2001年は〈円谷英二生誕100年〉の年だったのか。そういえば関連書が何冊も刊行されたっけ。何冊か購入している。思えば21世紀最初の年は特撮に関して希望にあふれていた。
 ウルトラマンの新シリーズはTVと映画を連動させる新しい試み。それはよかったのだけど……いろいろあったなあ。

 【おまけ】に登場する男の子と女の子、もう成人式を迎えたのだろうか。

     ◇

2001/07/27

 「劇場版ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT」(上野セントラル3)  

 円谷英二生誕100年そしてウルトラマン誕生35周年の今年、21世紀最初のウルトラマンのネーミングがウルトラマンコスモスだなんて。いったい誰がこのネーミングを考え、どういう経緯で円谷プロ内のGOサインが出たのだろう。ウルトラマンの後に〈コ〉が続くなんてその昔のギャグのネタそのまんまではないか。

 あるいはなぜコスモスという4文字なのか。エースから始まったウルトラマン〇〇〇のネーミング(当初はかなり違和感があったのだが、今では当たり前になってしまった)は3文字という暗黙の了解があった。平成シリーズも「ティガ」「ダイナ」「ガイア」とそれぞれサマになっていた。4文字だとどうにも語呂が悪い。

 コスモスには秩序という意味がある。カオス(混沌)に対するコスモス(秩序・調和)。狙いはよくわかる。コスモスにメッセージを込めてタイトルに冠したいのなら「ウルトラマン THE HERO コスモス」とか、あるいは「ウルトラマンCOSMOS」「ウルトラマン☆コスモス」等、表記に工夫を凝らしてほしかった。  

 いつもは春休みに公開されるウルトラマンの劇場版が夏休みに変更になったのは、先に始まったTVシリーズと大いに関係がある。  
 TVシリーズの主人公ムサシの小学生時代を舞台に、ウルトラマンの存在を信じる少年とウルトラマンの最初の出会いを描く映画だという。
 監督が第一期「ウルトラ」シリーズのメイン監督だった飯島敏宏というのもわくわくもの(脚本も千束北男!)なのだが、ウルトラマンの存在を信じる少年が主人公というところに昔の自分の姿を見た思いがしてこの映画はぼくにとって特別なものになるのではないかと思えた。

 「ウルトラマン」が放映されていた頃、僕は小学1年生だった。毎週日曜日の午後7時はまさに黄金時間だった。もちろん「ウルトラマン」は作り物だということはわかっていた。特撮シーンはミニチュアセットで怪獣やウルトラマンのぬいぐるみを着た人間が演技していることは十分理解していた。にもかかわらず宇宙のどこかにはウルトラマンという正義のヒーローがいると信じていた。TVのウルトラマンは架空の物語、でもウルトラマンは本当にいるんだ、と。
 その証拠にクリスマスのプレゼントはフラッシュビームが欲しいと空に祈ればウルトラマンが届けてくれると考えて、友人ふたりと休み時間校舎の窓から身を乗り出して一所懸命手をあわせていたことは今でもしっかり覚えている。

 「ウルトラマンティガ」の番外編、「ウルトラの星」で、特撮の神様・円谷英二が実際にウルトラマンに会って、ヒーロー・ウルトラマンを創造したというエピソードを描いたのは、子どもたちにウルトラマンの存在を信じていてほしいスタッフの思いがあったのだな、と自分の幼い経験と照らし合わせてみてもその願いは決して大人たちの無理強いではなかったと思っている。
 そんなわけで「劇場版ウルトラマンコスモス」には35年前初めてウルトラマンを見たときの感激を蘇らせてくれる、そんな期待感があった。  

 本当なら翌日の土曜日早起きして丸の内プラゼールの大スクリーンで鑑賞するはずだった。たまたま時間が空いたため上野セントラル3という小さな小さな映画館(ほんと、スクリーンが小さくてがっくり)で観たのがいけなかったのか、はたまた観客が僕を含めて6人、それも後席の父子はクライマックス前に子どもの「帰りたい」攻撃で退席というガラガラの中で観たのが災いしたのか、僕は少しもノレなかった。  

 冒頭、地球圏外におけるバルタン星人とコスモスの空中戦はCGバレバレといえ、動きのある戦い(CGが導入されるまではアップは着ぐるみで動きがあるにもかかわらず、ロングになるとミニチュアのまったく動きのないただ抱き合ったままの絵になるパターンだった)には目を瞠った。
 コスモスがエネルギーを消耗して地球に落下、動けなくなっているところに主人公の少年がやってきて、黒澤監督「羅生門」の森の撮影シーンよろしく鏡の反射を利用し太陽光を一箇所に集めて助けるくだりまではそれなりに面白くスクリーンを見つめていた。

 しかし、コスモスが少年を手のひらに乗せ空を飛ぶシーンから急に興ざめしてしまった。前半の山場、感動シーンのはずなのにウルトラマンと一緒に空を飛ぶ少年の喜びが全然こちらに伝わってこない。映像的にも飛翔感、爽快感が感じられない。
 同じシチュエーションがTV「ウルトラマンガイア」の「ガイアに会いたい」にあったが、TVの方がウルトラマンと一緒に飛行遊泳している子どもたちの生き生きした表情を捉えていたように思う。総じて出てくる子どもたちに魅力がなかった。  

 ウルトラマンシリーズのもうひとつの魅力であるさまざまなメカを有する特捜隊は、今回SRCという名称、メンバーはそれぞれ別に職業を持ち、緊急事態の時だけ招集、怪獣や宇宙人に対し攻撃ではなく保護を目的に活動するボランティア団体という設定。おもちゃ修理のおじさんをトップに据えたこの団体は大人の目からするとリアリティがないけれど、子どもにとっては秘密基地みたいでいいのではないか(舞の海の素人演技に何とかこらえたものの、SRCメンバーのヘルメット姿に脱力した)。

 ボランティアでも怪獣保護でもいい。組織がどのように運営されているか簡単でいいから説明してほしい。怪獣、宇宙人はすべからく排除する方針の、敵役・防衛隊(シャーク)との関係、指揮系統はどうなっているのか。突如蘇った怪獣(呑龍)をユーモアたっぷりに威嚇していると突然シャークの戦闘機が飛来し、隊長同士のやりとりだけでバトンタッチしてしまう様に唖然。

 少年がコスモスからもらった青い石をめぐってシャーク隊員と子どもたちの間で繰り広げられるドタバタもテンポがいまいちでどうもしっくりこない。  
 チャイルドバルタンが少女にのり移ってシャーク隊長の部屋に忍び込み青い石を取り返すシークエンスにはどんな意味があるのか。だいたいなぜチャイルドバルタンが少女にのり移らなければいけないのか。少女ひとりでどうやって厳重な警戒をしているであろう防衛隊基地に忍び込めるのか。チャイルドバルタンが姿でも消せばすむことではないのか。  
 地球人、バルタン星人とも子どもたちの気持ちを踏みにじり、大人が勝手に戦ってばかりいるという構図も釈然としなかった。言いたいことはわかるけれど、大人、子ども双方の気持ちが少しも描かれていないから大人=悪、子ども=善という単純な図式が鼻についてしまう。  
 後半になるとさかんに「夢を持つ」ことの大切さが連発される。80年代の「愛」同様、何度も口にされると嘘っぽくなる。  

 肝心の特撮シーンはというと、確かにCGを使って、今まで見たことがないようなウルトラマンとネオバルタンの戦いを見せてくれる。ただ実写とCGの差がありすぎて、実写からCGに切り替わるたびにがっかりきてしまった。昔、興奮して特撮シーンに夢中になっていて、ふとピアノ線が見えてしまった時の残念なくやしい気持ちといえばいいだろうか。特技監督の佐川和夫はTVの平成シリーズで往年の円谷特撮(ミニチュアや吊りを重視)を実践していた方なので、CGの多用が信じられなかった。

 僕にCGに対する偏見はない。迫力あるビジュアルを得られるのならCGだろうがなんだろうがどんどん導入すべきだと思っている。怪獣やウルトラマンがCGだってかまわない。しかしこの映画のCGはリアルなアニメーションでしかないから不満なのだ。ラスト、何匹(?)も登場するチャイルドバルタンはアニメ以外の何物でもなかった。  

 この数年、「ティガ&ダイナ」「ティガ&ダイナ&ガイア」「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」と観終わるたびに(不満はあったものの)感動なり、興奮なり、ビジュアルショックなり、何かしら得るものがあった。残念ながら「劇場版ウルトラマンコスモス」はドラマにも特撮にも堪能できなかった。  

 ウルトラマンは子どもたちのもの、子どもたちが熱中してスクリーンを見つめていればそれでいいではないか、というもう一人の自分の声が聞こえる。子どもたちが楽しんでいるならそれはそれでいい。でも同伴の親はどうなのかな。  
 確かに2回目の成人式をむかえてからというもの日本的な伝統芸ともいうべき特撮(1/25サイズのミニチュアセットにおける着ぐるみのプロレス)に興味がなくなってきた。等身大あるいは50mクラスのヒーロー(怪獣)しかいない世界に飽き飽きしてきたのだ。
 今、「仮面ライダーアギト」にはまっているけれど、あくまでもミステリータッチのドラマ重視の作風に共感しているのであって、仮面ライダーや怪人の登場にはほとんど興味がない。たぶん「ウルトラマンコスモス」のTVシリーズもこれまでのように熱中することはないと思う。

 5m、10mの怪物が暴れまわるところを見てみたい。身長3mのヒーローが誕生してもいいではないか。特撮スタッフの作業は大変になるだろうが、CGやデジタル技術の発達でその手の映像も容易に可能になるのではないか。
 これまでの特撮フォーマットを打破する斬新な番組(映画)が生まれることを期待したい……と、これはロートル特撮ファンのボヤキでしかないのだろうか。

     ◇

2002/08/25

 「ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET」(シネ・リーブル池袋)  

 前作「ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT」は少年とウルトラマンとの出逢い、ふれあいを描く内容で、監督が「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」のメイン監督であり、最初にウルトラマンのキャラクターを映像に定着させた実績を持つ飯島敏宏監督だったにもかかわらずドラマも特撮も全然ノレなかった。広島フォーク村の「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう」のアルバムタイトルが頭をかすめたものだ。

 ただしこの映画、ファンには評価が高い。思うに、平成の「ウルトラマン」映画に対して僕が求めるものとファンのそれがかなり違ってきているような気がする。あくまでもインターネットの特撮サイトのBBSに書き込まれる内容での判断なのだが。  
 3人のウルトラマンが共演する「ティガ&ダイナ&ガイア 超時空の大決戦」はその世界観が受け入れられないと思ったら、皆大絶賛。悪評プンプンの「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」は逆に見事にハマった。    

 本作もロードショーされてからの意見はあまり芳しいものではなかった。  
 TVシリーズ自体が平成3部作に比べて、ファンから手厳しい評価がくだされているということもあるかもしれない。僕自身TVの「コスモス」はそれほど夢中になっていない。(「コスモス」についてはすでに切通理作「ある朝世界が死んでいた」の項で書いているのでここでは言及しない。)公開前のゴタゴタもあった。  

 ストーリーにはもともと興味なかった。今回劇場に足を運んだのは監督(&特技監督)が北浦嗣巳だからにつきる。  
 「ウルトラマンガイア」の第6話「あざ笑う眼」の冒頭、特捜チームの演習ドックファイトが描かれるのだが、そのスピード感、爽快感といったらこれまでの「ウルトラ」になかったものだった。「トップガン」みたいな飛行シーンが観られるなんて! 興奮した。ストーリーなんかどうでもいいからこのまま30分ずっとこのドックファイトを見たいと思った。怪獣が登場すると、工業地帯で暴れる怪獣を実写との合成を遠景でとらえたショットが非常にリアルだった。  
 結局ガイア全51話で、この回を超える特撮ショットにお目にかかることはできなかった。この特撮を担当したのが北浦監督である。  
 とはいえ、今回は一人で行くのに気が引けた。「仮面ライダーアギト」の劇場映画を一緒に観た特撮仲間の友人を誘ったら、OKしてくれた。ちなみにこの友人、「ガイア」における特撮の北浦(特技)監督の実績に同意見の持主である。  

 夏休みの日曜日の午後、劇場は親子連れで大賑わい。何と入口で本物のコスモスが出迎えてくれるのである。子どもを連れていれば子どもに握手させるついでに僕も握手しちゃうのに……。    

 TVシリーズのコスモスに変身する主人公ムサシの少年時代を描いたのが前作「ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT」、「ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET」はTVシリーズのその後、ムサシがチームEYESを辞め、宇宙飛行士として活躍している時代を舞台にしている。  
 映画とTVが連動して同一青年の成長を描く構成はこれまでにない方法で好感を持てる。    

 映画は凶悪な宇宙生物に惑星を滅ぼされ、地球に逃亡、海底で密かに生命の誕生の研究をしている宇宙人が、ムサシたち地球人と協力して、地球を襲ってきた宇宙生物に立ち向かう話。  

 思わず背中がこそばゆくなるような台詞もあるが、「コスモス」のテーマ、生命の尊厳、夢や勇気の大切さを謳っている。ドラマは長すぎず、短すぎず、こんなものではないかな。前作から10年たっているのに、ムサシの父親(赤井英和)が全然変わっていないのはご愛嬌。
 人類絶体絶命のピンチに少年が主人公に「ウルトラマンがやってきてくれるよね」と語りかけるシーンは、映画のたびに観ているから「いい加減やめてくれ」って感じだが、この手の映画には欠かせないものなのかも。
 
 特撮はかなり斬新かつ新鮮だった。サイパンの街を破壊するシーンは実景に怪獣を合成するショットを多用し迫力あるものになっている。  
 後半の北九州の工業地帯で怪獣と闘うコスモスを遠景でとらえたショットに驚愕。まさしく巨大なウルトラマンと怪獣なのだ。個人的な意見かもしれないが、ミニチュアセット上で怪獣とウルトラマンをバストサイズの〈神の視点〉で狙うショットはやめてほしい。  
 CGも効果的に使用されていた。敵怪獣も善なる怪獣もCGで描かれた飛行形体の方が心ひかれるものがあった。  
 ウルトラ(マン)シリーズ初の海外(サイパン)ロケということで、海(海面および海底)での戦いをもっと観たかった。〈チームSEA〉なる新チームが海で活躍するシーンがないのは寂しい。  
 このサイパンロケのシーンで気になったのは、海も空も突き抜けるような美しさを感じられなかったこと。映像がどうもフラットなのだ。まるでビデオをフィルムにしたような。この映画もデジタルカメラ使用なのかとエンディングロールに注意しても、その旨の表記はなかった。目の錯覚か?    


 【おまけ】  

 映画終了後、場内が明るくなってから隣の両親と子ども(男の子)の会話
 母「××(男の子の名)、寝てたでしょ!」
 父「本当か? ××」
 子「……(うなづく)」
 母「××が観たいっていうから連れてきたのに、何よ。お母さん、眠いの我慢して観てたのよ」  

 ロビーにて、母親と子ども(女の子)の会話
 子「(泣いている)」
 母「どうしたの△△ちゃん?」
 子「(両手で涙をぬぐっている)」
 母「感動して泣いているの?」
 子「(うなづく)」 




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 もう15年前になるのか、ミレニアムシリーズの第1作「ゴジラ2000ミレニアム」が公開されたのは。あのとき生まれた赤ちゃんはもう高校生になるのだ。月日が経つのは早い。早すぎる。

 エメリッヒ監督版「GODZILLA」のすごいところは、ゴジラの巨大さをきちんとスクリーンで見せてくれたことだ。ゴジラという名称に問題があるなら怪獣に置き換えてもいい。セントラルパークの子ゴジラと人間の追いかけっこはもろ「ジュラシック・パーク」のパクリ。あれさえなければ、つまり全編を巨大生物と人間たちの戦いで展開させてくれたら、僕の「GODZILLA」の評価はもっと高かった。ゴジラの冠がなければ十分面白い怪獣映画だと、さんざ吹聴していたのだから。

 ハリウッド映画の特撮(SFX、VFX)映画の伝統として巨大生物(物体)をちゃんと巨大に描くというのがある。「未知との遭遇」「スターウォーズ」あたりから始まったように思う。残念ながら日本映画に欠けている要素だった。平成シリーズではゴジラの巨大さを実感したことがなかった。それがエメリッヒ監督版でもギャレス・エドワーズ監督版でも巨大さは半端なかった。

 特撮仲間のSさんに言わせると、日本映画の特撮は巨大生物(怪獣)の足の描き方がなっていないとのことだった。アニメだときちんと描いているのに。

     ◇

2000/01/12

 「ゴジラ2000ミレニアム」 (日劇東宝)

 平成ゴジラシリーズが次第に尻すぼみになり、映像・ストーリーともに袋小路状態になっって、一旦幕を閉じたのは何年前だったか。
 東宝が版権をアメリカに与えた時、もう二度と日本製のゴジラ映画は製作されないんじゃないか、いや作れないんじゃないかと思った。ハリウッドの巨額な制作費、リアルなSFXで描かれたゴジラを見てしまったら、東宝のミニチュア、ぬいぐるみによる特撮なんて色褪せて見えてしまう。映画、TVで円谷特撮の洗礼を受けている僕ら世代はいいにしても、若い世代は受付けないだろう。

 そうなってもいいと思っていた。ゴジラという財産をただ稼げるからという理由だけで何の計画もなしに場当たり的に量産し続ける会社の姿勢に抵抗があった。ところがゴブリン&エメリッヒコンビによるUSゴジラの評判が散々で、アンチUSゴジラ票を確実に興行収入に反映させようとしたのか、早々にゴジラ復活が決定された。

 そのニュースが発表された時、それほどの期待感はなかった。主要スタッフはほとんど平成ゴジラと同じ、そもそも新しいゴジラ映画が過去のゴジラ映画と何が違うのか、その明確な理由がわからない。発表されたストーリーにも新鮮味は感じられなかった。ただ特技監督が川北紘一から鈴木健二に代って、特撮に関してはある程度テイストが変わるのではないかという思いはあったのだが。

 確かに映像は、特に前半部分(ゴジラの根室上陸、東海村海岸における自衛隊との攻防、深海からのUFO引き上げ)に見るべきものがあった。
 根室のシークエンスはいつか見た夢といった感じで、わくわくした。海中シーンも、いかにもそれっぽくうれしくなる。
 しかし評価できるのはそのくらいだ。肝心のストーリーがなっていない。哀しくなるほど中味がない。何が「リベンジ」なんだ。何が「我々の中にゴジラがいる」なんだ。ここぞという台詞がちっともこちらの心に響いてこない。

 自衛隊とゴジラが攻防を繰り広げている最中に付近をのんきに走る電車。乗客はまるでゴジラ上陸に気づいていないようだ。いまだにこんなシーンを挿入するスタッフの感覚が理解できない。第一東海村の自衛隊のゴジラへの迎撃も、あくまでも自衛隊およびその関係者だけの問題みたいで、日本全国の大ニュースになっている気配がない。

 民間団体ゴジラネットを主催する主人公のゴジラに対する思い入れも彼の言葉とはうらはらに情熱が伝わってこない。クライマックスのゴジラVSオルガなんて、完全に怪獣の戦いだけがくりひろげられて、人間たちのドラマが欠如している。で、その戦いが相変わらずの着ぐるみによる肉弾戦だからちっとも興奮できない。せめて人間側の芝居で盛り上げてほしい。
 欠点ばかりが目について、ゴジラが街を炎で焼き尽くすところでジ・エンドになるや呆然となってしまった。

 シナリオに時間も金もかけていないのがよくわかる。
 映像的には前シリーズを凌駕しているかもしれない。これからも映像で何を見せたいか、どう見せるかって要素はまだまだあると思う。が、何を描くかってことになると完全に行き詰まっている。
 クレジット後に流れた来年公開予定の「ゴジラ2001」の特報にただただ空しい気分でいっぱいになった。

     ◇

2000/12/26

 「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」(日劇東宝)

 今年の映画鑑賞はゴジラに始まってゴジラで終わる。
 本当はこんなに早く観るつもりはなかった。前作「ゴジラ2000ミレニアム」に失望して、本作の製作発表があってもまったく食指は動かなかった。
 怪獣のプロレスごっこに興味がないところに、今度は対戦怪獣に「空の大怪獣ラドン」のメガヌロンをもってきた。またまた懐かし怪獣。トンボの怪獣である。昆虫怪獣の幼虫が群れで登場し、やがて一匹の巨大な成虫が現われる。これって「ガメラ2 レギオン襲来」の焼き直しではないか(焼き直しだってガメラを凌駕していればいいんだけど)。
 ストーリーを知って愕然とした。無敵なゴジラを人工的に作ったブラックホールに吸い込ませて消滅させてしまうという。理数系でない僕ですらもう少し信じられる嘘をついてよ、と言いたくなる内容だ。

 前作の一番の問題は脚本の出来が悪かったという点につきる。
 ゴジラが復活し毎年お正月映画として平成のゴジラ映画が公開されていたときは、怪獣映画、特撮映画はゴジラしかなかったわけだからストーリーがイマイチでもある程度観客を納得させられたかもしれない。
 しかし、ガメラ、ウルトラマン、あるいはそれ以外にも特撮を〈売り〉にした映画(もちろんTV作品を含めて)が続々公開されている中にあって、ドラマ自体もそれなりにしっかりしていないと映画自体が色褪せたものになってしまう。
 にもかかわらず前作はUSゴジラの後、満を持して公開されたというのに肝心のドラマがまったくなっていなかった。
 脚本の柏原寛司は「ゴジラvsスペースゴジラ」を担当した人で、これで僕は平成ゴジラを見切ったのだった。こと怪獣映画というジャンル(SFといってもいい)に限定すればストーリーがちっとも面白くないシナリオを書くという印象が強い。
 ただ「vsスペースゴジラ」の主人公たちのキャラクターはそれまでに比べてよく<立って>いたし、そこを評価されたのか、その年の年間シナリオベストテンにランキングにされている。

 前作は(手垢のついた表現だけれど)人間がちっとも描けていなかった。ゴジラが登場して街を破壊し、敵怪獣と戦わせればいいのだろうといわんばかりの安易な考えでストーリーが構成され、新鮮味が少しも感じられなかった。
 「ガメラ3」に対抗するかのように、ゴジラが燃え上がる街に立ち咆哮するラストに暗澹たる気持ちになった。かつて憧れの俳優がスクリーンで無残な姿をさらしている感慨に陥ったのだ。
 明らかに脚本が致命傷なのに、今回も同じ人(三村渉との共作)を起用するプロデューサーの考えが理解できなかった。

 そんなわけで、ロードショー終了間際に覗けばいいかなくらいの気持ちだった。
 監督が大好きな市川監督の下で助監督をしていた手塚昌明の劇場デビュー作なので個人的に応援したかったし、今回はウルトラマンシリーズみたいな科学の最先端をゆく特捜チームが登場するので僕好みの〈人間がいかにしてゴジラと闘うか〉が描かれるかもしれない、つまりサブタイトルの〈G消滅作戦〉に多少の期待はできるのではないかと。
 驚いたことに公開前から評判がすこぶるいい。サイトでは「ガメラ 大怪獣空中戦」に優るとも劣らないなどと書き込むファンもいて早々に劇場に足を運んだ。

 映画は監督のものである、監督が交替しただけでこうも映画が面白くなるものなのか、と本当は書きたいところだ。
 確かに前作、その前の平成シリーズの後期に比べたら数段上の出来といえるかもしれない。
 そう思いつつも観終わってからすがすがしい気分になれない。何かが心にもやをかけているようで快哉を叫べないのだ。
 オープニング、ゴジラの度重なる日本への上陸、都市破壊を伝える懐かしのニュース映画から映画の世界観(大阪に遷都され、リニアモーターカーが走るもう一つの日本の姿)をナレーションで紹介し、大阪での自衛隊とゴジラの攻防に続く展開は久しぶりにわくわくものだった。
 ところがこの後、特捜チーム〈Gグラズバー〉が登場するや、そのユニフォームのダサさ加減に一気に興ざめしてしまった。デザインが昭和30、40年代といった風でお世辞にも「かっこいい」と呼べるものではない。平成ウルトラのGUTSやXIGといったチームのレザーのしゃれたユニフォームなんて参考にしないのだろうか。
 誇る兵器も〈グリフォン〉という特殊ジェット機のみでメカニックの魅力を展開さえてくれない。Gフォースとの違いがよくわからなかった。
 だいたいこの〈Gグラスバー〉、活躍するのは女隊長(田中美里)のみで残りは愚図な男ばかりというのだから始末におえない。ラストの伊武雅刀の嘆きがわかるというものだ。

 それにしてもゴジラ映画に登場するキャラクターって、どうして薄っぺらい奴ばかりなのだろう。ストーリーを進行させるコマでしかない存在だから映画が終わるとまるで印象に残らない。
 そういう中で女隊長は久しぶりに秀逸なキャラクターを感じさせてくれるが、相手役の若い科学者との対立、葛藤、共感がイマイチこちらの胸に響いてこないのがつらい。戦いが終わってヘルメットをぬぐと長い髪が風にたなびくショットは「vsメカゴジラ」で小高恵美がすでにやっている。あのときの方がぐっときた僕としては二番煎じでしかない。
 お台場におけるゴジラとメガギラスの戦いは「モスラ対ゴジラ」を最新技術で描いたようなかなりの興奮度。背景に実写を多用し、怪獣の動き、特にメガギラスが新鮮だ。が、その興奮もふいに昔ながらのミニチュアセットの中の着ぐるみ然としたショットが挿入されて一気に萎えてしまう。中途半端なカメラワークによるゴジラのアップを見るたびに大スターの前で「アップいただきます」とへりくだる監督、カメラマンの姿を想像してしまう。
 この怪獣バトル中、ビルの屋上に緊急着陸した〈Gグラスバー〉の連中は何の行動も起こさない。怪獣同士の戦いの中に人間側の悪戦苦闘があればドラマ的高揚度は倍加するはずなのに……。

 実際問題、シリーズが長く続いているゴジラのストーリー作りはとてもむずかしいと思う。とりわけ人間の敵として存在しているコジラが敵と闘うのだから容易ではない。おまけに平成ゴジラは神のごとく強い存在でどうしようもない。基本的な設定はほとんどでつくしてしまった。特撮が売りだから他のシリーズのような「待ってました!」のマンネリは許されない。
 ないないづくしの中で観客を納得させる映画を作るその苦労は計り知れない。
 しかし、それでも新しいものに挑戦するのであれば、せめて過去の伝統や栄光をかなぐり捨てるくらいの勇気を持ってほしい。
 いい加減54年版「ゴジラ」の呪縛から逃れたらどうだ。いくら映画世界をリセットしても原点にいつも「ゴジラ」があっては何かとやりにくかろう。
 伊福部昭の音楽からも開放したい。僕だってどんなにゴジラに伊福部音楽が合致しているかは理解している。しかし今回、お台場に上陸する際に流れた伊福部音楽があまりにぴったりくるから、それまで説得力をもって聞こえていた大島ミチルのそれが貧弱なものなってしまった。
 ゴジラが強すぎるというのもうんざりだ。エンディングロール後に観客サービスでやっぱりゴジラは生きていたというエピソードが付け加えられているが、これも「vsキングキドラ」でやっている。全編にわたってもう少し生物らしさを描いた方がいいと思うのだが。
 内容はもちろんだが、年1回の公開システムも見直すべきじゃないだろうか。今のままではかつてのクレージー映画になってしまう恐れがある。内容は二の次、興行成績のみで毎年製作され続け、ある時、不入りという事態に直面したとたんシリーズがストップしてしまうということだ。
 まったく新しい解釈、設定で現代日本を襲う巨大怪獣ゴジラの恐怖を映画の中の登場人物ととも、特にその巨大さに驚愕したいと切に願う。
 あるいは今後もシリーズが続くのなら特撮の王道(といって東宝特撮って時代にワンテンポ遅れている感じがしてしょうがないのだが)ではなく、ウルトラシリーズの実相寺作品みたいな変化球、異色作があったっていい。

     ◇
 先週の某日、埼玉某所で仕事してそのまま直帰となった。西川口駅に着いたときは夕方とはいえまだ明るい。
 自宅への帰り道、マルエツで買い物するために、信号を渡ってから一つ奥まった道を歩いていた。保育所の隣、一軒家の門扉に「段ボールでウクレレを作ろう!」という案内が貼ってある。その家ではアトリエと称して子ども相手に工作を教えているらしい。

 ウクレレを段ボールで作る!?
 あわてて案内に記載している電話番号(携帯)に電話した。
 この教室に出席したかったのではない。対象が小学生であることはわかっている。だいたい平日の16時に始まるのだ。サラリーマンが参加できるわけがない。

 なぜ電話したのか? どうしても確認したかったことがあるからだ。呼び出しに反応がなく電話を切った。しばらくしてまたかければいい。携帯をズボンのポケットにしまおうとすると振動があった。女性だった。
 まず参加ではないことをお詫びして言った。
「どうしても確認したいことがあって電話したんです。段ボールで作ったウクレレの音はきちんと鳴るのでしょうか?」
「はい、それなりに、ですが」
「では、ギターも段ボールで作れますか?」
「可能でしょう」
「弦は何を使うんですが?」
「ピアノ線です」
 心の中でガッツポーズ!

 ウクレレが段ボールで作れるなら、ギターも作れるのではないか? 
 これが確認したいことだったのだ。

 小学生の低学年のころ、GSブームが席巻した。タイガースの「モナリザの微笑」聴きたさに、TVの歌謡番組にチャンネルを合わせ、一気にGSにハマっていった。
 で、思うようになった。自分もバンドを作りたい。ギターを弾きたい。ギターを弾きながら歌をうたいたい。
 普通ならガットギターなりなんなりを親に買ってもらって練習する、というのがオーソドックスなパターンだろう。
 そんなことはこれっぽっちも考えなかった。
 何をしたか。自前のギターを作ろうとしたのである。それも厚紙で。弦には輪ゴムを代用しようとした。
 自宅で友だちと一緒に作り始めたのだが、結局完成しなかった。

 ときどき思い出すことがあった。厚紙でギターを作ろうだなんて、なんて幼稚な発想だと笑っていたのだが、あながち間違っていなかったことが確認できたのである。輪ゴムの弦はいただけないけれど。

「ウクレレ作りに参加してみませんか、別にお子さんと一緒でなくてもいいですよ」
 電話の向こうから天使の声が。
 いやいや、平日の16時は無理なんですよ。丁重にお断り申し上げた。
 段ボールのウクレレの音色を聴いてみたかったが。
 完成品もこの目で見たかった。




 一応、前項より続く

 前項で「ターミネーター3」を大駄作と書いた。先週の金曜ロードSHOWで放映されたこともあり(外出していて観ていないが)、公開されたときのレビューを夕景から転載する。

     ◇

2003/07/17

 「ターミネーター3」(日劇PLEX)  

 1985年、「ターミネーター」がロードショーされた時、胸騒ぎした。触覚にピンとくるものがあって初日に劇場にかけつけた。  
 どこまでも追いかけてくる敵。ひたすら逃げまくる主人公たち。そのスリルとサスペンス。ワクワクドキドキ感。興奮しまくり。こういう映画が観たかったんだとアパートに帰る足取りも軽かった。
 クライマックス後にもう一度ダメ押しのエピソードが続くという構成もこの映画が先鞭をつけたのではなかったか。B級アクションの快作を撮る監督としてジェームス・キャメロンの名がインプットされた。

 キャメロン監督が只者ではないことを思い知ったのは続く「エイリアン2」だ。宇宙を舞台にしたゴシックホラーの傑作「エイリアン」のプロットをそのままに、まったく別物映画を撮り、なおかつ鑑賞後いいようのない爽快感、感動を味あわせてくれたのである。続編に1作めを超えるものはないとは映画の常識であるが、キャメロンは間単にクリアしてしまった(厳密にいえば「エイリアン」「エイリアン2」は単純に比較はできない。個人の嗜好も大いに反映するだろう)。

 それがまぐれでないことは「ターミネーター2」で実証された。  
 この映画もロードショー初日、朝6時から劇場に並んだのだった。期待以上の出来だった。B級から超A級に格上げされた映画の超弩級のアクション演出に目を見張った。CGを本格的に導入し効果を上げていた最初の映画でもある。ラストでは不覚にも涙がこぼれた。サイボーグロボットと少年の心の交流が僕の琴線にビシビシ触れたのである。このラストをもう一度観たくてロードショー終了間際に再度劇場に足を運んだ。
 「エイリアン2」でもラストでヒロイン・リプリーの母性愛、その愛の力が大きくクローズアップされた。そこに僕は瞠目したのだ。「アビス」のそれは夫婦愛だった。

 僕がジェームス・キャメロン監督の映画にこだわるのは見事なストーリーテリング、度肝を抜くアクション、斬新な特撮でぐんぐん押しまくりながらも、ラストでしっかりと普遍的なテーマを浮かび上がらせる演出力による。けっして大仰ではなくさらりと描くところも好感を持った(だから「タイタニック」の、観客の涙をこれでもかとふりしぼろうとするエンディングには少々疑問を抱いた)。    

 ヒット作には続編がつきものである。それも「2」が作られたら「3」は当然。というわけで「エイリアン2」のあと「エイリアン3」が製作されたが、その内容は前作の一番核となるべき部分を否定したもので愕然となった。ヒロインが命を賭して守ろうとした少女をその他の生き残った仲間たちとともにあっさり殺してしまったのだ。「2」の感動はいったい何だったのだろうか。僕は怒り心頭。以後「エイリアン3」は個人的に封印することにした。まったくプロデューサー、監督の見識を疑うばかりだった。  

 同じことがこの「ターミネーター3」にもいえる。  

 未来のコンピュータと人間の戦争を阻止するため、母とともにスカイネットを壊滅させたジョン(ニック・スタール)は無気力な日々を送っていた。母はもうこの世にいない。ジョンは平穏な毎日の中で生きる目的を失い放浪生活を続けていた。ドラッグ中毒の彼は薬を求めてある動物病院に侵入、そこで昔クラスメートだった女性ケイト(クレア・デーンズ)と再会することになる。  
 そんな中未来から女ターミネーター、T-X(クリスタナ・ローケン)が転送されてきた。ジョンのクラスメートたちを次々に抹殺していくT-X。彼女を追って旧型ターミネーター、T-800(アーノルド・シュワルツェネッガー)も現代に現れる。  
 スカイネットはまだ機能している! T-Xの狙いは何か? ジョンとケイトを巻き込みT-XとT-800の壮絶な戦いが始まった……    

 もともとキャメロン監督が絡んでいないこともあってこの映画にはまったく期待していなかったのだが、予告編を観てもっと情けなくなった。ジョンがあまりにか弱すぎる、頼りなさすぎる。
 ただしこのキャスティングは「2」に続く続編として大いに意味あることが前半でわかってくる。確かに審判の日を切り抜けた少年にしてみれば、その後の生活なんて屁みたいなものだろう。おまけに愛する母親はもういないのだ。
 目的を失い怠惰な放浪生活を送る青年が、運命的な女性と出会い、サイボーグとの戦いの中で本来の自分を見つけだす物語。コピーの「未来など決まっていない。運命は自分で創り上げるのだ。」とはそういう意味なのか。そう勝手に判断して観続けた。 

 中盤に用意されている破壊につぐ破壊に徹したアクションが凄まじい。ジョナサン・モストウ監督の演出もなかなかのものだ。「マトリックス リローデッド」のハイウェイシーン同様一見の価値がある。
 映像に興奮しながらやはり気になるのはジョン・コナーである。今にジョンはかっこよくなる、よくなる……。ところがちっとも精悍さを取り戻さない! 最後まで頼りないまま。逆にケイトの方が徐々に勇ましくなっていく。
 それも仕方ない。我慢しよう。だが、あのラストはいったい何なんだ? エンディングロールを見つめながら暗い気分になった。あんな結末を誰が予想しただろう。「2」のテーマなんてまったく無視されてしまっているではないか。

 「エイリアン」シリーズにおけるキャメロンは「2」の演出を請け負った監督でしかなかった。しかし「ターミネーター」シリーズのキャメロンは原作、監督のほかにプロデューサー的な役割も果たしていたと思うのだ。キャメロンが考えていたのはこんなラストだったのか? まるで今のアメリカを象徴するようなラストである。
 本当は「2」で終了した物語を「4」、「5」に繋げるために企画された映画としか思えない。続編ではケイトがもっとクローズアップされるだろう。


 【追記】

 T-Xを見て、アイドルあややがオーバラップしてきた。別に顔が似ているというのではないのだが、無表情の無機質なところ、表情をつけた時とのギャップがそっくりなのだ。




2015/07/12

 「ターミネーター:新起動/ジェネシス」(MOVIX川口)

 「ターミネーター4」はあまり評判がよくなかったのだろうか。批評とともに興行成績も気になるところだ。あちら側のお話は受け入れられなかったのかも。

 「ターミネーター4」の感想でこう書いた。
     ▽
「ターミネーター」シリーズはというと、新作「ターミネーター4」でついにあちら側の物語になってしまった。これまで未来からタイムトラベルしてきたターミネーターを相手に現代を舞台にしたジョン・コナー(その関係者)の物語が、未来におけるジョン・コナーの話になったというわけ。これまた方向転換した。新「ターミネーター」シリーズの第1作という印象だ。
     △

 本当のところ「ターミネーター」は「1」「2」で完結しているのだ。にもかかわらず、駄作「ターミネーター3」で無理やりシリーズを再開した。「3」で「2」のラストを完全否定し、スカイネットと人間の戦争を勃発させたのだ。

 当然「4」が作られる。驚いたことに、映画世界をあちら側(近未来)に設定したのである。ジョン・コナーとその妻及びカイル・リース、そこに過去(観客側の現代)から紛れ込んできた男(逆ターミネーター?)が主要人物として活躍する。
 タイムトラベルの話はそう何回も続けられるものではない作劇上の問題があるために、ストーリーの転換をはかった。シュワちゃんがカリフォルニア州知事になってしまい、レギュラー出演が不可能になったための処置というのが本当なのかも。

 映画の出来は悪くなかった。だからこう結論づけた。
     ▽
 新シリーズに何も期待していなかったのだが、こうなれば、ジョン・コナーとカイル・リースの物語がどう完結するのか。まあ、結果はわかっているのだが、もうしばらくつきあってみるとしよう。
     △

 当然、、新シリーズ第2弾「ターミネーター5」は、あちら側のジョン・コナーとカイル・リースの物語、「4」の続編になるはずだった。ところが、「4」の評判が良くなかった。そこへシュワちゃん復帰のニュース。「5」のストーリーは再検討され、こちら側の話にシフトされた。シリーズの骨格はシュワちゃん扮するT-800が未来から現代へタイムトラベルして、サラ・コナーを守るというもの。

 だったら、もう過去のシリーズを無視して、新たに「1」から作り直せばいい。T-800役が別の役者ならリメイクになるのだろうが、シュワちゃんだとそうはいかない。
 だから、リブートになった。「1」「2」をなぞりながら、新たなサラ・コナーの物語を紡いだのが本作なのである。

  「3」や「4」と本作が違うのは、ジェームス・キャメロンがお墨付きを与えている点である。まあ、「1」&「2」のリブート作品では何かしらコメントしなければならないだろう。いくら謝礼が支払われているのか知らないけれど。
 
 この映画用に設定されたT-800とサラ・コナーの関係が面白い。育ての親と子という関係だ。T-800が歳とったシュワちゃんを考慮したキャラクターになっている。
 サラ・コナー役のエミリア・クラークが良い。ミシェル・ロドリゲスを華奢にしてかわいらしくさせた感じ。
 しかし、ジョン・コナーとカイル・リースのキャスティングには不満がある。

 ジョン・コナーに扮しているのはジェイソン・クラーク。ワイルド系のイケメンのイメージにはほど遠い。見た顔だなと思ったら、「猿の惑星:新世紀」の主役だった。「猿の惑星:新世紀」ではいい味だしていたが。いや本作では演技がどうのというより見た目を言っている。「4」ではクリスチャン・ベールなのだから。真田広之が演じたキャラクターを吉田鋼太郎が引き継いだといったところか。
 まあ、役柄を考慮をすれば仕方ないのかもしれない。
 どうしても許せないのはカイル・リースだ。「1」&「2」のリブート作品なら、どうしたって、「1」のマイケル・ビーンを彷彿とさせる役者に演じてもらいたいと願うのがファンというものではないか。ジョイ・コートニーは全然イメージではない!

 劇中、サラ・コナーとカイル・リースがタイムマシンを使って未来(審判の日がある年)に飛ぶシーンがある。一瞬デジャブ。数秒後TVシリーズ「サラ・コナー クロニクル」に同じようなシーンがあったことを思い出した。
 その前にT-800 が敵と戦って腕を負傷、外側の人工皮膚が損傷して中の金属が見える状態になったことで、一緒にタイムマシンに乗って未来へ行けなくなってしまう。タイムマシンは人工物は一切受け付けない。だから人間は全裸で搭乗しなければならない。T-800も全身金属でできているが人工皮膚で被われているので、全裸ならタイムマシンに乗れるのである。

 で、思った。「2」のT-1000(本作ではイ・ビョンホンが演じている)はどうやって現代へやってきたのだろうか。T-1000は液体金属でどんなものにも変身できる。全裸になったからといって金属であることに変わりはない。それは、新敵T-3000にも言える。
 それから、ラストでT-800は、T-1000の能力を手に入れたと考えていいのか?


 【追記】

 ウィキペディアに「4」や「新起動/ジェネシス」の製作裏話が載っていた。本来なら「4」があちら側の第1作となって新3部作になる予定だったのだが、制作会社が倒産して中止になったという。やはり映画はヒットしなかったのか。
 「新起動/ジェネシス」では、シュワちゃんの意見でジェームス・キャメロンの協力を仰ぐことになったとか。




 先週は3日連続でイベントに参加し、当然飲み会もあって帰宅はいつも午前様……

 23日(木)は、19時より「EIKEN BOOGIE 涙のリターンマッチ」を勝手に応援パーティーと銘打つイベントに参加した。場所はいつもシネりんが開催される竹林閣。主催はKさん。監督を呼んでトークショーなのでシネりんの番外編という感じ。
 EIKENは映研(映画研究部)のこと。大学の映研にスポットを当てた青春映画なのである。だから反応したわけだが。「桐島、部活やめるってよ」に影響されて企画された映画だと思っていたら、監督、「桐島……」は観ていないとのこと。
 Kさんのインタビュー、その口調はいつもの飲みの席と変わらず、とてもゆったりのんびりとしたもので聴きやすく楽しめた。
 映画は25日(土)からシネマート新宿でロードショー。

 24日(金)は、二井(康雄)さんの「編集よもやま話 暮しの手帖で学んだ40年 VOL.2」。神保町のブックカフェ二十世紀にて。お相手は中国関連書籍の編集者、朝浩之さん。話題は紙と電子書籍のあれこれについて、安倍政権にも飛び火したりして。
 イベント終了後は、二井さんの進行で参加者が自己紹介。二井サロンの再現になってきた。今後が楽しみだ。
 二次会は前回と同じお店にて。

 ところで、ブックカフェ二十世紀では棚に並べられた古書を見ているだけで幸せな気分になる。好きなジャンルの本がいっぱいなのだ。晶文社本がかなり充実していて、小林信彦の本もある。「エルヴィスが死んだ 小林信彦のバンドワゴン1961-1976」は5,000円なので手がでないが。
 買ったのはちくま文庫だ。前回もそうだった。

 「偽史冒険世界 カルト本の百年」(長山靖生/ちくま文庫)
 「幻想世界への旅」(水木しげる/ちくま文庫)

 25日(土)は、先週に引き続き二井さんが招待してくれた落語会。18時から三鷹の芸術文化センター星のホールにて「柳家さん喬独演会」を。さん喬師匠は三度めになるのだろうか。艶と間が絶妙ですっかりハマってしまった。本当は先週同様K女史が参加する予定だったのだが、仕事のため、朝さんに変更となった。
 終わってから、先週と同様に駅前の蕎麦Mで軽く飲み会。途中からK女史が参加。

 話は前後する。
 昼間、川口中央図書館に寄ってから三鷹へ向かった。商店街は夏祭りの真っ最中で、各店の前には屋台が並ぶ。待ち合わせまでたっぷり時間があるからいろいろ眺めながら歩いた。
 
 いつもの古書店で立ち読み。
 2冊購入。

 「放送禁止歌」(森達也/知恵の森文庫)
 「手塚治虫小説集」(手塚治虫/ちくま文庫)

 26日(日)は一歩も外に出なかった。エアコンを効かせた部屋でずっと「手塚治虫本を読む」版下作成に精を出す。




 日本テレビのスペシャル番組「ウルトラセブン 太陽エネルギー作戦」はかなり話題を呼んで続編「地球星人の大地」が作られ、やがてオリジナルビデオシリーズを生んだ。フィルムではなくビデオ、低予算だから、セブンの世界観を再現するのは力及ばずだったが、TVシリーズの続編というところにスタッフの心意気を感じたものだ。
 レビューにも書いているが、この勢いで映画を作ってもらいたかった。あのペガッサ星人の回をオリジナル展開させてもらいたかった……。

     ◇

1999/08/08

 「ウルトラセブン 1999最終章 空飛ぶ大鉄塊」(ビデオ)

 今回は特撮にしびれた。
 低予算だし、作り自体はミニチュア然としたものなのだが、何とか往年のミニチュアワーク(ウルトラホーク1号&3号の発進シーンや共演)を再現しようとする姿勢が素晴らしい。
 もうフィルムだ、ビデオだということもどうでもいい気がしてきた。


1999/11/04

 「ウルトラセブン 1999最終章 約束の果て」 (ビデオ)

 脚本が太田愛で、前巻に収録されていた予告編を観る限りでは、ある町の町自体のタイムスリップを扱った物語らしく、大いに期待した。
 浦島太郎伝説をベースに(というかそのものずばり)しているのでいやがうえでも実相寺監督の「ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説」を彷彿させる。前半は映像の質感からして、なかなかの出来であった。「星の伝説」以上のおもしろさ。
 しかし、怪獣が出現すると一気にそれまでの雰囲気をぶち壊した。シリーズの構成上、セブンvs怪獣(宇宙人)のクライマックスがはずせないのはわかるけど、今回登場する怪獣には全くその存在理由がないのがつらい。つまりセブンと戦うだけに創られた怪獣という感じなのである。
 この違和感というのは「星の伝説」にも言えた。謎の女性(高樹澪)の「ナギラ!」の掛け声ひとつで怪獣が出現したくだりでがっくりきたのを覚えている。怪獣出現の伏線が全く描かれていなく、唐突に、宇宙人の用心棒のごとく登場する怪獣は魅力半減だった。なぜ怪獣が現われるのか?どうして怪獣があばれるのか?そしてその怪獣をどうやって人間が倒すのか、を描くのが「ウルトラQ」だったのに。同じ浦島伝説だからと言って、こんなとこまで真似しなくてもいい。
 特別なエネルギー放射によって、町の現在と過去が瞬時に入れ替わるカットは、なかなかの斬新な映像だった。
 怪獣にこだわることなく、もっとミステリー色を強めた異色作に仕上げた方がよかったのではないか。


1999/12/10

 「ウルトラセブン 1999最終章 模造された人間」(ビデオ)

 今回のビデオシリーズ最大の売りだったキング・ジョーの復活。最新の特撮でかつての人気ロボットが蘇る。ただその1点だけを見ればまことによくできたエピソードである。合体シーンの見事な出来栄えに快哉を叫びたい。
 ただストーリーについてはどうも納得がいかない。すっきりしないのだ。
 これは新作ウルトラセブンがTVシリーズの世界観を踏襲し、その後日談という体裁で低予算によるビデオ撮影のオリジナルビデオ作品であることに関係している、と思う。
 つまり、TVシリーズのようなハードな展開にすると低予算のため、セット(あるいは小道具)に限りがあり、特撮だけでなく、実写シーンでもチープな雰囲気になってしまうのだ。逆に予算に合わせて、ホームドラマ的な物語を設定すると、なぜこれが「ウルトラセブン」の世界なのか、こんな市井の些細な事件にあのウルトラ警備隊が出動するのかという違和感が生じてしまうことになってしまうのである。
 それが如実に表れたのがこのエピソードと言えないだろうか?
 キングジョーの復活編ならば、もっと雄大で壮大な宇宙人による地球侵略、それを阻止するウルトラ警備隊の活躍、今の技術なら「U警備隊西へ」以上の大活劇が描けるはずなのだ。にもかかわらず、一家庭内の父娘が抱える問題として処理してしまっているのでたわいもない件の描写に始終する。それがはがゆい。これは脚本や演出がどうのということではなく、ビデオでウルトラセブンをやる企画自体の問題だと思う。「怪奇大作戦」をこのようなオリジナルビデオにするなら、かなり世界観と映像がフィットする作品になるのに……。


1999/12/28

 「ウルトラセブン 1999最終章 わたしは地球人」(ビデオ)

 「1999最終章」というタイトル、平成セブンシリーズの〈とりあえずの〉完結編とはいえ、TVシリーズの傑作の1つ「ノンマルトの使者」のテーゼを再度ここで問うことが果たしてふさわしかったのかどうか。
 いや、最終話にこの問題〈地球人は本当に地球の侵略者だったのか?〉をあえて主題に持ってきたスタッフの心意気はわからなくない。現在、あの当時と同じ世界観のセブンを描くのなら、子ども時代にあのあまりに重い衝撃を受けた者として、どうしても避けて通れないテーマかもしれないし、だからこそ何としても、落とし前をつけなければならないと考えるのも無理はない。
 だが、簡単に〈地球人は実は侵略者だった〉との答えを導きだしてよかったのかどうか。それが「ノンマルトの使者」の作者・金城哲夫が望んだ答えだったのか。
 「ノンマルトの使者」は沖縄人・金城哲夫が子ども番組の中で、ぎりぎりの表現方法で本土と沖縄の問題を扱った寓話だと思っている。それに「ノンマルトの使者」のテーゼはあのエピソードの中で完結していると信じている。答えなど永遠にでないはずなのだ。
 うまく表現できないが、「パンドラの函」を開けてしまった、というのがこの最終話の率直な感想である。
 前エピソードで感じたハードな展開とそれについていけない映像の違和感は今回も生じている。
 「太陽エネルギー作戦」「地球星人の大地」という、どう見ても成功作とは思えないスペシャル番組の後のビデオ3部作。そしてまたこの最終章6部作。確かに今回は特撮スタッフの頑張りがあって、TVスペシャル、前3部作を凌駕する内容になったことは大いに認めたい。
 しかしTVシリーズの延長としてこのビデオシリーズを位置づけるとなると全面的に肯定するわけにもいかない。
 ウルトラセブンのTVシリーズをリアルタイムで見ていた世代を対象にして、その世界をビデオの予算で製作し、納得させられるわけがないではないか。
 前3部作、今回の6部作の予算をつぎ込んで1本の映画(ビデオ作品)を作れるかどうか。そのくらいウルトラセブンの世界は高度に完成されていたのである。

     ◇





 紙ふうせん(赤い鳥)、落語(立川談四楼)ときた転載シリーズ、続くのは特撮だ。特撮の後はショーケンね。

          * * *

 第一期ウルトラシリーズ世代にとっては、第二期シリーズの「ウルトラマンA」の中盤以降、「ウルトラマンT」は悪夢であった。ゲスト出演するウルトラ兄弟へのリスペクトの無さに失望したのである。全然かっこよくないのだ。主人公であるエースなりタロウを引き立たせるためだけの脇役なのだ。造形にも問題があった。
 ゆえにウルトラ兄弟=ウルトラシリーズの堕落という認識になる。だから第二期ウルトラを嫌っていた者はウルトラマンティガがM78星雲出身ではない、新しいヒーローという設定に希望をつないだのだと思う。逆に第二期に思い入れがある者は、ウルトラシリーズ=ウルトラ兄弟だからそんなのウルトラマンではない! ということになる。
 スタッフが第一期ウルトラを夢中で観ていた同世代といことも、取っつきやすかったのかもしれない。

     ◇

1998/04/03

 「ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ」(新宿松竹)

 満足のいく出来だった。それは認めたい。
 しかし主要な対象が低年齢層の子どもたちとはいえ上映時間70分は短すぎるのではないか。
 それがクライマックスの首都決戦~ダイナの死(?)~ティガの復活~ダイナ&ティガ対敵の戦いと続く展開があまりに急テンポに進む結果になってしまったきらいがある。
 この部分は〈大人の観客〉としてもう少しきめの細かい描写で観たかった。
 あと20分あればダイナを失ったスーパーGUTSやTPCの隊員たち、その他避難したメトロポリスの人々の苦悩それにもめげずに立ち上がる勇気がもう少し奥行きのあるものになったのではないか。
 逆に言うとオープニングからダイナ対デスファイターまでは眼を瞠るような特撮のイメージとあいまって、話の展開がスリリングで実に爽快だった。
 プロメテウスがデスファイターに変身するシーンはCGとはいえ日本特撮のイメージがやっとアニメーションのそれに追いついたことを証明していてうれしくなる。
 ティガファンへのサービスでラスト近くに旧GUTSのメンバーが勢揃いするが、単なる同窓会的な扱いなら出演させる意味がない。
 とにかくウルトラマンシリーズの映画化作品でやっと映画と呼べるものが登場したことを素直に喜びたい。

     ◇

1998/08/28

 「ウルトラマンダイナ」(TBS)

 「ウルトラマンダイナ」が終わった。
 川崎監督の「僕たちの地球が見たい」「うたかたの空夢」以降、今ひとつといった感じのエピソードばかりで、ティガみたいな終盤の盛り上がりというのが(僕にとっては)なかったし、ティガ同様最終3部作の第1部があまりに急展開だったため、どうなることかと心配していたら、第2部が異様な盛り上がりを見せてくれた。

 最終話を観終わった今、寂しくて、切なくて、印象的なシーンを思い出すだけで目頭が熱くなってしまうのだけど、前向きな姿勢を失わないスーパーGUTSのメンバーたちの涙まじりの笑顔に夢に対する希望を感じてすがすがしい気分であることに間違いない。
 ティガの時以上に感動していると言っていい。
 第1話、第2話の前後編で提示したテーマをきっちりと完結してくれた。
 僕はあのラストをアスカの死ととらえていない。全く予想していなかったラストではあるが光の中を父と子が並んで飛行するシーンはある種のハッピーエンドとみる。あれはネオフロンティア時代にふさわしい人類の新たなる一歩なのだ。
 最終話で流れた涙は、だからアスカを失った悲しみではない。「宇宙戦艦ヤマト」が大嫌いな僕としては自己犠牲で涙(感動)を呼ばせる作劇なんて絶対に認めたくない。

 ティガに続く新ウルトラマンシリーズ第2弾として「ウルトラマンダイナ」が発表されたとき、 多くのティガファン同様、あまりいい印象を持たなかった。
 ティガの世界観を引き継ぎ7年後の世界が舞台で、特捜チームがGUTSからスーパーGUTSに変更、単純明快なストーリーを目指すという新聞発表で少々心配になった。今度は『ウルトラマンタロウ』的な内容になるなんていう業界噂話を聞くと暗澹たる気持ちになったもんだ。
 お願いだからティガの世界を壊さないでくれ!それが放映開始前の率直な感想だった。

 第1話でそれが杞憂であることがわかった。

 〈ネオフロンティア計画〉をキーワードに宇宙に進出する人類の活動を背景にしたスペースオペラ的な舞台設定。
 かつて宇宙に消えた名パイロットだった父親との父子鷹的要素をスパイスにした、前向きに生きることだけがとりえの主人公の成長物語。
 主人公と彼をチームにひっぱった先輩女隊員との賢姉愚弟的な友情(恋愛)物語。

 と、今までのウルトラマンシリーズにはない展開が予想され、すぐにダイナの世界にはまってしまったのだった。
 そのために初のシリーズ構成者を採用したのだとも思った。

 回が進むにつれて、期待は徐々に薄れていった。最初に提示したテーマ(人間ドラマ)がうまく展開していかないし、設定やエピソードのつながりに矛盾を感じた。
 とにかく文句言ったり、見直したりの1年間だったが、今になってダイナの世界にどっぷりつかっていた自分に気づいた。

 後番組として、継続した世界観という点で、何かにつけてティガと比較されることは、仕方ないとは言え、かわいそうな気もする。
 第1弾で放映されていたら、それなりに評価されていたに違いない。
 僕としては、

 せっかく最初に示したドラマ部分にシリーズを通してのまとまりがなかった(特にリョウとアスカの関係)
 TPCの組織がうまく描けなかった(なぜ基地の所在がダイブハンガーからグランドームに変更になったのか、GUTSからスーパーGUTSになったのか、新旧隊員の葛藤等)

 という不満はある。
 とはいえ、前作の世界観を引き継いだスタッフの意欲は多いに評価したい。
 タイトル通りのダイナミックな特撮もお見事。
 第2期ウルトラマンシリーズを凌駕していることは間違いない。

     ◇




 18日(土)は落語会をはしごした。
 14時から与野本町のさいたま芸術劇場小ホールで「彩の国落語大賞受賞者の会 立川談笑」。談笑一門に談四楼師匠がゲスト出演。
 18時から三鷹の芸術文化センター星のホールで「立川志らく独演会」。
 
 翌19日(日)は新宿文化センターへ行って、一週間前に予約した「フォークソングが流れる街」のチケットを購入するつもりでいた。ところが朝からどうも調子が悪い。身体がだるくてたまらない。熱中症になる一歩手前みたいな症状。結局文化センターに電話して翌日に変更してもらった。
 20日(月)になっても体調は良くならなかった。しかし、もうチケット購入を先に延ばせないので新宿へ出た。いや、できるとは思うけど、夕方からは東京ドームで都市対抗野球の応援があるから外出しなければならない。だったら同時に済ませてしまおうと。前日よりは幾分ましだが万全ではない。
 本日も同様で。

          * * *

 7月12日の「あけてくれ!」の放映を持って「ウルトラQ」が終了した。全28話。
 「ウルトラQ」はこれまでTVの再放送でビデオでDVDで何度も観ている。とはいえ、リアルタイムと同じ日曜日、それも深夜(24:00)に毎週1話づつ観賞するというのもオツなものだった。実際、あのオープニングが始まると6歳の童心が蘇ってくるのだ。

 第一期ウルトラシリーズ(「怪奇大作戦」を含む)の中で一つだけ好きなものを選べと言われたら、やはり僕は「ウルトラQ」を挙げたい。いや、本当は比較などできないのだ。「ウルトラマン」には「ウルトラマン」の、「ウルトラセブン」には「ウルトラセブン」の良さがあるわけだから。そう思いつつも「ウルトラQ」は特別なのである。

 普通の人間が怪事件に遭遇し解決するという基本フォーマットが良い。今、若い世代はモノクロ作品を受けつけないと聞いたことがあるが、僕にはモノクロも一つの色彩というイメージがある。「ウルトラQ」には怪奇色の強いエピソードも多かった。モノクロ、怪奇、人間ドラマ。6歳のときに刷り込まれた特撮番組の印象はその後の自分の趣味嗜好に多大な影響を与えた。

 何度か書いているが、本放送時「ウルトラQ」が始まったことを僕は知らなかった。だから第一話「ゴメスを倒せ!」を見逃している。翌日、保育園で怪獣が出る番組が始まったことを聞いて翌週の第2話「五郎とゴロー」を観たと書いたのだが、初放映は1月2日の正月だ。翌日のわけがない。
 とにかく第二話「五郎とゴロー」はとんでもないインパクトだった。冒頭、ロープウェイに乗っていて、前方に巨大な猿が出現するというヴィジュアルは強烈でいまだにあのときの恐怖を覚えている。

 第3話は「宇宙からの贈り物」。このエピソードが印象的だったのは、ラストで話が終わらないことだった。二匹めのナメゴンが出現したところで「終」。これが子どもには奇妙だった。もちろんナレーションできちんと締めくくってはいるのだが。

 ゴメス(&リトラ)、大猿、ナメゴン…今回3話まで観てこの番組が当時の子どもたちの間で大人気になったのがよくわかった。このあと、マンモスフラワー、ペギラが登場するのである。「マンモスフラワー」の皇居のお堀に浮かぶ巨大根は本物に思えた。「ペギラが来た」は本当に南極にロケに行ったと思っていた。
 第7話「SOS富士山」に登場する怪獣ゴルゴスが大好きでいつも絵を描いていたことを覚えている。今となってはその理由がわからない。
 第9話「クモ男爵」の怖さは絶品だ。これで底なし沼というものを知った。
 第11話「バルンガ」はシリアス部門のベスト1ではないか。コメディ部門のベスト1は「カネゴンの繭」で、両部門合わせてもやはりベスト1だ。「カネゴンの繭」が傑作であることは大人になってからわかったのであるが。

 第20話「海底原人ラゴン」もベスト5に入る怖さだ。第22話「変身」は特撮がリアルだった。太陽光を使ってミニチュアを撮っているのが新しい試みといえるのでは?
 第23話「南海の怒り」は、ずっと「キングコング対ゴジラ」の特撮を再利用したものとばかり考えていた。実際はオリジナルが多いことがわかった。それも大ダコは「フランケンシュタイン対地底怪獣」海外版に出てくるもの。なぜ今まで気がつかなかったのか。
 第24話「ゴーガの像」の怪獣ゴーガは少年が夢中になるキャラクター、造形だろう。粘土でよく作ったものだ。

 第28話「あけてくれ!」は本放送では放映されず再放送で初めて放映された。初めての再放送で見たことのないエピソードに触れて驚いた記憶があるかといえばまったくない。これが不思議でたまらないのだ。
 映画館で観た「フランケンシュタイン対地底怪獣」がTVで放映されたとき、ラストに大ダコが登場して驚愕した。映画版とは違うエンディングに戸惑ったことははっきりと覚えているからだ。

 「アンバランス」が企画された当初は怪奇色の強いSFといったものだった。実際にその路線で各エピソードは制作されているのである。もちろん、怪獣(というか巨大生物)が登場することもある。
 制作順に記すとこうなる。「マンモスフラワー」「悪魔っ子」「変身」「あけてくれ!」「宇宙からの贈りもの」「鳥を見た」「五郎とゴロー」「1/8計画」「甘い蜜の恐怖」「育てよ!カメ」。
 これら作品群を観た局プロデューサー(前任者に代わって番組担当となった)が、2クールめの作品を怪獣路線にするよう指示した。こうして制作されたのが「ゴメスを倒せ!」なのだ。
 で、重要なのは、すべてのエピソードが出来上がってから放映順を決めていったこと。これで「ウルトラQ」の世界観が統一できた。一の谷博士、新聞記者など1クールで消えているのだが、放映順だところどころに出演しているように見えるのである。

 もし局プロデューサーが本格SFを志向していたらどうなっていたのか。21時台、22時台に放送する大人向けドラマになる可能性だってあったわけだ。「ネオ・ウルトラQ」がまさにそういうドラマだったといえないか。大ブームにはならなかったことは確かだろう。




 又吉直樹「火花」の芥川賞受賞。これって、芸能界、笑芸界にとって快挙ではないか。
 文学賞は数多あれど、芥川賞・直木賞は別格の趣きがある。文藝春秋に対抗して新潮社が三島(由紀夫)賞・山本(周五郎)賞を創設したが、世間一般への浸透度はいまいち、いまにの状況だもの。

 太宰治は芥川賞が欲しくて、川端康成に懇願したというエピソードを昔聞いたか読んだことがある。阿久田川翔なるペンネームを考えていたいうのだからすごい。いや、いなかった。

 かつて、脚本家の向田邦子が「思い出トランプ」で直木賞を受賞してからというもの、メディアで紹介されるときは、まず〈直木賞作家〉となったほど。数々の名ドラマを書いてきた功績はどうなんだ! 文学はTVドラマに比べてそれほどすごいのか! ふざんけんじゃねぇ。何度かプロフィールを読んで叫んだことがある、心の中で。

 ビートたけし(北野武)が映画監督に進出し「HANA-BI」がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、〈世界の北野〉になって、笑芸界の中で、一つのステータスを確立した。
 又吉直樹も、もう一つのステータスを作るのか、メディアの扱いはどう変わっていくのか? 
 「HANA-BI」でヴェネツィア金獅子賞、「火花」で芥川賞。 
 もし、品川ヒロシがアカデミー賞外国語賞を狙うのなら、もし太田光が直木賞受賞をもくろんでいるなら、タイトルは「ハバナ」でどうだ? 「響(ひびき)」でもいいぞ。

 受賞後の3人揃っての記念写真を見て素朴な疑問がわいた。
 著者自身が受賞作を両手で持っているのだが、直木賞の東山氏が単行本なのに、芥川賞の又吉、羽田の両氏は掲載誌「文學界」だった。羽田氏の作品はまだ単行本化されていないのかもしれないが、「火花」は単行本になってすでに60万部売れているのだ。なぜ、又吉氏は東山氏と同様に単行本を手にしないのか? 

 ところで、あなたは「火花」を読みましたか?
 私の場合、小林信彦「つなわたり」の一件があり、まだ読んでおりません。




2015/07/11

 「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」(MOVIX川口)

 前作(第1作「アベンジャーズ」)は東京都現代美術館で「特撮博物館」が開催された年(の夏)に公開されている。2012年だからもう3年前になるのか。
 「特撮博物館」はVFX全盛の時代においても、模型やミニチュアセットを駆使した往年の特撮技術、日本特撮界のお家芸を絶やしてはならないと、庵野秀明が盟友、樋口真嗣の協力を得て開催した展覧会だ。東宝や円谷プロ等の特撮作品の模型やミニチュアが集められ展示された。

 開催は7月から10月にかけて。連日大盛況だった。僕は、日テレのプレオープニング特別番組を真剣に視聴するほど興味津々だったにもかかわらず、あまりの混雑ぶりに怖気づき、7、8月の夏休み期間は遠慮していた。
 で、特撮好きの友人と相談して終了間近の平日に行くことにした。そうじゃないとゆっくりじっくり見学できないと思ったからだ。甘かった。平日も大変な混雑ぶりだったのだ。
 考えることは皆同じということなのだろう。「特撮博物館」は来週で終わってしまう、でも土日に行けば最悪な人ごみだ。でも、その前の平日ならば穴場、けっこう空いていたりして。そう考えて平日に大勢が押し寄せたというわけだ。

 「特撮博物館」は東京での開催を終えてから、松山、長岡、名古屋を巡回し、今年の熊本で終了となった。
 奇しくも「特撮博物館」最後の年(の夏)に「アベンジャーズ」の続編「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」が公開されたというわけだ。これも何かの縁か。単なる偶然だろう。

 3年前、「特撮博物館」の会場を廻っている間に、友人と「アベンジャーズ」について話したことを覚えている。観ていない友人が感想を訊いてきたので、劇中に登場する〈空飛ぶ空母〉だけでもの観る価値ありと答えた。あの巨大感はスクリーンで観るべきだよとさかんに吹聴したものだ。
 「ウルトラマンガイア」に登場する防衛組織〈XIG〉の基地となるエリアルベースはミニチュアにしか見えなかったが、「アベンジャーズ」の空飛ぶ空母はまさに本物という感じで、もうそれだけで興奮ものだった。リアルなエリアルベースとはこういうものなのかと。元ネタの「キャプテン・スカーレット」のクラウドベースはこの際無視します。
 考えてみれば、「ウルトラマンガイア」の設定は「キャプテン・スカーレット」の影響が伺える。エリアルベースのほかにも女性だけの空軍チーム・チームクロウが登場するが、これも「キャプテン・スカーレット」のエンジェル隊を応用したものだろう。

 日本では、ウルトラ兄弟、歴代の仮面ライダー、スーパー戦隊の共演は見慣れたものだから、マーベル・コミックのヒーロー大集合なんてそれほどのものとは思っていなかった。個人的にアメリカンコミックに思い入れがないから期待もしていなかった。
 実際、3年前の映画でしっかり記憶しているのは、前述の巨大空母だけでストーリーなんてもう完全に忘却の彼方である。アイアンマンが、ハルクが、ソーが、キャプテンアメリカが、ブラックウィドウが、敵と戦っていたけど、その敵が誰で、なぜ戦ったのかは思い出せない。その程度の映画(もちろん制作費は莫大だし映像もインパクトあるが)という認識なのだ。ところが、世界的にはこのヒーロー揃い踏みが奏功した。全世界で大ヒットを記録して即座にシリーズ化が発表されたのだ。

 続編はどんなヴィジュアルを魅せてくれるのか? そしたら、あなた、今度もウルトラマンではないですか! 
 前作は平成ウルトラマンシリーズの「ウルトラマンガイア」だったが、本作は第二期ウルトラ(マン)シリーズの「帰ってきたウルトラマン」。第25話の「ふるさと地球を去る」では村そのものが宇宙に飛んでいってしまうという驚愕シーンがあるのだが、それをVFXによるド迫力ヴィジュアルでまさに実写と見まごうばかりに再現してくれたのだ。このヴィジュアルを観られただけで良しとしたい。

 続編ではアベンジャーズに新しい仲間が3人加わった。
 最初は敵として登場する超能力姉弟。姉を演じる女優さん、「どこかで見た顔だなあ」と帰ってから調べたら「GODZILLA ゴジラ」で主人公の奥さんを演じていたエリザベス・オルソンだった。驚いたのは弟が夫だったこと。いや、「GODZILLA ゴジラ」でエリザベス・オルソンの旦那さん、映画の主人公を演じたアーロン=テイラー・ジョンソンだったのだ。ぜんぜんわからなかった。
 もう一人は、トニー・スタークがアイアンマンとして活躍する際に何かと面倒をみてくれる人口知能(ジャーヴィス)。ある理由で人間体になるのだが、その姿がまるでスーパーマンのような造形だった。それも衣装は「マン・オブ・スティール」を意識しているような細かい網目模様のデザインで。
 狙っているのだろうか。

 

 



 「TOHOシネマズ新宿にもの申す!」から続く


2015/07/01

 「ラブ&ピース」(TOHOシネマズ新宿)

 園子温監督が怪獣映画を撮ると知ったときから公開を楽しみにしていた。
 現在の日本映画界で一番特撮映画から遠いところにいる監督の怪獣映画とはどんなものなのか? 怪獣映画冬の時代に気鋭の映画監督は怪獣を素材に何を描くのか? 
 正確にいえば、クライマックスで怪獣が登場するファンタジー映画になるのだが、まあいい。

 それにしても園監督、現在、何本の映画を手掛けているのか。今年になって「新宿スワン」「ラブ&ピース」と続けて公開されている。このあと「リアル鬼ごっこ」が待機しており、秋には「みんな!エスパーだよ!」が控えている。その多作ぶりは、三池崇史監督、堤幸彦監督と肩を並べるのではないか。

 園子温と特撮怪獣映画。
 この関係、感覚をどうたとえたらいいだろうか。
 たとえば70年代にあの神代辰巳監督が特撮映画に取り組んだらどんな作品ができるのだろうと期待するようなものか。
 神代監督の場合、「もどり川」で関東大震災のシークエンスに一部特撮(合成)を使っていた。らしくなかった。
 「地獄」はもっとその手の映像があったと思うがまるで覚えていない。原田美枝子が主演だったので劇場で押えたはずなのに。神代辰巳監督、原田美枝子主演というともう1本「ミスター・ミセス・ミス・ロンリー」がある。意味は「みーんな孤独……」だろうか。原田美枝子がぜひ神代監督と一緒に映画を作りたいと企画したもので、主演のほかプロデュースも担当しており、刹那というペンネームで原案、脚本を書いている。

 映画「ラブ&ピース」の話だった。

 この映画、一般には、長谷川博己がダメサラリーマンからビジュアル系のミュージシャンに大変身して活躍する、男シンデレラストーリーとして認識されているだろう。怪獣映画だなんて期待しているのはほんの一部のロートル特撮ファンのみ。
 とはいえ、そんなロートル特撮ファンにしてみれば、2015年にこの映画が公開されることに意味があるのだ。7月は「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」「ターミネーター:新起動 ジェネシス」が公開される。続けて8月は「ジュラシック・ワールド」、「進撃の巨人(前編)」が公開される。だけでなく、12月には「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」が待っているのである。特撮(VFX)の魅力満載の映画が立て続けに公開されるこの喜びをどう表現したらよいのか。

 って、映画「ラブ&ピース」の話だった。

 映画の冒頭からしばらくの間、主人公のダメっぷり、会社から世間からつまはじきされている現状を描かれるのだが、そのカリカチュアはちょっとやりすぎの感あり。嘘っぽい。真実味が足らない。
 思わず、共感して一人クスクス笑ってしまったのが、主人公が夜の街で看板を見ながら適当な歌詞をつくりメロディをつけて鼻歌をうたうシーン。僕も昔よくやった。けっこういいメロディが浮かんで「名曲だぁ」と自画自賛するのだが、翌日になるとまるっきり忘れてしまう。

 主人公の自作曲「ラブ&ピース」、ギター弾き語りのときはなかなかいい。ところが、ロックバージョンになってバンド演奏、歌唱になると迫力がない、楽曲もそれほどのものとは思えなくなってしまう。松田美由紀演じる音楽業界幹部が絶賛するほどのものか、全国的に大ヒットするほどのものか、という疑問が生じてしまうのだ。長谷川博己の歌唱力、パフォーマンス力の問題かもしれない。楽曲は、エンディングのクレジットで分かるのだが、園監督自身の作詞作曲だった。うーん、それはそれですごいこと、一本筋を通すやり方だけど、よかったのかどうか……。

 トイレに捨てられたミドリガメが下水道を流れて、西田敏行が暮らすパラダイスにたどりついてからのシーンは驚愕の数々。もし、動物や人形の共演が合成ではないのなら、それこそ撮影が大変だったのではないか? 人形は操演できちんと動いているし、その人形に合わせて動物たちは演技をしているし、ってんで、違和感がないのである。
 声の出演も、西洋人形が中川翔子、黒猫が星野源と、エンディングクレジットで名前を知るまでまったく意識することがなかった。つまり劇中ではきちんと声優していたということ。

 そしてお待ちかねの特撮。
 良く出来ていた。巨大化したカメは(人間大の大きさになったときからそうだが)、「小さき勇者たち GAMERA」のトトではないか。このシーンだけ観ていると「小さき勇者たち PARTⅡ」の趣きがある。カメが大きくなって主人公の願いを叶えるというストーリーということでは「ウルトラQ/育てよ!カメ」を彷彿とさせる。

 TVで「育てよ!カメ」を観たのと、映画館で「大怪獣ガメラ」を観賞したのとどちらが先だろうか。ほぼ同時期だったような気がする。小学生になる直前、6歳のときか。この年齢でガメラに出会ったことに感謝している。もっと大きかったら二足歩行するカメ(の怪獣)にゲンナリするだろうし、手足を引っ込めて火を噴いて回転しながら空を飛ぶことに「嘘でぇ」とバカにしたのではないかと思う。
 5、6歳の少年にとってカメは特別の存在なのではないか。だからこそ、僕は真剣に「大怪獣ガメラ」「大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン」を観た。あの回転飛行はもろセンス・オブ・ワンダーだった。「育てよ!カメ」の飼育シーンに興味津々だった。

 だから、映画「ラブ&ピース」の話だって。

 特撮は田口清隆特技監督。最近活躍がめざましい。新作「ウルトラマンX(エックス)」のメイン監督に起用されている。
 コンサート会場(球場)に向かって街の中をまっしぐらに歩くショットが、前半の、主人公が自分の部屋で夢を話題にミドリガメを使ったゲームにリンクして膝を打つとともに爽快な気分にさせてくれる。その後の叫びに涙がひとすじ流れた。ピカチュウの声をあんな状況で使うなんてルール違反だけど。

 しかし、何といっても、ラストで流れるRCサクセション「スローバラード」だろう。楽曲に声に圧倒させられる。それまでの長谷川博己がシャウトする「ラブ&ピース」なんて霞んでしまう。
 すべてがこの曲に持っていかれてしまった感がある。
 これは監督の計算のうちか否か。




 前橋のTさん、お元気ですか。
 Tさんが弾き語りでレパートリーにしている紙ふうせんの「木こりのわが子への唄(歌)」ですが、訳詞した大橋一枝さんのプロフィール、ご存知でしたか?
 アルファレコードの社長さんだったんですね。
 本日読了した「深夜放送がボクらの先生だった」(村野まさよし/有楽出版社)で知りました。

 この本については「7月の読書」の一冊として来月レビューしますので詳細は省きますが、現在、米や環境問題等の著作で活躍するノンフィクション作家が60年代から70年代にかけての深夜放送「オールナイト・ニッポン」について書いたものです。

 この事実を知った先週の8日、紙ふうせんの元マネージャーで、現在、東京メディア窓口(?)担当のTさんに別件でメールした際にその旨追記したところ、村井さんの元奥さんだったと教えていただきました。村井さんがアルファを退任してから、ヤナセグループから権利を譲り受け社長に就任したと。フランス語が堪能で訳詞でもいろいろ活躍していたとのことです。

 「深夜放送がボクらの先生だった」でも、別項で、亀渕昭信、朝妻一郎、大橋一恵の三氏は、〈高崎学校〉三羽ガラスと書いています。高崎とあるのは高崎一郎氏のこと。
 高崎一郎というと、僕にはTV「リビング4」の司会者というイメージが強いのですが、もともとはニッポン放送のプロデューサーで、「オールナイト・ニッポン」パーソナリティー第一世代なんですね。

 話を戻します。
 大橋一枝さんの名前(前述の本では一恵となっています。漢字表記を変えたのか、あるいはこちらが本名なのかもしれませんね。一枝はペンネームかも)を、私は紙ふうせんのセカンドアルバム「愛と自由を」で知りました。アルバムの前にリリースされたシングル、アルバムにも別アレンジで収録されている「別れの鐘」は岩谷時子さんが詞を書いていますので、当時は大橋さんも、そんな女流作詞(訳詞)家の一人という認識でした。
 ただ、あまりほかでは名前を見かけなかったものですから、いったい何者なのかずっと不思議に思っていたんです。
 それが、深夜放送に関する本を読んでいたら、名前がでてきたもので驚いた次第です。

 赤い鳥時代、レコードには〈アルファ・アンド・アソシエイツ〉という表記がされていました。赤い鳥が解散して紙ふうせんになってもこの表記はありました。
 当時、村井さんの会社という認識があったのかどうか。よく覚えていませんが、たぶんあったと思います。
 紙ふうせんが東芝EMIからCBSソニーに移籍して、この表記がなくなって、それで、「ああ、村井さんのもとを離れたんだ」と強く意識しましたから。
 アルファ関連の楽曲にもっと触れていたら大橋一枝さんの詞に触れていたのかもしれません。


 追伸

 今週、18日(土)、TOKYO MX「小室等の新・音楽夜話」に紙ふうせんがゲスト出演します。やっと、やっと実現しました。
 このときが来るのを願っていたんですよ!




 前項の続きで「ラブ&ピース」の感想を書こうと思っていたのですが、予定を変えます。

          * * *

 週末から3日連続で映画を観た。
 10日(金)は丸の内ピカデリーで「愛を積むひと」。シネりん代表(代理?)のSさんから前売券をいただいたのだ。ダメ亭主、父親失格の男が観ると身につまされてしかたなかった。

 翌11日(土)は地元のシネコンで「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」を。クライマックスは壮大なヴィジュアルによる「ふるさと地球を去る」(帰ってきたウルトラマン 第25話)ですな。新メンバーとしてスーパーマンもどきが登場した。衣装も最新作「スティール・オブ・マン」という凝りようだ。ハルクとブラック・ウイドウの関係はピーター・ジャクソン監督版「キング・コング」(2005年)のコングとナオミ・ワッツみたい。強いワッツね。

 そして昨日12日(日)はやはり地元シネコンで「ターミネーター:新起動/ジェネシス」を、ポイントがたまって無料で観賞。13時の回に間に合わなかったので来週にするかどうか考えて、たまには3日連続もいいかと、17時30分の回へ。ジェームス・キャメロンのお墨付きをもらっているので、期待していたのだが……。いや、面白いことは面白いのよ。リブートするのもいい。でも今回の敵T-3000が、いや、それも許すとして、キャスティングするならオリジナルのイメージを壊さんでくれ。カイル・リースなんてなあ……以下略。サラは良かった。

 詳しい感想は項を改める。とにかく昨日の「ターミネーター:新起動/ジェネシス」観賞で不快な体験をしたことを書く。

 MOVIXの場合、席はいつも目線の高さかちょっと低い列の中央席を確保する。示された座席では最初E14をお願いした。中央席は13なのだが、左隣が2席埋まっていたので、一つ開けたわけだ。確定する前に一列後ろのF14に変更した。前日の「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」がF13で観賞してとても観やすかったので。
 開場となって席につくと案の定左隣は一つ置いてカップルが座っていた。しばらくして右隣に若い中国人カップルがやってきた。隣は男性。このふたりは映画をどうやって理解するのだろうか? 英語の台詞でなのか、それとも日本語字幕なのか。そう考えていた時間が永遠に続いていればよかったのに。

 予告編上映の最中、男はずっとスマホを操作しているのである。暗闇の中であの画面の光はかなり気になる。注意しようとして我慢した。まだ予告編だし、本編になったらやめるはず。
 甘かった。本編になってもスマホを握りしめ、定期的に画面をチェックしているのだ。
 何度目かの行為のあと、声をかけた。
「スマホやめてもらえません?」
 男は無視。こちらを見ようともしない。
 日本語が通じないのか。
「日本語、しゃべれますか?」 
 気づかせようと肩を叩くと、汚らわしいものに触られたみたいな表情をする。が、目は合わせようとしない。
「スマホ、やめろって」
 こちらも言葉使いが悪くなる。
 女性が何事が起きたのか男に尋ねるが、男は「関係ない、相手にするな」と言っている。中国語だから内容はわからないが、そんな雰囲気なのだ。
 もう少しでキレそうだった。あまりに頭にきて冒頭部分は映画に集中できないほど。これではいけない、ちゃりんと鳴る鈴を頭に浮かべながら深呼吸。以降、右隣を見ないようスクリーンだけに集中させた。

 結局、男はスマホを手にしたまま、その後も定期的に画面をチェックしていた。たまに女が男に話しかけおしゃべりすることも。なんちゅう奴らなんだ。途中、電話が鳴って(もちろんマナーモードだから振動音がするだけ)、男はあわてて外に出ていった。戻ってくるな! 塩を投げたい気分だった。
 しばらくして戻ってきた。これでスマホいじりもなくなるかと思ったものの、最後まで定期的な画面チェックはやめなかったのだった。

 中国人のマナーの悪さには定評(?)がある。昨年の仕事納めの日。お昼で退社したので、同僚と銀座(というかほとんど新橋?)某所の焼肉バイキングに行った。アジア圏からの旅行客が来ることで有名な店だ。その日中国人のお客さんがたくさんいた。店内は中国語が飛び交い、ルール無用の無法地帯になっていた。並ばない、順番を守らない、割り込みする、エトセトラ、エトセトラ。
 (西)川口は中国人が多い。この手のマナー無視の中国人がMOVIX川口に来られたらどうすればいいのか。




 TOHOシネマズ新宿には、オープンしてすぐ、GWに一度足を運んだ。サービスデーの5月1日に「セッション」を観ようと午前中に行ったのが、昼間の回のチケットはすべて売り切れだった。だったら「シンデレラ(字幕版)」にしようとしたらこれも完売。どちらも夕方以降は余裕があるのだが、友人と別の映画を観る約束があったため、この日の初鑑賞をあきらめた次第。
 チケットを購入するには女性の担当者がいる通常の売り場と自動販売機のコーナーの2か所というのが目新しかった。かなりの台数の自動販売機が設置されていた。

 その後なかなかTOHOシネマズ新宿に行く機会がなかった。
 園子温監督の最新作「ラブ&ピース」が公開された。上映劇場を調べると近場ではTOHOシネマズ新宿しかない。サービスデーに行くことにした。上映時間は18時40分。退社後に新宿に行くことを考えればギリギリの時間だ。21時過ぎのレイトショーもあるが、時間つぶしが面倒なので18時40分になんとか間に合わせたい。

 銀座線で新橋から赤坂見附へ、丸ノ内線に乗り換え新宿へ。時計は18時30分をちょっと過ぎていた。劇場に着くと40分。チケット売り場も手売りの方はお客も並んでいない。最初は予告編だからと間に合ったと安堵しながら、チケットを買おうとしたら、担当が言った。
「この売り場は前売り券等をお持ちになったお客様専用の売り場で、通常の購入は販売機をご利用ください」

 あのね、私、映画のタイトル言いましたね? もう予告編だけど、上映が始まっている作品なの。時間がないの。別にこの売り場が混雑しているわけじゃないんだから、チケット販売してくれてもいいじゃないか!
 と文句を言いたかったがグッとこらえて自動販売機へ。お金を挿入する段になって、固まってしまった。料金が2,100円なのだ。なぜサービスデーなのに倍になるの? わからない。わからないと余計にあせる。2回やっても同じ。たぶんどこかで操作を誤ったのだろう。それは理解できるがそのどこかがわからない。誰かに訊きたいのだが、その手の係りの人は見当たらない。
 これが嫌だから新幹線のチケットも必ず窓口を利用する。機械音痴というのはどこにでもいるものだ。
 後ろには人が待っている。操作にあまり時間がかけられない。仕方ないのでキャンセル。別に機械でやってみた。原因がわかった。プレミアム席を予約したのだった。
 何とかチケットを購入してシアターに向かう。上映が始まる直前だった。

 やい、東宝! 新宿は若者の街だ、だからチケット販売に機械を導入するのはわかる。人件費が削減できて万々歳だろうさ。だけどな、お客がずべて若者とは限らないんだ。せめて、通常のチケット購入でも手売りを認めてくださいよ。特に急ぐ場合にはさ。どうしても機械を、というのなら、せめて操作を説明してくれる人を一人、そばに置いていただけないですか。それがサービスってもんじゃないか! 
 興行会社(もう製作会社じゃないですからね)なら、そのくらいのこと考えてください。

 一番前で観たんだど、なかなか観易いいいシアターだった。だからこそ余計サービスの欠如が気になってしまう。
 そういえば、予告編の最後に流れる、あの〈映画泥棒〉のCMがなかった。あれ、流すの業界の決まりではないのか?

 この項続く




 一応前項から続く

 S さんの番がやってきた。自己紹介のあとシネりんスタッフがつけ加えた。
「染谷さんは『東宝100発100中! 映画監督福田純』という本をだして……」
 書名を耳にして思わず声をあげてしまった。「ええっ、そうなんですか!」
「それから、『特技監督 中野昭慶』という本も書いていて……」
「えええええっっっ!!!」
 もっと大きな声をあげてしまった。
「どちらも読んでいます」
 図書館から借りて、ですが。

 福田純監督と中野昭慶特技監督。二人は昭和40年代の東宝特撮怪獣映画に関係している。福田監督は「ゴジラ・モスラ・エビラ 南海の大決闘」「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」「ゴジラ対メガロ」「ゴジラ対メカゴジラ」。「……南海の大決闘」以外の特撮は中野特技監督が担当している。
 映画が斜陽を迎え、制作費が削られ、完全に子ども向けとなったゴジラ映画は無残だった。幼児のときに黄金時代の作品に触れたことのある中学生にとっては。
 特撮ファンの福田監督に対する評価は低い。ただし、無国籍アクションを得意としていてその手の映画では人気がある。小松左京原作の「エスパイ」はかなり期待したものだ
 中野特技監督も特殊技術名義で参加した「ゴジラ対ヘドラ」ではゴジラに空を飛ばせる暴挙にでた。やはりゴジラシリーズでは評価は芳しくないのだが、「日本沈没」で場外ホームランを放った。

 Sさん、いや染谷さんとはその後「日本沈没」談義。
「『特技監督 中野昭慶』を読んで、それまで抱いていた中野特技監督のイメージが変わったんですよ」
「その感想、読んだことありますよ。イメージを変えられたということで本にして良かったと思った」
 「特技監督 中野昭慶」は文庫になっている。
「今度買いますから!」
 6日(月)、仕事で池袋へ出てその帰りジュンク堂で購入した。

     ◇

2008/02/11

 「特技監督 中野昭慶」(中野昭慶・染谷勝樹/ワイズ出版)

 円谷英二亡き後、東宝特撮(怪獣)映画の特技監督として中野昭慶の名を認識したのは「日本沈没」だったと思う。映画が大ヒットして、TVのワイドショーに出演、「先生」とおだてられて胸をそらしながら饒舌に答えていたのを見てあまりいい印象を持たなかった。その印象をずっと引きずっていたところがある。

 特撮を担当した「ゴジラ対ヘドラ」以降のゴジラシリーズにはうんざりだったし、ゴジラが復活した84年の映画「ゴジラ」で決定的になった。旧態然とした特撮に幻滅したのだ。特に合成部分。本編の演出もそれに輪をかけてひどいものだったが。
 「日本沈没」「ノストラダムスの大予言」「東京湾炎上」あたりがピークなんだろう。そう考えていた。特に「日本沈没」における東京大地震のスペクタクルは今見ても(ミニチュアがバレバレにもかかわらず)よく出来ている。
 しかし、本書のインタビューでかつての悪印象はくつがえされる。もちろん態度はそのままなのだが、作品に対する誠実さが感じられるのだ。
 後期のゴジラシリーズのくだらなさも別に中野監督が悪いわけではない。予算のなさと完全に子ども向けにした会社の責任だろう。

 円谷英二の後継者になろうと東宝に入社したわけでもなかった。それは特技監督になっても同じことで、自分の作品を撮りたかったのだ。スラプスティックコメディが好きというところに好感を持った。助監督時代はさぞ〈出来る人〉だったと思う。この特撮助監督時代と一本立ちした70年代の特撮映画を語るくだりが怪獣世代としては興味深い。

 「海底軍艦」は、撮影期間が短く突貫作業だったらしい。その轟天号が宇宙を飛ぶ「惑星大戦争」はそれ以上にキツかった。しかし時代の違いか志の差か、完成した映画の出来、評価は極端だ。英国との合作「ネッシー」が実現していれば。
 大陸生まれ、育ちだということも初めて知った。引き上げ時の過酷さは壮絶だった。それをごくごく軽~く語るところがすごい。

     ◇

 【おまけ】

2006/08/21

 「日本沈没」~オリジナル版~(ビデオ)

 リメイクの「日本沈没」鑑賞後の帰宅時に借りてきた。夜遅かったので、途中で切り上げようと思いながら結局最後まで観てしまった。 新旧の「日本沈没」は「ポセイドン・アドベンチャー」と「ポセイドン」の関係みたいなものだ。久しぶりに見直してそう思った。

 小笠原諸島の小島が一夜にして沈んでしまったことを端に発し、日本列島に異変が起きていると察知した田所博士(小林桂樹)を長とする研究グループ。深海潜水艇〈わだつみ〉を使って、日本海溝に潜った際、そこで得体のしれない何かが起きつつあることを知った。
 潜水艇の操艇者・小野寺(藤岡弘)と玲子(いしだあゆみ)が出会った日、伊豆天城山が爆発した。続いて三原山等の大噴火……。
 危機を感じた山本首相(丹波哲郎)は田所博士を中心にプロジェクトチームを発足させた。異変調査を目的に秘密裏に始動した〈D計画〉。日本海溝を徹底調査した結果、近い将来日本国土の大部分が海に沈んでしまうことが判明する。田所博士がそう結論づけたとき、東京を直下型地震が襲った。未曾有の大災害。
 日本国土の沈下が決定的になると、山本総理は、国民をいかにして海外に脱出させるか、移住させるかという〈D2計画〉に着手する。特使による各国首脳との交渉が続く。
 小野寺は玲子とともにスイスに移住することを決意する。しかし出発のその日、突如として起きた富士山の大噴火によって交通は遮断され、ふたりの合流が不可能に……。
 交渉が功を奏し、世界各国が日本からの難民を受け入れることになった。次々と日本を離れる国民たち。日本各地の火山が噴火し、大地が裂けていく。こうして日本は地球上から姿を消した。

 地球のどこかで――。
 雪に覆われた大地を走り抜けていく列車に玲子の姿があった。太陽が照りつける草原地帯を走る列車には小野寺の姿が。ふたりが再会する日はくるのだろうか……。

 特撮仲間Sさんの、最近の怪獣映画(特撮ドラマ)についての感想を思い出した。
「最初から怪獣や宇宙人ありきの設定だから、ドラマがちっとも引き締まらない」
 謎がないから、サスペンスが盛り上がらない。

 リメイク版「日本沈没」はまさしくそういう作りだった。冒頭で日本が沈没する設定になっているのだから。40年後に日本が沈没するとアメリカの研究によって発表されているのである。
 40年後なんかじゃねぇ、沈没はもっと早くやってくるんだ! トヨエツ扮する田所博士が確信して映画は進行していくわけで。謎なんてどこにもない。起承転結でいえば、起をふっとばして承からドラマが始まっている。
 それに比べると旧作「日本沈没」は昔ながらの怪獣映画。第1作の「ゴジラ」だった。田所が「日本が沈没する」と確信するまでがかなり長い。
 観客は「日本が沈没する」なんてことははじめからわかっている。でもこの時間がじれったいか、無駄かというとそんなことはない。謎を解明するために学者たちが奔走する姿が後半のスペクタクル描写に活きてくる。タメは必要なのものなのだ。
 連夜の研究で疲労困憊した田所が船上に出て日本沈没を口にするやいなや、大きな揺れを感じる。第二次関東大震災の勃発で、しばらくの間当時としてはかなり出来の良い都市破壊のスペクタクル映像を満喫することになる。阪神淡路大震災の後にこう書くとと問題発言かもしれないけれど、子ども向けの「ゴジラ」シリーズに不満タラタラだった中学2年生はこのシークエンスに大興奮したものなのだ。

 旧作「日本沈没」の主役は田所博士であり、山本首相だった。当然リメイクでも、重要人物として最後まで活躍するものと思っていた。たとえ脇役であったとしても。
 ところが、リメイク版の、石坂浩二扮する山本首相は、映画の始めであっさり事故死してしまうのである。中国に日本国民の受入要請をしに自ら赴くべく搭乗した航空機が火山の爆発に巻き込まれてあっけない墜落死という形で。
 これには驚いた。だいたい火山の爆発で飛行機が墜落するケースなんてあるのだろうか? 
 それはさておき、搭乗する直前、留守を預かる、危機管理担当大臣(大地真央)に「沈没する日本についてどういう対応をとったらよいか」という識者のアンケート結果について話をするのだが、その内容が旧作の中で一番感銘を受けたシーンの文言だった。
 曰く「このまま何もしないほうがいい」。

 旧作には財政界に多大な影響を及ぼす老人(島田正吾)が〈D計画〉の核を握るキーパーソンとして登場する。いわゆる黒幕と呼ばれる人物。この老人のもとへお伺いをたてにいった山本首相との会話。
 かつて中学時代、2回目の鑑賞で記した日記から引用するとこうなる。

  老人は静かにそして重々しく言った。
 「日本はこのまま何もせん方がいい」
  山本総理は何も言わず老人の目を見る。それから口を開く。
 「何も…せんほうがいい?」
  総理の目に涙が浮かぶ。何か言おうとしたが口からでない。

 この時の目を真っ赤にして涙を浮かべる丹波哲郎の演技に心打たれた。
 ちなみに、この演技と「砂の器」の捜査会議における「繰り返し、繰り返し、……繰り返し、繰り返し」と言いながら目頭を熱くする演技、「千恵子抄」で精神に異常をきたした千恵子(岩下志麻)を背中に乗せ、馬のようになって部屋をはいずりまわる際の哀しい表情が丹波哲郎のベスト3。と個人的には思っている。

 閑話休題。
 「何もせん方がいい」という老人に言葉に対する万感の思いが見事にこちらに伝わってきた。にもかかわらずリメイクだと山本首相は「なにもしない」という回答に対してあれこれと自分の感想を述べるのだ。ここでもうリメイク映画に違和感が生じた。オマージュのつもりでオリジナルの名シーンをぶち壊しているのである。実生活はともかく映像作品においてはただしゃべらせればいいってもんじゃないのだ。

 もちろん旧作「日本沈没」にも違和感がないこともない。
 たとえば玲子という女性像。当時は別に何も感じなかったが、今見るとどうにもイヤな女である。特に小野寺との最初の出会いの会話なんて「何考えてるんだ」と蹴りいれたくなった。
 リメイク版でくさなぎくんが柴咲コウに「抱いて」と迫られて拒否するシーンがある。同じシーンが旧作にもあったことを忘れていた。水着姿のいしだあゆみが夜の浜辺で「抱いて」と藤岡弘に言うのである。会ったその日に!
 くさなぎくんの拒否がわからない。もうこの時点で死ぬことを決意していたので、一度限りの契りは女性に負担を与えるだけとでも判断したのだろうか。お前は戦前の生まれか!

 トヨエツ博士が日本を完全沈没から救う方法を大地大臣に新聞紙を引き破らせて説明する。プレートを爆破で寸断するなんてことが現実にできるのだろうかという疑問はあるがとりあえずここでは言及しない。これも旧作に似たシーンがある。先の老人が田所に「科学者にとって一番大切なものは何か?」と尋ねるシーン。田所は大陸移動説を唱えたヴェーゲナーを例にだし、勘がいかに大切であるか、熱弁をふるうのであるが、その具体的な説明のためにテーブルの上にあった新聞を二つに破るのだ。
 いしだあゆみとはぐれた藤岡弘は日本に残って救助活動に奔走する。ヘリコプターに乗って日本全国で大活躍。どこかでいしだあゆみと巡り会えるかもしれないという期待もあったと思う。これが海外で「KAMIKAZE」と報道されて話題となる。くさなぎくんの瞬間移動は旧作のこの設定をうわべだけ応用したものだろう。理屈もへったくれもないのだが。

 もうひとつ、旧作に対して違和感がある。それはナレーションの使用について。山本首相が登場する3箇所で突如としてナレーションが首相の心情を説明する。オープニングやエンディング、あるいは要所々でナレーションが使われているのなら、まだわかるのだが、この3箇所だけ、本当にそこだけとってつけたような感じがして腑に落ちない。だいたいナレーションがなくともそれほどストーリーの展開に影響はないのだ。

 旧作はクライマックスになって、テーマを明確に打ち出してくる。
 国土を失った日本人はどうなるのか? 日本とは何だったのか? 日本人とは? 
 ラスト、沈んでいく日本に残る決意をした田所の、山本首相に切々と訴える言葉が観客に「日本」及び「日本人」の意味をつきつけるのである。
 小松左京のSF小説「日本沈没」が書かれた理由はこのテーマにある。当時小松左京は「全世界に散った日本人のその後を描きたい、その前哨として」日本が沈没する話を考えたと語っていた。その思いは当時の中学2年生にも十分伝わっていた。
 その後の日本人を描いた続編「日本沈没 第二部」が三十数年を経て上梓された本年。たぶん出版に連動する形で公開されたリメイク版「日本沈没」では、このテーマがないがしろにされていた。別に日本が完全に沈まなくてもいい。そんなことで文句を言うつもりはないが、原作の〈核〉の部分ははずさないでほしい。そうでなければ原作に小松左京「日本沈没」なんてクレジットができるはずないではないか。
 樋口監督はリメイクにあたってストーリーを改変し別のテーマを打ち出した。しかし、あまりに奇想天外だし、仮に可能だとしても描き方の底が浅い。自己犠牲で涙を誘う作劇なんて、もう完全に手垢のついたシロモノだろうに。

 リメイク版で評価できるのは、ヴィジュアル以外、旧作で無視されていた一般庶民の視点、その避難生活、苦難ぶりを挿入したこと、狡賢い現実的な大臣(國村隼)を登場させたことか。
 原作を改変するのなら、昨今の地震被害を背景に、政府の無策ぶりに翻弄される一家族を通して日本沈没を描くという方法論もあったかもしれない。
 
 旧作はとにかく熱い映画である。久しぶりに観直していろいろアラが見えてしまう心配もあったが、逆に本当に傑作であることがわかった。特撮も今見てもそれほど遜色ない。第二次関東大震災なんて、実際に阪神大震災の現状を目の当たりにしていて、描写の確かさに驚いたほどだ。

 笑い話をひとつ。大震災のシークエンスで、逃げ場を失った千代田区民の避難場所として、山本首相が「きゅうじょうの門を開けてください」と宮内庁に電話するくだり。〈キュウジョウ〉を〈後楽園球場〉と勘違いした14歳の少年はなぜ球場の門を開けてもらうのに、時の首相が、直接官庁に電話しなければならないのだと思ったのだった。〈キュウジョウ〉が〈宮城〉で〈皇居〉のことを意味することを知ったのはずいぶん経ってからのこと。

 熱い映画と書いたが、これは時代が大いに関係していると思う。70年代の映画、TVドラマは今観ると皆暑苦しいほどだから。
 藤岡弘が実に何ともかっこいいこともつけ加えておく。




 4日に開催されたシネりんスペシャル、春日太一氏トークショーの質疑応答で、ある方が黒澤明監督の「影武者」がまるで期待はずれだったのだが、春日さんはどう思われるか、という質問をした。
 質問者が「影武者」否定派だとすれば、春日さんは肯定派。それも主役は仲代さんに交代してよかったと言う。
 僕はといえば、「影武者」肯定派で、仲代起用否定派といえる。
 打ち上げの席に、当の質問者、Sさんがいたので、しばし「影武者」談義となった次第。

 もともと、長い間封印していた映画なのだ。そこらへんのことはかつて夕景工房に長いレビューを書いている。

          * * *

2008/05/15

 「影武者」(DVD)

 黒澤明監督が久しぶりに時代劇「乱」を撮るというニュースを聞いたのはいつだったのだろう。予備校時代だったか、それとも大学に入ってからか。このニュースにとても興奮したことを憶えている。
 「リア王」の物語を日本の戦国時代に移し変えた「乱」は製作費の問題で棚上げとなった。その代替というか、前哨戦で、勝新太郎主演で「影武者」を撮ることが正式発表された。武田信玄とその影武者に扮する男の二役が勝新太郎。黒澤監督と勝新太郎という意外な組み合わせにこれまた興奮した。1979年のことだ。

 「影武者」は勝新太郎以外のキャストを一般公募するという大胆な試みがなされた。それもプロアマ問わず。同時に一部スタッフも公募したように思う。確か朝日新聞にでかかでかと公募の広告が掲載されたのをこの目で見ている。
 スタッフ公募にちょっと心を動かされた。いや、スタッフでなくてもキャストに応募して運よく何かの端役につけたら、黒澤組の撮影現場に参加できる。もうそれだけでも感激だ。なんて思ったものの、応募する勇気なんてこれっぽっちもなかった。だいたい、大学では8㎜映画制作のサークルに入部、その活動に熱中していたのだから。

 オーディションの結果、ショーケンが準主役で出演することを知って期待は倍増した。何しろ、ショーケンは昔から黒澤監督を尊敬していたから、その入れ込み様は半端ではなかった。ほかにも山崎努、室田日出男といったTV映画「祭ばやしが聞こえる」の出演者が揃っていて完成を心待ちにしていた。
 ショッキングなニュースは撮影開始後すぐに流れた。勝新太郎が降板したというのだ。
 勝新が自分の演技チェックのために撮影時にビデオカメラをまわしたいと言い出し、黒澤監督に却下されたことが発端らしい。
 「影武者」の製作が決定してから、黒澤監督は絵コンテを盛んに描いていた。その一部がメディアで紹介されたりしていたが、勝新をイメージした武田信玄と影武者の男がたくさん描かれていた。つまり〈勝新ありき〉で企画された映画から、つまらないことであっけなく肝腎の主役がいなくなってしまったのだ。代役は往年の黒澤組の役者、仲代達矢になったが、あまりにイメージが違いすぎる。期待は半減した。

 翌80年、映画は完成し、海外のメディアも多数招待したプレミアロードショーが開催された。このとき映画を観た小林信彦がキネマ旬報でショーケンを酷評した。曰く何を言っているのか台詞がよく聞こえないので英語字幕で確認する始末、とか何とか。
 これで観る気が失せた。カンヌ映画祭でグランプリを受賞しようが関係ない。実際、国内の批評はあまり芳しいものではなかった。以後、28年間、まったく無視してきた。「乱」以降は最終作の「まあだだよ」以外、すべて劇場で観ているというのに。

 しかし、黒澤監督と勝新の衝突は、たとえビデオカメラ云々がなくても、避けられなかったものだったのだ。「ショーケン」や「天気待ち」を読むとよくわかる。最初に黒澤監督が勝新主演で企画したところに間違いがあったのだと。
 そもそも、この映画は若山富三郎と勝新太郎がよく似ているというところから発想されたものらしい。黒澤監督には若山に武田信玄、勝新に影武者を演じさせる案があって、野上照代は直にそのアイディアを聞いている。若山富三郎が体調不良を理由に断ってきたので、勝新の二役でいくことになったのだとか。体調不良というが、弟の性格をよく知っている若山富三郎が、後に起こるであろう騒動を予想してオファーを蹴ったというのが本当のところなのではないか。問題が起これば解決に奔走しなければならなくのは自分なのだから。
 と、納得しつつ、それでもやはりこの映画の主役、影武者役は勝新太郎だと思う。そうとしか思えない台詞、しぐさなのだ。

          *

 「影武者」は、佐藤勝も降板している。早坂文雄亡き後、「どん底」から「赤ひげ」までの黒澤映画黄金時代の音楽を担当した作曲家だ。
 個人的には昭和ゴジラシリーズ後期の音楽で名前を覚えた。「ゴジラ・モスラ・エビラ 南海の大決闘」「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」「ゴジラ対メカゴジラ」。当時は怪獣映画=伊福部昭主義だったので、あまりいい印象を持っていなかった。今となっては恥ずかしい限り。
 「天気待ち」を読むと、佐藤勝の降板は苦渋の決断だったことがわかる。自らの意思で降板したとはいえ、以来ずっと「黒澤学校の中途退学」と忸怩たる気持ちがあったと。黒澤組のスタッフが集結した「雨あがる」の音楽をオファーされたときはことのほか喜んだそうだ。「影武者」降板から18年。「これで黒澤学校に復学できた」と知人への手紙に綴っていたとある。
 佐藤勝の降板を知った黒澤監督は後任に武満徹をあたったが、スケジュールの問題か、本人の推薦によって、池辺晋一郎が担当することになる。武満徹は「乱」に起用されるのだが(当初からの予定だったのかもしれない)、やはり降板騒動が起きている。

 なぜ黒澤監督と作曲家の間で軋轢が生じるのか。
 黒澤監督が映画に使用する音楽について完璧なイメージを持っていることが要因だ。監督として当然のことなのだが、黒澤監督の場合は、度がすぎて、時によって音楽家のプライドなんて顧みなくなってしまうからだ。
 常日頃、クラシックを聴いている黒澤監督は、映画に最適な音楽を選び出し、ラッシュで流して打ち合わせする。言葉で伝えるよりこの方がイメージが伝わることは確か。磁気テープが開発されてからは、音楽に合わせてラッシュを編集するようになり、音楽入りの試写になったというほどだ。
 「赤ひげ」のときに、あるシーンに流れる曲として、佐藤勝にハイドン(「驚愕」第二楽章)を聞かせた。
「いいだろ、ドンピシャだろ。佐藤もこれくらいの、書いてよ」
「だったら、このままハイドンをお使いになったらいかがですか」
 このとき、佐藤勝の笑顔はこわばっていたと「天気待ち」に書かれている。無論、黒澤監督に邪気はない。
「でもさあ、お客はこのハイドンに、それぞれ違ったイメージを持ってるだろう。それは邪魔するよね。だからさ、ハイドンよりいいのを書いてよ」
 こうして、佐藤勝はオリジナルを作曲するのだが、出来上がった曲を聴いた黒澤監督の感想は「なんだ、ハイドンとそっくりじゃねえか」。
 
 「影武者」では、最初の音楽付きラッシュ試写でぶつかった。今回は考えにギャップがありすぎた。「降りる」という佐藤勝を説得するために会いに行った野上照代は逆に説得されてしまう。
「(中略)あまりに有名な、いわゆる名曲に似ていて、しかもそれよりも優れたものを、なんて考えられますか」
 そりゃそうだろう。

 「乱」のダビング時にも、重低音を聞かせるため、勝手にテープのスピードを落とし、武満徹が怒って帰ってしまう事態が起きた。
 勝新太郎が自分の演技チェックのためのビデオ収録を黒澤監督は許さなかった。監督である俺を信用しろということだと思うが、ではなぜ、音楽について武満徹を信用しないのか。

 黒澤監督が同じ仕打ちを最高責任者であるプロデューサーにされたらどんな反応を示すだろうか。
 シナリオはもちろろんのこと、詳細な撮影プラン、絵コンテもすべて出来上がっている。おまけに参考資料で 映画史上傑作とされる映画を試写室で見せられて、こう言われるのだ。
「こういう映画を撮ってくれ。イメージはこのまま。しかし、この映画より素晴らしいものを」

          *

 さて、何かと負のイメージがついていた「影武者」初のDVD鑑賞だが、これがなかなか面白かった。一週間のレンタルだから毎日のように観ていて、観るたびに面白くなっていく。同時に影武者を勝新太郎が演じていればという思いも強くなっていくのだが。

 ストーリーの核は、武田家、武田家臣内の「隠し砦の三悪人」ではないか。つまり、影武者の正体が見破られそうになる危機また危機をいかに乗り越えるかというところが見ものなのだ。
 遺言によって信玄の死は3年間伏せておかなければならない。重臣たちは、信玄そっくりの男(処刑寸前だった盗人)を信玄に仕立てるのだが、この事実を知っているのは一部の関係者のみ。よって、屋敷内部で偽者であることが露呈しそうになるのだが、男の機知(アドリブ)と偶然で切り抜けるのだ。それぞれのエピソードがユーモアたっぷりに描かれ、愉快であり爽快でもある。
 側室二人にバレそうになったときの、男と信廉(山崎努)のやりとりなんて声だして笑った。孫の竹丸との交流模様が微笑ましい(竹丸がかわいい!)。

 竹丸に「なぜおじじはお山と呼ばれるのか」と訊かれ、そばにいた近習(根津甚八)に「風林火山」の説明を受けるくだりも、孫よりも熱心に耳を傾け、「うん、なるほど。そういうことじゃ、わかったか竹丸」。もうにやけてしまう。
 これがヒントになって、その後の評定(家臣の会議)の席上、本来なら最後に「一同大儀であった」というだけでよかったのに、勝頼(萩原健一)から発せられた、想定外の申し立て〈戦さを仕掛けるべきか否か、御屋形さまの指図を仰ぎたい〉に対して「動くな。山は動かぬぞ」と回答する展開につながる。信廉に言わせれば「影武者の分際で抜けぬけと裁きおった」。もちろん咄嗟の判断を肯定しつつ、その苦しい心境を理解する。「また磔にかけられた気持ちだろう」
 ただし、こうしたシーンのほか、前半のお宝が入っていると思って大壺をこじあけると中から信玄の遺体がでてきて驚愕するシーン、湖畔で重臣たちに「影武者で働きたい」と懇願するシーン等々、仲代達矢がどんなに人間臭く豪放磊落に演じても、生真面目さが根っこにあって、勝新の演技を模倣している印象を受けてしまう。
 衣装の着こなしを含めた立ち振る舞いは勝新用に考えられたものだ。代役立てて時間がないから勝新プランのまま押し切ったのだろう。勝新が演じていればという思いはこれだ。その思いは黒澤監督自身一番強かったのではないか。絶対口にしなかっただろうが。

 ストーリーのもう一つの核は、重臣たちの、信玄派vs勝頼派の対立構図だ。
 亡き信玄の教えを頑なに守ろうとする信廉、山縣昌景(大滝秀治)、馬場信春(室田日出男)等。しかし、勝頼には面白くない。複雑な出自ゆえ、父の世継ぎは自分の息子になる。それでも後見人として、父亡き後は御屋形様として君臨できるのに、3年間はどこの馬の骨かわからない男を父として敬い仕えなければならないのだ。そんなやり場のない怒りを傅役の跡部大炊助(清水紘治)にぶつける。
 影武者が有効に機能していたときは信玄派の力は大きいが、信玄の死が公になったとたん立場は逆転する。が、晴れて軍の指揮を執ることになった勝頼の功を焦った稚拙な戦法のため長篠の戦いの大敗という悲劇に突入していく皮肉な幕切れ。
 当然準主役の勝頼がクローズアップされる。のだが、ああ、ショーケンに精彩がない。

          *

 ショーケンの演技については、小林信彦以外にも、多くの映画評論家から「何言っているかわからない」と指摘されていた。
 DVDでは音声がクリアになったから「何言っているかわからない」なんてことはなかったが、当時劇場で観れば、聞き取りづらかったかもしれないと思えるのは確か。

 だいたい発声が他の役者と違うのだ。大滝秀治、山崎努、清水紘治と比べればその差がわかる。喉だけでわめいているような気がする。腹から声を出していないというか。きちんとした俳優修行をしていないのだから、当然といえば当然か。演技的に重臣の中で一人浮いている。
 ただし、何度か観ているうちに、だからこそ勝頼のキャラクターをより浮彫りにしていると思えてきた。
 勝頼は信玄の実子だ。いくつかの合戦で功績をあげている。にもかかわらず、老臣たちからひよっこ扱いされ、相手にされていない。なんとか一泡吹かせたい。現状への不満と焦燥を抱えている悩める青年なのだ。
 ショーケンは、若いときに、それまでにない斬新な瑞々しい演技で人気絶頂となった。ある種の自信とプライドを持って、憧れの黒澤作品に臨んだことだろう。ところがこれまでの現場と勝手が違う。だから余計いきり立って演技が空回りする……。勝頼とショーケンの焦燥が重なって見える。というと贔屓の引き倒しにとられてしまうか。

 役者では、大滝秀治と山崎努が出色である。大滝秀治の声と山崎努の目。特に山崎努だ。目で、影武者に対して徐々に変化していく心情を代弁していた。「影武者」の低音部に流れるテーマは、この信廉の心情だろう。
 キャスティングの妙もいたるところで感じる。信長(隆大介)、家康(油井昌由樹)。間者役の3人。隆大介の信長なんてベストではないか。そういえば、「さすがは信玄、死してなお、3年の間、よくぞこの信長を謀った!」のショットがTVスポットで流れ、サークル内でよく真似したものだ。春の合宿を思い出す。蘭丸の、信長を見る目も気になって仕方ない。
 竹丸役の子役は油井昌由樹の息子。親子揃ってズブの素人にもかかわらずいい味をだしている。
 根津甚八は最初の登場シーンでは本人だとは気づかなかった。まるで少年のような初々しさ。雨の中の影武者との別れが印象的だ。
 藤原釜足や志村喬の姿にはちょっとした感慨が。

 信玄を狙撃した兵に、家康自ら実地検証するシーンで、黒澤監督の真骨頂を見せられた気がする。戦国時代の鉄砲の使い方を具体的に兵に説明させる。どのように弾をつめ、狙いを定めて撃つのか。その一部始終が描かれていてゾクゾクした。多くの人は長すぎると切って捨てるだろうが。
 個のディティール描写を群にしたのが高天神城の戦いにおける風・林・火各騎馬隊の動きである。独断で高天神城を攻めた勝頼を、後方で信玄が見守ることで、敵に脅威を与える作戦。ここでも、敵の攻撃に対して武田軍がどう動くのか、指示系統を含めた騎馬隊や歩兵の動きを克明に描いてくれる。下手なアクションより、こういう描写の方が興奮する。個人的な資質といわれればそれまでだけど。
 長篠に出兵する勝頼に反対を唱えるも、却下されて、後に従う重臣たち3人が槍をかざして「御屋形様のもとでまた会おう」と誓うショット。勝頼を少しも信用していないんだと驚くとともに、その侍魂が胸にくるものがあった。
 そんなわけだから、公開時にさんざ酷評されたラストの合戦はおまけでしかなかった。

 馬の疾走、蹄の音、砂埃、手綱さばき。風にはためく旗。黒澤映画ではお馴染みだが、やはり興奮する。〈色〉の楽しみもあった。
 なぜ劇場で観なかったのか。せめて名画座あたりで押さえておくべきだった。今さら後悔しても遅すぎるか。




 本日の朝日新聞(朝刊)第一面の書籍広告。一つが奥浩平の「青春の墓標」(社会評論社)だった。大学時代、文庫になった「二十歳の原点」を再読、著者の高野悦子が愛読したということで文庫を買って読んでみた。エリート意識に腹が立って仕方なかった。唯一彼女への想い、キスしたい、セックスしたいという願望に共鳴した。
 新刊は、レッド・アーカイブ01と銘打ち、税抜価格2,300円。ちと高い。文庫は絶版になったのだろうな。

          * * *

2015/07/03

 『ブロードウェイミュージカル「ジャージー・ボーイズ」』(東急シアターオーブ)

 クリント・イーストウッド監督作品「ジャージー・ボーイズ」にハマったことはこれまで何度か書いている。ブロードウェイで大ヒットしたミュージカルだが、キャストが演技の最中に歌いだしたり、踊りだしたりする、いかにもなミュージカル風作りになっていないところが夢中になった要因だ(とはいえ、昔と違って、いかにもなミュージカルも嫌いでなくなった)。

 フォー・シーズンズの伝記映画という体裁で、歌&演奏はあくまでもライブハウス、レコーディング、コンサート、TV出演で披露されるという趣向。これが僕の琴線に触れた。人気グループとなって「エド・サリバンショー」に出演したシーンなど、実際のTV映像(当時の)を挿入してリアルな空間を醸し出す。
 だからこそ、エンディングのカーテンコール、4人の歌(「1963年12月(あのすばらしき夜)」)に乗せて、出演者全員が踊るミュージカルシーンに心躍るのだ。一緒にリズムをとりながらなぜか涙があふれてきて仕方なかった。

 それからクライマックス。愛娘を薬物で亡くし失意の毎日を送っていたフランキー・ヴァリが「君の瞳に恋している」でカムバックするシーン。レコーディングスタジオの録音風景からライブハウス(レストラン?)のお披露目ライブにスイッチ、はじめは通常のバンド編成で歌っているのだが、途中でバックのカーテンが開くと、ビッグバンドが加わって音が厚くなり、ホーンセクションのラッパが鳴り響いて聴く者をゾクゾクさせてくれる。
 このふたつの音楽(&ダンス)による歓喜と高揚感に浸りたくて何度も劇場に足を運んだのだ。

 しかし、映画「ジャージー・ボーイズ」は日本では評判を呼んだが、本国アメリカではあまり話題にならなかったらしい。ハリウッド通、ブロードウェイ通に言わせると、舞台をそのままフィルムの世界(デジタル撮影だろうけど)に移しかえただけで、独創性に欠けるとのこと。
 本当にそうなのか?
 プロードウェイの舞台を観て比較すればいいのだが、そんなことできるわけがない。そこへ日本公演のニュース。狂喜乱舞した。生の演奏&歌唱を肌で感じて映画以上に感動がしたい!

 チケット販売初日に予約した。
 一番安い3階席の2列め。 
 舞台に向かっって一番左側の一角。中央の通路側。

 パンテオンには何度か足を運んでいるが、渋谷ヒカリエになってからは初めてだ。
 新橋から銀座線で渋谷へ出て、そのまま屋内を通ってヒカリエへ。雨が降っていたから助かった。エレベーターで11階へ向かう。そこから階段を昇って受付に。チケットをもぎってもらう際、担当が「このまままっすぐ行って突き当りで(エスカレーターで)最上階まで行ってください」。
 3階から舞台や1階席を見下ろすと、かなりの落差がある。高所恐怖症の人はたまらないのではないか。傘を壁に立てかけておくと係員の女性がやってきて、下に落ちる危険性があるため寝かせてくださいと言われた。確かに落ちたら大変なことになるだろう。
 左側は一つおいて欧米人のカップルだ。

 最初、舞台の両脇に設置している電光掲示板に表示される日本語訳に手間取った。訳と舞台を同時に見られない。どちらか一方に集中してしまうのだ。洋画なら何の苦もなく同時に認識しているというのに。慣れなのだろう。
 それから、3階からだと俳優たちの表情がわからない。こちらの視力が悪くなったこともあるか。

 舞台の「ジャージー・ボーイズ」も、いわゆるミュージカルミュージカルしていなかった。4人はライブハウスで、ステージで演奏し、歌うのである。TV局のくだりでは後方のスクリーンに当時の番組が流れ、舞台と連動していた。上演時間は休憩20分を挟んだ2時間半ほど。
 なるほど、映画「ジャージー・ボーイズ」は舞台版をリアルに映像で再現したものだった。
 もちろん、舞台だからセットが自由自在に変化する。机やベンチといったものには、車輪がついているのだろう、あっというまに出入りして、舞台がさまざまな場所になる。キャストが動かすのが基本だが、勝手に動くものもある。あれはどういう原理になっているのか?

 映画との大きな違いは「君の瞳に恋してる」に関するエピソードだ。映画では娘が亡くなってから曲が発表されるのだが、舞台では曲が発表されてからしばらくして娘が死亡したことを伝える電話がある。その後、フランキー・ヴァリが1曲うたうのだが、この曲は映画では流れなかったと思う。印象的な曲である。

 隣のカップルはノリノリで最後は「ブラボー」と叫ぶほど舞台を満喫した様子。僕自身、最後の方は全身でリズムをとってはいたが、カップルに比べれば静かなものだった。外人と日本人の表現の差、と言われればそれまでただけど、期待していたほどのものではなかったので快哉を叫べなかった。
 映画で興奮した2つのシーン(ショット)は、舞台ではそれほどではなかった。それは先に映画を観ているからなんだろうけれど。

 もうひとつはフォー・シーズンズの演奏が本物でなかったことによる。フォー・シーズンズはサポートのドラムを加えていつもステージでは5人で演奏する。フランキー・ヴァリはヴォーカルのみだが、あとの3人はギター、ベース、キーボードおよびコーラス担当。その演奏を聴いていると、ドラムは実際の音だが、ギターやベースは違うような気がした。オペラグラスで弾いてる手元を見ると、口パクならぬ演奏パクではないか。
 たとえば、あるバンドのライブに足を運んだら、演奏しているフリしてしているだけで音は別のところから出ていたらガッカリするだろう。それと同じだ。フォー・シーズンズはバンドなんだから。

 今回のミュージカルで一番グッときたのは、最後の最後、実際に演奏していたバンドがステージに登場して1曲演奏したことだ。何曲か演奏してほしかった。

 なんて、批判的なことを書いているが、会場を後にしたとき、階段でエスカレーターで、「1963年12月(あのすばらしき夜)」を口すさんでいた。十分幸せだった。誰かと一緒だったら、近くの居酒屋で大いに語り合っていただろう。

 サントラを買おう。YouTubeでは我慢できなくなった。映画版の方だけど。




 〈思い出し笑い〉ならぬ〈思い出し泣き〉。今日は思い出すと涙がにじんで仕方なかった。昨日の「天皇の料理番」のこと。黒木華が愛しくて愛しくて。彼女の死は悲しいことだけど、ドラマにはそれだけでないものが描かれていた。つまり涙は悲しいからではない。そこがポイント。

          * * *

2015/06/24

 『「おもしろい」アニメと「つまらない」アニメの見分け方』(沼田やすひろ・金子満監修/キネマ旬報)

 この書名だと誤解する人がいるのではないか。これから劇場公開されるアニメ映画、あるいはオンエアされるTVアニメで何が面白いかが予告編やスポットCMでわかるにはどうすればいいか、はたまた過去のアニメ作品をDVDで借りるにあたって、失敗しない作品選びとは何ぞや。なんてことを指南してくれる本じゃないのか、と。
 違う。「13フェイズ構造理論」で作品を分析しておもしろいアニメ、つまらないアニメを語ってゆく。見分けるにはとにかく観なければならないわけだ。

 「13フェイズ構造理論」とは何か?
 一番シンプルな変化のプロセスは3段階あり、「対立」→「葛藤」→「変化」となる。このドラマを感じさせる最低単位を「ドラマユニット」という
 作品全体にかかるドラマユニットを「三幕構成」と呼ぶ。
 納得できる筋立てとは、観客に〈物語につきあいたい、このまま観続けたい〉という気持ちにさせるもの、そうするには13段階のプロセスが必要であり、長編やシリーズ作品には不可欠だという。 

 [第一幕] 対立
 0 背景:ない場合もある
 1 日常:主人公の日常生活、主人公の問題点(変化前の状態) を明示
 2 事件:事件が起きて、主人公が日常生活から抜け出る
 3 決意:究極の選択を迫られ決意→第二幕へ

 [第二幕] 葛藤
 4 不況:主人公の苦境、悩みが始まる
 5 助け:助けが現れる。人、物等々
 6 成長・工夫:苦境の中でなんとかやっていけるようになる
 7 転換:達成感。助けを受けてやっていけるようになったことによる達成感
 8 試練:もっと苦しい何かが起こる。 ※助けがない。仲間は主人公を助けない。助けられない。
 9 破滅:どうしようもない。全然ダメ。
 10 契機:手がかりを見つける。究極の選択 ※対決への決意。この決意で変化する。

 [第三幕] 変化
 11 対決:敵対するものと対決する
 12 排除:敵を排除する
 13 満足:主人公の満足感

 この「13フェイズ構造理論」に則ったおもしろいアニメとして、劇場長編「天空の城ラピュタ」、TVシリーズ「美少女戦士セーラームーン」を挙げ、巻末で詳細に分析する。「トイストーリー」も完璧だという。
 

2015/06/28

 「星を喰った男 ―名脇役・潮健児が語る昭和映画史 」(唐沢俊一/ハヤカワ文庫)

 潮健児の顔を覚えたのはTVの「悪魔くん」だった。二代目メフィスト役として登場したのである。もともとメフィストは吉田義夫が演じていたのだが、病気のために降板し ピンチヒッターとして潮健児が起用されたのだ。
 起用にあたってはおもしろい試みがされていた。同じメフィストでも吉田は兄、潮は弟という役回りで、兄に代わって弟が登場したという設定になっている。別人だから共演も可能なのである。

 これを応用したのが「仮面ライダー」である。撮影中にバイク事故で大けがした藤岡弘(現・藤岡弘、)に代わって、佐々木剛が主役になるのだが、このときも単なる代役ではなかった。藤岡が演じていたライダー(1号)はヨーロッパに赴任、代わって佐々木の2号が日本を守るという展開だった。藤岡のけがが治るとゲスト出演し、ダブルライダーとして全国の少年たちを熱狂させた(その後、藤岡弘は新1号として主役にカムバック)。

 閑話休題。
 吉田義夫のメフィストがよかったので、弟メフィストとの交代に少々残念な気持ちがあったのだがすぐに慣れた。弟メフィストも味がある。本書の中で、吉田メフィストと悪魔くんは父と息子の関係、自分とは兄弟みたいだったと書いているが確かにそんな感じがした。
 続いて「河童の三平」のイタチ男を演じた。そのほか東映のTV番組(子ども向け、大人向け)によくゲスト出演していた。「仮面ライダー」にはショッカー幹部・地獄大使で一時期レギュラー出演した。昭和40年以降の世代には潮健児といったらこの役だろうか。
 本書が出版された当時、書店で見かけたことがなかった。古書店にもない。幻の書籍といった印象があった。図書館で調べたら自動書庫にあったので借りてきたというわけだ。

 愉快な話が次々に出てきて飽きさせない。
 東映の大部屋出身と思っていたら、その前、古川ロッパの劇団からスタートしている。映画ではなく舞台でデビューしているのだ。劇団は2年で退団、その後別の劇団を経由して大泉映画に入る。ロッパは弟子に芸名をつけるとき、古川に由来して必ず水に関係するものにするという。
 ロッパにつけられた名前は退団時に返却してしまったが、師匠はロッパ一人だけという考えで、新しい芸名をさんずいの潮にしたという。東映時代は若山富三郎に気に入られ、若山主演の映画には必ず客演した。アルコールが飲めず甘いもの好きというところも共通していた。
 「悪魔くん」で共演した金子光伸とのエピソードは胸を熱くさせる。

 子ども時代にファンになった役者は何歳になっても忘れられない。


2015/06/30

 「手塚治虫マンガ論」(米沢嘉博/河出書房新社)

 再読。構成が巧い。個別に書かれたものを集めたとはとうてい思えない。




 昨日はシネマDEりんりん夏のスペシャルイベント「南町奉行所があった銀座より発信!春日太一氏、時代劇を大いに語る!」に参加した(一応スタッフ)。元キネマ旬報編集長の植草さんを相手にマシンガントークが繰り広げ、あっというまに予定時間が過ぎてしまった。
 終了してからお客さんとスタッフの打ち上げを新橋の「鍛冶屋 文蔵」にて。

 本日は午後、丸の内ピカデリーにて「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を鑑賞する。平日退社後に観ようと思っていたのだが、夜の回3Dなので。全編アクションというのがすごい。

          * * *

2015/06/16

 「夢を食った男たち」(阿久悠/文春文庫)

 70年代の歌謡曲について再検証すべきことがたくさんある。その資料になるだろうと古書店で買っておいた。
 「スター誕生」は欽ちゃんが司会ということで1回めから観ていた。森昌子がスカウトされ、「せんせい」でデビュー、人気者になっていく過程はリアルタイムで見ている。桜田淳子、山口百恵もデビュー、花の中2トリオで話題になっていくことも。
 ピンクレディー旋風も昨日のことように覚えている。キャンディーズよりピンクレディーを応援していた。


2015/06/20

 「天の梯 みをつくし料理帖」(高田郁/ハルキ文庫)

 シリーズ最終巻。
 前巻(8巻)読了後に図書館に本巻を予約したのが12月。8巻は6月に予約して12月に借りられたので、6ヶ月のインターバルがあったわけで、だとすると最終巻が読めるのは6月だなと予想していたら本当にそうなった。
 これまでの伏線をきちんと回収して大団円にもっていくとはお見事。何の不満もない。めでたし、めでたし。


2015/06/21

 「ザ・スーツアクター 特撮ヒーローを演じた男たち」(破里拳竜/ソニーマガジンズ)

 4月に「東映ヒーロー仮面俳優列伝」を読んだときに、昔、スーツアクターを特集した本があったことを思い出した。図書館で検索するとそのものずばりの「ザ・スーツアクター」があった。
 漫画家にしてスーツアクターの破里拳竜をホストにしたインタビュー集。
 「帰ってきたウルトラマン」の菊池(現きくち)英一、「ウルトラセブン」「スペクトルマン」の上西弘次、「仮面ライダー」の中屋敷哲也、平成ゴジラの薩摩剣八郎、本家ゴジラの中島春雄、等々、「宇宙船」の連載をまとめたもの。まとめるにあたって、追加インタビューしているところがミソか。
 TVシリーズの場合、等身大よりも巨大化ヒーローの方が撮影が過酷なのかもしれない。というのは仮面ライダーやスーパー戦隊は同じスーツアクターが続けて演じているのに、巨大ヒーローものになると1作のみが多いからだ。
 インタビューはされていないが、「ウルトラマン」の古谷敏は「ウルトラセブン」のスーツアクターは断っている。アマギ隊員役でレギュラー出演となった。菊池さんは「帰マン」1作のみ、「A」は演じなかった。演じる側に顔出し願望があるということもある。「仮面ライダー」「スーパー戦隊」の場合、とにかくアクションをやりたい、顔出しの演技は二の次という意識があったのかもしれない。
 1980年代、漫画家とスーツアクターという水と油の仕事を同時に行っていたのが、本書の著書、破里拳竜だった。写真撮影のときはいつも同じ表情(決して笑顔にならない)とポーズで、本書の巻末にも何枚か掲載されている。笑ってよ!


2015/06/22

 「わが青春のフォークソング」(ミュージックプラザなごや/愛知書房)

 フォークソングについて書かれた本がないか、図書館で検索したらヒットした。まったく知らない本だった。1970年代前半の労音主催のフォークコンサートについて関係者が語るとても真面目な本。
 赤い鳥についても言及している。名古屋労音運営委委員の方が1972年11月のコンサートの感想を書いている。7人時代の赤い鳥だ。写真は6人のときのものだが。感想に赤い鳥はひとりごとをふっと言わせてしまう魅力を持っているとある。後藤さんの世界だなと思った。新曲「紙風船」に一つの階段を乗り越えた、と。7人の赤い鳥(のサウンド)についてはあまりいい印象を持っていない。
 もう一人、大学助教授で作曲家、東海音楽舞踏会議会員の方は、赤い鳥の全レコードを聴いて感想を書いている。「もうっこ」のギターソロが理解できないとあって……。

 この項続く




 本日、ブロードウェイミュージカル「ジャージーボーイズ」観劇。映画との違いは……それはまたあとで。
 書き忘れていたが、1日(水)の映画サービスデーは「ラブ&ピース」をTOHOシネマズ新宿で観た。園子温監督の怪獣映画(?)。

          * * *

2015/06/01

 「定本 手塚治虫の世界」(石上三登志/東京創元社)

 大陸書房から上梓された「手塚治虫の時代」を読んでいる。1989年のこと。

 映画評論家・石上三登志が「ローリングストーンズ(日本版)」、「奇想天外」に連載した手塚マンガ評論「手塚治虫の奇妙な世界」は、1冊にまとまって奇想天外社から出版された。書名は連載時と同じ「手塚治虫の奇妙な世界」。ヒゲオヤジが表紙になったこの本はよく書店で見かけたものだ。A5版サイズ、赤と橙の配色ということもあってとても目立った。

 奇想天外社が倒産すると、「手塚治虫の奇妙な世界」は増補改訂され「手塚治虫の時代」と改題のうえ大陸書房から上梓された。SF雑誌「奇想天外」は一時、大陸書房で刊行されていたことがある(このとき掲載された朝松健「三十一人座」の衝撃は忘れられない)。「奇想天外」編集長が大陸書房に移籍したことが要因だろう。その関係で「手塚治虫の時代」出版になったのだと思う。判型は四六版になり表紙は落ち着いたクリーム色、大きな文字(明朝体)「手塚治虫の」と「時代」の間に手塚治虫とアトムのイラスト(by手塚治虫)。この装丁がお気に入りだった。
 その後大陸書房が倒産。たぶんその後だと思うが。書名を「手塚治虫の奇妙な世界」に戻して学陽書房の文庫(学陽文庫)に入った。

 本書は4度めの出版ということになる。書名に定本とつくのだから当然「手塚治虫の奇妙な世界」が続くのかと思いきや、「手塚治虫の世界」である。〈奇妙な〉を省かれてしまったのだが、もしかしたら「手塚治虫の時代」も考慮した折衷案なのかもしれない。しばらくの間、「定本・手塚治虫の時代」だと勘違いしていた。

 この出版の変遷は小林信彦「日本の喜劇人」みたいだ。「日本の喜劇人」「定本・日本の喜劇人」(ともに晶文社)、「日本の喜劇人」(新潮文庫)、「定本・日本の喜劇人」(新潮社 「日本の喜劇人」のほか、そのほかの芸人評伝本を網羅した全2冊の豪華本)の流れを彷彿とさせる。書名が変わっているので、「われわれはなぜ映画館にいるのか」の流れに近いか。「われわれはなぜ映画館にいるのか」(晶文社)→「映画を夢みて」(筑摩書房→ちくま文庫)→「新編 われわれはなぜ映画館にいるのか」(キネマ旬報社)。

 閑話休題。
 実をいうと、石上三登志の文章が苦手だった。26年前「手塚治虫の時代」を読んだとき、その一種独特な石上節に辟易した。その前から雑誌等に掲載される評論などでわかっていたことなのだ。SF映画に造詣が深く興味深い本(「キング・コングは死んだ」「吸血鬼だらけの宇宙船」)も何冊か上梓しているにもかかわらず、すべて立ち読みで済ませてきた。
 今回久しぶりに読み直して、内容の一つひとつに首肯しつつ、手塚治虫、及び手塚マンガ、手塚アニメに対する生半可ではない愛を感じながら、やはり文章には馴染めなかった。〈それはたとえば〉に続く〈たとえば〉の羅列。せめて、これがなくなければ印象はずいぶん違ってくる。リズミカルではあるのだけれど。
 日本テレビの24時間テレビ「愛は地球を救う」内で放映されたスペシャルアニメに関する言及がうれしい。今は完全に忘れさられているが、最初のころは一番の楽しみだった。

 今回、石上三登志の生年を知って驚いた。1939年(昭和14年)生まれ。藤子不二雄の二人、石森章太郎、赤塚不二夫の世代だったのか。団塊の世代まではいかないものの、もう少し下だと思っていた。何の根拠もないのだが。


2015/06/05

 『「父」手塚治虫の素顔』(手塚眞/あいうえお館)

 「天才の息子 -ベレー帽をとった手塚治虫」の書名でソニーマガジンから出版されたが、手塚治虫の生誕80年の2009年に『「父」手塚治虫の素顔』に改題されて新興版元あいうえお館から再販された。どちらも読んでいて、今回で3回めの読書となる。新潮文庫にもなっている。


2015/06/07

 「手塚治虫 知られざる天才の苦悩」(手塚眞/アスキー新書) KADOKAWA / アスキー・メディアワークス

 再読。本書も手塚治虫生誕80年を記念して上梓されたもの。手塚眞が語ったことをライターが構成したようだ。「『父』……」が息子から見た手塚治虫、本書はクリエーターとして見た天才漫画家といった側面がある。


2015/06/09

 「ひとりブタ 談志と生きた二十五年」(立川生志/河出書房新社)

 初めて著者の高座を観たのは館林の立川流落語会だった。もうすぐ真打というころだ。
 それにしても真打になるまでにこれほどまでの辛苦があったとは(真打昇進後には病気に襲われるし)。少しは耳にしていたけれど、いやはやすごい(ひどい?)。師匠への想いも複雑で、それが文章に如実に現れている。真面目で素直な人なのだろう。
 兄弟弟子に対する思いもストレートだ。某弟弟子とのエピソードはオブラートに包まず、ギャグにも転化せず率直な怒りを表明する。真打昇進がうまくいかない自分へ挨拶しないで真打昇進に挑戦、昇進を決めてしまう二人の弟弟子にもはっきり文句を言う。
 
 こんな面白い本だとは思っていなかった。もっと早く読んでいればよかった、って、「ひとりブタ」という書名から図書館の棚で見かけても手がでなかった。まったく自分の不明を恥じる。
 では、なぜ、今読んだのか?
 今年5月に開催されたの国立演芸場の立川落語会では著者は談四楼一門勢ぞろいの千秋楽に出演した。久しぶりに観た高座が実に良かったもので、そうなると現金なもので、本が気になって仕方ない。
 あのときマクラで今年の落語会には志の輔、談春という立川流の二枚看板が出演していないことに触れていた。「皆さんは何も感じませんか? ……私は大いに不安です」
 大笑いしたのだが、あれは本音だったのかと本書を読んで思う。立川流の兄弟子の中では、志の輔、談春両師匠との交流がある。何かにつけて世話になっているのだ。

 面白い本だったが、不安になったことが一つある。
 歌舞音曲が家元のお眼鏡にかなわず真打昇進ができなかった当時、兄弟子がそれを揶揄する原稿を新聞に書いた。家元からは三橋美智也を歌えといわれているのに、本人はサザンを歌っている、と。歌舞音曲の師匠からその記事を見せられて、著者の怒りが爆発した。なぜ、直接言ってくれないのか! すぐさま抗議の電話をかけると「何か言ってきたら、そのときアドバイスをしようと思っていた」と言い訳してまた怒らせてしまうのだ。
 このエピソードに関して、先の弟弟子とは違い、名前はでてこない。誰だろう?と詮索したくなるのが人情だ。
 立川流は本書く派と言われて久しいが、新聞に書くとなると、対象が限定される。その新聞が夕刊だったら。連載だったら。そう考えるともう一人しかいないのだ。著者の真打昇進披露がさまざまなところで開催され、出演者が明記されるが、当該者の名前は一切出てこない。なんだか背筋に冷たいものが……。


2015/06/11

 『マンガで読む「涙の構造」』(米沢嘉博/NHK出版)

 著者はこんな本も書いていたのか。


2015/06/13

 「手塚治虫 原画の秘密」(手塚プロダクション編/新潮社)

 再読。読むというか、生原稿をうっとりながめていた。

 この項続く




 昨日、村井邦彦氏の古希を記念して「ALFA MUSIC LIVE」なるイベントが開催されるニュースが流れた。1970年代から80年代にかけての、アルファミュージック(アルファレコード)に所属していたミュージシャンが出演するという。
 ユーミンが荒井由実名義で出演というのが話題になっていたが、そんなことはどうでもよかった。
 赤い鳥は? 僕の関心事はこれだけ。

 今から15年ほど前、後藤さんにインタビューしたことがあった。そのとき赤い鳥の再結成について訊いてみた。
 後藤さんは言った。
「村井さんから要請されたらやるよ」
  
 開催を伝えるネットの記事にはこうあった。
     ▽
 シンガー・ソングライター、松任谷由実(61)が19年ぶりに荒井由実としてステージに立つことが30日、分かった。9月27、28日に東京・渋谷オーチャードホールで行われる音楽イベント「ALFA MUSIC LIVE」に出演。

 公演では誰がどの曲を歌うか現在、選曲中で、ユーミンのほかにも、元ガロのボーカル、大野真澄が「学生街の喫茶店」、赤い鳥が「翼をください」、吉田美奈子が「朝は君に」「夢で逢えたら」、サーカスが「Mr・サマータイム」「アメリカン・フィーリング」を歌う予定。

 また、坂本龍一(63)が中咽頭がんの治療のため、細野晴臣と高橋幸宏の2人でYMOの名曲を披露することになりそうだ。
     △

 さりげなく書かれているが、赤い鳥が「翼をください」を歌う、とある。この記事を書いた記者って、赤い鳥のことなんて知らないんだろうな。まさか現役のグループだなんて思っていたりして。普通なら「すわ、赤い鳥復活か!」「メンバーは?」と考えるじゃないか。そんなファンの素朴な疑問に記事は応えていない。いや、赤い鳥にニュースバリューはないと判断したのか。
 僕が読んだ記事には主な出演アーティストとして、10人ほど名前が書かれていた。その一人に後藤悦治郎(赤い鳥&紙ふうせん)とあった。
 なぜ、紙ふうせんではないのだろう? まさか、平山さんは出演しないのか? 

 事務所に電話して確認した。
 出演者については、今回、個人名で書かれていてそのあとに(赤い鳥&紙ふうせん)の表記になっていると、平山さんも同様に表記されているとのことだった。
 赤い鳥に関しては、OBで演奏、歌唱する方向で進めている、と。

 専用サイトで詳細がわかった。
     ▽
〈ALFA MUSIC LIVE〉

●日  時:2015年9月27日(日)28日(月) 18:00 開場  18:30 開演予定
●会  場:Bunkamuraオーチャードホール
●チケット:¥13,000 (全席指定・税込み)

■プロデューサー:村井邦彦
■総合演出   :松任谷正隆

【出演アーティスト】
荒井由実 (松任谷由実)/大野真澄 (元GARO) /加橋かつみ/小坂 忠/コシミハル/後藤悦治郎 (赤い鳥&紙ふうせん) /サーカス/シーナ&ロケッツ/鈴木 茂 (Tin Pan Alley) /高橋幸宏 (元YMO) /林立夫 (Tin Pan Alley) /日向大介/平山泰代 (赤い鳥&紙ふうせん) /ブレッド&バター/細野晴臣 (元YMO&Tin Pan Alley) /松任谷正隆 (Tin Pan Alley) /村井邦彦/村上"ポンタ"秀一/山本達彦/雪村いづみ/吉田美奈子 他
※五十音順
     △

 この出演者で赤い鳥OBというと、紙ふうせん、村井さん、ポンタさんということになる。記事の赤い鳥はこの4人を指すのか?
 5年前だったら、山本俊彦(赤い鳥&Hi-Fi Set)、山本潤子(赤い鳥&Hi-Fi Set)という記載があったのに。たぶん深町純さんの名前も。いや、もしかすると山本潤子さんとはまだ交渉中ということも考えられるか。〈他〉に含まれるという考え。
 亡くなった、山本俊彦氏やシーナさんを追悼するコーナーもあるというから、歌うかどうかは別にしても潤子さんの出演ははずせないと思うのだが。サプライズゲストだったりして。

 だいたい、出演者をみると、見事にハイファイセットの世界につながるアーティストばかりだということに気づく。逆にいうとアルファの中では紙ふうせんは異質な存在ではないかと。赤い鳥の音楽性を引き継いだのは紙ふうせんだが、村井さんが赤い鳥で目指した音楽はハイファイセットが引き継いだのだろう。赤い鳥は目指す音楽をめぐってプロデューサーとリーダーの間でせめぎあいの日々があったのではないか。

 それにしても、このコンサート、チケットがとれるだろうか。




 一応、承前

 ミュージカルを3階席から観劇。かつて一度だけ経験していた。12年前「エルヴィス・ストーリー」というロックンロールミュージカルを観劇しているのだ。3階でも十分世界にのめりこんでいた。
 3日が楽しみ楽しみ……

     ◇

2003/05/02

 「エルヴィス・ストーリー」(東京国際フォーラム Cホール)  

 何週間か前、週刊文春のグラビアで、あるアメリカ人男優のエルヴィス・プレスリーに変身する様が連続写真で紹介されていた。見事な変身ぶりに驚いた。素顔はまったく似ていないのに、メイクするとエルヴィス・プレスリーそのものになってしまうのだ。この俳優がロックンロールミュージカル「エルヴィス・ストーリー」の主役を演じるマルタン・フォンティーヌだった。  

 エルヴィスの、というか、プレスリー(僕の場合、プレスリーといった方が馴染みがあるので、以後プレスリーで統一する)の死を知った日のことは良く覚えている。  
 別にプレスリーに思い入れがあったわけではない。まったく別のことで記憶している。  
 プレスリーの死は1977年の8月16日。高校3年の夏休みの最中だった。彼の死を知った日、1年の時にあっさり振られた彼女のことがどうしても忘れられず、意を決してもう一度電話して、ふたりの仲のキューピット役を果たした共通の友人(女友だち、僕の幼なじみ)の家に遊びに行く約束をした。もしかしたらこれをきっかけにやり直しできるかもしれない。淡い期待があった。その日、プレスリーの死を知った。
 2日後、彼女と一緒にバスに乗って、最初に交わした会話がプレスリーの死だった。
「プレスリーが死んだね」
「……うん」
「42歳だって。若すぎるよね」
「……うん」  
 まったく会話がはずまず、それは女友だちとあってからも変わらなかった。その夜、僕は大いに落ち込みやけ酒をくらった。  
 プレスリーの死は、つまり彼女との別れを決意した日といっしょくたになって記憶しているのである。  
 関係ないか、こんな話。  

 僕にとってのリアルタイムのプレスリーというと、ドキュメント映画「エルヴィス・オン・ステージ」「エルヴィス・オン・ツアー」につきる。もちろんこの映画の存在を知ったのは、制作された時よりずいぶん後になってのことだが。ビートルズ映画「レット・イット・ビー」に影響されて、ミュージシャンのライブを追ったドキュメンタリーに興味を抱き始めた高校時代のことだ。ただし、白いジャンプスーツを着た太ったプレスリーには何の関心もわかなかった。  
 そんなわけで、「エルヴィス・ストーリー」を知って、生のステージのミュージカルを観たいとは思ったものの、金をだしてまでもという考えはなかった。そこに、チケットが当たったから観に行かないかと友人からの誘い。うれしかったなあ。  

 東京国際フォーラムに初めて入った。  
 Cホールはかなり広いホールで、3階の席からはステージの人物の顔がやっと判別できるくらい。  
 構成が斬新、というかコロンブスの卵というべきか。つまりステージではエルヴィス・プレスリーのあの日あの時のライブが再現されるだけ。そのライブとライブをつなぐのが後方に設置された2台のモニターから流れるプレスリーに関するニュースフィルム。ナレーションは赤坂泰彦が担当している。  
 メンフィスでの初のレコーディング、メジャーデビュー後の初ステージ、映画「監獄ロック」の1シーン、徴兵前のラストライブ、etc。  
 「監獄ロック」の名シーンを再現したセットのシンプルな美しさに目を見張った。スタイリッシュとはこのことかと納得できた。もう一つは復活したプレスリーが、マネージャーのパーカー大佐を離れて出演したTV番組を再現したセット。赤のイメージが強烈だった。  
 左隣の席が老夫婦といった感じのカップルだったのだが、男性の方が「完璧だ」とつぶやいていた。  
 プレスリー(何度も書いていると、どうにも「俺は田舎のプレスリー」を思い出してしまって困る、やはりエルヴィスにします)、エルヴィスの足跡についてはニュースフィルムが伝えてくれる。
 胸に熱いものがこみあげてきたのは、妻との離婚、愛娘との別れを知った時。よかれと思って妻に習わせた空手の先生との不倫、その後の逃避行。失意と傷心の日々。孤独を紛らわすためヤクに手をだすのもわかる。晩年、ぶくぶくに太った姿はその後遺症だったことを初めて知った。  

 単なるライブの再現(とはいえ、相当レベルは高い、それだけでも十分楽しめる)の羅列と思っていたものが、ある瞬間からまさにドラマになっていたのである。舞台のエルヴィスは、完璧な役作り、演技によるマルタン・フォンティーヌのエルヴィスのはずなのに、本当にそこにエルヴィス本人がいるような感覚に襲われた。ただ歌うだけなのに、その心の襞がこちらに伝わってくるのである。
 バンドメンバーは変わらず、にもかかわらず徐々にサウンドが厚くなっていくのが不思議。  

 こういう作りもあるのか、と感心した。同時に、これならいろいろ応用できるよなとヨコシマな考えを抱いた。
 まずビートルズストーリーができる、美空ひばり物語も可能だ。矢沢永吉ヒストリーなんてのも考えられるな。
 タダで鑑賞して、こんなことをいうとバチがあたるかもしれないが、もっと小さなホールでステージのエルヴィスのすべてを感じたかった。
 もし、大きなホールでやるのなら、ラスヴェガスのライブはビッグバンドにすべきだろう。それでこそ意味があると思う。予算の関係で無理なことはじゅうじゅう承知の上だけれど。

 それから。
 エルヴィスの汗を拭いて、お礼にキスをもらう観客の女性は仕込みなのだろうか。それとも一般の人なのだろうか。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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