先週から今週にかけて忙しかった。
 その疲れが休みの日の今朝でて、終日部屋にいた。ダウンしていた。
 何もする気がおきない。

          * * *

2001/01/06

 「言葉につける薬」(呉智英/双葉社)

 呉智英といったら、若い人には小林よしのぶの「ゴーマニズム宣言」にときどき登場する独身のハゲおやじで有名なのではないか。大学時代の同級生ということで中野翠のコラムにも出てきて、尖がった中野の説にやさしく苦言を呈したりしている。
 僕には鋭い論客というイメージがあって、以前「バカにつける薬」を上梓したときは日本を代表する識者たちをことごとく切り捨てていて恐れおののいた。だから立ち読みだけで読むのをやめてしまった。あとはもう近づかない。
 でも言葉に関するコラム集はやはり無視できない。どんな怒りが飛んでくるのだろうと少々びくびくしながら読み始めた。

 「日本語は乱れている。」と書く著者は、しかし「口語表現の、とりわけ俗語、卑語が乱暴であることとは関係ない」という。「俗語・卑語は乱暴であることからこそ俗・卑なのだ」と。
 著者が許せないのは「中学生並みの誤用誤文がまかり通る一方で自動検閲装置が人間の思考を奪ってゆく」ことであり、これが「乱れ」」だと説く。

 たとえば、ある新聞の書評欄に記者が書いた記事に〈おっとり刀〉という言葉がでてくる。記者はこれを〈おっとり構える〉の意味で使用していて、そんなプロのミステークを著者は叩くのだ(これを業界でプロミスという。嘘)。
 とたんにこちらの顔は真っ赤になってしまった。恥ずかしいことに僕は〈おっとり刀〉を同じように考えていたのだ。というか、文章の中に〈おっとり刀〉がでてくると、前後の流れからどうしてここに〈おっとり〉なんて表現がでてくるのか理解できなかった(だったら辞書を引けよ!)。

 〈可もなく不可もなく〉の本来の意味は「自分自身がするともしないとも決めず」であり、「良くもないし悪くもない」ではない。
 〈五月晴れ〉や〈五月雨〉は言葉の成り立ちが旧暦の時代なのだからそれぞれ「6月の梅雨のあいだの晴れ」「梅雨」、あるいは〈小春日和〉が晩秋11月の春のようなやわらかな日差しのある好天を指すことは前々から知っていた。が、〈斜にかまえる〉は「刀を斜めにかまえる」ことで通常使っている意味とは逆になり、〈麦秋〉が五月頃をいうとは驚き。他にも〈一敗地にまみれる〉も理解している内容とは違うとは。
 ますます文章を書きづらくなってしまった。

 呉智英はちっとも怖い人ではなかった。


2001/01/17

 「昭和 僕の芸能史」(永六輔/朝日新聞社)

 永六輔とは何者かという漠然とした思いがいつもあった。
 放送作家から出発してタレントになり、作詞を担当した「黒い花びら」は第一回日本レコード大賞を受賞、以後「こんにちは赤ちゃん」「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」などのヒットを連発する。中村八大、坂本九との六八九トリオは有名だ。
 僕にとっては浅田飴のCFに登場したときの、その姿と声が強烈でその名を覚えた経緯がある。佐々木つとむの物真似「咳声喉に浅田飴、あっ、舌かんじゃった!」は一世を風靡した。当時永六輔の物真似といったら皆これだったっけ。

 高校時代に深夜放送に夢中になった。僕はラジオといったらほとんどTBSしか聴かず(文化放送やニッポン放送はよく受信できなかったという事情がある)、「パック・イン・ミュージック」を一時期毎日聴いていた。水曜深夜のパーソナリティーは愛川欽也なのだが、レギュラーとして永六輔が毎週登場していた。この番組で彼の考え、思想を知ることになる。
 当時永六輔は尺貫法の復権運動をしていた。日本には計量法というのがあって、メートル法以外の計量は法律違反だった。ある職人から「そんな状況じゃ仕事ができない」と聞いて運動を始め、地道な活動が世論を動かし代議士に計量法のおかしさを知らしめた。その結果、ついに法律を改正させたのだ。これらの運動を主に「パック・イン・ミュージック」その他で知り、僕は永六輔を骨のある人と思うようになり、彼の小言に耳を傾けるようになった。
 昭和50年代以降はリアルにある程度永六輔の活動を知ることになったが、いかんせんその前のことについてはほとんどわからない。

 タイトルの、特に〈僕の芸能史〉に興味がわいた。
 本書は昭和を年代別に自身のメディアとの関わり合いの範疇で語り、時代を浮かび上がらせている。週刊朝日に連載されていたものを一冊にまとめるにあたって、平成10年まで続いた連載を区切り良く昭和で切ったと<あとがき>にある。
 早稲田大学の学生時代にNHKラジオの人気番組「日曜娯楽版」への投稿からはじまって放送作家の道に進んだ。投稿~放送作家~作詞家の歩み方は秋元康の先をいっていたわけだ。
 日本で最初にジーパン、Tシャツを身につけたとか。

 昭和51年(1975年)の項に興味深いことを書いている。
 TVを変えたのは「欽ちゃんのドンとやってみよう」を開始した萩本欽一と「テレビ三面記事ウィークエンダー」だというのだ。番組に素人を出演させ、TVにプロの芸人が必要ないことを証明させた最初が「ドンとやってみよう」であり、現在TVに欠かせないワイドショーのリポーターという存在を認知させたのが「ウィークエンダー」だと。「ウィークエンダー」は朝のワイドショーの一企画「テレビ三面記事」の内容をそのまま土曜夜にもってきた番組(「傷だらけの天使」の後番組)で、元祖ではないと思うけど、大いにうなずける話だ。




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Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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