倉本聰の自伝風エッセイといえようか。  
 原風景に始まって東大時代の芝居三昧の日々、番組制作とシナリオライターの二足の草鞋で睡眠時間がほとんどなかったニッポン放送の会社員時代。シナリオライターとして独立して、まず技術者としてシナリオを極めようと、TVと映画(日活の歌謡映画)を書きまくった時代。そして僕自身〈脚本・倉本聰〉に惹かれてTVのチャンネルを合わせた70年代。大河ドラマ「勝海舟」で生じたNHKとの確執、北海道への逃避行、それを端に発した北海道とのかかわり、富良野への永住、ライフワーク「北の国から」の誕生、シナリオライターと俳優を養成する塾の開講、TVを離れ、自分の劇団を旗揚げし芝居作りに励む毎日等々。
 「勝海舟」降板事件や石原裕次郎主演映画の頓挫の詳細が書かれていたり、クリエーターとしての含蓄のある文章もたくさんあって、なぜもっと早く読まなかったのか悔やまれる。  
 連続ドラマ「北の国から」のシナリオを出したことから、理論社は後に倉本聰の作品をまとめた〈シナリオ文学〉シリーズを発刊するが、それより前、まだシナリオが読み物として認知されていない頃から、僕は倉本聰のシナリオ集の本を買っていた。それくらい10代の僕は倉本聰にはまっていた。
 
 小学4年か5年の時、「2丁目3番地」を観るようになって、倉本聰というシナリオライターの名を覚えた。石坂浩二と浅丘ルリ子が夫婦役で共演(これをきっかけに結婚する)したコメディードラマはとにかくおもしろかった。ナレーションがふたりの間にできた赤ちゃんというのも斬新だった。  
 それより前に倉本ドラマを観ていた。平幹二郎主演「君は海を見たか」である。不治の病に冒された息子と、仕事に忙殺されて家庭を顧みなかった父親のふれあいを描くこのドラマ、子ども心にもラストのクライマックスが想像できた。病院のベッドの上で行き絶え絶えの息子と、父親の最後の会話が交わされる涙なくしては見られない展開……。  
 とんでもなかった。息子の死を宣告されてからというものの、仕事モーレツ人間から家庭人間になった父親は、病気に効くとされる民間療養はすべて試してみた。神様、仏様はすべてお祈りした。その結果、まだ息子に異変は見られない。もしかしたら奇跡がおこったのかもしれない。本当に助かるのかも。そんな大人の会話が交わされているところに、トイレから息子の声が響いた。「パパ、来てごらん、見てよ、ボクのおしっこ、まっかっかなんだよ、とってもきれいなんだ」  
 ここで、すぐに息子の遺影になって、父親のモノローグでエピローグが語られる。この展開に衝撃を受けた。
 
 「君は海を見たか」も倉本聰の作品だと知り、しっかりその名を受け止めた僕は以後テレビ欄で倉本聰の名を見つけると必ずチャンネルを合わせたものだ。(ちなみにこの作品は後年、ショーケン主演でリメイクされている。)  
 日曜劇場で北海道放送が制作するドラマ「りんりんと」、「幻の町」、「うちのホンカン」等の単発ドラマ。大河ドラマ「勝海舟」。ショーケンほか室田日出男、川谷拓三の異色キャストが話題を呼んだ「前略おふくろ様」。
 「勝海舟」の第1回にひどく感動した。若き海舟が学校の先生に父親を批判され、怒り出す気持ちがまっすぐこちらに伝わってきた。途中降板が残念でならなかった。  
 「前略おふくろ様」はラストのショーケン演じるサブの言葉に涙した。俺はおふくろさんに青春があったことを知らない、と切々と訴えるシーンで、両親の恋愛なんて考えたこともなかった僕はTVの前でしきりにうなづいていた。PART2では酔っ払って部屋に帰ってきたサブに〈おふくろ死す〉の電報が届くシーンに、「田中絹代が死んじゃった!」と飛びあがった。実際に田中絹代が具合が悪く入院していたことをニュースで知っていたので、ドラマと現実が一緒くたになってしまったのだ。
 
 当時ビデオによるドラマは収録がスタジオだけに限定され、ロケの場合はフィルムになってしまうなんてこともあった。スタジオ収録だけで済ますホームドラマはセットがいかにも作り物めいていて、舞台劇に毛がはえた程度のイメージだった。そういう風潮の中で倉本聰が書くドラマはビデオという素材を最大限に生かしきっていた。
 
 ベップ出版というところからシナリオ集がでていると知って、あわてて買い求めた。1冊は日曜劇場のドラマを集めた「うちのホンカン」、もう一冊は「前略おふくろ様」。二千円弱の本は当時の高校生にとって高価な買い物だったが仕方ない。僕はこの2冊でシナリオの書き方を学んだ(つもり)。
 シナリオのほかにもエッセイ集もあった。「さらばテレビジョン」に始まり、以後「新テレビ事情」「そこに音楽があった」等買いつづけた。その中に〈ビデオにこだわりたい〉という一文があって、僕はその姿勢、意気込みに大いに共鳴した。
 
 当時の僕にとっては「それぞれの秋」、「男たちの旅路」の山田太一とともに倉本聰はテレビドラマの二大巨匠だった。  
 その二人のドラマが同時に放送される日がやってきた。「北の国から」と「思い出づくり」である。まだビデオデッキがない時代、どちらを観るか大いに悩み、小学生の時からファンだった倉本聰を選択した。  
 理論社からシナリオが出た。過去のシナリオも大方買い揃えた。〈シナリオ文学〉がもてはやされた頃だ。いい時代になったもんだと喜んでいた。にもかかわらず、何冊も読んでいるうちにもどかしさを感じるようになった。映像が観たい。役者が実際に演技しているシーンを観たい。ベップ出版の抄録ではなく、全話収録の「前略おふくろ様」でその思いは一気に高まった。  

 あこがれの倉本聰には一度だけ会える機会があった。
 大学を卒業し、就職浪人が決まった僕は、親に対する口実のため半年間だけシナリオ講座に通った。特別講師として倉本聰と山田太一がそれぞれ別々に招かれたのである。しかし僕は倉本聰の講演を欠席してしまった。  
 授業料その他すべて自腹だったから、授業を欠席するなんて金を無駄にするようなものだったが、どうしたわけか行く気になれなかった。  
 実際に会うのが怖かったということもある。同時に、全クラスが対象で教室がいつもの場所ではない、事務局から聴講するにあたっての注意も多い、など、何から何まで特別扱いに反発したのかもしれない。山田太一の時はしっかり行ったのに、今、考えると自分の行動がわからない。    

 倉本聰のドラマはその後も「北の国から」のスペシャルドラマ等、できる限り観ていた。ただ、以前ほどの熱い気持ちはなくなっていた。
 一つにいわゆる自分のドラマに〈ら抜き言葉〉をたびたび使用するようになったことが要因だった。台詞の一つひとつに目を光らせていた人が〈ら抜き言葉〉に平然としていられるなんて信じられなかった。
 決定的だったのは芸術祭参加作品のスペシャルドラマ「町」だ。これでもう倉本ドラマを卒業しようと思った。
 時流に乗り遅れたかつての売れっ子シナリオライター(杉浦直樹)が現在のTV業界に挑戦するべく、あるシナリオコンクールに別名で応募したシナリオのクライマックスが、まったく「前略おふくろ様」のそれだった。まったくの焼き直し。  
 久しぶりにNHKと組んだ「玩具の神様」がよくて、また見直したものの、「北の国から '98時代」後編のラストでまた気が変わった。
 テーマ曲に乗せて、連続ドラマから今までの純と蛍の姿をピックアップして並べていく。涙がとどめもなく流れた。彼らが小学生の頃から成長を見守っているのだから、こんな風に作られたら熱心な視聴者なら涙を流すのは当然だ。それをこれでもか、これでもかとたたみかけるように映像は続く。こうまでして感動を視聴者に押しつけるのか。僕の反発はここだった。  

 山田太一はドラマを書きながら、ドラマでできないことは小説で表現するようになった。キャリアを積んだライターにわりと多く見られる。倉本聰は小説に手を染めたことがない。時々エッセイ集を上梓するだけ。昔は喜び勇んで購入して読んだのに、この数年はほとんど見向きもしなくなった。図書館から借りようともしない。
 
 しかし。  
 「北の国から 2002遺言」を観て、倉本聰の底力を知った思いがした。そこで倉本ドラマとは僕にとって何だったのか、再確認する意味で本書を借りてきた。  
 NHK「勝海舟」の降板はここまでスタッフと軋轢があったのかと、驚いた。女性週刊誌の歪曲された記事がもとになって、スタッフのつるし上げになった件。労働組合が強い時代だったとしても、この解決法はないだろう。  
 母親の躁鬱病の話はこれまでも何度か読んでいる。最初に読んだ時(高校時代)躁鬱病の実体を知ったつもりでいたのに、いざ自分が躁になってもまるで役にたたなかった。  
 田中絹代の話は何度読んでも涙がでてくる。おふくろ様が亡くなって、サブのところに電報が届くシーンで、TVの前であわてふためいたファンがいたように、倉本聰自身もまた動揺があったという。そのシーンを書いたシナリオをTV局に納入してから、入院する田中絹代を見舞うと、親族からもう長くないと聞かされる。まっさきに思ったのはシナリオを取り返さなければということ。おふくろ様を殺してはいけない、と。
 
 芝居で全国をまわる。その土地々で反応が違うと書く。最悪の客は東京と書いている。「東京のお客さんは静かすぎて楽しんでいるのか、つまらないのかわからない」と東京でコンサートをするたびに困った顔を見せる某ミュージシャンの言葉を思い出した。
 クリエーターとして発信ばかり考えて受信することを忘れているとの苦言には素直にうなずきたい。  
 単なる偶然かもしれないが、ひとつの倉本聰との共通項を見つけてうれしいやら怖いやらの思いがする。倉本聰がたまに見てうなされる夢のことだ。ひとつは試験の夢。何一つ勉強しておらず、苦悩しているところで目がさめるという。もうひとつはまったく台詞を覚えていないのに舞台に立たせられる夢。僕もたびたび似た夢を見る。
 夢判断だとこのふたつの夢は何を意味するのだろうか。




関連記事
スポンサーサイト
NEXT Entry
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」出版記念イベント 【新井啓介〈昔撮ったキネマ〉蔵出し上映会Ⅱ】
NEW Topics
「藤子・F・不二雄のまんが技法」「夢分析」「日本語練習帳」 ~ある日の夕景工房から
「活字のサーカス -面白本大追跡-」「司馬遼太郎と藤沢周平」「お洋服クロニクル」 ~ある日の夕景工房から
「居酒屋ゆうれい」 in 「第9回船堀映画祭」
1分間スピーチ #25 一休和尚の遺言
「ロードキラー」「トゥームレイダー」「赤い橋の下のぬるい水」「スパイキッズ」 ~ある日の夕景工房から
「柔らかな頬」 「ファイティング寿限無」 「もっとも危険なゲーム」 ~ある日の夕景工房から
「カルテット」「約束」「GO」 ~ある日の夕景工房から
飯島敏宏 テレビドラマ50年を語る ~「月曜日の男」から「金曜日の妻たちへ」「毎度おさわがせします」まで~
没後47年命日に捧げる 三島由紀夫、心の歌を聴け ~「告白」の肉声と朗読~
「すぐそこの江戸 考証・江戸人の暮らしと知恵」「第3の家族 テレビ、このやっかいな同居人」「知の編集術 発想・思考を生み出す技法」「へなへな日記」「新宿熱風どかどか団」 ~ある日の夕景工房より
Comment
Trackback
Comment form
 管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top