話題のミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」の感想を書く前に、2000年代になって、僕がどんなミュージカル映画を観てきたか、そのレビューをピックアップする。僕自身のミュージカルに対する考え方、趣味嗜好が理解してもらえると思うので。

     ◇

2001/03/07

  「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(丸の内プラゼール)

  ロバート・アルトマン監督のカンヌ映画祭グランプリを受賞した「ザ・プレイヤー」はハリウッドの映画界を皮肉った内容で、人気俳優たちがカメオ出演していることも話題になった。  
 大いに笑ったのは主人公の映画プロデューサーが購入したシナリオを映画化した映画内映画のラスト。
 ハリウッド映画の商業主義、楽天主義を嫌悪するシナリオライターの卵のそれは最後にヒロインが無実の罪で死刑になってしまうという非常に暗い、リアリズムの極致みたいなストーリー。主人公は出来のよさを評価しつつも観客の支持が得られるようにラストをハッピーエンドにしろと要求する。シナリオライターは拒否する。そんなことをしたらこのシナリオの意味がない、と。  
 ところが映画化された作品のラストは処刑室に連れていかれ、あとわずかで刑が執行されるヒロインを助けに銃を乱射しながら「ダイハード」よろしくブルース・ウィルスが助けにくるという大ドンデン返し。リアリズムも何もあったものじゃない。結局シナリオライターの卵氏は映画界で名をあげるため、ハリウッドシステムを受け入れてしまったのだった。  
 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観終り、この映画内映画を思い出していた。  

 かつてハリウッド映画を代表するジャンルにミュージカルがあった。本場ブロードウェーの舞台同様、映画の方も歌、タップダンス、レビューがドラマと渾然となって観客に夢と希望を与え、アメリカ映画の華やかさ、楽しさ、わかりやすさを具現化したジャンルともいえる。日本でもミュージカルファンは多い。  
 ただ映画はある種のリアリズムを基調とする。SFだろうがアクションだろうが、実際にはありえない虚構の世界を描いていても独自のリアリズムで観客を納得させている。この観点からいくとミュージカルはまったくリアルでない。それまでドラマを演じていた俳優が突然歌を歌い出し、踊り出す。それがミュージカルなんだといっても、ルールを知らない人にしてみれば「何これ!」てなものになる。  
 一時期ミュージカル嫌いのタモリがさんざTVで文句を言っていたし、僕自身ある時期までその違和感をぬぐいきれなかった。  
 実際僕も昔ながらのミュージカル・ミュージカルしたものは観たことがない。ミュージカルの黄金時代を知る世代ではないからよけいそうなのかもしれない。「ザッツ・エンタテインメント」はもちろん、空前のブームを呼んだ「ウエストサイド物語」さえTVで放映された際、チャンネルをあわすものの途中で断念してしまったほど。  
 20代になってからはダンス(&ソング)に興味もでてきて、その手の映画も観るようになったが、ショービジネスの舞台裏やダンサー志望の若者たちの青春ものといった内容で、容易にドラマの中に歌やダンスを取り入れられるものに限った。  
 絶対に言えることは〈シリアスなストーリーとミュージカルは相容れない〉ということ。もちろん自分のミュージカルに関する知識がないだけで過去にシリアスなドラマのものもあったかもしれない。しかし「ダンサー・イン・ザ・ダーク」ほど救いのないドラマはなかったのではないか。  
 監督(&脚本)のラース・フォン・トリアーはハリウッドで量産されたミュージカル映画に敬意を表しつつも、その人工的な甘美な世界、いかにもな虚構世界でない、まったくそれとは対局にある世界とミュージカルの融合を試みたのではないか。ミュージカル嫌いな人にも受け入れられるようにとの考えかどうかは別にして、ドラマの中に何の抵抗もなく歌と踊りのシーンを挿入する構成にしたいとも考えた。  
 「ザ・プレイヤー」の映画内映画がヨーロッパのネオリアリズム映画を無理やりハリウッド風にしたように、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はその逆を狙ってのではないか、と。  

 この映画には注意書きが多い。まず劇場ドアのいたるところに「この映画は手持ちカメラで撮影され、画面がブレるので酔いやすい方は…」との注意書きが貼付されていた。  
 映画の冒頭ではオープニングの4分弱まったくの黒味であることを触れ、これも演出による云々という字幕がでる。  
 この映画も内容についてほとんど事前に仕入れなかった。タイトルから盲目のダンサーがヒロインであること、非常に暗い内容であること、観たことを後悔する人がいる、と聞いていたくらい。  
 オープニングの黒味にはフルオーケストラのとても印象的な曲が流れる。途中から目をつむり、舞台に実際にオーケストラがいて、懸命に指揮棒をふる指揮者を思い描いた。  
 ドラマが始まるとやけに色がくすんだ画質、素人が撮った8mmみたいなイライラするほどブレとパンを繰り返す映像が続く。  

 やがて失明してしまうヒロインのセルマ(ビョーク)はチェコからアメリカにやってきたミュージカル好きな移民で、やはり同じ眼病の息子・ジーン(ブラディカ・コスティック)とともに親切な警察官夫婦(デビッド・モース&カーラ・セイモア)の好意で敷地内にあるトレーラーに住む。息子の眼の手術費用を捻出するため生活を切りつめ、つつましい毎日を送っている。
 セルマは市民劇団が上演するミュージカルに主演するため、そのリハーサルにも余念がない。が、眼はますます悪くなり、ほとんど見えない状態に。にもかかわらず検査ではインチキしてまで正常を装い、深夜残業、内職と精をだす。そんなセルマに親切な夫婦、実は妻の浪費で多額の借金を背負っているビルが借金を申し込む。訳を話して断るセルマ。が、ビルはセルマが目の見えないことをいいことに金の隠し場所を見つけ、盗み出す。  
 セルマが工場でミスを犯しクビになった日、金が盗まれたことを知る。ビルが犯人だと確信するセルマが金を返すようにビルに迫るが逆にピストルで脅される始末。言い争いの途中でピストルが暴発。ビルが倒れる。ビルはやってきた妻に警察に知らせろといいながら、二人きりになるとセルマに自分を殺せと迫る。気が動転したセルマはピストルを発射、最後は顔を殴打して殺してしまう。  
 その足で病院に駆け込んだセルマは医師に息子の手術を依頼し、その後警察に逮捕される。すべての証言、証拠がセルマの有罪を物語り、死刑の判決が言い渡される……。    

 ドキュメンタリータッチで社会派風ドラマが展開される中、ミュージカルシーンはヒロインの白日夢、心象風景として要所々に挿入される。このシーンになると画面は鮮やかなカラーとなり、カメラもフィックス、さまざまな角度からダンス&ナンバーが切り取られる手法。  
 最初のナンバーはセルマが働く工場が舞台。工場内にこだまする機械音が徐々にリズムを刻み、やがて工員たちの乱舞になる瞬間は興奮もの。ダンスそのもの、カッティングはそれほどでもなかったが。  
 不意に涙があふれでたのは次のナンバー。鉄橋でセルマに思いを寄せる無骨な男・ジェフ(ピーター・ストーメア)がセルマの目が見えないことを知り、二人のかけあいから通過する列車の貨物車両の上での男たちのダンスに発展するシーン、そしてビルが死んで、不幸を呪うセルマに一人息子が「母さんに罪はない」と歌いかける繊細な声の響き。死んだビルが生き返り、妻とともに「逃げろ」とアドバイスする、なんてミュージカルらしい何でもありの世界が再現される。  

 映画の後半からラストまで、ヒロインを襲う不幸の数々に隣席の二人連れの片方の女性は鳴咽をあげ泣きじゃくっていた。僕はというと悲惨な現実に心苦しく、目をふさぎたくなったもののドラマそのものはわりと冷静に観られた。いくらなんでも裁判はああいう方向に進まないと思うし。  
 もしこの映画がヒロインの悲劇をことさら強調し、観客の涙をしぼるような作りなら、はっきりと拒否反応を示していたただろう。  
 だが僕はヒロインのやりきれない現実を受け入れるための心根、ミュージカルシーンを夢想する気持ちに胸をつかれた。
 現実と白日夢の落差がはげしいほどその思いは強くなる。息子の手術代確保のため(もしかしたら死刑にならずにすむかもしれない)再審を拒否したヒロインが処刑室に向う際の「107ステップス」のナンバーに胸ときめいた。こういう作りもありなんだ、と〈目から鱗〉状態になった。  
 処刑台に立ったヒロインは何かと面倒をみてもらった仕事仲間・キャシー(カトリーヌ・ドヌーブ)から息子の手術成功を知らされる。そこではじめて現実の中で歌をくちずさむ。小さな声がやがて処刑室内に響き渡る迫力となって、その頂点をきわめた時、それこそ観客に何かしらの奇跡を期待させるその瞬間、それを裏切るかのようにショッキングな結末で幕となる。現実の厳しさを再認識させるかのように。  

 この方法論がすべてに通用するとは思わない。またこの映画のヒットに刺激され、安易に悲劇とミュージカルが融合した映画が主流をしめることも憂慮する。が、ミュージカルに縁がなかった人たちがこの映画を観て夢見る心の必要性、華麗なダンスに心躍らせてミュージカル映画の存在を認識するのであればそれはまたけっこうなことではあるまいか。  

 追記  
 ミュージカルシーンはビデオ映像をフィルムに転換したように思う。どのように撮影され、ビデオ処理されたのかパンフレットに記載されていたのであれば、サウンドトラックの「セルマソングス」とともにぜひ購入したい。観終わってもう一度冒頭の「Overture」を聴き直したいと思う。あの真っ黒なスクリーンに何が見えるか、とても気になった。

     ◇

2002/03/13

  「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」(渋谷 シネマライズ)  

 オフブロードウェイでロングランを続けたミュージカルの映画化だという。  

 東ドイツに住む、ロックを子守唄がわりにして育った同性愛者の主人公(ヘドウィグ)がアメリカ兵に見初められて結婚、渡米前に性転換手術するが失敗し、アメリカに着いたとたん捨てられる。
 やがてベルリンの壁が崩壊。彼女(?)はベビーシッターのアルバイト先で知り合ったロックシンガー志望の17歳の高校生・トミーと意気投合。彼をロックシンガーにするべく、自分の持てるすべての愛を注ぎ、ロックの真髄を教え込む。自分の運命を赤裸々に綴った歌作りの日々。ところがある日トミーがヘドウィグの楽曲を盗んで遁走。プロデビューして、あっというまに人気アーティストになってしまった。
 トミーを許せないヘドウィグは自分のバンドを率いて、彼のツアーを追いかけるストーカー的ドサ回りの旅にでる。  

 タイトルの〈アングリーインチ〉とは性転換に失敗したヘドウィッグの股間に残ったわずかな突起物を指している(怒りの1インチ)と同時に、そのままバンド名にもなっているというわけ。  
 トミーのコンサートが開催される大ホールの近くにあるレストランやパブでのライブ。そこで一部のお客の不快感など省みず、ハデハデゴテゴテ、奇抜な衣装で自分の数奇な運命を歌い上げ、トミーの不正を弾劾する。    

 ヘドウィグのこれまでの半生(ロックシンガーになるまでの軌跡)を描く方法が巧い。まずライブで、ヘドウィグ自身が歌で語る。時に当時の映像がインサートされ、やがて歌と映像がシンクロし、いつしかミュージカル特有の時間と場所を超越した世界に突入していく。個人的なミュージカルで一番気になる部分、芝居から歌のシーンに転換するところがごく自然に受け入れられた。
 ロックバンドがフィーチャーされたミュージカルに一番期待したのがここなのである。
 とにかくライブシーン、ミュージカルシーンが楽しい。「Origin of Love」のヘタウマアニメのインサートが効果的。
 また「はい皆さん、ご一緒に」とヘドウィグの掛け声とともに「Wig in the Box」の歌詞がインポーズされて、映画がカラオケ映像になるなんて、コロンブスの卵的新鮮さでカラオケ好きにはたまらない。心が躍った。もう一度カラオケシーンがあったらぜったい声出して身体を揺らして歌っていただろう。最高!

 脚本・監督・主演のジョン・キャメロン・ミッチェルはその気があるのかないのか。まあ、そんなことはどうでもいいけれど、女装姿が見事に決まっていた。ハデハデなステージ衣装以外の、カジュアルな格好の時に見せる足の形(細さ)だとか肩のあたりの曲線だとか、ホント女なのだ。
 トミーとの蜜月時代に、ドアのところでくちづけを交わすシーンがある。このときヘドウィグの全身から醸し出す雰囲気がとてもナチュラル。痺れました。1インチぐらいの突起なんかゆるしてしまいたくなる。小さな胸のふくらみが始終気になって気になって……

  この映画、映画本来の楽しみとは別にソックリさん大会の趣きもあります。
 ヘドウィグはある時は〈狩人〉のお兄さん、またある時は京唄子、黒柳徹子(あくまでもヘアスタイルが)、ファラ・フォーセット……、トミー(マイケル・ピット)はどうみたってディカプリオでしょう。バンドのメンバーでヘドウィグの現在の夫・イツハク(ミリアム・ショア)はジョニー大倉かケミストリーの野人みたいな方(名前知りません)、なんて。
 このイツハク、髭面ではあるけれど、一目見た時から、声を聞いたらなおさら女性だとわかる。役もヘドウィグの目を盗んで彼女のかつらをそっとかぶってうっとりしたりする、ちょっと屈折した、わけありの性格の御仁。それからはいつヘドウィグを凌駕するような美貌の女性に大変身してくれるのか、胸わくわくものだったのだが、そういう展開にはなりませんでした。(ラスト近く、ステージから客席にジャンプし、変身した女性は本人なのかな? 僕にはそう見えなかったのだけれど。)

 冗談はさておき。
 劇場を出るときエンディングロール曲を口ずさんでいた。これは昔からの観た映画がたまらなく素敵だった証拠である(ラストの不可解さは別にどうでもいいことだと思う)。
 この映画ももう一度観たい。いやその前にサントラ買って、ナンバーをソラで歌えるように練習しておこうか。

     ◇

2003/05/18

  「シカゴ」(川崎チネチッタ)  

 話題の映画をやっと観る。  
 ミュージカル「シカゴ」については、そのタイトルとボブ・フォッシーの作であることだけしか知らなかった。小林信彦の「週刊文春」連載のエッセイ(コラム)「人生は五十一から」で、この映画をとりあげていて、内容を紹介していた。あれっと思った。  
 殺人を犯した女性と悪徳弁護士が活躍する、およそミュージカルらしからぬ内容、ヒロインの一人がヴェルマという名前、何よりミュージカルシーンが主人公たちの白日夢(心象風景)というところがひっかかった。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」によく似ている。いや、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」が似ているというべきだろう。
 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のヒロインの名はセルマ、内容も無実の罪で処刑される薄幸な女性の悲劇だ。ミュージカル好きなセルマの白日夢がミュージカルシーンになっているという手法。もしかしたらラース・フォン・トリアー監督は「シカゴ」に影響を受け「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を企画したのかもしれないと。  

 パンフレットのロブ・マーシャル監督のインタビューと読むと逆だった。映画「シカゴ」のミュージカルシーンの発想は「ダンサー…」にあるらしい。  
 考えてみれば、舞台のミュージカルにリアリズムなんて必要ない。役者が突然歌いだし、踊りだしても別にそれほどの違和感はない。なんでもありの世界なのだ。  

 では舞台の「シカゴ」とはどんなものなのだろう。少々調べてみた。  
 もともとは実際の事件をもとにした戯曲だった。1975年、ボブ・フォシーがこの舞台劇をミュージカルに仕立てる(演出&振付)。〈ミュージカル・ボードビル〉と呼ばれる作品で、司会者と生のバンド演奏がドラマを要所要所で転換させていくショー的要素の強い舞台。この年、トニー賞11部門にノミネートされるが、「コーラスライン」に独占され無冠に終わる。
 96年リメイク(ウォルター・ボビー演出、アン・ラインキング振付)して上演され、大ヒット、トニー賞6部門受賞、ロンドンでもロングランとなる(成美堂出版「ミュージカル作品ガイド100選」)。
 日本では85年に鳳蘭と麻美れいのコンビで上演されている。悪徳弁護士役は植木等だ。演出は井原高忠。  

 1920年代のシカゴ。ダンサーを夢見るロキシー(レニー・ゼルウィガー)は自分を騙した愛人を射殺し、収監される。関係者にコネがあって、いつかダンサーにしてやるという愛人の約束がまったくのデタラメだったのだ。
 監獄にはショウビズ界の憧れのスター、ヴェルマ(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)が浮気していた夫と妹を殺した罪で収監されていた。ヴェルマは賄賂で女看守長を手なずけ、悠々自適な監獄生活を謳歌していた。また悪徳弁護士ビリー(リチャード・ギア)を使って、自分に有利な判決にもっていこうと画策していた。  
 憧れのヴェルマに冷たくされたロキシーは対抗するかのようにビリーを雇い入れた。悲劇のヒロインに仕立てられたロキシーは次第に人気者になっていく……。  

 映画は「And ALL THAT JAZZ」のナンバーで幕を開ける。
 ボブ・フォシー監督の傑作ミュージカル映画「オール・ザット・ジャズ」(1980年)のタイトルはこれからとられたのか。〈てんやわんや〉〈あれやこれや〉という意味と認識していたこのタイトル、〈何でもあり〉と訳されていた。ミュージカルナンバーで有名な「エニシング・ゴーズ」(僕は「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」のオープニングで知った)も確か〈何でもあり〉という意味だった。ミュージカルにはやはり〈何でもあり〉が似合うということか。

 キャサリン・ゼタ=ジョーンズのダイナミックな踊りに驚く。とにかくキレがあって見ていて心地いい。この女優、こんなこともできるんだ!! 
 収監された刑務所には6人の女犯罪者がいた。彼女たち一人ひとりを紹介するナンバー「Cell Block Tango」のセットがまんま「監獄ロック」だった。
 この時代、女性は死刑にならないというのが常識だった。ところが、6人の中から初めて死刑の判決がくだされた女性がでる。彼女はハンガリー移民。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のヒロインも東ヨーロッパからの移民だった。公開死刑の絞首刑の様はまさしく「ダンサー…」のクライマックスそのものだ。
 ドラマとミュージカルの構成が絶妙だ。
 ドラマがいつのまにかミュージカルシーンに変わって、自然にこちらもリズムを刻んで、身体を動かしたくなる。
 特にリチャード・ギアのタップダンスのシーンに発揮されていた。クライマックス、ロキシーの判決が有罪か無罪かのサスペンスとのシンクロに唸った。
 女看守長がどこかで見た女優だと思ったら、「ボーン・コレクター」の介添人(クィーン・ラティファ)だった。従弟(大学時代柔道部の主将として活躍した180cmを超す大男)によく似ているのだ。
 ロキシーの夫役ジョン・C・ライリーがいい味でした。不貞妻の、不倫の末の殺人だと知らず、自分が犯人だとかばう姿、妊娠したと嘘をつく妻の言葉を信じる姿、自分はまったく目立たないと嘆く姿……情けなくて愛しい。
 ロキシーの人気を脅かす、次の殺人者役がルーシー・リューというのも驚き。ホント人気者なんだな。

 シリアスドラマだったら、こんな不道徳なものもないと思われる(ヒロインのロキシーなんてそれこそサイテーの女だもの)内容もミュージカルになると大人の寓話になってしまう。
 まさにミュージカルは何でもあり、だ。

     ◇

2003/07/11

  「シカゴ」(川崎チネチッタ)  

 ロードショー最終日に再度「シカゴ」を観る。会社の同僚からタダで前売券を手に入れたのだ。感謝してます、Iさん。  

 2回めの鑑賞となるとスト-リーを追わなくてもいい。じっくりとミュージカルシーンを楽しむことができる。  
 堪能した。  
 1回めではよく把握できなかった、冒頭の2つの事件(ヴェルマの殺人とロキシーの愛人殺し)の時制がはっきりした。自分の目を盗んで情事を重ねていた夫と妹を射殺した後何食わぬ顔をして仕事場のステージへ駆け込むヴェルマ。妹と二人で踊るナンバー、「妹はどうした?」「彼女がいなければ踊れない」の声など無視して、ダイナミックなダンスを披露する。やんややんやの喝采。客席の隅では事件を知った刑事がステージのヴェルマを見つめている。同じ客席にロキシーがいた。ヴェルマに憧れうっとりしているロキシーをせかす愛人。アパートに着くと廊下で激しく抱擁しあうふたり。隣人の冷たい視線の中、部屋に消える。一戦を終えると急に冷たくなる愛人。口論の末、引出しから銃を取り出したロキシーが愛人の背中に向って撃つ。  
 ヴェルマのダンスとロキシーの事件が1日の出来事だと思っていた。そうなると愛人のベッドを供にした前後の態度の急変が信じられなかった。
「男ってそういうものなの」  
 そう反論する女性もいるだろうが、いくらなんでもあの態度はないよ、というのが僕の意見。  
 情事の前と後は別の日なのだと今回わかった。そうすると先に収監されていて女王みたいに振舞っているヴェルマの存在も理解できる。  

 あの作りならミュージカル嫌いの人でも観られますね。とはIさんの感想。  
 ミュージカルシーンをドラマと区別して構築するのは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の応用である。とはいえ、「ダンサー……」と違って、ミュージカルシーンとドラマ部分が密接に関係しあって効果をあげてくるところがこの映画のミソだ。  

 収監されている女囚たちのプロフィールを紹介する「Cell Block Tango」。何度観てもわくわくするなぁ。初の女性受刑者で死刑執行となったハンガリー移民の女性は一貫して無罪を主張する。このナンバーを聴きながら、この女性は本当に無実なのかもしれないと思った。  
 どのミュージカルシーンも本場アメリカの実力をみせつけてくれるが、特にお気に入りなのが「We Both Reached For The Gun」だ。  
 ロキシーを悲劇のヒロインに仕立てようと自分のシナリオどおりに会見にのぞもうとする弁護士ビリーと、彼に反発しようにもいいように扱われてしまうロキシーの関係を人形使い師と腹話術人形、聞き手の記者たちをマリオネット人形に見立て、記者会見の模様をコミカルに描いている。  
 ロキシーに裏切られ、まったく相手にされない自分の立場、存在感のなさを嘆く夫のナンバー「Mister Cellophane」も忘れがたい。  
 無罪か有罪か、ロキシーの判決がでる瞬間をビリーのタップダンスとシンクロさせ緊張感を高めるなんて目から鱗。「やられました」の心境だ。  

 やっぱりサウンドトラックCDが欲しくなってきた。……買っちゃおうかな。

     ◇

2006/04/30

  「RENT/レント」(東劇)

 このミュージカルについては、つい最近新聞の広告で知ったばかりだった。一面すべてを使って日本公演とロードショーを告知していた。スチールからロックの迫力に満ちた現代に生きる若者たちの生態を描いた群像劇ではないかとアンテナが反応した。本当なら舞台を観るべきなのだが、チケットの入手が面倒なことと料金が割高なためパス、映画だけチェックしておこうと思っていた。そんなところにMさんから無料鑑賞招待の知らせ。天女の囁きですな。

 80年代にブロードウェイでロングランしたミュージカル。なんてことはもちろん、ストーリーもまったく把握していなかった。予備知識ゼロ。タイトルの「RENT」の意味も〈貸す〉ぐらいの認識だった。〈家賃〉だったのね。お恥ずかしい。

 映画は舞台上に横一列に並んだ10名ほどの男女が「Seasons of Love」を歌うシーンからスタートする。まずメロディが耳をとらえた。いわゆる〈オーバーチュア〉が終わると、本編の始まり。古臭いアパート(といっても、日本のアパートのイメージではない高層建物だし、部屋はだだっ広い)に無断宿泊して芸術活動にしそしむ若者たちの生態が活写される。

 ドラマに馴染んでくると、冒頭の舞台上の男女は、映画の主要人物だったことがわかってくる趣向。
 台詞はあるが、ほとんど登場人物の歌で進行する。バラードありロックありといった迫力ある今風の楽曲ばかりなのが新鮮。

 エイズで友人が死ぬシーンはバックに歌を流すといった処理をして、好感を持った。にもかかわらず、恋人に死なれた(実際は死なないけれど)男が、その別れを悲しむところでは、昔ながらミュージカルといった感じ。自分の気持ちを歌にのせてうたってしまう。ここは引いた。それまでの新しさが台無しになったような気がする。
 また、ここまで歌やダンスで押し通すのなら、いっそ、普通の芝居、台詞なんてないほうがいいようにも思えてきた。

 人物への感情移入ができた中盤、ニューヨークの街をバックに「Seasons of Love」がもう一度流れてくる。今度は歌詞が耳をとらえた。

 52万5600分、1年間を何で数える?
 夜明け、日暮れ、深夜 のコーヒーカップ……

 さまざまな瞬間を並べながら、愛や人生について問いかけ、生きていることの意味、生きるていくこと大切さ、尊さを訴えてくる。

 瞬時に最近急逝した友人の顔が思い浮かんだ。ニューヨークが大好きだった彼女、もし生きていたら、この映画に、この歌に何を感じるだろうか。あるいは四十数年間の人生、何を道標にどんな想いを刻んできたのだろうか。突然道を閉ざされて、やはり無念だったか。それとも運命を素直に受け入れたのか。

 もう映画なんてどうでもよくなった。
 少なくとも僕にとっては。

     ◇

2008/02/01

 「スウィーニー・トッド フリード街の悪魔の理髪師」(丸の内プラゼール)

 「スウィーニー・トッド」
 このタイトルにはずいぶん前から見覚え、聞き覚えがあった。しかしさっぱり思い出せない。荒川静香がイナバウアーで喝采を浴びた曲? それは「トゥーランドット」だ。
 では、いつどこでこのタイトルにお目にかかっているのだろうか?

 疑問は、ネット界のジキル&ハイド・黒犬獣氏のブログで氷解した。「スウィーニー・トッド フリード街の悪魔の理髪師」がミュージカルだと書いている。それでピンときた。ああ、宮本亜門だ。昨年、宮本亜門が手がけたミュージカルではないか。そのTVスポットや広告で憶えていたのだ。
 そう、この映画は、ブロードウェイ・ミュージカルの映画化なのである。ティム・バートン監督&ジョニー・デップのコンビ、それに共演がヘレナ・ボナム=カーターだ。ミュージカルのミュの字も想像できるわけがない。だいたい、予告編ではミュージカルなんて謳っていなかったような。
 アメリカの実相寺昭雄&岸田森にもかかわらず、これまで、このコンビの映画に縁がなかった。名作の誉れ高い「シーザーハンズ」もまだまともに観ていないのだ。「スウィーニー・トッド」も関心がなかった。しかし、ミュージカルと知って気が変わった。ミュージカルは舞台が一番。そうは思っても懐具合からすると映画しかない。若いころのミュージカル映画嫌いの体質もずいぶん改善されてきた。最近はできるだけ鑑賞するようにしている。
 というわけで、映画サービスデーに丸の内プラゼールのレイトショーへ。

 舞台は19世紀のロンドン。愛する妻との間に娘が生まれ、幸せな生活を営んでいた理髪師(ジョニー・デップ)が、好色な悪徳判事(アラン・リックマン)の陰謀で無実の罪をきせられ、流刑となる。判事が妻に横恋慕して、邪魔な亭主を追い払ったのだ。
 15年後、理髪師は復讐の鬼となって街に舞い戻ってきた。スウィーニー・トッドと名を変えた彼は、パイ屋の女主人(ヘレナ・ボナム=カーター)の協力を得て、2階に理髪店を開業する。自慢の剃刀さばきで理髪店はまたたく間に評判になる。同時にそれまで閑古鳥が鳴いていたパイ屋も大繁盛。彼の狙いは、店の評判を聞いて訪れる判事にあった。「この剃刀で早くあいつの喉を切り裂いてやりたい」

 冒頭からミュージカルの威力を発揮している。長くなる状況説明をすべて歌で処理。すんなり受け入れられる。説明台詞だとこうはいかない。市川崑監督「映画女優」(当然わかっていてやっているのだろうが)の冒頭は説明台詞の応酬だった。
 もうひとつ、ミュージカルだから観ていられるが、こんな残酷で悲惨な話、普通の劇映画ならつきあいきれない。と思ったら、10年前にベン・キングスレーの主演で映画になっているのだった。それも当初はティム・バートンの監督だったらしい。

 アラン・リックマランは見るからに偽善者。夫(理髪師)が流刑にされ絶望した妻が自殺すると一人残った娘を養女にする。なかなかいいところもあるじゃないと思ったら、適齢期まで待って自分の嫁にするつもりでいるのだ。こんな男への復讐というのだから完全に理髪師に感情移入できる。
 サブタイトルに「フリード街の悪魔の理髪師」とある、おまけに映像も暗く沈んだタッチ。だいたいジョニー・デップもヘレナ・ボナム=カーターも死神メイク。にもかかわらず、未来を予言する謎の女が登場したことで、なぜかハッピーエンドを予想してしまった。ハッピーエンドというとおかしいかもしれない。ジョニー・デップたちが犠牲になってある人たちは幸せになる。そんな展開だ。
 だから、最初の殺人は仕方ないとしても、店を訪れた客を次々に殺害していく光景にわが目を疑った。椅子に座って気持ちよく髭をあたってもらうつもりで喉を切られた被害者はそのまま特殊ルートを伝わって地下に落ちていく。これだけの死体をどう処理するのか。この死体とパイ屋の大繁盛が結びつけられなかった。それまで肉が手に入らなくて開店休業中だったというのに。バカというか何というか。
 なんていうストーリー! やっぱりミュージカルでなければ観ていられない。

 とはいえ、台詞がそのまま歌になるだけのミュージカルは好みではない。やはりそこにダンスの躍動感やバンド演奏のライブ感といった要素がないとノレないのだ。この映画も始まってしばらくの間は(ミュージカルとして)肩透かしをくらった感じだった。楽曲にもそれほど耳をとらえられなかったし。しかし、観ているうちに、ジョニー・デップとヘレナ・ボナム=カーターの掛け合いにわくわくするようになった。
 映画「レット・イット・ビー」で一番興奮したのが、ルーフトップコンサートと呼ばれるビル屋上のライブ演奏で、特に「I've Got a Feeling 」に快哉を叫んだ。ポールのパート、ジョンのパート、まったく別ものと思われた曲が最後に合体する爽快感。とても気持ちよい。
 「スウィーニー・トッド」も同様で、歌詞の内容より、その様、歌(音)そのものに反応してしまった。
 もう全編血に彩られた映画であるが、ラストカットに〈美〉を感じたことも付記しておく。




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新井啓介
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「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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