最近気がついたのだけれど、赤い鳥の「卒業」(ラストアルバム「書簡集」A面1曲め)の前奏(アルペジオ)って、ベッツィー&クリスの「白い色は恋人の色」にそっくりですよね? コード進行同じかな。

          * * *

 承前

 コピーバンド大会へのエントリーを決めて、すぐにSさんに電話した。
「枠はまだ残っているでしょうか?」
「大丈夫だよ」
 桑原さんが「砂絵」を朗読して、僕が「尺取虫」を歌うことを伝えた。「絶対ほかとかぶらないでしょう?」
「了解!」
 翌日、Sさんからメールが飛んできて、事務所にエントリーシートをFAXしておいてねとあった。

 さて、困った。桑原さんと僕以外まだ確定していないのだ。Aに連絡すると、8日は予定があってリサイタルだけのみの上京となった。ノアさんとはなかなか連絡がとれない。
 そのうち桑原さんから連絡があった。「8日、どうしてもはずせない用事ができて参加できなくなったの!」
 メインキャストがいなければ始まらない。コピーバンド大会への出演は取りやめとなった。
 考えてみれば、ノアさんはプロだからルール違反になるだろう。可能だとしても、練習はどうすつもりだったのか。楽譜の準備とか。

 とにかく、日付は今年の1月10日土曜日に戻る。
 プライム楽団のライブは16時30分(あれ、受付だっけ?)から。少し遅れて会場に到着して受付をすませ、ドリンク付なので生ビールをもらって席を探した。テーブル席はほとんど埋まっていて、一番後方の補助イスが空いていたので、着席した。

 ノアさんは遅れるとのこと。ほかに知り合いはいないし、なんて思っていたら、トイレから戻ってきたと思われる男が目の前のテーブル席に座った。独特の風貌(痩せた田村泯 by後藤さん)は後姿でもわかる。Tさんだった。

 Tさんは紙ふうせんがまだ東京で活動していたころのマネージャーだ。関西に帰るにあたって事務所を辞めて、カシオペアのマネージャーを長く務めた業界のベテラン。現在はフリーで、それを知った後藤さんから依頼されて40周年記念の1年間だけ、期間限定で東京地区のマネージメントを請け負っている。ベテランのバックアップで40周年を盛り上げようというわけだ。

 昨年6月に開催されたFC東京交流会で知ったのだが、KさんとTさんは、紙ふうせん結成前後からの知り合いだという。赤い鳥の追っかけ(?)で、紙ふうせんになってからは雑誌「紙ふうせん」の投稿者。事務所によく遊びに行ったくちだろう。うらやましい。
 交流会で旧交を温め、自身のバンドプライム楽団が「アマチュアコピーバンド大会」にエントリーしたので、Tさんをライブに誘った、ということは理解できた。
 ノアさんもかつてのバンド仲間、ライブハウスで対バンになったこともあったのだろう、だから声をかけた。
 あれっ? なぜオレには連絡がないのだ? 数日前にアマチュアコピーバンド大会の件で電話しているのに、ライブの話なんてこれっぽっちもでなかった……
 まあ、いいや。

 ライブが始まった。


 この項続く




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 承前

 上映終了後の懇親会でノアさんに紙ふうせんのリサイタルの件を伝えるとぜひ行きたいと。心配していたスケジュールもその日は空いていて早速手帳に書き込んでくれた。
 リサイタルにはもう一人、高崎在住のAを誘っている。小学校からの友人でフォーク全盛期の中学時代にはバンドを結成して、六文銭や岡林信康を盛んにコピーしていた。Aの家に遊びに行ったときに赤い鳥スタジオライブを聴かせてもらったことがある。エーメンコーラスのやりとりが印象的だったのを覚えている。

 二人を誘ったのには理由があった。もちろん、ノアさんを誘った一番の理由は紙ふうせんのステージングを生で観てもらいたいと思ったからだが、もし、翌日も予定がなければ、協力してもらえないかという下心があった。

 紙ふうせん結成40周年記念として、15年(年が明けたので正確には16年)ぶりに東京でコンサート「40周年記念リサイタル なつかしい未来」が開催されるのだが、もう一つ、関連で「赤い鳥・紙ふうせん/アマチュアコピーバンド大会 この指とまれ!」が企画されたのだ。
 この話を聞いたのは、昨年3月29日の夜。FC交流会の流れの席だった。翌日、帰宅してから、かつてのギター小僧たち、現在はオヤジバンド(あるいは個人)で活動しているみんなに電話してスケジュールの確保を依頼した。このときは観客として、赤い鳥や紙ふうせんの楽曲を大いに楽しみたいと考えていた。

 6月の東京交流会で桑原美由紀さんがこのライブに乗り気であるがわかった。
 桑原さんはプロの朗読家で、10年前、紙ふうせん30周年のときは、地元川口のライブ喫茶でファンによるファンのための記念イベント「紙ふうせんトリビュートライブ」を開催したときにはファーストアルバム「またふたりになったね」のライナーノーツを朗読してもらった。桑原さんとはずいぶん前から「竹田の子守唄」をモチーフにした朗読ライブを企画しているのだが、まだ実現していない。

 正式にコピーバンド大会がインフォされてからのこと。
 閃いた。
 桑原さんを「砂絵」の朗読で参加させよう! 
 赤い鳥のアルバム「祈り」の3曲めに収録されている「砂絵」は歌ではなく後藤悦治郎さんの朗読なのだ。バックはギター(by大村憲司)とパーカッション(カスタネット?)、スキャット(大川茂)。

  風に吹かれ
  ふるさとなくした砂たちは
  こよい集まる人の手の中に
  祭りの砂絵のひもになり
  指からおちてへびになる

 桑原さんに話すと了解してくれた。単なる朗読はつまらない。レコードと同じようにバックに演奏をつけようか。よし、ギターはAにお願いしよう。オレもカスタネットとスキャットで参加するゾ。どうせ参加するのだったら、「尺取虫」を歌おうか。「尺取虫」は「砂絵」に続いて「祈り」に収録された、後藤さんのヴォーカルによるコミックソングのような愉快な楽曲なのである。

  シャクトリムシが恋をした
  三日月さまに惚れちゃった
  熱い想いをうちあけに
  慣れた住家を後にした

 これをアコーディオンの伴奏で歌うっていうのはどうだ? ならアコーディオンをノアさんにお願いしてみようか。ノアさんと知り合ったのは某自主映画の音楽をノアさんが担当したからだ。その音楽ではノアさんがアコーディオンを弾いていた。

 この項続く




 「シン・シティ 復讐の女神」の試写会の入場待ちのため、有楽町ビックカメラビルの階段にできた列に並んでいるとき携帯が鳴った。水木ノアさんだった。
「Kさんのバンド、プライム楽団のライブが10日にパピーズであるんだけど、一緒に行きませんか?」
「行きます、行きまーす!」
 三連休だから、大丈夫だろうとすぐに返事をしたのだけど、後で考えたら、2日め、3日めだったらNGだった。
 
 Kさんとは紙ふうせんのFC東京交流会で知り合った。地元(千葉)のオヤジバンドで活動していることは教えてもらっていた。ライブに接したことはないのだけれど。
 ただ、どこをどう探しても手に入らない泉谷しげるのアルバムを借りたとき、会った場所が神田だったので、居酒屋で飲んだ後に、フォーク酒場に立ち寄ってKさんの弾き語りを聴いたことがある。

 昨年の6月、久しぶりに東京で交流会があった。その連絡の電話だったと思うが、Kさんのバンドが錦糸町のパピーズでライブをやっていることを知った。
 パピーズなら何度か行ったことがある、と僕が反応してつけ加えた。「水木ノアさんという歌手が出演するライブがあって」

 ノアさんはもともとGODDESSというロックバンドのヴォーカリストとして活動していた。そのときは四谷のライブハウス「アウトブレイク」をホームグラウンドにしていたが、解散してからは錦糸町パピーズのイベントライブに出演するようになった。
 このパピーズ、店内に60年代、70年代グッズがいっぱいで、興味ある人にはいろいろ楽しめるワンダーランドなのだ。
 それはともかく、Kさんの一言に驚愕した。
「ノアさん知っているよ」
 
 3月7日に紙ふうせんのコンサートがよみうり大手町ホールで開催される。この情報を知ったとき、ノアさんに観てもらいたいなと思った。できれば、翌日の「赤い鳥・紙ふうせん アマチュアコピーバンド大会」も。Kさんのバンド、プライム楽団も出演するので。
 ただし、こちらの勝手な理由で約3年音信不通にしていたので、ノアさんと連絡とるのに苦労した。ノアさん、けっこう天然なのでいろいろドタバタがあったのだが、それもまた別の話。
 とにかく、12月、元「まぐま」同人のK氏(って、プライム楽団のKさんとは別の人)から新作の上映会があると連絡をもらって、3年ぶり(以上?)に池ノ上のシネマボカンへ行くと、ノアさんと再会した。映画に出演していたのだ。
 上映会後の懇親会で、Kさんのことを話すと、今度はノアさんが驚いた次第。
 

 この項続く




2015/01/18

 「ベイマックス」(MOVIX川口)

 予告編で抱いたイメージと違う内容だったと、どなたかがどこかに書かれていた。確かにその通り。僕自身、兄を失った少年が、兄が作った看護ロボットのベイマックスと繰り広げる少しSFチックな日常ドラマ、TVアニメ「ドラえもん」のようなストーリーを予想していた。ベイマックスとの生活を通して失意の少年が元気になるといったような。

 確かに映画はそんな感じで始まる。が、大学生の兄が、大学の火事で焼死したあたりから、あっと驚く展開になっていく。ほのぼのロボットものというより、スーパー戦隊そのものではないか!
 天才ゆえに道をはずれた生き方をしようとする弟の将来を心配した兄が、自分が通う大学連れて行き研究仲間たちを紹介するシークエンスが伏線だったわけだ。

 このツイストに快哉を叫んで、以降の笑いをまぶしたサスペンスとアクションの連打に夢中になった。サンフランソウキョウの街並みにうっとり。2回ほど目頭を熱くした。クライマックスは「ジャイアント・ロボ」かぁ。
 ほんと、よく出来たアニメだと思うが納得できないところもある。ネタばらしになるので詳しくは書けないが、火事の後の遺体回収はどうなっているのか? そこでひとつ謎が生じるはずだもの。
 でも、まあ、こんな満腹感に浸れるとは思っていなかった。

 僕の席ひとつ置いた左隣が親子だった。お母さんを真ん中にしてこちらが小学校低学年の男の子、向こうが小さな女の子。女の子は途中からお母さんに抱っこしてもらって鑑賞。この女の子がエンディングロールの主題歌に合わせて、手を叩きだした。その叩き方がまるでカスタネットのようで、きちんとリズムをとっている。幼稚園で習ったんだネェ、えらいネェ。かわゆいなぁ。

 帰ってきてネットで調べて知ったことなのだが、このアニメ、原題を「Big Hero 6」といってマーベルコミックが原作なんだとか。映画のチームは日本人の少年のほか、ざまざまな人種がいるが(サイボーグ009ですな)、コミックの方はすべて日本人で日本が舞台。そういうことか。

 僕が観たのは日本語吹替版。ディズニー映画の吹替版は小さな子どもたちが鑑賞することを考慮してか、劇中にでてくる文字も日本語に直していることがある。今回はメインタイトルも日本向けの「BAYMAX」だった。字幕版ではどうなっているのだろうか。

 「アナと雪の女王」の吹替版では、エンディングロールの主題歌も日本語だった(まだ映画観ていないけど)。でも、「ベイマックス」は英語のまま。この違いは何に基づくのか。
 主人公ヒロのおばさんの声が菅野美穂。どうしても本人の顔が浮かんでしまって困った。兄役・小泉孝太郎の方は意識しなかったのに。




2015/01/12

  「海月姫」(MOVIX川口)

 NHK朝のテレビ小説「あまちゃん」が終了後、能年玲奈が映画「ホットロード」に主演すると聞いてもまったく食指が動かなかった。
 今日本映画を侵食している、旬の若手俳優(男女)を起用した少女マンガ原作のラブストーリー。
 もう、ほんと、嫌になる。食わず(観ず)嫌いはいけないが、観たいと思わせてくれないんだから仕方ない。この傾向はしばらく続くのだろうか。TVドラマの安易な映画化とともに撲滅したいのだが。

 それはともかく。
 「ホットロード」にはまったく興味がわかなかったが、「海月姫」は映画化の話を聞いたときから絶対劇場に駆けつけようと思った。もちろん原作を知っているわけではない。おたくを主人公にしたコメディの方が今の能年玲奈にはピッタリだってこと。単に「あまちゃん」のイメージを求めているだけだって。

 映画はそれなりに面白かった。
 最初は笑いがなかなかはじけなかったが、途中からニヤニヤ、ムフフ、アハハとなったから良しとする。
 お話は他愛ない。予定調和で進行するし、展開はほとんどありえないと思えるものだ。クライマックス、ファッションショーの会場が主人公たちが暮らすアパートなのだが、どこにそんな広い空間があったんだぁ! と突っ込みたくなる。
 でも能年玲奈のおたくっぷりがかわいいし(なぜか中川翔子とダブってくる)、何より菅田将暉の女装姿に萌える。足がとんでもなく美しい。必見! この役者、「ごちそうさん」で知ったのだが(ヒロイン夫婦の長男役)、もともとは「仮面ライダーW」の主人公だったのか。

 エンディングになってSEKAI NO OWARIの主題歌が映画にフィットしているなあと思いながら、キャストクレジットを見ていて驚いた。おたく仲間に池脇千鶴と篠原ともえがいたのだ。
 仲間たちの中で見た目でわかるのはアジアン馬場園だけ。池脇千鶴はアフロヘアで顔が見えないのだからしょうがないが、篠原ともえのメーキャップと演技には騙された。もう一人は、太田莉菜。確か「脳男」で二階堂ふみとぶっとびコンビを組んだ人だ。松田龍平の奥さんなのか。知らなかった。
 菅田将暉の兄、30歳の童貞エリートを演じる長谷川博己は二枚目よりヘンな役の方が断然魅力的だ。




 先週、3連休の最終日である12日(成人の日)は「シネマDEりんりん」の新年会だった。シネりんは2年半ずっと不参加だったが、今年からはできるだけ参加するつもり。
 といわけで、新年会は18時からだが、17時からの今年の活動計画に関する打ち合わせから出席した。

 紀伊国屋に立ち寄ったことで少し遅れて会場に到着すると見知らぬ顔の方がいた(こちらだって、見知らぬ顔なのだが)。その一人がこの会の実行役員的存在のI氏と話していて、会話の中に「ショーケンという孤独」という言葉がでてきたので思わず耳をそばだてた。
 新年会が始まって、その方に「ショーケンという孤独」の話題をふると、なんと番組でショーケンを取材した本人だった。カメラもまわしているとか。名刺をいただいた。ジャーナリストの原渕勝仁氏。最近では北朝鮮のよど号犯人たちを取材した様子が某ニュース番組で流れた。
 「ショーケンという孤独」では企画としてクレジットされているという。

 「ショーケンという孤独」は、フジテレビ「ザ・ノンフィクション」で企画されたドキュメンタリーではなかった。実際は放送されるまで紆余曲折があったという。まだ何のアテもないうちから、原渕氏がショーケンに密着してカメラをまわしはじめた。ショーケンのマネージャー氏からの依頼だった。もちろん自費である。
 その後、いくつかの番組に売り込んだ。最初はうまくいかなかった。某局では、稟議が最終決裁までいったものの、その最終決裁者が「犯罪者のドキュメンタリーなどまかりならん」と却下されてしまったとのこと。やはりTVではショーケン排除の風潮があったのか。

 で、「ザ・ノンフィクション」のプロデューサーに取材テープを見せたところ、「よくぞこんな映像が撮れた!」と感激して即座にGOサインが出たと。
「だから企画書は提出していないんですよ」と原渕氏は笑った。
 「ショーケンという孤独」を観て、私はショーケンの復活を確信したんですよ! 映画「TAJOMARU」は出来は悪かったけれど、ショーケンの演技には大いにうなづけるものがあり、その後の活躍を期待していたのですが……

 トーク&ライブも成功し、あとは本格的に映画で復帰、のはずだった。にもかかわらず、主演の「痴人の愛」の映画化(「ナオミ」)はポシャり、助演(?)の「朝日のあたる家」はプロデューサーの詐欺事件の影響でお蔵入りになるわ、以降、映画出演の話は聞こえてこなくなかった。映画復帰に尽力していた市川森一さんが亡くなられて、それが理由かどうかわからないけれど、「傷だらけの天使」映画化の話もナシのつぶてとなった。

「『ショーケンという孤独』PART2も準備されていたんですよ」
 2はライブ中心に構成される予定だったとその構想を語ってくれた。
 観たかった! 観たかった! 観たかった!

 いったいどうしてこうなってしまったのか?
 まあ、なんとなくはわかっている。
 ファンだから批判的なことは書きたくないが、ひとつだけ。
 不遇時代にネットサーフィンしていろいろなショーケンネタを仕入れては、紹介、リンクを貼った個人のファンサイトを肖像権の問題であっけなく閉鎖させてしまった、あの対応はないだろうと憤った。確かに問題は大ありだけど、その処置を施す期間、猶予をなぜとれなかったのか。

2015shinnennkai
シネりん新年会 
参加者全員で「はい、ポーズ!」




 同人ならぬ異人誌「まぐま」の70年代特集号に音楽に関する文章を依頼され寄稿したのが「フォークはジャンルではなかった。」である。その後、「僕たちの赤い鳥ものがたり」の本をだすにあたって、おわりにに収めた。

          * * *

 一九七〇年代はフォークの時代だった。
 その前半はまさに黄金時代だったといえるだろう。ちょうど中学時代を送った僕はその洗礼をたっぷり浴びたものだ。
 あの時代、フォークとは一体何だったのだろうか?

     *
    
 フォーク、フォークソングとは何か?
 前田祥司・平原康司編著『60年代フォークの時代』(シンコーミュージック)によれば〈古くから各地で伝承されてきた民謡や、民衆の価値観や生活の実感から生まれてきた歌〉とある。
 そうか、赤い鳥解散後ずっと追いかけている紙ふうせんはまさしくフォークを歌っているのかと改めて思う。
 ともかくフォークにはそれまでの歌謡曲にはない何かがあった。その何かに僕は強く惹かれたのだ。

 初めての歌謡曲との出会いはグループサウンズだった。六〇年代の後半、小学2年か3年の時だ。彼らが楽器を演奏しながら歌うスタイルに痺れた。
 アメリカの人気TVドラマ『ザ・モンキーズ』の影響があったかもしれない。モンキーズがビートルズの亜流としてTV局が番組用に作ったなんてことは当時知るよしもなかった。
 ビートルズに目覚め、その音楽の魅力にとりつかれるのはずっと後になってからである。

 グループサウンズ(GS)との出会い――それはタイガースの「モナリザの微笑」だった。「モナリザの微笑」聴きたさにTVの歌番組を見るようになって、ただ単に歌う人(ヴォーカル)より楽器を演奏しながら歌う人に注目すようになった。
 加橋かつみがギターを抱えながら「花の首飾り」を歌った時にその思いが決定的になった。ジュリーよりトッポの方が断然かっこよかった。
 同時に歌を作る人にも興味を覚えた。「青い鳥」を作詞作曲したのが、森本太郎だと知ると、今度はタローが憧れの存在となった。

 その頃、歌というものを誰でも作れるなんて考えもしなかったのだ。作詞家、作曲家と呼ばれるのはうんと年をとった偉い人というのが小学生だった僕のイメージだった。
 「バラが咲いた」等多数の流行歌の作曲家で、子ども心に注目していた浜口庫之助を最初にTVで見た時、僕の作曲家のイメージは固まった。
 年に一度「日本レコード大賞」の番組に出演する古賀政夫や服部良一の影響がたぶんにあったかもしれない。

 自分で歌を作り、自分で演奏し、自分で歌う。シンガー・ソングライターという存在がとてもまぶしく見えたのだった。
 GSブームは歌謡界を席巻した。数々のバンドが登場し、今でもカラオケで愛唱するようなヒット曲を生んだ。当然僕はTVの歌番組で彼らを追いかけた。
 夢中になりながら漠然と疑問がわいてきた。
 どうして詞の内容に現実感がないのだろう?
 湖、乙女、古城、白鳥……そこに描かれる世界はもろ西洋のおとぎ話。
 歌謡曲自体も惚れたはれたの恋の歌ばかり。
 七一年、小学6年にもなるとそんな歌謡曲に興味を失っていく。GSブームもすでに下火になっていた。

 その頃から洋画を観るようになった僕は映画音楽に夢中になる。
 『小さな恋のメロディ』でビー・ジーズを知った。ラジオで特集(当時この手の音楽は〈ラブサウンズ〉と呼ばれ、専門の番組もあった)があると、家にあった古臭いトランジスタラジオを取り出してきて夢中になってダイヤルを合わせた。
 『ある愛の詩』ではまずフランシス・レイの音楽に夢中になった。『白い恋人たち』『男と女』の音楽にも酔いしれる。

 洋楽に対する目覚め。映画音楽から洋楽に移行しジャズに行き着くのが王道だと後に聞いたことがある。
 歌謡曲に興味を失っていた僕は当然ビー・ジーズやフランシス・レイあたりから海外のポップスに耳を傾けてもいいはずだった。そうはならなかった。フォークブームが押し寄せてきたのである。

 よしだたくろう(デビュー当時の表記)の「結婚しようよ」をクラスのませた女の子たちがくちずさむようになった。「変なメロディだな」といぶかしく思っていたら、あれよあれよというまにヒットしてしまった。

  僕の髪が肩まで伸びて
  君と同じになったら
  約束どおり街の教会で
  結婚しようよ

 男が肩まで髪を伸ばす、それを恋人との結婚の約束にする行為が十二歳の少年には何とも不思議に思えた。歌と同じように肩まで髪を伸ばしたたくろうが結婚したことが驚きだった。
 実生活をそのまま歌にしている!

 同じ頃、小室等をリーダーとする六文銭が上條恒彦をヴォーカルに迎えて「出発(たびだち)の歌」で〈世界歌謡祭〉グランプリを受賞している。(ちなみにたくろうの結婚相手は六文銭のメンバー・四角佳子だった。)
 上條恒彦の豪快な声量、ラブソングではない雄大な曲がたまらなく魅力的だった。

 翌七二年、生まれて初めてレコードを買った。TVの人気時代劇『木枯し紋次郎』の主題歌「誰かが風の中で」である。
 小室等・作曲、上條恒彦・歌。
 長髪に髭を伸ばしたヒッピーみたいな人がこんな素敵な曲を作るのか!
 英語(カタカナ)のグループ名ばかりだったGSに比べ、日本語のグループがいることにも目を瞠った。

 レコード店のフォークコーナーで赤い鳥の名を発見した時はちょっとした衝撃だった。語感、字面。実にセンスが良かった。
 六〇年代にアメリカのモダンフォークが日本に輸入され、日本流にアレンジされて歌謡曲の一ジャンル、カレッジフォークとして人気を博したこと、もう一つの流れとしてメッセージ性の高い、いわゆる〈関西フォーク〉としてアングラ的なムーブメントがあった背景など知りはしない。
 僕がフォークという音楽があることをはっきりと意識したのはこの時である。
 ただし率先してフォークを聴きだしたわけではない。まだ映画音楽にどっぷりつかっていたのである。 

 中学生になってからは音楽とセットにして洋画を観ていたところがある。ニーノ・ロータ(『ロミオとジュリエット』『ゴッド・ファーザー』)、エルトン・ジョン(『フレンズ』)、ヘンリー・マッシーニ等々。サウンドトラックのEPを買い集めたものだ。アンディ・ウィリアムスの「ゴッド・ファーザーのテーマ」はEPをかけながらよく一緒に歌っていた。
 話が前後するが、中学生になると、とたんにギターブームに見舞われた。猫も杓子もギターを抱えて「禁じられた遊び」を弾いていた。

 ギター熱はそのままフォーク熱に移行していく。
 2年になると抜群のギターテクニックを身につける同級生たちが現れた。
 彼らは授業で購入したガットギターから自腹のアコースティックギターに持ち替えフォークソングを歌いはじめた。

 その中に一緒に映画音楽に夢中になっていた親友がいて、バンドを組んで六文銭や岡林信康を盛んにコピーしはじめたのだ。こうなると僕も影響されないはずがない。
 ギターがまったく上達しなかった僕は、バンドに参加することはなかったものの、彼らに借りたカセットテープでフォークを浴びるように聴くようになったのである。

 歌謡曲を、特にアイドルが台頭するようになって、完全に見くびっていた。プロの作詞家、作曲家が提供する歌を言われたとおりにただ歌う人形のように見えた。歌そのものも作りごとの嘘の世界。ほとんどが恋の歌ばかり。触発されるということがなかった。おもしろくも何ともない。
 それに比べ、フォークの歌い手たちはまがりなりにも自分たちの言葉を持っていた。ほとんどが自作自演。シンガー・ソングライターとしての魅力である。(だからギターなり、ピアノなり弾けないと、なおかつ曲作りができないと、どんなに歌唱力があっても僕自身の評価は低かった。)
 詞の内容が何やら奥が深そうに思えた。

 六文銭の歌に知的好奇心をくすぐられた。印象的なメロディで歌いやすかった。
 「街と飛行船」「夢のまた夢」「面影橋から」等々。

  面影橋から天満橋
  天満橋から日影橋
  季節はずれの風にのり
  季節はずれの赤とんぼ
  流してあげよか大淀に
  切って捨てよか大淀に

 たぶんに及川恒平の世界に惹かれていたのだと思う。

 井上陽水の「傘がない」には度肝を抜かれた。
 都会で自殺する若者が増えていることより政治よりも、雨の中、恋人に逢いに行くのに傘がないことが問題だ、と嘆くこの歌については学生運動の挫折と結びつけて当時知識人たちがしたり顔で語っていた。しかし、僕はこの〈何よりも君に逢いたい〉という想いがまっすぐに胸に響いた。そういうピュアな気持ちを社会情勢と絡めて皮肉まじりに表現する姿勢なのではないかと。
 へたなギターでどうにかコード進行できたのが「東へ西へ」である。詞にくぎづけになった。どうしてこんな詞が書けるのだろうかと思った。

  電車は今日もスシズメ
  のびる電車が拍車をかける
  満員いつも満員
  床に倒れた老婆が笑う

 こんな異様な風景が歌になるなんて! 
 とにかく陽水の詞にはショッキングな言葉が多い。「かんかん照り」では暑さにやられて子どもが死んでしまうのだ。よくわからない世界が展開されることが多かった。哲学(というものがどういうものか知らなかったが、とにかく難解な内容ということで)みたいな世界がAmやEmを多用した暗くて甘いメロディに乗って展開されるのだからたまらない。

 泉谷しげるの登場も忘れられない。
 聴いたのはライブ盤。「黒いカバン」に笑った。客席から「黒いカバン」のリクエストがあって、歌うたびにメロディが変わっちまうんだとか何とか言いながら歌いだすのが、歌なのかつぶやきなのか叫びなのかわからないヘンテコなシロモノだった。要は警察官に不審者と疑われた泉谷が何だかんだと難癖つけるというもの。
 かと思うと「春夏秋冬」では繊細な詩人の片鱗も見せる。アナ―キーなロマンチスト。キャラクターが強烈だった。
 「国旗はためく下に」は高校生になってから小室等のカバーで知った。

  貧しき者は美しく思われ
  富あるものはいやしく
  夢を語るは禁じられて
  ただただ割り切れと
  小さい者の無いものねだり
  たまに手にする札束切らし
  旗を掲げて他国へ飛び
  恥の上塗りこの上なし

  国旗はためく下に集まれ
  融通のきかぬ自由に乾杯

 拓郎や陽水は確かに人気者だった。しかし当時男女ともに熱心に聴いていたのがかぐや姫ではなかったか。
 「神田川」のヒット、それに続く「赤ちょうちん」「妹」の三部作。解散後伊勢正三が組んだ風のファーストシングルでヒットした「22歳の別れ」。

  あなたはもう忘れたかしら
  赤い手ぬぐいマフラーにして
  ふたりで行った横丁の風呂屋
  一緒に出ようねって言ったのに
  いつも私が待たされた
  洗い髪がしんまで冷えて
  小さな石鹸かたかた鳴った
  あなたは私の身体を抱いて
  冷たいねって言ったのよ

  若かったあの頃何も怖くなかった
  ただあなたのやさしさが怖かった

 詞は喜多条忠、作曲は南こうせつ。
 歌謡曲に嫌気がさしていた要因の一つに男が書く女言葉の詞、それを男が歌う気持ち悪さ、というものがあった。
 かぐや姫の「神田川」や「22歳の別れ」はまさしくその流れになるのだが、なぜかこの世界はすんなり受け入れられた。〈四畳半フォーク〉などと揶揄もされたが、中学生にその意味することなんてわかりはしない。
 二十代男女の、まるでドラマのワンシーンのような、リアリティのある私小説的恋物語に十数年後の自分たちの姿を重ね合わせたような気がする。まだ実感としてわからない恋愛への羨望と憧憬だろうか。

 ちなみに三部作はすべて映画化されている。『神田川』は東宝で出目昌伸監督、草刈正雄・関根恵子主演。『赤ちょうちん』と『妹』は日活で藤田敏八監督、ともに秋吉久美子がヒロインを演じた。

 「神田川」は当時地方に住む女子中学生に都会生活におけるある種の願望を抱かせた。
 同棲でも何でもいい、一間のわびしい部屋で暮らし、彼と一緒に銭湯に行くというものだ。本当にしたいわけではない。ちょっと経験できればいい。
 七〇年代末から八〇年代初め、すでに三畳間なんて部屋はなくなっていたが、四畳半一間はまだまだ一般的だった。貧乏学生(社会人)とつきあって、一時「神田川」の生活に触れてみる。銭湯に一緒に行くことは必須条件。それを青春の思い出にそれなりに収入のある人と結婚して風呂、トイレ付2DKマンションの生活を満喫するというもの。
 個人的にこれを〈神田川症候群〉と呼んでいる。経験者が語るのだから間違いない!

 閑話休題。
 僕はといえば、六文銭から小室等のソロ活動に注目していった。
 小室等の書くメロディが自分の感性にフィットしていたということがある。と同時にその詞の世界が哲学あり、叙情あり、自然賛歌ありというもので、あふれんばかりのイメージを喚起させてくれたことも大きい。

 小室等はほとんど詞を書かない。さまざまな人が詞を提供していた。
 たとえば代表曲の「雨が空から降れば」は劇作家の別役実の作である。お気に入りの「かげろうの唄」は「誰かが風の中で」に続くシナリオライターの和田夏十。この曲は市川監督が手がけたTV時代劇第二弾『丹下左膳』の主題歌だった。
 ソロ歌手小室等を最初に意識したのがライブアルバムの「デットヒート」だ。
 このアルバムに収録されている「12階建てのバス」はイラストレーターの小島武という人が作詞している。シュールな世界にぶっとんだ。
 

  どこからやってくるのだろう
  約束のようにバスがやってくる
  12階建てのバスが、バスがやってくる

  あれは昨晩遅く
  彼女に会いたくなった
  だから会いに行った
  彼女は明るく言った
  あたしに何ができるの 教えて欲しい
  私たちは花火のようになった

 サビのバスのくだりとその後に続く彼女との関係がまったくつながりがない。12階建てのバスのイメージが強烈である。12階建てのバスとは何の比喩なのか? こうした詞の作りは陽水にも多く見られた。
 現代詩そのものに曲をつけることも得意としていた。黒田三郎「苦行」、茨木のり子「12月の歌」、後の谷川俊太郎「いま生きているということ」など。

 決定的な出合いは赤い鳥だった。
 小学6年の時のアルバムジャケットとの出会いから約2年、音楽の授業だった。
 大学を卒業したばかりの若い先生の授業がいっぷう変わっていた。教科書なんてほとんど無視し、毎回さまざまな音楽を聞かせてくれた。ジャズ、民謡、津軽三味線……。
 ある日、「日本にこんなすぐれたグループがいる」と言って紹介してくれたのが赤い鳥だ。
 「竹田の子守唄」「翼をください」、「忘れていた朝」…赤い鳥の曲の中で最初に僕の耳をとらえたのが「紙風船」だった。
 

  落ちてきたら
  今度はもっと
  高く高く
  打ちあげようよ
  高く高く
  打ち上げようよ

 これもまた現代詩である。詩人・黒田三郎の『もっと高く』という詩集の一編にリーダーの後藤悦治郎が曲をつけたものだ。
 「紙風船」を聴きたくて赤い鳥のベストアルバムを購入した。これが僕の初めて手に入れたフォークのLPなのである。それまではすべて友だちからLPをダビングしたテープを借りていた。小室等のアルバムを買い集めるのは高校生になってからだった。
 
 フォークの名のもと、数多くのアーティストがミュージックシーンに登場し、ヒットチャートをにぎわせた。ソロ、デュオ、バンド、それこそ百花繚乱という感じ。
 ガロの「学生街の喫茶店」やチューリップの「心の旅」は自転車に乗りながらよく口ずさんだ。
 BUZZの「ケンとメリー ~愛と風のように」のサビはどうしたって〈愛のスカイライン〉って歌ってしまう。

 ふと思いついて口ずさんでいたメロディに良く似ていたふきのとうの「白い冬」。
 あのねのねのライブには大笑いした。テープは大人気でクラス中をいったりきたりしていた。誰もアルバムまで買おうとはしない。
 海援隊の「母に捧げるバラード」。「紅白歌合戦」に出場した三人のジーパン姿は貧乏臭かった。「紅白」にカジュアルは似合わない。

 なぎらけんいち「悲惨な戦い」。PPMの反戦歌に同名の歌があったなんて……。なぎら流のモジリだったのか。
 りりィ「私は泣いています」。ムード歌謡っぽいアレンジとハスキーな声がマッチしていた。
 童顔のイルカは伊勢正三の「なごり雪」をカバーしてヒットを放った。伊勢正三バージョンの方が断然いいと思うけれど。

 NSP「夕暮れ時はさびしそう」には腹が立った。何が〈突然呼び出したりして、ごめん、ごめん〉だ。この軟弱モン!
 軟弱モンといえばさだまさしと当時は言われていたような気がするが、僕はそうは思わなかった。「檸檬」や「飛梅」は女心の不可思議さを憂う男の詩だと思う。

 グレープの「精霊流し」はヒット時に「暗いメロディの繰り返しばかりで嫌い」と言った母親の言葉を覚えている。その後さだまさしの大ファンになるくせに。
 そんな母親とTV「ミュージック・フェア」で共演した五輪真弓と荒井由実、どちらが美人かで論争したこともある。
 アリスは受付けなかった。歌がもろ歌謡曲という感じ。谷村新司の曲は虚構の世界の匂いがぷんぷんした。片や堀内孝雄が醸し出す世界は親しめたのに。(その堀内孝雄も後年演歌の世界へいってしまうとは!)

 フォーク歌手のコンサートは歌と歌の間のおしゃべりが面白いとよく言われた。
 おしゃべりが得意な歌手はラジオのパーソナリティに起用され、自分の番組を持った。
 吉田拓郎は各局の深夜放送のパーソナリティを歴任したのではないか。「パック・イン・ミュージック」の山本コータローや「セイ・ヤング」の谷村新司は本業よりも適任だったような気がする。

 七四年になるとフォークは完全に市民権を得た。この年を境に、以後、フォークは〈ニューミュージック〉と名称を変えてより一層発展、拡散していったと思う。
 それまでレコード会社の管理外にあったフォークが商品として一つのジャンルを確立したともいえる。
 フォークという名で一つの枠にくくるにはあまりにも歌そのものが多様化した結果かもしれない。

 すでにアコースティックギターによる弾き語りだけがフォークの専売特許ではなくなっていた。
 ミリオンセラーになった陽水の「氷の世界」が〈陽水の変貌〉と受け取られたのが不思議でならなかった。デビューアルバム「断絶」やライブ盤「もどり道」との差は単にサウンドの厚さの違いでしかなかったからだ。
 エレキギター、ドラム、キーボードのサポートは当たり前だった。
 小室等のライブ盤「デッドヒート」もバンド編成だった。拓郎の「LIVE'73」ではブラスセッションも導入している。
 ある時期〈フォーク・ロック〉と総称された所以である。

 歌謡界自体が人気のフォークを取り入れることに躍起になっていた。
 「襟裳岬」は森進一が歌えば演歌になるが、拓郎の手にかかればフォークなのである。「旅の宿」が演歌になる可能性だって十分ある。
 同じように「たどり着いたらいつも雨降り」はモップスが歌えばロックなのだ。
 曲はアレンジ次第でいかようにでもなるのではないか。最近では「心もよう」だって演歌だと思うほどだ。

 七五年の春から高校生になった僕は一部のアーティストを除いてニューミュージックと呼ばれ始めたフォークに急速に興味を失っていった。
 僕をフォークに導いた友人たちはビートルズを皮切りにレッドツェッペリンやディープパープルなどのハードロックに興味が移っていった。モダンジャズに走る者もいた。
 僕は僕でビートルズに始まって柳ジョージ&レイニーウッド、カルメン・マキ&OZ等、日本のロックバンドのアルバムを買い集めるようになった。TVドラマや邦画の主題歌、挿入曲に使用されことが要因である。

     *

 あの時代、僕はフォークに何を見たのか? 何を感じたのか?

 たとえばTV出演の拒否。当時は今と違って歌番組がたくさんあってヒット曲があれば歌手はTVに出演するのが当たり前だった。それがフォーク界の二大巨頭、拓郎も陽水も頑なに拒否した。体制に対する反発は爽快だった。
 たった一曲で自分の世界を理解してもらえないから、とは拓郎の弁。拓郎の場合、CMソングを盛んに歌って商業主義と批判もされたのだが。陽水の「TVは見るもので出るものじゃない」というシニカルな態度が印象深かった。
 EP(シングル)ではなくLP(アルバム)製作を基本に、コンサート主体の活動に力を入れた。

 歌謡界ではそれまで〈営業〉と呼ばれ、一段低く見られていた地方巡業を〈全国ツアー〉と銘打ち、積極的に行ったのだ。これはやがて歌謡界でも常識になっていく。
 たとえばそのファッション。肩まで伸ばした髪にはきふるした小汚いベルボトムのブルージーンズ。身体にフィットしたTシャツ。ロンドンブーツ。まさしく〈自由〉の謳歌といった感じで当時は本当にかっこよく見えたのだ。
 長髪とロンドンブーツ以外は僕も真似した。もっとも足の短い少年にとってベルボトムが限りなくストレートに近いシルエットになってしまったのだけれど。

 あるいは仲間たちの連帯・交流。数多くのフォーク歌手が集った伝説の〈中津川フォークジャンボリー〉は憧れの最たるものだった。
 吉田拓郎らが所属していた音楽事務所〈ユイ音楽工房〉のユイは小室等の愛娘の名前からとられている。
 拓郎、陽水、小室、泉谷が手を組み、フォーライフレコードを設立したことは既成のレコード会社を震撼させる大事件となった。
 友情、恋愛、仕事、彼らの手によって新しいライフスタイルが切り開かれているように感じた。

 大阪万博で幕を明けた七〇年代。しかしそれは決して明るい未来を告げるものではなかった。
 高度成長の〈つけ〉とでもいうべき公害問題が浮上してきた。ヘドロ、光化学スモッグの文字が毎日のように新聞記事やTVニュースを飾った。公害で生まれた怪獣が映画やTVに登場する始末。

 三島由紀夫の自決事件、連合赤軍によるあさま山荘事件はとてつもない衝撃だった。
 小松左京の「日本沈没」がベストセラーとなり、連動するかのように「ノストラダムスの大予言」が大ブームとなった。別に信じたわけではないが、一九九九年に自分がいくつになるのかそっと計算してみたりした。

 オイルショックに見舞われ、紙不足が深刻になった。週刊少年マンガ誌がみるみる薄くなった。主婦たちがトイレットペーパーを求めてスーパー内を走り回る姿は異様だった。
 暗い世相だった。中学生になればそうした現実を否応なく直視しなければならなくなる。将来はいったいどうなるのかと不安を覚えたこともある。
 そんな中にあってちょうど一つ上の世代にあたる若者たちの活躍に夢を求めた。
        
 戦後生まれのベビーブーマーたち。堺屋太一によって〈団塊の世代〉と命名された若者たちが、フォーク――それは反戦歌でもプロテストソングでもなく、自分たちの言葉で自分たちの生活、心情、愛や希望をうたう歌――を旗印に既成の文化・概念をことごとく打破していく姿を僕は羨望の眼差しで見つめていた。彼らに自分の未来を重ね合わせていた。

 そう、彼らは未来そのものだった。
 フォークはその象徴だったのである。




 先週、K氏が二日続けて試写会に誘ってくれた。7日が「シン・シティ 復讐の女神」、8日が「ビッグ・アイズ」。場所はどちらも有楽町のよみうりホールだ。

2015/01/07

  「シン・シティ 復讐の女神」(有楽町よみうりホール)

 アメリカンコミックの映画化作品にはあまり興味がないのだが、2005年に公開された「シン・シティ」には、その一種独特な映像世界に惹かれて、わくわくもので劇場に足を運んだ。
 まさか10年後に続編ができるなんて! あの世界観は1作限りのものではなかったのか? 確かに前作は大いに楽しませてもらった。とはいえ、今回は金払ってまで観たいとは思わなかった。なので、試写会への誘いはありがたかったわけだ。
 それにしても、本当に前作の続編であることに驚いた。ストーリーなんてもうほとんど忘れているって。

 案の定、二匹目のドジョウはいなかった。まあ、初めて観る人は楽しめるだろう。


2015/01/08

  「ビッグ・アイズ」(有楽町よみうりホール)

 別に熱狂的なティム・バートン監督ファンではないので、毎回、公開作品を押さえているわけではない。しかし、本作は予告編を観て興味を抱いた。皆同じ気持ちだったらしい、昨日はけっこう空席があったが、今日はほぼ満席だったから。
 ストーリーは実話に基づいているというが描かれているエピソードがどこまで真実なのかはわからない。ハリウッドの実話映画化には眉唾ものが多いから。

 佐村河内事件のアメリカ版、絵画版。ゴーストライターではなくゴーストペインター。それも10年間も世間をだましていたのである。 
 それにしても――
 旦那はなぜ松任谷正隆の道を歩まなかったのか? 出逢ってすぐユーミンの才能を認めたのなら、自分はプロデューサーとして、彼女をバックアップする体制をとるという方法だ。1960年代は女性の社会進出ができない状況というのなら、己の口八丁、手八丁の才能でそれこそ妻の才能をアメリカ全土に知らしめてやるくらいの気概を見せてやればよかったのに。

 映画のクライマックスは人気絵画ビッグアイズシリーズの本当の作者を確定するための裁判。そんなこと裁判するまでもないだろうと思っていたので、裁判長の提案にニヤリ。




 2015年の映画鑑賞は元旦の「フューリー」で幕を開けた。
 映画サービスデーのこの日に地元のシネコンではなく、わざわざ有楽町に出かけたのには意味がある。ハシゴしようと思ったのだ。
 年末「ストックホルムでワルツ」の鑑賞が叶わなかった。新宿武蔵野館で上映していたのだが、1,800円払いたくない。元旦ならばと上映館を探すと有楽町のヒューマントラストシネマでやっている。午後の上映は16時40分から。だったらその前に1本観られると日劇13時30分からの「フューリー」を選択したわけ。
 ところが、「フューリー」終了後、ヒューマントラストシネマの入っているビルに駆けつけるとなんと休みだった。映画館って正月興行ではないのか?

2015/01/01

 「フューリー」(TOHOシネマズ日劇)

 戦闘シーンはリアルで、残虐描写に何度かのけぞった。
 フューリーとは戦車の名前で、ブラッド・ピット率いるチーム・フューリー(クルーは5人)の活躍を、新入りのローガン・ラーマンの目をとおして描く。猛者揃い、曲者揃いのチームに突然放り込まれたひ弱な兵士の成長物語でもある。
 クルーの中に気になる人がいた。役柄が役柄だけに似ているだけで別の役者かもしれない。最近は何の情報も仕入れずに映画を観るので、この映画もブラッド・ピット主演の戦車映画ぐらいの認識しかなかったのだ。
 エンディングのクレジットで確かめたら、やはりシャイア・ラブーフだった。「トランスフォーマー」3部作等、ちょっとヘタレの青年役ばかりだったのに、その変わり様に驚いた次第。

     *

 3日は、DVDで「善き人のためのソナタ」を観た。
 昨年10月の関西行で、夜通しでUさん、Nさんと映画談義していた。Uさんのお薦めが「善き人のためのソナタ」だった。2番館で観た2本立ての1本。もう1本の方が目当てだったのだが、「善き人のためのソナタ」にガツンときたとのことだった。
 この映画に関しては、有名な映画賞を獲ったこと(アカデミー賞外国語映画賞)、禿頭の中年男がヘッドホンをしているショットくらいしか記憶になかった。
 映画を観るまで第二次世界大戦を舞台にした話だとばかり思っていた。
 時代は1980年代前半、あと5年で東西の壁が崩れる東ベルリンが舞台になっている。主人公は東ドイツの国家保安省の局員(ウルリッヒ・ミューエ)で、彼が反体制の作家を監視する任務につくところから映画は始まる。
「男は、忠実に作家を監視しているんだけど、徐々に作家にシンパシーを感じていくんだ」
このUさんの解説で映画に興味を持った。
 男はその後どうなってしまうのか? ラストの男の一言にグッときた。
 映画館で観ればよかったと反省しきり。




 承前

 「赤い鳥について知っている二三の事柄」が赤い鳥の結成から解散までを自分の体験を通して、考えたこと、思ったことを中心に書いた〈論考のようなもの〉なら(とはいえ、一部取材はしています。ですのでHP掲載のものとは若干違っています)、こちらは解散後の紙ふうせん、ハイ・ファイ・セット(&解散後の山本潤子さん)の活動を同様に綴ったものです。

 なお、ここでは藤子不二雄Aとなっていますが、本当は○の中にAを表記します。

          * * *

 赤い鳥=藤子不二雄説をご存知だろうか。
 聞いたことがない? そうだろうな。単に僕が提唱しているだけだから。

 赤い鳥は一九七四年の秋に解散し、紙ふうせん、ハイ・ファイ・セットという二組のグループに分かれて活動を始めた。赤い鳥にはもともと二つの音楽性が内在していたのだが、それぞれのグループがその音楽性を受け継いだ。
 「竹田の子守唄」等の伝承歌とアコースティックなフォーク路線は紙ふうせん、都会的な華やかなポップス路線はハイ・ファイ・セットに、見事に区分されたのだった。

 藤子不二雄は二人で一人の漫画家だったが、一九八八年にコンビを解消し、その後、藤子不二雄A、藤子・F・不二雄という二人の漫画家になった。
 「笑ゥせぇるすまん」等の、いわゆる大人向けのブラックユーモアを得意とするA(安孫子素雄)氏と「ドラえもん」を代表とする児童マンガの王道を行くF(藤本弘)氏。かつて画風の違いから黒の藤子、白の藤子と評されたこともある二人が完全に袂を分けたのだった。

 二つの異なる音楽性あるいは画風があったからこそ、赤い鳥も藤子不二雄も魅力的だったといえないだろうか?
 赤い鳥=藤子不二雄説を唱える所以である。

 この説には、実はもう一つの意味合いがある。解散(コンビ解消)後、二組(二人)に別れた後のそれぞれの活動に対する世間の認知度も似通っているところだ。

 世間一般の認識では、藤子不二雄=藤子・F・不二雄、赤い鳥=山本潤子(ハイ・ファイ・セット)ではないかということだ。
 藤子不二雄=「ドラえもん」の面白さ、赤い鳥=山本潤子の声の魅力に置き換えてもいい。泥臭い絵柄の藤子A氏の作品、土着的な音楽を志向した紙ふうせんはどうしても分が悪くなる。特に紙ふうせんの場合は、関西、個人事務所という点からメディアへの露出が少く、活動していること自体、あまり知られていないのではないか。

 声の魅力でいえば、山本さんの魅惑ヴォイスを認めながら反発したい気持ちもある。
 平山さんの存在を忘れては困るのだ。「ミリオン・ピープル」の「もうっこ」なんて聴くたびにゾクゾクしていた。山本(当時は 新居、以下略)さんがα波の声だとすると、平山さんはオペラ歌手を目指していたほどだから本格的な歌唱も、歌のお姉さん的やさしく暖かい歌唱もさまになる。色の三原則にたとえれば、山本さん、後藤さん、大川さんの声がマゼンタ、シアン、イエローだとすると、平山さんはこの3色を引き立たせるブラックのような存在だった。
 実際、山本さんと平山さんのハーモニーになるとどっちがどっちなのかわからなくなることが多かった。特に高音と低音になると聴き分けができない。

 赤い鳥はメンバー全員がヴォーカリストだった。ただし、メインといったらやはり山本さんだろう。プロデューサーの村井邦彦氏は山本さんをメインに日本のカーペンターズを作ろうとしたのだから。確かに声の質という点でカレンと山本さんは一致する。山本さんのヴォーカルにメンバーがハーモニーをつける。これが赤い鳥の定番(という一般的な認識)。当然、山上・村井コンビの楽曲は山本さんのヴォーカルが多い。「翼をください」「忘れていた朝」「窓に明かりがともる時」などが有名だ。これは赤い鳥のポップな部分。

 では、もう一つの赤い鳥の音楽性、伝承歌やフォークの部分はというと、「竹田の子守唄」にしても「赤い花白い花」にしてもこれまたリードヴォーカルは山本さんなのである。

 ハイ・ファイ・セット解散後、ソロになった山本さんはまた昔のスタイルに戻って歌いだした。それまでの、ファッショナブルな衣装をまとい、ステップを踏む、ショービジネスの最先端みたいなスタイルから、かつてのシンガー・ソングライター的スタイルへ。赤い鳥時代の曲も歌うようになった。「翼をください」「竹田の子守唄」「赤い花白い花」。往年の赤い鳥ファンは拍手喝采だ。

 もう何年前になるだろうか。テレビ東京「そして音楽が始まる」という番組で「翼をください」が取り上げられた。歌が生まれた経緯、その変遷等を関係者による証言で構成していくのだが、山上路夫氏のインタビューに愕然とした。曰く「赤い鳥が解散して『翼をください』は歌い手を無くしたのです」。
 TVの前で思わず反論してしまった。紙ふうせんがずっと歌っているじゃないか! 赤い鳥時代と同様に観客を巻き込んで一緒にシングアウトしながら。あなたが知らないはずないでしょうが!

 「竹田の子守唄」に関してはもっと確かな姿勢がある。この歌は赤い鳥結成前から後藤さんと平山さんで歌っていたものだ。当初、この子守唄の出自について何の知識もなかった後藤さんは、高校時代の友人橋本正樹氏と調査を始める。
 京都伏見の同和地区の歌だとわかると、さっそく伝承する本人に会い、元歌に近い歌詞(久世の大根飯、吉祥の菜飯 またも竹田のもんばめし)を採用して以後このバージョンをステージで歌いだす。
 この詞に関する問題にもきちんと対処して、メディアの封印などものともせず、赤い鳥解散後も、また原点の歌唱にもどってずっと歌い続け、今では〈凄み〉さえ醸し出す紙ふうせんの珠玉の一曲になっている。

 「赤い花白い花」も後藤さんが友人からその存在を教えられてレパートリーにした経緯がある。ステージではたまに平山さんによる抱腹絶倒の歌唱指導つきで披露している。
 つまり、「竹田の子守唄」や「赤い花白い花」は、そのバックボーン、背景や思想性を考えると、明らかに赤い鳥から紙ふうせんに連なる〈後藤悦治郎の世界〉なのである。にもかかわらず、赤い鳥時代リードヴォーカルだった山本さんが十数年のブランクのあとに歌いだすと世間(ファン)はもうそれだけで反応してしまう。「これぞ赤い鳥の真髄だ」

 それはいい。当然という気はする。人には刷り込み作用というものがあるし、オリジナルの歌唱を絶賛したくなるのは僕自身にもある。とはいえ、赤い鳥時代、山本さんが歌っている数々の名曲の中で、なぜ「翼をください」「竹田の子守唄」「赤い花白い花」だけなのかという疑問がいつもあった。

 あるサイトに掲載された山本さんのインタビューによれば、ミュージシャン仲間の勧めがあったという。本人には紙ふうせん路線だとの認識があったのだが、仲間から「君が歌っていたのだから、また歌えばいいじゃないか」との励ましに背中を押されたと。

 だったら、なおさら赤い鳥のほかの曲も歌ってほしい。一時期赤い鳥に在籍していた村上〝ポンタ〟秀一氏の自伝「自暴自伝」(文藝春秋)によると、村上氏より先に赤い鳥の一員になっていた大村憲司氏は山本さんの声に惚れこんで、山本さんに歌ってもらいたくて曲作りをしていたのだとか。山本さん以外の歌唱を許さなかったともある。大村氏の曲では「虹を歌おう」が大好きだ。自身のオリジナル「河」や大川茂・山本俊彦コンビの「卒業」「くさひばり」なども思い出す。こうした曲の中に「竹田の子守唄」があるのならわかるのだが……。だいたい山上・村井ゴールデンコンビの曲が「翼をください」だけでは寂しいではないか。

 どうしてこんなことにこだわるかというと、そうでないと、なぜ赤い鳥が解散したのか、山本夫妻+大川さんの三人が赤い鳥のポップ路線をより傾注させたコーラスグループ、ハイ・ファイ・セットを結成したのかわからなくなってしまうのだ。

 「竹田の子守唄」が被差別部落の伝承歌であることから、一九七〇年代の後半から九〇年代にかけてメディアの自主規制で封印されてしまった。この経緯は「放送禁止歌」(森達也/知恵の森文庫・光文社)や「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」(藤田正/解放出版社)に詳しいのでここでは割愛する。
 赤い鳥の解散には、その理由として音楽に対するメンバーの考え方の相違、その確執が挙げられている。実際は後藤さんの、音楽ビジネス、芸能ビジネスに対する反発という側面もあるのだが、「竹田の子守唄」を歌う姿勢については後藤さんと他のメンバーの間で確執があったと「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」に書かれている。

  同和問題を背景に持つ「竹田の子守唄」を、その背景をも見据えて歌おうとする後藤さんと、歌を歌として楽しみながら聴衆に届けたいとするメンバーの対立。後藤さんと袂を分けた三人は、完全にフォーク色を払拭し、楽器すら手放して〈聴いていて気持ちのいい〉洗練された楽曲を歌っていく道を選択した。

 ハイ・ファイ・セットが元赤い鳥として「翼をください」や「竹田の子守唄」をレパートリーの一つにしていればそれはそれでよかった。しかし、赤い鳥のイメージをも払拭したようなコーラスグループの音楽性ゆえ、ステージに乗せることはできなかった、またそのつもりもなかったに違いない。そしてその時期がちょうどメディアの「竹田の子守唄」封印と重なり合うのだ。

 ハイ・ファイ・セットは結成当初こそ低迷(?)していたが、「フィーリング」の大ヒットで音楽シーンの第一線に踊り出た。以降僕はメディアを通して歌声を耳にすることになる。CMソングや映画主題歌に起用され、アルバムセールスも順調だったのではないか。ユーミンがそうであるように、ハイ・ファイ・セットはドライブで聴く音楽に最適なのだから。当時はニューミュージックと呼称されたが、JーPOPの元祖的存在といっていいかもしれない。

 曲は、自作もあるが、村井氏のほか積極的に他のミュージシャンに依頼している。ユーミンの歌もよくカバーしていた。デビューシングルは「卒業写真」である。
「オリジナルよりよっぽどいいよな」
 ラジオやTVから流れてくるといつも思っていた。

 一方、紙ふうせんはというと、頑なに自分たちの音楽を追求してきた。民謡やフォルクローレ以外、ほぼ後藤さんの作詞作曲。赤い鳥解散後東芝EMI(現EMI Music Japan)からリリースされた二枚のアルバム「またふたりになったね」「愛と自由を」はそれこそ〈後藤悦治郎の世界〉を見事に表現したものだったが、流行の音楽に逆行するかのような体裁なのでほとんど話題にならなかった。

 レコードセールスも芳しくなかったのだろう。平山さんの産休で後藤さんのソロとしてリリースされたシングル「少年の日」のB面「ぼくらいつでも陽気でいたい」は当時の音楽状況について後藤さんが心情吐露した歌に思えてならない。もちろん後藤さんのことだから直接的には表現していないけれど。

 CBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に移籍して「冬が来る前に」のヒットで脚光を浴びるが、それまでのファンの中には、そのあまりに今風(当時として)なアレンジ、あるいは以降のヒット狙いのラブソングのリリースに違和感を持って離れていった人たちもいたのではないかと思う。商業主義に走ったとか何とか。「冬が来る前に」はレコードになるかなり前からステージで歌われていた、フォルクローレ風の曲だったのだ。

 かくいう僕もそんな一人になりそうだった。ただ「冬が来る前に」ヒット直後にリリースされたアルバム「再会 ―新たなる旅立ち」を聴いて安心した。世界感は少しも変わっていなかった。たぶんそれはライブに触れていたらわかっていたことだと思う。コンサートではいつだって「翼をください」を皆でシングアウトし、「竹田の子守唄」をしっとり歌いこんでいたはずなのだ。

 一九九〇年になると紙ふうせんはハーモニーの充実を求めて、メンバー二名を加え、TSU-BA-SAとして新たな活動をはじめた(二年後また紙ふうせんに戻る)。FM東京ホールでのお披露目コンサートにはハイ・ファイ・セットからの花が届いていたのが印象的だった。その後ハイ・ファイ・セットは活動を休止した。充電期間中に例のショッキングな事件が起きた。この事件で解散を余儀なくされ、山本潤子さんはソロ活動を開始する。シュープリームスから独立したダイアナ・ロスになるかと思いきや、スタイルはあくまでもフォークのそれだ。原点に戻ったといえる。
 そこにサッカーW杯の、サポーターたちによる「翼をください」合唱ブームが押し寄せる。山本さんはふたたび「翼をください」を歌いだす。

 その後TVドキュメンタリー「放送禁止歌」が話題を呼び、ディレクターの森氏は同名の本を上梓。「竹田の子守唄」は放送禁止歌ではなく、単にメディアが自主規制しているだけだったということが世間に認知されていく。音楽評論家の藤田氏が「竹田の子守唄」の歴史に深く切り込んだ「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」を上梓するのに足をあわせるかのように、「竹田の子守唄」が解禁されていく。山本さんが「竹田の子守唄」を歌いだしたのはこのころだったのではないか。

 山本さんは、鈴木康博氏、細坪基佳氏とユニット、Song for Memoriesを結成して、ソロと平行して活動している。赤い鳥(ハイ・ファイ・セット)+オフコース+ふきのとうの三色アイスは往年のフォーク世代を熱狂させるのに十分だと思うが、狙いは三声のハーモニーだろう。このユニットとは別に男女四声のコーラスグループAprilの一員としても活動している。
 紙ふうせんが一時男女四人で活動を始めたことはすでに述べた。ふたりに戻ってからは、バックサポート(ギター)に後藤さんの大学の後輩であるすぎたじゅんじ氏を起用。すぎた氏はHaruという男性デュオの一員としても活動しているシンガー・ソングライターでもあるから、以後ステージでは三声が基本となっている。
 ともにコーラスワークに対するこだわりが感じられる。その原点はPPMか。

 僕の知る限り、紙ふうせんとハイ・ファイ・セットが共演したことはなかった。山本さんがソロになってからは、フォークの祭典的なイベントで何度か紙ふうせんと同じステージに立っているが、あくまでも一アーティストとしての出演だったはずでステージ上での接点はなかった。紙ふうせんが主催者側にいた神戸震災復興コンサートでは山本さんがゲストで呼ばれ三人で歌ったらしいのだが。

 二〇〇七年の秋、久しぶりの共演が実現した。しかも一緒に「翼をください」を歌ったのである。ニッポン放送主催の「渋谷フォークジャンボリー あの素晴らしい歌をもういちど」(渋谷C.C.Lemonホール)というイベントだ。〈プチ赤い鳥〉あるいは〈赤い鳥5分の3〉だとさかんに強調されていた。赤い鳥の生のステージを観たことがない僕は〈まるで赤い鳥のように〉だなと興奮を隠せない。元六文銭メンバー、小室等、四角佳子、及川恒平の三氏によるユニット〈まるで六文銭のように〉のもじりだ。感激したことはしたのだが、同時に赤い鳥の再結成はないと今度こそ確信できた。

 「翼をください」は三人だけでなく出演者のほぼ全員がステージに並んだ。一番を山本さん、二番を平山さんが歌い、サビはステージに並んだ全員で合唱。この全員というのがくせもの、いくら合唱曲の定番だといえ、フィナーレでもないのに人数多すぎだろうと思った。せめて細坪氏を加えた四人ではいけなかったのか。歌い終わっても、三人が赤い鳥時代の思い出話に花を咲かすこともない。

 赤い鳥の再結成を願うファンは多い。僕自身、十年ほど前に再結成はないと思ったものの、それでもなんとか復活の糸口がないか考えていた。五人が揃うのはむずかしいかもしれない。しかし、赤い鳥ファミリーというスタイルならどうだろうか。
 後藤さん、平山さん、山本さんの三人を中心に、一時メンバーだった村上氏、村上氏が脱退した後、ドラムを叩いた渡辺俊幸氏、それに、バックサポートの浦野直氏(ベース)や深町純氏(キーボード)を加えた編成。もちろん御大村井邦彦氏を特別ゲストに呼んでピアノを弾いてもらう
 そんなコンサートなら実現可能かもしれないと淡い期待を抱いていたのだが。

 あの日の紙ふうせんと山本潤子さん。一緒に「翼をください」を歌いながら互いに何を思っていたのだろうか?




 前説なしです。
 二三は〈に、さん〉と読みます。〈にじゅうさん〉ではありません。それを書くなら二十三ですから!
 それから、東芝EMIはEMI Music Japanになって、今はユニバーサルミュージックっていうんですね。

          * * *

 赤い鳥は、後藤さんが、高校の同級生だった平山さんと一九六七年から兵庫県尼崎市で毎月一回定期的に開催していた〈赤い屋根の家コンサート〉から誕生した。一九六八年のことだった。

 コンサートでは当初、後藤さんと平山さんが〈後藤悦治郎&平山泰代〉の名称で一緒に歌っていた。レパートリーは「竹田の子守唄」等の日本の伝承歌ばかり。その後、後藤さんが男女混声のグループを結成しようとメンバーを集めた。高校1年時にカルチャーショックを受けたPPM(ピーター・ポール&マリー)のハーモニーを再現するためのグループである。
 マリーの迫力ある声に対抗するために平山さんのほかにもう一人女性を入れてユニゾンで歌わせる。ハーモニーをつけるのは男性陣。そこで当時谷村新司氏のグループにいた新居さんを引き抜いた。一緒についてきたのが同じグループにいて新居さんのヴォーカルに惚れ込んでいた山本さんだった。

 当初のメンバーは後藤悦治郎、平山泰代、新居潤子、山本俊彦そして松田幸一(現ハーモニカ、パーカッション奏者)の五人。
 グループ名は鈴木三重吉の童話雑誌「赤い鳥」からとられたということが一般的に知られているが、最初はいくつか候補があって、どうしようか悩んでいた後藤さんがある時街の赤い電話を見てひらめいたのが〈赤い鳥〉だったという。童話雑誌との関係はあとづけらしい。

 一九六九年、ベース担当の松田氏が脱退すると、グループの活動を知り、会社員を辞めて大川さんが参加した。
 この加入は赤い鳥にとって大きな意味を持つのではないかと思う。その後のオリジナル曲において、山本さんとのコンビで後藤さんの世界とは違うもうひとつの赤い鳥の世界を作りだすことに成功している。
 ヴィジュアル面から見ても各人が個性的である。タヌキ顔美人でいつも笑顔の平山さん、キツネ顔美人でちょっとすました新居さんの女性陣。中肉細身の少々神経質そうな後藤さんに中肉中背のどこか一本気な山本さんの男性陣。二組のカップルを暖かくすっぽり包み込むような思慮深そうで大柄の大川さんというような。

 五人がそれぞれ楽器を弾けるのもいい。

  後藤悦治郎(ギター)
  平山 泰代(ピアノ)
  新居 潤子(ギター)
  山本 俊彦(ギター)
  大川  茂(ベース)

 各人がシンガーで、おまけにソングライターなのである。さらにコーラスも申し分ない。まさにパーフェクトなグループではないか!

 後藤さんは京都外国語大学時代に〈フーツ・エミール〉というPPMのコピーグループを結成している。女性二人、男性二人の、赤い鳥のプロトタイプともいえるグループで、一九六六年の七月二十四日、湘南の逗子海岸で開催された〈コロムビア・フォークソング・フェスティバル〉で2位を獲得。3位は吉田拓郎だった。
 赤い鳥はアマチュア時代にURC(アングラ・レコード・クラブ)からシングル「お父帰れや/竹田の子守唄」をリリースしている。また、各地の伝承歌を独自のアレンジで演奏、紹介するラジオ番組を持っていた。

 一九六九年、赤い鳥は〈ヤマハ・ライトミュージック・コンテスト〉でグランプリを受賞。この時の2位は三人組のオフコースである。
 実はこのコンテスト、赤い鳥は関西四国地区の予選で一度落選しているという。関西地区の予選にぶっちぎりの成績で優勝したメンバーが、余裕もあってか、あまり慣れていない新機軸の曲(「赤い花白い花」をボサノヴァで)に挑戦したのが原因だった。ところが彼らの実力を知っている審査委員長の特別の計らいがあって、審査員推薦という形で全国大会に出場したのだ。

 グランプリ受賞の褒美であるヨーロッパ旅行の途中、ロンドンで記念のレコーディング。この時はプロになるつもりはなかったが、彼らの音楽性に惚れ込んだ村井邦彦氏が説得する。それでも首を縦にふらないメンバーに、「五人のうち三人がプロになりたいと思ったら」という条件つきで目をつむって手をあげさせた。目をつむったメンバーに「はい、三人手をあげた」との声。それでプロへの転向が決まった。実際誰が手をあげたかは確認していないらしい。

 一九七〇年六月、シングル「人生」でデビュー。
  「人生」は「竹田の子守唄」のメロディに山上路夫氏が別の詞をつけたものである。
 なぜ、そんなことをしたのかわからない。グランプリを受賞したコンテストで赤い鳥はゴスペル「COME AND GO WITH ME」と「竹田の子守唄」を歌った。審査員はそれまで聴いたことがなかった「竹田の子守唄」に衝撃を受けたといわれる。村井氏も会場にいたはずで「竹田の子守唄」の素晴らしさを理解しているはずなのだ。なぜ「竹田の子守唄」ではいけなかったのか。

 ロンドン録音のアルバムは「Fly With The Redbirds」のタイトルでコロムビアレコードからリリースされる。
 12曲中日本語の歌は2曲のみ。前述の「人生」と「黒い雨」なのだが、この曲が選曲された理由もわからない。しゃれたポップスの中にあって、重たいテーマを持つこの2曲が浮いているように感じるのだが。

 とにかく赤い鳥はアマチュア時代のようなフォークグループではなく、海外の歌を洗練されたハーモニーで、それも英語の歌詞のまま聴かせるポップス(コーラス)グループとして登場したのである。

 同年九月コロムビアから東芝EMI(当時は東芝音楽工業、現EMI Music Japan)に移籍し、シングル「誰のために」をリリース。ここでやっと赤い鳥らしさがでてきたのではないかと思う。
 そして十月、〈合歓ポピュラー・ソング・フェスティバル〉に参加、山上路夫作詞・村井邦彦作曲の黄金コンビによる「翼をください」を歌い、新人賞を獲得した。村井氏が「翼をください」を赤い鳥のところに届けたのが演奏当日だったというから驚く。

 七一年二月シングル「竹田の子守唄/翼をください」をリリース、大ヒットとなって赤い鳥の名を全国に知らしめた。
 セカンドアルバム「赤い鳥」も全13曲のうち日本語の歌は「誰のために」「希望」「小さな歴史」の3曲のみ。他はビートルズ、バカラック、サイモン&ガーファンクルなどのカバー曲で構成されている。
 サードアルバム「What a beautiful world」はまた全曲英語である。
 確かにどの歌もさすが赤い鳥といった感じだ。聴いていて心地よい。でもどうして? という気がしないでもない。海外のマーケットを意識した作り方なのだろうが、赤い鳥の歌唱力、コーラスワーク、センスの良さを誇示するだけのアルバムという印象を受ける。

 デビュー当時の赤い鳥の状況を示す格好の資料がある。「What a beautiful world」のライナーノーツだ。

     ▽
 世界各国からアーティストが参加した日本初の国際歌謡音楽祭は昭和45年11月、東京で開かれました。国際歌謡音楽祭と銘うつくらいで、それこそ、お国柄豊かないろいろな種類の曲、いろいろなタイプのアーティストが登場しました。サンレモ音楽祭に並ぶイタリアの曲のようなもの、日本語の台詞まで入れた全く歌謡曲風のもの、いわゆるロックンロールなどです。しかし、このお祭りのステージに登場したアーティストの中で最もアップ・トゥ・デイトな、最も会場を沸かせたアーティストは、実はカーペンターズと、赤い鳥でした。(略)
 昭和45年の日本のポピュラー・レコード界の収穫は赤い鳥です。その音楽性、選曲、キャラクター全てが国際級であり、事実、すでに海外でも、その力は認められている赤い鳥なのです。(略)
 赤い鳥は、この世界では型破りな、言わば、革新的なグループです。最初のレコードからロンドンで製作され、イギリスの一流ライターのオリジナルを歌い、シングルレコードの大ヒットの前にLPのヒットを出すなど、数えれば記録的なことばかりです。また、これだけの革新的な行動、飛躍的な実績を生めるだけのラッキーなグループでした。
 雲霞のごとく発生した関西のフォーク・ソング・グループの間で、まだ、結成されて日も浅いにもかかわらず、44年ヤマハ・ライト・ミュージックコンテストに優勝したのが始まりでした。引く手あまた! レコード会社、芸能プロダクションの誘いを振り切り、逃げ切って、これまた設立したばかりのアルファ・ミュージックと契約したのです。フォーク・ソング・グループ特有の自分達の音楽的理想もありました。赤い鳥を引きつけたものは、作曲家村井邦彦を中心とした新進アルファ・ミュージックの音楽的な傾向と古い枠を知らない若さだったと言います。(後略)
     △

 日本のフォーク史が語られる時、必ず関西フォークが話題になる。
 関西フォークの特徴は高石友也や岡林信康に代表されるように、その歌の持つメッセージ、テーマが重要な要素を占めた。
 たぶん赤い鳥もアマチュア時代はそんな雰囲気を持ち合わせていたと思う。「竹田の子守唄」を歌い、特に伝承歌の採譜にも取り組んでいたリーダー・後藤さんの資質は関西フォークそのもの。土臭く、きまじめなものだったと想像できる。「お父帰れや」などその流れとしか考えられない。

 ところが、フォークの世界では珍しくコーラスワークが抜群にうまかった。土着性の強い伝承歌も彼らの手にかかると洗練された編曲とハーモニーで聴く人を魅了したに違いない。
 プロデューサー村井邦彦氏は赤い鳥をデビューさせるにあたって、そこをよりアピールする必要があったのではないか。
だからまず海外のポップスを歌わせること、それも日本語のカバーではなく、あくまでも英語のまま歌わせることによってコーラスグループとしての赤い鳥を一般に認識させ、そこから山上・村井コンビのオリジナルで勝負するという計画だ。

 フォーク史の中で登場する関西フォークというくくりに赤い鳥が含まれないのは以上の理由だと勝手に推測している。
 赤い鳥はその志よりスタイルで語られてしまうのである。リーダー・後藤さんのプロデビュー最初の誤算はそこではないか。

 僕は赤い鳥のデビューの頃をリアルタイムで知らない。洋楽をカバーする赤い鳥を面白くないというのは、その後のオリジナルを歌う活動を知っている僕個人の勝手な思い込みかもしれない。
 当時の音楽ファンは、あるいはそれまでになかったまったく新しいポップスグループの誕生を大きな期待と拍手をもって歓迎したのかもしれないのである。
 もしそうだったとしても、そんな風潮を打破したかったのは赤い鳥のメンバー自身だったに違いない。彼らはフォークソングを歌い、シンガー・ソングライターを目指していたはずなのだから。

 初のオリジナルアルバムといえる「竹田の子守唄」のリリースは七一年七月。同時に「翼をください」と並ぶ山上・村井コンビの名曲「忘れていた朝」をシングルとしてリリース。
 十月には再びポピュラー・ソング・フェスティバルに参加する。「窓に明りがともる時」を歌い川上賞を受賞。村井氏は作曲賞を獲得した。
 十一月にはこの曲で〈第2回世界歌謡祭〉に出場した。
 村井氏の思惑どおりの向うところ敵なしというような赤い鳥の活躍ぶりがうかがえる。
 こうして赤い鳥はコンサートで日本各地を旅する毎日を送るようになるのである。

 オリジナルアルバムといっても「竹田の子守唄」におけるメンバーのオリジナルは4曲のみだった。この時期、五人はプロの作家になるための修行中といったところだろうか。
 このアルバムから〈赤い鳥新聞〉を発行し始めたのは注目に値する。
 五人のアルバムに関する感想や生活雑感、お薦めのレコード・書籍など、それぞれのキャラクターが際立った文章が掲載されたこのレポートは赤い鳥独自の活動といえる。赤い鳥が目指すところの〈音楽をとおしての文化活動〉の一つといえるのではないか。

 〈赤い鳥新聞〉第2号(「スタジオ・ライブ」所収)の新居さんのレポートが先ほどのぼくの疑問に答えてくれている。

     ▽
 今年もあとわずかで終わり。赤い鳥にとって転機となった年です。なんといっても歌う音楽が変わった。変わったというよりも、自分達のオリジナルを書くようになり、少なくとも与えられたものよりは、少々ざつでも満足して歌えるようになって来た。自己主張するようになったのです。赤い鳥がオリジナルを発表して歌うなんて、みなさん信じられなかったでしょう。なにしろ日本のフィフス・ディメンションだったものね。
 赤い鳥は非常に考え深いです。音にしても詞にしても。オリジナルを発表する時はいつもmeetingなんてものを開きまして、岡本さんという私達の先生みたいな人を中心に、一人一人のオリジナルを批評し合うのです。(中略)
 わらべ唄や民謡(日本のもの)にしても、私どものリーダー(後藤さま)なんてアマチュアの時から地方を旅して、めずらしい民謡を集めてきます。だれかがそういう活動をしないと、日本の美しい歌は埋もれて、顔を出せないようになるからです。(後略)
     △

 リーダー・後藤さんは同じ号にこう書いている。

     ▽
 「五木の子守唄」や「竹田の子守唄」は真に理解されないまま、伝承されずに終わる運命にあるのかなと思ってしまうのです。子守唄はきれいごとではすまされない、エネルギーと怒りと悲しみと、土の臭いが迫ってくる、とても人間性豊かな正直なフォーク・ソングです。
 大阪を離れ東京に住む私は、まだまだ自分というものの所在がみつからないのです。詞を書いてはいきづまり、ウソを書いてしまうのです。私が私のオリジナリティーを表現できるようになるまでは、なんとしても、私たちの両親か、その前の何百年、何千年と生きついできた日本人の心を知らねばならないと思うのです。彼らが追いつめられて立たされた河岸のくずれかけた、ドテの上に私も立ってみなければいけないのです。
 だから私は今、私のまわりにある日本人の宝である伝承歌を、私のもとにまで引き戻そうとしているのです。
     △

 後藤さんは高校時代の友人・橋本正樹氏とともに「竹田の子守唄」のルーツを求め、その本質に迫る「竹田の子守唄」という本を出版している(結果的には橋本氏の自費出版になるのだが)。後にこの本が永六輔氏に感銘を与えることになる。雑誌の発行も計画している。
 歌による文化活動という赤い鳥の理念はたぶんに後藤さんの信念によるものだとわかってくる。

  「スタジオ・ライブ」を経て、七二年二月、メンバーにエレキギターの大村憲司が加入した。続いて六月にドラムの村上(ポンタ)秀一氏が加入。
 新メンバーの頼もしいバックアップがあったのだろう、同年十二月、本当の意味でのオリジナルアルバム「パーティー」をリリースする。
 赤い鳥の強みはメンバー全員がヴォーカルをとれたことだ。同時に全員がソングライターであったことも特筆できる。
 当時、これほどメンバー個々に才能が分散しているグループはいなかった。その特徴が顕著に表れたのが「パーティー」である。

 赤い鳥もオリジナルで勝負できる時が来たと思うのだが、次のアルバム「美しい星」ではまた山上・村井コンビの曲に戻ってしまった。
 ヒット曲「翼をください」の英語バージョンおよび「月曜はブルーな日」等5曲のアメリカ録音(フィフス・ディメンションのアレンジャー・ボブ・アルシバーがプロデュース)を含む全12曲のうち、メンバーのオリジナルはわずか2曲だけだった。
 後年、後藤さんはこのアメリカ録音を「とにかく苦痛だった」と語っている。
 赤い鳥を海外に羽ばたかせたいプロデューサー・村井氏の意気込みと赤い鳥の(というよりリーダー後藤さんの)ビジョンにこのあたりからズレが生じてきたのではないだろうか。

 七三年、赤い鳥はメンバー自身の手になるアルバム制作に着手する。大村&村上コンビの加入によってロック色が強くなったサウンドと赤い鳥の世界(というか、後藤さんの世界)が見事にドッキングしたトータルアルバム「祈り」の誕生である。
 ここに僕は赤い鳥の音楽の、ひとつの完成をみたと思うのだが、アルバムリリース前に大村&村上コンビは脱退。
 赤い鳥の音楽、その方向性に対するメンバーの食い違い、軋轢、論争等もあったのかもしれない。「祈り」に収録されている後藤さんが詞曲を書いた「誰が鳥を」は今から思うと詞がかなりヘビーだ。

  誰が鳥を消したのだ?
  〝オレだ〟 風がいいました
  オレのクシャミで消したのだ
  
  誰がそれを見てたのだ?
  〝オレだ〟 森がいいました
  オレの頭に落ちてきたのだ

  誰が涙を流すのだ?
  〝私よ〟 雨がいいました
  私は銀色 涙の天使

  誰が墓をたてるのだ?
  〝オレだ〟 雄牛がいいました
  オレの角で墓を掘るのだ
  
  誰が鐘をたたくのだ
  〝オレだ〟 風がいいました
  オレのクシャミで鐘をならそう
  町中 祈りの鐘をならそう

 〈誰が鳥を消したのか〉と後藤さんのソロで始まるこの歌は赤い鳥へのレクイエムなのかもしれない。マザーグースの「Who killed Cock Robin?」にインスパイアされたとおぼしき歌詞に赤い鳥に対する想いが込められている。
 とはいえ、個人的には七人の赤い鳥によるオリジナルアルバムをもう少し発表してもらいたかった。

 内情はともかく、傍目にはうまくまとまって見えた赤い鳥が全国で約六百回のコンサートを行い、百万人以上の観客を動員したことを記念してライブ録音のLP「ミリオン・ピープル」を発表したのが同年十二月だった。
 「ミリオン・ピープル」は赤い鳥の実力を示すのに十分だったのではないか。誰もがその後の活躍を信じたに違いない。

 この頃から後藤さんは赤い鳥の活動に飽き足らず、平山さんとふたりで別の活動を開始していた。
 それがふたりのユニット(当時こういう言葉があったのかどうか知らないが)〈紙風船〉である。
 所属事務所から月に十日間の休みをもらい、赤い鳥ではフォローしきれない各地の公民館や施設を廻った。ふたりは当初赤い鳥がめざした〈誰にでもうたえる歌〉をもう一度追求しはじめたのだった。

     ▽
 現在彼は、平山さんと二人で懸命に試行錯誤をしています。というのは、各地の労音や理解者たちとの間で、小さなコンサートを赤い鳥とは別に開いています。これもきっと、人間関係の上での音楽を実験しているのです。彼らに興味のある方は、君の土地で、カンバン等見かけたら、聞きに行って下さい。きっと得ることがあるでしょう。
     △

 と、赤い鳥のコンサートで照明を担当している佐野一郎太氏は「ミリオン・ピープル」のライナーノーツに書いている。

 「ミリオン・ピープル」には付録としてメンバー六人(大村・村上コンビの脱退後にドラム担当で渡辺としゆき氏が加入)のポスターがついており、その裏面が「赤い鳥新聞」の拡大版ともいえるものだった。メンバーの文章だけでなく、スタッフ、関係者、友人等々の赤い鳥に贈る言葉が記載されていて、まさしく〈赤い鳥集大成〉といった感があった。
 ふたりは音楽だけの活動にとどまらなかった。
 当時の〈紙風船〉の活動について後藤さんが記している。

     ▽
 五つの部屋と風呂、二つのトイレのこの家に住んで半年になる。七人の人間が紙風船という名に表現された、音楽と活字を身近にひきよせて、日本のより多くの人々に私たちの意思を伝え、他人の意思を知ろうとする動きをようやくはじめ出した。仕事が終わって、夜遅くから始まる全員の話し合いは、いつも始発電車の音を耳にするまで続く。(後略)
     △

 赤い鳥でやろうとしていたことを改めて〈紙風船〉でやりはじめたのである。
 〈紙風船〉のある日の小さなコンサートを平山さんがスケッチしている。

     ▽
 今年の夏休みは、北海道を集中的にキャンプしながら旅をした。その夏休みの終わりのほうで、施設を訪問した。身体障害者施設だった。子供達は、くいいるように私をみた。子供達に紙風船をくばって遊んだあと、私は唄を4、5曲歌った。歌う私に子供達の眼がせまってきた。
 落ちてきたら、今度はもっと高く高く…子供は私に問いかけている。
「限りなく高く高く願いごとは、うちあげられるの?」「その前には、何も立ちふさぐものはないの?」
  白い翼をつけて下さい…
「きれいな声と眼をもって、いい服きて、まだ翼が欲しいの?」帰りぎわ、玄関にいた黒い子犬をなでようと、手をだすと、子 犬はおびえて、キャンと泣いて走り去った。帰り道、私の頭は、ぐるぐるまわった。何が私の唄なのか、待ちこがれる観衆の前で何を歌ったらいいのか、わからなくなった。体のすみずみまで、毒がまわり、その毒をある日、ドバッとはきだす。十ヶ月間、母の体の中で、じっと待つ続け、ある日ついに、子は母からひとり立ちしてへその緒は切られた。こんなぎりぎりの限界まで、たくわえて、迷い、不安にかられ、信頼し合い、その結果できたものは立派だ。口さきだけの言葉や空想でなく、私の体で経験し、味わい、たくわえたものが、言葉と音になってほとばしった時、私の頭は、ぐるぐるまわることを、やめるだろう。
     △

 ふたりの活動を他の三人はどう感じていたのだろうか。
 くわしくはわからないが、三人はより純粋に音楽に接していた(いたかった)と思える。
 ハイ・ファイ・セットになってから、山本(潤子)さんが音楽評論家・伊藤強氏の著書の中で赤い鳥の頃を振り返って次のようなことを答えていた(立ち読みで書名も内容もはっきりとは憶えていないのだが)。

     ▽
 後藤さんはひとつの歌を歌うとき、その背景にあるもろもろすべて理解しなければ気がすまなかった。それに対して私たちは楽しく歌えればそれでいいじゃないか、それでお客さんが満足してくれれば。そういうところでお互い溝が生じてきたのです。
     △

 音楽に対する目的がはっきりと分かれてしまったメンバーが同じグループに存在する必要はない。
 こうして、赤い鳥は解散することになった。七四年七月、ラストアルバム「書簡集」の発表後、九月三十日中野サンプラザの「さよならコンサート赤い鳥総集編」をもってプロデビューから4年間におよぶ活動に終止符を打ったのである。

 後藤・平山夫妻の紙ふうせんはアコースティックなサウンドによる伝承歌の再生、自分たちの生活に密着した素朴なフォークソングを創り歌うことで赤い鳥の原点に帰ろうとした。
 山本夫妻&大川さんのトリオ、ハイ・ファイ・セットは都会的センスにあふれる楽曲と息のあったハーモニーによるファッショナブルなステージングで、今までにないポップスを見(魅)せ、聴かせる斬新なコーラスグループへ転身をはかったのだった。

 新しいグループはそれぞれの目的を見出して新たに旅立った。
 結局、赤い鳥は後に全く異なった音楽を志向するふたつのグループが生まれるための試行錯誤の場だったといえよう。五人のアーティストたちの模索期間、実験台だった。
 ひとつのグループから二組のグループが誕生したことはわかる。しかし、だからといって解散という形をとるべきだったのか。

 もし後藤・平山夫妻が赤い鳥の原点の世界を継承するのであれば、山本さんたち3人の脱退、新グループ結成ではいけなかったのかだろうか?

 赤い鳥の事務所はバード・コーポレーション(現バード企画)である。その名称どおり赤い鳥のために設立された事務所だ。
 後藤さんたちは紙ふうせん結成と同時にそこを飛び出し新しく自分たちの事務所、その名も企画制作紙ふうせんを設立した。組織的にいえば彼らの方が脱退といえるのだ。それに赤い鳥のファンには山本夫婦と大川さんトリオの、というか新居(山本)潤子さん歌唱の楽曲にこそ赤い鳥の世界を感じる人も多くいるはずだ。

 赤い鳥は結成当時の目的とは別にもうひとつの音楽性を持つようになり、次第に当初の音楽性よりも脚光を浴びることになった。グループの名づけ親でもあり、真に赤い鳥の音楽を追求したかった後藤さんにとってはどこかで仕切り直しをしたかったに違いない。それは後藤さんの書く楽曲にしきりに「帰ろう」というフレーズがでてくることでも予想できる。
 ラストシングルのB面、最後の最後が後藤さんの作詞作曲「もう一度帰ろう」というのも意味深い。

  もう一度帰ろうか
  ぼくはぼくの町へ
  もう一度帰ろうか
  きみはきみの町へ

 ぼくを〈僕たち〉に、きみを〈君たち〉に変換すると、紙ふうせん組からハイ・ファイ・セット組に対するある種のメッセージソングになるのだから。

 メンバーの中で真っ先に解散を主張したのは後藤さんではなかったか。
 妥協を許さない後藤さんの頑な態度が赤い鳥の解散を決定づけたといえなくもないと僕は思っている。
 だいたい赤い鳥はふたつの音楽性があったからこそ魅力的だったのだ。ふたつの要素が乖離したらそれはもう赤い鳥ではないのかもしれない。
 分裂はやはり解散なのである。

 この項続く




 2012年の2月以降、読書と映画鑑賞以外の愉しみは原則封印していた。土日は家に引きこもり、案内をいただいたイベント類はほとんどパス。昨年(2014年)12月、やっと元気がでてきて、2年半ぶりの生落語、生芝居を楽しんだ。

          * * * 

2014/12/12

 「立川流夜席」(上野広小路亭)

 談幸師匠が12月末をもって立川流を脱退、新年から落語芸術協会に移籍するということで、落語ファンがかまびすしい。15日は談四楼師匠の独演会があるが、行けるかどうかわからない。その前に広小路亭の立川流寄席に出演すると知って駆けつけた。誰も談幸一門の脱退、移籍の話題に触れなかった。

 立川志らべ   「よかちょろ」  
 立川志のぽん 「蜘蛛駕籠」
 立川談修    「代脈」
 立川談四楼   「弥次郎」
 立川談之助   「桑名舟」

 中に入ると、志らべさんの途中だった。本当なら笑二さんなのだが、変更になったのだろう。
 志のぽんさんは初めて。出てきたときは驚いた。談修さん、いや、師匠、やせたなあって。メガネもかけてるし。2年半の間、老眼が進んでコンタクトから眼鏡(近視用)にしたのだが(小さな文字を読むとき、眼鏡をはずすとはっきり見えるので、老眼鏡をかけるより都合がよい)、視力が落ちたことを実感した。
 「よかちょろ」「代脈」はよく目にするネタだが、初めて聴いた。
 談四楼師匠の「弥次郎」は二度目だろうか。ギャグだけで成り立つバカ話は好きだ。
 談之助師匠はトリだけに漫談ではなかった。


2014/12/26

 「世襲戦隊カゾクマン」(赤坂レッドシアター)

 2年半ぶりにシネりんの忘年会に参加したら、内藤さんが音楽を担当した芝居が年末にあるという。戦隊ものをモチーフにしたコメディなので、迷わず観劇の意思を伝えた。最初給料が入る25日の夜の部を希望していたのだが、この回だけ芝居ではなく落語会であることが後日判明して翌26日に変更した。後で気がついた。26日は会社が本年最終日でお昼で終了するのだ。
 変更の変更は悪いと思ってそのままにしたのだが、19時までが長いこと長いこと……。

 芝居は、40年代を彷彿させるお茶の間のセットに心が和み、適材適所のキャスト(&演技)に大笑い。クライマックスでは巨大ロボット(もちろん舞台では等身大だが)も登場して拍手もんだったが、映像によって表現された、自宅がロボットに変形するシーンはアニメだった。ここは絶対特撮でしょう、貧弱な出来でもいいから。
 劇場をでるとき、主題歌をハミングしていた。面白かった証拠だ。




 明けましておめでとうございます。

 といいながらブログはまだ昨年を引きずっております。
 いましばらくおつきあいのほどを。

 今年(年末?)も年賀状書きませんでした。
 元気になったとはいえ、そこまでの気持ちになれなくて。
 年賀状だけのつきあいの友人に、今度こそ見捨てられただろうな。

          * * *

2014/03/25

 「ロボコップ」(MOVIX川口)

 ヴィジュアルはすごいけれど、ドラマはダメ。主人公がロボコップになるくだりは残酷なんてものではないよ!


2014/06/01

 「X-MEN:フィーチャー&パスト」(MOVIX川口)

 単純に前作の続編で良かったのに……。


2014/06/02

 「キカイダーREBOOT」(TOHOシネマズ渋谷)

 やりたいことはわかるけれど、予算がなさずぎる。すごいと思ったアクションも何度も続けられると飽きてしまいます。


2014/06/17

 「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」(TOHOシネマズシャンテ)

 ボブ・ディランが登場する前の、アメリカンフォークシンガーの世界を描いたということで。
 でもやっぱりコーエン兄弟の変な味わいは健在。
 

2014/07/01

 「渇き。」(MOVIX川口)

 否定しない。でももう一度観たいとは思わない。


2014/07/08

 「ALL YOU NEED IS KILL」(MOVIX川口)

 日本の小説が原作ということで。省略されていて驚くこともあったが、すべてを描くと長くなるんだろうなぁ。


2014/07/25

 「GODZILLA ゴジラ」(MOVIX川口)

 いつものように、観る会を組織して初日鑑賞を計画したが、一人がどうしても都合つかず、28日になった。でもでもどうしても我慢できず一人でレイトショーとあいなった。
 そりゃ、いくつか文句はありますよ、ゴジラの設定とか、何それっって感じ。文句はあるけれど、28日もう一度観たいと思った。
 昨年、「パシフィック・リム」を同じメンバーで観たのだが、燃えなかった。もしかして、日本語吹き替え版なら面白いかなともう一度観ましたけど、それほどの思いがなくて。


2014/07/26

 「複製された男」(TOHOシネマズシャンテ)

 単純なミステリだと思った。不条理映画だったのね。怪獣映画ファンが目を瞠るショットがあります。


2014/07/28

 「GODZILLA ゴジラ」(MOVIX川口)

 怪獣の登場シーン、こんなヴィジュアルが観たかったんだよ~!!! って感じ。
 ドラマもすんなり受け入れられた。そりゃ、親父さんがあっけなく死んじゃったり、子どもが両親に再会するところとか納得できないけど。ゴジラを核で倒そうとしたり、ラストで核が爆発してしまうのはアメリカ映画だから仕方ありません。クライマックスのゴジラとムートーの戦いで何度も興奮できるんですから良しとします。


2014/08/01

 「GODZILLA ゴジラ」(ユナイテッドシネマ浦和 IMAX)

 別に3Dが観たかったわけではない。どでかいスクリーンと音を期待して。やっぱり面白いわ。


2014/09/01

 「イントゥ・ザ・ストーム」(MOVIX川口)

 怪獣映画のつもりで観ました。


2014/09/06

 「ルパン三世」(MOVIX川口)

 北村龍平監督はハリウッドで活躍してほしい。日本映画なんだからオープニングのクレジットをすべて英語(アルファベット)にするのはやめてくれ。海外を意識した作りだというのなら、北野武監督みたいに、日本語と英語の併記にしてよ。
 映画は、キャスティングは悪くないけれど、シナリオがダメ。アニメをそのまま実写化しても意味はない。「黄金の七人」みたいなテイストを期待したのだけれど。

 「フライト・ゲーム」(MOVIX川口)

 口直しに観た。面白かったが、最初の犯人の予告は成り立つのだろうか。


2014/09/15

 「イン・ザ・ヒーロー」(MOVIX川口)

 悪くはない。でも、クライマックス、実際にCGやワイヤーを使ってもいいけれど、それをちょっとでも観客にわからせてはいけません。


2014/09/29

 「ジャージーボーイズ」(丸ノ内ピカデリー)

2014/10/01

 「ジャージーボーイズ」(丸ノ内ピカデリー)

2014/10/04

 「ジャージーボーイズ」(MOVIX川口)

 1週間で3回観たのは初めての経験だ。ブロードウェイではミュージカルだったものを、イーストウッド監督はライブ(音楽)をふんだんに取り入れたフォーシーズンズの評伝映画にした。まあ、カメラ目線の語りは舞台特有であるが、映画になくはない。だからこそ、カーテンコールのミュージカルシーンに涙がでてくるのだ。もう一つ、「君の瞳に恋している」のブラスセッションが加わるところの高揚感にも。


2014/10/30

 「猿の惑星 新世紀」(MOVIX川口)

 なぜもっと早く劇場に足を運ばなかったのかと後悔しきり。戦争がなぜ起こるのか、世界が一つにならない理由がわかる。猿たちの存在に半端がない。


2014/11/13

 「イコライザー」(丸ノ内ピカデリー)

 デンゼル・ワシントンの映画にはずれはない。必殺仕掛人のハリウッドバージョンです。


2014/11/16

 「トワイライト ささらさや」(MOVIX川口)

 普通ならパスしてしまうのだが、役者たちの、大泉洋が乗り移った演技を堪能したくて。


2014/11/19

 「インターステラー」(試写会 中野ゼロ 大ホール)

 予告編を何度も観ても、どんな映画だかわからなかった。
 もちろん、公開されたら観に行くつもりだったので、試写会に誘われて喜んだ。
 3時間近い上映時間だが、長くは感じなかった。


2014/11/25

 「紙の月」(丸ノ内ピカデリー)

 悪くない。でも……。原田知世のTVドラマを押さえておくべきだったか。


 
2014/11/28

 「インターステラー」(丸ノ内ピカデリー)

 21世紀の「2001年宇宙の旅」、とてもわかりやすい「2001年宇宙の旅」です。


2014/12/01

 「西遊記 はじまりのはじまり」(TOHOシネマズ有楽座)
 
 ラストでぶっ飛んだ! でももう1曲は全然意識していなかった。けっこうTV観ていたのに。 


2014/12/10

 「日々ロック」(MOVIX川口)

 こういう映画は観過ごせない。



2014/12/14

 「ゴーン・ガール」(MOVIX川口)

 そんなにショッキングかなぁ。


2014/12/20

 「マトリの女」/「超自然探偵霊子」(シネマボカン)

 「マトリの女」は冒頭がいい。「超自然探偵霊子」は素直に面白い。キャスティングもうまい。


2014/12/21

 「寄生獣」(MOVIX川口)

 原作を知らないとけっこう楽しめる。ウルっとくるショットがあるとは思わなかった。完結編が楽しみだ。


 追記

 「トランスフォーマー ロストエイジ」を8月に観ていた。
 VFXはすさまじいがそれが面白さに直結するとは限らない。この映画の展開の速さについていけないのだ。年齢的な問題だと思う。だいたい長すぎる。中国に媚びすぎるのもいい加減にしてほしい。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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