本日フジテレビで放映された「ホワイトハウス・ダウン」、ある意味「ダイ・ハード」のパクリなのだ。「インデペンデンス・デイ」同様、アメリカ合衆国万歳!で味付けして。エメリッヒ監督はドイツ人なのに。

 この映画は試写会で観た。
 精神的なことで会社を休職しているときに。
 まあ、それなりの面白さ。

     * * *

 2週間前に図書館のDVDコーナーで見つけたので借りてきた「フライ・ダディ」。金城一紀の小説「FLY,DADDY,FLY」は岡田准一、堤真一主演で映画化された。韓国でも映画化されていたなんてちっとも知らなかった。

 日本の人気小説が日本だけでなく韓国で映画化されるのは珍しいことではない。貴志祐介「黒い家」がそうだった。韓国映画「黒い映画」はDVDで観た。残念ながら日本も韓国もあまり出来のいい映画ではなかった。

 しかし「フライ・ダディ」は違う。これは韓国映画に軍配が上がる。
 主人公の父親が訓練によって肉体改造していることが実感できるのだ。そのほか、原作を損なうことなく、映画のオリジナルを挿入している。

 本当なら、もう一度原作をあたり、日本映画の方もDVDで確認してから書くべきなのだが、そんなことしたら時間的にUPできないから、あくまでも記憶だけで書いていることをご了承のほどを。

     ◇

2005/06/28

 「FLY,DADDY,FLY」(金城一紀/講談社)

 岡田准一、堤真一主演により映画化されたと知って、あわてて借りてきた。「GO」の感動が忘れられない者としては当然の行為。作者も映画化作品に対する想いは同じだったらしく今度は自分で脚本まで書いているというのだ。これは期待するなというほうが無理だろう。「小説と映画のあいだに」で取り上げられるかもしれないという下心見え見えだな。

 鈴木一、47歳。大学時代の同級生だった女房と名門女子高に通う一人娘の3人暮らし。会社でも順調に出世して今は経理部長だ。一戸建てのマイホームも手に入れ、平凡ではあるが充実した毎日を送っていた。
 そんな彼が遭遇した人生一大のピンチ! 娘がカラオケボックスで暴行を受け入院したのだ。
 暴行した相手は都内の有名私立高校のボクシング部選手・石原。インターハイで二連覇している強者で、両親はふたりとも芸能人、病院へは教頭、顧問とともに訪れはしたものの、まったく反省の色がない。だいたい事件の詳細が要領を得ない。学校側も多くを語ろうとせず、この不祥事を金と力で解決しようとするだけ。娘の心の傷は大きく、怪我が完治しても固く口を閉ざす。
 家族の長として、男として失格……
 失意の彼が知り合ったのが、先の有名私立高校と同じ地区にある某三流高校の落ちこぼれ生徒たち。南方、板良敷、萱野、山下、朴舜臣(パク・スンシン)のグループだ。
 会社から一か月の休暇をもらった彼は喧嘩の達人、舜臣の指導のもと、激しいトレーニングを積む。喧嘩の極意をマスターした彼は、石原に素手による一対一の対決を申し込む……

 主人公と驚くほどシチュエーションが似ていた。
 まず年齢が近い。中肉中背。女房と高校生の娘の3人家族。娘は一人っ子を感じさせないしっかりタイプ。マイホームから駅まで約2キロ。バスを利用している。
 ま、こちらは同じ上場企業に勤めながらも出世にはほど遠く、自宅も狭い中古マンションで娘に勉強部屋も与えることができないだらしない父親ではあるのだけれど。

 物語はある種のファンタジーといっていい。仕事一途に突き進んできた平々凡々の男が、ある事件をきっかけにして激しく苦しいトレーニングを積み、やがて一対一の男の決闘に挑む。その過程で、その結果、男は何を手にするのか。
 普通に考えれば、〈そんなバカな〉と思えるような展開もあるが、シラけることはない。読み進むうちどんどん熱くなっていく。クライマックスの対決では手に汗握ることになるが、個人的にその前のバスとの競争のくだりに胸にくるものがあった。
 最終バスに乗るサラリーマンのグループ。いつも同じメンバー、互いに認識しているものの会話を交わしたことはない。彼もその一人だったが、トレーニングに励み脚力に自信をつけてからはバスに乗るのはやめ、走って帰ることにした。バスの発車とともに駆け出し、利用している停留所までどちらが先に到着するか競争するようになったのだ。普通に走ればバスが早いのは決まっている。しかしあちらには信号待ちがあるのだ。最初は全然かなわなかったが、いつのまにか肉薄するようになってきた。ついに勝利する時がやってくる。勝利した時の、それまで無関心を装っていたメンバーたちのはしゃぎようがいい。

「GO」同様、やはりこの作者は〈軽さ〉が身上だ。よみやすい軽快な文章、散りばめられた笑い。あっというまに読了してしまった。
 聞けばスンシンたち落ちこぼれグループが活躍する物語の、これは第2弾だという。第1弾の「レボルーションNo.3」もあたらなければなるまい。

     ◇

2005/07/17

  「FLY,DADDY,FLY」(丸の内東映)

 原作者(金城一紀)自身がシナリオを書いた映画(監督:成島出)はいかなるものか。かなり期待して丸の内東映会館に向かった。
 入口に立って看板を見上げると、「FLY,DADDY,FLY」の隣に昨日公開されたばかりの「姑獲鳥の夏」が。こちらも主演が堤真一である。片やダメ中年オヤジ、片や古書店の主にして頭脳明晰の陰陽師・京極堂=中禅寺秋彦役。まったくタイプの違う人物を演じるのは役者冥利につきるだろう。

 高校生の娘(星井七瀬)に理不尽な暴行を働き大怪我をおわせた有名私立高校ボクシング部の選手(須藤元気)。腕力だけで理性のかけらもないが、インターハイ三連覇に賭ける選手は学校にとって名誉なことであり、表沙汰にできないこの不祥事を金と権力で闇に葬ろうとする教頭(塩見三省)と顧問の先生(モロ師岡)の態度。彼らに怒りを覚えながらもただオロオロするばかりの父親(堤真一)
 俺は娘のため家族のため何をすればいいのだろう?
 娘の信頼を失くした男が、落ちこぼれ高校の5人組と知りあい、喧嘩の達人・スンシン(岡田准一)の特訓を受け、見事復讐を果たす物語。

 うまく小説世界を映像に転換させていた。ロケが効果的だ。この世にありえない架空の世界、といって絵空事ではない人間味あふれる世界が確かにスクリーンに存在している。
 冒頭、主人公のプロフィールを語るモノクロシーン、その語り口はかなり快調である。原作の設定を変え、毎日最寄駅まで妻(愛華みれ)が送迎していることに、その夜は娘も一緒に迎えにくることによって、家族構成を含め、その仲の良さをアピールする。
 続くもう一人の主人公スンシンの登場シーンでは瞬時にカラーとなって空の蒼さを強調する。映像処理や対比がいい。
 いいのではあるが、娘が3代目夏っちゃんこと星井七瀬であることと父と娘の仲が良すぎることに違和感を覚えた。星井七瀬だとどうにも幼すぎるのだ。もっと大人びた、クールな感じをイメージしていた(途中、友人役で渋谷飛鳥が出てくるが、彼女の方が個人的には適役だと思う)。それに娘と父親のやりとりがいかにも絵に描いたようで嘘っぽい。この年頃の娘はもっと父親に冷たいぜ、悲しくなるほどに。
 この違和感を最後まで引きづってしまった。

 もうひとつ、バスとの競争シーンで常連の乗客たちが最初から主人公を応援する態度に閉口した。主人公一人だけの達成感が、実は乗客一人ひとりの感動に結びついていたという原作の味がなくなった気がする。というか、一人で喜びをかみしめていた主人公、そこにバスがバックしてきて乗客、運転手が拍手喝采する、展開の方が感銘は倍増すると思うのだが。
 原作では主人公が家族には内緒で特訓を受ける。会社に行く振りをして毎日スンシンに会っているわけだ。もちろん仲間たちが家族に連絡をとって、肉体改造の食事メニューやらなんやら教えているのだが。直接には高校生と家族のやりとりは描かれなかったところが、対決前の夫婦の会話に活かされていた。映画は夫(父親)の勝利を願う妻や娘の姿を描いている。それも出来すぎていて肩透かし。
 スンシングループの面々が協力して、仲間一人を屋上からロープで吊るし、娘の病室のところまで降ろさせ、意思の疎通をはかるなんて行為は少々やりすぎではないか? トトカルチョのくだりは映画オリジナルでこれは納得。

 大木に吊るされたロープを腕だけで昇る特訓がある。何度も失敗し、やっと昇った主人公がスンシンと太幹に腰を下ろして対話するシーン。夕暮れ時で空には星が瞬き、眼下には住宅街が広がる。木に登った二人とバックの空や住宅街はたぶん合成だろう。この合成が素晴らしい。手前の二人を移動カメラで捉え、その動きに合わせてバックの空も色を変えながら動いていく。内容的、映像的に屈指の名シーンといえるのだが、やはり合成は合成なのである。開放感がいまひとつ感じられないところが悔やまれる。
 それからこれはないものねだりかもしれないが、特訓によって徐々に肉体がリフレッシュされていく様、頬がこけ精悍になったり、胸板が厚くなったりといった描写があったら、また違った感動、感銘を受けたと思う。

 というわけで、観終わってすがすがしい気持ちに浸れたものの、「GO」のように絶賛する気になれないのが残念で仕方ない。
 原作を先に読んでいなければ印象も違ったものになったと思うのだけど……。

 カメラワークの良さは特筆できる。キャメラマンは誰だろうと気になってエンディングロールで確認すると仙元誠三だった。


 【追記】

 その1
 決闘の前に主人公が娘の幼少時代のビデオを見るシーン。1年に一度くらい僕も無性に見たくなるときがある。キスしてと言うと喜んで唇を近づけてくれた。歩くときは必ず手をつないできた。それが今は――。

 その2
 主人公がジョギングしているコースにいつも登場する老夫婦の旦那さん、東映特撮ヒーロー番組でいつも悪役(の幹部)やっていた役者さんですよね? 懐かしかったなァ!

 その3
 協力のクレジットに〈太田市役所〉とあった。これは郷里の群馬県太田市のことだろうか? 何年か前に瀟洒な建物に建て替えられていているのだ。




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 今年になって月10冊のノルマが果たせない。
 1月に続いて2月も10冊読めず。

     ◇

2016/02/07

 「マスコミ漂流」(野坂昭如/幻戯書房)

 僕は野坂昭如の本名が阿木由紀夫だと違いしていた。小説を書く前、三木トリローグループで構成やCMソングの作詞等で活躍していた時代の名前の方がペンネームだったのだ。
 独特な文体。だって、普通の感覚なら「……である」で一度〈。〉にするでしょう。ところが野坂昭如は、〈、〉を打ってまだ文章を続けるのだ。だからワンセンテンスが長い、長い。まあ、読みなれてくるとそれが癖になってしまうんだけれど。
 

2016/02/10

 「火の鳥 復活編」(手塚治虫/虫プロ商事)

 古書店で虫プロ商事が刊行した「火の鳥」を発見。それも「復活編」「鳳凰編」という、シリーズの傑作2作。日焼けがすごいが安価だったので買ったというわけ。トイレの友になった。
 従兄が大の手塚治虫ファンで、遊びにいったとき棚にあった本書を取った。それまでも「火の鳥」という作品は知っていたが、読んだことがなかった。
 読了してすっかり魅了されてしまった。その後、立て続けにシリーズを読み漁ったという次第で。


2016/02/11

 「廃墟の残響 戦後漫画の原像」(桜井哲夫/NTT出版)

 「手塚治虫」の著者の新刊。敗戦を知っている漫画家には廃墟の残響があるとの持論を展開している。得心しながら、少々無理やり感があるような気がしないでもない。


2016/02/13

 「火の鳥 鳳凰編」(手塚治虫/虫プロ商事)

 「復活編」が未来を代表する一冊だとすると、「鳳凰編」は過去編を代表する作品だ。


2016/02/14

 『誰も書かなかった「笑芸論」』(高田文夫/講談社)

 著者の高田文夫も神様によって生かされたんだな。松村邦洋もそう。


2016/02/26

 「日本語教室」(井上ひさし/新潮新書)

 紙ふうせん事務所の棚で発見。しばらく読んでいたが、帰らなければならず、残りは図書館で借りて読んだ。
 井上ひさしは僕の日本語の先生(の一人)で、日本語に関する本はほとんと読んだつもりでいたが、これは初めてだった。


2016/02/28

 「別冊映画秘宝 特撮秘宝 vol.3」(洋泉社)

 表紙がガイラだぜよ。
 「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」のシナリオも掲載されている。
 リンダ・ミラーのインタビューもある。「キングコングの逆襲」のヒロイン!


2016/02/29

 「本多猪四郎の映画史」(小林淳/アルファベータブックス)

 この新興の版元社長はぜったいウルトラホーク1号のファンだと思う。
 って冗談。
 切通さんの評伝が先に上梓されているので、二番煎じなのではとちょっと心配しながら読み始めたのだが、杞憂だった。
 本多監督のほぼ全作品(特撮作品以外の作品も)を時系列的に扱っている。きちんと公開された時代を背景にしているから当時の状況が鮮やかなに甦る。読み応え十分。
 「フランケンシュタイン対地底怪獣」の評価に快哉を叫んだ。




 福田和子の事件は、かつて大竹しのぶ主演でスペシャルドラマ化されていた。観たのだろうか? 記憶にない。事件の再現特集とかドキュメンタリーは覚えているのだけれど。

 今回のドラマ化では、現在の若い女性記者(松岡菜優)が上司(安田顕)の命令で福田和子事件を取材することになって事件を振り返るという構成になっている。
 数年前草なぎ剛が手塚治虫に扮したスペシャルドラマがあったが、これも現在の女性編集者が過去にタイムスリップするという体裁になっていた。
 若い女性が語り部というところがミソで、ワンパターンになっている。
 ただ、ラスト、福田和子が自分の面や声が世間に知れ渡っているにもかかわらず、なぜおでん屋に毎日のように顔をだしていたのか、その推理に膝を打った。

 それにしても、福田和子の殺人にはまるで同情の余地がない。あまりに勝手すぎる。なぜ逃げるのか、については、新事実(?)を提示するが、にしても納得できない。
 人好きのする、とても頑張り屋なのは理解するけれど。

 かつてこの事件にインスパイアされた映画が公開された。

     ◇

2000/10/11

  「顔」(テアトル新宿)

 映画館には毎月〈映画サービスデー〉というのがある。入場料が1,000円になるのでけっこう重宝している。これで映画を観る回数が増えたほどだ。なかにはレディースサービスデーなるものもあって、どうして女性ばかり優遇するのか、男性向けのサービスも少しは考慮してくれてもいいではないかと思うこのごろなのである。
 が、テアトル新宿(ちなみにここ、テアトル東京系の映画館は毎週水曜日がサービスデーとなっている)に「顔」を観に行って、女性たちが優遇されるのも無理ないかなと思い知った。
 ヒットの噂を聞き、おまけに水曜サービスデーでもあるのでかなりの混雑を予想して、最終上映1時間前に入場した。後から続々やってくるお客さんはほとんど女性ばかり。それも若い人から年配までという幅の広さだ。
 女性の面白いものに対する敏感さ、俊敏さを改めて認識した次第。まったくもって恐れ入ります。口コミを狙うのだったらやはり女性だろう。映画館が女性にサービスするのは当然の行為かもしれない。

 同僚のホステス殺しで指名手配され、全国を逃亡、時効寸前で逮捕された福田某の事件を下敷きにしたと思われるこの映画、とはいえ、ヒロインのキャラクターはオリジナルだし、ストーリーもフィクションである。
 母親が急死し、その通夜に日頃仲の悪い美人の妹を殺してしまったヒロインが逃亡生活の中で人と触れ合い、だんだんと心を開き、きれいになっていく様子が描かれる。
 このヒロイン・正子のキャラクターがユニークだ。裁縫の技術だけに長けたどん臭い引きこもりの年増女性という設定で藤山直美が扮している。
 冒頭、正子は舌打ちしたくなるようなイヤな女として登場する。
 口論の末、たぶん発作的に妹(牧瀬里穂)を殺したあと、放心状態の正子は風呂に入りながらナイフを手首にあて自殺を図ろうとするができない。それは転生を信じる正子のうちにある「たとえ生れ変わったとしても何も変わらないから」という絶望感による。理由を知って急に正子が愛しく見えてきた。それに妹を殺したことに対する罪の意識を常に持っていて、逃亡中も妹の幻影にさいなまれているところも彼女にたいする思い入れを強くしてしまう。
 逃亡を図った早朝、商店街の一角で睡眠をとろうとして阪神大震災に遭遇し「バチがあたった!」と何度も叫ぶ姿がおかしい。

 主演の藤山直美がいい。自転車に乗れない。泳げない。この見るからにどん臭い女の正子を外から内から見事に演じている。特に巧いなあと思ったのは正子が大分に逃げてからスナックで働き出し、客とカラオケに興じるシーン。タンバリンを叩けばリズムをはずす、唄をうたえば英語の歌詞がメロディに半テンポ遅れる。ちょっとしたしぐさでどん臭さを体言していた。

 共演者が豪華だ。
 正子に道を教えるそぶりでトラックに連れ込み、犯してしまう酔っ払いに中村勘九郎。ほとんど信じられない役柄だ。
 最初に正子が働くラブホテルのオーナーに岸辺一徳。いつも同じ演技なのに不思議とその役になりきってしまう。
 正子が恋する憧れの男性に佐藤浩一。特急「にちりん」でのふたりの会話は抱腹絶倒。台詞と間の取り方に藤山直美が寛美の娘であることを再認識できる。
 正子が世話になるスナックのママに大楠道代。見るからにちょっと疲れた気のいい田舎のママさんだった。良い。
 彼女の弟のちんけなやくざが豊川悦史。トヨエツってこういうエキセントリックな〈普通じゃない〉役が似合う。スナックの客で正子に恋する男は國村隼。
 派手さがなく、演技々していない芝居をする役者たちが脇を固めている。

 倫理的にはけっして正しくはないけれど、ラストに見せる正子の生きていくことへのずぶとさが実に爽快である。




 忘れていたわけではないんですよ、北海道のジンギスカンさん!

     * * *

2015/10/10

 「新宿 フォークソングが流れる街」(新宿文化センター)

 その2より続く

 新宿3丁目駅をでたところでWさんと待ち合わせ。Wさんにイタリアンレストランで少し遅い昼食をごちそうになり、いざ会場へ。
 
 新宿文化センターは初めてだ。
 大ホールにはパイプオルガンが設置されている。
 チケットが売れていないとのツィートを見て心配していたが、1Fはほぼ満杯になって安堵。単なる観客なのに。

 オープニング、まずステージになぎらさんが登場。挨拶した後、本コンサートの内容を説明する。
 オムニバス形式ですよ、と。つまりはフォークジャンボリー形式だということ。
 一人4曲、30分のステージ。
 ということは、30分✕7=210分、4時間弱。ALFA MUSIC LIVEと同様の時間。出演者の数は全然違うのに。
 なるほど、中途半端な時間に始まるわけだ。


 ●小野一穂

 出演者は60年代から70年代にかけてのフォークシーンの大御所たちなのだが、一人だけ知らなかったのがこの方。写真を見る限り若いアーティストだ。
 調べたら父親が友部正人だった。日本のボブ・ディランではないか。友部正人って、本名が小野正人なのである。
 僕の中では、友部正人、大塚まさじ、西岡恭蔵がつながってくる。
 で、小野一穂。本人が言うのには、遅咲きのシンガーだと。「まだ、咲いていないよ~」がオチ。
 ギター1本、ハーモニカ。これぞフォークソングや!
 「風に吹かれて」を日本語詞で歌ったのだが、どうもピンとこない。

  タイトル?/Folk song/風に吹かれて/父さんの唄


 ●中川五郎

 中川五郎は、僕にとって伝説のフォークシンガーだ。生の姿を初めて見る。
 ストロークが激しすぎて1曲めでギターの弦が切れてしまった。本人、そのまま次の曲へいこうとするが、なぎらさんが登場して自分のギターを貸す。
 ラストの「腰まで泥まみれ」は最近YouTubeで原曲を聴いている。
 オリジナル「Waist Deep in the Big Muddy」はピート・シーガーが歌っている。
 日本でも多くの歌手がカヴァーしている。高石ともや岡林信康。最近では元ちとせが歌っている。とはいえ、日本で「腰まで泥まみれ」といったら中川五郎なんだろう。
 いかにも英語詞を訳しているという感じが気になる。

  どこがおかしい愛と平和信じること/タイトル?/時代は変わる/腰まで泥まみれ


 ●山崎ハコ 

 小野一穂も中川五郎前にスタンディングでの歌唱&演奏していたが、山崎ハコは椅子に座って。
 サポートギターの男性(安田裕美)が二階から見ると佐村河内守のような容貌でかなりのインパクト。インパクトがあったのは容貌だけではない。ギターテクニックも素晴らしく瞠目(いや瞠耳か)した次第。
 
  望郷/ヨコハマ/縁(えにし)/気分をかえて


 ●友川カズキ

 友川カズキ、だとどうもピンとこない。旧名の友川かずきと書きたい。
 なぜかずきからカズキにしたのか。俳優のえなりかずきが原因だという。考えすぎだって。
 それまで名前だけしか知らなかった友川かずきの歌を初めて聴いたのはTVドラマ「3年B組金八先生」だった。もちろん1シーズンの。
 何の歌だからタイトルは忘れていたのだが(調べたら「トドを殺すな」だった)、衝撃的だったという印象だけを覚えていた。
そのときの衝撃が甦った。ギターは弦楽器ではなく打楽器なんだ、と。
「4時まで絵を描いてセンズリして寝る」
「今日も歌うまえにゴールデン街で一杯ひっかけた」
 そのほか、放送禁止用語の四文字もよくでてくる。
 オリジナルの「夜へ急ぐ人」が聴けて大感激。

  夢のラップもういっちょう/夜へ急ぐ人/光るクレヨン/生きてるっていってみろ

 
 この項続く



 録画していた「福田和子 整形逃亡15年」を観た。スポットのときも思ったが寺島しのぶ適役じゃないですか。
 福田和子の事件でTVや雑誌がかまびすかったとき、よく出てきたのが和子が整形した顔(の写真)で、それを見るたびに、幼なじみのY子を思い出していた。

 ということで……

     * * *

●「極道の妻たち」上州太田篇 2005/04/04

 「極道の妻たち」は東映の人気シリーズだ。
 妻と書いて「おんな」と読ませる。もともと家田荘子が暴力団組長と結婚した女性たちを徹底取材したルポルタージュ。週刊文春に連載されていた。
 完結して一冊にまとまると東映が岩下志麻をヒロインにして映画化した。原作を読んだことないし、映画もあまり観たこともないので何とも言えないが、たぶん原作と映画は何の関係もない。タイトルと組長の妻が主役という部分だけいただいたのではないか。
 それまで男中心のやくざ路線を敷いてきた東映にとって、女性を主役にもってきたところがミソであり、ヒットにつながったのだろう。「仁義なき戦い」の後を継ぐヒット作となって、十朱幸代、三田佳子らもヒロインを演じながら10作作られた。3作めの「三代目姐」にはショーケンが準主役で出演していた。
 一旦完結したと思われたシリーズが高島礼子主演で再度シリーズ化されてすでに数年経つ。東映らしい商売だ。「仁義なき戦い」もなんだかんだいいながら今だに制作されているのだから。
 平成仮面ライダーシリーズももう何作めになるのか。考えてみれば戦隊シリーズなんて一度も途切れることなく20年以上の歴史を持つ。一つの人気作にしがみつく底力というのか……
 だから、たった一作だけで原作すべてを描ききろうとする「デビルマン」によくGOサインを出したものである、と思ってしまう。残念でならない。
 
 話がそれた。
 当初高島礼子が極道の姐さんに扮すると聞いて違和感があった。彼女についてはまだ名前も知らない頃、新妻に扮したCMから注目していた。魚がさけなくて亭主に甘える姿がかわいかった。「さまよえる脳髄」では大胆な濡れ場を演じていて興奮した。
 普通の女性(たとえば主婦、OLだとか)を演じると内面の色気が発揮できる女優さんという印象があった。それが「極道の妻たち」のケレンたっぷりの役どころ。作品選定を誤っているんじゃないかと思ったりしたこともある。しかし、映画が人気を呼んでいることはファンに支持されている証明だろう。僕自身の高島礼子熱はすっかり冷めてしまったが。
 って、別に高島礼子や「極道の妻たち」を語るのが目的ではなかった!
 実は、19歳の予備校時代に一度だけホンモノの極道の妻を目撃した、というか接点をもったことがあるのだ。
 それを書こうと思ったが長くなるので、続きはまた明日ということに……


●今度こそ「極道の妻たち」上州太田篇 2005/04/05

 大学受験で上京した折、新宿京王デパートのレストランでドリアを食べて見事にはまった。世の中にこんなうまい食べ物があるのかと。グラタンのマカロニがライスになっただけじゃないか!と言わないでもらいたい。それまでグラタンを知らなかった……。
 そんな話を幼なじみのY子にしたのは、大学受験に失敗して東京の予備校に通うためアパート暮らしを始めたころだ。Y子は家が近所で、小学校の低学年時代よく遊んだ。一緒に風呂に入ったこともある。高校を卒業して地元でOL生活を送っていた。
「ドリアだったら、桐生においしいお店があるわよ」
 だったら今度連れてってよ、ってんで、帰省した日曜日(もしかしたら夏休みだったかもしれない)に昼前に太田駅で待ち合わせして、Y子の運転する車で隣町の桐生に向かった。
 太田から桐生に向かう県道は一時田園地帯の中を通る。道はすいていた。
 その時だった。前方からはすごい勢いで走ってくる外車を目にした。蛇行したと思った瞬間、そのまま田んぼの中に突進していった。
 あわてて車を止めた。顔を見合わせたY子と僕は車から飛び出ると田んぼの中で立ち往生している外車にむかった。
 車内の後部座席がすぐ目に入った。着物姿の年配の女性が小型犬を抱いて呆然としていた。運転手は若い男。すぐにドアを開けて外にでてきた。
「大丈夫ですか?」
 僕が尋ねると怪我はしていないとの返事。棒立ちしている若い男に対して女性が声をかけた。
「早く××に連絡しなさい」
 男はあたりを見渡している。まだ携帯電話なんてない時代のことだ。
「あの、公衆電話のあるところまで乗っていきますか?」
 Y子が言う。男が女性に確認をとってから「いいですか?」
 公衆電話はわりと近いところにあった。
 男は感謝の言葉を述べて車から降りると公衆電話に向かって歩いていった。
 Y子が車を走らせ、しばらくしてから僕が言った。
「やくざだよね、あの人」
「一見して、組の人だとわかったわよ。もうびっくり」
「後ろの女性見た? 姐さんだよ、たぶん。威厳があったもん」 
 しばしその話題で盛り上がっているうち、車は目当ての喫茶店に到着。お店の人気メニューであるドリアを食べ、アイスコーヒーを飲む。覚えたてのタバコを一服しながらお互いの近況報告。やくざのことなどすっかり忘れてしまったのだった。

 長くなりそうだ。この項続きます。


●しつこく「極道の妻たち」上州太田篇 2005/04/06

 Y子とのおしゃべりも話題がなくなった。陽も落ちてきた。帰ろうということになり、自宅まで送ってもらう。
 駅前の交差点で信号待ちをしていた時だ。運転席のウィンドウを叩く音に反応した。男がいた。何とあの外車を運転していた若い男だ! 車を脇にとめると助手席の方にやってきた。
「どうしたんですか? 別にもう……」
 僕たちの車を偶然に見かけて再度挨拶に来たのかと思った。だからもう気にしないでいいですよと言いたかった。
「いや、組長がどうしてもお礼をと」
 男の説明を聞いて驚愕した。
 あの事故(?)の後、組にもどって詳細を報告した。公衆電話まで連れて行った男女の名前、住所。なぜ聞かなかったのか? バカ野郎! 何やっている! すぐに見つけて確認してこい!! 組長に怒鳴られたらしい。男はそのまま車に飛び乗って太田市中を走り回っていたという。僕たちを探して半日。目印は車種だけだというのに……
 恐縮というか萎縮してしまった僕たちは、住所と名前を告げその場を離れた。本当にお礼なんかいらないからと付け加えて。
 数日後、昼間出かけていて戻った僕に(ということはやはり夏休みか)父親がニヤニヤしながら聞いてきた。
「お前、××組と何かあったのか?」
 詳細を説明した。
「だからか。××組の○○さんが菓子折り持って挨拶に来たからさ」
 ひえ~! 自宅までやってきたって! やくざの律儀さに驚愕した。Y子に電話するとY子のところにも来たという。
 ドラマ等で、暴力団幹部を狙撃して逃亡したヒットマンを探すため若い衆が闇雲に街に出て探しまわるなんていうくだりがある。この一件以来フィクションだからとあなどれなくなった。もしY子と僕が××組に追われる立場だったらたった半日で捕まったことになるのだから。

 教訓・暴力団を敵にまわすな!

 追記
 それにしても、××組を以前から知っているそぶりの父親っていったい……?




 承前

 談之助師匠のHPの掲示板「噂の志ん相掲示板」は本来の目的をかけ離れ、いつしか〈立川キウイヘイト書き込み〉専用版になってしまった。
 書き込みしている人たちって、キウイ師匠がどうなればこの書き込みをやめるのだろう。日々精進を重ねて腕を上げるまでか? いや逆か、噺家を廃業するまでか?

 普通、その人が嫌だったら、これこれこういう理由で嫌です、嫌いです、だから顔なんて見たくない、もう会いたくないって宣言したらもう一切その人に近づかないものではないか。同じ職場で働いているわけではないのだから。立川流の落語会だって、〈キウイ〉の名があれば行かなければいいだけのこと。
 にもかかわらず、毎日(たぶん)同じ人たちが新しいキウイネタを仕入れては書き込みしている。その仕入先はキウイ師匠のブログ(やツイッター)。
 アンチキウイウォッチャーと呼べばいいのだろうか。
 
 そんなに噺家キウイが嫌いならば無視すればいい。でも毎日のように見に行くんだ、これが。
 キウイ師匠はキウイ師匠でたまにブログで「噂の志ん相掲示板」に関する批判的な書き込みに言及して火に油を注ぐ。

 見るまい、と思いつつ見てしまうのは僕にもある。
 「噂の志ん相」とキウイ師匠のブログ「キウイの小部屋」閲覧だ。
 僕なりのキウイ師匠への思いや考えがあって、ブログ等を見るのをやめていたのだけれど、怖いもの見たさで「噂の志ん相」を覗いて、そのまま今度は何を書いているんだとキウイ師匠のブログをクリックしてしまう。
 確かに書かなくてもいいことを書いている。
 ブログを書く暇があるのならその分落語の練習しろよ、と思うアンチキウイウォッチャーの気持ちもわからなくはない。
 僕自身、落語に関してそれほど詳しくない。2000年代になって談四楼師匠の落語会(下北沢の独演会)に通いだすようになって、立川流の若手、一部の前座さんの高座を観るようになった。その範囲内でしかわからないが、彼らの成長過程を定点観測しているようなもので語ることはできる。
 彼らは前座から二つ目になると皆独自の活動をし始める。いろいろ仕掛けるわけだ。キウイ師匠にはそれがなかった。それがはがゆくてたまらなかった。真打になっても変わらない。で、ブログにはいろいろ書くわけで。

 たとえば、キウイ師匠がブログ等をすべて封印し、たとえば1年間精進するというのであれば、その間彼らは黙っているのだろうか。まあ、なんだかんだと好き勝手なとことを書くことは十分予想できる。
 彼らはアンチとはいえ、キウイファンだからね。キウイ師匠をヘイトするのが生きがいだから。バカな奴らだ。もっとほかに生きがい見つけろ。

 もし、仮にキウイ師匠が掲示板のあまりに激しいヘイトぶりを悲観して自殺してしまったら、どうするのだろうか。われ関せず、みなどこかに消えてしまうんだろうな。奴ら、自分の書き込み、言葉に対する覚悟なんてものは一切持っていないからな。
 僕が覚悟なんて言葉を使うと、娘に「お父さんが口にするべきじゃない!」と怒られてしまうけれど。

 まあ、こんなことをこのブログに書いてもアンチキウイウォッチャーの奴ら誰でも読まないことは確信している。
 だったらなぜ「噂の志ん相」に書き込まないの? そう疑問を持つ人がいるかもしれない。
 「噂の志ん相掲示板」に書き込むということは、僕が奴らと同じ土俵に立つということ。そんなにオレは落ちぶれちゃいないぜ。




 3月17日(木)は忘れられない日になるのだろう。二十うん年前の9月13日のように。
 あの日は一人、中野区役所に行ったのだった。今回は川口市役所。実際は15日に行ったのだけれど、書類に不備があり出直しとなった次第。

 夜は新橋のLive&BarZZへ。ダディ竹千代さんのライブハウスということで名前だけは知っていたがZZを何て読むかわからなかった。ジジと読むのか。黒猫がマスコットだったりして。
 立川談之助師匠が主催している「おとぼけライブ&トークvol.10 果実の法則」が目的。
 果実というのはゲストの一人、立川キウイ師の別名(愛称)だ。もう一人のゲストは快楽亭ブラック師匠。

 一週間前から予約の電話をしていたのだが、全然でない。営業しているだろう時間にかけてもダメ。仕方ないので前日メールした。
 当日、受付のときにその旨伝えたら、メールは受け付けないとのこと。電話通じないんです、と説明すると、留守電に残してくれればいいからと。いやだからその留守電にならないんだから……。もう少し切るのを我慢すれば留守電になるのだろうか。
 まあ、予約価格にしてくれたからいいや。

  立川談之助  「五目講釈」
  快楽亭ブラック「桃太郎」
  立川キウイ  「反対俥」

   休憩

  トークライブ(談之助・ブラック・キウイ)


 翌18日(金)は経堂の「さばのゆ」へ。「談四楼独演会」。

  立川只四楼「真田小僧」
  立川談四楼「三年目」&「柳田格之進」

 只四楼さん、新しいネタを覚えたね。面白かった。
 まじかで観たら只さん(遊び人みたいでいいでしょう?)、手が大きく指が長い。

 師匠はお馴染みの二席。とはいえ、約3年のブランクのある僕には久しぶり。「三年目」はショーケン主演の「居酒屋ゆうれい」を観ているとニヤリとなること請け合い。
 柳田の最後のセリフにグッときた。とはいえ、師匠の柳田でたまらないのは四季の移ろいの描写だと思っている。あまりほかの噺家のを聴いたことがないから偉そうなことは言えないのだけれど。




 昨日はシネマDEりんりんのイベントがブックカフェ二十世紀の開催された。
 元ぴあ編集長の坂口英明さんをゲストに「ぴあ的映画生活のいま、むかし」と銘打ってのトークショー&懇親会。
 大盛況だった。

bcnijusseiki160319

     * * *

 シナリオライター・横谷昌宏の名前を覚えたのは、昨年の夏、金子修介監督『クロスファイア』のエンディングロールだった。
 原作(宮部みゆき「燔祭」&「クロスファイア」)のストーリーを要領よくまとめ、冒頭からスピーディな展開で観客を映画世界へ引き込み、なおかつクライマックスでは映画本来の魅力である特撮を駆使してスペクタクルな要素を全面に押し出したオリジナルな展開で映像の威力を存分に見せつけてくれた。
 細部に不満は残るものの、素直にヒロインに感情移入できて、観終わったあと、心に響くものがあった。最近のエンタテインメント小説の映画化では成功した部類に入るのではないか。脚色の上手さを感じた。
 そんな横谷昌宏の脚色の腕前を再認識する映画に出会った。2月に公開された堤幸彦監督『溺れる魚』である。
 中谷美紀と渡部篤郎のコンビのおかしさと斬新な映像で話題を呼んだTVドラマ『ケイゾク』が映画化されたときには、コミカルな演技に笑いながらリアルな謎解きを展開する、同時に凝ったカメラワークも堪能できる新趣向のミステリ映画が誕生するのではないかと大いに期待したものである。
 ところが肝心のストーリーがあまりにケレン味たっぷり、おまけにトリックそのものが陳腐だった。何よりクライマックス、監督のひとりよがりの演出に辟易した。
 『溺れる魚』は『ケイゾク/映画』の系列に入る。邦画に新感覚ミステリ映画が誕生することを願ってやまない僕としては今度こその期待があった。ポスターからなにやら妖しい雰囲気が漂ってきて、シナリオも横谷昌宏だからひょっとすると、と思ったら、想像とは違っていたものの、快作に仕上がっていた。
 映画を観た時点では原作の存在を知らなかったが、映画は原作を大胆に脚色していることは容易に想像がつく。

 原作は『闇の楽園』という、新潮ミステリー倶楽部賞を受賞した戸梶圭太の同名ミステリ。
 盗金の横領と万引きという犯罪によって、警視庁特別監査室で取り調べを受けている問題刑事二人が、女監査官から罪を不問にするので、ある公安刑事の悪事を暴く調査をせよと任命されるのが発端。愉快犯〈溺れる魚〉に恐喝されている大手複合企業の幹部と公安刑事の癒着の事実が判明するが、癒着を知ったもう一人の借金まみれの公安刑事が〈溺れる魚〉になりすまして当の企業に大金を要求してきて話が大きくうねりだす。
 秘密裏に事件を解決したい特別監査室の意向で仕方なく任務を遂行する問題刑事、犯人を始末するため企業幹部から雇われた暴力団、何としても金を奪いたい公安刑事と彼のイヌに成り下がっている過激派幹部。中盤から、このとんでもない連中が入り乱れ、白昼の大都会の真ん中で金の争奪戦を繰り広げる怒涛の展開になっている。
 ミステリの要素はほとんどない。リアリティを無視した警察小説とでもいうのだろうか。落ちこぼれ刑事が主役となり、ダメ人間ばかりが登場するのが目新しい。

 映画は原作のトンデモ世界をよりグレードアップさせ、堤監督らしい遊び感覚を随所に挿入しながらドタバタハチャメチャ度を増している。それだけでも面白いと思うが、オリジナルエピソードでミステリ的味わいを加えているのがミソ。
 開巻、少年が部屋の水槽を眺めていると、異様な風体をした男が侵入してきて少年に問う。
「魚が溺れるのを見たことがあるか?」
 怖気づいた少年が階段を駆け下りると、両親と姉の惨殺死体が横たわっている……。ミステリアスな導入である。
 目を瞠ったのはタイトル後に続く一見脈略のないエピソードが続けざまに羅列される構成だ。
 まず主役である二人の刑事(椎名桔平&窪塚洋介)のダメさぶりが紹介される。検挙のために踏み込んだ現金強奪犯グループのアジトであっけなく犯人たちを射殺し、机に置かれた札束をネコババしてしまう椎名刑事。非番の火に女装でショッピングを楽しむ窪塚刑事(署内で婦人警官の制服を盗んだ微罪があると後の監察官の取調べでわかる)。
 銀座4丁目の交差点。怪しげな男たちが数人。コート姿の河原サブを囲んで何やら脅しをかけている。河原サブは落ち着かないそぶり。時間がきて、河原は意を決すると下半身真っ裸で銀座通りを雄叫びをあげながら駆け抜けた! その模様をデジタルカメラで撮影しているIZAM。
 それぞれの査問委員会で問われる椎名桔平と窪塚洋介。
 新進気鋭のデザイナーであるIZAMが経営するクラブに集う奇抜ファッションの若者たち。その中に陽気に外人たちとおしゃべりする伊武雅刀。身分(公安刑事)を隠しての捜査だが、IZAMはすべてお見通し。店内から昼間撮った銀座の写真をネットに公開してご満悦の体。
 全国でDTPチェーンを展開する某フィルムメーカーの部長会議。河原サブや一緒にいた男たちの顔が見える。彼らは同じ職場の幹部だった。愉快犯〈溺れる魚〉から次にどんな自尊心を傷つけられる要求がくるか戦々恐々としているのだ。この部長会のボスである専務は事件を警察に届けず〈溺れる魚〉メンバーの選定を個人的に伊武に依頼していた。
 また監査室。椎名と窪塚はそれぞれ女監察官・仲間由紀恵から罪を不問にする条件に特命を受けるのだ。伊武がどんな裏取引きをしているのか探りなさい。
 一見、バラバラの人物、エピソードがここで結びつき、観客に事件の全貌をわからせる仕組みとなっている。この構成にまず唸った。
 女装趣味の窪塚に対抗して、椎名を映画俳優・宍戸錠(日活アクション全盛時代のエースのジョー)に心酔するキャラクターにしたのも特筆もの。この宍戸錠フリークぶりは徹底していて、椎名桔平の怪演もあって始終笑いっぱなしだった。また原作では単なるチョイ役でしかなかった女監察官のキャラクターを膨らませてダメ刑事ふたりに絡ませたのも光る。
 とにかくこの映画、全編笑いの連続なのだ。
 『スペーストラベラーズ』もかなり笑える内容ではあった。が、ラストのまるで観客に泣きを強制させるようなベタベタな演出がどうしようもない。
 映画『溺れる魚』は前半から中盤にかけて主役二人の特異なキャラクター、〈溺れる魚〉のばかばかしい要求に右往左往する愛社精神溢れる社員の愚かな姿等々、登場人物の台詞、行動にバカ笑いし、絶体絶命の危機に瀕したクライマックスでは椎名桔平の一言にちょっとばかり胸を熱くさせてくれる。しかしそのまま涙や感動にはもっていなかない。全編ユーモアのスタンスは変わらないのだ。その姿勢がいい。
 主役二人の刑事を含む登場人物たちの造形と抜群の構成力が堤監督のスタイリッシュな映像、プロモーションビデオのようなカッティングとあいまって愉快な映画に仕上がった。リアリティの無さが逆にこの映画に弾みをつけたような気がする。
 ドラマの要となる、中盤までなかなか顔をださない監査室長の警視正(渡辺謙)のアップはなかなかの衝撃だった。大河ドラマ出演で頭を剃った渡辺謙の起用も功を奏している。中途半端に起用した『スペーストラベラーズ』との差はこんなところにも表れているというと言い過ぎか。

 さて、そんな横谷昌宏の次回作は金子監督とふたたび組む『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』。ゴジラ映画の新作だ。脚色に才能を発揮した彼がオリジナルでも魅力的なドラマを書いてくれるのかどうか。
 印象に残る人物造形、抜群の構成力で平成ゴジラの物語を紡いでもらいたい。 
 



 「GURUになります。」の簡単な感想を書いたついでに、3日観劇の「友情」について触れておこう。

 昨年の「船堀映画祭」はボランティアスタッフとして参加したのだが、その開催前の打ち合わせ会議に初めて参加したときのこと。
 スタッフの一人に若い女の子がいた。

 この娘が川島彩香さん。会議終了後打ち上げになってから映画の話で盛り上がった。話が合うのだ。たとえば映画「寄生獣」に対する感想とか。原作と映画化作品の対比について自論を述べると納得してくれた。マニアックな話を振ってもついてくる。もしかして美魔女か? 見た目より年齢がかなり上だったりして。
 年齢を訊くとうちの娘と同い年だった。名前も似ている。うちのは彩夏だ。読み方は違うのだけど。もっと驚いたのは出身大学。法政大学だって。オレの後輩ではないか。
 少し前まで錦糸町の映画館で働いていたのだが、そこを退職して映画美学校に通っていると。アクターズコースでつまり女優の卵ということ。

 川島さんから卒業公演の案内をもらった。
 タイトルは「友情」。俳優学校の生徒たちの公演で「友情」なんていうタイトルだとなんとなく内容がわかるというもの。娘みたいな子の卒業公演なのだからもちろん足を運ぶのは当然なのだが、あまり期待していなかった。
 作・演出の鎌田順也氏もナカゴーも知らなかった。ナカゴーの「堀船の友人」の拡大版だというのだが意味がわからない。堀船って船堀をひっくり返した名称か?

 3日(木)~6日(日)の4日間なので、初日しか行けない。
 オープニングの渋谷駅前シーンは役者も観客も硬かった。
 しかし、舞台が店長(だったかな)の部屋に移ってからの阿鼻叫喚から怒涛の展開になって大いに笑わせてもらった。こういう物語だったのか!
 それにしても阿鼻叫喚の演技はもっともっとはじけなければ。そんな中で川島さんは一番はじけていた。これは別に親の欲目ではない。
 キャストの一人に中国人役がいて、緊急事態で日本語から中国語になるタイミング、間、発音がそれっぽい。巧いなぁ、藤村有弘、タモリにつづくデタラメ外国語を駆使する役者なれるなあと感心していたら本物の中国人だって。
 笑わせながらラストでタイトルに偽りのないテーマを浮き彫りにする。セリフに胸が熱くなった。

 オリジナルにあったのかどうか知らないが、一番愉快だったのは、ボスと部下の会話。意味は通じているのに、疎通がなっていない。何とか理解させようとするボスの声と間が何とも言えずおかしかった。
 もし、もっとこちらに時間があるならもう一度観てもいいと思った。

 アフタートークで、3人が3人とも劇中、オマジナイのように何度も出てくる「ブー・フー・ウー」を童話「三匹の子ブタ」の名前だと勘違いしていた。
 「ブーフーウー」はNHKの「おかあさんといっしょ」内の人形(着ぐるみ)劇。主人公の子ブタ三兄弟の名前だから。黒柳徹子や大山のぶ代が声を担当していた。そんな番組があったことなんて知らないのだろう。こういうところに若さを感じる。




 昨日は休み。
 午前中は市役所等でバタバタしてから午後よみうり大手町ホールへ。
 14時から黒木瞳&東京03主演の芝居「GURUになります。 ~平浅子と源麗華の一週間~」を観劇した。
 いわゆる商業演劇は久しぶり。大手町ホールは昨年3月の紙ふうせんリサイタルに続いて2度め。
 東京駅から歩いていったのだが、途中でどこを歩いているのかわからなくなって焦った。
 クライマックスは、往年のハリウッドミュージカルみたいで楽しめた。東京03のコントの豪華版ともいえる。
 まあ、少々照れてしまうセリフもあって、目をつぶって芝居を見ていたところもあるが。
 ノアさん、ありがとう。




 昨日テレビ朝日で放送された「地方紙を買う女」、朝日新聞の紹介でラストを褒めていたので期待して観たのだがそれほどでもなかった。以前、日本テレビで放送されたドラマの方が面白かったと思うのだが。
 松本清張の小説は平成の時代(21世紀)を舞台にすると何かと無理が生じてしまう。原作同様の時代設定が必要なのではないか。

     ◇

 ●黒澤明ドラマスペシャル「天国と地獄」&「生きる」 2007/09/11 

 最近黒澤明監督作品のリメイクが流行している。ハリウッドで「生きる」がリメイクされるのだとか。古くは「用心棒」「七人の侍」が「荒野の用心棒」「荒野の七人」という西部劇としてリメイクされている。正確にいうと「荒野の用心棒」はリメイク権を取得せず、盗作問題になったのだが。
 どちらも公開は1960年代前半、物心つく前。もう何年も前になるが、やっとTVで「荒野の七人」を観る機会があった。傑作として名高い「荒野の七人」はそれほど面白いとは思えなかった。小学5、6年、中学生の時代だったら、アクションに興奮したかもしれないが、悲しいことに、もう何度も「七人の侍」は観ているのだ。何かと比較してしまっては分が悪い。
 日本における黒澤作品のリメイクというと「姿三四郎」が思い出される。これまで何度も映画やTVで映像化されている。ただこれは富田常雄の小説の力によるものだろう。「忠臣蔵」や「宮本武蔵」の系譜。
 リアルタイムで覚えているのは「野良犬」だ。小学6年生だったか、中学1年だったか。映画館で予告編を見た。まったく話題にならなかった。
 後年、黒澤映画の真髄に触れてからというもの、「野良犬」のリメイクの無謀さを思い知った。海外ならともかく日本映画で黒澤作品のリメイクなんて出来るわけがない。それが日本映画界の常識というもの。そう勝手に判断していた。
 フィルムが残存していない、あるいは旧作は名画座でしか鑑賞できない、という時代ならまだしも、今はビデオやDVDで黒澤作品は日本のどこででも目にすることができるのだ。
 だから角川春樹が「椿三十郎」のリメイク権を取得し、森田芳光が監督すると聞いたときは耳を疑ったものだ。そこへTVのスペシャルドラマである。それもヒューマンドラマとして黒澤作品の中で名作の誉れ高い「生きる」、そしてサスペンス映画の傑作「天国と地獄」。
 映画はそれぞれ1952年(昭和27年)、1963年(昭和38年)の時代を背景にしている。TVドラマは、現代に置き換えて作られているという。
 何考えているんだ! 真っ先にそう思った。確かにテーマに普遍性がある。だからストーリーの細部を変更しさえすれば現代にも通じる内容になる。TV局(企画プロデューサー)はそう判断したのだろうが、冗談言ってはいけない。時代が、その時代の風俗、慣習がどれだけ重要な要素を持っているか。
 あるいは娯楽色の強い「天国と地獄」は可能かもしれない。しかし「生きる」に関してはかなり旧作のストーリーを換骨奪胎しなければ現代に通じるとは思えない。
 まあ、お手並み拝見。それほど期待せずに観た。
 オリジナルを知らない世代にとってみれば、両作品ともかなり質の高いドラマだったと思う。どちらも旧作のシナリオを尊重した展開。だからこそ面白く観られたのだろうが、現代を舞台にしたことが逆にアダになった。それは思ったとおり「生きる」で顕著だった。
 その前に「天国と地獄」について。
 7年前、ビデオで再見してその感想をこう書いた。

     ▽
 犯人特定までは映像にくぎづけになるのに、その後の展開がどうもピンとこない。一つは麻薬常習者の巣窟シーンが現実にありえないこと(昭和30年代の横浜に本当にあったのか?)。もう一つは犯人の権藤に対するどうしようもない恨み、犯人を極刑にしようと熱い正義感ぶりを発揮する刑事たちの心情がいまいち理解できないからかもしれない。
 つまりどちら側にも感情移入できないまま、権藤と犯人の対立という構図でこちらがあっけにとられたまま物語が唐突に終了してしまう、その違和感がどうしてもぬぐえないのだ。
     △

 この違和感をリメイク作品ではどう処理してくれるのか。
 鶴橋康夫監督(脚色も)はかなりの映像派で、オープニングのクレジットから凝っている。前半の密室劇ではガラス窓への映りこみに神経を注ぎ、目を瞠らせてくれた。たぶんに合成も利用しているのだろう。でなければ撮影クルーが映ってしまう角度、ショットが何度もあったから。
 当初犯人側が3人になっていることから、原作である「キングの身代金」寄りの、新しい展開になるのかと思われたが、やはりあっけなく殺された。これは誘拐された子どもが主犯以外の犯人(女性)を庇うことによって、後半刑事たちが主犯を極刑にすべく捜査するモチベーションへの伏線なのだった。
 犯人の、靴メーカー重役に対する怒りというのが、オリジナルでもわからなかった。丘の上の豪邸が憎悪の対象ということだが、少なくとも犯人は医者の卵であるのだから、今後の生活は保障されているではないか。なぜラストの面会であれほど怒り狂うのか。不思議でたまらなかった。
 これはリメイクでもそのままの形で取り入れられていて、ますますおかしなことになってしまった。昭和30年代はまだ貧富の差が激しかった。だから、黒澤映画に遅れてきた僕は、理解できないまでも、そういうこともあるかしれないと要因を時代に求めて無理やり納得させてしまうことはできる。
 現代だと話は違ってくる。丘の上の豪邸にどれだけの価値がある? もし犯人がとんでもなく上昇志向が強く、そのうえ頭も要領もいい男なら、病院内での出世や金儲けを目指すのではないか? 仮に犯罪に手を染めるとしても、明らかにデメリットの多い誘拐を画策するかどうか。
 現役時代、大学受験で東京の施設に宿泊したときのこと。全国から集まった受験生5、6人と同部屋だった。その中の一人が医学部に通う学生をしきりに羨んでいた。
「だってさぁ、頭脳優秀か、親が金持ちかどちらかなんだぜ」
 丘の上の豪邸に住むセレブに対する怒り。それには犯人と主人公の、何か別のエピソードがどうしても必要だったと思わないではいられない。
 キャスティングは悪くなかったと思う。主演の佐藤浩市に叩き上げの靴職人気質を感じられなかったのは残念だけど。
 それから「天国と地獄」の代名詞にもなっているピンクの煙と特急こだまの緊迫シーンは、新しいアイディアを導入すべきだったのではないか。ピンクの煙があがって何事もないような顔をしている漁師(?)はないだろう。泉谷しげるだから許してしまう、か。

 「天国と地獄」の中で、主犯の研修医(インターン)が共犯の夫婦を殺害した方法が純度の高い麻薬の投与だった。いつも純度30%の麻薬を使用している中毒者が純度90%のものを摂取したらショック死してしまうという。麻薬中毒死に見せかけた、共犯者の口封じ。完全犯罪を狙った犯行は逆に墓穴を掘る結果となって、営利誘拐罪の15年の刑から殺人罪による極刑になってしまうのだ。
 リメイクのドラマを観た限りでは、キャスティングも適役でとても丁寧に作られた(通常のドラマに比べて)質の高い作品に仕上がっていた。時代を現代に置き換えたことによる不自然さはあるものの、作品自体を真っ向から否定するようなものではなかった。と思ったのである、観終わったときは。ところが「生きる」でどうしてもオリジナルを確認したいことがあって、一昨日ビデオを借りて衝撃を受けた。
 全然違うのだ。それこそ純度90%と30%の差!
 もちろん全盛時代に予算と日数をたっぷりかけて製作された映画と、現在の、いくらスペシャルとはいえTVドラマの状況の違いというものがある。単純に比較してはいけないかもしれないが、リメイクするからにはそれなりの新しさ、アイディアがなければ意味がない。「生きる」では、それが主人公が息子の子ども時代を回想しながら名前を連呼するところだと膝を打ったのだ。オリジナルはTV放映やビデオで数回観ているはずなのだが、このシーンがまったく記憶になかった。しっかりあった。やはりオリジナルの方が断然いい。昨日は「天国と地獄」を借りてしまった。観終わった後の満腹感といったらない。いったいリメイクの2作品は何だったんだ?

 黒澤明の映画はリアリズムの極致みたいな印象があるが、本当のところかなり様式美や誇張された表現で成り立っているのではないか、と思うことがある。モノクロ映像だからわからない、いや、だからこそ逆にリアルに見えてしまう。リアルに見せるためにとんでもなく作りこみをする、というのか。黒澤映画の現代劇、特に「生きる」を観ると必ず感じる。  
 舞台を現代の東京近郊の町に置き換えて「生きる」をリメイクすると知って、まず思ったのが、通夜のシークエンスをどう処理するのかということだった。
 通夜、葬式は地域によって、内容が変わってくるから、断言はできないが、現在、通夜の席で親族や会社関係者が揃って、夜遅くまで食事をし、酒を飲むなんてことがあるのだろうか。
 今では自宅を式場にすることがなくなった。公共あるいは私営のセレモニーホールで通夜、葬式(告別式)をおこなってしまう。その場合、通夜は焼香をした後、そのまま帰る場合が多い。中には別の部屋に飲食が用意されることもあるが、それだってちょっと口をつける程度。長居は無用。つまり「生きる」のような飲むほどに酔うほどに議論白熱なんていう展開になりそうにない。
 そのほか、オリジナル脚本を現代に合わせて脚色する程度では、何かとおかしい点がでてくるのだ。

 黒澤明監督の「生きる」のストーリーを要約するとざっとこんな風になる。
 主人公は市役所勤め30年になる初老の男(志村喬)。早くに妻を亡くすが、再婚もせずに男手一つで一人息子(金子信雄)を育て上げた。息子が結婚してからも一緒に暮らしている。
 何の取柄もない。仕事は可もなく不可もなく課長として目の前に積まれた書類に判を押すだけ。市民の陳情は内容に応じて該当部署に回す。率先して自ら行動を起こすタイプではない。面倒なことにはかかわらない。趣味もなく平々凡々と毎日をすごしてきた。己の生き方に何の疑いも持たずに。
 ところが胃がんで余命半年だと知って、激しく動揺、絶望に打ちひしがられる。息子は頼りにならない。
 これまでの人生は何だったのか。半年間何を糧に生きていけばいいのか。
 元部下で今は玩具工場で働く若い女性(小田切みき)の一言から、生きる目的、その価値を見出した男は、住民の陳情の中で部署をたらいまわしにさられていた案件に着目する。汚水溜めの悪臭を放つ土地の再開発。男はそこに児童公園を建設しようと奔走する。
 5ヵ月後、完成した公園のブランコに揺られながら男は絶命。しかし、その死顔は穏やかで満足気だった。

 クサい話だ。しかも男は「ゴンドラの唄」を口ずさみながら死んでいく。今、新作映画でそんなシーンを見せられたら照れて下を向くか、虫唾が走って腹を立てるか、どっちかだろう。
 まだ書籍でしか黒澤映画を知らなかったとき、いくら名作と謳われていても、ストーリー紹介を読んで敬遠したくなった。黒澤流ヒューマニズムといっても、こんな話は昭和20年代だからなりたつんだよなぁ。そう考えていた。
 ところがTV放映で初めて観たとき、すぐに引きずりこまれてしまった。役者の演技、脚本(構成)、演出、どれをとっても完璧といった感じ。クサさはまったく感じなかった。
 中盤、主人公が元部下の一言で自分の成すべきことを悟るシーンにぐっときた。レストランの2階、語り合う二人の背後では若い男女の学生たちが仲間の誕生パーティーの準備をしている。玩具工場で働く元部下はゼンマイ仕掛けのウサギを見せながら、モノ作りの楽しさを語る。主人公は公園建設を思いつき、何かにつかれたかのように階段を下りていく。そこへパーティーの主賓がやってきて、みんなが待つ2階へ駆け上がる。2階の仲間が「ハッピー・バースディー」の合唱で主賓を迎えるのだが、まるで生きる目的を見出した主人公を祝っているかのようなショットなのだ。
 翌日、まるで人が変わったかのようにやる気を見せた主人公が、問題の土地を観に行くところで、主人公の遺影がアップになる。
 その後は、通夜の席で課長の死の真相をめぐる討論。その中で癌に侵され余命いくばくもない課長が最後の力をふりしぼって公園建設に尽力したことが判明する。
 真相を知った部下たちが感激して自分たちも生まれ変わろうと誓い合うが、翌日からまたいつものような覇気のない毎日が繰り返されるという皮肉まじりなラストがいい。
 主人公がブランコに乗って歌うシーンで涙があふれたのは、心情が十分すぎるほど理解できたからだった。主人公は公園建設に奔走する。しかし、それは売名行為でも、組織の中で評価されたいからでもない。公園の完成を楽しみにしている住民、その子どもたちのことは意識しているかもしれないが、あとは関係ない。あくまでも自分の中の充実感だろう。その気持ちが痛いほどわかった。
 リメイク版「生きる」はほぼオリジナル通りに進展する。それなりに胸打たれたりするのだが、現代が舞台だから何かと不自然さがつきまとうのは前述のとおり。
 全般的に適材適所といった配役だが、肝心の主人公を演じる松本幸四郎がミスキャストだった。
 これは本人の演技力には関係ないことで、あくまでも役者が持っているイメージ、雰囲気の問題だ。あまりに立派だから、部下の女性から「ミイラ」と渾名をつけられる小役人に見えない。市役所の課長ではなく、官庁か何かでバリバリ仕事をしているタイプだろう。
 では誰が適役かといえば、助役の岸辺一徳あたりがふさわしいのではないか。歌舞伎役者だったら、中村勘三郎とか。
 女房に死なれ、男手一つで息子を育てたというのも、時代を考えると信じられない。現在でさえ、まだ〈現役〉といった感じなのだから若いころは女の方がほっとかないだろう。再婚して、妻と息子のどうしても埋まらない距離にあれこれ悩んで最終的に離婚してしまったとかの方がまだわかる。
 現時点から30年前というと1977年ということになる。子どもに手がかからなくなる80年代後半から、主人公は趣味やレジャーに興味を持たなかったのだろうか?
 昔と違って、仕事は仕事と割り切って、趣味に生きがいを求める人もいるだろう。
 リメイクでは、小田切みきの役を深田恭子が演じていて、ドンピシャリの配役だった。
 しつこいと言われそうだが、彼女をめぐる描写にもいろいろと不自然さが目立つ。
 今の時代、退職用書類に上司の判が必要だからといって、家を訪ねるだろうか。社内で本人不在の場合、代理を決めているはずである。
 退屈な市役所を辞めて、さて転職先はどこだろうと期待していると、玩具工場。派遣社員だそうだ。レストラン(喫茶店)での会話では昔ながらのぬいぐるみを取り出してくる。今の若い娘、そんな工場に派遣で勤めないし、だいたいその手のぬいぐるみの生産工場は中国あたりにあるのではないか。オリジナルと同じ「赤ちゃんと繋がっている」なんていう台詞が空々しい。
 通夜に小田切みきも深田恭子もやってこなかったのは不思議なことだが、まあいい(すべてを知っている彼女が来てしまったら、そこで議論も終わってしまう)。たぶん来られない理由があったのだ。翌日の告別式にはちゃんと参列しているはずだから。
 なぜ今「ゴンドラの唄」なのかというのも疑問の一つ。
 志村喬にとって、「ゴンドラの唄」は青春時代の流行歌だった。唯一うたえる歌なのかもしれない。松本幸四郎にとってはどうだろうか。子ども時代、青春時代、もっといろいろな歌があっただろう。酒場で「ゴンドラの唄」をリクエストする世代でないことは確か。時代設定はこういうところで如実に表れる。
 唖然としたのはラストシーンだった。最初から公園建設における課長の働きを評価していた部下(ユースケ・サンタマリア)が感慨を持って公園を見つめているところに、市議会選挙に立候補した助役の選挙カーがやってくる。ここはリメイクの脚色部分だ。
 何とウグイス嬢が深田恭子なのだ。何のために彼女は市役所を退職したのか。どれだけ市役所の連中を嫌悪していたのか。そんな彼女が元助役の選挙を手伝うはずがないではないか! いや、日給の良さに目がくらんだか。だとするとこのドラマの作劇が根底から覆されることになる。ホント何考えているのか。
 脚色は市川森一。ドラマ冒頭のクレジットでそれを知り、驚くと同時に期待したところがあった。
 「生きる」は主人公の孤独を描いているわけだから、本来の作風に合うと思ったのだ。
 「ウルトラセブン」の「狙われたウルトラアイ」「ひとりぼっちの地球人」は孤独をテーマにした異色作だった。メインライターを務めた「傷だらけの天使」も若者二人の焦燥感が漂っていた。主人公が孤独な死を選ぶ「バースデーカード」の衝撃は忘れられない。向田邦子賞を受賞した「淋しいのはお前だけじゃない」はその集大成だったか。
 そんなわけで、「生きる」の世界をどんな風に現代に甦らせてくるのか、クレジットを見るや期待してしまったのだ。黒澤明作品、脚本へのリスペクトは大いに感じるのだけれど。




 3月9日(水)の談四楼師匠のツィート。

     ▽
乙武さんの件でヘコんだが、間を置かずに朗報がもたらされた。大津地裁が高浜原発3、4号機の運転を差し止めたのだ。喜びと同時に怒りが突き上げた。あたりまえだ、むしろ遅過ぎると。故郷に戻れない人がまだ10万人いる中での再稼動が異常なのだ、人間のすることではないのだ。さあ何かが始まるぞ。
     △

 まったく、そのとおりだと思った。原発を再稼動したいのは誰なのか。誰か教えてください。まあ、経財界のお偉方なんだろうけど。
 子どものころ、小学時代、中学時代、社会科で日本の電力事情を教わった。水力発電に未来はない、火力発電も石油がなくなればどうすることもできない。だから原発に依存しなければならない、と。だから原発は仕方ないことなのだと自分も思っていた。政府や電力会社が標榜する「安全」は眉唾ものだが、それしか頼るものがないのだから、と。

 あれから40年以上経った。石油、まだあるじゃないか。
 東日本大震災で原発がちっとも安全でないことが判明した。地震や津波の規模が想定外だからなんて理由にならない。
 原発がすべて止まった。計画停電が実施されて、不安な日々をおくったが、やがて正常になった。原発がなくても電力が供給できるじゃないか。
 再稼動する話がでてわが耳を疑った。
 なぜ、どうして?
 もし、原発が稼動しなくて電力の供給がおぼつかないというのなら計画停電にすすんで協力しよう。

 2020年オリンピックの開催地が東京に決まったときも、何も日本でやることないだろうと思ったものだ。投票前の安倍首相のプレゼンに愕然とした。避難を余儀なくされている人たちはどう思ったのだろうか。
 すべては経済が優先されるというわけか。


 師匠はよく〈クソリプ〉という言葉を使う。たとえば、「さばのゆ」の懇親会時、ツィッターの内容を話題にしたときだ。くそリプライ。
 翌10日(木)にはこういうツィートをしている。
     ▽
保育園落ちた日本死ね! 事態を端的に表現した名コピーだ。確かに言葉は汚なく品位には欠ける。しかしこれは、頭を低く理を尽くしても通じない相手への切羽詰まった挙句の啖呵なのだ。窮鼠猫を噛むであり、なにょぬかしゃんでぇべらぼうめと言っているのだ。効いたぞ、連中オロオロしてるじゃないか。
     △
 これもそのとおりだと。
 
 が、次のようなリプライを見つけた。
     ▽
「立川談四楼の落語はつまらない落語死ね」なるブログを書いた者を、この私が「よくぞ言った。事態を端的に表現した名コピーだ」と称えたとしたら、君はどう感じる?頭にくるだろ。俺を悪く言うのはまだしも、落語を悪く言うなよと思うだろ?
     △
 書いた本人は談四楼節を真似て得意になっているようだが意味がわからない。
 某ブログの日本とは現在の政府、安倍政権のことを指している。保育園に落ちたのは安倍政権がきちんと対応していないからだ、そんな政権なんてクソくらえ!
 〈俺を悪く言うのはまだしも、落語を悪く言うなよ〉というのは、安倍政権の悪口は言うなよ、という理屈か。
 立川談四楼の落語はつまらない、(そんな弟子を育てた)談志死ね、あるいはそんな落語家が所属している立川流死ね、ならわかるのだが。

 で、もっと情けなくなったのは次のリプライ、上記のリプライに対するリプライ。

     ▽
談四楼の下手くそなツイートよりも、○○○さんのツッコミの方が痛快ですw
     △

 あなた、師匠のツィート、毎日読んでいますか?




     ▽
東日本大震災、福島原発事故から5年になります。被災地の復興は道半ばであり、多くの避難者がかつての生活を取り戻すことができず、困難な避難生活を強いられています。
大震災の被災状況は大きく報道されてきましたが、時の流れとともにその頻度は少なくなり、ともすれば被害の状況やその後の避難者の方々のことはわすれがちになってきています。

東京弁護士会、第一東京弁護士会、第二東京弁護士会では「あれから5年」をテーマに被災地の現状を39名の著名な写真家にご提供いただきました写真を通じて、当時の被害の状況を再度確認し、その後の復興のあり様を考えていきたいとの想いでこの写真展を開催することにいたしました。
     △

 3月1日(火)から10日(木)の間、弁護士会館1階エントランスホールで開催された「あれから5年 3・11 東日本大震災写真展」。
 39名の写真家たちによる120枚の写真が展示されていた。

 写真家の代表、新藤健一氏の趣旨を引き継ぎ、ブックカフェ二十世紀では本日(11日)から1ヶ月にわたり週替わりで展示する。

 午前中は、その展示の準備をしていた。貼り出した23枚のうち、ある写真が目を捉えた。キャプションを読んで涙があふれて仕方なかった。




 休みの日は仕事のときよりも忙しい。
 先月は二度軽トラを借りた。一度めはマンションに置いてきた本棚を新しい部屋へ運ぶのともらった洗濯機の受け取り、運搬のため。二度めはいらなくなった洗濯機とマンションの粗大ごみを処理するため。

 粗大ごみを処理するには、コンビニ等でシールを購入して取りに来てもらうものと思っていたのだが、自分で持ち込むことができることを知った。マンションの管理人が教えてくれたのだ。今回管理人には大変お世話になった。管理組合の理事長はやっておくべきである。
 洗濯機は家電リサイクル券が必要で、郵便局で購入しなければならないのがやっかいだった。軽トラに粗大ごみと洗濯機を積み込んで、川口市の衛生センターやら環境センター、エコセンターを回ってなんとか終了した。

 退職したことでその関係の書類が書留で送られてくるが、不在だから改めて日時を指定して受け取らなければならない。そのために午前中がつぶれてしまうのだ。郵便局が近くなら直接行くのだが、バスに乗っての長旅なので一度行って懲りた。

 一昨日は保険証そのほかを返却するため会社へ。その足で湯島の電気健康保険組合へ。2年間だけ健康保険を任意継続できると知ってその手続きに。

 今日は、マンションの抵当権解除のため郷里の太田へ行く。清原が覚醒剤を購入したところとして報道されたあの太田だ。最近はイノシシが繁殖して農作物の被害がひどいと朝のワイドショーが伝えていた。
 ローンを組む際、マンションだけではだめで郷里の家も同時に抵当に入れた。
 川口の方はもう済んでいて、共有する書類を川口法務局で受け取ってから電車で。

 4年ぶりの太田は大きく変貌していて驚いた。
 久喜から東武電車に乗り換えるのだが、伊勢崎行の電車がない。皆館林止まりなのだ。館林~伊勢崎(途中に太田がある)はワンマン運転になったとか。
 急行のりょうもう号が特急になっている。どういうわけか?

 法務局のあと、市役所へ行き戸籍謄本をもらう。
 母の墓が近くなので、4年ぶりに墓参りに。
 離婚することを伝える。


 忙しいとはいっても映画は観ている。

 2月25日(木) 「鉄の子」(MOVIX川口)
 3月1日(木) 「キャロル」(TOHOシネマズ みゆき座)
 3月3日(木) 「友情」(アトリエ春風舎) ※これは芝居
 3月8日(火) 「ヘイトフル・エイト」(丸の内ピカデリー)

 感想は別項にて。




 「小説と映画のあいだに」もシリーズ化します。
 これまた困ったときの……じゃないですから、本当に!

     ◇

 本が好きで映画も好き、という者にとって、とてもやっかいな問題がある。
 その面白さに夢中でページをめくったり、感銘を受けたりした小説が映画化された場合、映画も気になって映画館に足を運ぶ。ところが、ほとんど期待を裏切られる結果となる。
 あるいは映画を観てから原作に興味がわいて読む場合、よくできたと思える映画でさえ、小説はそれ以上に奥が深いことが多い。展開に新たな発見があったり、登場人物のキャラクターの陰影がより濃密さを増して映画で描かれた世界をもっと理解できるのだ。そのたびに「映像は活字にかなわないのか」とため息をついたりしている。
 映画に興味がなければ好きな小説の映画化なんて無視すればいいし、根っからの映画ファンならば、原作と小説は別物と割り切って映画世界を堪能すればいい。
 それができない。映画とその原作となる小説をついつい比較してしまうのが個人的な悪い癖なのである。特にこの数年脚色という作業について、あれこれ思いをはせてしまう。
 単純にストーリーの面白さを比較したら小説に軍配が上がると思う。「百聞は一見にしかず」とは言え、描写力、特に心理描写では、情報量で活字の方が圧倒的に有利なのだから。
 小説は作者の想像力でいかにでもストーリーを紡ぐことができる。しかし、シナリオライターや監督がいかに素晴らしい話や絵を考えても予算の関係でカットなんてことはよくあることだろう。役者の問題もある。絵で見せなければならないことが逆にネックになってしまうのだ。
 しかし、それでも映画に期待してしまう自分がいる。期待するからこそ何かと口出ししたくなる。
 ちなみに僕はけっして原作と同じ感動を映画で味わおうとしているのではない。
 僕が思い描く理想的な映画化とは、原作の〈核なるもの〉を活かしつつ、映像でしか表現できないオリジナリティを持っていること。映画は原作の単なるダイジェストでは意味がないわけだから、何のために映画化したのか、その〈何か〉を映像で確認したいのである。
 ベストセラーになった、あるいは話題になった小説だから映画化するというのでは何とも情けない話だし、あまりに芸がないではないか。
 というわけで、映画と原作の関係について言及する拙い文章をつづっていきます。

       *

 『リング』である。
 今さらストーリーを紹介する必要もないほど小説はベストセラーを記録し、映画も大ヒットした。
 従姉妹の突然の死をきっかけに同日同時刻に死亡した若者グループを取材するうち、見た者は一週間後に死ぬという呪いのビデオを見てしまった新聞記者が大学講師で少々癖のある旧友の協力を得ながら、テープからはすでに消去されてしまった呪いを解く〈おまじない〉を求めて悪戦苦闘する姿を描いたホラー小説だ。
 鈴木光司の小説は主人公が一週間で解除方法を見つけ出せるかどうかのサスペンスが中心となっている。それは妻子をも巻き込んでしまった主人公の苦渋にあふれた焦燥となって、読者は主人公と同化し期日までに自分自身(ということは妻子を)を救うことができるかどうか胸をしめつけられる思いでビデオテープに隠された謎を解明していくことになる。
 その過程で超能力者の山村志津子とその娘・貞子の薄幸な人生が浮き彫りにされていく。貞子がなぜ呪いのビデオを作ったのかという理由づけが(ご都合主義も垣間みられるが)きちんとされているので、貞子にもかなり感情移入してしまうのだ。
貞子が<睾丸性女性化症候群>の本当は男性だったこと(当時エンタテインメント小説ではこの症候群がいたるところで取り入れられていた)。この症候群の人たちが皆そうであるようにかなりの美女であった。貞子に欲情した最後の天然痘患者によって襲われ無残に殺されてしまったこと。誰にも知られずに一人寂しく井戸の下で眠る貞子が世の中を恨むのも仕方のないことかもしれない、と。
 貞子の遺骨を探しだし、供養してやることが呪いを解く〈おまじない〉だと主人公と旧友は確信し、調べていくうちにやっとその場所を確定する。ふたりは貸別荘下の古井戸にもぐりこみ、時間との戦いの中ぎりぎり間に合って記者は命拾いする。
 ここまででも相当スリリングな展開で満足できるものだが、小説『リング』の本当の恐怖はそのラストにあった。一息ついた読者はラストになって一気に恐怖のどん底に落とし入れられるのだ。
一日遅れて〈主人公がコピーした〉ビデオを見ている旧友が翌日突然死したことで本当の呪いの解除方法を知った主人公は愛する妻子の命を守るため、ビデオのコピーとそのテープを親に見せることを決意し故郷に向う……。
貞子が自分たちを迫害しつづけた世の中へ復讐するために生んだ1本の呪いのビデオテープはやがてねずみ算式に増殖し、全世界を席捲するであろうことを暗示させる不気味なラストである。
 読者は読了したとたん、この恐怖を自分ひとりのうちにとめておくことができず、また読ませないと、まるで小説の中の呪いを受けてしまいそうな気分になって、本好きな友人に『リング』を薦める現象が起きたことは十分想像できる。
 『リング』は映画化の前に一度スペシャルドラマになっている。主人公に高橋克典、旧友に(あっと驚く)原田芳雄のキャスティング(超能力を信じる大学教授に設定を変更、主人公とは取材で知り合った関係)で、『NIGHT HEAD』の飯田譲治が脚本を担当した。(祖師谷大蔵と共同、演出は瀧川治水。)
 ドラマは原作に忠実に丁寧に作られてはいる。しかし、単なる小説の焼き直しといった感じでそれほどのものではなかった。何よりビデオテープに念写された映像が小説に描かれたイメージを超える不気味さを持っていないことに失望した。
 だから新生角川映画が怒り心頭の『パラサイト・イブ』に続いて『リング』(&『らせん』)を映画化すると知ってもまるで期待していなかった。
 ラストのショックはあくまでも小説(活字)の怖さであり、映像にしてもたかが知れている。貞子の人生を描くにしても2本立ての上映時間ではダイジェストにしかならないだろう、と観る気もおきなかった。
 『タイタニック』が満員で時間つぶしにこの映画を観て恐怖におののいた友人のメールで気が変わり、劇場に駆け込み考えを改めた。
   
 ストーリーを知っているにもかかわらず冒頭からかなり背筋が寒くなる思いがした。呪いのビデオテープの都市伝説、ビデオを観た者がその後写真を撮ると顔がゆがんでしまう現象、呪われて死んだ人のこの世のものとは思えないようなショッキングな表情といった映画独自のアイデアに唸ったものだ。
 ビデオテープの映像もかなりのインパクトだった。この映像が驚愕のクライマックスへの伏線となることも見逃せない。
 主人公を女性(松嶋菜々子)に変更し、旧友の大学講師を別れた夫(真田広之)にしたことが、製作ニュースで知ったときはあきれてしまった。しかし、この変更が映画の進行とともに功を奏してくる。特に人に触れるだけでその人の考えが感じとれる超能力を持つ元夫の設定が気に入った。
 小説では詳細に語られていた貞子の人生をすっぽり削除して貞子を単なる化け物としか描かず、その過去を夫の超能力によってヒロイン(=観客)に感じ(見)させてしまうところが巧い。いかにもな説明台詞や回想シーンが排除され、おまけに時間も短縮もできる。(だったらラスト、貞子のしゃれこうべを見つけたとき、貞子の復讐が何なのかわかりそうなもんだ、という突っ込みはこの際しません)。
 そしてクライマックス。映画はそれを夫の呪い死ぬ様にもってきた。このくだり、小説ではそれほどの怖さはない。呪いは解かれたはずなのになぜ旧友は殺されてしまうのかというショックは受けるものの、それ以外の作用はない。
 映画は映像で〈ビデオを見た者がどのように貞子に殺されていくか〉を具体的にきっちりと見せてくれる。鳥肌がたったのはその驚愕シーンが冒頭に見せられたビデオ映像に関係してくるところ。これは映画のオリジナルであり、この怖さはまさしく映像だけのものである。TV画面のなかから貞子が抜け出てくるショットはまさにコロンブスの卵的ショック。そして貞子の怒りに燃えた片目のアップ。生理に訴えるような斬新なショットだった。劇場内が絶叫に包まれたのはいうまでもない。
 その後も夜道を歩きながらこのシーンを思い出すたびに背筋が寒くなる。ホラー映画でここまで怖い思いをさせられた映画というのも珍しい。
 『十三日の金曜日』『エルム街の悪夢』といったホラー映画はあくまでも突然何者かが画面に現れてショックを与える〈ショッカー〉ともいうべき作りになっている。その場は反応して飛び上がるけれど、2回目以降はどうということもない。映画『リング』は映像そのものが持つ恐怖(視覚的恐怖)が肌を突き刺してくる感覚なのである。
 子どものころ、親戚のおじさん家で車座になって聞かされた怪談話にそれこそ目を閉じ耳をふさいで震えたことを思い出す。そう、映画『リング』はホラーというより昔ながらの怪談話なのだ。怪談話をきっちり映像にした希有な映画といえようか。
 映画『リング』は小説のエッセンスをそのまま抽出して、映像に不向きな要素は排除し、映像でしか味わえない恐怖を付加して見事に映画化した作品といえる。
 絵としての怖さを知リ尽くした高橋洋の脚本を、奇をてらわず正攻法で恐怖そのものを映像にした中田秀夫監督の才能に拍手喝采したい。




2016/02/15

 「立川談四楼独演会 第204回」(北澤八幡神社 参集殿)

  立川只四楼  「子ほめ」
  立川仮面女子 「動物園」
  立川だん子  「転失気」
  立川談四楼  「人情八百屋」

    〈仲入り〉

  Aco+taca こはる アコーディオン
  立川談四楼  「富久」

 転職したことによって、今後この独演会に通えなくなる。平日仕事が終わるのが19時。これまで18時に終わって駆けつけると何とか師匠の1席めに間に合うかどうかだったのだから、19時になると観られるのは2席めだけだろう。
 次回以降偶数月15日が火曜日か木曜日、もしくは日曜日だったら通うことにする。

 今回は有休消化中なので、最初から参加できた。
 ゲストのAco+tacaのステージが興味深かった。唄うアコーディオン弾きの遠峯あこさんがフランスで活躍しているtacaさんとユニットを組んだ。ダブルアコーディオンであこさんが唄うのだが、フランスの民謡なんてまるで中島みゆきの新曲のように思えた。Acoさんも言っていた。 
 日本の民謡では「ホーハイ節」に感激した。紙ふうせんのコンサートではいつも「ホーハイ」の部分しか聴けなかったので。「竹田の子守唄」もレパートリーとのこと。
 サプライズゲストのこはるさん、しばらく見ないうちに大きくなったなあ。もう小学生じゃない、中学生だ。

 開演を待っていたとき、入場してきたお客さん(二人連れ)の一人に釘付けになった。なぜあの人がここに? 本人だろうか? 僕より前の方に座ったのでたまに横顔を拝見しながら迷うことしきり。せめて声が聞ければわかるのだが。
 本人だとして、どうしてこの会に来たのだろうか? 師匠と知り合いなのか。そんな話これまで聞いたことないし。
 ああじゃない、こうじゃないと考えて高座に集中できなかった。

 高座終了後の懇親会で直接尋ねてみるか。
 が、終わったら残るそぶりは見せず、そのまま玄関に直行してしまった。あわてて追いかけた。とはいえ直接話しかける勇気がない。その方はもう外に出てしまった。靴を履いているもう一人の方に声をかけた。
「あの、お連れの方はきくちさんですか」
「そうですよ」
「き、きくち英一さんなんですね!」
 外にいるきくちさんに「おーい、きくち、お前に用があるって」
 外に飛び出た。きくちさんがいた。「帰ってきたウルトラマン」のスーツアクター! 小学6年のとき、生まれて初めてファンレターをだした俳優だ。しばし当時の思い出話。
 なぜ、きくちさんがこの会に来たのか、訊いてみた。
「志らくが大学の後輩なんだ。最近近くに越してきたら、立川流の落語会があるっていうので友だち誘って来たんだよ」
 そういうことか。日大芸術学部つながりか。
 自己紹介して、ブックカフェ二十世紀でトークイベントを開催していること、その企画や運営に携わっていることを伝えた。
 特撮関係のトークやりたいんです。そのときが来たらきちんと依頼させていただきますのでぜひ、出演してください。
 名刺をいただいた。

     *

 正式に働きはじめるにあたって名刺を作ってもらった。単なる喫茶業務だけなら名刺なんか必要ない。イベント企画となるといろいろな人に会うし、話をする際には自分が何者か説明しなければならない。
 早速、以前、寄稿した同人誌「まぐまEX 怪獣文化とウルトラマン」とブログに4回にわたって書いた「帰ってきたウルトラマンメモランダム」のコピーとともに郵送した。
 翌日、携帯に見知らぬ番号から電話があった。出ると「きくちです!」。「雑誌いただきました、ありがとう」
 大感激‼ 
 何て律儀な人なんだろう。




 困ったときの「mixi失格。」
 なことは絶対ない!
 ――ないと思う。
 たぶん……

 いえ、少しあるかな。

     ◇

●市川崑監督逝く…… 2008/02/14

 昨日、定時で仕事を切り上げ新宿へ。「まぐま」16号に執筆予定のT氏と原稿内容について打ち合わせするため。
 T氏は塚本晋也監督の映画に出演したことをきっかけに映画製作に目覚め、デビュー作をいきなり劇場公開に持込み話題をさらった若手監督。俳優でもあり、今年2本の主演映画が公開されるという。
 居酒屋で呑んでいるところに30分遅れてK氏がやってきた。最近映画製作に力を入れているので急遽誘ったのだ。
 着席するなりK氏が言った。
「市川崑監督、亡くなりましたね」
「えっ‼ い、いつ?」
「夕方のニュースで伝えていましたよ。ネットで見たんですが」
 叫んでしまったけれど、動揺はなかった。ついにそのときが来たかという気持ち。ああ、和田夏十さんと再会できるんだな。シナリオライターとして崑監督の名パートナーだった奥さんと。久しぶりに会えるんで喜んでいるんじゃないだろうか。
 冷静に事実を受け止めた。

 一番好きな監督である。もう何度も書いているが出会いはTVだった。小学6年の正月。土曜日の夜10時30分、自分の部屋にいると、茶の間から聞こえてくる歌が耳を捉えた。新番組「木枯し紋次郎」の主題歌だった。この主題歌が気になって、翌週、同じ時間、父の隣にいた。タイトルバックが斬新だった。最初はこのタイトルバック観たさに夜更かししていたようなものだ。そのうちドラマそのものに興味を持つ。「市川崑劇場」と銘打っていても、実際本人が演出しているのは数本しかないのだが、それでも市川崑の時代劇として、毎週土曜日の楽しみとなった。
 続いて中村敦夫が新聞記者に扮した現代劇「追跡」。フジテレビから日本テレビに移行して「丹下左膳」。
 その間にTVで放映されたATG映画「股旅」に衝撃を受けた。初めて観た崑監督の劇映画。この映画の制作費を捻出するため「木枯し紋次郎」を作ったのだから、その意気込みは半端じゃなかったはずだ。
 シャープな映像、リアリティあふれる演出、演技。神技のようなカッティング(編集)。随所に挿入されるユーモア感覚。当時の8ミリ映画にいそしんでいた中学生は完全に崑ワールドの虜になった。その影響ははかりしれない。
「股旅」が初めての映画だと思っていたが、後年間違いに気がついた。幼少時、祖父と叔母に連れられて隣町の映画館で「東京オリンピック」を観ていたのだ。芸術か記録かの物議を呼んだ映画。当時はそんなことまったく知らなかったけれど。
 市川崑の名前がインプットされてからは、作品を観たくて仕方ない。浅岡ルリ子とルノー・ベルレーが共演した「愛ふたたび」はすでに公開が終わっていた。「吾輩は猫である」は地元の映画館にやってきたのかどうか。ミュンヘンオリンピックの記録映画「時よ止まれ、君は美しい」で担当した「男子100メートル競技」はどんな出来なのだろうか?
 そして、高校2年の秋。「犬神家の一族」のロードショー。その前からキネマ旬報の記事を追いかけていて、期待は最高潮に達していた。友人と弟の3人で東京まで出かけるほど。映画を観る前のワクワク感は相当なものだった。
 プロデューサーの角川春樹は崑監督にオファーするにあたってこう言ったという。
「雪之丞変化」のような映画を撮ってください。「吾輩は猫である」では困るんです。
 現在、旧「犬神家の一族」は名作として喧伝されているが、公開時はかなり批判もあったのである。メディアでは洋高邦低が伝えられ、将来映画界で働きたいと思っていた高校生は、「犬神家の一族」の大ヒットに喜びながら重箱の隅をつつくような批判を目にするたびに胸を痛めていた。
 フットワークの軽さも魅力だった。音楽に若さを感じた。本人は「自分が音楽がわからないから」と謙遜していたけれど。
「犬神家の一族」以降はできるだけ追いかけた。それでわかったのだが、崑監督は小品に威力を発揮するタイプなのだと。
 金田一シリーズ第二弾「悪魔の手毬唄」は今思うと「犬神家の一族」よりだいぶ小ぶりになっていた。水谷豊主演の「幸福」。主題歌を五木ひろしがうたうというのでパスしてしまった「おはん」。岸恵子主演の「かあちゃん」。  
 企画段階で立ち消えになるものもあった。
 もし、半村良の「妖星伝」を映画化していたらどうだったのだろうか? 山口百恵の引退映画が「古都」でなく「牢獄の花嫁」だったら?
「犬神家の一族」のセルフリメイクではなく「本陣殺人事件」だったら?
……。
 
 享年92。大往生。そう信じたい。
 合掌。


●「この人この道」&「赤西蛎太」 2008/02/25

 各局で放送されている市川崑監督の追悼番組。BS、CSは観られないが、地上波は知る限りチャンネルを合わせている。

 まず17日(日)にNHK教育で「映像美の巨匠 市川崑」。これは「どら平太」公開に合わせて作られたドキュメンタリー。崑監督及び関係者へのインタビューが貴重だった。本放送時録画して宝物になっているのだが、デジタル放送だとまた格別の味わいがある(昨年、我が家はやっとデジタル対応の液晶TVを購入したのだ)。
 翌18日(月)はTBSがリメイクの「犬神家の一族」。どうせなら旧作の方がうれしいのだが仕方ない。劇場ではそれほど意識していなかった音楽(晩年の崑映画を一手に引き受けていた谷川賢作)がけっこう耳に残った。

 テレビ東京は22日(木)午後に「赤西蠣太」を放送した。伊丹万作の傑作時代劇をビデオでリメイクしたものだ。しっかり録画しておいた。テレビ東京にはもうひとつ役所広司主演で「刑事追う!」という連続ドラマがあった。オープニング&エンディング映像を崑監督が手がけ、豪華な監督陣が話題になった。もちろん最終回は崑監督。最終回だけ観たような気がする。
 監督と関係が深いフジテレビはというと15日(土)の昼間に「ビルマの竪琴」を放映したらしい。全然知らなかった。
  
 昨日24日(日)は「NHKアーカイブ」で「婦人の時間・この人この道 市川崑」と金曜時代劇「逃亡」の第一話「女と影」の2本が放送された。「婦人の時間」は1964年5月の番組。この時代のVTRが残っていることが驚愕ものだ。「東京オリンピック」準備中の崑監督。48歳。ひゃ~、今の自分と同年齢ではないか。
 時期が時期だけに、当然インタビュアーの尾崎宏次(演劇評論家)の質問も「東京オリンピック」になる。制作費2億5000万(今なら25億円か)、200名のスタッフ体制。さまざまなジャンルに挑戦するのは、一定の色がつくことを嫌った結果。
 最初はインタビュアーと崑監督の二人。崑監督、ほとんど口から煙草を離さない。話す際の手の動きが「映像美の巨匠 市川崑」のときとほぼ同じ。途中で池部良と淀川長治が加わって鼎談になるのだが、このときの4人の位置関係が面白い。4人が向かい合う、通常なら当たり前の構図だが、TVカメラを考えると信じられない位置関係なのだ。そして、このカメラが4人を廻りながら録っていく。当時としてかなり凝ったカメラワークだったのではないだろうか。

 キネマ旬報で、シナリオライターの桂千穂が金田一シリーズの撮影現場をルポしたことがある。このとき、崑監督のファッションを褒めて、自分も真似したいと書いていたのだが、桂千穂を女性だと信じていた僕は大いに驚いたものだった。たとえ、ファッションが決まっているとして、女性が、はるか年長の男性のファッションを真似るものなのかと。このあとだった、桂千穂が男性であることに気がつくのは。しかし、あのときの桂千穂の気持ちが、スーツ姿の48歳の崑監督を見るととてもよくわかった。

 「東京オリンピック」は、大映時代の文芸もので数々の傑作、佳作をものにした崑監督の集大成映画だったのだ、と今にして思う。たぶん、ここで監督人生の「第一部完」。次作から「第二部」になるのだろう。で、この第二部の集大成が「細雪」……。

 「逃亡」は2002年に放送されたもの。崑監督は、1、2話の演出を担当していた。

 「赤西蛎太」。本放送時、市川崑監督らしい陰影のある映像が、まるでビデオを意識させないと瞠目したのだが、実際のところ全編を観たわけではない。
 本放送はいつだったのだろう? 何年前かもう忘れた。確か正月。2日に帰省して、夕方から恒例の高校ラグビー部同期の新年会に出席、友人の家に一泊した。その翌日友人宅で観たのだから3日の放送か。特に映像に惹かれて夢中になっていたが、帰宅の時間になってしまい途中で切り上げた。たぶんビデオになると予想して切り上げたわけだが、結局その後レンタル店で目にしたことがなかった。
 そんなわけで今回の放送はとてもうれしかった。
 ビデオ、DVDで映画ソフトが手軽に楽しめる今、「ビルマの竪琴」や「犬神家の一族」を放映するよりこういう作品の方がありがたい。フジテレビだったら「木枯し紋次郎」や「追跡」をやってほしい。深夜枠でいいからさ。まったく個人的な要望かもしれないけれど。
 さて、「赤西蠣太」。調べてみると1999年の作品だった。オリジナルは1936年、片岡知恵蔵のプロダクションによって製作されている。脚本・監督が伊丹万作。主演は当然片岡知恵蔵だ。
 伊達騒動を扱った物語なのだが、冒頭のクレジット〈原作・志賀直哉〉に驚いた。志賀直哉ってこういう時代小説も書く作家だったのか。
 タイトルの赤西蠣太とは、江戸の伊達屋敷を牛耳っている伊達兵部と原田甲斐の悪巧みの実態を調べるため、国元(仙台の伊達藩)から派遣された間者(スパイ)の名前。お人よしの醜男で将棋好き。胃腸の具合が悪い。この役を北大路欣也が演じている。日頃得意としているヒーローとは正反対の役柄だが、これがなかなか味がある。面白いのは、敵役の原田甲斐も演じていることだ。こちらは歌舞伎から抜け出たような白塗りの二枚目。この二役にどんな意味があるのかと思ったが、オリジナルでも片岡知恵蔵の二役なのだった。ストーリー的なことより、スターが演じる二役の落差を楽しむといった趣旨なのだろう。
 主要な登場人物の名が海の魚に由来する。まるで「サザエさん」のよう。実にノホホンとしたユーモラスな時代劇であるから、そのつもりで観ていると、赤西蠣太と親しくしている盲目の按摩(小松政夫)が、重大機密を知ってしまったことで、もう一人の間者にあっさり殺されてしまうなんて非情なシーンがある。この間者を演じているのが宅間伸。こちらには「逃亡」の悪役イメージがあって、いつか赤西を裏切るのではと思っていたから、ドキドキしてしまった。クライマックスに向けての二人の対決を予想したのだ。あっさり裏切られた。
 すべてを調べ上げて、国に帰るため赤西蠣太は暇をもらおうとする。しかし、今帰ると敵に正体を見破られる恐れがあると、宅間伸の間者からある策をもらう。美人の腰元(鈴木京香)に付文(恋文)を書け。赤西の容姿ではぜったいにふられるから、皆の笑いものになって、それを口実に夜逃げしてしまえ。これなら怪しまれない。腰元の名(小波=さざなみ)を考えたのは赤西で、密かな想いもあった。それはまずいと反論するものの、彼女へのラブレターだから意味があると聞く耳をもたない。書いては破りの繰り返し。やっと書き上げたラブレターを鈴木京香に渡す。
「お返事は差し上げるものでしょうか?」
「はあ……」
 ところが何日経っても返事がない。宅間伸の要請でもういちど付文を書き誰の目にもふれる場所に落としておく。これが腰元元締の目に。もちろんシナリオどおりなのだが、幸か不幸か、同時に鈴木京香から「はい」の返事を聞いてしまうのだ。なんと絶世の美人が醜男のプロポーズを受け入れてしまったのだ。
 逃げる口実はできた。しかし、逃げれば意中の女性を裏切ることになる。
 赤西蠣太、さあどうする?

 冒頭の崑監督得意の俯瞰ショット。丸い番傘が並んで右から左へ移動する。あるいはガランとした部屋で、夜、赤西蠣太が行灯を相手に将棋をさしているショット。その陰影。もうそれだけで幸せな気分だ。ラストカットも余韻があった。

 はるか昔、オリジナルの「赤西蠣太」を観ている。観せられた、というべきか。
 就職浪人中に半年間通ったシナリオ講座の講義で、講師の安藤日出夫氏がこの映画、特にシナリオをベタ誉めし、ある日映画鑑賞になったのだ。
 今日記をあたったら、1983年の6月27日にこう書いている。

  (略)安藤日出男先生は、この映画の主人公の性格描写が素晴らしいと 絶賛していたが、画像が荒かったせいか役者たちの区別がつかず、またセリフが聞きとりにくくてストーリーがよくわからなかった。

 一緒のクラスだったかみサンにも確認してみた。一言「つまらなかった!」





 本日、ブックカフェ二十世紀は貸切。テレビ東京の某番組(春の特番らしい)の収録が行われた。
 12時にスタッフが集合して準備が始まり、15時から番組収録。30分番組を3回分。収録自体は19時に終了した。同時に僕の勤務も終了してあとはオーナーのSさんにバトンタッチして帰宅の途へ。
 カウンター内で収録模様を見学していただけなのに、やけに疲れた。

 ブックカフェ二十世紀のイベント告知でFC2のブログやFBを更新しなければならない。FBの場合、ログインするために個人のアカウントを取得した。取得したとたん友だち申請のメールが次々と送られてきている。
 皆承認しているけれど、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。なぜならあくまでも僕のフィールドはこの「もうひとつの夕景工房」であり、FBには興味ないので。

 mixiをやりはじたころを思い出す。
 あのときmixiが何なのかもわからずに招待されたので入会したら、自分のページができて、ブログを書けと。
 mixiに熱中した人たちが今はFBに移って活躍している。
 どうなることやら……




2016/01/28

 「ゴジラ東宝チャンピオンまつりパーフェクション」(電撃ホビーマガジン編集部/KADOKAWA/アスキー・メディアワークス)

 このムックは書店で見かけるたびに立ち読みしていたのだが、図書館で見つけ借りてきた。書店ではパスしてしまうページがじっくり読めた。

 東宝特撮怪獣映画は最初父に連れられて観ていた。小学生の高学年になると友だちと一緒に観るようになった。チャンピオンまつりは友だちと一緒に観た方だ。チャンピオンまつりの第一弾はしっかり覚えている。「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」は69年の冬休みの公開。というと、うちの郷里では春休みに上映されたのか。だったら5年になる春休みだ。とてもがっかりした。この映画は大人に、それも親にならなければ良さなんてわからないだろう。「帰ってきたウルトラマン/ウルトラ5つの誓い」と同じだ。

 東宝チャンピオンまつりは1969年から始まり1978年に終了した。
 僕が小学4年生から大学受験に失敗して東京の予備校に通いはじめたころまでということになる。
 「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」で卒業して、以降は足を運ばなかった。

 70年春期の「キングコング対ゴジラ」はなぜか「キングコングの逆襲」に差し替えになった。当初、クラスの友だちと「キングコング対ゴジラ」を初めて鑑賞できるとあって感激しながらどちらを応援するか話し合っていたのに、実際上映されたのは「キングコングの逆襲」。ちょっとがっかりしたのだが、映画そのものには感動して、1日中映画館にいて繰り返し観た。

 「ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 南海の大怪獣」は「南海の大決闘」以降のゴジラ映画にうんざりしていた僕にはとても新鮮で実際映画はよくできていた。

 「怪獣大戦争 キングギドラ対ゴジラ」は「怪獣大戦争」の短縮版。とはいえ僕にとっては初めて観た映画なのだが、初めて感銘を受けなかった怪獣映画なのである。シェーするゴジラは嫌だったし、宇宙空間に怪獣は似合わないと思った。

 チャンピオンまつりの歴史をまとめると以下のようになる。
 
 ■1969年 冬期
 「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」
 「巨人の星 行け行け飛雄馬」
 「コント55号 宇宙大冒険」

 ■1970年春期
 「キングコング対ゴジラ」
 「巨人の星 大リーグボール」
 「アタックNo.1」
 「やさしいライオン」

 ■1970年夏期
 「ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 南海の大怪獣」
 「巨人の星 宿命の対決」
 「アタックNo.1 涙の回転レシーブ」
 「みにくいアヒルの子」

 ■1970年冬期
 「モスラ対ゴジラ」
 「柔の星」
 「アタックNo.1 涙の世界選手権」
 「昆虫物語 みなしごハッチ」

 ■1971年春期
 「怪獣大戦争 キングギドラ対ゴジラ」
 「アタックNo.1 涙の不死鳥」
 「みなしごハッチ お月さまのママ」
 「いなかっぺ大将」
 「ムーミン」

 ■1971年夏期
 「ゴジラ対ヘドラ」
 「帰ってきたウルトラマン」
 「みなしごハッチ 傷だらけのバレリーナ」
 「いなかっぺ大将 猛獣の中にわれ一人だス、オオ!ミステークだス」
 「日本むかしばなし わらしべ長者」

 ■1971年冬期
 「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 地球最大の決戦」
 「帰ってきたウルトラマン 竜巻怪獣の恐怖」
 「みなしごハッチ 忘れな草に願いをこめて」
 「いなかっぺ大将 猫も歩ければ雀に当たるだス、当たるも当たらぬも時の運だス」
 「マッチ売りの少女」

 ■1972年春期
 「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」
 「ミラーマン」
 「帰ってきたウルトラマン 次郎くん怪獣にのる」
 「かしの木モック」
 「みなしごハッチ ママにだかれて」
 「天才バカボン 夜まわりはこわいのだ」

 ■1972年夏期
 「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」
 「ミラーマン 生きかえった恐竜アロザ」
 「赤胴鈴之助」
 「天才バカボン 別れはつらいものなのだ」
 「かしの木モック ぼくはなかない」

 ■1972年冬期
 「ゴジラ電撃大作戦」
 「怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス」
 「パンダコパンダ」

 ■1973年春期
 「ゴジラ対メガロ」
 「飛び出せ!青春」雨ふりサーカスの巻」
 「パンダコパンダ 」
 「ジャングル黒べえ」

 ■1973年夏期
 「怪獣島の決闘 ゴジラの息子」
 「レインボーマン 殺人プロフェッショナル」
 「ウルトラマンタロウ ウルトラの母は太陽のように」
 「科学忍者隊ガッチャマン 火の鳥対火喰い竜」
 「おもちゃ屋ケンちゃん よそではいい子」
 「山ねずみロッキーチャック ロッキーとポリー」

 ■1973年冬期
 「キングコングの逆襲」
 「侍ジャイアンツ ほえろバンババン」
 「ウルトラマンタロウ 燃えろ!ウルトラ6兄弟」
 「山ねずみロッキーチャック がんばれチャタラー」
 「エースをねらえ! テニス王国のシンデレラ」
 「科学忍者隊ガッチャマン 電子怪獣レンジラー」

 ■1974年春期
 「ゴジラ対メカゴジラ」
 「新造人間キャシャーン 不死身の挑戦者」
 「侍ジャイアンツ 殺生河原の決闘」
 「アルプスの少女ハイジ」
 「ウルトラマンタロウ 血を吸う花は少女の精」
 「ハロー!フィンガー5」

 ■1974年冬期
 「燃える男長島茂雄 栄光の背番号3」
 「モスラ」
 「海底大戦争 緯度0大作戦」

 ■1975年春期
 「メカゴジラの逆襲」
 「新八犬伝 第一部芳流閣の決斗」
 「アグネスからの贈りもの」
 「アルプスの少女ハイジ 山の子たち」
 「はじめ人間ギャートルズ マンモギャー」
 「サザエさん 送辞をよむぞ!」

 ■1976年春期
 「ピーターパン」
 「ミッキーのがんばれ!サーカス」
 「ドナルドダッグのライオン大騒動」
 「チップとデールの怪獣をやっつけろ!」
 「ドナルドダッグの人食いザメ」
 「元祖天才バカボン」
 「勇者ライディーン」
 「タイムボカン」

 ■1977年春期
 「キングコング対ゴジラ」
 「巨人軍物語 進め‼栄光へ」
 「ヤッターマン」
 「円盤戦争バンキッド」
 「まんが日本昔ばなし 桃太郎」

 ■1978年春期
 「地球防衛軍」
 「ルパン三世 ベネチア超特急」
 「新・巨人の星 嵐の中のテスト生」
 「家なき子 はじめての友だちグレース」
 「まんが日本昔ばなし かぐや姫」

 詳細なデータのほかに佐原健二、高橋厚子、麻里圭子、石川博、川瀬裕之、大門正明、藍とも子、坂野義光、中野昭慶のインタビューが読める。




 インターネットが通じていなくても、毎晩、ブログを更新するつもりで文章を書いて……いなかった。
 もう毎日忙しくてPCに向かう時間がなかった。休みになればなったでやらなければならないことがあって、外出ばかり。
 ということで、とりあえず1月の読書録を。12月がまだ途中だけど、仕方ない。

     * * *

2016/01/02

 「ぼく、ドラえもんでした!」(大山のぶ代/小学館)


2016/01/07

 「役者は一日にしてならず」(春日太一/小学館)


2016/01/09

 「帰ってきたウルトラマ〇娘」


2016/01/18

 「写真集トキワ荘通り」


2016/01/19

 「芸能人の帽子」(中山千夏/講談社)


2016/01/25

 「藝人春秋」(水道橋博士/文藝春秋)


2016/01/25

 『「おもしろい」映画と「つまらない」映画の見分け方』(沼田やすひろ・金子満監修/キネマ旬報社)



2016/01/28

 「ゴジラ東宝チャンピオンまつりパーフェクション」(電撃ホビーマガジン編集部/KADOKAWA/アスキー・メディアワークス)


2016/01/31

 「映画の話が多くなって」(小林信彦/文春文庫)




 本日やっとインターネットがつながりました。
 機器設置の工事が完了したのは18日。そのとき業者の人から接続の方法を記した小冊子をもらった。ところが、記載どおりにやっても接続されない。プロバイダーの転居に関する手続きをしてないことに気がつき、一週間経てからやっと手続きを終えて、また小冊子どおりにやってもやっぱりダメ。
 仕方ないからリモートサポートサービスに入会し(月々500円かかる)、本日何とかつながった。サポートの人が遠隔操作でPCを動かし、手続きしてもらった次第。

 新しい職場は神保町のブックカフェ二十世紀です。
 火木が休みで、それ以外は11時から19時(日・祝は18時)まで働いています。
 19時からはイベントが入ったりします。
 このイベントを企画、運営したくてブックカフェ二十世紀で働いたというわけです。
 今、いろいろ企画を考えています。

 皆さま、神保町に来たときには、ぜひブックカフェ二十世紀へお立ち寄りください。

プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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