何の予備知識なく小説を読みたい気持ちがある。しかし先にドラマを観てしまうと、ミステリの一番の醍醐味である謎解きのスリルが味わえないので、できれば小説の後にドラマを楽しみたいと思っていたのだ。
 通常小説を映像化(映画化、TVドラマ化)をした場合、小説を先に読んでいると自分のイメージが邪魔になって純粋に映像化作品を楽しめないということがある(それに映像化作品になかなか傑作が生まれない昔からの法則もある)。
 だから通常は映像化作品を観てから原作を読む方が間違いないのであるが、ことミステリに関しては謎解きの部分の問題があって、何ともいえない。昨年度のミステリの傑作「ボーンコレクター」もまだ読んでいなく、先に映画を観ていいものなのかどうか悩んだあげく結局断念した経緯がある。
 そんなわけで、ドラマ鑑賞をずっと後回しにしていたのだが、それも我慢の限界、間違えて録画を消してしまう可能性もあるので、早いとこ小説を読まなければと思っていたところ、図書館の棚にあった次第。

 予備校受験で上京し、平河町のとあるホテルに滞在していた高校3年生が火災に遭遇、危機一髪というところを時間旅行の超能力を持つ男に助けられた。高校生はニ・ニ六事件が勃発した昭和11年の現場近くにある蒲生邸に連れてこられ、事件終結後自決した蒲生大将の死因の謎に巻き込まれるという物語。
 タイムトラベルものにはどうしても作劇上の矛盾が生じてしまう。よく言われる「未来から過去へやってきた人がもし自分の祖父を殺したらその人はどうなるのか」といった問題で、小説にしろ、映画にしろ、それぞれが独自のルールをもって対応してきた。 この「蒲生邸事件」も独自の見解を持つ。歴史は生きものであると。本当は死ぬことになっていたAをいかしておいても、Bが死ぬことによって帳尻を合わせてしまうというのだ。大胆な発想である。
 また時間旅行者がむやみに他人と接触しないように、タイムトラベルの超能力者は生まれながらにまるで負のオーラに包まれたような他人を寄せつけない陰気な雰囲気を持っているという設定もなるほどと思わせる。

 読み進むうち自決した蒲生大将が実は密室で何者かに射殺されたのではないか、犯人は蒲生邸の住人の誰かなのではないかという、宮部みゆきによる趣向を凝らした〈新本格派〉なのかと思った。
 実をいうと僕は〈新本格派〉が苦手である。ミステリ好きな友人に薦められて何冊か評判のその手のミステリを読んだけれど、トリックのために作られたリアリティの感じられない虚構世界に共感を覚えることがなかった。
 が、この〈新本格派〉の舞台を現代ではない時代、たとえば戦前や戦後の、僕が生れるはるか前に設定すると、俄然おもしろく読めることがわかった。京極夏彦の一連の作品などその最たるものだろう。
 つまり、宮部みゆきはそうした状況を鑑み、タイムトラベルの手法を使って、舞台を過去に設定することによって、世の〈新本格派〉嫌いのミステリーファンにとって違和感のない世界を展開させようとしたのではないかと。

 考えすぎでした。
 別に密室殺人事件がメインではない。謎は簡単に解明されてしまう。
 この作品の主題は時空を超えた若い男女の恋愛、というか心の触れ合いだった。
 主人公の高校生は昭和11年の蒲生邸で使用人として働く少女ふきと出会う。高校生はこの少女の行く末が心配(東京大空襲で焼死する運命にある)で、彼女を助けようと自分の時代へ連れていくか、あるいは自分が残るかしようとする。しかし、少女は未来へもどってくださいと言う。けっしてあなたのことは忘れない、あなたへ手紙を書きます、そしてあなたの時代で逢いましょうと再会する年月日、場所を約束する。高校生は昭和11年に残って人生を送ろうとする時間旅行者にふきの身を守ることをお願いし現代にもどってくる。
 果たして高校生はふきと再会できるのか? ラスト、おばあちゃんになったふきが主人公に宛てた手紙のくだりは、60年にわたる彼女の気持ちが胸にせまり思わず目頭が熱くなった。ちょうど会社の昼休みに読んでいて涙を隠すのに苦労した。

 読んでいて気になった点を……。
 この物語の時制は「ジュラシックパーク」が大ヒットした翌年となっている。実際主人公は同映画を銀座の映画館で鑑賞するのだが、銀座にそんな映画館があったのだろうか? (名画座だったら並木座があったけれど。)
 また、主人公が〈タイムトリッパー〉の謎の男と知り合って、「タイム・トラベラー」(「時をかける少女」)を話題にする。しかし、NHKの少年ドラマシリーズ「タイム・トラベラー」が放送され話題になったのは主人公が生れる4年も前、角川映画「時をかける少女」が大ヒットしたのは5、6歳の頃。映画好き、ドラマ好きとも思えない主人公がこれらの作品を知っているとは思えないのだが。

 思うに宮部みゆきはかつて心ふるわせたSFドラマ「タイム・トラベラー」を自分なりに小説化したかったのではないか。決して結ばれぬ運命にあるケン・ソゴルと芳山和子の関係を時代や設定を変えて描きたかったのではないか。
 主人公をケン・ソゴルに、ふきを芳山和子に置き換えてみればいい。ケンは和子の時代の700年後の世界の住人だったが、宮部みゆきはなんとかふたりが同時代を共有できるように約60年の時の隔たりをもって、ふたりの関係に決着をつけさせた、と見るのやはり考えすぎかな。




 本日、通常に家を出たが、真夏の日差しを浴びるともういけない。体調は徐々に変調をきたしてきて腹がくだる。途中で引き返した。

 先週の木曜日(7日)、東北沢のシアターSで「仮面ライダー THE NEXT」を観る。Sさんの自宅地下にある豪華ホームシアターだ。昭和の「仮面ライダー」1号、2号を現代感覚で劇場版リメイク、というかリボーンしたのが「仮面ライダー THE FIRST」だった。「仮面ライダー」の〈仮面〉をきちんと取り入れたことで、石森章太郎のコミックの世界により近づいたといえる。
 石森版コミックとTVとは仮面ライダーの設定が違った。コミック版の本郷猛や一文字隼人は、ショッカーに改造された超人である。一見普通の人間だが、怒ると顔にみにくい傷(?)があらわれる。この傷を隠すため仮面を被るのだ。
 TV版は単純に変身することで超人になる。その変身も初期(藤岡弘主演のライダー1号)はライダーベルトが風の力を得て、という設定。ところが、藤岡弘が事故で降板、佐々木剛に交代すると変身シーンも大きく変わる。佐々木剛演じる一文字隼人(ライダー2号)は「へんしん!」の掛け声ととともにある決まったポーズをとって変身するのだ。この変身が子どもたちの人気を呼んだ。変身ブームの到来だ。怪奇色から明朗活劇への路線変更も一因かもしれない。

 ところで、仮面ライダーはジャンケンでいえばいつも後だしだということをご存知だろうか。
 1971年は「宇宙猿人ゴリ」vs「帰ってきたウルトラマン」の戦いで漁夫の利を得た。1980年代では「ウルトラマン80」のあとずいぶん経ってから「仮面ライダーBLACK」が始まった。「80」は一作で終了したが「BLACK」は続編(「BLACK RX」)が制作された。以降、ウルトラマンは後発の仮面ライダーに出し抜かれる結果となる。
 平成ウルトラマンが人気を呼ぶと「仮面ライダークウガ」が登場する。この「クウガ」に始まる平成仮面ライダーシリーズは一度も途切れることなく今も続いている。より原点に近い劇場版「ULTRAMAN」が公開されると、これまた「仮面ライダー THE FIRST」が。
 「ULTRAMAN」の興業成績が芳しくなかったため円谷プロが苦肉の策で昭和と平成の世界を一緒にした劇映画を作れば東映もまたしかり。後だしの意味をわかっていただけたでしょうか。

 続編の「仮面ライダー THE NEXT」にはV3が登場する。「仮面ライダー THE FIRST」は狙いは悪くなかったが映像がショボかった。続編は低予算を見せ方でかなり面白くしている。ホラー色とスローモーションで魅せるワイヤーアクションで。
 なのに、天下の東映でシリーズにならなかったのは、やはり昭和のファンに受け入れられなかったからか。

【追記】

 本郷猛や一文字隼人、風見志郎がヘルメットのように仮面を装着するのはいいのだが、そのあとに顎にパーツをセットするのが何ともダサい。仮面を被ると仮面から顎の部分にパーツが伸びてきてセットされるのをCG処理すればいいのに! これ、前作のときから思っていた。

     ◇

 ●原点回帰/ウルトラマンマックス 2005/07/05

 先週からウルトラマンシリーズの最新作「ウルトラマンマックス」が始まった。前作「ウルトラマンネクサス」が不評、低視聴率のため、1クール早く打ち切られての措置である。

 「ネクサス」の最終回は残りの1クール分を1話で描いてしまうという離れ業を見せた。あまりにも駆け足で展開に唐突な印象がまぬがれないが、最初の1クールの伏線、謎がちゃんと活かされていて、それなりに満足のいく最終回ではあった。せめて3話くらいでじっくりと描ければ…… まあ方向転換しなかっただけでもよしとしよう。

 シリーズの中の異色作である「ネクサス」は、当初のアプローチ(視聴者への提供の仕方)を間違えたのが痛い。最初はそれこそ1話完結で始めるべきだった。固定視聴者がついたあたりから、雰囲気もダークにさまざまな伏線をはり連続モノのスタイルに変更していけば、印象もかなり違ったものになったのでは? 誰とは言わないがキャスティングにも慎重を期すべきじゃなかったか。若手で魅力ある役者(特に女優)が少なかった。
 映画「ULTRAMAN」との世界観を共有させるなど、風呂敷を広げすぎた感もある。

 きちんとラストまで描いたとはいえ、やはり途中退場は残念。
 真の敵ボスは防衛チームのメンバーの一人だわ、女性隊員がウルトラマンに変身する(番組の中での)3番めのデュアリストになるわ、これまでのシリーズでは考えられなかった斬新な意外性にとんだストーリー。こういうウルトラマンを私は待ち望んでいたのだから。
 以前書いた私がウルトラマンのシリーズ(別にウルトラマンでなくてもいい、新ヒーローということ)で期待した要素がかなりこの「ネクサス」には取り込まれている。そう考えると、1年間、51話で成り立つ「ネクサス」を観たかったというのが正直な感想。

 で、「マックス」である。円谷プロは起死回生を賭けて原点回帰を目指しているという。
 明るく単純なストーリー。M78星雲の宇宙人という設定。過去の人気怪獣の登場。これで失敗したら後がないというスタッフたちの意気込みが波打っている。果たしてそれでいいのかという疑問がなきにしもあらずなのだが。
 円谷プロの原点回帰は今に始まったことではない。1970年末に放映されたアニメ作品「ザ・ウルトラマン」も当初原点回帰が叫ばれた。恐竜型の怪獣、魅力的な防衛チーム、1話完結のストーリー、レギュラーにはカネゴン型ロボットがいたし。
 しかし、後半からイメージが大きく広がりだし、アニメでなければ表現できないエピソードが目白押しだった。私はアニメのウルトラマンなんて認めたくはないのだが、後半のエピソードだけでも「ザ・ウルトラマン」の存在意義があると思っている。
 「ウルトラマンティガ」の後番組「ウルトラマンダイナ」も原点回帰と言われた。結果は当初の方向性とはまるで違う着地だった。だからこそ拍手喝采したのだが。
 とにかく何かというと原点回帰だ。そこまでいうのなら、本当に初代のウルトラマンをリメイクすればいい。

 新番組「ウルトラマンマックス」は局も円谷プロもかなり力を入れている。何しろ「ネクサス」の打ち切りが決まってからというもの番組の最後で必ず番宣流していた。怪獣デザインのコンテストを実施したり、親子試写会を開催したり。もうなりふりかまわずという感じ。
 私はというと、これできれいさっぱり「ウルトラマン」を卒業できると思っていた。40代半ばでやっとウルトラマンの世界から離れられると。
 ところが、今度の新シリーズ、監督に金子修介や三池崇史が参加すると聞いて、冷静でいられなくなった。


 ●王道の王道/ウルトラマンマックス 2005/07/06

 この年齢になると、原点回帰のウルトラマンには興味ない。着ぐるみの怪獣とウルトラマンの戦いなんて飽きてしまった。メカニック描写、組織の中の人間描写。そういうのが見たい。
 だいたいマックスの造形はセブンにダイナの角(?)をつけただけではないか。マスクはセブンなのにウルトラマンという名称もどうかと思う(映画のウルトラマンジャスティスもそう)。まあね、「ガイア」以降マスクのデザインについてはもろ初代ウルトラマンそのものを流用しているからたまには気分を変えてセブンなんでしょうか。

 かつての人気怪獣の再登場なんてその造形に裏切られるだけである。「帰ってきたウルトラマン」に登場したバルタン星人Jr、ゼットンを見るがいい。M78星雲の宇宙人という設定にも抵抗があった。第二期ウルトラ(マン)シリーズで、第一期ウルトラのそれぞれ独立した世界観を壊され憤慨した者としては、M78星雲やウルトラ兄弟にふれてほしくない。
 黒部進(ハヤタ隊員)、桜井浩子(フジアキコ隊員)のレギュラー出演もなんだかなあという感じ。

 一話完結、簡潔明瞭なストーリー展開はわかるとして、そもそも番組の主要ターゲットである今の子どもたちにとって、過去の人気怪獣やM78星雲の宇宙人なんていう設定が必要なのだろうか。もっといえば、巨大な怪獣やウルトラマンを求めているものだろうか。しょせん、子どもたちの親に対するアピールでしかない。自分たちがかつて夢中になったのだから、今の子どもたちも夢中になるにちがいないなんて考えているのではないか。大きなお世話である。もしかすると巨大な怪獣やヒーローなんて過去の遺物かもしれないのだ。ある世代から下にとっては。

 昔ながらの特撮ヒーローもの、ウルトラマンなら観てグダグダ文句を言うだけ。だったら観なければいい。だから卒業! そう決心したのに金子監督や三池監督が参加すると知って、気が変わった。
 
 初回は金子監督。タイトルから初代ウルトラマンを意識した作り。ラストは〈○○怪獣×××登場〉だもんな。
 内容はシンプル。防衛チームの紹介、異変、怪獣出現、主人公と防衛チームの出会い、主人公とウルトラマンの遭遇・合体、ウルトラマン対怪獣、主人公の入隊。ソツなく定番ドラマをまとめている。ヴィジュアルはかなりインパクトあった。
 光の巨人の命名の仕方なんてイデとハヤタの会話の再現。「なぜウルトラマンマックスなの、別にウルトラマンでいいじゃない! マックスがうしろにつく理由を教えてくれ」と突っ込みたくなる。
 
 何はともあれ、当分土曜日7時半の録画予約は続きそうである。嗚呼!




 この前、DVDで「劇場版 仮面ライダー響鬼と七人の戦鬼」を観た。初めての鑑賞。時代劇ということで期待していたのだが、残念な出来だった。TVシリーズの世界観は無視。七人の仲間たちはまるで「龍騎」のライダーたちのようだった。
 劇場版はTVとプロデューサーが違う。「アギト」以降ずっと平成仮面ライダーシリーズを牽引していた白倉プロデューサーが担当していた。「響鬼」は「クウガ」以来の高寺プロデューサーの作品なのである。

 「仮面ライダークウガ」……高寺プロデューサー
 「仮面ライダーアギト」……白倉プロデューサー
 「仮面ライダー龍騎」 ……白倉プロデューサー
 「仮面ライダー555(ファイズ)」……白倉プロデューサー
 「仮面ライダー響鬼」 ……高寺プロデューサー

 ということになる。「555」と「響鬼」の間には「剣(ブレイド)」があるのだが、主演のイケメン俳優の演技が耐えられなかったので観ていない。
 その流れで「響鬼」も最初の数話は観ていなかったのだが、一度チャンネルを合わせたら見事にハマった。その世界観、キャラクターに。
 が、途中でプロデューサーが更迭された。おもちゃが売れなかった、制作費がかかりすぎた。原因についてあれこれ噂されたが、本当のところはわかっていない。その後プロデューサーは白倉氏になった。大幅な路線変更とはならなかったが、それでもやはりテイストは違う。この劇場版が好きなファンには受け入れられただろうが。

 高寺氏はその後東映を退社、角川書店に移籍して新たなTVシリーズに始めた。タイトルは「大魔神カノン」。夜中の3時半からの放送で一度も観ることができなかった。録画すればいいのだが、できなかた。うちにはビデオもDVD(ハードディスク)レコーダーもないのだ。
 同時期「MM9」というSFドラマがあった。怪獣出現を自然災害として扱い専門の部署が対処するという物語(原作・山本弘)。こちらも夜中の2時過ぎの放送。仕方ないので、目覚ましをかけて視聴していた。
 ちなみになぜ角川で「大魔神」と疑問をお持ちのあなた。大映は角川映画に吸収されたんですよ。
 『「仮面ライダー響鬼」の事情』を読んで知るのだが、今、何よりおもちゃが優先されるのね。番組の企画で最初にクリアされるのはB社でどんなおもちゃを作るのか、販売するのか、なのだから。

 以下はmixiに書いた文章だが、特撮のカテゴリで扱う。

     ◇

 ●わが心のオリビア・ハッセー 2005/07/09

 先週だっただろうか、早朝ワイドショーの芸能ニュースでオリビア・ハッセーが来日していることを知った。新作映画でマザー・テレサを演じたという。布団の中で音声だけを聞いていたこともあり、本人(会見模様)をこの目で確認することはできなかった。
 現在の容姿がどうなっているのか知らないが、オリビアのマザー・テレサはとても似合っているのではないかと思った。
 その後、(私が知っている限り)どこのメディアも取り上げていないので、残念な思いをしていたのだが、昨日発売の週刊文春、阿川佐和子の対談記事、な、何とオリビア・ハッセーがゲストではないか!
 写真を見る限りでは昔と全然(なわけないけど)変わっていない。ストレートの長い髪もそのまま。うれしかったなあ。

 今、「ロミオとジュリエット」といえば、レオナルド・デカプリオのそれを指すようだが、私にとって、いや、ある世代にとってはオリビア・ハッセー&レナード・ホワイティングが主演した「ロミオとジュリエット」だろう。
 スクリーンに登場したジュリエット(オリビア・ハッセー)を見て劇中のロミオ(レナード・ホワイティング)だけでなく、客席の私もドキドキしてしまったもの。愛くるしい瞳、ちょっとハスキー声。あの心のときめきは30年以上経った今でもはっきり憶えている。
 
 オリビア・ハッセーはその後「失われた地平線」、「サマータイム・キラー」に主演したが、あまりパッとしなかった。代表作は「ロミオとジュリエット」だけ。でも、と私は思った。1作だけで消えていったっていいではないか。その作品の中では永遠に輝いているのだから。そういう女優(男優)がいてもいい。本人にとっては不本意だろうが。

 オリビア・ハッセーが角川映画「復活の日」に出演すると聞いたときはうれしいと同時に、ちょっと残念な気持ちもあった。
 草刈正雄の相手役だったアメリカ人女優がすごいわがままな性格で現場が混乱、すぐに降板させられて、その代役としてオリビア・ハッセーに白羽の矢がたった(のだと思う)。確かに黒い髪、黒い瞳のオリビア・ハッセーにぴったりの役ではあった。

 カネボウ化粧品のCFに抜擢され、テーマ曲「君は薔薇より美しい」を歌った布施明とできてしまって結婚した時の気持ちを何て書けばいいか。
 敗戦が決まって人間宣言した天皇を見る軍国少年の気持ち……違うか。裏切られたショック。そりゃないよってな感じ。
 決して手の届かないと思っていた天上界の天女が、実は同じ世界に住む女性だった。本来なら喜ぶべきことなのに、この場合は逆。オリビア・ハッセーが汚された感じがしたのである。
(布施明さんすいません、私は子ども頃からあなたの歌が好きでした。「積木の部屋」はカラオケでよくうたいます。でもそれとこれとは話が別です)

 離婚のニュースはとくにどうという感情はわかなかった。その後オリビア・ハッセーの話題を耳にすることはなかった。表舞台からあっさり消えた印象がある。女優活動は続けていたのだろうか。
 映画の出来の如何にかかわらず公開されたら真っ先に劇場にかけつけよう。同窓会で中学時代の意中の彼女に会う心境だな、まるで。


 ●響鬼とは何ぞや? 2005/07/14

 オリビア・ハッセーが東京滞在中、ホテルのTVで「仮面ライダー響鬼」を見たらさぞびっくりしただろう。「響鬼」のエンディングテーマは布施明がうたっているのである。

 「クウガ」から始まった平成仮面ライダーシリーズは「響鬼」で6作めになる。
 よく続くものだ。続くだけではなく、作品ごとに新しいことに挑戦している。70年代の東映等身大ヒーロー作品を知る者にとって、ストーリー展開やヴィジュアルは(技術的な問題はともかく)驚異的ですらある。

 悪の軍団がいて、幹部が見得を切り、怪人が悪巧みをする。ライダー登場! 必殺ライダーキック(パンチ)の同ショット3回つなぎ、なんていう稚拙な(中学時代、このカッティングが大嫌いだった)なんて演出はもやは存在しない。カメラワークやカッティングが実にスマート。昔の東映色は、ない。
 円谷プロが訴訟問題やお家騒動、はたまたウルトラマンシリーズの位置付けで右往左往やっているのを傍目にわが道を行く王者の貫禄がある。形勢が逆転した感じ。
 円谷を〈えんたに〉と読み、リアルタイムで「ウルトラQ」から追いかけてきた円谷プロファンとすると、少々いやずいぶんつらいものがあるのだが……

 こちらが旧「仮面ライダー」に思い入れがないということもある。もろ仮面ライダー世代の5歳下の弟はこんなの仮面ライダーじゃないと斬って捨てた。仮面ライダーマニアを自認する某プロレスラーも平成のシリーズを写真週刊誌で批判しているのを目にしたことがある。

 思い入れがないからこそ見えるもの、感じるものがある。
 故石森章太郎氏がテレビ番組の企画を目的に設立した石森プロが平成シリーズにどの程度絡んでいるか知らない。もし本人がご存命ならば「クウガ」「アギト」の出来に喜んだに違いない。こういうドラマをやりたかったんだよ、なんてコメントを発したのではないか。原作のコミックを読めば、TV番組との相違、石森氏がヒーローもので何をやりたかったのか、わかるはずなのだ。そう考えた場合「クウガ」「アギト」で、原作・石森章太郎のクレジットはとても意味がある。「555」も底に流れるテイストは同じ。
 しかし「龍騎」はあきらかに仮面ライダーではなかった。たぶん「剣(ブレイド)」もそうではないかな。
 不思議なことにそういう作品は劇中で仮面ライダーの名称を連発する。(「クウガ」「アギト」「555」では劇中一切仮面ライダーの呼称がない)

 前作の「仮面ライダー剣(ブレイド)」は、2話までつきあってイケメン俳優の演技の未熟さに嫌気がさして観るのやめてしまった。
「響鬼」がスタートする時なんて、「今度こそ仮面ライダーじゃないだろう」と特撮雑誌を立ち読みしながら叫んでしまった。もちろん心の中だけど。
 造形がすでに仮面ライダーを逸脱している。おまけに響鬼は太鼓を打つバチが武器なのである。純和風の戦士! なんじゃ、そりゃ。
 ほんとに、仮面ライダーなんて冠、いらないだろう。


 ●鬼っ子ライダー 響鬼 2005/07/18

 響鬼はまったく仮面ライダーではないけれど、その造形に惹かれるものがった。フォルムそして全身から醸し出す光沢感。機械のイメージが前面に押し出されている。

 第1話は見逃した。チャンネルを合わせたのは3話からだった。
 前作で新人イケメン俳優のデメリットがわかったのか、中堅俳優の細川茂樹を主人公に起用している。この俳優さんがいい。肩の力が抜けていて、でも手を抜いているわけではなく、観ていてホッとする。

 これまでの法則に逆らって、一番仮面ライダーの世界に遠いのに、劇中に仮面ライダーの呼称はない。ドラマの中では日本各地に出没する魔化魍を退治する〈鬼〉と呼ばれるヒーローだ。仲間がいる。トランペットを武器にする威吹鬼、エレキギターを武器にする轟鬼のほか、斬鬼、弾鬼など。音撃戦士と言われる所以である。

 彼らを取りまとめているのが〈おやっさん〉と呼ばれる立花勢地郎。演じるのは下條アトム。下町で団子屋〈たちばな〉を営んでいる。いやはやこれが本当の四代目おいちゃんですな。
 この店の地下が基地となっていて、娘たちも父親に協力、敵の分析やら武器の開発なんかを担当している。
 音撃戦士〈鬼〉は徒弟制度をとっていて、弟子を一人抱え、戦うときはいつも一緒。たとえば、轟鬼の師匠は斬鬼であり、普通弟子は師匠と同じ名を名乗るのだが、なぜか轟鬼となった。
 では響鬼の弟子はというと、今のところいない。弟子っぽい少年がいて、これが高校生の明日夢くん。響鬼と明日夢の交流がもうひとつの見どころだ。

 聞いた話によれば、東映は石森プロに今回の企画にあたって、仮面ライダー(の冠)返上をお伺いにいったそうだ。ところが石森プロの方から「仮面ライダー」を使ってほしいと言われたとのこと。
 本当なら「音撃戦士・響鬼」にでもなるはずだったのかもしれない。

 ヴィジュアル的な面でいうと、漢字をインサートするカッティングが斬新。その場の雰囲気を端的に表現する文字、たとえば「怪」とか「幻」とか、ポンと入ってくる。飯野歩監督が「失われしモノたち」で英文(アルファベット)をそれこそ感覚的にディゾルブさせていたけど、あの感じ。
 敵の魔化魍がすごい。体長、20、30メートルの怪物なのである。巨大生物と等身大ヒーローの戦いにかなり燃える。CGの出来はそれなりではあるのだが。

 そんなわけで、せっかく「仮面ライダー剣」で離れることができた日曜朝8時のビデオ録画のセットをまた行うことになってしまった。
 かみサンと娘の軽蔑の視線に耐えながら……




 一昨日は帰宅時川口駅で降りて中央図書館へ。
 借りていた本を返却し、読めなかった1冊を借り直す。小説の棚を覗く。「ゴールデンスランバー」(伊坂幸太郎/新潮社)を発見。あわてて手に取りカウンターに向かった。映画を観てからというものずっと気になっていたのだ。読みたくても棚にあったためしがない。だったら予約しろよ! 
 「マイ・バック・ページ」は次の返却時に予約するつもり。

 図書館をあとにして近くのさくら水産へ。冷酒をひっかけながら「落語評論はなぜ役に立たないのか」を読了してしまおうと思ったのだ。つまみは軽くのつもりだったが、考えが変わる。このあとMOVIX川口で「SUPER8」観よう! 焼うどんで腹ごしらえしてからかみサンに「遅くなる、夕飯いらない、ごめんさい」メールして、いざシネコンへ。本は読了した。

          * * *

2011/07/04

 「SUPER8/スーパーエイト」(MOVIX川口)

 期待したほどの映画じゃない、という評判を耳にしていた。自分の中では「世界侵略:ロサンゼルス決戦」(上映延期)、「スカイライン -征服-」とともに、楽しみにしていたVFX映画だったので、少々心配していたのだが、なかなかどうして、かなりハラハラドキドキさせてくれる。
 J・J・エイブラムズ監督がスピルバーグ映画へのオマージュを捧げたということで「E.T.」みたいな内容を想定していると、ちょっと面食らうかもしれない。まあ、「E.T.」みたいな映画ではあるのだが、全体のイメージは「未知との遭遇」だろう。クライマックスまでの、米軍が何か得体のしれない活動をしていてそこに主人公たちが巻き込まれていく展開が。郊外の住宅地が戦場(のよう)になってしまうヴィジュアルに恐怖した。

 父子愛、父娘愛、思春期の恋愛感情等々の描写もさりげなく挿入していて悪くない。ここぞというところでグっときた。親と子が手を握り合うというショット。ただ、父と娘が手を握ってお互いの想いを強調するという演出は金子修介監督が「ガメラ 大怪獣空中決戦」でやっているんですよね。それが最初かどうか知らないけれど。

 8ミリ映画全盛時に時代を設定、少年たちが映画制作に取り組む姿が、自分たちの小学6年~中学時代にダブってくる(時代はずいぶん違うけれど)。僕らの場合は、フジのシングル8だった。お年玉を貯めて6年生のときに念願の8ミリカメラを購入した。コマ撮りやハイスピード撮影ができるやつ。特撮映画、アニメ、記録映画、SF映画。さまざまなジャンルに取り組んだ。ほとんど失敗したのだが。
 そんなわけで8ミリカメラにはかなり親しんだといっていい。

 だから、予告編を初めて観たときから気になっていた。
 少年グループが撮影をしていると、目の前で貨物列車とクルマの正面衝突という大惨事が起きる。皆あわててその場から逃げ出す。カメラマンもカメラはその場に置いたまま後を追う。はずみで床に倒れるカメラ。倒れたままフィルムはまわっている。翌日カメラを回収して現像に出す。フィルムには得体の知れない不気味な生物が写っていた……。
 というプロローグに。

 8ミリカメラはカメラを構えて指でシャッターを押す。押すとフィルムがまわって撮影が始まる。指を離すと止まる。8ミリカメラの機能はそういうものだ。
 つまり、カメラから手が離れた時点で撮影はストップしてしまうというわけだ。なのに劇中では倒れてもカメラはまわっている。なんだ? それ。ビデオカメラじゃないんだからさ。
 もしかして、シングル8と違ってスーパー8のカメラはそういう機能だったのか? 学生時代にスーパー8で映画を撮っていた方にも確認してみた。同意見だった。予告編だから詳細を省いたのか? 劇中ではなんらかのフォローがあるのかと思っていた。カメラが倒れてシャッターのところに何か物があたってそのままになったとか。まったくフォローなし。
 プロデューサーのスピルバーグは確信犯か。8ミリ少年だったのだから知らないはずがないのだ。まあ、8ミリと聞いて8ミリビデオを想像する世代、というか、8ミリビデオの存在すら知らない世代が主要な観客なのだから問題ないのかも。
 あの時代なら、8ミリで同時録音というのもありえない。アフレコが当たり前だった。

 描かれている時代はいったいいつなのだろう? 映画を観ながら始終考えていた。ウォークマン、ルービックキューブの発売後、ソ連が崩壊する前ということはわかる。77年から91年の間。8ミリフィルムによる自主映画が王道だった時代。80年前後か。エンディングロールでザ・ナックの「マイ・シャローナ」が流れてきて79年~80年だと特定できた。
 ちなみに、エンディングロール、少年たちが作ったゾンビ映画が上映される仕掛けになっていた。目は映画を追いかけていたから、クレジットの方はまるでチェックできず。
 それにしても、モンスター(?)に関して、エイブラムズは蜘蛛型に執着している。「クローバーフィールド HAKAISYA」(エイブラムズはプロデュース)にしても、この映画にしても同じイメージ。デザインにちょっとがっかりしたりして。


 【追記】

 それに、8ミリフィルムはそんなに感度がよくないから、夜の撮影で何の照明もなければ現像したフィルムは真っ黒けだろう。それこそ最近のビデオ(HD)カメラと違うのだから。




 今日、ネット検索していて竹内博氏が亡くなったことを知った。6月27日に死去。死因は多臓器不全だという。
 特撮映画・特撮TVドラマのライター、編集者、評論家、研究家の第一世代。とはいっても年齢は僕とそんなに違わない。
 だから余計にショックだ。
 今調べた。享年55。えっ! 酒井敏夫ってペンネームだったのか! 知らなかった。
 夢中でその手の記事、評論を読んでいたころ(高校~大学時代)は円谷プロ出身のライターというぐらいの認識しかなかった。02年に自伝風の著書「元祖怪獣少年の日本特撮映画研究四十年」を読んで、いろいろと複雑な人だとわかった。竹内氏の師匠にあたる大伴昌司氏も生前仲間から特異な存在に思われていたらしい。毀誉褒貶が激しい。竹内氏も同様みたいだ。と竹内氏の死に触れたブログ等を読んで思った。
 最後の仕事は「定本円谷英二随筆評論集成」の編集か。早く読まなければ。

 以下夕景の読書レビューを転載する(誤字脱字は訂正)。

 合掌


 文中に出てくる書泉ブックドームは数年前に閉店している。丸井撤退後のビルをまるまる使ってオープンしたのに、売上が芳しくないのか、徐々に売り場面積を縮小していき気がついたら閉店。
 藤正樹は「スター誕生」出身の演歌歌手。紫の学生服がデビュー曲の衣装だった。歌は上手かったがヒットに恵まれず消えていった。

          * * *

2002/03/16

 「元祖怪獣少年の日本特撮映画研究四十年」(竹内博/実業之日本社)  

 さまざまな特撮研究(解説)本が氾濫し食傷気味になっている。今はほとんど地元にある書泉ブックドームの特撮コーナーで立ち読みするだけにしているが、本書を見つけた時は朝日ソノラマの「ファンタスティックコレクション」シリーズ、「宇宙船」に出会った頃(70年代後期から80年代初期)の気持ちが蘇った。  

 著者は第三期ウルトラ(マン)ブームの立役者の一人という印象が僕にはある。それまでウルトラシリーズ等の特撮番組(映画)のメイン視聴者であった少年が大きくなって、番組(作品)を研究、評論する立場に転じた。「ファンタスティックコレクション」と銘打ち、第1期ウルトラシリーズを特集したムックを書店で見かけるようになったのが高校生の頃。夢中で買い求めた。大学1年の冬に特撮専門雑誌「宇宙船」が創刊された時は歓喜したものだ。  
 「ウルトラセブン」の12話が差別問題で欠番になったこと、「帰ってきたウルトラマン」のムルチやレオゴンのエピソードがファンの間で〈11月の傑作群〉と呼ばれることなどをこれらのムック、雑誌に教わった。記事で池田憲章、中島紳介等とともによく名前を目にしたのが著者の竹内博だった。  
 現在は特撮関係のライター、編集者として活躍しているが、もともとは円谷プロの社員だった。ずいぶん前になるが、彼が中学を卒業してそのまま円谷プロに入社したことを知ってびっくりしたことがある。僕とそれほど年齢は違わない(4歳上)。僕らの世代で中卒でマスコミ業界に就職する人がいるのかという驚きである。高校に進学したものの中退したとか、職人(コックとか)になるためというのならわからないではない。が、こういうケースは珍しく思えた。円谷プロは職人の集まりではないかと言われれば、まあそうなのかもしれないが。
 その頃の写真も掲載されている。以前から思っていたのだけれど、著者って藤正樹に似ている。    

 本書に興味を持ったのは特撮本の第一人者がどう特撮(怪獣)映画に出会い、どういう考えで、業界へ入っていったのか、という点につきる。  
 第一章~六章まで著者の半生記ともいうべきもので特撮(怪獣)映画に対する趣味嗜好がよくわかる。
 初めて観た怪獣映画が「キングコング対ゴジラ」であり、ゴジラシリーズの最高傑作だと言い切っている。次に公開された「モスラ対ゴジラ」は再鑑賞するまでそれほど認めていない。世代の違いというか、怪獣映画は初めて観たものにその後もすごく影響するものだと改めて思った。  
 僕自身の「キングコング対ゴジラ」に対する評価はそれほど高くない。この映画は小学生時代に「東宝チャンピオンまつり」の1プログラムとして地元の映画館で上映される予定だった。公開前に友だちとどちらの怪獣を応援するか言い争い、かなり楽しみにしていたのに、映画館にかけつけるとなぜかすでに観ている「キングコングの逆襲」に変更になっていた。以来、幻の映画になってしまった経緯がある。上京してからTVと名画座でそれぞれ鑑賞することができたが、キングコングの造形の拙さに一歩も二歩も引いてしまった。僕にとっては初めて観たゴジラ映画「モスラ対ゴジラ」こそやはり最高傑作だと今でも思っている。

 第1期ウルトラシリーズでも「ウルトラQ」を「今観たら半分は腐っている」と書いていて驚いてしまう。もちろん「Q」を評価していないわけではない。
 わからないのはそうやって現在からの視点で「Q」について語っているのに、「ウルトラマン」の実相時監督作品を「はっきりいってあまり面白くない」と断言してしまう態度なのだ。子ども時代に観た印象としてはそれでいいかもしれない。だが、再放送されるのを繰り返し観て、それでも評価は変わらなかったのだろうか。
 僕なんて放送当時ウルトラマンを冒涜していると憤った「空からの贈り物」なんて、大人になって逆に評価が高くなったのに。「ウルトラセブン」でも著者が否定する怪獣やセブンがあまり登場しない、よく理解できなかったエピソードについては、中学、高校と再放送のたび面白くなり夢中になっていった。
 著者と自分の嗜好の違いが歴然としてしまって釈然としない。いや別に個人の趣味嗜好にあれこれいうつもりはないのだけれど。
 考えてみれば僕が今でも受け入れられない「ウルトラマンタロウ」を〈現代のおとぎ話〉とわりと早く評価したのは著者だった。  

 釈然としない、といえばあるくだりで現在家族との交流がないと書いており、中学を卒業して円谷プロに入ったのは家庭環境の悪さが関係しているとある。いったいどういう家族関係なのか、それほど複雑な家庭環境だったのか、と驚きを隠せない。それ以上詳しく書いていないので余計心配になった。  

 映画やTVの特撮モノに夢中になった著者はやがて自分で怪獣図鑑を作ることになる。〈怪獣博士〉の誕生だ。  
 怪獣図鑑は子どもの頃ぜったいはずせないアイテムだった。鳥や動物の図鑑よりまず怪獣、といった塩梅だった。確か金子修介監督も自分なりの怪獣図鑑を作っていたような。  
 この怪獣図鑑がとりもって円谷プロへ出入りするようになり、社員になる。そこで知遇を得るのが怪獣図鑑の構成を担当していた大伴昌司だ。
 当時の怪獣図鑑には必ずこの人の名がクレジットされていて僕には特別の存在だった。この人も若くして亡くなってしまった。
 後年著者は関係者の証言で構成された「OH!の肖像」という本を編集するのだが、面白い(という表現はおかしいかもしれない)のは著者が大伴昌司の業績や存在をアピールするために本を編んだにもかかわらず、関係者のそれに否定的なものが多かったこと。また怪獣図鑑が円谷プロ側の逆鱗にふれたこと、代表の円谷一と大伴が仲違いしていたことをこの本で知った。

 閑話休題。  

 この大伴昌司から始まって著者にとって〈忘れ得ぬ人々〉を取り上げたのが第七章。円谷英二、香山滋、伊福部昭、渡辺明、金城哲夫、島崎博、森岩雄、本多猪四郎の面々。
 円谷プロの社員として仕事していたのだから当然とはいえ、こういう方たちと知遇を得られるのはうらやましい。  
 香山滋についてはファンとしての出会いから、その小説世界に堪能し、やがて自身で「香山滋全集」を編んだりと特に興味深かった。  
 第八章はその昔「月刊DON DON」に連載された特撮関係者を紹介する文章。すべてではないが、当時立ち読みし「こういう記事を待っていたんだ」と快哉を叫んだ憶えがある。    

 現在特撮関係書に「竹内博 編」のクレジットをよくみかける。今の(怪獣や特撮ものに興味のある)子どもたちにとって、その名前にはある種の輝きがあるのではないか。
 大伴昌司の正当な後継者といえるだろう。




 ピーター・フォークが亡くなっていた。ネットでも新聞でも訃報を見ていない。先日の朝日新聞(朝刊)に訃報に触れたコラムが掲載されて知ったのだ。認知症になったことは報道されていたので、年齢(享年83)を考えれば仕方ないのかもしれない。寂しいけれど。
 合掌

 30日(木)は日暮里サニーホテルへ。「立川キウイの真打昇進の会 ~なじみ~」。口上での圓蔵師匠、志らく師匠に小言を言ったり、談四楼師匠に怒りまくったり。面白かったなあ!

 1日の映画サービスデー。二日続いて落語会だったので今月はパスした。本当はヒューマントラストシネマ有楽町で「アリス・クリードの失踪」を観たかったのだが。


          * * *

2011/06/21

 「マイ・バック・ページ」(MOVIX川口)

  承前

 1970年前後を描いた映画にはもう一つの楽しみがある。風俗映画としての側面だ。どれだけ当時をきちんと再現してくれるか。小学校の高学年から中学時代にかけての時代は愛着もあって記憶も鮮明だ。だからこそその手の映画には期待してしまうところがある。いい加減な描写は勘弁してほしい。

 妻夫木聡は04年に公開された「69 sixty nine」でも主演している。1969年の佐世保を舞台にした青春映画だ(原作は村上龍)。妻夫木は主人公の一人である高校生に扮していた。当時を知らない世代、脚本家(宮藤官九郎)+監督(李相日)コンビによる作品として話題になった。

 翌年(05年)井筒和幸監督「パッチギ!」が公開された。舞台は1968年の京都の高校だ。
 古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう、という考えだ。別に60年代を知らなくたって、当時を舞台にした映画を撮ってはいけないなんてことはない。とはいえ、あの時代を知っている監督の方が映画にプラスαをもたらすのかもしれない。2本を観較べての感想だった。

 さて、山本敦弘監督はどう料理してくれるのか。
 冒頭、ニュース映画を使って、東大安田講堂事件の決着を伝える。画は製作会社のクレジット、音声のみ。憎い演出だな。
 原作に目をとおしたことがないので、わからないのだが、登場人物や会社名はどんな扱いになっているのだろうか。実名なのか仮名なのか。川本三郎と朝日新聞(週刊朝日、朝日ジャーナル)だけは実名にできなかったのか。映画では東都新聞、東都ジャーナル、週刊東都。いかにも仮名といった感じで嘘っぽい。今の時代、ドラマ(劇中)に毎朝新聞なんてでてくるとがっかりしてしまう。

 早すぎた(?)全共闘世代・沢田を演じる妻夫木聡は外見上はいつもの妻夫木くん。対して妄想の口先革命家・梅山(本名は片桐)役の松山ケンイチはもろあの時代を体現していた。
 脇役にリアリティがあった。沢田の先輩記者役の古舘寛治、京大全共闘議長・前園役の山内圭哉。
 東都ジャーナルデスクを演じたあがた森魚の飄々とした演技がいい。昔から役者として活躍していていたし、実際にいくつかは目にしていると思うが、こんな愉快な人だとは。
 取材源の秘匿を盾に警察の捜査協力にまったく応じようとしない沢田を恫喝する東都新聞・社会部部長の三浦友和。そこだけの出演なのに圧倒的な存在感だ。映画の中では嫌われ役なのに「まったくそのとおり!」と拍手したくなった。

 女優では梅山の恋人役の石橋杏奈が僕好み。梅山と恋人が熱いくちづけを交わしている隣室で仲間の二人が赤ヘル作りに励むシーンに笑った。思うに梅山ってオウム真理教の麻田某みたいな男だったのではないか。カリスマ性は抜群でまわりをその気にさせて計画を実行するが、警察が介入してくると、情けない行動をとる。自分で責任はとらない。すべてを他人のせいにする。梅山と沢田の関係って、麻田某と某宗教学者に似ている。宗教学者もオウム事件が発覚して名声を失った……。

 ラストで見せる妻夫木くんの涙、「軽蔑」を観ていなければもっとグッときていたかもしれない。高良健吾の泣きの演技に魅せられた後では。それにあの姿どこかで見たような気がする。「涙そうそう」の予告編だったか。記憶違いならごめんなさい。


 【追記】

 後で当時の川本三郎の写真を見ることができた。あまり70年代っぽくない。妻夫木くん、悪くないのだ。けっこう似ている。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
私家本「僕たちの赤い鳥ものがたり」
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」

神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。遊びにきてください。

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