一昨日、談四楼閣師匠のツイッタ―で左談次師匠の逝去を知った。がん闘病は知っていたし、18日の日曜ぶらり寄席終演後の懇親会で寸志さんから現況を聞いていたのでショックはなかった。とはいえ、昨日の朝日新聞の訃報記事に67歳とあって寂しくなった。
 合掌

          * * *


2001/01/04

 「伝 日本映画の黄金時代」(児井英生/文藝春秋)

 児井英生。コイエイセイと読む。日活の「渡り鳥」シリーズなどのヒット作のほか、東宝、新東宝、日活と渡る歩き多数の作品を手がけた有名なプロデューサーである。
 なんてことは本書を読むまでまったく知らなかった。
 単にタイトルに惹かれ読みはじめたのだが、いいとこの生れの著者が人脈、金脈に恵まれ日本映画界を颯爽と駆け抜けていく姿はうらやましいの一言。
 これまでも日本映画の歴史、特にその黄金時代(昭和30年前後)についてはいくつものの著作で聞きかじってはいる。が、一プロデューサーの目から自分が製作に関与した今では忘れられてしまった作品群とともに具体的に語られると評論家のそれより鮮やかに当時が思い浮かべられる。

 著者は松竹で助監督から出発した。掲載されている当時の写真には後に「ゴジラ」の特撮で海外でも知られるようになる円谷英二が見える。京都でカメラマンをやっていたのだ。
 〈作品はプロデューサーのもの〉と考える著者はまだプロデューサーシステムが確立していなかった会社の中でプロデューサーになるための勉強をしはじめる。新生日活に引き抜かれ、その後マキノプロ、東宝、新東宝でヒット作を手がけ、児井プロを設立するに至る。

 とにかく売れる映画を心がけたという。
 文芸モノからエンタテインメントまで彼の守備範囲は広く、プロデュース作品の中でヒットしなかったのは溝口健二監督の「西鶴一代女」くらいというから、まるで〈日本のロジャー・コーマン〉と呼べるような存在である。その唯一赤字になった「西鶴一代女」にしても海外の映画賞を受賞して世界に「ミゾグチ」の名を知らしめたのだから大したものだと思う。

 新東宝時代には市川崑のデビュー作「三百六十五夜」をプロデュースしている。
 また、「憲兵」という映画にはバレーダンサー出身の新人中山昭二を起用とある。中山昭二といえば僕ら世代には「ウルトラセブン」のキリヤマ隊長として有名な俳優だ。あのキリヤマがバレエダンサーだったとは!
 「野獣看護婦」では当時大人気の鶴田浩二を300万円のギャラで1日だけ起用して話題をまいた、というか批判された。今でいうと一体いくらになるのか。3,000万円はくだらないはずでそれでも24時間フルに使って鶴田がらみのシーンを撮影。完成した映画では単なるゲスト出演ではなくちゃんと映画の要所をしめる存在になっていて、映画も大ヒット、元をとったというからこれまたすごい。

 プロデューサーの仕事は金の計算も必要だが宣伝をどうするか、ということでも手腕を発揮しなければならない。著者はこの分野でもメディアを巻き込み、無料で宣伝して映画のヒットに結びつけてしまう。そんなエピソードいくつも語られている。
 昭和40年代はじめの怪獣ブームのときは大映の「ガメラ」に対抗し、むこうが空飛ぶカメのお化けならこちらは原始怪獣化した河童だとばかりに「大巨獣ガッパ」を製作。これも外貨を稼いだとのこと。

 〈映画はプロデューサーのもの〉を実践してみせたのは鈴木清順を監督に起用した作品に現われている。
 清順作品はそのあまりに突飛な様式美で一部に熱狂的なファンがいたものの、ヒットしない。ところが著者がプロデュースした作品だけはヒットし、「好きな作品はヒットせず、どうでもいいものがヒットする」と鈴木清順を嘆かせたというのだ。一般大衆に受けるにはどうすればいいか、著者にわかっていて作品作りに自分の意見を主張した結果だろう。

 深くうなずいたのは日本が世界に誇る名監督、小津安二郎と溝口健二を比較した文章についてだ。著者自身と二人の監督との関係、一緒に映画製作を経験してのことだから言葉に重みがある。
 溝口監督はわがままで権威に弱いという。人間で一番イヤなタイプ。役者に演技をつけない。悩んだ役者がどうすればいいのか訊いても「演技するのが役者の領分でしょう」といっさい助言などしないのだ。
 ある作品で家並みのセットを作った。監督がやってきて「下手の家並みを一間前に出せ」という。それはほんのワンシーンのためのセットで映画の中でさほど重要ではない。助監督は仕方なく嫌がる大道具のスタッフに頭を下げて徹夜で作り直させた。翌日、セットを見て監督が言うには「上手の家並みを1間下げろ」。下手を前に出して上手を後ろに下げるということは何のことはない、元に戻せということ。助監督は激怒して帰ってしまったという。
 また映画で使われた道具を内緒で自分のものにしてしまったり、自分の生活費の一部を映画の製作費から支払わせていたなんてこともあったらしい。

 スタッフに嫌われていた溝口監督に比べ、小津監督は人柄もよく、スタッフに慕われていたというのだ。
 昔、新藤兼人が師匠である溝口監督のドキュメンタリーを作ったり、その関係の書籍、田中絹代の伝記を上梓し、僕も読みふけって溝口監督の人間性に疑問をもったものだ。どうして誰も何も言わないのだろうと不思議だったのだが、やっぱり嫌われていたわけだ。人間と作品は別物だけど。
 名女優・田中絹代を映画監督にしたのも著者だと知った。この田中を監督に起用する際、溝口監督がなんとかそれを阻止しようとするくだりも面白い(と言っていいのかどうか)。
 無国籍映画として有名な小林旭主演の「渡り鳥」シリーズの原作がなぜ衆議員議員・原健三郎なのか、の疑問も氷解する。著者と原とは早稲田大学の同期で、新企画の映画への協力を著者が原にあおいだというのが真相。別に嘘というわけではない。

 映画産業が斜陽化し、日活の屋台骨も揺るぎだしたころ、著者はヒットを狙い「女浮世風呂」「ある色魔の告発 色欲の果て」「秘帳女浮世草子」なる映画をプロデュースしている。これが後の日活ロマンポルノのプロトタイプとも言える作品なのである。
 文芸、アクション、特撮そしてポルノ。日本映画の勃興から黄金時代を経てやがて斜陽をむかえるまでにまさにさまざまなジャンルの映画を生み出してきた男の伝記なのだった。



2001/01/13

 「みんな日活アクションが好きだった」(大木英治/廣済堂出版)

 児井英生の「伝 日本映画の黄金時代」を読んで、昭和30年代の日活映画全盛時代をもっと詳しく知りたいと思っていたところ本書を見つけた。
 石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、赤木圭一郎らのダイアモンドブロックを支えたスターたちや吉永小百合、浅丘ルリ子、松原智恵子、和泉雅子ら女優陣。彼らを脇で盛り上げた金子信雄、芦田伸介、中原早苗らの名脇役。高橋英樹、渡哲也、原田良雄といった日活ニューアクションの遅れてきたスターたち。彼らの日活における足跡が綿密な取材によってあますことなく活写されている。

 何度も書いているが僕は日活アクションの良さがわからない。
 昔、今のテレビ東京の土曜日夜に白井佳夫(元「キネマ旬報」編集長。この人が編集長を降ろされてからキネマ旬報がおもしろくなくなった)の解説で「日本映画名作劇場」なる番組があって何度も往年の日活映画を取り上げていた。石原裕次郎主演や小林旭のシリーズ。最初のうちは一応観ておかなければとチャンネルを合わせるのだが、始まって10分もすると作品世界にどうしても入っていけずいつもチャンネルを変えていた。
 ほとんどリアリティのない設定、背中がムズムズしてしまう気障な台詞についていけなかったのだ。
 僕にとって石原裕次郎は「太陽にほえろ!」のどす黒い顔をした太ったボスというイメージしかないし、小林旭は「昔の名前で出ています」「熱き心に」を歌う歌手という印象が強い(歌は好きだけど)。この二人よりもっと早く知ったのは宍戸錠で「ゲバゲバ90分」の出演するコメディアン、あるいは「どっきりカメラ」の司会者としてだった。

 裕次郎の足の長さは認めないわけにはいかないが、僕にはショーケン(萩原健一)や松田優作の方が何倍もかっこよかった。同じリアリティのなさでも優作の「遊戯」シリーズには虚構ゆえの本物志向があって、スクリーンの中の〈鳴海昌平〉に拍手喝采したものだった。
 ただ70年代が遥か昔に遠のいて、当時を知らない今の若い人たちが70年代の彼らの作品、たとえば「青春の蹉跌」や「傷だらけの天使」、「大都会PERT2」、「遊戯」シリーズを観たらどう思うのか。優作は惜しくも若くして亡くなってしまって今や伝説として一部の若い人たちの間で人気を誇っているけれど、今のショーケンや水谷豊がどう見られているか、ということを考えると僕が〈中年になってからの〉裕次郎や旭に感じるものと同じようなもんではないかとも思えるのである。
 もちろん個人的にあるいは世代としてどんなに彼らに影響を受けて、どれほど熱い思い入れがあるかとなると語りつくせるものではないのだが。あくまでも一般論の話として。

 小林信彦のコラムや小説で語られる日活アクション、特に小林旭や宍戸錠への思い入れは個人の嗜好だけの問題でないことが本書を読むことで理解できる。それほど当時の若者を熱狂させたのである。
 矢継ぎ早に公開される主演映画の製作システムはまるでSMAPのメンバー(あるいは人気女優)をとっかえひっかえドラマに主演させて視聴率を狙う今のTV局みたいだ。

 小林旭がいかにアクションに長けていたかということもわかった。
 赤木圭一郎の撮影所内で事故を起こす当時の描写もそれぞれの俳優たち、スタッフの視点で詳細を極めた。
ゴーカートを売り込みに来た営業マンはどんな気持ちで赤木の死を見守ったのだろうか。
 あまり 語られることのなかった「日活ニューアクションのスターたち」の章も興味深い。渡哲也-原田芳雄-松田優作のラインがこれでつながった。

 ラストに登場してくる「八月の濡れた砂」は思い出深い。
 高校3年時、学園祭を盛り上げるため生徒会長からの依頼で休部状態だった映画研究部の部長に就任した僕は視聴覚室で上映する映画を個人的に当時幻の青春映画だった「八月の濡れた砂」に決めた。
 ロマンポルノで有名な日活の、それもタイトルに〈濡れた〉なんて意味深な言葉が入っているもんだから、男子生徒(男子校だからあたりまえか)が騒いだ、騒いだ!

 大下英治のいわゆる〈ドキュメント小説〉と呼ばれる著作はこれまでも何冊か読んでいる。東映のキャラクタービジネスの歴史を追ったものとか、石井ふく子や渥美清の評伝とか。
 読了して思うことは読み物として抜群におもしろい。おもしろいけれどだから何なのという疑問がいつも残る。事務所で抱えるデータマンが収集してきたエピソードを流れ作業で小説に仕立て上げたというイメージがどうしてもつきまとってしまうのだ(実際の執筆工程は知らないが)。それが読後感にあらわれてしまうと言ったら言い過ぎだろうか。




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プロフィール

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Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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