FC2ブログ
2001/06/16

 「デンジャラス・ビューティー」(丸の内ルーブル)  

 男が女になったり女が男になる話に興味があるってことは何度か書いていて、新井啓介って変態じゃないかと思われているのではないかと時々心配している。いわゆるメタモルフォーゼの楽しさというものなんだけど。
 同じ理由で少女が女性になる瞬間、ボーイッシュな女の子がふと見せる女性らしさにたまらないエロティシズムを感じる。

 FBIの中で男勝りの女性捜査官(サンドラ・ブロック)がミス・コンテストに潜入捜査するため、短期間で絶世の美女に変身させられるというこの映画を予告編で知った時、その変身ぶり、エロティシズム見たさに前売券を買ってしまった。
 日本でも醜女が美女に変身するTVドラマがよくある。美人女優がメーキャップでブスになる方法だ。この映画のサンドラ・ブロックは素顔と演技で色気のない女性捜査官を体言している。 ストーリー自体はたわいもないサスペンスコメディである。

 世間を騒がす爆弾魔からミスコンテスト会場に爆弾を仕掛けるとの予告がありFBIが潜入捜査を開始する。その捜査官に任命されたのがサンドラ・ブロック。ミスコンで数々の優勝者を輩出したメイキャップ・アーティスト(マイケル・ケイン)の指導で一夜漬けで世紀の美女が誕生するわけだが、心まで女らしくなるわけがなく、外見と内面のギャップ、それによって巻き起こるドタバタが笑いを誘う。  

 期待していた以上でも以下でもない映画、でも楽しい映画、アメリカ映画らしい映画といえる。  マイケル・ケインの十八番、おかまっぽいアーティストぶりがいい。  

 映画館をでてからポスターを見て知ったのだが、ミスコン理事長にキャンディス・バーゲン、司会者にウィリアム・シャトナーが扮していた。まったく気づかなかった。

     ◇

2001/06/30

 「A.I.」(丸の内ルーブル)  

 急逝したスタンリー・キューブリック監督が次回作に予定していた作品が未来を舞台にした人間と少年ロボットとの愛の物語「A.I.」と知ってとても残念な思いがした。これはまさしくキューブリック版アトムではないか。「2001年宇宙の旅」の美術デザインを当初手塚治虫にオファーしたキューブリックの、21世紀初頭を飾る作品としてまことにふさわしいものであり、「時計仕掛けのオレンジ」以降久々のSF作品でもある。キューブリックの未来造形の質感、色彩感覚を堪能できると考えたからだ。

 原作のブライアン・W・オールディス「古びた特製玩具」(望月明日香 訳)は昨年暮れに読んだキューブリック研究本「ザ・キューブリック」(フットワーク出版)に収録されていた。掌編のような短編で、これをどう肉付けしてSF大作にするのか、キューブリックのことだから原作とはテイストの違う、ほとんどオリジナルに近い内容になるのではないかと逆にそれが楽しみに思えただろう。
 人間を描くことにほとんど興味を持たないキューブリックに人とロボットの愛をテーマにした映画が撮れるのか、という不安もあるにはあったけれど。  

 そんな未完の大作「A.I.」をスティーブン・スピルバーグ監督が引き継ぐことになった。生前キューブリックは映画の題材をスピルバーグに向いていると判断し、スピルバーグに演出をさせ自身はプロデューサーを担当する意向もあったと何かの本に書かれてあった。果たしてそんなビッグプロジェクトが成功したかどうか。資質が極端に違う巨匠が並び立つわけがない。  
 そんなわけで公開が近づくにつれ話題が高まっているスピルバーグ監督作品「A.I.」には何の期待も抱いていなかった。個人的には「A.I.」より手塚治虫の初期の傑作をアニメーション化した「メトロポリス」の方が興味深かった。同じ未来世界、ロボットが主人公の物語なのに超大作「A.I.」の陰に隠れてしまった感があり、手塚ファンとしてははがゆくてしかたないのだ。  

 だからこの日は本当は「メトロポリス」を観る予定だったのだ。2週間に一度通っている有楽町のクリニックに行った際ついでに観ようとしたものの有楽町・銀座界隈では上映が終了していて、たまたまのぞいたガード下のディスカウントチケット屋に「A.I.」の前売券があったので、そのまま直行したというわけである。 

 温暖化で南極の氷が溶け地球の大都市の多くが水面下に沈んだ未来、ロボット工学は驚くほどの発達をみせ、外見は人間と変わらないロボットが作られている世界。  
 人を愛することができる少年ロボットがある夫婦に授けられるが、問題を起こして捨てられてしまう。母親に愛されたい、愛されるには人間にならなくてはいけないと願う少年ロボット・デイビットはピノキオが〈青い妖精〉によって人間になったことを知ると、〈青い妖精〉を捜し求めてはるかかなたへと冒険の旅にでる……という物語。  

 前半は一人息子を不治の病で失おうとしている夫婦(特に母親)とデイビットの関係、奇跡的に回復し帰ってきた息子との確執を描く室内劇が延々と続く。もしキューブリック監督だったら、この室内のデザイン、色感、シンメトリーを多用するカメラワーク等々、ドラマ以外に楽しめる要素がたくさんあるだろうと思いながらスクリーンを見つめていた。  
 デイビットが森に捨てられてからはジュード・ロウのセックスロボットの演技を堪能した。ロボット狩りやジャンクショーのシークエンスではさまざまな意匠のロボットが登場し、ビジュアル的にも目を見張る部分があるものの圧倒されることもなかった。
 大都会に舞台に移してからも、派手なデザインのビル群、建物がスクリーンを飾ってもそれほど〈センス・オブ・ワンダー〉を感じなかった。スピルバーグ映画にとっては当たり前の世界という気がする。
 
 ストーリーもわからないほどでもないけれど、何かと説明不足が気になる。  
 海に沈んだマンハッタンのビルにデイビットがやってくると「君をずっと探し求めていたんだ!」と長年少年ロボットの研究をしていたとおぼしき博士がとびだしてくるのだが、その後デイビットが人間になれない現実を悲観して海に飛び込んで自殺をはかっても博士は何の行動もしない。登場もしない。あのエピソードは何だったのか。  

 【以下これから映画を観る方は読まないでください】  

 デイビットが海の底で眠りついて2000年が経過し、映画冒頭のナレーターの正体(絶滅した地球に調査にやってきた宇宙人)がわかってからラストにむかってどうドラマを締めくくるのかとやっと姿勢が前のめりになってきた。  
 デイビットに記憶されていたデータで絶滅前の地球の様子を知りえた宇宙人は君の願いをかなえてやると言う。デイビットは「人間になりたい」と答えるがそれは無理な話。彼らに人間を再生させる能力があることを知ると母親に会いたいと懇願する。再生させてもなぜか1日しか生きられない、それでもいいのかとの問いにうなづくデイビット。  
 奇跡はすぐにやってきた。懐かしいあの部屋にやさしい母親がいた。デイビットは母親を抱きしめて言う。
「僕を愛して!僕をやさしく抱きしめて!」  
 ここで涙が一粒頬を伝わった。

 この映画は母親に愛されず捨てられた子どもがそれでも母を信じて母の愛を得る物語だった。母に捨てられた少年は母親に「愛している」と言ってもらいたい。そのためだけに2000年の年月をかけてわずか1日だけの至福を享受する。愛に飢えた少年の気持ちを考えたら一粒の涙が二粒三粒となり、ラスト幸せそうにベッドで眠りに入る母子の姿に思わず嗚咽をあげそうになった。  
 親に虐待された子どもの、それでも親の愛を求める姿に弱い。子どもたちのけなげな姿が僕の涙腺をゆるめてしまうのだ。「永遠の仔」に号泣したことは記憶に新しい。
 
 なぜ泣くのか。そんな親子の関係がわからないからだと思う。僕は親の愛を受けて育った。自分の子どもが誕生してからは同じように愛情を持って接している。子どもが生まれたばかりの頃、夜泣きに苦労したことがあった。六畳一間しかない部屋、こちらの精神がまいっている時で思わず手をあげたくなることもあった。我慢できたのは自分の子どもだからだ。この子に自分の血が流れていると思えば手なんてだせない。かわいいのである。だから近年メディアを騒がす親の児童虐待、育児放棄の問題には「なぜ?どうして?」と心痛めている。  
 ラストシーンでこうした様々な思いがよみがえってきたのだ。  

 「A.I.」のラストで僕は泣いた。では「A.I.」は素晴らしい映画か、感動作か、と問われれば素直に「はい」と答えられない。  
 常々思っていることなのだが、泣ける映画=感動作ではない。世の中には変な風潮があり、泣くという行為に特別な意味を持たせる人が多い。  
 たとえば山田洋次監督の「学校」という作品がある。TV放映された際、後半泣きながらTVを観ていたのだが、いい映画だと思わなかった。田中邦衛演じる男のあまりにも悲惨でかわいそうな生い立ちに涙したに過ぎない。  
 大事な人、愛しい人を失えば誰だって泣くだろう。それは決して感動の涙ではない。それと同じだ。
「人を泣かすことは簡単なんだ、笑わせることがいかにむずかしいか」
 TVのコメディ番組や喜劇映画を見るたびによく親から言われた言葉がバックボーンになっている。  
 いくらラストで涙を流したからといってそれが映画全体の評価にはならない。
(「A.I.」には観客を泣かせようというあざとさがない分素直に観ていられたところもある。)  

 大ヒットを連発するスピルバーグ作品に対して反発する人、所詮お子様ランチと蔑む人も多い。が、僕自身精神が幼いのか、スピルバーグ映画にはいつも夢中にさせられる。特に冒険活劇における演出力はすごい。
 酷評された「ロストワールド ジュラシック・パーク」でさえ恐怖やサスペンスをかもし出す演出は超一級だった。「ロストワールド」はシナリオが破綻していた。昔の頃に比べスピルバーグはシナリオにあまり重きをおかなくなってしまったのだろうか。「A.I.」ももう少し練る必要があったのではと思う。




関連記事
スポンサーサイト
NEXT Entry
1分間スピーチ #23 おやつの語源
NEW Topics
告知ページ 「まぐまPB9 アニメの声と音と音楽と」
ショーケン、復活す!
「影の告白」「背いて故郷」 ~ある日の夕景工房から
「あやしい本棚」「大正テレビ寄席の芸人たち」  ~ある日の夕景工房から
2018年8月 映画観てある記
無念なり、シネカラ欠席
「不連続殺人事件」「バトルロワイヤル」 ~ある日の夕景工房から
「チーズはどこへ消えた?」「ティファニーで朝食を」 ~ある日の夕景工房から
校正力ゼロの男
お見舞い申し上げます
Comment
Trackback
Comment form
 管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top