今日はマーケティングの話をします。

 少年マンガ週刊誌の世界では、長い間少年ジャンプがトップを独走してきましたが、現在、少年マガジンがその座を奪っております。
 勝因として、作家に依存せずに編集者主体で内容の舵をとっているからと言われています。今、人気を博している「金田一少年の事件簿」も漫画家はあくまでも絵を担当しているだけでしかないと聞いたことがあります。
 ただし、この編集者主体の編集方針は今に始まったことではなく、少年マガジンの第一期黄金時代を築いた1960年代から70年代にかけても同じだったんですね。

 当時の編集長、内田勝さんが書いた「奇の発想」にそのへんのことが綴られております。
 あのころ、少年サンデーに発行部数で水をあけられていたマガジンは、背水の陣で形勢逆転を狙っていて徹底的に小学生たちにアンケートをとったそうです。そのデータからいくつかのキーワード(どういうものだったかは一昨年読んだものなので忘れましたが)を引き出し、そこから作家さんを選択し、誕生したのが、今ではコミックの金字塔、名作といわれる「巨人の星」、「あしたのジョー」、「愛と誠」なんですね。
 決して作家側から発想された企画ではないわけです。もちろん梶原一騎の原作、川崎のぼる、ちばてつや、ながやす巧らの絵というコンビがヒットの要因ではあるのですが。

 「奇の発想」を読んで、少年コミックの世界にこれほど徹底したマーケティング戦略があるものなのかと、目から鱗が落ちたのです。
 今、プレステ2の話題でもちきりのゲーム業界、社長の話ではななかなかヒットがでない状況の中で、この内田さんの発想をもとに、少年たちの胸を熱くするようなソフトを開発してほしいと切に願う次第です。




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 3月31日(金)、4月1日(土)、2日(日)の3日間、靖国神社で開催される「さくらフェスティバル」にBC二十世紀が出店するため、その準備に追われている。
 断熱仕様の紙コップを神保町の百円ショップで大量に購入しようとしたら、在庫分しかないという。注文しようにも、倉庫に在庫がないというのだから仕方ない。
 いろいろ他をあたったところ、浅草橋のシモジマにあることがわかった。
 一昨日(28日・火)、休みを利用して午後直接行って購入した。何のことはない、シモジマですべてがまかなうのである。紙コップのほか、プラカップ、マドラー、etc……

 お店に運んで、しばらく時間をつぶし、夕方から有楽町で映画を観ることにした。角川シネマ有楽町で上映している「牯嶺街少年殺人事件」。
 TCGメンバーなので火曜日は1000円で観られると当初予定していた地元シネコン「パッセンジャー」から変更したのだが、調べてみると、2200円なのである。あわてて劇場に電話して確認すると、メンバーなら1800円だとのこと。
 18時30分の回に足を運んだ。
 料金のことばかり先行して肝心の体調を考慮しなかった。映画は3時間を超える作品なのに。

 実は前日(27日・月)はラピュタ阿佐ヶ谷のレイトショーで「0課の女 赤い手錠」を鑑賞した。映画のあとはお決まりの知人のスナックへ。朝までコースでカラオケ三昧。スナックでひとりカラオケ!
 そうじゃなくても毎朝4時起きで疲れているのに、映画が面白ければ関係ないさとタカをくくっていたのだが、それこそ面白さに関係なく暗闇の中に身をゆだねていると睡魔が甘くささやくのだ。
 気がつくと意識がなかった。
 全然内容が理解できなかった!!
 仕方ない、もう一度観よう。




 全然新規のブログが書けない。
 続きものがいくつかあるのに手がつけられなくて、自分でもあせっている。

 昨日は、BC二十世紀の毎月恒例「日曜ぶらり寄席」。
 これまで一度も雨にたたられたことがなく(降っても、始まる前に止んでしまう)、出演の立川寸志さんに「晴れ男」の勲章を与えていたのに、今回は止む気配がなかった。
 ということで、これまで開演前は高座にあがる着物姿でチラシ姿にはげんでいた寸志さん、今回は私服で雨に濡れながらの呼び込みとなった。
 雨にもかかわらず、今回も20人を超える集客となった。常連さんも何名かいらっしゃていたけれど、ほとんどがフリの方。これはうれしい。
 1年やってきた「日曜ぶらり寄席」、なんとか定着した感じがする。
 4月はお休みして、特別企画としてGWの5月1日(月)、2日(火)、3日(水・祝)の3日連続で開催する。
 昨年の3日連続落語会が好評だったため、「日曜ぶらり寄席」が誕生したのだ。

 で、今年のGW最初のイベントの告知。またまたFBからの転載だ。

     ◇
 
 4月30日が何の日かご存知ですか?
 42年前、サイゴンが陥落したんですね。
 思えば、私の小学時代から中学時代にかけて、ベトナム戦争が行われていたんです。戦争といったら太平洋戦争のイメージで、教科書で習う遠い過去のもの、といった印象が強い中、リアルタイムで戦争が行われていました。
 太平洋戦争だって、自分が生まれる14年前のこと。当時は遠い昔の出来事でしたが、今でしたら(成人してから)つい最近ですよね、14年前なんて。

 さて、そんな4月30日、ベトナムにまつわるトークイベントが開催されます。
 ベトナムに興味ある方、帰ってきたウルトラマンファンの方、ぜひ足をお運びください。
 予約開始しました。
 きくちさん秘蔵の、ロケ現場で撮影したスナップ写真展も併せて開催します。


kikuchitalk
 これまた、FBからの転載です。

     ◇

 もうすぐ「キングコング:髑髏島の巨神」が公開されます。レジェンダリー版「キングコング対ゴジラ」につなげるための映画であれば、〈髑髏島の巨神〉ではなく〈髑髏島の魔神〉にしてほしかったと往年の東宝特撮映画ファンとしては思います。
 また、この映画、ウルトラマン(初代)の「怪獣無法地帯」のキングコング版と言えますよね。まだ観てないから断言できないですが。
 
 それはともかく、書籍の方でも、特撮関連本が立て続けて出版されています。そんな書籍の出版を記念してブックカフェ二十世紀では4月28日(金)にトークライブを開催します。

 たとえば、ウルトラマン(シリーズ)ファンでも、世代によって、何をウルトラマン(の世界観)に求めるか、全然違いますからね。
 当日は、ひとつの世代論が展開されるのではないかと思っています。

 特撮ファンは要チェックですよ!

heiseitokusatsusedai




 FBからの転載です。

     ◇

 角川映画に吸収されて、今はもうなくなってしまったヘラルド映画ですが、個人的に思い入れがありますねぇ、はい。名前がなくなったことがとても残念でした。
 角川は大映映画もこの世から消してしまいました。

 最初の出会いは小学6年、「小さな恋のメロディ」でした。中学時代は「ジョニーは戦場へ行った」を観ました。高校時代は「悪魔のいけにえ」や「ひまわり」。
 大人向けアニメ映画〈アニメラマ〉を手塚治虫率いる虫プロに作らせた会社でもあります。第一弾「千夜一夜物語」、第二弾「クレオパトラ」。
 リアルタイムでは観ていません。高校時代にTVで「クレオパトラ」を観たのが最初です。その後、やはりTVで「千夜一夜物語」を観たのですが、私は「クレオパトラ」が面白かったですねぇ。第三弾「哀しみのベラドンナ」はずっと幻の映画でした。観たのは昨年、DVDでした。
 自殺未遂を起こした黒澤明がソ連で撮った「デルス・ウザーラ」も、観たのは数年前でした。図書館にDVDがあったんです。
 思えば「乱」が初めて劇場で鑑賞した黒澤映画なんですよ。
 ヘラルド映画はさまざまなジャンルの映画を配給しています。そんな仕事をまとめた本が出版され、その記念トークが開催されます。
 本の即売会もありますよ~!

herarudoeiga


 今日は本の紹介をさせてください。
 毎週月曜日の夜10時から日本テレビで「永遠の仔」が放送されています。今夜は3回めですが、天童荒太の原作は、昨年年末に発表された数々のミステリーベストテンで第1位を獲得しています。
 私はまったく内容を知らずに読んだのですが、「永遠の仔」はミステリというジャンルを超えて、これまでの私のオールタイムベストファイブに入ると言ってもいい、心が揺さぶられる小説でした。
 最近、ニュース等でいろいろ報道されている、児童虐待をテーマにしたとても重い内容の、最初は読み進むのがつらい小説です。

 親からの虐待でトラウマを持った1人の少女と2人の少年の精神病棟における、17年前の物語と、その後再会して事件に巻き込まれる3人の現在の現在の物語が交錯しながら、彼らがつらい現実にぶちあたりながら、なんとかトラウマを克服して生きていこうとする姿、生きていくことの尊厳を謳いあげた傑作だと私は思っています。

 最近は本でも映画でも泣けるということが1つのお薦めの意味を持っていて、どうにも納得がいきません。安易なお涙頂戴ものは昔から嫌悪の対象でした。何も感動だけに人は涙を流すわけではありませんから。悲しい現象にも涙を流すんですから。むしろその方が多いでしょう。
 ですから、泣けるということで、「永遠の仔」を紹介したくはないですが、後半は泣きどおしでした。それは目頭が熱く熱くなる、涙が頬を伝わるなんてものではなく、ほとんど号泣に近い。嗚咽を漏らしながら読んでました。

 想像してください。隣の部屋でカミさんと子どもが寝ている夜中、わんわん泣きながら本を読んでいるいい歳をした男の姿を。
 とにかく、後半は明日が仕事でもう寝なくてはと思いながらもやめられなくて、ほとんど一気に読んでしまいました。
 上下巻がそれぞれ約500ページあって、二段組ですが、ぜったい読んで損はしないと思います。
 ということで、今日はお薦めの本の紹介でした。

     ◇

【参考】

2000/02/07

 「永遠の仔」上下(天童荒太/幻冬舎)

 下巻を一気に読了した。
 ラスト近くになるにつれ3人の主人公たちの台詞の一つひとつが胸にしみた。涙腺がゆるみ、涙が頬をつたわり、鳴咽がもれ、終章になってやっと平静さをとりもどしたかに思えたら、ラスト3人が互いに励ましあうために言いあったという言葉を目にするにいたってまた大泣きだ。
 「マークスの山」の時も読書が深夜に及び、泣きながら読み終えたのであるが、あの時以上に魂が揺さぶられた。
 「永遠の仔」は昨年末に発表された数々のミステリベストテンで1位を獲得し、いったいどんな作品なのか注目していた。図書館に予約はしたが、人気が高くて当分借りられないだろうと思っていたら、割と早く連絡がきて驚いた。

 まさに現代を象徴する重いテーマである。親の児童虐待、育児放棄、裏切り。親の愛を受けられず、心を喪失した子どもたちの悲惨な毎日。裏切られ、傷つけられ、ねじまげられる幼い精神。それでも親に愛されたいと願う、切なく哀しい子ども心。
 ここに描かれていることはフィクションであるが、似たようなことはまぎれもなく現実に起こっていて、その犠牲者は確実に存在することを思うと何ともやりきれなくなる。

 トマス・ハリスの「レッド・ドラゴン」には残虐非道な精神異常の殺人者が登場する。最初彼の犯罪に怒りを覚えるが、両親に虐待された生い立ちを知るにつれ、彼が犯罪に走るのも仕方ないかもしれないと同情してしまったことを思い出した。
 日本中を震撼させた神戸・酒鬼薔薇事件の加害者の少年、9年間少女を監禁したゲス野郎、小学生刺殺事件の犯人とおぼしき自殺した21歳の青年あるいはウサギを惨殺したり、小犬の足を切断して歓喜にしたっているであろう名もない人たちにも(どんな事情があろうとも、絶対彼らの犯罪は許されないけれど)精神を歪めた残酷な幼年、少年時代があったのだろうかと考えてしまうのだ。

 本作は少年少女時代のトラウマをかかえてもがき苦しみながら生きる3人の男女の過去と現在を交叉させながら、「いま生きているということ」の尊さを高らかに謳いあげた物語である。
 重たすぎるテーマだから上巻は読むのがつらかった。ミステリの要素がなかったら読み進められたかどうかわからない。しかし、下巻において少女のトラウマの原因が提示されてからは、3人が再会してから巻き込まれる殺人事件の解明なんてどうでもよくなってしまった。逆にラストですべての謎が解き明かされた時など、あまりの着地のよさに「現実はそんなものではないだろう」と不満を持つ始末だ。

 3人が出会った1979年と再会した1997年を季節の移り変わりとともに章立てで交互に描く。過去と現在が微妙に関連しあう構成が見事である。
 3人の過去を描いた部分は名作「スタンド・バイ・ミー」を彷彿させる。3人の少年少女たちが愛しくてたまらない。過去の体験が現在の生活に深くかかわってくると言う点では「スリーパーズ」か。安易に映画化なんてしてほしくないが、もし完璧に映像化できたとしたら、人間の尊厳に迫った深く重いテーマを持った名画が誕生するだろう。




 承前

 続いて、2000年代になってから観た、読んだ、映画や書籍のレビューをUPする。

     ◇

2000/07/13

 「ボーイズ・ドント・クライ」(渋谷シネマライズ)

 ミスターレディ(ニューハーフ)とともに〈おなべ〉がマスコミに登場して話題になったとき、どこから見ても男にしかみえない彼女たちの容姿に驚くと同時に、男らしさの中に〈女〉を感じて実によこしまな考えを夢想したものだ。
 アダルトビデオの企画の1つで、見るからに男らしい〈おなべ〉を最初はAV女優がインタビューし、徐々にノセて全裸にさせてから、ファックシーンにもっていき、本人にはわからない形でAV男優に交替して最後には女の喜びを感じさせるというもの。
 妖艶な女性よりどちらというと男、というか少年っぽい女性がある瞬間に女らしさを垣間見せた方がエロティシズムを感じてしまうのは僕だけだろうか。

 「ボーイズ・ドント・クライ」に興味を抱いたのは性同一性障害がどうのといった社会的問題に対する関心より、主演女優がどんな男っぷりを見せてくれるか、そこにどんなエロスを感じられるか、という不純な動機からだった。

 数年前、吉本多香美主演の「樹の上の草魚」を観た。
 薄井ゆうじの原作は男として育てられた両性具有の青年があるときを境に肉体的にも完全に女性に生れ変わり、変化に対する心の揺れ、幼なじみの友人との微妙な関係(友情から恋愛)を描いた透明感あふれるある種ファンタジーとも呼べる恋愛小説である。
 小説世界にとても感銘を受け、だからこそ映画化には不安を覚えながらも、本物の肉体を持つ女優が男と女をどう演じわけるのか興味津々だった。しかし当時ボーイッシュだった吉本多香美といえども、女性に変身する前の男役には無理があったといえる。全体から醸し出される雰囲気は明らかに女なのだ。
 トランスジェンダー、トランスセクシャルを扱う映画(ドラマ)はそれが実写でシリアスな場合、非常にむずかしい問題をはらんでいると思う。性転換あるいは女装、男装した主人公がまず〈絵として〉納得できる容姿をしていなければならない。
 この手の話はコメディーがお似合いなのかと思っていたら「ボーイズ・ドント・クライ」の主演女優(ヒラリー・スワンク)が本年度のアカデミー主演女優賞を受賞と知り、がぜん興味がわいた次第。

 映画は1993年アメリカのネブラスカで実際に起きた事件を題材にしている。ドラッグづけの若者たちの生態をロックをふんだんに挿入しながら描く手法は「トレインスポッティング」の影響をかなり感じる。
 性同一性障害の主人公が見知らぬ町で〈男として〉あるグループの男女と親しくなる。グループの中の女性と恋仲になるが、彼女が女だとわかるとまわりの連中は手のひらを返したように冷たくなる。中でも彼女を男だと信じていた男たちは裏切られた腹いせに彼女をレイプし、警察に被害届をだしたと知ると怒り狂って射殺してしまうのだ。
 ヒラリー・スワンクはオスカーを受賞しただけあって、ブランドン・ティーナという〈男〉を好演している。顔だけじゃなく身体つきまでそれっぽく見せるなんてさすが。彼女の存在なくしてはこの映画は成り立たなかっただろう。役作りの確かさにおいてもアメリカ映画は懐が深い。

 変な意味ではなく、映画の見所は主人公が怒り狂った男友だちに衣服を脱がされ、正体をばらされるところだ。男物のパンツを剥ぎ取られるとそこにははっきりとヘアだけが映しださる。姿形は男なのにやはり肉体は女であることが一瞬にわかり、そんなことはわかりきっているこちらも劇中の男たち同様衝撃を受けてしまう。ここに例のボカシが入ったら、映画のテーマがそれこそボカされてしまっただろう。
 この後、時間がとんで、レイプされた主人公が警察との取り調べで過去を回想することになるのだが、ここだけ回想形式になるのがわからない。実際の事件に取材しているのだから、時系列でエピソードをつないだ方が自然だと思うのだが。
 だまされた恋人がそれでも主人公を受け入れているというのに、最後に射殺され、部屋を貸していた(それも幼子をかかえた)何の罪のない女友だちまで殺されてしまうラストは何とも後味が悪い。

 観終わって、いろいろ考えさせられた。
 ゲイとかレズと違い、あくまで心は異性として同性を好きになる性同一性障害はやっかいな障害だと思う。精神的な病気はなってみないとその実状がわからないからなかなか一般には理解されない。 もし自分が精神は今のままで性別だけ変わったとしたらどう反応するか考えてみればいい。僕だったら1日や2日、期間限定だったら大いに楽しむが、一生となると気が狂うんじゃないかと思う。  
 ネブラスカという田舎町でなかったら、こんな惨劇も起きなかっただろう。
 実際、だまされたといえ、あまりに過剰反応する連中の気持ちがわからない。やっていることは何かと反体制的なのに、性に限っては保守的ということか。
 ラスト、一緒に逃避行をはかろうとする主人公に同意する恋人が部屋にもどり、支度している最中、迎えにきた主人公の髪型の変化に、ふと〈女〉を感じて一瞬躊躇してしまうシーンがある。微妙な女心が垣間見られ印象的なシーンとなっている。

 「ボーズ・ドント・クライ」というタイトルは挿入曲からとったものだとエンディングタイトルでわかった。


2000/08/02

 「性同一性障害 -性転換の朝」(吉永みち子/集英社新書)

 映画「ボーイズ・ドント・クライ」を観たからというわけでもないけれど川口中央図書館に行ったらまるで読めとばかりにおいてあったので借りてきた。
 妊娠中の女性が情緒不安定な場合、生れてくる子ども(男の子)がおかまになる確立が高い、と聞いたことがある。
 性同一性障害も胎児期の性決定メカニズムの狂いが原因とのことだが、どうしてそうなるのかはよくわかっていないらしい。
 「ボーイズ・ドント・クライ」の感想でTG、TSなんて言葉を使ったけれど、本質的な部分で何もわかっていない。
 TV(トランスヴェスタイト)は服装倒錯者、異性装嗜者を指す。TG(トランスジェンダー)は社会的に異性として扱われたい、だが性器まで変換しようとする意識は希薄という人たちを総称していう。それに対して心身ともに異性になりたいというのがTS(トランスセクシャル)だ。
 この世界も何かと奥が深い。

 性同一性障害という言葉が一般化したのは埼玉医大総合医科特別チームの性転換手術が認可されたことが大々的に報道されてからだと思う。それまで性転換手術は海外で行うのが常識だった。
 モロッコといえば名画「外人部隊」の舞台になったところとして有名だが、僕にとっては長い間性転換手術する国という認識だった。カルーセル麻紀の性転換手術はそれくらい小学生にはインパクトがあったのだ。
 なぜ日本で性転換手術がタブー視されていたのかも説明されている。
 昭和39年の〈ブルーボーイ事件〉が原因だという。3人のゲイボーイの睾丸の全摘出手術を執刀した町医者が優生保護法違反で検挙された事件だ。
 とにかく性同一性障害に苦しむ人たちに光明が射したことは確かなことであり、めでたいことではあるが、本書で取材されている数人の性同一性障害の男女が歩んできた足跡にはとてつもない苦労がしのばれる。
 誰もがカミングアウトしてショーパブで働けるわけではない。普通の人が普通の場所で静かに暮らしたいと考えるという方が当たり前なのだ。

 しかしいつも思うのだが、人はなぜこの手の人たちを白眼視するのだろう?
 子どもころ、手塚治虫「リボンの騎士」のアニメやコミックに夢中になった。ヒロイン・サファイアが自由に男になったり女になったりするのが楽しかった。手塚マンガにはこうした男装・女装のキャラクターが登場するものが多く、手塚マンガの特にそういう部分に興味を持っていた僕はたぶんに刷り込みもあるのだろう、〈おかま〉や〈おなべ〉あるいは性転換した人に対する偏見というものはない。
 大学1年のGWに彼女に会いに仙台に行ったときのことだ。上野駅で特急列車に乗ると、おかまの3人組が同じ席になって、意気投合した僕はまわりの冷たい視線は何のその、仙台まで大騒ぎしたものだった。リーダー(?)の名前は〈フジコ〉といった。「東京にもどったらお店に遊びに来てね」と仙台で別れてそのままになってしまったけれど、彼らともっと話しをしたかった。僕にはその気がないので、相手が〈性の相手〉として接してくれば頑なに拒む。が、いわゆる〈友だち〉としてだったらとことんつきあってもいいと思う。

 だから本書でも触れられている、映画「ボーイズ・ドント・クライ」の題材になったブランドン・ティーナ事件には暗澹たる気持ちにさせられる。
 実際の事件は映画以上に悲惨である。カミングアウトして自分の選択を堂々と主張、自信をもって男性として生きると宣言したティーナだったが、男友だちの怒りをかってしまった。男友だちはだまされていた悔しさ、性を変えるという行為への憎しみによってティーナを輪姦し殺害してしまった。 
 そんなに男どおしの友情って崇高なものなのか? 女から男に(あるい男から女に)なる行為はそんなに憎むべきことなのか?
 本書でも再三指摘されている〈第3の性〉というのをまじめに検討してもいいのではないだろうか。


2001/02/07

 「ブレンダと呼ばれた少年 ジョンズ・ホプキンス病院で何がおきたか(ジョン・コラピント/村井智之 訳/無名舎)

 吉永みち子の「性同一性障害 -性転換の朝」(集英社新書)の中で紹介している事件でもう一つ詳細を知りたくなったものがあった。
 8ヶ月の双子の兄弟の兄の方が包皮切除手術に失敗してペニスを喪失、動揺した両親は性科学の権威・ジョン・マネーの強い勧めで、この子を性転換させることにした。
 以後女の子として育てられたその子は順調に経過していると発表され、メディアはキンゼーレポート以来の偉大な発見と書き立てた。
 が、実態はまったく逆だった。成長するにつれ、次第に女性としての違和感を持ってきたその子は精神のバランスがとれないくらいに追いつめられ、苦悩し、暴れ、最終的に男性にもどったという。
 この事件を綿密な調査、取材でフォローしたレポートが「ブレンダと呼ばれた少年」だ。ブレンダとは少女時代の名前のこと。

 小説、マンガには男が女になってしまうという物語がある。ある日突然女になってとまどうが、やがて女の喜びを知るというパターンだ。〈性転換〉ものとでもいうのだろうか。
 薄井ゆうじの「樹の上の草魚」(講談社文庫)はこのパターン(プロット)をうまく文学に転化させ新しい恋愛小説を創造した。
 デイヴィッド・トーマスの「彼が彼女になったわけ」(法村里絵訳/角川文庫)は歯の治療で入院した青年が病院側のミスで性転換手術をされてしまう悲喜劇で、彼が女性になるために悪戦苦闘する姿をとおして、女性という生き物の内面的、外面的気苦労がわかる仕組みになっていた。
 驚いたのはこの手の小説をさかんに書き綴るマニアがいることで、作品を収集、発表している専門サイトも存在する。僕自身小学5、6年の頃、この手のマンガを描いたことがあり、興味ある世界だ。
 が、映画「ボーイズ・ドント・クライ」や前述の新書「性同一性障害」の項でも書いているとおり、これらに描かれていることはあくまでも虚構の世界、好事家が思い描くファンタジーでしかない(やおいの世界に通じるものがある)。実際に自分本来の性と違う身体になった場合、精神的苦痛は計り知れないものがあると思う。

 で、ジョン・マネーである。本書を読む限りマッド・サイエンティストとしか思えない彼は「性別の自己認識は環境的要因によって決まる」という理論を実践するため、幼児期にペニスを喪失した子を格好のモルモットにしたに過ぎない。
 面接時には研究のため年端のいかないブレンダに卑猥な言葉をあびせ、ポルノフィルムを見せる、ブレンダがいやがっても容赦しない。ブレンダが両親に訴えても博士を盲信する両親は聞く耳をもたない。ブレンダの真の叫びを聞かず、自分の研究に都合よく学会に発表する。
 女として育てられた〈少年〉はやがて思春期になると局部の整形<性転換>をすすめられる。
 間違えやすいのは〈少年〉は事故後にすぐに性転換させられたわけではないこと。ペニスを喪失した後は身体が成長するまで性器の整形はまたねばならず、定期的な女性ホルモン注入と服装、しぐさ等の矯正の育てられていたのである。
 博士に局部整形を勧められると〈少年〉は激しく抵抗する。両親もその他の医師もみな今後のことを考慮し〈少年〉に整形を勧めるのだ。ジョン・マネーに「NO」と言える者は誰もいない。
 八方塞になった〈少年〉は自殺を繰り返し、ようやく心の内を理解してもらうことができ、男性にもどる。人工のペニスを造型、今では結婚して幸せな人生を歩んでいるという。

 この本には幼児期から思春期にかけての〈少年〉の写真が掲載されている。女の子の格好はしているけれど僕には女性には見えなかった。写真でさえそうなのだから、一緒に生活していた親や診察にかかわった医師たちにはその違和感がもっとわかっていたはずだ。〈少年〉の自殺は未遂で終わったからよかったものの、もう少しで若い命を失うところだった。ジョン・マネーおよび彼に与した関係者たちはもしかしたら殺人者になっていたかもしれないのである。
 こんなデタラメな研究をしているジョン・マネーがこの事件以降も処罰の対象にならないばかりか権威が失墜しなかったというのが不思議。だいたいペニス喪失=女性化という論理がわからない。当時(1967年)の技術ではペニスの造型より膣の形成の方が容易だったと説明しているが、本人の承諾もなしに勝手に性を決めてしまう行為が許されてたまるものか。
 性同一性障害、半陰陽といった問題からかけ離れたところで性転換が議論されているから怒りがこみあげてくる。

 もうひとつ。これも大いなる、そして根本的な疑問なのだが、アメリカではなぜ幼児に包皮切除手術をするのだろうか。子どもの頃の包茎なんてあたりまえのことだし、手術しなければこんな問題も起きなかったはずだから。


2006/07/30

 「トランスアメリカ」(シネスイッチ銀座)

 樋口可南子のヘアヌード写真集以来、いつのまにか映画でもヘア解禁になっている。これは一般映画の描写においてとてもありがたいことだと思うことがある。
 性同一性障害を主人公にした映画では、2000年に公開された「ボーイズ・ドント・クライ」という実際に起きた悲惨な殺人事件を扱った作品がある。
 感想にも書いていることだが、外見上はまったくの男性なのに、身体は女性という事実を一瞬のうちにわからせるシーンに衝撃を受けた。ずばり主人公の股間を捉えたショットだ。このショットに、もしボカシが入っていたとしたら映画のテーマはそれこそぼやけてしまったことだろう。
 ありがたいと思うのはこういうときだ。
 大昔のことだけれど、アロン・ドロン主演「太陽はひとりぼっち」で、女性のヘアが描かれたボールペンが映されるところで、しっかりそこだけボカシが入ったらしい。あるコラムで読んで、映倫は何考えているんだと呆れたものだ。
 「太陽はひとりぼっち」、小学生5、6年だったか、映画は観たことないのに音楽が大好きで、放送部員になった際、給食の時間にレコードをかけまくっていたことがある。関係ないか。

 「トランスアメリカ」の主人公は「ボーイズ・ドント・クライ」とは逆の、心が女性の男性。それも中年の少々くたびれた外見を持つ。この主人公を女優(フェリシティ・ハフマン)が演じていることでこの映画に注目した。素顔は美貌なのに、メイクと演技(特に発声)でスクリーンの中では女装している男性に見えてくるから不思議。それも時間が経つにつれて魅力的になっていくのがニクい。ちょっと衣装のセンスやメイクを変えるだけなのに。
 最近企画の貧困で悪あがきをしていると感じないでもないアメリカ映画だけど、こういうメイクアップ技術は、役者の演技力を含めて、日本映画の数段上をいく。とうていかないそうもない。

 ロサンゼルスに住むブリー(フェリシティ・ハフマン)は性同一性障害を持つ男性で、普段は女装して女性として毎日を送っている。女性ホルモンで胸は人並みに膨らんでいるが、身体はまだ男性のまま。股間の膨らみはガードルでしっかり矯正する涙ぐましい努力を続けている。
 カウンセリングを受けながら性転換手術を心待ちにしているブリーに朗報が。数日後に手術が確定した。ところがそこに問題が起きた。かつてまだ外見的も男性だった頃にガールフレンドと関係を結んで出来た息子(ケヴィン・ゼガーズ)と会わなければならなくなったのだ。母親は急死している。過去を捨てたブリーにとってあまりに唐突で受け入れたくない事実。しかし、カウンセラーの勧めで、というか問題を解決しなければ手術を受けられないとあってはやらざるをえない。
 ニューヨークまで出かけ、窃盗罪で留置所に入っていた息子を保釈金(1ドル!)払って引き取った。もちろん正体は明かさない。教会から派遣されたボランティア女性と偽ってのことだ。引き取った息子をどうするか。養父のところへ連れていこうと一計を案じたブリー。
 こうして不思議な関係の父(母?)と息子の大陸横断の珍道中が始まった……。

 映画はいたるところに笑いの要素を入れ、音楽も多用、観客は軽い気持ちで観ていながら、親子の関係のあり方を考えることになる。

 冒頭でヘアにボカシが入らない現状について述べた。ただしそれはあくまでも女性のそれ。男性だったら当然〈男性自身〉が写り込むことになる。そういう場合、映倫はどう対処するのだろうか。素朴な疑問が解消された。答えはOK。
 ブリーと息子が車でロサンゼルスに向かう途中何度か野宿する。ブリーは小用のたびトイレットペーパー片手に藪の中に消えるのだが、ある時車のそばで済ます。しゃがんでスカートをたくし上げ放尿するやいなや、獣の鳴声か何かの音におののき思わず立ち上がってしまうのだ。そのまま普通の男性のように用をたして、その際しっかり〈男性自身〉が見え、息子に目撃されてしまうという展開。
 これには大笑い。その様がおかしいということもあるのだが、実際に演じているのが女優であるということがポイントだ。つまり〈男性自身〉は作り物。にもかかわらず実に良く出来ていて、それを右手(だったか?)でつまんで中腰で小用するところがいかにもってな感じに反応したのである。
 作り物だからボカシが入らないのかとも思えたが、もうひとつのシーンで確信に変わった。
 二人がヒッチハイクの青年を途中で同乗させる。とある湖畔(池? 沼?)でこの青年と息子が全裸になって泳ぐシーンで、青年が池からあがってこちらに振り向く際にそれは見えるのだ。まわりの女性の唾を飲み込む音が聞こえた。っていうのは嘘だけど。もしかしたらこういうのってすでに当たり前になっているのだろうか。

 珍道中の後に息子と養父の感動的、実は屈辱的な再会、ブリーの家族(両親と妹)との再会と続き、特に息子の、養父と過去が暴かれるくだりでは、いやおうなく現実を直視しなければならない。どんなふうにエンディングにもっていくかと興味津々で見守っていると、あっけなくやってきた。なるほど、そうきたか。
 「ボーイズ・ドント・クライ」のような、後頭部を重石でなぐりつけられたような、観終わって感情をかき乱される、深く考え込まされる内容ではない。コメディーでもないが、軽さ(笑い)の中に渋み、苦さがあって、それがいい。
「おもしろかったね」
「観てよかったね」
 劇場を出るとき、前を行く若い女性二人連れの会話にうなづいていた。




 書き忘れていたが、2月28日(火)の午後、新宿ピカデリーで「サバイバルファミリー」を観ている。
 3月になってからは、地元MOVIX川口で次の作品を観ている。
 7日(火) 「彼らが本気で編むときは、」
 12日(日) 「チア☆ダン 〜女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話〜」
 14日(火) 「相棒 劇場版Ⅳ」

 で、「彼らが本気で編むときは、」である。
 かつてこのブログに書いた文章を加筆訂正(一部削除)して、「まぐま」の手塚治虫特集に寄稿した。
 タイトルが長い。

     ◇

 トランスセクシャルと手塚マンガ  
 ジェンダー論なんてこむずかしい話ではなく、腐女子に人気なのがBLものなら、その対極には略称〈少年少女文庫〉あるいは〈強制女装〉ものがあり、少年が少女に変身(性転換)する過程に萌えるという文化には、その根っこに手塚マンガが大いに関係しているのだ! と、小学生時代「リボンの騎士」に夢中になった私が主張する経緯と理由


 もう8年前になるのか。
 フジテレビで日曜午後2時から放送されている「ザ・ノンフィクション」で「性同一性障害の恋人たち ~精神科診察室の物語~」を観たことがある。
 心が女性の男性とその逆の女性が、性転換手術を受けるために一緒にクリニックに通う日々を取材したものだ。割れ蓋に綴じ蓋。うまい具合にカップルができたものだと感心した。ネットの、その手のサークルで知り合ったという。
 好きな彼女がレズビアンで、女の子にしか興味がない、そこで、自分が女性になって恋愛を成就しようとする男性のブログがあった。彼女も応援してくれて、徐々に女性へと生まれ変わっていく、そんな日記が綴られていくのだが、フィクションだろうと睨んでいる。彼女がレズだから女になる、そんな男性の精神構造が信じられないからだ。
 このドキュメンタリーでは、男性、女性、性同一性障害の男性、女性、それぞれの脳のある一部のレントゲン写真を見せてくれた。確か人間の性を形づくる部分とか説明があった。驚いたことに、性同一性障害の男性と女性のそれがほとんど同じなのだ。
 性同一性障害の男性の両親は同世代。ここで考えてしまった。もし、自分の息子が「女になりたい」と言い出したらどう反応するだろうかと。うちは娘だから「私は男になりたい」と言われたらどうするか。環境とか育て方とかの問題ではない。脳の写真が証明している。明らかに疾患なのである。

 トランスセクシャル、今は〈TS〉という言葉で括られる事象に興味を持ったのは手塚治虫のマンガがきっかけだった。
 小学2年のとき、アニメ「リボンの騎士」に夢中になった。コミックスも揃えて何度も読み直した。
 サンケイ新聞に連載されていた「青いトリトン」(アニメ化で「海のトリトン」に改題)は、前半がトリトンの兄、和也の冒険譚だった。ある船にしのびこんだ(?)和也が船長の部屋をのぞくと、着替えをしていて、実は女ではないかと思わせるコマがあった。この何気ない絵に興奮した(コミックスにはこのカットがない)。
 隔週刊の少年チャンピオンに連載されていた「ザ・クレーター」では死んだ少女の心が、ある一定期間主人公の男の子にのりうつるというエピソードがあった。
 これら一連の描写にある種の感情が芽生えた。〈萌え〉なんて言葉は当時なかったが。
 同じチャンピオン連載の永井豪「あばしり一家」にも宇宙船から放たれた光線を浴びた吉三(あばしり家の三男)がみるみる女の子に性転換して右往左往するなんて回があった。「リボンの騎士」より直截的に肉体の変化を描いていて、少年の心がうずいた。
 そんな物語に影響されて男から女へ強制的に性転換手術させられるマンガを描いたことがある。小学5年だったか、6年だったか。かなりマセていた、というか、「お前何考えてるの?」と言われても仕方ない。

 それはともかく手塚マンガにはこの手の話が多い。
 「どろろ」の最終回でどろろが女の子であることが判明する。「ブラック・ジャック」にも卵巣を失った女性がブラックジャックの手術で男性に生まれ変わって生きていく話がある。
 驚愕したのは「ミッドナイト」の最終回だ。事故で再起不能となった主人公の脳が直物人間になった恋人に移植されるのだ。つまり主人公は女になって生きていくというわけで。
 性転換ものは今では一つのジャンルになっている。マンガだけでなく小説でも題材になっている。手塚マンガの影響とみていいのだろうか?




 先週、イベントが2日続けてあった。その関係で帰宅が遅くなった。
 そのほか、個人的に落ち込んだり、ふさぎ込みたくなりこともあって、その発散のため、ひとりカラオケに精出すことになる。先週は3日連続で歌広場のお世話になった。

 今週も一昨日、昨日と歌広場へ。
 新しい職場になって、サラリーマン時代と違い、毎日がとても楽しくなったのは確かだ。とはいえ、仕事だからまあいろいろある。その憂さを晴らすのがひとりカラオケだ。
 精神的におかしくなり、土日引きこもりになってからというもの、完全にカラオケから足が遠ざかっていたのだが、昨年あたりから一人で帰宅前に立ち寄るようになった。
 駅前の歌広場、きっかり1時間。ソフトドリンクのドリンクバーで、660円。無駄な時間を使いたくないから、前奏で、間奏で入力作業。歌い終わると、すぐの演奏停止。そこらへんの操作がうまくなった。

 約束の十二月
 そして僕は途方に暮れる
 六本木心中
 ベリーベリーストロング ~アイネクライネ
 ああ無情
 かんかん照り
 傘がない
 氷の世界
 桜三月散歩道
 ダンスはうまく踊れない
 ひらひら
 狼のブルース
 僕の唄はサヨナラだけ
 ジュリアに傷心
 ほおずき
 檸檬
 飛梅
 雨上がりの夜空に
 自由に歩いて愛して
 愚か者よ
 54日間待ちぼうけ
 ホテルカリフォルニア
 雨音はショパンの調べ
 ケンとメリー
 私は風

 こんな歌をとっかえひっかえしてうたっている。




2017/01/28

 「唐獅子株式会社」(小林信彦/フリースタイル)

 僕が小林信彦を読み始めたのは高校時代、キネマ旬報で「小林信彦のコラム」が始まってからだ。もちろん、中学時代は「オヨヨ大統領」シリーズが話題になっていて、高校時代は「唐獅子株式会社」がブームだった。とはいえ、それほど興味がなかった。
 中学時代に所属していた陸上部の同級生がさかんに「オヨヨ大統領」シリーズの面白さを吹聴してくれたのだが、NHK少年ドラマシリーズのドラマ化に幻滅していたので、原作を手にしようとは思わなかった。
 ところが、キネマ旬報のコラムがすこぶる面白い(なにしろ連載中に読者賞を2回受賞したほどだから)。大学時代に1冊にまとまり、すぐ購入した。ここから小林信彦のこの手の本を集めるようになった。
 コラムやエッセイ、評論集をすべて読破して、新潮文庫の小説をあたるようになった。その最初が「唐獅子株式会社」だったと思う。
 面白かった。笑った。こりゃ話題になるわと得心した。第3話「唐獅子生活革命」で組グループの社内報に掲載されたダーク荒巻の新マザーグース「誰が駒鳥いてもうた?」で、赤い鳥の「誰が鳥を」の元ネタを知った。後藤さん、そういうことだったのね!

 「スター・ウォーズ」と「レイダース」、「スーパーマン」のテーマ曲が似ていること。当時よく仲間と遊んだっけ。
「『スター・ウォーズ』のテーマ曲は?」
「(口ずさむ)」
「『レイダース』は?」
「……(何とか口ずさむ)」
「じゃあ、『スーパーマン』!」
「(わけがわからなくなる)」
 
 このシリーズは、70年代後半から80年代前半、日本がバブルに突入する寸前までの文化、風俗が描かれていて、それが、著者一流のギャグに結びついている。当時を知っていれば、大笑い間違いなしだ。若い人はどう思うのだろうか?

 これまで「唐獅子株式会社」は2度映画化されている。1983年と1999年。
 小説が話題になって、映画化希望の話が次々と版元に押し寄せた。前田陽一監督、岡本喜八監督、長谷川和彦監督。
 松竹の前田陽一監督が特に熱心だったが、会社が反対してポシャった。長谷川監督も映画化に積極的だったが、いつのまにか「太陽を盗んだ男」にシフトしてしまい、著者を呆れさせた。最終的に岡本喜八監督に映画化権を2年間預けることになった。
 そこらへんの顛末は、「小林信彦のコラム」に書いていて、最初にまとめられた「地獄の観光船 コラム101」(集英社)に収録されている。

 「小林信彦のコラム」の書籍化第二弾は筑摩書房から「コラムは笑う エンタテインメント評判記1983〜88」と改題されて出版された。集英社文庫になっていた(で、絶版になっていた?)「地獄の観光船 コラム101」は「コラムは踊る エンタテイメント評判記1977〜81」となってちくま文庫に入った。「地獄の観光船」以降、シリーズとして出版された「地獄の映画館」(76年以前の映画に関するコラムがまとめられていた)は、「コラムは歌う エンタテインメント評判記1960〜63」と改題されてやはりちくま文庫の1冊になった。
 以降、筑摩書房から「コラム」シリーズが刊行されることになる。

 「コラムは笑う」には125のコラムが収録されているのだが、2つめのコラムが「唐獅子株式会社」映画化にまつわる話題だった。
 前田陽一監督が松竹で映画化を試みた際に、脚本を担当した某が映画雑誌に「なぜ映画が挫折したのか」と恨み節を綴っていて、その反論になっていた。挫折の理由「会社が悪い、原作者が悪い、外野が悪い」のうちの、〈原作者が悪い〉に反駁したのである。
 某は著者からのクレームがあったと書いている。
「私の原作は、チンピラライターが手がけるものでありません。書くなら東映の大御所K・K氏か、テレビの巨匠S・K氏のような人にお願いします」
 K・K氏は笠原和夫 S・K氏は倉本聰のこと。
 こんな言葉をいつ、どこで、ぼくが吐いたのか! と激しく怒りながら検証し、結局、某が書いたことは、デタラメ、捏造、虚偽、甘え、非礼、であり、すべてを他人のせいにして、自分の才能を疑うことがない、自称脚本家と罵倒する。
 著者の筆誅の激しさを思い知らされた。

 この項続く




 皆さんは「京のぶぶづけ」をご存知でしょうか?
 「京のぶぶづけ」とは京都のお茶漬けのことで、「ぶぶづけをいかがですか?」と言われることは「帰ってください」という意味だそうです。

 ある本に書かれていたことですが、五木寛之がこの「京のぶぶづけ」の風習をおくゆかしい高級な文化と持ち上げているそうです。
 五木寛之との対談か何かのゲストに(京都の)一流料亭の女将をゲストに呼ぼうとしたところ「そんな器ではない」と丁寧にきっぱりと断れたそうです。
 だったら仕方ないと諦めてそのままにしていたら、半年後、女将が気分を害していると人づてに聞きました。

 実は京都の慣習として、依頼に対して最初に断るのはマナーなのだそうです。再度の依頼も断ります。で、三度めでやっと了解するといいます。
 五木寛之は、こうしたやりとりに驚きつつも「京のぶぶづけ」に結びつけて肯定するわけなんですが、このエッセイを読んだ某大学教授が反論します。
 言葉を信じない文化の頂点が高級なわけがないと、「野蛮な文化じゃないか!」と否定するのです。

 私もこの教授の意見に大賛成です。
 思ったことを言って相手を傷つける、不愉快にさせることはよくあります(あるいはその逆も)。かといって、言葉の裏読みばかりするなんてエネルギーの無駄使い、愚の骨頂だと思います。
 これはプライベートでも仕事でもいえることで、こういうことに関しては、自分は外国人になってしまい、「イエス、ノーをはっきりしてもらいたい」と言いたくなります。

 皆さんはどうお考えでしょうか?

     ◇

 【参考】

2000/09/22

 「私の嫌いな10の言葉」(中島義道/新潮社)

 羽田図書館の新刊コーナーにあった。著者は現在電気通信大学教授(専門はドイツ哲学)。プロフィールを見るとこれまでに何冊もの著書を上梓しているが僕はまったく知らない人。タイトルに惹かれて借りてきた。
 これがもし「私の好きな10の言葉」だったら絶対見向きもしないだろう。〈嫌いな10の言葉〉に日頃僕自身が使ってしまうものもあって不安半分、でももしかしたらこの著者と相通じるものがあるかもしれないと思った。
 著者が毛嫌いする〈親身になって相手のことを考え忠告する言葉〉を章タイトルにして世の中に跋扈している偽善的考え、無意味な行為を豊富な例をあげながら糾弾していく。
 著者が嫌いな言葉としてあげ、章タイトルになっているのは次のとおり。

 相手の気持ちを考えろよ!
 ひとりで生きているんじゃないからな!
 おまえのためを思っていっているんだぞ!
 もっと素直になれよ!
 一度頭を下げれば済むことじゃないか!
 誤れよ!
 弁解するな!
 胸に手をあててよく考えてみろ!
 みんなが厭な気分になるじゃないか!
 自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!

 単なる皮肉、受けを狙ったへそ曲がり論、人と違ったことを言って優越感に浸るものだったら、自分の〈読み〉がはずれたというだけで、本をまた図書館に返却するだけだが、思ったとおり最初からぐっと僕の心はをつかまれてしまった。

 中野翠のコラムを例にあげ、彼女の卓抜なユーモアを賞賛する。
 笑う哲学者・土屋賢二の〈笑い〉がちっともおかしくないという指摘もわが意を得たりの心境。(僕も週刊文春連載の土屋氏のコラムを開始当時読んで、どこがおもしろいのかわからなかった。)

 著者は言葉の裏読みを極端に嫌う。
 五木寛之のエッセイにでてくるエピソードで「京のぶぶづけ」を無条件にもちあげているそうだ。 
 五木寛之との対談か何かのゲストに一流料亭の女将をゲストに呼ぼうとしたところそんな器ではないと丁寧にきっぱりと断られた。だったら仕方ないと諦めてそのままにしていたら半年後、女将が気分を害していると人づてに聞いた。実は京都の慣習として、依頼に対して最初に断るのはマナーなのだと。再度の依頼も断る。そして三度目でやっと了解するという。
 有名な「ぶぶづけ(お茶漬け)をいかがですか?」は「帰ってください」という意味で、五木寛之はそんな慣習を肯定するのに対して、言葉を信じない文化の頂点が高級なわけはない、と「野蛮な文化じゃないか」と著者はいきまくのである。
 僕もまったくそのとおりだと思う。思ったことを言って相手を傷つけることはよくある。かといって言葉の裏読みばかりするなんてエネルギーを無駄に消費するだけ。イエス、ノーをはっきりしてもらいたい。

 もうひとつ著者自身が経験したエピソードで特に共鳴したものがある。
 奥さんとのことで、ある日自宅に友人たちを招待して大いに盛り上った。友人たちが帰った後、なぜか奥さんがブスっとしている。理由を訊くと「どうしてあんなことを言うの?」と非難される。会話の中で友人に対して奥さんがさる有名な哲学者を知らないと著者の言った言葉にカチンときたらしい。「知らないから知らないと言ったっだけだ。別に知らないことをバカにしたわけではない」と説明しても奥さんの機嫌は直らない。
 僕もこれと同じような喧嘩を何度もカミサンと繰り返している。こちらの何気ない言葉に過敏に反応する。いや、反応するならするでいい。その場で指摘すればいいのに、そういうことは何も言わず、一週間くらいダンマリを決め込む。そんな毎日に耐え切れなくなって、「何を怒っているんだよ?」と訊くと「わからないの?」と驚く。こちらの鈍感さを憂う。
 こちらの発した言葉に対して傷ついたのならそのときにそう言ってくれればいい。こちらはそんな気持ちなんて持っていないのだから。ところが傷ついたことをわかったこととして相手は黙り込むから始末に悪い。著者はそこを嘆くのだ。
 その他、かずかずのエピソードが紹介され、そのたび怒り心頭、ときには行動で示すこともあって、「よくもそこまで」と感心したりあきれたり。
 もちろん書いていることの100%を支持するわけではないけれど、読んでいて痛快な気分になれる。




 そうか、会社を辞めてもう1年経つのか。今になって気がついた。
 5年前は孤独感に苛まれていた。
 今もひとりぼっちだけど、そんな環境を楽しんでいるところがある。
 斉藤和義「ベリー・ベリー・ストロング」に涙がにじむなんてオレぐらいのものだろう。

          * * *

2017/01/19

 「ウルトラマンの飛翔」(白石雅彦/双葉社)
 
 第一期ウルトラシリーズを作品ごとに製作観点から検証するというシリーズ第2弾。
 金城哲夫の家族を語るくだりでは涙が滲んだ。
(追記します)

2017/01/20

 「高田文夫の大衆芸能図鑑」(高田文夫/小学館)

 積読本が溜まりすぎて、この1年間はそんな必要なんてないのだが、久しぶりに図書館で借りてきた。


2017/01/21

 「怪獣秘蔵写真集 造形師村瀬継蔵」(村瀬継蔵/洋泉社)

 こういう本は、気が向いたときにチラチラと眺めればいい。幸せになれる。


2017/01/22

 「小林信彦 萩本欽一 ふたりの笑タイム 名喜劇人たちの横顔・素顔・舞台裏」(小林信彦・萩本欽一/集英社文庫)

 単行本が出たときに真っ先に買って読んでいる。そのときの感想でも書いているのだが、藤山寛美、植木等、横山やすし、伊東四朗、渥美清に続いて欽ちゃんを書いてほしかったのだ。
一度欽ちゃんをモデルにした短編を書いているのだから、ずっと願っていたのだが、単行本が出たときに諦めた。


2017/01/28

 「唐獅子株式会社」(小林信彦/フリースタイル)
 

2017/01/30

 「ウルトラマンの現場 ~スタッフ・キャストのアルバムから~」(小学館)

 「ウルトラマンの飛翔」を読んでいたことで、より深くスナップの一枚一枚が愛おしく感じられた。




2017/2/25

 「ラ・ラ・ランド」(MOVIX川口)

 「セッション」の監督(デイミアン・チャゼル)がミュージカルを撮ったというニュースを目にしたとき、ものすごい期待感があった。
 「セッション」はドラマ的にはある部分破綻しているところがあるものの、クライマックスのドラムソロの圧倒的迫力でもうそれだけで満足してしまった。この映画の魅力はドラマではなく、音楽が醸し出す高揚感の体感にあったのだ。
 同様の高揚感を、「ラ・ラ・ランド」のミュージカルシーンに求めたわけだ。

 公開前に一度だけ予告編を観る機会があった。
 全編、歌って踊っているのだが、少しも興奮しない。むしろダサさを感じてしまった。
 「シン・ゴジラ」の予告編第一弾を観たときと同じ反応なのである。

 ミュージカルには詳しくない。10代まではミュージカルにまったくというほど興味がなかった。タモリがよく言っていた「それまで普通に演技していたのに、なぜ急に歌ったり、踊ったりするのか」に与していたのだ。
 ミュージカルへの偏見を取り去ってくれたのが1980年に日本で公開された「オール・ザッツ・ジャズ」だ。もともと音楽映画が好きだったこともあり、ミュージカルもその一つとして楽しむようになった。
 ちなみに音楽映画とは〈音楽をモチーフとする映画〉と自分の中で規定している。「小さな恋のメロディ」も僕にとっては音楽映画である。全編にわたって、ビー・ジーズの楽曲を使用していると言う点で(エンディングのみCSN&Y)。
 ミュージカルと聞けば、もうそれだけで足を運ぶ。音楽(楽曲)が琴線に響けば、サントラを購入する。
 「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」は映画版だけでなく舞台版のサントラも購入した。「ジャージーボーイズ」なんて一週間に3回観た。米国キャストの舞台(日本公演)まで観に行った。もちろんサントラも購入。

 予告編は期待外れだったが、公開が近づくにつれてワクワク感で胸がはち切れそうになった。「シン・ゴジラ」の場合、予告編第二弾で印象がガラリ変わって、実際本編は傑作だったのだから、「ラ・ラ・ランド」も同様だと思った。
公開二日めに観たのだが、観る前は朝から興奮していた。興奮と書くと少々大仰だが、今晩観るんだと思うと胸が高鳴ったことは確か。

 どこで観ようか。仕事終わりで駆けつけるからレイトショーでないと間に合わない。
 調べるとTOHOシネマズ日本橋があった。しかし、レイトショー対象の最終回の開始が遅く、翌日を考え断念。
 有楽町ではTOHOシネマズみゆき座スカラ座でやっていた。開始時間も日本橋より早い。これにしようと思ったが、念のために電話して確認してみた。案の定、レイトショー料金ではないという。有楽町のTOHOシネマズはいつもそうだ。
 地元MOVIX川口で観ることにした。
 新宿や渋谷ではないので、それほど混まないだろうと予想していたら、さすが話題の映画、かなりのお客さんの数である。それもカップルばかり。座った列は僕以外カップルなんだから!

 胸の高鳴りを抑えながら開巻を待つ……
 オープニングは、ハイウェイを使った、大胆奇抜な大群舞(?)。しかし、ノレなかった。以降、いわゆるミュージカルシーンには心がときめかなかった。ラストに待っていた、この映画の肝心要のシークエンスにも。これはいったいどういうことなのだろう? 自分でも信じられなかった。
 数々のシーン、ショットが、往年のミュージカルへのオマージュ(が含まれている)であるのことは、ミュージカルに詳しくなくてもわかる。しかし、元ネタを知っている、知らないなんて関係ない。目の前で繰り広げられる歌唱(楽曲)やダンスが胸にくるかどうか、だ。

 (ネタばれあり)
 「映画はつまらなかったのか?」と訊かれたら、否と答える。
 ラストの、ふたりの再会ショットに短剣で胸を貫かれた衝撃を受けた。切なすぎて涙がでてきた。20代のころの個人的な思い出が頭をよぎったことも大きい。

 前述の肝心要のシークエンスは、現実とは逆の、たらればの世界を歌&ダンスで盛り上げる。これも僕には疑問だった。
 このシークエンス、始まりはふたりの最初の出会い。しかし、本当なら、フランスロケから帰ってきたヒロイン(エマ・ストーン)と主人公(ライアン・ゴズリング)から描くのが筋ではないか。紆余曲折がありながらふたりは結ばれたのだから。が、あることで仲たがいして別れることに。エマにはフランスロケの仕事が舞い込み、怖気ずくエマの背中をライアンが推す。この映画が大ヒットしてヒロインはトップ女優の仲間入りを果たすのだ。
 普通なら、映画が成功したのだから、あるいは映画に手ごたえを感じたなら、その前に別れたとはいえ、エマはライアンに連絡をとるのではないか。そこでまた恋仲になったり。そうはならなかった。ふたりに何があったのか? そこらへんのすれ違いを僕は知りたかった。

 歌やダンスには胸ときめかなかったが、ライアン・ゴズリングのピアノプレイには始終注目していた。もちろん、音はあとで差し替えているのだろうが、指の動きが音にリンクしていて、まさにホンモノに思えた。ピアノソロも素敵だったし。

 この映画が、不遇なジャズピアニストと売れない女優のロマンス、ピアノをモチーフにした音楽映画だったら、僕はハマったに違ない。誰も共感してくれないだろうが。




 話題のミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」の感想を書く前に、2000年代になって、僕がどんなミュージカル映画を観てきたか、そのレビューをピックアップする。僕自身のミュージカルに対する考え方、趣味嗜好が理解してもらえると思うので。

     ◇

2001/03/07

  「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(丸の内プラゼール)

  ロバート・アルトマン監督のカンヌ映画祭グランプリを受賞した「ザ・プレイヤー」はハリウッドの映画界を皮肉った内容で、人気俳優たちがカメオ出演していることも話題になった。  
 大いに笑ったのは主人公の映画プロデューサーが購入したシナリオを映画化した映画内映画のラスト。
 ハリウッド映画の商業主義、楽天主義を嫌悪するシナリオライターの卵のそれは最後にヒロインが無実の罪で死刑になってしまうという非常に暗い、リアリズムの極致みたいなストーリー。主人公は出来のよさを評価しつつも観客の支持が得られるようにラストをハッピーエンドにしろと要求する。シナリオライターは拒否する。そんなことをしたらこのシナリオの意味がない、と。  
 ところが映画化された作品のラストは処刑室に連れていかれ、あとわずかで刑が執行されるヒロインを助けに銃を乱射しながら「ダイハード」よろしくブルース・ウィルスが助けにくるという大ドンデン返し。リアリズムも何もあったものじゃない。結局シナリオライターの卵氏は映画界で名をあげるため、ハリウッドシステムを受け入れてしまったのだった。  
 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観終り、この映画内映画を思い出していた。  

 かつてハリウッド映画を代表するジャンルにミュージカルがあった。本場ブロードウェーの舞台同様、映画の方も歌、タップダンス、レビューがドラマと渾然となって観客に夢と希望を与え、アメリカ映画の華やかさ、楽しさ、わかりやすさを具現化したジャンルともいえる。日本でもミュージカルファンは多い。  
 ただ映画はある種のリアリズムを基調とする。SFだろうがアクションだろうが、実際にはありえない虚構の世界を描いていても独自のリアリズムで観客を納得させている。この観点からいくとミュージカルはまったくリアルでない。それまでドラマを演じていた俳優が突然歌を歌い出し、踊り出す。それがミュージカルなんだといっても、ルールを知らない人にしてみれば「何これ!」てなものになる。  
 一時期ミュージカル嫌いのタモリがさんざTVで文句を言っていたし、僕自身ある時期までその違和感をぬぐいきれなかった。  
 実際僕も昔ながらのミュージカル・ミュージカルしたものは観たことがない。ミュージカルの黄金時代を知る世代ではないからよけいそうなのかもしれない。「ザッツ・エンタテインメント」はもちろん、空前のブームを呼んだ「ウエストサイド物語」さえTVで放映された際、チャンネルをあわすものの途中で断念してしまったほど。  
 20代になってからはダンス(&ソング)に興味もでてきて、その手の映画も観るようになったが、ショービジネスの舞台裏やダンサー志望の若者たちの青春ものといった内容で、容易にドラマの中に歌やダンスを取り入れられるものに限った。  
 絶対に言えることは〈シリアスなストーリーとミュージカルは相容れない〉ということ。もちろん自分のミュージカルに関する知識がないだけで過去にシリアスなドラマのものもあったかもしれない。しかし「ダンサー・イン・ザ・ダーク」ほど救いのないドラマはなかったのではないか。  
 監督(&脚本)のラース・フォン・トリアーはハリウッドで量産されたミュージカル映画に敬意を表しつつも、その人工的な甘美な世界、いかにもな虚構世界でない、まったくそれとは対局にある世界とミュージカルの融合を試みたのではないか。ミュージカル嫌いな人にも受け入れられるようにとの考えかどうかは別にして、ドラマの中に何の抵抗もなく歌と踊りのシーンを挿入する構成にしたいとも考えた。  
 「ザ・プレイヤー」の映画内映画がヨーロッパのネオリアリズム映画を無理やりハリウッド風にしたように、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はその逆を狙ってのではないか、と。  

 この映画には注意書きが多い。まず劇場ドアのいたるところに「この映画は手持ちカメラで撮影され、画面がブレるので酔いやすい方は…」との注意書きが貼付されていた。  
 映画の冒頭ではオープニングの4分弱まったくの黒味であることを触れ、これも演出による云々という字幕がでる。  
 この映画も内容についてほとんど事前に仕入れなかった。タイトルから盲目のダンサーがヒロインであること、非常に暗い内容であること、観たことを後悔する人がいる、と聞いていたくらい。  
 オープニングの黒味にはフルオーケストラのとても印象的な曲が流れる。途中から目をつむり、舞台に実際にオーケストラがいて、懸命に指揮棒をふる指揮者を思い描いた。  
 ドラマが始まるとやけに色がくすんだ画質、素人が撮った8mmみたいなイライラするほどブレとパンを繰り返す映像が続く。  

 やがて失明してしまうヒロインのセルマ(ビョーク)はチェコからアメリカにやってきたミュージカル好きな移民で、やはり同じ眼病の息子・ジーン(ブラディカ・コスティック)とともに親切な警察官夫婦(デビッド・モース&カーラ・セイモア)の好意で敷地内にあるトレーラーに住む。息子の眼の手術費用を捻出するため生活を切りつめ、つつましい毎日を送っている。
 セルマは市民劇団が上演するミュージカルに主演するため、そのリハーサルにも余念がない。が、眼はますます悪くなり、ほとんど見えない状態に。にもかかわらず検査ではインチキしてまで正常を装い、深夜残業、内職と精をだす。そんなセルマに親切な夫婦、実は妻の浪費で多額の借金を背負っているビルが借金を申し込む。訳を話して断るセルマ。が、ビルはセルマが目の見えないことをいいことに金の隠し場所を見つけ、盗み出す。  
 セルマが工場でミスを犯しクビになった日、金が盗まれたことを知る。ビルが犯人だと確信するセルマが金を返すようにビルに迫るが逆にピストルで脅される始末。言い争いの途中でピストルが暴発。ビルが倒れる。ビルはやってきた妻に警察に知らせろといいながら、二人きりになるとセルマに自分を殺せと迫る。気が動転したセルマはピストルを発射、最後は顔を殴打して殺してしまう。  
 その足で病院に駆け込んだセルマは医師に息子の手術を依頼し、その後警察に逮捕される。すべての証言、証拠がセルマの有罪を物語り、死刑の判決が言い渡される……。    

 ドキュメンタリータッチで社会派風ドラマが展開される中、ミュージカルシーンはヒロインの白日夢、心象風景として要所々に挿入される。このシーンになると画面は鮮やかなカラーとなり、カメラもフィックス、さまざまな角度からダンス&ナンバーが切り取られる手法。  
 最初のナンバーはセルマが働く工場が舞台。工場内にこだまする機械音が徐々にリズムを刻み、やがて工員たちの乱舞になる瞬間は興奮もの。ダンスそのもの、カッティングはそれほどでもなかったが。  
 不意に涙があふれでたのは次のナンバー。鉄橋でセルマに思いを寄せる無骨な男・ジェフ(ピーター・ストーメア)がセルマの目が見えないことを知り、二人のかけあいから通過する列車の貨物車両の上での男たちのダンスに発展するシーン、そしてビルが死んで、不幸を呪うセルマに一人息子が「母さんに罪はない」と歌いかける繊細な声の響き。死んだビルが生き返り、妻とともに「逃げろ」とアドバイスする、なんてミュージカルらしい何でもありの世界が再現される。  

 映画の後半からラストまで、ヒロインを襲う不幸の数々に隣席の二人連れの片方の女性は鳴咽をあげ泣きじゃくっていた。僕はというと悲惨な現実に心苦しく、目をふさぎたくなったもののドラマそのものはわりと冷静に観られた。いくらなんでも裁判はああいう方向に進まないと思うし。  
 もしこの映画がヒロインの悲劇をことさら強調し、観客の涙をしぼるような作りなら、はっきりと拒否反応を示していたただろう。  
 だが僕はヒロインのやりきれない現実を受け入れるための心根、ミュージカルシーンを夢想する気持ちに胸をつかれた。
 現実と白日夢の落差がはげしいほどその思いは強くなる。息子の手術代確保のため(もしかしたら死刑にならずにすむかもしれない)再審を拒否したヒロインが処刑室に向う際の「107ステップス」のナンバーに胸ときめいた。こういう作りもありなんだ、と〈目から鱗〉状態になった。  
 処刑台に立ったヒロインは何かと面倒をみてもらった仕事仲間・キャシー(カトリーヌ・ドヌーブ)から息子の手術成功を知らされる。そこではじめて現実の中で歌をくちずさむ。小さな声がやがて処刑室内に響き渡る迫力となって、その頂点をきわめた時、それこそ観客に何かしらの奇跡を期待させるその瞬間、それを裏切るかのようにショッキングな結末で幕となる。現実の厳しさを再認識させるかのように。  

 この方法論がすべてに通用するとは思わない。またこの映画のヒットに刺激され、安易に悲劇とミュージカルが融合した映画が主流をしめることも憂慮する。が、ミュージカルに縁がなかった人たちがこの映画を観て夢見る心の必要性、華麗なダンスに心躍らせてミュージカル映画の存在を認識するのであればそれはまたけっこうなことではあるまいか。  

 追記  
 ミュージカルシーンはビデオ映像をフィルムに転換したように思う。どのように撮影され、ビデオ処理されたのかパンフレットに記載されていたのであれば、サウンドトラックの「セルマソングス」とともにぜひ購入したい。観終わってもう一度冒頭の「Overture」を聴き直したいと思う。あの真っ黒なスクリーンに何が見えるか、とても気になった。

     ◇

2002/03/13

  「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」(渋谷 シネマライズ)  

 オフブロードウェイでロングランを続けたミュージカルの映画化だという。  

 東ドイツに住む、ロックを子守唄がわりにして育った同性愛者の主人公(ヘドウィグ)がアメリカ兵に見初められて結婚、渡米前に性転換手術するが失敗し、アメリカに着いたとたん捨てられる。
 やがてベルリンの壁が崩壊。彼女(?)はベビーシッターのアルバイト先で知り合ったロックシンガー志望の17歳の高校生・トミーと意気投合。彼をロックシンガーにするべく、自分の持てるすべての愛を注ぎ、ロックの真髄を教え込む。自分の運命を赤裸々に綴った歌作りの日々。ところがある日トミーがヘドウィグの楽曲を盗んで遁走。プロデビューして、あっというまに人気アーティストになってしまった。
 トミーを許せないヘドウィグは自分のバンドを率いて、彼のツアーを追いかけるストーカー的ドサ回りの旅にでる。  

 タイトルの〈アングリーインチ〉とは性転換に失敗したヘドウィッグの股間に残ったわずかな突起物を指している(怒りの1インチ)と同時に、そのままバンド名にもなっているというわけ。  
 トミーのコンサートが開催される大ホールの近くにあるレストランやパブでのライブ。そこで一部のお客の不快感など省みず、ハデハデゴテゴテ、奇抜な衣装で自分の数奇な運命を歌い上げ、トミーの不正を弾劾する。    

 ヘドウィグのこれまでの半生(ロックシンガーになるまでの軌跡)を描く方法が巧い。まずライブで、ヘドウィグ自身が歌で語る。時に当時の映像がインサートされ、やがて歌と映像がシンクロし、いつしかミュージカル特有の時間と場所を超越した世界に突入していく。個人的なミュージカルで一番気になる部分、芝居から歌のシーンに転換するところがごく自然に受け入れられた。
 ロックバンドがフィーチャーされたミュージカルに一番期待したのがここなのである。
 とにかくライブシーン、ミュージカルシーンが楽しい。「Origin of Love」のヘタウマアニメのインサートが効果的。
 また「はい皆さん、ご一緒に」とヘドウィグの掛け声とともに「Wig in the Box」の歌詞がインポーズされて、映画がカラオケ映像になるなんて、コロンブスの卵的新鮮さでカラオケ好きにはたまらない。心が躍った。もう一度カラオケシーンがあったらぜったい声出して身体を揺らして歌っていただろう。最高!

 脚本・監督・主演のジョン・キャメロン・ミッチェルはその気があるのかないのか。まあ、そんなことはどうでもいいけれど、女装姿が見事に決まっていた。ハデハデなステージ衣装以外の、カジュアルな格好の時に見せる足の形(細さ)だとか肩のあたりの曲線だとか、ホント女なのだ。
 トミーとの蜜月時代に、ドアのところでくちづけを交わすシーンがある。このときヘドウィグの全身から醸し出す雰囲気がとてもナチュラル。痺れました。1インチぐらいの突起なんかゆるしてしまいたくなる。小さな胸のふくらみが始終気になって気になって……

  この映画、映画本来の楽しみとは別にソックリさん大会の趣きもあります。
 ヘドウィグはある時は〈狩人〉のお兄さん、またある時は京唄子、黒柳徹子(あくまでもヘアスタイルが)、ファラ・フォーセット……、トミー(マイケル・ピット)はどうみたってディカプリオでしょう。バンドのメンバーでヘドウィグの現在の夫・イツハク(ミリアム・ショア)はジョニー大倉かケミストリーの野人みたいな方(名前知りません)、なんて。
 このイツハク、髭面ではあるけれど、一目見た時から、声を聞いたらなおさら女性だとわかる。役もヘドウィグの目を盗んで彼女のかつらをそっとかぶってうっとりしたりする、ちょっと屈折した、わけありの性格の御仁。それからはいつヘドウィグを凌駕するような美貌の女性に大変身してくれるのか、胸わくわくものだったのだが、そういう展開にはなりませんでした。(ラスト近く、ステージから客席にジャンプし、変身した女性は本人なのかな? 僕にはそう見えなかったのだけれど。)

 冗談はさておき。
 劇場を出るときエンディングロール曲を口ずさんでいた。これは昔からの観た映画がたまらなく素敵だった証拠である(ラストの不可解さは別にどうでもいいことだと思う)。
 この映画ももう一度観たい。いやその前にサントラ買って、ナンバーをソラで歌えるように練習しておこうか。

     ◇

2003/05/18

  「シカゴ」(川崎チネチッタ)  

 話題の映画をやっと観る。  
 ミュージカル「シカゴ」については、そのタイトルとボブ・フォッシーの作であることだけしか知らなかった。小林信彦の「週刊文春」連載のエッセイ(コラム)「人生は五十一から」で、この映画をとりあげていて、内容を紹介していた。あれっと思った。  
 殺人を犯した女性と悪徳弁護士が活躍する、およそミュージカルらしからぬ内容、ヒロインの一人がヴェルマという名前、何よりミュージカルシーンが主人公たちの白日夢(心象風景)というところがひっかかった。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」によく似ている。いや、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」が似ているというべきだろう。
 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のヒロインの名はセルマ、内容も無実の罪で処刑される薄幸な女性の悲劇だ。ミュージカル好きなセルマの白日夢がミュージカルシーンになっているという手法。もしかしたらラース・フォン・トリアー監督は「シカゴ」に影響を受け「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を企画したのかもしれないと。  

 パンフレットのロブ・マーシャル監督のインタビューと読むと逆だった。映画「シカゴ」のミュージカルシーンの発想は「ダンサー…」にあるらしい。  
 考えてみれば、舞台のミュージカルにリアリズムなんて必要ない。役者が突然歌いだし、踊りだしても別にそれほどの違和感はない。なんでもありの世界なのだ。  

 では舞台の「シカゴ」とはどんなものなのだろう。少々調べてみた。  
 もともとは実際の事件をもとにした戯曲だった。1975年、ボブ・フォシーがこの舞台劇をミュージカルに仕立てる(演出&振付)。〈ミュージカル・ボードビル〉と呼ばれる作品で、司会者と生のバンド演奏がドラマを要所要所で転換させていくショー的要素の強い舞台。この年、トニー賞11部門にノミネートされるが、「コーラスライン」に独占され無冠に終わる。
 96年リメイク(ウォルター・ボビー演出、アン・ラインキング振付)して上演され、大ヒット、トニー賞6部門受賞、ロンドンでもロングランとなる(成美堂出版「ミュージカル作品ガイド100選」)。
 日本では85年に鳳蘭と麻美れいのコンビで上演されている。悪徳弁護士役は植木等だ。演出は井原高忠。  

 1920年代のシカゴ。ダンサーを夢見るロキシー(レニー・ゼルウィガー)は自分を騙した愛人を射殺し、収監される。関係者にコネがあって、いつかダンサーにしてやるという愛人の約束がまったくのデタラメだったのだ。
 監獄にはショウビズ界の憧れのスター、ヴェルマ(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)が浮気していた夫と妹を殺した罪で収監されていた。ヴェルマは賄賂で女看守長を手なずけ、悠々自適な監獄生活を謳歌していた。また悪徳弁護士ビリー(リチャード・ギア)を使って、自分に有利な判決にもっていこうと画策していた。  
 憧れのヴェルマに冷たくされたロキシーは対抗するかのようにビリーを雇い入れた。悲劇のヒロインに仕立てられたロキシーは次第に人気者になっていく……。  

 映画は「And ALL THAT JAZZ」のナンバーで幕を開ける。
 ボブ・フォシー監督の傑作ミュージカル映画「オール・ザット・ジャズ」(1980年)のタイトルはこれからとられたのか。〈てんやわんや〉〈あれやこれや〉という意味と認識していたこのタイトル、〈何でもあり〉と訳されていた。ミュージカルナンバーで有名な「エニシング・ゴーズ」(僕は「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」のオープニングで知った)も確か〈何でもあり〉という意味だった。ミュージカルにはやはり〈何でもあり〉が似合うということか。

 キャサリン・ゼタ=ジョーンズのダイナミックな踊りに驚く。とにかくキレがあって見ていて心地いい。この女優、こんなこともできるんだ!! 
 収監された刑務所には6人の女犯罪者がいた。彼女たち一人ひとりを紹介するナンバー「Cell Block Tango」のセットがまんま「監獄ロック」だった。
 この時代、女性は死刑にならないというのが常識だった。ところが、6人の中から初めて死刑の判決がくだされた女性がでる。彼女はハンガリー移民。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のヒロインも東ヨーロッパからの移民だった。公開死刑の絞首刑の様はまさしく「ダンサー…」のクライマックスそのものだ。
 ドラマとミュージカルの構成が絶妙だ。
 ドラマがいつのまにかミュージカルシーンに変わって、自然にこちらもリズムを刻んで、身体を動かしたくなる。
 特にリチャード・ギアのタップダンスのシーンに発揮されていた。クライマックス、ロキシーの判決が有罪か無罪かのサスペンスとのシンクロに唸った。
 女看守長がどこかで見た女優だと思ったら、「ボーン・コレクター」の介添人(クィーン・ラティファ)だった。従弟(大学時代柔道部の主将として活躍した180cmを超す大男)によく似ているのだ。
 ロキシーの夫役ジョン・C・ライリーがいい味でした。不貞妻の、不倫の末の殺人だと知らず、自分が犯人だとかばう姿、妊娠したと嘘をつく妻の言葉を信じる姿、自分はまったく目立たないと嘆く姿……情けなくて愛しい。
 ロキシーの人気を脅かす、次の殺人者役がルーシー・リューというのも驚き。ホント人気者なんだな。

 シリアスドラマだったら、こんな不道徳なものもないと思われる(ヒロインのロキシーなんてそれこそサイテーの女だもの)内容もミュージカルになると大人の寓話になってしまう。
 まさにミュージカルは何でもあり、だ。

     ◇

2003/07/11

  「シカゴ」(川崎チネチッタ)  

 ロードショー最終日に再度「シカゴ」を観る。会社の同僚からタダで前売券を手に入れたのだ。感謝してます、Iさん。  

 2回めの鑑賞となるとスト-リーを追わなくてもいい。じっくりとミュージカルシーンを楽しむことができる。  
 堪能した。  
 1回めではよく把握できなかった、冒頭の2つの事件(ヴェルマの殺人とロキシーの愛人殺し)の時制がはっきりした。自分の目を盗んで情事を重ねていた夫と妹を射殺した後何食わぬ顔をして仕事場のステージへ駆け込むヴェルマ。妹と二人で踊るナンバー、「妹はどうした?」「彼女がいなければ踊れない」の声など無視して、ダイナミックなダンスを披露する。やんややんやの喝采。客席の隅では事件を知った刑事がステージのヴェルマを見つめている。同じ客席にロキシーがいた。ヴェルマに憧れうっとりしているロキシーをせかす愛人。アパートに着くと廊下で激しく抱擁しあうふたり。隣人の冷たい視線の中、部屋に消える。一戦を終えると急に冷たくなる愛人。口論の末、引出しから銃を取り出したロキシーが愛人の背中に向って撃つ。  
 ヴェルマのダンスとロキシーの事件が1日の出来事だと思っていた。そうなると愛人のベッドを供にした前後の態度の急変が信じられなかった。
「男ってそういうものなの」  
 そう反論する女性もいるだろうが、いくらなんでもあの態度はないよ、というのが僕の意見。  
 情事の前と後は別の日なのだと今回わかった。そうすると先に収監されていて女王みたいに振舞っているヴェルマの存在も理解できる。  

 あの作りならミュージカル嫌いの人でも観られますね。とはIさんの感想。  
 ミュージカルシーンをドラマと区別して構築するのは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の応用である。とはいえ、「ダンサー……」と違って、ミュージカルシーンとドラマ部分が密接に関係しあって効果をあげてくるところがこの映画のミソだ。  

 収監されている女囚たちのプロフィールを紹介する「Cell Block Tango」。何度観てもわくわくするなぁ。初の女性受刑者で死刑執行となったハンガリー移民の女性は一貫して無罪を主張する。このナンバーを聴きながら、この女性は本当に無実なのかもしれないと思った。  
 どのミュージカルシーンも本場アメリカの実力をみせつけてくれるが、特にお気に入りなのが「We Both Reached For The Gun」だ。  
 ロキシーを悲劇のヒロインに仕立てようと自分のシナリオどおりに会見にのぞもうとする弁護士ビリーと、彼に反発しようにもいいように扱われてしまうロキシーの関係を人形使い師と腹話術人形、聞き手の記者たちをマリオネット人形に見立て、記者会見の模様をコミカルに描いている。  
 ロキシーに裏切られ、まったく相手にされない自分の立場、存在感のなさを嘆く夫のナンバー「Mister Cellophane」も忘れがたい。  
 無罪か有罪か、ロキシーの判決がでる瞬間をビリーのタップダンスとシンクロさせ緊張感を高めるなんて目から鱗。「やられました」の心境だ。  

 やっぱりサウンドトラックCDが欲しくなってきた。……買っちゃおうかな。

     ◇

2006/04/30

  「RENT/レント」(東劇)

 このミュージカルについては、つい最近新聞の広告で知ったばかりだった。一面すべてを使って日本公演とロードショーを告知していた。スチールからロックの迫力に満ちた現代に生きる若者たちの生態を描いた群像劇ではないかとアンテナが反応した。本当なら舞台を観るべきなのだが、チケットの入手が面倒なことと料金が割高なためパス、映画だけチェックしておこうと思っていた。そんなところにMさんから無料鑑賞招待の知らせ。天女の囁きですな。

 80年代にブロードウェイでロングランしたミュージカル。なんてことはもちろん、ストーリーもまったく把握していなかった。予備知識ゼロ。タイトルの「RENT」の意味も〈貸す〉ぐらいの認識だった。〈家賃〉だったのね。お恥ずかしい。

 映画は舞台上に横一列に並んだ10名ほどの男女が「Seasons of Love」を歌うシーンからスタートする。まずメロディが耳をとらえた。いわゆる〈オーバーチュア〉が終わると、本編の始まり。古臭いアパート(といっても、日本のアパートのイメージではない高層建物だし、部屋はだだっ広い)に無断宿泊して芸術活動にしそしむ若者たちの生態が活写される。

 ドラマに馴染んでくると、冒頭の舞台上の男女は、映画の主要人物だったことがわかってくる趣向。
 台詞はあるが、ほとんど登場人物の歌で進行する。バラードありロックありといった迫力ある今風の楽曲ばかりなのが新鮮。

 エイズで友人が死ぬシーンはバックに歌を流すといった処理をして、好感を持った。にもかかわらず、恋人に死なれた(実際は死なないけれど)男が、その別れを悲しむところでは、昔ながらミュージカルといった感じ。自分の気持ちを歌にのせてうたってしまう。ここは引いた。それまでの新しさが台無しになったような気がする。
 また、ここまで歌やダンスで押し通すのなら、いっそ、普通の芝居、台詞なんてないほうがいいようにも思えてきた。

 人物への感情移入ができた中盤、ニューヨークの街をバックに「Seasons of Love」がもう一度流れてくる。今度は歌詞が耳をとらえた。

 52万5600分、1年間を何で数える?
 夜明け、日暮れ、深夜 のコーヒーカップ……

 さまざまな瞬間を並べながら、愛や人生について問いかけ、生きていることの意味、生きるていくこと大切さ、尊さを訴えてくる。

 瞬時に最近急逝した友人の顔が思い浮かんだ。ニューヨークが大好きだった彼女、もし生きていたら、この映画に、この歌に何を感じるだろうか。あるいは四十数年間の人生、何を道標にどんな想いを刻んできたのだろうか。突然道を閉ざされて、やはり無念だったか。それとも運命を素直に受け入れたのか。

 もう映画なんてどうでもよくなった。
 少なくとも僕にとっては。

     ◇

2008/02/01

 「スウィーニー・トッド フリード街の悪魔の理髪師」(丸の内プラゼール)

 「スウィーニー・トッド」
 このタイトルにはずいぶん前から見覚え、聞き覚えがあった。しかしさっぱり思い出せない。荒川静香がイナバウアーで喝采を浴びた曲? それは「トゥーランドット」だ。
 では、いつどこでこのタイトルにお目にかかっているのだろうか?

 疑問は、ネット界のジキル&ハイド・黒犬獣氏のブログで氷解した。「スウィーニー・トッド フリード街の悪魔の理髪師」がミュージカルだと書いている。それでピンときた。ああ、宮本亜門だ。昨年、宮本亜門が手がけたミュージカルではないか。そのTVスポットや広告で憶えていたのだ。
 そう、この映画は、ブロードウェイ・ミュージカルの映画化なのである。ティム・バートン監督&ジョニー・デップのコンビ、それに共演がヘレナ・ボナム=カーターだ。ミュージカルのミュの字も想像できるわけがない。だいたい、予告編ではミュージカルなんて謳っていなかったような。
 アメリカの実相寺昭雄&岸田森にもかかわらず、これまで、このコンビの映画に縁がなかった。名作の誉れ高い「シーザーハンズ」もまだまともに観ていないのだ。「スウィーニー・トッド」も関心がなかった。しかし、ミュージカルと知って気が変わった。ミュージカルは舞台が一番。そうは思っても懐具合からすると映画しかない。若いころのミュージカル映画嫌いの体質もずいぶん改善されてきた。最近はできるだけ鑑賞するようにしている。
 というわけで、映画サービスデーに丸の内プラゼールのレイトショーへ。

 舞台は19世紀のロンドン。愛する妻との間に娘が生まれ、幸せな生活を営んでいた理髪師(ジョニー・デップ)が、好色な悪徳判事(アラン・リックマン)の陰謀で無実の罪をきせられ、流刑となる。判事が妻に横恋慕して、邪魔な亭主を追い払ったのだ。
 15年後、理髪師は復讐の鬼となって街に舞い戻ってきた。スウィーニー・トッドと名を変えた彼は、パイ屋の女主人(ヘレナ・ボナム=カーター)の協力を得て、2階に理髪店を開業する。自慢の剃刀さばきで理髪店はまたたく間に評判になる。同時にそれまで閑古鳥が鳴いていたパイ屋も大繁盛。彼の狙いは、店の評判を聞いて訪れる判事にあった。「この剃刀で早くあいつの喉を切り裂いてやりたい」

 冒頭からミュージカルの威力を発揮している。長くなる状況説明をすべて歌で処理。すんなり受け入れられる。説明台詞だとこうはいかない。市川崑監督「映画女優」(当然わかっていてやっているのだろうが)の冒頭は説明台詞の応酬だった。
 もうひとつ、ミュージカルだから観ていられるが、こんな残酷で悲惨な話、普通の劇映画ならつきあいきれない。と思ったら、10年前にベン・キングスレーの主演で映画になっているのだった。それも当初はティム・バートンの監督だったらしい。

 アラン・リックマランは見るからに偽善者。夫(理髪師)が流刑にされ絶望した妻が自殺すると一人残った娘を養女にする。なかなかいいところもあるじゃないと思ったら、適齢期まで待って自分の嫁にするつもりでいるのだ。こんな男への復讐というのだから完全に理髪師に感情移入できる。
 サブタイトルに「フリード街の悪魔の理髪師」とある、おまけに映像も暗く沈んだタッチ。だいたいジョニー・デップもヘレナ・ボナム=カーターも死神メイク。にもかかわらず、未来を予言する謎の女が登場したことで、なぜかハッピーエンドを予想してしまった。ハッピーエンドというとおかしいかもしれない。ジョニー・デップたちが犠牲になってある人たちは幸せになる。そんな展開だ。
 だから、最初の殺人は仕方ないとしても、店を訪れた客を次々に殺害していく光景にわが目を疑った。椅子に座って気持ちよく髭をあたってもらうつもりで喉を切られた被害者はそのまま特殊ルートを伝わって地下に落ちていく。これだけの死体をどう処理するのか。この死体とパイ屋の大繁盛が結びつけられなかった。それまで肉が手に入らなくて開店休業中だったというのに。バカというか何というか。
 なんていうストーリー! やっぱりミュージカルでなければ観ていられない。

 とはいえ、台詞がそのまま歌になるだけのミュージカルは好みではない。やはりそこにダンスの躍動感やバンド演奏のライブ感といった要素がないとノレないのだ。この映画も始まってしばらくの間は(ミュージカルとして)肩透かしをくらった感じだった。楽曲にもそれほど耳をとらえられなかったし。しかし、観ているうちに、ジョニー・デップとヘレナ・ボナム=カーターの掛け合いにわくわくするようになった。
 映画「レット・イット・ビー」で一番興奮したのが、ルーフトップコンサートと呼ばれるビル屋上のライブ演奏で、特に「I've Got a Feeling 」に快哉を叫んだ。ポールのパート、ジョンのパート、まったく別ものと思われた曲が最後に合体する爽快感。とても気持ちよい。
 「スウィーニー・トッド」も同様で、歌詞の内容より、その様、歌(音)そのものに反応してしまった。
 もう全編血に彩られた映画であるが、ラストカットに〈美〉を感じたことも付記しておく。




 ブックカフェ二十世紀で現在水曜日に一緒に働いているK嬢は、女優青葉マーク。彼女が出演している映画「退屈な日々にさようならを」をK's cinemaに観に行く。28日(火)のこと。
 そんなに期待していなかった。K嬢は監督への思い入れを語ってくれるのだが、僕はまったく知らなかったし、これまで作品を観たこともない。上映時間は2時間20分。新人としては長すぎるのではないか? 
「もし、つまらなかったら、つまらないって言うからね」
 彼女は毎日、監督とゲストのトークがある18時の回に自主的に参加して、お客を見送っているという。
「だったら、休みの日、その回に行くから」

 観た。終了後、エントランスに出ると、彼女がいた。こちらに気がつき手をあげて近づいきたので、言った。
「すげぇ、面白かった! 2時間20分、確かに変にカットできないよね。会話とか表情とか愉快で、何度も笑っていたよ」
 俳優の素を生かした台詞廻し、いわゆる演技演技した振る舞いを排除して、リアルな空間を醸しだしている。
 構成は意識しているのかどうかわからないが、「パルプフィクション」を彷彿させる。
 ストーリーは本来ならありえないと思う。あまりにも登場人物が結びつきすぎるのだ。ある種のファンタジーか。

 俳優が普通の芝居をして、リアルな空間を作り出している、ということで、「tokyo.sora」という映画を思い出した。

     ◇

2002/08/27

 「tokyo.sora」(TOKYO FMホール 試写会)  

 東京の空の下、20代女性たち6人の物語。  
 ティッシュ配りのアルバイトを繰り返すモデル志望の娘(本上まなみ)。コインラインドリーにたたずむ留学中の中国人(孫正華)。小さな胸に心痛めている美大生(仲村綾乃)。  
 ランジェリーパブで働く小説家志望の葉子(板谷由夏)と美容師見習いの由香(井川遙)。流行らない喫茶店でマスターとおしゃべりばかりしているウェイトレス(高木郁乃)。  
 彼女たちの日常生活がそれぞれさりげなく淡々と描かれる。いわゆるスケッチの積み重ね。  

 モデル志望の娘はいつも眼鏡をかけていて、オーディションの時もけっしてはずさない。オフの日はいつも一人で部屋でビデオを観ている。  
 中国人留学生はコインランドリーで見かける日本人男性を好きになり彼の愛読書(町田康)を購入、彼の隣でページを開いてみる。同じ本を読んでいるということで、話しかけられるけれど、日本語があまりうまくないのでとんちんかんなやりとりになってしまう。女優志望と留学生は同じアパートの隣同士だが、まったく交流はない。  
 留学生はアルバイトで美大の絵のモデルをしている。ヌードデッサンの時、その豊満な乳房に嫉妬したのが美大生。アンナミラーズでバイトしようとするが、その胸を強調したユニフォームにおじけづく。以来胸パットを愛用している。彼氏に身体を求められても貧弱な胸だと知られるのが怖くてそれ以上の関係になれない。  
 葉子は某小説誌の新人賞に応募した小説が最終選考まで残ったことで、若い編集者との接触を持つことができた。編集者から勧められて書いた小説はそのままでは雑誌に掲載できない。編集者がリライトしたものならGOサインがでるという。しかしそれはもう自分の作品ではない。固辞した葉子に編集者は「じゃあボクの名前で発表するよ」。  
 ある日一人で居酒屋に入ると由香がいた。意気投合した二人は葉子の部屋で飲み直す。由香は毎日シャンプーばかりでカットをさせてもらえないと悩みを打ち明ける。その夜二人で飲み明かし久しぶりに気持ちのいい空を見ることができた。  
 世間に認められない焦燥感、孤独感に苛まれて、ある日、発作的に自殺未遂を起こした葉子は左の手首から血を流しながら電話する。由香が客からもらった名刺をにぎりしめながら。由香に伝えてもらいたいことがあると。相手は喫茶店のマスターだった……。  

 演技的なものを排した台詞廻し、会話で、できるだけ素の彼女たちを浮かび上がらせる。カメラも一定のポジションに固定し、距離をおいて必要以上の状況説明をしない。まるで定点観測の様相だ。 芸達者な香山照之もココリコの遠藤章造もどこにでもいる生身の一人の人間として登場する。  
 自然光を重視した照明が全体的に青みがかった映像にして都会で生きる女性たちの孤独を浮き彫りにする。時折挿入される見上げた角度の空模様が彼女たちの心象風景となって効果的だ。  

 「マグノリア」の世界を佐々木昭一郎が撮ったような映画といえようか。(佐々木昭一郎は70年代から80年代にかけて活躍したNHKの名物ディレクター。素人を好んで起用し、その一種独特な詩的世界で数多くの賞を受賞している。)  
 監督はこれが劇映画デビューとなるCFディレクターの石川寛。透明感あふれる水彩画みたいな映像。まるで役者たちの呼吸が聞こえるような、時をいっしょにすごしているような演出。先輩格の市川準監督「トキワ荘の青春」を彷彿させる。東陽一の「もう頬づえをつかない」のタッチも思い出した。

 もうずいぶん前から不思議に思っていることがある。  
 たとえば電車に乗っていると外人(アメリカ人)の会話を耳にする。身振り手振り、会話の調子って、そのまま映画のワンシーンになってもおかしくない。実生活の会話風景=映画の世界・のよう、なのである。
 これが日本人になると、あちらこちらで交わされる会話と映画(TVドラマ)の中のそれが同じに思えない。別物という感じ。  
 外人の会話ってもともと演技的な要素が備わっているのだろう。  
 恥の文化・日本ではそうはいかない。抑揚のない、ぼそぼそとつぶやくような、ささやくような会話がほとんどなのだ。
 だからこの映画の会話、やりとりは街のあちらこちらで交わされているものと同じ。リアルそのもなのである。

 この映画は全編デジタル撮影で、ビデオをフィルムに転換している。ビデオ撮影だからこそ、長廻しが可能になってドキュメントタッチの映像、リアルな雰囲気が得られたとも思えるが、惜しむらくはこの映画のテーマともいえる空の色の〈抜け〉が悪いところ。
 観終わってすがすがしい気分になれる。2時間強の上映時間がそれほど長いと感じなかった。僕はこういう世界、ストーリーも映像も大好きなのだ。  

 シナリオが読みたくなった。あの台詞は一字一句シナリオに書かれているものなのだろうか。それとも状況説明、台詞の要旨だけまとめられたものなのか。

     *

 「マグノリア」がそうであったように観客は6人の誰かに自分と重なるものを見て感情移入できるのではないか。僕は葉子だった。今時原稿用紙に鉛筆で文字を書く若い女性はいないと思うけれど(でもこの方が絵になる)、自分の才能を信じて孤独に机に向かう姿が目に焼きついた。煙草を持つ指のしぐさが魅力的。
 孫正華は横顔が驚くほど天海祐希に似ていた。眼鏡姿の本上まゆみもよかったなあ。
 癒し系タレントとして人気の高い井川遙の魅力がやっとわかった。小林信彦がコラムで紹介してから気になってグラビア等で何度眺めてみてもそれほどいいとは思っていなかった。由香のかわいらしさったらない。守ってあげたくなる。




 かまやつひろしはいつからムッシュかまやつになったのだろうか。
 それまで、ムッシュは愛称だったはず。それがいつのまにかムッシュかまやつと呼ばれるようになり、表記もそうなってしまった。
 〈日本ロック界のレジェンド〉という枕詞も、どうにも違和感がある。いや、ロカビリー時代からミュージシャンやっていたのだから、レジェンドであることは確かなのだが、この言葉、かまやつひろしが元気だったころからメディアで使われていたのだろうか?
 僕自身は記憶にない。にもかかわらず、訃報記事(ニュース)を書くにあたって、皆が当たり前のように連発するから、反撥したくなるのだ。

 個人的に、スパイダースは、タイガース、テンプターズに続く第3のグループだった。かまやつひろし自身も、堺正章、井上順に続く第3の男。あくまでも個人的なイメージだが(今なら、トップは井上堯之さんになる)。
 飄々と音楽界(芸能界)を生きてきたような気がする。ジャンルを区分でなく、言葉は悪いが節操なく、あっちこっち行って楽しんでいるような。
 最大のヒット曲「わが良き友よ」は吉田拓郎の作で、あのころはロックからフォークに浮気していた。

 スパイダースはメンバー7人のうち、6人が芸能界で活躍している。GSグループの中でもTVの特別番組等で、全員ではないもののメンバーが集まる機会が多かった。堺正章、井上順とかまやつひろしが絡むとむちゃくちゃ愉快で楽しかった。いい曲、たくさんあったんだよなぁ。最初に注目したのは、メンバーの中で作詞作曲できるということだったことを今思い出した。
 何年か前、TOKYO MXの夏木マリの番組にゲスト出演したのが(僕が)元気な姿を見る最後だった。

 78歳。がん闘病の記事を読んで、いつかはと予想していたが、いざ訃報にふれると悲しくて仕方ない。

 合掌




 能書きはもういい。実践あるのみ。
 とにかく結果をだしてよ。いや結果はでているか。

 昨日は映画サービスデー(ファーストデー)。有楽町で何か観ようかなんて考えていたら、「相棒 15」の予約録画を忘れていたことに気がついた。朝、5時に家を出なければならないので、新聞を読めないことが多く、当然TV欄をチェックしないからそういうことになる。
 「相棒 15」は現パートナーになってまた面白くなったので、毎週要チェックなのだ。映画鑑賞は諦めてまっすぐ帰宅。疲れていることもあるし。
 ちなみに、毎月1日を〈映画の日〉と書いているブログを散見するが、映画の日は12月1日のみを言う。この日だけは1,100円ではなく1,000円になるのだ。

 昨日映画鑑賞をとりやめたのは、今日、神保町シアターで「リボルバー」とリメイク版「野良犬」を観るつもりでいたからだ。朝起きて朝風呂に入りながら考えを変えた。少しは休養をとろう。外出はとりやめてブログに専念することにした。雨も降りだしたことだし。

 で、読書録だが、何も書かないうちに3月になってしまった。
 1月は何とか10冊読破した。
 が、2月は6冊……。いや30日があれば7冊なんだけれど。いいわけなんかするな!

     ◇

2017/01/05

 「作戦NACL」(光瀬龍/ソノラマ文庫)

 かつて夢中になったSFジュヴナイルをもう一度読んでみようと、その手の文庫を古書店で見つけるたびに買い求めている。本書はその1冊。読書中、気分は中学生。NACLが塩化ナトリウムのことだったとは!


2017/01/10

 「怪獣映画の〈復讐〉 70年代怪獣ブームの光と影」(切通理作/洋泉社)

 名著「怪獣使いと少年」の増補改訂版が洋泉社から出版されたのは、本書に関係があったのか?
 70年代の怪獣ブーム。個人的には、小学6年から中学生にかけてのことだから、すべてを受け入れることはできなかった。どうしたって保育所の年長組から小学校低学年に夢中になった第一期ウルトラシリーズ、その他と比べてしまうからだ。以前も書いたことだが、幼児期に第一期ウルトラシリーズを観たか、第二期(「A」や「T」)だったかで、ヒーロー、怪獣を含めた特撮(ドラマ・映画)観が違ってくる。

 切通氏は年齢的には第二期でウルトラを知った世代なのだが、特撮に対する思考は自分にリンクするところが多く、というかほとんど同じだから、著作は読まなければならない。
 読み応えのある1冊でページを繰るのが楽しかった。
 どの章も新しい発見があったが、特に、2「かえせ!太陽を!」公害は最後の怪獣を生んだ証言 坂野義光、4怪獣は〈有害メディア〉か 学年誌が果たした役割 証言 上野明雄、5異常なことはいいことだ 「未来の悲劇」を乗り越えるために 証言 山際永三、6殉教者ウルトラマン 証言 真船禎、が興味深かった。


2017/01/14

 「アイドル女優に乾杯!」(小林信彦/文春文庫)

 新刊時の書名は「あまちゃんはなぜ面白かったか」。このシリーズ、当初は単行本と同じ書名で文庫になっていたが、あるときから改題されることが多くなった。本書の場合は、新刊のときから文庫時には改題されると思っていた。小林信彦ファンでなければ、朝ドラ「あまちゃん」の研究書だと思われるだろうから。

 この項続く




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。さまざまなイベントを企画、開催していますので、興味あれば一度覗いてみてください。

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