2000/12/02

 「絆 不肖の息子から不肖の息子たちへ」(石ノ森章太郎/NTT出版)

 少年マンガ出身の漫画家は60歳までしか生きられないのかと真剣に悩んだことがある。
 手塚治虫が逝ったとき、年齢を詐称していた氏の生年が大正15年ではなく、本当は昭和3年生まれだと知り、60歳はあまりに若いじゃないかと嘆いた。
 藤子・F・不二雄が亡くなられたとき、年齢がやはり60歳(だったと思う)だったことを知り、二人の享年の一致が偶然にしても、漫画家の健康面を心配しないわけにはいかなかった。
 人気作家としてずっとトップにいるというのは、すなわち数々の連載を抱え不休不眠の不規則な生活が続くということであり、身体を酷使していることにほかならない。
 石森章太郎(どうも石ノ森というのは好きになれない、改姓しようがどうしようと僕にとっては永遠に石森章太郎なのだ)の訃報に接したとき、その思いを強くした。手塚亡き後、日本漫画界をしょって、ずっと生きていくのだろうと思っていた石森章太郎が病に倒れるなどまったく想像できなかった。

 子どものころ、僕が最初になりたかったのは野球選手だった。続いて宇宙飛行士。そして漫画家が憧れの職業にとって代わった。少年ジャンプ、少年チャンピオンが創刊されたころだ。
 当時ジャンプは投稿作品に一番力を入れていて、それに影響された僕はマンガ入門書を買ってきては、机の上をケント紙、ペン、羽箒、定規などマンガを描く道具でいっぱいにして悦に入っていた(それで満足してしまって一枚もマンガを描き上げなかったのだけれど)。
 そんな入門書の一つが石森章太郎の正続2冊の「マンガ家入門」で、何度も読んだものだった。
 「マンガ家入門」ではマンガをどう描くかということより、漫画家になるまでの半生記の部分が興味深く、これで今では伝説の少年誌「漫画少年」を知り、新漫画党を知り、トキワ荘グループを知った。

 思えば僕は石森章太郎が好きなわりに石森マンガに熱中したことがなかった。かつてTVアニメ「サイボーグ009」に夢中になったにもかかわらずコミックスを買い集めはしなかった。
 「仮面ライダー」以降、その手のヒーローものを連発したときは逆に安易なネーミング(「ゴレンジャー」「キョーダイン」「イナズマン」etc)に辟易していた。「HOTEL」は「ビックコミック」が発売されるたびに読んでいたが、コミックスを買うことはなかった。
 にもかかわらず、彼のマンガ入門書の類は必ず購入していた。あとは豪華本の「JUN」、トキワ荘の青春を綴った「章説・トキワ荘・春」、アマチュア時代の作品を集めた画集くらいだろうか。

 「石森マンガ教室」はマンガによる入門書で、野球のチーム(監督、選手9名)からサイボーグ009を思いつき、ストーリーを考え、下書きし、ペン入れをする部分にとても興奮した覚えがある。
 「石森マンガ教室」と同じ手法で描かれたのが「まんが研究会」だ。主人公のデカ、チビ兄弟と学生時代にいっしょに同人誌「墨汁一滴」を編集していた仲間たち(赤塚不二夫、横田徳男、長谷邦夫、高井研一郎)の名をパロった少年たちが近所に住む石森先生にマンガの描き方の極意を伝授される内容で、教えを受けて彼らが最後に描きあげたとんでもない作品群をゲラゲラ笑いながら読むのが小学生のふたりの息子たちだった。
 「マンガ家入門」の中に私生活に触れた文章があって、長男が誕生し「009」の島村ジョーから「丈」と名づけたとあり、その子がこんなに大きくなったのかとこのくだりを読みながら思ったものだ。
 後年「HOTEL」のTVドラマ化に際しホテルマンとしてレギュラーになった小野寺丈を見たときは感慨深かった。
 次男の小野寺章は最近「仮面ライダークウガ」のクレジットタイトル(スーパーバイザー)でお馴染みになった。

 大病を患い、死期を悟った石森章太郎が人生を振り返り、そんなふたりの息子に宛てた遺書ともいうべき「絆 不肖の息子から不肖の息子たちへ」が刊行されたのは知っていた。しかし一度も書店で目にしたことはなかった。やっと図書館でめぐりあえたというわけである。

 冒頭からまさに遺書そのものといった感じで、そこには死を意識し人生を達観してしまった石森章太郎がいた。残された人生をどう生きるか。ライフワークの「サイボーグ009」完結編である「天使編」を描き上げるとあるが結局着手できなかったのは残念で仕方ない。
 これも「マンガ家入門」の半生記で触れられている最初に訪れたスランプを打破するために企画した世界一周旅行。本書であのとき旅行から帰ってきたら漫画家を廃業し、小説家か映画監督になるつもりだったと書かれていたのには驚いた。「仮面ライダー」のあるエピソードを監督したときはさぞ思い入れがあったことだろう(実際この回はよく出来ていた)。

 早死にしてしまった姉の思い出やトキワ荘時代の回想など、さまざまなことが語られる中で、これまであまり語られなかった父との関係について注目した。
 〈インテリの上に見栄えがする〉父親とずんぐりむっくりで背が低いコンプレックスの塊だった著者とはある種の断絶があったらしい。
 大学を卒業し、地元の公務員にでもなってほしいと望んだ両親の反対を押し切って、高卒で(当時としては得体の知れなかった)漫画家になってしまった著者にはその後どんなに売れっ子になろうとも忸怩たる気持ちがあったのだろうか。それはともかく、大学に行けなかったことへのコンプレックスは文章のはしはしから感じることができた。これは意外だった。

 著者があるとき父親から読書を禁止されたエピソードにはびっくりした。小学生の高学年のときに本の読みすぎで、宇宙の果てとは何かを考えたら怖くて眠れなくなり心配した父親から本を読むのをやめたらどうかと言われた。
 僕も同じ経験がある。社会人になってからのことだがノイローゼになって会社をやめるはめになったとき、電車の中でそれでも本を読もうとする僕に対して父が言った言葉を思い出した。
 いつも無言だった厳父と理解しあえたのは亡くなるほんの数年前だったという。

 後半、ふたりの息子、とりわけ何をやりたいのかわからずブラブラしている次男に対して自身の青春時代と照らし合わせながらやさしく人生を説く父親としての姿に春の日差しのような暖かさを感じた。
 小野寺丈が「ウルトラマンダイナ」のレギュラーに決まったときはわがことのように喜び、病室でかかさず番組を見て助言を与えていたという。最終回における彼の胸を打つ長台詞をぜひ見せたかった。最終決戦の前に今は亡き父の思い出を語り、主人公を励ますナカジマ隊員を好演していたのだ。

 巻末の息子たちの父の思い出、特にその死の前後について語る対談は涙がめじりにたまって仕方なかった。
 

2000/12/05

 「マンガで育って60年」(辻真先/東京新聞出版局)

 辻真先の名前は小さいときからお馴染みのものだった。TVアニメにチャンネルを合わせれば必ずといっていいほど脚本にその名がクレジットされていたからだ。
 昔よく目にしたアニメのシナリオライターといったら辻真先のほかに雪室俊一、城山昇がいた。って、この三人、人気TVアニメ「サザエさん」のメインライターなのであった。

 その辻真先がいつのまにかシナリオ稼業から足を洗い、ミステリ作家に転進していた。
 またこの数年に、NHKに入社してディレクターとして活躍していたTV創成期時代を回顧した「テレビ疾風怒濤」、自身がシナリオを担当したかつてTVアニメについての思い出話に花を咲かせた「TVアニメ青春期」(未読)なども上梓している。
 この「マンガで育って60年」もその手の一冊である。

 昭和10年代はじめマンガ家になろうと決心した著者は、ディズニーの「シリーシンフォニーシリーズ」に感動して一生で一本でいいからアニメの仕事をしたいと念願し、TVディレクターからシナリオライターに転身、書いたシナリオは1,500本以上というから驚く。
 「鉄腕アトム」「エイトマン」「サイボーグ009」「巨人の星」……。かつて夢中で見たアニメにほとんど関わっているのではないか。

 そんな著者のことだからマンガに造詣が深いことは容易に想像できるけれど、これほどまで好きだったとは驚きだ。
 子ども時代の岡本一平から始まって、一緒に仕事をすることになる手塚治虫、石森章太郎、原作者の位置づけで梶原一騎、小池一夫、竹宮恵子ら花の28年組女流マンガ家たち、そして岡野玲子と、こんな人まで注目しているの、とマンガに対する興味の貪欲さにただただ脱帽するばかりで〈マンガ作品へのラブレター〉とはまさにいい得て妙である。
 
 
2000/12/12

 「書かれなかった戦争論」(山中恒・山中典子/勁草書房)

 小学生のころは太平洋戦争なんてはるか昔の出来事だった。終戦が昭和20年、僕が生れたのが昭和34年。14年の年月がずいぶん昔に感じられた。
 20歳を過ぎてあっというまに30歳になり、これまた瞬時のごとく不惑をむかえてしまった。今の年から見れば14年前なんてつい最近である(チェルノブイリの原発事故がちょうど14年前)。
 そんなわけで、あの戦争が身近に感じるようになった。
 これまでリアルタイムで戦争を意識したのはベトナム戦争と湾岸戦争だった。といっても、あくまでも海のむこうの話であり、実体験としてはまったくない。そんな僕に戦争を語る資格なんてない。体験者の話に耳をかたむけるしかない。

 本書を図書館の棚で見つけたとき、てっきり小林よしのりの「戦争論」に対する山中夫婦なりの批判書だと思った。読み始めて「間違いだらけの少年H」の続編的意味合いを持つものだとわかった。
 「間違いだらけの少年H」で山中恒は再三〈あの戦争を太平洋戦争だけに限定するのはおかしい。日中戦争も含まないとなぜ日本が戦争をはじめたのかわからなくなる。「少年H」がまったく日中戦争に触れてないのはおかしい〉と書いていた。「書かれなかった戦争」はそれに関する山中夫婦なりの回答書というべきものだ。

 太平洋戦争はその昔大東亜戦争と呼ばれた。大東亜戦争とは大東亜共栄圏・大東亜新秩序建設のための聖戦のことで、戦後アメリカ占領軍がこの呼称を禁止、太平洋戦争を強制したとある。今、大東亜などと聞くと大時代的な古臭いイメージがあるが、なんのことはないこれもアメリカからの押しつけだったわけだ。

 全編にわたってわかりやすくあの時代の戦争を解説している。数々の資料をかみくだいて読みやすくして提供する。
 にもかかわらず僕にはそれでもむずかしい漢字が多く途中から読むのが苦痛になってきた。「少年H」への批判も前半だけで、それが僕の下世話な好奇心を満たしてくれない。後半はただ字面を追うだけ。
 ただ一つだけ理解できたのは森首相は当時の教えをちゃんと守り、今でも実践しているのだ、ということ。
 



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Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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