2000/10/04

 「キッド」(丸の内ピカデリー1)

 少年時代に思い描いた理想的な大人にはならなかったけれど、有能なイメージ・コンサルタントとして、それなりに名誉も収入も得て、優雅な独身生活を謳歌している中年男のもとになぜか8歳の自分が現われた。
 子ども時代の夢(パイロットの免許をとる、犬を飼う)を一つも実現していないばかりか、もうすぐ40歳をむかえるというのに未だ結婚していない男の現状に少年は嘆き哀しみ男を非難する。
 その後、男は少年の言動に右往左往しながら、なぜ〈8歳〉の自分が会いにきたのかを考えるうち、自ら封印して知らぬ間にトラウマとなっていた出来事に思い当たる。男は少年に助言を与えながらその出来事を克服、すると意外な人物がふたりの前に現われて、ふたりの輝かしい未来を確約する。甘いといえばそれまでだけれど、まさに絵に描いたようなハッピーエンド。ハリウッドらしいというか、ディズニーらしいファンタジー映画である。

 現在の自分が過去の自分に会うという話はよくある。
 たとえば藤子・F・不二雄の異色短編に「自分会議」というのがあった。
 ある学生のところに青年(数年後の学生)と中年(十数年後の学生)がやってきて、もうすぐ学生に転がり込む遺産の処理についてそれぞれの意見を言い合う。ふたりともその処理に失敗して、学生に自分の二の舞だけはさせたくないというのだ。喧々囂々の討論しても結論はでない。もう一人小学生の自分の意見も訊いてみようと呼んできたのはいいけれど、またまた大喧嘩に。少年は未来の自分たちの情けない姿に絶望して、部屋の窓から飛び降りてしまう。とその瞬間、あとの3人も消えてしまうのだ。
 この設定をひっくり返すと「キッド」になる。

 「キッド」に興味があったのは個人的な理由がある。
 二十代半ば、ちょうど仕事に行き詰まって落ち込んでいたころのことだ。人生に行き詰まった男(僕)が中学生の自分自身に会いに行く短編小説を書こうとしたことがあった。
 中学時代はそれまでの人生の中で一番輝いていた時期だった。勉強もそこそこできて、趣味やスポーツに積極的に取り組み、すべてにかなりいい成績を残せた。彼女と両思い(!!)になって放課後の語らいや交換日記が楽しみだった。そんな自分に少し元気をもらおうと訪ねるというわけ。ところが実際は当時の自分も悩み多き年頃で、逆に励ますはめになるというオチで、かつての自分を励ましながら、男自身も生きていく自信をとりもどすというストーリーだった。 だが、結局完成せずに終わった。
 ま、そういう物語を考えたのもまだ自分の人生を思いどおりにつき進んでいたからだろう。

 「キッド」で注目したのは、看板のコピーにあった<今の私は、あの頃なりたかった大人だろうか?>というナイフのような言葉だった。これにはぐさりと胸を突き刺さされたような思いがした。  映画の主人公(ブルース・ウィリス)は39歳、僕は40歳。主人公は8歳のころになりたかった大人でないことを非難される。じゃあ今の自分は中学生(14歳)だった僕自身が夢に描いた大人になっているだろうか。
 映画界、映像業界で働きたいという夢は30代直前に挫折した。何とか家族3人の生活を維持していくために、業界から足を洗った。お金の問題があった、精神力の弱さもあった。それでも自分の好きな仕事のまわりでウロチョロしていたのだが、流れ流れて、今ではまったく関係ない業務についている。中学時代からはまったく想像もできない仕事である。
 すべて自分自身の判断、行動の結果であるから仕方ない。せめて映画の主人公みたいに仕事に成果や張り合いを持てればいいが、それもなく、いまだに天職は何かを頭の中だけで模索している状態。それなりに地位と収入がなきゃいけない40歳にしてこのテイタラク、14歳の僕が知ったらどう思うだろうか。
 そんなわけで、かなりマジに主人公の対応を見つめていた自分がいた。

 過去にさかのぼったふたりが病気がちな母親を見つめながら、その死について語り合うシーンは、どうしても7月に死んだ母のことがダブってしまい冷静に観られない。
 14歳のときに未来から中年になった自分がやってきて「おかあちゃんは8年後には病気で寝たきりになってしまうんだ。26年後には……」なんて言われたらどう反応しただろうか。そう考えたらスクリーンが涙でかすんだ(といってもあくまでも悲しいからで感動ではない)。

 あのころの14歳の僕へ

 あのころは楽しかった。至福の時だったな。世の中こんなにうまくいっていいのだろうかと不安を覚えたこともあった。
 でもその後は挫折ばっかりのような気がする。30歳前には人生を降りようとしたこともあったんだ。
 あの頃思い描いたような大人になっていないのつらいし、生き方に対しては今でもジタバタしている。
 でもね、これだけは言いたいんだけど、あのころに帰りたい、あのときああしていたら、とか考えていないよ。こういう人生だったから今のかみさんや娘がいるのだろうから。喧嘩ばかりしているけどね。後悔だけはしたくない。

                              もうすぐ41歳になる君より

 追記
 主人公の家でTVを見る少年が「99チャンネルもあるのにおもしろい番組がひとつもない」とため息をつく姿は笑った。TV業界の人はこの言葉に耳をかたむけるように。
 主人公の恋人役エミリー・モーティマーがデミー・ムーアをもっと若くオキャンにしたような感じで、ブルース・ウィリスとはお似合いだなと思った。
 途中で気がついたのだが、この映画は始終音楽がバックに流れていたような。

     ◇

2000/10/11

  「顔」(テアトル新宿)

 映画館には毎月〈映画サービスデー〉というのがある。入場料が1,000円になるのでけっこう重宝している。これで映画を観る回数が増えたほどだ。なかにはレディースサービスデーなるものもあって、どうして女性ばかり優遇するのか、男性向けのサービスも少しは考慮してくれてもいいではないかと思うこのごろなのである。
 が、テアトル新宿(ちなみにここ、テアトル東京系の映画館は毎週水曜日がサービスデーとなっている)に「顔」を観に行って、女性たちが優遇されるのも無理ないかなと思い知った。
 ヒットの噂を聞き、おまけに水曜サービスデーでもあるのでかなりの混雑を予想して、最終上映1時間前に入場した。後から続々やってくるお客さんはほとんど女性ばかり。それも若い人から年配までという幅の広さだ。
 女性の面白いものに対する敏感さ、俊敏さを改めて認識した次第。まったくもって恐れ入ります。口コミを狙うのだったらやはり女性だろう。映画館が女性にサービスするのは当然の行為かもしれない。

 同僚のホステス殺しで指名手配され、全国を逃亡、時効寸前で逮捕された福田某の事件を下敷きにしたと思われるこの映画、とはいえ、ヒロインのキャラクターはオリジナルだし、ストーリーもフィクションである。
 母親が急死し、その通夜に日頃仲の悪い美人の妹を殺してしまったヒロインが逃亡生活の中で人と触れ合い、だんだんと心を開き、きれいになっていく様子が描かれる。
 このヒロイン・正子のキャラクターがユニークだ。裁縫の技術だけに長けたどん臭い引きこもりの年増女性という設定で藤山直美が扮している。

 冒頭、正子は舌打ちしたくなるようなイヤな女として登場する。
 口論の末、たぶん発作的に妹(牧瀬里穂)を殺したあと、放心状態の正子は風呂に入りながらナイフを手首にあて自殺を図ろうとするができない。それは転生を信じる正子のうちにある「たとえ生れ変わったとしても何も変わらないから」という絶望感による。理由を知って急に正子が愛しく見えてきた。それに妹を殺したことに対する罪の意識を常に持っていて、逃亡中も妹の幻影にさいなまれているところも彼女にたいする思い入れを強くしてしまう。
 逃亡を図った早朝、商店街の一角で睡眠をとろうとして阪神大震災に遭遇し「バチがあたった!」と何度も叫ぶ姿がおかしい。

 主演の藤山直美がいい。自転車に乗れない。泳げない。この見るからにどん臭い女の正子を外から内から見事に演じている。特に巧いなあと思ったのは正子が大分に逃げてからスナックで働き出し、客とカラオケに興じるシーン。タンバリンを叩けばリズムをはずす、唄をうたえば英語の歌詞がメロディに半テンポ遅れる。ちょっとしたしぐさでどん臭さを体言している。

 共演者が豪華だ。
 正子に道を教えるそぶりでトラックに連れ込み、犯してしまう酔っ払いに中村勘九郎。ほとんど信じられない役柄だ。
 最初に正子が働くラブホテルのオーナーに岸辺一徳。いつも同じ演技なのに不思議とその役になりきってしまう。
 正子が恋する憧れの男性に佐藤浩一。特急「にちりん」でのふたりの会話は抱腹絶倒。台詞と間の取り方に藤山直美が寛美の娘であることを再認識できる。
 正子が世話になるスナックのママに大楠道代。見るからにちょっと疲れた気のいい田舎のママさんだった。いい。彼女の弟のちんけなやくざが豊川悦史。トヨエツってこういうエキセントリックな〈普通じゃない〉役が似合う。スナックの客で正子に恋する男は國村隼。
 派手さがなく、演技演技していない芝居をする役者たちが脇を固めている。

 倫理的にはけっして正しくはないけれど、ラストに見せる正子の生きていくことへのずぶとさが実に爽快である。

     ◇ 

2000/10/20

 「五条霊戦記」(日劇東宝)

 思えば1970年代後半から80年代にかけて登場してきた自主映画界の旗手たちは、今では日本映画界の中堅監督として活躍しているのだ。
 「地球に落ちて来たクマ」の小中和哉監督は春に公開されるウルトラマン映画を連作し、斬新なビジュアルショックで往年のウルトラファンを熱狂させてくれた。「九月の冗談クラブバンド」の長崎俊一監督は「死国」で一部に16mmをイメージさせる映像処理を施したホラー映画に挑戦し職人ぶりを発揮した。
 邦画が衰退したのは撮影所システムが崩壊したからだという指摘がされて久しいが、徒弟制度を経験していない監督たちが実力を示してきたのは新しい日本映画の未来を感じられてうれしい。

 「高校大パニック」でデビューした石井聡互監督も「五条霊戦記」などという時代劇を撮るまでになってしまったのは感慨深い。
 8mm映画「高校大パニック」が評判を呼び、日活がいち早く劇場公開用に映画化を決定、当時日活のエース監督・沢田幸弘と協同で演出にあたった。その撮影現場を取材した記事が「キネマ旬報」に掲載されたのを今でも鮮明に覚えている。
 沢田監督の横でふてぶてしい態度をした石井監督の表情には「なんでオレがこんなオヤジと一緒に映画撮らなきゃいけねーんだ」と書かれていた(と思った)。
 このときのヤンキー風の風貌に馴染めなかったのか、あるいは作品に感じられるアナーキーさが肌に合わなかったのか、僕はこれまで石井監督作品を観たことがなかった。評価の高い「爆裂都市」「狂い咲きサンダーロード」「逆噴射家族」、どれも描く世界が今ひとつ僕の琴線に響かなかった。
 しかし「五条霊戦記」を観て考えを改めた。これほどまでアクション(アクションをどう撮るか)を極めている人だとは思いもしなかった。

 昨年からブーム到来とばかりに時代劇映画が公開されているが、刀と刀がぶつかりあう、いわゆる〈チャンバラ〉の醍醐味を満喫させてくれるものはなかった。刀の持つ重厚さ、残酷さを描いているけれど、それをアクションにまで転化させたものはない。映画の主題、狙いが違うのだから当然なのだが、1本くらいその手のものがあってもいいと思う。唯一期待した「梟の城」はまったくアクション映画とはかけ離れた内容だったし。
 「グラデュエーター」を観て、その殺陣に興奮し、こんな剣と剣の迫力ある戦いを時代劇で再現できないだろうかと思ったが、非常にむずかしいこともよくわかっている。石井監督は見事にそれをやってのけたのだ。

 「五条霊戦記」は有名な源義経と武蔵坊弁慶の物語を独自の解釈で大胆に映像化している(といったって元の物語もあくまでも伝説でしかないのだが)。
 平家に復讐を果たすべく仲間2人を伴って京の町で平家武者への殺戮を繰り返す義経(浅野忠信)とそれを阻止すべく彼らの前に立ちはだかる僧侶・弁慶(隆大介)の戦い。
 何と映画の中では義経と弁慶の立場が逆転しているのだ。
 弁慶もかつては無法者だったのだが、かつて犯した女が産み育てた自分の息子を殺めてしまったことで改心し、仏門に入ったという設定。手塚治虫「火の鳥 鳳凰編」の我王みたいなキャラクターである。
 伝説で有名な千本の刀の収集は後に仲間になる刀鍛冶・鉄吉(永瀬正敏)が受け持つ。

 アーバンタイトルのエピソードがなんとも魅力的。夜警の平家武者の首が一陣の風とともに鮮やかに斬り落とされるショットは敵が何者なのかわからない不気味さがうまく表現されている。これで僕の心はわしずかみされたと言ってもいい。
 森の中で展開される最初のアクションのカメラワークに目を見張った。役者たちはもちろんカメラも自由に動きまわる。黒澤監督「羅生門」の有名な森をかけめぐる多譲丸のショットへの石井監督なりのアプローチだろうか。(中には本当に酔いそうになるブレの連続もある。)
 美術も凝っている。衣装、小道具、セットの作りはかなりリアルで、画面全体に神経を注いでいることが作品世界を確実なものにしている。森や川などの自然描写もいい。

 頭を剃った隆大介がボロ雑巾のような僧衣を身に着けて圧倒的な迫力。かたや無表情の浅野忠信の二刀流も様になっている。義経の弟・芥子丸(細山田隆人)の美少年ぶりに注目。声を聞くまで女優が扮しているものとばかり思っていた。
 岸辺一徳、國村隼がそれぞれ平家武者の大将・平忠則、平家側の僧侶・朱雀法眼の役で出演している。岸辺一徳のいつもと変わらない演技(でもそこがいい)なのと対照的に國村隼は「顔」のスナックの客人とはまったく別人格の僧侶を見事に演じ、思わず唸ってしまった。
 岸辺は役を自分に近づけ、國村は役に自分を近づける名脇役といえるだろう。その他、出てくる役者陣が日頃あまり馴染みの人ばかりで実に新鮮だった(単に僕が無知なだけかもしれない)。
 弁慶の師匠にあたる阿闍梨役の勅使河原三郎って一体何者なのか?

 圧巻は何と言ってもクライマックスの〈五条の橋の戦い〉。
 剣と剣のぶつかりあいをかつてこれほどまでに激しく目まぐるしく描いた映画があっただろうか。まさに命を賭けた〈火花散る〉戦いでこのシーンを観るだけでも金を払う価値がある。
 二人とも死んでしまうのか? その後の物語はどうなるのか。あっと驚く結末があって、そしてちゃんと伝説どおりのラストに落ち着かせる配慮が心憎い。

 【追記】
 坊主頭の隆大介の風貌は池波正太郎描くところの藤枝梅安そのものだ。
 原作に忠実な江戸情緒たっぷりな隆大介主演の「仕掛人・藤枝梅安」を観てみたい。
 
     ◇ 

2000/10/24

 「インビジブル」(新宿文化シネマ)

 ケビン・ベーコンの名前と顔が一致したのは「アポロ13」だった。
 第一印象は「なんて魅力的な声の俳優なんだろう」。美声というのではないが、声を落としてボソボソとつぶやく、その孤独感あふれたところが魅力的だった。
 もし僕が女だったら、耳元で彼に愛の言葉を囁かれたりなんかしたら思わずイッテしまうのではないか?

 ……。

 そんなわけで、透明人間になって、劇中ほとんど姿をあらわさず、声だけで芝居する主人公にオファーされたのは当然の結果といえる。
 残念なのはケビン・ベーコンが知的なマスクでなく、どう贔屓めに見ても科学者らしくないこと。そもそも彼が得意とするのは、得体の知れない悪人(もどき)なのだから、物語の後半、透明薬の影響と元恋人と同僚の仲に対する嫉妬に狂った彼が次第に暴力的になって殺人鬼へと変貌していく過程は容易に想像できる。
 だいたい彼が上層部へ嘘をつき、周囲の反対を押し切ってまで人間の透明化実験に挑戦するのか、それも自分の身体を投げ打ってまで実験を遂行するのか、その憧憬と焦燥の気持ちがこちらの胸に響いてこない。

 前評判の高かった動物(人体)が透明化(あるいはその逆)するプロセスはバーホンベン監督らしいえぐさではあるけれど、CGだったらこれくらいできるんじゃない、ってな感じでそれほどのショックはなかった。
 映像的にもテーマ的にも前作「スターシップ・トゥルーパーズ」の方が優っていると思う(識者には悪評たらたらだったけれど)。
 せめて透明人間になったら男だったら誰でも思う行為(この映画でも主人公は当然やりますわなあ)をもっと徹底的に描いて欲しかった。

 劇中、透明になったらまぶたが本来の機能を果たせず(光をさえぎれなくて)、まぶしさに大騒ぎするシーンがこの映画の目新しさだが、それだったら他の臓器にだって当てはまることがあるのではないか。脳や内臓を保護する頭蓋骨や肋骨などについても同じようなことがいえないだろうか。眼球自体、透明になったら本来の働きをしないと思うのだけど。

 タイトルの「Invisible」とは〈見えない、姿を現さない、表面に出ない〉という意味。しかし原題は「Hollow Man」〈からっぽの男〉。原題のままでは日本ではヒットしないだろうけど、風刺の効いているタイトルではある。




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Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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