太田市の法務局(正式名称は前橋地方法務局太田支局)は、太田駅の隣、三枚橋駅から歩いて5、6分のところにある。
 三枚橋には学生時代、強烈な思い出がある。

     ◇

●慢性躁病 2005/05/16

 某映画雑誌の最新号に「IZO」に主演した俳優と内田裕也の対談が掲載されていた。
 「IZO」は豪華ゲスト陣が話題になった。脇役が有名人ばかり、主演が一番知られていないなんて評されていたような。結局映画は観なかったが、雑誌の、内田御大の相手をする俳優の名前と顔に見覚えがあった。すごく懐かしい感じがした。その理由がわからなかった。
 Sさんのブログを読んで氷解した。
 そうだ、そうだった。この俳優、映画降板に腹を立て、監督を刺した人なのだ。
 人間、誰だって有頂天になったり、落ち込んだりする。躁鬱なんて誰にもあることだろう。ただ下限や上限が決まっているだけ。その範囲の中では自分の気持ちの持ちようでなんとかなる。僕が中学、高校生だった時は、落ち込んでも翌日になるとケロっとしていた。自分で「ウツ」だ「ソウ」だなんていっているうちは病気でもなんでもない。
 本当の鬱になると手がつけられなくなる。まず夜寝られない、朝は起きられない。外出がおっくうになる。食欲がない。動悸が激しい。頭に重石をのせられたような感覚。何も考えられない。過去のいろいろなことが思い出され、すべてを否定したくなる。夜寝る時、このまま心臓が止まってしまって目が覚めなければいいのに、なんて思う。通りを歩いていて、暴走した自動車が自分に向かってくれば…変な期待をしてしまう。頭の回転が働かないから文章も綴れなくなる。
 普通なら何でもないことをやけに気にする。たとえば、気分転換のため散髪に行ったとする。そのスタイルがどうにも気に入らず、人に会いたくなくなる。約束をすぐ反故にする。反故にしたことを気にしてまた落ち込む。自分は最低、最悪。生まれてきたこと、生きてきたことを呪う。
 鬱はつらい。つらすぎる。
 他人に対して迷惑ばかりかけて……本人はそう思っているのだが、実はそれほどのものでないことが多い。本当に多大な迷惑をかけるのは躁の時である。
 Sさんの「IZO」主演俳優との思い出話を読むと、その言動が、程度の差はあるものの、躁状態だった自分とダブるのだ。あくまでも想像だけど、この方、慢性の躁状態ではないかと思ってしまう。

 というわけで、躁鬱の話です。
 たぶん、長くなります。


●うつ鬱とウツ 2005/05/17

 大学時代の3年、4年の春に鬱を経験している。原因は母の病気だった。
 脳腫瘍。正式な病名は右小脳テント髄膜腫。腫瘍自体は良性だが、場所が脳の奥で切除するのが難しいとのことだった。12時間に及ぶ手術はとりあえず成功した。が、術後の肺炎で危篤に陥った。驚異の生命力で危機を脱出したが、その後の経過がよくなく、寝たきりになった。
 家が電気店を営んでいて、高校生の弟がいたから、夏休みや春休みは自宅で主婦業の毎日を送った。母親の具合がよくなっていくのであれば、張り合いもでてくるのだが、そのきざしが見えないと単調な毎日にうんざりしてくる。次第に落ち込んでいった。
 最初の鬱は、ちょうどサークルの春合宿に発症した。この時の極度の落ち込みから鬱になる瞬間をはっきりと自覚している。
費用、時間、家庭、いろいろな問題を抱えながら、どうにかサークルの春合宿に参加した。 部長として責任ある立場。1年の春合宿が楽しかったので、同じ河口湖に決めた。
 退学の件やら、アパートを引き払う件などあって、たった一人しかいない同学年のUに一緒に風呂に入りながら今後のことを相談した。部長としての任が果たせない、もしかしたらサークルも辞めるかもしれない、そうなったらお前やってくれないか。返ってきた言葉は「だったらオレも辞めるよ」。
 その翌日、すでに活動を離れた4年生数人が自家用車でやってきた。部屋に入ってくるなりO先輩が言った。
「しけた合宿しているなあ」
 たぶん雰囲気も暗かったのだと思う。先輩にしてみれば、その気持ちを素直に表現しただけのこと。O先輩とは日頃一番仲が良く、そのキャラクターから僕の企画した2本の映画の主演(1本は都合により別の部員になった)してもらったほどだ。普通なら「まあ、まあ」と久しぶりの再会に話を弾ませるところなのだが、この言葉が見事に僕の胸に突き刺さった。
 苦労してやっと合宿までこぎつけたというのに、最初の挨拶がそれかよ、という反発ができたのならまだよかった。できる元気なんてなかった。
 それまでどうにかこうにか保っていた平常心という壁。その壁のいたるところに亀裂が生じていたところ一気にハンマーで叩かれたような衝撃がO先輩の一言にはあった。決壊したダムというか、こうなるともうダメだ。夕食が喉をとおらなくなった。
 この時は夏の教習所通いが気分転換になって、どうにか自然治癒した。
 困難を極めたのが2度めの鬱。やはり春休みから落ち込みだし、身体に影響がでてきた。原因は母親と家のこと。1年前にくらべてちっとも状況がよくなっていないことが帰省してわかっておかしくなっていったのだった。


●ウツの夏 2005/05/18

 鬱のおかげで教員免許(中学・社会科)の取得を断念した。一応教育実習に行ったのだが、地獄の毎日だった。よく教壇に立てたものである。
 単純なミスを連発して、最終日には校長との懇親会をすっぽかした。これでまた落ち込み、その後必要な書類申請を大学に提出せず。免許を取得できなかったというわけだ。
 免許を取ったからといって教員になるつもりはほとんどなかったけれど。
 大学生最後の夏休みをむかえても鬱は治る気配がない。
 心配した叔母と祖母からある祈祷師(霊媒師か?)のところへ通えばと提案された。その人に見てもらえばどんな病気も治ってしまうのだとか。ハナからそんなものを信じていなかったが、治ったらもうけものとばかりに叔母と祖母をクルマに乗せて何度か通ってみた。案の定少しも改善しない。良くなったのは叔母と祖母の神経痛だ。気のせいなのだろうが。
 通わなくなったのは、僕がクルマで事故を起こしたことによる。叔母と祖母を迎えに行く途中で田んぼに突っ込んだのだ。
 その日、クルマの助手席の窓を全開にしていた。祖母の家に着く寸前に道路を右折するのだが、この時の勢いでダッシュボードの上においていた免許証が窓から落ちそうになった。あわてて左手で免許証をつかむ。右手はハンドルを持ったまま。神経は免許証に集中しているから曲がりきってももとにもどさず。あっと思った瞬間に衝撃があって田んぼの中にいた。
 車は父の友人である業者がレッカー車で引き上げたのだが、後でしきりに感心していたという。 
 田んぼと道路の間にドブ川(溝)があって、普通なら田んぼに直進する前にこの溝に前輪を引っ掛けて停止するはずだと。それを僕は溝に一定間隔でかかっている細いコンクリートの上を走りぬけた。だから田んぼに落ちて車体を泥で汚したものの車に損傷はなかった。
「たいしたもんだよ」
 元気な時に言われれば、事故を起こしたことに対する気持ちも吹っ切れるのだろうが、鬱の人間はそんな言葉にも激しく動揺する。
 溝に落ちた方がまだよかった、田んぼの中にすっぽりはまったなんてその方がよっぽど恥ずかしいじゃないか、と。
 人は歯痛や頭痛、胃痛などは自分でも経験があるから、病状を告げると理解してくれる。しかし、躁鬱など精神に関する病気はほとんどわかってもらえない。病気の認識がないというか。
 病気なら医者に診てもらう。これは当たり前のことだが、こと精神に関してはどうにも躊躇してしまうのだ。
 鬱になると身体に異変が起きてくる。
 頭が重い、胃がヘンだ、吐き気がする、なんて症状からまず内科などに行って検査してもらっても、問題がないと言われてしまう。それでもとにかく身体の調子がおかしいと主張すると「自律神経失調症」と診断されるのがヤマ。精神科など勧めてくれない。
 本当ならこの時点で精神科へ行くべきなのだ。睡眠薬を飲むだけでもずいぶんと楽になるのだから。
 事故から数日後、僕は父に連れられ地元でも有名な精神病院の門をくぐることになる。


●サンマイバシ 2005/05/19

 郷里の群馬県太田市に〈三枚橋〉と呼ばれるところがある。地名というか、駅名になるのか。太田には東武電車が走っていて、浅草から伸びている伊勢崎線は太田駅で二つに分かれ、一本は伊勢崎へ、一本が桐生に向かう。桐生に向かう線の最初の駅が三枚橋駅。
 今はどうか知らないけれど、この名称にはたぶんに差別的、侮蔑的な意味合いが含められていた。
「三枚橋に連れて行くぞ」「それじゃ三枚橋だよ」
 人を小ばかにするときの常套句だった。
 子どものころは意味もわからず使っていた。中学生になってやっと理由がわかった。三枚橋に精神病院があるのだ。この病院は患者に対して開放的な施設として全国的にも有名な病院だと後年知った。ある週刊誌で院長のインタビューを読んだことがある。
 父の運転する車で三枚橋病院に行った僕は心穏やかでなかった。どうしてこんな病院に来なければならないんだ。オレは精神がおかしいのか。入院なんてことになったらどうしよう。友だちに知られたら恥ずかしい。 
 待合室でかなり待たされたような気がする。まわりには一目で異様と思われる男女がいる。ぶつぶつ独り言を繰り返している男。奇声をあげる青年。一心不乱に絵本を見つめている少女。エトセトラ、エトセトラ。
 僕は何もすることがなく、ただただ彼らの行動を観察していた。
 差別的発言にとられるかもしれないが、こうした患者に囲まれながら思った。
「こういう人たちを、おかしいと思う自分はやはりおかしくないのか」
 名前を呼ばれて診察室に入った。院長先生が怖い視線を浴びせながら訊く。
「どうしました?」
 症状を話すと途中でさえぎられた。
「××だよ、○○すれば、すぐよくなる。大したことない」
 ものの数分とかからない診察。院長にほとんど相手にされなかったといっていい。実際もらった薬を飲んでからぐっすり眠ることができようになった。もっと早く行けばよかったと後悔したものだ。

 本当に鬱状態から脱出したのは、すでに記した友人の死のショックからだが、こうして2回の鬱を経験した僕はもう二度と同じ症状に見舞われない自信があった。おかしくなったらすぐに精神科を訪ねればいいのだから。
 就職浪人して念願のCF制作会社に就職した。紆余曲折はあったけれど、とにかく社会人として希望に胸ふくらませながら歩みだした僕にもう鬱なんて関係なかった。よもや2年後に再び三枚橋病院の世話になるなんて、その時はこれっぽっちも思ってもいなかった。
 それも躁病の患者として……


●妄想と狂騒の75日間 2005/05/20

 なぜ、陰々滅々とした躁鬱体験記なんて綴っているのか。

 夕景工房の読書日記2001年8月6日の志水辰夫「背いて故郷」。読書レビューのあとにこう続けた。
     ▽
「背いて故郷」は、その題名に個人的に思うところがあって読んでみたくてたまらない作品だった。にもかかわらず今まで手にとらなかったのはこの本にまつわる苦い思い出があるためだ。
 大学2年の時に母が病気で倒れてからというもの、家の事情(経済的な問題、電気店を営む父と高校生の弟の生活)で長男という立場から大学を辞めるか郷里に戻るかという問題に直面した。東京から電車でわずか2時間の距離なのだから、今から考えるとどうということでもないのだが、当時ある夢を抱いて上京した僕は退学することもアパートを引き払うこともできず、卒業してからもUターンすることはなかった。父は親戚からいろいろと言われていたらしい。それでも僕のわがままを許してくれた。それがずっと自分の中でわだかまりになっていた。3年と4年の春には鬱病に苦しんだ。何とか病気も治り、就職浪人の末希望する職種の会社に就職できた。  
26歳の春、それまでの1年間、プライベートと仕事の悩みで悶々としてきた僕はある夜「11PM」を見ていた。番組には当時内藤陳がお薦め本を紹介するコーナーがあった。その日内藤陳がこの単行本を持ってこちらにむかって「君に送る本はコレだ」と自信満々に言い放ち、ニヤリと笑ったのだった。この時、内藤陳が僕に対してある啓示を与えているんだ、と全身に電流が流れた感じがした。
 翌朝から、見る(読む)もの、聞くものすべて自分に発信されているとばかり、すごい勇気がわいてきた僕は大胆な言動、行動をとるようになり、ある日、会社から郷里へ強制送還されたのだった。つまり躁病の発症。郷里に戻ってからも妄想は次第に膨らみ、まわりの人たちに迷惑ばかりかけていた。ここらへんの顛末は「焦燥と妄想と狂騒の75日間」というタイトルで小説風にまとめてみようと考えているのだが、当時を思い出すとちょっと怖くなるのでまだ手を出せないでいる。
     △
 「妄想と狂騒の75日間」の備忘録を書こうとしていた。
 最初に某俳優さんの発言や行動に対して慢性躁病じゃないかと書いたのはこの時の体験が基になっている。Sさんとの会話で発せられた大言壮語。あれは目の前のSさんだけでなく、その場にいる不特定多数の人たちに聞こえることを前提にしていたのではないか。僕自身がそうだった。それも確固たる自信があって―それが怖いのだが……
 で、僕の場合、躁が治った頃、すべてが妄想であることに気づき、一気に鬱が襲ってきた。
 これが最悪。結婚したあとである。もう医者の薬も効かなかった。自殺まがいの行動もおこした。
 でも、今こうして生きています。3回めの鬱は最終的に自力でなおした。もうほとんど追いつめられてにっちもさっちもいかなくなって、もうどうなってもいいやと捨て鉢になった末に。
 そこまでを綴ろうと思ったけれど、とても長くなりそうだ。とりあえずおしまい。




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新井啓介
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神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。さまざまなイベントを企画、開催していますので、興味あれば一度覗いてみてください。

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