承前

 続いて、2000年代になってから観た、読んだ、映画や書籍のレビューをUPする。

     ◇

2000/07/13

 「ボーイズ・ドント・クライ」(渋谷シネマライズ)

 ミスターレディ(ニューハーフ)とともに〈おなべ〉がマスコミに登場して話題になったとき、どこから見ても男にしかみえない彼女たちの容姿に驚くと同時に、男らしさの中に〈女〉を感じて実によこしまな考えを夢想したものだ。
 アダルトビデオの企画の1つで、見るからに男らしい〈おなべ〉を最初はAV女優がインタビューし、徐々にノセて全裸にさせてから、ファックシーンにもっていき、本人にはわからない形でAV男優に交替して最後には女の喜びを感じさせるというもの。
 妖艶な女性よりどちらというと男、というか少年っぽい女性がある瞬間に女らしさを垣間見せた方がエロティシズムを感じてしまうのは僕だけだろうか。

 「ボーイズ・ドント・クライ」に興味を抱いたのは性同一性障害がどうのといった社会的問題に対する関心より、主演女優がどんな男っぷりを見せてくれるか、そこにどんなエロスを感じられるか、という不純な動機からだった。

 数年前、吉本多香美主演の「樹の上の草魚」を観た。
 薄井ゆうじの原作は男として育てられた両性具有の青年があるときを境に肉体的にも完全に女性に生れ変わり、変化に対する心の揺れ、幼なじみの友人との微妙な関係(友情から恋愛)を描いた透明感あふれるある種ファンタジーとも呼べる恋愛小説である。
 小説世界にとても感銘を受け、だからこそ映画化には不安を覚えながらも、本物の肉体を持つ女優が男と女をどう演じわけるのか興味津々だった。しかし当時ボーイッシュだった吉本多香美といえども、女性に変身する前の男役には無理があったといえる。全体から醸し出される雰囲気は明らかに女なのだ。
 トランスジェンダー、トランスセクシャルを扱う映画(ドラマ)はそれが実写でシリアスな場合、非常にむずかしい問題をはらんでいると思う。性転換あるいは女装、男装した主人公がまず〈絵として〉納得できる容姿をしていなければならない。
 この手の話はコメディーがお似合いなのかと思っていたら「ボーイズ・ドント・クライ」の主演女優(ヒラリー・スワンク)が本年度のアカデミー主演女優賞を受賞と知り、がぜん興味がわいた次第。

 映画は1993年アメリカのネブラスカで実際に起きた事件を題材にしている。ドラッグづけの若者たちの生態をロックをふんだんに挿入しながら描く手法は「トレインスポッティング」の影響をかなり感じる。
 性同一性障害の主人公が見知らぬ町で〈男として〉あるグループの男女と親しくなる。グループの中の女性と恋仲になるが、彼女が女だとわかるとまわりの連中は手のひらを返したように冷たくなる。中でも彼女を男だと信じていた男たちは裏切られた腹いせに彼女をレイプし、警察に被害届をだしたと知ると怒り狂って射殺してしまうのだ。
 ヒラリー・スワンクはオスカーを受賞しただけあって、ブランドン・ティーナという〈男〉を好演している。顔だけじゃなく身体つきまでそれっぽく見せるなんてさすが。彼女の存在なくしてはこの映画は成り立たなかっただろう。役作りの確かさにおいてもアメリカ映画は懐が深い。

 変な意味ではなく、映画の見所は主人公が怒り狂った男友だちに衣服を脱がされ、正体をばらされるところだ。男物のパンツを剥ぎ取られるとそこにははっきりとヘアだけが映しださる。姿形は男なのにやはり肉体は女であることが一瞬にわかり、そんなことはわかりきっているこちらも劇中の男たち同様衝撃を受けてしまう。ここに例のボカシが入ったら、映画のテーマがそれこそボカされてしまっただろう。
 この後、時間がとんで、レイプされた主人公が警察との取り調べで過去を回想することになるのだが、ここだけ回想形式になるのがわからない。実際の事件に取材しているのだから、時系列でエピソードをつないだ方が自然だと思うのだが。
 だまされた恋人がそれでも主人公を受け入れているというのに、最後に射殺され、部屋を貸していた(それも幼子をかかえた)何の罪のない女友だちまで殺されてしまうラストは何とも後味が悪い。

 観終わって、いろいろ考えさせられた。
 ゲイとかレズと違い、あくまで心は異性として同性を好きになる性同一性障害はやっかいな障害だと思う。精神的な病気はなってみないとその実状がわからないからなかなか一般には理解されない。 もし自分が精神は今のままで性別だけ変わったとしたらどう反応するか考えてみればいい。僕だったら1日や2日、期間限定だったら大いに楽しむが、一生となると気が狂うんじゃないかと思う。  
 ネブラスカという田舎町でなかったら、こんな惨劇も起きなかっただろう。
 実際、だまされたといえ、あまりに過剰反応する連中の気持ちがわからない。やっていることは何かと反体制的なのに、性に限っては保守的ということか。
 ラスト、一緒に逃避行をはかろうとする主人公に同意する恋人が部屋にもどり、支度している最中、迎えにきた主人公の髪型の変化に、ふと〈女〉を感じて一瞬躊躇してしまうシーンがある。微妙な女心が垣間見られ印象的なシーンとなっている。

 「ボーズ・ドント・クライ」というタイトルは挿入曲からとったものだとエンディングタイトルでわかった。


2000/08/02

 「性同一性障害 -性転換の朝」(吉永みち子/集英社新書)

 映画「ボーイズ・ドント・クライ」を観たからというわけでもないけれど川口中央図書館に行ったらまるで読めとばかりにおいてあったので借りてきた。
 妊娠中の女性が情緒不安定な場合、生れてくる子ども(男の子)がおかまになる確立が高い、と聞いたことがある。
 性同一性障害も胎児期の性決定メカニズムの狂いが原因とのことだが、どうしてそうなるのかはよくわかっていないらしい。
 「ボーイズ・ドント・クライ」の感想でTG、TSなんて言葉を使ったけれど、本質的な部分で何もわかっていない。
 TV(トランスヴェスタイト)は服装倒錯者、異性装嗜者を指す。TG(トランスジェンダー)は社会的に異性として扱われたい、だが性器まで変換しようとする意識は希薄という人たちを総称していう。それに対して心身ともに異性になりたいというのがTS(トランスセクシャル)だ。
 この世界も何かと奥が深い。

 性同一性障害という言葉が一般化したのは埼玉医大総合医科特別チームの性転換手術が認可されたことが大々的に報道されてからだと思う。それまで性転換手術は海外で行うのが常識だった。
 モロッコといえば名画「外人部隊」の舞台になったところとして有名だが、僕にとっては長い間性転換手術する国という認識だった。カルーセル麻紀の性転換手術はそれくらい小学生にはインパクトがあったのだ。
 なぜ日本で性転換手術がタブー視されていたのかも説明されている。
 昭和39年の〈ブルーボーイ事件〉が原因だという。3人のゲイボーイの睾丸の全摘出手術を執刀した町医者が優生保護法違反で検挙された事件だ。
 とにかく性同一性障害に苦しむ人たちに光明が射したことは確かなことであり、めでたいことではあるが、本書で取材されている数人の性同一性障害の男女が歩んできた足跡にはとてつもない苦労がしのばれる。
 誰もがカミングアウトしてショーパブで働けるわけではない。普通の人が普通の場所で静かに暮らしたいと考えるという方が当たり前なのだ。

 しかしいつも思うのだが、人はなぜこの手の人たちを白眼視するのだろう?
 子どもころ、手塚治虫「リボンの騎士」のアニメやコミックに夢中になった。ヒロイン・サファイアが自由に男になったり女になったりするのが楽しかった。手塚マンガにはこうした男装・女装のキャラクターが登場するものが多く、手塚マンガの特にそういう部分に興味を持っていた僕はたぶんに刷り込みもあるのだろう、〈おかま〉や〈おなべ〉あるいは性転換した人に対する偏見というものはない。
 大学1年のGWに彼女に会いに仙台に行ったときのことだ。上野駅で特急列車に乗ると、おかまの3人組が同じ席になって、意気投合した僕はまわりの冷たい視線は何のその、仙台まで大騒ぎしたものだった。リーダー(?)の名前は〈フジコ〉といった。「東京にもどったらお店に遊びに来てね」と仙台で別れてそのままになってしまったけれど、彼らともっと話しをしたかった。僕にはその気がないので、相手が〈性の相手〉として接してくれば頑なに拒む。が、いわゆる〈友だち〉としてだったらとことんつきあってもいいと思う。

 だから本書でも触れられている、映画「ボーイズ・ドント・クライ」の題材になったブランドン・ティーナ事件には暗澹たる気持ちにさせられる。
 実際の事件は映画以上に悲惨である。カミングアウトして自分の選択を堂々と主張、自信をもって男性として生きると宣言したティーナだったが、男友だちの怒りをかってしまった。男友だちはだまされていた悔しさ、性を変えるという行為への憎しみによってティーナを輪姦し殺害してしまった。 
 そんなに男どおしの友情って崇高なものなのか? 女から男に(あるい男から女に)なる行為はそんなに憎むべきことなのか?
 本書でも再三指摘されている〈第3の性〉というのをまじめに検討してもいいのではないだろうか。


2001/02/07

 「ブレンダと呼ばれた少年 ジョンズ・ホプキンス病院で何がおきたか(ジョン・コラピント/村井智之 訳/無名舎)

 吉永みち子の「性同一性障害 -性転換の朝」(集英社新書)の中で紹介している事件でもう一つ詳細を知りたくなったものがあった。
 8ヶ月の双子の兄弟の兄の方が包皮切除手術に失敗してペニスを喪失、動揺した両親は性科学の権威・ジョン・マネーの強い勧めで、この子を性転換させることにした。
 以後女の子として育てられたその子は順調に経過していると発表され、メディアはキンゼーレポート以来の偉大な発見と書き立てた。
 が、実態はまったく逆だった。成長するにつれ、次第に女性としての違和感を持ってきたその子は精神のバランスがとれないくらいに追いつめられ、苦悩し、暴れ、最終的に男性にもどったという。
 この事件を綿密な調査、取材でフォローしたレポートが「ブレンダと呼ばれた少年」だ。ブレンダとは少女時代の名前のこと。

 小説、マンガには男が女になってしまうという物語がある。ある日突然女になってとまどうが、やがて女の喜びを知るというパターンだ。〈性転換〉ものとでもいうのだろうか。
 薄井ゆうじの「樹の上の草魚」(講談社文庫)はこのパターン(プロット)をうまく文学に転化させ新しい恋愛小説を創造した。
 デイヴィッド・トーマスの「彼が彼女になったわけ」(法村里絵訳/角川文庫)は歯の治療で入院した青年が病院側のミスで性転換手術をされてしまう悲喜劇で、彼が女性になるために悪戦苦闘する姿をとおして、女性という生き物の内面的、外面的気苦労がわかる仕組みになっていた。
 驚いたのはこの手の小説をさかんに書き綴るマニアがいることで、作品を収集、発表している専門サイトも存在する。僕自身小学5、6年の頃、この手のマンガを描いたことがあり、興味ある世界だ。
 が、映画「ボーイズ・ドント・クライ」や前述の新書「性同一性障害」の項でも書いているとおり、これらに描かれていることはあくまでも虚構の世界、好事家が思い描くファンタジーでしかない(やおいの世界に通じるものがある)。実際に自分本来の性と違う身体になった場合、精神的苦痛は計り知れないものがあると思う。

 で、ジョン・マネーである。本書を読む限りマッド・サイエンティストとしか思えない彼は「性別の自己認識は環境的要因によって決まる」という理論を実践するため、幼児期にペニスを喪失した子を格好のモルモットにしたに過ぎない。
 面接時には研究のため年端のいかないブレンダに卑猥な言葉をあびせ、ポルノフィルムを見せる、ブレンダがいやがっても容赦しない。ブレンダが両親に訴えても博士を盲信する両親は聞く耳をもたない。ブレンダの真の叫びを聞かず、自分の研究に都合よく学会に発表する。
 女として育てられた〈少年〉はやがて思春期になると局部の整形<性転換>をすすめられる。
 間違えやすいのは〈少年〉は事故後にすぐに性転換させられたわけではないこと。ペニスを喪失した後は身体が成長するまで性器の整形はまたねばならず、定期的な女性ホルモン注入と服装、しぐさ等の矯正の育てられていたのである。
 博士に局部整形を勧められると〈少年〉は激しく抵抗する。両親もその他の医師もみな今後のことを考慮し〈少年〉に整形を勧めるのだ。ジョン・マネーに「NO」と言える者は誰もいない。
 八方塞になった〈少年〉は自殺を繰り返し、ようやく心の内を理解してもらうことができ、男性にもどる。人工のペニスを造型、今では結婚して幸せな人生を歩んでいるという。

 この本には幼児期から思春期にかけての〈少年〉の写真が掲載されている。女の子の格好はしているけれど僕には女性には見えなかった。写真でさえそうなのだから、一緒に生活していた親や診察にかかわった医師たちにはその違和感がもっとわかっていたはずだ。〈少年〉の自殺は未遂で終わったからよかったものの、もう少しで若い命を失うところだった。ジョン・マネーおよび彼に与した関係者たちはもしかしたら殺人者になっていたかもしれないのである。
 こんなデタラメな研究をしているジョン・マネーがこの事件以降も処罰の対象にならないばかりか権威が失墜しなかったというのが不思議。だいたいペニス喪失=女性化という論理がわからない。当時(1967年)の技術ではペニスの造型より膣の形成の方が容易だったと説明しているが、本人の承諾もなしに勝手に性を決めてしまう行為が許されてたまるものか。
 性同一性障害、半陰陽といった問題からかけ離れたところで性転換が議論されているから怒りがこみあげてくる。

 もうひとつ。これも大いなる、そして根本的な疑問なのだが、アメリカではなぜ幼児に包皮切除手術をするのだろうか。子どもの頃の包茎なんてあたりまえのことだし、手術しなければこんな問題も起きなかったはずだから。


2006/07/30

 「トランスアメリカ」(シネスイッチ銀座)

 樋口可南子のヘアヌード写真集以来、いつのまにか映画でもヘア解禁になっている。これは一般映画の描写においてとてもありがたいことだと思うことがある。
 性同一性障害を主人公にした映画では、2000年に公開された「ボーイズ・ドント・クライ」という実際に起きた悲惨な殺人事件を扱った作品がある。
 感想にも書いていることだが、外見上はまったくの男性なのに、身体は女性という事実を一瞬のうちにわからせるシーンに衝撃を受けた。ずばり主人公の股間を捉えたショットだ。このショットに、もしボカシが入っていたとしたら映画のテーマはそれこそぼやけてしまったことだろう。
 ありがたいと思うのはこういうときだ。
 大昔のことだけれど、アロン・ドロン主演「太陽はひとりぼっち」で、女性のヘアが描かれたボールペンが映されるところで、しっかりそこだけボカシが入ったらしい。あるコラムで読んで、映倫は何考えているんだと呆れたものだ。
 「太陽はひとりぼっち」、小学生5、6年だったか、映画は観たことないのに音楽が大好きで、放送部員になった際、給食の時間にレコードをかけまくっていたことがある。関係ないか。

 「トランスアメリカ」の主人公は「ボーイズ・ドント・クライ」とは逆の、心が女性の男性。それも中年の少々くたびれた外見を持つ。この主人公を女優(フェリシティ・ハフマン)が演じていることでこの映画に注目した。素顔は美貌なのに、メイクと演技(特に発声)でスクリーンの中では女装している男性に見えてくるから不思議。それも時間が経つにつれて魅力的になっていくのがニクい。ちょっと衣装のセンスやメイクを変えるだけなのに。
 最近企画の貧困で悪あがきをしていると感じないでもないアメリカ映画だけど、こういうメイクアップ技術は、役者の演技力を含めて、日本映画の数段上をいく。とうていかないそうもない。

 ロサンゼルスに住むブリー(フェリシティ・ハフマン)は性同一性障害を持つ男性で、普段は女装して女性として毎日を送っている。女性ホルモンで胸は人並みに膨らんでいるが、身体はまだ男性のまま。股間の膨らみはガードルでしっかり矯正する涙ぐましい努力を続けている。
 カウンセリングを受けながら性転換手術を心待ちにしているブリーに朗報が。数日後に手術が確定した。ところがそこに問題が起きた。かつてまだ外見的も男性だった頃にガールフレンドと関係を結んで出来た息子(ケヴィン・ゼガーズ)と会わなければならなくなったのだ。母親は急死している。過去を捨てたブリーにとってあまりに唐突で受け入れたくない事実。しかし、カウンセラーの勧めで、というか問題を解決しなければ手術を受けられないとあってはやらざるをえない。
 ニューヨークまで出かけ、窃盗罪で留置所に入っていた息子を保釈金(1ドル!)払って引き取った。もちろん正体は明かさない。教会から派遣されたボランティア女性と偽ってのことだ。引き取った息子をどうするか。養父のところへ連れていこうと一計を案じたブリー。
 こうして不思議な関係の父(母?)と息子の大陸横断の珍道中が始まった……。

 映画はいたるところに笑いの要素を入れ、音楽も多用、観客は軽い気持ちで観ていながら、親子の関係のあり方を考えることになる。

 冒頭でヘアにボカシが入らない現状について述べた。ただしそれはあくまでも女性のそれ。男性だったら当然〈男性自身〉が写り込むことになる。そういう場合、映倫はどう対処するのだろうか。素朴な疑問が解消された。答えはOK。
 ブリーと息子が車でロサンゼルスに向かう途中何度か野宿する。ブリーは小用のたびトイレットペーパー片手に藪の中に消えるのだが、ある時車のそばで済ます。しゃがんでスカートをたくし上げ放尿するやいなや、獣の鳴声か何かの音におののき思わず立ち上がってしまうのだ。そのまま普通の男性のように用をたして、その際しっかり〈男性自身〉が見え、息子に目撃されてしまうという展開。
 これには大笑い。その様がおかしいということもあるのだが、実際に演じているのが女優であるということがポイントだ。つまり〈男性自身〉は作り物。にもかかわらず実に良く出来ていて、それを右手(だったか?)でつまんで中腰で小用するところがいかにもってな感じに反応したのである。
 作り物だからボカシが入らないのかとも思えたが、もうひとつのシーンで確信に変わった。
 二人がヒッチハイクの青年を途中で同乗させる。とある湖畔(池? 沼?)でこの青年と息子が全裸になって泳ぐシーンで、青年が池からあがってこちらに振り向く際にそれは見えるのだ。まわりの女性の唾を飲み込む音が聞こえた。っていうのは嘘だけど。もしかしたらこういうのってすでに当たり前になっているのだろうか。

 珍道中の後に息子と養父の感動的、実は屈辱的な再会、ブリーの家族(両親と妹)との再会と続き、特に息子の、養父と過去が暴かれるくだりでは、いやおうなく現実を直視しなければならない。どんなふうにエンディングにもっていくかと興味津々で見守っていると、あっけなくやってきた。なるほど、そうきたか。
 「ボーイズ・ドント・クライ」のような、後頭部を重石でなぐりつけられたような、観終わって感情をかき乱される、深く考え込まされる内容ではない。コメディーでもないが、軽さ(笑い)の中に渋み、苦さがあって、それがいい。
「おもしろかったね」
「観てよかったね」
 劇場を出るとき、前を行く若い女性二人連れの会話にうなづいていた。




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kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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