忙しくて全然ブログが書けない。
 仕事の日は帰ってくると疲れてPCを開く気になれない。
 休みの水、木曜は〈映画鑑賞の日〉で朝から外出、帰ってくるとこれまた疲れてPCには目をくれない。

 ブログって更新すればいいってものではないと考えている。
 意味のない文章を綴っても、それこそ意味がない。
 ツイッターで間に合うものをわざわざブログにUPする必要もない。別にツイッターはしていないけれど(BC二十世紀のツイッターを担当していて、イベント告知の文字数にあれこれ頭を悩ませてはいる)。

 単なる日記、出来事を羅列するだけなら簡単だろうが、そんなことはしたくない。エッセイ、コラムと紹介しているのだから、一応起承転結を考え、情報はきちんと丁寧に、感想もそれなりにとなると、けっこう手間がかかる。
 映画を観て、あれを書こうこれを記そうを考えていると日にちが経ってしまう。
 どうすんべ。

          * * *

2000/11/03

 「スキャンダルはお好き?」(砂守勝巳/毎日新聞社)

 〈写真で時代を読む〉というキャッチフレーズで創刊された写真週刊誌「フォーカス」は当初あまり売れず、同時期創刊の「ダ・カーポ」に差をつけられ低迷していた。仲間うちでも「ダ・カーポ」を購入する者はいたが「フォーカス」は皆無。キャッチフレーズが気に入って僕は毎週水曜日に購入していたのだけれど。
 当初各記事にあまりピンとくるものはなかったが、創刊と同時に連載が始まった藤原新也の「東京漂流」が面白く、これを読みたくて買っていたようなものである。
 その「東京漂流」があるとき大手スポンサーの広告を揶揄する内容を扱って大問題になり、あっけなく連載中止になってしまった。この件でもう「フォーカス」を買うことはなくなった。立ち読みですむからだ。

 しばらくして一気に「フォーカス」ブームがおとずれたことを身を持って知ることになる。発売日の水曜になるといたるところで「フォーカス」を手にする人を見かけるようになったのだ。電車に乗ると一車両中で「フォーカス」のページを開く人が3~4人はいただろうか。
 既成の雑誌のグラビアがみな「フォーカス」調になり、「フライデー」「エンマ」といった類似週刊誌が続々創刊されたりした(エロ系の「セクシーフォーカス」なんていうのもあったなあ)。
 この手の雑誌のメインは写真であり、かなりインパクトのあるものには瞠目したものの、僕自身はキャプションの方ばかり目がいっていたように思う。
 当然出版社所属あるいはフリーのカメラマンたちがスクープを狙ってしのぎを削っていたのだろうが、そんなこと全然気にしていなかった。

 本書は「フライデー」大阪支部で活躍したのち、後発の「フラッシュ」に移籍し、怒涛のスクープ合戦に巻き込まれたカメラマン砂守克巳による当時の回想録である。
 「フォーカス」がブームになってからというもの、この手の盗撮雑誌は各方面から非難を浴びていた。ところがスタッフの一員の立場からすると、どんなジャンルでもスクープをものにすればカメラマンや担当記者の社内的、業界的知名度が高くなる。スタッフはそんな喜びに浸りたくて、人道的に疑問を感じながら(感じてないかもしれないけれど)、狙った対象物に隠しカメラの焦点を当てる毎日を送るというわけだ。
 著者も〈あとがき〉で昔の行動を反省しているものの、回想の部分には、罪の意識なんてまったく出てこない。あったのはライバル(雑誌)を出し抜けたか、いい絵が撮れたかどうかという点である。

 豊田商事の永野会長刺殺事件のときはせっかく現場に立ち会えたのに、マンションの部屋に横たわる会長の惨殺死体を撮れなかったと、ライバルの「フォーカス」のそれと比較して悔しがる。
 横山ノックが個人事務所のマネージャーとできていると聞いて、ツーショットを狙って、何日もマンションの前で張り込みをする。
 著者の仕事への情熱は熱く、だからこそギャラはいいし、スタッフ内の評価も高い。もし僕が同じ立場だったら、同じ取材をされた自分の気持ちを考え、相手のクレームに耳を貸してしまいすぐにお払い箱になってしまうだろう。
 拘置所の三浦和義を撮った写真が話題になったときがある。著者が直接参加したわけではないが、その裏話、仕掛けを知ると何とも悲しくなる。ほとんどドッキリカメラの世界であり、あらかじめ手紙を出して親しくなった(タレント志望の)女性が小型カメラを仕込んだバックを持って三浦に面会しに行くのだ。こういうことを企画する会社が存在するのである。
 ラストを飾る日本の西の果て・西表島で愛人と二人でバカンスを楽しむ藤竜也を追いかけるエピソードも何もそこまでと思ってしまう。

 と書きながらも、僕はこういう雑誌の存在を否定できない。以前ほどではないけれど、火曜日「フラッシュ」、水曜「フォーカス」、金曜「フライデー」と、コンビ二で軽く立ち読みしているのだから。 そういえば、最近コンビニの棚に「フォーカス」をあまり見かけなくなった。売れていないのだろうか? 


2000/11/13

 「マスコミかジャーナリズムか」(本多勝一/朝日文庫)

 本多勝一に対しては愛憎相反した感情を抱いている。
 本多勝一の名前を知ったのは中学か高校時代である。当時は朝日新聞の花形記者としてルポルタージュの本を何冊も上梓しているというくらいイメージだった。〈権威主義〉の朝日新聞が大嫌いだったから、そこに所属する記者にも興味がなかったのだ。

 どういう経緯からかは忘れたが、30代になってから著作をあたるようになった。
 「子供たちの復讐」では客観的視点で、友だちもいない優等生として勉強以外に何もしてこなかった高校生の孤独をするどくえぐっていた。
 「日本語の作文技術」では数多い文章読本の中にあって、これほど論理的に形容詞や副詞の使い方、並べ方を述べ、的確にわかりやすい文章の書き方を記したものがあったろうかと目から鱗が落ちた思いがした。
 それとは逆に「文筆生活の方法」では大江健三郎を徹底的に攻撃する、その執拗な態度にげんなりした。
 かつて好評を博し、南京大虐殺の先鞭をつけたルポ「南京への道」の内容に対して文藝春秋が右寄り陣営によって反論キャンペーンを張ったことを根に持ち(恨みもしようが)、文春のすべてを否定するというのはどうか。

 あるいは彼の言葉に対する感性というものも僕にはよく理解できないものがある。
 朝日文庫の本多勝一シリーズにははじめに凡例が掲載されていて、本多独特の表記についての注意がされている。
 数字の表記が三桁法(西欧式)ではなく、四桁法(日本式)を採用するとか(10,000円ではなく1,0000円)、漢数字は排除する(三千七百六メートルではなく三七〇六メートル)とか。また外国人の名前の姓名を・ではなく=で分ける(ジョン・F・ケネディではなくジョン=F=ケネディ)とか。アメリカ合衆国の合衆国を合州国と表記するというのも、その理由がよくわからない。

 そういったこだわりがあるくせに〈ら抜き〉言葉になると、とたんに擁護派にまわるのだ。自分の故郷では昔から当たり前に使用していたということと受動態と能動態を端的に表わしているからという理由で。
 父親から小さいころからうるさく指摘されていたこともあって、高校時代から〈ら抜き〉言葉に対して敏感だった僕はあるときからそれが文法的な間違いではなく、耳障りな言葉として気になるようになった。個人的な問題といえばそれまでだけれど、そんな言葉を言葉のプロが平気に口にすることが何とも解せないところである。(論理的な文章を書くにはまったくそのとおりなのだけれど。)

 本多勝一のジャーナリズム論として「事実とは何か」「職業としてのジャーナリスト」「滅びゆくジャーナリズム」に続く4冊めになるという。別にジャーナリストになりたいと考えたこともないけれど、ジャーナリズムの文字が気になって「事実とは何か」以外は読んでいる。
 本書はジャーナリズムのあり方を識者と問う対談、鼎談や新聞労連の記者たちとの質疑応答が中心となっている。しかし僕には後半のマスコミへの不満を発散させたエッセイを面白かった。
 朝日新聞社の中でスターライターと思われた著者も<出る杭は打たれる>の法則ではないが、その活躍をかなり妬まれていたらしい。新聞社はくだらぬストレスでいっぱいという気持ちに嘘はないのだろう。
 上司にゴマすって出世するくだらない奴が新聞社にも存在するのも知った。
 「フォーカス」「フライデー」といったデバガメ写真誌に苦言を呈して、編集長や発行する出版社の社長自身を逆にデバガメしてはいかが、という提案には「スキャンダルはお好き」を読んだばかりだったので思わず笑ってっしまった。


2000/11/20

 「トンデモ本 女の世界」(と学会/メディアワークス/角川書店)

 面白くて声をたてて笑ってしまう本というのがある。その様が激しくてとても電車の中では読めないしろものだ。
 かつて「大映テレビの研究」を電車の中で読んでいたときは笑いをこらえるのに苦労した。一度声をだしたら止まらないだろうし、こらえればこらえるほど涙があふれてくる。以後この手の本は二度と外では読まないようにしている。
 そんな本はもうお目にかかれないだろうと思っていたら「トンデモ本の世界」がまさしくそんな本だった。
 トンデモ本とは本書でも説明されているが〈著者の意図とは違う視点で読むと、別の楽しみかたができる本である!〉。で、と学会は〈トンデモ本には目がない、トンデモ本のスーパーグルメたちが集まった団体である〉。

 ある雑誌で「トンデモ本の世界」が紹介されていて、興味を持った。けれど、買うほどでもない。そんなときに図書館で見つけハマってしまった。続編も笑いましたよ。その後、何冊か上梓されているけれど、図書館で見つけることがなくしばらくご無沙汰していた。ノストラダムスの研究本を特集している本はリクエストしてでも読みたいと思っている(だったら買えばいいのにと思うでしょ? 買いません)。

 「女の世界」と銘打っているとおり、女性向けに書かれたトンデモ本を項目別に取り上げている。
 女の磨き方、ダイエット方法、スーパーウーマンをめざす、趣味、麗しき生活、恋愛の秘訣。
 三家湍津という霊能者の「前世霊と善玉!悪魂!」が傑作だ。著者が自動書記したでたらめな歴史に対すると学会員・裨田おん まゆらのチャチャにまたまた大声で反応してしまった。これが会社の昼食時間で同じテーブルには部の若い女の子たちがいたからたまらない。「新井さんが狂った!」とそりゃ、もう大騒ぎ。
 どこが面白かったか、彼女らに読んで聞かせたらちっとも笑わない。それのどこが面白いのってな顔をされた。世代の違いを実感した。

 思うに、トンデモ本のそれぞれを読んでも(もしかしたら)笑えないかもしれない。というのは、本書で取り上げられた「男と女の進化論」(竹内久美子)は数年前に読んでいるのだが、男女の関係を遺伝子というキーワードで語っているこの本にけっこう感銘を受けたのだった。もちろん本書では笑いのネタになっている。
 たぶんにと学会員たちの本に対する見方、論じるときの切り口が斬新で愉快なのだろう。本書では裨田おん まゆらのほかに植木不等式、立川談之助の文章には笑い転げた。
 注目すべきトンデモ本は「慶応幼稚舎合格バイブル」(西野浩史)、「月14万円で夫婦2人が暮らす法」(吉田浩)、「女房が呉れたノーベル賞」(高岡洋五)。


2000/11/24

 「大人のための残酷童話」(倉橋由美子/新潮文庫)

 学生時代、僕の意識の中で倉橋由美子は女流作家の別格に位置していた。ある種の憧れとでもいおうか。一冊も著作を読んだことがないにもかかわらず、前衛的な作品を知るたびに美形で知的なちょっとすました女性を思い描いた。
 もう一つ、由美子という名前に反応していたところがある。もし僕に妹がいたら由美子になっていたからなんだけれど。

 そんな倉橋由美子が本書のような童話を書いていたとは知らなかった。友人からもらった文庫本だ。
 一時、子ども用に書き直された童話が本当はどういうものか紹介した本が流行した。
 本書もそれに影響されて書かれたものだろうと奥付をみると何と1982年に「波」に連載されたものだった。さすが倉橋由美子!

 〈古いお伽話に倣って、論理的で残酷な超現実的な世界を必要にして十分な骨と筋肉だけの文章で書〉いた童話は作者のいうとおり救いのない話ばかりだ。
 最初の「人魚の涙」に登場する人魚なんて上半身が魚で下半身が人間なんだもの。半魚人じゃないか、これじゃ!自分の読み間違えだと思った。想像を絶するラストのあとに、「イソップ寓話集」に倣った教訓が〈人は下半身には恋しないものです〉。
 古今東西の童話、昔話を換骨奪胎していて、たとえば有名な「かぐや姫」のラストはまるで映画「ザ・フライ2」だ。まざまざとその状況が頭に浮かび悪寒が走った。「異説かちかち山」は人間の残虐さを思い知った。
 イギリス童話「世界の果ての井戸」とグリム童話「蛙の王子」を一つにして書かれた「世界の果ての泉」なんてよくぞこういう話にできるものだと、気持ち悪さをとおり越して逆に感心したりする。
 収録されている26の掌編はそんなわけで面白楽しく読めたのだけど、絶対子どもには読ませたくない。




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プロフィール

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Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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