一昨日の午後、丸の内ピカデリーで「ダンケルク」を観る。
 この秋一番の期待作。けっこう長い間、劇場で予告編を見せられたような気がする。
 クリストファー・ノーラン監督版「プライベート・ライアン」だと勝手に思っていたのだが、まったく違った。
 前作「インターステラー」がわかりやすい「2001年宇宙の旅」だとすると、本作は戦場版「2001年宇宙の旅」だ。体感する映画ということ。詳細は「関ヶ原」同様項をあらためる。
 「シン・ゴジラ」にはドラマがない、と書いた人たちは、この映画についてどう思うのだろうか?

 夜は下高井戸シネマで「美しい星」を再見する。ちょうど小説を読んでいるところなので、この機会にと高井戸まで足をのばしたわけ。

          * * *

2001/01/16

 「クリムゾン・リバー」(銀座ガスホール 試写会)

 最近はハリウッドでも活躍が著しいジャン・レノと「ドーベルマン」公開時に〈フランスの松田優作〉なんて呼ばれたヴァンサン・カッセル共演のサイコミステリー&アクション。

 アルプス山脈の麓にある森林で全裸の男の死体が発見された。生きながら身体中を傷つけられ徐々に命を奪われる残忍な殺人方法で奇妙なのは身体が胎児のような格好に折り曲げられていたこと。捜査支援のためパリからやってきた刑事(ジャン・レノ)は同じ手口の第2の殺人に遭遇する。
 かたや勤務中にマリファナを吸うトッぽい若手刑事(ヴァンサン・カッセル)は交通事故死した少女の墓荒らしを追っている。
 全く別の場所の何の関連性もない2つの事件がやがて交わり、二人の刑事は協力しあいながら事件の真相を調べるうちに閉鎖的な片田舎の大学町で行われている驚愕な事実をつきとめる。果たして殺人事件の犯人は…… 。

 タイトルバックは変死体を嘗めまわすように撮ったショットの数々。やがて山道を走る一台の車を空撮で狙う。まるで「シャイニング」のようだ。内容はもちろん映画のスタイルもハリウッド映画みたいだが、台詞がでてくるとやはりフランス映画だ。
 劇場でフランス映画を観るのは久しぶりのことだ。例の核実験以来、我が家ではフランス商品を一切ボイコットしていたわけだが(だからと言ってフランス映画を観なかったわけではない。単に興味をひく作品がなかっただけ)、やはりフランス語の響きはいい。

 ジャン・レノは少し髪が伸びいつもとイメージが違う。短髪の方が似合うと僕は思うが。ジャン・レノの胸を借りるヴァンサン・カッセルは「ドーベルマン」を未見の僕にはお初の俳優なのにいつもお目にかかってる感じがしてならなかった(CFに出演していることが後でわかった)。

 物語の構成、クライマックス等々、全編にわたってアメリカン(というかハリウッド)テイストというのはどうかなと思う。この映画、日本語吹替えしたら誰もフランス映画だなんて思わないだろう。

 まあ、こちらの体調のせいもあって、前半は睡魔に襲われて僕の頭には別のストーリーが浮かんでしまうことがたびたびあった。映画がいつのまにかコメディになってしまうのだから弱った。
 が、二人の刑事が敵に命を狙われるあたりから目も覚めた。だからだろうか、犯人に殺人をさせる動機づけとなった陰謀の仕組みが今いちわからなかった。もうすぐ原作本が発売されるというからそこら辺のことは小説で確認しよう。

 アルプスで殺人犯が登場するカットはその処理の仕方が斬新で初めて経験するサスペンスだった

     ◇

2000/01/20

 「愛のコリーダ 2000」(シネアミューズイースト&ウェスト)

 大島渚監督のフランス製ハードコアポルノ「愛のコリーダ」が公開されたのは1976年。僕が高校2年のときだ。
 当時なぜ観なかったのだろうとふと考え、笑ってしまった。18歳未満お断りなのだから観られないのは当たり前ではないか。
 嘘である。高校生になってからは独立系のピンク映画を皮ぎりに日活ロマンポルノをかなり観に行っていた。中間や期末試験が終わるとそのまま映画館に直行し、3本立てのプログラムに興奮していたわけだ。だいたい期待外れだったけれど。と書いていて、いくらなんでも制服姿で映画館に入れるわけがないと気づいた。記憶なんていい加減なもんだ。

 そんな中であの大島渚がポルノ映画を撮ったと。題材は阿部定事件、主演は阿部定に新人の松田英子、愛人の定に男性自身を切り取られる男・吉蔵に藤竜也。何より話題になったのは二人の本番プレイだった。
 高校時代は「キネマ旬報」を毎号買っていたから、「愛のコリーダ」の製作発表から日本公開までのメディアの騒動はよく憶えている。
 〈芸術か猥褻か〉論争が起こったとき、大島監督の「猥褻のどこが悪い!」という開き直った反論は印象的だった。監督の妻でもある女優の小山明子はインタビューの中で「今に女優はヘアの形にも神経つかわなくちゃならないときがくる」というようなことを発言していて、大胆なことを言うなあ、と瞠目するとともに、でもそういうあなたは人前でヌードなんかにならないでしょう、と揶揄したい気持ちもあった。しかし樋口加南子のヘア出しヌード写真集が大ヒットして以来、ヌードにヘアはつきものになってしまった。ヘアヌードを見るたびに僕は小山発言を思い出す。

 芸術か猥褻か、という問題について、大島監督の反論に大いに納得できる。
 「エマニエル夫人」が大ヒットしたとき、「なぜ観に行くのか」という問いに女性たちは映像の美しさを強調した。僕はあれはアジア蔑視の映画じゃないかとはなから観る気もしなかったから映画についてどうのこうの言える立場にない。が、女性たちがシルビア・クリスティルの奔放なセックス描写見たさに劇場に足を運んだことは容易に想像できるし、その恥ずかしさを〈映像の美しさ〉でごまかした、と思っている。
 大島監督が芸術に逃げずに「愛のコリーダ」を語る姿は頼もしかった。
 とはいうものの、結局僕は「愛のコリーダ」を観なかった。メディア側の騒ぎ方にうんざりしていたこと、本番、モロ出しといったって、日本公開版は大幅にボカシが入って何がなんだかわからないものになると思ったこと、そして何よりスチールで見る主演女優の松田英子に何の魅力も感じなかったことが原因だった。(次の「愛の亡霊」はちゃんと劇場で観ている。)

 そんな「愛のコリーダ」が完全版とはいかないものの新たな修正を加え、なるべくオリジナルに近くした「愛のコリーダ 2000」として公開された。

 冒頭、殿山泰司が定に言い寄る薄汚い浮浪者の役で登場し、堂々とふんどしの間からペニスをのぞかせる。これには驚いた。当たり前といえばそれまでだが、脇役にいたるまで裸、局部全開なのだ。老いも若きもの感。役者たちがよく納得したものだ。
 映画は最初から最後までセックス描写が続く。噂どおり〈やりまくり〉の映画だった。しかし、当然裏ビデオともアダルトビデオとも印象はまったく違う。もちろん〈OSHIMA〉ブランドの威力でこちらがそう構えていることも要因だろう。
 ただ描かれる内容は一部突飛ではあるけれど、男女関係においてはいくつかの恋愛、女性関係を経験、ましてや既婚の40歳過ぎの中年男には激しさの差はともかくよくある光景に思えた。すべてを見せることでドラマが作られているのだから逆にボカシがある方が不自然だし、別の意味でいやらしい。

 平々凡々とした容姿の定役・松田英子には最初やはり何も感じなかった。ところが物語が進行し、着物を脱ぎ、藤竜也相手に愛欲の世界に浸りだすにしたがってだんだんと魅力的になってくるから不思議。カットによっていくつもの顔を持っているのだ。何よりスタイルがバツグンにいい。それほど大きくはない乳房の形の良さは森下愛子のそれを思い出した。
 駆け落ちし、いっしょに暮らしていた吉蔵がいったん自宅にもどると、ひとりぼっちで帰りを待つ定が宿のふたりの全裸の幼子(男の子と女の子)と戯れながら、ふいに男の子のおちんちんにむさぼりついてしまうシーンには定の孤独、愚かしさとけなげさがあふれていた(演ずる男の子がトラウマになっていなければいいけれど)。

 吉蔵が町を歩いていて兵隊の集団とすれ違うシーン。
 徐々に軍国主義に覆われていく昭和初期の日本。一方は国のため命をすてようとする集団、片やひたすら自分の悦楽だけに生きている男。公と個のすれ違いの対比が胸にこたえる。

 僕には二人の関係が究極の愛かどうか断言できない。ただ二人の愛が永遠に続くものとも思えないのは確かである。
 観終わって深く感動するというのではないが、時間が経つうちにひしひしと〈何か〉が胸をつついてくる。

 しっとりと濡れたような、全体的に赤が染み出たような深みのある映像、そんな映像にマッチした三木稔の音楽も忘れがたい。

     ◇

2000/01/29

 「ビッグママスハウス」(九段会館 試写会)

 最近、友人から調達してもらう試写会の招待状、その作品にまったく知らないものが多い(映画雑誌を読まなくなったからなあ)。
 この映画もそうである。だいたい主演のマーティン・ローレンスを知らない。
 監督は「ホーム・アローン」のクリス・コロンバス監督の作品でコンビを組んだ名フィルムエディターで「ホーム・アローン3」で監督に進出したラジャ・コズネル。
 ということを会場で配布されたチラシで知った次第。
 昨年の夏、アメリカで大ヒットしたコメディで、マーティン・ローレンスは「バッドボーイズ」でウィル・スミスとともに人気スターの仲間入りした、とこれまたチラシに書かれているが、僕は「バッドボーイズ」を観ていないし、どんな内容かも知らない。恥ずかしい!

 映画の魅力とは何かを考えた場合、特撮・アクション・音楽・コメディだと思っている。
 小さいころから〈お笑い〉が大好きで、コントを考えたりして学校の演芸会などで舞台に立ったりしていたにもかかわらずコメディ映画を率先して観に行くことがない。特にこの10年くらいはコメディといわれる作品で大爆笑する映画に出会える機会がなかった。

 刑務所を逃亡した強盗犯をつかまえるため、立ち寄る可能性が高い彼の元恋人の祖母に家に張り込むFBI捜査官の一人で変装の名人(マーティン・ローレンス)が巨漢の祖母(女装したKONISHIKIだあ!!)に扮することから巻き起こるドタバタ劇である。

 本物の祖母と主人公がニアミスするバスルームでのうんこネタはあまりの下品さでちっとも笑えなかった。
 この映画の売りである主人公のメイクはもちろん素晴らしい出来なのだけれど、何年も会っていない孫娘(ニア・ロング)をだませたとしても、毎日顔を会わせる隣人たちが本人だと思うはずがないだろうに(そこが映画、コメディの真髄なのだけれど)。

 孫娘を演じるニア・ロングがキュートだ。それほど美人というわけではないが、プロポーションが抜群。思わず鼻の下が伸びちまいます。
 それにしても最近アメリカの映画、TVドラマに登場する黒人女性はきれいな人ばかりだ。男優にしてもけっして極悪人を演じることがない。主人公かNo2あたりのちょっといい役が指定席。ワルだとしても根っからの悪人というわけではない。たぶん、そういうきまりごとがあるのだろう。
 昔、手塚治虫がTVアニメ「ジャングル大帝」をアメリカのTV局に売り込みに行ったとき、登場する黒人は限りなく二枚目にかっこよく、白人はおもしろおかしくしてくれと要望されて困ってしまったというエピソードが自伝マンガ「ガチャボイ一代記」にでてきた。現在ユニオンか何かでそれが徹底されているのではないか。
 でもこれ、逆差別のようにも感じるんだよなぁ。

 黒人といったらやはりゴスペル&ダンスという印象が強い。
 この映画でも歌とダンスがミックスしたこちらも思わずリズムをとりたくなってしまうシーンもある。これがもっと迫力あるものになっていたら、星2つだったのに。




関連記事
スポンサーサイト
NEXT Entry
1分間スピーチ #22 ソニー・プレステ2の宣伝効果
NEW Topics
告知ページ
「溺れる魚」「ミート・ザ・ペアレンツ」「ハード・デイズ・ナイト」 「天使がくれた時間」 ~ある日の夕景工房から
1分間スピーチ #22 ソニー・プレステ2の宣伝効果
「クリムゾン・リバー」「愛のコリーダ 2000」「ビッグママスハウス」 ~ある日の夕景工房から
世紀末~新世紀「2001年宇宙の旅」まつり
「ハンニバル」 ~小説を読み、映画化作品をあたる
「ホワット・ライズ・ビニーズ」 「ペイ・フォワード [可能の王国]」 ~ある日の夕景工房から
「カオス」 ~映画を観て、原作をあたる
「砂の女」「源氏物語 あさきゆめみし」 「スペース カウボーイ」 ~ある日の夕景工房から
「キッド」「顔」「五条霊戦記」「インビジブル」 ~ある日の夕景工房から
Comment
Trackback
Comment form
 管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top