その2から続く

 ゴジラシリーズの第一弾、「ゴジラ」が公開されたのは1954年(昭和29年)。僕が生まれる5年前だ。当然のことだが、当時の情況は後年書籍等で知った。

 よく語られるのは、公開時はゲテモノ映画として評論家筋の受けが悪かったということ。識者の中で唯一この水爆大怪獣映画を評価したのは小説家の三島由紀夫だった。曰く「原水爆の恐怖がよく出ていて」「文明批判の力を持っている」(ウィキペディア)。

 評論家の受けは悪かったが、映画は大ヒットした。劇場はとんでもない混雑ぶりだったらしい。
 当時の人たちは「ゴジラ」の何に期待して観に劇場に足を運んだのだろうか?

 「ゴジラ」公開時のことを記した文章で、「ゴジラ」を観た人が「ゴジラがかわいそう」「なぜゴジラが殺されなければならないのか」といったゴジラに感情移入してしまう感想を述べている。
 一人、二人ではない。皆がそう語るのである。

 眉唾ものと思ってしまう。どうしても信じられない。

 水爆大怪獣映画と喧伝されているのである。多くの人は、巨大生物が東京を襲う、そんな破天荒な物語、これまで見たことがないヴィジュアルに惹かれて劇場に足を運んだに違いない。
 その期待には応えてくれた。しかし、ゲテモノ映画と識者に言われているのである。マスコミ(新聞、雑誌)のインタビューに対して単純に面白かった! 特撮に迫力あった! ではちょっと恥ずかしい。映画の感想としてはもう少し格を持たせたい。理由づけがほしい。そこで三島由紀夫の批評である。原水爆の恐怖、文明批評。そこを強調しておきたい。ゴジラも原水爆実験の被害者、ゴジラに感情移入した……

 その昔、「エマニエル夫人」を観に多くの女性たちが劇場に足を運んだ。彼女たちの感想が皆一緒だった。「映像がとても美しい」
 嘘でぇ、シルビア・クリスティルの奔放なセックスが目当てだったのだろうが! エロシーンを観たかったんだろう? でもそんな本音は言えないから建前を述べてしまう。実際、映像はとても素晴らしいものだったから。

 この傾向は特撮のTVシリーズ、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」を語るときにも見受けられる。
 「ウルトラマン」(「故郷は地球」)、「ウルトラセブン」(「超兵器R1号」「ノンマルトの使者」)、「帰ってきたウルトラマン」(「怪獣使いと少年」)と、社会的な問題をテーマにしたエピソードを紹介し、どれだけ作品に深みがあるかを強調する。
 確かに高名な文学者に〈破壊者ウルトラマン〉などと批判されたら、その手のエピソードを持ち出して反論したくなるけれど。

 小学生のときに初めて「ゴジラ」を観たとき、僕もラストでしみじみとなってしまった。しかしそのしみじみ感は果たしてゴジラへの感情移入だったのか。上記の感想は、自分の感情と同じものなのか、否か。

 大人になって再見してわかった。ラストの感情は芹沢博士の死に対してのものだったのだ。この文章を書く前にもう一度DVDを観て確認した。印象は変わらなかった。

 ゴジラは原水爆の放射能を浴びているにもかかわらず生きている。その生命の神秘を解明するためにも抹殺していけない。そう主張するのは山根博士(志村喬)だが、映画が進行するにつれてそれが難しいことがわかってくる。
 イグアナが巨大化しただけの生物だったらそれも可能だろう。しかし相手は巨大なだけでなく口から白熱光(放射能)を吐くのである。こんな生物をどう飼育するというのだ。どう研究するというのか。
 主人公の尾形(宝田明)は、ゴジラを抹殺すべきだと主張し、山根博士と対立する。このときも主人公の言い分の方が理にかなっていると思えた。以降、山根博士は孤立してしまうのだ。

 ギャレス版「GODZILLA ゴジラ」が公開される前、「ゴジラ」のデジタルリマスター版が一部の劇場で上映された。僕は日時が合わなくて劇場で押さえられなかったのだが、これを観たある方がラストで新たな発見をして驚いたと言っていた。
 山根博士がラストでつぶやく有名なセリフ「これが最後のゴジラとは思えない、人類が核実験を続ける限り再びゴジラが現れるだろう」。このセリフのあと、後方の、オキシジェンデストロイヤー作戦(?)に従事している男が、博士の言葉に耳をかたむけずそっけなくその場を離れてしまうというのだ。
「山根博士ってまったく相手にされていないんだよな」

 ゴジラにはどんな武器も通じない。一つだけ望みがあった。芹沢博士が発明したオキシジェンデストロイヤーである。水中の酸素を破壊するオキシジェンデストロイヤーならばゴジラを抹殺することができる。尾形とヒロインの恵美子(河内桃子)が、その使用の許可を得ようと芹沢博士を説得するが首を縦に振らない。これが公になれば、世界の為政者が原水爆に代わる兵器として利用するようになるというのが芹沢博士の理屈だ。
 芹沢博士はふたりにこう反駁する。
「もしもいったんこのオキシジェン・デストロイヤーを使ったら最後、世界の為政者たちが黙って見ているはずがないんだ。必ずこれを武器として使用するに決まっている。原爆対原爆、水爆対水爆、そのうえさらにこの新しい恐怖の武器を人類の上に加えることは、科学者として、いや、一個の人間として許すわけにはいかない」

 しかし最終的にはふたりの願いを聞き入れて、すべての研究データを消去したうえ、自分の生命と引き換えにゴジラを葬りさる。
 芹沢博士の葛藤、心情にくるものがあったのだ。

 今回DVDを見直して僕自身も気がついたことがあった。
 気づいたというか、ラスト、こんなことを考えたのだ。
 芹沢博士が、もし、恵美子とつきあっていたら、恋仲であったらそれでも自分を犠牲にしてオキシジェンデストロイヤ―を使用したのだろうか?

 この項続く




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新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。さまざまなイベントを企画、開催していますので、興味あれば一度覗いてみてください。

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