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2000/02/01

 「すぐそこの江戸 考証・江戸人の暮らしと知恵」 (稲垣史生/大和書房)

 時代考証の第一人者の著者による江戸雑学ものの一冊。江戸時代の市井の人々の暮らしぶりがいろいろ想像できて楽しい。
 かるたの「犬が歩けば棒に当たる」の棒とは武家地の辻番(警備員)が持つ棒のことをいうのを初めて知った。
 捕物帳というものが本当にあるとは思わなかった。著者が言うには岡引きが尻にぶらさげている和綴じの帳面ではない(そんなものがあることすら知らなかった)。言上帳のうち、犯罪事件に関するものだけを別冊にまとめてものを言うのだそうだ。僕自身現代ミステリでよくあるタイトル「○○殺人事件」の<殺人事件>に相当する時代劇用の名称だと勝手に考えていたのだ。

 この本の主旨ではないが、やはりことあるごとに著者はTV時代劇の制度や風俗がめちゃめちゃであることを嘆いている。確かに著者の言う分はよくわかる。わかるけれど、最近の時代劇はちょんまげをつけた現代劇という側面もあるし、アクション重視の映像を狙っている作品(つまり製作側でも嘘を承知で作っている)もあるので、一概に「ダメ」とは言えないと思えるのだが。それより、いかにもかつらとわかる結髪技術を問題にしたい。

     ◇

2000/02/13

 「第3の家族 テレビ、このやっかいな同居人」(阿久悠/KSS出版)

 感想の前に、図書館の本を借りる際のマナーについて記しておきたい。
 この本のところどころにページの角を折り曲げた後がある。最初はしおりの代用かと思ったが、ちゃんとそれ用の紐はついているのである。よくよく考えたら、付箋として折り曲げているのだった。
 しおりにしろ、付箋にしろ、公共の本を意図的に本を傷ものにするのは許せない。本に直接書き込みするバカもけっこういる。この書き込みも自身のためというより、次から借りる人へチェックさせたいようだ。つまり「ほら、この本のここは重要ポイントよ、ここに気づいた私って頭いいでしょ」てな感じでアンダーライン等の書き込みがしてある。余計なお世話だ。そういうテメエらは自分の金で本を買い、好きなだけ折り曲げたり、書き込みすればいい!!

 中野翠が毎年暮れに毎日新聞社から上梓する、「サンデー毎日」連載の時事コラム(?)をまとめた本はその年を振り返るかっこうの書であり、毎年暮れ(もしくは新年)の楽しみの一つになっている。
 本書は著者が91年から96年にかけて、某TV番組製作会社の広報誌に連載したTV全般のエッセイと今の観点から見たTVや時代についての著者自身の語り下ろしで構成されたもので、2000年をむかえた今、90年代を振り返るには最適な書と言える。
 第3の家族とはサブタイトルにもあるとおりTVのことだが、では第1、第2の家族とは誰を指すのだろう。女房、子どもたちのことか?
 漫才ブーム後に変容したTVの〈笑い〉に関する異議申立てを「誰が笑うのか」「笑っていいことと悪いこと」の項でしていることに注目した。

 かつてコメディアンが自分を痛くしていたのと違って、最近では痛がる人間を用意して、自分が命令するようになっている。コメディアン自身が落ちることも、転ぶこともまずない。それどころか、自分以外に大胆に落ちたり、転んだりすることを、他者に要求する。(略)テレビにおけるお笑いとはほぼ100パーセントに近い形で、この図式が確立している。(略)テレビにおける命じる側と命じられる側の関係は、職業的契約によって成立している部分もあり、それはある種の納得に通じるものだが、見る側にはそうは見えない。
 何ら不思議のない世の中の図式、しかも充分に喝采を期待できる種類のことと思えば、似たような関係を自分の周辺に作る。
 笑いという糖衣錠にくるんだ砒素の役割を果たしていないだろうか。(P165~166)

 そしてそれが頻繁に起こる中学生の自殺に関係しているのではないかと著者は94年の時に婉曲に指摘しているのだ。
 2年前ほど、ある本の感想に今の笑いはいじめの要因になっていて、その元凶はビートたけしだと書いたが、まさしくその通りのことが書かれていてわが意を得た気分である。
 最近でもダウンタウンがある番組で自分のマネージャーに暴力をふるって萎縮させるというドッキリカメラを仕掛けていた(格下の芸人を同じ要領で泣かして皆で大笑いした企画の第2弾)。仕掛ける相手を間違えている哀しい企画なのだが、視聴率が取れるうちは局の方でも人気タレントの傍若無人を見て見ぬ振りをするのだろう。

 そのほか著者は仲間うちに終始するバラエティとタレント、スタッフ、視聴者の意識の低さを嘆き、野球の珍プレー好プレー、NG集の番組のTV界に及ぼす悪影響を憂うのである。
 結局視聴率が問題なのだろう。つまらなければチャンネルを換えればいいし、視聴率が悪ければ、番組は消える。そうならないのは支持する視聴者がいるからだろうし、ということは視聴者~ぼくたちが一番バカだということなのだ。ダウンタウンの番組を家族が寝てしまった後ということもあるけど、くだらねえと思いつつ最後まで見てしまいましたからね、私は。

     ◇

2000/02/15

 「知の編集術 発想・思考を生み出す技法」(松岡正剛/講談社現代新書)

 ある種のコンプレックスとも言えるが、この年になっても出版に関する仕事に興味を持っていて、図書館で本格的なハウツー以外で「編集」の名のつく本を見つけるとすぐ手にとってしまう。本書も羽田図書館の新刊コーナーで見つけた。
 編集はただ本や雑誌をまとめるだけにする工程ではありませんよ、世の中のさまざまな局面で編集作業が行われているのですよ、というのが本書の主旨である。
 著者が持つ編集テクニックが開示してあり、読者はその教えを、出題される問題(編集稽古)に回答しながら学んでいくという趣向。
 編集についてどうのということより、その過程で書いているいろいろな雑学の話が面白かった。アメリカ型スポーツの基本が「より優秀な奴が前にでればいい」のに対してヨーロッパ型は「いったん役割が決まったら最後までまっとうしなさい」という文化だとか、ジョージ・ルーカスの定番プロットが彼の大学時代に教わった神話学者(ジョセフ・キャンベル)の英雄伝説の構造を下敷きにしているとか。

     ◇

2000/02/16

 「へなへな日記」(中野翠/毎日新聞社)

 中野翠のこのコラム集も何冊めになったのか。
 「サンデー毎日」の連載はもう10年以上続いている。4、5年前に1年分(正確には前年の12月からその年の11月分)をまとめた本が発行されていることをを知り、既存の本を読みあさった。すべて読んでしまってからは毎年年末に新刊が出るのを楽しみにしている。
 世間を騒がせた大事件、自身の身辺で起きた出来事、ワイドショー的ネタを疑問点をあげ、分析し、率直な自分の意見を述べる。毒舌とか辛口とかそういうものではなく、その見方、切り取り方が何とも痛快なのだ。思わずうなずいたり、眼から鱗が落ちたり、あるいは逆に主張に納得できなくて腹をたてたりと、どんどんページが進んであっという間に読めてしまう。
 昨年も東海村原発事故、サッチー騒動、ヒロスエの早大登校騒動、パンク「君が代」問題、ガングロ、厚底靴等々、話題にはことかかなかった。

 メディアジャンキー一家の家族合わせで、母:サッチーの講演会における「拍手おばさん」、娘:上祐ギャル、息子:酒鬼薔薇事件で少年が逮捕されたときのアナウンサーを押しのけてVサインする男の子、というのはいい得て妙。携帯電話は淋しい女の子のおもちゃというのもさすが(これは僕もずっと思っていた)。スマッシュヒット邦画「金融腐蝕列島 呪縛」に押し寄せるサラリーマンを「セビロもん」と命名しているのには笑った。
 最高だったのはガングロ女の化粧目的の分析。彼女たちは他人からかわいい、きれいだと見られたくなく、逆にその手の注目を拒否するためだという指摘は注目に値する。

 その他、映画、落語、歌舞伎について寸評も楽しみの一つである。特に単館ロードショーされるマイナーポエット(とコラムの中で表現されている)映画批評はこれからビデオで観る映画の指針になる。ただメジャー、というか僕も見ている映画については相変わらず(趣味の違いといってしまえばそれまでだが)評価が違う。「スターシップ・トゥルーパーズ」をワーストにする気持ちはわからなくはない(〈あまりに幼く好戦的〉には納得いかないけど)。しかし「トキワ荘の青春」についてがっかりしたなぁと言いきるのどうかと思う。おそろしくしけたムードで素敵な馬鹿エネルギーに乏しかった、って書くがほんとにそれしか感じなかったのだろうか。残念だ。

 カラオケ嫌いの彼女の疑問「人はなぜカラオケで歌うのか?」については、「ストレス解消」と答えたい。狭いボックスでどうしてマイクを握るのかという素朴な疑問は全くもってそのとおりで、人は誰でも歌手の気分を味わいたいのだろうと言うしかありませんが。

     ◇

2000/02/27

 「新宿熱風どかどか団」(椎名誠/朝日新聞社)

「椎名誠ってさ、面白いけど、だからどうなのって感じしない?」
 一昨年から昨年にかけて、三五館という新興の出版社から再刊された初期の著作集や自伝的小説をたて続けに読んでいた時に、会社の同僚に言われた。だから、もう読まないんだ、という彼の気持ちは実によくわかる。

 かつて椎名誠の本をかなり読んだ。最初の出会いは大学生の頃、80年はじめだった。書店に並んでいるスーパーエッセイと名づけられた著作集を不思議な気持ちで眺めてたのを憶えている。あの時、本を読むにはいたらなかったが、同じ頃、朝日新聞に連載が始まった雑誌批評のコラムは毎回楽しみで、たぶんこれで椎名誠という名前を認識したように思う。

 本の雑誌社という聞きなれない出版社から出た「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」(この書名、とてつもなくインパクトがあった)や「赤眼評論」など夢中で読んで、なんて面白い文章を書く人なんだろうと思った。
 ただ、読み続けていると同僚が指摘したように「だからなんなんだ」という思いがでてきたのは確か。ある時期もう卒業という気分になって、持っていた椎名本もすべて処分してしまった。週刊文春連載のエッセイも読まなくなってずいぶん経つ。
 再度読み始めたのは初期の著作が三五館から再刊されたことが大きい。どうでもいいこと、ごくごくつまらないことを声がでてしまうほど笑わせる技はやはりすごいことなのだ。同時に「本の雑誌」そのものに興味を持ち、その成り立ちがどのようなものなのか知りたい気持ちが強くなったのも大きい。

 一番驚いたのは「哀愁の町に霧が降るのだ」が自伝的小説だということだった。それが「新橋烏森口青春編」「銀座のカラス」「本の雑誌社血風録」と連綿と続いているのを知って、あわてて読んだものだ。
「新宿熱風どかどか団」はその待ちに待った続編である。本の雑誌がどうにか軌道にのりだし、椎名誠自身、会社員からフリーのライターになって、書き下ろし、連載、ラジオやTVへ出演等々、多忙な毎日のあれやこれやがいつものノリで描かれている。僕が椎名誠の存在を知った、今からふた昔前の80年から物語がはじまるというのも、時代背景や本の中で描かれている出来事が僕自身の実体験や記憶と重なりあってとても印象深いものになっている。

 しかしこの「新宿熱風どかどか団」は何て形容すべき話なのだろう。果たして小説と呼べるのだろうか。おもしろドキュメントエッセイというか、筋も構成もあるようなないような、自分の体験をとりあえずその場の気持ち、状況で書き綴った感じ。もちろん冒頭でその旨ことわっているし、内容も断然面白くてたまらないのだが、あまりに盛り上りも何もない、唐突な終り方に唖然としてしまった。
 その昔、何をもってスーパーなエッセイなのか疑問に感じていたのだが、これこそスーパーエッセイというべき文章なのかもしれない。
 椎名誠と仲間たちが右往左往しながら熱く生きていく様子がうかがえるのは確かなのだが。




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プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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