昨日テレビ朝日で放送された「地方紙を買う女」、朝日新聞の紹介でラストを褒めていたので期待して観たのだがそれほどでもなかった。以前、日本テレビで放送されたドラマの方が面白かったと思うのだが。
 松本清張の小説は平成の時代(21世紀)を舞台にすると何かと無理が生じてしまう。原作同様の時代設定が必要なのではないか。

     ◇

 ●黒澤明ドラマスペシャル「天国と地獄」&「生きる」 2007/09/11 

 最近黒澤明監督作品のリメイクが流行している。ハリウッドで「生きる」がリメイクされるのだとか。古くは「用心棒」「七人の侍」が「荒野の用心棒」「荒野の七人」という西部劇としてリメイクされている。正確にいうと「荒野の用心棒」はリメイク権を取得せず、盗作問題になったのだが。
 どちらも公開は1960年代前半、物心つく前。もう何年も前になるが、やっとTVで「荒野の七人」を観る機会があった。傑作として名高い「荒野の七人」はそれほど面白いとは思えなかった。小学5、6年、中学生の時代だったら、アクションに興奮したかもしれないが、悲しいことに、もう何度も「七人の侍」は観ているのだ。何かと比較してしまっては分が悪い。
 日本における黒澤作品のリメイクというと「姿三四郎」が思い出される。これまで何度も映画やTVで映像化されている。ただこれは富田常雄の小説の力によるものだろう。「忠臣蔵」や「宮本武蔵」の系譜。
 リアルタイムで覚えているのは「野良犬」だ。小学6年生だったか、中学1年だったか。映画館で予告編を見た。まったく話題にならなかった。
 後年、黒澤映画の真髄に触れてからというもの、「野良犬」のリメイクの無謀さを思い知った。海外ならともかく日本映画で黒澤作品のリメイクなんて出来るわけがない。それが日本映画界の常識というもの。そう勝手に判断していた。
 フィルムが残存していない、あるいは旧作は名画座でしか鑑賞できない、という時代ならまだしも、今はビデオやDVDで黒澤作品は日本のどこででも目にすることができるのだ。
 だから角川春樹が「椿三十郎」のリメイク権を取得し、森田芳光が監督すると聞いたときは耳を疑ったものだ。そこへTVのスペシャルドラマである。それもヒューマンドラマとして黒澤作品の中で名作の誉れ高い「生きる」、そしてサスペンス映画の傑作「天国と地獄」。
 映画はそれぞれ1952年(昭和27年)、1963年(昭和38年)の時代を背景にしている。TVドラマは、現代に置き換えて作られているという。
 何考えているんだ! 真っ先にそう思った。確かにテーマに普遍性がある。だからストーリーの細部を変更しさえすれば現代にも通じる内容になる。TV局(企画プロデューサー)はそう判断したのだろうが、冗談言ってはいけない。時代が、その時代の風俗、慣習がどれだけ重要な要素を持っているか。
 あるいは娯楽色の強い「天国と地獄」は可能かもしれない。しかし「生きる」に関してはかなり旧作のストーリーを換骨奪胎しなければ現代に通じるとは思えない。
 まあ、お手並み拝見。それほど期待せずに観た。
 オリジナルを知らない世代にとってみれば、両作品ともかなり質の高いドラマだったと思う。どちらも旧作のシナリオを尊重した展開。だからこそ面白く観られたのだろうが、現代を舞台にしたことが逆にアダになった。それは思ったとおり「生きる」で顕著だった。
 その前に「天国と地獄」について。
 7年前、ビデオで再見してその感想をこう書いた。

     ▽
 犯人特定までは映像にくぎづけになるのに、その後の展開がどうもピンとこない。一つは麻薬常習者の巣窟シーンが現実にありえないこと(昭和30年代の横浜に本当にあったのか?)。もう一つは犯人の権藤に対するどうしようもない恨み、犯人を極刑にしようと熱い正義感ぶりを発揮する刑事たちの心情がいまいち理解できないからかもしれない。
 つまりどちら側にも感情移入できないまま、権藤と犯人の対立という構図でこちらがあっけにとられたまま物語が唐突に終了してしまう、その違和感がどうしてもぬぐえないのだ。
     △

 この違和感をリメイク作品ではどう処理してくれるのか。
 鶴橋康夫監督(脚色も)はかなりの映像派で、オープニングのクレジットから凝っている。前半の密室劇ではガラス窓への映りこみに神経を注ぎ、目を瞠らせてくれた。たぶんに合成も利用しているのだろう。でなければ撮影クルーが映ってしまう角度、ショットが何度もあったから。
 当初犯人側が3人になっていることから、原作である「キングの身代金」寄りの、新しい展開になるのかと思われたが、やはりあっけなく殺された。これは誘拐された子どもが主犯以外の犯人(女性)を庇うことによって、後半刑事たちが主犯を極刑にすべく捜査するモチベーションへの伏線なのだった。
 犯人の、靴メーカー重役に対する怒りというのが、オリジナルでもわからなかった。丘の上の豪邸が憎悪の対象ということだが、少なくとも犯人は医者の卵であるのだから、今後の生活は保障されているではないか。なぜラストの面会であれほど怒り狂うのか。不思議でたまらなかった。
 これはリメイクでもそのままの形で取り入れられていて、ますますおかしなことになってしまった。昭和30年代はまだ貧富の差が激しかった。だから、黒澤映画に遅れてきた僕は、理解できないまでも、そういうこともあるかしれないと要因を時代に求めて無理やり納得させてしまうことはできる。
 現代だと話は違ってくる。丘の上の豪邸にどれだけの価値がある? もし犯人がとんでもなく上昇志向が強く、そのうえ頭も要領もいい男なら、病院内での出世や金儲けを目指すのではないか? 仮に犯罪に手を染めるとしても、明らかにデメリットの多い誘拐を画策するかどうか。
 現役時代、大学受験で東京の施設に宿泊したときのこと。全国から集まった受験生5、6人と同部屋だった。その中の一人が医学部に通う学生をしきりに羨んでいた。
「だってさぁ、頭脳優秀か、親が金持ちかどちらかなんだぜ」
 丘の上の豪邸に住むセレブに対する怒り。それには犯人と主人公の、何か別のエピソードがどうしても必要だったと思わないではいられない。
 キャスティングは悪くなかったと思う。主演の佐藤浩市に叩き上げの靴職人気質を感じられなかったのは残念だけど。
 それから「天国と地獄」の代名詞にもなっているピンクの煙と特急こだまの緊迫シーンは、新しいアイディアを導入すべきだったのではないか。ピンクの煙があがって何事もないような顔をしている漁師(?)はないだろう。泉谷しげるだから許してしまう、か。

 「天国と地獄」の中で、主犯の研修医(インターン)が共犯の夫婦を殺害した方法が純度の高い麻薬の投与だった。いつも純度30%の麻薬を使用している中毒者が純度90%のものを摂取したらショック死してしまうという。麻薬中毒死に見せかけた、共犯者の口封じ。完全犯罪を狙った犯行は逆に墓穴を掘る結果となって、営利誘拐罪の15年の刑から殺人罪による極刑になってしまうのだ。
 リメイクのドラマを観た限りでは、キャスティングも適役でとても丁寧に作られた(通常のドラマに比べて)質の高い作品に仕上がっていた。時代を現代に置き換えたことによる不自然さはあるものの、作品自体を真っ向から否定するようなものではなかった。と思ったのである、観終わったときは。ところが「生きる」でどうしてもオリジナルを確認したいことがあって、一昨日ビデオを借りて衝撃を受けた。
 全然違うのだ。それこそ純度90%と30%の差!
 もちろん全盛時代に予算と日数をたっぷりかけて製作された映画と、現在の、いくらスペシャルとはいえTVドラマの状況の違いというものがある。単純に比較してはいけないかもしれないが、リメイクするからにはそれなりの新しさ、アイディアがなければ意味がない。「生きる」では、それが主人公が息子の子ども時代を回想しながら名前を連呼するところだと膝を打ったのだ。オリジナルはTV放映やビデオで数回観ているはずなのだが、このシーンがまったく記憶になかった。しっかりあった。やはりオリジナルの方が断然いい。昨日は「天国と地獄」を借りてしまった。観終わった後の満腹感といったらない。いったいリメイクの2作品は何だったんだ?

 黒澤明の映画はリアリズムの極致みたいな印象があるが、本当のところかなり様式美や誇張された表現で成り立っているのではないか、と思うことがある。モノクロ映像だからわからない、いや、だからこそ逆にリアルに見えてしまう。リアルに見せるためにとんでもなく作りこみをする、というのか。黒澤映画の現代劇、特に「生きる」を観ると必ず感じる。  
 舞台を現代の東京近郊の町に置き換えて「生きる」をリメイクすると知って、まず思ったのが、通夜のシークエンスをどう処理するのかということだった。
 通夜、葬式は地域によって、内容が変わってくるから、断言はできないが、現在、通夜の席で親族や会社関係者が揃って、夜遅くまで食事をし、酒を飲むなんてことがあるのだろうか。
 今では自宅を式場にすることがなくなった。公共あるいは私営のセレモニーホールで通夜、葬式(告別式)をおこなってしまう。その場合、通夜は焼香をした後、そのまま帰る場合が多い。中には別の部屋に飲食が用意されることもあるが、それだってちょっと口をつける程度。長居は無用。つまり「生きる」のような飲むほどに酔うほどに議論白熱なんていう展開になりそうにない。
 そのほか、オリジナル脚本を現代に合わせて脚色する程度では、何かとおかしい点がでてくるのだ。

 黒澤明監督の「生きる」のストーリーを要約するとざっとこんな風になる。
 主人公は市役所勤め30年になる初老の男(志村喬)。早くに妻を亡くすが、再婚もせずに男手一つで一人息子(金子信雄)を育て上げた。息子が結婚してからも一緒に暮らしている。
 何の取柄もない。仕事は可もなく不可もなく課長として目の前に積まれた書類に判を押すだけ。市民の陳情は内容に応じて該当部署に回す。率先して自ら行動を起こすタイプではない。面倒なことにはかかわらない。趣味もなく平々凡々と毎日をすごしてきた。己の生き方に何の疑いも持たずに。
 ところが胃がんで余命半年だと知って、激しく動揺、絶望に打ちひしがられる。息子は頼りにならない。
 これまでの人生は何だったのか。半年間何を糧に生きていけばいいのか。
 元部下で今は玩具工場で働く若い女性(小田切みき)の一言から、生きる目的、その価値を見出した男は、住民の陳情の中で部署をたらいまわしにさられていた案件に着目する。汚水溜めの悪臭を放つ土地の再開発。男はそこに児童公園を建設しようと奔走する。
 5ヵ月後、完成した公園のブランコに揺られながら男は絶命。しかし、その死顔は穏やかで満足気だった。

 クサい話だ。しかも男は「ゴンドラの唄」を口ずさみながら死んでいく。今、新作映画でそんなシーンを見せられたら照れて下を向くか、虫唾が走って腹を立てるか、どっちかだろう。
 まだ書籍でしか黒澤映画を知らなかったとき、いくら名作と謳われていても、ストーリー紹介を読んで敬遠したくなった。黒澤流ヒューマニズムといっても、こんな話は昭和20年代だからなりたつんだよなぁ。そう考えていた。
 ところがTV放映で初めて観たとき、すぐに引きずりこまれてしまった。役者の演技、脚本(構成)、演出、どれをとっても完璧といった感じ。クサさはまったく感じなかった。
 中盤、主人公が元部下の一言で自分の成すべきことを悟るシーンにぐっときた。レストランの2階、語り合う二人の背後では若い男女の学生たちが仲間の誕生パーティーの準備をしている。玩具工場で働く元部下はゼンマイ仕掛けのウサギを見せながら、モノ作りの楽しさを語る。主人公は公園建設を思いつき、何かにつかれたかのように階段を下りていく。そこへパーティーの主賓がやってきて、みんなが待つ2階へ駆け上がる。2階の仲間が「ハッピー・バースディー」の合唱で主賓を迎えるのだが、まるで生きる目的を見出した主人公を祝っているかのようなショットなのだ。
 翌日、まるで人が変わったかのようにやる気を見せた主人公が、問題の土地を観に行くところで、主人公の遺影がアップになる。
 その後は、通夜の席で課長の死の真相をめぐる討論。その中で癌に侵され余命いくばくもない課長が最後の力をふりしぼって公園建設に尽力したことが判明する。
 真相を知った部下たちが感激して自分たちも生まれ変わろうと誓い合うが、翌日からまたいつものような覇気のない毎日が繰り返されるという皮肉まじりなラストがいい。
 主人公がブランコに乗って歌うシーンで涙があふれたのは、心情が十分すぎるほど理解できたからだった。主人公は公園建設に奔走する。しかし、それは売名行為でも、組織の中で評価されたいからでもない。公園の完成を楽しみにしている住民、その子どもたちのことは意識しているかもしれないが、あとは関係ない。あくまでも自分の中の充実感だろう。その気持ちが痛いほどわかった。
 リメイク版「生きる」はほぼオリジナル通りに進展する。それなりに胸打たれたりするのだが、現代が舞台だから何かと不自然さがつきまとうのは前述のとおり。
 全般的に適材適所といった配役だが、肝心の主人公を演じる松本幸四郎がミスキャストだった。
 これは本人の演技力には関係ないことで、あくまでも役者が持っているイメージ、雰囲気の問題だ。あまりに立派だから、部下の女性から「ミイラ」と渾名をつけられる小役人に見えない。市役所の課長ではなく、官庁か何かでバリバリ仕事をしているタイプだろう。
 では誰が適役かといえば、助役の岸辺一徳あたりがふさわしいのではないか。歌舞伎役者だったら、中村勘三郎とか。
 女房に死なれ、男手一つで息子を育てたというのも、時代を考えると信じられない。現在でさえ、まだ〈現役〉といった感じなのだから若いころは女の方がほっとかないだろう。再婚して、妻と息子のどうしても埋まらない距離にあれこれ悩んで最終的に離婚してしまったとかの方がまだわかる。
 現時点から30年前というと1977年ということになる。子どもに手がかからなくなる80年代後半から、主人公は趣味やレジャーに興味を持たなかったのだろうか?
 昔と違って、仕事は仕事と割り切って、趣味に生きがいを求める人もいるだろう。
 リメイクでは、小田切みきの役を深田恭子が演じていて、ドンピシャリの配役だった。
 しつこいと言われそうだが、彼女をめぐる描写にもいろいろと不自然さが目立つ。
 今の時代、退職用書類に上司の判が必要だからといって、家を訪ねるだろうか。社内で本人不在の場合、代理を決めているはずである。
 退屈な市役所を辞めて、さて転職先はどこだろうと期待していると、玩具工場。派遣社員だそうだ。レストラン(喫茶店)での会話では昔ながらのぬいぐるみを取り出してくる。今の若い娘、そんな工場に派遣で勤めないし、だいたいその手のぬいぐるみの生産工場は中国あたりにあるのではないか。オリジナルと同じ「赤ちゃんと繋がっている」なんていう台詞が空々しい。
 通夜に小田切みきも深田恭子もやってこなかったのは不思議なことだが、まあいい(すべてを知っている彼女が来てしまったら、そこで議論も終わってしまう)。たぶん来られない理由があったのだ。翌日の告別式にはちゃんと参列しているはずだから。
 なぜ今「ゴンドラの唄」なのかというのも疑問の一つ。
 志村喬にとって、「ゴンドラの唄」は青春時代の流行歌だった。唯一うたえる歌なのかもしれない。松本幸四郎にとってはどうだろうか。子ども時代、青春時代、もっといろいろな歌があっただろう。酒場で「ゴンドラの唄」をリクエストする世代でないことは確か。時代設定はこういうところで如実に表れる。
 唖然としたのはラストシーンだった。最初から公園建設における課長の働きを評価していた部下(ユースケ・サンタマリア)が感慨を持って公園を見つめているところに、市議会選挙に立候補した助役の選挙カーがやってくる。ここはリメイクの脚色部分だ。
 何とウグイス嬢が深田恭子なのだ。何のために彼女は市役所を退職したのか。どれだけ市役所の連中を嫌悪していたのか。そんな彼女が元助役の選挙を手伝うはずがないではないか! いや、日給の良さに目がくらんだか。だとするとこのドラマの作劇が根底から覆されることになる。ホント何考えているのか。
 脚色は市川森一。ドラマ冒頭のクレジットでそれを知り、驚くと同時に期待したところがあった。
 「生きる」は主人公の孤独を描いているわけだから、本来の作風に合うと思ったのだ。
 「ウルトラセブン」の「狙われたウルトラアイ」「ひとりぼっちの地球人」は孤独をテーマにした異色作だった。メインライターを務めた「傷だらけの天使」も若者二人の焦燥感が漂っていた。主人公が孤独な死を選ぶ「バースデーカード」の衝撃は忘れられない。向田邦子賞を受賞した「淋しいのはお前だけじゃない」はその集大成だったか。
 そんなわけで、「生きる」の世界をどんな風に現代に甦らせてくるのか、クレジットを見るや期待してしまったのだ。黒澤明作品、脚本へのリスペクトは大いに感じるのだけれど。




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Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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