2000/03/07

 「グリーンマイル」(試写会 イイノホール)

 イイノホールの試写会に行く。立見が出るほどの盛況ぶりだ。
 S・キング原作の映画化作品はデビュー作の「キャリー」以外、ことホラーに関しては成功したものがなかった。
 唯一キューブリック監督の「シャイニング」の評価が高いが、これはあくまでキューブリックの映像テクニックが魅力の作品である、ということが原作を読んでみるとわかる。キューブリックは単に素材としか原作をみていないのだ。かなり評判のよかった「ミザリー」も恐怖のインパクトは原作と比べて数段落ちる。
 これがホラーでなく、短編だと「スタンド・バイ・ミー」という青春映画の傑作があるし、僕は未見だが数年前には多数の支持を受けた「ショー・シャンクの空に」がある。
 圧倒的筆力と映画的な構成で描かれるキングの長編は映画化しても、単に小説のビジュアル付きダイジェストって感じになって、その本当の魅力が活かせないからだと僕は思っている。(それほどキングを読んでいるわけで偉そうなことは言えないし、これはどんな長編小説にもあてはまるのだけど)

 文庫で6冊にもなる大長編「グリーンマイル」(未読)を「ショー・シャンクの空に」の監督、フランク・ダラボンがどう映像化したのか非常に興味があった。トム・ハンクス主演というのも期待が大きかった。

 上映時間3時間8分。少しもだれるところがなかった。大長編小説を映画化した場合、たとえよくできていたとしても人間関係が不明確だったり、描きたらない部分があったりするものだが、そういうところは見当たらなかった。フランク・ダラボンの脚色力の非凡さを見せつけられた(だから3時間を超えているのであろうが)。
 しいて不満をいえば、刑務所長と主人公の信頼関係、脳腫瘍に侵された所長夫人と主人公(および看守仲間)の交流、病状が悪化していく夫人を看病する所長の苦悩等がもっと克明に描けていればという点だろうか。そうすれば夫人の病を治癒させるべく彼らが厳罰を覚悟しながら、人々の病を治癒する力を持つ死刑囚を連れ出す動機がもっと明確になって、より彼らに感情移入できたと思う。
 それからラストの奇跡をより効果的にするために回想を終えた年老いた主人公に対する聞き役の老婦人のちょっとした不信感を抱かせるような伏線を挿入してもらいたかった。ただこれらはないものねだりというものだろう。そこまで要求するのは酷というものだ。原作を読めばいいのである。
 クライマックスで死刑囚が主人公の手をつかんで真犯人を確定させる過去の出来事を見せるシーンがある。映画「リング」に同じようなシーンがあって、これは原作にはない。観客に映像で見せるインパクトは台詞なんかよりよほど大きく、回想シーンというのも当り前すぎる。そのため登場人物を超能力者にして、観客にも過去を体験させるこの脚色にとても感心したものだった。もしかすると「リング」のシナリオライターは小説「グリーンマイル」を引用したのかもしれない。

 相変わらずトム・ハンクスはうまい。「フォレスト・ガンプ」同様に短髪の彼の容貌は「ブラックレイン」の松田優作に肉をつけさせ、もっとやさしくしたイメージでかなりお気に入りなのだ。(あくまでも僕の主観であって、同調してくれる人はいないだろうが)
 共演者では長身の看守仲間・デヴィッド・モース(寡黙で頼りがいがある)と敵役の新入り看守ダグ・ハッチソン(デーブ・スペクター似でいかにも狡賢しそう)が印象に残る。

     ◇

2002/04/30

 「グリーンマイル」(スティーブン・キング/白石朗 訳/新潮文庫)  

 映画「グリーンマイル」を試写会で観た時、原作が6冊に分かれていると聞いてとてつもない大長編だと誤解していた。
 そんな長い物語をよく3時間強にまとめあげたものだ、いったい原作はどうゆう物語で映画ではどこがはしょられたのか? という感嘆と疑問がわいた。
 しばらくして一緒に観た友人が原作を買ったからというので、借りたのだが、その1冊分の薄さに拍子抜けしてしまった。6冊合わせても京極夏彦の1冊とどっこいどっこいなのだ。  
 合本にすれば値段も安くなるのに、と出版社の金儲け主義に反発してそのままずっと〈積ん読〉状態で1年以上経過してしまった(ごめんなさいね、Hさん)。  

 第1巻の〈著者のまえがき〉を読んで、分冊形式に意味があることをわかった。  
 アメリカでは新聞や雑誌に連載小説がないのだそうだ。書き下ろしというのが通常の出版形態で、キングは続きモノで本をだしたかったのだとか。最高潮でむかえたラスト、さてこの続きは3ヵ月後……てな具合で読者は続刊が発売されるまで首を長くして待つことになる。かつてディケンズが試みて好評を得た方式を踏襲した由。  
 だったら「月刊スティーブン・キング」なんていう雑誌を発刊してしまえばいいのに。  

 全6巻の副題は次のとおり。  
 1 ふたりの少女の死  
 2 死刑囚と鼠  
 3 コーフィの手  
 4 ドラクロアの悲惨な死  
 5 夜の果てへの旅  
 6 闇の彼方へ  

 当初、この本が3ヶ月ごとに出版されていたように、続けて読むことはやめて途中々別の本を挿み読みしながら、楽しもうかと思っていたのだが、ダメでした。1巻を読了すれば、当然次が読みたくなる。そういう作りになってるんだからしょうがない。それでも前半の3巻、後半の3巻と少し時間をおいて読了した。

 元コールドマウンテン刑務所看守主任・ポール・エッジコムの1932年二人の少女を暴行し惨殺した黒人・ジョン・コーフィが死刑囚として収監されてきた当時の回想録。
 コーフィは病気を癒す不思議な力を持っていた。ポールが患っていた尿感染症を治癒したり、意地悪な看守パーシーに殺されかけた独房のアイドル鼠(ミスター・ジングルズ)を生き返らせたり。
 ポールは脳腫瘍で明日をもしれない状態になっている刑務所長の妻をコーフィの力を借りて治そうと看守仲間とともに彼を刑務所から脱出させる……そして自覚する。コーフィは無実だ!  

 映画はラストになって老人ホームで余生を送る主人公の現在に時制がもどり、あっと驚くオチがつく。
 小説は作者の自由自在に現在と過去を行き来する。このタイミングが絶妙。
 ポールは過去で大物政治家の後ろ盾を持つパーシーの横暴な振る舞いに悩み、現在では自分を敵視する職員ブラッド・ドーランのいじめに恐怖する。
 それぞれのサスペンスで読者をあおってくるのだからたまらない。さすがストーリーテラーの大御所!
 確か映画は最初の少女殺しの犯人について触れていなかった気がする。小説ではコーフィの前に収監された極悪犯ワイルド・ビルの犯罪であることがあばかれる。
 老人ホームのエピソードではよき理解者の女性エレノアとの淡い恋も描かれる。文章だけ、会話だけの印象では20、30代の女性に思えてならなかった。

 各巻にそれぞれ訳者の白石朗をはじめ小池真理子、中島梓などの解説がついていることも分冊の楽しみだ。最終巻には風間賢二、吉野仁、白石朗の鼎談までつくおまけつき。




スポンサーサイト
 17、18日と久しぶりに郷里に帰る。
 薮塚温泉で疲れを癒した。
 もちろんお目当てのへびセンター(正式名称はジャパンスネークセンター)で、リアル・ジュラシックパークを楽しんだ。今回は三日月村にも行こうとしたら、休みで断念。

 20年前の劇場(映画館)、今ほとんどなくなっている。
 唯一現在もあるシャンテシネだって、新しいTOHOシネマズが完成すれば、お役目御免になるのだろう。

          * * *

2000/03/31

  「雨あがる」(日比谷 シャンテシネ)

 今日で上映が終わると知って、あわてて観てきた。それほどのキャパシティではないけれど、客はかなり入っていた。やはり最終日だからだろうか。

 観終わって、初監督の小泉氏には悪いけど、黒澤監督の演出で観たかった、というのが率直な感想。
 開巻、どしゃ降りの雨に濡れるかやぶき屋根の堂々としたたたずまいに心洗われる。「羅生門」の迫力と「赤ひげ」の静寂さを兼ね備えたオープニング。
 木賃宿で繰り広げられる旅人たちの飲めや唄えやのシーンは「どん底」、雨上がりの朝、主人公が一人森に入って剣術の稽古をする姿は「七人の侍」の久蔵、若侍たちのけんかに割って入るのは「椿三十郎」と、黒澤映画のワンシーンを思わせる引用はその後もたびたび出てくる。
 だからというわけではないが、黒澤監督だったらどう撮るだろうか、とカメラワークが気になって仕方なかった。

 黒澤監督の遺作(脚本)を黒澤組のスタッフが結集して製作された映画だから、映像のテイストは過去の黒澤映画そのもの。ただ違うのが画の切り取り方(とらえ方)だったように思う。カットの構図とつなぎの間が微妙にずれているようで、始終違和感を抱いていた。黒澤監督の場合、カットの一つひとつにもっと重みが感じられる、というのだろうか。

 まあ、しかし、ほのぼのとした雰囲気の時代劇もいいものだ。こういう世界は大好きだ。
 寺尾聡が人のいい剣の達人を好演。柔と剛を巧みに使い分けていた。
 「御法度」同様、この映画でも刀の持つ気品、重厚さがちゃんと表現されている。殿様がさやから抜いた刀を手にしてうんちくを述べるところは何ともいえない心持ちにさせる。僕はこういうシーンにうっとりしてしまう。
 殿様役の三船史郎は演技はへただが、その豪快さ、のぶとい声が魅力。この映画においてはまさに異彩を放つキャラクターになっていた。
 従者役の吉岡秀隆は時代劇調台詞の滑舌が悪く、ミスキャストに思われたが、ラスト近く、殿様の「浪人を連れ戻せ!」の命に満面の笑みで応えるあたり、彼自身の持つキャラクターが生きた。
 藩への取りたてを断りにきた家老に対して、宮崎美子演じる妻の毅然とした態度、夫への信頼を強く感じさせる台詞に目頭が熱くなる。

 ラスト、また旅に出た夫婦が山道を歩きながら、海を望むその絶景に思わず立ち止ってしまう。映画のテーマを画として凝縮した名シーンである。
 キャメラがパンして観客に見せるこの風景、高台から見る海や空の青さがもっと鮮やかで目にしみるような美しさったらもっともっと晴れ晴れした気持ちになっただろう。


2000/03/30

 「ボイスレター」(渋谷東急)

 パトリック・スウェイジ主演のミステリ映画という認識しかなかった。最後まで犯人がわからないと某映画評にあったので、「L.A.コンフィデンシャル」「交渉人」みたいな謎解き(犯人当て)の面白さが味わえるのではないかと思ったもののあまり期待していたわけではない。
 それほど話題になっている映画でもないのに、渋谷東急最終回は多くはないけれどそれなりのお客さんでびっくり。

 4人の女性とボイスレターのやりとりをしている無実の死刑囚が、看守のイタズラによるテープの入れ替えで、4人のうちの誰か(嫉妬深い女性)から恨みをかってしまうというのが発端。
 その後、無実が証明され、晴れて出所した主人公が、お詫びと釈明のために、女性たちのもとへ訪ねることになるのだが、最初に訪ねた女性が何者かに惨殺される。無罪を勝ち取ってくれた女弁護士も同じ手口で殺され、直前に被害者に会っている主人公はまたもや殺人の容疑で警察に追われるはめにおちいってしまうのだ。
 果たして主人公は真犯人を探し出すことができるのか?

 主人公があっけなく出所するまでは事件に巻き込まれる段取りでしかないから、殺人事件の目撃者がでてきて、安易に判決が覆されるくらいのものなら、そもそもどうして無実の主人公に死刑判決がくだったのかなんて考えてはいけないのだろう。
 当初4人の女性から犯人を探しだすのかと思っていたら、二人は中盤までに殺されてしまって肩透かしをくった感じ。
 残った二人の女性、一人は「出所したあなたに興味はない」と早々に主人公に別れを切りだし去っていき、もう一人は主人公の不実に怒り狂いながらも犯人探しに行動をともにする。

 この展開なら〝映画の法則〟からいっても犯人はわかったようなもの。だが、クライマックスにむけいろいろとひねりをきかせてこちら判断をぐらつかせる演出が心憎い。
 当てがはずれた僕は終盤一気呵成にラストまでなだれこむ展開に犯人外部説まで唱えしまう始末。 
 やはり真犯人は最初に思ったとおりだったが、窮地に追い込まれた主人公の救われ方にかなり驚いた。序盤に張られた伏線がこんなところで効いてくるとは!すっかり忘れていました。「お見事!」と唸るしかない。
 バッドエンドを予想していた僕としては、納得のいく決着のつけ方になった。

 渋さの増したオールバックのパトリック・スウェイジは一見スティーブン・セガールみたい。


2000/03/24

  「スペーストラベラーズ」(試写会 新宿東映)

 19:00開場の試写会に30分も早く着いたにもかかわらず、会場前から横道へすでに行列ができていて、裏道まで続いていた。お客さんはというと、中にはカップルもいるけれど、ほとんどは女性の二人連れだ。さすが金城武人気。
 「踊る大捜査線-The Movie-」の本広克行監督の満を持した劇場用映画第2弾ということで一人で行った僕はほとんど場違いという感じ。

 銀行強盗の話なのになぜ「スペーストラベラーズ」なんてSFドラマっぽいタイトルかというと、強盗3人組の一人が大のアニメファンで、彼が今ハマっているアニメが「スペーストラベラーズ」という番組。これが後で物語に大きくかかわってくるのである。そのオリジナルアニメも挿入されてなかなか興味をひくオープニングとなっている。

 孤児院出身の3人組(金城武、安藤政信、池内博之)が用意周到のもと銀行強盗を企てるが、行動が次々と裏目にでて、人質をとってたてこもらざるをえなくなる。銀行を包囲した警察も情報が錯綜して犯人を特定できない。そこで3人組はたまたまその場にいあわせ人質になったテロリストの指示を受けて、他の人質たちも仲間に引き入れ、偽の情報を流し、警察を混乱させる計画にでる……というハチャメチャコメディ。「踊る大捜査線」の世界を犯人側から描いたと言えようか。
 芸達者な役者(筧利夫、鈴木砂羽、甲本雅裕、武野功雄、深津絵里)を揃え、その絶妙なコンビネーション、ドタバタぶりに会場は爆笑の渦だった。爆笑の後、拍手まで飛びだすのだからかなり大受けだ (ロングラン中、2番館で観た「踊る大捜査線」の観客の反応を思いださせる)細かいところでいろいろと不満はあるがクライマックスまでは、とにかく笑わせてくれて大いに楽しめた。
 ところがSAT(特殊急襲部隊)の強行突入で仲間一人を失った二人が「明日に向って撃て」よろしくピストル片手に警察に立ち向かって行く姿(俯瞰のストップモーションで捉えた彼らの引きの絵は印象的)の後のエピローグには失望してしまった。

 人質の一人で3人組に特にシンパシーを抱いた女子銀行員が、警察隊に突入していった二人(その後どうなったかは全く語られない)に想いをはせる感傷的なシーンがかなり長く続く。観客を感動させようという意図がありありだ。
 本広監督は笑いの後に必ず感動(泣き)を入れないと作品として成り立たないという信念があるのだろうか?「踊る大捜査線」も事件が解決してからの長い長い感動エピローグに辟易したもんだ。
 感動とか泣かせがいけないというわけではなく、とってつけたような展開だからとても残念に思うのである。今の若い人はこういうのが好みなのだ、これがヒットの要因さと言われてしまうと返す言葉がないけれど。

 人質も仲間に引き入れ、互いの友情も芽生えたことだなんだから、人質と強盗団が最後まで力を合わせ、いかに何もなかったように警察の包囲網から逃げ出すか、そのスリルとサスペンスをクライマックスにもってくるべきではなかったか。テロリスト役の渡辺謙が途中退場してしまったり、金庫の中に退避してしまった支店長(大杉漣)と警備員(ガッツ石松)が最後まで主役にからまないうなんて、全くもってもったいない。
 「踊る大捜査線」を知っていればもちろんのこと、知らなくてもかなり楽しめる映画ではある。

     ◇

2000/03/20

  「ケイゾク/映画 Beautiful Dreamer」(ニュー東宝シネマ1)

 TVシリーズ「ケイゾク」が正式に映画化されるのを知って、一番期待したのは、方向性もタッチも全く違うけれど「L.A.コンフィデンシャル」みたいな上質なミステリ映画の誕生だった。
 柴田と真山の凸凹コンビ(および捜査二課メンバー)によるギャグの応酬、独特な映像テクニックはそのままに本格的な(本格派ではない)ミステリ映画になったら、日本映画史に残る斬新なものになるんじゃないかと思ったのだ。

 タイトルに「Beautiful Dreamer」なんておよそ「ケイゾク」に似つかわしくないサブタイトルがついてがっかりきた。「コナン」や「金田一少年の事件簿」みたいなストーリー(南の島に関係者が集まって一人ひとり殺されていく)も期待をしぼませるのには十分だった。
 堤幸彦監督は自身が演出したTVドラマ「金田一少年の事件簿」の映画化作品でも舞台を香港にして一大ロケーションを敢行したのは記憶に新しい。TV出身の監督にすれば、映画はやはり〝お祭り〟<フルコースメニュー><見栄えがいいもの>という認識なのだろうか。装飾を豪華にすればいいという問題でもないと思うのだけど。
 映画だからこそ、日常(「ケイゾク」の舞台は都会がよく似合う)に潜んだミステリアスな犯罪とその解明の模様を二転三点する練り込んだ脚本と独特な映像でフィルムに構築して欲しかった。
 クスクス笑いあるいは大爆笑の中で、クライマックスに向けての謎解きの伏線を見逃(聞き)さないように、一時もスクリーンから目が離せない。で、あっというドンデン返しがあって真犯人がわかる仕組み。僕はそういう展開をのぞんでいた。
 真犯人がわかってからはハードボイルドタッチ(かつての遊戯シリーズみたいに)で警察VS犯人の戦い(銃撃戦)を描いてもいい。

 映画は昨年末に放映された「ケイゾク/特別編」の後日談として始まる。
 上映時間約2時間の3/4(1時間30分)は映画用に新たに設定された事件がTV同様柴田のボケと真山のツッコミで笑わせながら描かれる。犯罪のトリック自体は稚拙なもので、始まっていくらもしないうちに犯人がわかってしまったのはちょっと残念だが 「ケイゾク」の雰囲気はうまく表現されている。これはこれでいい。ただこれだけのエピソー ドでラストまでひっぱるのは無理というもの。当然事件が解決してから大きなひねりがある。

 問題なのはそのラスト30分だ。TVシリーズから執拗に続いている殺人鬼・浅倉と真山の対決が描かれ、やっと戦いに終止符をうたれた(らしい)。が、これが、どうにもよくわからない展開なのだ。
 このエピソードはそれまでの物語を拒否するかのような形で追加され、TVシリーズを知らない観客はもちろん、観ていた人だって、朝倉が何者で何をしたかったのかわからない。
 観客に媚びたあまりに説明過多な浪花節ラストもイヤだけれど、監督の一人よがりなわけのわからないものも困ったもんだ。TVシリーズ、スペシャル、映画と観てきて、何よりスタッフがなぜあそこまで浅倉に固執するのか僕にはわからない。

 「ケイゾク」の凝った映像はTVドラマの中でも特筆ものだろう。ビデオでハードボイルドが撮れるというのは何とも心強かった。TVは名キャメラマンを生み出せなかったと言われて久しいが、堤幸彦の片腕として数々の作品に参加している唐沢悟はその範疇に入るのではないだろうか。
 かなりフィルムの質感に迫った映像設計で、「ケイゾク」の映画化はその点でも期待が大きかった。ところが、TVと同じカメラワークでもどうもキレが感じられないのである。「ケイゾク」の映像はビデオだからこそ堪能できるもの、逆の意味でフィルムとビデオの違いを思い知った。

 木戸彩(鈴木沙理奈)の元恋人に大阪弁で啖呵をきるところはゾクゾクきた。

     ◇

2000/03/08

  「DEAD OR ALIVE 犯罪者」(ビデオ)

 深作欣二監督の「仁義なき戦い」シリーズはフォローしなければと思いつつ、ずいぶん前に第1作のビデオを借りて以来ご無沙汰している。やくざ映画が好みでないということもあるが、なにより出演者の顔ぶれに躊躇してしまうのだ。
 菅原文太、松方弘樹、梅宮辰夫…一人ひとりは好きな俳優なのに一緒になるとあまりに濃すぎて引いてしまう。

 70年代にブームを巻き起こした実録やくざ路線は劇場用としてはすたれてしまったが、中国マフィア、台湾マフィアとの抗争を描いたニューウェーブものがオリジナルビデオとして人気を博している。その手のビデオにおける2大俳優とも呼ぶべき竹内力、哀川翔が初共演し、バイオレンス描写に定評があって、現在邦画界で最もエネルギッシュ に作品を発表している三池崇史がメガフォンをとったのがこの映画である。
 竹内力、哀川翔と聞いただけで、胸焼けをおこしてしまいそうだが、公開されてから話題沸騰の衝撃のラスト見たさにさっそくビデオを借りてきた。

 新宿歌舞伎町を舞台に、地元やくざ、中国マフィア、中国残留孤児3世グループのギャング団の三つ巴の抗争に一匹狼の刑事がからむ。暗殺、報復、裏切り、そして殺戮。よくあるストーリーではあるが、最後は妻子を殺された刑事(哀川翔)と仲間を失ったギャングのボス(竹内力)の一対一の戦いとなって、ボルテージは一気にたかまり、衝撃のラストをむかえるところが新機軸だろうか。いつかどこかで観た映画の1シーンが様々に引用されている。
 海沿いの河口べりでうんこ座りした竹内と哀川がカメラ目線でカウントを数え、本編が始まってからのバイオレンスとエロスに満ち溢れた猥雑な映像フラッシュは、バックに流れるヘビメタとシンクロしてかなりの興奮もの。
 プロローグが終わると、逆にカメラは固定され、ほとんど1シーン1カットのような雰囲気で静かに役者たちの演技を凝視する。で、一癖二癖ある役者たちが各々楽しんで自分の役を演じているのが何とも愉快だ。
 冒頭だけの出演にもかかわらず印象度バツグンの麻薬中毒の中国マフィア・大杉漣。石橋蓮司のどこかぶちぎれたやくざの親分。ギャング団NO.2として確かな存在感を見せる小沢仁志。
 屋上で笛作りに精を出す警察署長の平泉成。本田博太郎のやくざとつながっている小心刑事(相変わらずの怪演ぶり!)。子連れの刑事が何とも情けなく生活感あふれる寺島進。
 中国マフィアの親分に扮した鶴見辰吾など、流暢な中国語を駆使して、途中まで誰だかわからなかったほどだ。刑事の、ちょっと疲れた妻をけだるそうにこれまたリアルに演じるのは杉田かおる。画面上で一緒になることはないが、この二人の共演は「金八先生」以外では初めてではないか。
 殺伐とした映像が続く中、ギャング団のボスの弟がアメリカ留学から帰ってきて、仲間たちとパーティーに興じる雨の降る干潮時の海岸風景に、やるせない詩情を感じた。

 マジで考えていけないのだろうが、ラストはの戦いは竜虎の決戦(あるいは「怪竜大決戦」)なのか? とすると竹内力の投げる球が説明できるのに、と思ったら、彼の名前は龍というのだった。




 昨日(15日)は、今日と休みを換わってもらって、午後、渋谷区文化総合センター大和田へ。
 14時30分から練習室で「木部与巴仁×森川あづき 第7回未来式 ミライシキ」を観た。
 昨年だったか、一昨年だったか、BC二十世紀で開催した「伊福部昭二十一世紀」というトークセッションがあった。司会が木部さんで、自身は生ギターをバックにキベダンスを披露した。キベダンスの創出者だ。
 木部さん、伊福部昭には、現代音楽家として私淑しているわけだが、特撮に関しては馬淵薫に造詣が深い。僕も馬淵脚本作品はどれも大好きだから、話が合うのだ。

 ピアノの森川さんが急遽出演できなくなったのは残念だった。ただし、その代替として、木部さん自身が詩を朗読したテープをエンドレスで流して、即興で踊ったのだが、これがよかった。

 終演後、カラオケで時間をつぶして、18時からの談四楼師匠の独演会(下北沢)へ行こうとしたのだが、疲れが一気にでてきて、そのまま帰宅、早めに就寝した。

          * * *

2000/02/02

 「シュリ」(シネ・ラ・セット)

 魚の名称(そしてそれが北朝鮮テロリストの暗号になっている)からとったタイトルにセンスを感じる。ハリウッドに負けないアクション映画ということで人気を呼んでいる作品であるが、同時に語感のいいタイトルであまり馴染みのない韓国映画というイメージをとっぱらい、特に女性たちの足を運びやすくしていると思う。

 内容についてほとんど知らずに観たのであるが、これは韓国版「ブラック・サンデー」であった。 スタジアムに特殊爆弾を仕掛け、観客もろとも国家元首を殺害しようと画策するテロリストとそれを阻止しようと奮戦する主人公の情報部員という構図。そこにテロリストの女性工作員と主人公のラブロマンスを挿入したのがこの映画のミソであり、対象を女性層まで広げた要因だろう。
 北朝鮮の韓国に対する様々な工作は常日頃ニュースで目にしている。だからこそ物語は(細部は別にして)リアルに受け入れられる。

 冒頭、北朝鮮の一女性が特殊工作員に養成される様をできるだけ台詞を排除した映像だけでたたみかけるように見せてくれる。監督のこの映画にかける意気込み、力量が感じられる素晴らしいシークエンスだ。銃撃シーンの迫力も特筆ものである。
 映画「ブラック・サンデー」は未見であるが、小説にはとても感銘を受けた。何よりテロリスト側の心情が詳細に描かれていて、スタジアムに集う大統領を含めた何万という観客を殺害しようとするテロリストを肯定してしまったほどである。
 本作でも工作員のリーダーがその理由を国家の分断、北の貧しい生活にあることを熱く語るシーンがあるのだが、その多くは自国のトップの失政に起因するのだからあまり説得力はない。(ちなみにこのリーダー役、「レオン」のゲーリー・オールドマンを意識した西岡徳馬って感じで非常に印象的だった)ラストに用意されている主人公と女テロリストの悲恋も、二人の関係を型どおりにしか描いていないからそれほど胸に響かなかった。

 残念だったのは事件が解決してからのラストまでがやけに長く、おまけにあまりに感傷的だったこと。個人的な好みの問題かもしれないが、観客の涙を誘おうとする意図がありありで、ちょっと引いてしまった。
 が、韓国がこれだけの娯楽アクション映画を製作したことに対してアジア人として喜ばしく、日本人としては脅威、嫉妬を感じてしまった。日本の映画人たちはこの映画をどう観ているのだろうか?
 当時を知らないから勝手な憶測なのだが、かつて「七人の侍」が公開された時と同じ興奮をこの映画は韓国の人に与えているのではないだろうか。
 とにかくすごい映画である。

     ◇

2000/02/05

 「海の上のピアニスト」(丸の内ピカデリー)

 有楽町にあるクリニックに行った帰り、よく利用するガード下のチケット屋で丸の内ピカデリーの株主優待券(1,400円)を購入し、大ヒット中の「海の上のピアニスト」を観る。
 まわりはほとんどカップルか女性の二人連れで男一人が何となく場違いな気がする(「タイタニック」の時みたい)。

 この映画はファンタジーだ。そう考えないと船上に捨てられた孤児が全く音楽に親しむ環境にない、あるいはそういった教育を受けていないにもかかわらず、ある日突然ピアノを弾いてしまう設定、その他もろもろ無理が生じてしまう。
 幼い頃、母親に語ってもらったおとぎ話のように映画の語り口、主人公1900が紡ぎだすピアノに酔いしれればいい。

 ストーリーとか、展開がどうのこうの言う前に、純粋に音楽が持つ人の心を感動させる力を改めて思い知らされた。音楽は作りだすものではない。見たもの、感じたことを素直に表現する媒体だということをしみじみ感じた。
 1900が映画の語り部である友人トランペッター・マックスに豪華客船のパーティーに集う人々の中から、これはという人を選び出し、彼(彼女)にインスパイアされた物語を語り、イメージした曲を聴かせるくだりは音楽の真髄を垣間見た思いで心踊った。だからこそ初のレコーディングで窓の外にいた少女に一目ぼれした1900が弾くピアノの甘い調べに涙してしまうのだ。
 そして何より大地に住む人間として、金を儲けて家を建てたり、高級車を乗り回したり、結婚をして、子どもをもうけたりという、日頃当たり前に思っていることも、立場の違えばいかに意味がないかということも思い知らされる。
 とにかく泣けた。ラスト近く、鳴咽をあげそうになってこらえるのに苦労した。
 エンディングのロールタイトルで少女にささげたピアノ曲が流れたら、たぶん大泣きしていただろう。

     ◇

2000/01/10

 「新選組」(ユーロ・スペース)

 以前から気になっていた市川崑監督の実験的な異色作「新選組」をやっと観ることができた。
 セルアニメでもCGでもない、名づけて〈ヒューマン・グラフィック崑メーション〉。[三次元的立体漫画映画]と説明されている。原作である黒鉄ヒロシの原画を拡大コピーして作った切り絵のキャラクター人形を操演、撮影したというまことにユニークな時代劇である。

 製作はフジテレビ。TV用に製作されたにもかかわらず、出来がよかったということだ。
 放映前に単館ロードショーされた「帰ってきた木枯し紋次郎」の続編企画がずいぶん前に発表されたが、それが紆余曲折を経て、この「新選組」になったとおぼしい。

 コミックを映像化した場合、いわゆるアニメ以外には全く動かない原画をキャメラ操作で動きがあるように表現した作品がある。大島渚監督が白土三平の劇画を映画化した「忍者武芸帳」や石森章太郎のTVシリーズ「佐武と市捕物控」などがあるが、原画の切り絵人形というのは見聞したことがない。予算については知らないがまことに手間のかかる撮影であったことは予想できる。
 キャラクター人形の操演のほかに原画や実写との合成を駆使して、一つの世界を構築しているの確かである。

 冒頭、池田屋騒動が描かれるが、その顛末後に池田屋から赤い血が流れて画面全体を覆うカットなど異様な雰囲気が醸し出されていて目を瞠った。
 声の出演は市川組常連の役者ばかり。中でも中村敦夫は黒鉄原画の四角張ったごつい顔の近藤勇にぴったりであった。端正な二枚目(というのをこの映画で知った)土方には中井貴一。
 とすると「御法度」のビートたけしは原作のイメージにはほど遠い、全くのミスキャストになるのですな。

 「新選組血風録」を読んでいたので物語はよくわかった。ただ、こちらのコンディションが悪く、途中で睡魔に襲われ、何回か意識がなくなったことから、前評判ほどのおもしろさではなかったというのが率直な感想だ。本当におもしろかったら眠気など吹き飛んでしまうだろう。
 ラスト沖田総司と黒猫のエピソードで、ふと気づくと「完」のタイトルになっていた。ほんの一瞬もことだったが、とてもくやしい。傑作かどうかはビデオになってからもう一度確認したい。
 市川監督流のシャープな映像は健在。80歳を越えたとは思えない瑞々しい映像の数々で次作の「どら平太」が大いに期待できる。

 ユーロ・スペースでは「新選組」公開に併せてレイトショーで市川監督の過去の映画を数日ごとに上映している。その第1回が「雪之丞変化」。この情報を知っていたらと劇場で地団太踏んだ。ラストは「木枯し紋次郎」なのでこれはぜったい押さえておきたい。

     ◇

2000/02/24

 「ストーリー・オブ・ラブ」(渋谷東急)

 何年前になるのだろうか、こんなことがあった。かみさんがロブ・ライナー監督の前作「恋人たちの予感」のビデオ(日本語吹替え版)借りて夜一人で観ていた。僕自身はこの「恋人たちの予感」について、名作「スタンド・バイ・ミー」監督の新作というくらいの知識しかなく、恋愛ものには興味がわかないので、どうでもよかった。ただ、何となく映画はアメリカ人の"普通の生活"を描いていて、登場人物たちの立ち振る舞い、会話の全てが重要な要素になっていると感じたので、なぜ日本語吹替え版を借りてきたのか、吹替え版だと映画の魅力が半減するんじゃないかとを何気なく尋ねた。するとかみさんは突然怒りだしたのだった。
「私は家事で忙しいの!あなたが何も手伝ってくれないから、画面観ていなくてもストーリーがわかるように日本語吹替えを借りたんじゃない!!」
 その後彼女の日頃の不満が爆発して、大喧嘩になり……以下略。

 わが家では年に数回派手な夫婦喧嘩をしてしまう。外ではかっとなることはない僕も相手がかみさんだと怒鳴ることもたびたびだ。相手はよけいに無口になり会話のない日が何日も続く。まあ、だいたいはこちらが悪いのだし、最後はあやまるのだが、そんなことが何度も続くと、いい加減うんざりしてくる。
「全部オレが悪いのか?君はちっとも悪くないのか? 君の言い分を聞いているとまるで自分中心に地球が 回ってるみたいじゃないか」

 ブルース・ウイリスとミシェル・ファイファーのやりとりは、だからけっして他人事ではない。台詞の一つひとつが胸に突き刺さる。ミシャル・ファイファーが時折見せるぶすっとした沈んだ表情。同じ表情を実生活で何度見ていることか。コメディじゃなかったら、正視できないですよ、この映画。

 夫婦の離婚、その過程を描いた映画に「クレイマー・クレイマー」があるが、僕は別の意味でこの映画を思い出していた。
 ごく普通の家庭の朝食風景。親子の会話。友人夫婦とのレストランでの夕食。ワイングラスが触れ合う音、食事をしながら繰り出される早口な英語の台詞、食器とフォークのぶつかる音等々。何気ない描写がいい。
 二人の出会いから妊娠、出産、子育てを経て、現在に至るまでの変遷が、端的に描かれる。時の経過を二人の髪型の変化でみせてくれる。何より評価したいのは、わずか1時間半の時間で夫婦であること、親子であることの歴史がちゃんと描かれていることだ。(「秘密」の脚本家、監督に見せてやりたい)この歴史があるからこそ、ラスト、ミシェル・ファイファーの長台詞が重みを持つのである。

 原題は「Story of us」。このusは主人公夫婦だけではなく、子どもたちを含む家族を意味していることをラストの台詞で知って、感動を新たにした。
 いつもはヒロイックな役柄が多いブルース・ウィリスの普通人ぽさがいい。エリック・クラプトンのアコースティックな主題歌に聴き惚れた。

     ◇

2000/02/25

 「恋人たちの予感」(ビデオ)

 洋画の場合、英語の原題をそのままカタカナタイトルにしてしまう、あまりの芸のなさにあきれてしまうことがたびたびあるが(007の最新作、『ワールド イズ ノット イナフ』なんて配給会社のセンスを疑ってしまう)が、逆に日本語のオリジナルタイトルだと内容がよくわからないというのもある。
 「恋人たちの予感」の原題が「When Harry Met Sally」だと知り、内容を的確に表していると思った。

 1977年、大学卒業時に出会った男女(ハリー&サリー)が紆余曲折の末、89年に結ばれるまでの十年ちょっとの断面をスケッチしていく。主演のメグ・ライアンとビリー・クリスタルが、ヘアスタイルと衣装でだんだんと年齢を重ねていき、それがいかにもリアルなので驚いてしまった。登場してきた時、ほんとに二人は大学生に見えたもの。時代の変遷にともなう人物の風貌の変化って表現するのはけっこうむずかしいと思うのだが、うまくいっている。こういうのってとても大切なことだと思う。
 「ストーリー・オブ・ラブ」でも感じたが、ロブ・ライナー監督はこの手の演出がうまい。

「男女の間に友情は存在するか?」
 この問題については大学時代にサークルの連中とよく議論したもんだ。僕は高校時代から女友達(とういうか、男子高校だったから中学時代からの友人か?)がいて、さまざまな話をしていたし、男女の恋愛の介在しないつきあいは尊重すべきだという考えを持っていたので「存在する」派だった。ところが、彼女たちが結婚したとたん没交渉になってしまって自分の考えもあやしくなった。こちらにそういう気持ちがなくてもダンナがヤキモチやけばそれまでだ。
 後半のプラトニック・ラブに固執する男の心情はとてもよくわかる。僕が彼でもものすごくこだわると思うのだ。この点、女性というのは気持ちの切り替えが早い。

 この映画のユニークなところは物語の要所要所に熟年世代の夫婦へのインタビューを挿入していること。夫婦は互いの出会いをカメラにむかって幸せそうに語るのである。 「ストーリー・オブ・ラブ」でも同様に主役の二人がインタビューに答えていて、「恋人たちの予感」との関連性を強調している。

 80年末に若い男女の恋の経過、90年代末には倦怠期の夫婦の危機と描いたロブ・ライナー監督には、もう1つ10年後に熟年夫婦の愛と性の問題を扱ってもらいたい。
 インタビューされるのは結婚したてのラブラブ中の男女。「恋人たちの予感」と全く逆のパターンになる、というわけである。




 最近、このブログ、手を抜いていないか。みんな転載ばかりではないか。
 あなた、そう思っているでしょう?
 はい、正解です。
 実は、もう疲れがたまりにたまって、帰宅して、すぐ横になって、TVを見ているといつのまにか寝てしまう。目を覚ますと早朝、すぐに出勤支度をしないといけなくなる。そんな毎日が続いています。

 もうひとつ、HPのレビューをとにかくどこかに保存しておかないと、いつ閉鎖されるかわからないという理由もあります。

 とにかく、体制を立て直さないと。
 本当なら、小説も書いていなければならないのに、全然筆が進んでいない。
 尻に火がついた状態なので、秋には一つの答えを出します。

          * * *

2000/01/11

 「天国と地獄」(ビデオ)

 娘に「踊る大捜査線 -The Movie-」の元ネタをみせてやろうと借りてきた。もう何度目の鑑賞になるだろうか。

 前半は権藤邸における密室劇で、そのまま舞台劇として通用する。後半部分の内容を変えて「天国と地獄」を舞台化しようとする演劇人は現われなかったのか?
 映画は犯人を特定するまでがむちゃくちゃ興味をそそられる。警察の犯人検挙までの捜査方法をこれほど具体的にリアルに描いた映画はこれが初めてではないか。僕自身は映画「砂の器」で刑事たちが二人一組になって、地道に事実を拾い集めていく捜査の過程、あるいは刑事が一同に集まって情報交換する捜査会議の実態を知り、TVの刑事ドラマにはないリアルさが新鮮に感じたのだが、すでに黒澤監督は具現化していたのである。
 にもかかわらずTV界は「天国と地獄」の世界を踏襲せず「七人の侍」のチームワーク部分を引用して「七人の刑事」が生まれ、それが基本(伝統)となって「太陽にほえろ」「大都会」に続いていく。「踊る大捜査線」はピンクの煙以外にもちゃんと本家のいい部分を引用しているということだ。身代金に使用する札のナンバーを一枚一枚チェックするため徹夜するところなんて「踊る…」の水野美紀の台詞を思い出して笑ってしまう。

 これまで特に感じなかったのだが、三船敏郎演じる靴職人あがりの重役・権藤がいい。冒頭他の重役から新商品として発売する安価な靴をバラバラにしてダメなところを指摘するところ、犯人に渡す身代金の入ったバックに特殊装置を組み込む際の、「昔の経験が活かせる」と自らバックを手にとって加工するしぐさにプロの男を感じてしまう。
 今回初めてわかったのが、三船の息子役は江木俊夫だったということ。熊倉一雄も市場の男で登場する。

 犯人特定までは映像にくぎづけになるのに、その後の展開がどうもピンとこない。一つは麻薬常習者の巣窟シーンが現実にありえないこと(昭和30年代の横浜に本当にあったのか?)。もう一つは犯人の権藤に対するどうしようもない恨み、犯人を極刑にしようと熱い正義感ぶりを発揮する刑事たちの心情がいまいち理解できないからかもしれない。
 つまりどちら側にも感情移入できないまま、権藤と犯人の対立という構図でこちらがあっけにとられたまま物語が唐突に終了してしまう、その違和感がどうしてもぬぐえないのだ。

     ◇

2000/01/30

 「どん底」(ビデオ)

 ラストが鮮やかだ。
 なんだかんだと小競り合いの続くボロ長屋の住民たちが一つにまとまり、馬鹿囃子で最高調に盛り上がったその時、住人の一人(役者)が裏で自殺したとの連絡が入って、住民のリーダー格的存在の喜三郎がポツリつぶやく。
「ちぇっ、せっかくの踊りをぶちこわしやがって、馬鹿野郎!」
 拍子木がカチンと鳴って「終」のタイトル。あっけない幕切れだ。
 徐々に盛り上げていって、一気に突き離す感覚、これは黒澤監督の「ボレロ」ではないか。
 ゴーリキーの有名戯曲を江戸に移して映画化した作品であるから、全編役者たちの白熱した演技が見物なのだが、ラストの馬鹿囃子のシーンが特に気に入った。役者たちの見事なアンサンブル、そして踊るみんなの表情がたまらなく素敵で、観ているこちらもついつい身体を動かしたくなる。
 嘉平役左卜全のひょうひょうさ、喜三郎役三井弘次の口跡、留吉役東野英治郎が馬鹿囃子の時に合いの手を入れる際のうれしくってたまらないという表情が出色。香川京子が美しい。




1999/12/09

 「赤ひげ」(ビデオ)

 「赤ひげ」が黒澤映画の集大成ということは知っていた。陰りをみせはじめた日本映画界に活を入れるべく、渾身を込めて製作した映画である。ビデオ化されてから観なければいけないと思いつつ、結局今まで借りなかった。ビデオが「七人の侍」と同じく上下2巻組。いわゆる娯楽巨編でなく、黒澤のヒューマニズムが色濃く表れているというので、今まで敬遠していたのだ。
 土屋嘉男の「クロサワさーん!」を読んで、減量に苦しんでいる痩せた土屋嘉男を観たくてやっとビデオを借りてきたのだが、ちょうど「赤ひげ」の音楽を担当した作曲家・佐藤勝の訃報にふれ、追悼を兼ねた鑑賞になった。

 いくつもの瓦屋根をアップで撮ったタイトルバックにテーマ曲が流れ、途中から売子の声がダブってくるところで、もう「赤ひげ」の世界に引き込まれてしまった。
 ストーリー、テーマを云々するよりも、まずその美術(セット)に惚れ惚れしてしまう。
 養生所の壁や廊下がいかにも使い古されたといった作りで、それを見ているだけで江戸の情緒に触れた思いがする。小道具一つひとつを含めてセット然したものが全く感じられず、「七人の侍」の経験が活かされている。あるいは小石川近辺の通りの土埃。これなんか「用心棒」そのものだ。

 登場する人物もそれぞれ実にリアルだ。ちょんまげもかつらをつけている感じがしないところがいい。養生所の賄婦たちの小汚さ、猥雑さなんていかにもって感じで、女優が演じている感じがしない。
 佐八のエピソードでは感情の表現にうまく風鈴の音が使われている。回想シーンの大地震で家屋が倒壊するショットはスペクタクル映画級の大迫力。狂女に襲われる主人公の緊迫したシーンには息を飲んだ。
 しかし台詞に関してはあくまでも現代語なのだ。江戸末期に「膵臓癌」なんて名称があったのだろうか?仮に使っていたとして腹部を触ったりするだけで、癌が発見できるものか?

 圧巻は後半のおとよと長坊のエピソードである。養生所に引き取られてから病気が完治するまでの間おとよの目にライトがあてられ、暗闇の中でのその眼の輝きが異様な怖さを際立たせた。また図師佳孝の天才子役ぶりが堪能できる。僕にとっては日本テレビの「飛び出せ!青春」の落ちこぼれ高校生の印象が強いが、黒澤映画「どですかでん」の主人公の前にこんな印象深い役をやっていたなんて驚きだ。原作では長坊は死んでしまうが、黒澤監督は殺さなかった。映画はそうでなくてはと思う。現実だけを見せられても辟易するだけだ。
 三船敏郎の赤ひげをなでるしぐさがいい。「七人の侍」と同じく年に一度くらいの割合で鑑賞する映画になりそうだ。

     ◇

1999/12/23

 「御法度」(丸の内プラゼール)

 何よりキャスティングに大島渚の才能を感じた。主要キャストはもちろんだが、花魁に神田うのを起用し、一言も台詞をしゃべらせないところなんてさすがではないか。
 坂本龍一のテーマ曲は美しい調べでとても印象に残る。だからこそここぞというところで使用すればいいのに、冒頭から何度も流れて、くどすぎる。
 ナレーション(佐藤慶)、サイレント映画風字幕による状況説明、土方(ビートたけし)の独白、映像と台詞以外になぜこうも物語を語らせたがるのか、理解に苦しむ。字幕は無声映画の頃の書体で味があり、効果的に使用されているので、これだけで〝語り〟は十分なはず。特に土方の独白は、それこそ表情やしぐさで表現すべきであり、何も言葉で説明することはない。
(若い人にも観てもらいたいとの監督の要望で、わかりやすい演出をしたのか、それとも原作がそもそもそういう語りになっているのか)
 前半、そういう思いがあって、少々違和感を抱いたが、全体の印象にしたら些細なことだ。
 剣道の稽古時の打ち合いの激しさ、死体の胸から腹にかけてざっくり裂けた刀傷を見せることにより、真剣の重厚さ、怖さが観客に印象づけさせる。TV時代劇によくある竹光の刀ではない本物の斬りあいが音と所作で堪能できた。
 クライマックスの幻想シーンが素晴らしい。舞台がセットなのかロケなのかわからない。まさしく幻想。
 噂どおりトミーズ雅がいい。坂上二郎の口跡も聞いていて惚れ惚れする。
 しかし何と言ってもラスト、開の桜の木を一刀で斬るビートたけしがかっこいいし、その様が美しい。




1999/11/02

 「ワイルド・ワイルド・ウエスト」(試写会 東京厚生年金会館)

 月刊「スターログ」誌新創刊号に砂漠の谷から巨大なクモみたいなロボットが出現し、それを見上げる小さな人間の写真が掲載されていた。それが今度お正月映画として日本で公開される「ワイルド・ワイルド・ウエスト」で、最近では珍しい西部劇と知り、興味がわいた。別に西部劇だからというわけでなく、西部劇とSFXの融合に新しい作劇を感じたのだ。監督が「MIB」の人で、主演はウィル・スミスということも期待は大きかった。
 その試写会があるってことで東京厚生年金会館へ行ってきた。

 タイトルバックは凝った画面構図と西部劇らしいテーマ曲でなかなかの始まりであったが、その後はちっとも盛り上がらない。チラシには主役ふたりのジョークの連発とあるが、客は全く反応なし。僕自身はそれなりに笑えたけどその声がむなしく劇場内に響くのだ。
 肝心のローテク風SFXはやけに合成が目立ち、今いちノレなかった。いや、メカの出来、動き自体はよくできている。たとえば昔のアクション映画なので、列車の上、飛行中の機内なのがロングではスタントの実写、アップではリアプロジェクションを使用して、暗い背景をバックにして役者が演技することが多々あった。その場合、暗い背景がいかにも嘘っぽくて、白けたものだ。同じことがこの映画のSFXに言えるのである。
 随所に映画のパロディがみられた。「駅馬車」、「スピード」、「ET」、憶えているだけでとりあえずこれだけ。他にもたくさんあった気がする。(まっ、パロディなのか単なるパクリなのか)  クライマックスもそれなりのもので興奮も高揚感もなかった。そんなわけでエンドタイトルに流れるウィル・スミスの主題歌につきあう気にもなれず、足早に劇場を後にしたのであった。本当にこの映画がこの夏、アメリカで大ヒットしたのだろうか?

     ◇

1999/11/03

 「リトル・ヴォイス」(シャンテ・シネ)

 「ブラス!」の監督マーク・ハーマンによるある種<スター誕生>的ストーリー、ヒロインがスタンダードナンバーを熱唱する音楽映画だと知り、興味がわいた。
 映画サービスデーということもあるのだろうか、やはり人気がある映画はすごい。1時間前なのにすでに列ができていた。

 予告編が終わり、本編が始まった。タイトルが「デザイア」と出て、原題と邦題がずいぶん違うなと思った。海辺にユアン・マクレガーが歩いてくる。浜辺になぜかエクレア(?)が置いてある。手にとって、ながめるユアン。クリームをなめてみる。一気にそれをほうぶるとなんと針がユアンの頬を突き刺す! 針には糸がついていて、ユアンはそのまま海にひきずられていき消えてしまうそこでキャスト・スタッフのクレジットが流れる…。「人間釣り」のオチというわけか。???状態でいると今度はちゃんと「リトル・ヴォイス」が始まったのだった。 後で知ったのだが、これは同時上映の短編映画でした。

 この映画はイギリスで大ヒットしたミュージカルの映画化だという。ヒロイン・LVを演じるのは舞台と同じジェイン・ホロックス。全く知らない女優でだからこそ役柄そのものを素直に受け止められ、最初に登場した時の内気でほとんど人と会話ができない様と一夜だけのワンマンショーでお得意のナンバーを<なりきり>で歌う様のギャップが激しく、こういうのを鳥肌がたつ状態というのだろうか、あまりの感動で涙がでてきた。この瞬間に立ち会えただけでもこの映画を観る価値があったと言うものだ。
 映画は単純なスター誕生物語ではなかった。確かにこの内気な娘がショービジネスの世界で生きていけるとは思わない。にもかかわらず彼女の才能に目をつけた母親や二流のマネージャー(ブレンダ・ブレシン、マイケル・ケイン、ともに好演。巧い!)が一攫千金を夢見て<売り出し>にやっきになって、はかなくも夢やぶれるところはあまりに急な展開だが映画というメディアを考えれば仕方のないことか。
 一体どんな結末になるのだろうかと息をのんだ火事のシークエンス後の、LVが母親にくってかかるシーンは圧巻。LVに恋心を抱く純朴な青年役のユアン・マクレガーもいい味だしている。
 サウンドトラックが欲しくなった。

     ◇

1999/11/19

 「黒い家」(丸の内プラゼール)

 森田監督の前作のサイコミステリ「39 刑法三十九条」が佳作だったので、この「黒い家」は原作の秀逸さもあり、とんでもない傑作になりそうな予感がしていた。
 今回も森田監督流の裏切りがあるのだけれど、僕にとってそれは納得のいかないものなってしまったのがつらい。
 決してつまらない作品ではない。たぶん原作を知らない人が観れば、文句なしの面白さかもしれない。

 映画化に対して一番期待していたのは物語の要となる性格異常の夫婦を大竹しのぶ&西村雅彦がどう演じるかだった。実際ふたりは異常ぶりを楽しむかのように演じていて、それはそれでいい。ただ、冒頭、大竹しのぶが最初に主人公に電話をかけてきた時からいかにも性格異常です、といった感じで、そこから僕の映画「黒い家」に対する違和感が生じてしまった。
 当初夫が異常で、妻の方は夫に虐げられている存在という印象を主人公にも、観客にも与えないとクライマックスの圧倒的な恐怖に至るまでのサスペンスが成り立たないと思う。それが第一の不満。  第二の不満はあまりにもケレン味たっぷりなカメラワークに対して。「39」は(静)で本作は(動)を狙ったと森田監督が公開前に新聞のインタビューに答えている。だからなのか「39」では抑制が効いて、効果的だった森田流の映像の遊びが逆にくどくなって少々目障りだった。
 もしかすると原作そのものの怖さは映像で表現できないと意識した結果なのかかもしれないし、それを見越して役者たちに過剰な演技をつけたためか、全体的にブラックユーモアの味わいに包まれ、笑える映画に仕上がっている。
(保険契約のつぶし屋・小林薫と大竹しのぶの会 話の中で、大竹が約款を(やかん)と聞き違えるシーンがある。主人公が恋人を救うため黒い家に忍び込み、床をあけると小林の死体の横にひときわ大きいやかんがちゃんと置いてあるのだ。緊迫したシーンで、思わず笑ってしまった)
 森田芳光をあれこれ語れるほど彼の映画を観てきたわけじゃないけど、2作続けて鑑賞して思うのは、テーマよりテクニックを重要視して、素材を選定する姿勢だ。市川崑の系列に入るかもしれない。
 風景の切り取り方に独特のものを感じる。




 先週、ドリキャス撤退のニュースが日経にリークされ、それにまつわるマスコミ各社の報道合戦が過熱した感があります。
 それこそ、「待ってました!」というマスコミのセガへの対応でした。

 ここ数年、マスコミのセガへの対応は、いいニュースでも悪く、悪いニュースはことさら悪く、書くという情けない状況でして、これを打破するには一にも二にも赤字脱却しかわけですが、まあ、その話はとりあえず置いておきまして、今日はマスコミの悪意についてお話しします。

 皆さんは週刊誌は読まなくても、電車の中吊広告をご覧になる機会は多いでしょう。
 その中吊広告のタイトルが実際の記事の内容とまったく逆の場合があることがあります。

 一昨年、大河ドラマ「元禄繚乱」が始まったころ、ドラマの担当ディレクターが綱吉役のショーケン(萩原健一)を批判する、というような記事(のタイトル)を中吊広告で目にしました。ショーケンファンとして、ショーケンの綱吉は久々にらしさを発揮していましたから、スタッフの批判はとても気になります。すぐに週刊誌の記事をあたりましたよ。
 読んで驚きました。内容は逆なんです。ディレクターはショーケンを褒めているんです。

 中吊広告の記事のタイトルに惹かれて実際の記事を読めば良いですが、大半の人は中吊だけで判断してしまうでしょう。
 こうして個人あるいは団体、法人に対して偏見をもつ、誤解をしてしまうことがかなりあるはずです。

 マスコミ、メディアというのはある種の聖域であり、私たちの中に特別視するところもあります。
 しかし、マスコミも一つの企業で利潤追求しなければなりません。儲けるためには、一般大衆に受ける、雑誌を購入する、TVを視聴する、そうさせるための記事やニュースを作る側面があります。
 そういうことも心しておく方がよいと思っています。




1999/10/06

 「双生児 ~GEMINI~」 (スバル座)

 映画サービスデーなので、今月は映画のはしごをしようと有給休暇をとった。
 まず夫婦でシャンテシネに「リトル・ヴォイス」を観に行った。が、昼食をとっている間に初回が満席になってしまった。立見で観る元気もなく(なんせ徹夜なもんで)、ほかの二人で観られる作品を探したが、適当なものがなく、仕方なく一人で「双生児」をスバル座で観た。

 予告編で強烈な映像を見せられていたし、また塚本晋也監督のことだから一筋縄でいかない映画だろうと予想はしていたが、最初から役者たちの眉毛なしの異様なメークに度肝をぬかれ、絵の具を飛び散らせたような貧民窟のセットに唖然とした。
 癖のある映像、語り口である。わざと意識したカメラのブレ。観客を不安に落とし入れる音楽。観客を限定するのは当然で、会場は割と閑散としていた。平常時ならいざ知らす、徹夜明けの身体に塚本映画は毒だった。突然襲ってくる眠気と戦いながらなんとかストーリーを追うのがやっとだった。もしかしたら途中で寝ていたのかもしれない。
 本木雅弘の善と悪の双子の演技は絶品。いつしかふたりの意識(外見も含めて)が交替してしまいどっちがどっちだかわからなくなるところがこの映画のテーマなのだろう。
 最初は気持ち悪かったりょうが終り頃には美しく見えるのだから不思議。

     ◇

1999/10/26

 「秘密」(キネカ大森)

 原作を読み終わってから、映画化するなら、ラストのドンデン返し(思い悩んだ末、これからは父と娘の関係になるという夫の決断に従い、巧妙なトリックで娘の意識がもどったかにふるまい、実は妻の意識のまま嫁にいく。その事実を結婚式当日に知った夫は立場上確かめることもできなく、花婿を前に娘と妻を同時に失ったことの深い悲しみで鳴咽してしまうという非常に残酷なエピローグ)はない方がいいのではないか、と書いた。妻と娘の意識が交互しながら、やがて妻の意識がなくなっていく、その二度目の別れをメインに、変則的な夫婦であったこと、それでも愛し合っていること、さまざまな思いがオーバーラップし、互いをいとおしみながらラストを迎えてもいいのではないかと。

 やはりこのエピローグははずさなかった。ここが原作の核たるものという一般的認識なのだろうか。
 ただ、映画化にあたって若干の修正がされている。原作では妻が最後まで嘘をつきとおして嫁に行くのに、映画では最後の娘からの挨拶のところで夫婦しか知らない儀式(?)をついやってしまい、ばれてしまう展開になる。とりあえずお互いの意志の疎通がなされ、これである程度心が休まるから不思議だ。(しかしこれをやると、娘の意識がもどり始めた頃の母と娘の手紙、ビデオレターのやりとり等の妻が夫に仕掛けたトリックに全く意味がなくなってしまうのですけどね。)
 若返った妻に対しての嫉妬心からストーカーもどきの行為を繰り返す夫の様を原作ではリアルに描いて不安を覚えたが、映画ではコミカルタッチにして観客の笑いを誘った。ここらへんの処理もうまいと思う。
 難を言えば(と言うかここが肝心なのだが)、中盤のバス転落事故を起こした運転手の息子と父娘たちたちとのエピソードはあまりにもはしょり過ぎで、嘘っぽい。だからエピローグのふたりの結婚があまりにも唐突な感じがしてしまうのだ。

 最後に流れるクレジットタイトルのバックに主人公家族のスナップ写真が写し出され、娘の徐々に成長していく姿も見られた。これを劇中でうまく活用できなかったのか残念でならない。
 つまり、この映画に抜けているのは夫婦あるいは親子が夫婦であり親子である関係を築いた歴史(時間)なのだ。
 原作では娘が小学4年生の頃から大学生になるまでの話なので、夫のお見合いの話だとか、夫婦生活(セックス)の問題だとか、妻に対する嫉妬、それゆえのストーカー行為等が切実に迫ってくる。それは二人の長い生活が続いていたからだと思う。
 映画は主演のヒロスエにあわせて高校3年生から大学生までのほんの短い期間しか描かず、歴史の積み重ね(子育て等)が感じらない。だから、娘(妻)とのセックスにとまどう夫の気持ちも画面からは伝わってこない。顔を隠してやろうとか、口でしてあげるとかの問題ではなく、娘を子どもとしてしか受け入れられない、18年間の歴史があるはずなのに。

 いろいろ文句を言いつつも、ファンでなくてもラストのヒロスエの表情がたまらなく素敵だった。それだけでこの映画を認めてしまおうと思える作品である。「Wの悲劇」のラストの薬師丸ひろ子を彷彿させる。何とも切ない気持ちが後を引き、竹内まりあの主題歌が余韻を倍加させる。

     ◇

1999/10/30

 「皆月」(テアトル新宿)

 確かにこの映画を観る動機は吉本多香美のヌードであり、ファックシーンであった。だが、それはあくまでも表向きの下心であり、本当のところ主人公・奥田英二演ずるダメ中年男にどれだけ感情移入できるかというのがポイントだった。

 この映画の脚本を担当した荒井晴彦には自身が監督した「身も心も」という作品がある。団塊の世代(全共闘世代)の男女4人の青春時代をひきづった愛憎物語で、だらしない男たちと性根のすわった女たちの対比が面白かった。いくつになっても出会った頃の気分そのままに友だちとつきあい、その精神と実際の年齢とのギャップに悩む姿は一世代下の僕にも十分共鳴できた。
「おれたち、もうすぐ50になるんだよな」と言う奥田の言葉の50を40に置き換えれば、当時それはそのまま僕自身のモノローグとなって、観終わった後、主題歌の「セクシー」(下田逸郎)のメロディとともに映画の切ない感触が胸のあたりをチクチクさせたのだった。
 「身も心も」でマザコン男を好演した奥田英二は本作では妻に逃げられたパソコンおたく男としてダメさぶりを発揮する。ソープ嬢役の吉本は体当たりでファックやレイプ、放尿シーン等に挑んでおり、ここまでやるのかと驚愕した。

 にもかかわらず僕の目をうばったのは逃げた妻の弟、奥田にとって義弟役のやくざを演じた北村一輝だった。まるでこの映画は彼のため作られた感じさえする。彼と姉の別れのシーンにオッサンとソープ嬢の純愛もかすんでしまった。
 実際、二人の純愛に共鳴することができなかった。お互いにひかれた理由を台詞では説明しているのだが、実感がわかないのである。




 NHK「ファミリーヒストリー オノ・ヨーコ&ショーン・レノン」は8月18日(金)19時30分~20時43分に放送されます。
 再現フィルムの撮影にスタッフ&エキストラで参加した番組です。73分の特別編。

 番組の案内にこうあります。
     ▽
 オノ・ヨーコさん84歳。1969年にビートルズのジョン・レノンと結婚、数々の共作を残している。前衛芸術家、平和活動家としても活躍してきた。ヨーコさんは、息子ショーン・レノンさんに自らのルーツを伝えたいと、出演を決めた。祖父は日本興業銀行総裁、父は東京銀行の常務取締役を務めた。また、母は安田財閥・安田善次郎の孫にあたる。激動の時代を生き抜いた家族の歳月に迫る。収録はニューヨーク、73分特別編。
     △
 
 日本興行銀行総裁のお祖父さんが戦時中、軍に金を融資するか否かの会議のシーンで、もしかしたら私が写っているかもしれせん。
 どうぞお楽しみに!

20170711




1999/08/07

 「シャロウ・グロウブ」(ビデオ)

 「トレイン・スポッティング」のダニーボイル監督&主演ユアン・マクレガーコンビのデビュー作だと知ってずっとビデオ屋で探していて、やっと見つけてきた。
 同居人3人組(女1人&男2人というのはやっぱり絵になる)の仲が大金によっておかしくなっていく様を個性的な映像で見せる。

     ◇

1999/08/26

 「砂の器」(TV)

 この映画を初めて観たのは高校1年の時だった。
 この時の併映作品のカップリングがよかった。「男はつらいよ 寅次郎子守唄」。確か十朱幸代がマドンナ、上條恒彦と最後に結ばれる話で、映画館で初めて観た寅さん映画だった。寅さんで笑い、砂の器で泣く。
 とにかく「砂の器」は泣ける映画だった。その後何度か映画館、TV、ビデオ等で再見しているが、いつも同じシーンで涙があふれてくる。
 後で原作を読んだが、映画の方ができがいいと思ったものだ。構成が素晴らしい。前半はスーパーインポーズを多用して事件の流れを追い、後半は捜査会議と犯人の少年時代の回想シーンを交互させる。少年時代を演じた子役の表情と芥川也寸志のテーマ音楽がシンクロして、相乗効果で観ている者の涙腺を緩ませるのである。
 久しぶりに観た今回、同じように泣いてしまったのであるが、あまりにもでき過ぎな展開が気になった。感動させようとするスタッフの意図も必要以上に感じた。
 当時、事件の舞台となった蒲田は全くの見知らぬ街であった。それが今では住居のある川口の次に会社のある所として非常に身近な存在になってしまった。蒲田がでてくると、そこがどこだか確認したくて、ブラウン管に顔を近づけたほどだ。
 公開当時、主演の一人森田健作がヘタクソだと淀川長治に批判されていて、僕は若者の代表って感じでいいではないかと日記に反論を書いた憶えがある。やはり見事にヘタだ。ミスキャスト。

 今回初めて気がついたのだが、刑事役の某俳優が「順風満帆」をジュンプウマンポと言っている。まわりのスタッフ、誰も気がつかなかったのか? 当人にとっても恥ずべきことだと思うのだけど。 

     ◇

1999/09/01

 「オースティン・パワーズ:デラックス」(丸の内プラゼール)

 前作の「オースティン・パワーズ」はまだ観ていない。にもかかわらず、やけに評判がいいんで映画サービスデーに友人に誘われ、さっそく観てきた。
 60年代のスパイ映画を当時の風俗、ファッションを含め、現代(90年代)の感覚から笑い飛ばそうという狙い、ギャグが下ネタの、たぶんに下品な内容、今風で言えば「おバカ」映画くらいの認識しかなく、笑えなかったどうしようと思っていたら杞憂だった。もう全編大爆笑だ。
 オープニングの「007」風のテーマ曲でニヤリ。続く「スターウォーズ」の字幕、タイトルバックの主人公が全裸でホテルを闊歩し、プールのシンクロナイズドスイミングに乱入するところで、完全に映画の世界に入り込んでしまった。
 敵役のDr.イーブルが最高。キャラクター自体コント55号時代の二郎さんを彷彿させ、「飛びます、飛びます」をいつ言いだすか、けっこう期待したりして……。扮する役者が何ともうまく、なんて人なんだろうと思ったら、主役であるマイク・マイヤーズの二役でした。全然知らなかった!  60年代をそれなりに知っている者としては60年代のファッション、歌の数々が懐かしく胸躍った。今見てもけっして古めかしくも、おかしくもない。サイケはエネルギュッシュだったなあ。それにオシャレだ。

 「I'll never fall in love agein 」(この曲を僕は初期の赤い鳥のレコードで知った)がバート・バカラックのオリジナルで聴けたのは幸せ。

     ◇

1999/09/26

 「マトリックス」(丸の内ピカデリー)

 最初はキアヌ・リーブス主演のSFアクションぐらいの認識しかなかったが、巷の評判がやけに高い。キアヌ・リーブスも「スピード」時のスリムな体型に戻っていることだし、これは観る価値あるってんで、昨日前売り買って、病院に行ってから丸の内ピカデリーに寄ったら、すでに立見の状態。
 しょうがないから今日2回目の上映に行ってきた。余裕をみて1時間前に行ったにもかかわらず、すでに行列ができていた。すごい人気である。

 仮想現実の世界を描いたSF小説は僕が知らないだけでけっこうあるのだろう。
 藤子不二雄の異色SF短編集にこんな話がある。妻子のいる平凡なサラリーマンが何となく自分の生活のうそ臭さが気になってしょうがない。まわりの人間たちは「気のせいさ」と笑い飛ばすのだが、その気分はますますひどくなって、ついには人殺しまで犯してしまう……。そこで男は仮想現実から現実世界ー核戦争によって破壊されてしまった地球があったであろう空間ーにひきもどされる。宇宙に残ったたったひとつの細胞から主人公を再生し、彼が不自由なく生活していけるよう仮想現実を与えたのは心やさしき宇宙人だったのだ。宇宙人は男の不信感を嘆き、去っていく。男はただ一人宇宙空間を寂しくさまようところでジ・エンド。
 現実が作られた仮想現実だと知った時の衝撃はたまらないものがあるに違いない。

 この映画は主人公ネロが1999年の仮想現実からモーフィアスに導かれ2200年代のコンピュータに支配された現実に引き戻されたところからドラマが始まるのであるが、この1999年の舞台が仮想現実というところがこの映画のミソだ。つまり何でもありの世界になってしまうのだからどんなSFX、アクションがでてこようが、観客は納得してしまう。個人的にはロードショー前から有名だった人物をワイヤーで吊って数十台(もっとか?)のカメラで360度撮ったシーンより、ヘリコプターがらみのアクションシーンに度肝を抜かれた。そのくせ現実世界でのイカの形をした敵の潜水艇と主人公が乗船する乗り物のチェイスシーンのSFXは完全に見慣れたもので何の感慨も起きやしない。
 そしてクライマックスの、時間までにネロが脱出できるかどうかハラハラドキドキのサスペンス。これぞ映画の醍醐味って感じ。
 ダイエットして痩せた短髪姿のキアヌ・リーブスはかっこいいけど、相手役・トリニティのキャリー=アン・モスの吹き替えなしのアクションに心奪われた。音楽もいい。

     ◇

1999/09/27

  「バウンド」(ビデオ)

 マフィアの情婦とレズの関係になった刑務所帰りの窃盗のプロ女が、共謀して情婦の男が預かったマフィアの大金を盗もうという話。まんまと大金を手に入れるが、男が予定どおりの行動をとらず、そこからドラマは二転三転。途中から話の展開が読めなくなり、緊迫したシーンの連続で、後半は画面から目が離せなくなった。クライマックスでは思わず声をあげてしまったほど。
 ほとんど室内で進行するドラマで、これだけ見る者を引っ張れるなんて、さすがウォシャウスキー兄弟監督。デビュー作からほとばしる才能が感じられる。
 「マトリックス」に通じるものもいくつか発見できた。ジェニファー・ティリー扮するコーキーはトリニティのプロトタイプか。アナログな旧式タイプの電話にも何か思い入れでもあるのだろうか。




 8月1日(火)は映画サービスデー(ファーストデー)。本来なら、特撮仲間のSさんと「パワーレンジャー」を観に行く予定だった。この夏の公開を知ってからかなり楽しみにしていた映画である。

 ところが8月から僕の(BC二十世紀の)出勤シフトが変わったことでこの目論見がはずれてしまった。これまでの火木から水木へ休みが変更になったのだ。
 上映時間を調べてみてわかったのだが、「パワーレンジャー」は都内のほとんどの劇場で夕方の上映がないのである。配給の東映は何を考えているのか。「パワーレンジャー」の主要客は子どもではないはずだ。かつてスーパー戦隊シリーズを夢中になった子どもたち、大きなお友だちが対象になる。にもかかわらず、夜の上映がないのはどういうわけか。
 せめて、東映の資本が入る(ってますよね?)新宿バルトはそこらへんを考慮すべきではないか。

 東映はこういうことがたびたびある。
 昨年、西内まりやが主演する「CUTIE HONEY –TEARS‐」をやはりSさんと観に行こうとしたら、新宿バルトでは深夜しかやっていない。一応ロードショー作品ですよ!
 本来ならDVD(Blu-ray)作品なのに、格付けのため劇場公開させたということだろうが。

 結局、「パワーレンジャー」はバラバラで観ることになり、僕は1日、仕事を終えてから品川のT・ジョイPRINCE品川のレイトショーに足を運んだ。翌日の休みに地元シネコンで観てもよかったのだが(割引クーポンがあるので1,300円で観られる)、こちらは吹き替えだとわかり遠慮した。金だして吹替なんて観たくない。

 品川の劇場はもともと〈品川プリンスシネマ〉という名称で、セガに勤めていたとき、大鳥居に通ってきたいたときはよく利用させてもらった。知らない間に経営母体が変わったのだろう(ホテルが外部に委託したのか)、T・ジョイPRINCE品川になった。


 アメリカと日本のヒーローの一番の違いは〈変身〉の概念だと思っている。
 スーパーマンにしろ、スパイダーマンにしろ、みな超能力を持った人間(スーパーマンは宇宙人だけど)が、その超能力を発揮するとき、人間のままの姿では支障があるので、それっぽいスーツ(&マスク)を着るわけだ。バットマンは逆にスーツが強化服になっているのだろうか? 普通の人間がスーツとマスクで身を包むことで力を得る、のか。
 日本でも「月光仮面」が、まさにそういうヒーローだったわけだが、「ウルトラマン」の登場でヒーロー像が一新された。
 
 「仮面ライダー」で空前の変身ブームになったわけだが、〈原作〉である石森章太郎のマンガでは、アメリカンヒーローのように、改造人間になった本郷猛がスーツ&マスクを着用する設定なのである。怒りに燃えると顔に傷が浮かび、その傷を隠すためにマスクを被るのではなかったか。

 東映が集団ヒーローものを企画し、「仮面ライダー」同様、石森章太郎に原作を依頼した。それがスーパー戦隊シリーズの第1作「秘密戦隊ゴレンジャー」であるが、色分けされた5人のメンバーというと、その前に「科学忍者隊ガッチャマン」が人気を呼んでいた。少しは意識したのだろうか?

 僕はというと、「科学忍者隊ガッチャマン」には夢中になったものの、ゴレンジャーはバカバカしくて相手にしていなかった。
 5人のレンジャーだからゴレンジャー? なんだその語呂合わせは!! 
 登場する敵方怪人も〇〇仮面といったおちょくったような造形、ネーミング。まあ、対象年齢が低く設定された番組なのだから、中学生が、それも円谷特撮で育った者として容認できるわけがない。
 石森章太郎も、少年雑誌に連載していたマンガを最初はシリアスだったにもかかわらず、途中で「秘密戦隊ゴレンジャーごっこ」とタイトルを改めギャグマンガにしてしまう始末。

 こうして、戦隊シリーズが個人的にまったく縁のない特撮番組になって四半世紀をすごしてきたわけだが、2000年代になって「未来戦隊タイムレンジャー」にハマってしまった。「仮面ライダークウガ」とセットで観ていたところがある。
 その後、また離れてしまうのだが、「獣電戦隊キョウリュウジャー」あたりからまた観だして「列車戦隊トッキュウジャー」「手裏剣戦隊ニンニンジャー」ときて、「動物戦隊ジョウオウジャー」でまたハマった。
 そして今「宇宙戦隊キュウレンジャー」に夢中になっている。
 ちなみに平成「仮面ライダー」シリーズは「カブト」で卒業した。

 ハマる前もハマった後も、このシリーズに対して同じ思いがある。等身大での戦いで一度破れた敵(の怪人)が巨大化してからのシークエンスにまるで興味が持てないことだ。
 戦隊側の合体ロボットはどのシリーズもデザインセンスが微塵も感じられない。特撮も旧態依然で観てられない。
 ロボットデザインに関しては、子どもの情操教育に悪影響を与えるのではとは思うほどだ。

 このまま続けます






 
1999/07/05

 「新幹線大爆破」(ビデオ)

 公開当時、国鉄に撮影協力を得られなかったということや日本の特撮で初めてシュノーケルカメラを使用したことで話題になった。同じ新幹線を扱ってやはり国鉄に協力を無視された同時期公開の「動脈列島」(東宝)より内容的に評論家に評価され、その後フランスで大ヒットした1975年の東映作品である。
 当時から観たいと思いつつ、結局今回初めてのビデオ鑑賞となった。

 「ウルトラQ 地底超特急西へ」と「スピード」を足したような内容で、時速80km以下に減速すると爆破する爆弾を新幹線にセット、乗客1,500名の身代金を奪おうとする犯人側、事故を回避しようと努力する国鉄側、犯人の検挙に奔走する警察側と、それぞれの話がきちんと描けていて、ストーリーそのものはとても面白かった。

 しかし演出のセンスを疑ってしまうところが何ヶ所もある。
 たとえば冒頭の犯人グループの一人、山本圭が夜間、北海道の夕張で機関車に爆弾をセットするシーン。バックには女性スキャットの甘い、なかなか印象的な曲が流れるのだが、これが画面にちっともあっていない。ここは音楽なしに第1の犯行を丹念に描写すべきではなかったか。
 それから国鉄側の人物紹介があって、新幹線操作システムの解説がナレーションで入るのだが、これも唐突な感じがする。台詞で説明できなかったのだろうか。
 音楽に統一感がない。その場その場に合わせて適当に作られている気がしてならない(1曲1曲は印象深いのに)。
 ズームイン、ズームアウトを多用するカメラワークも気になる。

 この映画、タイトルの新幹線が爆破されるかどうかのサスペンスより、主犯高倉健と警察とのやりとり、爆破回避後の逃亡劇の方がメインの物語なのであった。さすが健さん、どの映画でも同じ健さんだけど、存在感が違う。
 ラスト、追いつめられた高倉健が射殺されるシーンでストップモーションになって音楽が…当然冒頭のスキャットが流れるかと思いきや、これまでに聞いたことがない、そこだけに用意された音楽が使用されるのだ。やはりセンスがない。
 今、リメイクしたら面白いんじゃないかと思うのだが。

 豪華キャストの誰もがみんな若かった。そしてみんな熱い。暑苦しいほどだ。70年代の映画(TV映画を含む)の特徴と言えるかもしれない。

     ◇

1999/07/06

 「催眠」(キネカ大森)

 優待券を利用してキネカ大森で「催眠」を観る。
 監督・落合正幸の前作「パラサイト・イブ」は最低な出来だった。「パラサイト・イブ」は原作自体が傑作であり、とても映像的なので読んでいる最中も映画(映像)化についてあれこれ想像していた。葉月りおな主演で一気に興味をなくし、ビデオになっても手にとらなかった。TVで放映されて初めて観たのだが、小説のクライマックス前でエンディングをむかえてしまう作りに唖然としてしまった。売りである特撮(CG)も葉月のバーチャルヌード、疑似乳首のために使われたようでなんとも哀しい。

 ただ小説を先に読んでいなければどうだったかと最近思うようになった。先に小説を読んでしまうとどうしてもイメージを限定されてしまう。どんなにピュアな気持ちで望んでも原作と映画化作品を比較してしまうのだ。
 落合監督の第2弾は新進作家・松岡圭祐のサイコミステリの映画化である。今回は原作を読んでいないから、何の先入観もない。原作の良さを活かそうが殺そうが知ったことではない。要は映画として面白いかどうか、である。

 映画自体はホラー映画として最後までだれずに観られた。それなりに恐いし、物語に引き込まれた。
 しかし、全編にただようグロテスク趣味に辟易する。骨が飛び出し異様に折れ曲がった足、バックするトラックと壁に挟まれて砕かれる顔、釘に打ち抜かれた額、ピストルの弾が貫通する頭、そのものずばりを特殊メイクで再現させる。何とも趣味が悪い。
 ホラーっぽいサイコミステリという認識でこの映画を観たので何の解決もされないラストはどうかと思うし、あまりにも後味が悪い。
 オープニングタイトルも最近のTVドラマのそれが凝った作りで眼を見張るものが多いというのに、いつの時代?と思わせるほどのダサさなのである。TV出身の監督でしょうに。

 それから、これは意識してだと思うが、背景から日本的なものを排除している。屋内、屋外、すべてにおいて欧米風。街の風景も、ロケは都内なんだろうが、全く東京を感じさせない切り取り方。看板までなるべく日本語を使わせない。
 洋画しか観ない若い観客への配慮なのだろうか。それとも単なる監督の趣味か。

     ◇

1999/07/07

 「あの、夏の日 とんでろじいちゃん」(丸の内シャンデリア)

 久しぶりの大林映画だ。尾道3部作以降、いくつかの作品を観て、大林映画は卒業だと思っていた。
 新尾道3部作も別に興味はなかったのだが、この最終作「あの、夏の日…」は某サイトの映画批評で絶賛されていて、原作が山中恒ということもあって劇場まで足を運んだ。
 相変わらずの大林調で懐かしいやら、うんざりするやら。映像以外でやたら饒舌なのが気になった(尾道市市制100周年に対する監督の言葉とか、病魔と戦う少年(少女だったか?)への励ましの言葉とか)が、物語自体はよくできていた。
 冒頭から快調な語り口。小学生の一夏の冒険、異文化との出会い、年上の少女へのほのかな想い……。これはまさしく「ぼくがぼくであること」ではないか。
 小林桂樹と菅井きんがうまい。
 病床のじいちゃんと少年との会話、特にじいちゃんの孫へ生きることに対する喜びを伝える言葉に目頭が熱くなった。これまで反感ばかり覚えた松田美由紀もお母さん役がぴったりはまって好印象。

     ◇

1999/07/14

 「スターウォーズ エピソード1 ファントムメナス」(日本劇場)

 ついに観たぞ!スターウォーズ最新作。1作目が日本で公開されてから21年目に新シリーズが観られるなんて思っていなかった。まさしくサーガ。
 アメリカ公開直後の批評が賛否両論なんで、少々心配だったが全くの杞憂だった。
 一番うれしかったのは海底王国が登場したこと。SWでは砂漠、「帝国の逆襲」では氷の惑星、「ジェダイの復讐」ではジャングルや森の惑星が舞台になっていたから、次のシリーズでは水や炎の惑星が描かれるにちがいないと勝手に想像していたのだ。

 この20年の技術の進化はすさまじい。主要キャラクターの一人がCGで描かれているのには驚きだ。全編目を見張る映像の連続ではあるが、哀しいかな、前シリーズの時のような「この絵はどうやって撮影したのだろう」というドキドキ感、わくわく感はなかった。すべて「CG、デジタル合成」の合い言葉で納得してしまうのだ。本作の賛否両論ってたぶんにこんなところにあるのではないだろうか。
 ポッドレースは「ジェダイの復讐」のスピーダバイクに優るとも劣らない血沸き肉踊るシークエンスだ。

 アナキンと母親との別れ、その時母親が言う「運命は変えられない。夕陽を止められないように」は「帝国の逆襲」ハン・ソロとオーガナ姫の「Ilove you」「I know」に次ぐ名台詞。

     ◇

1999/07/12

 「ケイゾク」(ビデオ)

 現在のTV界ではテレビ映画というジャンルが確実に消滅している。
 80年代の後期、フィルムからビデオに変換する方式がテレシネからFtoT方式になって画像が飛躍的に鮮明になった。フィルムのような暗さはなく、かと言ってビデオの、美しいけれど、どことなく画像が薄っぺいというものでもない。そんな新しい映像で90年代はテレビ映画が生き残っていくのかと思われた。が、VTR機材すべての機能の向上で、あっというまにFtoT方式のドラマが ビデオに取って代わってしまったのだった。

 今、フィルム撮影によるドラマは一部の子供向け特撮番組と時代劇しかない。「水戸黄門」がビデオになった時は驚いたものだ。
 それに関係しているのかどうか、70年代の、たとえば「傷だらけの天使」「探偵物語」、「大都会」シリーズみたいなアクション系の番組がまったく作られなくなってしまった。
 しょせんビデオはビデオでしかない。フィルム特有の陰影のある映像、手持ち撮影による16mmカメラのブレ感覚等々VTRでは表現することができないのだろう、とあきらめていた。
 ところが最近ビデオであの表現をしようと試みているドラマがみられる。その発祥は日本テレビの「金田一少年の事件簿」から始まった一連の劇画原作のドラマだ。この劇画シリーズ(?)にフジの「踊る大捜査線」のテイストを加え、ミステリ仕立てにしたのがこの冬に放映された「ケイゾク」だと思う。

 描かれる事件の設定は稚拙だが、何より中谷美紀と渡辺篤郎演ずる柴田&真山のキャラクターが出色である。
 中谷美紀は鶴田真由の後釜として日石のCFで登場したとき、長い髪と整った美顔、箒を使ったダンスが印象的だった。しばらくは本当に鶴田真由の二番煎じみたいな感じでCFで活躍していたが、女優として確固たるイメージを作りたかったのか、出演するドラマ、映画で濡れ場のシーンが多かったような気がする。そんな彼女が痛々しかったが、「ケイゾク」で一皮むけたと思う。
 渡辺篤郎はヒロインが柴田純という名前からか、ちょっと「大都会パート2」の松田優作を意識したようなツッコミ役を楽しそうに演じていた。
 二人のボケ&ツッコミも愉快だが、捜査過程におけるレギュラー陣の会話がむちゃくちゃおかしい。
 フィルムの陰影を思わせる映像にも酔える。捜査二課の蛍光灯の青を基調とした色彩設計は村川透+松田優作コンビの「遊戯」シリーズを彷彿させる(撮影:仙元誠三)。最終回の銃撃戦ではビデオでもアクションが撮れるのかと驚愕したものだ。

 映画化に期待したい。




1999/06/22

 「39 刑法三十九条」 (新宿ピカデリー)

 こちらが映画に対してイメージしていたものををいい意味で裏切られた。
 ヒロイン香深(カフカ!)役の鈴木京香が少々神経を病んでいる女性で、彼女のまわりの人たち(師匠である大学教授、母親)もどこか変であるところが、いかにも現代を反映していると見た。
 正義感ぶるでなく、何事においても自信のない素振り。精神異常者と精神鑑定者は紙一重であると納得がいくのである。

 健常者が刑法39条を逆手にとって精神異常を偽り無罪を勝ち取ろうとする話は昔松本清張の短編で読んだことがある。小説の主人公は警察側の策略にひっかかり最後の最後で敗れてしまうのだが、この映画も基本プロットは同じだ。決定的に違うのは、この映画では刑法39条の存在意義そのものを問うていることだろう。

 一人の精神異常者に妹を惨殺された男。精神異常者は罪に問われることなく、精神科を退院した後、一般人として、結婚して幸せな家庭を築いている。男の方は妹を殺された悲しみとその原因を作った罪の意識を恋人と共有し、かつての犯罪者への復讐とその完全犯罪にかりたてるのだ。

 法廷シーンの合間に挿入されるすべての原因となった事件の回想シーン。少女の惨殺遺体の全身が映し出されていてショックだった。「トレインスポッティング」の赤ちゃんの死体同様、これまでの常識として観客に暗示させるだけだった死体をリアルに描写することも現代を象徴しているのか。

 事件の真相を回想という形で観客にわからせてしまったのはどうしてだろうか。あれは劇中の進行同様にドンデン返しにした方がサイコミステリとしてインパクトが大きかったように感じる。真相が解明され、ラストに淡淡と回想シーンが流れてもよかったのでは?

 堤真一の二重人格者ぶり、その演技力に圧倒された。役者冥利につきるだろう。その他出演者たちも熱演とは正反対の演技ぶりで好感が持てた。




1998/05/07

 「トキワ荘の青春」(ビデオ)

 市川準監督の「トキワ荘の青春」がテアトル新宿で単館ロードショーされたとき、ぜがひでも観たいと思った。
 僕のマンガ人生は石森章太郎、藤子不二雄、赤塚不二夫といったトキワ荘出身の漫画家たちの作品から始まった。そんな彼ら、若き漫画家たちの梁山泊となったトキワ荘の伝説は彼らの自伝的マンガや書籍等で子どものころから親しんできた。
 何しろトキワ荘関係の書籍を収集するのが趣味の一つなのだ。
 藤子不二雄の「まんが道」がNHKで連続ドラマ化され、評判を呼んだ際、トキワ荘の物語を映画にできないものか、と夢想したりした。
 だから市川監督が「トキワ荘の青春」を撮ると知ったとき、かなり期待した。
 忙しさにかまけて劇場に足を運ばず、ビデオになってもなかなか借りようとしなかった怠惰な自分が恥ずかしい。
 「トキワ荘の青春」は青春映画の傑作だった。
 これはビデオなんかではなくて映画館の暗闇の中で静かにじっくりと鑑賞すべき作品である。

 いわゆる演技というものをことごとく排除し、ドラマチックな展開を拒否した演出と透明感あふれるドキュメントタッチのカメラワークがうまくマッチしていた。
 前半はトキワ荘に集まってきた漫画家志望の若者たちの生活をスケッチ風に積み重ねていく。
 ところどころに挿入される当時の写真が効果的で、昭和30年代初期の東京を鮮やかに描きだされていた。
 プロの漫画家になろうと切磋琢磨する若者たちの群像ドラマとして、マンガに詳しくない観客でも充分楽しめるが、若かりしころの彼らをまがりなりにも(写真等で)知っていると、役者たちが本当によく似ていることに驚く。
 つのだじろう、我孫子素雄、藤本弘なんてまさにそのまんまって感じ。
 主役の本木雅弘(寺田ヒロオ役)以外は一般的にはほとんど無名の役者たちだが、赤塚不二夫役の大森嘉之、森安直哉役の古田新太が光る。
 後半はこの二人がクローズアップされ、漫画家として成功する者、挫折するものの明暗を好演していた。
 編集者役のきたろうが実にいい味だしている。
 
 自分の理想とするマンガを描けない現状への怒り、悲しみを仲間たちと相撲をとりながら、何気なく涙をぬぐう寺田のしぐさに感じて目頭が熱くなった。

     ◇

1998/06/16

 「レインメーカー」(銀座ガスホール 試写会)

 ジョン・グリシャムの小説は出版するたびに次々と映画化され、その都度話題になっているものの、映画自体の一般的評価はそれほどのものでもないという気がする。
 「ザ・ファーム/法律事務所」はトム・クルーズ、「ペリカン文書」はジュリア・ロバーツという人気スターを起用してそれなりに評判を呼んだけれど、内容はというと原作のダイジェスト版といった感じだったのではないだろうか。(「法律事務所/ザ・ファーム」については映画も観ていないし原作もまだ読んでいないので何とも言えないが「ペリカン文書」は圧倒的に原作の方が面白かった)
 第3弾として公開された「依頼人」は「グリシャムの映画化作品の中で一番の出来」と前評判も高かったことからすごく期待して観に行ったらそれほどのものでもなかった(まあ、水準作といったところか)。
 そんなわけですでに原作を読んでいた「評決のとき」は全く観る気もしなかった。

 さて、最新作の「レインメーカー」はあのコッポラの監督作である。主演は新鋭マット・デイモン、共演がジョン・ボイド、ダニー・デビード、ロイ・シェイダーと豪華な顔ぶれで、しかも法廷ドラマだという。
 これはもう面白さは保証されたようなもの、胸ワクワクで観たのだが、また肩すかしをくったようだ。
 主人公である弁護士の卵が簡単に法律事務所に就職したり、資格を取得したりとあっけないオープニングで興をそいだ。悪徳弁護士のボスと純粋な主人公との間に仕事を進めていく上で何か葛藤でもあるのかと思ったらそれもない。
 一番期待していた法廷場面でも、息詰まるような、あるいはあっというような展開は見られなかった。
 何より不思議だったのは主人公が暴力亭主から依頼人の奥さんを救おうとして、逆に亭主をバットで殴り倒してしまうところ。結局奥さんが殺してしまい逮捕されて不起訴になるけれど、直接の原因をつくったにもかかわらす、その場から逃避し、奥さんに罪をかぶってもらったのに、主人公にそれに対する後悔とか動揺がないことだった。
 マット・デイモンのうぶな新米弁護士ははまり役で、相棒のダニーはうまいし、ミッキー・ロークの悪徳弁護士ぶりをもっと見たいと思わせるのに、全体の印象としてはまあまあといったところか。
 音楽の良さが特筆できる。

     ◇

1998/07/01

 「ディープ・インパクト」(丸の内ルーブル)

 この映画の予告編を初めて見た時、藤子・F・不二雄の短編マンガ(確かタイトルは「方舟はいっぱい」だったと思う)を思い出した。
 彗星の衝突(実際にはかする程度なのだが)、予測される地球規模の大災害、政府が秘密裏に推進するノアの方舟政策、TVキャスターによるスクープ、その暴露、避難できる国民の選出、選に漏れた者たちの嘆き、苦悩。暴動、混乱等々、藤子のマンガはその後の大惨事を暗示するところで終わるのだが、「ディープ・インパクト」はその後の大災害(大津波による首都崩壊)のSFXがウリである。
 ミミ・レダー監督は一見その作風に女性を感じさせない。前作「ピースメーカー」はアクション巨編、今回はSFパニック、何も知らなければ、ストーリー、映像ともに、その印象は堂々たる男性ベテラン監督の仕事ぶりではないか。
 しかし本編を観れば、ある部分で女性らしい情感を見せつけてくれる。
 前作は敵役のアメリカ合衆国に対する復讐する動機に女性の視点を感じ、そこが新鮮だったのであるが、今回はクライマックスである大津波襲来前のヒロインと父親の和解するシークエンスにそれを見た。
 ミミ・レダー監督の演出力は「ER」で一目瞭然ではあるがとにかく生半可のものではない(さすがスピルバーグに見込まれただけのことはある)。
 前半のメサイヤによる彗星爆破シーンのサスペンスは息がつけないほど興奮した。
 藤子マンガの印象からあくまでも秘密裏にノアの方舟政策を進めようとする政府と、それを阻止し、国民に真実を発表しようとするTV局との丁々発止のやりとりを描くサスペンスタッチの物語だと勝手に考えていたら、全然違った。
 モーガン・フリーマン扮する大統領は堂々と職務をこなす人物であった。
 「ID4」に続き、この映画でも自己犠牲による地球救助が描かれる。こういう展開って昔は日本の専売特許だったのに、アメリカ人の好みが変わってきたのだろうか。
 核弾頭による彗星爆破だけど、地球への放射能汚染の心配はないのだろうか?




1998/03/13

 「ブラス!」(シネ・ラ・セット)

 単館ロードショーながら静かな人気を呼んでいるイギリス映画。
 なるほど平日だというのに僕らが観た2回目の上映後ロビーでは次のお客さんが多数列を作っていた。派手な宣伝はしていないのだから、口コミによる人気だろう。
 日頃、アメリカ・ハリウッド製の映画に慣れ親しんでいる身としては映像のタッチ、カメラワーク、台詞(イギリス英語)にちょっとした違和感を覚えた。しかしこれも映画なのである。スター主演の大作映画だけが映画じゃない。小ぶりのしみじみする映画を暗闇で観るのもまたおつなものである。

 主演のピート・ポスルスウェイトの役者ぶりを堪能した。「ユージュアル・サスペクツ」のミスターコバヤシ役では全身から醸し出す異様な雰囲気に圧倒された。最初に登場した時は「何者だ、こいつ!」とばかり、この人の顔だけが印象に残った。
 「ロストワールド ジュラシックパーク」の恐竜狩りに命をかけるハンター役では、ティラノザウルスレックスを目の前にしても少しも動揺せずにライフルをかまえる、プロフェッショナルな猛者ぶりを好演していた。
 そして今回のブラスバンドの指揮者役。同じ容姿なのにこの映画では毎日音楽のことしか考えないちょっと無骨な親父に見えるのだから不思議。まさに役者!

 ストーリーはこの指揮者と市民ブラスバンドに中途から入ってくる紅一点の女性(実は石炭会社側の人間)とバンドの若い男性(二枚目)との恋を中心に展開するのかと思っていた。
 実際は指揮者の息子が真の主人公ともいえる存在で、彼の家族の崩壊、生活をとるか音楽をとるかの苦悩、他のメンバーと指揮者の仲介等々の悪戦苦闘ぶりが切実に描かれていた。
 失業するかどうかでバンドのメンバーが練習もままならない状態のまま強豪が多数集まるコンクールで優勝してしまうのはどうかと思うけど、まあいいや。
 夜、ピートが入院する病院の庭でバンドの連中が最後の演奏をするシーン、ラスト、ロンドンから帰るバスの中で皆で演奏するシーンが涙を誘った。
  
     ◇
 
1998/05/05

 「スターシップトゥルーパーズ」(日比谷映画)

 「週刊文春」の映画評でこの映画を取り上げていた。一部の人以外は黒星(観たら損するぞ)をつけていて、白星二つ(観る価値あり)をつけている人でさえ、その好戦的内容に文句をつけていた。実に評判が悪いのである。
 原作であるハイラインの「宇宙の英雄」も発表当時は全体主義だと批判されたという。

 まあ、ストーリー云々よりフィル・ティペット指揮するところの昆虫軍団の特撮がお目当てで観に行ったわけだが、地球連邦軍と昆虫軍団の戦いの残酷描写はすごい。腕や足が吹き飛ばされるのは当たり前、首はちょん切られるわ、頭がかちわられて脳髄は飛び出るわ、そのものずばりをなんの容赦もなく劇画調に描きだす。敵の昆虫も連邦軍のマシンガン攻撃でぐじゃぐじゃになる。スプラッター嫌い、昆虫嫌いの女性にはたまったもんじゃないだろう。(にもかかわらず親子連れやカップルで観に来る連中の神経はどうなっているの?)
 でも連邦軍を米軍に、敵の昆虫軍団をベトコンにしたらどうなるのか? かつてのアメリカの愚行をSF仕立てにしてリアルに描写しただけではないか。
 内容は確かに軍事力賛美である。地球連邦軍の正当性をアピールするTVニュースを随所に挿入して(まさしく「ロボコップ」のノリ)、主人公の若者たちが軍のトップとして活躍しだすまでを描いていてはいるが、それをそのまま素直には受け取れない。
 ポール・バーホーベン監督はそんな世界を戯画化してシニカルに見つめているように思う。
 内容は好戦、気分は厭戦・・・だ。

     ◇

 「エイリアン4」(日劇プラザ)

 封印した映画というのがある。
 僕が勝手にそう思っているだけで他人に強制はしないけれど、『エイリアン3』がまさしくそれで、僕の記憶には「エイリアン3」という映画は存在しない。
 「エイリアン2」はすごい映画だった。前作のストーリー展開を踏襲しながら、テイストの全く違う内容(ゴシックホラー→スペクタクルアクション)にしただけでなく、母性愛を全面的押し出したテーマがストーリーに合致し、何より観る者に安堵と静寂の余韻を与えたハッピーエンドが単なるSF映画を後世に残る感動作にしたのだった。
 にもかかわらずその続編である「エイリアン3」は前作の感動をあっさりと否定しまったのである。
 リプリーが命懸けで守った少女をいとも簡単に冒頭で殺してしまったのだ。エイリアンファンへの冒涜である。
 「2」のラストで地球への帰還の途に就いた少女、ロボット、そして傷ついた兵士は絶対に地球にもどさなければならなかったと今でも信じている。
 一度帰還した後、リプリーが新たな旅にでて「エイリアン3」の物語が始まったとして何らおかしくはない。
 3人を殺してしまったスタッフの真意がどこにあったのか理解に苦しむ。

 さて、「エイリアン4」はタッチが「エイリアン」に似ていてラストも希望にあふれたもので安心した。
 リプリーのクローニングに失敗した実験物がずらっと並んでいるところが一番の衝撃だった。
 エイリアン研究に挑む人間の愚かさをイヤというほど見せつけてくれた。




 今日はネガティブ思考についてお話しします。

 ネガティブというと、どうしてもマイナスイメージがありますが、ここで言うネガティブ思考は物事を対処するときに「最悪の事態が起きたことを想定して、解決法を用意しておく」という思考です。
 
 プロ野球の福岡ダイエーホークスが昨年日本一になりましたが、その陰にネガティブ思考の若手選手の活躍があったということです。
 篠原投手はドラフト2位で入団し、活躍が期待されましたが、1年目は2勝4敗3セーブの不本意な成績におわりました。
 メンタルトレーナーの岡本さんが、先発して速球で打者をなぎ倒すというポジティブ思考の強い篠原投手の考えを改めさせ、中継ぎとしてのイメージを思い描かせたのです。
 つまり、走者が塁にピンチの場合、どんな球を投げるか、そういうことを常に心がけさせ、14勝1敗の好成績に結びつけたのです。

 私事になりますが、この前の日曜日、所属する草野球チームの公式戦がありまして、わがチームは2点差で勝っていたにもかかわらず、最終回に登板した投手がフォアボールを連発、同点にされ、さらにフォアボールをだして負けてしまいました。
 最初、四球を出したとき、もしかしたら押しだしで負けたりしてと思ったんです。これもネガティブ思考なのではないかと思うんです。で、その後の作戦をどうとるか?
 このとき、投手は試合に初めて参加した新人でした。野球の経験が豊富ということで確かに守備や打撃で大活躍だったんですが、ことピッチングに関しては、球が上に上に集まってしまって、ストライクが入らない状態で、彼に最後まで投げさせたのが果たしてよかったのか? 
 それまで好投していた投手を再登板させ、それで四球が出た、あるいは打たれたといった結果の方が、ほかの選手にしてみれば、ある種の諦めがついた、気持ちも切り替えられ、次の大会にのぞめるのではないか、と思った次第です。

 考え方の一つとして、今日はネガティブ思考をご紹介しました。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top