ショーケン主演の映画の企画は、なぜことごとくつぶれてしまうのか?
 例の恐喝事件で謹慎した後、ショーケンは鮮やかに復活した。「TAJOMARU」できっちり存在感を示してくれたのだ。映画自体は、「きいちご賞」を受賞してしまいかねない出来だったけれど。
 「トーク&ミニライブ ANGEL or DEVIL」では、喉の調子もよくなって、往年のライブに近いステージを魅せてくれた。2003年のライブは悪夢だったのだ。そう割りきることができて。
 ファンは歓喜した。
 完全復活まであと少し。
 次は主演だ。映画でもTVドラマでもいい。助演じゃないギラギラする演技を魅せてくれ。

 実際、主演映画「ナオミ」の撮影が控えていたはずだ。劇中で披露するソシアルダンスを習い、その模様は週刊誌のグラビアで紹介され、「トーク&ミニライブ ANGEL or DEVIL」では先生を相手に踊ってみせた。
 にもかかわらず、いつのまにか映画は制作が頓挫。映画は牧師に扮する「朝日のあたる家」に変わっていた。その映画もその後の状況が聞こえてこない。いったいどうなっているのか。

 映画の企画がつぶれるなんてことはよくあることだ。これまでだって、ショーケン主演の企画はいくつも消えている。しかしGOサインが出れば、よほどのことがない限り(たとえば制作会社が倒産したり、出資がご破算になったり、とか)作品は完成するのではないか。「ナオミ」や「朝日のあたる家」はまだ企画段階のものだったのだろうか?

 どうしてこんな企画が通るの? こんな作品が制作されているの? 公開されるの?
 そんな映画が多い、ような気がする。
 別に香取慎吾が嫌いなわけではないが、最近の主演する映画がそんな感じなのだ。
 いいのかなあ、と思う。だって、あれではコスプレ俳優でしょう?
 映画「座頭市」にはあきれてしまった。何度でも書く。誰が香取慎吾主演で映画にしようと考えたのか。まわりは反対しなかったのか。
 「こちら亀有公園前派出所」が映画化されたときも理由がわからなかった。TVドラマが高視聴率で大人気だったというのならわからなくはない。低視聴率でなんだかんだ叩かれたではないか。低視聴率でも内容がよかったというわけでもない。
 香取慎吾が主演するなら、出資するという企業があるからなのだろう。
 結局そうとしか考えられない。

 話を戻す。
 「ナオミ」「朝日のあたる家」の挫折(なんですよね、中止になったというニュースはないのだが)は、プロデューサーが資金を調達できなかったとしか考えられないのだ。
 あくまでも個人的な推測だけれど。


 この項続く




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 夕方、高輪台のギャラリー・オキュルスへ。
 今、「アンドロギュノスの裔(ちすじ) ★渡辺温オマージュ展」を開催しているのだ。
 二井康雄さんが書き文字を出展しているということもあるが、渡辺温オマージュというところに興味を覚えた。23日(金)のオープニングパーティーに行くつもりだったが、都合でNGになってしまった。
 雑誌「新青年」の編集者・渡辺温がきちんとインプットされたのは、小林信彦の短編「夙川事件 -谷崎潤一郎余聞-」を読んでからだ。「文學界」09年7月号に掲載された小説(?)である。随筆のような気がするのだが、確か小説と紹介されていたので。谷崎邸を訪問した帰り、乗ったクルマが踏切で電車に衝突、事故死した。享年27。
 小説家でもあったのは最近知った。復刊された「アンドロギュノスの裔」(創元推理文庫)がかなり面白いらしい。薔薇十字社から出版されたハードカバー本も展示されている。薔薇十字なんていう出版社が本当にあったのか。京極堂シリーズの薔薇十字探偵社の元ネタはこれか!

 購入本
 「渡辺温全集 アンドロギュノスの裔」(渡辺温/創元推理文庫)

          * * *

2011/07/21

 「マンガ脳の鍛えかた」(門倉紫麻/集英社)

 少年ジャンプで活躍している人気マンガ家37名へのインタビュー集。〈総計15万字激白インタビュー〉とある。
 巻頭は本宮ひろ志(「男一匹ガキ大将」)で最後が秋山治(「こちら葛飾区亀有公園前派出所」)。途中が知らない漫画家ばかり。作品は知っているけれど、読んだことがないという……。いや、それならまだいい。漫画家は知らない、作品も読んだことがない、ばかりか、タイトルすら聞いたことがないなんてのもかなりあって。でも、クリエイティブ(マンガを描く、原作と書く)に関する話はどれも面白い。
 原作者へのインタビューでわかったことがある。昔、原作とは文字が主体だった。各人書き方はいろいろあっただろうが、一般的なのはシナリオみたいなものだった。それが現在はネーム(コマワリ)まで手がけることがふえてきた。マンガも進化している。


2011/07/23

 「生きる」(谷川俊太郎・松本美枝子/ナナロク社)

  生きているということ
  いま生きているということ
  それはのどがかわくということ
  木漏れ日がまぶしいということ
  ふっと或るメロディを思い出すということ
  くしゃみをすること
  あなたと手をつなぐこと
  生きているということ
  いま生きているということ
  ……

 僕はこの詩を小室等の歌で知った。フォーライフレコードを設立してリリースした2枚めのアルバムに収録されている。アルバムタイトルにもなっている「いま生きているということ」。
 このアルバムは全曲谷川俊太郎が作詞している。既存の詩に小室等が曲をつけたというべきか。山田太一脚本、田宮二郎主演による「高原へいらっしゃい」の主題歌「お早うの朝」も収録されている。
 最初友だちからアルバムを借りてテープに録音した。ずいぶん経ってからやはり手元に置いておこうと買った、ような気がする。「いま生きているということ」はたまにカラオケで歌うのだが(一人カラオケのとき)、必ず目頭が熱くなってしまう。
 本当のタイトルが「生きる」であることを知ったのはいつか。ショーケン主演でリメイクされたドラマ「君は海を見たか」(脚本はオリジナルと同じく倉本聰)で効果的に引用されたときだろうか。その後「3年B組金八先生」でも引用された。

 詩と写真のコラボレーション本。
 娘の誕生日プレゼントで買ったのだが、その前にゆっくりと頁を繰った次第。
 詩と歌に少し違いがあることを知る。



2011/07/25

 「死神の精度」(井坂幸太郎/文藝春秋)

 伊坂幸太郎の小説は、いくつ映画化(映像化)されているのだろうか。
 「陽気なギャングが地球を回す」「鴨とアヒルとコインロッカー」「フィッシュストーリー」「重力ピエロ」。「死神の精度」もまず映画として認識している。このときは作家の名前までは知らなかった。「ゴールデンスランバー」の映画を観て、やっと注目するのである。先に井坂作品のファンになっていたら、時間を自由自在に操る構成の小説をどう映像に移し代えるのか、それが気になって劇場に足を運んだのではないか。
 死神を主人公(狂言廻し?)にした短編集。
 6編を収録。

 死神の精度/死神と藤田/吹雪に死神/恋愛で死神/旅路を死神/死神対老女




2011/07/18

 「ゴールデンスランバー」(伊坂幸太郎/新潮社)

 映画を観てからずっと気になっていた。やっと図書館で見つけて借りてきた。
 伊坂幸太郎のミステリの特徴そして魅力は構成にある。なんて、「鴨とアヒルとコインロッカー」と本書しか読んでいないから断定はできないのだが。
 この小説も大胆な構成である。まずあくまでもメディアを通して入手した情報をもとに第三者から見た首相暗殺事件、及び暗殺事件実行犯逃亡を描く。続いて、すでに遠い過去(20年後)のものとなった事件を追うルポルタージュ。こうしたプロローグのあとに、何者かによって首相暗殺犯人に仕立て上げられた青年の2日間にわたる逃亡劇が始まるのだ。
 舞台は、首相公選制度ができた日本の、犯罪防止のため街のいたるところにセキュリティポッド(監視装置)が設置されている仙台。ある種のパラレルワールドなのである。この世界観がミソで、ちょっと信じられないような設定や展開でも、許せてしまうから不思議。個人的なことだといわれればそのとおりだけど。

 以下は、別の項ですでに書いたことだが、ここにまとめておく。

 21世紀になっても冤罪はある。足利事件や郵便不正事件がいい例だ。
 郵便不正事件では厚生労働省の元局長が、大阪地検の策略で犯人に仕立て上げられそうになった。もし、データ改竄が発覚しなかったら、元局長がいくら「無実」を叫んでも有罪になっていたのだろうか。

 「ゴールデンスランバー」はまさにその恐怖を描いた小説だった。何者かによって犯罪者に仕立て上げられた青年の逃亡劇、そのスリルとサスペンス。
 容疑者に対して警察官が無闇に発砲できるわけがない、何かというとショットガンを撃つ刑事にまるでリアリティがない、だいたい本当の犯人(組織)が何の目的で主人公を首相暗殺の単独犯に仕立てるのか、事件の真相がまるで解明されないではないか……。
 いろいろ疑問点を指摘できる。
 映画を観たとき、感銘を受けたとはいえ、最初の二つの疑問が頭をよぎった。それからあの廃車はバッテリーを交換したぐらいでは動かないだろうとも。

 エンタテインメントだからわざとそんな設定、展開にしたのかもしれない。「嘘でぇ!」の部分がないと怖すぎるもの。
 つまり、こういうことだ。
 日本で首相暗殺なんてありえないだろう。警察がここまで徹底して無実の男を犯罪者に仕立てるなんてこともないかもしれない。描かれていることはあくまでもフィクションだ。とはいえ、似たようなことは日々行われているのではないか。程度の差はあれ、僕らはこれまで何度も目撃している。まさに足利事件や郵便不正事件がそうだった。
 サリン事件を思い出してほしい。メディアの扇動的な報道姿勢もあって、僕たちはまったく罪のない人を極悪人だと信じたではないか。
 父親が「息子は犯人ではない」と断言することも小説を読むと理解できる。ちゃんとした理由があるのだ。


2011/07/19

 「映画×東京 とっておき雑学ノート」(小林信彦/文春文庫)

 週刊誌に連載されているエッセイやコラムは人気があれば、1年間の連載がまとめられて本になる。長期連載になれば、毎年単行本が刊行されるわけだ。その際、本の売れ行きは書名に左右されるのだろうか。

 サンデー毎日に20年以上連載している中野翠のコラムは年末になると単行本がでる。毎回趣向を凝らしているがこの5、6年はもうひっそりとしたものである。
 週刊文春の長期連載エッセイといえば、林真理子や椎名誠が有名だ。彼らの単行本はどうなのだろう? 興味ないので注意したことがなかった。多くの固定ファンに支えられているので営業的には特に問題はないのかもしれない。
 10年連載が続いた高島俊男「お言葉ですが…」は、当初は売れ行きも良かったが、後半はあまり芳しくなかったらしい。著者自身がエッセイの中でその旨書いていて、ついには単行本化しない処置がとられ、そうこうしているうちに連載が終わってしまった。連載が終わって週刊文春自体面白くなくなったと思ったのは僕だけか? まあとにかく、書名には気を使っていた。連載タイトルの「お言葉ですが…」を先に持ってきたり、後に持ってきたり。大きくしたり小さくしたり。

 小林信彦のエッセイ「本音を申せば」も書名を見るたび毎回担当編集者の苦労が伺われる。固定ファン以外へのアピールをかなり考慮しているのではないかと。

 内容については単行本読了時(2008/04/24)にこう書いている。ちなみに最後の文章、作家(小林信彦)、俳優(萩原健一)、ミュージシャン(紙ふうせん)ということ。

     ◇

 昨年、週刊文春に連載された「本音を申せば」が単行本になった。
 前2作が〈昭和〉の文字を使った書名(「昭和のまぼろし」「昭和が遠くなって」)だったので、当然今回もと思っていたら、若い読者を意識したものになっていた。映画と東京についての記述が多いとの理由からだそうだが、映画への言及が増えたのは、中日新聞に連載していたコラムが終了したのが要因だと思う。とはいえ、本書の中で語る映画の本数はこれまでとさほど変わっているとは思えない。
 今年は「うらなり」の菊池寛賞受賞パーティーではじまる。映画は「ドリームガールズ」「ロッキー・ザ・ファイナル」のほか、アカデミー賞の結果、スタージェス映画……。それから、東京喜劇、これまでも何度か取り上げている伊集院のラジオ番組「日曜日の秘密基地」。3月で終了してしまったのが残念だ。亡くなった青島幸男、植木等。

 最近の泣かせの映画に関しての見解はまったく同じ。
 もう予告編から〈泣かせ〉が強調されていて、僕自身はまるで興味がなかった「涙そうそう」。小林氏は長澤まさみの主演なので観るわけだ。で、こう書いている。

     ▽
 ぼくは、といえば、〈泣かせてやろう〉と畳みかけてくると、〈おいおい〉と笑ってしまうほうだ。
 映画「涙そうそう」のラストで兄が死ぬ。それだけで、その死への妹の悲しみは想像されるはずである。
 ところが、作り手は、観客を信用していないらしい。
 (略)
 もっとも、日本の観客のレベルはその程度だと考えているのだとしたら、それはそれで一つの見識である。つけ加えれば、〈テレビに慣らされてしまった日本の観客〉はそんなものかも知れないのである。ぼくの方が、変っているのだろうか。
     △

 ほんと、孤独感じるときありますからねぇ。

 映画(ドラマ)の何気ないところで泣くという点もよく似ている。こういうところが、長年のファンでいられる要因なのかもしれない。作家にしても俳優にしてもミュージシャンにしても。


 この項続く 




2011/07/02

 「モロー博士の島 他九編」(H.G.ウェルズ/橋本槇矩・鈴木万里 訳/岩波文庫)

 「モロー博士の島」といったら、映画の印象が強い。「ドクター・モローの島」のタイトルで高校時代に公開されている。調べてみたら主演はバート・ランカスター。ずいぶん経ってから「DNA/ドクター・モローの島」というタイトルの映画も公開されている。1996年だった。主演はマーロン・ブランドとヴァル・キルマー。実をいうとどちらも観ていない。有名なSF小説の映画化作品との認識はあったのだが、H・G・ウェルズだったとは。
 たまたま新着本コーナー棚にあったので借りてきた。原作は短編だったのか。それも想像していたストーリーとはずいぶん違った。なぜか僕は、人間を改造して獣にしたモロー博士が、彼らを下僕にして島に帝国を築いている、というような内容を想像していたのだ。逆だった。

 その他の作品は以下の8編。
 エピオルニス島/蛾/紫色のキノコ/パイクラフトの真実/ブラウンローの新聞/故エルヴァイシャム氏の物語/マハラジャの財宝/デイヴィドソンの不思議な日/アリの帝国/


2011/07/04

 「落語評論はなぜ役に立たないのか」(広瀬和生/光文社新書)

 落語本を立て続けに上梓している著者がついに書いたか!
 本書を図書館の棚で見つけたときにそう思った。
 落語ブームの前から、盛んに落語を巷に紹介している人はいた。一人は高田文夫でもう一人が吉川潮。立川志の輔、立川志らく、立川談春を耳にタコができるくらいプッシュしていた。あくまでも僕が感じていただけかもしれないが。
 それがあるときを境に、堀井憲一郎が週刊文春連載ずんずん調査の中で落語を話題にするようになった。熱狂的な落語ファンだったのだ。対抗するように、ヘビメタ雑誌の編集長である著者が落語本を出していく。寄席とか独演会等の落語会ではこの二人のツーショットを拝めるのだろうか。
 それはともかく、これまでどおり書いてあることは首肯できることばかり。
 著者が批判する評論家とは誰なのか?


2011/07/06

 「根津甚八」(根津仁香/講談社)

 役者として根津甚八を意識したのはいつだったか。状況劇場の人気者(だった)で名前が真田十勇士から命名されたなんてことは後で知った。NHK土曜ドラマ「男たちの旅路」へのゲスト出演か。声がでなくて引退を宣言した(囁くようにうたうのが売りの)歌手の役だった。映画では「その後の仁義なき戦い」だろうか。とはいえ、この映画、ゲスト出演のショーケンが居酒屋で喚き散らすシーンしか印象に残っていない。出世作の「さらば愛しき大地」(監督:柳町光男)は観ていない。ショーケンがその柳町光男監督のメガホンで撮る予定だった「竜馬を斬った男」では、竜馬役で出演している。結局この映画、柳町監督は降板してしまうのだが。当然石川五右衛門役で人気を呼んだ大河ドラマ「黄金の日日」にも一度もチャンネルを合わせることもなかった。今思えば、このドラマの脚本は市川森一。「勝海舟」は倉本聰が脚本だから観始めたのだ。だったら、「黄金の日日」も観なければおかしいのに。
 まあ、いい。とにかく、70年代から80年代にかけて、ショーケン、優作、水谷豊に続いて、その動向が気になる役者だった。
 00年代になってから、あまり見かける機会がなくなった。病気治療や交通事故で相手を死亡させてしまったことによる謹慎で表舞台に登場しなくなってしまったためだ。その後鬱病になったという話が聞こえてきて、やがて役者引退とのニュースが流れた。ショックだった。
 本書は根津甚八の奥さんが書いた、俳優・根津甚八の回想録とでもいうもの。本来、本人が執筆(語る)も のだろうが、なぜそうならなかったかは読めばわかる。
 状況劇場前後、唐十郎との関係が興味深い。
  

2011/07/07

 「マンガの方法論 おれ流」(柳沢きみお/朝日新聞出版社)

 副題に〈柳沢的マンガの創り方〉とある。
 6つの代表的作品を収録し、そのマンガの成り立ち、裏話等の創作秘話から、なぜマンガを描くのか、何のために描くのか、人生哲学を含めたマンガ創作論。
 別にファンではないが、無視はできない漫画家なので、図書館の棚で見つけて借りてきた。マンガを読んだことはないのに。
 漫画家・柳沢きみおといったら人はどんなイメージを持っているだろうか。僕の場合、「特命係長・只野仁」ほか、この方の描く大人向けのストーリーマンガが苦手である。あの陰気くさい絵柄がどうしても好きになれない。やはりギャグマンガが似合っている。なんて思いながら、本書を読むまで「翔んだカップル」の作者であることをすっかり忘れていた。あんなに大ブームだったのに!
 じゃあ何で覚えているかと訊かれれば、「月とスッポン」と答える。少年チャンピオンで連載していた。デビュー作だと思いこんでいたが、デビューは少年ジャンプだった。確かに「女だらけ」というマンガを描いていたっけ。とりいかずよしのアシスタントだったのか。
 ギャグマンガで出発し、一時代を画し、やがてストーリーマンガへ移行して、以後コンスタントに連載を抱え活躍しているさまは、第二の永井豪みたいだ。永井豪より職人ぽいが。


2011/07/12

 「ならぬ堪忍」(山本周五郎/新潮文庫)

 これも図書館の新着コーナーで見つけた文庫本。
 山本周五郎の、戦前に書かれた短編13編を収録している。

 
 この項続く




 昨日は武蔵野線を行ったり来たり。
 西川口から南浦和、そこで武蔵野線に乗り換え三郷へ。13:30から三郷市文化会館大ホールの「NION Philharmony Orchestra 演奏会」。
 終了すると、三郷から西国分寺へ、中央線に乗り換え三鷹へ。18時30分から「立川談春独演会」。終了後、いつものメンバー+2名で飲み会。

          * * *

2011/09/20

 「世界侵略:ロサンゼルス決戦」(MOVIX川口)

 地元シネコンMOVIX川口は毎月この日が1,000円になるサービスデー。レイトショーで「世界侵略:ロサンゼルス決戦」を観る。
 個人的に今年期待の1本で公開を楽しみにしていた。東日本大震災の影響で4月の公開が延期になっていたのだ。

 最初に予告編を観たときついにこの手のSF映画がでてきたかという感慨を抱いた。ドキュメンタリータッチで地球外知的生命体(異星人)との戦いを描く映画。TVシリーズ「V」、「インデペンデンス・デイ」、「宇宙戦争」、「クローバーフィールド HAKAISYA」があったからこそ「世界侵略:ロサンゼルス決戦」ができた。何度も目をそむけてしまうリアルな戦場を描くという映画では「プライベート・ライアン」「ブラックホーク・ダウン」「ハート・ロッカー」がある。地球侵略ものにリアル戦争ものを取り込んだ映画ともいえる。

 公開延期になったと思ったら、ストーリー的にもヴィジュアル的にもそっくりな映画が公開された。「スカイライン:征服」である。内容は若干違うのだが、イメージは同じ。驚いたことに、この映画の監督は「世界侵略:ロサンゼルス決戦」のVFXを担当したスタッフだったのだ。

 わりとひっそりと公開された感のあるこの映画は、地球外知的生命体と戦う米軍(海兵隊)を描く「もうひとつの宇宙戦争」であり、地上戦を描く「もうひとつのインデペンデンス・デイ」だった。
 「宇宙戦争」以降、異星人の地球侵略の全貌を描かない作劇が増えてきた。とにかく彼らは有無を言わせず地球を襲ってくる(攻撃してくる)ので、主人公たちが右往左往する(逃げまくる)というものだ。

 この映画も、異星人側の、地球侵略の目的を含めて、攻撃過程の描写はない。あくまでも地球人にとっての謎の侵略。
 海に落下した隕石からから異星人が現れて、各都市を襲撃していく。まずは海岸に上陸した地上部隊が、やがて飛行艇を操作して航空部隊が。攻撃の勢いは止まらない。ロサンゼルスも、ほぼ壊滅状態になった。そんな最中逃げ遅れた子ども二人を含んだ民間人を救助するため派遣された海兵隊の一個小隊の活躍を描くのだが、ドキドキ感、ハラハラ感は生半可ではない。そんなとき、僕の場合は左手の五本の指が席の袖をかわりばんこに叩いている。
 「ハート・ロッカー」がそうだったように、思わず声をあげてしまったショットもある。

 小隊の長がどのようにリーダーシップを働かせ、部下に指示をだすのか。部下はその指示に従ってどう行動するのか。相手は未知の生物なのだ。とても興味深かった。小隊に参加した退任間際の軍曹、この軍曹の下で命を落とした男の弟。二人の葛藤の末に待っているものは? その他、民間人の親子関係とか、胸熱くさせるシーンも。
 期待に違わぬ映画だった。
 もう一度観てもいいかな。




 昨日は台風15号が首都圏を直撃した。その影響で交通機関がマヒ、夕方だったこともあって、多数の帰宅難民がでたと台風の被害状況とともに夜のニュースが伝えていた。

 「どうして?」最初にそう思った。台風が列島に上陸することは朝からわかっていた。浜松に上陸した後、関東を通過すると、昼ごろにはその時間まで確定していたのではないか。
 それを受けて僕が勤める会社は、上長判断で帰宅してよしとの指示がでた。昼休みが終わって席についたときだった。別に急ぎの業務もなかったので、13時30分に退社した。西川口について、マクドナルドで少し読書して、ブックオフを覗いたりいていると、雨脚が激しくなってきたので急いでバスで帰った。
 家に着いたら、かみサンも娘もいた。娘はまだ大学が夏休み、かみサンは仕事が休みだという。
 帰宅したとたん、外の様子が一変した。激しく降る雨に、風が加わった。とにかくすごい。何度か外で音がした。どこかの看板が吹っ飛ばされたような。

 そんなわけで会社の判断に感謝した次第なのだが、台風のコースが前もってわかっていることなのだから、どこの会社もこういう指示をだしていると思っていた。もちろん仕事が忙しくて帰れないという人もいるだろう。それ以前にそんな余裕のない会社だってあるだろう。時間どおりに働いてもらわなければならない、なんて。
 とはいえ、3.11で電車がストップしてどんなに大変だったかは皆身を持って体験しているはず。だったら、通常どおり定時に退社した人、仕事を抱えていて残業した人、ニュースで自分が利用している交通機関がどうなっているのか、きちんと確認してから行動すべきではないのか。
 会社をでるときは動いていたけれど、いざ駅に到着すると、ストップしていた、というパターンだったのだろうか。動いていないことがわかっていながら、まあ何とかなると帰ったとしたら、学習能力がないよなぁ、と思わざるをえないのだが……。

 早く帰宅できて、とても喜んだことがある。TBSの特番(今週から各局秋の特番体制に入った)「名作ドラマ大事典! 豪華スター同窓会SP」を冒頭から観られたからだ。
 ショーケンをはじめとする「太陽にほえろ!」歴代刑事の面々がスタジオに集うというのだ。リアルタイムでマカロニ、ジーパン、テキサスまでを視聴していたファンとしてはチェックしたいが、どうやら登場は番組の最初の方。どんなに早く帰っても20時近くなってしまうので、すっかり諦めていた。まだ録画機器は購入していないので。

 番組が始まってまず最初取り上げたのは「思い出にかわるまで」。今井美樹と石田純一主演のトレンディドラマの一つだという。今井美樹と石田純一が恋人同士なのだが、今井はなかなか結婚に踏み切れない。その隙に今井の妹、松下由紀がストーカーまがいの行為を繰り返し、最後に石田を奪ってしまうドロドロの愛憎劇だったんだそうな。放送された1990年はバブル末期か。眉毛が太い今井美樹に、珍獣ハンターイモトかあ!と何度も突っ込んだのだが、スタジオでは誰も話題にしない。
 今は俳優という肩書のバラエティタレントになった石田純一だが、かつてはトレンディドラマにひっぱりだこだったんですね。週刊誌に作家という肩書のTV評論家(コメンテーター)がいるしなぁ。

 続いて、お待ちかねのショーケン&「太陽にほえろ!」。ショーケンが登場するとゲストコメンテーターの一人である石田純一(ほかに藤井隆、MAXの3人、秋野暢子、市川森一)が立ち上がって挨拶する。「ファンです!」。日本テレビのモノマネ番組ではショーケンに扮したこともあったもんね。

 まずはショーケン一人で「太陽にほえろ!」と「傷だらけの天使」の思い出話。
 第一回のクライマックス(後楽園球場でマカロニが犯人を逮捕するシーン)が流れると、犯人役が水谷豊なので、司会の今田耕司がハッとする。あとになって(他のレギュラー陣が登場してからだったかも)初回のゲストが水谷豊であることが披露されるのだが、ついでにその後も別の役で何度かゲスト出演していることに言及してくれって。
 あるいは、松田優作がジーパン刑事で登場する前、カメラテストを兼ねて役所の職員役で出演していることとか。
 せっかく市川森一がコメンテーターにいるのだったら、70年代初期(「太陽にほえろ!」前?)からショーケンと親交があったこと、その縁で「帰ってきたウルトラマン」にPYGの「花・太陽・雨」が使用されることを話題にして、歌が流れるシーンを流せばよかったのに。TBSなんだから日本テレビの番組ばかり流してもしょうがないでしょうに。今田耕司や藤井隆なんて喜んだんじゃないですか。

 時計を確認していないのではっきり断言できないが、ここまでが19時台だろうか。20時になって「太陽にほえろ!」同窓会。ということは、通常だったらショーケン単独ゲストの部分は視聴できなかったことになる。

 さて、その同窓会であるが、出演は歴代新人刑事が、ショーケン(マカロニ)のほか、勝野洋(テキサス)、木之元亮(ロッキー)、神田正輝(ドッグ)、先輩刑事で竜雷太(ゴリさん)、小野寺昭(殿下)の計6人。マカロニ、ジーパン、テキサスまでは名前が同じ〈ジュン〉だったなんてこと、皆忘れているんでしょうね。
 ショーケンの我儘から始まった歴代刑事の殉職シーンが話題になる。シーンを見ながらの各人の思い出。やはりショーケンとジーパンのそれがずば抜けている。
 テキサスになるともうアメリカン・ニューシネマの時代ではなくなるのだろうか。いかにもなベタな死に方になるのだ。山さん、ゴリさん、島さん、長さん……死にいく狭間で一人ずつ呼びかけていったような。何これ? がっかりした僕は「太陽にほえろ!」卒業を宣言した。僕の中では「太陽にほえろ!」はショーケン、ジーパンなのである。
 だいたい新人刑事が降板するときは殉職だなんて、とんでもない儀式をつくったものである。その他のレギュラーの降板時にも適用されたのには唖然茫然。あのね、そんなに殉職が続いたら、誰も七曲署・藤堂係長の部下にならないって!
 ショーケン、この話題のとき毒つきたかったんじゃないかなぁ。文句言ってほしかったなぁ。



 今年の「したまちコメディ映画祭」では、伊東四朗がコメディ栄誉賞を受賞した。当然伊東四朗関連の映画が特集されるわけで、案の定、てんぷくトリオの一人として出演した「進め!ジャガーズ 敵前上陸」がラインナップされた。

 前田陽一監督の「進め!ジャガーズ 敵前上陸」は数あるGS(グループサウンズ)映画の一つである。GS映画というとタイガース、テンプターズ、スパイダースの映画が記憶にあるが(どれも観たことはない)、ジャガーズという、当時ワンランク、ツーランク下のバンド(「君に会いたい」が有名)の映画もあったのだ。
 僕がこの映画に興味を覚えたのはまったく別のところだった。脚本が中原弓彦(のちの小林信彦)ということで、小林信彦ファンとして一度はチェックしておくべき映画なのである。
 最初はスパイダース映画として企画され、のち井上順単独主演に変更となった。結局井上順が出演できなくなって、ジャガーズ主演になったといういわくつきの作品。ここらへんの顛末は、「われわれはなぜ映画館にいるのか」(晶文社)に所収されている「和製B級映画はどう作られるか」に隈なく活写されている。この本のちに「映画を夢見て」と改題されて筑摩書房から出版された。

 「進め!ジャガーズ 敵前上陸」はDVDになっているはずだがビデオレンタル店でお目にかかったことがなかった。ちょうどいいい機会だからスクリーンで鑑賞したいとちゃんと手帳にも書いていたのだが、果たせなかった。

 17日は池袋の新文芸坐で「祭りの準備」が上映された日でもあった。原田芳雄の追討特集日替わり上映初日で併映は「赤い鳥逃げた?」。浅草は間に合わなくても池袋だったら余裕ではないか。なんて考えがちょっとあった。甘かった。「祭りの準備」最終回の上映は16時20分から。間に合わない。こちらも諦めた次第。プログラムが逆だったらよかったのに。
 嗚呼!
 
 


 今週は月曜日(12日)に二つの図書館へ行った。
 まず昼休みに会社近くのH図書館へ。予約していた本を受け取る。業務で会計関連の本を上期に4冊読むと目標をたてている。6月に2冊読んだきりなのであわてて予約したのだった。悪い癖がでた。予約本を借りるだけでいいのに、いろいろ棚をまわってどうしても読みたい本が2冊。……借りた。

 「美容院と1,000円カットでは、どちらが儲かるか?」(林總/ダイヤモンド社)
 「トキワ荘最後の住人の記録」(山内ジョージ/東京書籍)
 「純平、考え直せ」(奥田英朗/光文社)

 帰宅時、川口駅で降りて川口中央図書館へ。
 借りていたDVDを返却。

 「内海の輪」(監督:斎藤耕一)
 「放浪記」(監督:成瀬巳喜男)
 「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」(監督:スティーブン・スピルバーグ)

 「内海の輪」は、中学時代にTVで観た。いや、もしかして高校だったか。松本清張原作、斎藤耕一監督作品。主演は岩下志麻と中尾彬。ふたりは不倫関係にある。中尾彬が東京の某大学の助教授で、岩下志麻が愛媛にある有名呉服屋の後妻。岩下の夫(三國連太郎)が不能の老人ということもあるのか、ふたりは3ヶ月に一度逢瀬を楽しんでいる。もともと岩下は中尾の兄嫁だった。兄が浮気して家を出て、一度ふたりで押しかけたことがある。岩下は亭主に離婚を申し立て、その夜、ふたりは結ばれた。
 大学理事長の娘を嫁にして出世を望む中尾にとって、あくまでも岩下との仲は不倫だった。しかし、中尾の子を宿した岩下にとって違う。夫と別れて一緒になることを願うようになっていた。中尾に殺意が芽生えて……。
 中尾彬がまったく自分勝手な男で憎らしくてたまらないのだが、ラストに発する言葉で一気に感情移入してしまう。ボタンを握る岩下の手のアップ(爪)が衝撃だった。
 斎藤監督らしい映像に堪能できる。瀬戸内海のカットの数々がたまらなく美しい。

 僕はこの「内海の輪」と同じ松本清張原作の「影の車」(短編「潜在光景」の映画化。やはりTVで観た)で、濡れ場のうまい女優として岩下志麻がインプットされた。別に裸になるわけではないのだが、あのときの声がたまらないのだ。
 「内海の輪」で、三國連太郎相手によがり声をあげまくるというシーンがある。実は三國にマッサージしてもらっているというオチで大いに笑えます。

 「放浪記」は、林芙美子原作、高峰秀子主演。監督は成瀬巳喜男。僕にとって初の成瀬映画だ。今では、森光子の舞台が有名だが、こんな物語だったのか。高峰秀子はやはり上手い。どうしようもない夫役(やがて離婚する)の宝田明も。特撮怪獣映画とは別の顔を見せてくれて、これまたかっこいい(かっこ悪い、か)。母親役の田中絹代は、この時代(1962年)から、サブちゃんのお母さんしている。
 大学生の役で、岸田森が1シーンだけ出演しています。

 川口中央図書館では本は借りなかった。
 DVD3枚だけ。

 「フレンチコネクション2」(監督:ジョン・フランケンハイマー)
 「用心棒」(監督:黒澤明)
 「容疑者Xの献身」(監督:西谷弘」

 


 承前

 *ネタばれしています

 さて、今回の松本清張ドラマスペシャルと銘打たれた「砂の器」。意欲作ではあるが肝心要な部分をないがしろにして失敗してしまった、とても残念なドラマ。それが率直な感想である。
 原作同様の時代設定は評価できる。が、あの時代に主役の玉木宏のあのヘアスタイルはないだろう! とドラマが始まってまず思った。玉木宏ファンの20代以下の視聴者には気にならないだろうが。ファンでなくても気にならないか。この世代は太平洋戦争時代の日本で長髪の人がいても何の疑問も抱かないだろうから。

 それはともかく、最近、松本清張作品を映像化する場合、原作同様の時代設定にすることが多くなった。数年前のドラマスペシャル「点と線」や映画「ゼロの焦点」がいい例だ。「点と線」は現代から当時を回想するストーリーだったが。
 今ではそうせざるをえないということもあると思う。その昔、松本清張ミステリを映像化するときは、時代をいつも現代(映像化した時点の時代)にする傾向があった。松本清張ミステリの傑作、名作といわれる作品は実際に執筆された昭和30年代のものが多い。これを昭和40年代、50年代にしてもまだ通用した。同じ昭和ということで、殺人の動機やトリックにギリギリ間に合ったのだ。

 平成の、特に21世紀になってからはまるで応用がきかなくなった。インターネットや携帯電話が生活を一変させてしまったからだ。
 たとえば、松本清張には「地方紙を買う女」という傑作短編がある。もう4年前になるが日本テレビで2時間ドラマになった。ドラマ自体は面白かったが、女が地方紙を買う理由が現代にまったく合わなくなっていた。

 映画「砂の器」も時代は昭和40年代半ばに変更になっていた。僕自身には時代の変更に特に違和感はなかったのだが、「清張ミステリーと昭和三十年代」 (藤井淑禎/文春新書)という本を読んで、ひとつだけ得心したことがある。
 三木が伊勢参りの途中でなぜか上京して和賀に会う。そのきっかけが、旅先で三木が映画を見に行くことなのだが、著者はそれがおかしいと指摘していた。昭和30年代なら映画の黄金時代なので、娯楽の乏しい地方で、さほど映画好きとも思われない三木が映画館に足を運ぶことはありうるかもしれない、しかし、日本映画が斜陽と呼ばれた昭和40年代半ばで果たしてそれが通用するか。
 
 ドラマに話を戻す。
 オリジナルの女新聞記者の存在がまことに嘘くさかった。いくら恋人とはいえ、吉村が捜査で知りえた情報を記者と共有しすぎる。聞き込みに同行しているんだぞ。ありうるか、そんなこと? 特に前半が顕著でもう完全に吉村は必罰もの。後半は推理の主導権を持って吉村の和賀犯人説の主張の裏付けをしていく。
 個人的には中谷美紀のファンだから、登場することに文句はない。ないけれど、もう少しリアルなキャラクターにしてくれ。現代が舞台なら、吉村とコンビを組む女刑事が考えられるが、昭和30年代にはありえないし。

 吉村を東京大空襲で母妹を亡くした戦争孤児(?)にして和賀と対峙させたのはドラマの新機軸だが、最初の出会いの印象、コンサートで新曲を聴いて、とあまりに本人の主観ばかりが強調されて引いてしまった。
 それから、せっかくヌーボーグループを登場させたのだから、評論家の関川には佐々木蔵之介(和賀)と同格の俳優に演じさせ、どちらが犯人かという推理で引っ張った方がよかった。

 その和賀だが、やはり現代音楽の作曲家(指揮者)という設定だった。軽音楽のミュージシャンではいけないのか。というかなぜ音楽家なのか。そりゃ、原作がジャンルは違えど音楽家だ。現代音楽にすればBGMとして利用できるし、演奏風景は映像的に申し分ないからだろう。

 原作のミュージックコンクレートの旗手という設定は、単なる設定だけでなく、殺人事件にも深く関わっていた。詳細は忘れたが、和賀が作曲に使用する楽器(?)は、超音波を発する。この超音波を悪用して、関川の情婦を堕胎させようとして結果的に殺してしまう。これで、関川の和賀に対する態度が豹変。和賀の新曲についてとても好意的な批評を書くのである。
 原作の後半は、ある数字のメモをめぐって今西たちが右往左往する。この数字は何なのか? やがて、堕胎に適した超音波をだすためのメモリの値だったと判明し、それまでの関川犯人説から和賀犯人説に方向転換するのだ。

 昭和30年代前半、ちょうど僕が生まれる前後なのだが、フランス映画でヌーヴェルバーグが始まった。その影響で日本でも松竹で大島渚、篠田正浩らが同様の活動をはじめた。新しい世代が上(の世代、文化を)を否定し、自己主張しはじめたということだろうか。
 何かの本で読んだのだが、松本清張は、こうした新世代に批判的で、そこからヌーボーグループという設定を思いついたのだとか。それから、評論家も大嫌いだったので、関川というキャラクターを作って、その批評態度を皮肉った、と。

 決定的だったのは、本浦父子の放浪の旅をさせる要因だ。殺人犯の濡れ衣を着せられて故郷を捨てた。それで一人息子を連れて遍路に出るか? 女房子と一緒に旅に出るか、それとも一人で出るか、どちらかではないのか? 旅中で父親が病気になって、それで息子と離ればなれになるだろうか? だいたい病気って何だよ!
 やはり感動のラストにもっていった。「砂の器」の宿命だろうか。感動は病気療養中の父親の絵、および付記された息子への言葉だった。晩年の父親が絵を趣味にしていたのなら、息子を絵描きにしたらどうだったろうか。これは別に皮肉ではない。音楽家に固執する必要はなかったということだ。

          * * *

 ドラマ「地方紙を買う女」の感想をmixiに書いていた。参考のために。

     ◇

 ●仕事をやり遂げた後の一杯にご用心 2007/02/07

 先週1月30日(火)、日本テレビ系で放送された火曜ドラマゴールデン「松本清張スペシャル 地方紙を買う女」。
 内田有紀の主演に興味を抱いたが、なぜこの時代に「地方紙を買う女」なんだ? と朝刊のTV欄を眺めながら思った。いや、松本清張の短編「地方紙を買う女」は読了後、かなり余韻を残す小説ではあった。

 地方新聞に小説の連載を持った作家が、ある件をきっかけにして一読者の完全犯罪を暴くというストーリー。

 小説が面白そうだからという理由で定期購読をはじめた都会に住む女性。作家にしてみれば大変うれしいことだ。ところが、物語がこれから佳境に入ろうとする寸前で突然購読を止めてしまった。
「なぜ?」「この女性には地方新聞を閲覧しなければならない理由があったのでは?」
 疑問を感じた作家は購読を止めた当日のニュースを調べた。心中事件を伝える小さな記事が掲載されていた。こうして作家は女性の身辺を丹念に調査して、この心中事件が実は女性が犯した殺人事件であることを解明する。ラスト、女性は殺人事件に使用した青酸カリを使って服毒自殺をはかる。

 女性がなぜ男(と女)を殺さなければならなかったのか。そこには時代(昭和30年代)が密接にかかわっている。確か戦争の犠牲者という位置付けがあった気がする。
 そもそも昭和でなければ成り立たない話なのだ。殺人の動機や地方紙を購読する理由が現代では通用しなくなっている。
 インターネットの時代になぜ「地方紙を買う女」なのか? 疑問はそこだった。

 帰宅してTVをつけるとちょうどドラマのクライマックスだった。作家に扮するのは高嶋政伸。高嶋が内田を追いつめ、やがて彼女は自殺する……と思われたラストが大幅に変更されていた。
 なんと高嶋はこの事件を題材に新作を書き上げたのだ。タイトルは「地方紙を買う女」。
 作品を完成させると目の前に置いてあるワイン(?)で一人乾杯する習慣がある。今回もワインをグラスについで飲むのだが、そのとたん喉をかきむしってその場で急死してしまうのだ。
 どうやら、前半で高嶋は内田に求婚し、一緒に生活していたらしい。内田は犯罪を暴いた高嶋の口を封じるため、ワインボトルに青酸カリを混入させていたというドンデン返し。薄幸な女性の完全犯罪は完全犯罪として成立してしまう、このオチ。

 なかなか面白いじゃないかと、先入観にとらわれて録画しておかなかったことを悔いたのだが、しかし、やはり腑に落ちない。
 これは本当に松本清張原作の「地方紙を買う女」なのだろうか。原作のプロット、トリックを使った別のドラマなのではないか? せめて「新・地方紙を買う女」「地方紙を買う女 2007」等の差別化が必要だったと思うのだけれど。




 承前

 *ネタばれしています

 映画「砂の器」は構成的にも内容的にもよくできている。特にクライマックスは映像だからこそ表現できるものだ。「男はつらいよ」シリーズとともに70年代の松竹映画を代表する作品といってもいいだろう。
 TV中継された何かの映画賞で子役の少年(春田和秀)が受賞したところを今でも覚えている。劇中、ちょっとした表情で心情や父親への愛情を表現していて受賞は当然だった。子役特有の臭さがなかったところが特に。
 にもかかわらず、「砂の器」以外で見かけることがなかったのはなぜか。この映画一作で俳優をやめてしまったような気がするのだが。その潔さがまたよかったりして。

 それはともかく。
 映画「砂の器」は何度かリバイバル公開されている。「これが最後の劇場公開」なるコピーを夕刊の広告で見たのはいつだったか。
 公開は1974年。僕が観たのは翌年の75年だった。隣町(足利市)の映画館に足を運んだのだが、中に入るとラスト近くで、スクリーンには老けメイクの緒形拳がカメラ目線で叫んでいた。
「シデオ、なぜなんだ? あれだけ苦労をともにしてきた親と子だよ、お前の首に縄かけてでも引っ張っていくから、一緒に来い!」
 セリフは正確ではない。なぜか秀雄がシデオと聞こえた。
 和賀英良に殺される寸前の、三木謙一が和賀(本浦秀夫)に発した言葉だった。今は施設に収容されている本浦千代吉は余命いくばくもない。千代吉はずっと三木と手紙のやりとりをしているのだが、千代吉が書くことはいつも決まっていた。死ぬまでに一度息子に会いたい……。

 映画が原作を凌駕した要因としてまずシナリオの上手さが挙げられる。原作では死んでいる千代吉を生きている設定にしたことが、和賀が三木を殺してしまう理由に大きな意味をもたらしたのだ。「小説と映画のあいだに」にこう書いた。

     ▽
 …千代吉は余命いくばくもない状態だ。三木にはすぐにでも秀夫(和賀)を父親と対面させなければならない役目があった。その切羽つまった末の行動が新曲準備に忙しい和賀には悪意そのものでしかなく、突発的な殺人を誘発する結果を招いたのだ。
     △

 原作ではヌーボーグループの一員、評論家の関川の愛人が妊娠して殺されるのだが、これも映画では和賀の愛人に変更。愛人は産みたいと懇願するものの和賀は拒否する。「あなたに迷惑はかけない、自分ひとりで生んで育てる」と言っても聞く耳をもたない(その後愛人は流産による出血で死んでしまう)。

     ▽
 妊娠した情婦に対して、その出産を頑なに拒んだのも、わが子への業病の血の遺伝を恐れてのことだったとわかってくる。
 愛するものの存在が逆に自分の身をおびやかすという皮肉――。和賀に感情移入する瞬間だ。
     △

 というように、映画「砂の器」は、テーマにもストーリー展開にも、大きくハンセン(氏)病が絡んでくるのである。
 TBSの連続ドラマに失望したのは、まさにここなのだ。映画「砂の器」のシナリオを潤色してドラマを作るなら、ハンセン(氏)病ははずせないはず。ウィキペディアによると、ドラマ化に際して、ハンセン(氏)病を扱わないことは松本(清張)家側の要望だったとあるが、だったら、その時点でドラマ化を断念するか、映画シナリオの潤色はあきらめなければならない。
 それでもなお「砂の器」をドラマ化したいのなら、別のアプローチを考えるべきではないか。
 それが原作をできるだけ忠実に映像化すること。だと僕は思ったわけだ。
 感動作というより、刑事の捜査に重点を置いたミステリドラマとして。
 それにしてもハンセン(氏)病に代えて、31人殺しを取り入れるなんて。脚本・橋本忍+監督・野村芳太郎コンビの次作「八つ墓村」からアイディアをもらうとは、なんて安易な!

 映画「砂の器」は、和賀英良を現代音楽の作曲家(&ピアニスト)に変更したことがクライマックスで涙と感動を呼ぶ構成になった。これもシナリオの功績だが、実はこの変更がある意味映画「砂の器」の弱点でもある。この点についても、かつてこう書いた。

     ▽
気になるのが犯人役・和賀英良の音楽家という設定だった。クラシック畑というのがどうにも気になる。原作では前衛音楽家だった。これなら、孤児が独力で天性の才能を開花させるという展開に無理がない。しかし、クラシック、それもピアニストになると通用しない。どうしたって英才教育が必要になるのだ。
     △

 今回のスペシャルドラマは、若手の吉村刑事が主役になるというものの、原作と同じ時代設定ということで、かなり原作に忠実なドラマになるのではないか。僕自身が考えたような。そんな期待を抱いたのだ。


 この項続く




 承前

 *ネタばれしています

 ある年代(40代以上とか)にとって「砂の器」といったら、こんなストーリー(キーワード)をイメージしているのではないか。箇条書きにして並べてみる。

 ・蒲田操車場で起きた身元不明の殺人事件を追う刑事二人
 ・謎の言葉〈カメダ〉
 ・出雲地方のズーズー弁
 ・紙吹雪の女
 ・犯人は新進気鋭の音楽家
 ・音楽家は過去に戸籍詐称して別人になりすましている
 ・音楽家は幼いころ父親と放浪の旅へ(お遍路)
 ・父親はハンセン(氏)病を患っていた

 そして、これは個人的な勝手な推測なのだが、イメージのほとんどが映画からきているのではないか。
 映画を観てから原作を読むと驚かれると思う。ずいぶんと印象が違うと。つまり「砂の器」は、小説のストーリーより映画のそれが人口に膾炙している気がするのだ。
 「砂の器」の原作と映画の検証は拙著「小説と映画のあいだに」(発行:studio zero/蒼天社 発売:文藝書房)で取り上げている。原作との違いをこう書いた。

     ▽
 脚本の橋本忍と山田洋次は、原作のプロットとトリックを生かしながら登場人物を大幅に整理してストーリーの簡略化をはかった。
 殺人事件は最初の三木殺しだけ。あくまでも和賀の単独犯とした。前衛音楽(ミュージック・コンクレート)の旗手という設定もオーソドックスな音楽家に変更された。
 原作の骨格をなす〈犯人は誰か〉という謎解きをやめ、なぜ新進音楽家が善良な罪のない三木を殺すに至ったのか、その解明がクライマックスに用意される。
     △

 そのクライマックスが斬新だった。
 和賀が作曲した交響曲「宿命」が発表されるコンサート。その演奏(音楽)に乗せて、捜査会議と和賀の子ども時代の回想シーン(本浦父子の放浪の旅)がシンクロする。
 この回想シーンが観客の涙を誘った。ハンセン(氏)病患者に対する世の中の差別と偏見、そんな中での父子の情愛が浮き彫りにされたのだから、涙なくしては観られないショットが次々にでてくる。感動作といわれる所以だ。
 以後、「砂の器」といえば、この映画のクライマックスが応用されることになる。
 犯人が音楽家で交響楽を作曲してその発表会に逮捕されるというパターン、といえばいいか。

 しかし、原作は違う。全体を貫いているのは謎解きなのだ。蒲田操車場の殺人事件を端に発する連続殺人の犯人は誰か。その犯人を追って今西と吉村の二人の刑事が活躍するミステリ。
 ハンセン(氏)病、本浦父子の放浪は、小説では最後の方にほんのわずか書かれているに過ぎない。
 

 この項続く




 一昨日(10日・土)、昨日(11日・日)とスペシャルドラマ「砂の器」が二夜連続で放送された。本当は3月12日(土)、13日(日)に放送される予定だった。東日本大震災で延期になったのだ。3月のときはかなり番宣のスポットを目にしたが、今回はまるで目にしなかった。10日の朝刊で初めて気がついたほど。いや、テレビ朝日を始終観ていたら、目にしたのかもしれない。まあ、知らなかったのは自分だけということもありうるか。

 「砂の器」がテレビ朝日でスぺシャルドラマになると知ってまずうんざりした。もう何度目の映像化になるのか。決定版としてすでに松竹映画(野村芳太郎監督作品)があるのだからいい加減によせばいいのに。
 原作と同じ時代を舞台にして描くと知り興味がわいた。中居正広が主演したTBSの連続ドラマはまるで観る気がしなかったのに。その理由について、かつてこう書いた

     ▽
 以前、同じTBSで「砂の器」がドラマ化されたが、野村芳太郎監督作品に強く影響された内容で失望した。
 TVドラマは橋本忍(と山田洋次)の書いた映画シナリオを原作としながら、現代を舞台にストーリーを改変した。
 どうしてそんなことをしたのか?
 映画と違い、TVドラマは時間がたっぷりある。だからこそ、原作の「砂の器」とがっぷり四つに組めばいいのだ。時代や登場人物を原作同様にして、きちんと当時の風俗を挿入しながら若いアーティストたちの犯罪劇、群像劇を描けば、映画とは一線を画す新しい「砂の器」が生れる可能性があったのに。
     △

 今回のドラマ化の売りは若手刑事の吉村を主役にするというものだった。映画で森田健作が演じた所轄署(蒲田?)の刑事である。今回のドラマでは玉木宏が演じている。ちなみに本来の主人公は警視庁の今西刑事(映画では丹波哲郎が名演技を見せた。今回のドラマでは小林薫が演じている)。

 原作にはない役で中谷美紀扮する新聞記者が登場する。吉村と友達以上恋人未満的な間柄。TBSのドラマみたいに現代を舞台にするのなら当然パスしていた。原作と同じ昭和30年代半ばが舞台と知って、ある期待を持った。犯人捜査の対象が和賀英良を含む若きアーティストたちになるのではないか。
 予想はある部分的中した。ヌーボーグループがきちんと登場したのである。

 もうひとつ、これはまったく個人的なことだが、吉村と女新聞記者がよく利用する喫茶店が〈JAZZ&COFFEE JamJam〉だったこと。神戸は元町にあるジャズ喫茶。紙ふうせんライブの会場として昨年は5月と年末、今年はGWに足を運んで、もう馴染みのお店なのである。この店をロケセットとして使用している。

 TBSの連続ドラマがそうだったように、このスペシャルドラマもハンセン(氏)病を無視した作りになっている。つまり本浦千代吉が幼い息子を連れて故郷を捨て放浪の旅に出る理由づけがまったく別のものに差し替えられているのだ。
 思うに、現在のTV業界では、ハンセン病はアンタッチャブルな事項なのだろう。タブーとして暗黙の了解があって、最初からスタッフサイドに扱う気がないのか、扱おうにもハンセン病患者の団体から許可がでないのか、その理由はわからないけれど。たぶん前者だと思う。

 名作の誉れ高い映画「砂の器」もシナリオが書かれてから実際に撮影に入るまで14年の月日を必要とした。問題は映画の中におけるハンセン(氏)病の扱いだったと「脚本家・橋本忍の世界」(村井淳志/集英社新書)で知った。打開策としてラストに次のような文言(字幕)を挿入し団体からの了解を得たという。
「ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰が続いている。それを拒むものは、まだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみであり、本浦千代吉のような患者はもうどこにもいない」

 21世紀になっても差別と偏見は残っていた。もう何年も前になるが、某温泉旅館でハンセン病患者に対して宿泊を拒否する事件が起きた。
 この騒動がなければ、「砂の器」をドラマ化してもハンセン病が無視されることはなかったのかもしれない。勝手に思っているだけだが。

 テーマの一つである病気が扱えないなら、映像化なんてしなければいいのに。


 この項続く




 日本テレビの「ぶらり途中下車の旅」。最初は30分番組だったのに、数年前(?)に1時間に拡張された。人気があるからだろう。
 土曜日の午前、起きていれば観る。まあ、TVをつければ、の条件つきだけれど。TVをつけててもほかの番組を見ていることもある。チャンネルを替えてこの番組をやっているのに気づき、あわてて見入るなんてことも度々だ。

 ところで、この番組、本当に〈旅人〉がぶらり途中下車する旅だと思っている視聴者はいるのだろうか? 
 駅を降りた〈旅人〉が近所の公園を訪れた。何やら奇抜な木のおもちゃで遊んでいる年配の男性がいる。一緒になって遊ぶ〈旅人〉。おもちゃは男性が作ったものだという。
「近くに工房があるのでちょっと寄っていきませんか」
「よろしいんですか」
 なんてやりとりがあって〈旅人〉は工房にお邪魔してあれやこれや。

 番組の中でよく見るパターンだが、たまたま偶然なんてあるわけないじゃないか! 
 調査(?)担当の構成作家が、今度取材する沿線の駅周辺を調べて、こういう有名な工房がある、出演してもらいましょう。いついつ撮影にいきますので、何時に○○公園で待機していてください、なんて交渉して。お店やレストランも同様。
 実際にロケハンしてから決めるのかも。
 TVなんだからそんなことは当然だ。しかし、〈旅人〉が訪れる場所は途中下車した駅周辺。ずっとそう思っていた。うちの近所の団子屋に取材が来たことを知るまでは。

 その団子屋は西川口から歩いて15、16分ほどのところにある。住宅街にあるから、初めての人が西川口駅から歩いてたどりつけるものではない。ぶらり歩いて行ける店ではないのである。
 オンエアを見て驚いた。
 JR京浜東北線のぶらり途中下車ではなかった。埼玉高速鉄道線。南北線が赤羽岩淵駅を境にこの鉄道に切り換わる。その川口元郷駅を降りてぶらりやってきたところがくだんの団子屋。
 そんなバカな! 川口元郷駅からだといったい何分かかると思っているのか? だいたい川口元郷駅圏内じゃない。いくらなんでもの世界なのだ。
 ずいぶん経ってから、店の人に訊いた。
「どういう経緯で取材が来たんですか?」
「インターネットで知ったらしいんですよ」
 以後、番組で紹介されるスポットが降りた駅の周辺だとは思わなくなった。

 番組ではたまにこんなシーンにお目にかかることがある。
 それまでは晴れていたのに、カットが変わると 雨になって〈旅人〉が傘をさしているなんてシーンだ。変わりやすい天気だったのだろう、くらいの認識だった。
 数年前、某落語会(二人会)で真相がわかった。若手の人気噺家某がマクラで「ぶらり途中下車の旅」の思い出を語ったときだ。〈旅人〉として小田急線沿線を紹介した。このとき撮影に3日間を要したと。2日目だか3日目だかに雨が降った。前日は晴れているので画がつながらないだろうと心配すると、ディレクターは鷹揚にかまえていて「別にいいんじゃないですか」。
 考えてみれば、いくつもの駅に降りて取材するわけだから1日で終了するわけがない。晴れから雨のつなぎはそういうことだったのかと得心した次第。
 それにしてもタイトルに偽りありの番組だなぁ。

 似たような番組でテレビ朝日「ちい散歩」がある。あれは見るからに行きあたりばったりのような気がするのだが、実際はどうなのだろう。
 行きあたりばったりといえば、テレビ東京「モヤモヤさまぁ~ず2」もそうだ。とはいえ、番組内で必ず立ち寄る食べ物屋はどうなんだろう? その日に決めて事前に交渉するとしても、料理の味が大いに関係するので(必ず感想を言いますからね。まずかったら目も当てられない)、やはり撮影日前の事前調査はしているような気がする。
 真相はいかに?




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
私家本「僕たちの赤い鳥ものがたり」
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」

神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。遊びにきてください。

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