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2001/06/07

 「さらわれたい女」(歌野晶午/カドカワノベルス)  

 昨年秋に単館ロードショーされた中田秀夫監督作品「カオス」の原作。  
 便利屋が美貌の人妻から夫へのあてつけの狂言誘拐を依頼され、緻密な計画を練る。警察の追及をかわす作戦が功を奏して喜び勇んで人妻を監禁している部屋に戻ると、そこには首を締められ殺された人妻の死体が横たわっていた。恐怖におののき逃げ出そうとする便利屋に殺人犯から人妻と便利屋を結びつけるメモをネタに遺体を処理せよとの脅迫電話がかかってくる。便利屋は何とか死体を人里はなれた山中に始末して事なきを得るが、すぐに警察に発見され、落ち着かない毎日が続く。そんある日、街中で死んだはずの人妻を見つけ、独自に調査してみると狂言誘拐には巧妙な罠が仕組まれていたことを知るのだった……。
 
 事件に巻き込まれる便利屋〈俺〉の一人称と妻を誘拐される若手経営者側の三人称で物語は語られている。  
 ちょっとびっくりというかがっかりというか、映画は小説を何の工夫もなくそのまま映画化したところだ(ラストが若干変更されている)。原作を読んだ人はキャスティング以外映画に違和感はないだろうし、映画を観てから原作をあたった人は新たな発見はない。個人的には、原作では人妻と便利屋の騙し合いに手が込んでいたり、便利屋の人間なり、生活なりがより深く描かれているのではないかと期待していたのだが。

 僕はいわゆる〈新本格派〉と呼ばれるミステリ群が苦手である。その手のミステリを数多く読んだこともないので、断定することはできないけれど、それでも一時期ミステリ好きの友人の薦めで〈新本格派〉の大御所的存在である島田荘司の作品をまとめて読んだことがある。おもしろくはあるが、トリックのためだけに作られた物語に夢中になることができなかった。  
 たとえば小説のなかで伏線としてとりこまれた日記、手紙の類があったとする。それらの内容が読者のために書かれたのが歴然としていて、ちっともリアリティが感じられない。このリアリティのなさがネックだった。主人公に感情移入できない僕はどこか醒めていてトリックだけで成り立つ物語に満足したためしがなかった。(じゃあ、おまえが書いている小説・のようなものはいったい何なんだ、あんな日記があるものかと言われれば反論できないのですが……)
 
 そんなわけでたまに友人に薦められることはあっても〈新本格派〉を標榜する若手作家たちの作品を読んだことがない。  
 「さらわれたい女」も伝言ダイヤルを活用して警察の逆探知をうまくかわす誘拐の手口、主人公に仕掛けられた罠、どんでん返しが斬新といえるかもしれないけれど、ただそれだけのおもしろさであって、ほかに何の充実感、満足感はない。小説を先に読んでいれば、また違った印象を受けたかもしれないけれど。


2001/06/12

 「闇の楽園」(戸梶啓太/新潮社)

 「溺れる魚」を読んだらどうしたって新潮ミステリー倶楽部賞を受賞したデビュー作「闇の楽園」も確認したくなる。  
 本作も広義の意味でミステリであって、謎解きの要素はまったくない。戸梶啓太はエンタテインメント小説の旗手でありストーリーテラーであることを認識させられる。  

 過疎化の波が襲う長野県某町の町長が企画した町興しコンテスト。全国から集まったアイディアの中から東京在住で失業中の青年によるホラーハウスばかり集めたテーマパークの企画が採用された。
 テーマパークは町のゴーストタウンとなっている土地に建設される予定なのだが、この土地に研修施設を建築したいカルト集団が暗躍。テーマパーク建設をつぶそうと町議会のはなつまみ議員の弱み(無断で産廃業者に土地を利用させている)をにぎると彼を味方につけ、住民投票で賛否をとるようにしてしまった。多数のカルト集団会員が移住してくるやテーマパーク建設反対運動を開始。推進派の動きを察知するため盗聴器を仕掛けたり、町役場の職員を色仕掛けで仲間に引き入れたりとさまざまな画策をしはじめるのだった。
 運命の住民投票日。カルト集団が買収した選管の不正が発覚し、町長たちの推進派グループとカルト集団が大激突するのがクライマックス。

 オウム真理教の事件があってから、この手の話がまったくフィクションに思えないところが怖い。じわじわと町に侵食していくるカルト集団の不気味さが読む者を夢中にさせるのだ。
 はっきりいってクライマックスは肩すかしをくらった感じがした。当初の土地奪還計画があまりにもあっけなく頓挫してしまうことで、こちらの期待を満足させてくれなかった。両者のグループの衝突による大騒動もはじけかたが足らない気がする。
 
 一番の不満は洗脳の実態が具体的でないということか。
 産廃業者の策略で無断で町の土地を利用させていた議員に近寄るため、カルト集団の幹部が産廃業者をマインドコントロールで信者にしてしまうのだが、その課程がまったく描かれていないのだ。冒頭で主要登場人物の一人(女子高中退)が熱狂的な信者になる様がでてはくるが、相手は海千山千のツワモノである。ワルがワルを子羊のように飼い慣らしてしまう模様はカルト集団の怖さをより明確なものにすると思う。

 まあ、デビュー作にそんな不満を抱いても仕方ないことかもしれない。それより作者の徹底的なワルを描く筆さばきに注目したい。町のハンパ議員・君塚、カルト集団の幹部・丸尾、そして産廃業者の剣持。魅力的というのではない。人間のクズというか、愚かというか、そばにいたら唾棄するようなタイプの彼らキャラクターがかなり書き込まれているのである意味感情移入してしまう。君塚が剣持の家に強請られるネタとなったビデオテープを取りに行き、待ち構えていた金融業者に脅されたりすると思わず応援しちゃったり。
 それに比べると、いい役の、特に女性たちがステレオタイプで困ってしまう。主人公の青年と町役場の女性職員の恋愛なんてあまりにもベタ。でもそれがオアシスではないかと反論するもう一人の自分がいることも確かだ。
 そういえば中盤に登場して町長の娘の擬似恋愛の対象者となるカメラマンはいったい何者だったのだろうか? ラストにつながる重要な伏線だとばかり思っていたのに。




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2001/05/23

 「評伝 黒澤明」(堀川弘通/毎日新聞社)  

 黒澤明が亡くなって今年で3年になる。数々の黒澤本が上梓された。そんな中でどうしても読んでみたいと思わせてるものが2冊あった。1冊は長年黒澤組の記録係としてスタッフに参加し、「影武者」以降はプロダクション・マネージャー、プロデューサーとして黒澤を補佐したスクリプター・野上照代の「天気待ち 監督・黒澤明とともに」。そしてもう1冊が本書「評伝 黒澤明」である。  
 著者の堀川弘通も東宝入社後黒澤組の助監督として長年黒澤明に仕えていた。黒澤明の一番弟子を自認している人だから、人間黒澤明に対する観察眼は信用できる。また同業者(映画監督)として数々の作品をものにしてきた人だから黒澤作品を語る適任者だと思う。  

 その判断は間違っていなかった。真近で見る黒澤明が活写されていた。  
 評論家の類の人が著す著書では型どおりの内容になってしまいがちな助監督時代の高峰秀子との恋愛模様、「来なかったのは軍艦だけ」で有名な東宝争議など具体的に検証されている。プロデューサー本木荘二郎との関係など本書で初めて知った事実もある。  
 「素晴らしき日曜日」の主役沼崎勲について「自分が下手な癖して『僕の演技プランでは…』なんて言いやがるから、ほんとにぶん殴ってやりたいくらいだった」と批評(罵倒)する黒澤明の言葉から撮影現場の二人の姿が想像できておかしい。  
 著者は成瀬巳喜男の助監督も経験していることから黒澤組と成瀬組の比較もしている。互いの資質の違いが例をあげてわかりやすく解説する。  

 言葉に説得力があるのは単に師匠を敬うだけでなく、的確に批評するところからもうかがいしれる。  
 たとえば第五章で名画「七人の侍」の製作現場に触れるのだが〈一将功成って万骨枯る〉とその実態を表現するスタッフの言葉を紹介する。
「作品を創造するためには死者が出てもしかたない」と考えている黒澤明をはっきりと批判している。  
 晩年の作品「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」を一種のプライベート映画だと断定していてなるほどと思う。  
 クロさんが大事と思うことは観客にとっては大事と思えないし、観客が面白いと思うことは、クロさんにとってはどうでもよい、と解説するのだが「うん、うん」うなづきながら読んでいた。  
 黒澤明は明治の男だと書くところも印象深い。  

 弟子を思いやる師匠の姿もあますことなく綴られている。  
 黒澤明が著者の監督デビューにあたって書いた山本周五郎原作のシナリオ「日々平安」は結局日の目を見ず、「用心棒」の続編「椿三十郎」となってしまうが、処女作「あすなろ物語」の撮影時には何かとアドバイスを与える。主演の根岸明美への演技のつけ方はさすが。  

 海外での活躍を狙った「暴走機関車」「トラ・トラ・トラ!」の挫折のくだりは読んでいて痛々しかった。特に「トラ・トラ・トラ!」における東映京都撮影所での黒澤監督の暴走ぶりは噂は耳にしていたものの、その激しさに「ノイローゼ説」の実態を知った思いだった。  
 黒澤映画に対する評価は国内より海外の方が高い。黒澤監督への敬意も国内の比ではない。にもかかわらずアメリカ進出の2本の企画が流れてしまったのはどうしてだろうか。契約社会のアメリカ企業では黒澤流の映画作りは通用しないのか。  
 そういえば「影武者」の海外配給はルーカスやスピルバーグの個人の力の賜物だったし、製作資金調達で難航した「乱」に最終的に出資したのはフランスの企業だった。そう考えると「デルス・ウザーラ」を黒澤監督に作らせたソ連は懐が深い。何かにつけて黒澤明を優遇する製作母体の長に国内の映画関係者から批判がでて、実際、ある映画監督が直訴したらしい。それに対する答えが「お前は黒澤映画を作ったことがあるのか」というのだから簡潔明瞭である。  

 数ある黒澤本の中で価値ある1冊といえるだろう。


2001/05/30

 「奇妙な果実 ビリー・ホリディ自伝」(ビリーホリディ/油井正一・大橋巨泉 訳/晶文社)  

 藤田正氏の「メッセージ・ソング」で「奇妙な果実」の意味を知りショックを受けた。これはぜひともCDを買わななければと思っていたところ、図書館で本書を見つけたのでさっそく借りてきた。  

 ビリー・ホリディ初心者には巻末の大和明「ビリー・ホリディの人と芸術」を先に読んだ方がよい。その方がより自伝の内容を理解できる。  
 しかし、しかし。  
 翻訳が下手すぎる。高校生が教科書(リーダー)を訳したような文章が続くので途中で辟易してしまった。実際ビリー・ホリディが書いた原文が悪文なのかとも考えたが、本書はビリーホリディとウィリアム・ダフティというライターの共著だと「…人と芸術」にあり、とすると訳に問題があるとしか思えない。    

 13歳と15歳という若すぎる両親のもとに生まれたビリー・ホリディは貧しさの中で育ち、14歳で売春。売春宿で聴いたジャズの魅力にとりつかれた彼女はやがて自ら歌いだす。酒場のステージにおかる彼女のヴォーカルは聴衆の胸に迫り、人気歌手になっていく。しかしたび重なる人種差別からの逃避なのか麻薬に溺れてゆく。  

 書き手があっけらかんと過去を回想しているので思っていたほどの重苦しさはなかったももの黒人差別の実態は生半可のもでないことがわかる。  

 訳はダメだが、各章のタイトルは気に入っている。  
 いつの春にか(Some Other Spring)、過ぎし日のまぼろし(Ghost of Yesuterdays)、悲しみよ、今日は(Good Morning Heartache)、神よ! めぐみよ(God Bless the Child)等々。  
 日本語の訳と原題がぴったりマッチしている。これらは歌の題名なのだろうか。  

 とにかくCDを購入し一刻も早く「奇妙な果実」を聴いてみたい。




 FBのタイムラインに流れてきて目に留まった。
 「ファシズムの初期兆候」として、政治学者のローレンス・W・ブリットが挙げている14の項目。米国ホロコースト博物館で展示パネルになっているとか。

     ▽

 ●強力かつ継続的なナショナリズム
 ●人権の軽視
 ●国内団結のための敵国の特定
 ●軍事の優先
 ●性差別の横行
 ●コントロールされたメディア
 ●国家安全保障への執着
 ●宗教と政府の接近
 ●企業権益の保護
 ●労働運動の抑圧
 ●学問や芸術の軽視
 ●犯罪重罰化への執着
 ●身びいきと汚職の横行
 ●詐欺的な選挙

     △

 現政権は、ほとんどすべて当てはまるではないか!
 いわゆる安倍シンパといわれている方々、この現実をどう思う?

 少し怖くなってきた。
 安倍政権のやっていることはどう考えてもおかしいもの。




 
2018/07/23

 「FAKEな平成史」(森達也/角川書店)

 川口駅前の、最近よく立ち寄る中華料理店で夕飯を食べながら読了する。
 著者自身のドキュメンタリー作品のテーマを素材に、ゲストと語りながら平成という時代を浮き彫りにする〈ルポ&インタビュー〉。
 インタビューではあるが、対談(という形式)ではない。あくまで著者自身が綴る文章だから、そこには主観が入る。それがいいのだ。同席する編集者の存在がミソ。

 安倍首相に対するうんざり感はハンパない。大迫選手なんか比ではないくらい。
 どうしてこんな人が首相を続けられるのか。
 そんな自分の気持ちを代弁してくれる文章が本書のあとがきにあった。
 書き写す。

     ▽

 自民党が歴史的な敗北を喫した都議選の最終日である七月一日、秋葉原で応援演説のマイクを握った安倍首相は、「帰れ!」「安倍やめろー」などの声をあげる人たちを指さしながら、「こんな人たちにみなさん、私たちは負けるわけにはいかない」と絶叫した。
 「こんな人たち」とはどんな人たちか。自分を批判する人たちだ。そして「みなさん」は自分を支持する人たち。この様子をテレビ・ニュースで見ながら、この人は完全に一線を越えたなあとつくづく思った。
 もちろんこれまでも、安全保障法則やテロ等準備(共謀)罪法案も強行採決、特定秘密保護法や武器輸出三原則言い換え、森友、加計学園をめぐる露骨でアンフェアな対応にメディアへの剥き出しの敵意、さらには「読売新聞を熟読していただいて」「私や妻が関係していたということになれば、これはもうまさに総理大臣も国会議員も辞める」「(憲法が)国家権力を縛るという考え方は王様が絶対権力を持っていた考えかた」「(現行憲法の前文について)敗戦国のいじましい詫び証文」など、具体例としてどれを挙げるかに悩むほど頻繁に、安倍自民党は何度も一線を越えている。でも首相が国民を選別する発言を、当の国民に向かって公式に発したことの意味は大きい。完全にお殿様だ。その意味で安倍首相は、突出して本音を語る宰相だ。普通ならとっくに表舞台から消えている。

     △

 こんな首相、平成が終わる前に消えてほしい!




 21日、22日のイベント終了。
 どちらも40人を超す参加者で、昨日は帰宅してシャワーを浴びてバタンキュー。

          * * *

2001/05/17

 「活字浪漫」(目黒浩二/角川書店)  

 北上次郎、藤代三郎等名義で書評集を上梓しているが、僕は本名の目黒浩二の本に手が伸びてしまう。「本の雑誌」黎明期の思い出本とともにこの「活字〇〇」の四文字の書名が妙に本好きのこちらの琴線に触れるのだ。これまでにも「活字三昧」「活字学級」を上梓していて「活字三昧」はすでに読んでいる。
 
 これまで発表した本や小説に関するエッセイ、コラム類を集めたものだから内容に一貫性はない。  
 今はなき「海燕」の文芸時評をまとめた第三章〈小説雑誌を読む〉と競馬関係書を語る第四章〈競馬本15番勝負プラス1〉が同じ著者とは思えない。競馬はもちろん賭事にいっさい手をださない僕でも第四章は面白く読めた。
 
 第一章〈活字の愉しみ〉に読書の敵は睡眠とあって、この気持ちはよくわかる。片道90分の通勤時間が僕の読書の時間と呼べるものなのだが、最近はすぐに眠たくなってちっとも読書が進まない。家ではパソコンを開くことが多くこれまた時間がない。4、5年前までは早朝出社して就業時間までが読書だったが、最近はインターネット閲覧時間になってしまった。肝心の昼休みは途中で眠くなってしまう。しょうがないから退社後にファーストフード店によってコーヒーを飲みながら読書にいそしむのである。1年間の読書量がかなり減少したものだ。
 
 第五章〈貸本屋に通っていた日々〉は著者お得意の本を通して己を語る私小説風なエッセイ。目黒浩二本の魅力は実はここにある。


2001/05/19

 「対談の七人」 (爆笑問題/新潮社) 

 なぎら健壱、立川談志、淀川長治、小林信彦、橋本治、山田洋次、ジョン・アーヴィングの7人と爆笑問題の二人(アーヴィングのみ太田光だけ)の対談集。
 
 爆笑問題の本は「日本原論」以降二人のステージを彷彿させる笑いに包まれていて図書館で見つけると読んでいる。若手の〈お笑い〉グループの中では一番実力のあるコンビであることは立川談志、小林信彦、橋本治との対談で彼らがいかに爆笑問題を買っているかでわかる。  
 爆笑問題については、どこが面白いのだかちっともわからなかった「ボキャブラ天国」出身程度の認識しかなかったのだが、なぎら健壱との対談を読むとかなりコンビ歴は長い。審査員に喧嘩を売るところを見たかった。  
 立川談志とはイリュージョン、現代の演技について、小林信彦とは好みのアイドルやキューブリックの話が興味深い。山田洋次の「ハリウッドに打ち勝てる唯一の道は喜劇」という言葉が印象に残る。
 
 対談の後、急死してしまう淀川長治はすごく饒舌。爆笑問題について何も知らないのにやけに二人を持ち上げる。太田が映画を作る(監督する)、田中が役者になる、という話から「(自分が)死んでも細胞だけで生きている。お二人がどんな映画を作るか、どんな俳優になるか楽しみにしている。ちゃんと見てるんだから」と語るのだが、これがまさしく遺言になってしまった。  
 爆笑問題の映画の話はまったく聞こえてこない。




 帰宅の電車の中で、橋本忍氏の訃報を知った。別に驚かなかった。100歳なのだから大往生だろう。
 このところ、両親世代の著名人が次々に亡くなっている。
 何度でも書くが、そういう時代になったということだ。自分がもうすぐ還暦を迎えるのだから。
 昭和が平成になったとき、平成30年なんてものがくるのかと思った。あっというまではないか!

 12年前に「複眼の映像 私と黒澤明」という本を手に取った。
 面白くてあっというまに読んでしまった。
 橋本忍という脚本家を知りたかったら、あるいは黒澤映画のファンを自認するのであればこの本を読めばいい。

 合掌

     ◇

2006/09/21

 「複眼の映像 私と黒澤明」(橋本忍/文藝春秋)

 むちゃくちゃスリリングな本だった。

 「仁義なき戦い」で有名なシナリオライター笠原和夫は、黒澤組のシナリオライターたちを、1本の作品に黒澤監督も含め複数で参加しシナリオを完成させるシステムもあって〈クロサワ・タクスフォース〉と呼び、その偉大さとして、パターンの独創性、映画的発想、思いつきの素晴らしさを挙げている。黒澤機動部隊。言い得て妙である。

 共同脚本は別に珍しいことではない。パターンとして大まかにライター+監督(A)、ライター2名(B)、あるいはライター2名に監督が加わる3名(C)がある。
 パターンAはライターが書いた検討稿に監督が手を入れて決定稿とする。パターンBは1つの物語を前半、後半等にわけてそれぞれが書くなどという方法もあるが、これもやはりどちらかが書いたものに手を入れていくのが通常だろう。Cはその応用編。Bの方法でできたものを最終的に監督の意見を反映させて完成させる。
 ところが黒澤映画はライター2名、3名なんて当たり前、「悪い奴ほどよく眠る」の脚本なんて黒澤明のほかに小国英雄、久坂栄二郎、菊島隆三、橋本忍と5名もクレジットされているのである。
 彼らが旅館に缶詰になってシナリオを書いていく光景はこれまで何冊もの黒澤本でお馴染みではあった。しかし、具体的にどう作業していくのかまでは触れられていない。
 それが「羅生門」のシナリオでデビューし、黒澤組の一員として数々の名作、傑作をものにし、日本を代表するシナリオライターでもある橋本忍がその工程を詳細に語ってくれたのである。面白くないわけがないではないか!

 橋本忍がシナリオを志す動機と経緯、伊丹万作唯一の(シナリオにおける)弟子であったことを初めて知った。習作のつもりで書いた「雌雄」がいかにして「羅生門」という映画になったのかも。
 最初、ある侍の一日をリアルに描く映画が企画され、オムニバスでさまざまな剣豪たちを描く内容に変更になり、最終的に百姓に雇われて野武士と戦う侍の物語「七人の侍」となって結実した話は有名だが、具体的にどんな理由によって企画が変更になっていたのか、その様が逐一記される。ワクワクする。侍の一日をリアルに描くという当初の企画は「切腹」で実現されたとあって「おおそうなのか!」。
 「七人の侍」は橋本忍が検討稿を書いた。黒澤明、小国英雄と旅館に籠もり、同じシーンを黒澤、橋本が書いていく。小国はいっさい書かない。出来上がった原稿を読んでいいか悪いかの判断をするだけ。あくまでも司令塔に徹する。ふたりが鉛筆を走らせている間はゆったりと英語の原書を読んでいる。これが全盛期の黒澤シナリオ工房の実態だ。

 「七人の侍」以降、黒澤はシナリオ執筆の形態を変えた。複数のライターで最初から決定稿を仕上げようという試み。しかしこれは裏目にでて、続く「生きものの記録」の不入りとなって初めての挫折を味わうことになる。
 しかし黒澤はやり方を変えなかった。この時期小国はそれまでの司令塔の役目から、実際に書く方になっている。そうさせたのは橋本忍の黒澤への物言いでもあるのだが、これを嘆いたのが当の橋本というのが面白い。やはり司令塔は必要なのだと。では、お願いすれば小国が司令塔に復帰するかというと、たぶん戻らないとも書く。司令塔より書く方が楽だからだ。
 こんな話が次から次へ出てくるのだから、読むのがとまらなくなるのは至極当然の道理。

 松竹で黒澤明の助監督を務めたのが後の「砂の器」の野村芳太郎監督。黒澤が「最高の助監督」とベタ誉めしたという。橋本忍もその才を認めている。実際当時の城戸・松竹社長は野村監督を自分の後継者にする準備をしていたらしいが、当の本人が生涯一映画監督の道を選択した逸話も紹介している。
 書きたいことはまだまだあるが長くなるのでこのへんでやめよう。

 最後に一つだけ。
 黒澤監督が「影武者」に着手した際、〈橋本プロ〉社長として橋本忍が大きくかかわっている。
 「影武者」のシナリオを携え、黒澤監督が橋本を訪ねる。「意見を聞かせて欲しい」と言われるが、その出来は芳しくない。後日、東宝の田中友幸プロデューサーが橋本を訪ねてくる。「影武者」の製作に東宝は出資すべきかどうか。本当のところを聞かせてほしいと。
 ちなみに橋本忍の「影武者」と「乱」の評価はどちらも低い。シナリオの欠陥を本書で指摘している。

 橋本忍は何と答えたか。このくだりは何度読んでも胸が熱くなる。





 夏が来ると思い出す。
 肌を刺すような日差しがまぶしい昼下がり。
 ふっと頭をよぎって歯ぎしりしてしまう。

 映画「X-MEN:アポカリプス」が公開された年だから2016年の8月か。
 サブカル・ポップマガジン「まぐま」とカトゥーンマガジン「EYEMASK」の展覧会(彩光展)があり、休みの日に伺った。
 ひととおり見終わって缶ビール片手に「まぐま」発行人のKさんと歓談。
 ある件でイライラしていて、その疑問をK氏に投げかけた。

 その方は毎日映画鑑賞されていて、その都度ブログに感想を記す。
 以前にも記したことだが、僕は自分のブログに間違ったことを書いているのがとても恥ずかしく思う。てにをはの間違いは仕方ないにしても、名称の誤字脱字、たとえば映画のタイトル、俳優の名前の間違いはあってはならない。認識の間違いはもってのほか。
 自戒しているものの、僕もよくやってしまう。
 だから指摘してくれることは大変ありがたいのだ。
 自分がそうなのだから、他人も同様だと思い、ブログを読んでいてその手の間違いを見つけると指摘している。

 彼は「X-MEN:アポカリプス」の感想を綴っていた。
 タイトルを「Xマン……」と記していて、おいおいなのだがまあそこは見ないふり。
 気になったのはこの記述。

     ▽
『スターウォーズ 帝国の逆襲』を観終えたX-マン達が言う。
「どんな映画でも三作目になると最低よ」
     △

 この時点で僕はまだ「X-MEN:アポカリプス」を観ていなかった。とはいえXメンのメンバーが「三作目」と言っているのだから、映画は「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」でなければおかしい。
 見に行くとやはり映画は「…… ジェダイの復讐」だった。
 すぐにCメールした。
 単純ミスであることはわかっている。単なる書き間違い。
 しかし、ブログを読んで彼のSW知識を生半可だと判断して嘲笑する人がいるかもしれない。

 この前、夕景工房の映画評「新幹線大爆破」をブログに転載して、気がついた。犯人グループの一人山本圭を山本学と書いていたのだ。恥ずかしいったらありゃしない。単なる書き間違いなのだが、完全に俳優の名前を間違えていたこともある。「犯人に告ぐ」では主人公の刑事の部下を演じた俳優を新井康弘だと思ってその旨で感想を書いたら別人だった。
 あるテレビドラマに宮藤官九郎が役者として出演していた。歯並びがよくなっていたから矯正したんだと書いたらこれまた別人だった。

 訂正しました、との返信がくるものと思っていたら、これが違うのだ。どんな文面だったか覚えていないが、要は指摘の意味がわからないというようなものだった。何度かやりとりをした。要領を得ない。
 携帯でメールを打つのは苦手だ。
 じれったくなってPCのメールに切り換えた。

     ▽
 〇〇(彼の名前)さんはブログでこう書いています。

『スターウォーズ 帝国の逆襲』を観終えたX-マン達が言う。

 ですから、メンバーが観たのは「ジェダイの復讐」なんですよ。
 前作「帝国の逆襲」がとても面白かったから、期待していたのに、「ジェダイの復讐」はつまらなかったという会話があって、 第3作云々につながるのでは?
     △

 彼はこう返してきた。

「どんな映画でも三作目になると最低よ」と書いているとおり、自分は「スター・ウォーズ」の2作目は「帝国の逆襲」、3作目は「ジェダイの復讐」であることは知っている、監督の小ネタではないかと書きたかった、会話を省いたために分かりづらかった、失礼しました……

 小ネタとは、「X-MEN」の第1作と第2作はブライアン・シンガー監督であるが、3作めは別の監督が担当した。だから出来が悪いということを「……アポカリプス」で復帰したブライアン・シンガー監督がほのめかしているというものだ。

 あなたの「スター・ウォーズ」認識をどうのこうの言いたいわけではない!
 『スターウォーズ 帝国の逆襲』を観終えた、じゃない、『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』なんだよ!
 そんなこと、もう一度文章を読めば明らかではないか!

 結局、彼は指摘箇所の訂正はしなかった。

 K氏に確認したかったのは、彼のブログを読ませてXメンの面々が何の映画を観たかというもの。
「『帝国の逆襲』だろう?」
 だよね? そうとしか読めないよね!
 にもかかわらず、彼はどうして「会話を省いたために分かりづらい」なんていいわけするのか?

 わからない!!




2001/05/16

 「倚りかからず」(茨木のり子/筑摩書房)  

 2月に関西に出かけたことは「メッセージ・ソング」の項で記した。実はこの時、イベントの前日に関西入りして、紙ふうせんの事務所で2時間ばかりの間後藤さんに赤い鳥デビュー前後の貴重な話をうかがう機会がもてた。  
 小説・のようなもの「1978 ぼくたちの〈赤い鳥〉物語」の冒頭でも書いたとおり、僕が10代から20代にかけて憧れていた団塊世代の代表として、赤い鳥のメンバーたちの人間模様、60年代から70年代にかけての青春をノンフィクションあるいは小説にできないかとずっと前から考えている。そのためにも後藤さんに赤い鳥時代のことをいろいろ聞かせてくださいとお願いしていた。といっても僕はプロのライターではないし、書いた文章を本にするあてもない。自費出版するお金もない。「温泉にでも入ってのんびりしながら話したいなあ」なんて応じてくれた後藤さんだけど、僕が後藤さんを温泉に招待できるのはいつの日か。  
 後藤さんへのインタビューなんて夢のまた夢だなあ、と思っていたところに事務所で話しようとのお誘い。天にも登る気持ちとはこのことだ。テープレコーダー持参で質問事項をあれこれ考えながら出かけたのだった。  

 インタビューを終え、後藤さん行きつけのお店で夕飯をごちそうになる際、歩きながら紙ふうせんの次のアルバムの話になった。
「今、茨木のり子の詩の世界に興味あってね」と後藤さん。次のアルバムは茨木のり子の詩がモチーフになるらしい。詩人・黒田三郎の現代詩「紙風船」に素敵な曲をつけた後藤さんがまたまた現代詩にスポットを当てるのか!僕も俄然茨木のり子に関心がでてきた。が、悲しいことに茨木のり子について何も知らない。だいたいこの時初めて聞いた詩人の名前だったのだ。  
 そんな無知な私の手帳に後藤さんは茨木のり子の名前と最新刊の詩集のタイトルをメモしてくれたのだった。それが「倚りかからず」だった。  

 15編の詩が収録されている。  
 一度目は黙読、次に音読してみる。  
 表題の「倚りかからず」に作者の凛とした姿勢を感じる。  
 できあいの思想、宗教、学問、権威には倚りかかりたくない、自分の感覚、感情だけを信じ生きていきたい、倚りかかるのは椅子の背もたれだけ、という作者の主張に共鳴する。こういう考えの人ってとても素敵だ。  
 その他「マザー・テレサの瞳」「店の名」「ある一行」「ピカソのぎょろ目」が印象深い。    

 ちょっと調べてみたら、茨木のり子の詩は1つだけ知っていた。小室等のファーストアルバム「私は月には行かないだろう」に「12月のうた」という歌があって、その詩が茨木のり子なのだ。「師が走るといって、人間だけがいそがしくかけめぐる」といった内容のかわいらしい曲だった。  
 フォークブーム真っ盛りの中学時代、よく聴いたのが赤い鳥と小室等(&六文銭)だった。小室等は積極的に現代詩に曲をつけていた。谷川俊太郎と組んだ「いま生きているということ」は有名だ。  
 あれから30年経った21世紀、頑なにあの頃と同じ自分たちの世界を守り続けている後藤さんが茨木のり子の詩にどうアプローチするのか。秋にリリースされるアルバムが楽しみである。




2001/04/26

 「溺れる魚」(戸梶圭太/新潮社)  

 堤幸彦監督の映画「溺れる魚」は快作だったにもかかわらずそれほど評判にならなかったようだ。  
 映画はミステリとして水準を保ちつつ、登場人物たちのハチャメチャぶりが楽しかった。何より宍戸錠フリーク、女装マニアという主人公ふたりの刑事のキャラクターが出色だった。落ちこぼれ刑事と監視役の女性監察官(男2+女1)の絵柄も申し分なく、このトリオでシリーズができるのではないかと思えたほどだ。  
 本書はその原作である。  
 映画は原作を大胆に脚色していることは容易に想像できた。が、原作自体かなりぶっとんだ展開になっている。リアリティなんてほとんど無視し、ダムを決壊させた水が下流になだれ込むような怒涛のストーリー展開でどれだけ読者を引っ張れるか、その強引さが魅力である。  

 万引きでつかまった女装マニアの秋吉刑事と犯人逮捕時に現場にあった大金を横領した白洲刑事。二人は特別監査室の御代田警視正から罪を不問にされる代わりに公安刑事・石巻の不正を調査する任務を請け負った。  
 石巻は大手複合企業・ダイドーグループの幹部たちをおちょくる愉快犯〈溺れる魚〉の特定を個人的に依頼され、その調査費でかなりはぶりがいい毎日を送っているのだ。
 秋吉と白洲は潜入捜査で石巻・ダイドーグループ・〈溺れる魚〉の関係をつきとめたものの、ことはそんな簡単には終わらなかった。
 石巻の金回りの良さに目をつけ、〈溺れる魚〉の存在を知った多額の借金に苦しむ公安刑事・伊勢崎が介入してきたことでややこしくなってくる。返済の件でやくざに脅され切羽詰った伊勢崎は〈溺れる魚〉に成りすましてダイドーに大金を要求してきたのだった。
 こうして落ちこぼれ刑事、悪徳刑事、腹黒なダイドー役員、過激派、暴力団、さまざまな人物が入り乱れ、やがて白昼の新宿の街中でハチャメチャドタバタ大争奪戦が繰り広げられる!    

 強烈なキャラクターで登場する落ちこぼれ刑事二人は物語が進行するにつれ、だんだんとその影が薄くなってくる。うねるように展開する物語そのものが主役というべきか。実際面白くて夢中でページをめくった。文章も読みやすい。  
 〈溺れる魚〉の意味を説明しないところが新鮮。当然、映画と違って女監視官は二人とトリオを組まないし、御代田警視正は最後まで任務を遂行するクールすぎるくらいの男だった。予想外なラストも気に入った。


2001/05/12

 「初ものがたり」(宮部みゆき/PHP研究所)  

 「本所深川ふしぎ草紙」では陰で活躍した岡引きの茂七が主役となって、子分の糸吉、権三とともに難事件を解決する連作短編シリーズ。
 「お勢殺し」「白魚の目」「鰹千両」「太郎柿次郎柿」「凍る月」「遺恨の桜」の6編収録。  
 まるで池波正太郎の連作短編シリーズ(たとえば「仕掛人・藤枝梅安」とか)にオマージュを捧げたような内容である。  

 深川富岡橋のたもとで営業する稲荷寿司の屋台。茂七が事件の解明に詰まり、夜分この店に寄ると、元武士と思われる店の主人は名物である稲荷のほか季節の旬のもの(これがタイトルの由来)をだし、薀蓄を語る。茂七はその言葉に閃いて事件を解決できるという寸法。江戸情緒、季節感はたっぷりだし、でてくる料理はどれもうまそうだ。  

 担ぎの醤油売り女殺しの謎に迫る「お勢殺し」は蕪汁、境内にたむろする孤児たちを無差別に殺した残忍な犯人の意外な正体がわかる「白魚の目」は白魚蒲鉾。鰹を千両で買う奇特なお客を背負い込んだ魚屋の娘に隠されていたある事実が明かされる「鰹千両」は当然鰹。  
 後半の主要人物となって茂七の神経を逆なでさせる霊感坊主(少年)が初登場し、水飲み百姓の兄が江戸に出て奉公人としてそれなりの生活をしている弟を殺した事件の真相を追う「太郎柿次郎柿」は柿羊羹、酒問屋の当主とある盗みをきっかけに消えた女奉公人との関係が浮かび上がる「凍る月」は小田巻蒸し(茶碗蒸しの中にうどんが入っているのだとか)、霊感坊主の暴行事件と女中奉公のいいなづけ行方不明事件が交差する「遺恨の桜」は菜の花飯。  

 稲荷寿司屋主人の素性、ならず者・瀬戸の勝蔵と稲荷寿司屋主人の関係等々、解き明かされていない謎が残る。早くシリーズを再開してもらいたいものだ。


2001/05/15

 「スナーク狩り」(宮部みゆき/光文社カッパノベルスハード)  

 この題材は映画にこそ似つかわしいのではないか。読了してまずそう思った。  
 男の出世のために利用され捨てられた射撃を趣味にする女・慶子、慶子に同情する男の妹・範子、別れた妻子を不良カップルに意味もなく殺された中年男・織口、織口を父のように慕う同じ職場で働く青年・修治、そして慶子のライフルを奪いある決意を持って不良カップルの裁判に出向く織口をたまたま車に乗せた妻と別居中の会社員・神谷とその息子・竹夫。  
 必然と偶然の結果、6人の人生が重なり合い、絡み合いながらラストにむかって集約していく緊迫感。わずか一昼夜という短い時間の中で登場人物たちの陰影を刻みながら織口が何の目的で裁判所に向かうのかという謎が提示され、やがて解明された後のあっといわせるアクション。

 宮部みゆきは冒頭からお得意のストーリーテラーぶりを発揮し、読者を巧みに小説世界に誘い、手に汗握らせ、そして心揺さぶる。プロットが、まさに映画向きなのである。  

 織口を追う修治と範子、一度は別れたものの、再度織口に会いにやってきた神谷親子が金沢に集ってむかえるクライマックス。その衝撃、その瞬間をそれぞれの立場から描く筆さばきにため息ついた。出来すぎだよ、という反発もあるにはあるが、その巧さに納得してしまう。  

 実はもう何年も前から図書館の棚で本書を目にしていた。にもかかわらず手にする機会がなかった。特に意味はないのだが、読みたいという気になれなかった。長い間〈スナ-ク〉を〈スネーク〉と勘違いしていたこと、新書のハードカバーが好きになれなかったからだろうか。  
 それが「本所深川ふしぎ草子」の解説で「宮部作品の中で一番」と絶賛されていたのであわてて借りてきたのだ。

 スナークとはルイス・キャロルの詩にでてくる正体のはっきりしない怪物で、捕まえた人はその瞬間消えてなくなってしまうとのこと。  
 最近とみに増えた無軌道な若者たちによる殺人事件。被害者の家族は罪の意識が希薄な犯人に対して、愛する人を失った悲しみをどうわからしめるのか。素直な気持ちに従って行動した後に何が残るのか。  
 ラストに浮かび上がるテーマが鮮明で、いろいろ考えさせられる。




 ブックカフェ二十世紀では、7月21日(土)、15時から「高野浩幸タイム・トラベルトーク 今、甦る少年ドラマシリーズ! ACT1 なぞの転校生」が開催されます。
 高野さんをホストに少年ドラマシリーズの関係者をゲストに迎えて同シリーズをさまざまな角度から検証するトークイベント。
 第一弾は、高野さんが主演した「なぞの転校生」を取り上げます。

 おかげさまで当初予定していた集客数(40名)まであと一人となりました。
 店にある椅子を用意すればあと10名ほどは大丈夫なので、少年ドラマシリーズファンの方、ぜひ、ご予約お願いいたします。まだ間に合いますから!

 7日(土)からは、手作り感満載の、まるで高校の文化祭(大学の学祭?)のような「少年ドラマシリーズ展」をギャラリースペースで開催しています。
 「なぞの転校生」の台本、原作本のほか、少年ドラマシリーズを取り上げた雑誌、各ドラマの原作本、出演者のサイン色紙、思い出の写真等々を展示しています。
 閲覧無料です。神保町散策の折にぜひBC二十世紀にお立ち寄りください。


nazoten




 東野圭吾の江戸川乱歩賞受賞作「放課後」を、出版されてすぐ読んだ。とても面白かったが、なぜあんなエピローグを付け加えたのかが素朴な疑問だった。その後主要な作品はあたっているが、いつも読後の不快感が気になった。
 この読後の不快感は、東野圭吾が理数系であることに関係するのではとあるときから思い始めた。作品が直木賞候補になるものの受賞しないのは、この不快感に起因するのではないかとも。
 「容疑者Xの献身」で見事直木賞を受賞する。読んでみたら読後の不快感がなかった。以降、作品の傾向は感動作が売りになっていく。

     ◇

2001/05/07

 「白夜行」(東野圭吾/集英社)  

 大坂のとある町の廃ビルで質屋主人の他殺体が見つかった。捜査を担当する刑事の笹垣は容疑者らしき関係者を一人ひとりあたっていく。質屋の女房、女房と関係があるらしい従業員、質屋の愛人とおぼしき未亡人、そして未亡人と仲のいい男友だち。が、ともにそれぞれの小学5年生になる息子と娘の証言によりアリバイがあることが判明、男友だちも交通事故で死亡する。その後未亡人もガス自殺し、事件は迷宮入りしてしまう。
 
 冒頭から殺人事件が起こり、笹垣ら刑事の捜査過程がとても興味深く、いったいどうやって真犯人をみつけだすのだろうと読み進むと、時代は次々と変わっていき、そのたびに別の主人公となって物語が綴られる。
 気になるのは主人公の同級生としてあるいは友人として何度も登場してくる質屋の息子・亮司と未亡人の娘・雪穂の存在だ。
 亮司は理数系に強く、パソコンに長け、起業家としての才能を持ち合わせている。金のためかなりやばいことも手をだす。雪穂は美貌の持ち主で頭もよく誰からも好かれるタイプ。

 一見脈絡のない物語の中に中学、高校時代の二人の姿が見え隠れするのだが、このミステリがどのような展開になるのか皆目わからない。そもそもタイトルの「白夜行」とは何を意味するのか。  
 雪穂が大学生になった時のこと。一緒にダンス部に入部した親友の恵利子が篠塚部長とつきあいはじめ、それまで雪穂の引き立て役でしかなかった地味な存在だった彼女がみるみる美しくなっていく中で突然何者かに襲われた事件、あるいは部費が何者かに引き出された事件が起きた時点でやっと物語の骨格が見えてきた。それまで綴られてきた小さな事件の数々がつながったのだ。

 オイルショックの1974年からバブルが崩壊した1990年代はじめまでの約20年間に渡る亮司と雪穂の暗黒の行脚といえるのだろうか。
 つかず離れずしながら、犯罪を繰り返す二人が堅い絆に結ばれた要因はいったい何のか? 過去に何があったのか。
 その任を果たすためさっそうと調査を開始した探偵があっけなく二人の罠にはまって万事休すと思いきや、冒頭で登場したきり、忘れてかけていた笹垣がいぶし銀のごとく蘇り執念で二人を追い詰めていく!  

 年号を一切使わず、会話や描写の中でさりげなく時代を特定させる文章がいい。
 計算してみると亮司や雪穂は昭和39年生まれ、僕の弟と同い年になる。5歳上の立場から彼らの人生を眺める塩梅だ。70年代、80年代は僕にとっても10代、20年代を過ごした印象深い時代だから、時代背景を語る数々のキーワードを目にするたびに鮮やかに当時を思い出すことができた。
 特に1980年前後のパーソナルコンピュータの登場、ベーシック、機械語なんて言葉、カセットテープによるデータ保存、TVゲームの勃興あたりの描写は昨日のことのように思い出される。家が電気屋だったので早いうちからNECのPCがおいてあり近所の子どもたちが「パックマン」をやりにきていたりしていた。今から思えばいい時代だった。

 ラスト近くになって雪穂の悲惨な子ども時代がわかり、亮司と雪穂に感情移入できる仕掛けになっている。しかし僕はどうしても雪穂を許すことができない。確かに最初の犯罪は同情の余地はあるが、それ以外はすべて自分の都合でしかない。特に自分を信頼、尊敬している同級生が恋に目覚め、蛹から蝶へはばたこうとすることに嫉妬してとんでもない仕打ちをするくだりには愕然となった。なかなか自分に対して心を開こうとしない義娘にとった行為も同じ。

 そんなわけで亮司だけが死に、のうのうと生きていく雪穂のこれからを暗示させるラストは(たぶん取調べで過去の犯罪が暴かれるのであろうが)後味が悪い。
 東野圭吾の傑作といわれるミステリはどうもこの後味の悪さが気にかかる。そう思うのは僕だけだろうか。


2004/12/21

 「幻夜」(東野圭吾/集英社)

 阪神大震災で偶然出合った男と女。経営する工場の資金繰りの頓挫で自殺した父親の通夜の日、大地震で自宅が崩壊した中で辛くも危機を脱した雅也は家の下敷きになって虫の息だった叔父を殴殺してしまう。父が残した多額な借金の返済を迫られていたからだ。その現場を目撃した新海美冬も両親を震災で失っていた。美冬は雅也の犯罪を誰に告げるわけでなく、逆にその事実を知って強請ってきた叔父の娘夫婦から一計を案じて守ってやる。
 天涯孤独となったふたりは上京してそれぞれ新しい生活をはじめるのだが、美冬は身辺で起こった事件をきっかけに徐々に成り上がっていく。事件の陰には手先の器用な金属加工に長けた謎の男の存在が見え隠れする。不審に思った警視庁捜査1課の刑事、加藤が独自に調査を開始した……。

 1995年1月から1999年12月末までの4年間に及ぶ、目的のためには手段を選ばない悪辣非道な魔性の女と女に弱みを握られた以上に女の魅力にとりつかれすべてを犠牲にしてつくす男の犯罪物語。
 主人公たちのキャラクター造形、多くの人物が登場して、それぞれの視点から事件が描写される語り口、時代を象徴するキーワード(阪神大震災、地下鉄サリン事件、カリスマ美容師、ミレニアムパーティー)の活用などまさしく「白夜行」を彷彿させる。実際、刊行時には「白夜行」の続編、姉妹編的な紹介がされていた。同じプロットのミステリに挑戦したのは何か意図があったのだろうか。

 作者特有の平易な文章で読みやすく面白さも格別だ。にもかかわらず「白夜行」に比べると数段落ちると思う。
 前作では悪行を重ねるふたりの心情がほとんど描写されなかった。「幻夜」は雅也の心の移り変わりを詳細に綴っていく。美冬の正体も早いうちに推測できて(関係ないけれど、今後「砂の器」が映像化される際、トリックに使われるのではないか)、後半その事実を知り、人生を狂わされたことを悟った男が警察の手が届く前にどのような決着をつけるのか。すでに人殺しを重ねた男のことだ、ラストの興味はその一点につきる。
 にもかかわらずまったくカタルシスのないあのエンディングは何なんだ? 
 「白夜行」も納得できなかったが、それ以上に不快極まりない。まあ、作者の狙いはまさにここにあったのだろうが。





 本日、地元シネコンで「ハン・ソロ」鑑賞。
 アメリカでは評判が芳しくないとのことだが、映画の出来は悪くない。ちと長い気はするが。
 それにしても、毎年「SW」シリーズが観られるってことは幸せなんですよね?

          * * *

5月1日(火)

 「レディ・プレーヤー1」(TOHOシネマズ上野)


5月3日(木)

 「ばあちゃんロード」(スバル座)

 少々照れくさい映画だった。
 なんなんでしょうか、この感覚。

 先月、篠原哲雄監督のインディーズ作品(主演俳優の所属事務所の自主制作作品)「君から目が離せない ~Eyes on You~」を観た。
 シネりん代表代理のS女史によると、「君から…」は女性の立場からどうしても許せない(信じられない)描写があるという。対して、試写で観た本作は感動作で、ラストは涙なくしては観られなかったと。
 個人的には、「君から目が離せない ~Eyes on You~」の方がくるものがあった。


5月9日(水)

 「いぬやしき」(MOVIX川口)

 特撮(ヴィジュアル)を観たくて地元のシネコンへ。
 なかなか面白かった。父娘の反目、葛藤ものは落ち着いて観ていられない。いいやな、映画はラストで和解できて。
 特撮は「ガメラ 大怪獣空中決戦」の進化版のようだった。


5月10日(木)

 「ジュマンジュ ウェルカム トゥ ジャングル」(TOHOシネマズ上野)

 1996年公開の「ジュマンジュ」のリメイク。
 リメイクにあたり現代の意匠を施したことから、設定が「レディ・プレーヤー1」とほとんど同じになった。「レディ……」ではCGで描かれたゲームの世界(キャラクター)が実際の俳優が演じているというわけだ。
 展開はハリウッド映画の王道で新鮮味はない。あのラストの大団円だって、どうしてあの位置に落ちてくるのか、それが主人公にわかるのか。完全にご都合主義。とはいえ、こういうジャングルを舞台にした冒険ものは大好きなのだ。 


5月16日(水)

 「愛人」(神保町シアター)

 タイトルから受ける印象とはまったく違って、コメディ映画の佳作だった。何度笑わされたことか。





 「新幹線大爆破」は、リアルタイムでは観ていない。
 初めて観たのは24年後、ビデオ鑑賞だった。
 そのときの印象は、ストーリーは面白いが、演出のセンスが悪くて、世間の評価ほどのものは感じられないというものだった。

 今回、ラピュタ阿佐ヶ谷で「石上三登志スクラップブック刊行記念 ミステリ劇場へようこそ」(2/14~4/21)という特集があり、プログラムの1本が「新幹線大爆破」なので、スクリーンで観ればまた印象が違うかもと思っての鑑賞だった。

 印象は変わらなかった。
 後半、新幹線に仕掛けられた爆弾を取り外すための設計図(図面?)を、犯人(高倉健)が喫茶店に置いて、刑事が取りに行くシークエンスがある。喫茶店に行くと火事で大騒動になっていて、設計図が手に入らない。なぜ火事になるのかというところは描いていないから、あまりに唐突な展開に呆気にとられてしまう。ご都合主義の極みではないか。
 爆弾があるスピードを超えると爆発する仕組みもきちんと見たかった。どうやって新幹線に爆弾をセットしたのかも。

 感想で今リメイクしたら面白いと書いたが、99年当時のダイヤでは、とんでもなく混みあっていて、もうこのプロットは通用しないことに気がついた。

     ◇

1999/07/05

 「新幹線大爆破」(ビデオ)

 公開当時、国鉄に撮影協力を得られなかったということや日本の特撮で初めてシュノーケルカメラを使用したことで話題になった。同じ新幹線を扱ってやはり国鉄に協力を無視された同時期公開の「動脈列島」(東宝)より内容的に評論家に評価され、その後フランスで大ヒットした1975年の東映作品である。

 当時から観たいと思いつつ、結局今回初めてのビデオ鑑賞となった。
 「ウルトラQ 地底超特急西へ」と「スピード」を足したような内容で、時速80㎞以下に減速すると爆破する爆弾を新幹線にセット、乗客1,500名の身代金を奪おうとする犯人側、事故を回避しようと努力する国鉄側、犯人の検挙に奔走する警察側と、それぞれの話がきちんと描けていて、ストーリーそのものはとても面白かった。

 しかし演出のセンスを疑ってしまうところが何ヶ所もある。
 たとえば冒頭の犯人グループの一人、山本圭が夜間、北海道の夕張で機関車に爆弾をセットするシーン。バックには女性スキャットの甘い、なかなか印象的な曲が流れるのだが、これが画面にちっともあっていない。ここは音楽なしに第1の犯行を丹念に描写すべきではなかったか。
 それから国鉄側の人物紹介があって、新幹線操作システムの解説がナレーションで入るのだが、これも唐突な感じがする。台詞で説明できなかったのだろうか。
 音楽に統一感がない。その場その場に合わせて適当に作られている気がしてならない(1曲1曲は印象深いのに)。
 ズームイン、ズームアウトを多用するカメラワークも気になる。

 この映画、タイトルの新幹線が爆破されるかどうかのサスペンスより、主犯高倉健と警察とのやりとり、爆破回避後の逃亡劇の方がメインの物語なのであった。さすが健さん、どの映画でも同じ健さんだけど、存在感が違う。
 ラスト、追いつめられた高倉健が射殺されるシーンでストップモーションになって音楽が…当然冒頭のスキャットが流れるかと思いきや、これまでに聞いたことがない、そこだけに用意された音楽が使用されるのだ。やはりセンスがない。
 今、リメイクしたら面白いんじゃないかと思うのだが。

 豪華キャストの誰もがみんな若かった。そしてみんな熱い。暑苦しいほどだ。70年代の映画(TV映画を含む)の特徴と言えるかもしれない。




 昨日は休みをとって早稲田大学大隈小講堂で開催されたシンポジウム「映画監督と時代」に足を運ぶ。休みといってもDQの早朝仕事はこなしたし、その足でBC二十世紀に顔を出し、ひと仕事したわけだが。
 このシンポジウムは第1回、第3回に足を運んでいる。反戦映画の上映とセットになっていて、第1回では「ヒロシマ」を、第3回は「陸軍」を観た。
 5回めの今年は、「日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声」『塚本晋也解説「野火」20年の軌跡』の2本立て。

          * * *
 
 もう7月なのである。
 映画観てある記(観て歩き改題)が3月でとまっている。
 とにかく記録を残しておかなければ。


4月8日(日)

 「第3回 NET CINEMA FESTIVAL GOLDENEGG」(渋谷ユーロライブ)

 インディーズ映画に肩入れしていた00年代に知り合った、二人の映像作家が参加して2本づつ短編を撮ったということで興味深く観た。
 上映作品は以下のとおり。

 「OrbitOne ~宇宙ステーションへようこそ~」
 「イッツ・ア・ショータイム!」
 「Day 7」
 「復讐の紅」
 「位置について」
 「お花畑のまり子」

 「OrbitOne ~宇宙ステーションへようこそ~」「お花畑のまり子」が人見健太郎監督作。「Day 7」「位置について」が飯野歩監督作。
 感想、その他については別項にて。


4月11日(水)

 「年ごろ」(ラピュタ阿佐ヶ谷)


 「新幹線大爆破」(ラピュタ阿佐ヶ谷)

 
4月18日(水)

 「影の車」(ラピュタ阿佐ヶ谷)

 TV放映(及びビデオ)では何度か観ているが、劇場では初めて。
 「内海の輪」と本作で濡れ場の巧い女優として岩下志麻を認識した。中学のときだったか、高校生になってからかはっきりしないが。


 「パシフィック・リム アップライジング」(新宿ピカデリー)

 前作は巷の評判とは逆にほとんどノレなかった。字幕版のほか吹替版も観たのだが、印象は変らなかった。
 対して、本作はけっこう燃えた。
 日本の怪獣映画、特撮ヒーローもの、ロボットアニメからの引用が多数見られた。
 クライマックス、架空の大都市(東京なのか? すぐ近くに富士山がある)の街並み、看板の文字(に何が書いてあるか)が気になって、そちらに神経を集中させたことで肝心のバトルを見逃した!




 タイトルは、「カメラを止めるな!」について新たに付け加えること、というような意味だと思ってください。

 大沢さん(当時は大澤さんでしたが)、主演の映画を観たのは03年だったのか。「東京ロンググッドバイ!!」はとても評判をよんだ作品だった。
 
     ◇

2003/10/19

 「吉行良介監督作品上映会」(池袋 SCUM2000)  

 このイベントの正式タイトルは「朝めし前プロジェクト主催〈特別上映会NO.1〉 吉行良介監督作品上映会+朝めし前プロジェクト予告編+トークショー」。  

 25日より下北沢トリウッドで「ハーレムエイジ」&「ボンネットバスブルース」がロードショーされる朝めし前プロジェクトが大胆な企画を実現した。月イチでこれはと思えるインディーズムービーの監督を取り上げ、その作品を一挙公開、作家研究をしょうというのだ。  
 出会いというのは不思議なものだ。本年2月に朝めし前映画のスニークプレビューを観に行き、その出来の良さに感激して、冗談半分に〈朝めし映画を観る会〉を組織した。以後毎月スニークプレビューに顔を出した。動員記録を作ってロードショーさせるという目的(トリウッドではスニークプレビューで200名を動員するとロードショー権を取得できる)もあったが、上映会後の交流会がこれまた楽しい。朝めし前のメンバーはもちろん、日頃同じ席になることはない俳優、監督等、映像関係の方々にさまざまな話を直接うかがえるのがうれしかった。  
 トリウッド以外でも朝めし映画が上映されるに従って、いわゆるインディーズと呼ばれる映画に接する機会も増えてきた。7月のシネマキャバレー(SCUM2000)、8月のロフトシネマ(ロフトプラスワン)等々。  
 学生時代8mm映画に携わり、卒業後も個人的な制作グループを組織しようと思って挫折した僕としては心うづくものを感じるのだが、まあそれはさておき、昨年から想像もできなかった人たちと交流しているわけである。  
 とにかく佐久間氏は上映会を始めた当初からインディーズ団体の交流をはかることを念頭におき実践している。今回から始まる監督特集もその1つの活動だろう。  

 上映された吉行監督作品は次のとおり。

 「東京ロンググッドバイ!!」  

 いかがわしい何でも屋稼業で生計をたてる青年二人。今回の依頼は借金回収。100万円の借金を踏み倒して逃亡している男をつかまえなければならない。やっと見つけたと思ったら、その境遇に同情してしまう始末。まるで綾瀬さんとこの修と亮みたいな二人なのだ。  
 1週間のうちに100万円を返済しなければならない。でも当てがない。しょうがないからいっしょに金持ちボンボンの家に空き巣に入る計画をたてるのだった。某日某時間誰も家にいないという情報をつかむのだが、その話を聞いていた空き巣常習犯がいて……  
 男三人のおかしな行動を描きながら〈夢とは、自分の行き方とは〉を問う青春映画。  
 主人公の友だち(弟分?)を演じた斉藤雄一郎さんがいい味だしていた。主人公はちょっと背伸びしていたような。  
 伏線のはり方と落ちがいい。

 「好色一席男」(ロングバージョン)  

 VeltgaFilm613のベリーショートスペシャル(いくつかの約束事があるたった2分間のドラマを定期的に制作している)の一つである作品のディレクターズバージョン。通常より1分長い。  
 新宿の夜。夫との仲も冷え切った妙齢の女性から「私を楽しませて」と言われて、そのままホテルに直行する若者。やはり満足させることはできなかった。じゃあ、と昔とった杵柄とやらで、大学の落研時代に仕入れた落語を一席。果たして女性は……  
 若者の落語がもう少しうまければもっと面白くなった気がする。でもそれだと女性のラストの台詞に意味がなくなるか。

 「君に人工呼吸するのはいつだって僕さ」  

 文句なく傑作だと断言したい。「東京ロンググッドバイ!!」の主人公を演じた大澤真一郎さんぴったりの配役でした。このキャラクターとても光っている。映像自体瑞々しい。
 彼女の部屋で繰り広げる二人劇に嫌味がなく、ずっと観ていたくなった。途中インサートされる老人はストーリーにどんな関係があるのだろうとひっかかりながら、ラストで「おお!」と納得できる。  

 ストーリーの語り、そして落ち。吉行監督って落語に造詣が深いのだろうか。落語好きとっいってもいい。  
 交流会で確認するのを忘れた。

     ◇

2006/05/19

 「DEVIDE/ディバイド」(渋谷シネ・ラ・セット)

 「ロスト・バイ・デッド」で鮮烈なデビューを飾った辻岡正人監督の第2作。
 インディーズの「ロスト・バイ・デッド」は未見だが、面白いとの評判を聞いていたので、一般の劇場でレイトショー公開された「DEVIDE」にはかなり興味があった。若者たちの暴力と性を扱ったサイバーパンクな世界が描かれているのではないかと。

 母親が急死して、担任の家で養われることになった女子高生(倉貫まりこ)。ある投稿が縁で知り合った恋人の編集者(大澤真一郎)を通じて幼いころに別れた妹を探してもらっている。同じ学校に通う不良少女(吉川綾乃)はストリートギャングの中間幹部で、部下たちに売春させ、売上金をボスに上納する毎日。このボスがトンガリ金髪にカラーコンタクトのイカれた男。どことなく編集者に似ている。編集者はまじめな好青年なのだが。二人の女子高生、そして編集者とストリートギャングのボス。4人を結ぶ驚愕の事実とは……

「若さは、才能ではなく、存在である」
 冒頭で出てくる字幕が映画の内容を代弁していた。ストーリーそのものは面白い素材なのに。

 本編終了後にオマケで上映されたたった5分間の超短編「Kill you」が映像、構成、演出とも出色だった。ある部屋で目覚めた女性の恐怖体験を描くサイコミステリ。モノクロトーンに突然挿入されるカラー映像が効果的。観終わって「おおそういうことか!」と唸らされる。




 タイトルは、つづく、「カメラを止めるな!」とお読みください。

 承前

 断念して翌週、つまり今週の水曜日(4日)に延期した。
 新宿武蔵館(&シネマカリテ)は水曜日が独自のサービスデーで料金が1,000円になるのである。K'sシネマの方は通常料金でもいいや。それより早く観たい!
 それが、シネマ・ロサでレイトショー公開されているという。20時45分だと、店を終えてからでも十分間に合う。この映画の場合、レイトショーでも通常料金とのことだが、サービスデーだから安くなる。とにかくラッキーだった。

 心配なのは席があるかということだった。K'sシネマは連日満席だというのだから。
 平日だしサービスデーだからレイトショーにお客が殺到することは予想できる。
 実際、窓口でチケット購入すると、ほとんどの席は埋まっていたのである。空席なのは最前列と2列めだけ。だったら一番前にしてやれってんで、最前列の真ん中を確保した。

 口コミの評判は嘘ではなかった。映画について何の情報も仕入れなかったということもあるのかもしれないが。
 冒頭のシーンが映画撮影のものというのは始まった瞬間にわかった。
 しかし、30分後のエンドロールにびっくり。この映画、短編だったのか! 確かにインディーズならありうるか。短編でも面白かったから満足だ。

 それにしても低予算でよくぞあれだけの映画が出来たものだ。
 それも全編ワンカットだ。
 ゾンビのメーキャップ、ヒロインの血みどろの演技。全編にこだまする絶叫。
 まるで「悪魔のいけにえ」を初めて観たときの感情が甦る。
 何度恐怖でのけぞったことか!

 ……

 構成が素晴らしい。
 1アイディアをきちんとシナリオ化して映像に構築したことがすごいと思う。
 一粒で二度、正確には三度おいしい映画だ。
 自主制作映画(インディーズ映画)あるあるという側面もあるかもしれない。その手の現場を知っている関係者が観るとエピソードのいくつかに得心できるのかも。
 なにより、ラストで自分もスタッフの一員になった気がして、作品を作り上げたことに熱いものがこみ上げ、なおかつ清々しい気持ちにさせてくれることを特筆したい。

 低予算のインディーズ映画(インデペンデント作品)が話題を呼んで爆発的ヒットする、という点において、21世紀の日本で「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」が生まれたというわけか。
 これでインディーズ映画が注目されればなおうれしい。

 上映終了後、出演者による舞台挨拶があった。告知はされておらず、まったくのサプライズ。
 満席に感激した一人は泣きながらの挨拶だった。
 メンバーの中に大沢(大澤)真一郎さんがいた。インディーズ映画に肩入れしていたときに、ある映画の主演者として知り合った。同人誌「まぐま」ではインディーズ映画特集号を2冊編集したのだが、それとは別にある号の巻頭をモノクロで飾ってもらったことがある。
 大沢さんがこの映画に出演していることを知ったのは、上映スケジュールを調べていたときだ。
 シネマ・ロサでは翌日(2日)から関係者によるトークショーが始まる。大沢さんは3日(火曜)に予定されていた。それを知って一瞬通常料金でもいいから3日に観賞しようかと思った。すぐに諦めた。生憎3日の夜は予定が入っているのだ。
 そんな経緯があるから、サプライズ挨拶に喜んだ。
 舞台挨拶後、大沢さんに挨拶できた。




 昨日は映画サービスデー(ファーストデー)。
 「ハン・ソロ」を観ようか、はたまた「パンク侍、斬られて候」にしようか。「万引き家族」をもう一度観るのもいいかな。
 なんて劇場の上映スケジュールを調べていたら、池袋のシネマ・ロサで「カメラを止めるな!」をレイトショー公開していることを知った。

 当初、この映画にそれほど興味はなかった。
 ゾンビ映画を撮っている制作クルーに襲いかかる本物のゾンビ、情熱(狂気?)の監督はリアルを求めて撮影を中断させない、その悲喜劇。その程度の認識だった。趣向を変えたゾンビ映画か、と。インディーズ映画であることも。
 ところが公開されると、絶賛の声ばかりが聞こえてくるのだ。

 シネマDEりんりん代表代理のS女史がシネりんのイベントとは別に企画してBC二十世紀で開催した「Hollywood Talk in Tokyo ハリウッド現役映画アーティストが語るプリビズの裏側」。告知から開催まで一週間あるかないかというものだったが、おかげさまで50人近くの集客という大盛況。二次会の会場で、主役のHiroshi Mori氏がCGを使わない映画をつくりたいと宣言すると、すかさずS女史が言ったのだ。
「『カメラを止めるな!』をぜひご覧になってください!!」

 00年代、某インディーズの映画団体との交流ができて、活動を応援していた。その関係でさまざまな映画関係者と知り合うことができた。その一人、俳優のMさんがFBで取り上げていた。
 まいった/これは面白れぇ/すっかりはまっつまった

 じゃあ、観よう!
 劇場は新宿のK'sシネマ。夜は上映していないから、休みの日に行くしかない。
 先週の水曜日、午前中、ラピュタ阿佐ヶ谷のモーニングショーで「黒の切り札」を鑑賞したあと、新宿へ出て新宿武蔵野館で上映中の「スパイナル・タップ」と「カメラを止めるな!」を観るつもりでいた。ちょうどいい具合に2本の映画が続けて上映されるのだ。
 ラピュタは岡本喜八監督特集をやっていて、最終週は「殺人狂時代」と「ジャズ大名」を押えようと思っていた。この2本は翌日鑑賞というスケジュール。
 ところが、急遽7月のイベントに関する用事ができてしまい、午後の鑑賞を断念せざるをえなかった。

 この項続く




2001/03/28

 「初恋」(ツルゲーネフ/米川正夫 訳/岩波文庫)  

 最近翻訳本を読む機会が極端に減っている。90年代になって海外ミステリを読みあさった頃もあったが、この数年は年に数えるほどしか読んでいない。  
 そんな状況を心配してか、昨年暮れに友人が古典、名作の類いの文庫本何冊かプレゼントしてくれた。感謝します。  

 高校時代はまったく翻訳本を読まなかった。モーパッサンの「読書案内」を読んだ際、あまりの翻訳調の文体に嫌気がさしたのが要因だった。  
 翻訳に名訳や迷訳があるということを知ったのは20代になってからだ。  
 大学時代にエラリー・クィーンの「Xの悲劇」「Yの悲劇」を読んだのだが、どうも今ひとつという感じだった。ともに新潮文庫の同じ訳者。次に創元推理文庫の「Zの悲劇」を読んだらこれが面白いのなんの。訳者によって作品世界が一変してしまうことを痛感した。
 そういえば昨年、映画「太陽がいっぱい」の原作で有名なP・ハイスミスの「リプリー」が再映画化されたときのこと。角川文庫と河出文庫から訳者の違う原作がでたのを書店の平台で知り、興味本位で1ページめを読み比べてみたら、内容は同じなのに文章で印象がずいぶんと違っていて驚いた。
 
 ベストセラーになったP・コーンウェルの「検屍官」(相原真理子訳/講談社文庫)あたりから海外ミステリで女流作家が台頭してきて、訳も女性というのが主流になった。これがどの作品も不思議と翻訳を感じさせない内容だった。昔だって名翻訳者と呼ばれた人はいたと思う(「火星人ゴーホーム」「発狂した宇宙」等の稲葉明雄とか)。だから女性が翻訳界に進出したからというわけではなく、一般的に翻訳技術が向上した結果と見るべきだろう。    

 で、古典中の古典「初恋」である。  
 この手の古典で思い出すのは中3の時の担任だった恩師の読書体験の話だ。先生の大学時代、ロシア文学を夏休みに牛乳とアンパンを食料に自室で寝転びながら読破したという話を聞いて、いつか自分も同じように「戦争と平和」「赤と黒」などに親しみたいと思ったものだ。〈パンと牛乳〉というのに憧れた。寝転んで本は読むものの、寝食を忘れて読書に没頭するなんてことはまったくしなかったし、その時はすでに純文学からも遠く離れてしまっていた。  
 ロシア文学のひとつである「初恋」で恩師の言葉を思い出し、昔の夢ふたたびって気持ちもあったが、哀しいかな「初恋」、本が薄い。わずか110ページしかない中編なのである。  
 こんなの1日で読了できると読み始めたところ、なんとも古臭い文章で閉口した。〈格調高い〉という言い方もできるのだろうが、公爵夫人が「よござんす」と言うのにはずっこけた。  
 奔放な女性に振り回される純情な男というのは普遍的な構図なのだとは理解できたけれど。


2001/04/02

 「ブラームスはお好き」(サガン/朝吹登水子 訳/新潮文庫)  

 サガンの名は昔から知っていたにもかかわらず、これまで読んだことがなかった。一世を風靡したフランスの恋愛小説家、その作品は若い女性に広く読まれているというイメージで、男の僕には対象外といった感じだった。  
 この年齢(41歳)でサガンを読むなんて思ってもいなかったが、「ブラームスはお好き」は中年になったからこそ物語に素直に入っていけたともいえる。  

 主人公がポールという名なので、てっきり男だと思って読んでいくとどうも描写がおかしい。なんと女性なのであった。ポールという名のヒロイン。何とも不思議だ。日本でいえば〈あきら〉だろうか。  
 39歳のポールは離婚経験のあるウィンドウの飾りつけ専門のエタラジスト。年上の恋人・ロジェがいるが、仕事先で知り合った25歳の美青年シモンが彼女に一目惚れし強引に交際を迫ってくる。浮気癖のあるロジェとの生活にもつかれ、ついつい惹かれていくが……というもう若くない女性の、ふたりの男性の間で揺れ動く複雑な心理が描かれる。  

 この作品がフランスで発表されたのが1959年というから僕が生まれた年であり40年以上前なのに、テーマが普遍的だからなのか、あるいは舞台となるパリに対する僕のイメージが貧困だからなのかまったく古臭くない。  
 ヒロインの恋の行く末がどうなるのか、クロード・ルルーシュ監督の恋愛映画風映像を想像しながら(当然音楽はフランシス・レイで)、夢中でページをめくった。  

 10代や20代の頃に読んでいればシモンに感情移入できたのだろうか。40代から見るとシモンは思い上がりもはなはだしいバカ者で可愛げのかけらもないイヤなやつなのだ。こんな男に言い寄られて、いつしか恋愛感情を抱いてしまうヒロインの気持ちがわからない。
(だって、あなた、いくら若いからといって25歳のハガケンジに夢中になれますか?ってちょっと比喩がかけ離れているかな)
 かといって同世代ロジェの肩を持つ気にもなれない、と思いつつ彼の気持ちをまったく否定できないところが僕が中年になった証拠だろうか。

 題名はシモンがヒロインを音楽会に誘う手紙に書かれた文章からとられている。
「六時に、プレイエル・ホールでとてもいい音楽会があります。ブラームスはお好きですか? きのうは失礼しました」




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)

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