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 昨日は大杉漣の急死のニュースにショックを受け、女子パシュート金メダルに歓喜した。
 速報を目にしたとき、どちらも声をあげてしまった。声の質は全然違うが。

 大杉漣は66歳、まさに現役の役者でドラマ、映画に欠かせない存在なのに。
 真っ先に頭をよぎったのが「テレビ東京のドラマはどうなるの?」だった。
 バイプレーヤーばかりを集めて連続ドラマを放送しているのだ。観てはいないけれど。
 その後のニュースで知るのだが、まさにそのドラマの収録中で出来事だったのだ。

 大杉漣を認識したのはいつだろうと、ウィキペディアでフィルムモグラフィーを調べた。
 映画だったことはなんとなく憶えているからだ。
 わからない!
 最初に観たのは「ウィークエンド・シャッフル」か。とはいえ、当時は全然意識していなかった。
 「美女縄化粧」にも出演していたのか。これまた憶えていない。

 ピンク映画、ポルノ映画で人気がでて、やがて一般映画、テレビに進出する役者がいる。
 風間杜夫がそうだった。
 日活ロマンポルノで何度か見かけて名前を憶えた。
 その後人気俳優になってテレビドラマに出るようになったときのこと。風間ファンの女性たちにそのことを言うと皆驚いたっけ。

 はっきりと覚えているのは「天使に見捨てられた夜」。ビデオで観たのだが、ヒロインの友人であるおかま役でこんな役もやるのかと思ったものだった。

 喪失感は半端ではない。
 合掌


 スケートはまったく門外漢である。
 女子パシュートも金メダルが獲れると言われていたが、僕がそれを信じて生中継を見ると、必ず何かがあって「惜しくも……」となるから、別の番組にチャンネルを合わせていた。そこに臨時ニュースのテロップが。あわててチャンネルを換えた。その後フィニッシュを目にするために目頭が熱くなる。

 女子のスピードスケートで楽しみにしているのは、試合が終わったあと、ユニフォームの頭の部分を脱ぐところ。髪が広がってとたんに女っぽくなる。あれを見ると「ゴジラVSメカゴジラ」でヒロインの小高恵美(Gフォースという特殊部隊の一員)がラストで
ヘルメットを脱いだときとオーバーラップする。
 胸のチャックをおろして中のTシャツ(?)が見えるのも色っぽい。

 「お前、どこ見てるんだ!」と怒られそうだが、3人が滑走する姿を正面から捉えた画を見ながら、その一糸乱れぬ隊列がオランダより美しかった。これで勝てると確信した。すでに金メダルなのだから当たり前だけれど。




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2000/10/20

 「売れない役者 あなたの知らない芸能界サバイバル」(森川正太/はまの出版)

 本書を書店で見つけたときは驚いた。
 無名の役者ならいざしらず、森川正太といったら、僕らの世代では「飛び出せ!青春」「俺たちの旅」等の、70年代人気を博した一連の青春ドラマのレギュラーとしてお馴染みの人ではないか。
 確かに現在、あまりTVで見かけなくなったけれど、パッと出のタレントではあるまいし、舞台などで活躍しているものだとばかり思っていた。
 ところが実際に役者だけの稼業では食えないらしく、今では副業として結婚式の司会をやっているという。その数、何と350組以上!

 子役で役者デビューした著者が、芸能生活38周年を記念して、日記形式で1年間を振り返りつつ、芸能界の思い出話、副業の模様、役者への思い入れ、信念などを語った本である。
 タレント本はほとんど関心がわかないものの、プライドをかなぐり捨てたタイトルからしてちょっと興味をそそられた。といって購入する気もない。しばらくして図書館に行ったら芸能コーナーにあったのでさっそく借りてきた。

 なぜ売れないのか? 著者は本書の中で、今、活躍できないのはTVがバラエティー全盛になっているのも要因の一つとしている。役者としてそういうものには出演したくない、不器用な著者にはできないと。
 そういえばその手の番組に盛んに出て人気者になっている役者が多い。でも、映画やTVドラマの脇役だけに徹している人もいるのだから、一概にバラエティー全盛だからともいえないだろう。
 思うに森川正太は役が限定されてしまう役者なのではないか。観る方とすると彼に対してある一つのイメージを持ってしまう。気弱でおかしくていい人という雰囲気で、これ以外の役だとどうにも受けつけない。

 内容は芸能界特有の裏情報やかつての役者仲間あるいは現在のTVへの痛烈な批判、趣味である読書の感想など、常識人の、まあ的を射たものとなっている。
 しかし、他のタレント本と違って本書に意味あるとすれば、それは司会者として垣間見た披露宴における数々の人間模様を活写したところである。
 披露宴という名の台本のない人間ドラマ、会場で起こるさまざまな出来事がむちゃくちゃ面白い。

 たとえば……
 披露宴に昔の彼氏を招待する新婦が増えてきているという。その中で悲惨な例としてあげられた披露宴が単なるお食事会になってしまった事件。
 昔の彼がスピーチをして、新婦との赤裸々な関係を自慢そうに暴露しだすと、新郎は無言で席を立ち、会場をあとにした。新郎側の縁者も全員その後に続く。成田離婚ならぬ披露宴離婚。
 招待客がたった10名弱しか来ない披露宴というのもあった。うなだれる新郎新婦。著者はホテルの責任者に頭を下げ、スタッフをテーブルについてもらって何とか式を進行させた。
 300万円のドレスを着て披露宴に出る新婦がどうしても司会の方から値段を言って欲しいと言う。そんな必要はないと答えると、「じゃあ司会を変える」。頭に来た著者は当日ちゃんと値段を伝えたあと、アドリブでこう付け加えた。 「しかし、なんて似合わないでしょうね」
 会場は爆笑の渦だったという。
 感動的な披露宴とは最後で新婦が両親に宛てて読む感謝の手紙の場面で会場の涙を誘うことと信じる著者には賛同できないものの、結婚式は家柄、格式にこだわらず心から祝ってくれる人だけ集めてどこかのレストランを借りて、手作りの式をやるのが一番、と書くところは納得。

 一世を風靡した「俺たちの旅」がスペシャルとして周期的に制作されることに対して、著者みたいな売れていない役者にとってはギャラが入るから、ある意味ありがたいと思いながら、安易に作るべきではないと書く。
 このように著者は時流に乗らない(乗れない?)いい意味でプライドの高い、頑固さを持ち合わせる役者気質の人なのだ。(だからこそ「売れない役者」などというタイトルがつけられるのだろう。)それが業界内で反発を招いているとも考えられる。そんな彼に忠告を与えてくれる数少ない芸能界の友人蛍雪治朗、石倉三郎の存在がうらやましい。ふたりとも好きな役者だからなおさらだ。


2000/10/23

 「江戸一口ばなし」(今野信雄/新紀元社)

 子どものころ、TVの時代劇(必殺シリーズだったか)を見るたびに思うことがあった。一両は今のお金に換算するといったいいくらなのだろうか、と。狡賢い商人が、強欲な悪の代官らに何十両もの小判を渡すシーンになると、それがどのくらいの価値をもっているのかわからずはがゆかった。
 その後一両はだいたい10万円くらいだと誰かに教わり、具体的にイメージがわくようになった。
 江戸時代に関心を持ちはじめて、関係書、時代小説も読むようになるとお金以外にもわからないことが多い。たとえば時刻、季節、石高、家禄など。
 本書はそんな疑問にやさしく答えてくれる肩のこらない読み物となっていて、先の一両は7、8万円だと説明している。
 藤枝梅安はTVでは一回の仕掛けに20両くらいもらっているから160万の報酬ということになる。小説は50両、なかには100両なんてものがあるから400万、800万の世界。ゴルゴ13の報酬と比べてみるのも面白いだろう。

 江戸時代で誰でも面くらうのはそのカネと季節感だと著者は〈はじめに〉で述べている。
 「四十七人の刺客」を読んで、のっけから閏八月がでてきたときは確かに面くらった。同じ月が2回あるとはいったいなんぞや?
 当時は陰暦を採用していたから現在とは季節感が違う。忠臣蔵で12月の討入り前日に雪が降っていて、昔(の東京)はホワイトクリスマスも当たり前だったんだなあと、何も知らないころは思っていた。別に温暖化の影響ではなく、旧暦では1月だったからなのだ。
 江戸とは何か、と訊かれたらどう答えるか。今の東京だろうではダメ。江戸城を中心としてその四方、品川大木戸、四谷大木戸、板橋、千住、本所、深川以内を指すという。
 大名と旗本の違いは石高にある。大名は一万~二万石(二千五百坪)、旗本は十万石~十五万石(七千坪)の土地を拝領していた。ちなみに一石とは米150キロのこと。
 当時は敵討ちが認められていて、有名な話も残っているが、敵討ちの成功率は1%だったとか。
 江戸が世界一清潔な町だったとはちょっと意外だった。




 昨日(20日)は経堂で呑んだ。
 BC二十世紀のイベントの一つとして「少年ドラマシリーズ」を取り上げたいと常々考えていた。
 ひょんなことから「少年ドラマシリーズ」のムックを上梓したMさんと知り合えて、その旨伝えると「じゃあ、〇〇さんと打ち合わせしますか」と目の前で電話してあっというまに日時が確定したというわけ。
 「なぞの転校生」の主人公を演じた俳優さん。特撮ファンにはウルトラシリーズで顔と名前を覚えた。
 「ウルトラセブン/円盤が来た」「怪奇大作戦/霧の童話」「帰ってきたウルトラマン/怪獣少年の復讐」「ウルトラマンティガ/悪魔の預言」……仮面ライダー世代には「超人バロム1」の少年二人組の一人を演じたことで有名だろう。
 そんな俳優さんを目の前にするのだからドキドキもんだ。

 翌日(つまり今日)は休みなので焼酎のお湯割りをガンガン呑んだ。
 西川口からアパートに帰る間に酔いと眠気が一気にやってきた。
 で、またやってしまいました。寝ながら歩いていて、フェンスに激突! 顔面と右足の膝に激痛が……。今も痛い。腫れている。

 とにかく夏前に少年ドラマシリーズイベントを開催したい。

          * * *

2000/10/11

 「出版クラッシュ? 出版に未来はあるかⅡ」(安藤哲哉・小田光雄・永江朗/編書房)

 本が売れなくなったと言われてどのくらい経つのだろうか。状況はますます悪くなっているようだ。出版業界の人間ではないけれど、やはり本好きな者としてその未来には大いに興味がある。
 本書は、元〈往来堂〉店長・安藤哲也、出版社経営者の小田光男、出版仕掛人の永江朗の3人が現在の出版業界、書店業界が抱えるさまざまな問題、果たして書店、出版社、取次は崩壊するのか、どうすれば再生できるのかについて熱く語る〈超激震鼎談〉をまとめたものである。

 副題に「出版に未来はあるかⅡ」とあるので、前作があるのだろうが、僕は知らない。羽田図書館に行ったら新刊コーナーにおいてあった。
 本が読まれない状況というのがよくわからない。電車やファーストフード店等読書にいそしむ姿はよく目にするもの。が、本が売れないという事実には納得がいくようになった。僕自身が昔にくらべて本を買わなくなったのだから。
 独身時代は読む本すべて購入していた。結婚してからは狭い自宅、当然自分の部屋なんてなく、わりと大きめの本棚があるだけ。それでも増え続ける書籍にかみさんから図書館を有効利用するよう厳命された。
 絶対に手元におきたい本(小林信彦の新刊とか)だけ購入し、あとはほとんど図書館を利用する。本が自分のものにならないというデメリットはあるが、これで読書量が増えたのは喜ばしい。
 買ってまでも……と思われる本、評判のハードカバーミステリなどすべて図書館で調達できる。人気の高い本は順番待ちで読むまでにけっこう時間はかかるけれど。で、どうしても手元におきたい本だけ文庫になったときに購入するという方針。

 最近書店がつぶれる話をよく聞く。
 本書でも話題になっている関西の某有名書店が倒産したと知ったときは驚いた。わが町川口でも老舗の岩渕書店が倒産した。(丸井インテリア館の後に書泉ブックドームができては仕方ないか。)
 通りの何の変哲もない、おまけにいつも客のいない小さな書店を見るたびに、儲かっているのかなあ、と心配になってくる。
 僕の理論なのだが、文具と書籍を扱っている書店は本の品揃えという点でまったく面白みがない。雑誌と新刊と文庫があるだけで、思わず手にとってしまう本がない。オリジナルティが感じられないのだ。立ち読みが趣味の僕としてはこれはつらい。
 それが何故なのかというのを本書で知った。棚をプロデュースするという行為があるかないか。
 〈往来堂〉はそのプロデュースを徹底的にしている書店だという。ジャンルを超えて関係書を同じ棚に並べ、つい手にとってしまう(ブックサーフィンというやつ)憎い演出をしている。
 出版業界の抱える問題の解決について門外漢の僕が考えたって仕方ない。それより千駄ヶ谷にある<往来堂>に行きたくて仕方ない今日このごろである。


2000/10/13

 「4U」(山田詠美/幻冬舎文庫)

 食わず嫌いシリーズ第2弾。(第1弾は柳美里の「命」。)

 山田詠美が「ベットタイムアイズ」で鮮烈にデビューし文藝賞を受賞してもまったく関心がわかなった。
 好きな神代辰巳監督が映画化(主演・樋口加南子)されても観る気もしなかった。
 女性の奔放な性のあけすけな描写、黒人とのセックス模様というものに嫌悪感、とまではいかないまでも自分とは関係ない世界とわりきっていた。以来発表する作品が話題になり、若い人、特に女性たちに絶大な人気を誇っているのを不思議に思いつつも確かめることはなかった。

 小説にエロティシズムを求めていなかったということもある。また、いい年して恋愛小説もないだろうという気持ちが常に意識のどこかにあった。いわゆる恋愛映画も類いも、二十代になってからは観ることがなくなった。独身ならばいざ知らず他人様の恋愛模様を読んで(観て)どこが楽しいのかという思い。特に山田詠美のそれは黒人やSMといった特殊な世界を扱っていて(と勝手に思い込んで)、今日まで手にとらなかったというわけである。

 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、友人が「面白いから読んでみて」」と貸してくれたのが本書「4U」と「A2Z」の2冊。タイトルからして何やら記号みたいで僕にしてみれば興味の対象外といった感じなのだが、昔から人に薦められた本はほとんど読む方針だから仕方ない。とりあえず文庫本の「4U」から読み始めた。

 ほんとに食わず嫌いでした。
 さまざまな恋愛の形をスケッチした短編集である。これがなかなかいける。恐れていた小説に対する反発というものはなかった。それより山田詠美の作品がなぜ読まれるのか、女性たちに支持されているのかわかった気がした。
 ときどきハッとする、心に響く、あるいはひっかかる表現が豊富なのである。
 たとえば表題作「4U」の冒頭は「男が長いことつかっていたバスタブの残り湯は、はたして、スープか。」だもの。最初からカウンターパンチをくらった感じ。

 どこにでもいそうな26歳の女性が友人との男とセックスに関する会話の中で自分の恋人(これまた街でみかける今風の男)との関係を再認識するたわいのない物語なのだが、この会話がけっこうこちらを刺激してくれる。
「私たちだって、男ってさあ、とかいうじゃん」
「そうよ。でも、それって、自分の知っている男のことでしょ。女ってさあ、と言えばそれは自分のまわりの女のことでしょ」
「私、本当に愛しているかどうかって、みじめな自分をその人の前で許せるかどうかにかかっていると思うの」
 恋愛とセックスの真実(らしきもの)を言いあてた言葉が何気なくでてくるところが魅力だろうか。これは主人公も設定もまったく異なる収録されているすべての短編に共通している。
 ちなみに「4U」とは「for you」のこと。


2000/10/19

 「A2Z」(山田詠美/講談社)

 30代半ばのともに純文学の編集に携わっている夫婦の何とも奇妙な愛の物語、といえようか。
 夫は若い愛人を作り、しかし妻とは別れないと宣言する。妻(本作のヒロイン)の方も会社の前にある郵便局に勤める若い男と恋仲となり、男の部屋へ通いつめる。均衡が保たれていたかのように見えた4人の関係も、ヒロインの郵便局員への精神的肉体的依存が高まるにつれ、徐々に崩壊していく。
 なんて書くと、ドロドロとした男女の痴話の修羅場が展開しているようで「うへっ」てなもんだが、実際はもっとさらりとしていて、さわやかな印象を受ける。
 「命」(柳美里)の作者と愛人の不倫関係にはたまらなく嫌悪感を抱いたけれど、同じような関係を描く本書にはまったく違う印象を受けたのが何とも不思議だった。ノンフィクションとフィクションの違いだろうか?
 かつて十代から二十代にかけて、彼女との(セックスを含めた)恋愛に似た感情を、ヒロインの若い愛人への思いに感じてしまい、かなり共鳴してしまった。ある種ピュアな部分を見出せたからかもしれない。  

 タイトル「A2Z」は〈fromAtoZ〉を意味する。全体をアルファベット文字数の26に分けて章立てし、各タイトルにAからZのアルファベットを冠す。各章の中でAからZまで1つづつ、その頭文字をもつ言葉をちりばめているという構成だ。

 出版社に勤める夫婦が主人公ということから、有能な編集者がどのように若い才能を見つけ開花させるか、というような〈メーキング・オブ・ブンガク〉の体裁も持っていて編集に興味を持つ者としては興味深い。

 「香水は男をパブロフの犬にする」の台詞にうなづくことしきり。




2000/08/15

 「クリムゾンの迷宮」(貴志祐介/角川ホラー文庫)

 貴志作品の中で唯一未読だった「クリムゾンの迷宮」をやっと読む。

 貴志祐介が発表する作品のジャンルの多様さには驚くばかりだ。
 最新作「青い炎」をのぞく貴志作品はジャンルとしてはホラーと分類されるがそれぞれが違ったアプローチで作品世界を構築している。

 デビュー作「十三番目の人格」は心理学をベースに多重人格少女の各人格が名前によって性格づけられているという解釈で彼女に巣食う邪悪な人格と対峙する女性カウンセラーの活躍を描くオカルト風ホラー。類似した事件が起きたことでマスコミにも注目されたベストセラー「黒い家」は異常性格者の保険金詐欺に巻き込まれる保険会社社員の恐怖を描いたサイコホラー。続く「天使の囀り」は人間が持つトラウマとアマゾンの風土病を結びつけた奇怪な変身譚ともいうべきSFホラー。ミステリ的味付けもいい。
 最新作「青い炎」は倒叙ミステリで17歳の高校生による殺人の完全犯罪、その綿密な計画と実行そして破綻を描き、斬新な青春小説に仕上げた。
 どの作品もリアルな状況設定、綿密な取材(幅広い知識)、ストーリーテラーとしての抜群の巧さで物語を語り、読者を作品世界に一気に引きずりこんでしまう。

 「黒い家」のあと、文庫書き下ろしとして上梓された「クリムゾンの迷宮」はこれまでの作品とは一線を画す。
 内容はRPGというか十数年前に大ブームになったゲームブックの世界を現実化したらというある種のシミュレーション小説、真のサバイバルゲームそのものを扱った冒険小説だ。
 何者かによってオーストラリアの平原に連れて来られた男女9人が4つのチームに分かれ携帯ゲーム機の指示によってゴールをめざす。しかしそれは単なるゲームではない。ゲームブック「火星の迷宮」のストーリーをなぞるかのような参加者にとって生死をかけたゼロサムゲームだったのだ。主人公は果たして無事ゴールすることができるのか?

 主人公を倒産した証券会社(モデルは山一証券だろう)の元社員という〈今〉を感じさせるキャラクターにしたり、サバイバルに関する知識を散りばめたりと貴志らしさを発揮しているけれども世界そのものはまったくリアリティはない。
 そんなことは百も承知のうえ、与えられた状況設定下でいかに物語を語るか、自身のストーリーテラーの資質を試しているような小説である。

 で、見事にこれがおもしろい。
 TVゲームにほとんど興味がない、だいたい「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」等のRPGの魅力もわからない、当然ゲームブックにもまったく関心を示さなかった僕だけれど、こういう小説になると俄然次の展開が気になってしょうがなく夢中でページをめくった。

 このゲームを主催したのは誰なのか、目的は何なのか、主人公と行動をともにした女性は何者だったのか、物語に提示された謎はラストで主人公の想像という形でほんの少し謎解きをするがあまり多くを語らない。うまい結末だと思う。へたにすべての真相を書いてしまうと、それこそ世界が嘘っぽくなるおそれがあるし、謎を謎のまま残しておく方がこの小説の場合余韻を与える。

 「黒い家」や「十三番目の人格」よりこういう作品の方が映画化に適していると思うのだが……あっ、設定はまったく違うけれど「キューブ」はまさしく同種の映画だった。


2000/10/28

 「家族狩り」(天童荒太/新潮社)

 ベストセラー「永遠の仔」の前に、その残虐描写で話題になったミステリ。
 前々から読もう読もうと思いつつ、図書館に行っても棚にあったためしがなく果たせなかった。リクエストすればいいのだけれど、残虐描写という部分に気が引けていたのだ。
 実際どんなストーリーかも知らなかった。読んでみて驚いた。幼児虐待、児童虐待をテーマに深く重い感動を呼ぶ「永遠の仔」の前に書かれるべくして書かれた内容で、世間を騒がせて久しい思春期の少年少女の引きこもりや家庭内暴力、その結果の子殺し、親殺しの問題に真正面から取り組んだミステリである。
 作者自身がかつて経験したとしか思えない切り口で、いったい天童荒太とは何者かと紹介文を見ると、二年の歳月を費やして精神医学の先端を極めた著者が処女作以来のテーマを全面展開した地獄絵サスペンス、とある。

 引きこもりの息子による家庭内暴力に苦しんでいる夫婦がのこぎりで惨殺され、息子が自室で自殺する事件を発端に、さまざまなトラウマを抱える人間たちが複雑に絡みあう展開に目を見張る。
 現場の発見者である美術教師・浚介、浚介に乱暴されたと嘘をつく女子高生・亜衣。学校でのイジメによって徐々に精神を病んでいく亜衣と亜衣の絵に対する非凡な才能を見つけた浚介との関係。
 惨殺事件は息子による無理心中との署の見解に異を唱える刑事・馬見原と、かつて馬見原に夫の息子への虐待を救ってもらった綾女の不倫関係。馬見原は自慢の息子に死なれてからというもの娘の非行、妻の精神障害と家庭が崩壊、出世コースからはずれてしまった刑事で、結婚した娘とまだ和解できずにいる。
 馬見原の娘が非行に走っていたころに世話になった〈児童相談センター〉の游子。家庭内暴力、引きこもり問題に真剣に取り組んでいる游子と役所的な仕事では家族は救われないと自宅で私設の〈家族の教室〉を主宰する大野夫婦の反目関係。
 それぞれが抱える問題や悩みが浮き彫りにされていく中、両親は焼殺、息子は自殺という第二の事件が起こる。
 前半は事件には真犯人がいるのか、いるのなら誰が犯人かという興味でひっぱり、犯人を読者にわからせた後半はその犯行動機をきっちり描き、第3の殺人へかりたてられる様子、それを阻止する馬見原たちの活躍が描かれる。
 同じ町の住人とはいえ、あまりに重なりあう偶然が気になるが、各人がクライマックスで一つの事件に集約されていくくだりに手に汗をにぎった。現実の問題とミステリの醍醐味が見事に合致している。

 1977年、僕が高校3年だったときに〈開成高校殺人事件〉が起きた。一人息子の家庭内暴力に苦しんだ両親が息子を絞殺、心中をはかろうとしたが果たせず、自首した事件である(後に妻が自殺してしまった)。当時はそれほど関心があったわけではない。90年代半ばに全国で少年たちの暴力、殺人事件が頻発して、人の親にもなっていたし、少年たちの心理はいったいどうなっているのかと読んだのがこの事件ともう一つ79年に起きた祖母を殺してマスコミあてに遺書を残して自殺した高校生の事件を取材した本多勝一のルポルタージュ「子供たちの復讐」だった。
 後頭部を石でなぐられたようなショックと進退窮まって家庭内暴力に走る、あるいは祖母を殺す高校生の心情が痛いほどわかった。

 この手の事件はその後もたびたび起きて世間を騒がせた。確か埼玉だったと思うが、教育者夫婦が息子を殺し、自首するが、夫婦をよく知る人たちが減刑嘆願の署名運動を起こした。
 本作に登場する大野夫婦はこのふたりをモデルに、愛情をそそいで育てた息子を殺さざるを得なかった親の心情をフィクションに仕立て上げた作者の手腕にはただただ唸るしかない。




 前々項から続く

 映画鑑賞後、新文芸坐を後にして、上野に向かう。
 上野の森美術館では「生賴範義展」を開催しているのだ。
 この展覧会にはぜひとも行こうと思っていて、最終週にやっと足を運んだというわけだ。

 生賴範義というイラストレーターの存在を知ったのはいつだろうか?
 「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」のポスターか、1984年の復活「ゴジラ」のポスターか。
 はっきり憶えていないが、どちらにしても生賴の名前が読めなかったことは確か。生賴を〈おうらい〉と読むと知ったのはずいぶん経ってからである。当時はあくまでも〈生賴範義〉という文字で認識していた。

 80年代は平成ゴジラの新作が発表され、生賴範義のイラストを使ったポスターを目にするたびにワクワクしていた。
 思えば、平成ゴジラシリーズは、生賴範義のイラストのイメージを超えるヴィジュアルを見せてくれることがなかった。
 「テンタクルズ」「メテオ」のポスターに騙された人って多いんだろうなあ。

 会場に入ると、文庫本のピラミッドが出迎えてくれた。すべて生賴範義のイラストカバーの文庫本だ。そして映画のポスターの数々。
 次のコーナーから原画の展示となる。
 平成ゴジラ、スター・ウォーズ、小松左京や平井和正のブックカバー、SFアドベンチャーの表紙等のイラスト(の原画)はもちろんすごいのだけれど、個人的には黒一色のペン画に圧倒された。

 このまま続けます

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 前項の続きではなく、7日に観た「デヴィット・リンチ:アートライフ」について。
 16時30分の回だったのだが、案の定、睡魔との闘いだった。
 リンチ監督の思想がどうのこうのなんていい。
 まあ、母親の絵に関する教育(?)やリンチ青年の絵を見た父親の助言等印象的ではあったが。それよりリンチの創作過程に職人フェチの心がうずく。
 で、感想なのだが、リンチ監督の気質からというと、まったくお手上げだった「インランド・エンパイア」こそ一番〈らしい〉映画なのかもしれない。

     ◇

2002/03/08

 「マルホランド・ドライブ」(シネ・ラ・セット)  

 週刊文春の映画評の中で一番信頼している品田雄吉のこの映画に対する短評が「ぐいぐい引き込まれる。が、いつの間にか訳がわからなくなる。面白く見てしまうが、こういう収束でいいのだろうか」。
 面白いけれどわけがわからないなんてことがあるのだろうか? 途端に興味津々となっていたところ、友人から観に行かないかと誘われた。  

 特にデビット・リンチ監督のファンというわけではない。  
 大ヒットした「エレファントマン」は世間のヒューマニズム云々という評価に反発した。「ツイン・ピークス」ブームにはわざと無関心を装っていたところがある。「ストレイト・ストーリー」がリンチ作品であることすら知らなかった。ただし「ブルーベルベット」はビデオで観ている。妖しい官能的な世界って心惹かれるのだ。「マルホランド・ドライブ」はミステリに官能性を付加したところがミソだろうか。  

 「ツイン・ピークス」同様、もとはTVシリーズの企画だった「マルホランド・ドライブ」はリンチの思い入れむなしく結局日の目を見ず、フランス資本を導入して映画として完成された。だから映画に登場する女優たちのファッションセンスが「フレンチ」なのか。  

 オープニング、フィフティーズの音楽に乗って、何重にも合成されたダンスを踊る男女のタイトルバックから一風変わっていた。まるで不思議世界へ誘う儀式のようだ。  
 深夜のマルホランド・ドライブを走る1台の乗用車。後部座席には黒髪の妖艶な女性(ローラ・エレナ・ハリング)。突然車が止まり、運転手が振り向きざま女性に銃を突きつける。と、猛スピードで曲がりくねった道を疾走してきた車が激突! 大破した車の中から頭に怪我を負い、意識の朦朧とした女性が出てきたかと思うと、フラフラしながらに眼下に見える街へ降りていく。  
 翌朝、野宿した女性が目を覚ます。ちょうど目の前のアパートから老婦人が出かけるところだった。老婦人の目を盗んで部屋に忍び込む女性。  

 スリリングな導入部である。女が何者で、なぜ車に乗っていたのか、どうして命を狙われたのか? 部屋に忍び込んだ理由は? いくつもの謎が提示され、もう映画の進行にくぎづけになってしまう。  

 もう一人女性が登場する。ブロンドのショートカットで快活そうなベティ(ナオミ・ワッツ)がオンタリオから老婦人のアパートにやってくる。老婦人はハリウッドの有名な女優であり、ベティの叔母。女優志望のベティは叔母が留守にしている間部屋を借り、セッティングしてくれたオーディションを受けるため希望に胸膨らませてハリウッドにやってきたのだった。  
 当然部屋の中で謎の女性と鉢合わせする。名前を訊かれた女性は壁に貼られた古い映画のポスターを見て「リタ」と名乗る。が、すぐに事故により記憶喪失になっていることを告げる。手にしているバックには大金と鍵が入っていた。いったい自分は誰なのか。不安で泣き崩れる「リタ」。ベティは「リタ」を部屋に住まわせ、彼女の素性を一緒に調べようと申し出る。  
 「リタ」の怪我が深夜のマルホランド・ドライブでの事故が原因であることを警察に電話して確認した二人がレストランでコーヒーを飲んでいる時のことだ。ウェイトレスの名札「ダイアン」に「リタ」は反応する。思いだしたフルネームを電話帖で調べてみると街に一人しかいない。このダイアンが「リタ」かもしれない! 誰もいないと言われたダイアンの家に忍び込むふたり。寝室で二人が見たのはベッドに横たわる朽ち果てた女性の死体だった……。  

 映画にはそのほか、若者がレストランの裏庭で何かが潜んでいる、夢で見たと主張し実際に襲われたり、シーナ&ロケットの鮎川誠似の新進映画監督やマヌケな殺し屋のエピソードが挿入される。  
 映画監督は次作の主演女優をある組織の圧力で勝手に変えられ、怒り狂って自宅に帰ると奥さんが浮気の真っ最中、間男と喧嘩になって逆にやっつけられてしまって逃げ出すはめに。組織に呼び出され、オーデションでは「カミーラ」という名の女優を選出しろ、と1枚の写真を手渡される。それがベティなのだ。
 殺し屋は一人を殺せばいい仕事をヘマをして目撃者2人も殺さなければならいないドタバタを繰り広げる。

 死体を見つけ、動揺する「リタ」、なぐさめるベティ。
 同情が〈愛〉に変わり、二人は結ばれるのだが、豊満な肉体の「リタ」と華奢なベティの、大小の乳房が揺れるレズシーンに欲情。  
 敵の目から「リタ」をカモフラージュするため、ベティ同様のブロンドのボブ風ヘアのかつらをつけた「リタ」に目を見張った。肩にかかる黒髪のリタは、確かに美人なのだろうが、どのパーツも大きすぎて僕の好みではない。ところがブロンドのショートヘアになった「リタ」のキュートなことといったらない。胸キュン! 一目惚れとはこのことだろう。  

 変身したままベッドに横になった「リタ」が、深夜うなされて目をさます。心配そうに見守るベティを連れ、とある劇場に連れて行く。そこは深夜にもかかわらず大道芸みたいな公演を開催していた。女性歌手が登場して哀しいラブソングを熱唱すると客のまばらな席の片隅でふたりは涙を流している。この時の「リタ」の表情がたまらない。ここは映画の中で屈指の名シーンだ。  
 歌が終わると二人は奇妙な箱を見つける。急いで部屋に戻り、「リタ」はバックから鍵をとりだした。ベティの方を振るかえると、いない。鍵を差し込んで箱を開けた瞬間「リタ」も消えた……。  

 その後映画は解決編になる。とはいえ、デビット・リンチのことだから一筋縄でいくわけがない。  
 二人が消えたとたん、時制がさかのぼり、死体で発見されたダイアンの話になる。なぜダイアンが死んだのかをダイアンの立場から描くのである。

 【これから映画を観ようとする方は、以下を読まないでください】  

 ダイアンは内気な、ちょっとみすぼらしい女優志望のレスビアン。相手は「リタ」である。ここではカミーラと呼ばれている女優。ダイアンとカミーラは相思相愛の仲だったはずなのに、最近カミーラの様子がおかしい。誰かいい人ができたらしい。ふたりの関係を解消したいと言われた。カミーラは映画の主役にも抜擢された。ダイアンは不安にさいなまれる。  
 ある日、ダイアンはカミーラにパーティーへ誘われた。会場までカミーラが手配した車で来てくれと。ダイアンを乗せた車はマルホランド・ドライブを走る。まるで映画の冒頭の「リタ」と同じシチュエーション。車が突然停車する。殺されるのではないかとびくつくダイアン。山道からカミーラがやって来た。「ここから歩いた方が近道なの」。  
 連れて行かれたところは豪邸で、すでにパーティーは始まっていた。あの映画監督が二人を出迎えた。カミーラはダイアンに見せつけるように監督と熱いくちづけをかわす。嫉妬。
 
 カミーラと監督を囲んで和やかにパーティーは進む。監督の母親は何とアパートの管理人である。監督がカミーラとの関係でみんなに発表しいたことがあると言う。愕然とするダイアン。カミーラが結婚してしまう!
 例のレストランで男と密談するダイアン。男はあのマヌケな殺し屋である。ダイアンは男に〈仕事〉を依頼する。「報酬はこれ」とバックを開くと中に札束が見える。叔母が死んで遺産が手に入ったのだとか。まるで「リタ」のバックと同じ。男は〈仕事〉が終わったら、これを見えるところに置いておくと鍵を差し出す。「リタ」のバックに入っていた鍵である。席にやってきたウェイトレスを見上げると、名札にベティと書かれてあった。レジにはレストランの裏庭に何かが潜んでいると主張していたあの若者がいて、ダイアンの方を見ている。
 
 数日後、部屋に帰るとテーブルの上に鍵が置かれていた。泣き崩れるダイアン。  
 すべてを清算したはずなのに、日増しに罪悪感、絶望感がダイアンの心を締めつけていく。生活は荒れに荒れた。ヤクにも手をだしたのかもしれない。幻影に正常心を失ったダイアンはとっさにベット横の引出しからピストルを取り出すと、こめかみに向けて引き金を引いた……  

 観終わって、ひとつ気になることがあった。ベティとダイアンは同一人物なのか否か。似ているのだが、まるで印象が違うのである。もし同一人物ならなんとなくではあるが、意味はわかる。わかるけれど、謎が謎のままだし、新たな謎が提出されたりといろいろひっかかってくる。わけがわからないのもうなづけるのだ。  
 さっそく友人に聞くと、やはりベティとダイアンは同一人物だとのこと。
「リタとベティの話はすべてダイアンの夢なの。自殺したダイアンがこうあってほしいと願った夢」  
 この言葉で頭の中の霧が一気に晴れた。そう、そう、ダイアンの夢とするなら、ほとんどすべての疑問が解消される!  

 ダイアンは田舎から女優なることに憧れてハリウッドにでてきた単なる田舎娘。本当は女優の叔母なんていない。田舎の叔母が死んだことで遺産を手に入れて、それをハリウッド行きの資金にあてたにすぎない。女優の才能なんてなく、いつもオーディションに落ちてばかり。自分の容姿に劣等感を持っていたかもしれない。
 
 数あるオーディションで知り合ったのが魅力的なカミーラだ。いつしか二人は愛し合うようになる。都会人のカミーラにすれば、田舎娘のうぶなところが気に入ったにすぎず、ほんの気まぐれだったのかもしれない。だいたいカミーラはバイセクシャルなのだ。女優への切符を手に入れた。才能あふれる新進の監督との結婚も決まった。ダイアンは邪魔な存在でしかない。  
 うぶなダイアンは心の底からカミーラを愛していた。彼女の容貌、才能、すべてが憧れだった。彼女に捨てられたら生きていけない。だから映画監督との結婚が決まった時、彼女を殺してしまおうと決心した。そこで町のチンピラを雇い、叔母の遺産の残りを報酬にした。  
 その過程の中でダイアンが目にしたもの、印象的だったものが、夢の中に登場し、あるものは理想化され、あるものは歪曲され、ダイアンにとって都合のいい物語が形成されたのである。  

 有名な女優を叔母にもつ「ベティ」という自分。才能が豊かで性格も明るい、優しい心を持った女性。カミーラに対する優位性。カミーラには自分がそうされて勘違いしたようなシチュエーションを与えてやる。車に乗せられ途中でピストルをつきつけられる。でも殺さない。傷ついたカミーラを助けるのが「ベティ」の務め、贖罪なのだ。  
 カミーラを自分から奪った憎き映画監督には罰を与えねばなるまい。女に裏切られればいい。そして「ベティ」の方に振り向かせたい。オーディションでその演技力が絶賛された「ベティ」を彼の映画の主役に抜擢させたい。
 なにより「ベティ」はカミーラと同化したいのだ。それも「ベティ」がカミーラになるのではなく、カミーラを「ベティ」みたいな女性に変身させる。カミーラが変身してうっとりしているところを眺めたい。
 ダイアンが自殺する直前の夢なのか、死んだ後の魂の夢なのか、それはわからない。しかし夢と仮定すると、映画にでてくるつじつまの合わないエピソードがぴたりと合致するのである。
「もしかすると、ダイアンとカミーラはそれほど深い仲ではなかったの。あくまでもダイアンの一方通行の想いということも考えられる」  
 確かに。  

 「シックスセンス」はラストで驚愕の事実(って、すぐにわかったけど)が判明して、もう一度始めから観たくなる。この映画はそれ以上に始めから確認したくなる。観るたびに新しい発見がありそうな気がする。いやそんなことはどうでもいい。金髪のローラ・エレナ・ハリングを見られるだけで幸せなのだ。彼女がアップのポストカードを思わず買っちゃったもんね。  
 次はいつ観に行こうかな。


2007/08/19

 「インランド・エンパイア」(チネチッタ川崎)

 デヴィット・リンチ監督の前作「マルホランド・ドライブ」は巷間言われるような難解な映画では決してなかった。ある一つのキーさえ押さえれば、全体像がくっきり浮かびあがり、合点のいかない点がすべて納得できる仕組みになっていたのだ。
 なんて偉そうなことはいえないな。友人の、的を射たサゼスチョンのおかげだったのだから。理解できなかったとしても映画として十分面白かった。

 リンチ監督の新作が公開されることを知ったときは胸が躍った。なにしろまたハリウッドを舞台にした謎が謎を呼ぶ迷宮ドラマだというのだ。
 受けてたとうじゃないかリンチくん。バラバラに崩されたパズルをきちんと元の場所に戻しながら、すべてを解明して、優越感に浸りたい。気分はシャーロック・ホームズか金田一耕助ってな感じ。裕木奈江が出演することも楽しみの一つだった。

 玉砕だった。まったくのお手上げ。

 町の実力者を夫に持つ女優(ローラ・ダーン)が引っ越しの挨拶にきた怪しい老女の予言どおり新作映画のヒロインのオーディションに合格する。撮影スタジオの片隅で相手役の俳優(ジャスティン・セロウ)とともに監督(ジェレミー・アイアンズ)と打ち合わせしていると、意外な事実が告げられた。この映画の脚本はかつて映画化されたのだが、主演二人が急死に追い込まれて撮影が中止されてしまったのだと……。

 ミステリアスに始まった映画は、その後さまざまなエピソードが入り乱れ錯綜していく。映画内映画、かつて撮影されたフィルムの一部(?)、女優の、あるいはほかの誰かが垣間見た幻想、ピーターラビットよろしくウサギの着ぐるみ(仮面)をつけた男女三人のワンシチュエーションコメディらしき前衛劇……。
 豪華な邸宅で執事や召使いを使い、何不自由ない生活を送っていると思われた女優がいつのまにか、貧しい哀れな女性に変化している。俳優との逢引きを亭主にのぞかれていて、いったいどんな報復が待ち受けているのかドキドキしていると、これまた俳優の愛人という立場に様変わり。こちらが真実なのか、セレブな女優は幻想なのかと考えを改めると、やっぱり映画内映画の一部だったり。
 その上、過去と現在、あるいは未来が交錯しているのだから途中でもう何がなんだかわからなくなった。理解することを放棄し、与えられる情報だけを楽しもうとしたら、これがまたやたらと長い。

 今回は本当にラビリンスに迷い込んだ感じ。映像も妙にフラットで思ったほどのめり込めない。
 3時間は長かったが苦痛ではなかった。といった程度だったのだが、ラストで予期せぬ高揚感が!
 まるで舞台のフィナーレだった。「マルホランド・ドライブ」のローラ・エレナ・ハリングが登場してきて心が弾んだ。その後のソング&ダンスの華麗さに唸った。
 内容はお手上げだったが、自分なりに理解したのは、以下のとおり。

 ・前作に比べ非常に低予算で仕上げたのではないか
 ・たぶんビデオ撮影である
 ・ジャパニーズホラーの影響がみられる
 ・ストーリーよりローラ・ダーンの顔の変化を楽しむ映画かもしれない
 ・裕木奈江はNAEでクレジットされていた
 ・リンチ監督に一度ミュージカル(あるいは音楽)映画を撮らせたらどうだろう?

 リンチ監督、「マルホランド・ドライブ」はしっかり下書きをして、効果を考慮しながらきちんと色彩をほどこした。で、完成した絵をバラバラにして再構成した。
 でも「インランド・エンパイア」はほとんど下書きなしで、好き勝手に色を塗り、ああでもないこうでもないと筆を動かし、しまいに自分でも何描いているのかわからなくなったのではないか?
 友人の解説に得心できる。




 今年になって、水曜日に映画鑑賞が集中している。
 昨日(7日)は、映画のはしごでなんと3本観た。
 午前中はラピュタ阿佐ヶ谷のモーニングショーで「警視庁物語 聞き込み」、昼食後、またラピュタで「強虫女と弱虫男」。新宿へ移動して夕方からシネマカリテで「デヴィット・リンチ:アートライフ」。
 1日3本なんて何十年ぶりだろうか?

 先週の水曜日(31日)は新文芸坐で「あなたと私の合言葉 さようなら今日は」&「氷点」の2本立てを観た。

 新文芸坐では1月28日から2月9日まで「大映女優祭in新文芸坐 百花繚乱」を開催している。
 大映映画といえば市川崑監督作品である。「女経」「穴」「あなたと私の合言葉 さようなら今日は」がラインナップにあった。「女経」は昨年観ている。「穴」もずいぶん前にビデオで観ているが、ぜひともスクリーンで再鑑賞したいと思った。
 ビデオで観たのは「黒い十人の女」のリバイバルでちょっとした崑映画ブームになったときだ。個人的には「黒い十人の女」より何倍も面白かった。ヒロインを演じた京マチ子が魅力的で、当時の銀座等の街並みに胸躍った。ある種のドキュメンタリーと観ていたところもある。
 しかし、この名画座は日替わり上映。「穴」は仕事で観られなかった。

 ラピュタ阿佐ヶ谷、神保町シアター、シネマヴェーラ渋谷といった名画座は特集上映では同じ作品を一週間上映し、上映時間を毎日変更している。これなら週のどこかで目当ての作品を押さえることができるのだ。
 新文芸坐もこういう上映システムにしてもらえないものか。

 「穴」と「足にさわった女」(市川崑監督作品を増田保造監督がリメイクした作品)のカップリングは日にちの関係で観られなかったが、「あなたと私の合言葉 さようなら今日は」は31日(水)なので、喜び勇んで朝一番池袋に駆けつけた。併映は「氷点」。

 Lampのメンバーが1980年代前半の8㎜映画「今は偽りの季節」の映像に興味を持つということが、僕自身が1950年代~60年代前半の日本映画を観ると理解できる。「あなたと私の合言葉 さようなら今日は」がまさにそうだった。この映画の公開は1959年。僕が生まれた年である。この時代の映画はストーリー(ドラマ)は二の次になって、風景やセット、小道具に目を奪われてしまうのだ。

 映画は愉快痛快だった。
 冒頭からしばらく続く台詞の応酬がニヤニヤできる。イントネーション、リズムが独特なのだ。
 クレジットで知ったのだが、原作は久里子亭が平凡に連載した小説(?)。当時の久里子亭は市川崑と夫人の和田夏十の共同ペンネームだから自身の原作を脚色(船橋和郎と共同)して映画化したもの。当時は映画(脚本)以外の仕事もしていたんだ。まあ、実際に連載を書いていたのは奥さんの方だろうけれど。
 キャストが適材適所で、特にヒロイン(若尾文子)の友人で大阪で老舗の料理店を営む女将(京マチ子)の、血のつながらい兄を演じる船越英二が最高。
 この映画を今リメイクするならヒロインは石原さとみだろうか。

 「氷点」は昔からストーリーは知っている。
 朝日新聞の懸賞小説(賞金は1,000万円!)で見事入選して新聞に連載された。
 幼い娘を殺された医師夫婦が娘を殺した犯人の生まれたばかりの娘を養女にして育てる、夫婦、親子、母娘、兄妹の愛憎劇。
 僕は内藤洋子の主演のドラマ(1966年)で認識している。観たことないけれど。調べてみるとドラマが始まって少し遅れてこの映画が公開されている。ベストセラーを同時期にTVドラマ化、映画化したというわけか。

 医師夫婦が船越英二と若尾文子、ヒロインに安田道代(後の大楠道代)、兄は山本圭、恋人(?)は津川雅彦。船越英二はミスキャストだったのではないか。その前に「あなたと私の合言葉 さようなら今日は」を観たから余計にそう思う。船越の友人医師を演じた鈴木瑞穂が印象的。若かりし成田三樹夫にムフフ。
 ラストの決着のつけ方に、「氷点」ってこういうストーリーだったのか! と膝を打った。

 【追記】
 ヒロインの兄役の少年時代は年齢に合わせて何人かの子役が演じている。一人がホシノくん(「ウルトラマン」)、もう一人が悪魔くん&大作少年(「ジャイアント・ロボ」)だった。

 この項続く




2000/08/13

 「放送禁止歌」(森達也/デーブ・スペクター監修/解放出版社)

 昨年の5月、フジテレビで放送禁止歌を追及したドキュメンタリーが放送され、番組の中で当の禁止歌を流した、ということを知ったのは週刊文春の記事だった。
 文春の記事は代表的な放送禁止歌の何が放送コードにひっかかるかについて簡潔にまとめられていた。
 記事の中で特に注目したのは赤い鳥のヒットで有名になった「竹田の子守唄」に言及した部分。「竹田の子守唄」の歌詞にでてくる〈在所〉という言葉が部落をさしていて、それが放送コードに触れると書かれてあった。

 「竹田の子守唄」が京都の同和地区の伝承歌だと知ったのはだいぶ前だが、歌そのものをレコード化できない、コンサートで勝手に歌うと同和団体からクレームが入る、ということを教えてくれたのは赤い鳥のリーダーで紙ふうせんになってからもずっと「竹田の子守唄」を歌い続けている後藤さんだった。
 確かに90年代になって赤い鳥のアルバムがCDで復刻されたが、同曲が収録されているものは発売される気配がない。驚いたのは同曲のメロディに別の詞をつけた「人生」が収録されているデビューアルバム「FRY WITH THE REDBIRDS」のCDがリリースされた際には何と「人生」だけがカットされていたことだった。

 転機になったのは一昨年だろうか。赤い鳥の全シングルを集めた2枚組のCD「赤い鳥シングルス」がリリースされ、これには「人生」も「竹田の子守唄」もちゃんと収録されていた。(ちなみに今年5月にリリースされた紙ふうせんの久々のアルバムにも新しい歌詞を追加し新録音した「竹田の子守唄」が入っていて、これは必聴)

 文春の記事の元ネタになったのが本書であり、著者はドキュメンタリー「放送禁止歌 唄っているのは誰? 規制するのは誰?」を企画・演出した森達也。番組のメイキングの形をとりながらより深く〈放送禁止歌〉に言及している。
 「手紙」(岡林信康)、「自衛隊に入ろう」(高田渡)、「黒いカバン」(泉谷しげる)「悲惨な戦い」(なぎら健壱)等々、懐かしい歌が登場してくる。
 北島三郎のデビュー曲が「ブンガチャ節」といって放送禁止歌だったというのを初めて知った。山平和彦の、そのものずばりの「放送禁止歌」の歌詞には衝撃を受けた。四字熟語を集めた漢字だらけの一見意味不明の歌詞に見えて、実は前の熟語を後の熟語が否定あるいは揶揄する内容になっている。

 思わず購入してしまったのは最後の第4章をまるまる「竹田の子守唄」研究に費やしていることによる。
 世に出ている〈フォークソング史〉〈フォークソング研究〉本では簡単に扱われてしまう赤い鳥や紙ふうせんが登場し、後藤さんに取材もしている。改めて本のオビを眺めるとそこには後藤さんの言葉が載っているのだ。

 赤い鳥、紙ふうせんファンの僕として著者の「竹田の子守唄」に対する認識には疑問を感じる。本書の中で赤い鳥が「竹田の子守唄」が同和問題に抵触することを知ってから歌わなくなったと書いているが、そんな事実はない。解散間際のライブアルバム「ミリオンピープル」ではしっかり歌われているし、紙ふうせんのセカンドアルバムにも収録されている。だいたい紙ふうせんのコンサートで「竹田の子守唄」が歌われなかったことはないのではないか。
 赤い鳥時代の「竹田の子守唄」のメインヴォーカルは新居潤子(現山本潤子)だった。解散後はハイファイセットとしてファッショナブルな都会風な楽曲しか歌わなくなった(と思う)のでそこらへんのことを聞き間違えて認識してしまったのではないだろうか。

 この章は著者が「竹田の子守唄」の発祥から採譜、レコード化、ヒットした後の状況といった背景を丹念に取材し、また、わかりづらい歌詞の解釈を試みる。
 圧巻なのはエピローグ、後藤さんに電話取材して、後藤さんの「竹田の子守唄」に対する態度、その言葉に胸が熱くなって涙を流すラストである。
「部落にはいい歌がたくさんあります。抑圧されればされるほど、その土地や人々の間で、僕らの心を打つ本当に素晴らしい歌が生まれるんです。歌とはそういうものです。僕はそう確信しています。でもそんな歌のほとんどに、今では誰も手をつけようとはしない。誰も見て見ないふりをしている。だからせめて僕くらいは、これからもそんな歌を発掘して、しっかりと歴史や背景も見つけながら、ライフワークとして歌いつづけてゆきたいと思っています」

 ここまで「竹田の子守唄」に迫った著者には、できることなら電話取材だけでなく、実際の紙ふうせんのライブに足を運んで生の「竹田の子守唄」を聴いて欲しい、と思う。
 ギター1本の伴奏と二人の絶妙なハーモニーよって醸し出される深遠な世界に圧倒されるに違いないからだ。


2000/08/17

 「メディア決闘録(ファイル)」(逢坂剛/小学館)

 「百舌」シリーズの作者がエッセイ集をだした。
 某TV情報誌に連載されていたエッセイをまとめたもので、著者の趣味である映画、ミステリ、古本、スペイン、フラメンコ、大ファンである阪神タイガースについて書き綴っている。

 気軽に楽しく読めて、1日で読了してしまった。
 母高OBたちが結成した〈瀬戸際壮年野球団〉の野球大会の模様が愉快で声をだして笑ってしまう。
 年をとって身体が動かない選手たちがヒットを打つたびに、審判の著者が「全力疾走するな!」と叫ぶ姿がたまらなくおかしい。結局皆が無理するので、しまいには全力疾走するとアウトになるルールができてしまう始末。
 うまくもないのに草野球のチームに所属している僕としても、ここのところ練習ですぐに息があがってしかたない。40歳でもこうなのだから、OBたちの試合の様子が頭に浮かんで、笑ってしまうのだ。
 恩師の引退にちなんでOBたちが母校に集合して最後の授業を催すエピソードは心暖まる。現役時代に早弁を得意としていた人が、授業の最中に弁当を取り出すと著者がちゃんと恩師に告げ口したりと、いくつになっても仲間が集まると当時と同じ感覚になるんだなあと共感し、そんな〈授業〉を企画するOBたちがうらやましくなった。

 ミステリの名作として名高いアイリッシュの「幻の女」に対して、視線がアンフェアだと指摘している。ずいぶん間に「幻の女」を読んでいるのだが、どこについて言っているのかわからない。もう一度読んでみようか。


2000/08/18

 「命」(柳美里/小学館)

 柳美里が苦手である。
 あくまでも個人的な趣味の問題で本人には全く罪がないのは承知のうえで書くのだが、デビュー以来彼女のマスクを見るだけでどうにも虫酸が走ってしょうがなかった。能面のような爬虫類的無表情さが生理的に受けつけないのだ。
 だから柳美里の作品についてもまったく関心がなかった。マスコミで話題になろうが、芥川賞を受賞しようが興味の対象外といった感じ。にもかかわらず本書を読んだのは単に友人に薦められたからという以外の理由はない。
 いや、「命」に著しく動揺させられた高橋源一郎が週刊朝日のコラムで否定した、というのを知ってちょっと内容を確かめたくなったということもあるのだろう。

 先に読破しなければいけない本があって、しばらく本書をツン読状態にしておいたら、本の存在に気づいたカミサンに「どうしたの、コレ?」と訊かれた。いつもTVや新聞の広告で柳美里の写真を発見するたびに嫌がって大騒ぎする亭主がよりによってベストセラーになっている本をもっていたのが不思議だったのだろう。借りた本だと答え、「読んでみる?」を訊くとなんとすでに読んでいたのだった。
 あまりにも出産、育児に対して神経質な著者を笑ってしまったという。何事も完璧にこなさなければいけないと思って、思いどおりにならないと悩んでしまう姿が滑稽だったと。一般人ならわかるけれど、柳美里みたいなある意味自由奔放に生きてきた女性がなぜマニュアルどおりに子育てしようとするのか不思議がる。
 で、こう結論づけた。
「なぜこの本が読者の共感を得るのか、ベストセラーになるのかわからない」
 自分のことを棚にあげたみたいで気がひけるが、カミサンとの結婚を含めた妊娠、出産前後には多大な苦労(なんてもんじゃないかもしれない)をかけたので、この疑問には一理あると思った。

 思い込みも偏見も持たずに素直に読んだつもりである。在日韓国人として彼女がどれだけつらい経験をしてきたか僕にはわからない。その経験が彼女の人格形成に影響を与えているのだろうが、それにしても妊娠してからの〈恋人〉との関係がどうしても僕には理解できなかった。
 妻のいる〈恋人〉を自分のものにする(愛人から正妻の座につく)ために妊娠を利用したのではないかと勘繰りたくなる。
 別に〈恋人〉の肩をもつつもりはない。本書を読む限り、この〈恋人〉は女たっらしで優柔不断のまったくもってひどい男なのだ。だからこそ、そんな誠意のかけらもみせない男にいつまでも未練たらたらなのはどうかと思う。男のことなんかすっぱりと忘れ、生れてくる子どもと自分の将来設計を考えればいいじゃないか。
 ところがもう会わないと言いながら沖縄へ一緒に旅行する、かと思うと認知を迫って慰謝料を請求する、相手の男も態度がコロコロ変わるから喧嘩、言い争いの毎日で、読んでいてうんざりしてくる。
 あなたの息子なのだから名前を考えてと懇願し、これはという名を男が提案してくると、字画が悪いからとあっさり否定してしまう(漢字一字をもらいはするけれど)。
 とにかく前半は男女の痴話喧嘩をみせられているみたいだった。
「あなたの世話にはなりません!」と啖呵をきってすっぱり別れることがなぜできないのだろうか。それが男女の仲ではないかと言われればそのとおりではあるのだけれど。
 出産後の生活もその計画を聞いていると何とも心もとない。そばに子どもがいると気が散ってモノが書けないという。だからベビーシッターなんて雇えない。24時間制の保育所に預けたい。じゃあその送り迎えはどうするのか、そんな時間をとれるのか。とれない……。
 子どもを育てることは何かを犠牲することだ。未婚で出産することは特にその感が強い。にもかかわらず彼女にその覚悟があるとは思えなかった。
 やがてくる〈公園デビュー〉が怖いだって。だったらしなきゃいいだろう!!  どうしてこんなどうでもいい小さなことにこだわるのか。

 柳美里の行動、思考に何かと反発してしまう僕だったが、末期癌の闘病生活を送るため、彼女と一緒に暮らす東由多加が彼女と子どもにつくす態度や含蓄のある言葉の数々は素直に受けとめることができた。
「生れてから3年間は子どものそばにいて愛情をそそいだほうがいい」
 〈三つ子の魂百まで〉の格言は伊達じゃない。
 また、本筋とは関係ない思い出話として語る、東が自身の劇団の研究生に本当の友だちが何人いるかを問い、ある実験をさせるエピソードが考えさせられた。困っている自分のために友だちがいますぐやってきてくれるかどうか電話をかけさせるのだ。友だちの数を誇る研究生が自信満々で電話するが各人理由があって来られない。誰一人来てくれない現状に東はそれみたことかと言い、研究生は泣き出してしまう。プリクラや携帯電話で友だちの数を競い合っている今の若い人たちはこの話をどう受けとめるのだろうか、と。

 本書はやはり僕にとって感動の書ではなかった。しかし読んだことで、柳美里の生き方に興味がわいてきた。共感というものとはほど遠いものではあるけれど、過去の作品をあたる気持ちになってきた。


2000/08/29

 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 「個と公」論』(小林よしのり/幻冬舎)

 大論争を巻き起こした「戦争論」に対する批判、反論を著者がメッタクタに切り捨てるインタビュー集。
 これも友人から借りた本。「戦争論」のリクエストに見当たらないからと続編ともいうべき本書を渡された。
 肝心の「戦争論」を読んでいないので僕自身の立場を明確にできないし、「戦争論」批判が的を射ているのかどうかもわからない。
 インタビュアーの時浦兼という人がくせものだ。「戦争論」批判の文章をかたっぱしから収集して、小林よしのりにご注進申し上げる、といった体。最初は無の状態で小林よしのりに接しながら、次第にキャラクターを発揮してくる。だんだんと小林よしのりが時浦兼の掌で踊らされているお山の大将のように思えてきてしかたなかった。
 確かに本書の中で罵倒される評論家、識者の方々の論理は〈お笑い〉もので、小林よしのりの論がみな正しく思える。が、「戦争論」批判の文章を読むとそこに登場してくる小林自身が滑稽に思えるのだから単純には断定できない。
 前半は痛快だったが、読み進むうち辟易してきた。オレ絶対正しい! ほかみんなダメ! の論理はまるで文化人、芸能人を罵倒するときの佐高信みたいだ。
 こういう態度をとる自信はどこからくるのだろうか。




2000/08/02

 「性同一性障害 -性転換の朝」(吉永みち子/集英社新書)

 映画「ボーイズ・ドント・クライ」を観たからというわけでもないけれど川口中央図書館に行ったらまるで読めとばかりにおいてあったので借りてきた。
 妊娠中の女性が情緒不安定な場合、生れてくる子ども(男の子)がおかまになる確立が高い、と聞いたことがある。
 性同一性障害も胎児期の性決定メカニズムの狂いが原因とのことだが、どうしてそうなるのかはよくわかっていないらしい。
 「ボーイズ・ドント・クライ」の感想でTG、TSなんて言葉を使ったけれど、本質的な部分で何もわかっていない。
 TV(トランスヴェスタイト)は服装倒錯者、異性装嗜者を指す。TG(トランスジェンダー)は社会的に異性として扱われたい、だが性器まで変換しようとする意識は希薄という人たちを総称していう。それに対して心身ともに異性になりたいというのがTS(トランスセクシャル)だ。
 この世界も何かと奥が深い。

 性同一性障害という言葉が一般化したのは埼玉医大総合医科特別チームの性転換手術が認可されたことが大々的に報道されてからだと思う。それまで性転換手術は海外で行うのが常識だった。
 モロッコといえば名画「外人部隊」の舞台になったところとして有名だが、僕にとっては長い間性転換手術する国という認識だった。カルーセル麻紀の性転換手術はそれくらい小学生にはインパクトがあったのだ。
 なぜ日本で性転換手術がタブー視されていたのかも説明されている。
 昭和39年の〈ブルーボーイ事件〉が原因だという。3人のゲイボーイの睾丸の全摘出手術を執刀した町医者が優生保護法違反で検挙された事件だ。
 とにかく性同一性障害に苦しむ人たちに光明が射したことは確かなことであり、めでたいことではあるが、本書で取材されている数人の性同一性障害の男女が歩んできた足跡にはとてつもない苦労がしのばれる。
 誰もがカミングアウトしてショーパブで働けるわけではない。普通の人が普通の場所で静かに暮らしたいと考えるという方が当たり前なのだ。

 しかしいつも思うのだが、人はなぜこの手の人たちを白眼視するのだろう?
 子どもころ、手塚治虫「リボンの騎士」のアニメやコミックに夢中になった。ヒロイン・サファイアが自由に男になったり女になったりするのが楽しかった。手塚マンガにはこうした男装・女装のキャラクターが登場するものが多く、手塚マンガの特にそういう部分に興味を持っていた僕はたぶんに刷り込みもあるのだろう、〈おかま〉や〈おなべ〉あるいは性転換した人に対する偏見というものはない。
 大学1年のGWに彼女に会いに仙台に行ったときのことだ。上野駅で特急列車に乗ると、おかまの3人組が同じ席になって、意気投合した僕はまわりの冷たい視線は何のその、仙台まで大騒ぎしたものだった。リーダー(?)の名前は〈フジコ〉といって、「東京にもどったらお店に遊びに来てね」と仙台で別れてそのままになってしまったけれど、彼らともっと話しをしたかった。僕にはその気がないので、相手が〈性の相手〉として接してくれば頑なに拒む。が、いわゆる〈友だち〉としてだったらとことんつきあってもいいと思う。

 だから本書でも触れられている、映画「ボーイズ・ドント・クライ」の題材になったブランドン・ティーナ事件には暗澹たる気持ちにさせられる。
 実際の事件は映画以上に悲惨である。カミングアウトして自分の選択を堂々と主張、自信をもって男性として生きると宣言したティーナだったが、男友だちの怒りをかってしまった。男友だちはだまされていた悔しさ、性を変えるという行為への憎しみによってティーナを輪姦し殺害してしまった。 
 そんなに男どおしの友情って崇高なものなのか? 女から男に(あるい男から女に)なる行為はそんなに憎むべきことなのか。
 本書でも再三指摘されている〈第3の性〉というのをまじめに検討してもいいのではないだろうか。


2000/08/04

 「消えた劇場アートシアター新宿文化」(葛井欣士郎/創隆社)

 将来映画監督になりたくて、邦画に特に興味を持っていた中学~高校にかけてATG映画には特別な思い入れがあった。
 僕の住んでいた群馬県太田市は1シーズン遅れて上映する2番館、3番館といった映画館しかなく、ATG映画は絶対に公開されなかった。あくまでも情報は「キネマ旬報」で知るしかなく、実際に観ることができなかったから思い入れは一種のあこがれに近いものになっていた。
 「夏の妹」(大島渚監督)、「心中天網島」(篠田正浩監督)、「初恋地獄編」「午前中の時間割り」(羽仁進監督)「無常」「曼荼羅」(実相寺昭雄監督)といった<1,000万円映画>と呼ばれる作品群は僕にとって幻の映画だったといってもいい。
 そんなATG、正式には株式会社日本アート・シアター・ギルドが設立され、東京における上映館「新宿文化」の支配人として赴任してから、プログラムの編成あるいは映画や芝居のプロデューサーとして活躍した葛井欣士郎が退社するまでの記録(1961年~1974年)が本書である。
 奥付けを見ると上梓されたのは10年以上前のことであるが、ある種の懐かしさ、またATGとはいったい何だったのかということをおさらいするのもいいかと図書館から借りてきた。

 60年代から1974年までというのが今から思うと時代を象徴している。
 歌(この場合フォークソングだが)の世界でも74年で一つの区切りがついて、75年以降は〈ニューミュージック〉としてポピュラー化、歌謡曲化していった。ATG映画も70年代後期はそれまでも芸術志向からエンタテインメントへ切り替わっていく。配給に東宝が強くかかわってきたこともあって、ATG映画は隣町の足利の映画館で観ることが可能になった。
 それにしても60年代から70年代にかけては魅力的な時代だったと思う。アングラ、サイケデリック全盛の中で、「新宿文化」およびその地下の「蠍座」はまさしく当時の文化の尖鋭として、映画、芝居、コンサートとその機能を十分果たしたといえるだろう。


2000/08/11

 「日本は頭から腐る 佐高信の政経外科Ⅱ」(佐高信/毎日新聞社)

 相変わらず佐高信は吠えまくっている。
 盗聴法案廃止にむけて、日頃反目している人たち(菅直人等)とも共闘していたのは頭が下がる。 しかし、破防法否決後のオウム真理教の暗躍について何も語っていないのはどうしてか。まさか破防法さえ撤回されれば後はどうなってもいいというつもりではないだろう。相手は人殺し集団、うそつき集団なのだ。何らかの意見を聞きたいものだ。

 「司馬遼太郎と藤沢周平」を読んだ司馬ファンからの反論についての意見がいくつか掲載されている。司馬文学の功罪ではなく、罪だけをあげつらえばファンから怒りの手紙が届くのは当然だし、それにいちいち反応していても仕方ないと思うのだが。

 小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」はまず攻撃対象の評論家たちを極端にデフォルメした似顔絵で登場させることで先制パンチをくらわせる。マンガの力を効果的に利用したやりかたであるが、佐高信も自身でつけたキャッチフレーズで似た効果を狙う。
 小沢フリチンスキー、鳩山マザコンブラザーズ、小渕はオブツ(汚物)等々、似顔絵ほどではないにしても、かなりのインパクトだ。
 同じことを繰り返しその執拗さにうんざりしたり、よくぞ言った!と溜飲を下げたりと読んでいながら僕の反応もころころ変わる。

 6月全国一斉に開催される株主総会の愚、その指導で有名な某弁護士を攻撃する文章は毎年総会に携わっている者としてはまったくそのとおりだと思うし頭が痛い。




2000/07/31

 「貸本屋のぼくはマンガに夢中だった」(長谷川裕/草思社)

 子どものころ住んでいたのは長屋みたいなおんぼろ借家だった。そんな借家が建ち並ぶ住宅街には駄菓子屋が2軒あって、どちらも焼きそばが買い食いできるのが人気だった。店内でも焼きそばやトコロテンが食べられるコーナーがあり、僕らにとってはそこが社交場で、週刊誌やマンガ本が常置されていた。「少年マガジン」「少年サンデー」などのマンガ週刊誌、「平凡」「明星」などのアイドル雑誌のほかに見慣れない本があった。
 それが前谷惟光「ロボット3等兵」であり、「影」などの貸本専用のマンガ本(雑誌)だった。  
 物心がついたときには、まわりに貸本屋はなかったと思う。が、その匂いは十分あったのだ。  

 マンガの歴史、特にその戦後史は手塚治虫の「新宝島」に端を発し、トキワ荘グループを中心にメジャーな出版社の少年月刊雑誌、週刊誌を経て現代へつながる、いわゆる表舞台について書かれたものはたくさんある。しかし劇画の発祥としてわずかに触れられるほかほとんど黙殺されてしまった貸本用のマンガについて詳細に語られたものはなかった。
 本書は昭和30年代東京で貸本屋をやっていた一家の物語であるとともに戦後マンガの裏面史という貴重な側面を持っている。

 タイトルからその昔貸本屋を営んだ著者がマンガについてうんちくを語った本というイメージがあったが、貸本屋はあくまでも親が始めた商売であり、著者は息子という利点を生かして、幼いころから浴びるように貸本マンガを読んだのだ。玉石混淆のマンガを読みあさっているから、その目は確かだ。

 夏目房乃介が自著で指摘している手塚治虫のペンタッチの頂点(第一期黄金時代)を著者も喝破しており、内容的にも以後の手塚には興味をなくしたと書いている。僕が知る手塚マンガは劇画の影響を受け、タッチを変えたものなのである。僕としては初期のころより、昭和40年代以降が好きなのであくまでも世代の差として受けとめたいのだが。(名作「火の鳥 黎明編」は白土三平の「忍者武芸帳」をたぶんに意識した作品というのもわかる。)

 貸本向けに書かれた水木しげるの「河童の三平」「悪魔くん」も後年週刊誌に発表されたものよりよほどすぐれているという。「コボくん」の前にずっと読売新聞に連載された「轟先生」が貸本向けだったなんてことも本書で知った。
 とまあ、興味深い事柄が次から次にでてきて、なおかつ昭和30年代から40年代にかけての庶民の生活が詳細に描写されているからドキュメントとしても楽しめる。

 著者の名前からとった「ゆたか書房」という貸本屋は今も細々と営業中とのこと。今度訪ねてみようかな。


2000/07/22

 『「分かりやすい表現」の技術』(藤沢晃治/講談社ブルーバックス)

 理数系が苦手な僕にはほとんど縁がなかったブルーバックスシリーズだが本書を見つけたとき、すぐに手にとった。
 活字中毒といっていいほど、本が好きなもののマニュアルの類はいっさい読まない。読んでも意味がわからないからだ。このマニュアルのわかりにくさについては〈文章のプロ〉の方々が何かと話題にしてわが意を得たりの気分だったが、にもかかわらず相変わらず未だにわかりにくいマニュアルが大手をふるっているのはどうしてだろうか。

 本書はマニュアル本も含めて、交通標識、駅構内の路線案内の看板、通達文書等々、世の中にに氾濫する〈分かりにくい表現〉について、何が分かりづらいのか、なぜ分かりづらいのか、分かりやすくするにはどうすればいいのかを正誤表を使って的確に論じたものである。

 仕事で社内に案内、通達のEメールを送付する機会が多く、自分でもかなり神経を使っている。
 一番気をつけていることは、見やすさ、文章を読もうという気にさせるとっつきやすさである。なんでも漢字にするのでなく、ひらがなの間に適度に漢字を挿入する、見やすくするため改行を多くする、できるだけ箇条書きにする、といったことを心がけている。
 そしてこれが一番重要なのだが、この文章でこちらの言いたいことをわかってもらえるだろうかということにたえず気を使っている。
 情報を知っている書き手は内容を十分理解しているから、見過ごしがちだが、受け取る方はその件について全く知らない。だからちょっとした文章のニュアンスで判断しづらくなることが多々ある。(マニュアルがわかりにくいのは書き手が相手が知っているものとして物事を説明しているからだろう。)
 おおげさにいえば、こちらの意図とはまるで正反対に受け取られる可能性だってあるのだ。
 ということで分かりやすい文章とは何かを勉強したくて本書を読んだ次第。

 ビジュアルが豊富で読み物としておもしろいし、ハウツー本としても〈分かりやすい表現〉にするための16のルールがためになる。




 何かと忙しくて、帰宅すると疲れと暖房費の節約もあって布団に入ってTVを見ている。いつのまにか寝ていて気がつくと夜中の2、3時。そこから風呂に入って、4時半になると出勤という毎日が続いている。
 今年はきちんとブログを更新するつもりだったのに、全然ダメだ。

 書き忘れていた2017年「12月の映画観て歩き」を簡単に記しておく。ついでに他のイベント類も一緒に。

 1日(金) 「ローガン・ラッキー」(TOHOシネマズ日劇)

 9日(土) 「青春夜話 -Amazing Place-」(新宿K'sシネマ)

 13日(水) 「シネマDEりんりん 望年会 ~さよなら新宿竹林閣」

 14日(木) 「水木ノア&777 中央線のほぼ真ん中で三度目の愛を叫ぶ クリスマスライブ」(LiveSpot ‘Terra’)

 24日(日) 「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」(MOVIX川口)

 26日(火) 「とくだこうじ出版記念会」(谷中御稽古場布施邸)


 2月になってしまったので、一緒に2018年「1月の映画観て歩き」も。こちらも他のイベント類とともに記す。

 17日(水) 「ゴッホ 最後の手紙」「レディ・ガイ」(シネマカリテ)

 18日(木) 「人情紙風船」(神保町シアター)

 25日(木) 「第18回 禁演落語を聞く会」(中野ZERO視聴覚ホール)

 27日(土) 「シネマDEりんりん新年会」(アイニンファンファン)

 31日(水) 「あなたと私の合言葉 さようなら今日は」「氷点」(新文芸坐)




 承前

 凄腕の殺し屋が敵の罠にはまって性転換手術で女にされてしまう。この殺し屋をミシェル・ロドリゲスが演じていて、敵役のマッド・ドクターはシガニー・ウィーバー、監督がウォルター・ヒルというんだから期待感は一気に高まった。
 この映画を知ったのは昨秋だが公開日を確認しなかった。公開が近づけばTVスポット等が流れると踏んでいたのだ。ところが全然話題にならない。心配になってネットで調べたらシネマカリテですでに公開が始まっていたというわけ。

 すぐにでも飛んで行こうとしたのだが、ちょっと待てよ、と。シネマカリテのサイトを眺めていて初めて知ったことがある。水曜日は料金が1.000円になるのである。だけでなく、専用の割引券もあって、プリントアウトしてチケット購入時に提出(あるいはスマホで画面を提示)すると1,300円になる。
 そうなの!?
 これまで何度かカリテで鑑賞したことがあるが、いつも1,800円を支払っていた。なんてこったい!

 「ゴッホ 最後の手紙」は朝一番でしか上映しないから休みの水曜日に行くしかない。だったら、ついでに「レディー・ガイ」も一緒に観てしまおう。
 ということで、久しぶりの映画のはしごとなった次第。

 チケット購入時に「ゴッホ 最後の手紙」が日本語吹替版だと知った。劇場で日本語吹替版なんて観たくないが仕方ない。
 もともとこの映画にはそれほど関心がなかった。ところが、ゴッホの絵と同じタッチで描かれているアニメーションだと知って俄然興味がわいた。

 映画は現在(映画内の時制として)と回想で構成されている。現在を描く部分がゴッホの絵のタッチになっていて、125名のアーティストが描いた油絵だというのだから恐れ入る。
 回想部分でこのアニメーションがどのように作られたかがわかる。この部分はモノクロで一見実写風。つまり本物の役者が演じたライブ映像をアニメートしているのである。
 現在部分の油絵タッチも同様なのだろう。
 それが果たしてアニメーションなのか? という疑問もある。昔からある方法ではあるが。
 髭もじゃもじゃの男の声はすぐにイッセー尾形だとわかった。主人公の声は山本耕史か……と思っていたら山田孝之だった。

 ラストで涙がでてきた。なぜか。
 
 昼食をとり、カフェで時間をつぶした後に観た「レディー・ガイ」。
 男を演じるミシェル・ロドリゲスの肉体(上半身)はCG技術でアッと驚くヴィジュアルを見せてくれるが。とはいえ、精巧なメーキャップで髭面にしようと、容貌はやはり女。こういうキャラクターの場合、無名の俳優でないと意味がないのかもしれない。それでは客は呼べないけれど。
 性転換した後の描写もいくつか?がある。
 主人公がホテルに放置されるのが術後どのくらいが説明されていないが、あんな簡単にことはすまない。
 自分の裸体を鏡に映すと股間にはヘアだけというサービスカットがある。本当なら手術のためヘアは剃っているだろうから、✕✕✕が見えるのではないか? そうなるとボカシが入るか。
 性転換などという飛び道具など使わず、単純に男勝りのヒロインが敵に復讐を果たすというストーリーでも良かったのではないか。
 



プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)

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