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 毎週水曜、木曜を休みにしているが、先々週、先週は映画鑑賞のため、水曜の休みを火曜に前倒しした。精神的疲れでどちらも外出を取りやめてしまったが。
 今週は、22日(金曜)に母親の墓参りのため帰省するため、木、金曜の連休とした。
 観たい新作映画がいくつもあって、また図書館に返却する本やDVDがあるので、今日も午後から外出しようとしたが、結局ふとんの中で1日をすごしてしまった。かなり疲れている。

          * * *

2001/12/28

 「ホームドラマよどこへ行く ~ブラウン管に映し出された家族の変遷とその背景~」(西村知成/学文社)  

 ものごころがつく前から家にTVがあった。  
 最初に夢中になったのがアニメの「鉄腕アトム」と「鉄人28号」。番組が終了するともう一度見たいとTVの前で泣いたそうだ。ビデオデッキが普及した現在では考えられない光景である。  
 家が電気店を営んでいたのでわりと早くからカラー受像機が自宅にあったような気がする。確か本放送時の「ウルトラマン」はカラーで見ていたはずだ。
 
 1970年前後を境にモノクロからカラー放送主体に変わってきた。最初はカラー放送の番組の開始時に「カラー」とスーパーで表示されていた。それがいつのまにか立場が逆転してしまい、白黒放送番組に「モノクロ」と表示されるようになって、あっというまにすべてがカラーになってしまった。こういう話を下の年代の人たちに話す時、ちょっと自慢気になるのはどうしてだろう。上の世代が家にTVが入って来たときの模様を話すときと同じスタンスなのだ。  
 上京して一人暮らししていた頃は、帰宅してまずTVのスイッチを入れていた。寂しさをとりあえず紛らわせるためだ。意味もなくTVをつけていた。その癖が結婚してからも直らず、よくかみサンから注意され、夫婦喧嘩のタネとなる。  

 TVとは切っても切れない仲、というわけでTVの歴史に多大な関心がある。  
 1970年以降についてのTV(番組)の変遷は実体験として記憶にあるのだが、それ以前となるとあやしい。だから本書もTVの黎明期から揺籃期にかけての薀蓄話が満載だろうと読んでみた。  
 昭和30年代、40年代のTVドラマの変遷はとても興味深い。サブタイトルにもある家族およびその背景との関係が鮮やかに浮かび上がる。何度も同じことが書かれているのには閉口したが。  

 日本最初のTVドラマは昭和15年4月13日に放映された「夕餉前」。NHK技術研究所の制作。主演は新劇の中堅俳優だった。  
 ところでホームドラマの名称は日本独自のものだそうだ。アメリカではソープオペラ、シットコム(sitcom)と呼ばれるという。ちなみに西部劇はホース・オペラ。  
 ホームドラマという名称は昭和26年大映映画「雪割草」が公開された際にキャッチフレーズで使用されたのが最初だとある。  

 TVからホームドラマというジャンルが消えたのは80年代、いわゆるトレンディドラマが流行ってから。
 ジャンルだけでなく放送形態も変化した。それまでは2クール26回が基本だったが、1クール13回となった。  
 「映画は監督のもの、舞台は役者のもの、TVドラマは脚本家のもの」と言われて久しいが、TVドラマも最初に俳優ありきの世界になった。プロデューサーは人気俳優のスケジュールをまず押さえ、それからシナリオを発注する、なんてことをどこかで読んだ。  
 しかしこれは日本人全般の生活が大きく変化してきたことも要因だろう。一家団欒がなくなり、一人1台が当たり前になった。だいたい残業やアフターファイブの飲み会で毎週同じ時間帯にTVを見ることが苦痛になった。予約録画ができるにしたって、半年間もつきあっていられない。制作側と視聴側の要望が合致した結果とみてもいいのではないか。  

 トレンディドラマが主流となってから、ドラマそのものも変化してきた。あざとさが売りになった。いやこれは何もドラマに限ったことではないか。  
 個人的な思い出を記すと、70年代から80年代前半まで、TVドラマは一部をのぞいてシナリオライターで選択してきた。倉本聰は「君は海を見たか」「二丁目三番地」から、山田太一は「それぞれの秋」から注目してきた。シナリオ集がでると真っ先に買ったものだ。  
 1981年、二人のドラマ「北の国から」と「思い出づくり」が同じ曜日、時間帯で放映された。どちらを観るべきか大いに悩んだものだ。この時代もまだビデオデッキは普及していなかった。  
 後年、ある新聞に掲載されたシナリオライター・野沢尚のコラムを読んで大きくうなづいた。
 野沢尚も当時同じようにどちらにチャンネルを合わせるか悩んだといい、あの時代がドラマの至福のときだったと書いていたのだ。


2002/01/10

 「やじうま日記 私的ニュースを楽しむ方法」(吉澤一彦/アスキー)  

 高校時代まで朝のTVは日本テレビ「ズームイン朝!」に決まっていた。上京してから朝TVを視聴する習慣がなくなった。見る時間があればその分寝ていた方がいい。学生時代はもちろん、社会人になってからも一人暮らしのときはそうだった。  
 結婚して状況が一変する。まず朝食を必ず食べるようになった。たぶんかみサンの習慣だったのだろう、チャンネルはいつも10で、それで初めて「やじうま新聞」なる早朝番組を知った。今では早朝番組でごくごく当たり前の風景になってしまった新聞記事を紹介するコーナーがとても新鮮だった。他人のふんどしで相撲とっている、なんて思わないでもなかったが。  
 以来10年以上のつきあいになった。番組は「やじうまワイド」と名前を変え、放送時間も長くなり、さまざまなコメンテーターが登場した。
 
 出勤が早くなり、番組が始まる前に家を出なければならなくなると、携帯ラジオで聴いていた。
 今ではもう自宅でも見ることもラジオで聴くこともなくなったが、思い出深い番組であることは確かだ。
 視聴し始めた頃は新人だったメインキャスターの吉澤アナはベテランの域に達している。このいかにも社員アナウンサーっぽい吉澤アナが好きだ。で、この人が本を書くとなぜか読んでみたくなる。本書は著者にとって2冊目の著作である。

 番組の裏話が聞けるかもしれないというこちらの期待どおりの内容だった。各章のはじめに番組がどのように作られているかのルポルタージュが紹介されている。番組に進行台本がないというのも驚き。その日の新聞記事がメインになるのだから当然といえば当然なのだが。
 番組開始の頃はやじうま新聞のコーナー(「おはようテレビ朝日」という番組の1コーナー)を同期の古舘伊知郎と日替わりで担当していたのだとか。片やフリーとして押しも押されぬ人気者、片や一途に「やじうま」キャスターの道を着実に歩み、今ではアナウンス部の副部長(だったかな?)に出世している。

 当初は記事がTVに紹介されるのは宣伝になるとの判断で新聞社からは何の要求もなかったが、その後各TV局が追随したことにより、ある程度の著作権料を支払っているという。
 そんな裏話からはじまり、毎日のすべての新聞を読む習慣から得た経験をとっかりにして日頃どのように新聞を読んだらいいかという新聞読みの指南書の体裁。  
 少年犯罪、ゆとり教育、小泉内閣、スポーツでは巨人優勝、イチロー、新庄、ナカタについて自分の考えを述べる。松田聖子の生き方についても真面目に言及している。




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Author:kei
新井啓介
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まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)

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