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 先週26日(金)から始まった「神田古本まつり」。59回めと知って自分が生まれた年(昭和34年)から開始されたのかと感慨深かった。古本まつりを経験するのはもう4回めなのに。
 古本まつり開催中、神保町は一変する。特に初日と土日の混雑ぶりがすごい。歩道なんて人、人、人でまっすぐ歩けないのだ。今回も土日の忙しさが半端なかった。
 カフェのお客さんも通常日の3倍、4倍という感じ。次々とやってくるから休憩がとれない。いつも14時ごろに昼食をとるのだが、土曜は16時過ぎ、日曜は16時からイベントがあってカップラーメンを食べたのは18時を過ぎていた。

          * * *

2001/09/05

 「本の業界 真空とびひざ蹴り」(本の雑誌編集部/本の雑誌社)  

 そうか、今の人は真空とびひざ蹴りを知らないのか。今ではキックボクシング自体マイナーの存在だものなぁ。かつて沢村忠というキックボクサーがいたことを知る人がどのくらいいるのだろうか。昭和40年代半ば、小学生だった僕らはアニメ「キックの鬼」に熱中したし、遊びの中でよく真空飛び膝蹴りの真似をしたものだ。何をもって真空の飛び膝蹴りなのかよくわからなかったけれど。  
 まあ、そんなことはどうでもいいか。  

 本の雑誌の巻頭ページに巻頭(業界提言)コラム「真空とびひざ蹴り」が掲載されているという。知らなかった。いやかすかに覚えているような。いつも立ち読みするだけ、それもじっくり記事を読む習慣がないから気づかなかったのかもしれない。あわてて最新の雑誌を開いたら…ない。今春、目黒考二が発行人から退き、同時に連載も終わったのだとか。どうして?なぜ?じゃあ椎名誠は編集長を降りたのか?いろいろ訊きたいことはあるけれど、これまたとりあえずどうでもいい…ことにして。  

 やっと本題に入る。  
 1979年から2001年までの出版、取次、書店業界の流れが手にとるようにわかる。僕が一時在籍、出向してそのまま今の会社に転籍した後倒産した大陸書房の名も出てくる80年代の出来事は懐かしいの一言。あたりまえのことだけど。  
 コラムで何度もその存在意義について取り沙汰される〈サン・ジョルディの日〉が制定されたのが1986年。僕が躁になって、いつも財布の中を気にして本を思う存分買えない日頃の鬱憤を晴らすかのようにダンボール箱一杯に本を買いまくったあの日、銀座の各書店では〈サン・ジョルディの日〉を告知するポスターがやたらと目についた。確か賞品がスペイン旅行だったような。好きな人に本を贈るといってもチョコやキャンディのようにもらって誰でもうれしいものではないという指摘はまったくそのとおりで、本が単純な商品でないことがわかる。
 
 本は高くないという主張も首肯できる。一回こっきりの楽しみのため、飲み代で4,5千円支払うことに比べたら、何度も繰り返し読むことができる本が3千円だって高くない。にもかかわらず書店で2千円代の本を手にとると「高い!」と感じてしまうのなぜ?
「本を安いと言いながら図書館で借りてばかりいるのはどうしてなのか」という声がどこからとなく聞こえてくる。そりゃ、自由になる金と広い部屋があったらどんどん本買いますよ。今だって本棚は一杯になっていて置き場に苦労する始末。それでもどうしても欲しい本は購入しているんです(夫婦喧嘩のもとなんだ、コレが)。そんなわけで一度読めればいいと思う本は図書館から借りてくることになります、ハイ。  

 本の業界に対するさまざまな提言はどれももっともだと思う。  
 ちょっと冷や汗がでたのは「本を選ぶ客が多すぎる」の文章。本の外見を気にしすぎる客に対する文句なのだが、新刊が平積みされている場合は僕もけっこう選んでしまうのだ。やっぱりお金だすのならきれいな本を自分のものにしたいから。反省。  

 インターネットの勃興、またたくまの隆盛はまさに驚き。この10年で携帯電話の普及とともに情報ツールの核になってしまった。最初はパソコン通信だったのだ。パソコンに強い当時の後輩にその討論のやりとりを見せてもらったことがある。〉や〈が頭について飛び交う文字を眺めながら面白そうだなあ、でもこれは一部のマニアだけのもの、僕みたいな自宅にPCを持たない者には関係ない世界だと思った。それがまず会社で一人1台PCがあてがわれ、自由にインターネットが閲覧できるようになり、個人HPのBBSに勝手に書き込めるになって、そこで知り合った同好の士とオフ会なんていう飲み会で酒を酌み交わす仲になってしまうのだった。  
 本書にはインターネットにはまって読書の時間がなくなるという記述もあり、どこも同じなんだなとニヤリとしてしまった。  

 書評のあり方についての言及もあって、本の感想を記すサイトを持つ者には考えさせられる問題だ。このHPに発表している拙文は僕が本を読んで感じたこと、思ったことを自由に書いているもので書評という意識はない。ただ、取り上げる本については(特に小説の場合は)概略も付記して内容を知らない人にもわかるように心がけている。ラストの意外性や謎解きの種明かしなんかできない(それは小林信彦のコラムで十分わかっている)。とはいえ、後半で浮かび上がってくるテーマや、ラストの展開を詳細に記述しないと感想が書けないなんてこともあるので、確信犯的にでネタバレさせることもある。まあ、取り上げられた問題はプロのライターが書く書評についてだから、同じ土俵で考えることもないのだろうが、文章を書いている者として気になるし参考にしたい。


2001/09/17

 「思い出株式会社」(土屋嘉男/清水書院)  

 俳優・土屋嘉男が書いた本書を羽田図書館のエッセイ、随筆の本が並んだ棚で最初に見かけたのはずいぶん前のことだ。いつも棚にあるので、ほとんど貸し出されたことがないと思われる。  
 土屋嘉男は好きな俳優だけれど、映画やTVについてではなく、自分の少年時代の思い出を記したもので、興味がわかなかった。ところが「クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々」を読んで気が変わった。文章がかなり面白いのだ。「クロサワさーん!」読了後、すぐに借りればいいものの、それはほら、いつも棚にあるから安心しきってしまって手にすることがなかった。録画しておいていつか見ようと思いながらそのままになってしまうTV番組になりそうなので、やっと重い腰をあげた次第。  

 巻頭の写真がユニークでかわいらしい。トライアングルに位置した3匹の飼猫が著者を前にして頭を垂れて反省している構図。飼主との信頼関係が一目でわかる。  

 著者の故郷は長野県の甲府盆地。大菩薩峠の登山口にある塩山市。いやはや何て素敵な少年時代をおくった人なのだろう。一つひとつのエピソードが輝きをもって僕の胸にせまってくる。  
 収録されて思い出話はもともとテレビ朝日「徹子の部屋」に出演した際に語ったものが中心になっているらしい。「徹子の部屋」で語る話が好評で、すでに出演は15回を数えているとか。その面白さは本書を読めばわかる気がする。さぞスタジオは笑いに包まれたことだろう。    

 少年時代の著者をとりまく環境がうらやましい。自然と生活が一体化している。  
 雨の日でも庭の花々に水をやる父親は町の名士でよくできた人だったらしい。やさしい祖母、弟をからかう姉たち。著者のその後の人生をぴたりと当てた手相見の乞食じいさん。町の不良たちと喧嘩して、負かしてしまうお手伝いのトミ江さん。手癖の悪いゴシやんや愛犬エスとの交流。芋泥棒たち……。   
 登場する人物もまるで映画やTVに出てくるようなユニークなキャラクターばかりなのだ。  

 著者が体験した〈三つの謎〉が興味深い。祖母といっしょにお化けのオビンズル(目、鼻、口のない大きな耳を持つ少年)を目撃したこと。突然、空から自分を照らした光、そしてUFO(らしい)物体。特に著者一人だけでなく祖母も一緒に見ているオビンズルの正体はいったい何だったのだろうか。  

 後半の戦中時代の話はまるで土屋版「少年H」の趣きがある。〈四人の鼓笛隊とバンザイおばさん〉はおかしさの中に戦争の犠牲者の悲哀がにじみでている。  
 〈秘密にされた大地震〉には驚いた。昭和19年12月7日に熊ノ灘沿岸を震源地にしたM7.9の大地震は当時はもちろん今でも知らない人が多いのではないか。    

 クラシックが好きで音楽(バイオリン)を志し、戦争のため断念せざるをえなくなると、次に医者になろうとして、結局役者になってしまった紆余曲折の人生。  
 東京で仲間とともに住んでいたアパートの一室が夏休みの間留守にしていると、大家が無断で他人に賃借してしまい(これもひどい話だ)、仕方なく鶏小屋に間借りしてしまう大らかな性格。  

 俳優・土屋嘉男に対する見方が変わってしまう本である。




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 もうひとつ、ブックカフェ二十世紀・11月イベントの宣伝です。
 これまたFBからの転載。

     ◇

 私にとって、第二期ウルトラ(マン)シリーズは山際永三監督につきるんですね。

 「帰ってきたウルトラマン」では「許されざるいのち」「怪獣少年の復讐」のほかに「大怪鳥テロチルスの謎」「怪鳥テロチルス 東京大空爆」の前後編があります。サブタイトルとは裏腹の現代(70年代前半)の「金色夜叉」をやっていますからねぇ。尖がった青春映画、恋愛映画という印象でした。

 「帰マン」以外では、「ウルトラマンA」の「3億年超獣出現!」のインパクトが強烈でした。監禁された私服(ワンピース)姿の美川隊員の…… 以下自粛。
 「ウルトラマンタロウ」は「怪獣ひなまつり」が最高です。あのぶっ飛び方。特撮ものでミュージカルができるかもって目から鱗でしたから。
 11月24日(土)、15時から山際永三監督のトークライブを開催します。

 鼎談集「監督山際永三、大いに語る」(彩流社)の出版を記念して企画しました。題して「監督山際永三、特撮作品について大いに語る!」。
 白石雅彦さんがあんなこと、こんなことを訊いてくれるでしょう。
 ゲストの高野浩幸さんは撮影時のエピソードを披露してくれるのではないでしょうか。

 ワクワクしています。


山際監督トーク




 私が働いているブックカフェ二十世紀のイベントの宣伝です。
 FBのものをそのまま転載します。
 少年ドラマシリーズファンの方、12月1日(土)はぜひ神保町へ!!

     ◇

 ブックカフェ二十世紀では、7月から、1970年代、中高生を夢中にさせた少年ドラマシリーズを検証するトークイベントを開始しました。
 さまざまなゲストを招いて、少年ドラマシリーズを検証していきます。

 ホストは俳優の高野浩幸さん。シリーズの中でも特に人気の高かった「なぞの転校生」に主演しています。
 ACT1はその「なぞの転校生」を特集し大好評でした。

 今回も高野さん主演のドラマを取り上げます。
 松本清張原作の「赤い月」です。シリーズの中では珍しい学園ミステリ。
 ゲストもお呼びする予定。当日のお楽しみということで。
 少年ドラマシリーズファンの方は必見です!

 ぜひご予約のほどお願いいたします。


少年ドラマシリーズトーク2





 だめだ、だめだ。帰宅すると疲れてしまってPCに向う気になれない。それでも「まぐまPB10」の締め切りが近づいていて原稿の最終チェックをしなければならない。見直して訂正してもうそれだけでいっぱいいっぱい。すぐに横になってそのまま寝てしまう。
 紙ふうせんリサイタルのこと、50代最後の誕生日を迎えたこと、書き出してそのままほっぽいている。
 今週はBC二十世紀の休みがない。今日は疲れた身体にムチ打って昼過ぎに出勤。

 「高野浩幸タイム・トラベルトーク 今、甦る少年ドラマシリーズ!」の第2回が12月1日(土)12時~に確定した。
 高野さんの子役時代にゲスト出演した「帰ってきたウルトラマン/怪獣少年の復讐」や僕自身リアルタイムで視聴して深く感動した「帰マン/許されざるいのち」等の監督、山際永三氏のトークイベントも11月24日(土)15時~開催で準備している。

 来週26日(金)からは「神田古本まつり」が始まる。
 何かと忙しいけれど、やることは少しずつでも進めなければ。

          * * *

2001/09/04

 「続巷説百物語」(京極夏彦/角川書店)  

 京極夏彦版必殺シリーズというような味わいがあった「巷説百物語」の続編。  
 妖怪伝説を巧みに取り入れた悪人退治の物語は同様だが感触が微妙に違う。前作がライト感覚だったとすると「続」はよりヘビーになっている。単に一話分のページ数が増えただけでなく、内容が変わったというべきだろう。  

 前作において又市たちとその仲間(小股潜りの又市、山猫廻しのおぎん、事触れの治平、考物の百介)はあくまでも悪人を退治する集団でしかなかった。つまり各話はあくまでも被害者の物語だったのだ。被害者が悪人とどんな関係を持ち、どのような被害を被ったのか、それがその地の妖怪伝説と結びつき、その伝説を利用して又市たちが悪人退治する展開。謎解きの要素も多少あったように思う(だいたい最初でオチがよめるのだが)。
 
 「続」は又市たちが全面に出てくる。前作では語られることのなかった又市たちの素性や生活が細やかに描き出される。悪人退治の動機が仲間たちの過去に大いに関係してくるのである。   
 「野鉄砲」では治平が、「狐者異(こわい)」ではおぎんがフィーチャーされ、事件の真相が明らかになる中で治平やおぎんの過去がクローズアップされることになる。  
 「飛縁魔(ひえんま)」は百介たちが婚礼前日に失踪した花嫁を探す過程で二人の女性の数奇な運命が浮かびあがってくる、どちらかというと前作のような味わいがあるものの、続く四国地方の妖怪〈七人みさき〉の伝説に基づく「船幽霊」「死神 或は七人みさき」のプロローグのようにも思える。というか、収録されている作品がそれぞれ繋がっているのだ。一話完結の前作との違いは本書が連作の形をとっていることからもうかがわれるい。「船幽霊」以降に登場する凄腕浪人のキャラクターは「仕掛人梅安」シリーズに登場する小杉十五郎を彷彿させる。  
(WOWOWで映像化されたオリジナルエピソードのタイトルが「七人みさき」だったはずで、映像作品と「死神」がどう関係しているのかわからない。)  

 このシリーズ、まだまだ続くものだとばかり思っていたら「死神」の後日談的エピソード「老人火」で完結してしまった。  
 住む世界の違う又市たちとの交流をとおして、自分の居場所を見つけ、戯作者として一人立ちしていく男の物語という側面も併せ持つのが「続巷説百物語」の大きな特徴だろう。


2001/09/07

 「かまいたち」(宮部みゆき/新潮文庫)  

 回向院の茂七親分が活躍する「本所深川ふしぎ草紙」「初ものがたり」に「幻色江戸ごよみ」のエピソードを加えてNHKでドラマ化した「茂七の事件簿 ふしぎ草紙」が面白い。原作に描写される茂七とはまったく違う容貌だし、茂七の家族設定その他TV向きに変更されているけれどもこれがなかなかいけるのだ。最近バラエティづいている高橋英樹にとっては「桃太郎侍」に続く時代劇の当たり役になるのではないだろうか。  
 そのドラマでこの前「だるま猫」が放送された。「本所深川ふしぎ草紙」「初ものがたり」にはないエピソードだから当然「幻色江戸ごのみ」の短編を使用しているのだが、この話、知っている、いや一度読んでいるのである。「幻色江戸ごよみ」は未読である。ではなぜ? どこで読んだのだろう?  
 その謎を解くべく図書館で「幻色江戸ごのみ」を探したが、見当たらなくて、代わりに「かまいたち」を借りてきた。  

 「本所深川ふしぎ草紙」に続く時代小説の短編集。表題作「かまいたち」のほか、「師走の客」「迷い鳩」「騒ぐ刀」の4編が収録されている。  
 市中を騒がす辻切り〈かまいたち〉の顔を目撃してしまった貧乏長屋の町医者の娘が真犯人を見つけ出すまでの騒動をミステリタッチで描く「かまいたち」。この話は読んだばかりの「続巷説百物語」の「死神 あるいは七人みさき」の印象がダブる。事件が解決しラストで父親の町医者がつぶやく嘆きに心温まる。  
 千住上宿で旅籠をきりまわす夫婦が、師走になるとやってくる馴染みの客から宿賃の代わりの受け取る金製の飾り物をめぐる話の「師走の客」。予想したとおりの展開で夫婦の気持ちを思うとやりきれなくなるが、ちゃんとラストで一矢報いる展開になっていて安堵する。  
 「迷い鳩」「騒ぐ刀」は超能力者のお初という少女がヒロインの連作。岡っ引きの兄、やさしい義姉、超能力の存在を信じ後に「耳袋」を書く南町奉行の根岸鎮衛を後見人とするお初が「迷い鳩」ではある問屋の女主人の着物に真っ赤な血ついているのを見てしまったことから、「騒ぐ刀」では兄が預かってきた脇差の誰にも聞こえない言葉を聞いてしまったことから、事件に巻き込まれる。  

 宮部みゆきはともすれば相反してしまう超能力とミステリを結びつけた作品が多いが時代小説でも超能力を扱うとは驚いた。解説によればこの2作はデビュー前に書かれたそうな。設定や登場人物からシリーズになると思ったら、すでに本になっていた。  

 さて冒頭の謎。簡単に解けた。ちょうど時代小説にも興味がわきだした数年前に手にしたのが縄田一男が編んだアンソロジー「怪奇・怪談傑作集」(新人物往来社)で、その中に「だるま猫」が収録されていたのだった。短編「だるま猫」は僕が初めて読んだ宮部みゆきの時代小説なのだ。もちろんドラマみたいな人情モノではない。ラストはかなり怖かった覚えがある。




 まぐま原稿のインタビュー記事の構成はK氏に託した。やっと肩の荷が降りた。
 7日(日)の帰宅時、川口で降りて「さくら水産」へ。久しぶりの安価居酒屋はメニューがけっこう変っていた。値段もちょっと高くなっていたような。
 サバの塩焼きを肴に日本酒を一杯やってからMOVIX川口へ。
 21時から「クワイエット・プレイス」鑑賞。

 この映画、初めて予告編を観てからというもの公開を楽しみにしていた。
 予告編の印象では、たまたま森に迷い込んだ家族の、いつ敵に襲われるかという恐怖とサスペンスを描く映画というものだった。事前に何の情報も仕入れないことをモットーとしているので、実際に鑑賞すると「えっ、こういう話だったの!」ということがままある。
 映画は、目は見えず音だけに反応する地球外生物が潜む森(?)の中で何とか生き抜いていこうとする家族のサバイバル模様を描くSFだった。時代設定も数年先。2021年か22年だ。

 予告編で何度か目にした緊迫シーン、橋の上で小さな男の子が手にする玩具が鳴り出して、少し離れて先頭にいた父親があわてて助けに駈け戻るというのは映画のクライマックスだと思っていた。
 違った。このシーンは開巻すぐやってくる。
 ネタバレになってしまうが、この子はあっけなく敵の犠牲になってしまう。
 驚いた。
 ハリウッド映画は子どもが死ぬことがない。実話の映画化ならともかくフィクションならほとんどの場合、子どもは助かるのである。すべての映画を観ているわけではないので断言はできないが。
 この映画の場合、この子の死が通低音として全編に流れている。

 「ファミリー・アドベンチャー」のSFデストピア版とでもいうべきか。そんな印象を受けた。

 映画は荒廃した街の一角から始まる。なぜそうなったのか、回想シーンなど一切挿入せず、台詞や小道具(新聞記事や看板、切り抜き、メモ等々)を使って状況説明する構成が巧い。それもドラマが進むにつれて徐々に観客にわからせていく、その溶け込ませ方が。
 恐怖やサスペンスに夢中になっているとクライマックスで胸を熱くさせてくれる。父と娘の断絶、反目、その葛藤が描かれると、もうそれだけで反応してしまう。あくまでも個人的な事情、心理に依拠することだけど。

 斬新な作りである。台詞がほとんどない。会話はスーパーインポーズで表示されるのだ。少しして手話で話していることに気づく。なぜ手話できるのかも。主要な登場人物は家族だけ。
 だからこそ、後半の、恐怖やサスペンスの盛り上げ方に過去の映画からのイタダキが散見できるのが残念だ。サイロのシーンは「刑事ジョン・ブック/目撃者」、姉弟がクルマに逃げ込んでからは「ジュラシック・パーク」。あくまでもオリジナルで勝負してほしかった。まあ、会話や小道具をつかって現状を説明するのだってスピルバーグ監督の「宇宙戦争」の影響だろうが。

 階段の突き出た釘もあくまでも最初の敵の侵入のために用意されたものでしかない。奥さんの妊娠もそうだ。
 だいたいあのような状況下で子どもを作るだろうか? 足手まといになるだけだし、泣き声で簡単に敵を呼び寄せてしまう。
 電気はどうやって供給されていたのか?

 まあ、突っ込みどころはあるけれど、父親の娘に対するメッセージで目頭熱くして許してしまった。
 パターンといえばそれまでだけど。
 ラストもある種爽快。

 エンディングロールで、監督(ジョン・クラシンスキー)が父親を演じていることを知った。あとで調べたら、母親役の女優(エミリー・ブラント)と本当の夫婦だという。劇中、夫婦が愛を語るショットがある。よく演じられたものだ。

 それにしても、アメリカ映画の地球外生物というと、なぜあの手の造形になるのだろうか。
 「クローバーフィールド/HAKAISYA」しかり。「SUPER8/スーパーエイト」しかり。日本人の(というか、個人的な)感覚からするとどうにもイマイチなのだ。

 MOVIX川口のレイトショーは場所柄なのか、いつも客が少ない。今回もそうのつもりでいったら、けっこう人がいた。それもカップルが。




 3日(水)、4日(木)の休みは、買い物以外の外出を控え、ほとんどPCと格闘していた。
 インタビュー原稿の推敲、いい加減終わらせないと締め切りに間に合わない。
 4日の夜中になんとか終了。

          * * *

2001/09/28

 「ミステリーガイド鎌倉」(角川書店編/カドカワノベルス)  

 なぜか鎌倉にはミステリが良く似合う。西岸良平のマンガで鎌倉を舞台にしたミステリ(「鎌倉ものがたり」)があって、「三丁目の夕日」ファンだった僕はこのマンガもよく読んでいた。当然刷り込み作用が働いているのかもしれない。  
 先日鎌倉に行く機会があって、何か鎌倉に関する本でも読みたいなあ、なんて思っていたところ、図書館の返却棚で本書を見つけた。この書名がけっこうそそられる。ミステリを読みながら鎌倉を案内させてくれるなんて素敵じゃないか。  

 鎌倉・湘南を舞台にしたミステリのアンソロジーなわけだが、湘南としたところがミソ。だって収録された9編のうち、純粋に鎌倉を舞台にした話は鮎川哲也の「鎌倉ミステリーガイド」だけで、あとは広義の湘南、三浦半島も含んでしまうのだから、タイトルに偽りあり、だよなぁ。  
 ちなみに収録作品は大沢在昌「海から来た行商人」、宗田理「死体泥棒」、石井竜生・井原まなみ「しんだじん」、日下圭介「朝に散る」、戸板康二「砂浜と少年」、鮎川哲也「鎌倉ミステリーガイド」、胡桃沢耕史「風と波と殺人と」、笹沢左保「この気持ちのいい朝に」、中薗英助「毒魚復活祭」。  

 面白かったのは、金持ちでわがままな叔父を殺し遺産を自分のものにしようとする苦学生の完全犯罪を描く「しんだじん」、弟に殺人容疑がかかり苦悩する姉が昔の恋人であるフリーライターに真犯人解明を依頼する「朝に散る」(〈ひと段落〉なんて記述があり、ちょっとがっかりもするのだが)、江ノ電ツアーにでかけたグループの中で殺人が起きる「鎌倉ミステリーガイド」。  
 「鎌倉ミステリーガイド」の愉快なところは、話自体ある作家の書いたミステリで、解決部分のないまま編集者に渡した原稿であること。困った編集者がミステリ通のマスターに真犯人が誰か依頼するという設定なのである。被害者が残したダイイングメッセージの1文字が何を意味するか、僕は本を横にしたり斜めにしたり……。  

 アンソロジーの面白さは、テーマに沿った粒ぞろいの短編が揃っていることはもちろんのこと、巻末の、編者による各短編、作家の解説も楽しみの1つなのである。   
 高校から大学時代にかけて筒井康隆編の「SFベスト集成」(徳間書店)を買い求めていたのは、筒井康隆の解説が読みたかった部分が大きい。  
 本書にもシリーズもののと思われる作品があって、そういった点を詳細に解説してくれるとうれしいのだが、残念ながらこの新書には初出誌意外の説明はない。  
 だいたい書名を収録作品のタイトルを入れ替えただけというのもどうかと思う。「鎌倉ミステリーガイド」をそのまま表題作にするだけでよかったのではないか。


2001/09/05

 「本の業界 真空とびひざ蹴り」(本の雑誌編集部/本の雑誌社)  

 そうか、今の人は真空とびひざ蹴りを知らないのか。今ではキックボクシング自体マイナーの存在だものなぁ。かつて沢村忠というキックボクサーがいたことを知る人がどのくらいいるのだろうか。昭和40年代半ば、小学生だった僕らはアニメ「キックの鬼」に熱中したし、遊びの中でよく真空飛び膝蹴りの真似をしたものだ。何をもって真空の飛び膝蹴りなのかよくわからなかったけれど。  
 そんなことはどうでもいいか。  

 本の雑誌の巻頭ページに巻頭(業界提言)コラム「真空とびひざ蹴り」が掲載されているという。知らなかった。いやかすかに覚えているような。いつも立ち読みするだけ、それもじっくり記事を読む習慣がないから気づかなかったのかもしれない。あわてて最新の雑誌を開いたら…ない。今春、目黒考二が発行人から退き、同時に連載も終わったのだとか。どうして? なぜ? じゃあ椎名誠は編集長を降りたのか? いろいろ訊きたいことはあるけれど、これまたとりあえずどうでもいい…ことにして。  

 やっと本題に入る。  
 1979年から2001年までの出版、取次、書店業界の流れが手にとるようにわかる。僕が一時在籍、出向してそのまま今の会社に転籍した後倒産した大陸書房の名も出てくる80年代の出来事は懐かしいの一言。あたりまえのことだけど。  
 コラムで何度もその存在意義について取り沙汰される〈サン・ジョルディの日〉が制定されたのが1986年。僕が躁になって、いつも財布の中を気にして本を思う存分買えない日頃の鬱憤を晴らすかのようにダンボール箱一杯に本を買いまくったあの日、銀座の各書店では〈サン・ジョルディの日〉を告知するポスターがやたらと目についた。確か賞品がスペイン旅行だったような。好きな人に本を贈るといってもチョコやキャンディのようにもらって誰でもうれしいものではないという指摘はまったくそのとおりで、本が単純な商品でないことがわかる。  
 本は高くないという主張も首肯できる。一回こっきりの楽しみのため、飲み代で4,5千円支払うことに比べたら、何度も繰り返し読むことができる本が3千円だって高くない。にもかかわらず書店で2千円代の本を手にとると「高い!」と感じてしまうのなぜ?
「本を安いと言いながら図書館で借りてばかりいるのはどうしてなのか」という声がどこからとなく聞こえてくる。そりゃ、自由になる金と広い部屋があったらどんどん本買いますよ。今だって本棚は一杯になっていて置き場に苦労する始末。それでもどうしても欲しい本は購入しているんです(夫婦喧嘩のもとなんだ、コレが)。そんなわけで一度読めればいいと思う本は図書館から借りてくることになります、ハイ。  

 本の業界に対するさまざまな提言はどれももっともだと思う。  
 ちょっと冷や汗がでたのは「本を選ぶ客が多すぎる」の文章。本の外見を気にしすぎる客に対する文句なのだが、新刊が平積みされている場合は僕もけっこう選んでしまうのだ。やっぱりお金だすのならきれいな本を自分のものにしたいから。反省。  

 インターネットの勃興、またたくまの隆盛はまさに驚き。この10年で携帯電話の普及とともに情報ツールの核になってしまった。最初はパソコン通信だったのだ。パソコンに強い当時の部下にその討論のやりとりを見せてもらったことがある。>や<が頭について飛び交う文字を眺めながら面白そうだなあ、でもこれは一部のマニアだけのもの、僕みたいな自宅にPCを持たない者には関係ない世界だと思った。それがまず会社で一人1台PCがあてがわれ、自由にインターネットが閲覧できるようになり、個人HPのBBSに勝手に書き込めるになって、そこで知り合った同好の士とオフ会なんていう飲み会で酒を酌み交わす仲になってしまうのだった。  
 本書にはインターネットにはまって読書の時間がなくなるという記述もあり、どこも同じなんだなとニヤリとしてしまった。  

 書評のあり方についての言及もあって、本の感想を記すサイトを持つ者には考えさせられる問題だ。このHPに発表している拙文は僕が本を読んで感じたこと、思ったことを自由に書いているもので書評という意識はない。ただ、取り上げる本については(特に小説の場合は)概略も付記して内容を知らない人にもわかるように心がけている。ラストの意外性や謎解きの種明かしなんかできない(それは小林信彦のコラムで十分わかっている)。とはいえ、後半で浮かび上がってくるテーマや、ラストの展開を詳細に記述しないと感想が書けないなんてこともあるので、確信犯的にでネタバレさせることもある。まあ、取り上げられた問題はプロのライターが書く書評についてだから、同じ土俵で考えることもないのだろうが、文章を書いている者として気になるし参考にしたい。




 昨日は1日、映画サービス(ファースト)デー。
 相変わらず疲れている。後ろ髪を引かれながら何も観ずに帰宅した。
 まぐまの原稿書きもそのままにすぐに就寝。それでも4時の起床はこたえる。

 一昨日の台風の夜は、風が激しくなったころに寝てしまった。
 翌日、4時半にアパートを出て目の前の堅川沿いの道を歩き出して驚愕。木が根本からポッキリ折れて倒れていたのだ。かなりの太さなのに。某コンビニのガラスも割れたとか。

          * * *

2001/08/21

 「まるまる1冊マルセ太郎」(マルセ太郎・山田洋次・矢野誠一・永六輔 他/早川書房)  

 マルセ太郎を最初に見たのはTV「俺たちひょーきん族」だったろうか。アフリカの原住民に扮してデタラメなアフリカ語を叫ぶ、ただそれだけの、ほんの1コーナーの出演だったが、インパクトは十分だった。いったいこの人は何者なのだろうか? というのが第一印象だった。
 その後サルの物真似芸も見る機会があり、そのあまりのそっくりさ、面白さにびっくりし、これからどんどんTVに出てくるのだろうなあと思った。その後それほどTVに出演しなかったのはテレビがタレントを消耗品としか扱わないことに対する用心深さなのか、単にお呼びがかからなかっただけなのか、わからない。  
 世間の注目を浴びた「スクリーンのない映画館」、その「泥の川」の有名な〈きっちゃんのでんぐり返し〉を聴いたのもTVだった。

 渋谷ジャンジャンでマルセ太郎のライブを定期的に開催していると知ってからは、一度生の話芸に触れてみたいと思っていたものの、事前のチケット購入がわずらわしく行かずじまい。仕方なく僕の悪い癖と思いつつ書籍でマルセ太郎を知るしかなかった。「芸人魂」「奇病の人」(共に講談社)を読み、でもそれで満足できるかといえばできやしない。やはりライブをのぞいてみたい気持ちは強くなる。  
 いつの日かライブを見るという僕の願いは、しかし1月22日永遠にかなえられなくなる。マルセ太郎の訃報を翌日の朝刊で知った時は声をあげてしまった。  

 本書はマルセ太郎追悼本ともいうべきものだ。  
 マルセ太郎の役者論は傾聴に値する。  
 〈対談・マルセ太郎/山田洋次〉を読みながら、山田洋次は自分の作品にマルセ太郎を起用するつもりはなかったのか、マイナーからメジャーにするつもりはなかったのか、不思議に思った。  
 〈マルセ太郎の動物談義〉(ライブの活字化)を読むとマルセ太郎の対象物を見る眼の確かさ、着眼点のつけどころの良さというものがわかる。真横から、真上から、斜めからあらゆる角度から眺め批評する。〈スクリーンのない映画館〉のライブを見たある人が後で語られた映画を鑑賞し、実際の映画より面白かったと感想を述べたのもわかる気がする。  
 映画・演劇鑑賞記「見たいから…」もつまらない内容のものには容赦しない。かなり及第点のハードルが高い。「役者が芝居で大泣きしたら観客は泣けない」とは至言。  

 その他、マルセ太郎をよく知る仲間たちの座談会〈昔の話でもしましょうよ〉、矢野誠一のマルセ太郎論〈マルセの居場所〉、〈スクリーンのない映画館〉の名付け親・永六輔の〈マルセ太郎お別れ大宴会・前説〉。
 今度もっと突っこんだサル真似芸(しもやけで困る下北半島のサル、ボスでないのにボスのつもりでいるサル山のサル、計算を間違えて落ち込む数学のできるサル!)をやらせようと、取材でモンキーセンターに訪れている永六輔にマルセ太郎の訃報が届くなんて、あまりに出来すぎているじゃないか(涙)。

 
2001/08/23

 「映画監督50人 自作を歩く」(東京新聞編集局/東京新聞出版局)  

 東京新聞は新聞社の中で一番芸能文化に対して力を入れていると聞いたことがある。他社が扱わないような地味なニュースもちゃんとフォローして記事にするというので、一時期定期購読していたことがある(値段が安いということも一因だったのだが)。
 定期購読してみたものの期待していたほどではなく、慣れ親しんでいる朝日新聞にまたもどってしまった。
 本書が1996年4月から2000年4月まで4年の長きにわたって東京新聞夕刊に連載された記事をまとめたことを知るとあのまま取り続けていればよかったかな、なんて後悔したりして。朝刊しかとっていなかったので変わりないか。
 
 書店で本書を見つけた時、市川崑監督のページだけは立ち読みしていた。「細雪」「鍵」「炎上」の3本が取り上げられ、撮影地の地図、印象深いロケ地に佇む監督のモノクロ写真数点と撮影時の思い出話が付随する。  
 監督に同行し、日本各地を訪ね、直接映画についての話が聞けるなんて。担当編集者がうらやらましくなった。  

 大林宣彦の「あした」に始まって、岡本喜八、小栗康平、大森一樹、神山征二郎、山田洋次、崔洋一、大島渚、森田芳光、伊丹十三、林海象、篠田正浩、市川準、熊井啓、新藤兼人、原一男、金子修介、根岸吉太郎等々、巨匠、中堅どころが登場、各人がかつてのヒット作、名作、佳作、自信作を語っている。  
 原則はロケ地を訪ねることだが、大島渚は病気療養のため、北野武はハードスケジュールのため、本人へのインタビューだけ。  
 全般的に言えることは映画が撮られた当時と今ではロケ地の模様が大きく変わっているということだろう。ロケ地の変貌に触れられるたびに大事なものを失ったような気分になってつらくなる。  

 取り上げられた映画の中で僕が観ているものはほんのわずかだ。公開時に食指が動かなかったということもあるが、こうして撮影の裏話を聴くとなぜかビデオをあたってみたくなるのが不思議。  

 根岸監督の髪が真っ白になっていたのにはびっくりした。 




 現在公開されている「プーと大人になった僕」のキャッチコピーを知ったときは驚いた。あの映画とほとんど同じじゃないか。少しして同じディズニー映画だから別に問題ないのだろうなと考え直した。
 「プーと大人になった僕」のコピーは〈今のあなたは、あの頃なりたかった“あなた”ですか?〉。
 あの映画とは18年前に公開されたブルース・ウィリス主演の「キッド」。キャッチコピーが〈今の私は、あの頃なりたかった大人だろうか?〉。
 18年前はこのコピーがぐさりと胸に突き刺さったのだった。

 還暦を前にひとりになることも考えてもいなかった。18年前は、まったく。

     ◇

2000/10/04

 「キッド」(丸の内ピカデリー1)

 少年時代に思い描いた理想的な大人にはならなかったけれど、有能なイメージ・コンサルタントとして、それなりに名誉も収入も得て、優雅な独身生活を謳歌している中年男のもとになぜか8歳の自分が現われた。
 子ども時代の夢(パイロットの免許をとる、犬を飼う)を一つも実現していないばかりか、もうすぐ40歳をむかえるというのに未だ結婚していない男の現状に少年は嘆き哀しみ男を非難する。
 その後、男は少年の言動に右往左往しながら、なぜ〈8歳〉の自分が会いにきたのかを考えるうち、自ら封印して知らぬ間にトラウマとなっていた出来事に思い当たる。男は少年に助言を与えながらその出来事を克服、すると意外な人物がふたりの前に現われて、ふたりの輝かしい未来を確約する。甘いといえばそれまでだけれど、まさに絵に描いたようなハッピーエンド。ハリウッドらしいというか、ディズニーらしいファンタジー映画である。

 現在の自分が過去の自分に会うという話はよくある。
 たとえば藤子・F・不二雄の異色短編に「自分会議」というのがあった。
 ある学生のところに青年(数年後の学生)と中年(十数年後の学生)がやってきて、もうすぐ学生に転がり込む遺産の処理についてそれぞれの意見を言い合う。ふたりともその処理に失敗して、学生に自分の二の舞だけはさせたくないというのだ。喧々囂々の討論しても結論はでない。もう一人小学生の自分の意見も訊いてみようと呼んできたのはいいけれど、またまた大喧嘩に。少年は未来の自分たちの情けない姿に絶望して、部屋の窓から飛び降りてしまう。とその瞬間、あとの3人も消えてしまうのだ。
 この設定をひっくり返すと「キッド」になる。

 「キッド」に興味があったのは個人的な理由である。
 二十代半ば、ちょうど仕事に行き詰まって落ち込んでいたころのことだ。人生に行き詰まった男が中学生の自分自身に会いに行く短編小説を書こうとしたことがあった。
 中学時代はそれまでの人生の中で一番輝いていた時期だった。勉強もそこそこできて、趣味やスポーツに積極的に取り組み、すべてにかなりいい成績を残せた。彼女と両思い(!!)になって放課後の語らいや交換日記が楽しみだった。そんな自分に少し元気をもらおうと訪ねるというわけ。ところが実際は当時の自分も悩み多き年頃で、逆に励ますはめになるというオチで、かつての自分を励ましながら、男自身も生きていく自信をとりもどすというストーリーだった。 だが、結局完成せずに終わった。
 ま、そういう物語を考えたのもまだ自分の人生を思いどおりにつき進んでいたからだろう。

 「キッド」で注目したのは、看板のコピーにあった〈今の私は、あの頃なりたかった大人だろうか?〉というナイフのような言葉だった。これにはぐさりと胸を突き刺さされたような思いがした。
 映画の主人公(ブルース・ウィリス)は39歳、僕は40歳。主人公は8歳のころになりたかった大人でないことを非難される。じゃあ今の自分は中学生(14歳)だった僕自身が夢に描いた大人になっているだろうか。
 映画界、映像業界で働きたいという夢は30代直前に挫折した。何とか家族3人の生活を維持していくために、業界から足を洗った。お金の問題があった、精神力の弱さもあった。それでも自分の好きな仕事のまわりでウロチョロしていたのだが、流れ流れて、今ではまったく関係ない業務についている。中学時代からはまったく想像もできない仕事である。
 すべて自分自身の判断、行動の結果であるから仕方ない。せめて映画の主人公みたいに仕事に成果や張り合いを持てればいいが、それもなく、いまだに天職は何かを頭の中だけで模索している状態。それなりに地位と収入がなきゃいけない40歳にしてこのテイタラク、14歳の僕が知ったらどう思うだろうか。

 そんなわけで、かなりマジに主人公の対応を見つめていた自分がいた。
 過去にさかのぼったふたりが病気がちな母親を見つめながら、その死について語り合うシーンは、どうしても7月に死んだ母のことがダブってしまい冷静に観られない。
 14歳のときに未来から中年になった自分がやってきて「おかあちゃんは8年後には病気で寝たきりになってしまうんだ。26年後には……」なんて言われたらどう反応しただろうか。そう考えたらスクリーンが涙でかすんだ(といってもあくまでも悲しいからで感動ではない)。

 あのころの14歳の僕へ

 あのころは楽しかった。至福の時だったな。世の中こんなにうまくいっていいのだろうかと不安を覚えたこともあった。
 でもその後は挫折ばっかりのような気がする。30歳前には人生を降りようとしたこともあったんだ。
 あの頃思い描いたような大人になっていないのつらいし、生き方に対しては今でもジタバタしている。
 でもね、これだけは言いたいんだけど、あのころに帰りたい、あのときああしていたら、とか考えていないよ。こういう人生だったから今のかみさんや娘がいるのだろうから。喧嘩ばかりしているけどね。後悔だけはしたくない。

  もうすぐ41歳になる君より




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)

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