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2002/02/08

 「金曜時代劇 逃亡」(NHK)  

 NHK金曜時代劇の枠ではけっこう意欲的で斬新な時代劇を放映している。  
 「茂七の事件簿ふしぎ草紙」「山田風太郎のからくり事件帖」と民放ではお目にかかれない異色時代劇が続いている。  
 今回は何といっても久々の市川崑監修・演出による時代劇ということで、昨年から今か今かと待ち望んでいた。  
 シリーズの監修は「丹下左膳」以来のことではないだろうか。  

 「水戸黄門」がビデオ収録になってからというもの、時代劇もビデオが当たり前のような感覚になってきている。  
 市川監督は何年か前テレビ東京で放映された新春スペシャルで「赤西蠣太」をビデオで撮っている。伊丹万作作品のリメイクで、市川流の陰影のある映像作りがビデオ特有の鮮明すぎる画像をまったく意識させず、ビデオによる時代劇の可能性を感じさせてくれた。  
 全6話のうち、同日に放映された1、2話が市川崑演出。3話は市川監督の助監督から「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」でデビューした手塚昌明、4話~最終話を東映出身の関本郁夫が担当した。    

 オープニングのタイトル模様(様々な色の幅広線が交叉するところ)は、その色使いが以前の土曜ワイド劇場に似ていてちょっと興ざめ。それ以外は特太明朝体の文字の美しさに魅了された。題字まで書いている。  
 冒頭の火事シーンの迫力が特筆もの。スタッフのこの作品にかける意気込みが画面全体から漂っていた。
 市川崑の演出は相変わらず、光と影の使い方にこだわっていてうれしい限り。なおかつ「四十七人の刺客」以降(もしかするとそれ以前からかもしれない)時代劇では常套手段となった、少々強調された衣擦れの音がいい。今やトレードマークとなった感のある、〈人物が部屋を出る際、ふすまを閉めると着物のそでがはさまり、一瞬の間の後に引っこ抜く〉カット。今回も早々に挿入されていた。  
 弟子の手塚昌明も師匠ゆずりの陰影のある凝った映像を見せてくれた。  

 原作は松本清張。清張の作品はかなり読んでいるつもりだが、「逃亡」という作品は初めて知るタイトルだ。  
 ワルの岡っ引き(宅麻伸)の罠で脱獄囚の濡れ衣をきせられた若者(上川隆也)の孤独な逃亡生活。執念深い敵の追求をかわしながらやがて無実を証明し、逃亡中に出会った女性と結ばれるというストーリーだ。
 岡っ引きの女房(原田美枝子)、その下女(浅丘ルリ子)、若者の逃亡を手助けする番人(井川比佐志)のほか、石橋蓮司、神山繁と豪華で芸達者な役者陣。ナレーターは小沢昭一。  

 わくわくする布陣なのであるが、ドラマはいまいちだった。  
 あまりにご都合主義が目についた。  
 たとえば、第一話。賭博で牢送りになった主人公が江戸の大火により一時解放しとなって、翌朝までに指定場所(回向院)に戻らなければ死罪となる。回向院に向う道中で女を暴漢から助けるのだが、女は夜道が怖いので家まで送ってほしいという。主人公は仕方なく送ってやるのだが、この場所が回向院の目と鼻の先なのだ。だったら、これこれしかじかと理由を話して、役人にお願いした方が女を無事に送ることができるだろうに。
 恋人を岡っ引きに手ごめにされたところへ主人公が帰ってくるシーン。主人公は恋人と岡っ引きが合意の上で結ばれたと勘違いして「裏切りやがったな」とののしるのだが、どう見たって恋人の様子はそうは見えない。
 恋人が入水自殺を図り、義父兄に助けられるくだりはちょっと納得できなかった。
 等々、少々シナリオに難がある。
 あるいは原田美枝子の台詞で「他人事」を「たにんごと」と言うのを聞いてしらけてしまった。「ひとごと」でしょう。現代劇なら許せることも時代劇となるとありえないことだから困ったことになってしまう。

 このドラマで一番注目したのは宅麻伸の悪役ぶりだった。 きつい目つき、ドスを利かせた声。竹内力ばりの迫力だ。ここのところあまりTVドラマで目にしなくなっていたが、演技の幅を広げて新しい悪の魅力を発揮するのか。今後は悪役・宅麻伸に目が離せない。

     ◇

2002/02/09

 「地獄の黙示録 特別完全版」(日比谷スカラ座)  

 フランシス・フォード・コッポラ監督の超大作「地獄の黙示録」が日本で公開されたときのメディアの騒動を昨日のことのように憶えている。  
 当時は「キネマ旬報」を毎号購入していたから、「ゴッドファーザー」の大ヒットを放ったコッポラ監督がフィリピンでベトナム戦争を題材にしたとてつもない規模の映画を撮っているニュースは断片的に伝わってきていた。
 天候不順による製作の遅延、資金難、主演のマーロン・ブランドとコッポラの確執等々。もし自分が倒れたら、このビッグプロジェクトは脚本のジョン・ミリアスが後を引き継ぐ、なんていうコッポラ自身の言葉もどこかで引用されていた。  

 カンヌ映画祭でグランプリを受賞し、大いなる期待感の中その全貌を現した「地獄の黙示録」は、しかしあまり芳しい評価をされなかった。映像の迫力は認めつつもラストの主人公とカーツ大佐の哲学的な問答、続くカーツ暗殺と王国の住民たちによる牛の首をナタで真っ二つに切る儀式のモンタージュによる比喩がありきたりであるというところに批判が集中していたように思う。  
 ラストは2種類用意されていて、カーツを暗殺した主人公が静かにボートで去っていく公開バージョンのほかに、王国が大爆破されるものもあるのだと噂された。  

 結局僕はロードショーされた「地獄の黙示録」を観なかった。「キネマ旬報」等の識者たちの批評を読んで観る気が失せたということもあるのだろうが、ベトナム戦争について門外漢の僕がアレコレ考えるのも面倒だとの気持ちがあったと思う。本当のところは自分でもよくわからない。ホント、なぜ観なかったのだろう?  
 今となっては観なかったことが悔やまれる。50分強の未公開シーンを追加した特別完全版を現在観る気持ちがあるなら、なおさら当時観るべきだった。  
 湾岸戦争、米同時テロ、アフガニスタン爆撃を目撃し、他人事と思えない現在、22年前の、自分とはまったく関係ない世界とタカをくくっていたとしても、ベトナム戦争が終結したばかりの当時と今現在とのこの映画に対する見方、考え方の違い、変化の比較ができたのだから。  

 21世紀を迎え、激動の1年を経験した後に「地獄の黙示録 特別完全版」を鑑賞できたことはとても意味があった。今だからこそこの映画の描く狂気がわかる。  

 ベトナム戦争が激しさを増していた時、サイゴンに駐屯していたウィラード大尉(マーティン・シーン)は軍の上層部から極秘裏に指令を受ける。軍の指揮下から逸脱しジャングルの奥地に原住民たちと独自の王国を建設したカーツ大佐(マーロン・ブランド)を暗殺せよ!  
 ウィラードは4人の部下を連れ哨戒艇で河を上っていく。行く先々で彼らが目撃したのはベトナム戦争の愚かな実態と狂気の様だった。  
 カーツ大佐を求めてボートでメコン河を上っていく模様はまさにジャングルクルーズのベトナム戦争版。こういうプロットって「ロスト・ワールド(失われた世界)」の昔から一つの定番になっているのだろうか。ボートに乗っていざ出発、という時の胸の高まりは何ともいえないものがある。  
 映画は観客がウィラードとともにボートの乗組員になって狂気を体験していく仕組みだ。だからビデオなどでなく、できるだけ大きなスクリーンで鑑賞した方がいい。  

 ウィラードが最初に目撃することになる狂気が、22年前も大変話題になった、何よりもサーフィンが大好きというキルゴア中佐(ロバート・デュバル)のシークエンスである。  
 ワーグナーの「ワルキューレの騎行」をスピーカーでがんがんかけまくりながら、ヘリコプターで村を爆撃していくシーンは映像的興奮を誘う。22年前も評判を呼んだし今回もそう思っていた。全然違った。爆撃の中を逃げ惑う、あるいは犠牲となるベトナム人が目に入ると映像的興奮なんて悠長なことは言ってられない。アフガンの誤爆を伝えるニュースとダブって正視できない自分がいた。まさに地獄絵図だった。  
 とはいえ、このシーン、CGやデジタル合成といった特殊撮影を施していないすべて実写であることに驚異する。その迫力たるや半端ではない。  
 空を飛ぶ無数のヘリコプター、発射される爆弾、着弾、そして爆破の連続。いったい何台のカメラを使用し、どれだけリハーサルを繰り返したのか。そういう純粋な映像製作への興味と、人間の、というか「アメリカの正義」をふりかざし、罪のない人間を殺戮するアメリカ人たちの愚かさを目の当たりにした苦痛で心は二つに引き裂かれそうだった。  

 この「ワルキューレの騎行」の音楽を使用して爆撃するシーンについて忘れられないことがある。
 ある「キネマ旬報」読者が「ワルキューレの騎行」が実際に太平洋戦争のニュース映画で使われていることを某新聞のコラムで知り、このシーンを賞賛した映画評論家に対し「もしそれが本当のことだったら、自己批判どころではない」と批判した。  
 この投書に当時キネ旬にコラムを連載していた小林信彦が噛み付いた。実際に使われていたからどうだというのか。そんなことはすでに自分の批評で指摘していること。日本のニュースはドイツの真似だからたぶん音楽も真似したのだろう。戦争に勝っている時の〈わくわくする気分〉を表現するにはあれ以上の音楽はない。他人のコラムの受け入りで、批判などするな。と、幼稚・短絡・もの知らず投書と切り捨てたのである。(「コラムは踊る」 92 1982年秋の憂鬱)  
 映画の見巧者にここまで言われて、この投書を書いた人はどうしたのだろうか。今回の特別完全版の公開で過去の悪夢を思い出したりしていないだろうか。余計な心配をしてしまう。  

 ウィラードの一行は、プレイメイトたちのよる軍慰問の騒動、フランス人植民地への彷徨い、現地人の弓矢や槍による攻撃、と数々の難関を通り抜け、仲間たちに犠牲をだしながら、王国にたどり着く。  
 カーツ大佐が現れると何やら禅問答のような、哲学の世界に入ってしまう。マーロン・ブランドは圧倒的な存在感を発揮するにもかかわらず観念の世界がどうにも居心地が悪い。  
 通常のアメリカ映画なら、このクライマックスで派手なアクションを展開させるだろう。せめてカーツ大佐とウィラード中尉のやるかやられるかというヒリヒリするような静かなサスペンスで盛り上げてもらいたいところだ。
 腑に落ちないのは、マーロン・ブランドとマーティン・シーンがまったく同画面に登場しないところである。たぶん別撮りされているのだろう。編集でうまく処理されているけれど二人の対峙による緊迫感が感じられない。これは以前も指摘されていたと思う。  
 とにかくコッポラとしてはクライマックスで観客にカタルシスを与えることを拒否した。ラストはカーツを殺し任務をまっとうした結果以外何ら答えをださず、観客にゆだねてしまった。
 その判断は間違いではなかったと、いまだに同じ愚行が繰り返されている21世紀の現在納得し、重い足取りで劇場を後にしたのだった。  

 3時間を超える上映時間が苦にならなかった。追加したシーンがまったく無駄ではなかった証拠である。


 【追記 】
 
 冒頭に登場する軍の上層部の一人に「スター・ウォーズ」で人気がブレイクしたハリソン・フォードが扮している。役名はルーカス大佐。この名前ってコッポラのお遊びなのだろうか?

     ◇

2002/02/14

 「千年の恋 ひかる源氏物語」(丸の内シャンゼリゼ)

「わが社の50周年記念映画は吉永小百合で源氏物語っていうのはどうかね」
「いいですねぇ、やっぱりうちの看板女優は吉永小百合ですよ。でも主役の光源氏、誰かいい役者いますか」
「天海祐希の光源氏っていうのはどうだい? 久々の男役。相手役はオールキャストの女優を並べてさ。女同士のラブシーン、ちょっと倒錯的な雰囲気がイケるんじゃない?」
「すると、吉永小百合は?」
「紫式部だよ、作者が生きる世界と作者が描く絵巻物の世界がドッキングする斬新なストーリー展開! 脚本は『夢千代日記』で吉永小百合の信頼も厚い早坂暁」
「いいですねぇ。いけますよ、その企画!」  

 てな感じで映画化が決定したのかなあ。プロデューサーの「してやったり」の笑顔が思い浮かぶ。
 確かに企画としては面白いと思う。天海祐希の光源氏という配役が光る。彼女と高島令子ら女優陣とのラブシーンも男のすけべ心を刺激する。
 主要なスタッフを見ても、一昨年、宝塚歌劇団の総出演の「源氏物語 あさきゆめみし」よりよっぽど映画らしい作りになるだろう。お正月映画の1本として観てもいいかなと思ったものの、結局とりやめてしまった。
 忙しかったためだけではない。僕のうちにある映画情報アンテナが「やめろやめろ」と警告音を発していたからだ。
 せめてタダなら……そんなことを考えていたら、運良く友人から向こう半年間の東映の株主優待券が送られてきた。うれしかったなあ。
 もうロードショーは終了してしまったけれど、平日にモーニングショーをやっていることを知り、早速有休をとって観てきた次第(別にこの映画のため有休をとったわけではないから、そこんとこお間違いなく)。

 現代の京都の街並みを空撮するオープニングから感じた違和感は、舞台が千年前に移動してからますます大きくなっていった。
 役者たちがいかに平安時代の貴族を熱演しようとも現代口語による芝居にまずなじめない。誰かが「不倫」なんて単語を使っていたけれど、平安の世に「不倫」なんて言葉があったのだろうか?  
 確かに豪華なセットだし、衣装もきらびやか、四季の美しさを狙ったロケ撮影も美しい。CGによって再現された京の街並みの全景も見応えがある。
 でも、スタッフの意気込み、それに応える役者に熱意が高まるほど、映像の中でのお話が空転してしまう気がしてならない。観ていて背中がこそばゆくなっていく。

 役者たちの層が薄すぎる。特に女優陣にその傾向が強い。常盤貴子や細川ふみえが登場するとTVのかくし芸大会のドラマかと思ってしまうのだ。森光子の清少納言なんて誰が見たいのだろうか。
 松田聖子が登場するにいたっては、スタッフが彼女に何を期待したのか、その真意が測りきれない。突然、空へ飛翔したかと思うと、現代感覚あふれる歌(ポップス)を歌いだす。そこだけ一時のミュージカルになって、それが数回繰り返される。
 光源氏の濡れ場も天海祐希の胸元は写せないから、決まりきった構図、女優の演技で逃げるしかない。女優たちはやはりある程度の貫禄があるからむやみに素肌を露出することがない。20年以上前と変わり映えしない濡れ場シーンの再現。しまいにはフラストレーションがたまってしまった。
 そのくせ、まだ十代になったかどうかの少女の、やっとふくらみかけた乳房は入浴シーンでちゃんと撮っていて、それがさして必要なカットと思えない。もしかしてこの監督ってロリコンなのか?

 脚本の早坂暁は以前も「北京原人 Who are you?」という怪作を書いているけれど、また同じ轍を踏んでしまったのか。企画に岡田〈赤頭巾ちゃん気をつけて〉裕介もクレジットされていることだし。
 いや本当に脚本家や監督が何が言いたくてこの映画を作ったのか理解できないのだ。女の自立? それにしては掘り下げが足りない。だいたい紫式部はそんな主題で「源氏物語」を書いたのだろうか? そもそも平安の時代に女性の自立を考える人たちがいたのだろうか。あまりにも現代的視点で見つめていないか。
 海外を意識したといっても、あまりに〈ゲイシャ・フジヤマ・ハラキリ〉の世界ではないか。  

 評価できるのは前述の特撮シーンと冨田勲の音楽くらい。お金払わなくて本当によかった。  

 ふと思ったのだけれど、今年の「日本アカデミー賞」の最優秀作にこの作品が選ばれるなんてことはないだろうね。




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Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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