銀幕とはスクリーンのこと。
 この言葉、僕は活字用だと思っている。
 書籍や雑誌記事等のタイトルで度々使用されているが、会話の中で銀幕(ぎんまく)なんて言葉は使ったことがない。
 上の世代はわからないが、少なくとも50歳代以下の映画ファンは〈銀幕〉とは目にするもので、口にするのは〈スクリーン〉ではないか?
 皆さんはどう思われますか?

          * * *


2000/06/04

 「太陽を盗んだ男」(TBSテレビ)

 長谷川和彦監督が「青春の殺人者」で監督デビューした時、これからの日本映画が変わっていくような大きな期待感があった。
 デビュー作でいきなりキネマ旬報ベストテン第1位、監督賞、主演男優賞(水谷豊)、主演女優賞(原田美枝子)を軒並み受賞。どえらい新人が現われたなあという印象。当時30歳か31歳の監督の「できれば20代でデビューしたかった」という言葉が心に残っている。

 僕が日本の青春映画ベストワンだと思っている「青春の蹉跌」のシナリオを書いたことも知りますます気になりだした。
 骨太で緻密な取材に裏付けされた物語。そんな作風で"現代"を描く長谷川監督は閉塞した邦画界に風穴をあけ、やがては邦画をしょって立つ存在になる!高校生だった僕はそう信じていた。
 確かにその後若手の映画監督の集団「ディレクターズカンパニー」を組織し、プロデューサーとして、それなりの活躍はしていたが、肝心の監督作は「太陽を盗んだ男」以降、発表される企画がことごとく中止になっていまだに3作目に着手していない。
 ひところ、週刊誌の麻雀記事に雀士で登場するくらいしかその名を拝見する機会がなく、再婚して女優・室井滋の夫というポジショニングになってからはほとんど映画界での動きというものが伝わってこなくなって、かつてのファンとして淋しい思いをしていた。
 最近貴志祐介の「天使の囀り」を映画化すると聞いて歓喜したものだが、これもどうやらポシャったらしい。
 才能とバイタリティのある人なのだからとにかく次作を撮ってほしい。せめて、前々から宣言していた連合赤軍の映画はものにしてほしいと切に願う。

 ビデオが廃盤になってレンタル店ではお目にかかれなくなっていた監督第2作めの「太陽を盗んだ男」が久しぶりにTV放映された。
 79年に公開されたとき、邦画として破天荒な物語設定と映像、音楽(井上尭之)のセンスに衝撃を受け、ロードショーに2度足を運び、名画座に落ちたらまた行って…サウンドトラックはもちろん劇中で使用されたカルメン・マキ&OZやボブ・マリーのアルバムもすべて買ったというくらいこの映画に惚れていた。

 個人が原爆を製作して政府に脅しをかける物語自体、核アレルギーの強い日本ではかなり反発を買うと思われたし、冒頭主人公である犯人(沢田研二)と彼を追う刑事(菅原文太)の最初の出会いでは、中学の理科教師である主人公が引率するバスを武装した精神のいかれた老人が乗っ取り、天皇に合わせろ、天皇に戦争で死んだ息子を返せと訴えたいというエピソードが描かれ、天皇の戦争関与を批判しているのだ。
 重いテーマを当時の邦画としてはかなりのエンタテインメントとして昇華させた監督の手腕は大いに評価できる。
 メディア大絶賛という状況下、今は亡き著名な、僕の大好きだった映画評論家・大黒東洋士のこの映画に対する批判もよく憶えている。確か主人公の人間性について追求したもので納得できる批判内容だった。

 今回観直して改めて感じたのは、前半が緻密によく練られた展開であるがゆえに後半(日本映画にしては)度肝を抜くアクション描写に重点がおかれてしまい、肝心な部分で手抜きが目立って損をしているということだ。
 前半の原爆作り(特に液体プルトニウムから固体への変換作業)の丹念な描写は(僕に数学的、物理学的素養がないからかもしれないが)何度観ても心奪われる。
 原爆を作ってから何をしていいか悩む主人公の心情も70年代のシラケ世代の戯画化として納得できる。プロ野球中継の延長、ローリングストーンズの日本公演実現の要求というのも面白い。

 が、ターザンよろしく主人公がロープにぶるさがってビルの窓から侵入し原爆を奪還するところから物語は一気にマンガになってしまうのだ。
 池上季実子のDJの存在が薄っぺらい、というのは当時でも指摘されていた。彼女の所属するラジオ局が原爆奪還に成功した犯人と警察の攻防を(録音)中継するというのはどう考えて非現実すぎる。
 パトカーとのチェイスシーンで主人公のRX-7が道路をふさいだトレーラーを(なぜか)ジャンプして飛び越えたり、着地する時、その衝撃でRX-7のフロントがかなり破損するのに、カットが変わると元どおりになるのはご愛敬としても、中継のヘリコプターにつかまった刑事が50m以上ある上空から飛び降りてもほとんど無傷というのはどんなものか。(スピルバーグの「ロストワールド」と同様で最初に画ありき、の発想なのである)

 あまりにもリアルに描き過ぎた前半に対して「これはあくまでもフィクションなんですからね」という製作者側のメッセージだと僕は好意的に解釈してはいるもののやはり釈然としない。
 中盤にDJが主人公とキスをした後、海に投げ込まれるシーンがある。DJがとっさに主人公の髪をつかむと、ごっそりと抜けてしまう。主人公がプルトニウムの加工中の事故で被爆したことを示し、クライマックス前彼女が絶命する寸前に主人公に握っていた髪の毛の本数を告げるシーンにつながる重要な意味を持つところである。
 しかし、海に漂う彼女は手の平を開いたままの状態でもちろんその手には髪1本すら握ってはいない。何度目かの鑑賞でそれに気づき失望したものだ。

 「太陽を盗んだ男」は完璧な映画ではない。ロードショー時のようにもろ手をあげて大絶賛する気持ちも今はない。しかし、どんなに瑕疵が見つかろうとも、この映画に対す愛情だけは失ってはいないつもりだ。
 初めてスクリーンで接した時の、冒頭のタイトルから感じた「これが映画だ」という高揚感はいまだに忘れられないし、観るたびに長谷川監督の熱意、心意気みたいなものがこちらに伝わってくる。
 メーデーの大群衆が闊歩する大都会の真ん中で繰り広げられる主人公と警察の、原爆を爆発させるか阻止するかの駆け引き、そのサスペンスは今も色褪せていない。

 韓国映画「シュリ」がハリウッドばりのアクション映画として国内はもちろん日本でも大ヒットしたけれど、20年前「太陽を盗んだ男」は日本映画の「シュリ」のような存在になるべく公開されたはずなのだ。邦画でいえば「踊る大捜査線」みたいにとにかく多くの人たちが劇場に押し寄せるそんなエポックメーキング的な作品になるべき映画だったはずで、そうならなかったことが僕にはわからない。

     ◇

2000/06/17

 「人狼 JIN-ROH」(テアトル新宿)

 幼い頃からTVや映画で親しんできたことから特撮、アニメーションともに大好きだったが、「宇宙戦艦ヤマト」が空前の大ブームになってからというものアニメに関してはほとんど興味がなくなってしまった。
 宮崎駿作品もそれほど関心はないし、毎年公開されるディズニー作品もそれ以上に僕にとってはどうでもいいことだった。
 ただ、「機動警察パトレイバー」劇場版や「攻殻機動隊」に感銘を受けた者としては押井守作品には注目せざるをえない。

 押井守の名を知ったのは「うる星やつら」劇場版第1作だったと思う。
 併映が相米慎二監督の「ショベンライダー」だったので、それが目当てで劇場へ足を運んだのだが、観客のほとんどがアニメファンだった。実際「うる星やつら」はかなりのおもしろさで、押井監督のセンス、才気を肌で感じたのだった。
 「機動警察パトレイバー」劇場版は巷の評判を聞いてビデオで観た。あの衝撃は今も忘れられない。脚本・伊藤和典の力にもよるのだろうが、都市論というものをSF的手法を使ってダイナミックかつミステリアスな娯楽大作として展開させてしまう手腕に圧倒された。
 作品世界の濃密度、あるいは映像と音楽の融和で興奮させられた「攻殻機動隊」もなぜ劇場で観なかったのかと後悔したものだ。

 押井守の脚本・監修「人狼 JIN-ROH」(監督はこれがデビュー作の沖浦啓之)は、「赤い眼鏡」「ケルベロス 地獄の番犬」に続くケルベロスシリーズ第3弾というふれこみである。
 「赤い眼鏡」は押井守監督の初の実写映画として一部で話題になったが、実写映画には数々の制限があり、アニメで類いまれなセンスを見せる押井監督といえども、技術的、予算的な問題でそれほどの出来ではないだろうと、関心を抱くこともなく未だにビデオも観ていない。
 ケルベロスシリーズについてはまったく知識がないのだが、「人狼 JIN-ROH」は別の意味で僕の興味をかきたてた。
 映画は日本が太平洋戦争後に進んだもうひとつの(架空の)戦後史を描いていて、昭和30年代前半の東京が舞台である。リアルに再現された当時の街並がみものなのだ。
 東京オリンピック以降東京の街が大きく変貌してしまった現在、実写でこの手の物語を撮るのはとうてい無理だろう。これこそアニメの真髄を発揮する内容ともいえる。
 あまり高くないビル群の遠景、道路を走る都電、デパート屋上の遊園地、混雑する商店街、モノクロTVに流れる三船敏郎(をイメージした)ビールのCF(本物のCFは40年代だったと思うが)等々、スクリーンに映しだされた懐かしい風景の数々にため息をついてしまう。

 ある事件をきっかけにした反政府ゲリラの少女と反政府ゲリラ鎮圧のために組織された"首都警"特殊部隊ケルベロスの一員である主人公との出逢い、共感。反目しあうべき少女と主人公の仲をスキャンダルにして首都警の威信失墜を目ろむ公安部とそれを察知した首都警の情報戦(だましあい・化かしあい)。目的のために個人の感情など省みない組織の非情さを知りつつも、現実を甘受する少女と主人公(=狼)。その葛藤。
 少女が語る「赤ずきん」の物語とシンクロしてふたりがむかえるクライマックスまでの描写はなかなか見ごたえがあった。
 ラストの悲劇を感傷的に描かず、余韻も与えず、暗転してクレジットタイトルを流すなんてまさにアダルトな映画であった。

     ◇

2000/06/25

 「チロヌップのきつね」(川口市民会館)

 川口市が定期的に開催している親子映画大会のプログラム。対象は市内の親子なので、小6の娘を誘ったが、冷たく拒否され一人で観てきた。
 それほどまでこの映画に興味を抱いたのは、あくまでも個人的な理由で原作の良さや映画の出来には全く関係ない。ただ単に音楽を後藤悦治郎氏が担当していたからである。

 中学時代に赤い鳥のファンになってからリーダー・後藤さんの音楽に対する姿勢に共鳴し、赤い鳥のメンバーで夫人でもある平山さんと紙ふうせんを結成してからはずっと彼らの活動を追い続けてきた。
 紙ふうせんの歌の本質、声質はアニメーションの主題歌には最適だと日頃思っていたのだが、あまり起用される機会がなかった(と思っていたが、調べてみるといくつかあった)。
 そんなところに(今から10年以上前だけれど)主題歌だけでなく、音楽全般を担当するニュースが届いたときはうれしかった。ただ「チロヌップのきつね」は通常の公開方式とは違ったので、今まで観ることがなかった。
 そんなわけで映画鑑賞というより紙ふうせんのコンサートを聴く感覚で会場に出かけたのであった。

 原作は高橋ひろ幸の有名な絵本である。反戦童話とでもいうべき内容で、本来なら老夫婦の漁師以外ほとんど人間が訪れない小さな島で親子4匹幸せに暮らせるはずだったキタキツネの家族が戦争で島に前線基地を設営した兵隊にその毛皮を狙われ、悲惨な最期をとげるという悲しい話。
 悲劇で観客の涙を誘う映画は苦手というか好きではない。
 クライマックスの母きつねと仔ぎつねの死はそれほどあざとい演出でなく、「何もしなくていいからそばにいて」という仔ぎつねの言葉に涙した。二匹の死骸が雪におおわれ、春がやってくるとその後が真っ白な花につつまれたラストはさわやかで明るい紙ふうせんの歌声に締めくくられたので好感をもった。

 紙ふうせんの歌はオープニング曲「故郷の色」、挿入曲「みんなおやすみ」、エンディング曲「君の手をとり」の3曲が使用されている。悲劇は嫌いだといいながら哀しい場面に流れる「みんなおやすみ」が印象に残る。




関連記事
スポンサーサイト
NEXT Entry
「オール・アバウト・マイ・マザー」「グラディエーター」 ~ある日の夕景工房から
NEW Topics
告知ページ
「溺れる魚」「ミート・ザ・ペアレンツ」「ハード・デイズ・ナイト」 「天使がくれた時間」 ~ある日の夕景工房から
1分間スピーチ #22 ソニー・プレステ2の宣伝効果
「クリムゾン・リバー」「愛のコリーダ 2000」「ビッグママスハウス」 ~ある日の夕景工房から
世紀末~新世紀「2001年宇宙の旅」まつり
「ハンニバル」 ~小説を読み、映画化作品をあたる
「ホワット・ライズ・ビニーズ」 「ペイ・フォワード [可能の王国]」 ~ある日の夕景工房から
「カオス」 ~映画を観て、原作をあたる
「砂の女」「源氏物語 あさきゆめみし」 「スペース カウボーイ」 ~ある日の夕景工房から
「キッド」「顔」「五条霊戦記」「インビジブル」 ~ある日の夕景工房から
Comment
Trackback
Comment form
 管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top