一昨日(11日・月)、仕事の最中一緒に働いているWさんが「ピーナッツの伊藤ユミさんが亡くなったって」。
「えっ、Wさん、ピーナッツ知っているの?」
 若い子だから、昭和歌謡の大御所を知っていることに驚いたのだ。
 少しして悲しくなってきた。とうとうザ・ピーナッツがこの世からいなくなってしまったのだから。
 お姉さんが亡くなったときに、もうピーナッツは消滅したようなものだが、それでも、その片割れとして、ピーナッツの生き証人として長生きするのではないかと、なんとなく思っていた。何の根拠もないのだが。
 お姉さんの息子はどう思っているだろう。単なる甥、叔母の関係ではないだろうに。もう一人の母親というような存在だったのではないだろうか。


 昨日(12日・火)の早朝、前日からTVはつけっぱなし、朝一番のワイドショーをやっていた。半分寝ながら音声だけを聞いていたのだが、「永六輔さんがお亡くなりになりました」云々という声が聞こえた。最初はよく意味がわからなかった。頭の中で反芻して飛び起きた。

 この数年、体調がすぐれず、その影響で番組が終了したことは知っていた。もう長くないことはわかっていた。にもかかわらず、いざ訃報に触れると心おだやかではいられない。TVから「上を向いて歩こう」が聞こえてくると、もうダメだった。涙がいくすじも頬を伝わった。
 著名人の死を知って泣いたのは初めての経験である。

 保育園では「こんにちは赤ちゃん」をバックに母とお遊戯したのを覚えている。
 小学校の高学年になると、浅田飴のCMでその姿を拝見することになる。
「せき、こえ、のどに浅田飴」
 続けて「永六輔です、あっ舌噛んじゃった」
 佐々木つとむの物真似は一世を風靡した。

 中学時代は、中年御三家の一人として記憶している。
 小沢昭一、野坂昭如、永六輔。
 父親世代。
 3人とも鬼籍に入られた。

 永六輔のファンになるのは高校時代だ。
 TBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」、水曜(の深夜)の担当は愛川欣也で、永六輔は毎週ゲスト(?)として登場するのだが、まるでレギュラーのような振る舞いだった。このときの話が面白かった。
 当時、尺貫法の利用は禁止されていた。尺貫法ではないと仕事が成り立たない、できない業種があったため、永六輔が立ち上がる。尺貫法の復権運動を始めたのだ。「パック・イン・ミュージック」で何度も尺貫法の話を聞いた覚えがある。
 やがて、この地道な運動が奏功し、見事尺貫法は復活する。
 すげぇと思ったものだ。

 成人してからはラジオ昼の帯番組「誰かとどこかで」と土曜日の「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」をよく聴いた。
この人の場合、おしゃべりをずっと聞いていたい気にさせてくれるのだ。
 反骨の人でもある。

 ある時期から著作も読むようになった。
 文章のスタイルが一貫していて、1行1センテンス。これは絶対だった。

 ちなみに永六輔作詞の曲では「女ひとり」(いずみたく作曲)が好きだ。

 二人に合掌


【参考】

1999/07/28

 「たかがテレビ されどテレビ」(永六輔/倫書房)

 永六輔が東京新聞に連載しているテレビに関するコラムを1冊にまとめたもの。項目別に再編集してある。
 さすが創成期からTVに関わってきた人だけあって、書かれていることにうなずくばかりである。  
TV関係者でどれだけの人がこのコラムに注目しているのだろうか。ったく説教臭い親父だなあと敬遠されるのだろうか。ま、そんな人は最初から読まないんでしょうが。

2001/01/17

 「昭和 僕の芸能史」(永六輔/朝日新聞社)

 永六輔とは何者かという漠然とした思いがいつもあった。
 放送作家から出発してタレントになり、作詞を担当した「黒い花びら」は第一回日本レコード大賞を受賞、以後「こんにちは赤ちゃん」「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」などのヒットを連発する。中村八大、坂本九との六八九トリオは有名だ。

 僕にとっては浅田飴のCFに登場したときの、その姿と声が強烈でその名を覚えた経緯がある。佐々木つとむの物真似「咳声喉に浅田飴、あっ、舌かんじゃった!」は一世を風靡した。当時永六輔の物真似といったら皆これだったっけ。

 高校時代に深夜放送に夢中になった。僕はラジオといったらほとんどTBSしか聴かず(文化放送やニッポン放送はよく受信できなかったという事情がある)、「パック・イン・ミュージック」を一時期毎日聴いていた。水曜深夜のパーソナリティーは愛川欽也なのだが、レギュラーとして永六輔が毎週登場していた。この番組で彼の考え、思想を知ることになる。

 当時永六輔は尺貫法の復権運動をしていた。日本には計量法というのがあって、メートル法以外の計量は法律違反だった。ある職人から「そんな状況じゃ仕事ができない」と聞いて運動を始め、地道な活動が世論を動かし代議士に計量法のおかしさを知らしめた。その結果、ついに法律を改正させたのだ。これらの運動を主に「パック・イン・ミュージック」その他で知り、僕は永六輔を骨のある人と思うようになり、彼の小言に耳を傾けるようになった。

 昭和50年代以降はリアルにある程度永六輔の活動を知ることになったが、いかんせんその前のことについてはほとんどわからない。

 タイトルの、特に〈僕の芸能史〉に興味がわいた。
 本書は昭和を年代別に自身のメディアとの関わり合いの範疇で語り、時代を浮かび上がらせている。週刊朝日に連載されていたものを一冊にまとめるにあたって、平成10年まで続いた連載を区切り良く昭和で切ったと〈あとがき〉にある。
 早稲田大学の学生時代にNHKラジオの人気番組「日曜娯楽版」への投稿からはじまって放送作家の道に進んだ。投稿~放送作家~作詞家の歩み方は秋元康の先をいっていたわけだ。
 日本で最初にジーパン、Tシャツを身につけたとか。

 昭和51年(1975年)の項に興味深いことを書いている。
 TVを変えたのは「欽ちゃんのドンとやってみよう」を開始した萩本欽一と「テレビ三面記事ウィークエンダー」だというのだ。番組に素人を出演させ、TVにプロの芸人が必要ないことを証明させた最初が「ドンとやってみよう」であり、現在TVに欠かせないワイドショーのリポーターという存在を認知させたのが「ウィークエンダー」だと。「ウィークエンダー」は朝のワイドショーの一企画「テレビ三面記事」の内容をそのまま土曜夜にもってきた番組(「傷だらけの天使」の後番組)で、元祖ではないと思うけど、大いにうなずける話だ。

     ◇

2002/11/28

 「六・八・九の九 坂本九ものがたり」(永六輔/中央公論社)  

 小林信彦「テレビの黄金時代」で坂本九の番組「九ちゃん」についてかなりのページ数がとられていた。
 もともとロカビリーブームから出てきた坂本九について、特にその最盛期について、遅れてきた世代の僕が知るはずもない。「上を向いて歩こう」が「スキヤキ」のタイトルでアメリカビルボード誌のトップ1に輝いたことなどもずいぶん後になって知ったことだ。作詞・永六輔、作曲・中村八大、歌・坂本九のトリオでヒットを連発していたことも同様。  
 司会をそつなくこなす笑顔を絶やさないタレント。やさしいお兄さん。物心ついた僕が坂本九にもっていたイメージはこれである。 

 僕らの世代で坂本九といったら、NHKの人形劇「新・八犬伝」のナレーションが有名だろう。時と場合によっては黒子姿で本人も画面に登場し、歯切れのいい語りを聞かせてくれたものだ。  
 十数年後のある夜、NHK教育で「新・八犬伝」を振り返る番組が放送された。坂本九もいつもの笑顔で登場して思い出話を語っていた。日航機の遭難事故が起きたのはそのすぐ後だった。  
 事故が起きた夜、当時勤めていた会社の人たちと下北沢で飲んでいた。遅れて合流した先輩が到着するなり愚痴った。TVで映画「東京裁判」が放送されるので、留守録していたら、遭難事故の緊急放送でNGになってしまったと。翌日の朝刊だったか、夕刊だったか、トップに坂本九の名が出ていた。搭乗者の名簿にその名があるというのだ。ショックだった。嘘であってほしいと願った。

 本書は婦人公論に1986年6月号から12月号に連載された評伝をまとめたもの。坂本九とともに、中村八大と著者自身の足跡を振り返り、昭和の時代を描くという試みだ。
 冒頭の「前書きにかえて」(初出は「話の特集」)が強烈だった。突然仲間を失ってしまった著者が坂本九に対して思っていることをすべてさらけだした追悼文。「死者に厳しいが泣きながら書いたに違いない」と山口瞳が評したという。
 
 坂本九が亡くなったのは43歳だった。今の僕の年齢ではないか。  
 著者と中村八大のコンビによる「黒い花びら」を歌って第1回日本レコード大賞を受賞した水原弘の評伝を読んだのは、水原弘の享年と同じ42歳の時だった。
 六・八コンビでヒットを放った歌手、まだこれからという時期に亡くなってしまったタレントの評伝を同じ年齢で読むというタイミング。特に本書は16年も前に上梓されたものなのである。単なる偶然ではあるけれど、ちょっと驚いた。    

 坂本九にとって、著者はいつでもやかましいおじさん、〈小言幸兵衛〉だった。当然距離をおいてつきあう。中村八大には甘えたが、著者とのつきあいには必ず間に中村八大が入った。
 この評伝の取材でも誰もが坂本九は著者を煙たがっていたと証言する。ただしその中の一人が坂本九が日頃口にしていた言葉を語ってくれた。
「永さんは煙たい人だけど、煙たい人がいるってことは大事なんだ」  
 著者の批判に耳を傾けることのなかった水原弘との違いを見る思いがした。

 (追記)
 本書を読み始めた時、急遽大阪出張を命ぜられ、往復ともに飛行機を利用することになった。けっこう勇気が要りましたよ、機内での読書。




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Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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