26日から3連休だった。
 26日(木)は個人的な定休日で、27日(金)、28日(土)と連休を取得したというわけ。

 27日から3日間が毎年恒例の国立演芸場における立川流落語会。27日の初日が談四楼師匠の出演なので。感想は別項にて。
 終演後談四楼フォロワーズ4人で赤坂見附のサイゼリアで呑み会。赤ワインのボトル、マグナム(1,500L)を2本空ける。さんざん飲み食いして一人1,250円。安い。

 解散後、一人、フラフラしながら丸ノ内線で東京駅へ。外へ出て通りで吐いて気分が良くなる。
 23時30分発、大阪行きの深夜高速バスで一路大阪へ。酔っぱらっているから、車中ではぐっすり寝られた。深酒は深夜遠距離高速バスに乗る前の神聖な儀式なのだ。

 28日7時過ぎに大阪駅着。
 阪急電車の駅近くの商店街をウロウロしてまずは朝食をと定食屋に入る。店名は「宮本むなし」。この店って、快楽亭ブラック師匠のブログでよく見かけるお店ではないか。朝定食390円。

 腹ごしらえしたのでサウナへ。「大東洋」というサウナの早朝コース(2時間)を利用する。1,200円。これはいい。施設も豊富にあって大満足。ミストサウナが気に入った。時間があればもっと入っていたかった。
 サッパリして外へでる。近くのカフェでモーニング。ホットコーヒーとトースト(いちごジャムを選択)とゆで卵。300円。しばらく読書にいそしむ。今読んでいるのは「ニッポンの音楽」(佐々木敦/講談社現代新書)。
 しかし、この店「15分制度」なるものを導入しているという。15分経つと、テーブルのうえのものを片付けると案内にあった。長居は無用。コーヒーを飲みほして外へ。

 大阪一人旅の目的である「紙ふうせんシークレットライブ」は17時から。時間はたっぷりある。どうしようか。映画でも観ようか。
 TOHOシネマズ梅田が入っているビルへ行く。しかしなあ、大阪まで来て映画観ることもないか。思い直して阪急古書街を散策することにした。が、古書街のオープンは11時。まだ時間がある。目の前で献血のお願いコールが。早速協力することに。

 古書街をまわってわかった。大阪の古書は神保町にくらべて少し高い。
 「字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ」(太田直子/光文社新書)購入。300円。

 続いて紀伊國屋へ。しばらく時間をつぶしたがもう限界。中之島へ移動しよう。

 シークレットライブの会場となる「雲州堂」は北区菅原町にある。地下鉄堺筋線の北浜駅から少し歩く。
 梅田駅で堺筋線を探すがない。そういえば昨年は梅田から違う地下鉄に乗って途中で乗り換えたことを思い出した。御堂筋線の改札で駅員に確認すると、これ(御堂筋線)に乗って、隣の淀川淀屋橋で降りて歩いた方が早いよ、と言われた。

 北浜ではドトールでまたしばらくの読書。
 地上へでて中之島公園に向かう。途中に中之島図書館があったので覗いてみる。いやはやいいところですねぇ、ここ。
 新しい図書館を発見すると、必ず小林信彦を検索してみる。あるある、晶文社の本がごっそりでてくる。わお! 目当ての本をこの目で拝みたい。
 が、ここは蔵書システム(?)で、本は申請しなければ手にとれないのだ。諦めた。
 もちろん、棚には本が並んでいる。ビジネス書と大阪に関する書籍。手塚治虫に関する本がたくさんあった。目の保養になる。

 締めは中之島公園だ。ぐるっとひとめぐり。
 15時。とりあえず雲州堂に行ってみる。
 シークレットライブのリハーサルは16時だから。近くのカフェで時間をつぶすことにした。少し離れたところにファミリーマートがあり、2階がイートインコーナーになっているので、16時過ぎまでいることにした。アイスカフェラテとスパイシーチキンがお供。
 またまたしばしの読書ということで。

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旅のお供(友)はぐでたまキャラメル(いちご味)

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北浜駅を出て中之島公園に向かう途中

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中之島図書館があった
大阪府立だ

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これが出入口
建物を見ているだけでほっこりできる

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「ゴジラvsビオランテ」でゴジラが蹂躙した街並み

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この構図だと遠くにテレスドンを思い描いてしまう

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中之島公園

 この項、「紙ふうせんシークレットライブ2016」に続く




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 こちらも!

2016/04/05

 「劇場版ウルトラマンX きたぞわれらのウルトラマン」(新宿ピカデリー)


2016/04/07

 「家族はつらいよ」(MOVIX川口)


2016/04/12

 「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」(MOVIX川口)


2016/04/16

 「ボーダーライン」(角川シネマ有楽町)


2016/04/21

 「スポットライト 世紀のスクープ」(MOVIXさいたま)


2016/04/26

 「フィフス・ウェイブ」(丸の内ピカデリー)


2016/04/28

 「獣は月夜に夢を見る」(ヒューマントラストシネマ有楽町)




 こちらもあとで。

2016/03/08

 「ヘイトフル・エイト」(丸の内ピカデリー)

 タランティーノ監督の密室劇ミステリーというから、どんな展開になるのかと興味深く観た。なんてこはない、これまでどおりのタランティーノ節全開ではないか。
 暴力、血。容赦ない描写が続き、何度のけぞったことか。
 ヒロイン(?)のとんでもなさが新鮮。


2016/03/27

 「スイートハートチョコレート」(シネ・リーブル池袋)

 

2016/03/29

 「リリーのすべて」(MOVIXさいたま)

2016/05/12

 「立川流広小路亭 夜寄席」(上野広小路亭)

  立川志ら松 「狸札」
  立川寸志  「馬のす」
  立川吉笑  「粗粗茶」
  立川談吉  「猫と金魚」
  立川こはる 「野ざらし」
  立川志ら乃 「雲八」

 主任を務める志ら乃師匠プロデュース。あらかじめテーマが決められているこの会は今回で3回めとのこと。知らなかった。
 1回めは「し・ん・さ・く(新作)」、続いて「てっぱん(鉄板ネタ)」、今回が「ほめられ」で、各々人にほめられたことをマクラで披露する。
 志ら乃師匠、鼻高々だったろうなあ。
 とにかく内容が充実してとてつもなく面白かったんだから。当然、満席だ。
 熱演に次ぐ熱演で、皆時間をオーバー、トリの志ら乃師匠が登場したときは、終演時間間近だったとか。
 出演者が明日の立川流をしょって立つ4人。いや、ほんと、立川流の新・四天王ではないかしら。

     ◇

2016/05/17

 「立川流広小路亭 昼寄席」(上野広小路亭)

  立川笑坊  「堀の内」
  立川だん子 「酢豆腐」
  立川吉笑  「逸材」
  立川談吉  「野ざらし」
  立川志ら乃 「?」
  立川談慶  「紙入れ」

    〈仲入り〉

  立川三四楼 「金明竹 名古屋弁ver.」
  立川志の八 「宗論」
  立川志らら 「親子酒」
  立川こしら  漫談
  立川談四楼 「人情八百屋」

 一緒に働いている若いWさんは落語に興味津々。Wさんのお母さんが九州から上京すると聞いたのはずいぶん前だった。お母さんが落語会に行きたい、できれば有名な噺家さんの高座を観たいと言っているので何かないでしょうかと相談を受けた。
 5月にやってくると聞いて、だったら、立川流の落語会が国立演芸場で開催されるから、その初日にすればいいと回答した。志らく・談春共演だからチケットはあっというまに売り切れるだろう。でもご安心、チケットは別のルートで確保できる。個人的には談四楼師匠の出演する日で、毎年おかみさんにチケットをお願いしているのである(例の引きこもりで3年ばかりパスしていたが)。
 残念ながら、おかあさんの上京は一週間ばかり早かった。
 代替としてWさんがネットで見つけたのが、立川流の広小路寄席だった。出演者はトリが談四楼師匠、吉笑さんも出ている。おまけにこしら師匠の名前もある。一度その高座を拝見したかったのだ。
 これ、いつ? 木曜日じゃないか。だったら、オレも行く。その場で3人分予約した。

 案の定、期待したとおりの番組だった。
 吉笑さんのセンスにはますます磨きがかかり、大いに笑わせてもらった。談吉さんは元気いっぱいだし。
 Wさんのおかあさんも満足したようだ。
 ちなみにWさんのお気に入りは吉笑さん。




 この前、地元のブックオフで中古CDを購入した。オールディーズ特集の2枚組と「モテキ」のサウンドトラック。
 映画の感想を書いていないか、調べたら、これだけだった。
     ▽
いやはやサイコー! 恋愛時の男女の気持ち、狂おしいほどの相手への想い。ああ、わかるわかる。後半叫んでいた、心の中で。
     △

 「モテキ」の音楽で一番ガツンときたのは橘いずみの「失格」。CDもこの曲ばかり聴いている。
 今度一人カラオケで歌ってみようか。
 何度も聴いているうちに、叫びという点で昔書いた詩を思い出した。

 高校3年の春だった。高1でふられた彼女への想いがつのりにつのって会ってもらった。しかし、会話ははずまずこれで完全に失恋したことを悟った。
 その夜、飲めないアルコール(それもアップルワイン)をがぶ飲みして酔っぱらって、日記に書き綴った文言がこれだ。別に詩を書いたつもりはないのだが。ステレオで音楽をガンガンかけて、父親に怒られたことを覚えている。

 HP「夕景工房」を開設して、創作ページに詩のコーナーを創って掲載した。タイトルはそのときつけた。

 創作ページにこれまで日記に書いた詩を掲載する際、内容で「たちばないっぺいの口笛」と「みたかゆうのつぶやき」に区分した。
 たちばないっぺいというのは、自主映画を撮っていたとき、主人公の名前によく使ったことから使用した。みたかゆうは、かみサンの旧姓から最初と最後の文字を削除したもの。

     ◇

  音信不通/17歳 あるひとつの恋の終り

  今度こそ本当に忘れてしまいなさい
  会ったって どうってこない
  黙っていたってはじまらないし
  何より自分が惨めになってくる
  初恋は必ず破れるものさ
  今まで何とも思わなかった身振り手振り
  急にイヤになって……しかたのないこと

  今度こそ素直になれるだろう
  もう何も悩むことはない


  オレはおしゃべりなのか 無口なのか
  三枚目なのか 二枚目なのか
  他人はどう見てどう感じているのか

  女性と話しすることが それほどうれしいことなのか
  手も握ったこともないくせに

  電話かけることが素晴らしいのか
  夢だけ大きくて実行力に欠けることは

  街でカップルに出逢って意識せずに通りすぎることができるか
  ひとりがそんなに楽しいか
  ふたりはどんなに窮屈か
  話題を見つけるのに苦労しないか
  彼女の瞳を見つめられるか

  映画はひとりで観るのがいいか
  隣を振り向き寂しくはないか

  それはラブストーリーではなく
  ホラーでもサスペンスでもなく
  ただただ寅さんであると

  友だちは何人いるのか
  女性は友だちになれるのか
  映画に泣くことがあって音楽に涙することはないか

  今何を求めている
  女か 彼女の身体か

  裸体を見て 正確に「きれいですね」と発音できるか
  何事も考えず美だけを求められるか

  日記ってなんだ
  この日記はオレ自身だと叫べるか

  雨は嫌いか 夕陽は好きか

  泣きたいときは泣けばいい
  怒りたいときは怒ればいい

  殴りたかったら 殴ればいいのさ




 先日、株式会社KADOKAWAから封書が届いた。開けてみたら、「市川崑映画祭 光と影の仕草」スタンプラリーの賞品だった。当選したのだ!
 賞品は映画祭をデザインした文庫本のブックカバー。布製。
 やった、やった‼
 すげぇ、うれしい。

 角川シネマ新宿では「若尾文子映画祭」「市川崑映画祭」に続いて、7月30日から「角川映画祭」が始まる。
 70年代後半から80年代にかけて角川映画にはお世話になったのだから、当然行く。

 「セーラー服と機関銃」
 「麻雀放浪記」
 「蘇える金狼」
 「時をかける少女」
 「幻魔大戦」
 「復活の日」
 「ねらわれた学園」

 スケジュール表を見ながら行ける日時を考えると、こんなタイトルがでてきた。

160526_2010~01
スタンプラリーに応募したことなんて完全に忘却の彼方ですからねぇ
喜びははかりしれず



 北海道のジンギスカンさん、完全に失念しておりました。
 もう完結しているものだと思っていました。久しぶりに読んでみたら途中で終わっていて、「あれっ?」。
 ……な、わけない! ずっと気になっていたんですから。
 やっと最終回です。

     ◇

2015/10/10

  「新宿 フォークソングが流れる街」(新宿文化センター)

 その3から続く

●大塚まさじ

 大塚まさじといえば、友部正人、西岡恭蔵、中川イサトとともにインプットされている。元ディランⅡ(セカンド)。調べてわかったのだが、ディランⅡの前にザ・ディランがあった。だからⅡなのか。
 デュランといったら「プカプカ」が有名だ。いろいろな方がカヴァ―している。東の「雨が空から降れば」、西の「プカプカ」、だろうか。
 ディランⅡは3年半活動したという。
 関西からやってきたといい、出演者の中で一人だけだと強調する。おいおい、紙ふうせんもそうだよ~。
 ギターワークに聴き惚れた。本家の「プカプカ」が聴けて感激。

  月のまつり/天王寺想い出通り/いのち/プカプカ


●なぎら健壱

 なぎらさん(なぜかさんづけ)は、ある種フォークの権威である。「日本フォーク私的大全」「五つの赤い風船とフォークの時代」という著書もある。
 このコンサートに先駆けて開催された「フォーク大集会」、行けばよかったと今になって後悔している。なぎらさんが講師だったのだ。
 最近は(というかもう十数年ばかり?)フォークシンガーというよりタレントとしての活躍が目立つ。個人的にはなぎらさんはウーロンハイを飲むしぐさが絶妙だと思っている。対抗できるのは鶴瓶さんのみ。ほんと、うまそうに呑むんだよね。

 今回のライブではサポートが二人に入った。

 サポート:松本典明・雨宮直己

 一人はエレキギターベースなのだが、やはりこういう場合はウッドベースがお似合いなのではないか。

 今日の格言。
「人の不幸はこころのオアシス」

  誰かがお前を待っている/労務者とはいえ/証~3・11 AKASHI~/昭和の銀次

 なぎらさんの司会で、小室等さん(六文銭)、後藤さん(赤い鳥)、西岡たかしさん(五つの赤い風船)の鼎談をしてほしい。BSやCSだったら企画できるのでは?


●紙ふうせん

 トリは紙ふうせん。
 すぎたさんがサポートに入っての、ギター2本編成。

 サポート:すぎたじゅんじ

 これが良い。
 もうずいぶん前になるが、横浜の某所で行われた紙ふうせんのミニライブがギター2本でこんな演奏があるんだと感激したことがある。特に「冬が来る前に」が顕著で聴き惚れてしまう。すぎたさんが弾くチャランゴの音色と後藤さんのギターテクに。
 ステージは大いに盛り上がった。

  竹田の子守唄/PPMメドレー /虹/冬が来る前に/紙風船


●全員

 ラストは出演者全員による「翼をください」。
 紙ふうせんのステージで披露されなかったので、予想していた。
 基本は平山さんの歌唱で、途中、ハコさんがソロをとる。その声が「A Hard Day's Nightt」のポールみたいで、実にかっこよく心地よかった。
 友川さん(流れとしてさんづけ)あたりは、なぜオレが「翼をください」を歌わなければならないんだ? なんて思っていたのではないか。何が「翼をください」だ!

  翼をください

 とても充実した4時間だった。
 何より、この手のコンサートによくある、同じバックバンドが演奏するスタイルでなかったことに喜んだ。アコースティックギター1本、2本でもかなり激しい音がだせることに驚いた。
 内容がまるで「ALFA MUSIC LIVE」のアンチテーゼみたいだった。
 個人的には、こちらのコンサートの方が心にズシンとくるものがあった。紙ふうせんがフィーチャーされた構成ということもあるだろう。おしゃれな音楽にそれほどの興味がないということもある。
 バラエティに富んだアーティストの歌唱と演奏が新鮮で、4時間少しも飽きなかった。

 コンサートを通じて考えていたことがある。
 新宿駅に向かって歩いているときに、Wさんに言われた。「歌詞が聞き取れないものがあったね。紙ふうせんはそんなことがないのに」
 考えていたのは、まさにそのことだった。
 紙ふうせんの場合、Wさんも僕ももういつも聴いているので、他の歌手より楽曲に馴染みがあり、すっと歌詞が入ってくるということはある。だから一概に比較できないことはわかっているが。
 8月、友人に招待されてレベッカの復活コンサートに行った。「フレンズ」や「ラズベリードリーム」といったヒット曲の詞はきちんと耳に入ってくるのだが、そのほかはまるで何を言ってるのかわからなかった。
 ロックだからとそういうこともあるだろうとそのときは思ったのだが、フォークでも同じ現象があって驚いたのだ。
 フォークソングと歌詞の関係についても考えをめぐらすことにもなったコンサートだった。
 



 果実さん、検察庁じゃないよ、警察庁!
 電話では「警視庁ではなく警察庁だ」って言ったんですよ。

     ◇

2016/05/12

 「64-ロクヨン- 前編」(MOVIX川口)

 佐藤浩市主演で映画化されると知り、あわてて小説を読んだ。D県警シリーズのよくできた長編ミステリ。それにしても群馬が舞台なのに、なぜGではなくDなのか。まあ、いい。
 後半は、「犯人に告ぐ」と同じプロット、というと、ミステリ好きには展開がわかってしまうか。「犯人に告ぐ」の映画化作品も原作の味を活かした佳作だった。
 同様のことがこの作品にもいえるのではないか。

 映画化の前にNHKでドラマ化されている。主人公にはピエール瀧が扮していた。なかなかの力作だった。とはいえ、映画の方が、何かと心にしみる。胸にくる。まだ前編だけしか観ていないのだが、記者クラブと広報室のやりとりの緊迫感は特筆できる。

 アバンタイトルで涙があふれた。被害者家族の描写。娘が描いた絵、両親と手をつないだ自分~もうそれだけで娘を失う親の気持ちが伝わってきた。うちの娘もいつもあの手の絵を描いていたのだ。以降、演じる永瀬正敏がスクリーンに登場するだけで泣けてくる。事件に遭遇してからの彼の人生を想うと……

 キャスティングがまさに適材適所といった感じ。主人公の妻を演じる夏川結衣。今、こういう役をやらせたら右に出る者がいない。身元不明の死体がもしかすると娘かもしれないと夫とともに雪国を訪れて確認するシーン。正視できずに目を伏せる。リアルな母親像だった。
 部下を演じる綾野剛、榮倉奈々。もう一人、金井勇太が光る。
 読書の感想で映画化に触れ、本当なら佐藤浩市はミスキャストと書いた。一人娘との確執の原因が顔で、父親似を嘆き、言い争いの毎日。ある日家出してしまうのだ。

 二枚目の佐藤浩市をキャスティングすることで、この父親と娘の確執の要因が変更になるものと考えていたのだが、原作どおりの設定だった。
 膝を打った。あくまでも娘の神経が病んでいる、というのであれば十分成り立つのだ。

 同じ列に、いつもなら映画館に足を運ばないようなおばさんの二人連れがいた。50代の男がおばさんと書くのだから、世間一般ではおばあさんか。まあ、いい。映画が終わって、一人がもう一人に言った。
「後編も観なくちゃね」
 まさしくそう思わせる前編のラストである。




 本日(もう昨日だけど)、個人的には休みなのだが午後ブックカフェ二十世紀に顔をだす。夕方予定している「小中和哉の特撮夜話」打合せのための資料をプリントアウトするためだ。

 プリントアウトを終えると、ここのところずっと読んでいる「決定版 ルポライター事始」(竹中労/ちくま文庫)を読み進めてやっと読了。
 その後は、昨日発売のサンデー毎日の特集記事をむさぼり読む。
 ウルトラセブン特集なのだ。この前はウルトラマン(初代)特集だった。売れたんだろうなぁ。だから第二弾はセブン特集だと推察する。セブンの世界観を熊本地震に結びつけるのは少々強引だけれど。元タカラジェンヌが「ウルトラマンX」に出演していたとは知らなかった。
 新作「ウルトラマンオーブ」が放送されるという。オーブってどういう意味?

 15時半、二十世紀を出て夢野書店でブラブラした後、徒歩で新宿に向かう。19時、丸ノ内線西新宿改札口できくち英一さんと小中和哉監督と待ち合わせなのだ。

 神保町~九段下~市ヶ谷~曙橋~新宿五丁目~新宿三丁目~新宿~西新宿

 歩くって東京の街について新たな発見があって実に楽しい。ゆっくりゆったり道草しながら目的地へ。待ち合わせ時間の30分前に到着した。

 トークイベントの一週間前から展示コーナーにて「帰ってきたウルトラマン・スーツアクター きくち英一の秘蔵写真・グッズ展(仮)」を開催することも確定した。

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西新宿の到着したとき
夕焼けがきれいだったので思わずパチリ
肉眼だともっと夕焼けが大きいのよ

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「007は二度死ぬ」の日本ロケ裏話、帰マンの特撮裏話、
その他もろもろ小中監督と一緒に訊くことができるなんて。
生きててよかった!





 H・G・ウェルズの『宇宙戦争』といったらSF小説の古典として、誰でもタイトルくらいは知っているだろう。
 ただし、どんな内容なのかと問われたら返答に窮するかもしれない。地球外知的生命体の地球侵略を描いた元祖的存在。火星人が地球を侵略してきて最後に撃退される話。まあそれくらいの認識だと思う。僕自身がそうだった。
 スピルバーグ監督がトム・クルーズと再び組んで『宇宙戦争』を映画化する。そんなニュースを耳にして、何を今さらという気がした。たぶん必要なのは『宇宙戦争』のタイトルと〈原作 H・G・ウェルズ〉のクレジットだけ。一九九〇年の『宇宙戦争』とでもいうべき『インデペンデンス・デイ』で大ヒットを飛ばしたエメリッヒ監督の『GODZILLA』と同じ方法論。
 しかしそれはある意味原作を冒涜していることになるのではないか。なぜ最初からオリジナルで勝負しないんだ! アメリカ映画の企画の貧困を嘆きながらハタと気づいた。実際のところ『宇宙戦争』とはどんな物語なのだろうか?
 というわけで公開前に原作(斉藤伯好・訳/ハヤカワ文庫)をあたってみた。
 イメージしていたものとずいぶん違った。火星人と人類の戦争を真正面から描いていないのだ。
 主人公はロンドン近郊の町に住む知識人。小説はこの男の手記という形で、火星人の地球侵略の発端から未遂に終わるまでを綴っていく。男はその渦中に巻き込まれた一市民、一目撃者の立場でしかない。火星人による無差別殺戮(巨大戦闘マシンから発射される高熱ビームは人間を一瞬のうちに焼き殺す)の模様、軍隊の反撃にびくともしない圧倒的強さ、にもかかわらずひょんなところから敗退してしまうまでの描写は、男の逃避行中における目撃や伝聞、あるいはそれに基づく推察なのである。 
 あくまでも男の目をとおして語られた物語ということなのだが、作者はそれだけでは侵略の全体像(街の破壊活動)が万全ではないと考えたのか、男の弟の体験談も火星人撤退後に聞いた話として、挿入する。
 悪夢のような出来事の後に書かれた手記であること、つまり最初から男が助かることがわかっているので、その分サスペンスの要素は弱く、全体を通して緊迫感が今ひとつ足りない。
 活劇の興奮は英国軍が誇る攻撃艦が巨大戦闘マシンに反撃するくだり以外ほとんどなかった。ラストもあまりにもあっけない。
 これは、十九世紀の小説だからというわけではなく、作者の狙いが、人類vs火星人の戦いそのものよりも、緊急時における人間性の変化こそにあったからではないかと思えてならない。
 逃避行中に出会う兵士や牧師補、特にある家の地下に閉じ込められてから繰り広げられる牧師補と男の丁々発止のくだりが実はこの小説の芯だったのではないかと。

 『宇宙戦争』は小説よりSF映画の傑作として人々の記憶に残っているかもしれない。一九五三年に公開されたジョージ・パルの作品として有名な映画である(監督バイロン・ハスキン)。
 映画は舞台をアメリカ西海岸、巨大戦闘マシンを空飛ぶ円盤状のフォルムに変更したほかは、前半ほぼ原作に沿った展開だ。3本足で闊歩する巨大戦闘マシンを円盤にしたのは当時の特撮技術を考えれば当然の処置だろう。
プロデューサーのジョージ・パルやハスキン監督が非凡なのは、原作のプロットを活かしながら、スリルとサスペンスに富んだスペクタクル映画に仕立てたことだ。
 主人公を科学者に設定することで、米軍の対火星人攻撃に関与させる。これで後半は米軍とマシンの迫力ある戦いが描けるわけだ。ヒロインとのラブロマンスもあり、原作にある愛妻との再会シーンを、もっと劇的な構成で観客の高揚感を煽る。だからこそ、あっけない火星人の敗退もカタルシスになりえるのだ。
 公開時は原作以上の面白さを持つ映画化作品として喧伝されたのではないだろうか。
 ただし今の目からすると、オーソドックスなSF映画という印象が強い。かつて一世を風靡した(東宝の)SF特撮、怪獣映画はみなこのパターンだった。主人公は必ず科学者とかジャーナリストといった類の職業で、事件に巻き込まれた彼(および仲間たち)はやがて自衛隊の対敵作戦の中心的人物として最後まで戦いを見守るというような。
 浴びるようにその手の映画を観て育ち、いい大人になった今でも現実世界のいたる場所でふと怪獣が出現する姿を追い求めてしまう僕にとって、スピルバーグ版『宇宙戦争』は画期的な作品だった。
 トム・クルーズ扮する離婚歴のあるごく普通の男・レイが、最初の巨大戦闘マシン出現に遭遇し、辛くも難を逃れるシークエンスに目を瞠った。
 異星人の設定やマシンの出現の仕方に二十一世紀の現代らしい意匠をこらしてはいるが、ストーリーは旧作以上に原作に忠実である。なにしろレイは天文学・生物学の権威でもなければ、TVリポーターでもない。政府に異星人の生態分析を依頼されることも、取材の過程で敵の弱点を知り、軍に協力することもない。彼にできるのは〈今そこにある危機〉から脱出すること、別れた妻から預かった息子(ジャスティン・チャットウィン)と娘(ダコタ・ファニング)を戦闘マシンの襲撃から守り抜くこと――カメラはこの親子の逃避行を追うだけなのだ。
 なるほど! 今この時代に『宇宙戦争』が再映画化された意図を理解した僕は歓喜し、興奮した。
 これはスピルバーグ監督による怪獣映画なのである。それも、かつてゴジラやガイラに襲われる悪夢に何度もうなされた経験のある少年が大人になってから夢想した究極の怪獣映画。巨大生物の襲撃に巻き込まれた一市民がただ逃げ惑うだけのスリルとサスペンス。その恐怖を最新のCG技術を駆使したリアル映像で観客に同時体験させるパニック(サバイバル)スリラーといえばわかりやすいか。
 巨大物体の撮影に関して、アメリカ映画は人間の視点を基調にしたリアルなタッチが多いのだが、この映画はそれを一歩進めて、最初から最後まで主人公レイの視点でしか描かない。徹底して原作の一人称描写を遵守し、そこが斬新なのである。
 その結果、全編にわたって繰り広げられるのは主人公たちの逃亡劇のみ。侵略の全貌が見えてこない。情報網も遮断されているから、異星人の正体や目的、全世界の様子なんて、伝聞と憶測の域を出ない。さらに、通常ならこの手の映画のクライマックスになるであろう米軍と異星人の総力戦もその一部を目撃させるだけ。だが、それこそ本当のパニック模様ではないか。原点『激突』への回帰という意味もあるかもしれない。
 スピルバーグが『GODZILLA』を撮っていたらどんな映画になったのだろうか? 『ロストワールド ジュラシック・パーク』のクライマックスはスピルバーグなりのゴジラだとは思っているが、もう一度本格的に取組んでもらえないものか。一つ案がある。『原始怪獣現わる』のリメイク。ブラッドベリの「霧笛」を換骨奪胎した映画化に挑戦してほしいのだ。




 まだ、3月、4月のシネマ観て歩き(なんてシリーズにした覚えはないのだが)を書いていないし、何より「64-ロクヨン- 前編」についても語りたいのだが、とりあえず。

     ◇

2016/05/14

 「アイアムアヒーロー」(TOHOシネマズ日本橋)

 面白かった。VFXもなかなかのもの。ハリウッドと比較しても見劣りしなかった(何度も顔をそむけたが)。鑑賞後の充足感もあり、もし誰かと一緒だったらああだこうだとおしゃべりに花を咲かせたことだろう。
 しかし、こうも思った。この映画、「ドーン・オブ・ザ・デッド」の単なる焼き直しではないか? あの設定及び展開の中で妄想癖のある主人公(大泉洋)の精神的成長を描くところ(笑いを取り入れているところ)と有村架純演じる女子高生のキャラクターがオリジナルか。長髪でいつもと違うキャラを演じている岡田義徳がいい。

  「ドーン・オブ・ザ・デッド」は「ゾンビ」のリメイクだった。「アイアムアヒーロー」はマンガ(原作・花沢健吾)の映画化である。映画化にあたってマンガ世界をそのまま映像化したのか、あるいは映画独自の設定、展開なのか。原作を知らないので何とも言えない。
 エンディングクレジットを見ると、映画の成功には韓国スタッフの協力が大きいと思われる。
 

 【参考】

2004/06/05

  「ドーン・オブ・ザ・デッド」(日比谷映画)  

 10代の頃、「悪魔のいけにえ」(「悪魔のはらわた」も含まれるか)から一気にブームになったスプラッター映画に夢中になったことがある。何に惹かれたのかというと、今だからいえるのだが、要はエログロ見たさ、に他ならない。  
 端的に言うと若い女性が敵に襲われるシーン。たとえば敵がゾンビだったら、ゾンビの群れに囲まれた清純な女性が、毒牙にかかる。衣服がはだけ、肌が露出し…どんな風に蹂躙されるのか(いたぶられるのか)、興味津々だった。  
 しかし実際の映画にそんなシーンはほとんどなかった。首が飛んだり、はらわたがむしられたり、気持ち悪いショットばかり。グロはあるがエロは皆無(考えれば当たり前なのだが)。  
 本来の見どころである恐怖も、「13日の金曜日」以降は突然画面に敵が現れるといったその場限りの脅かし(ショッカー効果?)ばかり。そんなこんなでスプラッター映画に何の関心もなくなって、今日にいたる。  
 前評判が高かった、ジョージ・A・ロメロ監督、「ゾンビ」を観に行ったのもそんなスケベ心だったと思う。  
 当時すでにカルト作品になっていた「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」を観ていない(知らない)僕は、ゾンビの発生(その要因とか、過程)からじっくり描かれるものだと思っていたら、何と冒頭のナレーションでゾンビの発生の原因を説明され、すでに街にあふれている群れに警察隊が総攻撃をするという展開にのけぞった。おいおい、それはないだろうとスクリーンに毒ついた。その後の、限定空間における人間とゾンビ集団の攻防は面白かったのだが。  
 ロメロ監督のゾンビシリーズの隠れた意図に気づくのは続編の「死霊のえじき」だった。    
 邦題がバラバラだから仕方ないのだが、「ゾンビ」「死霊のえじき」のそれぞれの原題は「Dawn of the Dead」、「Day of the Dead」。「Night of the Livingdead」の続編、ちゃんと時系列になっているのである。  
 で、「死霊のえじき」だが、これが〈人間はいかに愚かなリーダーに導かれるとバカをみるか〉という指導者論とみることができた。そこから「ゾンビ」が実はゾンビにあふれた極限状態に中にある主人公たちの脱出行を描きながら、消費文化に対する批評になっていたのかと気づいた。舞台になったショッピングモールはその象徴なのか、と。   
 その「ゾンビ」がリメイクされた。今回は原題どおり「ドーン・オブ・ザ・デッド」。ホラー映画には食指がわかないが、「悪魔のいけにえ」のリメイク「テキサス・チェーンソー」を観たからには「ドーン…」にも足を運ばなければならないだろう。  

 前半が楽しめた。特に冒頭のパニック描写にはリメイクの意味があったと思う。  
 一家庭だけかと思われた惨劇が、ヒロインが家を飛び出すことによって住宅地一帯、町全体、いたるところに広がっている実態を知らしめるシークエンスがいい。これが前作には欠如していたのだ。  
 断片的なTV中継の映像(ビデオ画像)挿入が効果的。ゾンビの群れを取材中のカメラ(主観)の目の前に突然ゾンビが現れるとプッツンと映像が消えてしまう。カメラマンが犠牲になったわけ。  
 ヒロインたちが逃げ込んだショッピングモールでもこのTV中継は続くのだが、ある日、砂嵐状態になってしまう。その怖さ。  
 ワシントン州のある町に住む看護婦(サラー・ポーリー)は、隣家の少女に夫を殺され、動転しているうちに今度はその夫が生き返り凶暴化するという事態に見舞われる。すんでのところで屋外に逃げ出すと、信じられない光景を目の当たりにする。住民たちが夫と同じように凶暴化し暴れまわっているのだ。  
 マイカーで町の惨劇から逃れた彼女は4人の男女に遭遇。近くのショッピングモールに避難し、共同生活を始める。  
 TVニュースによると、この悪夢は細菌兵器の影響によるものらしい。ウィルスの感染者が人を襲う。噛まれたら最後、その人も数時間後には凶暴化してしまうのだ。感染者の息の根を止めるのは脳を破壊するしかない。またたくまに増殖していく感染者たち。 
 外界と遮断されたショッピングモールは生活するには不自由ない。しかし、やがて感染者が跋扈する陸を離れて、海洋に旅立つことを決意する。海に囲まれた小さな島ならば感染者はいないだろうとの判断だった。  
 彼らは脱出に備えて、着々と準備を始めるのだが……  

 ヒロインと合流するのは、黒人警官、黒人とロシア人の若い夫婦、白人男性。黒人警官はいかにも頑強そう。若夫婦の男はちょっとわけありって感じ、おまけに女房は出産間近の妊婦なのだ。白人男性の存在はヒロインとのロマンスを期待させる。  
 理想的なメンバー(ちなみに「テキサス・チェンソー」も5人の男女だった)が、密閉されたショッピングモール内で迫り来る〈ゾンビ〉と死闘を繰り広げるのか! 彼らがモール内のエレベーターに乗って最上階に向かう最中、かなり興奮していた。  
 ところが、エレベーターの扉が開いて、銃をかまえた男3人が登場してきて一気に萎えた。  
 男たちはビル警備員の生存者なのだが、5人に向かって帰れと言うのである。普通、こういう状況下だったら、仲間は多いほど有利なのではないか? まずほっとするだろうに。別に旧作に登場した常識の通じない暴走族ではないのだから。  
 いや、疑問は最初からあった。この映画の〈ゾンビ〉は走るのである。とても機敏なのだ。画的には面白いけれど、こんな奴らを相手にしたら普通の人間に勝ち目なんてないじゃないか。  
 まあ性格の違う登場人物が増えることは、ドラマ展開が面白くなる要素ではあるのだが(その後も外部からの受け入れもあって生存者の数はさらに増える)、いざ脱出を計画しだしてからの行動がどうにもこうにも納得できない。もう自分から破滅にむかっているとしか思えないのだ。  
 犬の登場に驚いた。〈ゾンビ〉は人間だけを餌とみだし、その他の動物には無関心なのだという。もしそうなら町中にもっと野良犬、野良猫がいてもいいじゃないか。まあ、それはいい。その犬がクライマックスの重要な伏線になる働きをするのだが、犬のために娘が突飛な行動をとったことが理解できない。家族全員失った娘が人一倍かわいがっていたからという理由なのだろうが、説明不足。  
 脱出用にトラックを改造する。なぜ2台なのか。2台に分乗するほど人数はいないだろう。1台が問題起こしたらどうなるの? これまたそうしなければならない理由を設定すべきだろう。  
 結局その先が読めてしまう展開なのである。  
 脱出時の屋外の〈ゾンビ〉の数がただごとではない。地面がみえないくらいウジャウジャいる。とてもじゃないが脱出できそうもない。  
 島に逃げたって、たぶんそこに〈ゾンビ〉はいるよ。誰だって予想できること。だからこそ、クルーザーが動きだすところ(あるいは島の前に停泊したところ)で終われば、彼らの行き先は果たして楽園かそれとも地獄かと、想像できるのに、到着後を描いてしまう。映像処理はいいのに、これは蛇足以外何ものでもない。だいたいその島が無人島かそうでないかなんてわかりそうなもんだし。    
 ショッピングモールと道を挟んだ反対側の銃砲店ビルにも一人生存者がいて、お互い屋上で双眼鏡片手にコミュニケートをはかる様が秀逸だったのだが。  

 鑑賞後、一緒に観た友人が妊婦の赤ん坊を主軸にした独自の展開を披露してくれた。 映画では妊婦が〈感染〉して、出産の前に死んでしまうにもかかわらず、赤ん坊はちゃんと生まれてくる。感染者として不気味な容貌で。この発想を逆転させて ウィルスに対して免疫を持った赤ん坊にしたらどうかというのである。これを研究して血清を作り……というストーリー。この方がぜったい面白い。

     *

 旧作「ゾンビ」のときはまったく意識もしなかったのだが、「ドーン・オブ・ザ・デッド」って小室孝太郎の「ワースト」に設定がよく似ている。
 地球上に同時期に降り注いだ雨に濡れた人間は一度死に、凶悪な異形(ワーストマン)に変身する。彼らの毒牙にかかった者も同様の過程をたどる。わずかな生存者たちが一箇所に集まり協力しあい、ワーストマンの攻撃から身を護り、生活していく姿を描いたマンガだ。
 ワーストマンは徐々に進化していき、空を飛ぶもの、海を泳ぐものと体形もかわっていく。陸のものは外見上あまり変わらないのだが、そのぶん頭脳が発達していく。第2部でワーストマンを捕らえ、研究するエピソードがあるが、何と続編の「死霊のえじき」でも同じようにゾンビを研究する科学者が登場するのだった。




 現在、アルバイト生活の自分の定休日は火曜日と木曜日である。
 今週(先週?)もそのつもりで9日(月)の仕事終わりには翌日入るSさんに対してメモを残した。帰宅してから伝え忘れていることがわかり、翌朝仕事が始まる直前に電話した。電話にでたのがSさんだったので少々驚いた。ちょうど朝礼時だから女性のSさん(ややこしい!)がでるものと思っていたからだ。
 連絡事項を伝えて電話を切った。直後、携帯電話が震えた。でるとSさん(男性の)だった。
「あの~、keiさん今日出勤じゃないですか?」
「ああ‼」
 そうだった。27日(金)、28日(土)と休む。二日連続の休みは収入に響くので、どこか定休の日が出になればいいのに。
 そう思っていたところに、10日、Sさん(女性の方の)が休みとなった。だったら私が出ます。自ら志願したのである。
 にもかかわらず、すっかり忘れていた。手帳に記入していなかったのが原因だ。
 電話を切って、外出の支度をして家を出た。
 11時半過ぎには店に着いた。開店は11時だから仕事自体には特に問題はなかったのだが、ショッキングなこともあり、凹みっぱなしの1日だった。

 11日(火)の夜、録画しておいたNHK「トットてれび」の第一話と第二話を観る。原作の一つ、「トットチャンネル」は無茶苦茶面白かった、TV黎明期のエピソードは愉快痛快。映像化したら面白いだろうなと思っていたら、東宝が斉藤由貴主演で映画化した。
このTV版は思っていた以上によく出来ていた。次回が楽しみ。

 12日(木)は本当に休みの日。
 昼は地元シネコンで「64‐ロクヨン‐ 前編」鑑賞。夜は上野広小路亭で「立川流広小路夜席」。これらのことは項を改めて。

 14日(土)はTOHOシネマズのサービスデー。日本橋で「アイアムアヒーロー」を鑑賞。この映画については次項で。





 宣伝です。

 僕が働くブックカフェ二十世紀では6月17日(金)、特撮に関するトークイベントを開催します。
 ぜひご参加ください!

tokusatsu_night1


 小中監督とは「シネマDEりんりん」の「七瀬ふたたび」プレイベントで知り合った。
 平成ウルトラマンシリーズ第2弾「ウルトラマンダイナ」の第1話、第2話の感動は忘れられない。そして怒涛の展開だった最終3部作。僕にとって愛しい作品になった。
 総監督を担当した「ASTRO BOY  鉄腕アトム」も1年間夢中で観ていた。平成ウルトラマンシリーズのシナリオライターを起用していることも要因だったが、本当によくできていたシリーズなのだ。局が期待したほど人気は得られなかったのだが。

 「七瀬ふたたび」プレイベントで知ったことだが、小中監督とは同じような映像体験をしている。
 小学生のときに出会った第一期ウルトラシリーズ、その後NHK少年ドラマシリーズでSFジュヴナイルに感銘をうけ、自分たちで8mm映画を作り始める……。
 まあ、小中少年はきちんと夢を実現して映画監督になるわけだが。

 小中監督をホストにした特撮トークイベントができないものか。
 そんな夢が実現する。

     ◇

1998/08/28

 「ウルトラマンダイナ」(TBS TV)

 ウルトラマンダイナが終わった。
 川崎監督の「僕たちの地球が見たい」「うたかたの空夢」以降、今ひとつといった感じのエピソードばかりで、ティガみたいな終盤の盛り上がりというのが(僕にとっては)なかったし、ティガ同様最終3部作の第1部があまりに急展開だったため、どうなることかと心配していたら、第2部が異様な盛り上がりを見せてくれた。

 最終話を観終わった今、寂しくて、切なくて、印象的なシーンを思い出すだけで目頭が熱くなってしまうのだけど、前向きな姿勢を失わないS-GUTSのメンバーたちの涙まじりの笑顔に夢に対する希望を感じてすがすがしい気分であることに間違いない。
 ティガの時以上に感動していると言っていい。
 第1話、第2話の前後編で提示したテーマをきっちりと完結してくれた。
 僕はあのラストをアスカの死ととらえていない。全く予想していなかったラストではあるが光の中を父と子が並んで飛行するシーンはある種のハッピーエンドとみる。あれはネオフロンティア時代にふさわしい人類の新たなる一歩なのだ。
 最終話で流れた涙は、だからアスカを失った悲しみではない。「宇宙戦艦ヤマト」が大嫌いな僕としては自己犠牲で涙(感動)を呼ばせる作劇なんて絶対に認めたくない。

 ティガに続く新ウルトラマンシリーズ第2弾として「ウルトラマンダイナ」が発表されたとき、 多くのティガファン同様、あまりいい印象を持たなかった。
 ティガの世界観を引き継ぎ7年後の世界が舞台で、特捜チームがGUTSからスーパーGUTSに変更、単純明快なストーリーを目指すという新聞発表で少々心配になった。今度は『ウルトラマンタロウ』的な内容になるなんていう業界噂話を聞くと暗澹たる気持ちになったもんだ。
 お願いだからティガの世界を壊さないでくれ!それが放映開始前の率直な感想だった。

 第1話でそれが杞憂であることがわかった。

 <ネオフロンティア計画>をキーワードに宇宙に進出する人類の活動を背景にしたスペースオペラ的な舞台設定。
 かつて宇宙に消えた名パイロットだった父親との父子鷹的要素をスパイスにした、前向きに生きることだけがとりえの主人公の成長物語。
 主人公と彼をチームにひっぱった先輩女隊員との賢姉愚弟的な友情(恋愛)物語。

 と、今までのウルトラマンシリーズにはない展開が予想され、すぐにダイナの世界にはまってしまったのだった。
 そのために初のシリーズ構成者を採用したのだとも思った。

 回が進むにつれて、期待は徐々に薄れていった。最初に提示したテーマ(人間ドラマ)がうまく展開していかないし、設定やエピソードのつながりに矛盾を感じた。
 とにかく文句言ったり、見直したりの1年間だったが、今になってダイナの世界にどっぷりつかっていた自分に気づいた。

 後番組として、継続した世界観という点で、何かにつけてティガと比較されることは、仕方ないとは言え、かわいそうな気もする。
 第1弾で放映されていたら、それなりに評価されていたに違いない。
 僕としては

 せっかく最初に示したドラマ部分にシリーズを通してのまとまりがなかった(特にリョウとアスカの関係)
 TPCの組織がうまく描けなかった(なぜ基地の所在がダイブハンガーからグランドームに変更になったのか、GUTSからS-GUTSになったのか、新旧隊員の葛藤等)

 という不満はある。
 とはいえ、前作の世界観を引き継いだスタッフの意欲は多いに評価したい。
 タイトル通りのダイナミックな特撮もお見事。
 第2期ウルトラマンシリーズを凌駕していることは間違いない。

     ◇

1998/04/03

 「ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち」(新宿松竹)

 満足のいく出来だった。それは認めたい。
 しかし主要な対象が低年齢層の子どもたちとはいえ上映時間70分は短すぎるのではないか。
 それがクライマックスの首都決戦~ダイナの死(?)~ティガの復活~ダイナ&ティガ対敵の戦いと続く展開があまりに急テンポに進む結果になってしまったきらいがある。
 この部分は〈大人の観客〉としてもう少しきめの細かい描写で観たかった。
 あと20分あればダイナを失ったスーパーGUTSやTPCの隊員たち、その他避難したメトロポリスの人々の苦悩それにもめげずに立ち上がる勇気がもう少し奥行きのあるものになったのではないか。
 逆に言うとオープニングからダイナ対デスファイターまでは眼を見張るような特撮のイメージとあいまって、話の展開がスリリングで実に爽快だった。
 プロメテウスがデスファイターに変身するシーンはCGとはいえ日本特撮のイメージがやっとアニメーションのそれに追いついたことを証明していてうれしくなる。
 ティガファンへのサービスでラスト近くに旧GUTSのメンバーが勢揃いするが、単なる同窓会的な扱いなら出演させる意味がない。
 とにかくウルトラマンシリーズの映画化作品でやっと映画と呼べるものが登場したことを素直に喜びたい。




●巨人・大鵬・玉子焼き 2005/05/31

 「巨人・大鵬・玉子焼き」の最後の世代だと思う。甘い玉子焼きより醤油をかけて食べる目玉焼きの方が好きだったけれど。
 小学6年生だったか。祖母の家で叔父たちと夕方の相撲中継を見ていた。大鵬の取組相手は細い小兵力士。若手でめきめき力をつけていると評判だった。熱戦の末、大鵬が敗れ翌日引退を発表した。少年にとって相撲の代名詞だった大鵬を倒したのが貴ノ花だった。いっぺんにファンになった。以来、新聞や「大相撲ダイジェスト」で貴ノ花の勝敗に一喜一憂した。
 ライバルの輪島は順調に出世して横綱になった。貴ノ花は大関になってからというもの、大事な一番で星を落とすことが多かった。よくて10勝か11勝、だいたい勝ち越すのがやっとだった。
 そうなると場所が始まるたびにヒヤヒヤもんだ。勝てば翌日の新聞のスポーツ欄を何度も読み返す。負けると1日気分が悪かった。
 大関は2場所負け越すと陥落する。貴ノ花も何度もその危機をむかえたものだ。そういう場所に限って調子がよかったり、とにかく勝ち越してピンチをしのいだ。今思い出すといつもハラハラしながら貴ノ花の相撲をみていたような気がする。負け姿を見たくない思いが高じて途中休場するとホッとしたり……
 だからこそ2度の優勝、特に初優勝の時は両手をあげて部屋の中を飛び歩いた。相手がヒールの北の湖なのだから喜びは2倍、3倍だった。
 優勝はしても後が続かない。そのうちクンロク大関などとマスコミに揶揄されるようになった。9勝6敗は白星が黒星を二つ先行しているのだから、恥ずかしい成績とは思えないのだが、大関クラスになると物足りないのだろう。つまり強い大関なんていないのだ。強ければすぐに横綱に推挙される。ということはどういう意味か。
 その手の記事を読むたびに舌打ちしていた。大受なんて一度大関を陥落してからというもの、一直線に番付を下降していき「誰ぞ大受に愛の手を」なんて囁かれていたのだから。大関に踏みとどまっていることだけでもすごいことではないか、評価すべきじゃないか、と。 
 貴ノ花が引退を発表すると、マスコミの態度が急変した。名大関の名称はこのときからついた。今では〈昭和の名大関〉だ。
 ふざけるんじゃない! てめえら現役時代酷評しまくったのを忘れたのか!!
 引退して藤島部屋を創設。関取第1号が安芸ノ島だった。そんなわけで僕は十両時代から安芸ノ島を応援していた。二人の息子が角界入りして若貴ブームになったとき、若ノ花を贔屓していた。小さい頃から彼らを見ていて、何かにつけてお兄ちゃんの方がハンデがあったからだ。若ノ花を応援していると、若貴ブームに便乗したにわかファンと見られてくさったこともある。先代の貴ノ花が大鵬を破った時から……僕の言い訳は長くなる。
 二子山部屋を吸収する形で合併することには反対だった。0から始めた藤島部屋を大きくしてほしかった。本人もその意思はあったらしい。しかし師匠の言葉は絶対。現役時代も師匠の指示で何度か改名したっけ。思えばこの頃から何かが変わっていったような気がする。
 今、貴花といえば横綱・貴乃花だろう。僕にとっては先代の大関貴ノ花だ。貴ノ花には大関の文字がよく似合う。
 元大関貴ノ花のあまりに若すぎる死。覚悟はしていたけれど、やはり悲しい。
 合掌。


●父の涙 2005/06/02

 涙もろい方である。たぶん母に似たのだろう。子どものころ、母はTVのドラマや映画を見ながらよく涙を流していた。その横で母ほどではないけれど、僕も頬を伝わるひとすじ、ふたすじ光るものを感じていたものだ。
 「魔法使いサリー」のあるエピソードでは嗚咽するくらい感情が高ぶり、コタツの中にもぐりこんで涙をぬぐったこともある。
 父は違った。どんな映画を見ても表情を変えたことがない。家族でドラマを見ていて、こちらの感情を揺さぶるシーンを目の当たりにすると真っ先に父の顔を盗み見た。とりたてて何があるわけでもなかった。
 父は別に威厳があるわけではない。亭主関白とはほど遠い存在。にもかかわらず感情という面においてはとてもどっしりしていた。
 泣く姿を人に見られたくない、人前で泣くのは恥ずかしい。そんな思いが強いのは父の泣いている姿を見たことがなかったからだと今になって思う。
 涙もろいのは大人になっても変わらなかった。
 困るのは映画館である。場内が明るくなっても涙が乾かないと恥ずかしくてたまらない。
 大学2年時、彼女と「ねらわれた学園」&「野菊の墓」を観た。大林監督の「ねらわれた学園」が目当てである。併映の「野菊の墓」は松田聖子の主演ということでバカにしまくっていた。にもかかわらずラストで泣いた。当然隣の彼女も泣いているものと気をゆるしていたら、明るくなってから「はい」とハンカチを渡された。見るとニコニコ顔。その顔にはよくこんな映画で泣けるわねと書いてあった。
 娘が小さかった頃、せがまれて「セーラームーン」の映画を観に行ったことがある。かなりストーリーに夢中になってしまい、クライマックスで涙が流れた。やばい、と思いながらも場内は暗いし、娘はスクリーンを凝視しているので気づかれることもないとタカをくくっていた。家に帰ると「おかあさん、お父さんったら、セーラームーン見て泣いているんだよ」だって。しっかり観察されていた。
 一生父の涙なんて見ることはないと思っていた。そんな父の涙に初めてふれたのが母の葬儀だった。喪主の挨拶時に急に涙ぐんだのである。
 もう後がないと言われて1年あまり。すっかり心の整理もついてのぞんだ通夜であり葬儀だった。よもや父が泣き出すとは考えてもいなかった。父の嗚咽する姿にショックを受けまた感激した。
 あの時流した僕の涙は母を失った悲しみによるものではなかった。




 やばい、もう5月なんだよ。
 というわけで、簡単に。

     * * *

2016/03/03

 「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」(黒川伊保子/新潮選書)

 この書名、インパクトはあるけれど、読者を選んでしまうのではないか。もったいない。
 当然、特撮本ではない。簡単に言えば音による言語学。これが実に面白い。ウソだと思うなら読んでごらんなさいって。


2016/03/12

 「耳こそはすべて ビートルズサウンドを創った男」(ジョージ・マーティン/吉成伸幸・一色真由美 訳/河出文庫)

 図書館で見つけて手に取った。
 読了するのに手間取った。訳があまりうまくないのだ。
 ビートルズの曲で何気なく聴いていた部分がとんでもなく手間がかかっていることを知った。
 EMIがマーティンに冷たいということも。これには驚いた。
 訳者二人の名前を合成すると一色伸幸になる。同名の脚本家がいる。単なる偶然だろう。


2016/03/16

 「現在落語論」(立川吉笑/毎日新聞社)

 吉笑さんを初めて見たのは北沢タウンホールだった。談四楼師匠の落語会で高座返しとして働いていた。初めて高座を観たのは同じ談四楼師匠の北澤八幡神社の独演会においてだった
 寸志さんの初高座のときも出演していた。新作を演じていたのだが発想がユニークでこれで僕は吉笑さんに注目するようになった
 勉強会にも足を運んだ
 もし、こちら側に約3年の引きこもりがなければ、その後もずっと追いかけていたと思う。
 吉笑さんの笑いに対する才能は師匠(談笑)が一番わかっていることだろう。だからこそ前座1年あまりで二つ目に昇進することになったのだから。

 その才能は本書でも十分感じることができる。
 何度大声たてて笑ったことか。
 落語家にならなくて、もし放送作家になっていたとしても売れっ子になるのだろう。
 もし僕が落語をやるとしたら(そんなことは絶対ないが)、、こうしたいというようなことを実際に取り入れているのだ。笑いのポイントが同じということだから反応もそりゃ大笑いするし、ますます応援したくなる。


2016/03/18

 「スター・ウォーズ論」(川原一久/NHK出版新書)

 リアルタイムのスター・ウォーズ論なら負けちゃいないぜ。


2016/03/21

 「わが青春のとき」(倉本聰/理論社)

 「君は海を見たか」の前の作品になる。そんなドラマがあるなんてことも知らなかった。
 理論社のこのシリーズはかなり購入したものだが、本書は買わなかった。ドラマを知らなかったことが要因だが、今回古書店で見つけて読んでみようと購入した次第。
 日本テレビのファミリー劇場の1作。ファミリー劇場を夢中に観るようになる前の作品である。
 A・J・クローニンの小説が原作なのだが、倉本聰がそっくりそのままドラマ化するわけがない。
 ドラマで主人公を演じるのは石坂浩二、ヒロインは樫山文枝。
 感動作である。
 クライマックスで涙ボロボロになった。
 仕事中、お昼休みに目を真っ赤にしていた。
 恥ずかしい。


2016/03/23

 「ウルトラマン画報」(円谷プロダクション 監修/講談社)

 後で書きます。


2016/03/29

 「週刊誌風雲録」(高橋呉郎/文春新書)

 古書店の100円コーナーで見つけて買っておいた。
 戦後の雑誌の流れがわかって興味深い。


2016/03/31

 「現代漫画4 加藤芳郎集」(編集 鶴見俊輔・佐藤忠男・北杜夫/筑摩書房)

 高校時代に父親が買ってきたのを読んでハマってしまった選集である。それまでタレントとという印象しかなかった加藤芳郎の漫画がこんなに面白いなんて!
 本は郷里にあるが(たぶん)、神保町に通い始めて某古書店で見つけた。自分で持っているのもいいし、もう一度読んでみたいと思ったのだ購入したのだ。
 面白いよ~。




 保育園の年長組だったから5歳か6歳のころだ。TVアニメ(テレビマンガ)「ジャングル大帝」に夢中だった。ストーリー以上にオープニングテーマ曲とエンディング曲が大好きだった。音楽が魅力的な番組だったといえる。
 小学生になってから始まった「リボンの騎士」も毎週の放映が待ち遠しくてたまらなかった。
 
 日曜日午後7時のタケダアワーは特撮大好き少年には見逃せい番組だった。
 「ウルトラQ」「ウルトラマン」と続いたウルトラシリーズ第三弾は「キャプテン・ウルトラ」。制作が円谷英二率いる円谷プロから東映に変わったことで、ドラマも特撮もイマイチの感があったが、三機に分離するシュピーゲル号がお気に入り。それ以上にオープニングタイトルの歌に心ときめいた。

 円谷プロが大人向けに社運をかけて制作した1時間番組「マイティジャック」はなぜかリアルタイムでは視聴していなかった。初めて観たのはフジテレビではなくTBSの再放送。全編・後編と2回に分けて30分番組として放送していたのだ。
 怪獣やヒーローが登場しない作劇、万能戦艦マイティ号の描写が大好きだったのだが、途中でタイトルが「戦え!マイティジャック」になり、巨大猿や恐竜が登場して、何やら作りが子ども向けになったが、オープニングタイトルに惹かれてチャンネルを合わせた。雄大なテーマ曲にしびれていた。

 初めてNHKの大河ドラマを自分の意志で観たのが「勝海舟」だった。もう中学生になっていた。
 倉本聰が脚本を担当したというのが一番の理由だが、ショーケンも出演するというのがもうひとつの魅力だった。藤岡弘が竜馬だったし。テーマ曲が雄大、かつ荘厳だった。
 主役の渡哲也は病気で降板するわ、倉本聰はスタッフと衝突して解任されるわ、いろいろ問題があったものの、怒涛の幕末ドラマに魅了されて1年間つきあった。

 中学3年だったか、高校1年だったか、音楽に造詣が深い友人の家であるアルバムを聴いて衝撃を受けた。シンセサイザーという楽器で演奏されたクラシックだった。部屋じゅうが機械でそれがシンセサイザーと知ってぶっ飛んだ。

 虫プロ制作のアニメラマに最初に触れたのはTV。2作目の「クレオパトラ」だったのだが、音楽も楽しかった。六文銭の歌も挿入されていて。

 思えば、子どものころ、TV番組を観ていていい音楽だなあと思ったほとんどが冨田勲なのだった。オーケストレーションの魅力を教わった気がする。

 山田洋次監督初の時代劇「たそがれ清兵衛」の音楽を担当していると知りうれしかった。

 昨年だったか一昨年だったか、NHKで自身が手掛けるコンサートを取材したドキュメンタリーを放送していて興味深く観た。初音ミクを取り入れる姿勢に驚愕した次第。何て懐の深い人なのか!

 もうずいぶん前、もうひと昔にはなるか、CD「新日本紀行・冨田勲の音楽」を購入した。リリースされたのは1996年。冨田勲の代表作が、大友直人指揮、東京交響楽団の演奏で新録されたもので、冨田氏自身シンセサイザーで参加している。
 「ジャングル大帝」「勝海舟」「リボンの騎士」が網羅されているのだから、あわててAmazonに注文したのだった。
 訃報を知ってから、部屋でずっと聴いている。

 84歳。
 素晴らしい音楽の数々、ありがとうございました。

 合掌




2016/02/25

 「鉄の子」(MOVIX川口)

 市川崑映画祭で角川シネマ新宿へ行くたびにこの映画の予告編が流れた。片親しかいない小学生の同級生(男の子と女の子)、親同士が結婚して〈きょうだい〉になってしまった。クラスメートたちにはやし立てられて嫌でイヤでたまらない。何とか別れさせたい二人は離婚同盟を結成してあの手この手の作戦を実行するが……
 予告編でわかるのはここまでだが、何やら面白そうな展開ではないか、とこれは劇場で観ようと思った次第。

 そのうち詳細がわかってきた。
 僕が住む川口にはSKIPシティという映像関連の施設がある。NHKアーカイブスが併設されていて、映像に興味を持つ者には魅力的な場所。
 この施設で年に1回国際Dシネマ映画祭というイベントが開催されている。過去、何本かこの映画祭にノミネートした経験のある福田功起監督が映画祭を主催するSKIPシティ彩の国ビジュアルプラザを製作母体に撮った映画なのである。当然、舞台は川口なのだ。

 かつて、川口は映画「キューポラのある街」でも知られるように鋳物工場がある街だった。鋳物の街なのである。タイトル「鉄の子」の鉄とは鋳物のことなのであった。
 映画「鉄の子」がとても身近に感じられて、ぜがひでも応援したくなった。

 映画はまずキャスティングの良さをあげられる。主役の女の子に「がんばれベアーズ」のテータム・オニールを見た。別に似ているというのではない。当時、ある方の映画評で初潮前の女の子云々と書かれていたのを覚えている。
 ただ展開がウソっぽい。ドラマの結果が先にあって、そのために物語が構成されている印象がある。
 家族が住む家の住所が下青木。二十数年上青木に住んでいたのでわかるのだが、川口に下青木はない。映画のウソだろう。

 映画が終わって、男二人で来ていた客の一人がさかんにラストを嘆いていていた。救いがないと。
 僕は逆にあの苦さに監督の力量を感じたのだが。




 5月1日(日)、2日(月)、3日(火)の3日間連続して開催した落語会、「元編集者・立川寸志らくごライブ ほんの寸志です。」は、ブックカフェ二十世紀としては初の試みだった。

 落語会(演芸)はすでに開催している。しかし、日中、それも3日間連続は初めてだ。
 店は11時オープン。受付開始の13時までどうするか? 終演後はどうするか? 
 レイアウトは落語会用にセッティングしたまま通常営業(最終日のみ懇親会のため貸切)とした。
 おかげさまで3日間とも、目標としていた客数をクリア、特に最終日は予想を上回る数で思わずガッツポーズをしてしまった。

 寸志さんは12時半に来店すると着物に着替え羽織をはおって店前の歩道で落語会のチラシを配布して呼び込みに精をだす。これには驚いた。実際、この呼び込みでやってきたお客さんもいたのである。
 僕は僕でもし通常営業時にやってきたお客さんで落語会に興味を示したら、1,000円で受付しようと考えた。その旨オーナーにも伝え了解を得ている。
 最終日、受付開始の13時に二組のお客さん(親子と個人)に声をかけると、なんと一人で来ていた個人の男性の方がそのまま居残ってくれたのだ。カレーを食べに来てくれたお客さんで、受付時には1,000円以外にホットコーヒーを注文してくれた。理想的な展開である。

 3日間の演目は以下のとおり。

 第一日 「壷算」「幇間腹」
 第二日 「庭蟹(にわかに)」「親子酒」
 第三日 「短命」「鮫講釈」

 すべて録画した。本人に確認すると録るだけでなく、公開してもよいと。
 ということで、とりあえず「鮫講釈」をYouTubeに公開した


 この落語会について落語通のSさんの感想はこちら

 懇親会時、オーナーと寸志さんが固い握手をして来月から月一で「日曜ぶらり寄席」を開催する運びとなったことを付け加えておく。

20160503_konshinkai




2016/04/26

 「三遊亭圓橘 立川談四楼 二人会」(北沢タウンホール)

  三遊亭けん玉 「雑排」
  三遊亭圓橘  「悋気の火の玉」
  立川談四楼  「一文笛」

   〈仲入り〉

  立川談四楼  「三年目」
  三遊亭圓橘  「雁風呂」


 朝、前田健急死のニュースで驚いた。前日、心肺停止の報が流れて、早朝、持ち直したという続報に安堵した直後の訃報である。まだ若いのに……。

 DVD「世界大戦争」を観る。
 出演者が豪華。フランキー堺、乙羽信子が星由里子の両親役で少々違和感が。二人とも実際の年齢より老けた役柄なのか。フランキー堺の口調に聞き惚れる。後半は涙、なみだ、ナミダ。
 「ウルトラセブン」最終回の世界主要都市の破壊ショットのオリジナルをやっと見ることができた。

 有楽町へ出て丸の内ピカデリーで「フィフス・ウェイブ」を観てから、千代田線で代々木上原へ出た。歩いて下北沢へ。

 落語のあとは串かつ田中で一人酒読書。「光線を描き続けてきた男 飯塚定雄」読了。




 西川口駅に着いて駅前の某スーパーに寄って買い物。
 レジで順番を待っていたら、前方に順番を待つロシア人3人家族がいた。息子くんと目があった。息子くんがお父さんに耳打ちすると、お父さんがこちらを見てニヤニヤする。お母さんと何やら話している。

「お父さん、あの人、宮崎駿に似ているね」
「本当だ、似ている、母さん、ほら、リトル宮崎駿だよ」
「あらまあ、サインしてもらう?」
 なんて、会話していたんじゃないか。
 絶対にそうだ。
 ロシア語だからどんな内容だかわからないけれど。

     * * *

2016/02/01

 「クリムゾン・ピーク」(TOHOシネマズ シャンテ)

 ギレルモ・デル・トロ監督の最新作。
 ナイフ等を使った刺すショットに何度ものけぞった。思わず目をそらした。
 ヒロインが芸人のタブレット純に見えて仕方なかった。


2016/02/02

 「白鯨との闘い」(丸の内ピカデリー)

 リアル怪獣映画を期待していた。いい意味で裏切られた。「ジョーズ」の鯨版、船乗りたちの群像劇をイメージしていたのだが、それは前半だけのお楽しみ。後半はとんでもなくシリアスになる。「野火」と同じテーマを持つ映画だったのだ。


2016/02/11

 「残穢 住んではいけない部屋」(新宿ピカデリー)

 こういう話だったらフェイクドキュメンタリーにした方が面白かったのではないか。
 前半がかなり怖く、後半は落ち着いて観ていられた。それではダメだろうに。ラストのオチはありきたり。


2016/02/12

 「オデッセイ」(MOVIX川口)

 「ゼロ・グラビティ」がヒットしたからこそ企画されたものだろう。日ごろ3D映画なんて全然認めていないのだが、「ゼロ・グラビティ」は3Dで観てもいいかなと思った今のところ唯一の作品。そのくらいよくできた宇宙空間、描写だった。惜しむらくは中国の宇宙開発の描き方に疑問を感じてしまうこと。宇宙開発の第一人者であるロシアが宇宙ゴミをだすと思うか? もしだすのなら宇宙開発後進国の中国だろう。しかし、そんなことはお得意様なので描けっこない。で、ヒロインを救うのが中国の宇宙ステーションとなる。

 同じ展開がこの映画にもある。
 本当なら日本の技術が主人公を助けるはずなのだ。
 まあそんな突っ込みは野暮というもの。
 映像的にも、ドラマ的にも満足できる出来だった。
 原作、読んでみるか。


2016/02/25

 「鉄の子」(MOVIX川口)

 この映画については、少し詳細に書きます。
 って、書いてそのままになっているのがいくつあると思う?




 世の中はGWに突入したが、僕自身にはまるでその意識がない。昨年までは毎年長期休暇を謳歌していたというのに。
 いや、GW=休み、ではなく、GW=稼ぎ時という意識の変換があったということだ。通常なら日曜、祝日は18時で閉店になるのだが、GWは最終日以外平日同様19時まで営業を続けることになって喜んでいる。時給月給のアルバイトには勤務時間の延長はありがたい。
 二十数年、GW、夏季休暇、年末年始とそれなりの休暇を取得していたわけだが、今年からは年末年始以外、休みがない。まあ、事前に申請すればそれなりの連休を取得することはできるが、そうなると収入がダウンしてしまうのだからおいそれと申請できない。のんびり温泉につかって、なんてことを考えるが当分は無理か。
 北海道に行ってみたいのだが……

 休みはなくなったが、その代わり、毎日の充実感は会社勤め時代に比べてはかりしれない。これは大きい。

     * * *

 二〇〇四年の日本映画ベストワン。そう信じて疑わないのが中島哲也監督の『下妻物語』である。
 実をいうとこの映画、当初はまったく注目なんてしてなかった。青春映画には人一倍敏感だとはいえ、こちらは四十半ばの中年男だ。ロリータファッションに身を包んだ女子高生(深田恭子)とヤンキー娘(土屋アンナ)のポップでお洒落なハイテンションカラフルムービーに気が引けたのである。
 そもそもあのフリル全開ヒラヒラ服に虫唾が走る。街で見かけるロリータ娘には後ろからケリをいれたくなるくらいだ。演じる深キョンにそれほど興味がなかったということもある。
 にもかかわらず劇場に足を運んだのは、友人に背中を押されたことが大きい。まあ笑えればいいかくらいの認識だった。それが、クライマックスで目頭が熱くなり、エンディングロールに流れる「タイムマシンにお願い」のビートに酔いしれながら、心地良い気分に浸っている自分がいた。
 何が四十男の心を捉えたのか。
 登場人物の強烈なキャラクターと抱腹絶倒なストーリーをまず挙げたい。
 茨城は下妻というあまり聞き慣れない田舎町。見渡す限り田んぼばかりのロケーションにロリータ服といったら、まるで丹下健三の建築物みたいなものか。赤坂のプリンスホテル新館、新宿都庁、まわりの風景を無視して自己主張するだけの存在なのだ。
 当然ヒロインの桃子は学校でも街中でも浮きまくっている。友だちもいなかった。ところが本人はおかまいなし。全然気にしていない。十八世紀フランスを支配したロココ文化に心酔する桃子にとって、あくまでも自分が信じるものがすべて。他人の目を気にしたり意見を聞いたり――なんて姿勢は一切ない。唯我独尊のジコチュー女。
 強固な個人主義者である桃子のキャラクターが清々しい。何かと仲間と群れたがる現代の若者に対するアンチテーゼか。
 意表をつくオープニングの後、映画はロリータファッション発祥のもとになるロココ文化とは何ぞやという非常にアカデミックな薀蓄話で始まる。時代を十八世紀に逆行させ懇切丁寧に解説してくれるのである。
 これでフリルヒラヒラに対する偏見が解消されるとともに、極度に加工された映像と桃子の語りによって進行していく映画独特のリズムに馴染ませるという寸法。
 大胆かつ奇天烈なつかみで映画世界に引きずり込まれたと思ったら、下妻=ジャスコ万能論、尼崎=ヤンキーの町・ジャージ天国論を展開、爆笑を誘いながら桃子の生い立ちを説明してしまう。ヤンキー娘イチゴとの出会いの伏線にもなっている。構成と語りが巧みなことにも瞠目した。
 何より愛車の50CCバイクで下妻を爆走するアナクロの極致みたいなイチゴが出色。メイク、振る舞い、台詞廻し、桃子との掛け合いがたまらない。
 演技はズブの素人のはずの土屋アンナの上手さにも舌を巻いた。かわいいんだ、これが。
「人を見た目で判断するのはよくないよな」と桃子に歩み寄ろうとするイチゴに対して「人は見かけだもの」と拒絶する桃子。
「借りたものは返すのが筋」と仁義を通すイチゴに「自分の一番大事なモノは絶対貸しちゃいけないの。貸していいのはどうでもいいものだけ」と即座に否定、「だから私、借りたものは返さない主義。貸す時は戻ってこなくていいと思うことにしてるの」とあくまでも自分の流儀を曲げない桃子。
 浪花節的ウェットvsシニカルな観察眼、激烈単細胞vs沈着冷静、尾崎豊vsヨハン・シュトラウス、ミーハーでパープリンvs高い偏差値……etc。外見はもちろん内面にいたるまで、まるで水と油のような二人がヴェルサーチのバッタもんが縁で知り合って巻き起こすなんやかんやの大騒動。
 現役の人気CFディレクターである中島監督らしく、特撮やアニメを取り入れて、パロディ、デフォルメ、もうなんでもありのタッチで縦横無尽に描くエピソードの数々に腹を抱えた。脇を固める達者な俳優陣(樹木希林、本田博太郎、生瀬勝久等々)の怪演もあって、まさに笑いの絨毯爆撃だ。
 涙よりも笑いを高く評価する僕にとって、もうそれだけでも大満足なのに、クライマックスでは久しく忘れていた感情を蘇らせてくれた。
 得意の刺繍を通じて徐々にイチゴとの仲を深めていく最中、自分のせいでイチゴがレディース仲間からケジメをつけられることを知ると、もういてもたってもいられず、運転できない原付バイクを駆る桃子。
 助太刀に現れた桃子のヒラヒラ服が仲間に嘲笑されるや、その孤高の気高さ、美しさ、素晴らしさを絶叫しながら説くイチゴ。
 高揚感と爽快感の中、二人の心根がビシバシと響いてきて、気分は一気にティーンエイジャー。胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。

 原作は嶽本野ばらの同名小説(小学館刊)。〈ヤンキーちゃんとロリータちゃん〉の副題が付く。作家も小説もまったくの守備範囲外。乙女のカリスマ的存在というのだから映画を観なければ本を手に取ることもなかったに違いない。
 冒頭のロココ話からクライマックスの牛久大仏をバックに繰り広げられる大乱闘まで、桃子の一人称による語りの面白さで一気に読ませる。
 ジャスコ、貴族の森、BABY,THE STARS SHINE BRIGHT、VERSACEなど固有名詞をふんだんにちりばめているのは予想したとおりだが、VERSACEを父親やイチゴの台詞ではベルサーチと表記するところなど細やかな配慮も垣間見られる。
 映画でも踏襲された桃子の語りが秀逸で、特に相手が発する言葉に対する桃子の受け答え、地の文が楽しい。声だして笑える。
 たとえば、イチゴの敬語の使い方や思考法、行動論理など、その都度驚き呆れ、茶々入れて、訂正して、揶揄しながら切り捨てる。その間、ボケとツッコミ。たまに挿入される旧かなづかいによるクスグリ。笑いのセンスはなかなかのものだ。会話のおかしさではなく、反応があくまでも桃子の心の声というのがポイントだろう。
 ラスト、桃子がイチゴをサイコーのダチだと認めるくだりがいい。最後の一行では涙がひとすじ流れた。
 読了してわかったのは、映画との違和感がほとんどないことだった。これには驚いた。
 つまり映画『下妻物語』は原作ファンを裏切らない作品になっているのである。映画化されると、原作の単なるダイジェストになって意味がよくわからなかったり、独自の展開で原作のテーマを逸脱してしまったりと、小説とその映画化作品は別物だと割り切らなければ楽しめない最近の日本映画にあって(それでも楽しめれば御の字か)、これは奇跡に近い。
 構成や展開が原作どおりということもあるかもしれないが、独自のアプローチ(前述した何でもありのタッチ)が逆に小説世界の雰囲気を醸し出す結果となった。
 映画も小説もともに愛しい。両ファンにとって実に幸せな作品になったと、これまた信じて疑わないのである。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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