2016/12/30

 「湯を沸かすほどの熱い愛」(ヒューマントラストシネマ有楽町)

 田中好子が亡くなった翌日だったか、早朝のワイドショーで彼女の声が流れた。東北大震災で被災した人たちへのメッセージ。病室で録音したものだ。声は「疲れちゃった」という夫への呼びかけで終わり、僕は笑った。
 キッチンで朝の支度をしていたカミさんがすばやく反応した。「なんで笑うの?」不謹慎だと言うのだ。
 TVのある居間とキッチンはつながっていて、TVを観ている僕はキッチンからだと背中しか見えない。正面から見れば、僕が泣いていたことにも気づいたはずなのに。
 亡くなったことはとても悲しくて、でも夫に甘える声がかわいくて微笑ましくて笑ったのだ。

 TVドラマや映画では、泣かせることが評価される風潮がある。泣く=感動というわけだ。笑わせて、笑わせて、ここぞというところで泣かせる。この作りに、特に日本人は満足する。ラストでしんみりさせるのがミソ。で、大ラスはまた笑いに転化させて大団円。拍手喝采だ。

 泣かせを売りにする映画があるが、僕はどうしても敬遠してしまう。泣かせることがいけないわけではない。泣かせるためのあざとい演出が嫌いなのだ。実際、そういうシーンではシラけてしまうことが多い。泣いたとしても、心の中では舌打ちしたりして。
 たとえば、予告編で泣けることを強調する映画は絶対観ない。子どものころ、親に泣かせるよりも笑わせることの方がどれだけ大変か、何度も言われていて、涙<笑という数式が自分の中に出来上がっているので。
 作り手は意識しているのかどうかわからないが、なんでもないシーンに目頭熱くすることもたびたびだ。

 恐怖と笑いは紙一重だと言われる。
 実際、「遊星からの物体X」を観たとき、あまりの怖さにニヤニヤしてしまった。
 いつのころからか、笑いと涙も同じだと思うようになった。

 笑って、笑って、泣いて、というのではない。笑いながら泣くのである。泣きながら笑うのである。
 実際、そういう展開のドラマや映画に触れるようになった。
 落語でも経験している。
 「湯を沸かすほどの熱い愛」はまさしくそういう映画だった。

 宮沢りえとオダギリジョーの共演。ふたりが夫婦役で銭湯を営んでいるのだが、オダギリジョーが蒸発してしまい、宮沢りえは娘と夫の帰りを待っている……なんてことしか知らなかった。

 評判が良くて観る気になったのだが、実際に観た人の感想「泣けるよ~」に少し身構えた自分が恥ずかしい。
 扱っている問題はとんでもなく重い。それも三段構えだ。にもかかわらず、適度のユーモアをまぶして語っているところが、単なる泣かせの映画と違う。この差は大きい。

 映画は地方の町を舞台していて、途中からどこか気になって仕方なかった。渡良瀬という文字(看板)がでてきて、「もしかして?」。どこか見慣れた風景もでてきて、やはり足利だった。郷里太田の隣町だ。中学、高校時代、映画鑑賞でお世話になった。
 大学時代は、脳腫瘍の手術で母が赤十字病院に入院し、毎週土曜日泊まり込んで看病した。
 そんなわけで、映画の後半、寝たきりの宮沢りえを見るのはつらかった。母の姿とダブるのだ。もうそれだけで涙があふれた。

 宮沢りえは「紙の月」を契機にしたのか演技派の道を突き進んでいる。惚れ惚れしてしまう。
 それ以上に娘役の杉咲花だ。この子、こんなに巧かったのか! 




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Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。さまざまなイベントを企画、開催していますので、興味あれば一度覗いてみてください。

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