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2000/07/18

  「火星人ゴーホーム」(フレデリック・ブラウン/稲葉明雄 訳/ハヤカワ文庫)

 SFの古典的作品で内容はともかくタイトルだけは知っていた。
 「本は寝ころんで」(小林信彦)のSFベストテンに入っていて、以前から気になっていたところ、古書店に120円ででていたので買っておいた。

 タイトルから「ゴーホーム」という名の火星人と人類の対決(接触)の話かと思いきや全く違かった。
 全身緑色の身長2フィート半しかない火星人が大挙して地球上のいたるところに現われる。彼らは別に地球を攻撃したり、人類に降伏を迫ったりというような行為はしない。自分の能力(瞬間移動、透視)で人様の生活(たとえばセックス)とかを覗き見してやたらとちょっかいをだしてくる。人は何かしらの秘密を持っているが火星人はそれらをすべて察知して、あたり構わずしゃべりまくり、はやしたてる。

 下品で減らず口をたたく性格的にも最悪な火星人の排除に躍起になるが、殺すことも触ることすらできない。つまり人間社会の秘密が保てなくなって全世界で大混乱が巻き起こるというSF的発想による寓話といえる。
 「宇宙戦争」のコメディ版ともとれるし、「もし~だったら」のシミュレーションドラマともいえる。とにかく「グレムリン」や「マーズアタック」が多大な影響を受けたことが十分うかがいしれる内容だ。
 読者を煙にまいたような火星人退治方法もこういうストーリーだったら許せる!

 稲葉明雄の訳が素晴らしい。

     ◇

2000/07/27

 「発狂した宇宙」(フレドリック・ブラウン/稲葉明雄 訳/ハヤカワ文庫)

 「火星人ゴーホーム」が面白かったので、ブラウンのデビュー作で名作と名高い「発狂した宇宙」が気になってしかたがない。また古書店で購入しようかと思っていたところ図書館にあったのでさっそく借りてきた。
 多元宇宙SFの決定版だという。確かにそのとおりなのだが、これも途中まではSF的設定、小道具を使った冒険物語ともいえるのではないか。

 別世界にまぎれこんでしまった主人公がその世界の地球と戦争を繰り広げている惑星のスパイと間違わられ警察に命を狙われる。機智を働かせて危機を脱出するが、何かしらのボロをだして二度、三度と窮地に追い込まれてしまう。危機また危機の展開がスリリングだ。
 結局自分を追いつめる結果を招く主人公の行動も、得体の知れない世界に迷いこんだ緊張の連続の中で判断されたものだから大いに納得できる。そこがP・ハイスミス「妻を殺したかった男」の主人公と違うところだ。

 なぜ主人公が自身が編集する雑誌に出てきそうな世界(人類は皆宇宙旅行ができ、月人と共存、惑星アルクトゥールスと全面戦争)に迷い込んだのかが解明されるクライマックスまで読み進むと、その伏線を確認したくてもう一度前半を読み直したくなる。
 また、これは「火星人ゴーホーム」でも感じたことだが、主人公が所有するお金に関する記述が詳細で、主人公の手持ちが今いくらで何にいくら使った、いくら手にしたかと事細かに描写される。生活感にあふれ、感情移入に一役買うのである。

 本作でもまた稲葉明雄が名翻訳家であることを認識できる。




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2000/06/10

 「見知らぬ乗客」(パトリシア・ハイスミス/青田勝 訳/角川文庫)

 「読書中毒」を読んだらやはりパトリシア・ハイスミスが気になってしょうがない。
 川口中央図書館に本を返却に行き、文庫コーナーを見るとハイスミスの作品が揃っている。とりあえず初期の傑作と言われる「見知らぬ乗客」「変身の恐怖」「妻を殺したかった男」の3冊を借りてきた。  

 本書はヒッチコック監督の映画で有名であるが、僕はまだ観ていない。交換殺人というアイディアの発祥だという。
 序盤から中盤にかけては実にスリリングだ。
 妻と離婚して愛人と結婚をしようとしている主人公がたまたま乗り合わせた乗客に話しかけられる。饒舌な男で、その場の雰囲気で主人公が少しばかり離婚する妻への不満を口にすると、父を憎悪している男から交換殺人を持ちかけられる。
 主人公は相手にしない。が、男は勝手に妻を殺してしまい「今度はあなたが父を殺す番だ」と言ってくる。無視するとしだいに男は主人公の部屋を訪れたり、職場に電話して主人公の妻殺しを暗にほのめかしたり、何かと脅迫してくるようになる。男がアル中でマザコン、ストーカー的偏執狂だとわかってきて、一体どうゆう展開になるかと興味深く読んでいくと、恋人との幸せな生活を壊されたくない主人公は、男の指示に従って男の父親を殺してしまうのだ。

 それにしても、この後の男の行動がどうにもわからない。全く関係のない二人の交換殺人だからこそ、容疑者にならないというのに(そうもちかけたのは男の方にもかかわらず)この男はわざと主人公と交流をもとうとする。で、自分に嫌疑がかかるようにして、自滅していく。
 主人公にしても、最初から頑として男の脅迫にのらなければことなきをえたのじゃないか。まあ、そうなると話にならないのだが。
 というわけで、僕には「見知らぬ乗客」のどこが傑作なのかわからなかった。

     ◇

2000/06/20

 「妻を殺したかった男」(パトリシア・ハイスミス/佐宗鈴夫 訳/河出文庫)

 「見知らぬ乗客」を読了したあと、「変身の恐怖」を読み始めた。ところがこれ、翻訳がどうにも馴染めなくて、数ページで辟易してしまった。学生の下訳を推敲せずそのまま原稿にしてしまったような文章で、イライラのしどうし。それでも我慢しながら読み進もうとしたが、早々にギブアップしてしまい、本書に乗りかえた。

 本書の原題は「The Blunderer」。〈どじな奴〉という意味だという。「見知らぬ乗客」といい、この主人公といい確かにどじな奴だと思う。僕には彼らの事件に巻き込まれてからの行動がどうしてもわからないのだ。

 主人公ウォルターは妻と離婚したいと考えている。彼は新聞記事でバス旅行にでかけた主婦が途中の休憩時間に何者かに惨殺されたことを知り、後をつけた亭主が殺したのだろうと推理する。記事を切り抜き、その亭主がどんな奴か見に行く。
 しばらくして愛人ができ、妻とどうしても離婚したくなったウォルターはバスで実家に帰る妻の後を追い、殺害を計画する。が、途中で妻が行方不明になってしまった。彼は妻をさがそうともせず自宅に帰ると翌日妻の死体が崖下で発見される。自殺か他殺か?
 事件を追う刑事は同様な事件が立て続けに起こったことで、どちらも亭主の犯行だと推理、強引な捜査を開始する。

 問題なのはその日妻をさがす彼の姿は目撃されているということだ。自ら妻を殺そうと考えていたのは気にひけるだろうが、その他についてまったくウォルターに問題がない。だったら、妻が行方不明になった時点でもっと大騒ぎすればいいし、翌日警察にありのままを話せばいい。ところが彼は妻の後を追ったことも、新聞記事のことも内密にしてしまう。これでは刑事に疑われても仕方ない。
 先の殺人事件の犯人(キンベル)に脅迫されたら、そのことを警察に訴えればいい。彼は何の行動もおこさない。

 ずいぶん前になるが、松本清張の「疑惑」のモデルになった事件があった。
 車が海に突っ込み、妻と子どもが溺死して亭主だけが生き残り、多額の保険金を手に入れたというものである。警察は偽装殺人ではないかと、起訴し、裁判になったが、公判中に男が病死してうやむやなってしまったと記憶する。果たして事故か殺人かとマスコミが派手に書きたてていたとき、僕は確かに男は保険金殺人を計画していたかもしれない、しかし、この事故は偶然に起きた、だから男は罪の意識もなく自分は無罪だと主張できるのかもしれないと思った。

 主張したいのはウォルターは妻に殺意を抱いただけで、何もやっていないのだ。彼は潔白なのである。もっと正々堂々としていればいいではないか!
 この手の小説では主人公に感情移入するものだ。主人公がとった行動も納得できるもので、しかし事態は悪い方へ悪い方へ流れていく。だからこそ主人公とともにその成り行きにヒヤヒヤドキドキするものだが、ウォルターのやることが理解できないからどうにも肩入れできず、「バカじゃないの、こいつ」と逆に突き放してしまいたくなる。
 というわけで、後味の悪い結末なのだが、この男なら仕方ないかと変にあきらめがつくのであった。

 「見知らぬ乗客」「妻を殺したかった男」と続けてP・ハイスミスを読んで昔の作品なのに描く人物像、事件、テーマが今風なことに驚く。

     ◇

2000/07/10

 「渇いた夜 上下」(リンダ・ラ・プラント/奥村章子 訳/ハヤカワミステリ文庫)

 前作「凍てついた夜」は壮絶というイメージがあった。アル中が原因で丸腰の少年を誤って射殺してしまい、警察をクビになったヒロイン(ロレイン・ペイジ)の再生物語。
 実をいうとヒロインがどんな事件をどのように解決したのか全く覚えていない。はっきりと記憶に刻まれているのは落ちるところまで落ちたヒロインが断酒会で知り合った友人や元同僚の助けを借りながら自分に降りかかってきた事件をどうにか解決していく痛ましい姿だった。
 麻薬に手をだし、その資金稼ぎのため、売春婦になりさがるヒロインというものに今までお目にかかったことがない。おまけに喧嘩か何かが原因でヒロインの前歯が欠けてしまうのだからそのショックは計り知れなかった。

 事件を解決し、友人とともに探偵事務所を開設したヒロインの輝かしい未来を感じさせるラストから、第2弾である本作はまっとうな女探偵の活躍を描いたものと思いきや、何とペイジ探偵事務所は閑古鳥が鳴く状態。やはりヒロインの過去がかなり影響していて、店じまいを検討している始末。そこにまいこんだ大富豪の行方不明になった娘を2週間以内で探し出せば100万ドルの報奨金がもらえるという仕事。しかしそれは他の有力な探偵事務所の数々が手がかりすらつかめない難事件だった。

「渇いた夜」は前作同様謎解きの面白さというより、ヒロインおよびその仲間たちが協力しあい、反目しあいながら、あるいはヒロイン自身の過去のアルコールへの逃避、トラウマ、孤独と闘いながら事件の真相へ一歩一歩近づいていく様が魅力である。
 調査が進むにつれて、大富豪夫婦、娘の裏の顔が露呈されていく過程も面白い(ここらへんの描写はトラボルタ主演の「将軍の娘」に似ている)。

 読みやすい翻訳(最近の海外ミステリはだいたいよみやすいのだが)で、上下巻に分かれた長い物語もまったく苦にならなかった。




 今年のクリスマス・イブは一人で地元シネコンのレイトショー「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」鑑賞。SWも中国市場を意識した作りになったか。
 今週はTOHOシネマズ上野で「ゴッホ 最後の手紙」を観るつもりだが、体調がいまいちでまだ果たしていない。
 今週唯一の休みの今日は朝から部屋の大掃除。積読本を何とか整理できた。が、やってしまいました。2冊同じ本があった。購入したことを忘れて買っちゃったんだね。ったく。
 神保町で働き始めてから、気になる本は手当たり次第手に入れた。で、増えに増えた。雑誌、ムックを含めて100冊近くあるのではないか。
 いつ読むつもりなのか、自分でも呆れてしまう。

          * * *

 前回この夏頻発した食品の異物混入に関してお話ししましたが、今日はそれに関連する、異物混入に対する企業のお詫び広告についてお話しします。

 これはあるコラムにでていたことで、この執筆者はひと月あまりに気づいたものだけでも30件以上あったと書いています。内容はどこも似たり寄ったりで該当のものがあったら送ってほしい、代金を支払います、というもの。
 で、その言葉づかいがどうもおかしい、間違いではないか、とその方は言うんですね。

 例えばこんな文章です。

 誠にお手数ではございますが、左記の送付先まで料金着払いにてお送りいただきますようお願い申し上げます。
 
 誠にお手数ではございますが、弊社あてご送付いただきますようお願い申し上げます。


 「お送り」が「ご送付」でも違和感はそのあとにつづく「いただきますよう」なんです。

 「先生がノートを送ってくださる」これは先方の行為になります。
 対して「先生がノートを送っていただく」これはこちら側にこと。
 そのこちらのことの「いただく」に「……ようお願いいたします」と先方に対する要求をくっつけたらおかしいではないかと言うんですね。
 つまりノートを送ってほしいのなら、「ノートを送ってください」「ノートを送ってくださるようお願いいたします」としなければおかしい。
 もし、「いただく」を使うのであれば、「ノートを送っていただきたく存じます」
 と、あくまでもこちらのこととして一貫しないと文章の筋が通らないわけです。

 先の例に挙げた文章のどこがいけないのかわかりますね。

 このコラムを読んでドキッとしました。日頃書いている通達の文章に思いをはせ、間違った使用法をしているのではないかと赤面した次第です。

 このお詫び広告、正しい使用方法をした会社もあったのですが、次の広告では「いただきますよう」に訂正したとのこと。他の会社がそうなのだからと右に倣えしたらしいんです。
 他社の先例を単に真似るというのも考えものですね。




2002/02/08

 「金曜時代劇 逃亡」(NHK)  

 NHK金曜時代劇の枠ではけっこう意欲的で斬新な時代劇を放映している。  
 「茂七の事件簿ふしぎ草紙」「山田風太郎のからくり事件帖」と民放ではお目にかかれない異色時代劇が続いている。  
 今回は何といっても久々の市川崑監修・演出による時代劇ということで、昨年から今か今かと待ち望んでいた。  
 シリーズの監修は「丹下左膳」以来のことではないだろうか。  

 「水戸黄門」がビデオ収録になってからというもの、時代劇もビデオが当たり前のような感覚になってきている。  
 市川監督は何年か前テレビ東京で放映された新春スペシャルで「赤西蠣太」をビデオで撮っている。伊丹万作作品のリメイクで、市川流の陰影のある映像作りがビデオ特有の鮮明すぎる画像をまったく意識させず、ビデオによる時代劇の可能性を感じさせてくれた。  
 全6話のうち、同日に放映された1、2話が市川崑演出。3話は市川監督の助監督から「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」でデビューした手塚昌明、4話~最終話を東映出身の関本郁夫が担当した。    

 オープニングのタイトル模様(様々な色の幅広線が交叉するところ)は、その色使いが以前の土曜ワイド劇場に似ていてちょっと興ざめ。それ以外は特太明朝体の文字の美しさに魅了された。題字まで書いている。  
 冒頭の火事シーンの迫力が特筆もの。スタッフのこの作品にかける意気込みが画面全体から漂っていた。
 市川崑の演出は相変わらず、光と影の使い方にこだわっていてうれしい限り。なおかつ「四十七人の刺客」以降(もしかするとそれ以前からかもしれない)時代劇では常套手段となった、少々強調された衣擦れの音がいい。今やトレードマークとなった感のある、〈人物が部屋を出る際、ふすまを閉めると着物のそでがはさまり、一瞬の間の後に引っこ抜く〉カット。今回も早々に挿入されていた。  
 弟子の手塚昌明も師匠ゆずりの陰影のある凝った映像を見せてくれた。  

 原作は松本清張。清張の作品はかなり読んでいるつもりだが、「逃亡」という作品は初めて知るタイトルだ。  
 ワルの岡っ引き(宅麻伸)の罠で脱獄囚の濡れ衣をきせられた若者(上川隆也)の孤独な逃亡生活。執念深い敵の追求をかわしながらやがて無実を証明し、逃亡中に出会った女性と結ばれるというストーリーだ。
 岡っ引きの女房(原田美枝子)、その下女(浅丘ルリ子)、若者の逃亡を手助けする番人(井川比佐志)のほか、石橋蓮司、神山繁と豪華で芸達者な役者陣。ナレーターは小沢昭一。  

 わくわくする布陣なのであるが、ドラマはいまいちだった。  
 あまりにご都合主義が目についた。  
 たとえば、第一話。賭博で牢送りになった主人公が江戸の大火により一時解放しとなって、翌朝までに指定場所(回向院)に戻らなければ死罪となる。回向院に向う道中で女を暴漢から助けるのだが、女は夜道が怖いので家まで送ってほしいという。主人公は仕方なく送ってやるのだが、この場所が回向院の目と鼻の先なのだ。だったら、これこれしかじかと理由を話して、役人にお願いした方が女を無事に送ることができるだろうに。
 恋人を岡っ引きに手ごめにされたところへ主人公が帰ってくるシーン。主人公は恋人と岡っ引きが合意の上で結ばれたと勘違いして「裏切りやがったな」とののしるのだが、どう見たって恋人の様子はそうは見えない。
 恋人が入水自殺を図り、義父兄に助けられるくだりはちょっと納得できなかった。
 等々、少々シナリオに難がある。
 あるいは原田美枝子の台詞で「他人事」を「たにんごと」と言うのを聞いてしらけてしまった。「ひとごと」でしょう。現代劇なら許せることも時代劇となるとありえないことだから困ったことになってしまう。

 このドラマで一番注目したのは宅麻伸の悪役ぶりだった。 きつい目つき、ドスを利かせた声。竹内力ばりの迫力だ。ここのところあまりTVドラマで目にしなくなっていたが、演技の幅を広げて新しい悪の魅力を発揮するのか。今後は悪役・宅麻伸に目が離せない。

     ◇

2002/02/09

 「地獄の黙示録 特別完全版」(日比谷スカラ座)  

 フランシス・フォード・コッポラ監督の超大作「地獄の黙示録」が日本で公開されたときのメディアの騒動を昨日のことのように憶えている。  
 当時は「キネマ旬報」を毎号購入していたから、「ゴッドファーザー」の大ヒットを放ったコッポラ監督がフィリピンでベトナム戦争を題材にしたとてつもない規模の映画を撮っているニュースは断片的に伝わってきていた。
 天候不順による製作の遅延、資金難、主演のマーロン・ブランドとコッポラの確執等々。もし自分が倒れたら、このビッグプロジェクトは脚本のジョン・ミリアスが後を引き継ぐ、なんていうコッポラ自身の言葉もどこかで引用されていた。  

 カンヌ映画祭でグランプリを受賞し、大いなる期待感の中その全貌を現した「地獄の黙示録」は、しかしあまり芳しい評価をされなかった。映像の迫力は認めつつもラストの主人公とカーツ大佐の哲学的な問答、続くカーツ暗殺と王国の住民たちによる牛の首をナタで真っ二つに切る儀式のモンタージュによる比喩がありきたりであるというところに批判が集中していたように思う。  
 ラストは2種類用意されていて、カーツを暗殺した主人公が静かにボートで去っていく公開バージョンのほかに、王国が大爆破されるものもあるのだと噂された。  

 結局僕はロードショーされた「地獄の黙示録」を観なかった。「キネマ旬報」等の識者たちの批評を読んで観る気が失せたということもあるのだろうが、ベトナム戦争について門外漢の僕がアレコレ考えるのも面倒だとの気持ちがあったと思う。本当のところは自分でもよくわからない。ホント、なぜ観なかったのだろう?  
 今となっては観なかったことが悔やまれる。50分強の未公開シーンを追加した特別完全版を現在観る気持ちがあるなら、なおさら当時観るべきだった。  
 湾岸戦争、米同時テロ、アフガニスタン爆撃を目撃し、他人事と思えない現在、22年前の、自分とはまったく関係ない世界とタカをくくっていたとしても、ベトナム戦争が終結したばかりの当時と今現在とのこの映画に対する見方、考え方の違い、変化の比較ができたのだから。  

 21世紀を迎え、激動の1年を経験した後に「地獄の黙示録 特別完全版」を鑑賞できたことはとても意味があった。今だからこそこの映画の描く狂気がわかる。  

 ベトナム戦争が激しさを増していた時、サイゴンに駐屯していたウィラード大尉(マーティン・シーン)は軍の上層部から極秘裏に指令を受ける。軍の指揮下から逸脱しジャングルの奥地に原住民たちと独自の王国を建設したカーツ大佐(マーロン・ブランド)を暗殺せよ!  
 ウィラードは4人の部下を連れ哨戒艇で河を上っていく。行く先々で彼らが目撃したのはベトナム戦争の愚かな実態と狂気の様だった。  
 カーツ大佐を求めてボートでメコン河を上っていく模様はまさにジャングルクルーズのベトナム戦争版。こういうプロットって「ロスト・ワールド(失われた世界)」の昔から一つの定番になっているのだろうか。ボートに乗っていざ出発、という時の胸の高まりは何ともいえないものがある。  
 映画は観客がウィラードとともにボートの乗組員になって狂気を体験していく仕組みだ。だからビデオなどでなく、できるだけ大きなスクリーンで鑑賞した方がいい。  

 ウィラードが最初に目撃することになる狂気が、22年前も大変話題になった、何よりもサーフィンが大好きというキルゴア中佐(ロバート・デュバル)のシークエンスである。  
 ワーグナーの「ワルキューレの騎行」をスピーカーでがんがんかけまくりながら、ヘリコプターで村を爆撃していくシーンは映像的興奮を誘う。22年前も評判を呼んだし今回もそう思っていた。全然違った。爆撃の中を逃げ惑う、あるいは犠牲となるベトナム人が目に入ると映像的興奮なんて悠長なことは言ってられない。アフガンの誤爆を伝えるニュースとダブって正視できない自分がいた。まさに地獄絵図だった。  
 とはいえ、このシーン、CGやデジタル合成といった特殊撮影を施していないすべて実写であることに驚異する。その迫力たるや半端ではない。  
 空を飛ぶ無数のヘリコプター、発射される爆弾、着弾、そして爆破の連続。いったい何台のカメラを使用し、どれだけリハーサルを繰り返したのか。そういう純粋な映像製作への興味と、人間の、というか「アメリカの正義」をふりかざし、罪のない人間を殺戮するアメリカ人たちの愚かさを目の当たりにした苦痛で心は二つに引き裂かれそうだった。  

 この「ワルキューレの騎行」の音楽を使用して爆撃するシーンについて忘れられないことがある。
 ある「キネマ旬報」読者が「ワルキューレの騎行」が実際に太平洋戦争のニュース映画で使われていることを某新聞のコラムで知り、このシーンを賞賛した映画評論家に対し「もしそれが本当のことだったら、自己批判どころではない」と批判した。  
 この投書に当時キネ旬にコラムを連載していた小林信彦が噛み付いた。実際に使われていたからどうだというのか。そんなことはすでに自分の批評で指摘していること。日本のニュースはドイツの真似だからたぶん音楽も真似したのだろう。戦争に勝っている時の〈わくわくする気分〉を表現するにはあれ以上の音楽はない。他人のコラムの受け入りで、批判などするな。と、幼稚・短絡・もの知らず投書と切り捨てたのである。(「コラムは踊る」 92 1982年秋の憂鬱)  
 映画の見巧者にここまで言われて、この投書を書いた人はどうしたのだろうか。今回の特別完全版の公開で過去の悪夢を思い出したりしていないだろうか。余計な心配をしてしまう。  

 ウィラードの一行は、プレイメイトたちのよる軍慰問の騒動、フランス人植民地への彷徨い、現地人の弓矢や槍による攻撃、と数々の難関を通り抜け、仲間たちに犠牲をだしながら、王国にたどり着く。  
 カーツ大佐が現れると何やら禅問答のような、哲学の世界に入ってしまう。マーロン・ブランドは圧倒的な存在感を発揮するにもかかわらず観念の世界がどうにも居心地が悪い。  
 通常のアメリカ映画なら、このクライマックスで派手なアクションを展開させるだろう。せめてカーツ大佐とウィラード中尉のやるかやられるかというヒリヒリするような静かなサスペンスで盛り上げてもらいたいところだ。
 腑に落ちないのは、マーロン・ブランドとマーティン・シーンがまったく同画面に登場しないところである。たぶん別撮りされているのだろう。編集でうまく処理されているけれど二人の対峙による緊迫感が感じられない。これは以前も指摘されていたと思う。  
 とにかくコッポラとしてはクライマックスで観客にカタルシスを与えることを拒否した。ラストはカーツを殺し任務をまっとうした結果以外何ら答えをださず、観客にゆだねてしまった。
 その判断は間違いではなかったと、いまだに同じ愚行が繰り返されている21世紀の現在納得し、重い足取りで劇場を後にしたのだった。  

 3時間を超える上映時間が苦にならなかった。追加したシーンがまったく無駄ではなかった証拠である。


 【追記 】
 
 冒頭に登場する軍の上層部の一人に「スター・ウォーズ」で人気がブレイクしたハリソン・フォードが扮している。役名はルーカス大佐。この名前ってコッポラのお遊びなのだろうか?

     ◇

2002/02/14

 「千年の恋 ひかる源氏物語」(丸の内シャンゼリゼ)

「わが社の50周年記念映画は吉永小百合で源氏物語っていうのはどうかね」
「いいですねぇ、やっぱりうちの看板女優は吉永小百合ですよ。でも主役の光源氏、誰かいい役者いますか」
「天海祐希の光源氏っていうのはどうだい? 久々の男役。相手役はオールキャストの女優を並べてさ。女同士のラブシーン、ちょっと倒錯的な雰囲気がイケるんじゃない?」
「すると、吉永小百合は?」
「紫式部だよ、作者が生きる世界と作者が描く絵巻物の世界がドッキングする斬新なストーリー展開! 脚本は『夢千代日記』で吉永小百合の信頼も厚い早坂暁」
「いいですねぇ。いけますよ、その企画!」  

 てな感じで映画化が決定したのかなあ。プロデューサーの「してやったり」の笑顔が思い浮かぶ。
 確かに企画としては面白いと思う。天海祐希の光源氏という配役が光る。彼女と高島令子ら女優陣とのラブシーンも男のすけべ心を刺激する。
 主要なスタッフを見ても、一昨年、宝塚歌劇団の総出演の「源氏物語 あさきゆめみし」よりよっぽど映画らしい作りになるだろう。お正月映画の1本として観てもいいかなと思ったものの、結局とりやめてしまった。
 忙しかったためだけではない。僕のうちにある映画情報アンテナが「やめろやめろ」と警告音を発していたからだ。
 せめてタダなら……そんなことを考えていたら、運良く友人から向こう半年間の東映の株主優待券が送られてきた。うれしかったなあ。
 もうロードショーは終了してしまったけれど、平日にモーニングショーをやっていることを知り、早速有休をとって観てきた次第(別にこの映画のため有休をとったわけではないから、そこんとこお間違いなく)。

 現代の京都の街並みを空撮するオープニングから感じた違和感は、舞台が千年前に移動してからますます大きくなっていった。
 役者たちがいかに平安時代の貴族を熱演しようとも現代口語による芝居にまずなじめない。誰かが「不倫」なんて単語を使っていたけれど、平安の世に「不倫」なんて言葉があったのだろうか?  
 確かに豪華なセットだし、衣装もきらびやか、四季の美しさを狙ったロケ撮影も美しい。CGによって再現された京の街並みの全景も見応えがある。
 でも、スタッフの意気込み、それに応える役者に熱意が高まるほど、映像の中でのお話が空転してしまう気がしてならない。観ていて背中がこそばゆくなっていく。

 役者たちの層が薄すぎる。特に女優陣にその傾向が強い。常盤貴子や細川ふみえが登場するとTVのかくし芸大会のドラマかと思ってしまうのだ。森光子の清少納言なんて誰が見たいのだろうか。
 松田聖子が登場するにいたっては、スタッフが彼女に何を期待したのか、その真意が測りきれない。突然、空へ飛翔したかと思うと、現代感覚あふれる歌(ポップス)を歌いだす。そこだけ一時のミュージカルになって、それが数回繰り返される。
 光源氏の濡れ場も天海祐希の胸元は写せないから、決まりきった構図、女優の演技で逃げるしかない。女優たちはやはりある程度の貫禄があるからむやみに素肌を露出することがない。20年以上前と変わり映えしない濡れ場シーンの再現。しまいにはフラストレーションがたまってしまった。
 そのくせ、まだ十代になったかどうかの少女の、やっとふくらみかけた乳房は入浴シーンでちゃんと撮っていて、それがさして必要なカットと思えない。もしかしてこの監督ってロリコンなのか?

 脚本の早坂暁は以前も「北京原人 Who are you?」という怪作を書いているけれど、また同じ轍を踏んでしまったのか。企画に岡田〈赤頭巾ちゃん気をつけて〉裕介もクレジットされていることだし。
 いや本当に脚本家や監督が何が言いたくてこの映画を作ったのか理解できないのだ。女の自立? それにしては掘り下げが足りない。だいたい紫式部はそんな主題で「源氏物語」を書いたのだろうか? そもそも平安の時代に女性の自立を考える人たちがいたのだろうか。あまりにも現代的視点で見つめていないか。
 海外を意識したといっても、あまりに〈ゲイシャ・フジヤマ・ハラキリ〉の世界ではないか。  

 評価できるのは前述の特撮シーンと冨田勲の音楽くらい。お金払わなくて本当によかった。  

 ふと思ったのだけれど、今年の「日本アカデミー賞」の最優秀作にこの作品が選ばれるなんてことはないだろうね。




 先日、BC二十世紀に石ノ森章太郎のコミックスが入荷された。「石ノ森マンガ学園」というコミック文庫。
 小学生のころ漫画家になりたくて、入門書を買い集めた。その一冊が「石ノ森マンガ学園」の元本「石森マンガ教室」。もう何度読み返したかわからない。愛読書だった。

ishinomorimanga

     ◇

2002/11/22

 「石ノ森マンガ学園」(石ノ森章太郎/ホーム社漫画文庫/集英社)  

 地元の書店のコミックコーナーでこの文庫を見つけた。小学生時代の愛読書だった「石森マンガ教室」の文庫本で新装版。単行本「石森マンガ教室」は郷里に行けば、たぶんどこかにしまってある(僕の本はダンボール箱に入れられ押入に詰め込まれている)が、もういちどあの感動を実感したくて、あわてて購入した。  

 とにかく懐かしい。  
 石森章太郎を模したマンガの先生がビルとビルの間にある一戸建てのボロ校舎でマンガ教室を開催。マンガ好きな少年少女を相手に「マンガの描き方」のイロハを伝授するギャグマンガ。この学校、何と授業料はタダ。僕もこんな学校でマンガを勉強したかった!   
 ページを開いたとたん小学生だったあの時代に舞い戻って一気に読了した。  

 元は「週刊少年キング」に連載されたもので、読者からの投稿作品も生徒の発表という形で掲載され、石森先生の短評がつく。この作品も当時のまま。今あらためて投稿者の名を見ると、後にプロの漫画家になったと思われるものが散見される。菅谷充と河あきらだ。
 菅谷充はすがやみつる、「ゲームセンターあらし」の作者として名前だけは知っている。河あきらといえば「いらかの波」だろう。予備校時代に女友だちにコミックスを借りて夢中になった覚えがある。  
 そこらへんの事情が新装版に追加された「第4部 課外授業」で説明されている。登場する居村眞二、河あきら、すがやみつるの三氏が当時の思い出を語る。

 石森章太郎が書いた「マンガ家入門」に衝撃を受け、マンガ家になりたくて憧れの師のもとに集まった人たちで、当時同人誌「墨汁三滴」を発行していた。ちなみに石森章太郎がアマチュア時代に主宰していたのが東日本漫画研究会で、その肉筆回覧誌が「墨汁一滴」だった。
 居村眞二は「マンガ学園」に一回だけ投稿して採用されているが、後の二人は投稿の記憶がない。それもそのはず、なぜ二人の名前があるかというと同人誌の会長で石森プロのアシスタントになっていた菅野誠(マンガ家のひおあきら)という人が投稿者用の作品を描いて、その名に同人誌のメンバーの名を使ったというのが真相らしい。  

 「マンガ学園」の中で一番注目したのが、どのように「サイボーグ009」が生まれたかを生徒の一人をモデルに使って、その立案、原稿完成までを解説するところ。  
 TVの野球中継を見ていて、9人のチームワークから、スポーツのような戦争、闘いを描けないか。それもリアルなものでなく、スカッとしたいくさを、ということで、SFの設定を導入する。生徒はアイディアをノートにメモしていく。主人公を何者にするかと、悩む生徒。ロボット(アンドロイド)、スーパーマン、異星人……。以前「ライフ」という海外の雑誌にサイボーグマン(改造人間)の記事が載っていたことを思い出して取り入れる。敵チームをどうするか。SFものにありがちな宇宙人やエスパー軍団はではパッとしない。やがて戦争でもうける男たち(死の商人)の存在を知り、サイボーグ戦士たちが平和のために死の商人たちと戦う話を考えつく。

 こうしてまず絵コンテ(ラフスケッチ)を描くのだが、その冒頭がコミックス1巻と違うのだ。コミックスでは世界各国から少年少女たちが死の商人に連れ去られて、改造手術を施され、サイボーグ001から008になるエピソードがある。しかし、この下書きでは後に009になる島村ジョーが九里浜鑑別所を脱走するところがオープニングになる。
 後で知ったのだが、コミックスのオープニングエピソードは、「サイボーグ009」が人気を呼んでから、「サイボーグ戦士」のタイトルで描かれた読み切り作品だった。

 新装版に新たに追加された作品解説用のマンガが、後に「佐武と市捕物控」シリーズとなる「縄と石捕物控」の一編「赤い月」。初めて読んだ。少年サンデー連載というだけに、佐武がいかにも少年といった感じ。    

 今は小説家として活躍する菅谷充は自分にとって最後まで石森章太郎だったと、自身の書く文章はすべて石ノ森ではなく、石森で統一している。同じ考えの人がいるものだ、とうれしくなった。
 僕にとってもいつだって石森章太郎である。脱字ではないので、その旨ご了承を。





2017/11/28

 「GODZILLA 怪獣惑星」(TOHOシネマズ新宿)

 ゴジラの新作がアニメだと聞いたとき、真っ先に「ザ・ウルトラマン」を思い出した。
 70年代後半、円谷プロが久しぶりに始めたウルトラマンはアニメだった。
 不満だった。
 ウルトラ(マン)シリーズの、本当の主役は特撮ではないか! 怪獣(宇宙人)の都市破壊、ウルトラマンとのバトルは特撮だから意味がある。
 ゴジラだって同じこと。

 想像していたように「ザ・ウルトラマン」の前半はそれまでのシリーズ世界をアニメに置き換えただけだった。ところが後半、特に最終回近くになってから独自の世界観を描き出して瞠目した。
「これはアニメでなければできない!」
 TVの前で唸ったものだ。

 「GODZILLA 怪獣惑星」にもそれを期待した。
 確かにストーリーやディティール描写はアニメだからこそといえる。ハリウッドなら実写化してしまうだろうが。
 しかし、この映画、相手がゴジラでなくても成り立つだろう。
 3部作の第一部(なんだそうだ)だけの感想だとそうなる。




 昨日は、御徒町駅前に特設されたスケートリンクでスケートを楽しんだ。
 先週だったか、電車の中からスケートリンクの存在を知り、Yさんを誘ったのだ。お互い滑れないのだが。このリンクは氷ではなく特殊な樹脂でできている。転んでも冷たくはないが、ズボンに白い樹脂の破片がこびりつきます。
 この冬は少しスケートを特訓するか。

20171220

          * * *

2017/11/21

 「We Love Television?」(ヒューマントラストシネマ渋谷)

 萩本欽一のドキュメンタリーが公開されると知ってなぜ今なのかと思った。
 監督は日本テレビのプロデューサー、土屋敏男。「電波少年」にTプロデューサーでたまに登場し出演者に恐れられていた。
 テレビプロデューサーが監督したドキュメンタリーならなぜTVで放送しないのだ?

 もう何年も前になる。東北大震災以前のことだ。フジテレビで「悪いのはみんな萩本欽一である」という特番があった。是枝裕和監督が現在のバラエティー番組で問題になっている諸悪の根源は欽ちゃんがTVで始めたことなのかを検証する内容だった。
 もちろん、萩本欽一を弾劾する番組ではない。逆にTVに斬新な、革新的な笑いを導入した人として賞賛しているのである。TVの笑いの歴史に萩本欽一前、後が存在するというような。
 土屋監督も弁護側証人の一人だった。
 もしかすると、このドキュメンタリーはあの番組に対するアンサーソングなのではないか?

 土屋監督はこのドキュメンタリーを劇場で公開することに対してこう述べている。

     ▽
 テレビは途中で観ることをやめることができる。でも映画は映画館に入ったら逃げられない。だから、逃げられない環境で観るものを作ってみたかったんです。
     △

 なるほど、そういうことか。
 この理由は、なぜ映画を劇場で観るのかという自分の考えに合致している。自宅でビデオ(DVD)を観ても、集中できないことがままある。これまで何度か書いている。
 だったら観ようではないか。

 小学生時代、落語ブームがあって、その後トリオブームになった。そこにコント55号が登場してあっというまにTVを席巻した。コントに笑いころげた。自分でもコントを考えて友人と実演したりした。コント55号が単独で活動するようになると、欽ちゃんを追いかけた。コメディアン、萩本欽一に対する想いは強い。

 映画は、土屋プロデューサーから「また30%の視聴率をとる番組を作りませんか?」というオファーを受けた欽ちゃんが女優の田中美佐子や次長課長の河本準一たちと特番を作っていく過程を記録していく。この番組、僕は観ていない。放送されたこと自体覚えていなかった。
 画面には日にちが変わるたびにあと何日と表示される。ある日に向かって進んでいくのだ。その日が何なのかわからない。不思議な気持ちで観ていると終盤で判明して、ああ、そういうことか! 公式サイトをきちんと見てれば謎でもなんでもないかったのだけれど。

 エンディングで涙がでてきた。岡村靖幸「忘らんないよ」と通りを歩きながら行きかう人たちに挨拶していく欽ちゃんの笑顔がマッチしていた。

  一人でいても テレビを見れば
  あの頃のように 楽しかった想いが
  溢れ出してく

 心暖まるラストだった。




11月16日(木)

 「ブレードランナー 2049」(MOVIX川口)

 再度鑑賞。
 前回、前半は眠気との闘いで顔を殴りながら観ていた。映画がつまらないというのではなく、あくまでもこちらの体調の問題。この映画は、ある意味クライマックスまで〈静かな映画〉なのである。同じ監督の「メッセージ」もそうだった。
 3時間あまりの長さは感じなかった。それは前回鑑賞時も同様。
 詳細は項を改めて。


11月17日(金)

 「BRAVE STORM」(TOHOシネマズ上野)

 宣弘社制作の1970年代のTV特撮シリーズ「シルバー仮面」と「スーパーロボット レッドバロン」を合体させた劇場映画が公開されると知ったのは、初秋になってから。書泉グランデの1階入口のモニターだった。調べてみると新作だった。全然知らなかった。ほとんど話題になってないのはどうしてか。
 上映劇場も極端に少なかった。東京だとTOHOシネマズ新宿と上野だけ。しかも新宿はMX4Dなる上映方式で料金が2,800円。特撮ファン(マニア)ならその料金でも足を運ぶと考えたのか。違うと思うのだけれど。

 TOHOシネマ上野のレイトショー最終日に足を運んだ。レイトショーといっても、封切作品なので、料金は通常の1,800円だと思っていたら、レイトショー料金だった。ラッキー!

 冒頭のシークエンスにがっかり。単なるフルCGアニメじゃないかと。
 しかし、その後持ち直し、印象がガラリ変わった。
 予算の関係で、VFXが安っぽいところもあるし、合成もバレバレなのだが、ドラマ自体は実に熱かった。ロボット同士のバトルシーンに興奮。個人的には「パシフィック・リム」より満足した。きちんとツボを押さえた描写だからだろう。ロボットがちゃんとロボットの動きをしている。巨大感も申し分ない。
 役者陣も熱演。面白い映画ではないか!
 あのラストは単なるお遊びなのか、それとも本当に続編があるのか。まあ、前者だと思うけれど。

 この項続く




2000/05/22

 「活字博物誌」(椎名誠/岩波新書)

 「活字のサーカス」の続編。
 著者いうところの〈超個人的迷走読書ばなし〉。著者が展開する話題の中でそれに関する本を紹介するエッセイなのだが、前作より迷走ぶりが激しい気がする。その方が面白いのだけど。

 「しゃがんで何をする」の章はたまらなかった。
 国交回復後まもない頃、著者が中国に旅した時のこと。今はどうだか知らないが、解放便所(中国はトイレには個室というものがなく大便もしきりがないところで行うとのこと)で大便するのは最初こそ羞恥心があるが、じき慣れたという。
 数年後、また中国に行き、小さな旅館に宿泊したら、そこも解放便所で、おまけに朝、大勢人が並んでいて、する時はその先頭の人と向き合う恰好になったという。
 いくら解放便所に慣れたとはいえ、行列のまえでの排泄行為、それ以上にみんなを前にして尻を紙で拭くことがたまらなく恥ずかしかったとか。
 僕は解放便所そのものも許せない。というか僕の性格からすると絶対にそんなところで用なんか足せない。おまけに目の前に見学者がいるわけでしょう? 別に過去に経験があったわけでもないのに、どういうわけか、しきりのないトイレで用を足す夢をみることがある。その恥ずかしさといったらありゃしない。

 本書の中でSF小説をさかんに紹介している。小説を読むならSFだ、とも書いている。
 「貧困発想ノート」の章で紹介する数々のSFの中で特に興味を引かれたのが「フェッセンデンの宇宙」(エドモンド・ハミルトン)だ。
 盆栽のようなスケールで本物の銀河宇宙が存在し、それを顕微鏡のようなもので超拡大して、太陽系らしきものの進化の課程をみることができる、という物語だという。同じ内容のエピソードが「ドラえもん」にある。オチもほとんど同じものだ。全くの偶然か、それとも藤子・F・不二雄がこの小説からインスパイアされて描いたのか。
 そういえば椎名誠は小説家でもあり、SFをかなり書いているのだった。「アズバード」で日本SF大賞を受賞しているのである。これまで自伝的小説しか読んでこなかったのだが、今後はSFにも触手を伸ばしてみようか、と本書を読んで思った。

     ◇

2000/05/29

 「テレビがやって来た!」(早坂暁/日本放送協会)

 表紙から裏表紙にかけて見開きで和田誠による有名人の似顔絵が並んでいる。渥美清、黒柳徹子、ジャイアント馬場、藤田まこと、高橋圭三etc、著者の顔も見える。
 著者のTV創成期の体験話と表紙の有名人たちがどう結びつくのだろうと読み始めたら、合点がいった。
 本書はTV番組でいうところのドキュメンタリードラマなのである。
 はじまりは著者と渥美清と出会い。片や浅草のストリップ劇場の芸人、片や日大芸術学部の学生、バイトで試験放送用ドラマのシナリオを書いている。そんな二人が20世紀最大のベンチャー企業TVと徐々にかかわっていく物語部分とTV開局に携わり、さらなる発展に寄与してきたTV業界、芸能界の著名人への著者自身のインタビューで成り立つ構成だ。

 ここでもまた若かりし渥美清の姿が活写されていた。
 そういえば著者は渥美清への追悼の意味を込めてスペシャルドラマで渥美清の物語を書いている。ウッチャンナンチャンの南原清隆が若い渥美に扮していた。いくら顔が少しくらい似ている(似てないか)からと言って、地方出身の彼に渥美の口跡まで真似できるわけがない。変なドラマだった。

 そんな著者と渥美清を狂言廻しにして、その合間に各人にTV創世の熱い時代を語らせた。
 昭和38年の紅白歌合戦のオープニングでは聖火を持った渥美清を日比谷公園から走らせた、と今は亡き川口NHK会長が語る。このときの紅白は現在までの最高の視聴率を記録しているという。  
 日本テレビのプロレス中継の最初のスポンサーが山一証券だったとは。これはジャイアント馬場のインタビューに出てくる。
 その他青島幸男、兼高かおる(「兼高かおる世界の旅」は31年間放映された)、高橋圭三、澤田隆治(「てなもんや三度笠」の演出で有名、ずっとリュウジと読んでいたのだが、タカハルとお読みするんですね)、海老沢現NHK会長等、興味深い話が出てくる、出てくる。

 60年代末、著者がやりたかったテレビドキュメンタリーを手がけることになり、やはりTVで売れっ子になっている渥美に出演してほしいと声をかける。渥美は主演映画の撮影があるためこの話を断ってしまう。
 テレビドキュメンタリーは「テレビジョン69」といい、渥美の映画はあの「男はつらいよ」。ちょっとできすぎのようなラストではあるがとても印象的だった。

     ◇

2000/05/30

 「青春ノイローゼ」(みうらじゅん/双葉社)

 読み終えたとき胸に熱いものが込み上げてきた。
 もちろん、そんなつもりで本書を手にしたわけではない。羽田図書館で本書を見つけページをめくったら最初の章が「信人的な旅」とあった。世の中の岡本信人的な存在について言及していて、実にみうらじゅんらしく、たまにはみうらじゅんの本でも読んでみるかってんで軽い気持ちで読み始めたのだ。

 みうらじゅんは一般には「マイブーム」の仕掛人として有名である。その一つひとつの趣味がかなり僕自身の興味と重なるところが多く注目はしていた。もちろん「マイブームの旅」の章もある。 

 年齢も1つしかかわらないことも本書でわかった。
 第3章「俺だけの旅」は著者が郷里・京都に久しぶりに訪れて、かつての自宅、あこがれだったラブホテル等を写真といっしょに紹介している。
 この章は思い出を数多く語っているので同世代として興味深いことばかりだ。

 圧巻なのはラストの「追憶のバンドブーム時代2ラブホテルに捧ぐ」「自分が大嫌いだった頃80's」の2編。
 著者自身が意識していたのかどうか知らないが、これは小説である。
 実体験かどうかなんて関係ない。ここには1980年代の僕たち世代の焦燥が描きだされていると思った。
 僕にはバンド活動の経験も、当然ファンの女の子をホテルに連れ込んだこともない。
 予備校の経験はあっても、いいとこの大学生の彼女とねんごろになって、彼女の友だちのパーティーに参加したこともない。
 しかし、この2編に描かれたことはまるで自分のことのように感じられた。

 僕が大学生になった79年の夏のファッションといえばTシャツとジーンズ、ビーチサンダルが当り前だった。ところが80年代になるとなぜかタックの入ったグレーのパンツ、チノパン、デッキシューズでおしゃれにきめだしたのだ。もちろん僕も当時つきあっていた彼女に指摘され、おしゃれなファッションを身につけたわけだけれど、釈然としなかった。僕にとって80年代はそんな違和感ばかりだったような気がする。
 というわけで「大嫌いだった80's」というタイトルそのものにも共鳴してしまった次第。




2000/05/07

 「ナミアミダブツ」(立川談志/カッパブックス)

 落語もできる作家・立川談四楼の小説が面白くて、すっかりファンになってしまった。本業の落語も聴いてみたいと昨年、下北沢で定期的に開催している独演会に行ってみたら、これもまた巧い。すっかり魅了されてしまった。
 立川談四楼は小説のほかに1冊エッセイ集をだしていて、それだけまだ読んでいない。
 図書館に探しにいったら、師匠である立川談志の軽めのエッセイがあったので借りてきた。

 立川談志はここのところいろいろな全集を出していて、その中にこれまで発表した文章を網羅した(と思える)全集がある。ホントはそちらの方に興味あるのだが、どれも分厚く、おいそれと手がだせない。
 日頃、TV等で披露するおしゃべり同様暴論と毒舌の数々であるが、その趣旨には首肯するものばかり。

 自身のファンである身障者について述べた「こんな話もタブーなのかネ」、車椅子の身障者が酔っぱらってクダをまいたら誰か注意できる奴はいるか、要は身障者だって普通に扱えということ。なるほど。
 ジャイアンツべったりのプロ野球について述べた「野球はやっぱりジャイアンツ」、それが日本のプロ野球じゃないか、文句あっか!と、たぶんにホメ殺しの体。そこから話が広がって勝利投手、敗戦投手があるんだったら、勝利捕手、敗戦捕手があったっていい。勝利打者、敗戦打者、勝利野手、敗戦野手という制度があるべきではないか、と。なるほど、なるほど。
 巷に氾濫している携帯電話。用もなく携帯電話でしゃべりまくる人たちを「言葉による空間恐怖症」じゃないかと喝破する。で、これだけ携帯が広まったのならいっそ携帯電話OKのコーナーを作っちゃえ、と携帯寄席なんぞを提案する。客が携帯をとるなら、高座の落語家だって、一席中に携帯とるぞ、ときたもんだ。 全くもってそのとおり。

 著者同様、癌の闘病から復帰した赤塚不二夫を相手に、好き勝手な対談、放談ぶりがうれしい。  
 立川談四楼の長編小説「ファイティング寿限無」に登場する著者がモデルの橘家龍太楼は癌で死んでしまうが、ホンモノはまだまだ健在だ。

     ◇

2000/05/10

 『古本屋「シネブック」漫歩』(中山信如/ワイズ出版)

 映画も好きだが映画について書かれた本〈シネブック〉を読むのも楽しみの1つである。
 本書については何の情報もなく、たまたま図書館の映画コーナーにあって面白そうだったので借りてきた。
 著者についても何も知らない。プロフィール欄に荒川区三河島にある映画関係専門書店「稲垣書店」経営者と紹介されている。古本屋のオヤジにしてコラムニスト。こういう生活に憧れているんですよ、僕は。マジで古本屋のガンコおやじになりたいと思っている。

 タイトルが示すとおり映画本の紹介がメインで、遊びの部分(著者のぼやき)も楽しい。全体に興味深いものばかりなのだが、惜しむらくは1章1題材という線を貫いて欲しかった気がする。
 世の中に流通している関係書類が多いという理由からだろうが、小津映画の関連本の紹介が続き過ぎてうんざりした。僕自身が小津映画にあまり関心がないためだが、それにしても限度というものがあるだう。竹中労についても同様。それだけ著者の思い入れがあるということだろうが、続くにしても3回くらいがちょうどいい。
 小林信彦なんて映画に関する本を何冊もだしているというのに、全く紹介されていない。(文章には何度か登場してくるから著者がわざと外しているとは考えにくい)

 文句ばかり書いても仕方ない。興味深いことばかりで、どんどんページをめくった。小林久三の映画界を舞台にした初期のミステリが面白そうだ。あと殿山泰司、田中小実昌の本もこれからあたっていきたい。
 今度時間があったら「稲垣書店」をのぞいてみよう。

     ◇

2000/05/17

 「引退 嫌われ者の美学」(上岡龍太郎・弟子吉次郎/青春出版社)

 漫画トリオ時代を知らないこともないが、はっきりと上岡龍太郎の存在を意識したのは日本テレビの深夜に放送されていた「パペポテレビ」であり「EXテレビ」だった。
 時には屁理屈と思われる論理で相手に有無を言わせない、あるいは世相を斬る話術にやみつきになった。
 全国区の人気になってから始まったフジテレビの日曜お昼「上岡龍太郎にだまされるな」はいつも楽しみにしていたものだ。
 そんな彼が公約どおりつい最近引退してしまった。一度くらい独演会を聴いてみたかった。独演会で脚本・演出等を担当していた弟子吉次郎が上岡の人となり、その生い立ちと思想ともいうべきものを途中途中にギャグを挿入し、時に揶揄し、おちょくりながらまじめに書いている。

 迷ったら楽の方を選ぶというのが上岡龍太郎の昔からの流儀だとある。楽な道を選ぶことは大きなメリットがあって、岐路に立ったとき、この方法なら後悔しないというのだ。結果的にうなくいかないことがあっても「だって楽な方を選んだのだから仕方ない」ですんでしまう、自分で決めたから他人のせいにできない。あとくされのない決定方法なのだと。一理あると思う。
 教育方法で自分の子どもに対して一切幼児言葉を使用しなかったとある。これは共感。うちも同じ考えで子どもに接してきた。「ママ、パパ」は今では当たり前になってしまって、それほどでもなくなったが、我慢ならないのは「ジイジ、バアバ」といつまでも呼ばせて、喜んでいる世の祖父母たちだ。
 子どもには当然ママ、パパとは呼ばせなかった。ブーブ、ワンワンなんてもってのほか。しかし、その影響が今ごろになって僕自身にでてきた。小学生の高学年になった娘に幼児言葉を使いたくてたまらない。幼児言葉に対する飢えだろうか。「何考えているの?」と娘にバカにされる今日この頃である。

 上岡龍太郎の父親がまたすごい人なのだ。四国の片田舎で小学校を卒業してから畑仕事に従事してきたこの人はある日神の啓示(?)を受け、「勉強がしたい」と叫び、一念発起して、京都大学法学部に入学。学費を稼ぐのに苦労しながら司法試験に合格、弁護士になってしまうのである。弁護士になってからも社会の底辺に生きる人のために弁護をする。だからちっとも儲からない。
 この父の教えがまた一風変わっていた。「若いときに苦労するな、苦労は歳をとってからイヤというほどできる」「貧乏は一生の敵」と自分の体験をふまえて言っていることだから重みがある。上岡の「迷ったら楽の方を選ぶ」ポリシーも父親の影響が大きい。

 本書にはいろいろと示唆に富む教えが綴られているが、ついに40歳をむかえてしまった僕には「勉強したいときが就学年齢だ」というのがすごく大きく感じられる。勉強したいことがあって、まじめに大学に通いたいなどとも考えている。ふた昔前にそう考えていたら人生もずいぶん変わっていただろう。これまでの自分の人生を後悔しているわけではないけれど。




 全然、ブログが更新できない。
 最近観た映画の話を書きたいのだが、帰宅すると、疲れてPCを開く気力もない。そのまま布団に横になり、TVも灯りもつけっぱなしのまま就寝。結局、過去の夕景工房からの転載でお茶を濁してしまう。
 紙ふうせんリサイタルについても下書きのままだ。
 なんとか、この悪循環を脱出しなければ。

          * * *

 映画批評家の切通理作氏が映画を初監督した。タイトルは「青春夜話 ―Amazing Place―」。チラシには〈25年間、映画批評を続けてきた切通理作が描くエロティックラブストーリー。〉とある。
 12月2日から新宿のK's cinemaでレイトショーが始まった(21時~)。

 以前にも書いたことだが、氏が「別冊宝島 怪獣学・入門」の論考を読んだことから、単行本「怪獣使いと少年」を購入し以降、著作はほとんどすべて読むファンになった。トークイベントにも何度か足を運んだ。
 そんな切通さんと知り合うことができて、自分が働くブックカフェ二十世紀で特撮のトークイベントを開催したのが、昨年の夏。その後も何回かイベントを開催している。

 切通さんが映画を撮る、ついてはエキストラで協力してもらないかとFBでの呼びかけがあり、すぐに手をあげた。
 そんな経緯があって、この映画に1カットだけ出演している。だけでなく、エンディングロールでクレジットもされているのだ。感激!

 0号試写のとき一度観ている。ただまだ完成品ではなかったので、公開を楽しみにしていたところがある。
 ラストシーンがとても良い。これは試写のときにも思ったことだ。声を大にして言いいたい。
 そして、今回、ふたりの青春(高校時代)への復讐が自分の琴線にふれた。僕自身、高校3年間がかなり鬱屈していたので。ふたりとは全然違う理由だけれど。

 プールのシーンは、「早春」のイメージを狙ったものでは? という考えは監督に確認してあっけなく崩れ去ってしまった。

 映画は、毎日アフタートークショー付きで絶賛上映中! 15日まで。



seisyunyawa
チラシだとアニメだと勘違いしそうですが、実写映画です。




2002/01/05

 「平成14年初席」(浅草演芸ホール)  

 お正月になるとTV番組を見ながらいつも不思議に思うことがあった。
 たとえばNHKなどで東京の寄席と関西のホールを結び「初笑い寄席」とか銘打って二元、三元中継する演芸番組のスペシャル版である。
 客でごったがえす新宿の末広亭とかの寄席、豪華な出演者たち。これらはすべてTV番組のために特別に編成されたものだろうか。そうなると、この日だけは寄席はNHKの貸切りになるのだろうか。お客さんたちは無料で(先に応募か何かして)一流の芸人たちの話術を堪能しているのだろうか。
 
 落語関係の本を読んで疑問が解消した。通常の寄席にTVカメラを持ち込んでいるだけ。じゃあ、なぜ豪華な芸人たちが一堂に顔を揃えているのかというと、正月用の特別編成だから。持ち時間を5分にし、できる限り有名どころの芸人たちの芸のさわりを披露するわけ。絵的にも時間的にもTV向けといえる。

 今回、正月の浅草演芸ホールに足を運んだ。大学時代、国立演芸場に行ったことはあるけれど、いわゆる昔ながらの寄席というところに足を踏み入れたのは生まれて初めての経験だ。
 入場料は3,000円。正月は朝9時からの一部から夕方5時からの4部(終了は9時)まで。入替はなし。これはいい。
 一部の途中から入って、三部の終了まで満杯の演芸ホールで時を過ごした。とにかくTVでお馴染みの顔が次から次に登場するのは壮観である。おまけに場内爆笑に次ぐ爆笑なのだ。

 一部の川柳川柳、二部の三遊亭円丈、古今亭志ん五、橘家円蔵、三部の林家こぶ平、林家木久蔵、三遊亭円歌等々。志ん五の与太郎噺が生で聴けたんだからもうけもの。円丈がこれほど面白いとはびっくりした。目当ての円歌は相変わらず自宅のじいさん、ばあさんの噺。でも感激した。本人は「もう三十数年まえのネタだよ」とやる気はさらさらないようだけれど、もう一度「山のあな、あな」を聴きたいものだ。

 馴染みのない芸人も多数登場する。うしろの客が「やっぱりTVに出ない芸人はだめだな」なんて言っていたが、知らない噺家でも、もっとじっくり聴いてみたいと思うような人もいた。特に色物の綾小路きみまろの面白さは特筆もの。要チェックです。

     ◇

2002/01/27

 「木枯し紋次郎 ベストコレクション」(ビデオ)  

 もう一昨年になるのだろうか。某特撮系BBSで木枯し紋次郎、市川崑ファンというHN〈紋次郎〉ことI氏と知り合った。僕よりずいぶん若いのに、70年代に思い入れが強くまたかなり趣味趣向が共通しており、色々と話題にことかかない。定期的に長いメールのやりとりをしている。  
 ちょうどその頃、CSで「木枯し紋次郎」が全話放送された。  
 わが家ではCSが視聴できないが、I氏が放送を録画し自分なりのベスト版を編集して送ってくれたのだ。実にありがたい。  

 ビデオ4本の内容は以下のとおり。  

 第1巻 「九頭竜に折鶴は舞った/峠に哭いた甲州路」  
 第2巻 「湯煙に月は砕けた/雪に花散る奥州路」  
 第3巻 「冥土の花嫁を討て/木枯しの音に消えた」  
 第4巻 「地獄峠の雨に消える/上州新田郡三日月村」  

 72年になってからだったと思う。土曜日の夜遅く自分の部屋にいると居間から軽快な音楽と歌が聞こえてきた。この歌は何? 誰が歌っているのか? とあわてて居間に顔を出すと、親父がTVを見ている。
「この番組は?」
「新しく始まった時代劇だ、『木枯し紋次郎』っていうんだ」  
 これが僕の「木枯し紋次郎」との出会いだった。その後あっというまに番組は一世を風靡した。

 木枯しの音が流れる中、黒バックに〈市川崑劇場〉の青い文字。続いて〈笹沢左保原作 木枯し紋次郎〉が現れて、内臓に響く低音のベース音とともに決まって本編に入る。黒と青のコントラストが美しい。
 本編で旅の途中の主人公・木枯し紋次郎が事件に巻き込まれたところでその回のサブタイトルが大写しとなったタイトルだ。
 紅く染まった雄大な山々をバックにこちらに向かって歩いてくる汚れた三度笠と長めの合羽を身にまとった紋次郎をロングで捉えたショットに「誰かが風の中で」の勇ましい前奏が流れてくる。
 このタイトル部分は今見ても新鮮だ。道端で睡眠をとる紋次郎、竹やぶを走り抜ける紋次郎、さまざまな紋次郎の姿をストップモーション、望遠撮影、ズーミング、6面割、コマ落し等、様々な編集テクニックで〈魅〉せてくれる。
 主題歌の「誰かが風の中で」の作詞は市川崑監督の夫人でシナリオライターの和田夏十。作曲は前年「出発の歌」でヒットを放った六文銭のリーダー・小室等。
 歌と映像のコラボレーションによるこのタイトルでまず僕は「木枯し紋次郎」に魅了されたのだった。

 というわけで、懐かしさいっぱいでビデオ4巻、1月中夜中に1話づつ観た。中村敦夫にインタビューしたコーナーもあって楽しくてしかたなかった。
 それぞれのエピソードについてはまた次の機会に!

     ◇

2002/01/30

 「ヴィドック」(東劇)  

 特撮映像をふんだんに使用したミステリーだと知り、俄然関心がわいた。  
 ピトフというまるで料理みたいな名前(それはポトフだって!)の監督による、全編ケレン味たっぷりの映像美。フランスの堤幸彦ってところか。  

 開巻太った中年男と謎の怪人・鏡仮面によるガラス工場での戦いはアップの連続で、最初何がなんだかよくわからなかった。鏡仮面は異様な風体、俊敏な身のこなし。どうみても中年男に勝ち目がありそうになく、善戦むなしく炎が吹き出るかまど(?)に突き落とされてしまう。かまどの縁につかまり、もう助からないと観念したのか、中年男は死ぬ前に仮面の下の素顔をみせてくれと哀願、鏡仮面が仮面を取ると、何かを悟り自ら手を離してかまどの底に落ちていった。  
 この中年男が本編の主人公ヴィドック(ジェラール・ドパルデュー)と知ってちょっとショック。どう見ても主役に見えない。ヴィドックとは何者なのか、その後のタイトルバックで彼の経歴が要領よく語られる仕組み。これは巧い。
 ヴィドックが死んだと号外が出る街の喧騒。すごい人らしいのだ。  
 僕は全然知らなかったのだが、ヴィドックとは実在の人物だという。もともと犯罪者だったのが、改心して警察に与する協力者となった、フランスでは知らない人がいないくらいの英雄。「レ・ミゼラブル」のジャンバルジャンは彼がモデルだとか。立場はちょっと違うものの、フランスの大岡越前、遠山の金さんみたいな存在なのだろう。  

 それはともかく。  
 主人公が冒頭で死んでしまった! これはどういうことなのか?  
 映画は警察を辞め、仲間と探偵事務所を開いていたヴィドックが何の事件を担当し、犯人を追っていたのかを描く構成になっている。ヴィドックに依頼され彼の伝記を書くために事務所を訪れた作家(ギヨーム・カネ)がヴィドックの助手(ムサ・マースクリ)の協力を得ながら、ヴィドックの足跡を追う。  
 ヴィドックが警察からの要請で調査していたのは雷を使い、主要な3人の人物を狙った計画的殺人事件だ。  
 犯人の鏡仮面とは誰か?  
 ヴィドックがそうしたように殺人事件のトリックを見破り、伝記作家は事件の関係者を一人ひとり洗っていく。近づいた関係者もその後何者かに殺されていく。  
 怪人の正体はどうやらガラス工場に行けばわかるらしい。意気揚揚とガラス工場を訪れた伝記作家と助手の前にヴィドックの最期を目撃したガラス職人が現れた……。    

 冒頭のアップの連続で感じたのは、とにかく映像が鮮明で、その鮮明さがフィルムのそれでなくまるでVTRのようだということ。といって、ビデオ特有の画面の粒子はなく、一種独特のリアルさを醸し出していた。たとえば登場人物の口元がクローズアップされると、口臭まで伝わってくるような。  
 後でわかったのだが、24pHDというデジタルカメラで撮影されたとのこと。    

 華麗に装飾された驚異のビジュアルとハイテンションな編集の妙に圧倒された。
 観客の好き嫌いがはっきり分かれる堤監督の作品のように、このピトフタッチも受けつけない人もいるだろう。デジタル技術を駆使してもうイケイケドンドンってな感じで、ほどよい味加減でないことは確か。  
 しかしこの映像に気をとらえさせることも策略なのだろう。ラスト、驚愕の後、真犯人がわかるにあたって僕は一言「やられた!」。そういえば、それまでにいろいろと伏線が張られていたっけ。この人しか考えられないのだ。後になってあれこれ気づいてももう遅い。
 美術と映像が一体となった脚本&演出のトリックに脱帽。




 前回、ノスタラダムスの予言の不確実性についてお話ししましたが、今日は占いについて、ある占い師のインチキさについてお話しします。

 昔、浅草に有名な占い師が店をかまえていまして、井上ひさしがアルバイトをしていたそうです。
 井上ひさしの仕事は待合室でお客さんの話を聞いて、それを仕事部屋の占い師に暗号で伝えるというものでした。部屋に入った客は、自分の悩みを知っている占い師にびっくりして、すっかり占い師を信じてしまうということです。

 また、そういう情報を事前に知らなくてもうまく客に対応する方法もあります。
 まず客の8割は男なら仕事上の悩み、女なら愛情問題だそうです。これで最初のつかみはOKということになるのだそうですが、はずれた場合、女には「あなたはよく人の面倒をみるがその割合には報われない」、男には「あなた、お酒はいける口でしょう? もちろんあなたは今はお飲みにならない。だけど酒の味を覚えたらすごい。かならずいける口になる」。こう語りかけるとすんなりいくのだそうです。

 こんなやりかたもあります。
「あなたのお子さんの数はこうですな」と右手の親指と人差指を折って客の目の前へ差し出します。当時は子どもの数は二人から三人が相場でしたから客はすっかりだまされてしまうという段取りです(二人の場合は折った指を、三人の場合は立てている指で示しています)。じゃあ、一人の場合はどうするかというと、「水子がいる」と言うのです。

 まあ、世の中、この手の悪賢い占い師ばかりではないと思いますが、この占い師はよく井上ひさしに言ったそうです。
「たかだか1,000円や2,000円で人の運命なんてわかってたまるか」

 ということで、占いに凝るのもほどほどにという話でした。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)

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