2000/08/13

 「放送禁止歌」(森達也/デーブ・スペクター監修/解放出版社)

 昨年の5月、フジテレビで放送禁止歌を追及したドキュメンタリーが放送され、番組の中で当の禁止歌を流した、ということを知ったのは週刊文春の記事だった。
 文春の記事は代表的な放送禁止歌の何が放送コードにひっかかるかについて簡潔にまとめられていた。
 記事の中で特に注目したのは赤い鳥のヒットで有名になった「竹田の子守唄」に言及した部分。「竹田の子守唄」の歌詞にでてくる〈在所〉という言葉が部落をさしていて、それが放送コードに触れると書かれてあった。

 「竹田の子守唄」が京都の同和地区の伝承歌だと知ったのはだいぶ前だが、歌そのものをレコード化できない、コンサートで勝手に歌うと同和団体からクレームが入る、ということを教えてくれたのは赤い鳥のリーダーで紙ふうせんになってからもずっと「竹田の子守唄」を歌い続けている後藤さんだった。
 確かに90年代になって赤い鳥のアルバムがCDで復刻されたが、同曲が収録されているものは発売される気配がない。驚いたのは同曲のメロディに別の詞をつけた「人生」が収録されているデビューアルバム「FRY WITH THE REDBIRDS」のCDがリリースされた際には何と「人生」だけがカットされていたことだった。

 転機になったのは一昨年だろうか。赤い鳥の全シングルを集めた2枚組のCD「赤い鳥シングルス」がリリースされ、これには「人生」も「竹田の子守唄」もちゃんと収録されていた。(ちなみに今年5月にリリースされた紙ふうせんの久々のアルバムにも新しい歌詞を追加し新録音した「竹田の子守唄」が入っていて、これは必聴)

 文春の記事の元ネタになったのが本書であり、著者はドキュメンタリー「放送禁止歌 唄っているのは誰? 規制するのは誰?」を企画・演出した森達也。番組のメイキングの形をとりながらより深く〈放送禁止歌〉に言及している。
 「手紙」(岡林信康)、「自衛隊に入ろう」(高田渡)、「黒いカバン」(泉谷しげる)「悲惨な戦い」(なぎら健壱)等々、懐かしい歌が登場してくる。
 北島三郎のデビュー曲が「ブンガチャ節」といって放送禁止歌だったというのを初めて知った。山平和彦の、そのものずばりの「放送禁止歌」の歌詞には衝撃を受けた。四字熟語を集めた漢字だらけの一見意味不明の歌詞に見えて、実は前の熟語を後の熟語が否定あるいは揶揄する内容になっている。

 思わず購入してしまったのは最後の第4章をまるまる「竹田の子守唄」研究に費やしていることによる。
 世に出ている〈フォークソング史〉〈フォークソング研究〉本では簡単に扱われてしまう赤い鳥や紙ふうせんが登場し、後藤さんに取材もしている。改めて本のオビを眺めるとそこには後藤さんの言葉が載っているのだ。

 赤い鳥、紙ふうせんファンの僕として著者の「竹田の子守唄」に対する認識には疑問を感じる。本書の中で赤い鳥が「竹田の子守唄」が同和問題に抵触することを知ってから歌わなくなったと書いているが、そんな事実はない。解散間際のライブアルバム「ミリオンピープル」ではしっかり歌われているし、紙ふうせんのセカンドアルバムにも収録されている。だいたい紙ふうせんのコンサートで「竹田の子守唄」が歌われなかったことはないのではないか。
 赤い鳥時代の「竹田の子守唄」のメインヴォーカルは新居潤子(現山本潤子)だった。解散後はハイファイセットとしてファッショナブルな都会風な楽曲しか歌わなくなった(と思う)のでそこらへんのことを聞き間違えて認識してしまったのではないだろうか。

 この章は著者が「竹田の子守唄」の発祥から採譜、レコード化、ヒットした後の状況といった背景を丹念に取材し、また、わかりづらい歌詞の解釈を試みる。
 圧巻なのはエピローグ、後藤さんに電話取材して、後藤さんの「竹田の子守唄」に対する態度、その言葉に胸が熱くなって涙を流すラストである。
「部落にはいい歌がたくさんあります。抑圧されればされるほど、その土地や人々の間で、僕らの心を打つ本当に素晴らしい歌が生まれるんです。歌とはそういうものです。僕はそう確信しています。でもそんな歌のほとんどに、今では誰も手をつけようとはしない。誰も見て見ないふりをしている。だからせめて僕くらいは、これからもそんな歌を発掘して、しっかりと歴史や背景も見つけながら、ライフワークとして歌いつづけてゆきたいと思っています」

 ここまで「竹田の子守唄」に迫った著者には、できることなら電話取材だけでなく、実際の紙ふうせんのライブに足を運んで生の「竹田の子守唄」を聴いて欲しい、と思う。
 ギター1本の伴奏と二人の絶妙なハーモニーよって醸し出される深遠な世界に圧倒されるに違いないからだ。


2000/08/17

 「メディア決闘録(ファイル)」(逢坂剛/小学館)

 「百舌」シリーズの作者がエッセイ集をだした。
 某TV情報誌に連載されていたエッセイをまとめたもので、著者の趣味である映画、ミステリ、古本、スペイン、フラメンコ、大ファンである阪神タイガースについて書き綴っている。

 気軽に楽しく読めて、1日で読了してしまった。
 母高OBたちが結成した〈瀬戸際壮年野球団〉の野球大会の模様が愉快で声をだして笑ってしまう。
 年をとって身体が動かない選手たちがヒットを打つたびに、審判の著者が「全力疾走するな!」と叫ぶ姿がたまらなくおかしい。結局皆が無理するので、しまいには全力疾走するとアウトになるルールができてしまう始末。
 うまくもないのに草野球のチームに所属している僕としても、ここのところ練習ですぐに息があがってしかたない。40歳でもこうなのだから、OBたちの試合の様子が頭に浮かんで、笑ってしまうのだ。
 恩師の引退にちなんでOBたちが母校に集合して最後の授業を催すエピソードは心暖まる。現役時代に早弁を得意としていた人が、授業の最中に弁当を取り出すと著者がちゃんと恩師に告げ口したりと、いくつになっても仲間が集まると当時と同じ感覚になるんだなあと共感し、そんな〈授業〉を企画するOBたちがうらやましくなった。

 ミステリの名作として名高いアイリッシュの「幻の女」に対して、視線がアンフェアだと指摘している。ずいぶん間に「幻の女」を読んでいるのだが、どこについて言っているのかわからない。もう一度読んでみようか。


2000/08/18

 「命」(柳美里/小学館)

 柳美里が苦手である。
 あくまでも個人的な趣味の問題で本人には全く罪がないのは承知のうえで書くのだが、デビュー以来彼女のマスクを見るだけでどうにも虫酸が走ってしょうがなかった。能面のような爬虫類的無表情さが生理的に受けつけないのだ。
 だから柳美里の作品についてもまったく関心がなかった。マスコミで話題になろうが、芥川賞を受賞しようが興味の対象外といった感じ。にもかかわらず本書を読んだのは単に友人に薦められたからという以外の理由はない。
 いや、「命」に著しく動揺させられた高橋源一郎が週刊朝日のコラムで否定した、というのを知ってちょっと内容を確かめたくなったということもあるのだろう。

 先に読破しなければいけない本があって、しばらく本書をツン読状態にしておいたら、本の存在に気づいたカミサンに「どうしたの、コレ?」と訊かれた。いつもTVや新聞の広告で柳美里の写真を発見するたびに嫌がって大騒ぎする亭主がよりによってベストセラーになっている本をもっていたのが不思議だったのだろう。借りた本だと答え、「読んでみる?」を訊くとなんとすでに読んでいたのだった。
 あまりにも出産、育児に対して神経質な著者を笑ってしまったという。何事も完璧にこなさなければいけないと思って、思いどおりにならないと悩んでしまう姿が滑稽だったと。一般人ならわかるけれど、柳美里みたいなある意味自由奔放に生きてきた女性がなぜマニュアルどおりに子育てしようとするのか不思議がる。
 で、こう結論づけた。
「なぜこの本が読者の共感を得るのか、ベストセラーになるのかわからない」
 自分のことを棚にあげたみたいで気がひけるが、カミサンとの結婚を含めた妊娠、出産前後には多大な苦労(なんてもんじゃないかもしれない)をかけたので、この疑問には一理あると思った。

 思い込みも偏見も持たずに素直に読んだつもりである。在日韓国人として彼女がどれだけつらい経験をしてきたか僕にはわからない。その経験が彼女の人格形成に影響を与えているのだろうが、それにしても妊娠してからの〈恋人〉との関係がどうしても僕には理解できなかった。
 妻のいる〈恋人〉を自分のものにする(愛人から正妻の座につく)ために妊娠を利用したのではないかと勘繰りたくなる。
 別に〈恋人〉の肩をもつつもりはない。本書を読む限り、この〈恋人〉は女たっらしで優柔不断のまったくもってひどい男なのだ。だからこそ、そんな誠意のかけらもみせない男にいつまでも未練たらたらなのはどうかと思う。男のことなんかすっぱりと忘れ、生れてくる子どもと自分の将来設計を考えればいいじゃないか。
 ところがもう会わないと言いながら沖縄へ一緒に旅行する、かと思うと認知を迫って慰謝料を請求する、相手の男も態度がコロコロ変わるから喧嘩、言い争いの毎日で、読んでいてうんざりしてくる。
 あなたの息子なのだから名前を考えてと懇願し、これはという名を男が提案してくると、字画が悪いからとあっさり否定してしまう(漢字一字をもらいはするけれど)。
 とにかく前半は男女の痴話喧嘩をみせられているみたいだった。
「あなたの世話にはなりません!」と啖呵をきってすっぱり別れることがなぜできないのだろうか。それが男女の仲ではないかと言われればそのとおりではあるのだけれど。
 出産後の生活もその計画を聞いていると何とも心もとない。そばに子どもがいると気が散ってモノが書けないという。だからベビーシッターなんて雇えない。24時間制の保育所に預けたい。じゃあその送り迎えはどうするのか、そんな時間をとれるのか。とれない……。
 子どもを育てることは何かを犠牲することだ。未婚で出産することは特にその感が強い。にもかかわらず彼女にその覚悟があるとは思えなかった。
 やがてくる〈公園デビュー〉が怖いだって。だったらしなきゃいいだろう!!  どうしてこんなどうでもいい小さなことにこだわるのか。

 柳美里の行動、思考に何かと反発してしまう僕だったが、末期癌の闘病生活を送るため、彼女と一緒に暮らす東由多加が彼女と子どもにつくす態度や含蓄のある言葉の数々は素直に受けとめることができた。
「生れてから3年間は子どものそばにいて愛情をそそいだほうがいい」
 〈三つ子の魂百まで〉の格言は伊達じゃない。
 また、本筋とは関係ない思い出話として語る、東が自身の劇団の研究生に本当の友だちが何人いるかを問い、ある実験をさせるエピソードが考えさせられた。困っている自分のために友だちがいますぐやってきてくれるかどうか電話をかけさせるのだ。友だちの数を誇る研究生が自信満々で電話するが各人理由があって来られない。誰一人来てくれない現状に東はそれみたことかと言い、研究生は泣き出してしまう。プリクラや携帯電話で友だちの数を競い合っている今の若い人たちはこの話をどう受けとめるのだろうか、と。

 本書はやはり僕にとって感動の書ではなかった。しかし読んだことで、柳美里の生き方に興味がわいてきた。共感というものとはほど遠いものではあるけれど、過去の作品をあたる気持ちになってきた。


2000/08/29

 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 「個と公」論』(小林よしのり/幻冬舎)

 大論争を巻き起こした「戦争論」に対する批判、反論を著者がメッタクタに切り捨てるインタビュー集。
 これも友人から借りた本。「戦争論」のリクエストに見当たらないからと続編ともいうべき本書を渡された。
 肝心の「戦争論」を読んでいないので僕自身の立場を明確にできないし、「戦争論」批判が的を射ているのかどうかもわからない。
 インタビュアーの時浦兼という人がくせものだ。「戦争論」批判の文章をかたっぱしから収集して、小林よしのりにご注進申し上げる、といった体。最初は無の状態で小林よしのりに接しながら、次第にキャラクターを発揮してくる。だんだんと小林よしのりが時浦兼の掌で踊らされているお山の大将のように思えてきてしかたなかった。
 確かに本書の中で罵倒される評論家、識者の方々の論理は〈お笑い〉もので、小林よしのりの論がみな正しく思える。が、「戦争論」批判の文章を読むとそこに登場してくる小林自身が滑稽に思えるのだから単純には断定できない。
 前半は痛快だったが、読み進むうち辟易してきた。オレ絶対正しい! ほかみんなダメ! の論理はまるで文化人、芸能人を罵倒するときの佐高信みたいだ。
 こういう態度をとる自信はどこからくるのだろうか。




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プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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