世の中はGWに突入したが、僕自身にはまるでその意識がない。昨年までは毎年長期休暇を謳歌していたというのに。
 いや、GW=休み、ではなく、GW=稼ぎ時という意識の変換があったということだ。通常なら日曜、祝日は18時で閉店になるのだが、GWは最終日以外平日同様19時まで営業を続けることになって喜んでいる。時給月給のアルバイトには勤務時間の延長はありがたい。
 二十数年、GW、夏季休暇、年末年始とそれなりの休暇を取得していたわけだが、今年からは年末年始以外、休みがない。まあ、事前に申請すればそれなりの連休を取得することはできるが、そうなると収入がダウンしてしまうのだからおいそれと申請できない。のんびり温泉につかって、なんてことを考えるが当分は無理か。
 北海道に行ってみたいのだが……

 休みはなくなったが、その代わり、毎日の充実感は会社勤め時代に比べてはかりしれない。これは大きい。

     * * *

 二〇〇四年の日本映画ベストワン。そう信じて疑わないのが中島哲也監督の『下妻物語』である。
 実をいうとこの映画、当初はまったく注目なんてしてなかった。青春映画には人一倍敏感だとはいえ、こちらは四十半ばの中年男だ。ロリータファッションに身を包んだ女子高生(深田恭子)とヤンキー娘(土屋アンナ)のポップでお洒落なハイテンションカラフルムービーに気が引けたのである。
 そもそもあのフリル全開ヒラヒラ服に虫唾が走る。街で見かけるロリータ娘には後ろからケリをいれたくなるくらいだ。演じる深キョンにそれほど興味がなかったということもある。
 にもかかわらず劇場に足を運んだのは、友人に背中を押されたことが大きい。まあ笑えればいいかくらいの認識だった。それが、クライマックスで目頭が熱くなり、エンディングロールに流れる「タイムマシンにお願い」のビートに酔いしれながら、心地良い気分に浸っている自分がいた。
 何が四十男の心を捉えたのか。
 登場人物の強烈なキャラクターと抱腹絶倒なストーリーをまず挙げたい。
 茨城は下妻というあまり聞き慣れない田舎町。見渡す限り田んぼばかりのロケーションにロリータ服といったら、まるで丹下健三の建築物みたいなものか。赤坂のプリンスホテル新館、新宿都庁、まわりの風景を無視して自己主張するだけの存在なのだ。
 当然ヒロインの桃子は学校でも街中でも浮きまくっている。友だちもいなかった。ところが本人はおかまいなし。全然気にしていない。十八世紀フランスを支配したロココ文化に心酔する桃子にとって、あくまでも自分が信じるものがすべて。他人の目を気にしたり意見を聞いたり――なんて姿勢は一切ない。唯我独尊のジコチュー女。
 強固な個人主義者である桃子のキャラクターが清々しい。何かと仲間と群れたがる現代の若者に対するアンチテーゼか。
 意表をつくオープニングの後、映画はロリータファッション発祥のもとになるロココ文化とは何ぞやという非常にアカデミックな薀蓄話で始まる。時代を十八世紀に逆行させ懇切丁寧に解説してくれるのである。
 これでフリルヒラヒラに対する偏見が解消されるとともに、極度に加工された映像と桃子の語りによって進行していく映画独特のリズムに馴染ませるという寸法。
 大胆かつ奇天烈なつかみで映画世界に引きずり込まれたと思ったら、下妻=ジャスコ万能論、尼崎=ヤンキーの町・ジャージ天国論を展開、爆笑を誘いながら桃子の生い立ちを説明してしまう。ヤンキー娘イチゴとの出会いの伏線にもなっている。構成と語りが巧みなことにも瞠目した。
 何より愛車の50CCバイクで下妻を爆走するアナクロの極致みたいなイチゴが出色。メイク、振る舞い、台詞廻し、桃子との掛け合いがたまらない。
 演技はズブの素人のはずの土屋アンナの上手さにも舌を巻いた。かわいいんだ、これが。
「人を見た目で判断するのはよくないよな」と桃子に歩み寄ろうとするイチゴに対して「人は見かけだもの」と拒絶する桃子。
「借りたものは返すのが筋」と仁義を通すイチゴに「自分の一番大事なモノは絶対貸しちゃいけないの。貸していいのはどうでもいいものだけ」と即座に否定、「だから私、借りたものは返さない主義。貸す時は戻ってこなくていいと思うことにしてるの」とあくまでも自分の流儀を曲げない桃子。
 浪花節的ウェットvsシニカルな観察眼、激烈単細胞vs沈着冷静、尾崎豊vsヨハン・シュトラウス、ミーハーでパープリンvs高い偏差値……etc。外見はもちろん内面にいたるまで、まるで水と油のような二人がヴェルサーチのバッタもんが縁で知り合って巻き起こすなんやかんやの大騒動。
 現役の人気CFディレクターである中島監督らしく、特撮やアニメを取り入れて、パロディ、デフォルメ、もうなんでもありのタッチで縦横無尽に描くエピソードの数々に腹を抱えた。脇を固める達者な俳優陣(樹木希林、本田博太郎、生瀬勝久等々)の怪演もあって、まさに笑いの絨毯爆撃だ。
 涙よりも笑いを高く評価する僕にとって、もうそれだけでも大満足なのに、クライマックスでは久しく忘れていた感情を蘇らせてくれた。
 得意の刺繍を通じて徐々にイチゴとの仲を深めていく最中、自分のせいでイチゴがレディース仲間からケジメをつけられることを知ると、もういてもたってもいられず、運転できない原付バイクを駆る桃子。
 助太刀に現れた桃子のヒラヒラ服が仲間に嘲笑されるや、その孤高の気高さ、美しさ、素晴らしさを絶叫しながら説くイチゴ。
 高揚感と爽快感の中、二人の心根がビシバシと響いてきて、気分は一気にティーンエイジャー。胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。

 原作は嶽本野ばらの同名小説(小学館刊)。〈ヤンキーちゃんとロリータちゃん〉の副題が付く。作家も小説もまったくの守備範囲外。乙女のカリスマ的存在というのだから映画を観なければ本を手に取ることもなかったに違いない。
 冒頭のロココ話からクライマックスの牛久大仏をバックに繰り広げられる大乱闘まで、桃子の一人称による語りの面白さで一気に読ませる。
 ジャスコ、貴族の森、BABY,THE STARS SHINE BRIGHT、VERSACEなど固有名詞をふんだんにちりばめているのは予想したとおりだが、VERSACEを父親やイチゴの台詞ではベルサーチと表記するところなど細やかな配慮も垣間見られる。
 映画でも踏襲された桃子の語りが秀逸で、特に相手が発する言葉に対する桃子の受け答え、地の文が楽しい。声だして笑える。
 たとえば、イチゴの敬語の使い方や思考法、行動論理など、その都度驚き呆れ、茶々入れて、訂正して、揶揄しながら切り捨てる。その間、ボケとツッコミ。たまに挿入される旧かなづかいによるクスグリ。笑いのセンスはなかなかのものだ。会話のおかしさではなく、反応があくまでも桃子の心の声というのがポイントだろう。
 ラスト、桃子がイチゴをサイコーのダチだと認めるくだりがいい。最後の一行では涙がひとすじ流れた。
 読了してわかったのは、映画との違和感がほとんどないことだった。これには驚いた。
 つまり映画『下妻物語』は原作ファンを裏切らない作品になっているのである。映画化されると、原作の単なるダイジェストになって意味がよくわからなかったり、独自の展開で原作のテーマを逸脱してしまったりと、小説とその映画化作品は別物だと割り切らなければ楽しめない最近の日本映画にあって(それでも楽しめれば御の字か)、これは奇跡に近い。
 構成や展開が原作どおりということもあるかもしれないが、独自のアプローチ(前述した何でもありのタッチ)が逆に小説世界の雰囲気を醸し出す結果となった。
 映画も小説もともに愛しい。両ファンにとって実に幸せな作品になったと、これまた信じて疑わないのである。




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Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。さまざまなイベントを企画、開催していますので、興味あれば一度覗いてみてください。

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