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2000/03/08

 「活字のサーカス -面白本大追跡-」 (椎名誠/岩波新書)

 椎名誠と岩波新書というミスマッチなカップリングで以前から気になっていた本である。
 副題にもあるように、自身の体験をもとにしたエッセイ中に関係する本をいくつか紹介するという、たぶんに内容の選択と構成に技術が必要とされる読み物で、「図書」に連載されたものをまとめたもの。
 面白くて、読みやすくて、あっという間に読んでしまった。

 「隣りの狂気」の章で、春になると著者が頭のおかしいファンにいろいろつきまとわれるエピソードを2件紹介している。
 この〈春の珍事〉については筒井康隆も「自分は筒井康隆の妻」と称するファンにつきまとわれた日々の顛末を書いていて、読んだ憶えがある。読む方は笑ってすましてしまう事柄だけれど、本人にとっては大変なことなのだろうと改めて思った。S・キングの「ミザリー」に恐怖した人気作家って多いのだろうなあ。

 本書に紹介されているのは著者と何かの約束をしていると思い込んで「なぜ約束を守ってくれない」と電話攻勢をかけるK女、著者と自分の仲をまわりの連中に妨害されるという妄想にとりつかれていて、毎日電話をかけてくるTの話。どういうわけか人気作家にまとわりつくのは女性たちばかりだ。

 読んでいて、十数年前僕自身が躁病になった時のことが思い出され、特にTのエピソードは冷や汗がでてきそうだった。
 僕の場合は仕事の悩みと母親の病気でそれまで悶々としていたのが、ある日を境に吹っ切れた時に起こった。気分爽快で毎日を送っていたある晩、TV番組の出演中の方々が僕に対して発言していると気づいたのだ。
 それからは読む新聞、雑誌等がまるで僕に読んでくれとばかりに書かれていて、最初は喜び勇んで読んでいたのが、しまいには怖くなって活字中毒の僕がほとんど活字に目を触れることができなくなった。
 同時に外で通り過ぎる人たちもなぜか自分を観察している気がして(たとえば駅のホームのベンチに座っていて、隣の、見ず知らずの二人の会話がまるで僕に聞かせるようにしゃべっているという妄想)、電話までもが盗聴されている錯覚におちいってしまった。自分自身はまったくおかしくなったつもりはないのだけれど、治癒するまでいろいろ人に迷惑をかけたことと思う。たぶんTは僕と同じ症状だったのだろう。

     ◇

2000/03/11

 「司馬遼太郎と藤沢周平」(佐高信/光文社)

 佐高信の文化人批判は生半可のものでない。「だめだ!」と烙印を押したら、自分のコラムで何度でも批判、罵倒の限りをつくす。
 対象となった代表的な人にノンフィクションライターの猪瀬直樹、経済評論家の長谷川慶太郎、そして作家の司馬遼太郎がいて、徹底的に攻撃している。(最近、漫画家の小林よしのりがメンバーに入った)まあ、一度ならよくあることだが、何度も同じような文章に触れると「何もそこまでも」という気持ちにもなる。
 特に犬猿の仲とでも言うべき猪瀬直樹に対する嫌悪というのは相当なもので、ある時期から、なぜそこまで書くのか理解できなくなった。
 というのは猪瀬直樹についてTVで受ける印象はともかく、週刊文春連載の「ニュースの考現学」には色々と学ぶべき点が多く、佐高信がその一つひとつをチェックしているとは思えないからだ。「だめな者はだめ」という単純な論理で攻撃しているとしたらもの書きとしてあまりに了見が狭いではないか。物事を見極める眼というものが必要だろう。
 昨年、いつもはダンマリを決め込んでいる猪瀬直樹が「ニュースの考現学」のページを丸々使って、佐高信の体質を喝破したのには驚いた。僕自身うすうす気がついてきたことを主張したように思え、僕の佐高信を見る眼というものが変わってきている。

 司馬遼太郎に関しても猪瀬同様、何度も批判を繰り返していて、これまた「なぜ?」と問いたくなる。
 司馬遼太郎は小説家なのである。小説の好き嫌いなんてその人の趣味の問題だろう。気にくわなければ「キライ」の一言で済むはずなのだ。
 僕はこれまで司馬遼太郎の歴史小説には全く興味がなかったのだが、大河ドラマの影響でその原作「最後の将軍」を読んでみて、清楚で落ち着いた簡潔な文体に注目した。ついで映画「御法度」で原作を確認したいことがあって「新選組血風録」をあたり、その面白さに目覚めたところだ。

 司馬作品の何がいけないのか? 単に日本企業のトップたちの愛読書として司馬の本があげられるからダメというのか、あるいは佐高自身の司馬作品へのアプローチというものがあるのかないのか、そこらへんの事が気になっていたところに本書が目についた。
 藤沢周平の素晴らしさを強調するために、その比較対象として司馬遼太郎をもってきたと書いているが、司馬を罵倒するために藤沢をもってきたともとれる。

 本書には司馬文学について、何人かと対談が収録されていて、中には率直に司馬作品のいいところを認める人もいるのに、そういう部分は軽く聞き流してしまう傾向があるからだ。

 本書は雑誌に発表されたものと書き下ろしで構成されている。「月刊佐高」などと揶揄されるほど、佐高信には各雑誌に発表した文章を矢継ぎ早に本にする傾向がある。それに対してあれこれ言うつもりはないけれど、本書にほとんど同じ文章が掲載されるというのはどんなものか(P148とP217)。藤沢周平の業界紙時代のことを著者自身同じように 業界誌で働いていた思い出とともに綴ったもので、内容はとてもいいのに、2度目になると嫌みになってしまう。編集にもう少し気をつかってもらいたいものである。
 藤沢周平の視線については共鳴できる。これまで名前だけしか知らなかった作家であるが、今度じっくり読んでみたい。

     ◇

2000/03/13

 「お洋服クロニクル」(中野翠/中央公論新社)

 毎日のように書店に寄って、立ち読みするのが趣味の一つとなっている。興味の対象はけっこう広く、各コーナーを歩きまわるけれど、昔から絶対に手に取らない書籍(雑誌)というものがある。
 SM雑誌、ロリコン雑誌、ファッション誌である。SMは単に恥ずかしいから、ロリコンはもともと興味がなかったところに、娘がそういう年齢になってきて、よけい嫌悪するようになった。ファッションも全くの対象外で、夢中になって読むということがない。学生の頃から「ポパイ」や「ホットドッグプレス」は関係ない読み物だった。
 それからすると本書も興味の対象外と言えるものなのだが著者が中野翠だとそうもいかない。(いつも図書館から借りていて、中野翠のファンと言えるかどうかわからないが)
 ファッションによる年代記というところに興味をそそられた。

 1953年から1989年までのファッションをとりあげている。見方を変えれば中野翠のファッションを俎上に語られる自分史ということだ。年代別に著者自身の得意なイラストが載っていて、その時代のファッションがどんなものであったか、一目でわかるようになっている。
 中野翠は団塊の世代であるから、僕より一回り以上年齢が上なのであるが、不思議と原体験が似ているのはどうしてなのだろうか。
 昭和30年代までは日本のどこも同じ風景、風俗だったということか。

 60年代から70年代にかけての部分がやはり一番興味がある。
 笑ってしまったのは70年代のファッション(ベルボトムジーンズ)が復活するとは思わなかったと書いているところで、これは僕も同じ思い。60年代のファッションって、今みてもオシャレで、センスの良さ、普遍性というものを感じる。しかし70年代のそれは当時への思い入れが人一倍あるにもかかわらず、ファッションはあくまでも一過性のものという認識が強い。だから、もし70年代ファッションがリバイバルしても僕自身は絶対身につけないと心に誓ったのだ。(今の若い人は70年代ファッションのどこに惹かれるのだろうか?)

 パンストにハイヒールというコンサバティブなファッションが女の定形ファッションであり、中野翠は着たくないと書いている。ハイヒールはともかくスカートにパンストというのは男のすけべ心を刺激する必須アイテムで、女に生まれてきたからには身につけてほしいものである。生足は嫌いだ!
 冗談はともかく、サンデー毎日連載の連載をまとめた時事コラム集同様大変面白く読めた。




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プロフィール

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Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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