2002/07/16
「毎日が大衆芸能 娯楽・極楽・お道楽」(高田文夫/中公文庫)
日刊スポーツの芸能欄に週一で連載されているコラムの1997年12月1日から2001年12月31日分をまとめたもの。
高田文夫の芸人に関するコラム・エッセイ集も楽しみで、図書館で見つけるとすぐに借りてくる。
80年代半ば「放送作家ブームよふたたび」とばかりに、高田文夫は景山民夫とコンビを組んで、TVやラジオにでまくっていたことがあった。この時僕はどちらかというと景山民夫に注目していた。エッセイがすこぶる愉快で上梓する本は必ず購入していた。
そんな景山民夫は放送作家から作家に転じ直木賞を受賞し、TVでバカやらなくなったなあと思っていたら新興宗教に入信して「フライデー」攻撃の急先鋒をつとめ、不慮の事故であっけなく亡くなってしまった。
高田文夫は昔も今も同じフィールドで頑張っている。
本業の放送作家として、ラジオのパーソナリティとして、落語家・立川藤志楼として、若手芸人のまとめ役として、雑誌「笑芸人」の編集長として、ナンセンスソングのプロデューサーとして(焼肉食べ放題のあの唄をプロデュースしていたなんて)、エトセトラ、エトセトラ。多岐に渡って活躍し、今では〈江戸の笑い〉の応援団長的立場にいる。その充実振りが本書で確認できる。何かしらの会に顔を出し、人様の芸を楽しみ、うまい酒をたしなみ、仲間内で大騒ぎする。まったくもってうらやましい。
関係者から招待状をもらって観劇(観戦)に行くのだろうが、紹介の仕方が著者らしい。基本はヨイショだ。ほめてほめてほめまくる。おいおいその感想って甘すぎないか、と思うこともあるが、紹介だけの文章もあって、そこに著者独自の批評が読み取れる。
吉本興行に代表される関西の〈笑い〉に対抗して東京の〈笑い〉を盛り上げようと、自分が目をかけている若手芸人たちのライブ「我らが高田笑学校」。一度のぞいてみたいが、チケット取るのがむずかしいそうだ。若手芸人の展覧会「やなか高田堂」だったら開催期間、場所さえわかればすぐに行ける。
とにかく本書を読んでいると、芸人のライブに足を運びたくなる。それが狙いなんだろう。
好きな野球(熱狂的なヤクルトファン)やプロレスに関する文章がある。ちょうど野村が阪神の監督に就任したあたりで、今では万年最下位という印象しかないが、当時はかなり頑張っているのね。ということは星野阪神も同じ道をたどるのだろうか。(ちなみに僕は野村が辞め、星野が監督になった阪神を応援してます)
景山民夫の死に触れた文章は、その多くを語らないところに無念さを感じ、僕の胸を刺す。
2002/10/13
「テレビ大捜査線」(君塚良一/講談社)
萩本欽一がまだ無名だった頃、出入りしていたのがコント作家・はかま満緒の事務所兼自宅の部屋だった。ここには〈お笑い〉が好きな芸人志望、構成作家志望等、明日を夢みる若い人たちが集まり、はかま満緒の指示で日夜バカなことを真剣にやりあっていた。
ドラマ「ゴールデンボーイズ」でそんなエピソードが挿入されていたし、「小説コント55号」にも描かれている。このグループの中にシナリオライターの市川森一がいた。グループの中の変り種だった。
「踊る大捜査線 The movie」が空前の大ヒットとなり、TV、映画と脚本を担当した君塚良一が一躍脚光を浴びた。小林信彦がコラムでこの映画をポストオウム映画と評価し、脚本の君塚良一についても触れていた。このコラムで君塚良一が萩本欽一のブレーン集団パジャマ党出身だと知り、まるでかつてのはかま満緒グループにおける市川森一みたいな存在だなと思った。
そんな人気シナリオライターが書いた本として以前からずっと気になっていた。
「小説コント55号」を読んで、師匠萩本欽一との関係がどんなものであったか知りたくなったこともあって、やっと手にとった。
「踊る大捜査線」がどのように企画立案され制作にいたったか、その舞台裏を紹介するとともに、君塚良一の、TVと関わってから現在までの足跡を記したものだ。
著者が大学生時代に撮影所でアルバイトしていたときの思い出話。いい年をした助監督に「監督になりたくないのか」と聞いたところ、意外な答えが返ってきた。「監督の話はきたことがあるが断った」 その理由は「監督になると1本ごとの契約になる。助監督なら給料制だ。生活を考えるとこのままの方がいいから」
この助監督の言葉は僕の胸を突き刺した。
20代、映像業界を転々としていた僕はこれで人並みの生活ができるのかどうか不安のかたまりだったからだ。たとえば、演出でもシナリオでもものにしたいと思ったなら、これはと思う人へ弟子入りする、フリーランサーで働く、アルバイトしながら執筆に精をだし、コンクールを目指す、などいろいろ方法があったのだ。が、そこまで自分に賭けることができなかった。結婚はしたい、子どもも欲しい、ある程度の部屋にも住みたい。いや、その成果が最終的にでればいい、でなかったらどうする? そんな自問自答を繰り返し、流れ流れて今現在の自分がいる。
閑話休題。
著者は斜陽の映画界から身を引き、教授に紹介された萩本欽一のもとを訪ねる。ドラマのシナリオを書きたいという著者に対して欽ちゃんは「うちはお笑いとかドラマとかじゃなく、テレビを作っているんだよ」と答えた。
この言葉を忘れず、今でもバラエティの世界にも身を置き、「仮装大賞」の予選の審査員は続けているのだそうだ。
僕は欽ちゃんの至言に、テレビマンユニオン・萩元晴彦の「(TVよ)お前はただの現在でしかない」という言葉を思い出した。
パジャマ党時代のことに触れた文章を読むと、むしょうにうらやましくなる。
そういえば、最近も「キネマ旬報」に連載していた「脚本通りにはいかない」を上梓している。こちらも興味津々。
「毎日が大衆芸能 娯楽・極楽・お道楽」(高田文夫/中公文庫)
日刊スポーツの芸能欄に週一で連載されているコラムの1997年12月1日から2001年12月31日分をまとめたもの。
高田文夫の芸人に関するコラム・エッセイ集も楽しみで、図書館で見つけるとすぐに借りてくる。
80年代半ば「放送作家ブームよふたたび」とばかりに、高田文夫は景山民夫とコンビを組んで、TVやラジオにでまくっていたことがあった。この時僕はどちらかというと景山民夫に注目していた。エッセイがすこぶる愉快で上梓する本は必ず購入していた。
そんな景山民夫は放送作家から作家に転じ直木賞を受賞し、TVでバカやらなくなったなあと思っていたら新興宗教に入信して「フライデー」攻撃の急先鋒をつとめ、不慮の事故であっけなく亡くなってしまった。
高田文夫は昔も今も同じフィールドで頑張っている。
本業の放送作家として、ラジオのパーソナリティとして、落語家・立川藤志楼として、若手芸人のまとめ役として、雑誌「笑芸人」の編集長として、ナンセンスソングのプロデューサーとして(焼肉食べ放題のあの唄をプロデュースしていたなんて)、エトセトラ、エトセトラ。多岐に渡って活躍し、今では〈江戸の笑い〉の応援団長的立場にいる。その充実振りが本書で確認できる。何かしらの会に顔を出し、人様の芸を楽しみ、うまい酒をたしなみ、仲間内で大騒ぎする。まったくもってうらやましい。
関係者から招待状をもらって観劇(観戦)に行くのだろうが、紹介の仕方が著者らしい。基本はヨイショだ。ほめてほめてほめまくる。おいおいその感想って甘すぎないか、と思うこともあるが、紹介だけの文章もあって、そこに著者独自の批評が読み取れる。
吉本興行に代表される関西の〈笑い〉に対抗して東京の〈笑い〉を盛り上げようと、自分が目をかけている若手芸人たちのライブ「我らが高田笑学校」。一度のぞいてみたいが、チケット取るのがむずかしいそうだ。若手芸人の展覧会「やなか高田堂」だったら開催期間、場所さえわかればすぐに行ける。
とにかく本書を読んでいると、芸人のライブに足を運びたくなる。それが狙いなんだろう。
好きな野球(熱狂的なヤクルトファン)やプロレスに関する文章がある。ちょうど野村が阪神の監督に就任したあたりで、今では万年最下位という印象しかないが、当時はかなり頑張っているのね。ということは星野阪神も同じ道をたどるのだろうか。(ちなみに僕は野村が辞め、星野が監督になった阪神を応援してます)
景山民夫の死に触れた文章は、その多くを語らないところに無念さを感じ、僕の胸を刺す。
2002/10/13
「テレビ大捜査線」(君塚良一/講談社)
萩本欽一がまだ無名だった頃、出入りしていたのがコント作家・はかま満緒の事務所兼自宅の部屋だった。ここには〈お笑い〉が好きな芸人志望、構成作家志望等、明日を夢みる若い人たちが集まり、はかま満緒の指示で日夜バカなことを真剣にやりあっていた。
ドラマ「ゴールデンボーイズ」でそんなエピソードが挿入されていたし、「小説コント55号」にも描かれている。このグループの中にシナリオライターの市川森一がいた。グループの中の変り種だった。
「踊る大捜査線 The movie」が空前の大ヒットとなり、TV、映画と脚本を担当した君塚良一が一躍脚光を浴びた。小林信彦がコラムでこの映画をポストオウム映画と評価し、脚本の君塚良一についても触れていた。このコラムで君塚良一が萩本欽一のブレーン集団パジャマ党出身だと知り、まるでかつてのはかま満緒グループにおける市川森一みたいな存在だなと思った。
そんな人気シナリオライターが書いた本として以前からずっと気になっていた。
「小説コント55号」を読んで、師匠萩本欽一との関係がどんなものであったか知りたくなったこともあって、やっと手にとった。
「踊る大捜査線」がどのように企画立案され制作にいたったか、その舞台裏を紹介するとともに、君塚良一の、TVと関わってから現在までの足跡を記したものだ。
著者が大学生時代に撮影所でアルバイトしていたときの思い出話。いい年をした助監督に「監督になりたくないのか」と聞いたところ、意外な答えが返ってきた。「監督の話はきたことがあるが断った」 その理由は「監督になると1本ごとの契約になる。助監督なら給料制だ。生活を考えるとこのままの方がいいから」
この助監督の言葉は僕の胸を突き刺した。
20代、映像業界を転々としていた僕はこれで人並みの生活ができるのかどうか不安のかたまりだったからだ。たとえば、演出でもシナリオでもものにしたいと思ったなら、これはと思う人へ弟子入りする、フリーランサーで働く、アルバイトしながら執筆に精をだし、コンクールを目指す、などいろいろ方法があったのだ。が、そこまで自分に賭けることができなかった。結婚はしたい、子どもも欲しい、ある程度の部屋にも住みたい。いや、その成果が最終的にでればいい、でなかったらどうする? そんな自問自答を繰り返し、流れ流れて今現在の自分がいる。
閑話休題。
著者は斜陽の映画界から身を引き、教授に紹介された萩本欽一のもとを訪ねる。ドラマのシナリオを書きたいという著者に対して欽ちゃんは「うちはお笑いとかドラマとかじゃなく、テレビを作っているんだよ」と答えた。
この言葉を忘れず、今でもバラエティの世界にも身を置き、「仮装大賞」の予選の審査員は続けているのだそうだ。
僕は欽ちゃんの至言に、テレビマンユニオン・萩元晴彦の「(TVよ)お前はただの現在でしかない」という言葉を思い出した。
パジャマ党時代のことに触れた文章を読むと、むしょうにうらやましくなる。
そういえば、最近も「キネマ旬報」に連載していた「脚本通りにはいかない」を上梓している。こちらも興味津々。
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