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2000/04/01

 「知的生産の技術」(梅棹忠夫/岩波書店)

 一時、文章の書き方、メモ等の情報整理に関するハウツー本を何冊も読んだことがある。
 その時、必ずと言っていいほど話の中に出てくるのが梅棹忠夫の「知的生産の技術」だった。本書の初版が上梓されたのが1969年。当時としては画期的な書物だったのだろう。

 昨年、古書店の岩波新書コーナーに100円で販売されていたので、とりあえず購入しておいた。
 はじめの方はカードの作り方、分類の仕方についてのノウハウが書かれてあり、これはあまり興味がなかった。6.の読書以降が個人的にはおもしろいし、ためになる。

 読んでいて、気になったことがある。漢字がやけに少ないのだ。
 たとえば、まえがきの冒頭の文章に

 この本ができあがるまでのいきさつを、かんたんにしるしておきたい。

 とある。僕の感覚だと

 この本ができあがるまでのいきさつを簡単に記しておきたい。

 と書くところだ、人によっては〈出来上がるまで〉とするかもしれない。
 いくつかの「文章の書き方」を読んではっきりしたのは漢字を使えばいいというものではない、ということだった。読みやすさ、見ための印象を考慮すると、ひらがなを有効活用すべきだ、と多くの本に書かれている。だから接続詞のたぐい、あきらかに当て字と思われる漢字は使用しない、ということは心がけてきた。

 それにしても、本書はあまりにもひらがなばかりで、どこで区切っていいかわからない場合がままあり、かえって読みづらい。そんなことを思いながら読み進むうち、ある法則に思い当たった。
 漢字かなまじり文の廃止。単語としての漢字のみの使用。ということだ。

 そういえば週刊文春に「お言葉ですが…」を連載している高島俊男が最近出した本でなるべくかな文字を使用することを心がけたと書いていたが、本書みたいな体裁なのですな。

 この漢字、ひらがなの使用については、7.ペンからタイプライターの章に詳しく著者自身の見解が述べられている。
 この章は別の意味でも感慨深いものがあった。時代の隔世を感じたのだ。
 パソコン、ワープロが一般的になった現在、著者が述べていることはほとんど意味のない理論になってしまった。
 かつて日本の国字改良運動というものがあって、新字論、ローマ字論、カナモジ論など、真面目に議論されていたかと思うと別世界の出来事のように思ってしまう。
 文章を書く一連の工程(カードを使って、分類し、文書に起こすという作業)も、今ではワープロ(ソフト)でできてしまうのである。

     ◇

2000/04/17

 「日本のフォーク&ロック 志はどこへ」(田川律/シンコー・ミュージック)

 1970年前半はフォーク全盛時代といっていいだろう。
 小学6年の時、クラスの女の子の何人かが今まで聴いたことのないようなメロディを口ずさんでいた。それがよしだたくろう(吉田拓郎)の「結婚しようよ」だった。
 それから一気にフォークブームが押し寄せ、中学時代は友だちがバンドを組んで活動していた関係もあってまわりはフォークにあふれていた気がする。
 吉田拓郎と井上陽水をトップにそれこそ百花繚乱という感じで個人、デュオ、グループ等さまざまなフォークシンガーが登場し、歌を旗印に何やら新しい文化を構築する勢いだった。僕より一回り上の世代、いわゆる団塊の世代が活躍する最初だったと思うが、僕はそんな世代を憧れをもって眺めていたものだ。

 そんなフォーク(およびロック)の黎明期から現在までの軌跡を音楽詳論家・田川律自身の体験をもとにつづったのが本書である。
 この本の存在は前々から知っていたが、実物にお目にかかったことがなかった。ある日、いつも利用している古書店をのぞくと文庫があったので買っておいたのだ。

 これまでも、この手のフォークの歴史について書かれた本はいくつか目をとおしていて、本書が特に目新しいといえるものでもない。が、ずっとひっかかるものがあった。
 この本で興味深いのは副題の〈志はどこへ〉の部分である。
 60年代に登場したフォークは既成の音楽(歌謡曲)にはない〈何か〉があった。自分たちで作った歌にはいわゆるプロの作家からの提供された〈いかにも作られた世界〉の楽曲にはない自己主張があった。メッセージ色の有無に関係なく、彼らの歌にはきらめくものが感じられた。
 しかし、フォークがニューミュージックとなり、音楽業界の主流となってからというもの、フォークの底辺に流れていた精神性というものも変格してしまったのが悲しい。

 同様に期待と憧れのまなざしで見つめていた団塊の世代にも失望する時がくる。
 80年代後期、20代、30代とこれまでの文化を変えるような勢いを示した彼らも中年になると(40代をむかえ)その上の世代と何ら変わらない趣向を示してきたのだ。
 たとえば「やはり演歌はいい」なんて今まで否定していたド演歌を歌い出す。反体制を標榜してきたのが、管理職になったとたん体制側に与してしまう。これはあくまでも例にすぎないが、まあその他にもいろいろあって、僕には裏切りとしか思えなかった。
 もちろん、フォーク歌手(今ではもう死語だろうけど)の中にも、70年代当時と同じ情熱、気構えを感じさせ、同じ音楽性を維持している歌手もいることは確かである。彼らの活躍を祈らないではいられない。
 もう団塊の世代は50代に突入した。今後、60代、70代になろうとも僕(たち)の生き方の指針となる目標であってほしい。

     ◇

2000/05/01

 「朝日新聞の正義」(小林よしのり・井沢元彦/小学館文庫)

 子どもの頃、うちではサンケイ新聞(産経という漢字を使用する前)をとっていた。
 当時、サンケイはTV欄が別紙扱いになっていて、手塚治虫の「青いトリトン」(アニメ「海のトリトン」の原作)の連載が楽しみだった。雑誌でいうとほんの1ページだけの掲載なのだが、これが一番の楽しみで毎朝新聞を開いていたものだ。
 連載マンガはその後フジテレビの特撮時代劇の原作「怪傑ライオン丸」、「風雲ライオン丸」と続き、現代モノの「鉄人タイガーセブン」のところで僕の記憶は途切れている。

 中学生になると第1面のコラム「サンケイ抄」を読むようになった。
 日本が中国と国交を回復した後、サンケイだけが台湾との関係を継続していため中国に特派員を常駐できない事件が起こった。他の新聞が中国べったりの体制の中、サンケイだけが独自の道を歩んでいた。
 どうやらサンケイは右寄りだというのがわかってきたのが、だから嫌いになったわけではない。「サンケイ抄」に書かれていることはいつも納得にいくものだったからだ。

 当時、他の新聞に対してどうという思いはなかったが、朝日だけは権威主義で好きになれなかった。
 いわゆるサンケイファンだったわけで、それがまずかったと今でも思っていない。サンケイを離れたのはフジテレビの力が強大になって、あたかもTV局のパブリシティメディアになり下がった感があったからである。
 大学生になり、東京での一人暮らしを始めると、主に就職活動のために朝日新聞を購読するようになった。週刊文春を毎週読むようになって、バランスをとる意味もあったかもしれない。
 以後、ほとんど朝日をとっている。読売はアンチ巨人として、何より社長が大嫌いなので絶対とらない。毎日は問題外。東京新聞は一時興味をもったのだが、どうも紙面が面白くない。長年の習慣で朝日新聞に慣れてしまったようだ。

 といっても、今では朝日新聞を全面的に信用しているかというとそうではない。
 映画「ガメラ2 レギオン襲来」が公開された時、自衛隊の活躍が描かれたからだろう、政治面のコラムで「ガメラがアメリカだとするとこの映画の意図するものがわかる」とかなんとか批判していた。この時は新聞社に抗議をしようかと初めて思ったほど怒り心頭だったが、この記事を書いた記者は映画を娯楽として楽しめないかわいそうな人なのだと何とか自分を納得させたのだった。
 社会主義に理想など求めはしない。かといって選挙権を得てから一度も自民党に投票したこともない。けっして右寄り思想ではないと思っている僕だけれど、本書で語っている二人の意見はほとんど肯定してしまう。
 ある種の雑誌、あるいは左系の学者、文筆家の文章を読むと、右翼的な存在の権化といった存在でかなりの批判を浴びている二人の対談だから、ホントはもっと反発する部分もあるかと思ったのだけれど。

 実際問題として、自虐史観派と自由史観派のそれぞれの主張を聞くとどうしても自由史観派の方に分があるような気がする。ダメなものはダメというのは、もちろんそれも論理の一つともいえるが、心の余裕のなさともとれる。
 従軍慰安婦を示す資料はない、と主張する櫻井良子の講演会が反対派に中止されたこと、柳美里のサイン会が右翼に中止されたことは、根本的なところは同じことである。
 しかし、櫻井に関しては口をふさぎ、柳のときだけ非難する記事を掲載するというのはどう考えたっておかしい。

 本書にはそんななるほどと思えることがいろいろとでてくる。
 本当なら右と左、それぞれの本を真面目に何冊も読んで、判断しなければいけないことなのだろうが、とりあえずこれまで僕が読んだその手の本から言うとそういうことになる。




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 先週25日(土)、15時からBC二十世紀にて「三島由紀夫 心の歌を聴け」を開催。音響担当としていくつかミスしてしまったが、なんとか無事終了。打ち上げのあと、東京駅へ。23時30分発のJR深夜バスで大阪へ向かった。今回もバスの中でぐっすり眠れた。最初の休憩時に気がつかなかったくらい。
 翌26日(日)は毎年恒例の「紙ふうせんリサイタル」が兵庫県立芸術文化センター中ホールであった。終了後、近くの洋食とワインのお店でFCと出演者による懇親会。
 その後、2次会、その他、いろいろありまして……。
 27日(月)、12時20分新大阪発の新幹線で東京へ。
 帰ってきて、横になったらすぐに意識がなくなった。
 怒涛の3日間だった。

          * * *

「居酒屋ゆうれい」 in 「第9回船堀映画祭」から続く

 「居酒屋ゆうれい」は劇場で観ていないと思っていたが、実際に鑑賞してみると観た記憶が蘇ってきた。山口智子とトヨエツの絡みのシーンで。確か渋谷の劇場だったのではないか?
 原作は山本昌代の同名の小説だが、立川談四楼独演会に通うようになって落語「三年目」を知り、この噺にインスパイアされたものと確信した。

 こんな話だ。
 ある若夫婦。仲むつかじかったが、かみさんが病弱で風邪がもとで寝込んでしまった。亭主の看病の甲斐もなく身体は弱っていく。かみさんは自分が死ぬと、あなたが後添いをもらう、それが心残りでたまらないと言う。亭主は「何バカなことを言う。もし仮にお前が死んだとしても私は再婚しない」と応えるが、信じてくれない。
「だったら、こうしよう。もし私が再婚したら、初夜に幽霊になって化けて出てきなさい。相手は怖がってすぐに結婚を取り消すから」
 かみさんはその言葉に安心して死んだ。
 親戚連中がすすめる再婚を最初は耳をかさなかったが、結局断りきれなくて再婚。その婚礼の晩、元妻の幽霊がでてくると期待したが来なかった。
 そうこうしているうちに子どもが生まれた。
 そんな三年目のある夜、突然のように元妻の幽霊が現れて、亭主が再婚してかわいい赤ちゃんまで生まれたことを嘆くのだ。
「なぜ、婚礼の晩にでてこなかった? 私は今か今かとずっと待っていたのに」
「だって、死んだとき剃髪されたでしょう?」
「ああ、親戚中が一剃刀ずつ当てた」
「あんな頭ではあなたに会えません。髪が伸びるまで待っていました」

 テンプターズ時代からのショーケンのファンなら、特に70年代のドラマ、映画を夢中で追いかけていたファンなら、主人公の居酒屋の主人、荘太郎と「前略おふくろ様」のサブちゃんをダブらせる楽しみがある。料亭の板前からドロップアウトしたサブちゃんが流れ流れて横浜の、京急沿線の街で居酒屋を開業して働いている姿と考えられるから。
 荘太郎の私服姿が少々ダサくて、それがまたショーケンらしくて素敵だ。

 病弱の妻は室井滋。この役で報知映画賞最優秀助演女優賞やキネマ旬報最優秀助演女優賞等数々の映画賞を受賞している。妻は亡くなる前にこう言うのだ。
「自分が死ねば、店の切り盛りのためにもあなたは新しい女と一緒になるだろう」
 否定する壮太郎に、妻は続けて言う。
「もしあなたが再婚したら化けてでるから」
 妻は翌朝亡くなった。

 一人身の壮太郎に兄が見合いをすすめる。この兄を演じるのが尾藤イサオ。「股旅」以来の共演だろうか。尾藤イサオはその後市川崑映画の常連になるが、ショーケンは一度も出演することはなかった。な、ことはどうでもいい、
 最初は見合いの話をきっぱり断る壮太郎だが、その後いろいろあって再婚。
 新妻役の山口智子がハツラツとしていてまぶしい。
 そんなふたりの中に嫉妬して元妻が幽霊として現れたからさあ大変!

 公開当時はあまり酒を嗜なまず、飲み屋へはあくまでも仲間と行くというものだったのでわからなかったが、今なら居酒屋「かずさ屋」が居心地のいい店だということがある。
 会社の帰り、読書のためにカフェを利用していたが、6、7年前から居酒屋に変更したためだ。
 最初は川口中央図書館に寄った帰りにすぐ近くにある〈さくら水産〉だった。それから西川口駅前の商店街にオープンした某店(今はない)。最近は御徒町の〈一軒め酒場〉に通っている。新宿で映画を観た後は〈清龍〉にも立ち寄る。カウンターの常連客とけっこう話がはずむのだ。
 
 「かずさ屋」の常連客は、店に魚を卸している八名信夫(毎回支払い額が同じというのがおかしい)、ギャンブルに狂って妻子と別れた三宅裕司(後半の展開に大きく関係してくる)、酒屋の息子という青年。この青年が西島秀俊で驚いた。もちろんこの青年のことは覚えていた。いかにも今風の若者って感じで軽い印象しかなかった。今の西島秀俊と結びつかない。若すぎる!

 このまま続けます





 今日はセガのCMについてお話しします。
 実は私の社会人の第一歩は、とあるCMの制作会社だったんですね。そんなこともあって、また、もともと映像媒体には興味がありますからセガのCMには注目していました。

 ソニーとセガの次世代機競争では当初から2社の宣伝に目がいきました。一発目は断然セガの方が面白かったといえます。
 ところが途中から、セガは昔ながらのCMに逆戻りしてしまったのに対して、プレステは最初から予定していたのか、あるいは戦略上方向転換したのか、いわゆるライトユーザーの取り込みというのでしょうか、そういうあまりゲームに関心のない層に向けて宣伝がうまいなぁと思いました。

 それまでのゲームのCMというのは、ほとんどフォーマットが決まっていて、わかる人にはわかる、わからない人はほおっておくというものでした。
 それをプレステは日常の風景の中にゲーム機やゲームソフトを溶け込ませて、あたかもゲーム機がTVやステレオなどのような毎日の生活を楽しくさせるある種必需品みたいな感覚を視聴者に植え付けたんだと思っています。

 まあ、このようなことはさんざ雑誌や新聞で喧伝されたことでありますが、実際ゲームに疎い私としてはプレステのCMを見ていると、ああ世の中にはこういうゲームがあるのか、何か面白そうだな、まあ一つ購入しておいてもいいかなぁという感じを持ったことは確かなんです。
 もちろんプレステが大勝利をおさめたのは、面白いソフトをたくさんリリースしたこと、有力なサードパーティーを取り込んだことなどが要因ですが、このCMの力もバカにできないのではないでしょうか?

 ということで、次回はセガの起死回生の自虐的CMについてお話しします。
 乞うご期待。




2001/12/04

 「かあちゃん」(日比谷みゆき座)

 この数年邦画では時代劇がちょっとしたブーム(というものではないか)になっている。時代劇というと武士(侍)が主人公で、斬り合い(アクション)がお目当てになってしまいがちだ。もちろんそういう映画も好きである。が、時代小説の面白さに目覚めた者として、切った、張ったの世界ではないもっと庶民の暮らしに焦点を当てた江戸の情緒を前面に押し出した作品もあっていいではないか、と思う。
 フジテレビで定期的に放映されている「鬼平犯科帖」など、たぶんにその傾向が強いのかもしれない。とはいえやはり昔ながら捕物帖の範疇に入るだろう。NHK「茂七の事件簿 ふしぎ草紙」も事件そのものより人の心のうつろい、襞に触れたこれまでにない捕物帖でありかなり健闘していたのだけれど同じことがいえる。  
 「ビックコミックオリジナル」に連載されている「あじさいの詩」みたいなほのぼのした世界を映画化できないものかとずいぶん前から考えているのだが(主人公の男の子の父親(浪人)に藤竜也かショーケン、殿様にいかりや長助とか。知らない人には何のことだかわからないですね)。  

 で、市川崑監督が人情時代劇「かあちゃん」を撮ると知った時は快哉を叫んだ。主演は市川監督の代表的な作品(「おとうと」「悪魔の手毬唄」「細雪」等)で印象的なヒロインを演じた岸恵子。映像は「おとうと」や「幸福」、昨年の「どら平太」のオープニング&エンディングで採用された銀残しといわれるモノクロとセピアの中間みたいなカラー(シルバーカラーというのだそうな)。期待するなというのが無理というもの。  
 ロードショーされてから公私に忙しくなかなか観に行く機会がなかったが、和田誠と森遊机が市川作品の魅力について語り合った「光と嘘、真実と影」を読んだら、もういてもたってもいられない。  

 平日の最終回だとしてもみゆき座はあまりに客が少なかった。だだっ広い劇場内にお客は僕を含めて20人ほど。混雑なんて予想していなかったが、もう少し年配客が多くてもいい。市川監督作品だからということは別にして、ヒットしてくれないと二度とこの手のジャンルの時代劇が作られなくなってしまうからだ。

 時は天保の大飢饉の頃。江戸のとある貧乏長屋に住むおかつ(岸恵子)一家は家族総出で働きづめ、つきあいもそこそこにかなりの金をためているとの噂が囁かれている。生活に貧窮した青年(原田隆二)が噂を聞きつけ、夜遅くこの家に泥棒に入るが運悪くおかつに見つかってしまった。おかつはなぜ自分たちが金を貯めているのか、青年に説明する。理由を知り改心して立ち去ろうとする青年。そんな青年をおかつは引き止め、家族の一員として面倒をみてやるのだった。  

 原作は山本周五郎。脚本は和田夏十がかつて書いた中篇を竹山洋と市川崑が手を加えている。  
 本筋に入る前にくすぐりがあって、話そのものも落語の人情噺といった感がある。  
 貧乏長屋のセットやそこでつつましく暮らす人たちの模様が銀残しのやさしく暖かい映像にぴったりはまった。和田誠のイラストを使ったタイトルもいかにも市川監督らしい処理の仕方、特太明朝体のクレジットが気持ちいい。  

 メーキャップのせいもあるのだろうか、岸恵子がとても老けている。年齢を考えれば当然なのだが、「約束」の30代の頃の姿を拝見したばかりなので、特にその思いが強いのかもしれない。でもきれいだし気品がある。市川作品で岸恵子が演じる女性は一本筋が通った、凛とした姿、たくましさを感じさせるところが共通している。  
 居酒屋で噂話に高じる暇人カルテット(春風亭柳昇、中村梅雀、江戸屋小猫、コロッケ)の会話が楽しい。特に中村梅雀の江戸弁が耳に心地よい。長屋の大家に扮する小沢昭一の身振り、手振り、口跡もたまらない。小沢昭一が登場するともろ落語の世界だ。楽しみにしていた仁科貴(川谷拓三の息子、「茂七の事件簿 ふしぎ草紙」の茂七の子分役以来注目している)は岡っ引きでラスト近くに一瞬の出演、ちょっと物足らない。  

 話はほとんどおかつの家、居酒屋、長屋の内外とほとんどセット撮影だが、青年が一度おかつの家から逃げて一人娘が追うシーンで広大な平原がでてくる。遠景はCG処理されているロケーション撮影だが、これが効果的だった。  
 しっかり市川作品の常連役者になった宇崎竜童の音楽もまったく宇崎節でないユニークなもので印象に残る。

     ◇

2001/12/18

 「ハートブレイカー」(渋谷公会堂 試写会)  

 シガニー・ウィーバーはハリウッドを代表する〈色気のない女優〉なのだそうだが、本当にそうなのだろうか?  
 これは個人的な趣味だから一般論として通用しないのは百も承知しているけれど、僕自身は普段それほど色気(流行り言葉でいえば〈フェロモン〉か?〉を感じさせない女性がふと見せる色っぽいしぐさや表情にたまらない魅力を感じてしまう。逆にお色気ムンムンだと、もうそれだけである種の壁みたいなものを作ってしまって受け入れられない。  
 変な例だが、たとえば叶姉妹なんてどこがいいのかわからない。あの手の女性に鼻の下を長くしてしまう男性の心情が理解できないのだ。  

 シガニー・ウィーバーは、確かに出世作「エイリアン」シリーズでは男勝りのヒロインだったし、その他でもキャリアウーマン的な役柄が多く、色気とは無縁な存在といえなくもない。が、「エイリアン」第一作のラストで見せた半ケツ状態のパンティ姿の衝撃は忘れられない!結局のところ、僕のシガニー・ウィーバーに対する印象はあの小さな小さなパンティからはみだした尻の割れ目だったりするわけだ。  
 てなわけで、シガニー・ウィーバーは決して〈色気のない女優〉ではない(「ゴーストバスターズ」でもけっこうこちらの気持ちを欲情させてくれる役柄だったよう気がする)。やる時はやるのです。  

 その見本がこの「ハートブレイカー」だろうか。  
 結婚詐欺を働き、世の男性からしこたま金を奪い取る母娘(シガニー・ウィーバー&ジェニファー・ラヴ・ヒューイット)が巻き起こすコメディ映画。  
 冒頭でシガニー・ウィーバーとカモの新郎である盗車専門のディーラー社長(扮するは「ハンニバル」で脳みそを食われたレイ・リオッタ)の結婚式、その新婚初夜の様子が描かれる。  
 パーティーを終え、やっとふたりっきりになった新郎は早く妻を抱きたくてたまらない。ドレスを脱ぎ捨て新郎を欲情させる新婦はじらしにじらした末酔っぱらって先に寝てしまう。翌日下半身をうづかせながら新郎が出社すると秘書が何かと挑発する。つい魔がさして秘書に手をだしたその瞬間、新妻が仕事場に訪ねてきてさあ大変! 即離婚とあいなって男は一度も妻を抱けずに莫大な慰謝料を支払うことになってしまうのであった。  
 実はこの秘書がシガニーの娘。母親の結婚相手を娘が誘惑。それを理由に離婚を申し立て、慰謝料をせしめるというのが彼女らのやり方。このコンビでこれからもうまくやっていこうとする母親に対して娘は独立を主張する。ところが単独で引っ掛けたバーテンダー(ジェイソン・リー)に心身ともにメロメロになってしまうのだ。母親も次のターゲットを大金持ちの老人(ジーン・ハックマン、映画を見ている間はまったく気づかなかった)にさだめ、何とかものにしようと四苦八苦……。  

 シガニー・ウィーバーが最初から妖艶な女性を大熱演。新郎の前でドレスを脱ぎ捨て、下着姿になるのだが、その姿っといったらあなた! そこまでやるかった感じで……たまらんです。彼女はすでに50歳を超えているはずで、それでいてあのプロポーションなのだから驚愕してしまう。  
 老人にロシア人だと偽って接近すると、仲良くなってからロシア料理のレストランに連れて行かれ、ロシア民謡(?)楽団をバックに歌をうたうはめになってしまう。ロシア人なら誰でも知っている歌だというがアメリカ人の彼女に歌えるわけがない。一気にしらけるお客さんたちを前にして、シガニーは一計を案じ、楽団に指示する。演奏され始めた音楽は一見ムード歌謡っぽい甘く切ないもの。一体何を歌うのかと耳を傾けていると、転調してシャウトするのはビートルズの「バック・イン・ザ・USSR」ではないか! このシーンは映画の中で僕の一番のお気に入りとなった。シガニー・ウィーバーは歌もうたえるのですね。うまくないけれど。こんなところからも彼女がノッてこの映画に取り組んでいるのがわかる。  
 娘役のジェニファー・ラヴ・ヒューイットは自慢の長い黒髪よりも変装したときのショートのブロンドの方がキュートだ。  

 上出来の映画だと思う。ただ、最近の映画はあまりに上映時間に無頓着すぎる。なんでもかんでも2時間なんて当たり前になってきて、この映画も2時間ちょっとの長さ。せめて1時間40分ほどにまとめられていたら、コメディー映画としてかなり点数が高くなるのに。

     ◇

2001/12/21

 「ポワゾン」(銀座シネパトス)

 「トゥームレイダー」を観た後だったか、アンジョリーナ・ジョリーは服部まこ(今はまこが漢字になっているはず)に似ていると友人に指摘され、笑ってしまった。だから自分の好みではないのか。
 「トゥームレイダー」のラストで見せた女っぽい姿にいまいちピンとこなかったのだが、公開中に観た「ポワゾン」の予告編で妖艶な悪女を演じると知って正反対の役柄をどう演じるのか興味深かった。

 ……嘘です。「ポワゾン」がR-18指定で、ララの裸身とめくるめく官能の世界を堪能できると期待しただけだ。好みじゃないと言っておきながらこのありさまでお恥ずかしい……。
 試写会「レイン」に行くはずが僕の大いなる勘違いで、日にちを間違え(前日だったのだ!招待状を無駄にしてしまったことが悔やまれる)、急遽この映画を観ることになった。時間もなかったからディスカウントチケット屋で前売券を購入することもできず、珍しく1,800円を支払った。

 文通だけで結婚相手を決めてしまった資産家の男・アントニオ・バンデラスのもとへやってきた女・アンジョリーナ・ジョリーは写真とは全くの別人だった。自分の美貌だけに目がくらむ男でないことを確かめたかったからだと言う。男も資産があることを隠してした。
「美人だけどいい?」「裕福だけどいいか?」なんて会話をかわすのだが、ったくいい気なもんだ。
 ところはこれが罠だった。女は自分の恋人と組んで、結婚相手になりすまし、愛を信じていない男を虜にしたかと思うと、資産をネコババして行方知らずとなった。
 最初は女に怒りを覚える男だが、ある日偶然女と再会するとすべてを許し、元のさやに収まろうとする。女も承知する(ホント、いい気なもんだ)。しかし女の恋人が執拗にふたりを追ってきて事態は予期せぬ方向へ進展していく。

 話は獄中の女が死刑執行前神父に自分の罪の懺悔する、その回想シーンとして進展する。
 この映画の原題は「Original Sin」(原罪)。原題だとヒットしそうもないけれど、ここにスタッフの観客に対するトリックが隠されているのではないか。
 本当の婚約者だった女性の家族から依頼され女の行方を追う探偵の正体が種明かしされるまえにわかってしまったように、「ポワゾン」というタイトルそれに獄中の女の身の上話に異常に反応する神父の表情でラストのどんでん返しは容易に予想できた。    

 それはいいのだけれど、この映画のどこが18歳お断りなのだろうか。ふたりのベッドシーンはしごく見慣れたものだよ!  
 エンディングロールに流れる主題歌が印象的だった。

     ◇

2001/12/29

 「ハリー・ポッターと賢者の石」(渋谷東急)  

 書籍「ハリー・ポッターと賢者の石」が評判を呼びはじめた頃、かみサンと娘はすぐに図書館にリクエストして読み始めた。二人の感想も上々だったにもかかわらず僕はまったく関心がわかなかった。  
 子ども向けだからではない。この手の物語ってどうも苦手なのである。「果てしない物語」「指輪物語」等々、いわゆる西洋の冒険ファンタジーものは読む気になれない。

 だいたいタイトルが直訳で面白みがない。  
 「ハリー・ポッターと賢者の石」で、まず思ったのは〈○○○(主人公の名前)+×××(物語の要となるモノの名称)〉のタイトルは欧米においてごくごく一般的なスタイル、パターンなんだなということ。
 映画「インディー・ジョーンズ/魔宮の伝説」「インディー・ジョーンズ/最後の聖戦」の原題はそれぞれ「INDIANA JONES and the TEMPLE OF DOOM」「INDIANA JONES and the LAST CRUSADE」だもの。でもそれはあくまでも海外でのこと、日本語だと当たり前すぎてつまらないものなってしまう。
 「ハリー・ポッター」シリーズも翻訳出版の際、もう少しタイトルに気を使ってくれればよかったのに。(弱小出版社の社長であり翻訳者の女性が亡き夫の願いを忘れず、翻訳権を獲得して出版するまでの過程の方が興味あります)

 書籍がそれほど有名でなければ、映画化にあたって配給会社も改題したのだろうが、世界的にベストセラーになったらそういうわけにもいかないだろう。
 冒険ファンタジー小説はそれほど好きではないが、映画となれば話は別。特撮がふんだんに使用されるからだ。特撮ファンとしては押さえておかなければなるまい。

 原作がどういう味わいなのか知らない。が、映画は小説世界をうまく映像化したのではないか。お話自体に期待していなかったこともあるけれど、僕はとても楽しめた。

 人間界で育ったハリー・ポッターは11歳になると魔法学校に通うため寮生活を送ることになった。
 同じ寮のロン、ハーマイオニーと友だちになったハリーは学校が保管している、不老不死の水を作り出せるという〈賢者の石〉をヴォルデモートが狙っていることを知る。
 その昔ハリーの両親を殺したヴォルデモートは肉体をなくしたのだが、賢者の石を使って復活しようとしている!ハリー、ロン、ハーマイオニーの3人は賢者の石が保管されているであろう禁断の場所・3階へ足を踏み入れる……。

 ハリー・ポッター役の少年(ダニエル・ラドクリフ)を初めて見た時、小松左京原作・製作「さよならジュピター」に出演した幼き日のマーク・パンサー(globe)を思い出した。僕の記憶が正しければ、のことだけど。
 映画全体からは「スターウォーズ」をイメージした。
 主人公は両親がなく叔母夫婦に育てられ、その後優秀な魔法使いの息子だとわかる。伯父夫婦に育てられたルークもジュダイの騎士だった。
 で、魔法学校で友だちになるロン、ハーマイオニーはハン・ソロ、レイア姫(イギリスが舞台ということ、年齢的にこのトリオは「小さな恋のメロディ」のダニエル、メロディ、オーンショーとみることもできる)。その他登場人物がけっこう「スターウォーズ」を彷彿とさせるのだ。

 特撮映像でいえばクィディッチの試合。まさに「スターウォーズ ジュダイの復讐」のスピーダーバイクのシークエンスのようで疾走感にあふれていた。
 クライマックスとなるチェスのやりとりなんか、ちょこっと「スターウォーズ」にも出てきたっけ。
 まあ、「スターウォーズ」そのものが昔からの冒険ものを下敷きにしたものだから、当然といえば当然か。
 魔法学校のある町へ走る特急に乗るため実際に駅にはない〈9と3/4番線〉へ行く方法なんか考えただけでもわくわくしてしまう。
 キャスティングがいい。アラン・リックマンとジョン・ハートのキャスティングに原作を読んでいない僕は見事にだまされた。

 架空の町、学校が舞台だからCGや合成がふんだんに使用され、映像につきぬけるような明かるさがないのが残念だけど、原作を知らなくても十分楽しめ、2時間を超える上映時間がまったく苦にならない。
 次作は大いに期待しよう。




2000/03/15

 「藤子・F・不二雄のまんが技法」(藤子・F・不二雄/小学館文庫)

 最近、マンガを描き始めた娘のために購入したようなもので、買ったその日に電車の中でざっと読んでしまった。
 藤子不二雄のまんが入門書は以前購入したことがある。創刊したばかりの「少年チャンピオン」に「まんが道」といっしょに見開きで連載されていたものをまとめたもので、当時はまだ二人で一人だったから名義はあくまでも〈藤子不二雄〉。しかし、今から思えば藤子Aの著作だった。

 子どもの頃からトキワ荘に関する書籍を収集している。藤子不二雄のまんが以外の本も手に入るものはほとんど購入しているが、その手の本、たとえば「二人で漫画ばかり描いてきた」「トキワ荘日記」はみな藤子Aの手になるものであり、藤子Fの文章というものにあまり触れたことがない。(「二人で漫画…」では各章の冒頭に短くFの文章が掲載されているが)
 そんなわけで、新聞広告でこの新刊の発売を知った時、ハウツーものというよりエッセイのたぐいととらえ、欲しくなった次第。
 文中、ほかのトキワ荘仲間については触れているのに、まったく藤子Aについての記述がなかったのが淋しかった。

     ◇

2000/03/19

 「夢分析」(新宮一成/岩波文庫)

 もの心がついてからかなり奇抜な夢を見るようになった。印象的な夢で目が覚めてからも憶えているものは必ず日記につけているが、それがどのような深層心理からみたのかはこれまで調べたことはなかった。
 夢判断や夢の分析についての書籍は硬軟さまざまな本が出ていると思う。どういうわけかこれまであまり関心がなかった。たまたま羽田図書館の新刊コーナーでそのものずばりのタイトルである本書を見つけた。その時はほかに借りたいものがあったので、そのままにしておいて、いざ借りる際になった見当たらない。結局、川口市民図書館の岩波新書コーナーの棚にあったのでやっと借りてきた。

 空飛ぶ夢が人が初めて言葉をしゃべった時の記憶にもとづくというのはなんとなく理解できた。親が「高い高い」と赤ちゃんを持ち上げる。人はその行為を空を飛ぶことに結びつけるのだ、と言われれば、そうかもしれないと思う。
 虫にたかられる夢が妊娠を意味しているってこともまあいい。
 しかし、夢に出てくる数字がある事柄を示しているというのはどう考えて納得いかない。
 2が女性、3が男性器(ファルス)、4が結婚、5が自分という子どもの誕生を意味するという。これだけでも信じられないのに、6がまだ結婚してい ないことを意味している理由がすごい。10から4を引くと6、ゆえに6はまだ結婚していないことなんだ、と。根拠はどこにあるのか? 「本当かよ!」と思わず叫んでしまった。
 このへんのことは専門書をあたってみなければいけないのかもしれない。

 洪水は類型夢の1つで尿排泄象徴を表してという。排泄といえば、そのものずばりの夢を何度も見ている。小便がしたくて、トイレに駆け込むが、便器まわりが極端に汚れていて、なかなか用をたせないという状況。父親もよく見る夢だと言っていた。もしきれいな便器だったら、そのまま用をたして、オネショしてしまうことになるのだろうか。
 類型夢には3種類あって、裸で困る夢、近親者の死ぬ夢、試験の夢だという。ふと気づくと町中を裸で歩いていて、人目を気にしたりする夢も何度も見ている。
 いつ頃だったか、忘れたが、一度父親が死んだ夢をみたことがあって、やたらに悲しかったのを憶えている。泣くことしかできなかった。
 これもかなり前のことだが、僕自身が同じアパートに住む顔見知りの人を殺した夢をみたことがある。殺した後、何くわぬ顔で生活している自分にショックを受けた。

 試験の夢はいまだに、というか学生時代より今の方がよく見る。それもほとんどシチュエーションが同じものだ。
 僕は高校生。その日、ある教科(だいたいは大嫌いな数学)の試験があって、すごい寝坊してしまう。早く行かなければとあせりながら、いつも休んでいる教科だし、今さら行っても仕方ない、なら、もう休もう、と簡単にあきらめてしまうのだ。
 高校時代、僕は一度も休んだことがない(本当は3年生の時に一度だけ、どうしても行きたくない理由があって、ずる休みしているが、記録されていない。通知票の上では皆勤賞なのである)。どうもこの夢は大学時代の思い出が変な形で紛れ込んでいるのである。あせりながら、ずるしてしまう気持ちというのが実にイヤ~なもので見るたびに落ち込む夢である。

 本書にはサンプル用にさまざまな夢の内容がでてきて、中にはその夢を見た人が自分で内容の分析をしたりしている。僕自身の夢の夢が分析された場合、どんな結果がでるのだろうか。それを思うとけっこう怖いものがある。

     ◇

2000/03/27

 「日本語練習帳」(大野晋/岩波新書)

 昨年ベストセラーになった時、興味はあったけれど購入することも、図書館から借りることもしなかった。
 日本語の大御所ともいうべき著者が岩波新書で何を書いているのか、という興味よりもあまりのベストセラーに気がひけたのだろう。
 今年になって、そろそろ読もうかなと思っていたら自宅への帰り道によく立ち寄る古書店にあった。買ったままずっとツン読状態になっていたものだ。

 タイトルどおり本当に練習帳だった。
 この前読んだ「知の編集術」と同じ作り。(たぶん「知の編集術」の方がスタイルを踏襲したのだろう) 〝思う〟と〝考える〟の違い、〝最良〟と〝最善〟等の使い分けを説明した後、問題があって、正解を選択する趣向。常日頃何とはなしに使用している言葉が題材になっているので、なかなか興味深い。
 日本語の「主語-述語」の関係に〝は〟と〝が〟あって、その違いを例文を引用して丁寧に解説している。
 ハはそこでいったん切ってハの上を孤立させ、下に別の要素を抱え込む。ガは直上のと下にくる名詞とをくっつけてひとかたまりの概念にする。
 
 僕は昨日「日本語練習帳」を買った。

 の、僕は「買った」に対応するが、

 僕が昨日買った「日本語練習帳」は興味深い。

 は、僕と「日本語練習帳」をくっつけるというわけだ。

 確かにそのとおりだけれど、同じガでもハと同じような使い方があるではないか、と疑問に思いながら、読み進むとガを使ったもうひとつの文の紹介がある。それが現象文と呼ばれるもので、江戸時代以降に生じたもので、現象を写生する文と説明される。

「日本語練習帳」は僕が買った。

 がそれにあたる。

 著者が文章を書く時に心がけていることに触れていて、それが「二つの心得」の章にある。
 「のである、のだを消せ」「がを使うな」がそれで文章をつなぐ接続詞として〝が〟は大変便利なもので、僕もついつい使ってしまう。これについてはどんな文章読本でも指摘している。  
 驚いたのは〝のである〟〝のだ〟を使うなという指摘。これについては全く意識したことがなく、僕自身はあくまでも感覚的に用いてきた。恥ずかしい限りだ(恥ずかしい限りである、と書いて、訂正した)
 著者はかつて自分の文章で一切の〝のである〟〝のだ〟を削除したらすっきりした文章になったと書いている。今後肝に銘じておかなければ。




2000/03/08

 「活字のサーカス -面白本大追跡-」 (椎名誠/岩波新書)

 椎名誠と岩波新書というミスマッチなカップリングで以前から気になっていた本である。
 副題にもあるように、自身の体験をもとにしたエッセイ中に関係する本をいくつか紹介するという、たぶんに内容の選択と構成に技術が必要とされる読み物で、「図書」に連載されたものをまとめたもの。
 面白くて、読みやすくて、あっという間に読んでしまった。

 「隣りの狂気」の章で、春になると著者が頭のおかしいファンにいろいろつきまとわれるエピソードを2件紹介している。
 この〈春の珍事〉については筒井康隆も「自分は筒井康隆の妻」と称するファンにつきまとわれた日々の顛末を書いていて、読んだ憶えがある。読む方は笑ってすましてしまう事柄だけれど、本人にとっては大変なことなのだろうと改めて思った。S・キングの「ミザリー」に恐怖した人気作家って多いのだろうなあ。

 本書に紹介されているのは著者と何かの約束をしていると思い込んで「なぜ約束を守ってくれない」と電話攻勢をかけるK女、著者と自分の仲をまわりの連中に妨害されるという妄想にとりつかれていて、毎日電話をかけてくるTの話。どういうわけか人気作家にまとわりつくのは女性たちばかりだ。

 読んでいて、十数年前僕自身が躁病になった時のことが思い出され、特にTのエピソードは冷や汗がでてきそうだった。
 僕の場合は仕事の悩みと母親の病気でそれまで悶々としていたのが、ある日を境に吹っ切れた時に起こった。気分爽快で毎日を送っていたある晩、TV番組の出演中の方々が僕に対して発言していると気づいたのだ。
 それからは読む新聞、雑誌等がまるで僕に読んでくれとばかりに書かれていて、最初は喜び勇んで読んでいたのが、しまいには怖くなって活字中毒の僕がほとんど活字に目を触れることができなくなった。
 同時に外で通り過ぎる人たちもなぜか自分を観察している気がして(たとえば駅のホームのベンチに座っていて、隣の、見ず知らずの二人の会話がまるで僕に聞かせるようにしゃべっているという妄想)、電話までもが盗聴されている錯覚におちいってしまった。自分自身はまったくおかしくなったつもりはないのだけれど、治癒するまでいろいろ人に迷惑をかけたことと思う。たぶんTは僕と同じ症状だったのだろう。

     ◇

2000/03/11

 「司馬遼太郎と藤沢周平」(佐高信/光文社)

 佐高信の文化人批判は生半可のものでない。「だめだ!」と烙印を押したら、自分のコラムで何度でも批判、罵倒の限りをつくす。
 対象となった代表的な人にノンフィクションライターの猪瀬直樹、経済評論家の長谷川慶太郎、そして作家の司馬遼太郎がいて、徹底的に攻撃している。(最近、漫画家の小林よしのりがメンバーに入った)まあ、一度ならよくあることだが、何度も同じような文章に触れると「何もそこまでも」という気持ちにもなる。
 特に犬猿の仲とでも言うべき猪瀬直樹に対する嫌悪というのは相当なもので、ある時期から、なぜそこまで書くのか理解できなくなった。
 というのは猪瀬直樹についてTVで受ける印象はともかく、週刊文春連載の「ニュースの考現学」には色々と学ぶべき点が多く、佐高信がその一つひとつをチェックしているとは思えないからだ。「だめな者はだめ」という単純な論理で攻撃しているとしたらもの書きとしてあまりに了見が狭いではないか。物事を見極める眼というものが必要だろう。
 昨年、いつもはダンマリを決め込んでいる猪瀬直樹が「ニュースの考現学」のページを丸々使って、佐高信の体質を喝破したのには驚いた。僕自身うすうす気がついてきたことを主張したように思え、僕の佐高信を見る眼というものが変わってきている。

 司馬遼太郎に関しても猪瀬同様、何度も批判を繰り返していて、これまた「なぜ?」と問いたくなる。
 司馬遼太郎は小説家なのである。小説の好き嫌いなんてその人の趣味の問題だろう。気にくわなければ「キライ」の一言で済むはずなのだ。
 僕はこれまで司馬遼太郎の歴史小説には全く興味がなかったのだが、大河ドラマの影響でその原作「最後の将軍」を読んでみて、清楚で落ち着いた簡潔な文体に注目した。ついで映画「御法度」で原作を確認したいことがあって「新選組血風録」をあたり、その面白さに目覚めたところだ。

 司馬作品の何がいけないのか? 単に日本企業のトップたちの愛読書として司馬の本があげられるからダメというのか、あるいは佐高自身の司馬作品へのアプローチというものがあるのかないのか、そこらへんの事が気になっていたところに本書が目についた。
 藤沢周平の素晴らしさを強調するために、その比較対象として司馬遼太郎をもってきたと書いているが、司馬を罵倒するために藤沢をもってきたともとれる。

 本書には司馬文学について、何人かと対談が収録されていて、中には率直に司馬作品のいいところを認める人もいるのに、そういう部分は軽く聞き流してしまう傾向があるからだ。

 本書は雑誌に発表されたものと書き下ろしで構成されている。「月刊佐高」などと揶揄されるほど、佐高信には各雑誌に発表した文章を矢継ぎ早に本にする傾向がある。それに対してあれこれ言うつもりはないけれど、本書にほとんど同じ文章が掲載されるというのはどんなものか(P148とP217)。藤沢周平の業界紙時代のことを著者自身同じように 業界誌で働いていた思い出とともに綴ったもので、内容はとてもいいのに、2度目になると嫌みになってしまう。編集にもう少し気をつかってもらいたいものである。
 藤沢周平の視線については共鳴できる。これまで名前だけしか知らなかった作家であるが、今度じっくり読んでみたい。

     ◇

2000/03/13

 「お洋服クロニクル」(中野翠/中央公論新社)

 毎日のように書店に寄って、立ち読みするのが趣味の一つとなっている。興味の対象はけっこう広く、各コーナーを歩きまわるけれど、昔から絶対に手に取らない書籍(雑誌)というものがある。
 SM雑誌、ロリコン雑誌、ファッション誌である。SMは単に恥ずかしいから、ロリコンはもともと興味がなかったところに、娘がそういう年齢になってきて、よけい嫌悪するようになった。ファッションも全くの対象外で、夢中になって読むということがない。学生の頃から「ポパイ」や「ホットドッグプレス」は関係ない読み物だった。
 それからすると本書も興味の対象外と言えるものなのだが著者が中野翠だとそうもいかない。(いつも図書館から借りていて、中野翠のファンと言えるかどうかわからないが)
 ファッションによる年代記というところに興味をそそられた。

 1953年から1989年までのファッションをとりあげている。見方を変えれば中野翠のファッションを俎上に語られる自分史ということだ。年代別に著者自身の得意なイラストが載っていて、その時代のファッションがどんなものであったか、一目でわかるようになっている。
 中野翠は団塊の世代であるから、僕より一回り以上年齢が上なのであるが、不思議と原体験が似ているのはどうしてなのだろうか。
 昭和30年代までは日本のどこも同じ風景、風俗だったということか。

 60年代から70年代にかけての部分がやはり一番興味がある。
 笑ってしまったのは70年代のファッション(ベルボトムジーンズ)が復活するとは思わなかったと書いているところで、これは僕も同じ思い。60年代のファッションって、今みてもオシャレで、センスの良さ、普遍性というものを感じる。しかし70年代のそれは当時への思い入れが人一倍あるにもかかわらず、ファッションはあくまでも一過性のものという認識が強い。だから、もし70年代ファッションがリバイバルしても僕自身は絶対身につけないと心に誓ったのだ。(今の若い人は70年代ファッションのどこに惹かれるのだろうか?)

 パンストにハイヒールというコンサバティブなファッションが女の定形ファッションであり、中野翠は着たくないと書いている。ハイヒールはともかくスカートにパンストというのは男のすけべ心を刺激する必須アイテムで、女に生まれてきたからには身につけてほしいものである。生足は嫌いだ!
 冗談はともかく、サンデー毎日連載の連載をまとめた時事コラム集同様大変面白く読めた。




 11日(土)、12日(日)の2日間、恒例の船堀映画祭だった。今年で9回め。
 最初のころは単なるお客さんだった。しかし、メインスタッフに知り合いが多いし、映画サークル「シネマDEりんりん」が関わっていることもあって、スタッフになってもいいなと考えるようになった。
 一昨年はボランティアスタッフとして運営の手伝いをした。が、ブックカフェ二十世紀で働き出したので昨年はスタッフはおろか、上映作品を観ることもままならなくなった。サラリーマン時代と違い、土日が仕事になったためだ。

 一昨年は、初日に帰宅するのが面倒なので、ボランティアスタッフのIさんと、うちうちの打ち上げ(正式な打ち上げは2日目映画祭終了後に開催)のあと、近くの〈東京健康ランド まねきの湯〉で一泊した。これがなかなか楽しかった。
 Iさんがあかすりをしたことがないというので、昨年は〈まねきの湯〉に行くためだけに、映画祭のうちうち打ち上げに参加したところがある。Iさんはあかすりに大満足。

 今年もIさんとあかすりツアーを決行した。
 ただし、昨年と違うのはこの日、朝一の上映作品を鑑賞したのである。
 第9回の上映作品が発表があって注目した作品があった。
 「居酒屋ゆうれい」だ。

 2011年の暮れから12年のはじめにかけて、今は無き銀座シネパトスで「萩原健一映画祭」が開催された。ショーケン主演の映画が特集されて足繁く通ったわけだが、プログラムの中に「居酒屋ゆうれい」がなくて残念だった。
 「居酒屋ゆうれい」は、90年代のショーケン映画の中でベストの部類に入るのではないか?
 公開されたとき劇場で観たのかどうかはっきりしない。観たことは観たのだがビデオでだったような気がする。
 一度はスクリーンで観たい! 
 そんな想いがあったが上映は初日の10時から。仕事があるのだから行けるわけがない。

 当初諦めていたが、朝の3時間だけ仕事を誰かに代わってもらえば行ける!とばかり、K嬢にお願いしてみた。今年の4月までレギュラーで働いていて、辞めてからも土日の、人が足らないときに手伝ってもらっている。
「あたしも『この世界の片隅に』が観たいの」
 と言っていたK嬢だが、こちらの熱意が通じたのか了解してもらえた。
 ありがとう! Kさん。


 この項続く
 



 前回のスピーチでは、ある映画の例をあげてたとえインパクトがあっても、ただそれだけをやみくもに宣伝しても効果がないことをお話ししました。
 今回約束どおり、その続きをお話ししようと思っていたのですが、今朝読んでいた本に印象的なエピソードがあったので、予定を変更してそれをお話しします。

 みなさんは一休さんってご存知ですよね。とんちを働かせて数々の難題を解決した歴史上の有名なお坊さんで、昔アニメにもなりました。
 その一休和尚が死ぬ間際、弟子たちに「どうにもならないことがあったらこの封書を開けて読みなさい」と一通の封書を手渡しました。
 月日が経って、寺の経営が危ぶまれたとき、弟子たちはその封書の中にどんな深淵な知恵が書かれているのか、興味深く封を開けました。一枚の紙がでてきました。それには大きく「心配するな、なんとかなる」と書かれていただけでした。
 弟子たちは大笑いして一休和尚らしいなあと肩の力が抜け楽になったということです。

 人生、いいこともいやなこともあります。
 つらいことが連続してやってくることもあります。
 悩んで苦しむこともあるかと思いますが、この一休和尚の「心配するな、なんとかなる」精神を発揮して、毎日を楽しめる方向に持っていきたいですね。




2001/11/06

  「ロードキラー」(中野ゼロホール 試写会)  

 ホラー映画という以外何の予備知識もなかった。監督のジョン・ダールも出演者も聞いたことがない。ただ、この手の映画には掘り出し物があるので喜び勇んで会場に足を運んだら、ひどい混雑で1階席はほぼ満杯。何とか席を確保できた。皆同じ考えなのか。  

 夏休みに自家用車で帰省することになった大学生(スティーブ・ザーン)は、途中で恋人(リリー・ソビエスキー)と合流する前に、警察につかまった問題児の兄(ポール・ウォーカー)を引き取ることになってしまう。給油所で勝手にCB無線を取りつけて見知らぬドライバーと交信して遊ぶ兄は顔の見えないこといいことに〈キャンディ・ケーン〉なる美貌の女性を創造、作り話をでっち上げる。まんまと餌に食いついてきた〈ラスティ・ネイル〉と名乗る男に対して、女声のうまい主人公を使いその夜宿泊するモーテルに誘惑する。自分たちの部屋の隣室ナンバーを教えると、その夜男は本当にやってきて、実際の宿泊者と言い争い後立ち去っていった。翌朝、2人は宿泊者が何者かによって瀕死の重傷を負わされたことを知る。  
 単なるイタズラが大変な事件を巻き起こしてしまった。恐怖におののく2人はそのまま現場を立ち去るのだが、男の運転するトラックが執拗に彼らを追いかけてくる……。  

 前半はスピルバーグ監督の出世作「激突」だった。本作と比べると「激突」がいかに傑作だったかよくわかる。単に邪魔なタンクローリーを追い抜いただけの理由で、執拗に追いかけられ攻撃される乗用車ドライバーの恐怖。シンプルな設定で緊張感がラストまで持続する。タンクローリーの運転手は最後まで姿を見せず、まるでタンクローリー自身がキャラクターを持っているような、見事なワンアイディア映画だった、と今さらながら思う。
 
 「ロードキラー」は「激突」の〈何者かに追いかけられる〉設定のほかにさまざまな仕掛けを施してあり、迫力も申し分ないにもかかわらず、肝心の緊張感がない。というか、簡単に先が読めてしまうのが難点なのだ。  
 たとえば、最初のサスペンスにこんなシークエンスがある。兄弟の車がガソリンを補給するため、ハイウェイを降りて近場のスタンドに立ち寄った際、すぐ後からトラックがやってくる。棍棒を持った運転手が降りてきて、主人公が警察に電話をかけるために立ち寄った隣接のドラッグストアに入ってくる。カードでちょっとしたものを買って、あわてて逃げ出す主人公。追う運転手。車を発車させると、相手もトラックで追いかけてくる。逃げ道がなくなり万事休す!
「ストアに何か忘れ物して善意の運転手が届けてくれたんだな」  
 案の定運転手はカウンターに置き忘れたカードを主人公に手渡す。トラックにもどって来た道をバックしていく。
「犯人のトラックがあのトラックをぶち破ってでてくるぞ」
 トラックが進路変更して真横になったとたん、荷台を突き破って登場する大型トレーナー! これではスリルもへったくれもない。  
 恋人が犯人に連れ去れてからもまるで定石どおりの展開。中でもドアを使ったトリックが「羊たちの沈黙」で使われたアイディアそのままというのはがっかり。現場にやってきた警察の捜査が逆に恋人を射殺してしまうサスペンスを生み出すくだりが唯一新鮮だった。
 ラストの不気味さも、最近のホラー映画では常套手段という感じ。

     ◇

2001/11/07

 「トゥームレイダー」(日比谷映画)  

 ゲーム会社に勤めているにもかかわらずまったくゲームに興味がない。会社から贈与されたゲーム機はまだ一度も箱から取り出したことがないのだから始末におえない。
 子どもが小学校の低学年だった時は、子どものために会社からいろいろなソフトを持ち帰っていたこともあった。日曜日などいっしょに「ぷよぷよ」などを対戦したものだが、ある時から子どもに全然歯が立たなくなった。父親の威厳なんて保てるわけなく(もともとないのだけれど)、頭きてやめてしまった。不器用なんだから仕方ない。その昔インベーダーゲームで5,000点以上取ったことがなく、恥ずかしくていつも眺めているだけだった。以来ゲームを楽しんだことがない。
「お前にはRPGが向いてる、ぜったいはまるから」なんて言われて人気ソフトを貸してもらったけれど、コントーラーを操作してコチョコチョ動かすなんてうざったい。本を読んでいた方がよっぽど面白い。  
 そんなわけで「トゥームレイダー」なるゲームがあるなんて知らなかった。世界中で売れている人気ソフトだとか。  

 これまでも人気ゲームの映画化作品はいくつかあったけれどまったくの興味の対象外。当然「トゥームレイダー」もそうなるはずだが、これは少々違った。ゲームが原作だろうがなんだろうが、とにかくヒロインの魅力にひきつけられたのだ。  
 男勝りの女性が主人公になって大活躍するアクション映画が好きだ。女性が身体の線を強調した衣装をまとったりしていたら文句ない。「エントラップメント」のキャサリン・ゼタ=ジョーンズとか「キャッツアイ」の三姉妹とか…(峰不二子にも通じるあの身体にぴったりフィットした黒装束、何ていう名称なんでしょう?)。「マトリックス」ではキャリー・アン・モスの走りっぷりに惚れ惚れした。  
 ヒロインのララ・クロフトに扮したアンジェリーナ・ジョリーは写真で見る限り僕の好みではないのだが、黒いタンクトップとパンツを身にまとい銃を構える姿がたまりませんなぁ。  
 この手の映画に内容なんて求めない。しょせんは荒唐無稽のホラ話なのだから、どれだけヒロインが身体を張ったアクションを展開してくれるか。お話に夢中になれるか。上映時間中スクリーンに集中させてくれさえすればいいのだ。

 幼い頃行方不明になった考古学者の父が残した時計を発端に、適役の考古学者の妨害をものともせず秘宝探しに奮闘するトレジャーハンター・ララの活躍。いってみればインディアナ・ジョーンズの女性版ですな。  
 アンジョリーナ・ジョリーはかなり健闘していた。動きが機敏でアクションが様になっていた。スタントと本人の違いもほとんどわからない。  
 制作費が豪勢だから特殊撮影もかなり完成度が高い。  
 開巻のロボットとの戦いもいいが、一番興奮したのが中盤の洞窟シークエンス。人間大の石像が動き出すのはよくあるパターンだが、巨大石仏がゆっくりと立ち上がり、ララに襲いかかるシーンに怪獣映画ファンの血が騒ぐ。  
 スピーディーな演出に飽きはこなかったけれど、いわゆるハラハラドキドキ感はそれほどもなかった。
 クライマックスの敵のおどしは完全に「インディー・ジョーンズ 最後の聖戦」のパクリ。  

 ララ・クロフトの父役ジョン・ボイドは実際にアンジョリーナ・ジョリーの父親なのだそうな。  
 日本でもこういう映画ができないかな。水野美紀を起用してさ。

     ◇

2001/11/10

 「赤い橋の下のぬるい水」(丸の内シャンゼリゼ)  

 今村昌平監督の最新作。  
 人間の性や欲望を大胆かつ骨太、粘着質的に描写することで有名な今村監督の作品群のうち、特に昔の作品に興味がある。この手の作品はなかなかビデオレンタル店にないのだが、以前「赤い殺意」を発見してわくわくしながらブランウン管に魅入ったものだ。ところがリアルタイムで公開された70年代後半以降の作品については、なぜかまともに観た覚えがない。  
 「復讐するは我にあり」「ええじゃないか」「楢山節考」「女衒」など劇場に足を運ぶ気がしなかった。それでも「黒い雨」はビデオで観た。原爆症を患う田中好子の精神がおかしくなって池の鯉が何匹も飛び跳ねる妄想を見るシーンが怖かった。

 「うなぎ」は清水美砂見たさに借りたようなものだが、これがよかった。舞台となった佐原市の風景にも心がなごんだが、清水美砂の大胆な濡れ場シーンに目を瞠ったものだ。裸身をさらすような役をやる女優とは思っていなかったので、もうけというかなんていうか。裸がどうのこうのというより、絶頂感をむかえるまでの様がたまらなかった。
 「赤い橋の下のぬるい水」も清水美砂が主演、それも潮吹き女をやると知り興味をもった次第。助平オヤジだなあ、オレも。土曜日の午後、劇場はけっこう年配の男女で席がうまっていた。みんな助平なんだから、まったく。  

 リストラされ再就職活動にいそしむ主人公の男(役所広司)が親しくしていた博学なホームレス(北村和夫)が死んだ。生前ホームレスが話してくれた宝物の話。彼は若い頃盗んだ金の仏像を、能登半島の日本海に面した赤い橋のたもとの家に隠したという。「俺の代わりにあの家に行ってくれ、金の仏像はお前にやる」  
 妻子と別居し仕送りに困っている男は能登半島を訪れる。目的の家は今でもあり、耄碌した老婆(倍賞美津子)と女(清水美砂)が住んでいた。女には体内に水がたまる習性があり、たまりすぎると性欲がたかまり、情緒不安定になって万引きを繰り返していた。ひょんなきっかけで女と知り合った主人公は最初は手助けのため、やがて女に夢中になっていく。  

 まず男が訪れる赤い橋が最近になって作られた(というかリニューアルされた)風で情緒に欠ける。  
 期待していたエロティシズムもほとんど感じられなかった。スーパーで体内から流れでてできた水溜りにたたずむ女の行動に淫靡なものがあったが、主人公との最初の性交であふれでた水の量があまりに膨大でほとんどギャグの世界になってしまうのだ。この描写は回が増すごとに大げさになっていき、笑わすにはいられない。たぶんこれは狙いだろう。  
 撮影時妊娠中だった清水美砂の腹部が気になって仕方なかった。それほど目立つものではないが、でもやっぱりぷっくりとせりだしている(だから性描写が過激でなかったのかもしれない)。  
 だがこれも知らない人が見ると演出のうちと判断しているから何が幸いするかわからない。一緒に観た友人は清水美沙の腹部の膨らみを、水がたまる役柄のためわざと詰め物をしていたと思っていたと言うのだ。

 赤い橋にはがっかりきたが、能登半島のロケは効果的だった。女が住む2階の窓からのぞむ雄大な立山連峰の景色に目を洗われた。  
 役者たちもいい。  
 主演の役所広司は最近立て続けに映画に主演していて、少々食傷気味のところもあるが、監督が彼を起用するのもわかる気がする。この映画ではリストラされ、妻からも蔑まされているような男の役なのだが、素直にそう思えてしまうから不思議。実直なあるいは熱血サラリーマン、刑事、やくざ、風来坊、はたまた時代劇の侍まで皆それっぽく演じてしまうのは役所広司の巧さもあるのだろうが、体質というか、色に関係してくると思う。役所広司ってもともと白の画用紙って感じで、監督の思いどおりに色を塗りたくることができるのかもしれない。見てくれはいいし。  
 インテリホームレスの北村和夫の声質、口跡が耳に心地よい。料理ベタな坂本スミ子と釣好き中村嘉葎雄の夫婦のやりとりが愉快。飄々としたミッキー・カーチス、好色でいかにも海の男といった感じの勇ましい夏八木勲もいいが、何といっても北村有起哉のヤンキーあがりの漁師が出色。この人、NHKのドラマ「少年たち2」でも女房に逃げられた若い父親を演じていて印象に残った。北村和夫の実の息子であったとは。  

 エロチックではないけれど大人のファンタジー喜劇と観れば悪くない。

     ◇

2001/11/30

 「スパイキッズ」(徳間ホール 試写会)  

 またまた試写会招待状がまわってきた。子ども向けの映画ということで、お子さんとどうぞとのことだったが、うちの娘は小6の頃から音楽(J-POP)に夢中になってほとんど映画に興味を持たなくなった。おまけに中学生になるとブラスバンドのクラブ活動で忙しく、平日に親と試写会に行く時間なんてない(というか、父親と行動をしなくなった)。カミさんを誘ったもののこれまた興味なしと断られた。  
 仕方なく一人で行く。以前予告編を観た際けっこう面白そうだったのだ。    

 米ソの冷戦時代、名うてのスパイとして名を馳せた男女(アントニオ・バンデラス&カーラ・グギノ)が結婚し引退、一女一男をもうけごくごく普通の生活を送っているところにかつての仲間が敵に捕われた報せが入る。夫婦で救出に向うが逆に敵の罠にはまりつかまってしまうのであった。  
 両親の危機に子どもたち(姉弟)が奮起する。ふたりは最新メカを駆使して敵基地に潜入するや、機知を働かせて大活躍し、最後は敵を一網打尽にするという子ども向け大冒険映画。  
 小型潜水艇、一人乗り小型ジェット機、飛行用ボンベ等々子どもの想像心を刺激するメカニックが登場したり、敵基地の内部がびっくりハウスよろしく様々な仕掛けがしてあったり、敵ボスが粘土をいじくるだけで実験台の人間が改造されてしまったりと、子どもの視線に立って観るとなかなか楽しい内容になっている。  
 小学生時代に観た「ガメラ対バイラス」「ガメラ対ギロン」を思い出した。  
 この2作以降、昭和のガメラシリーズは完全に子ども向けになってしまったのだが、主役の小学生たち(日本人とアメリカ人)が宇宙船や基地の中で見聞したり体験する未知のメカニックが実際にあったらと、劇中の主人公たちがうらやましかったし、内容もちょっとした冒険ものだったのでけっこう興奮したものだ。
 活発な姉(アレクサ・ヴェガ)、少々愚鈍な弟(ダリル・サバラ)という組み合わせも、特に弟のキャラクターが前記の映画に登場するアメリカ人の男の子を彷彿させる。  
 そんな世界を一級のSFXを使って映像化したのが「スパイキッズ」といえようか。    

 「ターミネーター2」で印象深い極悪ターミネーターに扮したロバート・パトリックが敵のパトロン役で登場したり、ジョージ・クルーニーがゲスト出演したりとファンとしてはうれしい。敵ボス(カーク・グギノ)は何かで観た覚えがあるのだが、その映画が何であるか思い出せない。アントニオ・バンデラスの兄で発明家のダニー・トレホは一度見たら忘れられない風貌。日本でいえば伊藤雄之助みたいな男優だ。




2000/02/21

 「柔らかな頬」(桐野夏生/講談社)

 この作品が直木賞を受賞した理由が読了した今わかった気がする。
 ずいぶん前になるが、原尞の「私が殺した少女」が直木賞候補になった時、その選考会の席上で反対派の委員から主人公があまりにも頭がよすぎるとの意見がでたそうだ。
 ミステリの醍醐味は主人公の謎解きにあって、事件が解決するまでを描くことである。当然、後半は解決に向けて要領よく進行していく。それはパズルであって、小説ではない、よく言われる〝人間が描けていない〟なんて考える人たちにはミステリは受賞に値せず(文学ではない)と主張しているようなものだろう。この時は賛成派の田辺聖子が「探偵とはそういうものなのです」と反論して無事原尞の受賞が決定したということだが、そんなアンチミステリの選考委員にすれば「柔らかな頬」は文句なしの受賞作品と言えるかもしれない。
 なぜならこの作品、事件の発生、経過は描かれるけれど結局最後まで解決は見られない、自分の不倫行為の代償で最愛の娘を失踪させてしまったヒロインが、重い十字架を背負いながら娘を捜し歩く心の葛藤、魂の彷徨こそが主題だからである。

 「私を殺した少女」直木賞受賞の内輪話を知った時は反対派委員の了見の狭さにあきれてしまった僕だが、最近、現代を象徴する問題(児童虐待)を扱った「永遠の仔」を読んで、そのストーリーに圧倒されながらも(圧倒されたからこそ)クライマックスですべたが明らかなになってしまう、あまりの段取りのよさには少々疑問を感じてしまった。この時、やっと直木賞云々は別にしてあの反対派委員の気持ちが理解できた思いだった。
 髙村薫が「自分はミステリを書いているつもりはない」と発言して物議をかもしたのは、こういうことが要因なのかもしれない。

 社会派(というのはもう死語だろうか、つまり現実問題を扱ったミステリ)の場合、扱う事件、内容がより現実に迫ったリアルなものになるほど、ラスト(に向って)の予定調和的事件の解決が逆に作品世界を空疎なものしかねないとも思う。現実を切り取った深く重いストーリー(展開)と謎解き的要素をどううまく結びつけるか、その兼ね合いについてはいろいろ検討されるべき問題なのかもしれないし、「柔らかな頬」はその試金石となるべき作品と言えるだろう。

 もちろん「柔らかな頬」はミステリであるから事件の推理はある。途中からヒロインと一緒に捜査に同行する胃がんで余命いくばくもない元刑事およびヒロインの夢という形で3つの真相らしきものが提示される。が、ヒロインの推理は物語中で否定され、元刑事の夢(推理)もあくまでも憶測の域を出ない。息を引き取る間際にみた夢がどうやら真実らしいのだが、そこでぷっつりと途切れてしまう。

 犯人もわからず、娘も発見されず、読む者にカタルシスを与えないまま終了するこのミステリの斬新さは最終章が失踪した娘の視点で事件当日の模様が描かれていることだ。犯人に手をかけられるまでの娘の心情が語られるのだが、最後の一文で心が解き放たれる気持ちになるのだ(の言い回しは誤解を与えるかもしれない。ある決着をつけてくれると言うべきか)。
 桐野夏生が直木賞を受賞してから「ニュースステーション」にゲスト主演した際、久米宏はこの最後の一文を読み上げたのだった。僕はそれを聞いてあわててチャンネルを換えたが、今、思うと正解だった。

 釈然としないことがいくつかあった。
 不倫の是非をここでは問うつもりはないが、自分の家族および相手の家族がいる別荘で、それも互いの伴侶が別室で就寝している最中にセックスをしようとするヒロインたちの心情がまず理解できない。そこまで相手に惚れこんでいるなら、僕だったら、まず離婚して、身辺整理してから一緒になりますよ。
 あるいは少女が失踪した事件そのものが迷宮入りになるようには思えない。事件は北海道・支笏湖湖畔の人里離れた別荘地で起きた。関係者は当事者であるヒロインの家族、不倫相手の家族、隣棟の一家族、別荘地のオーナー夫婦と使用人、駐在とごく少数であり、部外者の侵入は考えられないという。事故でないなら、当然この中の誰かが犯人であり、警察はそこにしぼって捜査することは当たり前だろうし、そうなれば事件も何かしらの解決をみるのではないか。

 元刑事とヒロインの出会いも納得しがたい。
 事件の真相を元刑事の夢で語るというのも、フェアでない気がする。インスピレーションだけならわかるが、詳細に語られると、何を根拠に?と問いたくなる。
 と、僕には小説の設定自体がとても不完全に思えてしかたない。

     ◇

2000/03/02

  「ファイティング寿限無」 (立川談四楼/新潮社)

 クライマックスからラストにかけて何度か感極まって目頭を熱くした。最近僕自身の涙腺がゆるくなっているということもあるが、実際のところ読む者を熱くさせる小説であることは間違いない。

 立川談四楼は新作を発表するたびに前作を包括する形で小説世界の奥行きを広げ、物語を語るという点においても落語家の余技とは思えないほど巧くなっているのがわかる。落語もできる小説家というキャッチフレーズは伊達じゃない(小説も書ける落語家でないところがミソ)。
 デビュー作はあくまでも実体験をもとにした私小説、2作目は自身の心情を主人公たちに投影させたフィクション。ともに落語を聴くような語り口に魅力があった。

 本作も落語を題材にしているが、これまでの作品とは一味もふた味も違う。何より初の長編なのである。
 まずそのキャラクターに注目した。主人公の橘家小龍はタイトルからも想像がつくとおりプロボクサーと落語家の二足のわらじをはく二つ目というのだから驚く。当初は「落語以外の特技を身につけろ」との師匠の教えに従い、売名手段であったはずのプロボクサーという肩書きが、彼が持つ天性の素質、あるいは日頃の努力の賜物なのか、デビュー戦の勝利をきっかけに日本チャンピオン、東洋チャンピオンと、とんとん拍子にタイトルを奪取して人気者になっていく。その展開がスリリングだ。

 前2作からのイメージから、プロボクサーと落語家の間で右往左往する主人公のちょっとほろ苦い人情喜劇を予想したこちらの期待はあっさり裏切られた。
 ボクシングの試合経過、主人公の心理や葛藤、勝者と敗者の心の交流の描写はこれまでの語り口ではなく、本格的なスポーツ小説のそれなのだ。

 物語は全くのフィクションではあるが、モデルを詮索する楽しみはある。小龍が敬愛する師匠・橘家龍太楼は立川談志、橘家一門でマスコミ人気NO1の龍之輔は立川志の輔、総領弟子の龍次は本人・談四楼といったところか。ただすべてのキャラクターが作者の分身とも言えるかもしれない。
 群馬県太田市出身の僕としては、弟子の中に太田出身者の呑龍という若者が登場するのがうれしい。(太田には"子育て呑龍"で有名な大光院がある。)
 小龍が世界チャンピオンを狙うところから、物語は急展開していく。実際には信じられないオチがあって、「そんなバカな!」とあきれながらも、作者の落語に対する熱い思いがひしひしと伝わってくる。

 こんな面白い小説がなぜ話題にならないのか、不思議でたまらない。

     ◇

2000/03/07

 「もっとも危険なゲーム」 (ギャビン・ライアル/菊池光 訳/ハヤカワ文庫)

 最近海外ミステリ読む機会が少なく、何かないかと羽田図書館の文庫本のコーナーをのぞいたら、本書があったのでタイトルにひかれて借りてきた。
「深夜プラス1」の作者の代表作とあるが、内容なんてどうでもよかった。僕としては村川透・松田優作コンビによるアクション映画の傑作「最も危険な遊戯」のタイトルはこの小説に由来しているのかと合点がいった次第で、本書を手にしたのは単にタイトルの魅力だけでしかない。

 本作も「深夜プラス1」同様イギリスの元工作員が主人公。現在はフィンランドで水陸両用飛行機のパイロットをしている主人公が自分の意志とは裏腹に事件に巻き込まれるというストーリー。
 主人公のまわりで不穏な事件が起きていく様子を簡潔な文体で描く前半は、それなりにわくわくさせる展開だった。が、後半になってから、まあ、個人的な理由(疲れからか、読んでいるとついウトウトとなってしまう)から、単に文字を追いかけているような状態で、ふと気づいてあわてて前のページを繰り返し読むといった感じ。何回も続くといい加減イヤになってくるが、一度読み始めた本はよほどのことがない限り読了するポリシーの手前、投げ出すわけにはいかない。

 というわけで、後半はストーリーを把握するだけで精一杯。次の本を早く読みたいこともあり、深夜、眠気のため、途中気を失いながら も一気に読了した。
 眠気を吹き飛ばすような面白さが感じられなかったことも事実だし、読んでいてでてくる台詞が誰が言っているのか混乱することもたびたびだった。やはり真剣に読んでいない証拠だろう。




2001/10/13

 「カルテット」(シャンゼリゼ)  

 宮崎駿監督のアニメや北野武監督作品の音楽で有名な久石譲が初メガフォンをとると聞いた時は、「ああまたか」といった思いで何の関心もわかなかった。  
 素人監督はいい加減にしてくれ!という思いが強かった。  
 サザンの桑田や小田和正、元米米クラブの石井竜也とミュージシャンがいとも簡単に映画を監督してしまうのが何とも不思議。まあ、本業で大いに稼いでいる(つまり集客しやすい)からスポンサーもつくのだろうが、資金調達がままならず企画が頓挫してしまう監督が多い中にあって、この差はあまりにもひどすぎるではないか。異業種の人が監督に進出するのはどうかと思っている。
「映画に興味があるのならプロデューサーになってくれよ」
 声を大にして叫びたい。  

 ところが内容が弦楽四重奏の演奏家たちを主人公にした音楽映画だと知って態度が変わった。  
 スポーツを扱う映画同様、役者が楽器を扱うのも演出上むずかしい。楽器を演奏するシーンでよくある手法はロングでは役者が演奏する真似、手元のアップはプロを使う、というもの。たとえばピアノを弾く場合、ピアノに隠れて指の動きはわからないから役者の演技次第でそれっぽく見えるからいいものの、見ている方としては、「あ、これ弾く真似だ」「これはプロの手だ」という意識が働いてしまい、ストーリーに集中できないことがままある。  
 音と指の動きのシンクロなど無視して、たとえばトランペットなどデタラメに吹くなんてこともあるが、これは問題外。演出家のセンスを疑ってしまう。(この前観た「真夜中まで」は指と音がしっかりシンクロしていて気持ちよかった。)  

 そこで弦楽四重奏だ。バイオリン2本、ビオラ、チェロ。楽器の中でも簡単に弾きこなせるシロモノではない。映像的に嘘をつくのは難しい楽器だから、(音は別にして)役者の楽器の演奏が様になっていなければ観客の心を打つはずがない。奏でる音楽も観客を納得させなければならない。  
 すぐれた作曲家であり、現在の日本映画で代表的な作品の音楽を担当している久石譲の監督作に期待するのは、そういうところだった。音楽以外の題材だったら見向きもしなかっただろう。  

 音大時代弦楽四重奏でアンサンブルコンクールの優勝を狙い、果たせなかった4人の若者が社会に出て挫折。都内の某有名交響楽団のオーディションの会場で再会し、恩師の勧め、ライバルへの意地もあってもう一度コンクールに挑戦する4人のメンバー間の葛藤、愛と友情を描く青春〈音楽〉ドラマである。  

 開巻演奏中にハプニングが続発、演奏不能の事態におちいった4人(袴田吉彦、桜井幸子、大森南朋、久木田薫)の硬直状態から、場面は現在に飛んでそれぞれの今の生活を映し出す。  
 地方の交響楽団のコンサートマスターでそれなりに活躍していたものの突然降ってわいた楽団の合併問題のごたごたに嫌気がさす袴田、ポップス演歌歌手のバックで歌手の色目を嫌悪しながらバイオリンを弾く桜井、音楽スクールのビオラ講師として生徒に人気があるものの、リストラのためクビになってしまった大森、大邸宅に住み生活の心配のない久木田はチェロばかり弾く毎日だがなかなか芽がでない。  
 4人の性格、現状、そして再会するまでをテンポよく見せてくれる久石監督の手腕はなかなかのものだ。各人の性格描写も鮮やか。  
 名バイオリニストを父親に持ち英才教育で将来を嘱望されているが、天才にありがちな身勝手でエキセントリックな袴田、袴田ほどのテクニックはないもののバイオリンを生活の糧にしたい自立心旺盛な桜井(実はふたりは意中の仲)、才能はなく人柄だけの大森、のんびり構えていると見えながら内心自分の将来を不安視している久木田という塩梅。  

 4人はコンクールの練習と生活費稼ぎのため、恩師(三浦友和、肩の力を抜いた好演)の紹介で地方演奏会のツアーにでかける。ここから音楽家でありながら音楽(楽器)の常識よりストーリーとしての〈絵〉を優先させる映像、演出が散見され、ちょっと白々しくなるのが残念だ。  
 幼稚園児たちを対象にした演奏会の、演奏を無視して会場内をはしゃぎまわる子どもたち。大人たちは注意もせずただ黙っているだけ。  
 屋外の花火真っ最中での演奏会。これは花火に夢中になっている子どもたちが途中で演奏される「となりのトトロ」のテーマを耳にしてふと音楽に耳を傾けるという心憎い演出なのだが、花火の最中での演奏会なんて考えられない。普通は花火が始まるまでの余興だろうに。  
 海岸で練習に励む4人。この風景は詩情豊か。しかし、弦楽器を海岸に持っていったらどうなるか。非常識以外の何ものでもない。
 
 死んだ父を許していない袴田と父の偉大さ、優しさを聞かせるかつて父の音楽仲間だった老人(藤村俊ニ)との会話では、袴田の怒りが最高潮に達した時に突然雷が轟く。よくあるパターンだ。激しい雨に濡れながら、宿に帰る袴田の手にはバイオリンの入ったケース。途中で彼を心配する桜井が待っている。ふたりはびしょ濡れになりながら抱き合うのだが、まるで雨に濡れるバイオリンケースを気づかうそぶりがない。
 また、いくらすごいテクニックを持っていたとしても20代の若さではコンサートマスターになれない、とは一緒に観たかみサンの意見。    

 ドラマ部分にはいろいろ不満はあるが、演奏シーン、音に関しては嘘っぽさは感じない。弦楽四重奏の音色に堪能した。

     ◇

2001/10/20

 「約束」(シブヤ・シネマ・ソサエティ)  

 ミニシアターのシブヤ・シネマ・ソサエティでは9月15日よりモーニングショーで「岸恵子と5人の男たち」と銘打った特集を開催している。その最後のプログラムがショーケンの実質的映画デビュー作「約束」だったので初日に足を運んだ。  

 「約束」は確か高校生の時に一度TVで観たことがある。  
 テンプターズ解散後、タイガース、スパイダースのメンバーとロックバンド・PYGを結成したもののブレイクせず、歌手を廃業して映画業界で働こうとしたショーケンは最初この作品の助監督でもつとめられればという思いで斎藤耕一監督のもとを訪ねたらしい。ところが予定していた男優が出演できなくなって、急遽ショーケンにお鉢がまわってきた、ということを以前何かで読んだことがある。本当かどうかは知らない。  
 ショーケンは、大女優相手に瑞々しい(ほとんど感性だけの)演技で挑み、70年代の青春の一断片を表現したこの映画で評論家の絶賛を浴び、役者としてその後NHK「明智探偵事務所」を経て「太陽にほえろ」のマコロニ刑事役で人気が爆発したのだった。深キョン相手のシブいお父さん役もいいけど、若かりし頃のショーケン姿をスクリーンで拝みたかったのだ。  

 模範囚の女(岸恵子)が母親の墓参りのため特別に外出を許可され、監視員(南美江)とともに、日本海沿いを北上する列車に乗っている。途中から乗り込んできた青年(ショーケン)が偶然女の向かい合わせの席についた。青年は人なつこく女に話しかけるが、女は無視する(この時のショーケンの受けの演技が絶品で語り草になっている)。  
 やがて青年の人柄がわかり心開きやさしく相手する女。が、青年の彼女への思いは駅を降りてからも消えない。監視員を宿に残して一人墓参りする女に同行した青年の言葉は女囚に久しぶりに女としての感情を蘇らせていく。海岸沿いの冬ざれた公園でしばし時間を共有するふたり。  
 女は刑務所の塀の中にもどる際、別れを惜しむ青年に伝えた。「3年後の出所する日、あの公園でまた会いましょう」。喜び勇んで近くの洋服店に飛び込んだ青年は冬を暖かく過ごせるよう彼女への差し入れを物色する。そこに二人の刑事(三國連太郎他)がやってきて青年を強盗容疑で逮捕してしまうのだ。刑事に連行されながら惨めな抵抗をする青年の絶叫が街にこだましてストップモーション。  
 そして。3年後出所した女があの公園で来るはずもない相手を待ち続けるのだった。  

 当時斎藤耕一監督は映像派と呼ばれていて僕の好きな監督の一人だった(そんなに作品を観たことはないのだけれど)。今回のチラシには「男と女」「白い恋人たち」で名高いフランスの映画監督クロード・ルルーシュになぞられて紹介されているが、ドキュメンタリータッチの詩情豊かな映像、印象的な音楽(宮川泰)、即興性の高い演出は確かにクロード・ルルーシュの作品を彷彿させてくれる。  
 ショーケンの黒いロングコートに幅広の襟、ネクタイの極太の結び目なんてまさに70年代ファッション! まだ役者っぽくないところ(特に目元)の初々しさがたまらない。  
 岸恵子のエレガントな美しさは十代の頃には気づかなかった。ミニスカートから伸びた足も魅力的だ。  
 墓参りの翌日、ショーケンにせがまれもう一度会う約束をした岸が安宿で髪をとかすシーンがある。こんなところも若い頃は何も感じなかったのだ。男の一途な気持ちを受け入れ、女囚から女へ徐々に変身していくシーンにぞくぞくきた。役では30代半ば、実際はいくつだったのだろう。ちょっと中山美穂に似ていた。
 三國連太郎はショーケンを追う刑事と内縁の夫(?)を殺した岸恵子に判決を下す裁判官役の二役を好演。  

 女が刑務所にもどる前に塀門前で営業するラーメンの屋台でショーケンが二人にラーメンをおごる。そのラーメンが実にうまそうだったので、映画の後、さっそくラーメン屋にかけこんだのだった。  

 ショーケンと岸恵子はその後「雨のアムステルダム」でふたたび共演。数年前のTVドラマ「外科医柊又三郎」ではショーケンの死んだ奥さん役として遺影で特別出演していた。

     ◇

2001/10/20

 「GO」(丸の内東映)  

 「約束」のあと、有楽町でカミサンと待ち合わせて一緒に「GO」を観る。久々の映画のはしごである。
 いつものようにガード下のディスカウントチケット屋で前売券を買おうとして「GO!」を手にとりそうになってしまった。「GO」の前売券はなく、その代わり丸の内東映の招待券(1,000円)があった。買ってから気づいたのだが、この招待券、注意書きに「土日祝日および初日はご遠慮ください」とある。  
 今日は土曜日、おまけに初日だと知ってあわてて劇場に電話した。もしダメだと言われたら、以前僕が会社で映像に携わっていた際、あるビデオ映画の共同制作でお世話になった東映ビデオの某氏(プロデューサー)の名前をだして「彼からもらった、今日しか夫婦でみることができない!」と泣きを入れようとしたらあっさりと「大丈夫ですよ」の返事。さすが大東映! 肝っ玉がでかい(以前松竹の劇場招待券が日曜日に使用できなかったことがあったことを思い出した、だから松竹は……)。  
 映画が始まって驚いた。名前を借りようとした某氏がプロデューサーでクレジットされていたのだ。名前を出さなくてよかった、と背筋に冷汗がタラリ。  

 金城一紀の第123回直木賞受賞作の映画化である。直木賞受賞作に興味がなく小説は読んでいない。ところが予告編で主演が窪塚洋介、共演に山崎務、大竹しのぶだと知り、映像からもエネルギーが感じられたので、「カルテット」に続く夫婦での鑑賞とあいなった。ちなみにうちのかみサンは「わざわざ劇場まで行って邦画を見たくない」派。2本続けて一緒に邦画を観るなんてことは珍しい。  

 在日朝鮮人ニ世である若者の〈日本〉人との恋愛模様を綴りながら、人種差別、在日朝鮮(韓国)人のアイデンティティ、国籍、祖国への意識等々、一筋縄ではいかない問題を浮き彫りにしていく。  

 語り口は軽快だ。  
 開巻早々、日本の高校に通いバスケット部に所属する主人公(窪塚洋介)が試合真っ最中に敵味方から差別を受けて、怒りを爆発させて大暴れするエピソードが描かれる。「これは僕の恋愛に関する物語だ」とモノローグがあって、時制が過去に飛ぶ。これが何回となく繰り返されて主人公の現在までの状況が説明されるわけだが、この構成(脚本:宮藤官九郎)がいい 。  
 主人公が地下鉄の線路に降り立ち、入ってくる電車を待ち受け、ある距離に縮まるや、一目散に電車と同じ方向に走り出す。電車に轢かれず走り抜けられるかどうか、〈スーパー・グレート・チキン・レース〉というゲームだ。ゲームに挑戦して見事成功する主人公と見守る友だち二人が駅から逃げ出し、警官と追いかけっこを繰り広げるタイトルバックに興奮した。音楽、映像、挿入されるクレジットが一体となった疾走感がたまらない。コマ抜きは僕の好みではないのだが(最近この手のチャラチャラした映像が多い、プロモ-ションビデオで流行しているのだろうか)、その他の何気ないシーンのカッティングが絶妙。  
 登場人物も一癖二癖あるような人たちばかりで、観ていて飽きなかった。息子を暴力で抑えてしまう元プロボクサーの父親(山崎努)、過保護なのか放任主義なのかよくわからない母親(大竹しのぶ)。両親と主人公のやりとりは漫才みたいだ。朝鮮学校時代の友だちの、日本語禁止の学校内で日本語を喋った時の先生に言い訳するエピソードも大笑いした。  

 言われてみれば当然なのだが、在日の朝鮮(韓国)人には朝鮮籍と韓国籍があることを知って驚いた。ということは朝鮮学校というのは皆北朝鮮を母国とする学生が通うところなのか? 韓国を母国とする人たちが通う学校は何と呼ぶのか? チマチョゴリの制服は朝鮮学校だけなのか? 学校内では本当に日本語を喋ってはいけないのか? 彼らは情報社会の日本に住んでいるにもかかわらず皆金日成、金正日親子を偉大なる指導者と崇め奉っているのか?だったらなぜ母国に帰らない?  
 閑話休題。  

 主人公の置かれている状況を笑わせながら説明しながら徐々に〈恋愛に関する〉話になっていく。あるパーティで知り合った女子高生(「バトルロワイアル」で容赦なくクラスメートを殺していくコワーイ女子中学生に扮した柴咲コウ!)との恋愛の中で自分の国籍問題、差別問題がクローズアップされてくるのだ。  
 初めてふたりが結ばれようとする夜、主人公は自分が在日韓国人であることを告白する。主人公にとってそれはどうでもいいこと、なんでもないことだった。しかし彼女は違った。親に反発して生きているくせにこういう時だけ父親の意見を受け入れ、身体をこわばらせるのだ。無言でその場を去る主人公。  
 彼女を非難することはたやすい。しかし少なからず似たような感覚でいる日本人は多いはずだ。僕だって〈朝鮮人〉という言葉を聴くと無意識に反応してしまうところがある。  
 黒柳徹子の「となりのトットちゃん」に道行く人に対して「チョウセンジン」と言って罵倒する朝鮮人の幼い男の子の話がでてくる。男の子は「チョウセンジン」という言葉を人を馬鹿にする時に使うものと信じているのである。哀しい現実は昔も今も根幹は変わっていないのだろう。  
 ちょっと前のことになるが、地元の某ハンバーガー店で本を読んでいた時のこと。騒がしい韓国人のカップルを罵倒する初老のオヤジがいた。うるさいおしゃべりについて注意するのはいいが、その時の言いぐさが、まさに聞くに耐えない言葉だったのだ。オヤジは彼らをとんでもない差別用語を口にして「ここから出て行け」と怒鳴った。僕はその言いぐさに腹が立って、後で注意したのだけれど、オヤジは「すいません」と言いながら少しも反省していなかった。  
 やっかいな問題を抱えている〈在日〉という立場に嫌気がさして「あんたらの問題はあんたらの世代で終わらせろ、オレたちには関係ない」という主人公の父親への叫びに共感できる。  
 ちょっと甘すぎるラストは気になるが、まあ、いいか。  

 窪塚洋介のファッションがキマっていた。だぶっとした紺のトレーナーがかっこよく。「オレも着てみようかな」とかみサンに言ったら「窪塚洋介だから似合うのよ」だと。  
 舞台挨拶のある回は満杯だったのであろう場内は初日にしては空席が目立った。「面白いけど窪塚洋介ファンしか観ない映画ね」相変わらずカミサンの評価は厳しい。
 帰りの電車の中で〈在日〉という言葉が朝鮮人や韓国人にしか使われないことについて話し合った。




 これまた宣伝です。
 ブックカフェ二十世紀FBからの転載、またまた許されて……

     ◇

 6月に開催された「小中和哉の特撮夜話Vol.2」のゲスト飯島敏宏監督が、同月に「バルタン星人を知っていますか? テレビの青春、駆けだし日記」を上梓しました。
 遅ればせながら、12月16日(土)、その出版を記念して、飯島監督を再度ブックカフェ二十世紀にお呼びします。
 前回は第一期ウルトラシリーズについてお話ししていただきましたが、今回のテーマは、特撮を離れて、飯島監督が関わられたテレビドラマについてです。

 実相寺昭雄監督がTBSを辞められる時、飯島監督が付き添って、上司に会いに行かれたそうです。実相寺監督の辞表は受理されたと同時に、飯島監督は上司から「木下プロに行ってくれないか?」と言われました。こうして、飯島監督の木下プロへの出向が決定しました。前回のイベント後の懇親会でお聞きしました。
 木下プロでは数々のドラマをプロデュース(時には演出も)していますが、代表作は「金曜日の妻たちへ」になるんでしょう。話題呼びましたからねぇ。
 個人的には、以前も書きましたが「それぞれの秋」です。人間の歌シリーズには名作がたくさんあります。
 そこらへんのことをいろいろお訊きしたいなぁなんて思っています。

 予約受付中です。

iijimataik1216




 宣伝です。
 ブックカフェ二十世紀のFBからの転載です。

     ◇

 11月25日は何の日かご存知ですか?
 1970年の11月25日、三島由紀夫が楯の会のメンバーとともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪問、総監を監禁しバルコニーで自衛隊員に演説したのち割腹自殺した、いわゆる〈三島事件〉が起きた日です。
 そうです、三島由紀夫の命日、憂国忌ですね。

 47年前、私は小学5年生でした。
 学校から帰るとTVはこの事件で大騒ぎしていました。
 母親がそんなニュースを横目に嘆きました。
「TVは三島由紀夫を事件の犯人としてしか扱わない。作家の側面なんかこれっぽっちも紹介しないんだから!」
 この事件で私は作家、三島由紀夫を認識したのでした。

 予備校時代に「美しい星」を読んでハマり、大学時代は新潮文庫の三島由紀夫の小説を読み漁りました。
 11月25日(土)、15時から『三島由紀夫未公開インタビュー「告白」』刊行記念トークライブ第二弾を開催します! 三島由紀夫の肉声が聞けますよ~。

 予約受付中です。

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2000/02/01

 「すぐそこの江戸 考証・江戸人の暮らしと知恵」 (稲垣史生/大和書房)

 時代考証の第一人者の著者による江戸雑学ものの一冊。江戸時代の市井の人々の暮らしぶりがいろいろ想像できて楽しい。
 かるたの「犬が歩けば棒に当たる」の棒とは武家地の辻番(警備員)が持つ棒のことをいうのを初めて知った。
 捕物帳というものが本当にあるとは思わなかった。著者が言うには岡引きが尻にぶらさげている和綴じの帳面ではない(そんなものがあることすら知らなかった)。言上帳のうち、犯罪事件に関するものだけを別冊にまとめてものを言うのだそうだ。僕自身現代ミステリでよくあるタイトル「○○殺人事件」の<殺人事件>に相当する時代劇用の名称だと勝手に考えていたのだ。

 この本の主旨ではないが、やはりことあるごとに著者はTV時代劇の制度や風俗がめちゃめちゃであることを嘆いている。確かに著者の言う分はよくわかる。わかるけれど、最近の時代劇はちょんまげをつけた現代劇という側面もあるし、アクション重視の映像を狙っている作品(つまり製作側でも嘘を承知で作っている)もあるので、一概に「ダメ」とは言えないと思えるのだが。それより、いかにもかつらとわかる結髪技術を問題にしたい。

     ◇

2000/02/13

 「第3の家族 テレビ、このやっかいな同居人」(阿久悠/KSS出版)

 感想の前に、図書館の本を借りる際のマナーについて記しておきたい。
 この本のところどころにページの角を折り曲げた後がある。最初はしおりの代用かと思ったが、ちゃんとそれ用の紐はついているのである。よくよく考えたら、付箋として折り曲げているのだった。
 しおりにしろ、付箋にしろ、公共の本を意図的に本を傷ものにするのは許せない。本に直接書き込みするバカもけっこういる。この書き込みも自身のためというより、次から借りる人へチェックさせたいようだ。つまり「ほら、この本のここは重要ポイントよ、ここに気づいた私って頭いいでしょ」てな感じでアンダーライン等の書き込みがしてある。余計なお世話だ。そういうテメエらは自分の金で本を買い、好きなだけ折り曲げたり、書き込みすればいい!!

 中野翠が毎年暮れに毎日新聞社から上梓する、「サンデー毎日」連載の時事コラム(?)をまとめた本はその年を振り返るかっこうの書であり、毎年暮れ(もしくは新年)の楽しみの一つになっている。
 本書は著者が91年から96年にかけて、某TV番組製作会社の広報誌に連載したTV全般のエッセイと今の観点から見たTVや時代についての著者自身の語り下ろしで構成されたもので、2000年をむかえた今、90年代を振り返るには最適な書と言える。
 第3の家族とはサブタイトルにもあるとおりTVのことだが、では第1、第2の家族とは誰を指すのだろう。女房、子どもたちのことか?
 漫才ブーム後に変容したTVの〈笑い〉に関する異議申立てを「誰が笑うのか」「笑っていいことと悪いこと」の項でしていることに注目した。

 かつてコメディアンが自分を痛くしていたのと違って、最近では痛がる人間を用意して、自分が命令するようになっている。コメディアン自身が落ちることも、転ぶこともまずない。それどころか、自分以外に大胆に落ちたり、転んだりすることを、他者に要求する。(略)テレビにおけるお笑いとはほぼ100パーセントに近い形で、この図式が確立している。(略)テレビにおける命じる側と命じられる側の関係は、職業的契約によって成立している部分もあり、それはある種の納得に通じるものだが、見る側にはそうは見えない。
 何ら不思議のない世の中の図式、しかも充分に喝采を期待できる種類のことと思えば、似たような関係を自分の周辺に作る。
 笑いという糖衣錠にくるんだ砒素の役割を果たしていないだろうか。(P165~166)

 そしてそれが頻繁に起こる中学生の自殺に関係しているのではないかと著者は94年の時に婉曲に指摘しているのだ。
 2年前ほど、ある本の感想に今の笑いはいじめの要因になっていて、その元凶はビートたけしだと書いたが、まさしくその通りのことが書かれていてわが意を得た気分である。
 最近でもダウンタウンがある番組で自分のマネージャーに暴力をふるって萎縮させるというドッキリカメラを仕掛けていた(格下の芸人を同じ要領で泣かして皆で大笑いした企画の第2弾)。仕掛ける相手を間違えている哀しい企画なのだが、視聴率が取れるうちは局の方でも人気タレントの傍若無人を見て見ぬ振りをするのだろう。

 そのほか著者は仲間うちに終始するバラエティとタレント、スタッフ、視聴者の意識の低さを嘆き、野球の珍プレー好プレー、NG集の番組のTV界に及ぼす悪影響を憂うのである。
 結局視聴率が問題なのだろう。つまらなければチャンネルを換えればいいし、視聴率が悪ければ、番組は消える。そうならないのは支持する視聴者がいるからだろうし、ということは視聴者~ぼくたちが一番バカだということなのだ。ダウンタウンの番組を家族が寝てしまった後ということもあるけど、くだらねえと思いつつ最後まで見てしまいましたからね、私は。

     ◇

2000/02/15

 「知の編集術 発想・思考を生み出す技法」(松岡正剛/講談社現代新書)

 ある種のコンプレックスとも言えるが、この年になっても出版に関する仕事に興味を持っていて、図書館で本格的なハウツー以外で「編集」の名のつく本を見つけるとすぐ手にとってしまう。本書も羽田図書館の新刊コーナーで見つけた。
 編集はただ本や雑誌をまとめるだけにする工程ではありませんよ、世の中のさまざまな局面で編集作業が行われているのですよ、というのが本書の主旨である。
 著者が持つ編集テクニックが開示してあり、読者はその教えを、出題される問題(編集稽古)に回答しながら学んでいくという趣向。
 編集についてどうのということより、その過程で書いているいろいろな雑学の話が面白かった。アメリカ型スポーツの基本が「より優秀な奴が前にでればいい」のに対してヨーロッパ型は「いったん役割が決まったら最後までまっとうしなさい」という文化だとか、ジョージ・ルーカスの定番プロットが彼の大学時代に教わった神話学者(ジョセフ・キャンベル)の英雄伝説の構造を下敷きにしているとか。

     ◇

2000/02/16

 「へなへな日記」(中野翠/毎日新聞社)

 中野翠のこのコラム集も何冊めになったのか。
 「サンデー毎日」の連載はもう10年以上続いている。4、5年前に1年分(正確には前年の12月からその年の11月分)をまとめた本が発行されていることをを知り、既存の本を読みあさった。すべて読んでしまってからは毎年年末に新刊が出るのを楽しみにしている。
 世間を騒がせた大事件、自身の身辺で起きた出来事、ワイドショー的ネタを疑問点をあげ、分析し、率直な自分の意見を述べる。毒舌とか辛口とかそういうものではなく、その見方、切り取り方が何とも痛快なのだ。思わずうなずいたり、眼から鱗が落ちたり、あるいは逆に主張に納得できなくて腹をたてたりと、どんどんページが進んであっという間に読めてしまう。
 昨年も東海村原発事故、サッチー騒動、ヒロスエの早大登校騒動、パンク「君が代」問題、ガングロ、厚底靴等々、話題にはことかかなかった。

 メディアジャンキー一家の家族合わせで、母:サッチーの講演会における「拍手おばさん」、娘:上祐ギャル、息子:酒鬼薔薇事件で少年が逮捕されたときのアナウンサーを押しのけてVサインする男の子、というのはいい得て妙。携帯電話は淋しい女の子のおもちゃというのもさすが(これは僕もずっと思っていた)。スマッシュヒット邦画「金融腐蝕列島 呪縛」に押し寄せるサラリーマンを「セビロもん」と命名しているのには笑った。
 最高だったのはガングロ女の化粧目的の分析。彼女たちは他人からかわいい、きれいだと見られたくなく、逆にその手の注目を拒否するためだという指摘は注目に値する。

 その他、映画、落語、歌舞伎について寸評も楽しみの一つである。特に単館ロードショーされるマイナーポエット(とコラムの中で表現されている)映画批評はこれからビデオで観る映画の指針になる。ただメジャー、というか僕も見ている映画については相変わらず(趣味の違いといってしまえばそれまでだが)評価が違う。「スターシップ・トゥルーパーズ」をワーストにする気持ちはわからなくはない(〈あまりに幼く好戦的〉には納得いかないけど)。しかし「トキワ荘の青春」についてがっかりしたなぁと言いきるのどうかと思う。おそろしくしけたムードで素敵な馬鹿エネルギーに乏しかった、って書くがほんとにそれしか感じなかったのだろうか。残念だ。

 カラオケ嫌いの彼女の疑問「人はなぜカラオケで歌うのか?」については、「ストレス解消」と答えたい。狭いボックスでどうしてマイクを握るのかという素朴な疑問は全くもってそのとおりで、人は誰でも歌手の気分を味わいたいのだろうと言うしかありませんが。

     ◇

2000/02/27

 「新宿熱風どかどか団」(椎名誠/朝日新聞社)

「椎名誠ってさ、面白いけど、だからどうなのって感じしない?」
 一昨年から昨年にかけて、三五館という新興の出版社から再刊された初期の著作集や自伝的小説をたて続けに読んでいた時に、会社の同僚に言われた。だから、もう読まないんだ、という彼の気持ちは実によくわかる。

 かつて椎名誠の本をかなり読んだ。最初の出会いは大学生の頃、80年はじめだった。書店に並んでいるスーパーエッセイと名づけられた著作集を不思議な気持ちで眺めてたのを憶えている。あの時、本を読むにはいたらなかったが、同じ頃、朝日新聞に連載が始まった雑誌批評のコラムは毎回楽しみで、たぶんこれで椎名誠という名前を認識したように思う。

 本の雑誌社という聞きなれない出版社から出た「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」(この書名、とてつもなくインパクトがあった)や「赤眼評論」など夢中で読んで、なんて面白い文章を書く人なんだろうと思った。
 ただ、読み続けていると同僚が指摘したように「だからなんなんだ」という思いがでてきたのは確か。ある時期もう卒業という気分になって、持っていた椎名本もすべて処分してしまった。週刊文春連載のエッセイも読まなくなってずいぶん経つ。
 再度読み始めたのは初期の著作が三五館から再刊されたことが大きい。どうでもいいこと、ごくごくつまらないことを声がでてしまうほど笑わせる技はやはりすごいことなのだ。同時に「本の雑誌」そのものに興味を持ち、その成り立ちがどのようなものなのか知りたい気持ちが強くなったのも大きい。

 一番驚いたのは「哀愁の町に霧が降るのだ」が自伝的小説だということだった。それが「新橋烏森口青春編」「銀座のカラス」「本の雑誌社血風録」と連綿と続いているのを知って、あわてて読んだものだ。
「新宿熱風どかどか団」はその待ちに待った続編である。本の雑誌がどうにか軌道にのりだし、椎名誠自身、会社員からフリーのライターになって、書き下ろし、連載、ラジオやTVへ出演等々、多忙な毎日のあれやこれやがいつものノリで描かれている。僕が椎名誠の存在を知った、今からふた昔前の80年から物語がはじまるというのも、時代背景や本の中で描かれている出来事が僕自身の実体験や記憶と重なりあってとても印象深いものになっている。

 しかしこの「新宿熱風どかどか団」は何て形容すべき話なのだろう。果たして小説と呼べるのだろうか。おもしろドキュメントエッセイというか、筋も構成もあるようなないような、自分の体験をとりあえずその場の気持ち、状況で書き綴った感じ。もちろん冒頭でその旨ことわっているし、内容も断然面白くてたまらないのだが、あまりに盛り上りも何もない、唐突な終り方に唖然としてしまった。
 その昔、何をもってスーパーなエッセイなのか疑問に感じていたのだが、これこそスーパーエッセイというべき文章なのかもしれない。
 椎名誠と仲間たちが右往左往しながら熱く生きていく様子がうかがえるのは確かなのだが。




 新作映画ももちろん観ている。
 10月を中心にその前後に観た作品のタイトルだけ記す。

 9月28日(木)

 「遥かなる山の呼び声」(神保町シアター)

 この映画、公開時にはある種の〈臭さ〉を感じて映画館に足を運ばなかった。「幸福の黄色いハンカチ」はきちんと観たのに。以降まったく観たことがなかった。今回、招待券があって、なおかつちょうどこの作品の上映時に時間があったので。山田洋次監督の大衆性、泣かせのテクニック、その巧さを思い知らされた。

 10月1日(日)

 「三度目の殺人」(TOHOシネマズ スカラ座)

 いろいろ書きたいことがあるが、一つだけ。
 音楽(ルドヴィコ・エイナウディ)が素晴らしい。
 

 10月13日(金)

 「散歩する侵略者」(MOVIX川口)

 原作は芝居だというが、かなりの観念劇ではないか? 概念についての、敵の宇宙人と人間の丁々発止のやりとりが見所なのでは、と。
 長澤まさみは倦怠期の夫婦(の妻)を演じると一際光る。


 10月19日(木)

 「青空へシュート!」(横浜シネマ ジャック&ベティ)

 文科省選定映画。
 こそばゆいエピソードもあるが、ラストはいくすじかの涙が流れた。
 やばい!


 10月25日(水)

 「ニッポン無責任時代」(神保町シアター)

 クレージーキャッツの、というか植木等の代表作をやっと劇場で押さえた。


 10月26日(木)

 「猿の惑星:聖戦記」(MOVIX川口)

 猿の目の演技にやられた!


 11月1日(水)

 「アトミック・ブロンズ」(TOHOシネマズ みゆき座)

 室内の銃撃戦、1シーン1カットの長廻しに感激。「最も危険な遊戯」の感動が蘇る。同じシチュエーションだし。


 11月2日(木)

 「ブレードランナー 2049」(丸の内ピカデリー)

 35年経って、リメイクでもリボーンでもなく前作の続編をつくるということに驚愕した。




2001/09/13

 「スウィート・ノーベンバー」(ヤクルトホール 試写会)  

 先週「ラッシュアワー2」の試写会招待状を友人からもらったのに当日急遽仕事が入って行けなかった。こういうのって実にくやしい。公開されても金だしてまで観るつもりのない、でもそれなりに面白そうな映画の試写会に足を運べるのはとてもうれしいことだからだ。ジャッキー・チェンのアクションはいつも惚れ惚れするし、最近ビデオで(遅ればせながら)「フィフスエレメント」を観てクリス・タッカーのぶっ飛び演技に瞠目させられていたので余計その思いが強い。
 
 今週はキアヌ・リーブス主演の恋愛モノ「スウィート・ノーベンバー」の試写会招待状をもらった。普通だったら迷わずペケ。恋愛映画にほとんど興味がなく、おまけに難病モノだというのだから食指なんてまったく動かない。  
 にもかかわらず招待状をもらったのはかみさんがキアヌファンということ、試写会当日が15回目の入籍記念日(わが家の結婚記念日)という理由による。そのかみさんにしたって、キアヌファンというものの難病ものには僕以上に嫌悪感を示し、それほど興味をそそられる映画でもなかったらしい。しかし、いつも存在すら忘れてしまう入籍記念日にふたりで映画を観るのもいいかもしれない、ということで納得したのだった。  

 終了後、「ひどい映画だったね」「上映時間が2時間は苦痛だ」久しぶりに夫婦の意見が一致した。「『スピード2』の主演をキャンセルするキアヌがどうしてこんな映画に出たのだろう?」「金がなかったのかな」  
 キアヌ・リーブスが出演を辞退しなければ「スピード2」はもう少し面白くなったはずだという思いがある。役が限定されるのを嫌ったキアヌは続編主演のオファーを蹴って、自分のバンドのツアーを優先させたとか。役が限定されるといったってたかだかシリーズ2本め。大ヒットして自分自身の名声をあげてくれたのだから、義理でも「2」くらい出演してもよかった。
 
 キアヌ・リーブスには彼なりに映画出演に対する信念があるのかもしれない。さまざまな役柄に挑戦する、役によってはロバート・デ・ニーロよろしく体重の増減を厭わず(単にすぐ太る体質なのかもしれない)、ある時は長髪、またある時は短髪と映画によってイメージをころころと変えていく。「スピード」「マトリックス」以外主演作を観ていないから大きなことをいえないが、僕にはそんなイメージがある。けっこう役柄に凝る役者ではないかと思うのだ。  
 役にうるさい(と思われる)キアヌがなぜ「スウィート・ノーベンバー」に主演したのか、彼が出るくらいだから凡庸な恋愛映画、難病映画ではないはずだ、いやそうであってほしいと願っていたのに……。  

 開巻早々、キアヌは広告代理店のクリエイティブ・ディレクターでバリバリの仕事人間ぶりを見せてくれる。これが今いちきまっていない。「天使がくれた時間」のニコラス・ケイジの仕事一筋人間はいかにもそれっぽく感じたのだが。「キアヌってあまり器用な役者じゃないもの」とかみさん。  
 彼がある縁で一風変わった女性(シャーリーズ・セロン)と知り合う。あなたは不幸な男だ、私の11月の恋人になりなさい、1ヶ月間一緒に暮らしましょうと女性はのたまう。当然彼は反発するが、いつしかふたりは愛し合うようになり、やがて彼自身も人間らしさを取り戻してくる。  

 最初登場するヒロインがまったく魅力的でない。言うことやることは強引、こんな女とエリート意識の高い欠陥男がどんな風に結ばれていくのか、ここらへんの展開はちょっと新鮮だった。しかし、ヒロインがある企業の元経営者で動物好きな自由に生きる女性だとわかったとたん彼はメロメロになってしまう。  
 その前に彼が全精力を注いだ企業広告のプレゼンがあっさり却下され、その場でクライアントと喧嘩して会社をクビになるというエピソードがある。広告代理店にとってクライアントは神様みたいな存在だ。クライアントに喧嘩を売る広告マンなんて適正能力がないと言わざるを得ない。
 
 ふたりが愛し合うようになると、待ってましたとばかりにヒロインの病気がクローズアップされてくる。前半のヒロインの威勢の良さは何だったのか? 病気は進行し、それは男の知ることにもなってふたりの別れ話が持ち上がる。  
 ヒロインはやがて病気で朽ちていく自分の醜い姿を愛する人に見せたくない。だから毎月恋人を変え、いい思い出だけを相手に残したいと考えている。対して男は愛する女性のすべてを受け入れたい、と。12月になっても一緒にいたい、そばにいて看病したいと懇願する。この気持ちはよくわかる。人を愛するってことはその人のすべてを理解し(理解した気持ちになって)良いところも悪いところも受け入れることなのだから。にもかかわらずヒロインは自分の考えを変えない。最後にきれいに男の前から去っていくのだった。  

 なんて自分勝手な女なんだ。好みの男に声をかけて「私とつきあえば幸せになれる」とばかり無理やりつきあいさせ、男がその気になると「素敵な思い出をありがとう」とサヨナラしてしまう。こんなことを毎月繰り返しているんだぜ。その理由が病気だからって? 甘ったれるのもいい加減にしてくれ。ただ単に自分のために男の気持ちを弄んでいるだけではないか! この物語のどこに感動があるのか。安っぽい涙すら流させてくれない。困った映画である。

 【追記】  
 ヒロインの友人であるおかまちゃん二人のパーティに招待された主人公が女装した姿に唖然としてつぶやく「ピンクフラミンゴみたい」。大笑いした僕を「何がそんなにおかしいの」と言いたげに振り向いた前席のお嬢さん。あのねぇ、「ピンクフラミンゴ」っていうのは、一度見たら忘れられないディバインという異装の麗人が主人公のカルト映画なの。ディバインに比べたら二人のおかまちゃんなんてきれいなものだよ。
 あの台詞、「黒鳥の湖みたい」と訳したら会場で少しは笑いがとれたかもしれない。  

 試写会場を出て信号待ちをしていたら、若い女性二人の会話が聞こえてきたとかみさんが小声で言う。「いい映画だったね」だって。この映画のどこをどう観ればいい映画になるのか理解に苦しむ。ま、「A.I.」に戸惑った人からみればラストで涙を流した僕だって大いに理解不能な人なのだろうが。

       ◇

2001/09/28

 「仮面ライダーアギト PROJECT G4」(チネチッタ)  

 TV「仮面ライダーアギト」にはまっている。  
 アギトに変身する記憶喪失の根アカな青年・津上翔一、〈もう一人の仮面ライダー〉ギルスに変身する陰のある元大学生・葦原涼、警視庁〈未確認生命体対策班〉の一員で特殊プロテクター・G3システムを装着、〈メカニック仮面ライダー〉ともいうべきG3-Xとなって敵と戦う誠実だが不器用な若手刑事・氷川誠。この3人が未確認生命体(アンノウン)と呼称される謎の怪人たちと戦う物語なのだが、さまざまな要素を詰め込んだ画期的なドラマ作りがむちゃくちゃ面白いのだ。
 
 アンノウンはなぜ超能力を持つ一般人を次々と殺害していくのか? 津上や葦原はなぜアギト、ギルスに変身できるのか? 3人を結びつける〈あかつき号〉事件とは何なのか? こうした謎の提示や解明を縦糸に、翔一が居候する美杉家の美杉教授、その息子・太一、美杉の姪・真魚(超能力女子高生)との触れ合い、ある日突然ギルスに変身する能力を得た葦原の苦悩、警視庁内の人間関係に翻弄される氷川等、3人の人間関係を横糸に、それぞれがさまざまに絡み合い、もつれ合いながらドラマが進行する。  

 前作「仮面ライダークウガ」も、これまでの東映ヒーローもののイメージを一新するストーリー展開、VTR(ハイビジョン撮影)をうまく活用した映像設計が、いわゆるマニアだけでなく大人の視聴者をも魅了した。  
 後を受けた「仮面ライダーアギト」は、「クウガ」の世界観をよりバージョンアップし、複数ヒーロー、ミステリーの連続ドラマという要素を加味した(基本は刑事ドラマの変形か?)。いくつもはられた伏線、謎が謎を呼ぶストーリー、VTR特有の鮮明な凝った映像で毎週TVにくぎづけにしてくれる(とってつけたような謎解き、忘れさられた伏線もあって、下手すればその昔の大映テレビの〈赤い〉シリーズになる恐れもあるのだが)。  
 ウルトラマンと違って仮面ライダーにそれほどの思い入れのない僕は、作品の一番の見せ場であるヒーローと怪人の闘いはどうでもよく、素顔の役者たちが活躍するドラマ部分に夢中になっている。主要な視聴者である就学前の子どもたちがついていけるのかという疑問もわくが、面白いのだからしょうがない。世の女性たちの目当ては美形の主役の青年三人衆なのだろうが。  

 「仮面ライダーアギト」が東映50周年記念作として、長い歴史を誇る戦隊ヒーローものの最新作「百獣戦隊ガオレンジャー」とともに映画化された。「アギト」は第1作の放映から数えて30周年の節目の作品でもある。  
 通勤途中にある丸の内東映の最終上映の開始時間が早すぎてとても退社後では間に合わない(それでも夜も上映するからありがたいか。「ウルトラマン」の劇場版は昼間で上映が終了し、夜は別のプログラムになってしまうのだから平日行けない)。川崎のチネチッタだと上映時間も若干繰り下がり何とか間に合う。といことで、さっそく足を運んだのだが、悲しいかなこの館、スクリーンが小さい。
 先に上映された、完全に幼児向けに作られた「百獣戦隊ガオレンジャー 火の山、吼える」を観て、はたと気がついた。何も子どもを連れて行くわけじゃないのだから、「アギト」の上映に間に合えばいいのだ。だったら丸の内東映へ行けたじゃないか。  
 「ガオレンジャー」とのカップリングということもあり、いかに「アギト」が面白そうでも大の大人が一人で観に行く勇気がない。で、特撮好きな友人を誘った。「ウルトラマン」は一人で行けるというのに。思い入れの差はこういうところで表れる。  

 映画版はTVシリーズとそれほどリンクしない独立した話になっている。  
 自衛隊が管轄する多数の超能力を持つ子どもたちを研究する施設がアンノウン(蟻の怪人)の集団に襲われた。仲間がたちが皆殺しにされる中、運良く難を逃れたふたりの子ども(少女と少年)が、やがて津上(賀集利樹)や美杉家の家族、葦原(友井雄亮)と知り合う。
 自衛隊の一等陸尉(小沢真珠)は、警視庁のG3システムの上をいきながら装着員の犠牲を生むため封印されていた〈G4〉の資料を盗み出し、独自にプロジェクトG4に着手。G4を完全無敵なものにするために、真魚(秋山莉菜)を拉致し、彼女の超能力をG4に取り込み、G3-Xと対峙させる。
 自衛隊の秘密基地に侵入し真魚を奪還しようとするアギトとギルス。G4に闘いを挑むG3。そこにアンノウンが攻撃してきて……、というテレビシリーズ同様ぐいぐい引き込まれる展開である。

 タイトル前に繰り広げられるアンノウンの集団による施設破壊、殺戮シーンは見応えがあった。同じ型をしたアンノウンの集団というのが斬新なイメージだ。このアンノウンの毒牙にやられた人間がまるで水中で息ができないように窒息していくビジュアルが単純だが効果的だった。
 物語の要となる孤児ふたりの演技に嫌味がない。
 最初佐藤藍子かと勘違いした小沢真珠の作り物っぽい鼻がいかにも敵役という感じ。
 何より拉致された真魚の衣装、表情がセクシーだった。映画の中の一番の収穫だったりして。

 話には夢中になったものの、映像的には少々期待がはずれた。
 VTR撮影の特撮ヒーローものに懐疑的だった僕の考えを「ケイゾク」ばりのカメラワークで打ち破り、そのテクニックに毎回堪能させてもらっている「アギト」のこと。その映画化では映像そのものにも関心がわくというもの。
 映画化作品は、最近ちらほらと噂に聞こえてくるデジタル撮影なのだが、これがフィルム化されて上映されるとなるとその画像に不満がでてくる。
 映像に陰影がない。画面が妙に平坦だ。またビデオ画像特有の鮮明さもなくなってしまう。
 あるいはセットに制作費をかけられなかったからか、画面全体からスカスカ感が漂ってくる。
 まあ、しかしビデオ化、DVD化される際に、本来のVTR映像になればまた印象も変わるかもしれない。

     ◇

2001/09/29

 「ウォーターボーイズ」(シャンテシネ)  

 スポーツを扱った日本映画で傑作、佳作があっただろうか。ちょっとその類を思いつけない。
 映画黄金期には石原裕次郎主演の拳闘映画があったような気もするが、その後はとんとお目にかからない。そういえば選手本人が実名で主演する野球映画とか相撲映画というのもあった。しかし、あれはあくまでもプログラムピクチャーの1つととらえるべきで、公開が終わればそれまでのものだろう。  
 70年代には人気漫画を映画化した「ドカベン」(なんと川谷拓三が殿馬に扮したのだ!永島敏行のデビュー作でもある)や「野球狂の詩」などの野球映画があったが、出来は知れたものだった。ブレイク前のSMAPが主演した「シュート!」というのもあった。内容については観ていないので何とも言えない。
 
 それに比べたらアメリカには今も昔もスポーツを題材にした映画が数多くあって、なおかつ見応えのあるものが多い。この違いはどこからくるのだろうか。
 日本だと演技の部分と実際のゲーム展開場面とが大きく乖離してしまう感がある。本当にスポーツができるのかどうか疑わしくなって、いくら演技がうまくても物語に没頭できない。役者の違いなのか。  

 青春映画をスポーツとクロスさせると、近年ではまず「しこふんじゃった」が思いつく。大学の相撲部を舞台にしていた。昨年はボート競技を扱った「がんばっていきまっしょい」があった。ロードショーでは見逃し、ビデオで観たのだけれど、主役の女子高生たちのはつらつとした姿が素直な感動を呼んだ。
 演じるのが無名の役者(今をときめく田中麗奈の映画デビューだったか?)だと見る側にその役者に対してイメージが出来上がっていないから、たとえ本当はできないスポーツとの取り合わせでもおかしく感じないのかもしれない。
 「がんばっていきまっしょい」の女子高生を男子高生に、ボート競技をシンクロナイズドスイミングにして全編を笑いに包んだのが「ウォーターボーイズ」といえるかもしれない。

 ある地方都市の男子高の廃部寸前の水泳部に新任の若い女教師(眞鍋かをり)が顧問として就任する。女教師目当てに多数の学生が入部を希望し、あっというまに活況を呈するが、女教師の専門がシンクロナイズドスイミングと知って逃げ出してしまう。それでも部長を中心に残った3年生5人はシンクロに挑戦しようとするが、女教師の妊娠ががわかり、産休に入ってしまって指導者がいなくなってしまった。
 紆余曲折の末、バカにする奴らを見返してやりたい、高校生活最後の夏休みを何か一つのことに賭けたいと一致団結してイルカの調教師(竹中直人)の指導のもと練習に励み、学園祭で思いっきり練習の成果を披露する、というストーリー。

 実話の映画化というが、男子高生たちがシンクロに挑戦したという部分のみ本当で映画のエピソードはほとんどフィクションだろう。
 男子ばかりの高校に若い女教師が赴任してきたら大騒ぎになるのは、僕も男子高校だったらよくわかる。僕たちの場合は女教師ではなかったけれど、事務員だかが若い娘になってクラスの連中の目の色が変わったのをよく覚えている。エピソードがかなりオーバーに描かれてはいるけれど嫌味はない。素直に観ていられる。
 やっと合宿でいろいろな技をマスターしたというのに、その合宿の最後の日、ちょっとしたハプニングで5人が全国的に有名になると、辞めた俄か部員たちが戻ってきてわずか一週間やそこらの練習で目を見張るような大技や仕掛けのあるシンクロを披露できるわけがないだろう、なんてヤボなことは言うまい。

 前半はバラバラだった5人の高校生たちの気持ちが一つの目標にむかって一直線になるまでのドタバタ騒動を脇を固める個性的な役者(前述の竹中直人のほか、谷啓、柄本明、杉本哲太、徳井優)たちとともに笑わせてくれる(佐藤役の高校生は山本太郎にキムタクをちょっとまぶした感じの風貌、この佐藤とおかまっぽい早乙女が特に気に入った)。
 部員たちが全員集合してからは試行錯誤の猛練習の模様をスケッチで重ね、いよいよ本番の学園祭に一気に弾け跳ばす。
 こちらの琴線に触れる洋楽、邦樂のかつてのヒット曲(ベンチャーズ「ダイアモンドヘッド」、シルビー・バルタン「あなたにとりこ」、フィンガー5「学園天国」等々)をちりばめて、映画でなければ観られない男だらけの一大シンクロナイズドスイミングを展開させるのだ。これがほんとに楽しい。まさしく一種のミュージカルだ。
 清々しく、軽快で、かなりの興奮もの。カタルシスを与えてくれる。

 劇場をでてしばらくの間、自分の高校の部活動(ラグビー)と映画をダブらせながらてエンディングテーマでもある「学園天国」を口ずさんでいた。




 10月27日(金)から始まった「神田古本まつり」が11月5日(日)に終了した。

 ブックカフェ二十世紀で働きだした最初の年、2015年はまだ試験的に土日のみ(まだサラリーマンだったので)だったが、席が全部お客さんで埋まって、仕方なく帰られる人もいて驚いたものだった。
 昨年(2016年)は雨にたたられたが、それでも土日は混雑して「古本まつり」人気を思い知らされた。

 「古本まつり」は金曜日に始まり、翌週の日曜日に終了する。土日・祝日が混雑するのは当然だが、初日の金曜日の人出が半端ではない。掘り出し物を狙って初日に集中するからだろう。
 今年も初日の27日、店は混雑した。売上は通常の3倍だ。週末はあいにくの雨模様だったが、売上は下がらなかった。逆に右肩上がり。

 実は29日(日)から11月5日の最終日までギャラリースペースで「みなもと太郎画業50周年原画展」が開催され、そのお客さんが多数いらっしゃったのだ(「原画展」は29日からだが、27日にはプレオープンしていた)。
 原画展の期間中、みなもとさんの書籍や同人誌、生原稿、複製原画、キャラクターグッズの物販も行っていて、その売上が貢献してくれたのである。

 いつもは二人で店を運営しているが、古本まつり期間中は臨時のアルバイトを一人採用して3人体制で臨む。今年もそのつもりで手配をした。ところが、平日予定していた人が家庭の事情で来られなくなった。平日だから大丈夫だろうと思って特に他の人をあたらなかったが、これが大間違い。31日(火)なんてとんでもない忙しさだった。
 3日(金)は祝日ということもあって、お昼ごろから次々とお客様が来店、その対応で昼休みがなかなかとれない。一段落ついたのが16時。そこから一人30分の休憩をとったから、僕の昼食は17時だった!

 11月5日(日)は、「みなもと太郎画業50周年原画展」の最終日でもあり、17時から「みなもと太郎✕飯田耕一郎スペシャルトーク」が開催された。カフェ業務は16時までだったのだが、午後は次から次へお客さんがいらっしゃった。時間どおりにイベントができるのか注文に右往左往しながら心配していたところがある。
 イベントの予約は当日午前中までに40名強あった。当日予約なしの方も考慮して60名程度と予想していたら、何と75名!! この人数、カフェはじまって以来のことではないか?
 トーク後の懇親会も50名強の参加があった。

 予定では懇親会は19時30分に終了、同じ会場で、@ワンダー、ブックカフェ二十世紀スタッフの古本まつり打ち上げがあった。当然、3階の事務所に変更。2階は懇親会、3階は打ち上げとあいなった。
 懇親会は30分延長となって終了、二次会場へ向かった。会場の後片付けをして、再度打ち上げに参加、お開きになったのは22時だったろうか?

 疲れた。
 翌朝の品出し作業は休んだ。
 6日(月)、7日(火)は身体中が痛くて(筋肉痛?)仕方なかった。
 昨日、今日とダウンしている。
 



2001/08/01

 「ココニイルコト」(シネスイッチ銀座)  

 映画サービスデー。混雑している「猿の惑星」は無視して今週で公開が終了する「ココニイルコト」に足を運んだ。  
 映画が公開される前、製作に絡んでいるテレビ朝日のパブリシティ番組にたまたまチャンネルを合わせたら「ココニイルコト」の1シーンが流れていた。映画については全く予備知識がなく(映画が製作されていたことすら知らなかった)、主演女優はズブの素人だと思いながらTVを観ていたのだが、ヒロインの声や表情が妙に気になった。その後主演者へのインタビューで女優が真中瞳だと知った。「ニュースステーション」のスポーツコーナー担当のタレント。といっても僕はよく知らない。  
 異邦人として訪れた大阪でヒロインが自分の行き方を見つめなおすストーリーだと知り、そんな映画を映画館で鑑賞するのもいいかなと思った。
 
 ある時期まで、映画館(の大きなスクリーン)で観るのは超大作、SFや活劇などの迫力ある映像を堪能するため、それ以外のごくごく一般の小品な映画はビデオで十分と考えていた。その考えを改めたのは市川準監督「トキワ荘の青春」をビデオで観た時だった。一定時間暗闇の中で神経を集中させてスクリーンに向き合い、映画が醸し出す雰囲気(台詞、音楽、効果音、ノイズ等々)を肌で感じて心地よいひと時をすごす。そんな映画もあるのだと。  

 広告代理店のクリエイティブ局に勤務するコピーライターの女性(真中瞳)が上司との浮気がばれ、上司の妻から50万円の手切金を渡されると同時に大阪支社の営業局に左遷させられるところから映画は始まる。
 もともとやる気がないところに営業局勤務と聞いてアパートを探す気力も失せ、ホテル宿泊費として50万円を使い切ったら会社を辞めようと考える彼女に何かと世話をやくのが初出勤日に中途入社してきた「ま、ええんとちゃいますか」が口癖のいつも笑顔の青年(堺雅人)。クライアントの社長を接待の席で怒らせてしまった彼女を青年が機転をきかせて助けたことから二人は親しくなっていく。青年の笑顔、言動、趣味の一つひとつが彼女の乾いた心を癒していき、仕事も自分の企画が採用され、広告制作を担当、クリエイティブ局に配属になることを暗示させながら、映画は終わる。  

 ヒロインが大阪にやってきたその日タクシーから今では梅田名物になっている「HEP FIVE」の観覧車を見て寝ぼけながら「ビルから観覧車が突き出ている、私夢見てるのかしら」なんて言うのだが、流行に敏感な広告代理店の最前線で働く女性がオープン時メディアで大いに話題になったショッピングセンタービルを知らないはずがないではないか。なんて突っ込みをしたくなったが後は全編に渡って笑いに包まれ、ことさら涙をさそう過剰な演出もなく好感を持った。
 監督はこれがデビュー作の長澤雅彦。最相葉月の「なんといふ空」に収録されているエッセイが原案。タイトルは主題歌に使用されたスガシカオの歌からとられている。  

 相手役の堺雅人(「ウルトラマンガイヤ」の主役・吉岡毅志とウッチャンを足して長身にした感じ)のほのぼのとした感じ、コテコテの大阪(大阪人)を描いていないところがいい。さりげない関西弁が耳に心地よい(TVで連発する関西芸人の言葉とあきらかに違うと思う、すーと心に入ってきます。だから私、普通に大阪弁をしゃべる女性って好きなんです。人に言うと珍しいと面白がられるのですが)。  
 青年やクライアントの社長(島木譲二)が阪急ブレーブスの熱狂的ファンというのも、後半のエピソードの伏線になるほかにコテコテ感を避けた結果ではないかと勝手に思ってしまう(普通だったら阪神タイガースでしょう、やっぱり)。大阪名物通天閣には青年が高所恐怖症ということで登らないし、寝ているだけという笑福亭鶴瓶の起用もうまい。  
 持病の心臓病が悪化して自宅療養中の青年が日中窓から眺めていた〈星空〉のからくりがわかるラストは、実際に星が美しく輝いていて心洗われた。  

 深く感動するという映画ではない。が、映画館を出る足取りは妙に軽い。気分がいい。だから久しぶりにPRONTに寄って一人で生ビールを飲んでしまった。

     ◇

2001/08/03

 「レクイエム・フォー・ドリーム」(シネセゾン渋谷)  

 内容はもちろんのこと、映像と音楽に圧倒された。観終わってからしばらく言葉がでてこなかった。こんなことは久しく経験したことがない。  
 またまた自分の無知をさらけだすことになるが、シネセゾン渋谷の劇場招待券をもらうまでこの映画についてまったく知らなかった。  
 監督のダーレン・アロノフスキーは単館ロードショーで大ヒットした「π」でその名を知られた人。「π」はその噂を聞くにつれ公開時から興味があったものの見逃し、ビデオになってからはいつでも借りられるのに安心して未だに観ていない。
 だからどんなタッチの映画だかわからない。ただ麻薬を題材にしたクライマックスが衝撃的で非常に怖い映画だと知るのみだった。  

 原題(ポスターのタイトル表示)は「REQIEM 4A DREAM」。  
 麻薬常習者である3人の男女、覚醒剤中毒になってしまった孤独な老女(主人公の母親)。映画はこの4人がそれぞれの快楽の後にむかえる悲惨な結末を斬新な感覚で描いている。つまり4人へのレクイエム(鎮魂曲)というわけだ。映画の中で始終流れるテーマ曲が鎮魂曲だろうか。上映前から場内に流れていたこの曲(音楽:クリント・マンセル、演奏:クロノス・クァルテット)が僕の琴線にビシビシ触れた。もうそれだけでもこの映画は〈買い〉だ。  

 冒頭、主人公が母親のTVを盗もうと母親と室内で騒動を巻き起こすシーンで画面が2つに分割される。こういう演出嫌いだなあ、アフロスキー監督ってこういうセンスの人なの?なんて思いながら、スクリーンを見つめていると、あらかじめ2台のキャメラで狙っているのか、まさしく時の同時性が感じられて見慣れてくるとこれがなかなかいい。
 あるいは主人公たちが麻薬を打つシーン。開く瞳孔、伸縮する血管。ラリる寸前をそれっぽく描写する。一部ミュージッククリップみたいな映像も散見するが、ただそれだけの映画ではない。
 男女3人の破滅ぶりは身から出た錆ともいえる。しかし主人公の母親が意識もせずに覚醒剤に汚染されていく過程が衝撃であり、恐怖である。  

 夫に先立たれ、TVを見ること、食事すること、アパートの同年代の仲間とともに日光浴をする以外は楽しみのない母親(エレン・バースティン)はある日、テレビ局から毎日夢中になって見ている番組への出演権が送られてきてすっかり有頂天になってしまう。日光浴の特等席を与えられ(これが哀しい)、出演する際には想い出の赤いドレスを着ようと久しぶりに袖をとおすと、太ってしまって着られない。ダイエットを決行するが、うまくいかなくて病院にかけこむ。医師が出す薬は実は覚醒剤なのだが、そうとは知らず彼女は毎日薬を飲みつづけ、徐々に精神と身体が蝕まれていく。
 家に顔をだした麻薬中毒の息子(ジャレッド・レト 若き日のアラン・ドロンをちょっと崩した感じ)が「覚醒剤は身体によくない」と忠告するところはブラックユーモアの極致だ。
 彼女が体験する妄想はかつて躁病を体験した僕には形は違えど他人事には思えない。だから余計にのめり込んだのかもしれない。
 彼女の狂っていく姿、放心状態で街をさまよいTV局に押しかけるシークエンスは西川口で見かけるホームレスの女性の姿がダブって胸を締めつけられた。
 エレン・バースティンの演技を見るだけでも価値はある。

 サウンドトラックはすぐに買うだろう。
 とにかくインパクトという点では2001年で観た映画の中で今のところベスト1だ。

     ◇

2001/08/30

 「真夜中まで」(テアトル新宿)  

 和田誠の監督作品を初めて映画館で観た。  
 デビュー作の「麻雀放浪記」は麻雀にまったく興味がない(ルールを知らない)のでパス。「快盗ルビィ」は別に小泉今日子のファンでなかったからチェック必要なしの判断。「怖がる人々」はかなり興味がわいたものの一度TV放映で途中まで観て、後でビデオ借りようと思いつつ結局そのままになっている。  
 今回はジャズをフィーチャーしていると知って足を運んだ。  

 映画ファンはなぜかミステリー好きでありジャズ通といわれる。  
 ジャズはわりと好きな方だけど、全然詳しくない。以前、マイルス・デイビスの「死刑台のエレベーター」のCDを探し求めたことがあった。タイトルもアーティストの名前もわからず、「TVでミステリアスな場面に必ず流れるトランペットのアノ有名な曲」と何人ものジャズ好きな友人、知人に尋ねまわってやっと判明した曲だった。マイルス・デイビスの名も「死刑台のエレベーター」の映画も知っていたのにジャズに限ってはこの程度の知識しかないのだが、何気なく聴く分には心地よい気分になれる。  

 映画は真田広之扮する主人公のトランペッターが自分のカルテットで演奏するシーンから始まる。曲は「ラウンドミッドナイト」。ジャズといえば個人的にはサックスという思いがあるのだが、トランペットもいいと思った。というか一番しっくりくる。  
 ジャズの話ではなかった。  

 夜のライブを終え、休憩のため外に出た主人公は、殺人を目撃して犯人に追われる中国人ホステスを助けたことから、一緒に逃げ出すはめになる。殺されたのは中国人ホステスが働くクラブの経理担当者でホステスの恋人。犯人はクラブ経営者と太いパイプでつながる悪徳刑事二人。恋人が残したある証拠を求めて、主人公は次のライブ開始の時間(夜中の12時)まで悪戦苦闘するお話。  
 ハードボイルドミステリのテイストにジャズをブレンドした大人の映画ファンのためのお伽話といった感じ。映画内の時間がそのまま上映時間になっていたと思う。  
 あまり日本を感じさせない風景の切り取り方(といっていかにも外国というのでもない)がこの映画にはフィットしていた。白熱灯の暖かさを強調したナイトシーンもいい。  
 アクション俳優から脱皮した真田広之にはある種のクサさがあっていつも気になっていた(あと三上博史、オレこんなに考えて演技しているんだぜ、って声が全身から聞こえてきません?巧いなって思うことも度々あるけど)。この映画でもそういう部分がなきにしもあらずだけど、トランペットの演奏が様になっていたのはさすが(当然音は吹き替え)。どんな時でもトランペットを放さずアクションをこなしてしまうのはかっこいいのだけれど、プロのトランペッターが大事な商売道具をそんな風に扱うだろうかと素人目でもおかしいと感じる。でも、まあ、映画だから、さ。  
 悪徳刑事役に岸辺一徳と國村隼の名脇役ブラザース!クラブの用心棒役には柄本明とキングコング(みたいな人、名前わかりません)。柄本明は最近ホントおいしい役やるなあ。  

 この映画のもうひとつの楽しみは数々の著名人によるカメオ出演。単なる顔見せでなくちゃんとストーリーに合わせ、いかにもな雰囲気を醸し出しているところがいい。冒頭の演奏シーンで客席に大竹しのぶがいて主人公にからむシーンでびっくりしていたら、次々に出てくる出てくる。三谷幸喜の変人ぶりはCMでもお馴染みだけれどやっぱりおかしい。  
 エンディングロールでも笑わせてくれ(だからクレジットでキャスト、スタッフが確認できなかった)、観終って充実した幸せな気持ちになれること間違いない映画である。




2001/07/07

 「ロマンスX」(シネ・リーブル池袋)  

 フランスのカトリーヌ・ブレイヤという女流監督が描くエロティックな女性映画。  
 早朝ニュース番組の芸能コーナーでこの映画の特別試写会に招待された飯島愛の「縛りは日本の文化」という言葉が紹介されているところをたまたま見ていた。ヒロインが紐で縛られたりするシーンがあるのだとか。海外のソフトSMがどういうものかちょっと興味がわいた。  

 〈愛と性のバランスに悩み、傷つけながらも自分らしく生きる女性の物語〉とのことだが、そんなたいそうな内容ではないよ。  
 まずヒロイン(キャロリーヌ・デュセイ)と夫(サガモア・ステヴナン)の関係が異常だ。今流行りのセックスレス夫婦(というか同棲中のカップル)なのだが、夫君からセックスを拒否されたヒロインは夫君を愛しながらもその欲望を外に求める。深夜一人でパブに出かけ当然のようにナンパされ、2回目でことに及ぶのだ。相手の男性がキスを求めると「唇は愛する人のため」だなんてぬかす。それって娼婦の言葉だろうが! そんなこと考えるのなら最初から他の男性とセックスなんてするなよ。  
 相変わらず夫君はセックスを拒否し、ヒロインは何とかその気にさせようとフェラチオをする。「こういう行為は他人には絶対にしないの」。でもセックスはするんだよね。  
 部屋にもどる途中、階段で見知らぬ男に「××フランであそこを舐めさせろ」と言われ、何の抵抗もなく身体を許してしまう。男が欲情し、アナルセックスを強要、いやがる彼女を強引に犯すと金も払わず去ってしまう。落ち込んだ彼女が家に帰るとすでに夫君はベットに横になっている。驚いたのは彼女がそのままベットにもぐりこんでしまうところ。汚された身体をシャワーで洗えってーの! 夫君も妻が何されたか気づけって。  

 だいたいこの夫君、これまで女性とのつきあいは一週間もてばいい方で、ヒロインと3ヶ月続いたのは奇跡に近いのだとか。それってどこかに問題あるんじゃない? にもかかわらずヒロインはそんな夫君を愛していると。ヒロインを引きつける夫君の魅力が映画を観る限りでは全然わかりませーん。そんな奴とは早いとこ別れちまって違う男を見つけた方がいいと思うよ。
 
 唖然としてしまったのはこの夫君の「子どもがほしい」の台詞。セックスはいやだ、でも子どもは欲しいって、単なるわがまま。それにこの夫君、どうみても子ども好きには見えない。そんな彼からどうして「子どもがほしい」なんて台詞がでてくるのか?  
 でもなぜかヒロインは妊娠し、臨月を迎える頃になってようやく夫君のバカさ加減がわかる。で、出産当日、夫君が泥酔して起きないことをいいことにキッチンのガス栓を全開にして病院にむかう。新しい生命が誕生すると同時に自宅は大爆発を起こし夫君は死亡。そして小さな我が子を抱いて夫の葬儀に出席するヒロインがこれから強く生きていくことを暗示させるエンディング。子どもがいなけりゃ女は強く生きられないのか。  

 ヒロインが浮気する相手に自分が勤務する小学校の校長がいる。「ハンサムでもなく、金もない私が関係を持った女性は1万人」が常套句で自分の女性体験を自慢するのだが、そう言いながらもヒロインを緊縛する技術は実に稚拙。ああじゃない、こうじゃないと道具を選び出し、恐々とヒロインを縛ってゆく。団鬼六が見たら怒るよ、たぶん。ただこの素人のおっさんによる美女を素材にした緊縛シーンはその稚拙ゆえに妙に生々しくちょっとくるものがある。  

 オーディションで選ばれたというキャロリーヌ・デュセイはヘアと性器を丸出し(といっても性器はボカシが入るけど)でヒロイン役に果敢に挑戦している。  
 彼女が妊娠の検査をするシーンのこと。主治医のあとに何人ものインターンに膣の中に手を入れられところがある。普通、診察台は腰のあたりからカーテンで仕切られているものだが、この映画ではそんな設備はなくヒロインはインターンたちに丸見え。フランスの婦人科ってこういうものなのか。映画用に設定を変えているのか。  
 僕はこの診察シーンやラストの衝撃的な出産シーンに女流監督の視線を感じたのだが、後はどうというものでもない。この映画のどこが〈愛と性のバランスに悩み、傷つけながらも自分らしく生きる女性の物語〉なのか。
 
 フランス映画、女流監督なんてキーワードに騙されてはいけません。セックス依存症女が異常性格男の魅力にとりつかれた一風変わったポルノ映画として観たほうがかなり笑えるのに……。

     ◇

2001/07/10

 「ドクター・ドリトル2」(東京厚生年金会館 試写会)  

 動物たちと会話ができるドリトル先生の物語は子どもの頃大いに親しんだ。そんなドリトル先生がエディ・マーフィー主演で映画化された際(前作)、ファミリー映画としてTVのバラエティ「動物奇想天外!」を毎週夢中で見ていた娘を誘って行ってもいいかなと思っていたが、結局ウヤムヤのうち終わってしまった。
 
 今夏公開される続編は前作より面白いらしい。しかし娘は中学生になりこの手の映画を卒業してしまった。僕自身最近のエディー・マーフィーの映画には興味なく金を払ってまで映画館まで足を運ぶつもりもない。  
 そこに試写会の話。  
 開場から20分後くらいに入場したのだが、これがすごい混みよう。親子連れが目立った。

 「ベイブ」の大ヒットで「ドクター・ドリトル」は企画されたのだろう。本物の動物を多数登場させ、一部アニマトロニクス(ロボット)と併用、動物たちがしゃべる時の口の動き(CG)等々、ほとんど同じ作り。主役のドリトル先生に黒人のエディ・マフィーをもってきたところが斬新といえようか。まあ、本のドリトル先生に親しんだ世代にはこのキャストは驚きだが、〈動物とおしゃべりができる人物〉というキャラクターのみが原作からの借用で、あとはすべてオリジナルなのだから目くじらたてることもあるまい。  

 ある企業の開発で森が絶滅されることを恐れる動物たちがドクター・ドリトルに助けを求めてきた。森を乱開発から救うには森に住む絶滅種の熊(メス)をつがいにし、子を産ませ指定地区にしてしまうこと。しかし相手に選ばれたオスの熊はサーカス団に飼われていて全く野性味がなく、メス熊は興味を示さない。ドクター・ドリトルによるオス熊野生化大特訓が始まるのだ。  

 どうしても「ベイブ」と比較してしまうが、全編をとおしてそれほど大笑いできなかったのは残念。一番笑えたのが動物たちがヒット映画の名台詞を言うところというのも寂しい。誰も気がついていなかったみたいだけど。  
 ドクター・ドリトルの奥さんが美しい。彼女は弁護士であるのだが、家庭と法廷での髪型が違うのは何か意味があるのだろうか。   
 ?なのは森にオス熊がいないという話だったのに、途中で野生のオス熊が登場してきてサーカス熊とライバル関係になるところ。だったら最初からこのカップルをつがいにすればいいではないか。動物たちがちゃんと英語をしゃべる特撮も「ベイブ」の頃は新鮮だったが、今ではもう当たり前って感じがする。やはり小さい子どもと一緒に観るべき映画だ。  

 映画は年頃の娘を持つドリトルが携帯電話や彼氏にしか興味を示さない娘の行動にカリカリする父親としての側面も描いている。個人的にはそちらの話の方が身につまされる思いがした。ホント、父親なんて相手してくれないんだから。

     ◇

2001/07/14

 「メトロポリス」(新宿ジョイシネマ3)  

 やっと新宿で観ることができた。  
 数年前から、いかに期待している映画でも前売券を事前に買うことがなくなった。前売券、株主優待券等を金券屋で購入する。今回1,250円のジョイシネマ招待券があり即購入。いかに安く、できるだけ多くの映画を観るかが問題なのである。  

 手塚治虫の初期傑作をアニメーション化したこの作品について、まず「幻魔大戦」のりんたろう(監督)と大友克洋(脚本)が再びコンビを組んだことに注目した。「幻魔大戦」では原作の石森章太郎のキャラクター(絵)を使わず、大友克洋のオリジナルだったが、今回は手塚マンガ初期のタッチそのままに手塚キャラクターが登場するという。  
 ヒゲオヤジ、ケンイチ、ロック、アセチレンランプ等々、ある世代から上には感涙ものの絵柄だと思うが、宮崎アニメ全盛時代の今、手塚治虫を知らない若い世代には何のアピールもないのではないか。  

 次に注目したのはヒゲオヤジやケンイチと行動するロボット刑事のキャラクター。手塚治虫自身が失敗作と認めている「アラバスター」の主人公が扮しているのだ。「アラバスター」は週刊少年チャンピオンに「ザ・クレーター」終了後に連載されたマンガ。実験に失敗し身体が半透明になった男が世間に復讐するため暗躍する物語で、主人公といえども敵役なのがショックだった。そんな彼がこの映画ではヒゲオヤジたちとともに指名手配の犯人を見つけ出す刑事役。過去のトラウマから開放された。  

 セル画のアニメーションとCGとの合成によるメトロポリスの街並みはかなりの迫力だ。メトロポリスの世界観も十分表現されていた。キャラクターにあわせてか、ある種レトロ感があって妙に暖かいところがいい。手塚マンガの特徴でもあったモブシーンも動きのある絵と声でうれしくなる。
 
 本多俊之のジャズ風音楽も映像にフィットしていた。メトロポリスの崩壊をレイ・チャールズの「I Can't Loving You」をバックに描くシーンは「フェース/オフ」の「オーバー・ザ・レインボー」の歌声にのせて繰り広げられた銃撃シーンの引用、スペクタクル版だろうか。できるなら最後まで効果音なしで描ききって欲しかった。もっと映像と音楽に酔いしれていられたのに、と残念に思う。  
 映像の素晴らしさに比べドラマの方は大分貧弱だった。人間関係の描写が希薄なのでロックがなぜロボットを目の仇にするのか、ティマとケンイチはなぜ惹かれあうのか、映画を観る限りではよくわからなかった。  

 エンディングロールを見ていたらパブリシティのところで大学時代のサークルの先輩の名を発見!  
 「ガメラ 大怪獣空中決戦」の試写会以来お会いすることもありませんが、頑張っていらっしゃるのをクレジットで拝見できてはうれしい限りです。試写会招待状をどんどん送ってくれるというあの話はもう忘れてしまったんでしょうね、鈴木智恵子様。

     ◇

2001/07/28

 「ダンス・オブ・ダスト」(テアトル池袋)  

 最近、洋画、邦画ともに松竹・東急系か独立系しか観ていない(別に意識しているわけではない)。当然本編上映前の予告編も毎回同じものばかりを見せられることになるのだが、「ダンス・オブ・ダスト」は何度も予告編を見て興味がわいてきたのだから何が幸いするかわからない。たぶん文字情報だけではこの映画を観ようなどとは思わなかっただろう。まあ、テアトル池袋の劇場招待券をもらったということもあるにはあるけれど。  

 製作直後から一切の上映を禁じられ、封印されてしまった作品だという。それが1998年になって各映画祭に出品され数々の賞に輝き日本でも公開の運びとなった。  
 イラン映画のことは何も知らない。監督のアボルファズル・ジャリリについても何の予備知識もない。  

 この映画に字幕はない。映画の中には台詞があることはあるが監督の意向でつけられなかった。あくまでも映像と音で感じて欲しいとのこと。  
 イランの貧しい村を舞台に煉瓦造りに励む少年と季節労働者の娘の心の触れ合いと別れを描いた内容なのだが、映画を見るだけではストーリーはほとんど理解できなかった。にもかかわらずこの映画、少しも退屈しなかった。映像にくぎづけになってしまうのだ。  
 なぜか?

 村の人たちの暮らしぶりが大変もの珍しい。たとえば村の主要生産品である煉瓦造りの工程ひとつとってみても、これまで見たこともない光景が繰り広げられる。  
 粘土みたいな煉瓦の素を木型によそってきれいに整える。そこから少し移動した場所で木型を逆さにして中の煉瓦の形になった粘土を取り出す。みるみる煉瓦の粘土は山積みとなっていく。この作業が何人もの労働者によって黙々と繰り返される(その中に少年もいる)。数日後すっかり乾燥した煉瓦粘土は窯に運ばれ素焼きされる。(煉瓦を焼く際に使用する新聞紙に日本のものも混じっていて驚いた。)
 作業場には労働者の赤ん坊も連れて来られて適当にほっぽかされていたり、休憩時間にみなコップに入った液体(水なのかジュースなのか、少年も飲んでいるからアルコールではないことは確か)を赤ん坊と一緒にすすったり。そんな光景を見ているだけでも飽きがこない。

 苛酷な自然の中で暮らす村人たちの姿が強烈だった。  
 主人公の、おばさん顔の少年が実に良く働く。煉瓦造りのほかに井戸の水汲み、縫い物、起きている間は何かしらの仕事をしている。たぶん小学校なんて通ってないのだろう。この村に学校自体がないのかもしれない。
 少女はあまりに大人びたマスクで身体とのアンバランスさに少々違和感を抱いた。  
 村人たちは皆寡黙。後でチラシを読むとこの村は様々な地方から季節労働者がやってきて、いろいろな言葉(ペルシャ語、アラビア語、トルコ語、クルド語)が入り交じっていると書かれてあった(そういえば訛った英語をしゃべる人も出てきたっけ)。互いに言葉が通じないから寡黙なのか。苛酷な自然のもと、日々の生活に追われ疲れきっているからしゃべる気力がないのか。  
 酒場(みたいなところ)で男たちが酒を飲みながら饒舌に語り合うシーンもあるが、字幕がないから内容はまったくわからない。  

 音楽が一切使われていない。少年の鋭い眼差しとシャープな映像(撮影・アタ・ハヤティ)が印象的な映画である。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)

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