遠い北海道からジンギスカンさんからの質問です。

 keiさんは赤い鳥のコンサートには行かれなかったとの事ですが、僕はね、未だにモヤモヤしていた気持ちが赤い鳥にはあるんですよ。
 実力があるグループだったのにフォークでもロックでも歌謡曲でもなく、日本で活躍を目指していたのか、海外に活躍の場所を求めていたのか、村井邦彦さんをはじめまわりの方々が色々いじくり過ぎた感があるんです。だからしばらくは各自の作詞・作曲の歌も出てきませんでした。山上・村井コンビの曲ばかりでしたね。アルバムの曲の中にメンバーの作詞または作曲した作品があれば新鮮な感じが4ものです。「泰代さんも曲作るんだ~」という状態ですね。

 なつかしいフォーク番組にも赤い鳥は出てきません。拓郎、かぐや姫、アリス、チューリップ、六文銭、オフコース、などなどが良く出ますが、赤い鳥は取り上げられないんです。メジャーでないのか?

 そんな事をずーっとモヤモヤの気持ちで過してました。

     ◇

 リーダーの後藤さんに他のメンバーを圧倒する楽曲作りの才能が集中していたら……。 
 甲斐バンドの甲斐よしひろ、チューリップの財津和夫、サザンオールスターズの桑田佳祐のような存在だったら、と思うことがあります。音楽的に完全に他のメンバーを牽引していく存在だったら、赤い鳥は解散しなかったのではないのかなぁと。いや、最終的には解散するのでしょうが、別の道があったような気がするんです。
 後藤さんが、東京のマスを対象にした芸能活動に嫌気して関西に帰ろうと、関西に帰って独自の活動を始めたいとメンバーに伝えたとき、平山さん以外は首を縦に振らなかったといいます。

 逆の見方をすれば、新居さんのヴォーカルが、他のメンバーを圧倒していたら……。
 というと語弊があるかもしれませんね。新居さんのヴォーカル(平山さんとのユニゾン含む)+混成ハーモニーというスタイルが徹底されていたら、つまり、ペドロ&カプリシャスや平田隆夫とセルスターズのような感じ、というのでしょうか、そんなスタイルで、後藤さんはリーダー的素質のみ持ち合わせ、ヴォーカルは新居さん、平山さんのみ、楽曲は完全に山上路夫・村井邦彦コンビに委ねられて、メンバーのオリジナルはアルバムやコンサートで披露される程度に活動していれば、ということです。
 新居さんがいなかったら赤い鳥の存在の意味がないのですから、メンバーの意識も変わっていたのかなあ、と。
 でも、赤い鳥は単なるコーラスグループになっていたでしょうね。

 デビューにあたって、村井さんは、新居さんの声とメンバーのハーモニーセンスに惚れ込んでいたということもあって、いわゆるポップスで、赤い鳥を世間にアピールさせたかったんじゃないですか。
 僕が小さかったとき、フジテレビのヒットパレードでいわゆるオールディーズの数々の名曲を耳にしました。皆、日本語で歌っていました。
 昭和40年代半ば、洋楽を英語で歌うというのは画期的だったのはないでしょうか?

 村井さんには赤い鳥がフォークグループだなんて意識はなかったと思うんですよ。アマチュア時代はいざ知らず、プロデビューしたらそんなグループじゃないと。世界に羽ばたく逸材なのだと。だから自分のプロデュースで赤い鳥の音楽性を牽引していこうと考えていたんじゃないですか? 最初は。
 フォークに拘っていた後藤さんは、どんな気持ちだったのでしょうかね。

 僕は当時の赤い鳥のコンサートを観たことがないし(最後まで、ですが)、どんな内容だったのか、想像するしかないのですが、コンサートは、後藤さんに主導権があったんじゃないかと思っています。
 後藤さんが、この前の「赤い鳥、紙ふうせんアマチュアコピーバンド大会」の途中寸評でもおっしゃっていましたが、歌にはレコード用に録音するものがあると。
 赤い鳥時代、「翼をください」も「忘れていた朝」も「窓に明かりがともるとき」も後藤さんにとってはレコード用の歌だったのではないでしょうか。あくまでも僕個人の想いですけどね。
 コンサートスタッフに、たぶん照明の佐野さんだと思いますが、後藤さんは言われたそうです。「コンサート用の楽曲を作れよ」
 ステージだと、新居さん、平山さんのヴォーカルって、赤い鳥の一つの要素くらいの印象ではないですか?

 赤い鳥の初期は、後藤さん自身が語っているように、曲作りの能力がなかった、また、作りたくても、時間がなかったのでしょう。
アルバム「竹田の子守唄」のころから、やっとメンバーの曲も取り上げられるようになったと思うんです。
 
 後藤さんとしては伝承歌路線、オリジナル路線を推進したかった。村井さんは反対しなかった。「ミリオン・ピープル」は通常のコンサートのスペシャル版だと思いますが、ほぼオリジナルじゃないですか。レパートリーとなっているのは「翼をください」くらいで。
 でも、村井さんはポップス路線をやりたいし、そこに共鳴しているのは山本夫妻、大川さんだったわけで。

 ですから、赤い鳥が解散して、紙ふうせんが赤い鳥(の音楽)を引き継いだ印象がありますが、村井さんが求めた赤い鳥のスタイルはハイ・ファイ・セットだったのでしょう。

 もし、赤い鳥が74年に解散していなければ、「書簡集」みたいなオリジナルアルバムが、以降リリースされたと思うんです。

 赤い鳥は、才能がメンバー個々に分散していたんです。
 
 で、以前書いているけれど、才能が分散していて、二つの音楽的な要素が混ざり合っていたからこそ、赤い鳥の音楽は魅力だったのでしょう。
 バンド形式で、男女混声の、コーラスワークが抜群なグループ。メンバーの誰もがシンガーソングライターそして楽器演奏者。
 そんなグループはそれ以前にも以後にもいませんよね。

 グループの解散はしかたなかったことだと思います。村井さんも当時そう書いていましたよね。グループの解散は世の常だと。
 ただ、解散後に再結成が一度もないというのが、残念でした。
 いえ、一度も再結成しないということも、すごいポリシーを感じますし、それはそれで筋が一本通っていると思いますよ。だって、再結成って、結局のところ元メンバーのあれやこれやに関する思惑、ゆえの打算でしょう。はっきり書くと問題があるからボカしました。

 当時だって、赤い鳥という母艦は残しておいて、それぞれ紙ふうせん、ハイ・ファイ・セットで活動するという手もあったかもしれません。事務所から休みをもらって、後藤さんと平山さんは赤い鳥とは別個の活動をしていたわけですから。
 でも、そういうのを嫌うのが後藤さんなんじゃないですかね。後藤さんにしてみれば、早く本当に自分がやりたい活動をしたい。そう願ったからこそ事務所を辞めてしまうわけだし。皆が共鳴してくれていたら、赤い鳥ごと事務所から飛び出ていたのかもしれません。
 だからこそ、安易な再結成などしたくなかったんじゃないかと思っています。あくまでも僕個人の勝手な推測ですけどね。

 90年代後半、ハイ・ファイ・セットが例の事件で解散し、山本潤子さんがソロで活動するときが、赤い鳥の再結成が叶うかどうかの分岐点だったのではないでしょうか。

 サッカーW杯の応援歌として「翼をください」が話題になって、ニュースステーションで披露されたときのゲストが山本潤子さんでした。あのとき、TV局としては赤い鳥の再結成を画策して、紙ふうせんの事務所にもオファーがあったと聞いています。後藤さんは一蹴しました。TV局主導の企画なんてという思いだったのでしょうか。バード企画にしてみたらせっかくの脚光を浴びる、再デビューのお膳立てを潰されたわけです。

 潤子さんは「翼をください」をきっかけに歌手仲間からの後押しもあって「竹田の子守唄」や「赤い花白い花」を歌いだします。
 スタイルはアコースティックギターの弾き語り。まあ、時代がそうだからということもあるのでしょうが、あれって思ったんです。赤い鳥時代の歌は「竹田の子守唄」や「赤い花白い花」でしょう、それって後藤さんの路線でじゃないですか。
 まあ、潤子さんのリードヴォーカルだからうたうのは当然だとは思いますが、「忘れていた朝」や「窓に明かりがともるとき」だって潤子さんがうたっていた赤い鳥を代表する曲ではないですか、と。
 
 何を言いたいのかというと、このあたりで潤子さん(&山本俊彦さん)と紙ふうせんの歩み寄りがあってもよかったのに、逆に壁ができたような感じがするんです。

 当初、赤い鳥の再結成を拒んでいたのは紙ふうせんサイドだったと思うんです。「まだその時期ではない」という内容の後藤さんの言葉を何度かメディアで見たことがあります。ただし、関西における重要なイベントで、企画に後藤さんが絡んでいる場合、ハイ・ファイ・セットや潤子さんがゲストに呼ばれることがありました。
 で、ある時期から潤子さんサイドのガードが固くなりました。何度も言いますがあくまでも個人的な感覚ですよ。

 紙ふうせんは赤い鳥解散後もずっと「竹田の子守唄」「翼をください」をうたってきました。「赤い花白い花」も平山さんの歌唱指導つきでたまに披露されます。
 対して、潤子さんはハイ・ファイ・セット結成後、これらの歌はステージで取り上げなくなった(と思います)。ソロになってうたいだした経緯があります。ハイ・ファイ・セットの時代からうたっていたのなら違うのでしょうが、この十数年のブランクのあとというのが壁の原因だじゃないかと推測しています。
 



スポンサーサイト
 先週の19日(月)、シネりんのKさんから電話があった。ニッショーホールで「S -最後の警官- 奪還 RECOVERY OF OUR FUTURE」の試写会の誘いである。
 試写会なら喜んで! 仕事を終えてすっ飛んでいった。

 TBS系日曜劇場枠で放送されたドラマ「S -最後の警官-」は、なんとなく観ていた。面白いようなそうでないような微妙な味わい。
 作品世界はTVドラマより映画の方が似つかわしいとは思えた。じゃあ、お前は公開されたら劇場に足を運ぶかと言われたら、「……」。

 テレビドラマの映画化作品は原則無視することにしている。「MOZU」は観るけれどね。
 以前にも書いたことだが、TV局がスペシャルドラマを制作、放送するのと、劇場映画を制作、公開するのと、どう違うのだろう。
 TBSはこの前、二夜連続で「レッドクロス ~女たちの赤紙」を放送していた。松嶋菜々子主演の戦争ものだ。なぜこの作品はスペシャルなのに「S -最後の警官-」は映画なのか。

 映画は「S -最後の警官- 奪還 RECOVERY OF OUR FUTURE」は、「東京湾炎上」+「ガメラ 大怪獣空中決戦」+「海猿」の印象。

 以降、少しネタばれする。

 辰巳琢郎が首相役で登場する。その見た目が安倍首相に思えて、ああ、現政治に対するカリカチュアなんだなとその後を期待したら、別にそういう描写はなかった。

 クライマックスに主要な登場人物(の一人)の小学生の息子の命がかかわってくる。生きるか死ぬか。それがサスペンスの一つの要素になっているのだが、子どもが死ぬわけがないから、安心して観ていられた。こういう展開は意味ないように思う。子どもを絡ませるのならもっと違う形がいいのではないか。もちろん、メインの〈間に合うかどうか〉は別にあるのだが。

 最悪の事態を回避する方法、あれは本当に有効なのだろうか?

 KさんはTVドラマを観ていなかった。だから人物の関係や設定がわからないのでいまいちストーリーに入り込めなかったとか。

 SAT、SITに続いて警視庁内に設立された架空の特殊部隊の名称の略称がNPS(National Police Safetyrescue・警視庁特殊急襲捜査班)。だったらSではなくNなのでは? 


  【追記】

 オダギリジョーが演じる、テロリスト正木圭吾(マサキケイゴ)って、「ウルトラマンティガ」でイーヴルティガに変身してティガ(ダイゴ)に戦いを挑む研究者と同姓同名ではないか。

 今、登場人物の名前を調べてみたら、速田(ハヤタ)、蘇我(ソガ)、古橋(フルハシ)、イルマ、山中一郎 、嵐(アラシ)、天城(アマギ)、倉田(クラタ)、吉村公三、丘、霧山(キリヤマ)、上野等々、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」「ウルトラマンA」の人物名が出てくる、出てくる。警察犬の名前はポインターだぜ!
 
 映画を観ていて、マサキ、イルマの名前に反応したのだが、単なる偶然だと思っていた。
 まさか、こんな遊びがあったとは!
 きちんとTVドラマを観ていたらすぐにわかったはずなのに。
 作者(原作者)はウルトラシリーズのファンなのか。

 少し、「S -最後の警官-」の印象が変わった。
 



 突然ですが、YouTubeで赤い鳥を検索していたら、新しい赤い鳥の映像がヒットしました。

 NETテレビ(現テレビ朝日)の「23時ショー」に出演したときのもので、大村崑さんが録画して秘蔵していたものらしいです。
 あるところにはあるんですね。
 
 「鳥のように」「特急列車」の2曲が披露されます。
 感涙ものです。

 番組のエンディングはこちら

 シークレットライブで上映すればいいのに。

 ちなみに、FC月報でシークレットライブに短編映像でエントリーしたと紹介されていたのはのは私です。
 例の、といっても忘れているかもしれませんね、「トリビュートライブ」のオープニングで披露した「1973 バラキの夏」です。





 「ULTRAMAN_n/a」なる動画がネットに発表された。知ったのは7月だった。渋谷駅前を舞台に初代ウルトラマンとザラガス(?)の戦いをCGで描いた円谷プロ制作の超短編ムービーだ。
 スーツではないフルCG仕様のウルトラマン。初代ウルトラマン、それもAタイプのマスクだ。まさしく得体の知れない宇宙人である。全身の筋肉の動きがリアルでたまらない。
 こういう初代ウルトラマンの映画をもうずっと前から待ち望んでいるのだ。

 2004年の年末に公開された「ULTRAMAN」はまさにこの路線だったのだろう。映画はヒットしなかった。登場するウルトラマンが初代だったら、もっと話題になったかもしれないと思っている。
 この映画とTVシリーズ「ウルトラマンネクサス」の失敗で円谷プロは大きな方向転換をはかった。

 ハリウッド映画では、「スーパーマン」にしろ「バッドマン」にしろ「スパイダーマン」にしろ、若干のマイナーチェンジはあるものの、何度もオリジナルキャラクターのまま作品が製作されている。  
 なぜ日本ではそれができないのだろうか?

 たとえば、「ウルトラマン」なら「怪獣無法地帯」を素材に劇場長編映画を作るというのはどうだろう。「ジュラシック・パーク」の怪獣版ができると思うのだが。
 「ウルトラQ」だったら「ペギラが来た」「ガラダマ」とか。「ウルトラセブン」なら絶対「ダークゾーン」だ。「帰ってきたウルトラマン」だとグドン&ツインテール、あるいは、シーモンス&シーゴラスの話か。

 何年も前のこと。とある特撮関係者から聞いた話なのだが、円谷プロの親会社となったフィールズは大人向けの作品を狙っているのだが、バンダイが年少者対象に固執しているのだとか……。

    ◇

2004/12/24

 「ULTRAMAN」(品川プリンスシネマ)

 もうふた昔前以上になるが、幼い頃夢中になってTVシリーズを見ていた「スーパーマン」が映画で蘇った。TVと同じキャラクター(デザイン、衣装など)が最新の特撮技術でデラックスになってスクリーンに登場してきたのだった。やはり好きだった「バットマン」も映画になった。最近では「スパイダーマン」が話題になっている。TVシリーズがあったかどうかは知らないけれど。

 「スーパーマン」がロードショーされた時、心に思い描いたのはウルトラマンがオリジナル(初代ウルトラマン)のままスクリーンで活躍する姿だった。
 ウルトラマンは時代の変遷によってその都度の世相や流行を取り入れた様々なスタイルのキャラクターが生み出され世代を越えたヒーローとなっている。僕にとってウルトラマンといえば初代でしかありえないが、5歳下の弟世代では帰マンであり、もっと下の、従兄弟たちの世代ならタロウだろう。今の子どもたちにとってはティガやガイアなのかもしれない。いやコスモスか。

 スクリーンで上映される、という意味合いにおいてはこれまで何度となくウルトラマンの映画は制作されている。
 「ウルトラマン」の放映が終了してからすぐにいくつかの特に人気の高いエピソードをつなげた映画「長編怪獣映画 ウルトラマン」が公開され、その後も東宝チャンピオンまつりで「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」のTVエピソードが16㎜から35㎜フィルムにブローアップされプログラムの1つになっていった。
 70年代後半、活字で盛り上がったウルトラブームの最中、実相寺昭雄監督作品を集めたオムニバス映画が劇場公開され話題を呼んだ。

 タロウの幼少時代を扱った「ウルトラマン物語」やタイと合作でハヌマーンとウルトラ兄弟が活躍するTVの再編集でない劇場用作品も制作されたりもしたが、ウルトラ第一世代を満足させるものではなかった。

 平成ウルトラマンになってから、単なるTVエピソードのブローアップ、再編集ではない、TVシリーズの世界観に則ったオリジナル映画が公開された。内容的技術的に水準以上の出来だったから大いに喜んだものだ。
 そうした映画に夢中になりながら、本当の意味での、つまり初代ウルトラマンが活躍するオリジナル映画ができないだろうかと夢想するようになった。

 かつて実相寺監督がATGと組んだ「ウルトラマン 怪獣聖書」という映画の企画があった。70年代の当時、あえてウルトラマンが放映されていた60年代を舞台に科学特捜隊のメンバーを一新して日本の高度成長の是非を問い、その歪みを摘発する内容だった。
 佐々木守の書いたシナリオを読んだことがあるが、映画化されなくてよかったと思う。科学の発展に対して楽天的な「ウルトラマン」には似合わない、とても重苦しいテーマで、もし映画化されていたら失敗していたはずだ。むしろセブンに似つかわしいテーマだと思った。
 このプロットは90年代になって「ウルトラQ THE MOVIE 星の伝説」に応用され惨敗したのは記憶に新しい。

 「ULTRAMAN」という、アルファベット表記されたタイトルの映画の製作が発表された時、内容については何も聞こえてはこなかった。シナリオ(長谷川圭一)、監督(小中和哉)、出演者(別所哲也、遠山景織子)以外ベールに包まれていたといっていい。

 ストーリーを知って驚いた。宇宙から飛来した赤い発光体に衝突した主人公(自衛隊パイロット)がウルトラマンに、青い発光体に衝突した男が怪獣に変化して戦う物語はまさに「ウルトラマン」の第一話「ウルトラ作戦第1号」を彷彿とさせるもので、「ULTRAMAN」とは科学特捜隊や怪獣が存在しないこの現代にもし銀色の巨人や悪魔のような怪獣が出現したらどうなるか、平成ガメラの流れを汲むシミュレーション映画の様相を持っていたのである。

 航空自衛隊F‐15パイロットの真木(別所哲也)には先天性の疾病を持つ息子がいる。少しでもそばにいてやろうと自衛隊を辞める決心をした矢先、飛行中に赤い発光体に衝突する。が、奇跡的に生還。民間の航空会社に入社した真木はある日自衛隊特殊機関に拉致されてしまう。
 実は数ヶ月前青い発光体と衝突したもののやはり奇跡的生還を果たした海上自衛隊所属の潜水艦乗務員有働(大澄賢也)が徐々に怪物に変化し、研究所から逃走する事件があったのだ。拉致には同じように怪物化するかもしれない真木の監視とともに逃走した怪物をおびき寄せる囮の意味もあった。作戦の指揮を執るのは有働の恋人でもあった化学担当官(遠山景織子)。
 奴はやってきた。ところがより進化を遂げていて自衛隊の武器はまったく効かない。巨大化した怪物に手も足もでない。絶体絶命の危機の中、真木に異変が! 銀色の超人に変身した真木は怪物に立ち向かっていく。

 映画「ULTRAMAN」に対して観る前から期待するものがあった。
 1つはそのリアルな設定。怪獣、ヒーローともに自衛隊特殊機関が命名したコードネーム〈ザ・ワン〉〈ザ・ネクスト〉が使用されていて、それだけでも硬質な雰囲気を醸しだしている。「仮面ライダークウガ」の影響だろうか。
 怪異事件に自衛隊がどのように介入してくるのか。その作戦の計画と実行。現実の武器を操作する際のカチャカチャ音が効果をあげている。真木と同僚(永澤俊矢)の自衛隊応接室(?)での会話シーンで雑誌棚に月刊誌「正論」が数冊置かれていたのには苦笑した。やはり自衛隊員の必読書なのだろうか。左寄りの知識人から何かしらの反応があったりして。

 2つめはウルトラマンと怪獣の大きさ、その表現だ。日本の特撮ヒーローものは等身大か、40~50m級の2パターンしかなく、最近それがうっとおしてくて仕方なかった。CGやデジタル加工の技術が発達したのだから、さまざまな大きさの怪獣やヒーローがいてもいい。そういう映像は今なら可能なはずなのだから。それがこの映画では段階を経て巨大化していく過程があって、屋内における10mの怪獣とウルトラマンの戦いの描写が斬新だった。

 3つめはウルトラマンと飛行怪獣との空中戦。これは「ウルトラマンガイア」の「あざ笑う眼」の演習シーンに瞠目してから、大スクリーンで拝見したくてたまらない要素だった。「マトリックス レボリューションズ」のクライマックスでその思いは頂点に達した。
 そんな願いを受け止めてくれたかのように、今回アニメで〈板野サーカス〉と異名をとるほど、空中戦描写に定評を持つ板野一郎をフライングシーケンスディレクターに招き、クライマックスの白昼新宿摩天楼上空におけるウルトラマンと怪獣の死闘を魅せてくれた。

 観終わって、胸に熱いものがこみあげてきた。初めてブラウン菅でウルトラマンを体験した当時の感覚(飛行機に対する憧れ、ヒーローと怪獣の戦いにワクワクした気分)を蘇らせてくれたことに感謝したい。斬新なビジュアルにも燃えた。

 心配していたキャスティング(特にバラエティ色の強い大澄賢也)も映画の中では皆適役に思えた。真木の妻役で久しぶりに裕木奈江を見た。かつて女性の天敵とされた彼女が何なく母親役を演じていて時代の流れを感じた。
 真木が勤めることになる民間航空会社の名称が〈星川航空〉、社長や同僚の名が万条目、一平、由利子というウルトラファン向けの遊びもいい。

 不満がないわけではない。
 新しいウルトラマンの造形に違和感があった。岩みたいにゴツゴツしてお世辞にもスマートといえない。成田亨がデザインした初代がそのままのスタイルで登場してほしかった。いやそれこそ意味があったと思う。まあ、マーチャンダイジングその他、円谷プロだけでなくスポンサーサイドの意向が反映された結果だろうし、映画における新たなスタンダードを作るという目的もあったにちがいない。
 ただしこの新ウルトラマンの造形にはスタッフの憎い演出が施されている。劇中二段階の変化をとげる、最初の身長10mのマスクはまさしく「ウルトラ作戦第1号」に登場するウルトラマンの面影があるのだ。いわゆるAタイプと呼ばれるもので肌が荒れていてどことなく表情もきつい(目や口の作りによる)。それが50mになるとB、Cタイプのそれになってツルツルの肌にきっちりした口元になる。

 残念だったのは映画一番の売りである空中戦。遺伝子レベルであらゆる動物の能力を取り込み、進化していくという〈ザ・ワン〉の設定はまるで「デビルマン」のデーモンであり、ウルトラマンとの空中戦は駄作「デビルマン」のデビルマンvsシレーヌのそれより数倍興奮させられるものの、こちらが期待していたほどのスピード感、疾走感がなくて物足りなかった。戦いにF‐15をもっと絡ませて欲しかった。
 HD撮影だからだろうか、俯瞰で撮られた新宿の街が鮮明でなかったことも要因か。

 とはいえ、ふた昔前に思い描いた夢が叶ったことに間違いはない。かつて「ウルトラマン」に熱中した大人たち、その子どもたち、できるだけ多くの人たちに観てもらいたい映画である。

    ◇




 一応前項から続く

 手塚治虫の名作「ブラック・ジャック」を実写で映像化する場合、皆、何の抵抗もなくブラックジャックをマンガ同様の造形にしてしまうのが不思議でたまらなかった。
 大林宣彦監督が「ブラック・ジャック/春一番」を映画化した「瞳の中の訪問者」で宍戸錠が扮したブラックジャックの姿を「キネマ旬報」のスチールで見たときは心底呆れたものだった。映画はつい最近まで自分に中でなかったものになっていた。
 その後もTVやビデオで有名俳優がブラックジャックを演じているが、あのメーキャップや扮装が許されるのはアニメでしょう。

 マンガ、アニメの実写化では、作品のキャラクター、世界を必要に応じて換骨奪胎して構築しなければならない、とはいえ、テーマ(の核)から逸脱してはならない。というのが僕の持論である。
 「CASSHERN」はそういう作品ではあった。だから、多くのファンから酷評されたにもかかわらず、僕個人の感想は違ったのだ。ただ、CGてんこ盛りの紀里谷作品には馴染めず、以降の作品は観ようという気がしない。

     ◇

2004/05/01

  「CASSHERN」(川崎チネチッタ)  

 1970年代、タツノコプロのテレビアニメに夢中になった。もともと「宇宙エース」に始まるタツノコプロのアニメはお気に入りだった。「マッハGOGOGO」「紅三四郎」「ハクション大魔王」「みなしごハッチ」等々。ただし制作会社の名前などそれほど意識してチャンネルを合わせた覚えはなかったような気がする。いや〈竜の子〉の文字は子ども心に印象的だったか。

 衝撃を受けたのは72年の春から始まった「科学忍者隊ガッチャマン」である。タイトルから単純な集団ヒーローものだろうといつもの習慣で何気なく観た第1回の絵の完成度、緻密さ、美しさに舌を巻いた。ストーリーも回を重ねるに従って、主人公と敵の巨大メカを使用した戦いだけでなく、さまざま要素が絡み合ったダイナミックな展開に昇華していき、日曜夕方6時の〈お楽しみ番組〉になった。タツノコプロの力量を思い知らされた。

 以降タツノコプロ作品は必ずチェックするようになる。「新造人間キャシャーン」「破裏拳ポリマー」「宇宙の騎士テッカマン」「タイムボカン」シリーズ……まさに70年代はタツノコプロの黄金時代だった。 
 ただし、「ガッチャマン」である意味僕のアニメ遍歴は終わった。その後の作品についてはそれほど熱心に追いかけたわけではない。
 ちなみに「攻殻機動隊」「イノセンス」あるいは「キル・ビルVOL1」に挿入されたアニメーションを制作した〈プロダクションI・G〉はタツノコプロの分家である。  

 「新造人間キャシャーン」は確か火曜日の夜7時から放映されていた。
「たったひとつの命を捨てて生まれ変わった不死身の体。鉄の悪魔を叩いて砕く、キャシャーンがやらねば誰がやる!」  
 納谷悟郎の名調子で始まるこのアニメは、思った以上にハードで暗いものだった(ような気がする)。
 両親を敵に拉致された孤独なヒーロー、キャシャーン。恋人ルナとロボット犬フレンダーとともにアンドロ軍団と戦う姿が斬新でけっこうはまっていた。にもかかわらず、どんな風にストーリーが展開したのか、ラストはどうなったのかまったく覚えていない。  

 宇多田ヒカルと結婚して一般的には有名になったカメラマン(宇多田のミュージッククリップ等を担当している由)紀里谷和明が「新造人間キャシャーン」を映画化すると知った時、驚いた。なぜ今「キャシャーン」なのかという思い。まさか「科学忍者隊ガッチャマン」がSMAPを使ってCFになったからではないだろう。
 だいたい紀里谷監督はこの手の特撮作品に造詣が深いのかどうか。制作費うん億円。監督デビュー作として適した作品なのかどうか。宇多田ヒカルの主題歌が使用できる、若い人の動員が見込める、だからGOサインがでた企画なのではないか、そんな感じを受けた。

 作品の出来が心配された。これが特撮に関係ない普通(?)の映画だったら何の関心もわかなかった。特撮映画、それもタツノコプロの「新造人間キャシャーン」の映画化であったからこそ注目もし、それなりの作品に仕上がってほしいのだ。
 この数年、特撮ものは「ゴジラ」、「ウルトラマン」「仮面ライダー」「戦隊もの」だけになって停滞している。もっといろいろなジャンルに発展してもいい。新しいキャラクターが生まれてほしい。

 今年はさまざまな特撮を売りにした作品が目白押しである。過去の作品、アニメーションの実写化とはいえ、「キャシャーン」をはじめとして「キューティー・ハニー」「鉄人28号」「デビルマン」が控えている。企画の貧困とも言えるのだが、ゴジラ以外の特撮が劇場で見られるのはうれしい。新しい特撮作品が生まれるきっかけになればと思えば、これは大いに歓迎すべきこと。

 ただ不安がないわけではなかった。
 もうずいぶん前になるが、とある新興の版元が「8マン」の復刻版をだして大いに儲けた。調子に乗った出版社はその儲けをはたいて実写の映画を製作(社長自らメガフォンをとった)、東京ドームで上映会を開催したのだ。結果は大惨敗。大赤字をだして出版社は倒産した。
 これから公開される映画がみな「8マン」みたいなものだったら……心配はそこにあった。

 映画の正式タイトルが「CASSHERN」となって、キャスティングも発表されて不安が増してきた。TVスポットが流れてからは不安が現実になるのでは気が気でなかった。CGオンパレードの映像。人工的な、リアリティのない世界に役者が入り込んで繰り広げられる空虚な演技。主人公にキャシャーンを感じない。いったい何をやりたいのかわからない……

 かなり否定的な気持ちで劇場にのぞんだ。完全否定の感想も読んでいる。逆に肯定的な(思ったほどひどい作品ではない)という意見もあることを知った。実際はどうなのか。これは自分で観るしかない。

 TV同様に納屋悟郎のナレーションで映画世界の状況が説明されて幕が開く。
 大亜細亜連邦共和国という架空の国が舞台。敵国と長い間大戦を交え、人々の心はすさんでいた。
 そんなさなかに東博士(寺尾聰)が重い病気で苦しむ妻(樋口可南子)を助けようと研究開発しているのが〈新造細胞〉だ。人間のさまざま部位を独自に作り出す画期的なものだという。死なない兵士を作り出すもの(死んだ兵士を生き返らす)として軍の援助で研究が進められる中、ある衝撃で新造細胞培養プールから新しい人種が生まれた。軍の皆殺し攻撃からからくも生き残った新造人間の4人(唐沢寿明、宮迫博之、要潤、佐田真由美)は、古城に立てこもり、ブライ(唐沢)をリーダーに人類に復讐を誓った。
 父、東に反発し兵士となった鉄也(伊勢谷友介)は戦場で死亡。東は死体を新造細胞培養プールに浸す。何と鉄也は蘇った。父の友人上月博士(小日向文世)の研究する強化スーツを着用した鉄也は新造人間としてブライたちに対峙するのだった……

 映画は特にその前半、CGの多用で辟易することもあったが、とにかく飽きることなくうんざりすることなく最後までスクリーンを見ていられた。これは自分でも驚いた。
 未来の世界をレトロ感いっぱいに創造したのは数年前に公開された手塚治虫原作「メトロポリス」の引用か。人類の敵となる新造人間はデ・ニーロの「フランケンシュタイン」の影響か。
 レトロでも何でもいいが、前半はもっと架空世界のディティールを描いてほしかった。ポイントとなる全体像(CG)は効果的にいくつか挿入し、あとはセットでドラマを作る。そうすればクライマックスのキャシャーンとロボット軍団の戦いのヴィジュアルがもっといきたと思うのだが。

 ただこうも言えるのではないか。
 これはあくまでもアニメ「新造人間キャシャーン」にインスパイヤされた新種の映画なのだ。アニメの世界を換骨奪胎して新しい世界を作り出す。いってみれば本物の役者をCGに組み込む表現方法。役者の動きをモーションキャプチャーで取り入れ、CGアニメにした「APPLESEED」の対極に位置するもの。

 鉄也が新造人間として蘇るシーンに納得いかなかった。だいたい戦場で敵の手榴弾で命を落とした鉄也の身体にまったく損傷がないというのが解せない。損傷した、たとえば手や足のなくした鉄也を培養プールに浸すからこそ、新造細胞の働きで無くした器官(部位)が蘇るのではないか。
 ま、それはともかく、同じ新造人間同士が戦うという構図がこの映画のミソ、要だ。この戦いの中で、戦争とは何か、憎悪とは、復讐とは何か、という普遍的なテーマを問い、人間の愚かさを浮き彫りにする。
 敵の新造人間たちがキャシャーンに敗れ死ぬ間際につぶやく言葉が重要な意味を持つことがわかるくだりに膝を打った。

 なぜ蘇った鉄也がキャシャーンと呼ばれるのか。旧アニメで活躍するフレンダーやブライキングボスによって白鳥ロボット(?)に封じ込められた母親との会話が独自の解釈で登場してくる。こういうセンスは買う。旧作品ファンにはニヤリとさせ、新しい観客には特に意識させない処置。平成ウルトラマンの川崎郷太監督が得意するものだった。
 TVスポットでキャシャーンがヘルメットをつけていないところが疑問だったのだが、これも映画で理解できた。つまりあれはヒーローとしての不完全さを表現しているのだろう。紀里谷監督はキャシャーンをヒーローとして描かなかった。戦いの中で徐々に白い強化スーツが汚れ、血がにじんでいく。そこに哀しみを込めたと思うのは穿ち過ぎか。

 鉄也役の伊勢谷友介と恋人ルナ役の麻生久美子に魅力を感じられなかったのは残念。最初ルナが登場した時、松田聖子の娘かと勘違いしたほどだ。要潤をキャスティングしたのなら彼が主役でもという意見もあるが、たぶん色のついていない役者にしたかったのだと思う。要潤は滑舌悪いし。
 逆にミスキャストだと思っていた大滝秀治や三橋達也の巧さにうなった。三橋達也が登場した時はぬくもりを感じた。ふっと息がつけた。
 ミッチ-の怪演も楽しめる。宮迫博之もおいしい役だ。
 唐沢寿明なんて、楽しみながら伸び伸びしながら敵役を演じたのではないか。「白い巨塔」の息抜きになったのでは?

 修飾されすぎた映像に違和感がないわけではない。稚拙な演出もある。絶賛するつもりはない。
 ただ何の予備知識もなくこの映画に触れたとして、映画が言わんとすることは胸に響いたと思う。ストーリーそのものに監督の意図するものがあった。
 別にキャシャーンでなくても成立する話ではあるが、胸を打つカットや台詞もある。その点において僕はこの映画を認めたい。




 11年前の2004年、05年は、70年代の人気TVアニメが次々と実写映画化された。
 最初に実写化が発表されたのは60年代に人気を呼んだ「鉄人28号」だったと思う。04年だったか、前年の03年だったかは忘れたが、これを契機に04年は次々と人気アニメの実写化映画が公開されたのだ。

 公開第一弾は「CASSHERN」。タツノコプロの傑作アニメ「新造人間キャシャーン」を、音楽PV等で活躍していた映像作家(カメラマン)の紀里谷和明がCGを大胆に導入してヴィジュアル化したのである。評判は散々だった。僕個人の評価は違うのだが。

 続いて公開されたのが「キューティーハニー」、少し遅れて「デビルマン」。永井豪原作の作品が続いた。
 「キューティーハニー」は、まあ、普通の失敗作だが、「デビルマン」は超弩級の最悪作品だった。ネットは酷評の嵐。その盛り上がりがすごかった。専用のサイトができるほどだから。

 結局、05年公開の「鉄人28号」は観に行かなかった。ビデオ(DVD)になっても借りたことがない。

 「キューティーハニー」は映画公開後にTVドラマ(実写)化された。個人的にはこのシリーズの方が面白いと思っている。
 「デビルマン」の感想で〈怒りがわいてくる映画〉と書いたが、「ガッチャマン」もそうだった。比べれば「デビルマン」に軍配が上がるのだが。

 往年の人気アニメの実写映画化はどれも大ヒットに結びつかなかったことから、「ゴジラ」「ガメラ」「ウルトラマン」「仮面ライダー」等に続く、特撮映画の新しいムーブメントにならなかった。
 ただし、タツノコプロ作品の実写映画化企画だけは進行していて、08年に「ヤッターマン」が、14年に「ガッチャマン」が公開された。 「ガッチャマン」が酷評の嵐になったのは記憶に新しい。
 
 マンガ、アニメの実写化する場合、作品世界をそのまま実写にしてもしょうがないと思っている。なにしろ相手は2次元のキャラクター、世界なのだから、人間の役者が演じること、現実の社会を反映させる(つまりリアルさ)ということを心掛けなければならない。でないと、キャラクターなんて単なるコスプレになってしまう。
 この匙加減が難しい。

     ◇

2004/06/11

 「キューティーハニー」(川崎チネチッタ)  

 永井豪原作のアニメーションの実写映画化が続いている。まず「デビルマン」が発表され、続いて「キューティーハニー」(公開は「キューティーハニー」の方が先になったが)。「鉄人28号」も映画化されるのだから、「マジンガーZ」の映画化も近いのではないか。

 永井豪というと、僕にとっては「ハレンチ学園」であり「あばしり一家」だった。「マジンガーZ」や「デビルマン」、「キューティーハニー」をアニメで夢中になったのは5歳下の弟の世代(から下)だろう。「マジンガーZ」は弟につきあって毎週観ていた。なんたって、「科学忍者隊ガッチャマン」「サザエさん」に続くゴールデンタイムだったのだ(後には名作劇場が控えていた)。

  「デビルマン」や「キューティーハニー」のアニメに関していえば、はっきりいってバカにしていた。当時打倒「8時だよ 全員集合!」とばかりNETテレビ(ネットテレビではありません、エヌ・イー・ティと読みます。今のテレビ朝日)が土曜日夜7時30分の「仮面ライダー」に続けて8時台にも特撮ヒーローものとアニメの番組を始めた。それが「人造人間キカイダー」であり「デビルマン」だったのだが、中学生だった僕はそこまでやるか! とあきれていた。「キューティーハニー」は「デビルマン」の後番組か何かではなかったか。
 どちらも技術的には下の方のランクだったと思う。一度もチャンネルを合わせることはなかった(最近TVの懐かしきのアニメ特集等で見るけれど、絵が汚いし、セルの傷が目立つ)。  

 マンガにもアニメにも思い入れはないのに、じゃあなぜ観たのかといえば「エヴァンゲリオン」の庵野監督がどんなヴィジュアルと笑いを提供してくれるか、という点に期待したのである。笑いに関しては、脇を固める篠井英介、手塚とおる、及川光博、片桐はいり等がどんな風にハジケるのか、考えただけでワクワクしてしまった。
 ところが、悲しいかなどちらにも満足できなかった。

 まあ、ヒロイン役に佐藤江梨子をキャスティングしたときから違和感があった。あのマスクがどうにもキューティーハニーに思えなかった。昨年暮れのモノマネ番組で某タレントが扮していたキューティーハニーの方がよっぽど〈らしかった〉(演技的にどうというわけではない。あくまでも見ため)。あまり知性が感じられないのだ(全国のサトエリファン、御免)。それからスタンダードな衣装時の肌の露出部分が実は肌色の生地だったというのがダサすぎる。フィギュアスケートじゃないんだからさ。
 
 映画化にあたってサトエリっぽいキャラクターになっていたのには安堵した。冒頭の下着姿に少々ドギマギしたりして。  
 最初の事件、海ほたるでの(秘密結社パンサークロー)の第一の使者(片桐はいり)との戦いで、片桐はいりのメイクが生々しくてまず萎えた。口元がアップになると黄色い歯がやけに目立つのだ。これは敵方の怪人たちのメイクすべてにいえた。フィルムでなくHDによる撮影だからだろうか。  
 実写をアニメーションにする手法も特にどうというものではなかった。だいたいその手法はふた昔前に大林宣彦監督が「ねらわれた学園」や「時をかける少女」で使用しているのではないか。
 特撮やドラマは別にどうでもいいけれど、バカ笑いができなかったのがつらい。声出して笑えたのはミッチ―とハニーの一騎打ちだけ。ミッチ―は旬の人だ。シリアスもコメディもいける。

 篠井英介は単に三輪明宏の模倣だし、手塚とおるもメイクのみが目立つだけ。そうそう手塚とおるのメイクって浦沢直樹の「モンスター」に登場にする悪役(名前失念、チビのキューピーちゃんみたいな暗黒街の顔役)にそっくりで、それにはニヤっとしたけど。

 クライマックスのテーマは言いたいことはよくわかるけど金子修介監督「ガメラ 大怪獣空中決戦」の焼き直しにすぎない。

 気になったには前半、ハニーが街をさまようシーン。まるで「帰ってきたウルトラマン/狙われた女」にオマージュを捧げたような印象を受けた。MATの丘隊員が私服姿で同じように街を徘徊し、同じモニュメントの前でポーズもとっていたような気がしてならない。(庵野監督はアマチュア時代に自身が顔出しの帰マンに扮した自主映画「帰ってきたウルトラマン」を撮っているのだ。)

     ◇

2004/10/25

 「デビルマン」(MOVIXさいたま)

 永井豪の傑作マンガ「デビルマン」が実写映画化されると知った時は快哉の文字が頭を駆け巡った。技術の進歩でやっとデビルマンのあの世界が特撮で観られる時代がやってきたのかと。
 が、しかし。脚本、監督が「ビー・バップ・ハイスクール」の那須真知子、那須博之コンビと聞いて快哉の文字に陰りが生じた。那須監督の得意とするジャンルと違うんではないかと。でもまあ、オファーを受けたというのはそれなりに自信があるということなのだろうと納得させて、公開を待っていた。 

 製作が開始されてからかなり経過されるのに特撮系の雑誌にまったくというほどヴィジュアルが掲載されない。不安になってきた。案の定公開が延期になった。
 朝めし前プロジェクト上映会で知り合い、「まぐま」でもインタビューしている芸歴40年のベテラン町田政則さんがこの映画に出演している。映画の出来具合を聞くと関係者試写があった日にちょうど京都の撮影に参加していて観ていないと言いながらこう付け加えた。「なんか面白くないみたいだよ」
 劇場の予告編ではCGによるデビルマンの造形がいかにもアニメっぽくてリアル感に乏しかった。公開が迫るにつれ耳にするのは酷評ばかり。

 MOVIXの招待券がなければ観なかったかもしれない。アニメにはまったく興味なかったが、雑誌連載されたマンガ「デビルマン」のラストには衝撃を受けた一人である。ゴジラ、ウルトラマン、仮面ライダー以外の特撮映画としてどんな作品に仕上がったのか興味がある。もしかしたら「CASSHERN」みたいに酷評の嵐の中でも個人的には注目できる要素もあるかもしれないと淡い期待もあったのだが……

 幼なじみの不動明(伊崎央登)と飛鳥了(伊崎右典)。同じ容貌を持つ二人なのに性格はまるで異なっていた。勉強、運動全ての点で飛鳥に劣る不動は飛鳥に対してある種の憧れを抱く陽気な青年。飛鳥は決して笑うことがないニヒルな青年で何かにつけて不動を庇護する存在。そのため時として信じられないような暴力沙汰を起こすこともあった。
 両親を事故で亡くした不動は牧村夫婦(宇崎竜童 阿木陽子)に引き取られ高校に通っていた。一人娘の美樹(酒井彩名)とは恋人関係にある。
 ある日飛鳥は新種のエネルギーを研究している父の異変を不動に伝え、研究所に連れて行く。そこには南極の地下から蘇ったデーモン一族と合体し醜い姿になった飛鳥の父親が。自分もデーモンになってしまったと嘆き悲しむ飛鳥。瞬時に不動の身体にもデーモンが取りつく。しかし人間の心を失わなかった不動はデーモンの超能力を持つ〈デビルマン〉として生まれ変わったのだった。愛するものを守るため、世界征服を狙うデーモンに立ち向かうデビルマン……

 いやはや、呆れてものもいえない。これを駄作と言わずして何が駄作なのか。
 主役の二人不動明と飛鳥了の子ども時代を描く冒頭シーンから引いてしまった。うどん粉を振りかけたような飛鳥の髪はいったい何なのだ。青年になった飛鳥の金髪に合せた処置だったのだろうか。イメージが全然違う。続くタイトルの音楽&ビジュアルが醸しだす高揚感。それも学校のシーンに切り替わったとたん一気に打ち砕かれる。
 主役二人の演技が拙いことは誰もが指摘している。確かに台詞は棒読みだし、感情表現も何もあったものではない。とにかく首から下の演技がまるで見ていられない。演技力がなくても映像世界ならそれなりに見られるはずなのだ。要は監督の演技のつけ方次第。那須監督ってたぶん俳優の地をそのままキャラクターに応用する人なのだろう。「ビー・バップ」はそういう類の映画だったと思う。しかし等身大の青春映画なら通用しても、「デビルマン」みたいな重厚なケレン味が必要な芝居では素人は単なるでくの坊になってしまう。
 いや演技力云々の前にこのシナリオでよくGOサインがでたものである。原作のコミックス全5巻をすべて描く映画なのだから全体の構成の緩さ拙さを指摘しても始まらない。台詞の一つひとつドラマの作りそのものがなっていないのだ。はっきり言って破綻している

 さっきまで自分もデーモンになってしまったことを嘆いていた飛鳥がデビルマンになった不動に向かって「ハッピーバースデー」だって。
 ショッピングセンター街で亀型デーモンに同級生が襲われ、そのSOSの声をキャッチした不動がやってくるのは何と海岸。あたりを探し回るが同級生はどこにも見当たらない。デビルマンに変身して飛行、着地したのが森の中。そこにデーモンに食われ甲羅の一部になった同級生がいた。ショッピングセンター街と海岸と森がどう繋がっているのか不明。
 教会にやってきた不動と美樹の会話。「美樹ちゃんの夢は?」と聞かれて「明くんと結婚して、子どもをたくさん生んで幸せな家庭を築く……」の答えに背中がこそばゆい。今時の女子高生がこんなこと言うか? だいたいそれまでの彼女のキャラクターに合っていない。とってつけたような台詞。
 デーモンに取り付かれた、それでも人間の心を持つ同級生(渋谷飛鳥)と小学生を自宅で匿うことを両親に進言する美樹がいちいち「お父さん」「お母さん」なんて呼びかける。「お父さん、お母さん、話があるの」「お父さん、XXXX」「お母さん、○○○○」 まるで素人芝居。
 その存在を近所の住民に知られ、同級生と小学生が牧村家から脱出する際に美樹がカサカサに乾いた同級生の唇に赤いルージュを引く。鏡に写った自分の姿を見ながら「美しいって素晴らしい」とか何とか。何だそりゃ!
 暴徒化した一般市民が牧村家を襲うシークエンス。両親を殺され絶体絶命に陥った美紀が「私は魔女よ」と大見得切って包丁を持って敵に向かっていき、あっけなくかわされると「私は魔女じゃない」と泣きを入れる。原作では二つの台詞に間に美樹の死闘が描かれるのだ。だからこそ意味ある言葉なのに……
 この支離滅裂さ、プロの仕事とは思えない。
 そんなこんなで最後までこちらの胸に響いてくる台詞や描写は皆無。

 シナリオの破綻をかばうどころか助長しているのが演出だ。単に文字を映像に変換しただけ。俳優の芝居のシーンでは何の創意工夫もない。CGによるデビルマンに変身する前の中間形ともいうべき役者の顔や身体にメーキャップを施したスタイルがある。一瞬だったらそれなりに見られるのに、この姿で長い芝居をやられるとお笑いタレントがコントで扮したデビルマンみたいで情けないったらありゃしない。

 キャスティングにも問題がある。主役二人は言うに及ばず、宇崎夫妻が浮きまくっていた。浮気云々の会話シーンだけいい味だしていたが、映画に必要だったとは思えない。ボブ・サップやKONISHIKI、小林幸子のゲスト出演に何の意味があるのだろう?  第一ボブ・サップにニュースキャスターやらせるか? 何の脈絡もなく「デーモンバンザイ!」って叫びながら撃ち殺されるKONISHIKIって一体…… ベンツ(?)に乗った小林幸子がたまたま通りかかった貧相な家の事情なんてわかるはずもないだろうが。

 実写シーンとVFXシーンが最後まで乖離していた。タッチがまるで違うのだ。
 肝心のVFXが心ときめかせる出来ではなかったのも痛い。前半のシレーヌとの都市上空での空中戦など、そのスリル、疾走感、スペクタクル描写で映画屈指の名シーンになるはずだったのに、少しも興奮できなかった。
 登場人物の誰一人にも感情移入できるわけもなく、単にダラダラと進んでいく物語をある距離を置いてながめているだけ。観客との意志の疎通をこれほどまで拒絶する映画も珍しい。誉めようにも皆目見当たらない。
 いやあった。不動と飛鳥が言い争いをしている最中に、画面奥の町並みにミサイルが落ちて爆発するカット、デビルマンとサタンの最終決戦時の全裸の男女がうねりながらバベルの塔みたいなものを形成するカット。それから不動が手に持つ美樹の生首の造形。この3つのみ見ものではあるかな。

 昔、「さよならジュピター」という映画があった。小松左京が自ら制作会社を設立して原作と総監督の立場で製作に望んだかなりの期待作だったが出来上がった作品は無残だった。実際の演出を担当したのは東宝の新人監督なのだが、続いて監督したファン待望の「ゴジラ」のつまらなさで僕の思いはピークに達した。この監督、センスがないと。いわゆる特撮がらみのSFファンタジーにはまったく不向きな人だったのだ。
 同じことが那須監督にも言えるだろう。東映の超大作、場合によっては世界も狙える作品だからと箔をつけるためオファーを受けたのかもしれないが、できないことに手を染めるのは自分の経歴にミソをつけるだけだった。エンディングロールの最後で監督クレジットがフィックスされる。関係者試写の時、恥ずかしくはなかったのだろうか。せめて他のスタッフ名同様上にロールさせてしまえばよかったのに。僕だったら監督名だけ消してくれと懇願する。 
 いや、監督を叩くのはお門違いかもしれない。こんな酷い映画になってしまった責任は絶対プロデューサーにある。

 「デビルマン」映画化の企画意図はどこにあったのか。映像不可能といわれた傑作マンガ。永井豪は海外からのオファーを蹴って東映に映画化を託したのである。そんなビックプロジェクトに対してなぜ那須監督なのか。デビルマンの世界が那須監督にフィットするとは思えない。高校生の主役だから「ビー・バップ」の監督という発想なのか。まさかね。
 また、ヒットしたら続編を狙える。ドル箱になる可能性だって十分にある。だったら何も1作で原作すべてを使い切ることはないではないか。最初から3部作くらいに考えればいい。その方がストーリーも作りやすい。観客に対しても親切というものだ。 

 まずは〈デビルマン誕生編〉としてデビルマンの誕生に至る経緯を十分に描きながら、デーモン一族との戦いを初戦、二回戦、最終戦といった形で見せていく。被害者だった一般市民が疑心暗鬼になって自警団を結成、〈悪魔狩り〉と称して罪なき人々を襲っていく姿を交錯させる。人間の残虐ぶりを目の当たりにして、果たして自分が守るべき存在なのかどうか悩み、戸惑いながら大ボスを倒すエンディング。あくまでも映画として完結させながらいくつかの謎も残しておき、次回作に繋がる構成にしておく。原作のキャラクターや設定を基本だけ生かして映画用にアレンジするのも手だ。不動や飛鳥が高校生であったり、飛鳥が金髪である必要はない。原作の核さえ把握し押えておけば原作のファンは納得してくれると思う。特にマンガを実写化する場合は!

 この映画のロードショー初日、台風22号が東京を直撃した日、僕は新宿ロフトプラスワンにいた。通称ガンプラといわれる銃(銃撃戦)をメインにした自主映画の本選上映会があったのだ。シネマ愚連隊の「餓鬼ハンター」が目当てだったのだが、なかなかの力作が揃っていた。
 上映後、押井監督、樋口監督等々、錚々たるメンバーによる審査員による審査発表があったのだが、審査員の中に東宝および東映ビデオのプロデューサーもいて、東宝の方の挨拶がふるっていた。
「皆さん、いいんですか? 今日は『デビルマン』の初日ですよ! こんなところに来ている場合ではないでしょう、早く劇場に行かなきゃ……」
 あれはライバル会社に対する大いなる皮肉だったんだな。同じ1,800円ならロフトプラスワンで上映された自主作品の方が観る価値があったと今さらながら思う。本当にそう思う。
 感想を書いていて、怒りがわいてくる映画はそうそうないだろう。

     *

 仮に僕がプロデューサーだったら、まず平成仮面ライダーのスタッフ、キャストに声をかけますね。東映グループが結集しているのだから当然でしょう。
 シナリオは井上敏樹。監督はシリーズのメイン監督である長石多可男。配役は不動に須賀貴匡(「龍騎」の主役)、飛鳥には羽尾レイ(「アギト」の謎の青年)。この二人ならポジとネガの関係になるのではないか? 高校生ではなくもう少し上の青年にしたい。大学院生か。ある研究室で働く同僚とか。美樹も同様。美樹をめぐる三角関係、それにシレーヌをからませながら先述したストーリーを組み立てる……なんてね。




 今年のおもちゃショーで「サンダーバード」がCGで蘇ったことを知った。新番組は今秋からNHKで放送されるというので楽しみにしていた。
 一昨日の深夜、旧作がNHKで放送されたので、9月から新番組「サンダーバード ARE GO」が始まるのだと喜んで観ていたら、終わってからの告知ですでに第1話と第2話は放送されたことがわかった。15日と16日。知らんかったよ~。
 ということで、本日(22日)は、18時10分から第3話。
 スーパーマリオネットの旧作のあのテイストはCGと相性がいい。29日には旧作及び1&2話の総集編があるらしい。

 そういえば、11年前、アメリカで実写映画化されたのだった。で、思う。どうして2号のデザインはマイナーチェンジされるのか。今回も全体的に平べったくなっているんだよね。

     ◇

2004/08/15

 「サンダーバード」(日劇PLEX )  

 少年時代はウルトラマン等の日本製の特撮番組とともにイギリス製TVシリーズの「サンダーバード」にはまっていた。精密なミニチュアワークに心弾ませた。好きなメカはサンダーバード2号と4号、ジェットモグラ。特に2号はお気に入りでプラモデルをいくつも買ったものだ。しかし腹部のコンテナをチェンジする際にTV同様4本の足が伸縮するものはついに手に入れることができなかった。ほとんどのタイプは足がそのまま横に折り曲がるだけのもので、それが大いに不満だった。  
 「サンダーバード」については興味を「ウルトラマン」ほど現在まで引きずってはおらず、思い入れもそれほどではないものの、それでも実写映画化のニュースには歓喜した。
 ところが予告編第1弾の映像で一気に期待がしぼんでしまった。サンダーバード2号が変にマイナーチェンジされていたのだ。全面的に変更されているならまだ納得がいくのだが、全体のシルエットはそのままで細部がいじられていることが昔のファンとしては残念だった。  
 公開日が近づいてくるのに、それほど話題にならない。これはいったいどういうことだろう。決定的だったのは試写を観たという特撮好きな同僚の一言だった。
「いや~ホント、つまらない作品ですよ」  

 まったく期待せずに劇場に足を運んだ。お話はつまらなくても、せめてメカの本物ぶりをこの目で確認したかったのだ。TVシリーズのそれはどんなに精巧にできていたとしても所詮ミニチュアであることは歴然だった(当然だ、人形劇なんだから)。CGの威力で現代に蘇ったサンダーバードはそれなりに迫力あるのだろうと。

 オープニングのタイトルはオリジナルに敬意を表したのか、60年代を感じさせるイラスト風アニメ(「69」のタイトルバックとダブる)。出来そのものは素晴らしいのだが、TVシリーズの主題歌に乗せるのだったら、やはり実写(&VFX)で国際救助隊の活躍をみせるべきだろう。  
 タイトル後のエピソード(ロシア油田火災の救助)も前述のメカの本物ぶりもあって興奮もの。しかし後がいけない。何がいけないって主役であるはずの国際救助隊の活躍が全然描かれないのだ。コピーの〈次々と巻き起こる危機から人類を救うため、最新鋭のメカ≪サンダーバード≫で出動する"国際救助隊"の活躍を描く冒険活劇〉なんてどこにもない!  

 映画は悪役フット(ベン・キングスレー)の策略でピンチに陥った国際救助隊の面々(トレーシー一家)を、兄弟中まだ高校生だからとの理由で正式メンバーでない五男アランと仲間たちが機転をきかせて救うというもの。
 仲間たちはブレインズ博士の息子(映画オリジナルキャラクター)や料理番の娘ティンティン(TVシリーズのミンミン、でも子ども)、そしてペネロープと運転手のパーカー。見方を変えれば、「スパイキッズ」みたいな子どもたちが主役の冒険活劇で、それはそれで面白いものではある。あくまでもオリジナルを知らなければの話だが。  
 だいたい、敵にやられていいところもなく子どもに救われる国際救助隊の話を大きなスクリーンで観たいか?

 思えばTVシリーズは人形劇とはいえドラマが濃密だった。大人向けともいえるものだった。それは国際救助隊のメンバーの人物造形にもいえる。TVのそれはみな大人だった。理知的、沈着冷静、勇敢。だからこそ世界救助という活動をまかせられるに足る人物に感じられたのだ。それに比べて映画は皆若すぎる。父親からして若すぎる。日本語版でV6が吹き替えをする(それも父親までも)と聞いたときは、自分の耳を疑ったが、役者陣を見る限り妥当のキャスティングに思えた(鑑賞したのは字幕版だが)。

 少年心を揺さぶるメカニック描写、スリリングなドラマ展開。そこに国際救助隊メンバーの連携プレイが描かれてこそ「サンダーバード」の醍醐味があるのでないか。  
 往年のファンからするとメカニック描写のみ及第点(基地の全貌には快哉)、あとはもう……。
 いやそのメカも2号のほか、4号、ジェットモグラという僕が好きだったものがほとんどオリジナルのイメージを逸脱したデザインでがっかりだ。ほかのメカがほぼオリジナル通り(と思っているのは僕だけかも。あまり思い入れがないから些細な変更は気にならない)だというところから、もしかすると現代の科学というか工学、力学(?)に見合った設計ということなのか。まあ、確かにジェットモグラ的メカ(「ウルトラマン」のペルシダーとか、「ウルトラセブン」のマグマライザーとか)は実際にはありえないと聞いたことあるし。
 とにかく、オリジナル熱中世代には期待はずれに終わった作品であった。公開前に話題にならなかった要因がわかった次第。

 【追記】
 
 ブレインズに扮していた役者を見ながら、なぜか心にひっかかるものを感じてモヤモヤしていた。途中で気づいた。「ER」の主人公、グリーン先生(アンソニー・エドワーズ)だったのだ。髪があるんだもん、わからないよ。聞くところによると、「ER」の最新シリーズでついにグリーン先生降板だとか。それも脳腫瘍の悪化で死去。グリーン先生降板時が番組終了時だと思っていたのに。  
 TVシリーズではミンミンなのになぜ劇場版ではティンティンなのか。実はTV版も本当はティンティンだったのだ。日本語版で変更したらしい。

     ◇

 【追記の追記】

 昔はティンティンなんて表記(発音)はなかった。文字にすればチンチン。そりゃ変更になるわな。




 大学の映画研究会に所属する部員たちの撮影をめぐるドタバタを描く「Eiken Boogie 涙のリターンマッチ」(脚本・監督 中村公彦)が公開されるにあたって、シネりんの飲食担当マスター、本職はフリーの映画プロデューサーであるKさんが〈勝手に応援するパーティー〉を開催したことはすでに書いた。7月23日(木)の竹林閣。
 まあ、シネりん・もうひとつイベントといった感じだった。

 僕自身、大学では映研ではなかったが、8㎜映画制作のサークルに所属していたので、この映画には興味があった。
 ちなみに高校の映画サークルを舞台にした「桐島、部活やめるってよ」はまだ観ていない。小説も読んでいない。体調…精神状態がおかしい時期だったのでパスしたまま今に至っている。DVDになったのだから、早く観ようと思いつつ、そのままになっている。

 そんなわけで、イベント終了後前売券を買った。単館(シネマート新宿)ロードショーで、なかつ上映も終日ではないということはわかっていた。が、まさか、夜の上映がないなんてこのときは知らなかった。
 初日は出演者の挨拶があるため、専用のチケット(ぴあで販売)が必要と聞いていた。翌日曜は用事があって行けなかった。平日に観ればいいやと月曜に時間を調べると、なんと16時30分からの上映。あわてて劇場に電話した。次の土日も上映していますか? 「していますよ、時間は水曜にHPにUPされる」とのこと。

 水曜日になってHPを確認すると、土曜の上映はなかった。日曜はまた出演者の挨拶がある。あわてて劇場に電話した。挨拶があるということは、また専用のチケットが必要なのでは? やはりそうだった。

 土日は出演者挨拶で特別のチケットが必要だから前売券が使えない。平日は16時台の上映しかないから映画が観られない。この映画の売りはイケメンの俳優たちで、若い女の子にはけっこう人気があるらしい。
 いい歳した大人は観なくていいってか!
 仕方ない、平日、午後休をとって観にいくか。なんて思ったら、その週は忙しくて休んでなんていられなかった。

 もう自分で行くのは諦めた。シネりん代表代行のIさんに「愛を積むひと」の前売券をもらったお礼に差し上げていいのだがもう1日しか残っていない。それも日に1回しか、それも16時台の上映しかないのだから主婦には無理だろう。
前売券を無駄にしてしまうのか。
 シネりんのいつも試写会に誘ってくれるもう一人のKさんの顔が浮かんだ。自営のKさんなら大丈夫かも。電話して経緯を話したらら「行く」とのこと。その夜、うちまで前売券を取りにきてくれた。さすが東京をクルマで飛び回っている人だ。
実際にKさんが観に行ったかどうかはどうでもいい。僕が前売券を無駄にしなかったというのが重要なのである。




 ゴジラとモスラとメカゴジラの競演。どうせならキングギドラも出演させればよかったのに。そんな皮肉を言いたくなる。
 これまでモスラやメカゴジラが出演するゴジラ映画はヒットしたから、その路線を狙ったのだろう。前作は評判もよかったし。ところが期待したほどの興行成績をあげられなかった。そりゃそうだろう、いい加減ファンは飽きたんだよ、いくらなんでも。
 で、次の50周年記念の作品が〈東宝チャンピオンまつり〉のゴジラ映画への方向転換だ。
 もう完全にシリーズがブレまくっている。
 
 樋口・庵野コンビによる新作ゴジラはどうなるのか。「進撃の巨人」を観るかぎりではけっこう期待できるのでは、と個人的には思っている。ゴジラより餓夷羅の方がいいんのだけど。

     ◇

2003/12/13

 「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」(日劇PLEX)  

 メカゴジラ嫌いの特撮ロートルファンとしては、新作が『ゴジラ×メカゴジラ』の続編と聞いてまずタメ息がでた。モスラの再々々(?)登場にうんざりして、タイトルの「東京SOS」にほとんどげんなりとなった。  
 前作「ゴジラ×メカゴジラ」は「ミレニアム」以降のシリーズ同様ゴジラ第1作のストーリーを引き継いだ単独編だったが、ゴジラシリーズ以外の怪獣が日本を襲ったという世界観でも成りたっていた。モスラやガイラも実在する世界なのである。
 
 今回は前作の続編にモスラをからませ、何と映画「モスラ」の主役だった中條博士が登場するという。映画『モスラ』の後日談的要素を持つ。ということは「モスラ対ゴジラ」にメカゴジラ(機龍)をからませたわけか。
 
 ゴジラシリーズは伝統があり、なおかつかつてのファンにも支えられていることもあって、ある種サービスのつもりで昔の映画のキャラクターや俳優を登場させるが(それがまた話題になるのだが)、いい加減やめたらどうか。過去の名作、傑作に対する冒涜でしかない。子どものころ夢見た世界、自分の中で完結した世界をこわさないでほしいのだ。  

 前作では機龍に組み込まれた〈ゴジラの骨〉の存在がファンに不評だった。僕はそれほど気にならなかった。つまり第1作のゴジラと「ゴジラ×メカゴジラ」における1954年に上陸したゴジラとは別物という認識なのだ。  
 たとえば、「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」は「フランケンシュタイン対地底怪獣」の続編的意味合いがあるものの、実際はリンクしていない。  
 同様に「ミレニアム」以降のシリーズで描かれるゴジラ最初の日本上陸(1954年の物語)はそれぞれの作品における設定であるだけで、第1作「ゴジラ」ではない、というのが個人的な考えなのである。前作に登場する初代ゴジラは最初で最後の武器によって抹殺されたが骨は海底に沈んでいたのだろう。だからどう描かれようと第1作「ゴジラ」の世界にゆるぎはない。まあ、僕だけの勝手な思い込みといえばそれまでだけど。
 
 前作の回想で登場したモスラとガイラも過去のライブフィルムが使用されているとはいえ、考え方はまったく同じ。あくまでもモスラやガイラという怪獣だけがリンクするだけで、物語世界まで侵食しない。今の若い人がモスラやガイラに興味を持って、ビデオで観直し「こういう物語なんだ!」と感動してもらえればうれしいが。  
 ところが本作でモスラが登場するとなると話は別だ。当然ストーリーは映画「モスラ」の続編となる。主人公は中條博士の甥(特生自衛隊整備士)で、映画「モスラ」に引き続き中條博士自身も再登場する。過去と今を結ぶためつじつま合わせにきゅうきゅうとなる展開は十分予想できる。こういうのはファンサービスとはいわない。  
 もしゴジラとモスラを戦わせたいのなら、「モスラ対ゴジラ」を本当の意味でリメイクすべきなのだ。
 シナリオに横谷昌宏が加わっていることに期待が持てるものの、今度こそゴジラを見捨てるときがきたかとも思った。  

 物語は「ゴジラ×メカゴジラ」の1年後が舞台。ゴジラとの戦いで損傷した特生自衛隊の機龍(メカゴジラ)の修復をめぐって、神の領域を侵す武器は今すぐ廃棄してほしいと要請してくる小美人(モスラ)、ゴジラ再襲撃に備えて武器は必要と主張する政府にはさまれて苦悩する中條博士(小泉博)&甥(金子昇)が描かれる。

 太平洋上に出現したゴジラは機龍に呼び寄せられるかのように一路日本に向かい、東京を襲撃。そこにモスラ成虫が飛来し、激闘が繰り広げられる。小笠原諸島の某島でモスラの二匹の幼虫が生まれ、やがて親モスラに合流するが、親モスラはゴジラの熱線を浴び、死滅。政府は機龍出撃の決断をくだす……。  

 この映画、さまざまなテーマが詰め込まれすぎている。もうちょっと焦点を絞れば傑作になりえたかもしれないと残念に思う。  
 「機龍を廃棄したら(ゴジラの襲撃に対して)モスラが日本を守る」という小美人のメッセージから予想できる展開。「ガメラ2」の時、朝日新聞のバカな記事に反発した自分がいうのもおかしいが、これって国防・軍備をめぐる日本とアメリカの関係にまんまあてはまる。たかが映画なんだからそこまで追求しなくても、ゴジラに対して誰が国を守るのかという問題に機龍出動を推進したい政府と反対する野党(マスコミ・知識人)の攻防が描ける。これは前作でないがしろにされた点でもあった。
 
 「ゴジラ×メカゴジラ」の続編を謳うのであれば、前作のラストから考えて主人公は女性パイロット茜(釈由美子)が再登場しなければおかしいではないか。引き分け(悠然と海に帰っていったのだからどうみたってゴジラが勝ったとしか思えないのだが)なら、もう一度戦いたいと思うのは当然だろう。
 にもかかわらず、間単に米国留学なんて設定になっている。釈由美子側のスケジュール問題だろうか(「スカイ・ハイ」と撮影時期が重なった?)。最初から女性ではなく男性を主人公にと考えたのなら、吉岡美穂の先輩に釈由美子を置くべきだろう。
 とはいいながら整備士を主人公に持ってきたのは悪くない。しかし金子昇には任が重すぎたと思う。機械を誰よりも愛する、ある意味〈メカおたく〉の中條はやはりそれなりに演技力のある若手俳優を起用すべきだ。この整備士と整備からパイロットになった女性パイロット(それにしても吉岡美穂はパイロットに見えなかった)およびゴジラ撃退に命を賭けるタカ派の男性パイロットとの関係も深く描けるだろう。個人的にはこの3人の関係をもっと見たかった。前線部隊(パイロット)と後方部隊の協調関係、整備の仕事がどういうものか、具体的な描写もほしかった。

 手塚監督は過去のいいと思った描写は臆面もなく自作に取り入れる人だ。冒頭のモスラと空自のジェット機のシーンは「ガメラ3」そのままだし、東京湾に出現するカットは「怪獣総攻撃」(もとはUSゴジラ)。とても素直な性格なのだろう。
 モスラの造形、その飛翔シーン、幼虫の動き、口から吐く糸等、オリジナルに忠実になって好感を持った。ただし、基本であるインファント島がでてこないのは何故か。原住民など出せるわけがない。昔ながらの設定でモスラが存在するなんてことは今では通用しないことがよくわかる。
 にもかかわらず「モスラ対ゴジラ」のストーリーをなぞるように、小笠原諸島でモスラの卵を孵化させ(台詞で理由を説明しているが)、それが双子の幼虫だったり、ゴジラに倒されて海岸に漂着する謎の巨大生物がカメーバだったりと、マニアぶりを発揮するのはどうなのだろう。まあカメーバのシーンはリアルだったし、その名称についてのパイロットが突っ込む台詞には笑ったけれど。  

 いろいろ不満はあるものの、全体の印象として、とにかく夢中になってスクリーンを見つめていた、わくわくする興奮があったという点で、手塚監督の3作の中で一番気に入ってしまった。
 まずゴジラの襲撃~モスラや機龍との攻防戦を、夜をはさんだわずか二日間に限定した構成がいい(これも「ガメラ2」の影響だろうか)。朝陽が機龍の目に反射し、それまで目立たなかった赤のラインが強調されたところにぐっと来るものがあった。この描写でその後の〈そんなバカな〉的展開に拒否反応が起きなかった。それよりも機龍内にとり残された中條の、脱出できるかできないかにかなり興奮した。
 ゴジラシリーズでこういう感覚になったのは久しぶりのことだ。このシークエンスにはよく考えればおかしなこと(描写)はあるのだが、そんなことはこれまでのゴジラ映画では当たり前になっていることだし、とにかく気にならなかった。
 大きな声ではいえないが、中條博士の孫(男の子)がゴジラ上陸で誰もいなくなった小学校の校庭で、一人もくもくと机を運んでいるくだりで、すぐに何をしているかわかってウルウルきてしまった。そういえば前作では少女とヒロインの会話に背中がムズムズしえ仕方なかったのに、本作の少年と主人公の会話は素直に聴いていられた。
 前半部分の空自や海自がゴジラ探索や攻撃に活躍するシーンは大味ではあったが、これまで観てみたいシーンだったのだ。国会議事堂の崩壊も力が入っていた。  
 大島ミチルの音楽も堂々たるものだ。

 来年はゴジラ生誕50周年の記念すべき年だという。だからといって安易に記念映画を作ってほしくない。今度こそ、過去のシリーズの呪縛、第1作とは切り離し、今なぜこの時代にゴジラが出現するのか、出現したら日本はどうなるのか、人々はどう反応するのか、リアルに、具体的に描いてもらいたい。ゴジラがいて、敵役怪獣がいてバトルを繰り広げるという展開にはほとほと飽きた。

 最近つくづく思うこと。
 僕は怪獣の登場する映画は大好きだが、怪獣ファンではない。

     ◇

2004/12/04

 「ゴジラ FINAL WAR」(日劇PLEX)

 上映までの時間つぶしに入ったカフェのカウンターで、隣に座った60歳前後のおじさんがこの映画を観てきた帰りだと知った。財布からチケットの半券をとりだしてこちらの顔を意識しながら何やらぶつぶつ言っている。別に話したくもなかったけれど声かけないと申し訳ない状況だった。
「映画、どうでしたか?」
「いや~、面白かったよ、怪獣が何匹も出てきてさあ、すごい迫力なんだ」
「毎年、ゴジラ映画をご覧になるんですか?」
「観るよ」
「これまでの作品と比べていかがですか、今回の作品」
「この前、前作がTVで放映されたけれど、今回の観たら、かすんじゃうよね。すごい作品だよ、今度のは!」
 おじさんは携帯にメールが入ってあわてて出ていった。興奮気味の感想を聞いても僕の中にあるモヤモヤは晴れなかった。

 ゴジラ生誕50周年記念かつシリーズ最終作としてこの映画が発表された時からこれっぽっちも期待なんかしていなかった。なぜなら僕が怪獣映画、とりわけゴジラ映画で一番観たくない要素がテンコ盛りなのだ。

 子どもの頃、父に連れられて観る怪獣映画に必ず感動していた。そんな僕がエンドタイトルが出ても何の感慨もわかなかったのが「怪獣大戦争」だった。X星人に操られたキングギドラにゴジラとラドンが戦いを挑み、見事撃破する物語なのだが、前年に公開された「地球最大の決戦」と同じような話なのが気になった。前作に登場して人間の敵だったゴジラとラドンをとりあえず仲間にしてキングギドラと戦うモスラ(&小美人)の存在が無視されたことも許せなかった。「シェー」をして観客に媚びるゴジラなんてもってのほかだ。

 理由はいくつもあるものの、根本的な要因はゴジラ映画に宇宙人が登場する設定だったと思う。怪獣という土着的な生物に宇宙人や円盤は似合わなかった。スクリーンに人間体の宇宙人や円盤がでてくるととたんに白けてしまう。特にゴジラ映画に対してその思いが強かった。だいたい三大怪獣がタッグを組んでも倒せない圧倒的な存在感を見せつけてくれたキングギドラがX星人の手先になっている姿なんて見たくない。

 ゴジラはこのあと「南海の大決闘」で主人公側の人間に「あいつも悪い奴じゃないからな」とお墨付きをもらってから、一気にアイドル化していく。
 「ゴジラの息子」でミニラが登場したのには頭を抱えた。「オール怪獣大進撃」では主人公の少年と等身大のミニラが会話を交わし、必要に応じて巨大化したりする。子どものためを考えて大人が作った映画に対して当の子どもが面白いと喜ぶはずがない。確かに大学生になってオールナイトで観た「ゴジラの息子」は動物映画の観点からすればなかなかの出来だった。駄作だと決めつけていた「オール怪獣大進撃」も親になってみればその価値がわかってくる。
 しかし、だからといってゴジラシリーズでその手の映画を認めるかというと断じて「NO!」と叫びたい。ゴジラがゴジラらしく、怪獣が怪獣らしかった昭和30年代から40年代にかけて公開された作品(リバイバルを含めて)に触れた少年時代の目を失うことはできないのだ。

 昭和40年代半ば、日本映画の斜陽が叫ばれ、特撮怪獣映画はアイディア的にもビジュアル的にも衰退期に入っていた。そうした状況下で製作されたのが、これまでの怪獣たちを一挙に登場させた「怪獣総進撃」だ。ゴジラを頂点とした怪獣たちが地球征服を狙う宇宙人が操るキングギドラと戦う怪獣映画総決算とでもいうべきもの。
 後に知ったことだが、東宝はこの映画でゴジラシリーズに終止符を打つ予定だったという。ところがこれが予想以上の大ヒットになって、新たに「ゴジラ対ヘドラ」以後の人間の味方になった低年齢層向けゴジラシリーズを量産していくことになるのである。

 「怪獣総進撃」はお馴染みの怪獣たちがこれでもかというくらいスクリーンに登場してきて喝采を送った覚えがある。しかし内容からすると併映の「海底軍艦」(リバイバル)の方が数段面白かった。怪獣たちが太平洋の某島に集められて人間に飼育されている設定(なぜかそこにはインファント島の守り神であるモスラもいるのだ)、キラアク星人に操られるキングギドラの存在(それも撮影で使いまわしされた着ぐるみの状態が悪く、かつての精彩が全然感じられないシロモノ)、怪獣たちが手を組んで敵と戦う構図、ゴジラとミニラが同ショットに写り込む嫌悪感……

 「怪獣大戦争」のプロットに「怪獣総進撃」のケレンを加えたような「ゴジラ FINAL WARS」が歓迎できない映画であることがわかるだろう。特にこの数年着ぐるみ怪獣の肉弾戦に辟易している者としては怪獣が十数体も登場してくると知ってのけぞった。怪獣を出せばいいってものでもないだろう。
 モスラ、アンギラス、ラドン、マンダ、エビラ、ミニラ、クモンガ、カマキラス、ヘドラ、ガイガン、キングシーサー……。
 まず選出基準がわからない。ヘドラやキングシーサーなんて、映画のテーマと関わってくるので再登場なんて考えられない。第1作以外なかったことによって構築された平成、新世紀シリーズでなぜにミニラなのか? モスラがまたまた登場である。単なる端役なら出る意味がないのに。

 前述の映画以外にも主要メカにゴジラとは関係ない世界観で成り立つ轟天号(「海底軍艦」)を登場させる始末。過去の遺産だけで組み立てられたストーリーは唖然呆然の噴飯もので、おまけに主人公コンビにTOKIOの松岡昌宏と菊川怜。あくまでも個人的にだが、どちらもこちらの生理を逆なでさせるタレント(それでも松岡の演技力は買っていますが)で文句を言う気力もなくなった。
 こうなれば、ゴジラ映画、怪獣映画に対する熱い思い入れはきれいさっぱり捨て去り、単なる一観客として北村監督の見世物興行を甘受するしかない。期待はX星人に扮する北村一輝の怪演ぶりだけ。
 果たして北村ワールドを楽しむことができるのか、否か。

 近未来。過去何度も出現しては人類を恐怖に陥れた怪獣を迎撃するため地球防衛軍が組織された。防衛軍の中で特に異彩を放つのが特殊能力を持つミュータントたちが所属する特殊部隊〈M機関〉である。その一人が松岡昌宏であり、彼が護衛するのが南極で発見された怪獣のミイラの研究で国連から派遣された女科学者の菊川怜。
 突然全世界に怪獣が出現した。あまりの数に防衛軍は苦戦する。そこにX星人(伊部雅刀&北村一輝)が現れ、たちどころに怪獣たちを消し去った。彼らは地球人と手を結ぶことを申し出る。世界はその提案を受け入れるが、実はこれこそが彼らの罠だったのだ。松岡たちの活躍により正体を見破られたX星人は消し去った怪獣を再び全世界に出現させ、人類に降伏を迫るのだった。絶体絶命の危機の中、轟天号の破天荒艦長ドン・フライは南極に眠るゴジラを復活させ、X星人の野望に敢然と立ち向かうのだった……

 案の定ストーリーにオリジナリティーの欠片も感じられなかった。底は浅いし、奥行きもない。
 21世紀の時代にX星人のネーミングもないもんだと(同じことは轟天号にいえる。思い入れとは別に)、あまりのベタな設定や展開のオンパレードでお話そのものには最後までノレなかった。
 時間や距離の概念が皆無。伏線もディティール描写もあったものではない。結局ゴジラ以外の怪獣はあくまでも引き立て役でしかなく、単なる記号的存在。懸念していたモスラ(&小美人)の登場もまったく意味のない扱い。すべては北村監督お得意のテンポいい(良すぎる?)展開のために犠牲になった感がする。

 ではつまらなかったというと、これが不思議とそうではない。たまにバカ笑いしながら、最後まで飽きることなく観ていられた。バカ映画を楽しむ感覚とでもいうのだろうか。
 松岡とケイン・コスギの格闘演習、バイクチェイス、エビラとM機関とのバトルにはけっこう興奮させられた。やはりアクション描写で名を馳せた監督のことだけはある。アクションを魅せるカッティングには才を感じた。バイクチェイスのシーンなんて平成仮面ライダーで見せてくれたら最高なのに……。

 北村一輝も期待どおりの演技だった。もともと日本のホアキン・フェニックスとして注目していた俳優だが、今回はまるで「フィフスエレメント」のゲーリー・オールドマン。映画の陰の主役は彼だった。
 菊川怜や水野真紀のおみ足をやけに強調したサービスカットもいい(が、すでに金子監督が「ガメラ2」の水野美紀でやっているよね)。
 しかしそのほかはもう古色蒼然といった感じ。轟天号や円盤内のセットなんて昔の特撮映画そのものだし、演出にも何の新鮮味もない。
 全編どこかの映画で見た映像で、普通なら怒りがわいてくるはずなのだが、バカ映画だとその徹底した模倣を逆に感心し許せてしまう。ホント、人間の感情って不思議ですね。

 冒頭で旧轟天号とゴジラの戦いがあったはずなのに、その後ゴジラ映画を観ていることをすっかり失念していた。
 このままミュータント戦士とX星人と怪獣のバカ話で終わってもいいのでは? 格闘技のことは知らないけどK1の選手だという轟天号の艦長、けっこう演技が上手いじゃないですか。よくない? やはり主役はゴジラですか。嗚呼!

今度のゴジラの造形、その顔にははなはだ違和感がある。まるで鼠なのである。俊敏に動き回るという設定だからモデルが鼠なのか?
 後半ゴジラが復活して、怪獣たちとのバトルを繰り広げる。北村監督によるとこれまでのゴジラ映画とは違うスピーディーなバトル、今まで見たことがない〈怪獣バーリートゥード〉を見せるとその意図を語っていた。期待しないといいながら、実はそのバーリー何とかかんとかがどんなものか、着ぐるみ肉弾戦にうんざりしているロートルファンの、それこそ目から鱗が落ちる状態にさせてもらえたら、怪獣バトルにわずかな光明を見出せたらなんて考えていたのだが、何のことはない、単なる怪獣の擬人化プロレスだった。

 基本である怪獣の巨大さを見せる気はさらさらない。ハリウッド製の「GODZILLA」にはいろいろ文句をつけたいところはあるけれど巨大感だけは突出していたではないか(新作の「スカイ・キャプテン」でもニューヨークに出現した巨大ロボットの撮り方には工夫が施されていた)。なぜこういうところも模倣しないのだろうか。
 山中の平原におけるゴジラとキングシーサー、アンギラス、ラドンのバトル。対峙するゴジラとキングシーサーのショットで、レールを使用した移動撮影を行っているが、人間の視線で地面すれすれで捉えているのはいいとして、ゴジラの真横から一気にキングシーザーの真横まで移動してしまうのはあまりに安易すぎる。仮に間が500mあるとして、そんな早く移動できるものか。しょせんミニチュアセットの着ぐるみなのだ。それがクライマックスになるにつれ顕著になっていく。どこにカメラを設置したのか理解不能の中継映像も健在だった。

 1970年代完全に子ども向けに制作されたゴジラシリーズで観て育った世代が考える理想の怪獣映画がこれなのか。特撮の世代差を痛感させられた。
 「ゴジラ対ヘドラ」では放射能火炎を吐きながら後ろ向きに空飛ぶゴジラ。「ゴジラ対ガイガン」ではマンガの吹き出しを使ってアンギラスと会話するゴジラ。いくら特撮、怪獣好きでも中学生になると低年齢志向のゴジラに興味はなくなっていった。それでも後年ビデオで観てはいるのだが、1作だけ封印している作品がある。何の説明もなく等身大から巨大化するジェットジャガーというロボットが登場する「ゴジラ対メガロ」だ。
 よりによってこの一番観たくない要素を今回一番登場してもらいたくなかったミニラに流用してしまうとは……。事前に知っていたからよかったが、そうでなかったらラストで椅子から滑り落ちていただろう。

 北村監督の怪獣映画に対する思い入れのなさを嘆いても仕方ない。北村監督なりのゴジラ映画を構築しただけだろう。要はプロデュースサイド(東宝)の問題なのだ。
 東宝にはゴジラシリーズに対する明確なコンセプトというものがないのだろうか。

 1984年に復活した際の仕切り直しとは何だったのか。「ゴジラvsスペースゴジラ」では主要キャラクターの柄本明に「あいつも悪い奴じゃないから」と言わせる感覚。「南海の大決闘」と同じ台詞が平成シリーズに出てくるとは思わなかった。そういや同作にはリトルゴジラなんていうかわいらしいゴジラの息子くんが登場してましたっけ。昭和シリーズ後期の堕落からの脱却を目指して出発したはずなのに結局同じ轍を踏むはめになった。
 再度仕切り直ししたミレニアム以降の作品でも、結局過去の遺産に寄りかかってばかりいる。

 受ければいいのか? 観客が動員できれば何やっても許されるのか?
 「ゴジラ FINAL WARS」はあくまでもゴジラシリーズの中の異色作の位置付けだろう。だったら許せる。昔みたいに尖がっていないから、どんなゴジラ映画があってもいいと思う。ただしそんな映画に50周年記念なんて冠をつけたり、最終作だなんて宣言してほしくない。

 これまで脚本家や監督の人選であれこれ言っていたけれど、もしかするとゴジラ映画に本当に必要なのは真のプロデューサーなのかもしれない。

     ◇



2015/08/15

 「立川談四楼独演会 第201回」(北澤八幡神社 参集殿)

 早めに下北沢に着いてしまった。いつもなら駅前のマクドナルドで時間をつぶすのだが、コンビニでお茶を買って会場で読書という手もいいだろうとそのまま神社へ。

 入口前に10人弱の列ができていた。列に並ぶのもなんなので、参集殿の入口に何枚かの写真が飾ってあって、近よって見てみた。
 柄本祐と安藤サクラの結婚写真。柄本家(柄本明・角替和枝)と奥田家(奥田瑛二・安藤和津)の集合写真である。北澤八幡で結婚したことは、前回、廊下に飾ってあった写真で知った。けっこうミーハーな神社なんだな。
 もう1枚は、芥川賞作家、又吉直樹の参拝の写真。と思ったら、ピースの二人と西岡徳馬のスリーショットもあった。何かの番組の取材だろうか。

 開場となって、窓際の前から3/4のところに座った。

  立川仮面女子 「つる」
  立川だん子  「たらちね」
  立川寸志   「幇間(たいこ)腹」
  立川談四楼  「もう半分」

   〈仲入り〉

  綾乃テン   人形遣い
  立川談四楼  「一回こっくり」

 立川仮面女子とは何ぞや?
 真打となったこしら師匠の一番弟子である。今年の国立演芸場の立川流落語会。談四楼師匠がトリの回の打ち上げのお店で、確か師匠やおかみさんに挨拶にきていたような。芸名の由来をマクラで説明していて大受けだったが、すでに師匠のツイッターで知っていた。
 こしら師匠がヤオフクにネーミングライツを売り出して、秋葉原の地下アイドルグループ、仮面女子が25万1千円で落札した。落札金はどうするのかとこしら師匠に訊いたところ、全部自分のものだと言われたので、千円だけくださいとお願いしたら、「いいだろう」とのこと。
「まだもらっていませんが」
 で、仮面女子さんの第一印象……もみあげが長すぎる! 

 だん子さん、ほんと、どんどん上達している。独特の声、リズムだけど。
 
 寸志さん、あれっ 二つ目になったら独演会卒業ではないのか? 前回は二つ目お披露目だった。今回は? いや、出演と知って、うれしくてたまらなかったんですけどね。

 「もう半分」。
 すでに書いているが、苦手な演目だ。かみさんのキャラクターがとんでもなくて好きになれない。老人の飲みっぷりと、ラストのグロさを頭の中で映像にすることを楽しみにしている。今回をそれに加えて、老人に笹野高史をダブらせていた。

 ゲストは人形遣いの綾乃テンさん。前々回だったか、お客さんとして来ていて、カメラマンのスズキマサミさんに紹介されて少ししゃべった。そのパフォーマンスは、師匠がプログラムに書いている〈妖艶〉そのもの。惜しむらくは、ライブ時に会場の灯りを消して、舞台のみ照明が当たっていたなら、妖艶さはより増していたのではないか。九尾の狐を題材にしていて、とてもわかりやすかった。選曲も素晴らしい。僕の琴線に触れたというべきか。

 「一回こっくり」。
 「ぼんぼん唄」とともに夏の定番ですね。人情噺で泣くことはない(ウルウルすることはあるが)と言っていたが、今回は涙がひとすじ流れた。
 最近、涙腺が完全に脆くなったことがある。もうひとつの理由として、昼間に「日本のいちばん長い日」を観たことが挙げられる。阿南陸相が戦死した息子を想う姿を思い出したのだ。




 「ジュラシック・ワールド」を観る会は20日に開催することになった。
 TOHOシネマズ新宿、19時30分の回。3D上映。
 参加したい人、この指とまれ!

     ◇

2002/12/21

 「ゴジラ×メカゴジラ」(日劇2)  

 前作「怪獣総攻撃」がモスラとキングギドラ、そして今回メカゴジラ。前シリーズも「vsキングギドラ」、「vsモスラ」、「vsメカゴジラ」と続いた。ゴジラの相手役はこの3匹(?)しかいないのか。平成シリーズで、この3匹が登場すると興行成績が良かったからなのだろうが、もううんざりだ。
 
 特にメカゴジラはなあ……。僕は昭和のゴジラシリーズ末期に登場し、それなりに人気を呼んだこのメカ怪獣との相性が悪い。  
 「キングコングの逆襲」に登場したメカニコングが大好きだったにもかかわらず、メカゴジラの、フォルムも存在意義も好きになれなかった。
 ゴジラ映画にロボット怪獣が登場することに違和感がある。特に昭和シリーズの後半、定番になってしまった宇宙人(敵)に操られて暴れる怪獣には興味がない。怪獣も自然の一部。怪獣映画、特にゴジラシリーズに対してそんな思いがあるからだ。  

 平成シリーズで蘇ったメカゴジラは、かつてのファンには評判が悪かったようだが、逆に僕は気に入った。造型自体昭和のそれよりいいと思っているが、そんなことはどうでもよかった。対ゴジラ兵器という存在が新鮮だった。何度も書いているように、僕はもう着ぐるみ然とした怪獣同士の肉弾戦にほとほと愛想がつきている。怪獣映画に求めるのは怪獣出現の恐怖、人間対怪獣の攻防、そのスペクタクル、サスペンスである。
 「ゴジラVSメカゴジラ」には対ゴジラ兵器のメカゴジラを使って、どう人間がゴジラに戦いを挑むのか、どんな作戦を展開させるのか、という点に大いに期待して、それはある程度満たされた。
 
 とはいえ、人間が対ゴジラ兵器としてメカゴジラを作り出すというのは設定上無理がある。いや、どう考えてもおかしい。  
 相手は最新兵器をものともしない超生命体なのだ。そんな怪獣を倒すための兵器が二足歩行のロボットなんて、安定性が悪くてしょうがない。肉弾戦になって倒れたらもうそれでおしまいだ。ゴジラに似せたフォルムも戦闘にまったく意味をなさない。そんな兵器製造を政府が認めるはずがないではないか。
 
 好きじゃないといいながらこう書くのも変なのだが、昭和のメカゴジラこそ、その存在意義が理にかなっている。宇宙人が地球征服のため、地球人を欺こうと偽ゴジラを作り出す。見た目は本物と変わらない。しかし、〈正義の怪獣〉ゴジラと対峙しその皮膚がはがされるやメタリックのボディを持つメカゴジラが現れるというもの。宇宙人が作るとか、あるいはマッドサイエンティストとか、とにかく悪側の人物がその製造過程に関与していなければメカゴジラって存在しないと思うのだ。  
 まあ、最初にメカゴジラありきの映画にマジに反論しても仕方ないのだが。  

 メカゴジラに対して複雑な思いのある僕であるが最新作「ゴジラ×メカゴジラ」はかなりの面白さであった。興奮した。手塚監督は、前作「ゴジラVSメガギラス G消滅作戦」」の何が悪かったかを十分反省、検討して本作に取りかかったとおぼしい。  

 1954年に日本に上陸して猛威を振るったゴジラ以降、生態系の崩れによるたび重なる巨大生物の来襲を経て、陸海空のほかに対特殊生物自衛隊が組織された架空の世界。
 1999年に再び上陸したゴジラに対して、迎撃する特生自衛隊だがまったく歯がたたない。そこで2003年、日本の第一線で活躍する科学者の頭脳を結集して対ゴジラ兵器〈機龍〉を開発。そこに三たび、ゴジラが上陸してくる。機龍を遠隔操縦するのが、本映画のヒロイン(釈由美子)だ。  
 メカゴジラはあくまでも科学者(宅麻伸)の娘(小野寺華那)が命名した愛称であり、劇中の正式名称は機龍(MFS-3)というのがいかに自衛隊らしくていい。54年にオキシジェン・デストロイヤーによって海の藻屑と消えたゴジラの骨から採取したDNAとそのフォルムから開発され、ゴジラ迎撃には最も適していると政府高官に言わせているが、どう贔屓めにみてもそうは見えない(しつこいねオレも)。

 とにかくこの映画、オープニング(1999年の攻防)が最高である。特生自衛隊の誇るメーサー車が最初にスクリーンに登場するシーンのカット割りにしびれた。
 全体的には、役者、スタッフ、映像すべてにおいて平成ガメラ、平成ウルトラマン、新世紀仮面ライダーを取り込んだという印象。
 「これは演習ではない」の台詞、夕陽をバックにした機龍。ジェット噴射で上空から緊急着陸する機龍。その着陸でゴジラをなぎ倒し看護婦と少女の命を救うところなんてまさしくウルトラマンだ。
 特撮シーンもゴジラと機龍のバトルでたまに中途半端なアングルが見られるものの総じて出来がいい。
 釈由美子もTVのイメージを払拭する演技でヒロイン像を作り出した。
 俳優陣の中では文部科学省事務次官を演じた加納幸和が印象深い。
 余談だが、ヒロインの上司、〈機龍隊〉隊長役の高杉亘を見ると、僕はどうしてもタッパの高い硬派のナンチャンを想像してしまう。

 今回、大島ミチルの音楽だけで押し切ったのは評価したい。これまで他の音楽家が担当してもどこかで御大・伊福部昭のゴジラテーマを流すのが当然のようになっていて、往年のファンもそれを期待している。僕もそうだったのだが、この数年で考えを変えた。その理由は「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」で書いているのでここでは省略する。
 大島ミチルが「×メガギラス」以上のゴジラテーマを書いているのは言うまでもない。
 メカゴジラの造型は「VSメカゴジラ」のそれとそれほどの違いはないが、目の下にある赤いラインが戦いの中でまるで血の涙のように見えるの不思議。

 昨年の「大怪獣総攻撃」ほどではないが、映画の出来に満足した。が、気になるのはシナリオだ。
 特生自衛隊の女隊員がヒロイン一人というのはどんなものか。まるで「宇宙戦艦ヤマト」の乗組員みたいでリアルさに欠ける。
 ハム太郎との併映ということで、孤独なヒロインと科学者の小学生になる娘との交流が描かれたのだろうが、そのやりとりが気恥ずかしくてたまらなかった。意図するところはわかるのだけれど、思わず照れて下を向いてしまう。
 54年にオキシジェン・デストロイヤーによって葬られたゴジラの骨を機龍製造にために最近になって採取したというが、近海に眠るゴジラの骨を50年間も放っとくものか。生物学者たちが黙っているまい(映画「ゴジラ」のラストはオキシジェン・デストロイヤーによって、まさしく何も残さず消えたというものだった)。

 ゴジラ撃退の唯一の武器はオキシジェン・デストロイヤーだけ、それを開発した科学者もこの世にいないから、二度と開発できないというのも、21世紀をむかえて説得力をなくしているような気がする。たとえその設計図(?)がなくても開発者・芹沢博士と同等の頭脳を持つ者が現れていい、あるいは第2のオキシジェン・デストロイヤー開発に向けて国家的なプロジェクトチームが組織されてもいい、それだけの年月が経っていると思う。

 機龍が完成し、そのテスト起動の日にゴジラが再上陸、最初のバトルになるのだが、ゴジラを撃破できる決定的場面で、制御不能になり大暴走を始め、街に大被害を及ぼす。普通ならマスコミ、野党を巻き込む大問題になるはずなのに、次の戦いになるとまた簡単に首相の鶴の一声で出撃が決定されてしまう。本来ならこういうところの駆け引きを徹底的に描くべきだろう。そこにスリルやサスペンスが生まれると思うのだが。
 遠隔操縦が不能になり、ヒロインが機龍に乗り込んで直に操縦することになる。ここで初めて放射能汚染が問題になる。だったらゴジラに蹂躙された街はどうなる? 街は汚染されていないのか? 
 クライマックス、ヒロインの「私に力を」の絶叫もとってつけたようで僕の胸には響かなかった。

 一番違和感を覚えたのはラスト。全身武器という機龍の、最大にして最終の兵器は絶対零度の光線を相手に浴びせ、粉々に破壊してしまうというもの。ゴジラとがっぷり四つに組んだ機龍は至近距離でこの光線を放ち、そのまま海中に没する。ゴジラも機龍も助からない、そんな状況下で、まずゴジラが何事もなかったかのように、海面に姿を現し、そのまま海の向うに歩いていく。
 少し遅れて現れた機龍からヒロインが抜け出してその姿を見送る。……最終兵器の威力って何だったんだろう。
 引き分けというヒロインの言葉を受けて、作戦室の首相は「われわれの勝利だ」と結論づける。おいおい、僕は思わず突っ込みを入れたくなった。
 最終兵器のダメージなんて少しも受けたように見えないゴジラが機龍の残骸に背を向けたからといって、そんな簡単に言い切れるものなのか。機龍は破壊されたが、ゴジラは生きているのである。明日またゴジラが襲ってくることも十分予想できるではないか。まったく呑気なものである。
 強すぎるゴジラが仇になった。

 特生自衛隊の設定を生かし、ゴジラと自衛隊の攻防を真正面にすえ、そこに人間ドラマを盛り込むハードでリアリティあふれる(そしてそれは54年のゴジラとは解き放たれた)展開の映画を観たい。手塚監督にぜひ挑戦してもらいたいものだ。

     ◇

2003/01/11

 「ゴジラ×メカゴジラ」(日劇2 再)  

 特撮仲間S氏と鑑賞後、居酒屋「やるき茶屋」にて。

「keiさん、先月観ているんですって。観たなら、観たと言ってくれれば誘わなかったのに」
「いや、最初に誘ったのはオレの方だし。にもかかわらず公開2日めに黙って一人で行っちゃったからね。『仮面ライダー龍騎』の映画も結局パスしちゃったし。Sさんに対して申し訳ないなぁと」
「仮面ライダーやウルトラマンを誘うのはわかるんだけど。ゴジラっていつも一人で観てたんでしょ?」
「平成シリーズの最初の頃はまだ小さかった娘を連れて行ってたよ。小学生になったら拒否されるようになって、それから一人で観るようになったの(笑)。今回はねぇ、最初、TVスポットを見て、そのダサさ加減にがっくりきたんだよ。メカゴジラを操縦するコックピットの釈由美子を真正面からズーム、同じ角度でメカゴジラをズーム。今時こんなショットが通用もんかと、監督のセンスを疑っちゃって。対戦怪獣(?)は嫌いなメカゴジラだし、なんか一人で行く気が失せてねぇ、で、Sさんを誘ったというわけさ」
「それがロードショー2日めに行ったのは?」
「あの日、たまたま有楽町に行く用事があって、『マイノリティ・リポート』観ようと思っていたら、時間が合わなくて。それに試写の段階からえらく評判よかったでしょ『×メカゴジラ』って。で、もう観ちゃえと。まあ、映画が面白くなかったら、今回わけ話してごめんなさいしたんだけど、最初の攻防シーンはもう一度観てもいいと思っていたからさ。それから藤山直美がどこに出てたのか確認したかった(笑)」
「確かに冒頭のシークエンスはかっこよかったなあ」
「54年のゴジラ上陸から生態系が狂って巨大生物のモスラやガイラが日本を襲う。これを向い討つのが自衛隊が誇るメーサー車。東宝自衛隊で最初にメーサー車が登場したのが『モスラ』であり、その存在を決定づけたのが『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』だった。メーサー車の歴史を語るために『モスラ』や『サンダ対ガイラ』のライブフィルムを使ってて」
「メーサー車から発射される光線が樹木をなぎ倒してガイラに被弾するという今でもマニアの間で語り草になっている名特撮シーン、今観てもワクワクもんですよ」
「メーサー車が最初に登場するシーンがいいでしょ? ゴジラ迎撃のため道路を走っていく自衛隊の本物の戦車や車を真横からちょっとあおり気味に撮って、それを店から眺めるカメオ出演の村田雄浩に切り替わって、次に同じ角度で撮られたミニチュアのメーサー車が走っていく。このスムースなカット割りで、まるでメーサー車が本物に見える、かっこいいんだ、これが」
「うん、うん」
「夜そして雨。自衛隊の描写もかなり真に迫っていた」
「でも、映画全体の印象をいえば、前作『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 怪獣総攻撃』の方が断然面白いですよ。金子監督の偉大さがあらためてわかった」
「でも、『GMK』より今度の方がいいっていうファンもいるんだよね」
「へェ、どこが?」
「そんなことわからないよ。オレだって『GMK』の方がよかったもの。たぶんゴジラの造型、あの白眼とか、ゴジラが太平洋に散った兵隊たちの残留思念だという設定に違和感があるんじゃないの」
「でもあれはあくまでも登場人物が語る仮定の話でしかないでしょ。映画の中でそのものずばりが描かれることもないし。ゴジラなんて生物って感じしたじゃないですか」
「だから本当のところわからないよ。話もどすけどさ、今度の映画、同じ手塚監督の『×メガギラス』よりはよっぽどいいと思う。手塚監督の演出力って、まあ金子監督は別にして、それまでのゴジラ監督より数段上だよ。惜しむらくは脚本にめぐまれない。今回、特技監督も新しい人なんだから、どうして脚本も新しい才能で勝負しなかったんだろう」
「何度も言っていることだけど、怪獣映画でボクが一番注目してるのは怪獣の足なんです。いつだってその描写がおろそかにされている。そういう意味ではアメリカのゴジラはすごいと思うんですよ。皆悪く言うけど」
「スリルとサスペンスがジュラシック・パークでなかったら俺ももう少し評価高いかな。で、もし本当に日本に怪獣が現れたら、その全体像を見るなんてことはTVの中継くらいなもんだろう。それも遠く離れた場所からか、あるいは空からの俯瞰とか。怪獣と怪獣の戦いだって、バストショットなんてことありえないわけだから。オレが肉弾戦が嫌いっていうのは、着ぐるみによる人間ぶりの戦いということもあるけれど、その見せ方に反発しているところが大きいんだ」
「ホント、あのカメラワークはやめてほしいな」
「金子監督がすごいと思うのは、『ガメラ3』の冒頭で深海のガメラの墓場が出てくるシーン、あそこを無人潜水挺から送られてくるビデオ画像だけで処理しているでしょ。樋口特技監督のアイディアかもしれないけどさ」
「樋口さんの『日本沈没』へのオマージュですね」
「普通の感覚なら、疑似海底のセットに模型の潜水艇を吊って撮るよね。それを画像が荒れたビデオ映像を海上の調査隊の面々が眺めるという構図。そのセンスにシビれたっていう」
「なるほど」
「渋谷から飛び立つガメラは、TVのニュースで流れた一般人が家庭用ビデオで撮った映像でとらえる。いかにもありそうじゃない、こういうの。この情報化社会で怪獣と接するっていうのは、つまりそういうことじゃないかなと」
「全部見せるのは逆に興ざめしちゃうとか。中途半端なアングルはリアリティそいじゃいますもんね」
「ゴジラはっていうと、自衛隊の作戦室に大きなモニターがあって、そこにゴジラのアップの映像が映し出されるんだけど、このカメラどこにセットされているんだ、誰が設置したんだ、っていつも思っていた。それもフィルムの画を合成するという安易な方法で。今度の『×メカゴジラ』でもメカゴジラのテストシーンにそんな画が出てくるんだよね」
「金子監督は人物造詣、描写も上手いですね」
「『×メカゴジラ』って、最初からハム太郎とのカップリングが予定されていたから、小学生の女の子とヒロインのドラマが用意されたのだろうけど、気恥ずかしくてしょうがない」
「いつかどこかで観たシーンばっかりというのも気になる」
「あの『力を~!』もどこかで見たな」
「我夢の『ガイア~』ですか(笑)」
「メカゴジラが対ゴジラ兵器なんてことぜったいありえない。格闘になったらもう勝負ありだもの」
「ゴジラが出現した場所に特殊ジェット機で輸送するのも、時間がかかってしょうがないですよ」
「そうだよね(笑) 『×メカゴジラ』を観て、オレが今ゴジラ映画に何を求めているかよくわかったんだ」
「と言うと?」
「初めてこの世にゴジラが出現したってことで、その出現から撃退されるまでの物語。要は自衛隊とゴジラの攻防だね。『×メガゴジラ』のオープニングの戦いをもっとハードにしたものといえる」
「面白そうだ」
「ガメラにしろ、ウルトラマンや仮面ライダーにしろ、全く新しい概念で復活して、成功しているよね。ゴジラだけなんだしつこいくらい第一作にこだわっているのは。やはり昔にこだわると何から何まで引きづられるだろう。音楽は伊福部昭じゃなけきゃダメ。ミニチュアと吊りが特撮の基本だとか。でもそうだったら昔の作品を繰り返観ればいいじゃない……この話すると長くなるからやめよう。オレがのぞむゴジラの映画だけど。太平洋でゴジラの生息が認識される。政府は半信半疑。近くの島を壊滅させることで、政府はゴジラ迎撃を決定する。まず海上自衛隊による対ゴジラ作戦。海中と海上での戦い。次に航空自衛隊の空からの攻撃。最初は報道規制が敷かれているんだけど、そのうち、マスコミ各社に気づかれ、スクープを狙うTV局が出てきたりして、ゴジラの姿が公になっていく。でも全身なんてなかなか撮れなくて、小出しに小出しに。ゴジラはどんどん日本に近づきその頃にはもう日本全体が大騒ぎになって、その進行状況からどこに上陸するか、上陸したらどのくらいの被害をだすのか、雑誌やTVで特集されたり。クライマックスは東京に上陸したゴジラと自衛隊の総力戦……。その中で自衛隊員たちの活躍を描くの。群像劇になるのかな。パイロット、艦隊乗組員、戦車隊、さまざま立場の自衛隊員が初めて敵との戦いの中で何を感じ、どう行動して、何を得るのか」
「ゴジラ出現は生態系の狂いでもあるんだから、映画の前半に絶滅した、ある程度大きな生物が各地に現れるなんて描写があってもいいすよね」
「上陸前の前哨戦としてゴジラと闘っていい。『ジュラシック・パークⅢ』のティラノとスピノの戦いみたいに」
「ゴジラ第一作がシナリオ執筆の前にSF作家の香山滋にストーリーを依頼したように、自衛隊、そのメカニックに精通した作家にスト-リーを書いてもらうってのはどうですか?」
「『亡国のイージス』の福井晴敏って線はどうかな」
「とにかく知り合いに自衛隊関係者がいるから、彼と一緒に今度その話を肴に飲み会開きましょうよ」
「いいね、いいね。大いに盛り上がろう!」




 山崎貴監督が「ジュブナイル」で劇場映画デビューしたときはちょっとした衝撃だった。しかし2作めの「Retuner リターナー」で怒り狂う。いつか観たハリウッド映画のいいとこどりのショットばかりだったから。北村龍平監督にも言えることではないか。
 3作めの「ALWAYS 三丁目の夕日」でヒット監督の仲間入りをするわけだが、以後、タイトルが気になりだした。
 「BALLAD 名もなき恋のうた」「SPACE BATTLESHIP ヤマト」「friends もののけ島のナキ」「STAND BY ME ドラえもん」。
 なぜ頭にアルファベットの単語を挿入するのか? これが嫌でたまらなかった。監督の趣味だと思っていたら、プロデューサーの方針らしい。「永遠の0」や「寄生獣」の映画化のときは原作の力の前にアルファベットのオリジナルタイトルは入れられなかったのか。よかった、よかった。

     ◇

2000/07/18

 「ジュブナイル」(日劇東宝)

 初めて劇場でこの映画の予告編を観たとき、アメリカ映画のような特撮(クレジットにはVFXと表記されている)に度肝を抜かれた。昭和30年代を彷彿とさせる家並に最新ロボットが登場するシーン、巨大な宇宙船が航行するシーン、どちらも質感といい、動きといい、まさしくホンモノって感じで、もうそれだけでこの夏一番の期待作になった。
 おまけに内容は少年たちの一夏の冒険物語だし、タイトルはそのものずばりの「ジュブナイル」。期待するな、という方が無理というものではないか!

 小学6年の頃、クラスメートたちと学校の図書館にあった福島正美、光瀬龍、豊田有恒等のジュブナイルSFをまわし読みし、夢中で感想を語り合ったものだ。その後「タイム・トラベラー」を皮切りにNHK「少年ドラマシリーズ」を毎週(毎日)観るようになった僕としては「ジュブナイル」という単語に格別な思い入れがある。

 少年の一夏の冒険ものといえば「少年ドラマシリーズ」に「ぼくがぼくであること」があった。夏休みに家出した主人公の男の子と見知らぬ田舎町の老人と孫娘との触れ合いを描く物語で、男の子が憧れる少女がとてもかわいくて、ドラマ自体もよくできていた。
 大学時代、山中恒の原作の文庫を見つけ読んでみたら、主人公の親や学校に対する不満、怒り、異性への甘い想い等々、いろいろ共感することが多く、僕にとってのジュブナイル小説の決定版となった。
 少年+夏=冒険という公式もこの小説を読んでからできあがったように思う。自分の小学時代を考えてみても、確かにあの頃は夏休みの毎日が太陽のようにギラギラ輝いていたもの。

 未来からやってきた「テトラ」という小型ロボットと4人の少年少女たちが町の天才青年の協力のもと地球を征服にやってきた宇宙人を退治する物語でお話自体は特に目新しさはない。
 映画は少年が活躍する過去の名作、話題作から引用したシーン、構図が散見される。
 少年たちが線路でジャレ合うシーンはもろ「スタンド・バイ・ミー」なのであるが、まあそれはいい。なぜメンバーが少年3人+少女1人なのか。映画的にはここはやはり少年2人+少女1人だろう。そこまで「スタンド・バイ・ミー」を意識するのか?そんな疑問がエンディングクレジットの「For Fujiko. F. Fujio」で氷解した。
 これは山崎監督(本作が劇映画デビュー作)の「ドラえもん」なのであった。主役の少年がのび太、憧れの少女がしずかちゃん、あとの二人がジャイアンとスネ夫。当然未来からのやってきたテトラはドラえもん。テトラの送り主が誰かというのがわかるラストエピソードからもうかがいしれる。

 できれば現代だけの、つまり少年たちの一夏だけの冒険物語として映画を完結してほしかった。ラストでテトラの謎(未来の話)が明かされるにしても、現代社会と乖離するような未来世界を描いてほしくない。
 だからテトラとの別れになって、ある種お涙頂戴的な盛り上げ方に不安を覚えた。目を瞠る特撮が見せ場としても、しょせんこの程度の映画なのか、と。しかし映画のテーマはその後に続く少年たちの未来の物語にあったのだった。ラストでこの映画がとても愛しいものになった。

 主役の少年たちがハツラツとしていてうれしくなるが、何といっても香取慎吾扮する天才科学者がいい。
 今のTV界が視聴率確保のため、ジャニーズ事務所(のタレント)一辺倒になっていることにうんざりしているところに、この映画にもSMAPの香取慎吾が主演するというので、少々引いてしまう部分でもあったのだが、これが大いなる間違いだった。まさしく適役であり、ドラマをぐっと引き締めてくれた。

 エンディングクレジットの8㎜フィルム風のタイトルバックが郷愁を誘った。映像と主題歌(山下達郎)がフィットして、これこそ〈胸キュン〉ものだ。個人的には挿入歌の「ぼくらはアトムの子」というフレーズに反応してしまうのだが。

     ◇

2002/08/17

 「Retuner リターナー」(イイノホール 試写会)  

 山崎貴監督の劇場映画デビュー作「ジュブナイル」を観て、そのハリウッドばりの特撮映像(VFX)に目を瞠った。主人公の少年が操縦するロボットが住宅街を闊歩するシーンにたまらない魅力を感じ、山崎監督にはぜひ皆川亮二のコミック「ARMS」(少年サンデー連載)を映画化してほしいと思った。  
 神の腕を持つティーンエイジャーの少年(少女)たちが活躍する冒険活劇。彼らが〈ARMS〉という超人に変身して、大都会を舞台に敵と繰り広げる壮絶なバトルシーンが観たい!  
 これまでこの手のコミックはアニメ映画化されるのが通常なのだが(実際「ARMS」はTVアニメ化された)、山崎監督の映像センスなら絶対実写化できるのではないかと。

 山崎監督の第2弾が金城武主演の「Retuner リターナー」であることはずいぶん前に劇場予告編で知った。内容はわからないが、その映像の断片からこれまでの邦画にないSFアクションものの香りに満ち溢れていた。  

 公開を今か今かと待ち焦がれていたところ、試写会の話。「待ってました!」とはこのことだ。
 土曜日10時からの試写会。金城ファンの女性たちが多数かけつけるだろうから(「スペ-ストラベラーズ」の試写会の混みようったらなかった)、早起きして2時間前に行ったら、誰もいない。近くのマクドナルドで時間をつぶして30分後に行くと、ちょうど係りの人がフィルム缶を入れた重たそうなバックを持ってやってきたところだった。
 試写会の列の一番前に並ぶなんて生まれて初めての経験。ちょっと気恥ずかしい。  
 結局さほどの混雑もなく、ホールも満杯になることがなかった。休日、それもお盆休みの午前中ということもあるのだろうか。

 映画は「ジュブナイル」同様に山崎監督のオリジナルである。原作ものばかりが目立つ映画界(これは日本だけでなく、アメリカも同様、要は企画がないのだ)にあって大いに評価できるし、何とも頼もしい。

 依頼者の情報にもとづき闇の取引き現場に潜入してブラックマネーを奪還する〈リターナー〉と呼ばれる一匹狼の男・ミヤモト(金城武)。港に停泊する船。そこで行われている人身売買。潜入したミヤモトは買い手一味のボスの顔を見て驚く。かつてミヤモトの親友を殺し、以来ずっと追い求めていた溝口という悪党(岸谷五郎)だった。
 激しい銃撃戦の末、溝口を取り逃がしてしまうミヤモト。おまけに現場に迷い込んだ謎の少女・ミリ(鈴木杏)を敵と間違えて誤射してしまう。一命をとりとめたミリはミヤモトの素性を知るや、クライアントとして仕事を依頼したいと言う。今から二日後、地球の未来を恐怖のどん底に陥れる事件が起こる。それを未然に防ぐことが自分の使命だと。少女は20年後の荒廃した未来からやってきた……  

 斬新なビジュアルがあって、それなりに楽しめる。が、手放しで喜べない。気になるのがストーリーも映像もいつかどこかで観た映画のワンシーンというところなのだ。  
 20年後の世界は「ターミネーター」。ミリが未来から持ってきた〈加速装置〉は金城に「マトリックス」のあのシーンを再現させさかったから(だから皮のロングコートを着ていたのか?)。極悪非道な溝口は「ブラックレイン」の松田優作か。「E.T.」もある。  

 ストーリー自体も目新しさはなく、ラストの落ちも途中で容易に想像がついてしまう。  
 冒頭の英語表記のクレジットでふと感じたこと、人気スターを配し最新の特撮技術を駆使して製作された学生の8mm自主映画みたい、とは言い過ぎだろうか。角川春樹の監督作が頭をよぎる。  
 せめて、限られた3日間の中でミヤモトとミリのコンビが課せられた使命を果たそうと、悪戦苦闘する姿、それこそハリウッド映画が得意とする〈Ride to rescue〉、間に合うかどうかのハラハラドキドキ感を堪能したかったのだが、予定調和の展開にクライマックスでも落ち着いていられた。  
 2作続けて〈タイムトラベル〉ものというのもどうだろう。「ジュブナイル」と「リターナー」は違うジャンルの映画に見えて、その実中味は同じなのだ。
 前作でハートウォーム、胸キュンをやったのだから、今回は徹底的にハードに仕上げて欲しかった、というのは「リターナー」という映画に対するこちらの勝手の思い込みか。  

 特撮は何も怪獣映画の専売特許ではない。「ゴジラ」や「ウルトラマン」「仮面ライダー」だけが特撮ではないはずだ。それこそいろんなジャンルがあってもいい。  
 山崎監督はそのさまざまなジャンルの映画に挑戦できる、なおかつ洋画しか観ないような人たちをも納得させる絵作りの才能を持つ稀有な存在だと思う。小手先の、寄せ集めのオリジナルではなく、本当の意味のオリジナルで(実力のあるシナリオライターを起用してもいい)観客にビジュアルショックを与えて欲しいと切に願います。  


 【追記】
 
 前の方の、眺めのいい席に座ったにもかかわらず、イイノホールのスクリーンがやけに小さく感じた。それに音が悪い。この映画を楽しむには迫力ある映像と音響が必要だろう。劇場でもう一度観直したい。




 夏休みになってから、朝風呂を日課にしている。旅の宿を入れて、BGMを流してゆっくりと40分ばかり湯船につかる。赤い鳥「竹田の子守唄」(最近購入)、吉田拓郎「LIVE '73」、ビージーズ「ベスト」、ビートルズ「リボルバー」「ラバーソウル」。

 昨日(15日)は遅く起きたので、湯船につかる時間がなくてシャワーを浴びて、急いで外出の支度。丸の内ピカデリーで12時50分「日本のいちばん長い日」を鑑賞するためだ。
 12時20分過ぎ、チケット売り場は列ができていた。チケット販売状況も△になっていた。2階席は完売。もう1階の前方の席しか残っていなかった。この劇場は2階席が観易いのだが仕方ない。皆さん、考えることは同じなのだ。

 傑作の東宝作品を観るようにMさんからDVDを借りたのだが、まだ鑑賞していない。先に新作に触れてからという考えによる。

 「駈込み女と駆け出し男」に続く原田眞人監督作品。キャスティングの妙がスパイスになっていて、ドキュメント性を醸し出していた。同じ実話を映画化した「突入せよ!あさま山荘事件」でも感じたことだ。
 東條英機役の中嶋しゅうっていったい何者なのか。ほう、舞台の人なのか。晩年の黒澤映画にも出演している。やっぱりこの人A級戦犯だな。
 鈴木貫太郎首相(山﨑努)の狸親爺ぶりにニヤニヤ。この人、天皇の意見に忠実だ。
 モックンの昭和天皇はかっこよすぎないか。軍服姿(全身、足元まで)に惚れ惚れしてしまう。
 阿南陸相(役所広司)の最後の酒盛りに涙が流れた。戦死した息子への想いに胸を打たれたのだ。それはラストの奥さんの姿にも通じる。
 結局、軍人は天皇の考え、意見なんてものに耳をかさず、軍のプライド(立場)を優先させ、やりたいことをやっていただけではないかと思えてならない。もし、畑中少佐(松坂桃李)たちが成功して、本土決戦が実現していたらどうなっていたのか。

 エンディングロールが流れているとき左隣の老夫婦の会話が聞こえてきた。夫が言うには「阿南は三船敏郎より役所広司の方が良い」。

 映画終了後、遅い昼食をとってから、三省堂書店で時間をつぶし、下北沢の北澤八幡神社へ。
 201回めの「立川談四楼独演会」なのだ。詳細はまた後で。

 翌日は休み(夏休み最終日)なので、二次会に出席しようと思っていた。先月までは。懐事情を鑑み(こればっかり!)、会場での打ち上げだけで帰ってきた。

 DVD「日本海大海戦」「連合艦隊」「日本沈没」を返却し、新たに「連合艦隊司令長官 山本五十六」「ゼロ・ファイター大空戦」「東京湾炎上」を借りる。

 帰宅して東宝版「日本のいちばん長い日」を観る。同じ昭和20年8月15日(までの数日)を描いていても、印象はずいぶん違う。カラー(松竹版)とモノクロ(東宝版)の違いだけではない。

 東宝版(脚本:橋本忍 監督:岡本喜八)は15日に至るまでの描写ではナレーション(仲代達矢)を多用する。また、阿南陸相の家庭はいっさい描かれない。昭和天皇も一応役者(松本幸四郎)が演じているが、決して顔は撮らない。
 旧作「日本のいちばん長い日」は全編にわたって汗が強調されていた。本土決戦を熱望する畑中少佐役は黒沢年男。エキセントリックな演技が見ものだ。

 切腹する阿南陸相のシーン。東宝版では部下の二人が廊下の後方で見守る。松竹版では二人を外に出してしまう。
 松竹版ではラストに阿南の遺体に向かって奥さんが戦死した息子の最後の姿を語るシーンがある。家族を描かない東宝版では当然そんなシーンはない。
 新旧の映画の一番大きな違いはここだと思う。真実はどちらなのか。原作を読むしかあるまい。




 昨日は高崎から友人がやってきた。購入したPCでどうしても自分では解決することができない問題があって、そのヘルプにきてもらったのだ。
 問題は無事解決!
 湯の郷で汗を流し、ビールで乾杯。

 「特技監督 中野昭慶」を読了してから、とりあえず「日本沈没」「連合艦隊」「日本海大海戦」のDVDを借りてきた。「東京湾炎上」「竹取物語」は来週借りるつもり。「惑星大戦争」は……まあ、いいか。

          * * *

2015/07/29

 「特技監督 中野昭慶」(中野昭慶・染谷勝樹/ワイズ出版映画文庫)

 文庫版を購入して再読して感銘を新たにした。
 感想は改めて記すつもり。


2015/07/31

 「三遊亭圓歌ひとり語り 全部ウソ」(三遊亭圓歌・聞き書き 田中聡/河出書房新社)

 小学生のころ、三遊亭歌奴の「授業中」が大好きだった。「山のあな、あな……」。朗読される捧腹絶倒の詩が創作ではなく、カール・ブッセというドイツの新ロマン派の作だと知ったのは中学、高校生になってからだ。アカデミックな落語だったんだなあとちょっと見る目が変わった気がする。もうそのころは圓歌を襲名していた。なかなか新しい名前に馴染めなかったが。
 TVの演芸番組(お正月の寄席中継等)に出演したりすると、「授業中」を期待するのだが、いつも「中沢家の人々」だった。
 三遊亭歌奴は最初に名前を覚えた落語家だった。僕が小学生のころ、林家三平と三遊亭歌奴はTVで活躍する売れっ子落語だったのだ。本書でも触れている。

 圓歌が語った内容を田中聡というライター(?)が文章化した。
 文を書くのが苦手な芸人さんはこういう形で、己の芸の記録を残してほしい。
 
 ひょんなところで小室等の名前がでてきた。小屋のせがれだという。どこの?




 本日、ってもう昨日になってしまったが(13日)、レベッカのコンサートに行ってきた。まぐま主宰のKさんに招待されたのだ。会場は横浜アリーナ。ああ、近くには行ったことがあるなと思っていたら、それは横浜スタジアムだった。よかった、行く前にきちんと調べて。
 生の「フレンズ」に大感激。

          * * *

2015/07/18

 「テヅカ イズ デッド ~ひらかれたマンガ表現論へ」(伊藤剛/NTT出版)

 書名からの印象でずっと敬遠していたのだが、今回、手塚治虫関連書として読んでみた。
 こういう内容だったのか!


2015/07/19

 「手塚治虫の芸術」(ヘレン・マッカーシー/小巻靖子・有枝春 訳/ゆまに書房)

 著者のヘレン・マッカーシーは欧米を代表する日本文化の研究家で、多数の著作がある、雑誌『Anime UK(アニメUK)』を創刊し、バービカン・センターで手塚のアニメ作品の上映会を催している、「英語圏の人たちに日本のマンガやアニメのすばらしさをほぼ独力で伝えた」(ウォール・ストリート・ジャーナル紙)人とのこと。
 手塚治虫の業績をとてもわかりやすく時系列に紹介している。写真や図版を眺めているだけでも楽しい。
 

2015/07/20

 「手塚治虫が生きていたら電子コミックをどう描いていただろう 大塚教授の漫画講座」(大塚英志/徳間書店)

 本人が自分のことを〈サヨク〉と書いているが、〈15年戦争〉という表現を当たり前のようにしていて不思議に思った。僕が無知だったのだろうが、この名称を初めて知った。満州事変から太平洋戦争まで約15年続いた戦争を総称していう。鶴見俊輔が使用したのが最初だとか。
 

2015/07/25

 「別冊映画秘宝 特撮秘宝vol.1」(洋泉社MOOK)

 洋泉社版「宇宙船」とでもいうべきか。発売日に増刷がかかったらしい。
 以下の目次(の一部)を見れば、ファン、マニアなら手元に置きたくなるだろう。

 初代ウルトラマン未公開写真発ウルトラセブン研究 完結編
 ひし美ゆり子×古谷敏×豊浦美子
 ここまでわかった! ウルトラセブンの新事実77!
 どうなるゴジラ2016
 追悼・川北紘一
 遠矢孝信 怪獣・怪人写真館

 この項続く




 30年前の今日、仕事を終えてから会社の先輩たちと下北沢へ飲みにでかけた。一人がいったん自宅に戻ってからやって来た。TV放映される「東京裁判」を録画するためだったのだが、飛行機事故のため放映が中止(延期)になったという。
 翌日、事故の詳細がわかった。乗客の中に坂本九がいて愕然となった。数日前(もっと前かも)、NHK教育テレビで「新・八犬伝」のアーカイブ的な放送があり、坂本九がゲストで思い出話を語っていたのだ。
 元清国の伊勢ヶ浜親方も妻子を事故で失っていた。
 ついこの間のような気がする。部外者の僕でさえそう感じるのだから遺族の方たちは……


           * * *

2015/07/13

 「二流小説家」(デイヴィッド・ゴードン/青木千鶴 訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)

 2013年、この小説の設定を日本に移し替えて上川隆也主演で映画化された。面白そうだと思って劇場に足を運んだのだが、真犯人が短時間に死体を切断できるものか不思議でたまらなかった。原作ではどうなっているのか、いつか確認しようと思っていたところ、今年になって、古書店で見つけた。
 別に訳が読みづらいわけでも内容がつまらないわけでもないが、読了するのに2週間かかってしまった。
 映画の疑問は小説では一応説明されていた。とはいえ、得心できるものではないような。
 2011年の「週刊文春ミステリーベスト10」、「このミステリーがすごい!」で第1位に輝いているのだが、それほどのものか少々疑問だ。
 小説中に主人公が別名で書いた小説の一部が挿入される。これがなかなか面白そうなのだ。


2015/07/14

 「深夜放送がボクらの先生だった」(村野まさよし/有楽出版社)

 著者を知ったのは、TV業界の暴露本だったと思う。放送作家だった著者はこの本で業界とは縁を切り、米や環境に関するルポルタージュを雑誌に発表するようになった。ノンフィクション作家への転身である。1980年代後半のこと。
 著者が深夜放送ファンの第一世代だったことを本書で知った。ちなみに僕は第二世代になるのか。中学2年時に「オールナイト・ニッポン」をクラスの皆が聴き始め、「がんばれ!ジャイアンツ」という曲が話題になった。深夜放送が学校で問題になったのもこのころだ。僕自身が深夜放送を聴きだすのだすのは、高校時代になってから、それも「パック・イン・ミュージック」だったか。

 深夜放送がはじまったのが昭和43年。オールナイト・ニッポンの当時のDJ(パーソナリティ)は、糸居五郎、齋藤安弘、高岡寮一郎、今仁哲夫、常木建男、高崎一郎、亀渕昭信。
 著者は今仁哲男の番組に夢中になって、投稿をはじめて「ご常連」になる。これきっかけになって放送作家になるのだが、その道に誘ってくれたのが、今仁哲夫。実際にスタッフに加わってからの関係に胸がつまる。

 高崎一郎はニッポン放送のアナウンサー出身だと思っていたらプロデューサーだったのだ。しゃべりがうまいのでパーソナリティーに起用され、それがフジテレビ「リビング4」の司会につながっていったのだろう。

 本書に大橋一枝の名前が出てきて驚いた。アルファレコードの社長と紹介されていた。紙ふうせんのセカンドアルバム、フォルクローレ特集の「愛と自由と」に「木こりのわが子への歌」という歌が収録されていて、訳詩を担当していた。村井さんの元奥さんで、村井さんがアルファレコードを退任してから、ヤナセグループから権利を譲り受け社長に就任したという。


2015/07/16

 「私の中のおっさん」(水野美紀/角川書店)

 水野美紀が大手事務所を辞めたことで、しばらくの間、TV、映画から干されていた。その結果、「踊る大捜査線」の続編映画から消えて、以降、僕はこの映画に決別宣言したのだった。小演劇の世界で頑張っているのは知っていたのだから劇場に行けばよかったんだ。今は完全復帰していてとても喜んでいる。
 図書館でエッセー集を見つけて気になっていた。勇気をだして借りてきた。妄想モードになっていろいろ綴っていく文章が楽しい。

 この項続く


 

 原発再稼働のニュース。
 本当に再稼働が必要なのだろうか?

          * * *

2015/07/25

 「柳家さん喬独演会」(三鷹市芸術文化センター星のホール)

 待ち合わせは会場で17時30分。かなり早めに三鷹駅に着くと、商店街(メインストリート)は夏祭りの真最中だった。あれこれ見学しながら芸術文化センターへ向かう。
 いつもの古書店で時間をつぶした。

 先週と同じ、二井さん、二井さんの奥さん、Mさん、僕というメンバーだったのだが、急に奥さんに仕事が入り、代わりに前日のトークイベント「よもやま話」のゲストだった朝さんが参加。

  入船亭ゆう京 「道具屋」
  柳家さん若  「のめる」
  柳家さん喬  「のざらし」
  露の新治   「権兵衛狸」

    〈仲入り〉

  江戸家子猫  動物ものまね
  柳家さん喬  「死神」 

 いつもは、前座+本人3席なのだが、今回は色物もあって寄席のようなプログラム。主催側の企画なのか、それとも、演者(さん喬師匠)側の要望なのか。これはこれで楽しい。

 ゆう京さんは10年入門(師匠は入船亭扇遊)。前座としては4年選手になる。元気があってよかった。
 さん若さんの「のめる」は初めて聴く演目かもしれない。「飲める」と言うのが口癖の男と「つまらねぇ」が口癖の男が、一言でもその言葉を言ったら罰金をとるゲームを始めるというもの。
 新治師匠は上方落語のベテラン。ギャグ満載の関西弁「権兵衛狸」に大笑い。

 江戸家猫八というと、どうしても先代の顔が浮かんでしまう。「快獣ブースカ」のお父さん、「時間ですよ」のいつも女湯を覗くすけべオヤジ。で、子猫は今の猫八さんのイメージがある。すごく真面目な青年の姿という印象が強い。その、今の猫八さんの娘さんがまねき猫として活躍していることは知っていたが、息子さんが子猫を継いでいたのか。最初は先代猫八、先代子猫がよくTVで披露していたネタ。進むにつれてディープな世界に入っていく。こんなに笑えるとは思っていなかった。

 さん喬師匠は2席。「のざらし」と「死神」。
 「死神」はラストのろうそくのくだりしか知らず(先代圓楽をTVで見たことがある)、全体を聴いたのは初めてだ。こんな噺なのかと思った。夢落ちだっとことにも驚いた。場内を真っ暗にする演出とともに。

 終了後、先週と同じMで飲む。遅れて奥さんもやってきた。落語のあとの一杯(&おしゃべり)は格別だ。




 観る会まで我慢できなくて本日、地元シネコンで「ジュラシック・ワールド」鑑賞。
 リアル・ゴジラ対アンギラス、リアル・ゴジラ対ゴジラに感激!

          * * *

 この映画の批判の一つにゴジラの設定がある。ゴジラが太平洋戦争で散った日本兵士の残留思念だというアレである。問題視する人たちがいることが不思議でたまらなかった。
 いや、僕だって、映画の中で本当にゴジラがそんな扱いをされていたなら怒り狂ったと思う。でも、映画の中でそんな描写は一つもなかったでしょう? あくまでも登場人物の天本英世が語るだけで。

 そんなことより、僕にはモスラやキングギドラの登場の方が気になってしかたない。ゴジラとの戦いがヴィジュアル的に面白くないのだ。見飽きているからだろう。当初の企画どおりアンギラスやバランだったらと思わずにはいられない。

     ◇

2001/12/15

 「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」(日劇東宝)  

 監督に平成ガメラシリーズの金子修介、脚本に横谷昌宏(「クロスファイア」「溺れる魚」)、長谷川圭一(平成ウルトラマンシリーズ、劇場版)とくれば、期待しないわけにはいかない。  
 東宝もやっと外部のスタッフに活力を求めたことになるが、遅すぎるくらいだ。  

 当初製作ニュースで内容を知った時は悪役に徹するゴジラ、その造型に納得したものの、対戦する怪獣に疑問を持った。伝説の怪獣〈護国聖獣〉という設定でモスラ、キングギドラ、バラゴンが再登場するというのだ。ゴジラの日本上陸を阻止するため現代に蘇る日本古来の怪獣がモスラ、キングギドラはないだろう。
 モスラはインファント島の守り神だし、キングギドラは宇宙怪獣。平成になってから二匹の設定、性格も変わったが、それにしても人気怪獣を出せば何とかなるという会社側の思惑がかなり強い配役である。
 護国聖獣だったらバラゴン、バラン、マンダあたりが妥当じゃないかと個人的に考えたのだが、実際当初の金子監督の企画ではバラゴン、バラン、アンギラスだったとか。そういえばずいぶん前に、次作にはアンギラスが登場する、なんて噂が流れたことがあったっけ。
 本当はこういうプロットこそオリジナル怪獣で勝負すべきなのだが、大ヒットを狙うには仕方のないことかもしれない。  

 着ぐるみ然とした怪獣同士がミニチュアセットで戦う構図に辟易している僕は〈VSもの〉にあまり食指が動かなくなってきたのだが、護国聖獣が悪役・ゴジラと戦うプロットにはうなづけた。原点にもどって人間の敵になったゴジラが「VSスペースゴジラ」以降敵対する怪獣とバトルをすることによりヒーロー然となってしまった。ここに平成ゴジラシリーズのドラマが袋小路に陥った最大の要因があると僕は思っている。

 ゴジラも敵対する怪獣も人類の敵となると感情移入がしにくいのだ。  
 人間側の主役がいてその敵のゴジラがいて、そのまた敵の相手怪獣がいる。この構図だとゴジラの存在が中途半端になってしまってドラマ作りがむずかしい。敵怪獣とのバトルシーンではゴジラを応援するものの、倒してからはそのゴジラが人間に襲いかかる。観客としてどこに主観をおくのか、誰に感情移入すればいいのか、観客のエモーションを喚起させるものが希薄になってしまう。  
 だからあまりに強すぎるゴジラのキャラクターを逆手にとって完全な悪役として人間側に位置する怪獣と戦わせることによりその強さ、怖さを描く方法は巧いと思った。

 もうひとつ、最近の傾向としてゴジラと敵対怪獣とのバトルがバトルだけで成り立ってしまい、人間側のドラマが希薄になってしまっていることがあげられる。怪獣対怪獣の特撮の威力は人間ドラマをからませることによって相乗効果を発揮するものだ。  
 この映画の、僕にとっての見所はオールスター怪獣の戦いと人間ドラマをどうリンクさせてくれるか、につきた。横谷昌宏の構成力、長谷川圭一の熱いドラマ作りをもってすればこれまでの煮え切らないゴジラ映画を払拭するようなドラマを展開させてくれるだろう。シナリオさえしっかりしていれば演出は金子監督なのだから何の不安もない。

 試写会等の噂を聞くにつれ、僕の期待は破裂しそうなくらい膨らんで、初日に劇場に足を運んでしまったのだった。    

 期待は裏切られなかった。平成のゴジラシリーズ、特に「VSスペースゴジラ」以降ずっと抱いていた不満がかなり解消された。  
 冒頭から密度の濃いドラマが展開される。USゴジラに対する軽いジャブがあり、目を見張るビジュアルに驚かされ、ふと笑いがあって心和ませる。  
 内容は平成ガメラシリーズの応用といえるかもしれない。前半は「ガメラ 大怪獣空中決戦」、後半は「ガメラ2 レギオン襲来」。護国聖獣の設定には「ガメラⅢ 邪神覚醒」の影響がみられる。それに「ゴジラ」第一作に対するオマージュや「GODZILLA」の映像への挑戦が垣間見られる。暴走族や無軌道な若者に対する天罰は「クロスファイア」のスピリッツそのまま。

 何よりバラゴンとゴジラのバトルにしびれた。人間の目から見た光景。全体を把握さえるためのTV中継の俯瞰ショットが効果的。
 ロープウェイを横切るバラゴンのショットは「ウルトラQ 五郎とゴロー」の冒頭に勝るとも劣らないインパクト。今の子どもたちは今後、ロープウェイに乗るたびに前方にバラゴンの姿を思い描くのだろうか。僕がゴローの姿を求めてしまうように……。
 今回、うれしかったのは確かに怪獣は着ぐるみではあるけれど、大胆に、繊細に実景と合成していることだ。ミニチュアっぽいカットというものがなかった。

 幼虫モスラの活躍がなかったのは残念だったが横浜の夜空を飛行するCGモスラがよかった。こと飛行ということに関してはCGの威力ぬきには考えられないだろう。昔ながら吊りによるのんきな飛行なんて見せられたらたまらない。
 キングギドラの造型はイマイチだった。3本の首の両端の首がもろ中のスーツアクターが手で動かしているのが一目瞭然だ。

 TV中継に生きがいを見つける娘、ゴジラ退治に命を賭ける父。二人の気持ちがゴジラの襲撃をとおして、ひとつになっていくところは目新しくはないけれど、やはりこちらの心に響いてくる。
 うれしかったのはラストで人間対ゴジラに焦点を合わせたこと。「生きて帰って」の台詞は目頭が熱くなる。

 たぶん勢いで描いているところもあるから何度も観るとアラも目立つような気もするが(突如焼津湾に現れたゴジラが防衛軍のレーダーにキャッチされないで、大涌谷に来られるはずがない)、僕は気にならなかった。全編ビジュアルショックにおおわれていたからだろう。
 新山千春は思ったとおり、スクリーンの中で十分魅力的だった。ミスキャストではないかと少々不安の宇崎竜童もいい味だしていた。その他仁科貴、佐野史郎、モロ師岡等、キャスティングが功を奏している。ガメラ映画の常連さんのゲスト出演もファンにはたまらない。

 ほとんど誉めてばかりいるが、不満なところを2点ばかり。
 せっかく気分爽快にラストを迎えたのだから、海底で動くゴジラの心臓を見せて、やはりゴジラは不死身です、なんていちいち断らないでほしい。
 それからせっかく音楽に大谷幸を起用したのだから、エンディングロールは大谷幸のゴジラのテーマを聴かせるべきではなかったか。いやあれは金子監督のゴジラ第一作と「怪獣大戦争」への敬意なのだろうか。  

 本作が大ヒットしたからといって、すぐに金子監督のゴジラ第2弾を撮らせるようなことをしてほしくない。安易な企画は足元をすくう。来年は「ハム太郎」豪華2本立てでいい。


 【追記】

 バラゴンが婆羅護吽、モスラは最珠羅、そしてギドラは魏怒羅。劇中にでてくる「護国聖獣傳記」に表記されるネーミングである。
 「ガメラ 大怪獣空中決戦」を観た際に僕がまっさきに願ったのは、金子監督に「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」のガイラを復活(設定は別になんでもいい、人を食う人間型の怪獣のキャラクター)させてほしいということだった。タイトルは「餓夷羅」。ガイラとガイラに狙われた5人の若者たちの限定空間(島)における食うか、逃げるかの追いかけっこ。狙いは悪くないと思うのだけど。




2015/07/18

 「立川志らく独演会」(三鷹市芸術センター 星のホール)

 二井さんから年に何回か三鷹市主催の落語会招待のメールがくる。希望するならその旨返信することがルールだ。対象は談四楼フォロワーズのメンバー、Mさん、Wさん、そして僕。約3年不参加だっため、代わりにAさんがメンバーになっていたが、僕が復帰したためはずれたみたいだ。ごめんなさい、Aさん。
 皆、団塊の世代。僕だけ一世代下になるが話は合う。

 二井さんが入手するチケットは全部で4枚。二井さんのほか、3名が一緒に行けるのだが、今回は2名が対象だった。ピンと来た。二井さん、今回は奥さんを連れてくるな。この3年の間に年齢の離れた女性と再婚したのである。
 それはともかく、志らく独演会とさん喬独演会が二週続けてあります、というメールだったのであわてて「行きます!」と返信した。18日と25日。返信したときは何も考えていなかった。あとで18日は談笑師匠の落語会だったことに気がついた。立川流落語会のはしごになったわけ。

 何とか独演会が始まる前に会場に到着した。受付に預けられていたチケットで中に入って席を探すと、二井さん、奥さん、Mさんがいた。

  立川志ら門「たらちね」
  立川志らく「二人旅」&「鰻の幇間」

  〈仲入り〉

  立川志らく「お若伊之助」

 また知らない志らく一門の前座が登場した。一度破門されたことがあるので〈志ら〉門とのこと。志らく一門がどんどん増えていく。一門だけでサッカーの試合ができるのだ。来年、再来年あたりはラグビーの試合ができたりして。
 同じ長い名前を扱っているといっても「寿限無」より「たらちね」の方が聴く機会が多い。あまりにもポピュラーなので(僕自身、小学生のときに懸命に覚えましたから)、やる前座さんがいないのだろうか。

 志らく師匠、まずは続けて「二人旅」と「鰻の幇間」の2席を。
 どちらもたまに聴くネタだが、仲入り後のネタはまったく初めてだった。

 とある大店の娘が一中節を習うため紹介された男がとんでもなくイケメンで、案の定、ふたりはあっという間にいい仲に。親は手切れ金を渡して男と別れさせたが、娘は男を忘れられない。恋の病で寝たり起きたりの状態になってしまった。1年後、男が訪ねてきた。こうして毎日娘と旧交を温めることになるのだが、やがて娘の腹に変化が見られるようになった。しかし、よく調べてみると当の男は娘の部屋にやってきていないことがわかった。では、部屋に来る男は何者なのか?

 調べてみると円朝の作だった。怪談噺になるのだろうか。一中節とは浄瑠璃の流派の一つ。
 
 終了後、4人で駅前の蕎麦居酒屋(?)のMで飲む。




 いつのころからか、特撮に対する趣味嗜好がまわりとズレていることに気がついた。たぶんインターネットを利用するようになってからだから1990年代の後半だ。考えが主流でないのである。それはいいのだが、自分の考えが間違いだとは思っていないかったので、孤独感にさいなまれた。

 世代によって嗜好が大きく違うのはわかった。第一期ウルトラにハマったファンと第二期ウルトラのそれでは作品に求めるものが変わってくる。過去の作品だけでなく新作に対しても。

 名無しの権兵衛さんには舌打ちされそうだが、ウルトラ兄弟の競演なんてあまり歓迎したくない。平成ウルトラマンシリーズはM78星雲とは関係ない、別設定によるウルトラマンのため、ウルトラ兄弟のゲスト出演はなくなったが、「ウルトラマンダイナ」の映画化では、ティガとダイナの競演が話題を呼んだ。
 世界観が売りの一つだった「ウルトラマンガイア」が映画化されると知ったときは、大いに喜んだものだが、ティガとダイナがゲスト出演すると知ってのけぞった。映画は幼児を対象にしたファンタジーもので、作品自体はよくできていたが、なぜ「ガイア」でこれをやるのか? という不満が残った。

 僕はウルトラマン映画にいわゆる〈お祭り〉なんて求めていない。何度か書いているが、かつてのTVシリーズ「スーパーマン」や「バッドマン」が映画として蘇った、あのテイストを願っているのだ。

 「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」は念願の作品だったわけだ。

     ◇

2000/04/01

 「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」(丸の内プラゼール)

 やっとTVシリーズの世界観そのままのオリジナル映画を観ることができた。
 当初、この映画の製作が発表された時、内容がどんなものになるのか、自分なりに想像していた。
 TVシリーズでは宇宙から何者かが地球に侵入していたというエピソードが何度か描かれていて、その謎についてはあまり言及されていなかったことから、今度は地球外生物とティガおよびGUTSの最終決戦になるのではないか。と、同時にガタノゾーアとの戦いで基地を破壊されたTPCの再建模様、GUTSからスーパーGUTSに移行する下地なども描かれればいいな、と。

 予告編で映画「ティガ」に初めて接した時は愕然とした。またしても超古代文明に関する物語、それもかつてティガの仲間だったというゴテゴテに装飾された3人のウルトラマン(闇の巨人)、〝いかにも〟といった感じの悪役三人衆の登場。僕にとって一番観たくないパターンなのであった。
 特撮もミニチュアの古代遺跡を舞台にした超人同士の戦いなので、巨大さも迫力も感じられなかった。
 公開されてから、目にする映画評があまり芳しいものでなく、期待感はどんどんしぼんでいく……。

 全くの杞憂だった。ストーリー自体は想像していたとおりだったが、ティガと闇の巨人たちとの戦い、GUTSによるイルマ隊長救出作戦のドラマが見事にシンクロして、クライマックスはかなりの興奮ものだった。
 実のところ、ロートルなウルトラファンとしてはウルトラマンと敵(怪獣、宇宙人etc)の着ぐるみによる肉弾戦にはほとんど興味がなくなっている。
 だから観る者にカタルシスを与える怪獣の都市破壊、ウルトラマンとの戦いがなくてもどうでもいい(あればあったでうれしいけれど)。

 何を「ウルトラ」に期待しているかというと、人間(特捜チーム)が敵(怪獣でも宇宙人でも巨大メカ、なんでもいい)を倒すために、どんな作戦をたて、持てるメカや兵器をいかに駆使して迎撃するか、というところのドラマであり、そんな攻防を緊迫感あふれる演出と斬新な迫力ある特撮でみせてほしいと常々思っている。
 もうひとつは近未来の社会、架空の防衛組織というものをセット(ロケセット)、ロケーション、特撮(ミニチュア&CG)を巧みに組み合わせてリアルに映像化してもらいたいこと。
 TVシリーズだとスケジュールや予算の関係でむずかしいかもしれないことも、映画作品ではある程度可能なのではないだろうか。

 そういう意味ではほぼ期待どおりの作品であった。
 特撮に関しては小中監督による前2作のような驚きはなかった。
 村石監督は「ティガ」「ダイナ」でかなり斬新な特撮シーンを意欲的にみせてくれていたのに、どうゆうわけか「ガイア」になってからどうも今ひとつといった感じがしてならない。

 最初の見せ場であるガゾートの群れが都会を襲うシーンはかなりの迫力ではなるけれど「ガイア」最終3部作の焼き直しだし、ウルトラマンと闇の巨人の戦いはこれまでシリーズで何度となく扱われているウルトラマン対偽ウルトラマンのパターン以外何物でもない(ティガと光のムチを振り回すカミーラとの戦いはかなりキタけど)。
 とはいえ、この戦いにはスクリーンサイズを意識したさまざまな工夫がされていたように思う。ほかにも破壊されたビルの残骸から鉄骨がむきだしになっていたり、古代遺跡の島が崩壊する際の(たぶんCGの)波模様がリアルだったりと細かいところに神経を注いでいた。

 特撮シーンの舞台が古代遺跡の島に限定されてしまって開放感がなかったことは残念。ストーリーがそういうものだからまあ仕方ないことか。
 くやしいのは古代遺跡の街をマット画とミニチュアだけで簡単に表現してしまったこと。これは絶対セットなり、ロケーションなりで古代都市の一部を再現し、実際に俳優をその場に立たせなければ雰囲気が伝わってこない。こういう処理こそCGをつかってほしい。

 ダイゴとレナのラブストーリーがメインの物語であるが、イルマ隊長とムナカタ副隊長のほのかな恋愛を感じさせる信頼関係の描写がなかなかいい。
 スーパーGUTSの面々も意味のある登場の仕方で好印象。
 本作はこれまでと違ってターゲットの年齢層を上げ、アニメの併映もなく上映時間も長い。にもかかわらず観客の大多数を占める就学前の子どもたちは人間たちのドラマ部分に飽きる様子もなくスクリーンを見つめていた。
 面白ければ子どもが活躍しなくても十分通用するのである。




 平成仮面ライダーシリーズの第1作「仮面ライダークウガ」が始まったのが2000年。以来、15年まったく途切れるることなくシリーズが続いている。「クウガ」の主演俳優がオダギリ・ジョーだったなんて忘れられているのではないか。佐藤健が「仮面ライダー電王」の主役だったことも。

 スーパー戦隊シリーズも平成仮面ライダー以上に長寿番組になっている。70年半ばから延々と続いているのだ。「続」も「新」も「Ⅱ」も「Ⅲ」もなく毎年新しいキャラクターが登場してくる。これはすごい。

 ただ、両方のシリーズが巨大ヒーローものだったらここまでシリーズが続いたかどうか(スーパー戦隊はクライマックスで敵が巨大化、戦隊の巨大ロボと戦うお約束シーンがあるが、基本は等身大ヒーローだろう)。
 東映も昔、「ジャイアントロボ」で巨大ロボvs怪獣という特撮に取り組んだことがあるが、赤字のため2クールで撤退してしまった。仮面ライダーやスーパー戦隊が長続きする要因としてたぶんに等身大ヒーローで特撮にあまり金がかからないということもあるのではないか。

 円谷プロの平成ウルトラマンシリーズが3部作で終わってしまったこと、「ウルトラマンコスモス」以降、シリーズが中断してしまうのは、巨大ヒーローものにはとんでもない制作費がかかるからだろう。
 だいたい、円谷プロが一制作プロダクションでしかないが東映は映画会社なのである。資金力が全然違う。

     ◇

2001/09/28

 「仮面ライダーアギト PROJECT G4」(チネチッタ)  

 TV「仮面ライダーアギト」にはまっている。  
 アギトに変身する記憶喪失の根アカな青年・津上翔一、〈もう一人の仮面ライダー〉ギルスに変身する陰のある元大学生・葦原涼、警視庁〈未確認生命体対策班〉の一員で特殊プロテクター・G3システムを装着、〈メカニック仮面ライダー〉ともいうべきG3-Xとなって敵と戦う誠実だが不器用な若手刑事・氷川誠。この3人が未確認生命体(アンノウン)と呼称される謎の怪人たちと戦う物語なのだが、さまざまな要素を詰め込んだ画期的なドラマ作りがむちゃくちゃ面白いのだ。

 アンノウンはなぜ超能力を持つ一般人を次々と殺害していくのか? 津上や葦原はなぜアギト、ギルスに変身できるのか? 3人を結びつける〈あかつき号〉事件とは何なのか? 
 こうした謎の提示や解明を縦糸に、翔一が居候する美杉家の美杉教授、その息子・太一、美杉の姪・真魚(超能力女子高生)との触れ合い、ある日突然ギルスに変身する能力を得た葦原の苦悩、警視庁内の人間関係に翻弄される氷川等、3人の人間関係を横糸に、それぞれがさまざまに絡み合い、もつれ合いながらドラマが進行する。  

 前作「仮面ライダークウガ」も、これまでの東映ヒーローもののイメージを一新するストーリー展開、VTR(ハイビジョン撮影)をうまく活用した映像設計が、いわゆるマニアだけでなく大人の視聴者をも魅了した。  
 後を受けた「仮面ライダーアギト」は、「クウガ」の世界観をよりバージョンアップし、複数ヒーロー、ミステリーの連続ドラマという要素を加味した(基本は刑事ドラマの変形か?)。いくつもはられた伏線、謎が謎を呼ぶストーリー、VTR特有の鮮明な凝った映像で毎週TVにくぎづけにしてくれる(とってつけたような謎解き、忘れさられた伏線もあって、下手すればその昔の大映テレビの〈赤い〉シリーズになるおそれもあるのだが)。

 ウルトラマンと違って仮面ライダーにそれほどの思い入れのない僕は、作品の一番の見せ場であるヒーローと怪人の闘いはどうでもよく、素顔の役者たちが活躍するドラマ部分に夢中になっている。主要な視聴者である就学前の子どもたちがついていけるのかという疑問もわくが、面白いのだからしょうがない。世の女性たちの目当ては美形の主役の青年三人衆なのだろうが。  

 「仮面ライダーアギト」が東映50周年記念作として、長い歴史を誇る戦隊ヒーローものの最新作「百獣戦隊ガオレンジャー」とともに映画化された。「アギト」は第1作の放映から数えて30周年の節目の作品でもある。  
 通勤途中にある丸の内東映の最終上映の開始時間が早すぎてとても退社後では間に合わない(それでも夜も上映するからありがたいか。「ウルトラマン」の劇場版は昼間で上映が終了し、夜は別のプログラムになってしまうのだから平日行けない)。川崎のチネチッタだと上映時間も若干繰り下がり何とか間に合う。といことで、さっそく足を運んだのだが、悲しいかなこの館、スクリーンが小さい。

 先に上映された、完全に幼児向けに作られた「百獣戦隊ガオレンジャー 火の山、吼える」を観て、はたと気がついた。何も子どもを連れて行くわけじゃないのだから、「アギト」の上映に間に合えばいいのだ。だったら丸の内東映へ行けたじゃないか。  
 「ガオレンジャー」とのカップリングということもあり、いかに「アギト」が面白そうでも大の大人が一人で観に行く勇気がない。で、特撮好きな友人を誘った。「ウルトラマン」は一人で行けるというのに。思い入れの差はこういうところで表れる。  

 映画版はTVシリーズとそれほどリンクしない独立した話になっている。  
 自衛隊が管轄する多数の超能力を持つ子どもたちを研究する施設がアンノウン(蟻の怪人)の集団に襲われた。仲間がたちが皆殺しにされる中、運良く難を逃れたふたりの子ども(少女と少年)が、やがて津上(賀集利樹)や美杉家の家族、葦原(友井雄亮)と知り合う。
 自衛隊の一等陸尉(小沢真珠)は、警視庁のG3システムの上をいきながら装着員の犠牲を生むため封印されていた〈G4〉の資料を盗み出し、独自にプロジェクトG4に着手。G4を完全無敵なものにするために、真魚(秋山莉菜)を拉致し、彼女の超能力をG4に取り込み、G3-Xと対峙させる。
 自衛隊の秘密基地に侵入し真魚を奪還しようとするアギトとギルス。G4に闘いを挑むG3。そこにアンノウンが攻撃してきて……、というテレビシリーズ同様ぐいぐい引き込まれる展開である。

 タイトル前に繰り広げられるアンノウンの集団による施設破壊、殺戮シーンは見応えがあった。同じ型をしたアンノウンの集団というのが斬新なイメージだ。このアンノウンの毒牙にやられた人間がまるで水中で息ができないように窒息していくビジュアルが単純だが効果的だった。
 物語の要となる孤児ふたりの演技に嫌味がない。
 最初佐藤藍子かと勘違いした小沢真珠の作り物っぽい鼻がいかにも敵役という感じ。
 何より拉致された真魚の衣装、表情がセクシーだった。映画の中の一番の収穫だったりして。

 話には夢中になったものの、映像的には少々期待がはずれた。
 VTR撮影の特撮ヒーローものに懐疑的だった僕の考えを「ケイゾク」ばりのカメラワークで打ち破り、そのテクニックに毎回堪能させてもらっている「アギト」のこと。その映画化では映像そのものにも関心がわくというもの。
 映画化作品は、最近ちらほらと噂に聞こえてくるデジタル撮影なのだが、これがフィルム化されて上映されるとなるとその画像に不満がでてくる。
 映像に陰影がない。画面が妙に平坦だ。またビデオ画像特有の鮮明さもなくなってしまう。
 あるいはセットに制作費をかけられなかったからか、画面全体からスカスカ感が漂ってくる。
 まあ、しかしビデオ化、DVD化される際に、本来のVTR映像になればまた印象も変わるかもしれない。




 泉政行の訃報にショックを受けた。最近見ないなあと思っていたのだが、病気だったのか。「科捜研の女」にレギュラー出演していたときはうれしくてけっこうチャンネルを合わせていた。
 35歳か、若すぎるよ。
 特撮レビューの転載シリーズ、先に「アギト」があるのだが、予定を変える。

 泉政行さんのご冥福をお祈りいたします。

     ◇

2003/09/12

  「劇場版 仮面ライダー555 パラダイス・ロスト」(丸の内東映)  

 「仮面ライダークウガ」から始まった平成のライダーシリーズも早いものですでに4作め。もう4年放映が続いているのである。  
 円谷プロの平成ウルトラマンシリーズは「ティガ」「ダイナ」「ガイア」と3年続いた。21世紀になって「コスモス」が始まったが1年でTV放映は終了して、新シリーズに続かなかった。後日談としてのコスモスの新作映画が昨年、今年と2年続けて(前日談を含めれば3年続けて)公開されているというもの、その存在感は仮面ライダーに比べるとかなり薄くなってしまった。
 
 1970年代の特撮番組ブームを彷彿させる。あの当時も後発の仮面ライダーがあっというまに「帰ってきたウルトラマン」の人気を追い抜いて大ブームになったのだった。今も昔も円谷プロファン、ウルトラファンとしてはつらいものがあるのだがしようがない。
 とにかく今、時代は仮面ライダーである。イケメン俳優を起用しての連続もの、スポンサーの意向を反映させながらシリーズごとに新たなテーマを盛り込んでいく。決してパワーダウンしていないところがすごい。美形の俳優がメイン視聴者である子どもたち以上に母親たちを夢中にさせているとメディアで話題になっているが、ただそれだけでは息は続かないと思う。  

 僕が新しい仮面ライダーに注目したのは、その世界観、ドラマの作りである。  
 平成ウルトラマンも昭和のそれとは全く異なるアプローチで世界観が構築された。とはいえ、ドラマそのものには伝統的なものがある。
 事件の発生(怪獣の出現)~特捜隊の出動~ウルトラマンの出現~怪獣対ウルトラマン~ウルトラマンの勝利。この基本フォーマットは崩せない。
 
 片やライダーはというと、ほとんど昔の面影を残していない。怪人に当たる異形者は出現するというものの、「アギト」以降、記号化してしまった感じだ。そのキャラクターにあまり重きを置かない。あくまでも主人公たち人間をめぐるドラマがメインであり、クライマックスのライダー対怪人というお約束ごとも完全に無視された格好。人間ドラマの部分だけみていると子ども向けのヒーロー番組であることすら忘れてしまう内容なのだ。
 
 「クウガ」「アギト」ともにタイトルには仮面ライダーとあるが、劇中一度も〈仮面ライダー〉と呼ばれなかったことも一つの見識だった。「アギト」以降は連続ドラマになったことからかサブタイトルが廃止された。子ども向け番組に不可欠なエンディングタイトルもない。「龍騎」「555」にいたっては主題歌にヒーローの名が入らない(アニメには多いらしいがあちらはあくまでも人気歌手とのタイアップのイメージが強い)。昔から僕が夢想していたことを次々と実現してしまうのだから「もういい加減卒業」と思いながらも目が離せなくて困ってしまう。    

 これはもはや仮面ライダーではない、にもかかわらずライダーを名乗るのはなぜ? と不満だった「龍騎」に結局最後までつきあってしまった。「龍騎」は永遠の命を求めて複数のライダーが別世界(ミラーワールド)でバトルロワイヤルを繰り返す話。スポンサーの意向で変身アイテムに流行のカードを取り入れたり、CG仕様のモンスターを登場させたりと、幼少の子どもたちに喜ばれる要素を増やしながら、ストーリーそのものはそんな子どもたちに理解できないような内容、展開になっていた。
   
 本当なら「龍騎」で仮面ライダーを卒業していたはずだった。3作、3年はシリーズの一つの区切り。「555」(これでファイズと読む)のデザインもそれほどでもないし、もうこれ以上新しい展開はないと踏んでいた。まったく期待しないで観た第1話がこれまた新しい魅力を持っていた……。  

 オルフェノクと呼ばれる怪人がいる。人間がこの怪人に襲われると普通死んでしまうのだが中にはオルフェノクとして蘇ることがある。オルフェノクとして生きることになってしまった青年の話から始まったのが斬新だった。同じようにオルフェノクとなった孤独な女子高生やギタリストへの道を閉ざされた元音大生と共同生活を営みながら、主人公トリオと対峙する。ポジティブな主人公トリオに対するネガティブな位置関係というところに目を見張った。開始当初は本当に主人公たちがコメディリリーフだったのだから驚きだった。
 
 555に変身する主人公の乾巧(半田健人)、流星塾出身で今は亡き育ての父親から555のベルト(ファイズギアと呼ぶ)を託された真理(芳賀優里亜)、二人と一緒にクリーニング店を経営する人のいい啓太郎(溝呂木賢)。
 オルフェノクになっても人間らしく生きたいと願う青年・木場(泉政行)、女子高生・結花(加藤美佳)、元音大生・海堂(唐橋充)。
 この陽と陰のグループに彼らを狙って暗躍するスマートブレインという謎の企業、真理のかつての仲間たちだった流星塾のメンバーが絡んで物語が展開していく。

 人間関係が複雑である。ファイズギアをめぐって巧たちと敵対するスマートブレイン、スマートブレインに抹殺されようとしている木場。素顔の巧と木場は互いを尊重していうが、お互い555でありオルフェノクであることを知らない二人は変身後憎しみあう関係。
 流星塾のメンバーには巧同様カイザというもう一人のライダーに変身できる草加(村上幸平)という男がいるのだが、なにやらずる賢く信頼がおけない。
 また、今度の新機軸は主人公以外の人物もファイズギアを装着すれば555に変身できてしまうところ。通常の人間にはその能力はないが、オルフェノクなら可能なのである。

 「555」が始まって一番驚いたのはシナリオがまた井上敏樹だったことだ。「クウガ」から参加していて、「アギト」ではメインになり1年間ほとんど一人で書いていた。映画も担当。続く「龍騎」ではメインこそ小林靖子だがやはり参加していた。今回もまたまたメインとなって第1話からずっと書き続けている。  
 そのほとばしる才能とエネルギーに脱帽してしまう。毎週締切があって、おまけに夏には映画がある。誰にでもできることではない。  
 ただし「555」では才気と勢いで書き飛ばしているのではという思いもある。「アギト」の映画の時に書いたことだが、〈TVシリーズはヘタすれば大映ドラマになってしまう〉と感じた危惧が「555」ではより垣間見られる。  
 展開はすこぶる面白い。クラシックギターの調べに乗せての555とオルフェノクのバトルシーンには興奮した。このエピソードは特撮ヒーロー史に残る快挙ではないか。
 しかし(たぶんに確信犯的なのだが)ご都合主義が目について仕方ない。偶然が多すぎる。世間は乾グループと木場グループ、それに流星塾メンバーしか存在していないかのように事件は彼らの廻りでしか起こらない。オルフェノクに襲われるのは彼らだけなのだ。張られた伏線もいつのまにか忘れられている。  

 そんなところに映画化の話である。昨年「龍騎」の映画はパスしてしまった。ビデオも観ていない。今回もそれほど乗り気でなかったのだが、TVスポットで気が変わった。たぶんクライマックスだろうアリーナ内での怪獣と555の闘い。よくできたCG怪獣(それほど巨大でないところがいい)と等身大の555ーがどう闘うか、その映像に興味を抱いた。  
 ロードショー最終日の最終回に劇場に駆け込んだ。  
 昨年はTVシリーズのファイナルを先に劇場で公開することが売りだった。今年は登場人物が同じにもかかわらずTVとは違ったまったく独立したオリジナルストーリーだと盛んに宣伝されていた。  
 何のことはない、TVシリーズの後日談だった。  

 世界がスマートブレインの策略によってほとんどの人間がオルフェノクになってしまった近未来。真理や啓太郎、少数の人間たちはレジスタンスを組織して反撃のチャンスを狙っている。スマートブレインが持っている伝説のギアを手に入れるため。が、なかなかうまくいかない。焦る仲間たち。かつての同士555の巧は今や行方不明の身だ。真理は彼こそが救世主と信じ再び現れることを願っているのだが……  

 舞台はまるで「リターナー」の未来世界ということは「ターミネーター」のそれ。T嬢が感嘆したように、まるで「西部警察」みたいな火薬をフルに使用した爆発のシーンの連続。スタッフ、キャスト一同が頑張っているのはよくわかる。わかるけれど、映像にどこかスカスカ感がある。アクションのアップは、ハイビジョンをフィルムに転換したためなのか、コマ抜きのようにカクカクしてどうにも気になる。  
 TVのビデオ独特の鮮明な画像、それを生かした映像美に慣れた目には薄っぺらい映像に違和感を覚えてしまうのだ。  
 他の映画から触発された(悪くいえばイタだいた)シーンに興をそがれた。海堂の結花への愛の告白。このシーン自体TVの最終回近くで拝見したかったものだが、台詞がまんま「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」のハン・ソロとレイアの会話を逆にしたものだ。クライマックスは「エピソード2」だし。CG怪獣の出来には目を瞠ったけれど、井上さん、やっぱりどこか手を抜いているような気がする。  

 この映画のもう一つの売りだった1万人のエキストラ出演は壮観だった。けれど、ある部分これまた興がそがれたものである。  
 クライマックス、オルフェノクになってしまった人間たちが観客として見守る中で、スマートブレインの魔の手に落ちたヒロイン真理が怪獣のいけにえされ、まあいろいろあって、555と木場が変身したオルフェノクとの戦いになるのだが、アップになった観客は撮影に参加できてうれしくてたまらないエキストラの顔でしかない。これはエキストラに罪はない。せめて、会場のアップの場面は役者たちを起用してもらいたかった。  

 映画がつまらなかったわけではない。しかし僕はノレなかった。TVシリーズが終了した後、ビデオで観て、こういう話もありか、と納得するべきだった。




2015/07/18

 「彩の国さいたま寄席 四季彩亭~彩の国落語大賞受賞者の会 立川談笑」(さいたま芸術劇場 小ホール)

 この落語会については偶然ネットで知った。談笑落語に興味があるところにゲストが談四楼師匠だというのであわててチケットを申し込んだ。それにしても彩の国落語大賞なるものがあったとは!

 さいたま芸術劇場は一度だけ行ったことがある。娘が中学生のときに所属していた吹奏楽部が県のコンクールに出場した。コンクールの会場が芸術劇場だったのだ。いや、高校時代だったか。
 とにかく、この劇場は蜷川幸雄が芸術監督となってシェイクスピアを上演していることで有名だ。劇場近くの歩道にはシェイクスピア劇に出演した役者たちの手形レリーフが並んでいる。

 前回行ったのは音楽ホールだった(と思う)が、今回は小ホール。こじんまりとしていて、また座席が階段状になっているから舞台が観やすい。
 座席はK-15、後ろの方だ。右隣は若い女性が二人、左はお年寄りの女性二人連れだった。

 始まってすぐに変な音が聞こえてきた。それもすぐ近くから。左隣の女性がつけている補聴器が発生源だとわかった。わかったものの注意することに躊躇した。ハウリングではない。接触不良というか受信不良というか、少々神経に障る音なのだが、我慢できないわけではない。そのうち本人が異常音に気がつくだろう。それまで待とうと思った。もう一人の女性から指摘があるかもしれないし。
 ところが前の席の老夫婦がしきりに目配せするようになった。たまに後ろを振り返る。音を気にしていることは一目瞭然。回りの人たちもこの音を不快に感じているのか。だったら隣の僕が皆を代表して声をかけるべきなのか。

 いろいろ考えた末、仲入りまで待つことにした。
 が、前の席の夫婦が何度も後ろを振り返るので、本人も音に気がついたようだ。補聴器をはずしてバッグにしまってしまった。にもかかわらず音は鳴りやまなかった。
 これはもう言うしかあるまい。
 隣の女性の耳元でささやいた。
「すいません、音がまだやまないのですが」
 たぶん聞こえていないのだろう、女性は反応しない。
 もう一度言った。
「あの~、音はまだ鳴っていますよ」
 やっと気づいてくれた。しかし、補聴器のスイッチ(だと思う)を切るまで、いろいろやりとりがあった。相手は補聴器をしないとまったく耳が聞こえない(ことがあとでわかった)。声が大きくなるのだ。僕らのやりとりに対して、振り向くお客さんが多くて困った。演者にも迷惑をかけたかもしれない。

 休憩時に詳細がわかった。
 女性はいくつも補聴器を持っていて、会場でどれがいいか実際に身につけて選んでいた。補聴器Aを取り外してスイッチを切るのを忘れたままバッグしまって、補聴器Bをつけた。そしたらこれが調子がいい。つまりAとBが反響しあって不快音が発生したというわけだ。
 
「補聴器はずすと何も聞こえないからね、もう帰ろうと思った」
 一件落着して女性が言う。
「前の人は何度も振り向くし、もういたたまれなくて」
 

  立川笑二 「真田小僧」
  立川談四楼「一文笛」
  立川談笑 「金明竹」

  〈仲入り〉

  立川吉笑 「狸の恩返しすぎ」
  立川談笑 「片棒・改」


 さて、高座の印象。
 笑二さんがとても巧くなっていた。面白い! フラと実力が掛け算となっているというか。成長著しい。
 談四楼師匠は、予想どおりの演目。「待ってました!」 聴きたかったんだ、これ。
 談笑師匠の「金明竹」は東北弁バージョン。ほんと何をしゃべっているのかわからず笑いも倍増する。
 吉笑さんの「狸の恩返しすぎ」は吉笑落語の定番になったのか。もしかしたらお客さんの大部分は古典落語、狸ものの一つぐらいの認識でいたりして。
 談笑師匠の2席めは「片棒・改」。マクラで師匠・談志のケチぶりを吹聴するときは必ず「片棒・改」って決まっている、らしい。本人が噺に入る前にこれまた必ず説明する。一度は生で「イラサリマケー」(居酒屋・改)を観たい、聴きたいと願っているのだが。

 それにしても、談笑一門は個性派ぞろいだ。三者のキャラクターが際立っていて三様の落語が楽しめる。この3人で興行が成り立つのではないか(前座の笑笑さんの離脱が残念だ)。
 今回、3人に足りないものをゲストが埋めた形になって、充実した落語会となった。





 先週31日(金)は「さばの湯 雑把亭 談四楼独演会」に行こうと思っていた。前日に「いつも心に立川談志を」(講談社)を購入して準備万端。が、懐事情で断念した。2ヶ月続けて赤字なので。

 帰宅してから北海道のTさんから携帯に電話が入る。帰宅途中に電話したのだがつながらなかったのだ。要件は「ALFA MUSIC LIVE」のこと。以前、Tさんに連絡してもしチケットがとれたら北海道から飛んでくると聞いていたので、二人分のチケットを確保しようとしていた。

 まずぴあ会員向けに先行予約(抽選)があったので、Tさんにお願いして応募してもらった。残念ながらハズレてしまったが。そのときは、「じゃあ1日(のチケット発売日)は朝から電話しまくってぜがひでもチケットを手に入れる」と意気込んでいた。日が経つにつれてだんだんと諦めムードになっていた。Tさん(紙ふうせんスタッフの)からWOWOWで放送されると教えてもらっていたので、だったら生の観賞はいいかなと。

 だいたい、9月、10月はライブラッシュなのだ。

  9/5(土) 「紙ふうせんシークレットライブ」(某所)
  10/4(日) 「紙ふうせんリサイタル なつかしい未来vol.10」(兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール)
 10/10(土) 「新宿 フォークソングが流れる街」(新宿文化センター 大ホール) 

 もしTさんが「どうしても観たい!」と言うのであれば、1日は臨戦態勢をとるつもりでいた。そのために毎週土曜日に通っているI歯科の予約を昼の12時にしていたのだから(いつもは10時とか10時30分)。Tさんに確認したら「行けそうもない」とのこと。じゃあ、TV中継で我慢しましょうということになった。

 翌1日(土)はすっぽり空いた時間を使って「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」を観た。地元シネコンの朝一番の回に足を運んだのだ。映画サービスデー、おまけに話題作ということもあって、劇場はかなり混んでいた。

 原作ファンには不評のようだが、僕は楽しめた。新種の怪獣映画として観たのである。原作のコミックは読んだことがなくTVアニメも観たことがない。あくまでも、「フランケンシュタイン対地底怪獣」「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」のノリを期待していた。期待は裏切られなかった(もちろん不満はある)。
 ヴィジュアルはハリウッド映画に引けをとらないし、ドラマ部分もこれまでの樋口作品に比べたらきちんとしていた。音楽も良い。

 シネコンからそのままI歯科へ。それにしてもとんでもない暑さだ。まるで街がサウナになったみたい。
 帰宅して念のためチケット予約の電話をしてみたが、どこも完売していた。当たり前の話だが。

 夕方は船堀へ出かけた。
 ドキュメンタリー作家(元フジテレビ演出家)の横田安正さんのご自宅へ。毎年開催している花火パーティーに初めて参加した。
 僕が編集を担当したインディーズ映画特集(第2弾)の「まぐま Vol.14」に発行者のKさんが寄稿したのが横田さんのインタビュー記事だった。発行記念パーティーに横田さんも参加して盛り上がった。その縁で恒例の花火パーティーに誘ってくれたのである。8月の第一週の土曜日は江戸川の花火大会があり、それを横田さん宅のベランダ(マンション7F)で見ながら飲食する会だそうだ。

 ところが、誘われた当日にどうしてもはずせない用事があって行けなかった。横田さんには来年はぜひ参加しますのでまた誘ってくださいと返信したのだが、翌年メールは来なかった。
 Kさんはほぼ毎年参加していて、今回はKさんから声をかけられた経緯がある。

 横田さんは当時「ドキュメンタリー作家の仕事」という本を上梓していた。読んだ感想は以下のとおり。
 なお、横田さんは日大芸術学部で教えていたことがあり、春日太一氏は最初の教え子だったとのこと。
 船堀映画祭についてはまったく知らなかった。
 パーティーは盛会だった。

     ▽
2006/09/26

 「ドキュメンタリー作家の仕事」(横田安正/フィルムアート社)

 「まぐま Vol.14」で発行人のK氏がこの書籍をテーマにインタビューしている。そのときから気になっていたのだが、ライブを聴きに訪れた荻窪の、ちょっと時間があったので立ち寄った某古書店で見つけ、あわてて購入した。

 驚いたことに昔横田さんは奇形猿・大五郎のドキュメンタリーを撮っていた。このドキュメンタリーは観ていないが、この猿を飼っていた家族が書いた本(文庫)は読んでいる。そんな昔ではない、数年前だ。とてもかわいらしい猿だった。
 ドキュメンタリーは世界的にBBC方式というトーキングヘッド(インタビュー)を主体にした構成が主流となっている中、「NO!」と叫んで独自の構成法を生み出したのが横田さん。それが「リアリティ構成法」。
 でも私にはこの方が当たり前のような気がする。

 普通ドキュメンタリーでシナリオを先に書かないだろう。そういう意識があったから、市川崑監督が「東京オリンピック」の総監督に任命された際、最初にシナリオを書いた(脚本:谷川俊太郎)と聞いて驚いたのだ。横田さんが「東京オリンピック」についてどう思っているか、知りたい。
 崑監督がオリンピックの記録映画を撮るにあたって参考にしたのがレニ・リーフェンシュタール女史の「民族の祭典」と「美の祭典」。
 ベルリンオリンピックを記録したこの映画はオリンピック映画の最高傑作と謳われている作品である。棒高跳びの競技は白熱した展開が夜遅くまで及んだ。当時の技術では夜の撮影が行えず、後日選手に集まってもらって再撮したという。これはやらせにあたるのかどうか、横田さんの考えを聞いてみたい。
 それから恩師五社英雄のドキュメンタリー創作作法についても。これが一番面白そうだ。
     △




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。さまざまなイベントを企画、開催していますので、興味あれば一度覗いてみてください。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top